現在3月21日。
うちのによるPC復旧作戦は不発。先日来ていただいた方に緊急出動要請をかけさせてもらった。あちらからの申し出に多謝。今頃は元のPCで日記を書き且つここ迄書いた日記をあっちに移動できていた筈だったのに……無念。昨夜、友人から携帯にメールが入った。日記も更新されていないし、メッセも立ち上がっていないし生きているか? とのこと。PCが壊れてしまった時点では、復旧がもっと早く済んでいる脳内予定だったので連絡していなかったことで心配をかけてしまった模様。すまん。先月メールにて以前の勤め先の上司から、3月になったら1度会いましょうか、との連絡をもらっていて、もしかしたらメーラーにその詳細が届いているかもしれない。いつ迄も返信しない無礼者だと思われていたら嫌だなあ。PC自作馴れしている方曰く、私の復旧失敗の報告にて早速出動準備をしてくれているとのこと。有難いことだ……が、明日来てくれるような話になったら困ってしまう。いつも通り、今の私はばっちいのだ。金曜に或る方からマザーボードを受け取ったのだけれど、そのときも急な連絡でばっちいまま会ってしまい自己嫌悪。文明から入浴という習慣がいっそなくなってくれればいいのに! 人間、自分の体臭や家の匂いには鈍感になるものだ。他人の匂いには敏感になる。皆が皆、清潔ではない文化になれば他者の匂いなどへの感覚も鈍磨するのではなかろうか。などと夢想したところで、入浴習慣がなくなる訳ではない。もう、入浴・風呂、などの単語を聞くだけでうんざりする。生き難い世の中だ。
先日ハムを飼い始めた友人が、ケージを別にしてまた違うハムを飼いだした。最初の仔はグレー、新しい仔は白。どちらも違う可愛さで送ってもらった画像ににっこり。可愛いことはいいことだ。また彼女は来月から数ヶ月の短期の仕事を始めることにしたと言う。病状が良くなっているのか、それ程改善してはいない為のリハビリなのかは不明。彼女曰く、最近旦那との会話で子供を作る云々の話になるのでそこからの逃げの意味があるとか。何にしても働く気力があるということが羨ましい。昨日の夕食時、うちのが久しぶりに私に働きに出ることを希望してきた。転職にあたり、今現在声をかけてくれているところ以外にも履歴書を出したい、そうなると収入も減るから、と。収入が減るなら毎月の貯金額を減らせばいいではないか、と提案したけれど却下された。どうしても貯金はしたいらしい。収入に見合った貯金をしていくのが堅実だと思うのだけれど。少なくとも私はまだ働きに出られる状況ではない。ちらほらと桜が咲き始めているが、それを見ても、ああ春だなあ、とは思えず単に桜が咲いているとしか認識できないのだから、主治医の言う社会復帰の条件を満たせていないのだ。……そういえばここのところ、病院から足が遠のいている。私に病院や主治医が不必要になったからではなく、薬がまだ余っているから。来週は通院しよう。今週は行こうと思った日に限って寝過ごしたり雨が降ったりしていて、タイミングがずれてしまっていたのだ。因みに病院は18時が受付終了。その時間に寝過ごしているということは、生活サイクルがぐちゃぐちゃだということ。改善せねば。
生活リズム改善は何度も図っていることで前に、日々やるべきことをリストアップしてその所要時間を考えて起床・就寝時間を決めればいいのでは、と思いついた。そして某巨大掲示板某板某スレと手元にあるドイツ式生活の本を参考に、毎日・週に数回・月に1回・数ヶ月に1回といった具合に家事を分類してPCのメモ帳に羅列した。羅列して、少しモニタから目を離して傍観し、行数の多さに、気が済んでしまった。因ってリスト作りでこの計画は止まってしまっている。昔からの悪癖で、私は計画を立てた時点で全てをやり終えたかのように燃え尽きてしまうのだ。幾つになってもこの悪癖は治らない。ならば、と何も計画を立てなかったり順序を決めずにいると、それはそれで何から手をつけていいか迷って結局何もできない。もしかしたら私は何をどうしても、何もできない人間、なのかもしれない。昨日の朝もうちのに起こされ、朝食や夕食を要求されたらしいのだが、これっぽっちも記憶にない。もしかして私はヒトではなくケモノなのか。それともそういう素質がある訳ではなく普段は自覚しつつも心の奥底にしまっている、ヒトではなくケモノのように接してもらいたい・ケモノのように気ままに生活したい、という欲求の無意識の実現なのか。そんな大層なものではなく、単にここ最近眠剤の抜けが悪いだけの話だろうれど。結局、昨日起きたのは17時半。早起きできたら入浴して身支度して、今夜イベントに行こうと目論んでいたのに。
よしもとよしともの「青い車」が映画化されるらしい。大好きな漫画家のひとりだけれど、彼の作品が映像化されることにはかなりの不安がある。アニメでも不安。あの空気感は漫画というコマ割と絵柄でしか表現できないだろう。そして年々寡作化してゆくよしもとの作品を何故今更? とも思う。映画化なんかしてしまったら小金が入ってますます作品を描かなくなってしまうのではないか。新作を渇望している者にとって、この映画は有難迷惑だ。私にとって良かったのは、この映画化の話を知ったのが某巨大掲示板某板某スレでのことで、そこに別板某スレへのリンクがあり未だよしもとに根強い人気があると解ったこと。そこには知らなかったことが多く書かれていた。あちらこちらでカットや表紙を描いていたこと、某作品が昔ラジオドラマ化されていたこと、某漫画家に原作を提供していること、数年前に短編小説を発表していたこと、ペンネームの由来が吉本隆明であることなど。知らなかった作品群全てを入手することはまず無理だろう。新作も一体いつになったら発表されることやら。となると、旧作を読むしかない。現行発売されている単行本は全て持っている。が、当時何を血迷っていたのか引越しの際に実家に送ってしまっていた。取りに帰るのもアレなのでまた買い直そうかと思案中。この間同様の理由で、みうらじゅんの「アイデン&ティティ」を買い直したばかりだというのに。
うちのによるPC復旧作戦は不発。先日来ていただいた方に緊急出動要請をかけさせてもらった。あちらからの申し出に多謝。今頃は元のPCで日記を書き且つここ迄書いた日記をあっちに移動できていた筈だったのに……無念。昨夜、友人から携帯にメールが入った。日記も更新されていないし、メッセも立ち上がっていないし生きているか? とのこと。PCが壊れてしまった時点では、復旧がもっと早く済んでいる脳内予定だったので連絡していなかったことで心配をかけてしまった模様。すまん。先月メールにて以前の勤め先の上司から、3月になったら1度会いましょうか、との連絡をもらっていて、もしかしたらメーラーにその詳細が届いているかもしれない。いつ迄も返信しない無礼者だと思われていたら嫌だなあ。PC自作馴れしている方曰く、私の復旧失敗の報告にて早速出動準備をしてくれているとのこと。有難いことだ……が、明日来てくれるような話になったら困ってしまう。いつも通り、今の私はばっちいのだ。金曜に或る方からマザーボードを受け取ったのだけれど、そのときも急な連絡でばっちいまま会ってしまい自己嫌悪。文明から入浴という習慣がいっそなくなってくれればいいのに! 人間、自分の体臭や家の匂いには鈍感になるものだ。他人の匂いには敏感になる。皆が皆、清潔ではない文化になれば他者の匂いなどへの感覚も鈍磨するのではなかろうか。などと夢想したところで、入浴習慣がなくなる訳ではない。もう、入浴・風呂、などの単語を聞くだけでうんざりする。生き難い世の中だ。
先日ハムを飼い始めた友人が、ケージを別にしてまた違うハムを飼いだした。最初の仔はグレー、新しい仔は白。どちらも違う可愛さで送ってもらった画像ににっこり。可愛いことはいいことだ。また彼女は来月から数ヶ月の短期の仕事を始めることにしたと言う。病状が良くなっているのか、それ程改善してはいない為のリハビリなのかは不明。彼女曰く、最近旦那との会話で子供を作る云々の話になるのでそこからの逃げの意味があるとか。何にしても働く気力があるということが羨ましい。昨日の夕食時、うちのが久しぶりに私に働きに出ることを希望してきた。転職にあたり、今現在声をかけてくれているところ以外にも履歴書を出したい、そうなると収入も減るから、と。収入が減るなら毎月の貯金額を減らせばいいではないか、と提案したけれど却下された。どうしても貯金はしたいらしい。収入に見合った貯金をしていくのが堅実だと思うのだけれど。少なくとも私はまだ働きに出られる状況ではない。ちらほらと桜が咲き始めているが、それを見ても、ああ春だなあ、とは思えず単に桜が咲いているとしか認識できないのだから、主治医の言う社会復帰の条件を満たせていないのだ。……そういえばここのところ、病院から足が遠のいている。私に病院や主治医が不必要になったからではなく、薬がまだ余っているから。来週は通院しよう。今週は行こうと思った日に限って寝過ごしたり雨が降ったりしていて、タイミングがずれてしまっていたのだ。因みに病院は18時が受付終了。その時間に寝過ごしているということは、生活サイクルがぐちゃぐちゃだということ。改善せねば。
生活リズム改善は何度も図っていることで前に、日々やるべきことをリストアップしてその所要時間を考えて起床・就寝時間を決めればいいのでは、と思いついた。そして某巨大掲示板某板某スレと手元にあるドイツ式生活の本を参考に、毎日・週に数回・月に1回・数ヶ月に1回といった具合に家事を分類してPCのメモ帳に羅列した。羅列して、少しモニタから目を離して傍観し、行数の多さに、気が済んでしまった。因ってリスト作りでこの計画は止まってしまっている。昔からの悪癖で、私は計画を立てた時点で全てをやり終えたかのように燃え尽きてしまうのだ。幾つになってもこの悪癖は治らない。ならば、と何も計画を立てなかったり順序を決めずにいると、それはそれで何から手をつけていいか迷って結局何もできない。もしかしたら私は何をどうしても、何もできない人間、なのかもしれない。昨日の朝もうちのに起こされ、朝食や夕食を要求されたらしいのだが、これっぽっちも記憶にない。もしかして私はヒトではなくケモノなのか。それともそういう素質がある訳ではなく普段は自覚しつつも心の奥底にしまっている、ヒトではなくケモノのように接してもらいたい・ケモノのように気ままに生活したい、という欲求の無意識の実現なのか。そんな大層なものではなく、単にここ最近眠剤の抜けが悪いだけの話だろうれど。結局、昨日起きたのは17時半。早起きできたら入浴して身支度して、今夜イベントに行こうと目論んでいたのに。
よしもとよしともの「青い車」が映画化されるらしい。大好きな漫画家のひとりだけれど、彼の作品が映像化されることにはかなりの不安がある。アニメでも不安。あの空気感は漫画というコマ割と絵柄でしか表現できないだろう。そして年々寡作化してゆくよしもとの作品を何故今更? とも思う。映画化なんかしてしまったら小金が入ってますます作品を描かなくなってしまうのではないか。新作を渇望している者にとって、この映画は有難迷惑だ。私にとって良かったのは、この映画化の話を知ったのが某巨大掲示板某板某スレでのことで、そこに別板某スレへのリンクがあり未だよしもとに根強い人気があると解ったこと。そこには知らなかったことが多く書かれていた。あちらこちらでカットや表紙を描いていたこと、某作品が昔ラジオドラマ化されていたこと、某漫画家に原作を提供していること、数年前に短編小説を発表していたこと、ペンネームの由来が吉本隆明であることなど。知らなかった作品群全てを入手することはまず無理だろう。新作も一体いつになったら発表されることやら。となると、旧作を読むしかない。現行発売されている単行本は全て持っている。が、当時何を血迷っていたのか引越しの際に実家に送ってしまっていた。取りに帰るのもアレなのでまた買い直そうかと思案中。この間同様の理由で、みうらじゅんの「アイデン&ティティ」を買い直したばかりだというのに。
現在3月19日。
珍しく昨日はうちのからお褒めの言葉を頂戴した。ひとつは、夕飯が美味しかったこと。もうひとつは、頼まれていなかったのにサッカーの録画をしておいたこと。特に後者に関しては、私にしては気が利いていたらしい。しかしうちのはその録画を観終えることなく床に就いた。というのも、一昨日へべれけに酔って帰宅し、丸1日経ってもアルコールが抜けていなかったからだ。昨日の朝、私が起床したのは午前9時半。その時点でうちのはまだ家で寝ていた。その姿が尋常ではなかった。前夜、私は2時前に眠剤を投入して寝ており、就寝後にうちのが帰宅したことに気付いていなかった。うちのも何時に帰宅したかすら記憶にないらしい。そして寝ていた姿。通常なら、酔って帰ってきてもパジャマに着替えて布団に入るうちのが、床で下着姿のまま寝ていた。私が起床後にトイレに行こうとすると、そこ彼処に前日着ていた衣類が散乱しており、極めつけにトイレの床に眼鏡が蔓を畳まぬままで落ちていた。うちのはアルコールに特別強い訳ではないけれど、かといって弱いという程でもない。一体どれだけ呑んできたことやら。その夜に呑みに行った相手は勤務先の社長。社長もうちのと同じくへべれけになったらしく、前夜のことは殆ど記憶になかったとか。元々その日の呑みを誘ってきたのは社長であり、用件は新会社設立に伴ううちのの退社撤回を求めるものだった。うちのは5月に退社することに、今現在決定している。そして自分が不利になることがないように策を巡らし、株価を高めている。その手腕たるもの、毎晩のように社内の動きを聞いている私からしたら非常に面倒臭そうな技だ。
常日頃、うちのが会社での動向を私に語り終えると、私はこのように問う。それは何処の生徒会の話? または、それはどこの学校の話? とにかく、私が経験しそれに基づいて思い描く、会社、という存在からかけ離れていると感じる程に幼稚な者が多く、それらが皆これまた幼稚な策略で以ってくだらない権力争いを行っている。うちのは、そんな会社に見切りをつけて退社を決意した。私は贅沢な生活を望みはせず、常に最低限の生活ができればいいというスタンスなので、それさえ保たれればうちのがどんな仕事をしようと構わない。年俸に固執して泊まりや休日出勤を当然として予定を組む会社にしがみつき、ストレスを溜めたり身体に不調を兆すうちのを見る方が余程つらい。それにうちのの見解によると、今の会社はもって3〜5年で倒産するだろうとのこと。更にうちのの退社が決定してから、現在勤めている会社の売上が格段に下がることが判明してきた。うちのは仕事上の評価が高く、退社に伴い発注をやめるという取引先が幾つか現れてきているのだ。だから社長はどうにかうちのを引き止めようとしている。無駄なのに。そしてそれらのうちのを信頼してこれ迄発注してきていた取引先の仕事を引っ張ってくるという条件付で、うちのの転職先に幾つかの会社が名乗りを挙げてきている。その条件も良いもので、殆どうちのが独立する為の礎でしかないような形での受け入れだ。単純に、うちのの社会的評価の高さが伺えて私は嬉しい。果たしてうちのはどの会社に転職するのか、または独立をするのか。なんにしても私自身はうちのの仕事を手伝うことはできないので、ただただ見守るだけである。
中学生レベルの権力争いの話は聞いていていつも面白くて笑いを禁じえない。何でも上に報告するスパイもどきの犬がいたり、すぐにバレる嘘をついて他者を貶めようとしたり。これは大会社の話ではなく、たかだか30〜40人規模の会社の話だ。人数からして1学級と差はない。話を聞くたびに、全員収集して学級会を開けばいいのに、と思ってしまう。人が多く集まれば集まる程に事態を纏めるのは難しくなる。学生時代を思い出しても、40人程度の中で常にグループが自然と発生して、グループ同士の張り合いや諍いはあった。しかしそういった争いにはまず経済的利害は発生せず、基本的に心情に基づくものである。けれど会社は利益を出すことを第一目標としており、個人レベルの心情で社内を引っ掻き回すような行為は、その第一目標に反することではなかろうか。会社は仲良しグループの集まりではない。極論で言ってしまえば、皆慇懃無礼に振舞っていて諍いをなくしてしまった方が仕事はスムーズにはかどるように思う。今日は打ち合わせばかりで仕事にならなかった。うちのが3日に1度は言う言葉だ。この打ち合わせというのが曲者で、取引先との打ち合わせなどではなく派閥争いに伴う人事的打診が主だという。くだらん。実にくだらん。うちのの同僚は或る雑誌で、良い上司・悪い上司、という特集を読んでから個人的感情を排除してとことん悪い上司の条件を満たすように振舞っているらしい。上層部を除き、中間管理職以下の人間が派閥争いにどれだけうんざりしているかが垣間見えるエピソードだ。うちのはその人のようには振舞えないと言う。部下のことはやはり心配だ、責任を持って接したい、と。美点だとも思うけれど損な性分だとも思う。
何故こんな話を日記に書くのか。それはうちのが書けと言ったからだ。どうも社内の争いを楽しめる余裕が出てきたらしく、且つ不況とは思えないくらいに転職先に困ることなく引く手数多な状況が嬉しいらしい。別に書けと言われたから書いたという訳ではない。本当なら今日の日記には「白い巨塔」最終回の感想を書く予定だったのだ。なのに……とんだ不覚。20時頃、急に睡魔に襲われて22時に目覚ましをセットして転寝をしてしまったが最後、気付いたら日付も変わって1時になっていた。うちのが帰宅していたことにも気付かず、目覚めた私の目に入ってきたのは入浴を済ませたうちのの姿だったのだ。物凄い勢いで寝ていたようで、起こすのも憚られたとか。因って最終回を観そびれてしまった。救いはうちのがインスタント物で夕食を済ませる前に目が覚めたことで、どうにか自信作のラムカレーを食卓に出せたことである。最終回の内容は、夕食後に某巨大掲示板の中の幾つかの該当スレで把握した。それでも観たかった……。実はこの作品を初めて観たのは前回である。その1回で嵌ってしまった。こんなに引き込まれるドラマが半年前から放映されていたとは。1回観て、フジテレビのサイトに行って第1話からのストーリーを追った。PCに依存するようになってから、私はテレビというメディアからかなり離れてしまった。そのことをこれ程迄に残念に思ったのは先週だ。DVDボックスを買おうとは思わない。早めの再放送を望む。
珍しく昨日はうちのからお褒めの言葉を頂戴した。ひとつは、夕飯が美味しかったこと。もうひとつは、頼まれていなかったのにサッカーの録画をしておいたこと。特に後者に関しては、私にしては気が利いていたらしい。しかしうちのはその録画を観終えることなく床に就いた。というのも、一昨日へべれけに酔って帰宅し、丸1日経ってもアルコールが抜けていなかったからだ。昨日の朝、私が起床したのは午前9時半。その時点でうちのはまだ家で寝ていた。その姿が尋常ではなかった。前夜、私は2時前に眠剤を投入して寝ており、就寝後にうちのが帰宅したことに気付いていなかった。うちのも何時に帰宅したかすら記憶にないらしい。そして寝ていた姿。通常なら、酔って帰ってきてもパジャマに着替えて布団に入るうちのが、床で下着姿のまま寝ていた。私が起床後にトイレに行こうとすると、そこ彼処に前日着ていた衣類が散乱しており、極めつけにトイレの床に眼鏡が蔓を畳まぬままで落ちていた。うちのはアルコールに特別強い訳ではないけれど、かといって弱いという程でもない。一体どれだけ呑んできたことやら。その夜に呑みに行った相手は勤務先の社長。社長もうちのと同じくへべれけになったらしく、前夜のことは殆ど記憶になかったとか。元々その日の呑みを誘ってきたのは社長であり、用件は新会社設立に伴ううちのの退社撤回を求めるものだった。うちのは5月に退社することに、今現在決定している。そして自分が不利になることがないように策を巡らし、株価を高めている。その手腕たるもの、毎晩のように社内の動きを聞いている私からしたら非常に面倒臭そうな技だ。
常日頃、うちのが会社での動向を私に語り終えると、私はこのように問う。それは何処の生徒会の話? または、それはどこの学校の話? とにかく、私が経験しそれに基づいて思い描く、会社、という存在からかけ離れていると感じる程に幼稚な者が多く、それらが皆これまた幼稚な策略で以ってくだらない権力争いを行っている。うちのは、そんな会社に見切りをつけて退社を決意した。私は贅沢な生活を望みはせず、常に最低限の生活ができればいいというスタンスなので、それさえ保たれればうちのがどんな仕事をしようと構わない。年俸に固執して泊まりや休日出勤を当然として予定を組む会社にしがみつき、ストレスを溜めたり身体に不調を兆すうちのを見る方が余程つらい。それにうちのの見解によると、今の会社はもって3〜5年で倒産するだろうとのこと。更にうちのの退社が決定してから、現在勤めている会社の売上が格段に下がることが判明してきた。うちのは仕事上の評価が高く、退社に伴い発注をやめるという取引先が幾つか現れてきているのだ。だから社長はどうにかうちのを引き止めようとしている。無駄なのに。そしてそれらのうちのを信頼してこれ迄発注してきていた取引先の仕事を引っ張ってくるという条件付で、うちのの転職先に幾つかの会社が名乗りを挙げてきている。その条件も良いもので、殆どうちのが独立する為の礎でしかないような形での受け入れだ。単純に、うちのの社会的評価の高さが伺えて私は嬉しい。果たしてうちのはどの会社に転職するのか、または独立をするのか。なんにしても私自身はうちのの仕事を手伝うことはできないので、ただただ見守るだけである。
中学生レベルの権力争いの話は聞いていていつも面白くて笑いを禁じえない。何でも上に報告するスパイもどきの犬がいたり、すぐにバレる嘘をついて他者を貶めようとしたり。これは大会社の話ではなく、たかだか30〜40人規模の会社の話だ。人数からして1学級と差はない。話を聞くたびに、全員収集して学級会を開けばいいのに、と思ってしまう。人が多く集まれば集まる程に事態を纏めるのは難しくなる。学生時代を思い出しても、40人程度の中で常にグループが自然と発生して、グループ同士の張り合いや諍いはあった。しかしそういった争いにはまず経済的利害は発生せず、基本的に心情に基づくものである。けれど会社は利益を出すことを第一目標としており、個人レベルの心情で社内を引っ掻き回すような行為は、その第一目標に反することではなかろうか。会社は仲良しグループの集まりではない。極論で言ってしまえば、皆慇懃無礼に振舞っていて諍いをなくしてしまった方が仕事はスムーズにはかどるように思う。今日は打ち合わせばかりで仕事にならなかった。うちのが3日に1度は言う言葉だ。この打ち合わせというのが曲者で、取引先との打ち合わせなどではなく派閥争いに伴う人事的打診が主だという。くだらん。実にくだらん。うちのの同僚は或る雑誌で、良い上司・悪い上司、という特集を読んでから個人的感情を排除してとことん悪い上司の条件を満たすように振舞っているらしい。上層部を除き、中間管理職以下の人間が派閥争いにどれだけうんざりしているかが垣間見えるエピソードだ。うちのはその人のようには振舞えないと言う。部下のことはやはり心配だ、責任を持って接したい、と。美点だとも思うけれど損な性分だとも思う。
何故こんな話を日記に書くのか。それはうちのが書けと言ったからだ。どうも社内の争いを楽しめる余裕が出てきたらしく、且つ不況とは思えないくらいに転職先に困ることなく引く手数多な状況が嬉しいらしい。別に書けと言われたから書いたという訳ではない。本当なら今日の日記には「白い巨塔」最終回の感想を書く予定だったのだ。なのに……とんだ不覚。20時頃、急に睡魔に襲われて22時に目覚ましをセットして転寝をしてしまったが最後、気付いたら日付も変わって1時になっていた。うちのが帰宅していたことにも気付かず、目覚めた私の目に入ってきたのは入浴を済ませたうちのの姿だったのだ。物凄い勢いで寝ていたようで、起こすのも憚られたとか。因って最終回を観そびれてしまった。救いはうちのがインスタント物で夕食を済ませる前に目が覚めたことで、どうにか自信作のラムカレーを食卓に出せたことである。最終回の内容は、夕食後に某巨大掲示板の中の幾つかの該当スレで把握した。それでも観たかった……。実はこの作品を初めて観たのは前回である。その1回で嵌ってしまった。こんなに引き込まれるドラマが半年前から放映されていたとは。1回観て、フジテレビのサイトに行って第1話からのストーリーを追った。PCに依存するようになってから、私はテレビというメディアからかなり離れてしまった。そのことをこれ程迄に残念に思ったのは先週だ。DVDボックスを買おうとは思わない。早めの再放送を望む。
現在3月18日。
過去、何度となく牛や豚でカレーを作ってきた。昨夜作ったのはラムカレー。ラムには臭みがありまた脂も多いのでカレー専門店勤めではない私としては、吉と出るか凶と出るかの賭けでもあった。作り方もいつもは玉葱・じゃがいも・人参を適当に切って肉と共に炒めて煮込むだけだったのを、今回は玉葱は微塵切り、じゃがいもは微塵……にできなかったので仕方なく小さめのぶつ切り。これらをラムの肩ロースと炒めて煮込んだ。灰汁が普段よりも多く出て、煮込んでいる最中からラムの匂いが強くどうなることかと思ったけれど大成功! カレールーを投入するとラムの匂いがほんのりと薄れてカレーの匂いと絶妙なハーモニーを。今迄に作ってきたカレーは全て失敗作だったのではないかと思える程の美味。昨日はトーストと共に味見程度に食し、今日になってご飯と共に食べてみた。カレーはなんて美味いんだー! ジンギスカンのラムは焼き過ぎると固くなってしまうけれど、適度に炒めてから煮込んだラムは柔らかくなった。新発見。今度は是非ともラムシチューに挑戦してみたい所存。ブラウンルーを使えば絶対に美味しくできると確信している。また近所のスーパーで取り扱っているジンギスカン用のラム丸肉でもカレーを作ってみたい。本来なら私は四角く切られた肉よりも、牛でも豚でもへれへれの小間切れなどで作るカレーが好きなのだ。炒めるときに適度にバラせば、丸肉でもへれへれ肉同様のカレーができそうな気がする。
食したことはないけれど、ラムしゃぶやラムのハンバーグなる料理もあるらしい。これらも試してみたい。生はともかく、煮てよし焼いてよし湯がいてよし、と肉料理の基本三拍子を備えたラム肉。何故日本では余り浸透しないのか。疑問でならない。臭みが苦手という人が多いようだが、秋刀魚の塩焼きなどの方がより臭みやえぐみがあるように思う。現在、多くの人にとって手近な羊料理といえば、ラムチョップのソテーとジンギスカンだろう。高級フレンチの店などを除き、あくまで庶民限定で話を進めるとこのふたつに明らかに偏っている。勿体無いことこの上ない。牛や豚の副産物として革が挙げられる。しかし革を取るには、食肉としての屠殺が前提だ。ラムやマトンに関して言えば、革だけでなく羊毛も取れてその後食肉としての屠殺にもできる。雑食動物である人間は、獣を食べる。ひとつの資源として捉える。ならば、資源の有効活用として羊の方が効率もよいのではなかろうか。BSE問題発覚から、私はひたすらに羊への世間の着目を望んでいる。しかしそれは実現しておらず、残念でならない。もっと多くの店で多種の羊肉を扱ってくれることを願ってやまない。羊は美味いのだ!
都内某所に鯨料理専門店がある。また別の場所にはさくら肉専門店もある。それぞれとても美味しい料理を提供してくれる。特に鯨肉専門店に初めて行ったときには驚かされた。それ迄、鯨は刺身に限ると思っていたのだけれど、その店で出された鯨の唐揚の美味しかったことったらもう……。ここの唐揚の衣は一般的な鶏の唐揚の衣とは違い、小麦粉ではなく片栗粉を使っているらしい。自分でも作ってみたいところだけれど、如何せん鯨肉入手が難しい。価格もさることながら扱ってる店が少なすぎるのだ。鯨肉食反対の動きは当然知っている。そして鯨と海豚には厳密な区別がないことも知っている。そんなことはともかく、私は家で気軽に鯨を食したい。この鯨料理専門店から程近い場所に、羊料理専門店があった。かなり昔に行ったので今もあるかは判らない。ここでは羊肉の鉄板焼きが食べられた。香辛料を存分に使い、羊特有の臭みは殆ど感じられずただただ美味だった。また食べたい。或る店で、羊の餃子を食べた記憶がある。臭みが全く気にならないどころか却って好きな私にはとても美味しかった。この餃子は臭みが苦手な人には食べられたものではないかもしれない。豚肉で作られた餃子や肉まんに多くの人は、ジューシーさ、を求める。このジューシーと感じる要素は豚肉の脂であり、羊の脂とどう違うのか解らない。どちらの脂にも肉の臭みがある筈だ。程度問題なのか? いや、私は違う気がする。羊が余り好まれない理由に、冷めたときの不味さ、があると思われる。例えばお弁当。牛・豚・鶏は冷めて多少味が落ちても食べられる。羊の場合は脂の多くが白く浮いて非常に不味いものとなってしまう。これは敬遠される一要因ではなかろうか。わざわざ冷めた餃子を食べる人は少ないだろう。ところが肉まんとなると、コンビニで買って帰宅してから食べる人も多い。この場合、その肉まんは多少冷めていることになる。豚ならそれでも美味しく食べられる。羊なら……まあ、不味くなってしまっているだろう。
羊にも鯨にも馬にも特有の臭みがあるという。けれど、ならば、牛や豚や鶏には臭みが全くないというのか。それは嘘だろう。確かに上記の動物に比べたら臭みは強いかもしれない。しかしそれらは所詮慣れの問題ではなかろうか。例えば羊肉をメインとする食文化圏があったとする。そこで牛・豚・鶏を出した場合、現在の日本人の多くとは逆に味気なさを感じられるかもしれない。少なくとも私は羊を食べた後に鶏を食べると、味気なく感じる。以前にも書いたことがあるように、私は焼肉よりもレバ刺やユッケの方が好きだったりする。牡蠣もフライより生の方が好きだ。特に貝殻に乗ったままの大きめの生牡蠣に紅葉卸を乗せ、レモンを絞ってちゅるんと食べる瞬間は至福。私と同じ食嗜好の人に未だかつて出会ったことがない。単に私が臭みのあるもの・えぐみのあるのが好きなだけなのだろうか。焼き魚でも白身部分にはこれっぽっちも魅力を感じず、無心に血合い部分ばかりを食べたりする。この血合いの話を何人かにしたことがある。皆かなり驚いていた。中には、血合い部分は残すもの、という人もいた。まるで私がゲテ食いのようではないか。失礼な。その分、他者が手を伸ばさないものを存分に食べられるということで得なのだろうか。いや、そんな得よりも私は気軽に羊や鯨を入手できる環境を望む。
過去、何度となく牛や豚でカレーを作ってきた。昨夜作ったのはラムカレー。ラムには臭みがありまた脂も多いのでカレー専門店勤めではない私としては、吉と出るか凶と出るかの賭けでもあった。作り方もいつもは玉葱・じゃがいも・人参を適当に切って肉と共に炒めて煮込むだけだったのを、今回は玉葱は微塵切り、じゃがいもは微塵……にできなかったので仕方なく小さめのぶつ切り。これらをラムの肩ロースと炒めて煮込んだ。灰汁が普段よりも多く出て、煮込んでいる最中からラムの匂いが強くどうなることかと思ったけれど大成功! カレールーを投入するとラムの匂いがほんのりと薄れてカレーの匂いと絶妙なハーモニーを。今迄に作ってきたカレーは全て失敗作だったのではないかと思える程の美味。昨日はトーストと共に味見程度に食し、今日になってご飯と共に食べてみた。カレーはなんて美味いんだー! ジンギスカンのラムは焼き過ぎると固くなってしまうけれど、適度に炒めてから煮込んだラムは柔らかくなった。新発見。今度は是非ともラムシチューに挑戦してみたい所存。ブラウンルーを使えば絶対に美味しくできると確信している。また近所のスーパーで取り扱っているジンギスカン用のラム丸肉でもカレーを作ってみたい。本来なら私は四角く切られた肉よりも、牛でも豚でもへれへれの小間切れなどで作るカレーが好きなのだ。炒めるときに適度にバラせば、丸肉でもへれへれ肉同様のカレーができそうな気がする。
食したことはないけれど、ラムしゃぶやラムのハンバーグなる料理もあるらしい。これらも試してみたい。生はともかく、煮てよし焼いてよし湯がいてよし、と肉料理の基本三拍子を備えたラム肉。何故日本では余り浸透しないのか。疑問でならない。臭みが苦手という人が多いようだが、秋刀魚の塩焼きなどの方がより臭みやえぐみがあるように思う。現在、多くの人にとって手近な羊料理といえば、ラムチョップのソテーとジンギスカンだろう。高級フレンチの店などを除き、あくまで庶民限定で話を進めるとこのふたつに明らかに偏っている。勿体無いことこの上ない。牛や豚の副産物として革が挙げられる。しかし革を取るには、食肉としての屠殺が前提だ。ラムやマトンに関して言えば、革だけでなく羊毛も取れてその後食肉としての屠殺にもできる。雑食動物である人間は、獣を食べる。ひとつの資源として捉える。ならば、資源の有効活用として羊の方が効率もよいのではなかろうか。BSE問題発覚から、私はひたすらに羊への世間の着目を望んでいる。しかしそれは実現しておらず、残念でならない。もっと多くの店で多種の羊肉を扱ってくれることを願ってやまない。羊は美味いのだ!
都内某所に鯨料理専門店がある。また別の場所にはさくら肉専門店もある。それぞれとても美味しい料理を提供してくれる。特に鯨肉専門店に初めて行ったときには驚かされた。それ迄、鯨は刺身に限ると思っていたのだけれど、その店で出された鯨の唐揚の美味しかったことったらもう……。ここの唐揚の衣は一般的な鶏の唐揚の衣とは違い、小麦粉ではなく片栗粉を使っているらしい。自分でも作ってみたいところだけれど、如何せん鯨肉入手が難しい。価格もさることながら扱ってる店が少なすぎるのだ。鯨肉食反対の動きは当然知っている。そして鯨と海豚には厳密な区別がないことも知っている。そんなことはともかく、私は家で気軽に鯨を食したい。この鯨料理専門店から程近い場所に、羊料理専門店があった。かなり昔に行ったので今もあるかは判らない。ここでは羊肉の鉄板焼きが食べられた。香辛料を存分に使い、羊特有の臭みは殆ど感じられずただただ美味だった。また食べたい。或る店で、羊の餃子を食べた記憶がある。臭みが全く気にならないどころか却って好きな私にはとても美味しかった。この餃子は臭みが苦手な人には食べられたものではないかもしれない。豚肉で作られた餃子や肉まんに多くの人は、ジューシーさ、を求める。このジューシーと感じる要素は豚肉の脂であり、羊の脂とどう違うのか解らない。どちらの脂にも肉の臭みがある筈だ。程度問題なのか? いや、私は違う気がする。羊が余り好まれない理由に、冷めたときの不味さ、があると思われる。例えばお弁当。牛・豚・鶏は冷めて多少味が落ちても食べられる。羊の場合は脂の多くが白く浮いて非常に不味いものとなってしまう。これは敬遠される一要因ではなかろうか。わざわざ冷めた餃子を食べる人は少ないだろう。ところが肉まんとなると、コンビニで買って帰宅してから食べる人も多い。この場合、その肉まんは多少冷めていることになる。豚ならそれでも美味しく食べられる。羊なら……まあ、不味くなってしまっているだろう。
羊にも鯨にも馬にも特有の臭みがあるという。けれど、ならば、牛や豚や鶏には臭みが全くないというのか。それは嘘だろう。確かに上記の動物に比べたら臭みは強いかもしれない。しかしそれらは所詮慣れの問題ではなかろうか。例えば羊肉をメインとする食文化圏があったとする。そこで牛・豚・鶏を出した場合、現在の日本人の多くとは逆に味気なさを感じられるかもしれない。少なくとも私は羊を食べた後に鶏を食べると、味気なく感じる。以前にも書いたことがあるように、私は焼肉よりもレバ刺やユッケの方が好きだったりする。牡蠣もフライより生の方が好きだ。特に貝殻に乗ったままの大きめの生牡蠣に紅葉卸を乗せ、レモンを絞ってちゅるんと食べる瞬間は至福。私と同じ食嗜好の人に未だかつて出会ったことがない。単に私が臭みのあるもの・えぐみのあるのが好きなだけなのだろうか。焼き魚でも白身部分にはこれっぽっちも魅力を感じず、無心に血合い部分ばかりを食べたりする。この血合いの話を何人かにしたことがある。皆かなり驚いていた。中には、血合い部分は残すもの、という人もいた。まるで私がゲテ食いのようではないか。失礼な。その分、他者が手を伸ばさないものを存分に食べられるということで得なのだろうか。いや、そんな得よりも私は気軽に羊や鯨を入手できる環境を望む。
認識不足の識者に煽られる市井人
2004年3月16日 雑感・所感 東……いや、西……いや、元少年Aの退院報道からやや世の中が沈静化してきたような気がする今日この頃。私の状況は最悪。退院を知ってから生活リズム滅茶苦茶。まず報道を知ってから某巨大掲示板のここ暫く覗いていなかった某板に入り浸り。憶測妄想飛び交いまくって嘘を嘘と見抜けなくなっている。私がスレに張り付いていた理由はただひとつ。現住所の把握。実は去年中に退院していて関西にいる説が興味深かった。そして私の現住所から離れていることもあり指示したい。が。国家ぐるみの国民情報操作は余りにも危険な気もし、尤もらしくはあるけれど、おいそれと信用はできない。親元の近くに住む説もあり、それだとH県か。けれど全国に報道された、関西以外、という情報はやはり見過ごすことはできない。鉄板は新聞や女性週刊誌に報道された都内多摩近郊かと思われる。知ってどうする・何ができると言う訳ではなく、単純に自分の身近に生息していないことを確認したい一心で、寝ても覚めてもスレに張り付く日々が数日続いた。日常生活に明らかな支障が出ており、芳しくないことこの上ない。しかし今の私にできることは北海道から九州迄幅広く伝聞されている、報道から一瞬とも言える時間で全国に広まった都市伝説とも解釈できてしまいそうな、Aの潜伏……もとい、新住所がとにかく知りたい。もし近所だったら何が何でも金策して引っ越したい。何故こうもAが身近に現れることを恐れるか。答えはひとつ。更生した、と言う報告が全く以って信用に値しないと思っているからに他ならない。個人的には、芝居を覚えた・上達させたんだろうな、という感想を抱いている。子供は小芝居を打つものであり、それは年とともに皆上達するだろう。所謂、腹芸、と言ってもいい。多くの人は世渡り上の必要に迫られて腹芸を身に付けていく。Aの場合は逮捕以後、常に人の監視下に置かれた特殊な状況で思春期を送った。腹芸はそこらの甘い大人には見抜けない程の上達を見せていると考える。子供は強かだ。子供は純粋、子供には果てしない可能性を秘めている。よく聞く大人の幻想。この手のことを口にする大人は信用できない。自分の子供時代を忘却の彼方に追いやった、理想主義の大人が多過ぎる。犯罪……万引きであれ殺人であれ、バレた人間が思うことはきっとこんなこと。あーあ、バレちゃった。しくったなー。
マスコミはこう報じた。騒いで刺激を与えてはいけない。阿呆か。聞くまでもなく阿呆だ。情報過多の世の中には、刺激的な情報も多分に垂れ流されている。そして市井の人々はそんな情報に塗れ、自分にとって必要な情報を取捨選択しつつ且つ人道を踏み外さぬよう、法に触れぬように生きている。これが今の日本での生き方だ、と私は断言したい。Aの場合、騒がれるだけのことをしたのだ。それを受け止め、その上で堂々と若しくはこそこそと贖罪しつつ生きていくのが筋ではないか。名前や経歴を変え……言語道断。あのときのことは幻のよう……慨してこんなことを抜かす輩は更生などしていよう筈がない。刺激が再犯に繋がるという論調は、Aが更生しきれていない証明と言えよう。大体、法務省から退院発表があったところで、本当に騒いではならないとマスコミが考えるならば、報道を自主規制すべきではないのか。そんな自らの報道行動と報道内容に多大な矛盾を孕んだ状態で、国民に遠回しに協力を求める省庁の無責任さには触れずに垂れ流し。Aは超法規的措置を取られているらしい。無駄だ。加害者天国の日本。一億総痴呆化を推奨しているのは誰だ。
少年Aの抱えた問題として、性的サディズム、というものが取り上げられていた。そして、この性的サディズムは治った、と。性的サディズムはイコール性的嗜好と言えよう。ハッキリ言う。認識の甘い・間違っている者が多過ぎる。性的嗜好は治るものではない。嗜好に突っ走らぬだけの理性を身につけた、というのならば納得できないこともない。性的嗜好は治るもの、という法務省の、Aの更生プログラムに関係した精神科医の、お上の物申す通りに報道するマスコミの、怠惰ともいえる世の現状と乖離した解釈・報道に呆れた。その昔、同性愛は治るかどうか、なる論議があった。そんな論議はキリスト教の影響を受けており、大昔から小姓などがいた日本ではさほど問題ではないと思う。そしてそうこうしているうちに、性同一性障害というホルモンバランスの異常による解釈が医学界で生まれた。これにより同性愛は治るものではないという論調が強くなった。話を戻す。同じくして、性的サディズムは治らないものと私は考える。それは私がマゾヒストとしての性的嗜好を持っていることからも強く主張したい。仮にこの性的嗜好が治るプログラムが私に課されたとしよう。プログラム終了時、私は不能となっている筈だ。何せ、人間の三大欲求のひとつを強制的に、第三者の視点による正常化なる矯正、されてしまう訳だ。この第三者による視点というのが問題なのだ。性的嗜好は人によって大きく違う。俗に言う、ノーマル。これは多くの人間が同様の嗜好を持つことから、ノーマル、と呼ばれている筈だ。然しながらこの、ノーマル、の基準を理論付けて、子孫繁栄に結び付けることなく理路整然と説明できる者はあるのか。正常位が好き、後背位が好き、サディスティックな行為が好き、マゾヒスティックな行為が好き。多数決の理屈を用いずに線引きできる者がいたら是非とも講釈を聞きたいものだ。
私の不安感は、上記性的嗜好の治癒とも取れる報道に基づいていると言ってもいい。性衝動を抑えられるだけの判断力と理性を身につけた、と仮に報道されていたならば、ここ迄不安感を煽られることはなかったように思う。世の、性的なもの、への理解度の低さが私の不安感を増幅させているのだ。現在スレッド張り付きは大分マシになっている。それでも生活が元に戻ってきた訳ではない。眠ろうとして目を閉じる。するとAが昔描いたという絵が浮かんでくる。勿論、私はその絵を見たことはない。それでもアレな母親の手記に書かれていた解説だけで想像ができ、その想像は私の睡眠障害を悪化させるに十分な効果を持った。また暗くなってからのひとりでの外出が全くできなくなった。闇が怖い。漠然とした恐怖が私を包む。怖いのはAだけではない。大きな事件が起きると、模倣犯や類似犯が出てくる可能性が高い。数年のときを経て、人々の記憶の奥にしまわれた悪しき記憶が今回の退院報道で引き出された。これも怖い。Aが身近にいなくとも、この物騒な世の中で近隣の人間やすれ違う人間を素直に無害な第三者とは思えなくなってきている。そんな心の奥深くの不安感を煽られる。物騒な世の中。きっとこんな6文字で、私が誰かに殺められたときも片付けられるのだろう。余談。元少年という呼び方は、車で事故を起こした某メンバー並みにけったいで苦笑を禁じえない。
BGM/アルバム「筋少の大水銀」
マスコミはこう報じた。騒いで刺激を与えてはいけない。阿呆か。聞くまでもなく阿呆だ。情報過多の世の中には、刺激的な情報も多分に垂れ流されている。そして市井の人々はそんな情報に塗れ、自分にとって必要な情報を取捨選択しつつ且つ人道を踏み外さぬよう、法に触れぬように生きている。これが今の日本での生き方だ、と私は断言したい。Aの場合、騒がれるだけのことをしたのだ。それを受け止め、その上で堂々と若しくはこそこそと贖罪しつつ生きていくのが筋ではないか。名前や経歴を変え……言語道断。あのときのことは幻のよう……慨してこんなことを抜かす輩は更生などしていよう筈がない。刺激が再犯に繋がるという論調は、Aが更生しきれていない証明と言えよう。大体、法務省から退院発表があったところで、本当に騒いではならないとマスコミが考えるならば、報道を自主規制すべきではないのか。そんな自らの報道行動と報道内容に多大な矛盾を孕んだ状態で、国民に遠回しに協力を求める省庁の無責任さには触れずに垂れ流し。Aは超法規的措置を取られているらしい。無駄だ。加害者天国の日本。一億総痴呆化を推奨しているのは誰だ。
少年Aの抱えた問題として、性的サディズム、というものが取り上げられていた。そして、この性的サディズムは治った、と。性的サディズムはイコール性的嗜好と言えよう。ハッキリ言う。認識の甘い・間違っている者が多過ぎる。性的嗜好は治るものではない。嗜好に突っ走らぬだけの理性を身につけた、というのならば納得できないこともない。性的嗜好は治るもの、という法務省の、Aの更生プログラムに関係した精神科医の、お上の物申す通りに報道するマスコミの、怠惰ともいえる世の現状と乖離した解釈・報道に呆れた。その昔、同性愛は治るかどうか、なる論議があった。そんな論議はキリスト教の影響を受けており、大昔から小姓などがいた日本ではさほど問題ではないと思う。そしてそうこうしているうちに、性同一性障害というホルモンバランスの異常による解釈が医学界で生まれた。これにより同性愛は治るものではないという論調が強くなった。話を戻す。同じくして、性的サディズムは治らないものと私は考える。それは私がマゾヒストとしての性的嗜好を持っていることからも強く主張したい。仮にこの性的嗜好が治るプログラムが私に課されたとしよう。プログラム終了時、私は不能となっている筈だ。何せ、人間の三大欲求のひとつを強制的に、第三者の視点による正常化なる矯正、されてしまう訳だ。この第三者による視点というのが問題なのだ。性的嗜好は人によって大きく違う。俗に言う、ノーマル。これは多くの人間が同様の嗜好を持つことから、ノーマル、と呼ばれている筈だ。然しながらこの、ノーマル、の基準を理論付けて、子孫繁栄に結び付けることなく理路整然と説明できる者はあるのか。正常位が好き、後背位が好き、サディスティックな行為が好き、マゾヒスティックな行為が好き。多数決の理屈を用いずに線引きできる者がいたら是非とも講釈を聞きたいものだ。
私の不安感は、上記性的嗜好の治癒とも取れる報道に基づいていると言ってもいい。性衝動を抑えられるだけの判断力と理性を身につけた、と仮に報道されていたならば、ここ迄不安感を煽られることはなかったように思う。世の、性的なもの、への理解度の低さが私の不安感を増幅させているのだ。現在スレッド張り付きは大分マシになっている。それでも生活が元に戻ってきた訳ではない。眠ろうとして目を閉じる。するとAが昔描いたという絵が浮かんでくる。勿論、私はその絵を見たことはない。それでもアレな母親の手記に書かれていた解説だけで想像ができ、その想像は私の睡眠障害を悪化させるに十分な効果を持った。また暗くなってからのひとりでの外出が全くできなくなった。闇が怖い。漠然とした恐怖が私を包む。怖いのはAだけではない。大きな事件が起きると、模倣犯や類似犯が出てくる可能性が高い。数年のときを経て、人々の記憶の奥にしまわれた悪しき記憶が今回の退院報道で引き出された。これも怖い。Aが身近にいなくとも、この物騒な世の中で近隣の人間やすれ違う人間を素直に無害な第三者とは思えなくなってきている。そんな心の奥深くの不安感を煽られる。物騒な世の中。きっとこんな6文字で、私が誰かに殺められたときも片付けられるのだろう。余談。元少年という呼び方は、車で事故を起こした某メンバー並みにけったいで苦笑を禁じえない。
BGM/アルバム「筋少の大水銀」
現在3月17日。
先日の夕飯は、山掛け蕎麦と蓮根のたらこ炒め。作り方は実に簡単。まず山掛け蕎麦。山芋を摩り下ろし、大葉を千切りにし、蕎麦を湯がいて、出汁を入れたどんぶりに蕎麦→摩り下ろした山芋→大葉の順に入れて若しくは乗せてゆくだけ。蓮根のたらこ炒めは、蓮根を輪切りにして酢水で灰汁抜きをし、フライパンで炒めてたらこパスタの素をまぶして終了。可もなく不可もなくできた夕食、の筈だった。しかし食べられた物ではなかった……。まず作っていたのがうちのの入浴中。あがった頃を見計らってテーブルに並べた。そしてすぐに食べていれば問題はなかっただろう。けれど、私は散らかった流し台を片付けるべく洗い物に精を出し、うちのは風呂上りに湿疹のできた箇所に薬を塗ったりと、出来上がりから食べ始め迄にかなりの時間を費やしてしまった。そして食卓へ。私が席に着いたときにはうちのは蕎麦を食べ終えており、蓮根をつまみにビールを飲んでいた。私が蕎麦を食べようと箸で蕎麦を運んで一口食べて、箸を置いた。ご馳走さまでした。食えたもんじゃない。伸びた蕎麦がここ迄不味いとは思っていなかった。味自体は悪くない。しかし蕎麦をすすって噛もうとしたとき、奥歯と顎に激しい違和感が発生。たった一口分のむにゅむにょとした感触に、歯も顎もおかしな感覚に見舞われ、その感覚には耐え切れなかった。普段は食べ物を残すと怒るうちのも、この日ばかりはやむを得ぬと思ったようだ。それでもこんな不味い蕎麦を完食したうちのは凄い。またおかずの蓮根の炒め物が、シャキシャキして美味しいのが完膚なき迄に違和感を増幅させた。口直しになるどころか、奥歯と顎に感じた異様な感覚がシャキシャキ感を全て凌駕してギブアップ。
以前にも書いたことがあるように、私は蟲が湧いた蕎麦を食卓に出して大顰蹙を買ったことがある。今回は蟲は湧いていなかったけれど激しく不味かった。食えた物ではない蕎麦を作らせたら、私は日本一かもしれない。最早、蕎麦という食物の存在に呪われているとしか思えない程に、私と蕎麦の相性は最悪である。自画自賛でアレだけれど、パスタはそれなりに美味しく作れる。うどんは私が嫌いなのでまず食卓には出さない。という訳で、比較できる麺類は蕎麦とパスタ。どうしてこんなにも深くて暗い溝が発生するのだろうか。和洋料理の腕に差がある訳でもないのに。うちで唯一うまくできた蕎麦は、去年の年越し蕎麦だけだ。何が違ったのだろう。麺や出汁はそれぞれ違うが、そこが問題ではないように思う。あのときの蕎麦の出来自体は格別美味しい物でもなかったけれど、私の作る蕎麦、としては別格の出来だったと言えよう。そんなこんなで不味い蕎麦を作らせたら日本一と自覚できた私、もう今後は年越し蕎麦以外は作らないことを固く決意するに至った。
話を変えて、最近好評だった料理。某巨大掲示板某板某スレで紹介されていた鶏レタス。これは鍋底に適当な野菜を敷き、その上に強く塩胡椒した鶏を乗せ、その上に適当に千切ったレタスを鍋いっぱいに入れて蓋をして中火でひたすら煮込むだけの料理。これのアレンジとして、私は底にトマト、その上に生きくらげ、その上に鶏の変わりの豚コマ、そしてレタス1玉で作った。煮込んだのは30分くらいか。レタスから水分がたっぷり出て実に美味しく出来上がった。水分が出たレタスは嵩が減り鍋いっぱいだった具は完成時には鍋の半分くらい迄に減っていた。それでもボリュームたっぷりで簡単で美味しく、うちの定番メニューのひとつになりそうである。このメニューを公開した名無しさんは、そのスレでは高い評価を得ている。定番メニューといえば、我が家の休日のブランチ定番はホットサンド。これはホットサンド器を使った料理ではなく、食パンにとろけるチーズとベーコンかハムを全体に乗せたものをふたつ用意し、どちらか1枚に塩胡椒またはクレイジーソルトで味付け。3分程トースターで焼いて、どちらか1枚にケチャップを適量かけて2枚を重ね合わせただけの簡単料理。毎週出されるので、うちのはそろそろ飽きてきたようだが、気にしない。簡単だし、私は飽きていないから。
外食の話に移る。この間、テレビで松屋にて牛めし復活を知り、4年ぶりくらいに松屋に行った。松屋蛙混入クレーム事件を聞いて以来、ずっと足を遠ざけていたのだ。そして牛めし。具の量が少ないのは仕方がないのか。惜しむべくは、つゆだくだくと注文し忘れてしまったこと。かつての吉野家でなら絶対につゆだくだくと付け加えることは忘れなかったのに、店が変わったことでうっかり。もう1度行って、今度はつゆだくだくで注文してみようと思う。その松屋、うちのが豚めしが美味いと言う。これも試してみようか。私が行った松屋では、豚めしの注文を受けた店員は厨房に、豚めし一丁、と言っていた。うちのがよく行く松屋では、豚一丁、と言うらしい。そしてこの、豚一丁、がうちのに大変気分を害すると言う。まるで豚の飼料のようではないか、と。しょうもないことを気にするなあ、と笑わせてもらった。現在うちのはダイエット中だから余計に気になるのだろう。本当にどうでもいいことだと思うのだけれど。
今日は生協2回目の配達日。それと我が家の冷凍庫に以前からしまっておいて昨日解凍したラム肉を使って、ラムカレーを作る予定。ラムでのカレー作りは初挑戦。野菜ごろごろの家庭的なカレーを作るか、それとも全てを摩り下ろしたり微塵切りにしたりして店で出てくるような肉をメインとしたカレーにするか、昨日から悩んでいる。どちらの方がいいのだろう。私は鍋焦がし名人でもあるから、摩り下ろしや微塵切りの方が焦がしを避け易いだろうかと思わなくもない。また冷凍するときに、ごろごろしたじゃがいもは味を落とすし。でもうちのは、家のカレーは野菜ごろごろの家庭的カレーの方が好きらしい。うーむ、悩みどころである。作るのは私だ。私の好きに作りたい。かつて野菜摩り下ろしや微塵切りでカレーを作ったことはない。挑戦したい。普段なら迷わず挑戦する。躊躇している理由はただひとつ。今回使用の肉がラムだからだ。なかなかカレーに適したラム肉を入手する機会はないので失敗は避けたい。どうしたものか。余談。前々から欲しかった、子羊料理大全を書店で見つけてパラパラと立ち読みしてみた。羊のいろんな部分を使った、それはもう美味しそうな料理が写真と共にレシピ紹介されていた。ご親切に、羊に強い肉屋の紹介もあった。でもその本を買うのはやめた。今の私に、わざわざ羊入手の為に遠出する気力はないからだ。
先日の夕飯は、山掛け蕎麦と蓮根のたらこ炒め。作り方は実に簡単。まず山掛け蕎麦。山芋を摩り下ろし、大葉を千切りにし、蕎麦を湯がいて、出汁を入れたどんぶりに蕎麦→摩り下ろした山芋→大葉の順に入れて若しくは乗せてゆくだけ。蓮根のたらこ炒めは、蓮根を輪切りにして酢水で灰汁抜きをし、フライパンで炒めてたらこパスタの素をまぶして終了。可もなく不可もなくできた夕食、の筈だった。しかし食べられた物ではなかった……。まず作っていたのがうちのの入浴中。あがった頃を見計らってテーブルに並べた。そしてすぐに食べていれば問題はなかっただろう。けれど、私は散らかった流し台を片付けるべく洗い物に精を出し、うちのは風呂上りに湿疹のできた箇所に薬を塗ったりと、出来上がりから食べ始め迄にかなりの時間を費やしてしまった。そして食卓へ。私が席に着いたときにはうちのは蕎麦を食べ終えており、蓮根をつまみにビールを飲んでいた。私が蕎麦を食べようと箸で蕎麦を運んで一口食べて、箸を置いた。ご馳走さまでした。食えたもんじゃない。伸びた蕎麦がここ迄不味いとは思っていなかった。味自体は悪くない。しかし蕎麦をすすって噛もうとしたとき、奥歯と顎に激しい違和感が発生。たった一口分のむにゅむにょとした感触に、歯も顎もおかしな感覚に見舞われ、その感覚には耐え切れなかった。普段は食べ物を残すと怒るうちのも、この日ばかりはやむを得ぬと思ったようだ。それでもこんな不味い蕎麦を完食したうちのは凄い。またおかずの蓮根の炒め物が、シャキシャキして美味しいのが完膚なき迄に違和感を増幅させた。口直しになるどころか、奥歯と顎に感じた異様な感覚がシャキシャキ感を全て凌駕してギブアップ。
以前にも書いたことがあるように、私は蟲が湧いた蕎麦を食卓に出して大顰蹙を買ったことがある。今回は蟲は湧いていなかったけれど激しく不味かった。食えた物ではない蕎麦を作らせたら、私は日本一かもしれない。最早、蕎麦という食物の存在に呪われているとしか思えない程に、私と蕎麦の相性は最悪である。自画自賛でアレだけれど、パスタはそれなりに美味しく作れる。うどんは私が嫌いなのでまず食卓には出さない。という訳で、比較できる麺類は蕎麦とパスタ。どうしてこんなにも深くて暗い溝が発生するのだろうか。和洋料理の腕に差がある訳でもないのに。うちで唯一うまくできた蕎麦は、去年の年越し蕎麦だけだ。何が違ったのだろう。麺や出汁はそれぞれ違うが、そこが問題ではないように思う。あのときの蕎麦の出来自体は格別美味しい物でもなかったけれど、私の作る蕎麦、としては別格の出来だったと言えよう。そんなこんなで不味い蕎麦を作らせたら日本一と自覚できた私、もう今後は年越し蕎麦以外は作らないことを固く決意するに至った。
話を変えて、最近好評だった料理。某巨大掲示板某板某スレで紹介されていた鶏レタス。これは鍋底に適当な野菜を敷き、その上に強く塩胡椒した鶏を乗せ、その上に適当に千切ったレタスを鍋いっぱいに入れて蓋をして中火でひたすら煮込むだけの料理。これのアレンジとして、私は底にトマト、その上に生きくらげ、その上に鶏の変わりの豚コマ、そしてレタス1玉で作った。煮込んだのは30分くらいか。レタスから水分がたっぷり出て実に美味しく出来上がった。水分が出たレタスは嵩が減り鍋いっぱいだった具は完成時には鍋の半分くらい迄に減っていた。それでもボリュームたっぷりで簡単で美味しく、うちの定番メニューのひとつになりそうである。このメニューを公開した名無しさんは、そのスレでは高い評価を得ている。定番メニューといえば、我が家の休日のブランチ定番はホットサンド。これはホットサンド器を使った料理ではなく、食パンにとろけるチーズとベーコンかハムを全体に乗せたものをふたつ用意し、どちらか1枚に塩胡椒またはクレイジーソルトで味付け。3分程トースターで焼いて、どちらか1枚にケチャップを適量かけて2枚を重ね合わせただけの簡単料理。毎週出されるので、うちのはそろそろ飽きてきたようだが、気にしない。簡単だし、私は飽きていないから。
外食の話に移る。この間、テレビで松屋にて牛めし復活を知り、4年ぶりくらいに松屋に行った。松屋蛙混入クレーム事件を聞いて以来、ずっと足を遠ざけていたのだ。そして牛めし。具の量が少ないのは仕方がないのか。惜しむべくは、つゆだくだくと注文し忘れてしまったこと。かつての吉野家でなら絶対につゆだくだくと付け加えることは忘れなかったのに、店が変わったことでうっかり。もう1度行って、今度はつゆだくだくで注文してみようと思う。その松屋、うちのが豚めしが美味いと言う。これも試してみようか。私が行った松屋では、豚めしの注文を受けた店員は厨房に、豚めし一丁、と言っていた。うちのがよく行く松屋では、豚一丁、と言うらしい。そしてこの、豚一丁、がうちのに大変気分を害すると言う。まるで豚の飼料のようではないか、と。しょうもないことを気にするなあ、と笑わせてもらった。現在うちのはダイエット中だから余計に気になるのだろう。本当にどうでもいいことだと思うのだけれど。
今日は生協2回目の配達日。それと我が家の冷凍庫に以前からしまっておいて昨日解凍したラム肉を使って、ラムカレーを作る予定。ラムでのカレー作りは初挑戦。野菜ごろごろの家庭的なカレーを作るか、それとも全てを摩り下ろしたり微塵切りにしたりして店で出てくるような肉をメインとしたカレーにするか、昨日から悩んでいる。どちらの方がいいのだろう。私は鍋焦がし名人でもあるから、摩り下ろしや微塵切りの方が焦がしを避け易いだろうかと思わなくもない。また冷凍するときに、ごろごろしたじゃがいもは味を落とすし。でもうちのは、家のカレーは野菜ごろごろの家庭的カレーの方が好きらしい。うーむ、悩みどころである。作るのは私だ。私の好きに作りたい。かつて野菜摩り下ろしや微塵切りでカレーを作ったことはない。挑戦したい。普段なら迷わず挑戦する。躊躇している理由はただひとつ。今回使用の肉がラムだからだ。なかなかカレーに適したラム肉を入手する機会はないので失敗は避けたい。どうしたものか。余談。前々から欲しかった、子羊料理大全を書店で見つけてパラパラと立ち読みしてみた。羊のいろんな部分を使った、それはもう美味しそうな料理が写真と共にレシピ紹介されていた。ご親切に、羊に強い肉屋の紹介もあった。でもその本を買うのはやめた。今の私に、わざわざ羊入手の為に遠出する気力はないからだ。
現在3月16日。
球体関節人形展を観に、うちのと一緒に東京都現代美術館迄足を運んだ。私が球体関節人形の実物を観たのはこの日が初めて。正直な感想を。ベルメールの影響により、特異な形で日本で球体関節人形文化が発展したのは当然予備知識として持って出掛けた。そして生で観て……がっかり度40%。何が不満だったのか。それは私の思い描いていた球体関節人形と実物の球体関節人形の遥かなる乖離だ。球体関節人形と冠しているからには、どれも球体関節稼動が可能な人形だと思っていた。けれど行ってみると、稼動不可能な人形が多く、関節部分に球体らしき形の何かを嵌め込んでいるように見せかけて実はしっかりと接続されていて稼動不可能な人形が多かった。私は辞書通りに言葉を使ってくれないと戸惑う。球体関節人形と言うからには、関節部分に球体を使って稼動可能な人形でなければ腑に落ちない。球体関節人形もどき、の多さにがっかりしたのだ。もうひとつのがっかり部分。安っぽい黒ロリの、美しい人形に対する罵倒。キモチワルーイ。キモチワルイのはおまいの顔(以下略。恋月姫目当てなのは解った。三浦悦子の所謂ヴィジュアル系に好まれそうなサイバーな人形だったのも解る。でも。美術館には様々な人が様々な目的を持ってやってきているのだ。自分の趣味嗜好に合わないからと言ってそのまんま口にするな。それから親子連れ。ツマンナーイとうろちょろする餓鬼を連れてくるな。ただでさえ餓鬼には刺激の強い人形が多いのだ。弁えろ。そして親自身。山海塾と言いたい気持ちは解る。でも言うな。兎に角、思ったことを全て大きな声で口にする、精神年齢の低い客に気分を害された。私が狭量なのか?
うちのが気に入った人形作家は吉田良。確かに非常に美しく、小柄ながらも存在感のある人形が多く且つそれらは皆力強い瞳を持っており、観ると感嘆の溜息を漏らさずにいられない求心力を持っていた。私が惹かれたのは伽井丹彌の作品。特にこの日記のタイトルにした、ひかるもの、は球体関節人形のお手本のような作りになっており、妖艶な唇の輝きと夜叉か菩薩かと私を惑わせる瞳が素晴らしかった。素晴らしいというか、欲しい。幾らするんだろう……考えるだに恐ろしい価格でありそうだ。因みに日本に於ける球体関節人形の第一人者である四谷シモンの人形は、一体500万〜1000万円らしい。伽井のひかるものに次ぐインパクトを齎した人形は、三浦悦子のバイオリン・ハープの対と思われる2体。この人形の特筆すべき点は着色だろう。失血部分と鬱血部分のコントラストが白い肢体に映えて暫く視線を逸らせなかった。井桁裕子の闘病日誌。この精密さには驚かされた。どの人面瘡も微妙に違う表情をしており、仕事の丁寧さが伺えた。期待外れだったのは土井典と四谷シモン。土井の作品全般、私は球体関節人形には思えなかった。狂態関節人形を模したオブジェ、でしかないのではないか。狂態、と誤入力で変換してしまったけれど、強ち外れていない気がするのでそのままとする。現代的過ぎたのも私を引かせる一因だったかもしれない。四谷シモンの作品について。私の目には、未来と過去のイヴを除く作品は綺麗に纏まり過ぎていた。綺麗ではある。精巧ではある。ただ、それだけ。小さく纏まっているという訳でもないのだけれど、どこかインパクトに欠けてしまっているように感じてしまった。完成されすぎてしまっているのかもしれない。以前の日記でも触れた三輪輝子の萌香。これはその他3体の人形と共に展示されており、萌香含む4体が同素材の衣類を纏っていた為に魅力が埋没してしまった感がある。
今回の展示の目玉はやはり天野可淡の作品たちだろう。だろうが……解った。私は和のテイストがある人形が基本的に好きなようだ。そして可淡の人形は洋風の雰囲気。一部に圧倒的支持を受けている恋月姫の展示作品も洋風。四谷シモンの作品も洋風。私が球体関節人形の存在を知り、ベルメールの人形に衝撃を受けた。それでも人形に求めるものは、和、だったようである。もうひとつ解ったこと。私にとって人形を中心とした芸術の最終形は、写真らしい。正直なところ、ネットで観た画像の期待を裏切られた人形がとても多かった。実物を観てしまうと、人形に宿る魂のようなものの存在を疑うものが多く、所詮は無機物、と思ってしまう作品が多かったのだ。美術館を出る際、うちのは吉田良の作品写真集を、私は今回の企画の纏め本を購入した。そして家で観た。やはり私には実物よりも、フィルムなどを通して二次元の世界に押し込まれた人形の方が魅力的だ。実物を観て、圧倒的な存在感に圧されたり、目を奪われたり、所有欲を掻き立てられたり、ただただ作家の情熱に感動したりと様々な感情を短時間に味わえたのは久しぶりのことであり、ヒキコモリ傾向の私には十分な刺激となり、行ってよかったと素直に言えよう。この球体関節人形展のパンフについての所感は後日書く予定。
この日はホワイトデイであり、美術館に行くことをメインの目的としたうちのとデートだった。美術館を出て折角だからと深川めしを食し、美味しかったけど高いねー、などと話しながら電車に乗り……私はうとうと。徹夜で出掛けてしまったのだ。またこの日は珍しくヒール靴を履いており、疲労は相当なもので予定していた「イノセンス」鑑賞は持ち越し。これは私の疲労のせいだけでなくうちのの体調不良と、ふたりの悲しき哉加齢を感じざるを得ない、1日に吸収できる情報量やそれに伴う感受性の減少の自覚もあった。ので、その後はうちのの携帯電話新規購入に付き合い、私へのホワイトデイのプレゼントを買ってもらい帰宅。そしてあっという間に眠りに就いた。ホワイトデイのプレゼントについては以前この日記でも候補を挙げて考えていた。そして取り敢えずちょっと覗こうと思ったアナスイのアクセサリ売り場で、ひとつのピアスに一目惚れ! シルバーとガーネットで作られた都内某デパートと大阪府内某デパート限定の物。即決。誕生石使用ということもありこちらが誕生日プレゼントに相応しかったのでは? という気もするけれど……気にしない。綺麗な物を観て、綺麗な物をプレゼントしてもらい、綺麗な1日だったように思う。余談。ホワイトデイということもあってか、デパートのアクセサリ売り場はカップルでいっぱいだった。人込みは嫌いだ。
服装/scolarの茶系花柄メタリックパープルライン入りカットソー+セレクトショップの紫の綿カーディガン+Spick&Spanのオフホワイトストレッチパンツ+インポート物のグレーのコート+メタリックパープルのパンプス+PORTERの黒い斜めかけバッグ
BGM/アルバム「筋少の大水銀」
球体関節人形展を観に、うちのと一緒に東京都現代美術館迄足を運んだ。私が球体関節人形の実物を観たのはこの日が初めて。正直な感想を。ベルメールの影響により、特異な形で日本で球体関節人形文化が発展したのは当然予備知識として持って出掛けた。そして生で観て……がっかり度40%。何が不満だったのか。それは私の思い描いていた球体関節人形と実物の球体関節人形の遥かなる乖離だ。球体関節人形と冠しているからには、どれも球体関節稼動が可能な人形だと思っていた。けれど行ってみると、稼動不可能な人形が多く、関節部分に球体らしき形の何かを嵌め込んでいるように見せかけて実はしっかりと接続されていて稼動不可能な人形が多かった。私は辞書通りに言葉を使ってくれないと戸惑う。球体関節人形と言うからには、関節部分に球体を使って稼動可能な人形でなければ腑に落ちない。球体関節人形もどき、の多さにがっかりしたのだ。もうひとつのがっかり部分。安っぽい黒ロリの、美しい人形に対する罵倒。キモチワルーイ。キモチワルイのはおまいの顔(以下略。恋月姫目当てなのは解った。三浦悦子の所謂ヴィジュアル系に好まれそうなサイバーな人形だったのも解る。でも。美術館には様々な人が様々な目的を持ってやってきているのだ。自分の趣味嗜好に合わないからと言ってそのまんま口にするな。それから親子連れ。ツマンナーイとうろちょろする餓鬼を連れてくるな。ただでさえ餓鬼には刺激の強い人形が多いのだ。弁えろ。そして親自身。山海塾と言いたい気持ちは解る。でも言うな。兎に角、思ったことを全て大きな声で口にする、精神年齢の低い客に気分を害された。私が狭量なのか?
うちのが気に入った人形作家は吉田良。確かに非常に美しく、小柄ながらも存在感のある人形が多く且つそれらは皆力強い瞳を持っており、観ると感嘆の溜息を漏らさずにいられない求心力を持っていた。私が惹かれたのは伽井丹彌の作品。特にこの日記のタイトルにした、ひかるもの、は球体関節人形のお手本のような作りになっており、妖艶な唇の輝きと夜叉か菩薩かと私を惑わせる瞳が素晴らしかった。素晴らしいというか、欲しい。幾らするんだろう……考えるだに恐ろしい価格でありそうだ。因みに日本に於ける球体関節人形の第一人者である四谷シモンの人形は、一体500万〜1000万円らしい。伽井のひかるものに次ぐインパクトを齎した人形は、三浦悦子のバイオリン・ハープの対と思われる2体。この人形の特筆すべき点は着色だろう。失血部分と鬱血部分のコントラストが白い肢体に映えて暫く視線を逸らせなかった。井桁裕子の闘病日誌。この精密さには驚かされた。どの人面瘡も微妙に違う表情をしており、仕事の丁寧さが伺えた。期待外れだったのは土井典と四谷シモン。土井の作品全般、私は球体関節人形には思えなかった。狂態関節人形を模したオブジェ、でしかないのではないか。狂態、と誤入力で変換してしまったけれど、強ち外れていない気がするのでそのままとする。現代的過ぎたのも私を引かせる一因だったかもしれない。四谷シモンの作品について。私の目には、未来と過去のイヴを除く作品は綺麗に纏まり過ぎていた。綺麗ではある。精巧ではある。ただ、それだけ。小さく纏まっているという訳でもないのだけれど、どこかインパクトに欠けてしまっているように感じてしまった。完成されすぎてしまっているのかもしれない。以前の日記でも触れた三輪輝子の萌香。これはその他3体の人形と共に展示されており、萌香含む4体が同素材の衣類を纏っていた為に魅力が埋没してしまった感がある。
今回の展示の目玉はやはり天野可淡の作品たちだろう。だろうが……解った。私は和のテイストがある人形が基本的に好きなようだ。そして可淡の人形は洋風の雰囲気。一部に圧倒的支持を受けている恋月姫の展示作品も洋風。四谷シモンの作品も洋風。私が球体関節人形の存在を知り、ベルメールの人形に衝撃を受けた。それでも人形に求めるものは、和、だったようである。もうひとつ解ったこと。私にとって人形を中心とした芸術の最終形は、写真らしい。正直なところ、ネットで観た画像の期待を裏切られた人形がとても多かった。実物を観てしまうと、人形に宿る魂のようなものの存在を疑うものが多く、所詮は無機物、と思ってしまう作品が多かったのだ。美術館を出る際、うちのは吉田良の作品写真集を、私は今回の企画の纏め本を購入した。そして家で観た。やはり私には実物よりも、フィルムなどを通して二次元の世界に押し込まれた人形の方が魅力的だ。実物を観て、圧倒的な存在感に圧されたり、目を奪われたり、所有欲を掻き立てられたり、ただただ作家の情熱に感動したりと様々な感情を短時間に味わえたのは久しぶりのことであり、ヒキコモリ傾向の私には十分な刺激となり、行ってよかったと素直に言えよう。この球体関節人形展のパンフについての所感は後日書く予定。
この日はホワイトデイであり、美術館に行くことをメインの目的としたうちのとデートだった。美術館を出て折角だからと深川めしを食し、美味しかったけど高いねー、などと話しながら電車に乗り……私はうとうと。徹夜で出掛けてしまったのだ。またこの日は珍しくヒール靴を履いており、疲労は相当なもので予定していた「イノセンス」鑑賞は持ち越し。これは私の疲労のせいだけでなくうちのの体調不良と、ふたりの悲しき哉加齢を感じざるを得ない、1日に吸収できる情報量やそれに伴う感受性の減少の自覚もあった。ので、その後はうちのの携帯電話新規購入に付き合い、私へのホワイトデイのプレゼントを買ってもらい帰宅。そしてあっという間に眠りに就いた。ホワイトデイのプレゼントについては以前この日記でも候補を挙げて考えていた。そして取り敢えずちょっと覗こうと思ったアナスイのアクセサリ売り場で、ひとつのピアスに一目惚れ! シルバーとガーネットで作られた都内某デパートと大阪府内某デパート限定の物。即決。誕生石使用ということもありこちらが誕生日プレゼントに相応しかったのでは? という気もするけれど……気にしない。綺麗な物を観て、綺麗な物をプレゼントしてもらい、綺麗な1日だったように思う。余談。ホワイトデイということもあってか、デパートのアクセサリ売り場はカップルでいっぱいだった。人込みは嫌いだ。
服装/scolarの茶系花柄メタリックパープルライン入りカットソー+セレクトショップの紫の綿カーディガン+Spick&Spanのオフホワイトストレッチパンツ+インポート物のグレーのコート+メタリックパープルのパンプス+PORTERの黒い斜めかけバッグ
BGM/アルバム「筋少の大水銀」
現在3月26日。
もうすぐ価格表示が消費税込になるらしい。既に税込価格表示になっているところも多い。驚いたことに、うちのはこの制度を歓迎している。曰く、39800円などと表示されているのにレジで4万以上請求されると騙された気になってしまう、それなら最初から税込価格で表示されている方がいい。解らん。消費税が5%かかるのは知っていることであり、買い物をする際には念頭に置くべきことのひとつであると私は考えている。因って39800円と表示されていたら4万ちょいだな、と自然と思い至る筈だ。これは大いなる勘違いだったらしい。皆このように考えて買い物をしていると思っていたのだが、少なくともうちのは違っていた。この価格表示の変更は、多くの人にとって招かざる政策ではなかったのか。驚くべきことに、と書いたように、私はこの政策に反対である。言わずもがな、便乗値上げが懸念されるからだ。値上げ額はひとつひとつを見れば数円かもしれない。だが、数が重なればそれは数十円数百円となる。トータルで見ると決して無視できない金額になるであろう。うちのは、多少の便乗値上げは構わない、と言う。それよりはスッキリと表示されている方が気分がいい、と。似非主婦であり家計を遣り繰りする身である私は、便乗値上げ大反対だ。また多くの企業や店舗では便乗値上げされないと仮定して、様々な商品の価格が端数表示されるのは苛々に繋がる。198円などの表示にはいつの間にか慣れたので、これからは端数表示にも慣れていくのだろうか。慣れる前に各社がキリのいい数字に便乗値上げする方が先のような気がするけれど。政策というからには、何処かに利権が発生するのだろう、と思う。まず思いついたのは一部議員と一部機械系企業。表示価格が変わるからには、レジスター機のシステムが変わる筈だ。それにあたり、何かしらの利権が発生しているのではないか。また便乗値上げを暗に推奨するような政策であり、国民総消費額を上げようと国が考えているのではないか。ひとつ数円数十円の値上げで不況の買い控えはさほど進まなかろうと読んでいるのではないか。こんなことをうちのに話すと、莫迦にされた。お前、陰謀説とか好きだよなあ。否定はできない……。何故なら、いろいろと勘繰ったり裏を読んだりする方が、それが正解かどうかは闇の中であれ楽しいから。
先日大々的に報じられて今は世間的にかなり印象が薄まっている某の退院。これについて某巨大掲示板の一部では、国家的実験説が冗談半分に流れていた。実験対象は某だけでなく全国民である。某の更正の成功・失敗は勿論のこと、国民のパニック具合、パニックの継続状況、その地域別結果集計などなど。受け入れ先の住人はモルモットとして見られているのではないか。最早、被験者に非ず。被験者なら、自身が被験者になるかどうかの選択ができるが、モルモットにはその選択肢は与えられない。この実験説にツッコミが入るのは当然である。当然だけれども、私は実験説を採りたい。受け入れ先と予測されている地域がうちから遠いとは言えない距離であり、それに伴う恐怖もあるけれど、実験説について考える方が不謹慎を承知で楽しいから。国がすることには何でも裏がある、と思いがちな節が私にはある。昔の愛読誌「噂の真相」に毒されたのかもしれないが、別に勘繰りを入れたところで私が何かを立証・告発できる訳でなし、世の中にいろいろと考えることがある方が、報道その他をそのまま受け入れる方が危険だと思っているので考え方を変える気はない。
まだ記憶に新しい文春の回収騒動。これも某巨大掲示板にて、実はBSEに触れた記事の方が国民にとって危機感を煽るものだったのにそうは発表できないから某議員の家族の問題として回収した、と書かれていた。回収された文春は未読なので判断できないけれど、そういう裏があってもおかしくはないわなあ、と思った。某議員は過去に問題を起こしており、今回の回収に加担することで何かしらの利益を得ているかもしれない、と安易に想像できたからだ。国ではないけれど、某有名サイトが1クリックにつきクリックした人の代わり1円の募金をする、というボランティアを始めた。それを知ってから有難く尻馬に乗らせてもらい、毎日クリックしている。某サイトは世の為人の為にいいことを始めた。それは褒められた行動であるが、疑問がある。このボランティアを始めることにより、某サイトを運営している某企業にどんなメリットがあるのか。金銭が関わるボランティアだけに気になる。性悪説採用者である私は、純粋な善意などこの世に存在していない、と思っている。私個人でしているボランティアがある。そこにはゲーム性があるからだ。それがなければこのボランティアに参加していなかったかもしれない。また私は臓器移植同意カードも持ち歩いている。それは、墓、というものに縛られたくないからだ。臓器提供後の遺体も風葬なり海葬なりを望んでいる。個人単位でも、何かをするには何かの思惑があるという話である。それが良いとされることであっても、悪いとされることであっても。
税込価格表示については私個人が報道に基づいて考えたことだけれど、某や某議員に関しては某巨大掲示板の書き込みに左右されていることは認めざるを得ない。うちのはこんな私を、影響され易い人間だ、という。同意しかねる。上記の勘繰りや裏読みは、某巨大掲示板に集う人々の総意ではない。むしろ数々の意見の中では少数派の意見である。少数派であっても、私が得た情報の中のひとつとして尤もらしいから若しくはそうであると面白いから、自然そのように考えるに至った次第である。本当に影響され易い人間なら多数派の意見に同意するであろう、との考え方は安易過ぎるのか。余談。学生時代、私の情報源の殆どは「東スポ」と「噂の真相」だった。殆どに入らないほんの少しにテレビでの報道や新聞。今は廃刊となった「噂の真相」もだが「東スポ」も読んではいない。情報源はたまに見るテレビの報道と、ヤフーなどを介しての報道機関のトピック、そして某巨大掲示板。考え方が変わらないのはともかくとして、真っ当とされる報道に触れる機会が増えてきているのは、きっといいことなのだろう。ネット環境様様である。
もうすぐ価格表示が消費税込になるらしい。既に税込価格表示になっているところも多い。驚いたことに、うちのはこの制度を歓迎している。曰く、39800円などと表示されているのにレジで4万以上請求されると騙された気になってしまう、それなら最初から税込価格で表示されている方がいい。解らん。消費税が5%かかるのは知っていることであり、買い物をする際には念頭に置くべきことのひとつであると私は考えている。因って39800円と表示されていたら4万ちょいだな、と自然と思い至る筈だ。これは大いなる勘違いだったらしい。皆このように考えて買い物をしていると思っていたのだが、少なくともうちのは違っていた。この価格表示の変更は、多くの人にとって招かざる政策ではなかったのか。驚くべきことに、と書いたように、私はこの政策に反対である。言わずもがな、便乗値上げが懸念されるからだ。値上げ額はひとつひとつを見れば数円かもしれない。だが、数が重なればそれは数十円数百円となる。トータルで見ると決して無視できない金額になるであろう。うちのは、多少の便乗値上げは構わない、と言う。それよりはスッキリと表示されている方が気分がいい、と。似非主婦であり家計を遣り繰りする身である私は、便乗値上げ大反対だ。また多くの企業や店舗では便乗値上げされないと仮定して、様々な商品の価格が端数表示されるのは苛々に繋がる。198円などの表示にはいつの間にか慣れたので、これからは端数表示にも慣れていくのだろうか。慣れる前に各社がキリのいい数字に便乗値上げする方が先のような気がするけれど。政策というからには、何処かに利権が発生するのだろう、と思う。まず思いついたのは一部議員と一部機械系企業。表示価格が変わるからには、レジスター機のシステムが変わる筈だ。それにあたり、何かしらの利権が発生しているのではないか。また便乗値上げを暗に推奨するような政策であり、国民総消費額を上げようと国が考えているのではないか。ひとつ数円数十円の値上げで不況の買い控えはさほど進まなかろうと読んでいるのではないか。こんなことをうちのに話すと、莫迦にされた。お前、陰謀説とか好きだよなあ。否定はできない……。何故なら、いろいろと勘繰ったり裏を読んだりする方が、それが正解かどうかは闇の中であれ楽しいから。
先日大々的に報じられて今は世間的にかなり印象が薄まっている某の退院。これについて某巨大掲示板の一部では、国家的実験説が冗談半分に流れていた。実験対象は某だけでなく全国民である。某の更正の成功・失敗は勿論のこと、国民のパニック具合、パニックの継続状況、その地域別結果集計などなど。受け入れ先の住人はモルモットとして見られているのではないか。最早、被験者に非ず。被験者なら、自身が被験者になるかどうかの選択ができるが、モルモットにはその選択肢は与えられない。この実験説にツッコミが入るのは当然である。当然だけれども、私は実験説を採りたい。受け入れ先と予測されている地域がうちから遠いとは言えない距離であり、それに伴う恐怖もあるけれど、実験説について考える方が不謹慎を承知で楽しいから。国がすることには何でも裏がある、と思いがちな節が私にはある。昔の愛読誌「噂の真相」に毒されたのかもしれないが、別に勘繰りを入れたところで私が何かを立証・告発できる訳でなし、世の中にいろいろと考えることがある方が、報道その他をそのまま受け入れる方が危険だと思っているので考え方を変える気はない。
まだ記憶に新しい文春の回収騒動。これも某巨大掲示板にて、実はBSEに触れた記事の方が国民にとって危機感を煽るものだったのにそうは発表できないから某議員の家族の問題として回収した、と書かれていた。回収された文春は未読なので判断できないけれど、そういう裏があってもおかしくはないわなあ、と思った。某議員は過去に問題を起こしており、今回の回収に加担することで何かしらの利益を得ているかもしれない、と安易に想像できたからだ。国ではないけれど、某有名サイトが1クリックにつきクリックした人の代わり1円の募金をする、というボランティアを始めた。それを知ってから有難く尻馬に乗らせてもらい、毎日クリックしている。某サイトは世の為人の為にいいことを始めた。それは褒められた行動であるが、疑問がある。このボランティアを始めることにより、某サイトを運営している某企業にどんなメリットがあるのか。金銭が関わるボランティアだけに気になる。性悪説採用者である私は、純粋な善意などこの世に存在していない、と思っている。私個人でしているボランティアがある。そこにはゲーム性があるからだ。それがなければこのボランティアに参加していなかったかもしれない。また私は臓器移植同意カードも持ち歩いている。それは、墓、というものに縛られたくないからだ。臓器提供後の遺体も風葬なり海葬なりを望んでいる。個人単位でも、何かをするには何かの思惑があるという話である。それが良いとされることであっても、悪いとされることであっても。
税込価格表示については私個人が報道に基づいて考えたことだけれど、某や某議員に関しては某巨大掲示板の書き込みに左右されていることは認めざるを得ない。うちのはこんな私を、影響され易い人間だ、という。同意しかねる。上記の勘繰りや裏読みは、某巨大掲示板に集う人々の総意ではない。むしろ数々の意見の中では少数派の意見である。少数派であっても、私が得た情報の中のひとつとして尤もらしいから若しくはそうであると面白いから、自然そのように考えるに至った次第である。本当に影響され易い人間なら多数派の意見に同意するであろう、との考え方は安易過ぎるのか。余談。学生時代、私の情報源の殆どは「東スポ」と「噂の真相」だった。殆どに入らないほんの少しにテレビでの報道や新聞。今は廃刊となった「噂の真相」もだが「東スポ」も読んではいない。情報源はたまに見るテレビの報道と、ヤフーなどを介しての報道機関のトピック、そして某巨大掲示板。考え方が変わらないのはともかくとして、真っ当とされる報道に触れる機会が増えてきているのは、きっといいことなのだろう。ネット環境様様である。
現在3月26日。
この日記の自己紹介欄のHOMEは「前略プロフィール」に繋がっている。ときどき内容を変更していて、ついさっきも手を加えた。そのときに迷って1回やってみてすぐさまやめた。BBSの設置である。前からあった機能かどうかは記憶が定かではないのだが、少なくとも今は設置しようと思えばできるらしい。で、迷って設置してみた。きっと閉鎖迄1分も経っていないと思われる。この日記につらつらと好き勝手書いていて、たまに他人様の感想を聞いてみたいなーと思ったりしなくはない。この日記の存在を知っている友人はメールで意見や感想をくれたりする。相互リンクでたまに感想をくださる方もいる。カウンタの回り具合とアクセス元表示から考えて、ダイアリーノート未利用の人の中にもウォッチャーがいそうな気配はある。果たしてウォッチャーはどんな意図を持ってこの日記を読んでいるのだろう。気になる。非常に気になる。嘲笑する為なのか、それとも読み物としてなのか。一時期、難民やヲチ板も覗いていた身としては気にならない筈がなく、BBSを設置すればもしかしたら意図が判るかな? と思って設置した。すぐに閉じたのは、迷いの中の危険性の方が勝ったからだ。嘲笑目的でウォッチしている人に荒らされたら、打たれ弱い私は凹むだろうなあ、と。またそういう目的なら書き込まない人の方が多いかもしれない。宣伝カキコをいちいち削除するのも面倒だし、気分や体調に並々ならぬムラのある私がちゃんと管理できるか。きっとできないだろう。またディベート好きな面もあるので、常に何かしらの喧嘩を抱えそうな気もする。この日記に叩かれる要素が山のようにあることは自覚している。
個人サイトにはBBSを設置しているところは少なくない。むしろ多く感じる。そして管理人が管理できていないところが多く、馴れ合いと排除の繰り返しに陥っている様をこれ迄に沢山見てきた。また管理に飽きて放置されているBBSはとても恰好悪く思える。管理できないなら設置するなよ、と。設置してから管理できないことが自覚できたら閉鎖しろよ、と。この考え方は多分、私が最初に触れて今もずぶずぶに出入りしている某巨大掲示板の存在とその意義、管理人の方針に起因しているのだろう。そしてこの考え方そのものに全く問題はないと思っている。この辺のことは去年の日記に書いたままであり、これっぽっちも考え方に変化はない。BBSは殺伐としていてナンボだ。馴れ合いが悪いとは思わない。ただ馴れ合いに染まって、違う馴れ合い方をしようとする管理人は愚の骨頂。全て包括できて且つ要不要をきちんと見極められてこそ、初めて管理人を名乗れるのだという信念がある。以前、貴女は管理人向きだと思うからサイトを開いてみたらどうか、と勧められたことがある。そう勧められるにあたり紆余曲折があった訳だが、サイトを開設したいくらいに何かテーマを持って発したいものがあるでなし、上記信念故に管理人には不向きだろう。ここのような、日記、というスタイルが合っていると思う。あのとき一念発起などしなくて本当に良かった。自分の向き不向きは自分が一番解っているつもりだ。
試しに実験的設置をしてみるのも悪くないかもしれない、と思ったのがさっき一度設置してみた理由。だけど。叩かれて凹んで放置は恰好悪い。閉鎖はもっと恰好悪い。要するに私には、BBSを設置するだけの勇気がないということなのかもしれない。設置することで有意義な意見を得られる可能性もあるにはあるが、そうでない可能性、ひいては先に書いたように叩きにまたは煽りに遭うのが怖い。健全ではない精神状態を持つ者がBBSを設置して管理するのは非常に危険ではなかろうか。この考え方に反し、ネット上にはメンヘラのサイトが多数存在している。本当のメンヘラもいるだろうし、似非メンヘラもいるだろう。サイト開設だけなら構わないとして、BBSをも設置するのは何故だろう。大概はやはり管理できているようには見えない。自己愛のなせる業が。上に書いた、私にサイト開設を勧めた人物は、サイトの内容には全く出てきていないけれど、会って話してみたところメンヘラだとのこと。しかも、一通りの病気はやった、とのたまわれていた。その発言を聞き、その後の諸々を経て縁を切った。訳が解らん。メンタルヘルス系の病気に一通り罹るということは可能なのだろうか。あらん限りの私の知識で考えると不可能なのだけれど。それとも、そうのたまわれること自体が何かの症状だったのかもしれない。もう縁を切っているのでどうでもいいのに、私の中にはしこりが残っている。諸々を経てサイト開設を勧められたということは、私は自己愛性人格障害だと思われたのではなかろうか。そう思うと腹が立つ。所詮相手は精神科医でも何でもない素人なのだが、診断が間違っている。似て非なる諸事情なのに、と言いたい。忘れたい記憶なのに拘っている自分が嫌だ。
この自己愛性人格障害と私の諸事情は、素人目にはごっちゃに見えるらしい。某巨大掲示板某板某スレを見てそれを知り、自分のことでもないのに激しく落ち込んだことがある。いつも病名を、諸事情、と表現しているのはそのスレッドを見たからだ。病名を書くと自己愛性と勘違いされそうで怖いのだ。叩くならしっかりと知識を得た上で叩いてもらいたい。私の諸事情にも日常に於いて他者に迷惑をかけて叩かれる要因はある。でもそれは自己愛性がかける迷惑とは微妙に違うのだ。実際に自己愛性なり諸事情なりが自身や身近な人間に発覚しなければ若しくは専門家でなければ区別が付かないものなのか。付かないんだろうな……。頭ではそのことが理解できていて、関わりのない他者に理解して欲しいと強く願っていもいないのに、何処かで虚無感が発生している。諸事情を半ば無理矢理主治医に伝えさせ、それ以後は行動その他を改善すべく努めていて、なのにこの諸事情や自己愛性の他者に迷惑を被った他者には同じ目で見られてしまう。同病者だけでないのがポイント。同病者だけなら、私も昔はそういうことをしてしまったなあ、と思い返し、これからは気をつけていかなければ、と内省しつつ気を引き締められる。そこに似て非なる病気の人間が混ざってくるのが虚無感発生の所以だろう。ごっちゃにされている場所が私周辺のリアルだけなら、ぶつけられた場合に訂正していける。BBSという見知らぬ人間の集まりで、迷惑をかけられた故に被害者意識が強まっている人々に対し、私は訂正の書き込みをする勇気はない。たまに訂正する猛者を見かけたが、やはり叩かれていた。気にしないように、目にしないように、ひっそりとBBS設置など考えずにネットと関わるのが、少なくとも今の私には限界だ。
この日記の自己紹介欄のHOMEは「前略プロフィール」に繋がっている。ときどき内容を変更していて、ついさっきも手を加えた。そのときに迷って1回やってみてすぐさまやめた。BBSの設置である。前からあった機能かどうかは記憶が定かではないのだが、少なくとも今は設置しようと思えばできるらしい。で、迷って設置してみた。きっと閉鎖迄1分も経っていないと思われる。この日記につらつらと好き勝手書いていて、たまに他人様の感想を聞いてみたいなーと思ったりしなくはない。この日記の存在を知っている友人はメールで意見や感想をくれたりする。相互リンクでたまに感想をくださる方もいる。カウンタの回り具合とアクセス元表示から考えて、ダイアリーノート未利用の人の中にもウォッチャーがいそうな気配はある。果たしてウォッチャーはどんな意図を持ってこの日記を読んでいるのだろう。気になる。非常に気になる。嘲笑する為なのか、それとも読み物としてなのか。一時期、難民やヲチ板も覗いていた身としては気にならない筈がなく、BBSを設置すればもしかしたら意図が判るかな? と思って設置した。すぐに閉じたのは、迷いの中の危険性の方が勝ったからだ。嘲笑目的でウォッチしている人に荒らされたら、打たれ弱い私は凹むだろうなあ、と。またそういう目的なら書き込まない人の方が多いかもしれない。宣伝カキコをいちいち削除するのも面倒だし、気分や体調に並々ならぬムラのある私がちゃんと管理できるか。きっとできないだろう。またディベート好きな面もあるので、常に何かしらの喧嘩を抱えそうな気もする。この日記に叩かれる要素が山のようにあることは自覚している。
個人サイトにはBBSを設置しているところは少なくない。むしろ多く感じる。そして管理人が管理できていないところが多く、馴れ合いと排除の繰り返しに陥っている様をこれ迄に沢山見てきた。また管理に飽きて放置されているBBSはとても恰好悪く思える。管理できないなら設置するなよ、と。設置してから管理できないことが自覚できたら閉鎖しろよ、と。この考え方は多分、私が最初に触れて今もずぶずぶに出入りしている某巨大掲示板の存在とその意義、管理人の方針に起因しているのだろう。そしてこの考え方そのものに全く問題はないと思っている。この辺のことは去年の日記に書いたままであり、これっぽっちも考え方に変化はない。BBSは殺伐としていてナンボだ。馴れ合いが悪いとは思わない。ただ馴れ合いに染まって、違う馴れ合い方をしようとする管理人は愚の骨頂。全て包括できて且つ要不要をきちんと見極められてこそ、初めて管理人を名乗れるのだという信念がある。以前、貴女は管理人向きだと思うからサイトを開いてみたらどうか、と勧められたことがある。そう勧められるにあたり紆余曲折があった訳だが、サイトを開設したいくらいに何かテーマを持って発したいものがあるでなし、上記信念故に管理人には不向きだろう。ここのような、日記、というスタイルが合っていると思う。あのとき一念発起などしなくて本当に良かった。自分の向き不向きは自分が一番解っているつもりだ。
試しに実験的設置をしてみるのも悪くないかもしれない、と思ったのがさっき一度設置してみた理由。だけど。叩かれて凹んで放置は恰好悪い。閉鎖はもっと恰好悪い。要するに私には、BBSを設置するだけの勇気がないということなのかもしれない。設置することで有意義な意見を得られる可能性もあるにはあるが、そうでない可能性、ひいては先に書いたように叩きにまたは煽りに遭うのが怖い。健全ではない精神状態を持つ者がBBSを設置して管理するのは非常に危険ではなかろうか。この考え方に反し、ネット上にはメンヘラのサイトが多数存在している。本当のメンヘラもいるだろうし、似非メンヘラもいるだろう。サイト開設だけなら構わないとして、BBSをも設置するのは何故だろう。大概はやはり管理できているようには見えない。自己愛のなせる業が。上に書いた、私にサイト開設を勧めた人物は、サイトの内容には全く出てきていないけれど、会って話してみたところメンヘラだとのこと。しかも、一通りの病気はやった、とのたまわれていた。その発言を聞き、その後の諸々を経て縁を切った。訳が解らん。メンタルヘルス系の病気に一通り罹るということは可能なのだろうか。あらん限りの私の知識で考えると不可能なのだけれど。それとも、そうのたまわれること自体が何かの症状だったのかもしれない。もう縁を切っているのでどうでもいいのに、私の中にはしこりが残っている。諸々を経てサイト開設を勧められたということは、私は自己愛性人格障害だと思われたのではなかろうか。そう思うと腹が立つ。所詮相手は精神科医でも何でもない素人なのだが、診断が間違っている。似て非なる諸事情なのに、と言いたい。忘れたい記憶なのに拘っている自分が嫌だ。
この自己愛性人格障害と私の諸事情は、素人目にはごっちゃに見えるらしい。某巨大掲示板某板某スレを見てそれを知り、自分のことでもないのに激しく落ち込んだことがある。いつも病名を、諸事情、と表現しているのはそのスレッドを見たからだ。病名を書くと自己愛性と勘違いされそうで怖いのだ。叩くならしっかりと知識を得た上で叩いてもらいたい。私の諸事情にも日常に於いて他者に迷惑をかけて叩かれる要因はある。でもそれは自己愛性がかける迷惑とは微妙に違うのだ。実際に自己愛性なり諸事情なりが自身や身近な人間に発覚しなければ若しくは専門家でなければ区別が付かないものなのか。付かないんだろうな……。頭ではそのことが理解できていて、関わりのない他者に理解して欲しいと強く願っていもいないのに、何処かで虚無感が発生している。諸事情を半ば無理矢理主治医に伝えさせ、それ以後は行動その他を改善すべく努めていて、なのにこの諸事情や自己愛性の他者に迷惑を被った他者には同じ目で見られてしまう。同病者だけでないのがポイント。同病者だけなら、私も昔はそういうことをしてしまったなあ、と思い返し、これからは気をつけていかなければ、と内省しつつ気を引き締められる。そこに似て非なる病気の人間が混ざってくるのが虚無感発生の所以だろう。ごっちゃにされている場所が私周辺のリアルだけなら、ぶつけられた場合に訂正していける。BBSという見知らぬ人間の集まりで、迷惑をかけられた故に被害者意識が強まっている人々に対し、私は訂正の書き込みをする勇気はない。たまに訂正する猛者を見かけたが、やはり叩かれていた。気にしないように、目にしないように、ひっそりとBBS設置など考えずにネットと関わるのが、少なくとも今の私には限界だ。
球体関節人形展パンフ所感
2004年3月11日 本・映画・音楽など 現在3月21日。
14日に行った球体関節人形展にて帰りにパンフを購入してきた。1日経って一通り見ての感想。まず不満編から箇条書き。
・展示作品の全てが収められていない
・特に対になっていると思われる人形の片方が掲載されていないのは片手落ちではないか
・天野可淡作品が一切掲載されていないことに人形界全体の狭量さとの可淡への強引な高尚さへの狙いを感じてしまう
・耽美系及び前面に異形を表現した作品に重点を置きすぎていないか
・球体関節人形から最早離れた亜流といって過言ではないような作品を重視しすぎてはいないか
・その構図で撮影すると全体像への違和感が発生するのではないかと危惧してしまう写真の多さ
・展覧会の中でも個人的には非常に浮いた存在に見えたマリオ・Aの作品に何故あんなに頁数を費やしているのか→そのぶんベルメールの写真を多用できなかったものか
・敢えて既存作に名を挙げて批判はしないけれど、一部の関節人形作家ファンへの媚を感じる
・月光社の作品は駄洒落とも思えるタイトルで非常に損をしている気がする
・映画「イノセンス」を主題として作られた球体関節人形はともかく、犬の人形は不要としか思えない
以上は、私個人の批判。どうしても犬に拘るならば、革人形での作成のほうが向いているように思う。
以下、うちのの不満。
・最も強烈な印象だった吉田良の一作品が掲載されていないことに強い不満を持った
あくまで個人的感想であり、人形展そのものやパンフ作成への批判ではないことを断っておく。以下は反してパンフに於ける個人的に良かった点。
・最も好きな伽井の「ひかるもの」がちゃん全身掲載されていた
・同作家の「鏡−陰毛−」がサイトの画像ではちゃん判らなかったけれど、展示人形とパンフの写真でタイトルと直結できたこと
・中村寝郎の作品掲載数は彼の作品が一貫性があり且つ前衛的な何かを思わせるので少数の掲載で成功だったのではなかろうか
パンフを見て、改めて私にとって人形の完成形は写真及び画像だと認識。その発端は、チラシではあれ程魅入られた「萌香」の実物の印象の薄さが原因だ。私にとっては、背景・衣装・稼動させた人形のポーズ及び人形を撮影するにあたっての角度の問題が重要なのだろう。「萌香」そのものは、和装洋装共に似合う人形だと思う。けれど展示では4体の人形が同種の衣装を纏い、その姿がパンフにに納められている。残念でならない。全ての人形を展示状態のままで掲載するのでなければ、展示されておりパンフに掲載される人形も、その魅力を存分に引き出す姿で撮影・掲載できなかったものだろうか。パンフで全作品を展示状態ままで掲載するならこのような未消化もなかったかもしけないけれど……悔しさが残る。掲載されていた人形によっては、写真の構図が展示状態と微妙に変わっている物も少なくない。人形作家が望むことは何なのだろう。あるがままの人形を観てもらいたいのにか、それともより良く人形を観せたいのか、はたまた人形完成時に作家にとっての全てが完了してしまい後はお好きに、となってしまうのだろうか。私は人形作家ではないし、上記パターンのどれを目指すまたは根ざす人がいてもおかしくないと思う。もっと言う場、更に違う角度で完成とする人形師もいるかもしれない。私は一鑑賞者として想像を働かせることしかできず、一傍観者である私の好みとして、作られた人形の特徴を活かしつつ美しく撮影された写真や画像を観たいと思うだけである。
このパンフと同時に、うちのが吉田良の「Astral Dall」という作品写真集を購入した。一通り鑑賞し、私が特に惹かれたのはこれといった目立った特徴のない一体の少女人形だった。この人形は2ページに渡って2カットが掲載されており、その表情に目を奪われた。鏡を使っての撮影で、2カットに4つの表情が写っている。人形は一体。1度完成された人形は、ひとつの表情で以って顔を造形されている筈だ。なのに角度によって全て表情が違って見える。これは凄い技術ではなかろうか。人間の表情は、正面から見たら微笑であっても、角度を変えて見ると皮肉を含んだ笑みに見えたり、無表情にに見えたり、物思いに耽っているように見える。人の心の機微は、表情に表れるのは当然のことだ。けれど人形は物質であり、完成形であり、心が宿っているように見えるのは人間の錯覚や人形への思い入れの変形だろう。このように理解をしていても、その吉田良の一体の人形は心を、魂を宿らせているように見えた。吉田良の作品としては大人し目の作品であり、いろいろ見てきた球体関節人形の中で唯一、うちで一緒に暮らしてもいいな、と思える人形だった。価格は判らないながら、手の届く額でないことは容易に想像できるが。
或る人形作家の言葉で、人形の持ち主の人形への接し方で人形そのものの表情が変わる、というのを読んだことがある。人形をネグレクトすると冷たい表情になり、常日頃から手をかけてやさしく接すると人形の表情も柔らかくなっていくとか。ペットは生き物であり、接し方によって性格や表情が変わることはよく知っている。それが人形にも当て嵌まるとは簡単には想像できない話だ。けれどその作家自身またはその作家の人形を所有している人からすれば尤もな話なのかもしれない。私が球体関節人形を所有していない故に想像力が追いつかないのだろうか。いや、きっと常日頃からこのような芸術作品に触れていない者は、私以外にもやはり理解し難い考え方だと思われる。理解し難いけれど、1度某作家のサイトで少しだけ解った気がした画像に出会った。その画像に映された人形は、正面から見たら表情なのに斜め横からみると微笑を携えていたのだ。上記談話の知識を得る前に見た画像にも拘わらず、この人形は愛されているのだな、と半ば本能で感じ取れた。そしてひとつの疑問。人形は人間の擬態であり、感情移入は比較的簡単であると思われる。そして動物の擬態であり往々にしてデフォルメされたぬいぐるみにもこのような感情移入は可能なのか。有名なぬいぐるみコレクタに新井素子がいる。彼女は無垢な瞳を閉じることなく見つめてくるぬいぐるみの愛を一心に受け止められる、稀有ともいえる能力の持ち主らしい。私は人形にしてもぬいぐるみにしても、見返りを求められない無垢な愛情をあるがままに受け止めたり、同じような愛情で返す自信がない。玉石を持たない、様々な物質により構成された人や動物の擬態を愛せるかどうか。今回、球体関節人形を知っていろいろ調べた結果、新しく作られてしまった私への課題なのか。まずは棚に放置されっぱなしの、ひとり暮らしの頃に購入したピクルス・フロッグを洗濯して愛し直すことから始めてみよう。そうすることで私自身の心に何かしらの変化が生じるかもしれない。良い変化が生じるか、それとも非現実方向への変化が生じるかは今のところ全く解らない。
14日に行った球体関節人形展にて帰りにパンフを購入してきた。1日経って一通り見ての感想。まず不満編から箇条書き。
・展示作品の全てが収められていない
・特に対になっていると思われる人形の片方が掲載されていないのは片手落ちではないか
・天野可淡作品が一切掲載されていないことに人形界全体の狭量さとの可淡への強引な高尚さへの狙いを感じてしまう
・耽美系及び前面に異形を表現した作品に重点を置きすぎていないか
・球体関節人形から最早離れた亜流といって過言ではないような作品を重視しすぎてはいないか
・その構図で撮影すると全体像への違和感が発生するのではないかと危惧してしまう写真の多さ
・展覧会の中でも個人的には非常に浮いた存在に見えたマリオ・Aの作品に何故あんなに頁数を費やしているのか→そのぶんベルメールの写真を多用できなかったものか
・敢えて既存作に名を挙げて批判はしないけれど、一部の関節人形作家ファンへの媚を感じる
・月光社の作品は駄洒落とも思えるタイトルで非常に損をしている気がする
・映画「イノセンス」を主題として作られた球体関節人形はともかく、犬の人形は不要としか思えない
以上は、私個人の批判。どうしても犬に拘るならば、革人形での作成のほうが向いているように思う。
以下、うちのの不満。
・最も強烈な印象だった吉田良の一作品が掲載されていないことに強い不満を持った
あくまで個人的感想であり、人形展そのものやパンフ作成への批判ではないことを断っておく。以下は反してパンフに於ける個人的に良かった点。
・最も好きな伽井の「ひかるもの」がちゃん全身掲載されていた
・同作家の「鏡−陰毛−」がサイトの画像ではちゃん判らなかったけれど、展示人形とパンフの写真でタイトルと直結できたこと
・中村寝郎の作品掲載数は彼の作品が一貫性があり且つ前衛的な何かを思わせるので少数の掲載で成功だったのではなかろうか
パンフを見て、改めて私にとって人形の完成形は写真及び画像だと認識。その発端は、チラシではあれ程魅入られた「萌香」の実物の印象の薄さが原因だ。私にとっては、背景・衣装・稼動させた人形のポーズ及び人形を撮影するにあたっての角度の問題が重要なのだろう。「萌香」そのものは、和装洋装共に似合う人形だと思う。けれど展示では4体の人形が同種の衣装を纏い、その姿がパンフにに納められている。残念でならない。全ての人形を展示状態のままで掲載するのでなければ、展示されておりパンフに掲載される人形も、その魅力を存分に引き出す姿で撮影・掲載できなかったものだろうか。パンフで全作品を展示状態ままで掲載するならこのような未消化もなかったかもしけないけれど……悔しさが残る。掲載されていた人形によっては、写真の構図が展示状態と微妙に変わっている物も少なくない。人形作家が望むことは何なのだろう。あるがままの人形を観てもらいたいのにか、それともより良く人形を観せたいのか、はたまた人形完成時に作家にとっての全てが完了してしまい後はお好きに、となってしまうのだろうか。私は人形作家ではないし、上記パターンのどれを目指すまたは根ざす人がいてもおかしくないと思う。もっと言う場、更に違う角度で完成とする人形師もいるかもしれない。私は一鑑賞者として想像を働かせることしかできず、一傍観者である私の好みとして、作られた人形の特徴を活かしつつ美しく撮影された写真や画像を観たいと思うだけである。
このパンフと同時に、うちのが吉田良の「Astral Dall」という作品写真集を購入した。一通り鑑賞し、私が特に惹かれたのはこれといった目立った特徴のない一体の少女人形だった。この人形は2ページに渡って2カットが掲載されており、その表情に目を奪われた。鏡を使っての撮影で、2カットに4つの表情が写っている。人形は一体。1度完成された人形は、ひとつの表情で以って顔を造形されている筈だ。なのに角度によって全て表情が違って見える。これは凄い技術ではなかろうか。人間の表情は、正面から見たら微笑であっても、角度を変えて見ると皮肉を含んだ笑みに見えたり、無表情にに見えたり、物思いに耽っているように見える。人の心の機微は、表情に表れるのは当然のことだ。けれど人形は物質であり、完成形であり、心が宿っているように見えるのは人間の錯覚や人形への思い入れの変形だろう。このように理解をしていても、その吉田良の一体の人形は心を、魂を宿らせているように見えた。吉田良の作品としては大人し目の作品であり、いろいろ見てきた球体関節人形の中で唯一、うちで一緒に暮らしてもいいな、と思える人形だった。価格は判らないながら、手の届く額でないことは容易に想像できるが。
或る人形作家の言葉で、人形の持ち主の人形への接し方で人形そのものの表情が変わる、というのを読んだことがある。人形をネグレクトすると冷たい表情になり、常日頃から手をかけてやさしく接すると人形の表情も柔らかくなっていくとか。ペットは生き物であり、接し方によって性格や表情が変わることはよく知っている。それが人形にも当て嵌まるとは簡単には想像できない話だ。けれどその作家自身またはその作家の人形を所有している人からすれば尤もな話なのかもしれない。私が球体関節人形を所有していない故に想像力が追いつかないのだろうか。いや、きっと常日頃からこのような芸術作品に触れていない者は、私以外にもやはり理解し難い考え方だと思われる。理解し難いけれど、1度某作家のサイトで少しだけ解った気がした画像に出会った。その画像に映された人形は、正面から見たら表情なのに斜め横からみると微笑を携えていたのだ。上記談話の知識を得る前に見た画像にも拘わらず、この人形は愛されているのだな、と半ば本能で感じ取れた。そしてひとつの疑問。人形は人間の擬態であり、感情移入は比較的簡単であると思われる。そして動物の擬態であり往々にしてデフォルメされたぬいぐるみにもこのような感情移入は可能なのか。有名なぬいぐるみコレクタに新井素子がいる。彼女は無垢な瞳を閉じることなく見つめてくるぬいぐるみの愛を一心に受け止められる、稀有ともいえる能力の持ち主らしい。私は人形にしてもぬいぐるみにしても、見返りを求められない無垢な愛情をあるがままに受け止めたり、同じような愛情で返す自信がない。玉石を持たない、様々な物質により構成された人や動物の擬態を愛せるかどうか。今回、球体関節人形を知っていろいろ調べた結果、新しく作られてしまった私への課題なのか。まずは棚に放置されっぱなしの、ひとり暮らしの頃に購入したピクルス・フロッグを洗濯して愛し直すことから始めてみよう。そうすることで私自身の心に何かしらの変化が生じるかもしれない。良い変化が生じるか、それとも非現実方向への変化が生じるかは今のところ全く解らない。
現在3月20日になったばかり。
9日付日記を書いた際に、ゲシュタルト知覚のない人にはどう見えるのか、という疑問を呈した。疑問を持ったからには調べずにいられない性分であり、いろいろと検索してみたところ驚くべき事実発覚。この日記のタイトルままに、ゲシュタルト崩壊、という言葉があった。そしてそれは誰にでも起こりうる現象であることを知った。例えば、あ、という文字をじーっと眺めてみる。暫く眺めていると、本当に、あ、ってこんな形の文字だっけ? という感覚に陥る。これをゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい。50%の確率で人がゲシュタルト崩壊に至る迄の眺める時間は約25秒と書かれているサイトもあった。そんな短時間で、人間が持ち合わせている感覚が失われるものなのか。ゲシュタルトという単語は、統合・統一などの意味を持っており、心理学の領域らしい。実際にゲシュタルト崩壊の状態で絵を見るとどのように見えるかを画像で示しているサイトもあり、かなり参考になった。個人的に強いて言えば、ダリやピカソの一部の作品に通ずるところがあるのではないか、との所見。奇形を成した球体関節人形の姿こそが、ゲシュタルト崩壊の実現かもしれないと思った。人間の身体がいろいろなパーツで構成されているように、文字は直線と曲線で構成されている。成程。そう考えれば、ゲシュタルト崩壊は自然な現象で、想像していたよりも遥かに身近なものだ。私は子供の頃から、本に印刷された活字を眺めては、この字は本当にこんな形だったか、という疑問を持った。大概はそこから目を逸らし、軽く頭を振るとゲシュタルト知覚が復活したことを覚えている。大人になり、忙しくなり、崩壊した感覚を忘れていただけだったらしい。またこのようなゲシュタルト〜〜という単語を知らなかったことも一因だろう。内田春菊に「永遠の普通少女」という作品がある。その中で主人公は、からすって本当にからすだっけ? らかすとかすらかじゃなかったっけ? と呟く場面があった。これもゲシュタルト崩壊の一種なのだろうと思われる。
私は文章を書くことと同時に、文字そのものへの愛着がある。単語や文章になっていなくても、単純に文字を書くのが昔から好きだった。そんな私も小学生くらい迄だったか稀に、夜になると文字に脅かされていた。寝ようとして目を閉じる。視界が暗くなる。瞼の裏にひとつのひらがなが描かれ、そのひらがなが段々と大きくなって迫りくるのだ。夢の中の話ではなく、寝付く前の意識がある状態でである。瞼を閉じているときに限らず、遠近感を失って何かしらの対象物が迫りくる感覚があった。そしてその感覚は常に恐怖を伴っていた。ゲシュタルト崩壊について調べていたら、偶然にもこの感覚について書かれたサイトに会った。遠近感の消失などの錯視や時間感覚の狂いは、不思議の国のアリス症候群、と名付けられているようで、私だけが持っていた感覚でないことを知って安心した。というのも、ゲシュタルト崩壊について他者に話をしたときには同意を得られることが多くても、この不思議の国のアリス症候群と呼ばれる感覚について話して他者に同意してもらえたことがなかったのだ。恐怖を伴う感覚に共感を得られず恐怖感だけでなく孤独感にも襲われ、次第に私は不思議の国のアリス症候群の現象について他者に話をしなくなっていった。そしてずっと、私は何処かおかしいのだ、と思い悩んだものだ。昨日やっとこの孤独感から開放された。しかし疑問はまだ残る。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群は何故発生するのだろう。脳生理学の問題なのかな、とは思う。どうやら未だ科学的解明はなされていないらしい。
よくある話。例えば、赤、という色がある。色弱者などを除き果たして他者も自分と同じ、赤、に見えているのか。それともこの世の人間全員、持っている色彩感覚は別個のものなのか。大変に興味深いところであるけれども、どうやら検証は困難なようだ。ここ数日読んでいた日本で起きた有名な犯罪を時系列を追って、ときには犯人の養育歴も含めて書かれたサイトの中に、精神鑑定などに於いて絵を描かせ、その色使いによって精神的な諸々を考える検査の存在があった。紫を多用する子供の精神状態はなんちゃらかんちゃら。そこでこの疑問に立ち返る。紫を多用して絵を描いた子供にとって、紫はその絵を観た人と同じ紫に見えているのだろうか。色にはイメージがある、という通説がある。例えば暖色系なら暖かさをイメージし、寒色系なら冷たさを感じるとか。けれどもどんな色にもニュアンスはある。痛切な印象を与える暖色もあれば、穏やかな印象を与える寒色もある。ひと括りにしてしまうことに、私は強引な印象をもってしまう。皆がひとつの色に対して同じように見える、という前提なくしてこの診断は成り立たない筈だ。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群については簡単に否定してくる他者がいる。色についてはそのようなことは余りない。私の中では、知覚、という括りで擬似的存在なのだけれど違うのだろうか。前に立ち読みした本に、数字や文字や単語に色がついて見える人の話が書かれていた。ノンフィクションだ。生まれ持っての性質であるらしい。この感覚を持つ者は極少数で、またこの感覚を持っていながらにしても文字通り十人十色の着色がなされているとのこと。それを思い出すと、やはり、知覚、として上記感覚は切り離せないように思う。極一部なら無視していいということはない筈で、極一部だからこそ重視すべき点ではなかろうか。
ゲシュタルト崩壊に話を戻す。手をじっと見つめているとパーツが浮き上がって見えてきて怖いというような話を以前書いた。この怖さの理由は長年解らなかったけれど、ゲシュタルト崩壊、という単語を知ったことで理解できるようになった気がする。以前は、ゲシュタルト知覚のない人、という書き方をした。これはこの単語を知らなかったからだ。ゲシュタルトの意味を知り、ゲシュタルトに知覚・崩壊という言葉をつけて意味を成す。近くはともかく、崩壊、という単語は怖い。崩れた上に壊れるのだから怖くない筈がない。いや、中には平気な人もいるのかもしれないけれど、少なくとも私には恐怖だ。ゲシュタルト崩壊は、自分の知覚にへの自信喪失を招く。百聞は一見にしかず、という言葉がある。意味は解説する迄もないだろう。そして私はこの言葉を半分程信用している。半分なのは、目で見たものが全てではない、と思っているからだ。この信用度は幼少期のゲシュタルト崩壊の頻発や不思議の国のアリス症候群の兆しに繋がると思うのだが、どうだろう。識者に聞いてみたいところだが、その識者が実際に私と同じような知覚の狂いを経験しておらず、机上の知識のみで話をするとなると必ずやズレが生じてくると思われる。またこのような知覚の狂いとて、先に挙げた文字や単語に色を見出す人々と同じく、皆が私と同じ様式で知覚の狂いを認識しているとは限らない。下手をすると謎が謎を呼んで余計に困惑するかもしれない。この問題に出口はあるのか。私はその、あるかもしれない出口、に是非とも出会いたいと願っている。
9日付日記を書いた際に、ゲシュタルト知覚のない人にはどう見えるのか、という疑問を呈した。疑問を持ったからには調べずにいられない性分であり、いろいろと検索してみたところ驚くべき事実発覚。この日記のタイトルままに、ゲシュタルト崩壊、という言葉があった。そしてそれは誰にでも起こりうる現象であることを知った。例えば、あ、という文字をじーっと眺めてみる。暫く眺めていると、本当に、あ、ってこんな形の文字だっけ? という感覚に陥る。これをゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい。50%の確率で人がゲシュタルト崩壊に至る迄の眺める時間は約25秒と書かれているサイトもあった。そんな短時間で、人間が持ち合わせている感覚が失われるものなのか。ゲシュタルトという単語は、統合・統一などの意味を持っており、心理学の領域らしい。実際にゲシュタルト崩壊の状態で絵を見るとどのように見えるかを画像で示しているサイトもあり、かなり参考になった。個人的に強いて言えば、ダリやピカソの一部の作品に通ずるところがあるのではないか、との所見。奇形を成した球体関節人形の姿こそが、ゲシュタルト崩壊の実現かもしれないと思った。人間の身体がいろいろなパーツで構成されているように、文字は直線と曲線で構成されている。成程。そう考えれば、ゲシュタルト崩壊は自然な現象で、想像していたよりも遥かに身近なものだ。私は子供の頃から、本に印刷された活字を眺めては、この字は本当にこんな形だったか、という疑問を持った。大概はそこから目を逸らし、軽く頭を振るとゲシュタルト知覚が復活したことを覚えている。大人になり、忙しくなり、崩壊した感覚を忘れていただけだったらしい。またこのようなゲシュタルト〜〜という単語を知らなかったことも一因だろう。内田春菊に「永遠の普通少女」という作品がある。その中で主人公は、からすって本当にからすだっけ? らかすとかすらかじゃなかったっけ? と呟く場面があった。これもゲシュタルト崩壊の一種なのだろうと思われる。
私は文章を書くことと同時に、文字そのものへの愛着がある。単語や文章になっていなくても、単純に文字を書くのが昔から好きだった。そんな私も小学生くらい迄だったか稀に、夜になると文字に脅かされていた。寝ようとして目を閉じる。視界が暗くなる。瞼の裏にひとつのひらがなが描かれ、そのひらがなが段々と大きくなって迫りくるのだ。夢の中の話ではなく、寝付く前の意識がある状態でである。瞼を閉じているときに限らず、遠近感を失って何かしらの対象物が迫りくる感覚があった。そしてその感覚は常に恐怖を伴っていた。ゲシュタルト崩壊について調べていたら、偶然にもこの感覚について書かれたサイトに会った。遠近感の消失などの錯視や時間感覚の狂いは、不思議の国のアリス症候群、と名付けられているようで、私だけが持っていた感覚でないことを知って安心した。というのも、ゲシュタルト崩壊について他者に話をしたときには同意を得られることが多くても、この不思議の国のアリス症候群と呼ばれる感覚について話して他者に同意してもらえたことがなかったのだ。恐怖を伴う感覚に共感を得られず恐怖感だけでなく孤独感にも襲われ、次第に私は不思議の国のアリス症候群の現象について他者に話をしなくなっていった。そしてずっと、私は何処かおかしいのだ、と思い悩んだものだ。昨日やっとこの孤独感から開放された。しかし疑問はまだ残る。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群は何故発生するのだろう。脳生理学の問題なのかな、とは思う。どうやら未だ科学的解明はなされていないらしい。
よくある話。例えば、赤、という色がある。色弱者などを除き果たして他者も自分と同じ、赤、に見えているのか。それともこの世の人間全員、持っている色彩感覚は別個のものなのか。大変に興味深いところであるけれども、どうやら検証は困難なようだ。ここ数日読んでいた日本で起きた有名な犯罪を時系列を追って、ときには犯人の養育歴も含めて書かれたサイトの中に、精神鑑定などに於いて絵を描かせ、その色使いによって精神的な諸々を考える検査の存在があった。紫を多用する子供の精神状態はなんちゃらかんちゃら。そこでこの疑問に立ち返る。紫を多用して絵を描いた子供にとって、紫はその絵を観た人と同じ紫に見えているのだろうか。色にはイメージがある、という通説がある。例えば暖色系なら暖かさをイメージし、寒色系なら冷たさを感じるとか。けれどもどんな色にもニュアンスはある。痛切な印象を与える暖色もあれば、穏やかな印象を与える寒色もある。ひと括りにしてしまうことに、私は強引な印象をもってしまう。皆がひとつの色に対して同じように見える、という前提なくしてこの診断は成り立たない筈だ。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群については簡単に否定してくる他者がいる。色についてはそのようなことは余りない。私の中では、知覚、という括りで擬似的存在なのだけれど違うのだろうか。前に立ち読みした本に、数字や文字や単語に色がついて見える人の話が書かれていた。ノンフィクションだ。生まれ持っての性質であるらしい。この感覚を持つ者は極少数で、またこの感覚を持っていながらにしても文字通り十人十色の着色がなされているとのこと。それを思い出すと、やはり、知覚、として上記感覚は切り離せないように思う。極一部なら無視していいということはない筈で、極一部だからこそ重視すべき点ではなかろうか。
ゲシュタルト崩壊に話を戻す。手をじっと見つめているとパーツが浮き上がって見えてきて怖いというような話を以前書いた。この怖さの理由は長年解らなかったけれど、ゲシュタルト崩壊、という単語を知ったことで理解できるようになった気がする。以前は、ゲシュタルト知覚のない人、という書き方をした。これはこの単語を知らなかったからだ。ゲシュタルトの意味を知り、ゲシュタルトに知覚・崩壊という言葉をつけて意味を成す。近くはともかく、崩壊、という単語は怖い。崩れた上に壊れるのだから怖くない筈がない。いや、中には平気な人もいるのかもしれないけれど、少なくとも私には恐怖だ。ゲシュタルト崩壊は、自分の知覚にへの自信喪失を招く。百聞は一見にしかず、という言葉がある。意味は解説する迄もないだろう。そして私はこの言葉を半分程信用している。半分なのは、目で見たものが全てではない、と思っているからだ。この信用度は幼少期のゲシュタルト崩壊の頻発や不思議の国のアリス症候群の兆しに繋がると思うのだが、どうだろう。識者に聞いてみたいところだが、その識者が実際に私と同じような知覚の狂いを経験しておらず、机上の知識のみで話をするとなると必ずやズレが生じてくると思われる。またこのような知覚の狂いとて、先に挙げた文字や単語に色を見出す人々と同じく、皆が私と同じ様式で知覚の狂いを認識しているとは限らない。下手をすると謎が謎を呼んで余計に困惑するかもしれない。この問題に出口はあるのか。私はその、あるかもしれない出口、に是非とも出会いたいと願っている。
現在3月17日。
壁などのシミが人の顔を象っているように見える。勝手に脳の中でシミを目や鼻や口に見立ててしまう。これがゲシュタルト知覚だ。人形の実物や写真を眺めているうちに私は、何故これらがヒトに見えるのか、と考えた。人形の素材は磁器であり硝子であり、その他諸々いろいろな素材だ。頭の中では、人間を模して作られた物なのだから人間に見えて当然、とも思う。けれど、ふと思いついた。もしかして人形という物は、ヒトの持つゲシュタルト知覚を利用している物ではなかろうか。何故硝子が瞳に見えるのかというと、ヒトの顔の目に位置するところにその硝子が嵌め込まれているからだ。これは「・_・」の「・」が目に見えてしまうことや「_」が口に見えてしまうこととどう違うのだろう。「・」に該当するところに硝子が嵌め込まれている。硝子の放つ光や存在感が、より目のように見えてしまう。もしかしてそれだけのことではなかろうか。例えば、一体の人形の中で普段は目に使う硝子が、他の場所に瞼のような物も作らずに嵌め込まれていたとする。果たしてヒトはその硝子を見て、ここにも目がついている、と瞬時に理解できるか。できないのではなかろうか。こんな私の考えが、人形とゲシュタルト知覚を結びつけた。関節球体人形は、基本的にその球体である関節を外してバラバラにできる。例えば、膝の関節と足首の関節を解体する。残るのは脛と脹脛を模した磁器なりなんなりの微妙な曲線で作られた物体だ。この物体がころんとその辺に転がされていたとする。それをすぐに脚だと思えるか。私は、思えないような気がする。傍に他の人形を構成する足首からしたや腕や顔などの部品があり、そこでやっと、これは脚を構成する部品ではなかろうか、という発想に結びつくのではないかと思う。壁に「・」というシミがひとつだけあったとして、これを目だと思う人はまずいなかろう。それと同義だと考えたのだ。
様々な物質を捏ね繰り回して接続して、人形は作られる。球体関節人形から少し離れる。粘土を用いてヒトを作るとしよう。手元にあるのは一塊の粘土だ。この粘土にヒトを見出す人はまずいまい。それが作者の手で粘土が千切られ、捏ねて伸ばされ、徐々に人間らしき形になってゆく。その様は粘土の塊から手足が生えて首が乗せられたかのように見え、更に手を加えていくとヒトに見えてくる。それでも元は粘土でしかない。意図的にヒトの持つゲシュタルト知覚を刺激し、ゲシュタルト知覚を利用して人形に見せること。こんな人為的作業が人形の基本ではなかろうか。絵画でも同じである。この日記で尤も表しやすいのは上記のようなアスキーアートと呼ばれる記号で以ってヒトに見せかける物だと思うので、それを利用しつつ考えたい。(・・)←これは()が輪郭であり、・・が目に見えるだろう。しかし今バラしたように、実態は()であり・・でしかない。それでもヒトに見えるのは、人間がよく目にする人間の顔に(・・)が似ているように見えるという、認知に頼ったものだからだ。その精巧な物が人形ではなかろうか、というのが私の仮説である。私の仮説、と書いたけれどもしかしたら他にも同じことを考えたり、とうの昔にこの説を立証している人もいるかもしれない。けれどその手の話を見聞きしたことはないので、私の仮説(仮)としておく。
人形に魅入られ、それはもう寝ても覚めてもいろんなことを考えた。何故人形に魅入られるのか。美しい物はこの世に沢山ある。そこらに咲く花も美しいし、夜空に浮かぶ月も美しい。けれど私はそれらに魅入られはしない。人形の美しさは、私の中では格別の輝きを持っている。ヒトが最も美しく感じる顔は、左右対称の顔だという。だからだろうか。花や月は見える限り、左右対象ではない。精巧な人形は、左右対称であることが多い。しかしこれでは納得しかねる。ベルメールを始めとする左右対象ではない人形にも惹かれてしまう理由と矛盾するからだ。左右対称ではなくとも美しい物は存在する。これは確実に言えることだろう。球体関節人形展のコピー、人は何故自分の似姿を作りたがるのか。人間にとって、やはり人間の姿というものは格別なのか。四谷シモンが面白いことを言っていた。概要。初心者に人形を作らせると、まず自分の顔や姿に似た物を作る。この世の誰もが自分の顔や姿に満足している筈はない。それは化粧や整形、ファッションにこうも人の興味が集まることの理由にならないからだ。自分の不足を補いたくて、人はこれらに興味を持つ。自分に似た人形を作った人の作品を見たことはないけれど、恐らくかなりの美化をされているであろうことは予想ができる。美化をした上で、自分の特徴、自覚できる長所や自分でも好きな自分の特徴を盛り込んで人形を作るものと思われる。これもゲシュタルト知覚の利用ではなかろうか。まず作成者が五体満足であることを前提とする。そして五体満足の人形を作成する。ここで基本は外れなくなる。生まれたばかりの赤ん坊を見て、親や祖父母が猿同然の子供を見て、ここが自分に似ている、ここは誰それに似ている、という会話を交わすことは珍しくない。それは、見ようによってはそう見える、の粋をまず出ない。ここにひとつのヒントがある気がする。
ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間も、必ずやいると思われる。そういう人間に、人形はどう見えるのか。これが今の私の一番興味深い点である。壁のシミはただのシミとしか認識できないだろう。だけれど、明らかにヒトを模した人形は? ヒトを模していてもいろんな物質の集大成である人形。意図的に人の顔を模した訳ではないシミと意図的にヒトを模した人形。どう違うのか。この人為的行動が、ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にどう映るのか。生憎、私の身近にゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間はいないので答えは解らない。そんな人間に出会えば、私のこの疑問は速やかに解決されるように思われる。ゲシュタルト知覚に頼らずとも人形は人形としての存在が認められるのか。ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にも人形は作れるのか。気になって仕方がない。
壁などのシミが人の顔を象っているように見える。勝手に脳の中でシミを目や鼻や口に見立ててしまう。これがゲシュタルト知覚だ。人形の実物や写真を眺めているうちに私は、何故これらがヒトに見えるのか、と考えた。人形の素材は磁器であり硝子であり、その他諸々いろいろな素材だ。頭の中では、人間を模して作られた物なのだから人間に見えて当然、とも思う。けれど、ふと思いついた。もしかして人形という物は、ヒトの持つゲシュタルト知覚を利用している物ではなかろうか。何故硝子が瞳に見えるのかというと、ヒトの顔の目に位置するところにその硝子が嵌め込まれているからだ。これは「・_・」の「・」が目に見えてしまうことや「_」が口に見えてしまうこととどう違うのだろう。「・」に該当するところに硝子が嵌め込まれている。硝子の放つ光や存在感が、より目のように見えてしまう。もしかしてそれだけのことではなかろうか。例えば、一体の人形の中で普段は目に使う硝子が、他の場所に瞼のような物も作らずに嵌め込まれていたとする。果たしてヒトはその硝子を見て、ここにも目がついている、と瞬時に理解できるか。できないのではなかろうか。こんな私の考えが、人形とゲシュタルト知覚を結びつけた。関節球体人形は、基本的にその球体である関節を外してバラバラにできる。例えば、膝の関節と足首の関節を解体する。残るのは脛と脹脛を模した磁器なりなんなりの微妙な曲線で作られた物体だ。この物体がころんとその辺に転がされていたとする。それをすぐに脚だと思えるか。私は、思えないような気がする。傍に他の人形を構成する足首からしたや腕や顔などの部品があり、そこでやっと、これは脚を構成する部品ではなかろうか、という発想に結びつくのではないかと思う。壁に「・」というシミがひとつだけあったとして、これを目だと思う人はまずいなかろう。それと同義だと考えたのだ。
様々な物質を捏ね繰り回して接続して、人形は作られる。球体関節人形から少し離れる。粘土を用いてヒトを作るとしよう。手元にあるのは一塊の粘土だ。この粘土にヒトを見出す人はまずいまい。それが作者の手で粘土が千切られ、捏ねて伸ばされ、徐々に人間らしき形になってゆく。その様は粘土の塊から手足が生えて首が乗せられたかのように見え、更に手を加えていくとヒトに見えてくる。それでも元は粘土でしかない。意図的にヒトの持つゲシュタルト知覚を刺激し、ゲシュタルト知覚を利用して人形に見せること。こんな人為的作業が人形の基本ではなかろうか。絵画でも同じである。この日記で尤も表しやすいのは上記のようなアスキーアートと呼ばれる記号で以ってヒトに見せかける物だと思うので、それを利用しつつ考えたい。(・・)←これは()が輪郭であり、・・が目に見えるだろう。しかし今バラしたように、実態は()であり・・でしかない。それでもヒトに見えるのは、人間がよく目にする人間の顔に(・・)が似ているように見えるという、認知に頼ったものだからだ。その精巧な物が人形ではなかろうか、というのが私の仮説である。私の仮説、と書いたけれどもしかしたら他にも同じことを考えたり、とうの昔にこの説を立証している人もいるかもしれない。けれどその手の話を見聞きしたことはないので、私の仮説(仮)としておく。
人形に魅入られ、それはもう寝ても覚めてもいろんなことを考えた。何故人形に魅入られるのか。美しい物はこの世に沢山ある。そこらに咲く花も美しいし、夜空に浮かぶ月も美しい。けれど私はそれらに魅入られはしない。人形の美しさは、私の中では格別の輝きを持っている。ヒトが最も美しく感じる顔は、左右対称の顔だという。だからだろうか。花や月は見える限り、左右対象ではない。精巧な人形は、左右対称であることが多い。しかしこれでは納得しかねる。ベルメールを始めとする左右対象ではない人形にも惹かれてしまう理由と矛盾するからだ。左右対称ではなくとも美しい物は存在する。これは確実に言えることだろう。球体関節人形展のコピー、人は何故自分の似姿を作りたがるのか。人間にとって、やはり人間の姿というものは格別なのか。四谷シモンが面白いことを言っていた。概要。初心者に人形を作らせると、まず自分の顔や姿に似た物を作る。この世の誰もが自分の顔や姿に満足している筈はない。それは化粧や整形、ファッションにこうも人の興味が集まることの理由にならないからだ。自分の不足を補いたくて、人はこれらに興味を持つ。自分に似た人形を作った人の作品を見たことはないけれど、恐らくかなりの美化をされているであろうことは予想ができる。美化をした上で、自分の特徴、自覚できる長所や自分でも好きな自分の特徴を盛り込んで人形を作るものと思われる。これもゲシュタルト知覚の利用ではなかろうか。まず作成者が五体満足であることを前提とする。そして五体満足の人形を作成する。ここで基本は外れなくなる。生まれたばかりの赤ん坊を見て、親や祖父母が猿同然の子供を見て、ここが自分に似ている、ここは誰それに似ている、という会話を交わすことは珍しくない。それは、見ようによってはそう見える、の粋をまず出ない。ここにひとつのヒントがある気がする。
ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間も、必ずやいると思われる。そういう人間に、人形はどう見えるのか。これが今の私の一番興味深い点である。壁のシミはただのシミとしか認識できないだろう。だけれど、明らかにヒトを模した人形は? ヒトを模していてもいろんな物質の集大成である人形。意図的に人の顔を模した訳ではないシミと意図的にヒトを模した人形。どう違うのか。この人為的行動が、ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にどう映るのか。生憎、私の身近にゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間はいないので答えは解らない。そんな人間に出会えば、私のこの疑問は速やかに解決されるように思われる。ゲシュタルト知覚に頼らずとも人形は人形としての存在が認められるのか。ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にも人形は作れるのか。気になって仕方がない。
ハンス・ベルメールの仕事
2004年3月8日 本・映画・音楽など 現在10日日中。
ヒットラー率いるナチス全盛、芸術規制により逆に多くの芸術が生み出された。芸術を生み出す人は芸術家。ハンス・ベルメールもそのひとりである。シュール・レアリズムの括りに入るらしい。ベルメールの名を知ったのはほんの数日前……だと思ったけれど、どうも記憶の彼方に放置されていたらしい。というのも、ベルメールとその作品について調べていくと、随所に澁澤龍彦の名が出てきたのだ。どうやら学生時代に読み漁った澁澤が何本ものエッセイでベルメールについて語っていたらしい。それならば絶対に何処かでベルメールの名を目にした筈であり、エッセイの数本は読んでいた筈だ。なのに記憶の引出しを探らなければならなかったのは、私が澁澤に入ったきっかけがマルキ・ド・サドであり、読み漁っていた当時はサドの名ばかりを追っていてベルメールをスルーしてしまっていたからだろう。なんて勿体無いことをしていたのか。それとも当時ベルメールをスルーしたのは防衛本能が働いたのか。サドにしてもベルメールにしても芸術的観点からしたらバッド・テイストなものだろう。それが文章かそれ以外の表現方法かの違いであり、サドとベルメールには通じるところがあると、私は思う。私の視点からすれば、両者共に加虐趣味だ。
ベルメールは球体関節人形を作った人。そして比較的早くから、澁澤以前からも日本に紹介されていた芸術家である。澁澤は一部の者しか知らなかったベルメールの作品と名をより広めた功績者である。澁澤はベルメールを人形師として取り上げた。そして澁澤を通してベルメールを知った日本人が球体関節人形を作り始めた。その代表者が四谷シモンであり、私が人形師として四谷シモンの名を何故知っていたかがここで紐解けた。それはそうとして、或るサイトで澁澤の功罪を論じていた。功は日本で球体関節人形を発展させたこと、罪はベルメールを人形師として取り上げたこと。さて、私はこの日記の中でベルメールを芸術家と書いている。それはベルメールの遺した仕事の幅が広いからだ。絵画・版画・写真、そして人形造形。ベルメールの最初の作品は、写真集だ。内容は人形を作る過程・工程を写真に収めた物。そこに澁澤との軋轢が見つかる。澁澤はベルメールを人形師として見た。ということは、ベルメールの仕事の終点は人形の完成なのか。仮に人形の完成が終点であるならば、製作過程・工程、先は稼動させた写真は不要であっただろう。そして私の疑問が発生した。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。ベルメールにとっての終点は解らないけれど、人形の完成が終点ではないことが想像できる。写真集の発刊や人形を撮影した写真に着色していることがこの想像の根拠である。
私が知る限り、ベルメールの作った人形は全て異形だ。頭のてっぺんから足の先迄全て、人間の形、を模した物はなかった。ベルメールが人形作りをしていた時代は、造形と解剖が急速に発展していた時代であるらしい。造形と解剖は紙一重であり、ベルメールの人形はそんな時代の混沌の象徴と言える気もする。人間を構成するパーツを分解≠解剖し、そのパーツを再構築。再構築に要するのはひとつの人間のパーツだけではなく、複数の人間のパーツを用いたりする。そんなベルメールの人形を見て、改めて自分の体を見る。関節毎に、内臓毎に、血管毎に、私の身体はパーツに分解できる。そして子供の頃の恐怖心を思い出す。私はヒトの手が怖かった。自分の手も怖かった。手は足よりも目に付く場所に設置されており、稼動する回数も足の指の比ではない。漠然と怖かった昔を思い出しつつ今、その恐怖の理由を考えた。手を手首から先の物と定義して、見る。小さい。その小さな面積と体積の中に20程の関節が備わっている。こんな箇所、身体の他のパーツにはない。しかもそれら関節が実によく動く。こうして日記をタイピングしている今このときもフル稼働だ。タイピングの最中、意識は手にない。表面化の意識は今考えていることを文章化することに集中しており、その意識が指先に信号を出している。ふと手を止め、同時に文章化という作業を放置する。そして手を見る。親指から小指迄、順に意識をして関節を曲げてみる。その様を凝視。不気味だ。身体の中の何処かを何かが通って手指を動かしていることを実感する。何処を、何が、通っているのかは知識でしか知らず、見てはいない。ずっと動かすこととその動きを意識しつつ見ていると、果たしてこの動きは本当に自分の脳が命令して動かしているのか、それとも違う何かが動かしているのか判らなくなる。これは、本当に怖い。
こんな怖さを凝縮した物がベルメールの人形だ。自分の身体を信用できなくなる。たまたまパーツがあるべきところにあるべき姿でついているだけで、これが自分の本当の本来の姿なのか懐疑心を抱いてしまう。抱かされてしまう。脚と腹部球体関節だけで構成されたベルメールの作品がある。乳房だけで構成された作品もある。これらも人形と呼ばれている。人形? 全体像として人の形を成していなくても人形? ならば人とは? 脚だけで、乳房だけで人と呼べてしまうのか? 人とされており、自分でもヒトと認識できている自分の姿形の意味を問う。意義も問う。答えは出ない。人≠ヒトは脳が司っている物ではないのか。脳の所在無くして人≠ヒトとしていいのか。そこで問われるのは自分の持つ人≠ヒトの形の概念であり、倫理だ。ベルメールの人形が、オブジェとのみ呼ばれるのなら、すんなりと納得できる。しかし彼の作った、人形、を私は人形として受け入れることができるかとなると、引っ掛かりを覚える。人形、という言葉の定義が解らなくなる。因って私の中ではベルメール=写真家・画家・版画家という肩書きがしっくりときて、人形師と言われると違和感が纏わりつく。ベルメールの人形は暴力的だ。人の破壊衝動の擬似体現とも思える。そこで疑問。ベルメールが日本の球体関節人形の祖とするならば、人形師の仕事の終点とは。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。
BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
ヒットラー率いるナチス全盛、芸術規制により逆に多くの芸術が生み出された。芸術を生み出す人は芸術家。ハンス・ベルメールもそのひとりである。シュール・レアリズムの括りに入るらしい。ベルメールの名を知ったのはほんの数日前……だと思ったけれど、どうも記憶の彼方に放置されていたらしい。というのも、ベルメールとその作品について調べていくと、随所に澁澤龍彦の名が出てきたのだ。どうやら学生時代に読み漁った澁澤が何本ものエッセイでベルメールについて語っていたらしい。それならば絶対に何処かでベルメールの名を目にした筈であり、エッセイの数本は読んでいた筈だ。なのに記憶の引出しを探らなければならなかったのは、私が澁澤に入ったきっかけがマルキ・ド・サドであり、読み漁っていた当時はサドの名ばかりを追っていてベルメールをスルーしてしまっていたからだろう。なんて勿体無いことをしていたのか。それとも当時ベルメールをスルーしたのは防衛本能が働いたのか。サドにしてもベルメールにしても芸術的観点からしたらバッド・テイストなものだろう。それが文章かそれ以外の表現方法かの違いであり、サドとベルメールには通じるところがあると、私は思う。私の視点からすれば、両者共に加虐趣味だ。
ベルメールは球体関節人形を作った人。そして比較的早くから、澁澤以前からも日本に紹介されていた芸術家である。澁澤は一部の者しか知らなかったベルメールの作品と名をより広めた功績者である。澁澤はベルメールを人形師として取り上げた。そして澁澤を通してベルメールを知った日本人が球体関節人形を作り始めた。その代表者が四谷シモンであり、私が人形師として四谷シモンの名を何故知っていたかがここで紐解けた。それはそうとして、或るサイトで澁澤の功罪を論じていた。功は日本で球体関節人形を発展させたこと、罪はベルメールを人形師として取り上げたこと。さて、私はこの日記の中でベルメールを芸術家と書いている。それはベルメールの遺した仕事の幅が広いからだ。絵画・版画・写真、そして人形造形。ベルメールの最初の作品は、写真集だ。内容は人形を作る過程・工程を写真に収めた物。そこに澁澤との軋轢が見つかる。澁澤はベルメールを人形師として見た。ということは、ベルメールの仕事の終点は人形の完成なのか。仮に人形の完成が終点であるならば、製作過程・工程、先は稼動させた写真は不要であっただろう。そして私の疑問が発生した。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。ベルメールにとっての終点は解らないけれど、人形の完成が終点ではないことが想像できる。写真集の発刊や人形を撮影した写真に着色していることがこの想像の根拠である。
私が知る限り、ベルメールの作った人形は全て異形だ。頭のてっぺんから足の先迄全て、人間の形、を模した物はなかった。ベルメールが人形作りをしていた時代は、造形と解剖が急速に発展していた時代であるらしい。造形と解剖は紙一重であり、ベルメールの人形はそんな時代の混沌の象徴と言える気もする。人間を構成するパーツを分解≠解剖し、そのパーツを再構築。再構築に要するのはひとつの人間のパーツだけではなく、複数の人間のパーツを用いたりする。そんなベルメールの人形を見て、改めて自分の体を見る。関節毎に、内臓毎に、血管毎に、私の身体はパーツに分解できる。そして子供の頃の恐怖心を思い出す。私はヒトの手が怖かった。自分の手も怖かった。手は足よりも目に付く場所に設置されており、稼動する回数も足の指の比ではない。漠然と怖かった昔を思い出しつつ今、その恐怖の理由を考えた。手を手首から先の物と定義して、見る。小さい。その小さな面積と体積の中に20程の関節が備わっている。こんな箇所、身体の他のパーツにはない。しかもそれら関節が実によく動く。こうして日記をタイピングしている今このときもフル稼働だ。タイピングの最中、意識は手にない。表面化の意識は今考えていることを文章化することに集中しており、その意識が指先に信号を出している。ふと手を止め、同時に文章化という作業を放置する。そして手を見る。親指から小指迄、順に意識をして関節を曲げてみる。その様を凝視。不気味だ。身体の中の何処かを何かが通って手指を動かしていることを実感する。何処を、何が、通っているのかは知識でしか知らず、見てはいない。ずっと動かすこととその動きを意識しつつ見ていると、果たしてこの動きは本当に自分の脳が命令して動かしているのか、それとも違う何かが動かしているのか判らなくなる。これは、本当に怖い。
こんな怖さを凝縮した物がベルメールの人形だ。自分の身体を信用できなくなる。たまたまパーツがあるべきところにあるべき姿でついているだけで、これが自分の本当の本来の姿なのか懐疑心を抱いてしまう。抱かされてしまう。脚と腹部球体関節だけで構成されたベルメールの作品がある。乳房だけで構成された作品もある。これらも人形と呼ばれている。人形? 全体像として人の形を成していなくても人形? ならば人とは? 脚だけで、乳房だけで人と呼べてしまうのか? 人とされており、自分でもヒトと認識できている自分の姿形の意味を問う。意義も問う。答えは出ない。人≠ヒトは脳が司っている物ではないのか。脳の所在無くして人≠ヒトとしていいのか。そこで問われるのは自分の持つ人≠ヒトの形の概念であり、倫理だ。ベルメールの人形が、オブジェとのみ呼ばれるのなら、すんなりと納得できる。しかし彼の作った、人形、を私は人形として受け入れることができるかとなると、引っ掛かりを覚える。人形、という言葉の定義が解らなくなる。因って私の中ではベルメール=写真家・画家・版画家という肩書きがしっくりときて、人形師と言われると違和感が纏わりつく。ベルメールの人形は暴力的だ。人の破壊衝動の擬似体現とも思える。そこで疑問。ベルメールが日本の球体関節人形の祖とするならば、人形師の仕事の終点とは。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。
BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
未見映画「イノセンス」から球体関節人形へ
2004年3月7日 本・映画・音楽など 現在10日日中。
7日、うちのが押井守監督最新作「イノセンス」を観てきた。私も誘われたけれど、前作「甲殻機動隊」の内容をすっかり忘れてしまっていた為に辞退。帰宅したうちのは延々と映画の感想を述べていた。この感想がどうにもおかしい。評価が二転三転する。例えば映像はいい、ストーリーはイマイチというような評価変動なら解る。けれど違う。ひとつの要素に対する感想が二転三転するのだ。100人が観れば100通りの感想や解釈や意見が出るだろう。うちのはひとりしかいないのに、10人20人から感想を聞いているような、それくらいに様々な感想が述べられたのだ。これはおかしい。うちのは過去の職歴からして映画を観ることには慣れており、観方も決して下手ではない。むしろ1本のフィルムに対して1度できちんと纏まった感想を述べるだけの能力に長けている。なのにまるで人格がめくるめく入れ替わっているかのような、多様な意見が述べられるのだ。聞いているこちらは戸惑う。さっき言っていたことと今言ったことが違う。何が言いたいのかよく解らない。本人は私がそう指摘する迄、自分の述べていることが矛盾を孕んでいるとは思っていなかったようだ。この日うちのは映画館の他、2箇所に立ち寄ったらしいが、それらの箇所についての感想などは殆ど会話に出てこない。ずーっと映画について話している。これで興味を持つなという方に無理がある。うちのが、もう1度観る、と言うのでそのときに私も同行することにした。
私は映画にしても本にしても、先に粗筋やオチを知ってしまうことに全く抵抗がないので、某巨大掲示板やオフィシャル・サイトなどでできる限りの情報収集をし始めた。十人十色の意見が渦巻く中、映画のモチーフのひとつに惹かれた。人形。球体関節人形。起源を探る。現状を見る。引き込まれる。持っていかれた。手当たり次第に現在の日本の人形師のサイトを覗いた。作られた人形が写真として掲載されている。この数日で何十、何百体の人形の写真を見たことか。その中の一握りに私は持っていかれた。時の概念は消え失せ、心身が分離する。錯覚。人形の中に私の心が宿る。倒錯。一握りの、私を持っていく人形、とそうでない人形の違いは何か。或る人形師曰く、人形は人の鏡。或る人形師曰く、人は何故か自分に似た人形を作る傾向がある。私を持っていく人形は私を映しているのか。私を持っていく人形は私に似ているのか。否、だと思う。精巧で脆くて頑固な人形たちが私を映しているとは思えないし、言う迄もなく私は人形のように美しくはない。持っていかれる、この感覚を他の言葉に置き換えるならば、吸い込まれる、が近そうだ。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な例えがある。私を持っていく人形たちは決して私を吸い込みそうな瞳をしてはいない。逆に私を拒絶しているように思う。人形に拒絶された私は、何故自分が拒絶しているか解らない。人形は私を拒絶している理由を語ってはくれない。拒絶しているのか受容しているのか、その真相も教えてはくれない。人形の真意が知りたくて目を逸らせなくなる。果たして人形に真意はあるのか。それも解らない。真意……私を持っていく人形のどれもに魂が宿っているように思うのかと言われると、胸を張って違うと言える。人形とは物質の集合体として作られた物体だから魂などの存在する余地はない。人形師は、人形は人形でありそれ以上でも以下でもない、と言う。その通りなのだろう。けれど、でも。人形って何? 球体関節人形の存在意義は? 人形の持つ存在感は? 何故、一部の人形が私を、持っていく?
昨日、うちのが文化村で開催されていた球体関節人形の写真展を観てきた。私の、持っていかれる、の感覚が解ってもらえたらしい。その写真展で、球体関節人形展のチラシをもらって持って帰ってきてくれた。そこにヒントがあった。チラシに掲載されている人形の写真は9点。表の1点は別として、裏に並んだ8点に話を絞る。この8点中、私を持っていったのは1点。下段右から2番目にある三輪輝子氏が作った「萌香」。他の7点との違いを考えた。「木枠で出来た少女」は首から下が人間として虚構である。「Fujita doll」は人間としては奇形。「鍵穴」は首から上と腕がないことでやはり虚構。「少女」は縫い目らしきものが見える点でやはり虚構。「Twins’ paradox」も人形師のサイトで先に全体像を観ていた為に虚構。「りんね」は人間というよりも天使を連想させる点でヒトガタから外れる。「人形」は人体解剖模型を虚構に昇華した作品。「萌香」は写真からは人形の、虚構の匂いがしない。更に微笑をたたえている。人間の表情の中で最も他者に感情を読まれない表情は微笑である。他の顔を持つ人形の表情からは、それが正解かどうかは別として、人形の考えに想像が及ぶ。「萌香」だけが何を考えているのか想像できない。何を考えているのか知りたい。理解したい。危険思想かもしれないけれど、彼女の生い立ち、成長の過程迄知りたい。人形だから成長もへったくれもないのに。
日本で球体関節人形が発展するにあたり、ハンス・ベルメールの影響は切り離せない。うちのが「イノセンス」を観てきた日に、球体関節人形展に誘われた。そこに四谷シモンの名があったので行こうと思った。その時点で唯一知っていた人形師の名前が四谷シモンだったという理由以外にはない。元々私は人形が好きではないのだ。怖いから。どうして恐怖や畏怖を感じるのか、自分でも解らない。ただ、私以外にも人形を怖いと思う人は少なくはないらしい。人間の本能のようなものなのだろうか。ならば人形を作ったり愛でたりする人は本能が壊れているのか。答えはきっと、こんな浅はかな考えとは乖離していると思う。そもそも人間とは何なのか。人形を作るのは人間だけである。別の生き物が自らの姿に似せたものを作るなどという話は聞いたことがない。人間だけに許された技術なのか。それとも人間だけが許されざる行為をしているのか。許す・許さないって、誰が? 騙し絵で行けども行けども上り若しくは下りの階段を描いた作品がある。そんな中に今の私はある。
BGM/アルバム「修羅囃子」
7日、うちのが押井守監督最新作「イノセンス」を観てきた。私も誘われたけれど、前作「甲殻機動隊」の内容をすっかり忘れてしまっていた為に辞退。帰宅したうちのは延々と映画の感想を述べていた。この感想がどうにもおかしい。評価が二転三転する。例えば映像はいい、ストーリーはイマイチというような評価変動なら解る。けれど違う。ひとつの要素に対する感想が二転三転するのだ。100人が観れば100通りの感想や解釈や意見が出るだろう。うちのはひとりしかいないのに、10人20人から感想を聞いているような、それくらいに様々な感想が述べられたのだ。これはおかしい。うちのは過去の職歴からして映画を観ることには慣れており、観方も決して下手ではない。むしろ1本のフィルムに対して1度できちんと纏まった感想を述べるだけの能力に長けている。なのにまるで人格がめくるめく入れ替わっているかのような、多様な意見が述べられるのだ。聞いているこちらは戸惑う。さっき言っていたことと今言ったことが違う。何が言いたいのかよく解らない。本人は私がそう指摘する迄、自分の述べていることが矛盾を孕んでいるとは思っていなかったようだ。この日うちのは映画館の他、2箇所に立ち寄ったらしいが、それらの箇所についての感想などは殆ど会話に出てこない。ずーっと映画について話している。これで興味を持つなという方に無理がある。うちのが、もう1度観る、と言うのでそのときに私も同行することにした。
私は映画にしても本にしても、先に粗筋やオチを知ってしまうことに全く抵抗がないので、某巨大掲示板やオフィシャル・サイトなどでできる限りの情報収集をし始めた。十人十色の意見が渦巻く中、映画のモチーフのひとつに惹かれた。人形。球体関節人形。起源を探る。現状を見る。引き込まれる。持っていかれた。手当たり次第に現在の日本の人形師のサイトを覗いた。作られた人形が写真として掲載されている。この数日で何十、何百体の人形の写真を見たことか。その中の一握りに私は持っていかれた。時の概念は消え失せ、心身が分離する。錯覚。人形の中に私の心が宿る。倒錯。一握りの、私を持っていく人形、とそうでない人形の違いは何か。或る人形師曰く、人形は人の鏡。或る人形師曰く、人は何故か自分に似た人形を作る傾向がある。私を持っていく人形は私を映しているのか。私を持っていく人形は私に似ているのか。否、だと思う。精巧で脆くて頑固な人形たちが私を映しているとは思えないし、言う迄もなく私は人形のように美しくはない。持っていかれる、この感覚を他の言葉に置き換えるならば、吸い込まれる、が近そうだ。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な例えがある。私を持っていく人形たちは決して私を吸い込みそうな瞳をしてはいない。逆に私を拒絶しているように思う。人形に拒絶された私は、何故自分が拒絶しているか解らない。人形は私を拒絶している理由を語ってはくれない。拒絶しているのか受容しているのか、その真相も教えてはくれない。人形の真意が知りたくて目を逸らせなくなる。果たして人形に真意はあるのか。それも解らない。真意……私を持っていく人形のどれもに魂が宿っているように思うのかと言われると、胸を張って違うと言える。人形とは物質の集合体として作られた物体だから魂などの存在する余地はない。人形師は、人形は人形でありそれ以上でも以下でもない、と言う。その通りなのだろう。けれど、でも。人形って何? 球体関節人形の存在意義は? 人形の持つ存在感は? 何故、一部の人形が私を、持っていく?
昨日、うちのが文化村で開催されていた球体関節人形の写真展を観てきた。私の、持っていかれる、の感覚が解ってもらえたらしい。その写真展で、球体関節人形展のチラシをもらって持って帰ってきてくれた。そこにヒントがあった。チラシに掲載されている人形の写真は9点。表の1点は別として、裏に並んだ8点に話を絞る。この8点中、私を持っていったのは1点。下段右から2番目にある三輪輝子氏が作った「萌香」。他の7点との違いを考えた。「木枠で出来た少女」は首から下が人間として虚構である。「Fujita doll」は人間としては奇形。「鍵穴」は首から上と腕がないことでやはり虚構。「少女」は縫い目らしきものが見える点でやはり虚構。「Twins’ paradox」も人形師のサイトで先に全体像を観ていた為に虚構。「りんね」は人間というよりも天使を連想させる点でヒトガタから外れる。「人形」は人体解剖模型を虚構に昇華した作品。「萌香」は写真からは人形の、虚構の匂いがしない。更に微笑をたたえている。人間の表情の中で最も他者に感情を読まれない表情は微笑である。他の顔を持つ人形の表情からは、それが正解かどうかは別として、人形の考えに想像が及ぶ。「萌香」だけが何を考えているのか想像できない。何を考えているのか知りたい。理解したい。危険思想かもしれないけれど、彼女の生い立ち、成長の過程迄知りたい。人形だから成長もへったくれもないのに。
日本で球体関節人形が発展するにあたり、ハンス・ベルメールの影響は切り離せない。うちのが「イノセンス」を観てきた日に、球体関節人形展に誘われた。そこに四谷シモンの名があったので行こうと思った。その時点で唯一知っていた人形師の名前が四谷シモンだったという理由以外にはない。元々私は人形が好きではないのだ。怖いから。どうして恐怖や畏怖を感じるのか、自分でも解らない。ただ、私以外にも人形を怖いと思う人は少なくはないらしい。人間の本能のようなものなのだろうか。ならば人形を作ったり愛でたりする人は本能が壊れているのか。答えはきっと、こんな浅はかな考えとは乖離していると思う。そもそも人間とは何なのか。人形を作るのは人間だけである。別の生き物が自らの姿に似せたものを作るなどという話は聞いたことがない。人間だけに許された技術なのか。それとも人間だけが許されざる行為をしているのか。許す・許さないって、誰が? 騙し絵で行けども行けども上り若しくは下りの階段を描いた作品がある。そんな中に今の私はある。
BGM/アルバム「修羅囃子」
現在10日日中。
遡るは1年半程前のこと。某巨大掲示板住人が頑張っている某プロジェクト参加者の一部が都内某所にてオフ会を開いた。某所某公園にて各自要らないPCパーツを持ち寄って自作機を作ろう、そして作られたPCを女性優先で差し上げましょう。当時の私が使っていたPCはガタがきたFMVのノート。某プロジェクトに参加するにも、1リザルト提出に凡そ10日を要するような低スペックな代物。現在は我が家で、板、と呼ばれて放置されている。放置されているということは使われていない訳であり、私のメイン機はそのオフで頂戴したPCである。そのとき完成した自作機の中で2番目に良い物だった。PC頂戴にあたっての条件、それは基本的にPCを24時間稼動させること。このプロジェクトは白血病解析であり、PC稼動中の余力を使って宿題を解析・提出して、まあヒトは何もせずとも人類の白血病患者の今後の為に役に立ちましょうよ、というものだ。上記条件でP4機なんて身に余る素晴らしいPCを戴けてしまい、条件通りに再起動時や数日留守にするとき以外は就寝中であろうが出掛けていようがPCフル稼働させていた訳で、身に余る素晴らしいPC故にいろんなものをDLしたりうぷしたりと使いに使い込み、2月29日付日記のように……逝った。
PCに依存している私としては困り果てて取り敢えずうちのの現在のメインPCから1年半前のオフ幹事のサイトに助けを求めた。電源が入りません、と。この時点で後日幹事氏が、十字軍、と名付けたPC復旧の為の勇者が集まり始めた。勇者以外にもマザーボード提供を申し出てくださる方もいて皆に多謝。そして話は6日に飛ぶ。都内某所に集合した十字軍の方々をお迎えに行き、タクシーで我が家へ。汚部屋に入ってもらいPCタワー解体。原因はやはりマザーボードのコンデンサ。瞬く間に居間兼寝室が工場と化した。まずはPC内部の掃除から。24時間稼動の場合、3ヶ月に1度は掃除推奨らしい。マトモなPC稼働時間でも年に1度は掃除した方がいいとか。それでも私なりに掃除をしたつもりだった。けれど所詮は素人であり、何処を何処迄バラして掃除していいものか判らず、結局は全体にエアダスターを噴射して出てきた埃を払う程度。その道に精通した十字軍の方々は各部をバラして外へ。それはもう土に見紛うような埃がめっさ出たとか。恥ずかしい限り。更に恥ずかしかったのはタワーの内側変色。私は熱で焼けたんだなあ、くらいにしか思っていなかったけれど正体は脂だった。十字軍は非喫煙者で構成されており、これまた赤面物。今回の解体で今迄よりも少しだけ中のことが判ったので、今後はもう少しマシな掃除をしようと僅かに決意した。
さて問題のマザーボードのコンデンサ。私の目視による問題箇所は液漏れが3本のみだったけれど、実際には5本。そして液漏れだけでなく膨張も発生していた。私の思う、膨張、とは10年物や20年物の缶詰のような全体的膨張であり、付け根のところの部分的膨張迄はチェックしていなかったのだ。言い訳させてもらうと、コンデンサは指で少し触っただけで揺れ動く接着になっており、何処迄倒して目視確認していいかの判断ができず、液漏れ3本というのはコンデンサに触れずに目視した段階でのことだったのだ。十字軍の方々は画像を撮ったり小動物らを愛でたりしつつも素早くコンデンサを交換してくださった。5本を交換し終えて動作チェック……の最中、電源が逝った。急遽電源そのものを買出しに行ってくださり、電源は重くてナンボ、と教えていただきつつ新電源で再度動作チェック……をした途端にマザーボードそのものが逝った。要するに、あちこちにガタがきていたのだ。それに気付かず騙し騙し使い続けてしまっていたことでガタに拍車をかけ、遂には十字軍の方々にも手に負えなくなってしまった次第。無知は罪。逝った悲しみに私は半ば放心。そんな私を余所目に十字軍の方々はその後の呑み会に行くべくチャッチャカと後始末。私はドクターストップにつき呑めないことと前日徹夜していたことから、呑みはうちのに任せて軽食を摂り就寝。
この日、修理されるマザーボードをまじまじと見ていた訳だが、十字軍の方々と私のマザーボードの見方は全く違っていた。様々な回路や部品で構成されているマザーボード。十字軍の方々はそれら回路や部品の意味を当然の如く把握されていた。うちのも大体は理解できていた。全く何が何やらなのは私ひとり。その私が見たマザーボードは宛ら、レゴブロックで作られた工場のある町、だった。ファン(?)は工場本体、その隣の長細いのは塀、端に並んだ幾つかの四角い立体は事務所、など。レゴブロックに見えた私としては、事務所の一軒が金属なのが非常に不満だった。他の事務所はプラスチックなのに何故この一軒だけがそうではないのか。統一性がないではないか。勿論、マザーボードはレゴブロックではないし、マザーボードとして機能する上で部品の外観はどうでもいいことである。ただ、未知なる世界を垣間見た原始人がソレをソレとどうして理解できようか。私には各部の持つ意味が解らず、強いてPCと結びつけるならばシンクタンクを模した箱庭か。
子供の頃、電化製品や電気器具が気味悪かった。各々の役割は理解できている。テレビはアンテナで電波で映像や音声を受信してブラウン管に映す物、掃除機はコンセントとプラグで電力を引いてゴミや塵埃を吸い取る物。しかしその構造が解らない。何故この機械がそのようなことができるのか。箱の中を知らずに、何も疑問を持たずに、文明の利器の数々を使用・利用して生活することが恐怖だった。自分の周辺の物の全ての理屈を理解したくて堪らなかったのだ。だからといって何ひとつとして分解はしなかった。分解したところで、今回のマザーボードと同じく私に各部品の役割が理解できるとは思えなかったし、分解後に再構築できるとも思えなかったから。現にマザーボードの修理過程を終始見学させてもらい、更に詳しい解説をしてもらったにも拘わらず、私にはマザーボードに於けるコンデンサの意味も役割も理解できていない。マザーボードの外観に社会のハードの縮図を見てハードの中のハードだかソフトだかが壊れると社会として機能しなくなる、電源も壊れたことで社会の断絶をも縮図として見た。こんな感想である。私には機械というものへの資質の何かが決定的に欠けているらしい。
服装/セレクトショップの水色×白水玉長袖オフタートルカットソー+青の粗編みロングベスト+Spick&Spanグレーストレッチパンツ+インポート物グレーのコート+PATRICK紺のスエードスニーカー+のだめトート
メイク/下地+ピエヌのライトブローマスカラ91+ピエヌのディープラッシュマスカラ19+ランコムのシャドウパレットのブル系ー2色+ランコムのブラッシュフォーカス13
BGM/アルバム「無限の住人」
遡るは1年半程前のこと。某巨大掲示板住人が頑張っている某プロジェクト参加者の一部が都内某所にてオフ会を開いた。某所某公園にて各自要らないPCパーツを持ち寄って自作機を作ろう、そして作られたPCを女性優先で差し上げましょう。当時の私が使っていたPCはガタがきたFMVのノート。某プロジェクトに参加するにも、1リザルト提出に凡そ10日を要するような低スペックな代物。現在は我が家で、板、と呼ばれて放置されている。放置されているということは使われていない訳であり、私のメイン機はそのオフで頂戴したPCである。そのとき完成した自作機の中で2番目に良い物だった。PC頂戴にあたっての条件、それは基本的にPCを24時間稼動させること。このプロジェクトは白血病解析であり、PC稼動中の余力を使って宿題を解析・提出して、まあヒトは何もせずとも人類の白血病患者の今後の為に役に立ちましょうよ、というものだ。上記条件でP4機なんて身に余る素晴らしいPCを戴けてしまい、条件通りに再起動時や数日留守にするとき以外は就寝中であろうが出掛けていようがPCフル稼働させていた訳で、身に余る素晴らしいPC故にいろんなものをDLしたりうぷしたりと使いに使い込み、2月29日付日記のように……逝った。
PCに依存している私としては困り果てて取り敢えずうちのの現在のメインPCから1年半前のオフ幹事のサイトに助けを求めた。電源が入りません、と。この時点で後日幹事氏が、十字軍、と名付けたPC復旧の為の勇者が集まり始めた。勇者以外にもマザーボード提供を申し出てくださる方もいて皆に多謝。そして話は6日に飛ぶ。都内某所に集合した十字軍の方々をお迎えに行き、タクシーで我が家へ。汚部屋に入ってもらいPCタワー解体。原因はやはりマザーボードのコンデンサ。瞬く間に居間兼寝室が工場と化した。まずはPC内部の掃除から。24時間稼動の場合、3ヶ月に1度は掃除推奨らしい。マトモなPC稼働時間でも年に1度は掃除した方がいいとか。それでも私なりに掃除をしたつもりだった。けれど所詮は素人であり、何処を何処迄バラして掃除していいものか判らず、結局は全体にエアダスターを噴射して出てきた埃を払う程度。その道に精通した十字軍の方々は各部をバラして外へ。それはもう土に見紛うような埃がめっさ出たとか。恥ずかしい限り。更に恥ずかしかったのはタワーの内側変色。私は熱で焼けたんだなあ、くらいにしか思っていなかったけれど正体は脂だった。十字軍は非喫煙者で構成されており、これまた赤面物。今回の解体で今迄よりも少しだけ中のことが判ったので、今後はもう少しマシな掃除をしようと僅かに決意した。
さて問題のマザーボードのコンデンサ。私の目視による問題箇所は液漏れが3本のみだったけれど、実際には5本。そして液漏れだけでなく膨張も発生していた。私の思う、膨張、とは10年物や20年物の缶詰のような全体的膨張であり、付け根のところの部分的膨張迄はチェックしていなかったのだ。言い訳させてもらうと、コンデンサは指で少し触っただけで揺れ動く接着になっており、何処迄倒して目視確認していいかの判断ができず、液漏れ3本というのはコンデンサに触れずに目視した段階でのことだったのだ。十字軍の方々は画像を撮ったり小動物らを愛でたりしつつも素早くコンデンサを交換してくださった。5本を交換し終えて動作チェック……の最中、電源が逝った。急遽電源そのものを買出しに行ってくださり、電源は重くてナンボ、と教えていただきつつ新電源で再度動作チェック……をした途端にマザーボードそのものが逝った。要するに、あちこちにガタがきていたのだ。それに気付かず騙し騙し使い続けてしまっていたことでガタに拍車をかけ、遂には十字軍の方々にも手に負えなくなってしまった次第。無知は罪。逝った悲しみに私は半ば放心。そんな私を余所目に十字軍の方々はその後の呑み会に行くべくチャッチャカと後始末。私はドクターストップにつき呑めないことと前日徹夜していたことから、呑みはうちのに任せて軽食を摂り就寝。
この日、修理されるマザーボードをまじまじと見ていた訳だが、十字軍の方々と私のマザーボードの見方は全く違っていた。様々な回路や部品で構成されているマザーボード。十字軍の方々はそれら回路や部品の意味を当然の如く把握されていた。うちのも大体は理解できていた。全く何が何やらなのは私ひとり。その私が見たマザーボードは宛ら、レゴブロックで作られた工場のある町、だった。ファン(?)は工場本体、その隣の長細いのは塀、端に並んだ幾つかの四角い立体は事務所、など。レゴブロックに見えた私としては、事務所の一軒が金属なのが非常に不満だった。他の事務所はプラスチックなのに何故この一軒だけがそうではないのか。統一性がないではないか。勿論、マザーボードはレゴブロックではないし、マザーボードとして機能する上で部品の外観はどうでもいいことである。ただ、未知なる世界を垣間見た原始人がソレをソレとどうして理解できようか。私には各部の持つ意味が解らず、強いてPCと結びつけるならばシンクタンクを模した箱庭か。
子供の頃、電化製品や電気器具が気味悪かった。各々の役割は理解できている。テレビはアンテナで電波で映像や音声を受信してブラウン管に映す物、掃除機はコンセントとプラグで電力を引いてゴミや塵埃を吸い取る物。しかしその構造が解らない。何故この機械がそのようなことができるのか。箱の中を知らずに、何も疑問を持たずに、文明の利器の数々を使用・利用して生活することが恐怖だった。自分の周辺の物の全ての理屈を理解したくて堪らなかったのだ。だからといって何ひとつとして分解はしなかった。分解したところで、今回のマザーボードと同じく私に各部品の役割が理解できるとは思えなかったし、分解後に再構築できるとも思えなかったから。現にマザーボードの修理過程を終始見学させてもらい、更に詳しい解説をしてもらったにも拘わらず、私にはマザーボードに於けるコンデンサの意味も役割も理解できていない。マザーボードの外観に社会のハードの縮図を見てハードの中のハードだかソフトだかが壊れると社会として機能しなくなる、電源も壊れたことで社会の断絶をも縮図として見た。こんな感想である。私には機械というものへの資質の何かが決定的に欠けているらしい。
服装/セレクトショップの水色×白水玉長袖オフタートルカットソー+青の粗編みロングベスト+Spick&Spanグレーストレッチパンツ+インポート物グレーのコート+PATRICK紺のスエードスニーカー+のだめトート
メイク/下地+ピエヌのライトブローマスカラ91+ピエヌのディープラッシュマスカラ19+ランコムのシャドウパレットのブル系ー2色+ランコムのブラッシュフォーカス13
BGM/アルバム「無限の住人」
さっき迄、途中からだけれどTBSの特別報道番組「告白」を観ていた。被害者の方々にお悔やみを……という書き出しが無難だろう。けれど敢えてそこには触れずに書く。私が観始めたのは、林受刑囚が逮捕されて取調べを受けているシーンから。取調室・接見室・検察のセットの嘘臭さに失笑しつつ観ているうちに……嵌まり込んでいった。流石、平田満。役作りは完璧と言っていいのではないだろうか。少なくとも私の中では完璧。見始めた当初、何で受刑囚がドラマに出ているんだ? 出られないよな……外見が似ている役者を探してきたのか? と考えていたらうちのが、平田満じゃないの? と。ああ、よーく観ると確かに平田満だ。たまたま早く帰宅したうちのと夕飯を食べつつ観た。取調室、違うよねえ。調書の作り方も違うね。接見室であんな差し入れ方はないのに。嵌め窓もあんなじゃなかったね。あそこで手錠はかからないよね。あんなのただの電パチじゃん。などなどの現実とフィクションの違いを話しながら観ていて、少し経ってから会話がなくなり、もう少し経ってから箸が止まるようになり、もっと経って食べ終えて暫くした頃、私は泣き出した。平田満演ずる林受刑囚に激しく感情移入してしまった。彼の気持ちが解った。いや、実際には違うのかもしれないけれど手に取るように解る気になってしまったのだ。私は林受刑囚の(以下、林と記載)ような勤勉さ・才能・信仰はない。けれど或る種の人間の心の動きとして理解ができてしまった。気がした。
林が留置所で泣き崩れるシーン。うちのの過去の諸々の当初、私も家で同じように泣いた。繰り返すが、私には信仰はない。信仰は崇拝かもしれない。崇拝の根っこは信用や信頼だと私は思う。林の場合はその対象がマツモトチヅオという、自称・最終解脱者だった。私の知る限り、私の周囲には厚い信仰心を持った者はいない。けれど皆、心から誰かしらを信用し信頼している。私はうちのを信用し信頼していた。その信用や信頼の拠所が白日の下で嘘っぱちだったと気付いてしまったときの、知らされたときのショック。心の表面に氷の幕のように張られた信用や信頼に皹が入り、割れ崩れ、下の沼にやっと目が向く。その沼に潜んでいるものは懐疑や裏切。沼の底には鏡があり、林の場合は信仰、私の場合は信用と信頼が完全にできていなかった自分の醜い姿が映る。信仰・信用・信頼の対象は既に沼の泥水に溶けかかり、醜い自分が余計に歪む。それを人は素直に受け入れられるか。溶けかかる対象に縋り付いて、醜く歪んだ自分の姿から目を逸らしたくはならないだろうか。私はなった。林もなったと思う。対象=偶像が溶けきるときに出てくる物は涙だ。本当に悲しいときは涙は出ない、と言う人もいる。確かにいるだろう。けれど、その悲しみに自分が投影され且つどうしても現実を受け容れざるを得なくなったとき、涙で偶像を洗い流す必要がある人間も確実に存在している。涙に明け暮れ、偶像を洗い流し、消し去り、自分の醜さを受け容れた上ででなければ、立ち上がれない。自分の偶像は自分の鏡。醜い自分を受け容れてから出なければ、偶像と対峙できない。涙には浄化作用もあるのだ。
矛盾や間違いに気付いたら方向転換すべきだろう。目的地と反対方向に歩を進めていることを知りつつ、その道を進む者はまずいないと思う。けれどそれは目的地という確固として存在している土地の場合だ。土地ではなく、それが解脱を含めて想像・妄想だったら? 林は矛盾や間違いに気付きつつも犯罪に手を染めていった。それは信仰の偶像に縋り、解脱という呪縛に囚われていたからだろう。私には、私から見れば噴飯物……失礼、高尚な信仰はない。が、様々な物事に拘りがある。物凄く俗な次元に話を落とすことになるけれど、例えば入浴。頭では髪を洗うだけでもいい、お湯を浴びるだけでも何もしないにより遥かにマシと理解している。でもできない。新陳代謝機能がある限り決して可能ではないであろうけれど、完璧な入浴、というものが頭の中にできあがっていて、どうしても逆らえない。逆らって入浴しても、脳内完璧入浴が纏わりついて却って気分が悪くなる。フツーにニチジョー生活を送れている他者から見れば、噴飯物の実にくだらない拘りにしか思えないに違いないと自分でも思う。それでも脳内完璧入浴の呪縛は解けない。体臭の指摘などのトラウマもない私でもこの始末。いわんや、医師として患者の生命を救うことを信念として完璧を求めていた林をや。サリンを撒いたときの苦悩は想像を絶する。そして矛盾しているけれど想像はできてしまう。
オウムに限らず宗教、特に新興宗教の信者を私は腹の中で嘲笑って生きてきた。プロテスタント系の学校に通いつつ、神の存在なんぞ信じない、というレポートも書いたことがある。キリスト教概論の授業は物理や基礎解析と同じくらい詰まらなかった。なのに今日、解ってしまった。この世の信仰心の厚い信者という者の存在と私は紙一重だ。名前だけ連ねているような幽霊部員ならぬ幽霊信者、ではなく、あくまで信仰心の厚い信者。私が林の立場だったら……胸の奥で逡巡しつつも、きっと、撒いた。胸の奥の、沼の底の、醜い自分との対峙を避ける為に。信用に、信頼に、信仰に、象徴に、偶像に縋りたい一心で、撒いた。撒いた後、林のように呪縛から解かれたかどうかは解らない。宗教に無関心な生き方をしてきて本当に良かった、と思えた数時間だった。受刑中の林は無期懲役だという。ということは、恐らく20年くらいで、残り10年程を塀の中で過ごして出てくるだろう。判決が下されたとき、死ぬことも許されないのですね、と言ったらしい。林が出てきて受け入れ先はあるのだろうか。あっても自決してしまうのではないだろうか。囚人の行く末をここ迄考えたのは初めてではないだろうか。だからといって自分が身元引受人に……と迄は言えない。一生に2度もそんな責任は負えない。偽善は嫌いな私が偽善かも知れないことを書くことは珍しい。医師免許は剥奪されたであろう、死んで詫びたい気持ちもまだ強かろう、それでもひっそりとでも林に生きて欲しい。誰にでも、過去に何があろうとも、何かしらできることはある筈。その、できること、の内容は解らないけれどある筈。絶対にある筈。私は死刑廃止論者ではないし、林を擁護するつもりもない。ただ、つまらない呪縛から逃れられない人間としてそんな藁を妄想し、どうにか生きているのだ。
林が留置所で泣き崩れるシーン。うちのの過去の諸々の当初、私も家で同じように泣いた。繰り返すが、私には信仰はない。信仰は崇拝かもしれない。崇拝の根っこは信用や信頼だと私は思う。林の場合はその対象がマツモトチヅオという、自称・最終解脱者だった。私の知る限り、私の周囲には厚い信仰心を持った者はいない。けれど皆、心から誰かしらを信用し信頼している。私はうちのを信用し信頼していた。その信用や信頼の拠所が白日の下で嘘っぱちだったと気付いてしまったときの、知らされたときのショック。心の表面に氷の幕のように張られた信用や信頼に皹が入り、割れ崩れ、下の沼にやっと目が向く。その沼に潜んでいるものは懐疑や裏切。沼の底には鏡があり、林の場合は信仰、私の場合は信用と信頼が完全にできていなかった自分の醜い姿が映る。信仰・信用・信頼の対象は既に沼の泥水に溶けかかり、醜い自分が余計に歪む。それを人は素直に受け入れられるか。溶けかかる対象に縋り付いて、醜く歪んだ自分の姿から目を逸らしたくはならないだろうか。私はなった。林もなったと思う。対象=偶像が溶けきるときに出てくる物は涙だ。本当に悲しいときは涙は出ない、と言う人もいる。確かにいるだろう。けれど、その悲しみに自分が投影され且つどうしても現実を受け容れざるを得なくなったとき、涙で偶像を洗い流す必要がある人間も確実に存在している。涙に明け暮れ、偶像を洗い流し、消し去り、自分の醜さを受け容れた上ででなければ、立ち上がれない。自分の偶像は自分の鏡。醜い自分を受け容れてから出なければ、偶像と対峙できない。涙には浄化作用もあるのだ。
矛盾や間違いに気付いたら方向転換すべきだろう。目的地と反対方向に歩を進めていることを知りつつ、その道を進む者はまずいないと思う。けれどそれは目的地という確固として存在している土地の場合だ。土地ではなく、それが解脱を含めて想像・妄想だったら? 林は矛盾や間違いに気付きつつも犯罪に手を染めていった。それは信仰の偶像に縋り、解脱という呪縛に囚われていたからだろう。私には、私から見れば噴飯物……失礼、高尚な信仰はない。が、様々な物事に拘りがある。物凄く俗な次元に話を落とすことになるけれど、例えば入浴。頭では髪を洗うだけでもいい、お湯を浴びるだけでも何もしないにより遥かにマシと理解している。でもできない。新陳代謝機能がある限り決して可能ではないであろうけれど、完璧な入浴、というものが頭の中にできあがっていて、どうしても逆らえない。逆らって入浴しても、脳内完璧入浴が纏わりついて却って気分が悪くなる。フツーにニチジョー生活を送れている他者から見れば、噴飯物の実にくだらない拘りにしか思えないに違いないと自分でも思う。それでも脳内完璧入浴の呪縛は解けない。体臭の指摘などのトラウマもない私でもこの始末。いわんや、医師として患者の生命を救うことを信念として完璧を求めていた林をや。サリンを撒いたときの苦悩は想像を絶する。そして矛盾しているけれど想像はできてしまう。
オウムに限らず宗教、特に新興宗教の信者を私は腹の中で嘲笑って生きてきた。プロテスタント系の学校に通いつつ、神の存在なんぞ信じない、というレポートも書いたことがある。キリスト教概論の授業は物理や基礎解析と同じくらい詰まらなかった。なのに今日、解ってしまった。この世の信仰心の厚い信者という者の存在と私は紙一重だ。名前だけ連ねているような幽霊部員ならぬ幽霊信者、ではなく、あくまで信仰心の厚い信者。私が林の立場だったら……胸の奥で逡巡しつつも、きっと、撒いた。胸の奥の、沼の底の、醜い自分との対峙を避ける為に。信用に、信頼に、信仰に、象徴に、偶像に縋りたい一心で、撒いた。撒いた後、林のように呪縛から解かれたかどうかは解らない。宗教に無関心な生き方をしてきて本当に良かった、と思えた数時間だった。受刑中の林は無期懲役だという。ということは、恐らく20年くらいで、残り10年程を塀の中で過ごして出てくるだろう。判決が下されたとき、死ぬことも許されないのですね、と言ったらしい。林が出てきて受け入れ先はあるのだろうか。あっても自決してしまうのではないだろうか。囚人の行く末をここ迄考えたのは初めてではないだろうか。だからといって自分が身元引受人に……と迄は言えない。一生に2度もそんな責任は負えない。偽善は嫌いな私が偽善かも知れないことを書くことは珍しい。医師免許は剥奪されたであろう、死んで詫びたい気持ちもまだ強かろう、それでもひっそりとでも林に生きて欲しい。誰にでも、過去に何があろうとも、何かしらできることはある筈。その、できること、の内容は解らないけれどある筈。絶対にある筈。私は死刑廃止論者ではないし、林を擁護するつもりもない。ただ、つまらない呪縛から逃れられない人間としてそんな藁を妄想し、どうにか生きているのだ。
日々何かあったときの対策
2004年3月4日 その他生活 現在3月5日日中。
昨夜、遠方に嫁いだ友人に久々に電話した。用件は私のPC故障によりメールが使えなくなったので当分は某フリーメールに送ってね。長年の友人であり、お互いに連れが帰宅前だったこともありで暫し雑談。通話内容は近況報告とPCの話と家事の話が半分。残りの半分は友人からの相談。この友人は少し前からジャンガリアンハムスターを飼い始め、その子との付き合い方がよく解らないとのこと。具体的に話を聞いてみると、その子がヒキコモリになってしまった、と。どうやら彼女が小屋に設置したトイレに綿を運んで巣篭もりし始めて滅多に出てきてくれないとか。巣篭もりが始まってから別の場所にトイレを設置したらそっちで用を足すようになり、トイレとごはんのとき以外はずっと綿の中に篭っているらしく淋しい、と。そして綿についても飼育書によっておもちゃとして与えた方がいいと書かれていたり与えない方がいいと書かれていて混乱している、と。ふむ……解らん! 私はハムスターを飼ったことがないから本当に解らない。因ってうちにいる草食動物とハムスターが同じげっ歯類故にそこから関連するかもしれない事項を考えて答えてみた。
うちの草食動物は悪評高い大手ペットショップチェーンで購入した子であり、購入時に店員さんに教わったことはかなりいい加減であり、後々自分で調べたり獣医さんに聞いたことと当初店員さんに教わったことではかなり違った。店員さんに教わったこと。トイレは新聞紙とかの紙類や猫砂でOK。これは間違い。紙類も猫砂も食べてしまう。フードはこれでOK。間違ってはいないけれど勧められたのは粗悪なフードであり後に良質なフードに変更など。店員さんに教わって正しかったことは、トイレの場所を飼い主が決めないようにということと、環境に慣れる迄は暫く構わないように。後者はどのペットにも言えることだろう。前者は、この草食動物は自分でトイレの場所を決める動物なので飼い主が設置したトイレを使わないことがあり、その場合は様子を見て動物自身が決めた場所にトイレを設置するように。以下、私の想像に基づくアドバイス。まず構い過ぎていた点を注意。これは旦那にも注意されていたらしい。そして当分は構わないこと。それこそ、飼わせて戴いて有難や位の気持ちでハムの習性や感情を優先すること。まだ飼い始めて間がないので暫く好きにさせていれば小屋から見える景色や傍にいる友人=飼い主にもハムの方から興味を持って友好関係を築けるかもしれない。トイレについて。何故トイレに綿を運んで巣篭もりをするようになったのか。もしかしたら友人が置いたトイレの場所は、ハムとしては寛ぎたい場所だったのかもしれない。なので新しく設置したトイレを使っているなら最初に設置したトイレを撤去し、ハムが作った綿の巣のみを残してみたらどうか。綿の善し悪しは私には解らない。電話しながら私はPCにて某巨大掲示板某板にてハムスレッド及びジャンガリアンハムスレッドの存在を確認。過去ログを読んだ上で質問をしてアドバイスを求めてみたらどうか。某獣医師らによるサイトもあるにはあるけれどハムのコンテンツがあったかどうか記憶が定かではなく、あったとしてもそのサイトの掲示板は非常に読みづらく、それ以前にそのサイトのURLが私の故障中PCにある為、すぐに教えられなかったので取り敢えず某巨大掲示板を。そもそも普段から私は解らないことがあればすぐに某巨大掲示板に行く癖がついてしまっているのだ。
それから一番大切なこととして、馴染みの動物病院を作っておくこと。できれば24時間診てくれる病院も探しておくこと。うちの小動物2匹は同じ動物病院で世話になるようにしている。この動物病院を選んだ理由。
・うちから近い
・ペットホテルも兼ねている
・新しい=設備も整っているであろう
・獣医師自身が勉強熱心
・私との意思疎通がスムーズ=よく話を聞いてくれて的確なアドバイスをくれる
・動物看護士も丁寧な対応
それでもやはり年に1回予防接種に行くだけではそうそう親しくもなれなかろうし、ちょっとした相談事もし難い。そして私は予防接種のときに雑食動物のフードを何にするか相談する際にアドバイスを求め、パンフレットをもらい自分でいろいろ調べて成分や安全性やコスト・パフォーマンスもひっくるめて動物病院のみで取り扱っている某フードに決定した。これで数ヶ月に1度は動物病院に行くことになり、顔を出せば診察券を出さずともカルテを用意してくれるまでになれた。そして雑食の方は爪切りをさせてくれるけれど、凶暴な草食の方は爪切りをさせてくれないのでその為だけに病院に行くことも。顔馴染だからかついでに無料で歯の伸び具合迄診てくれて有難い。といった経験則から、行きつけの動物病院を選ぶときに私が重視していることと、馴染みになる為のコツを教えた。ハムの場合は予防接種もないし、ちょくちょく爪切りに行って数百円払って、ついでとして、相談事をしてみれば? と。電話口などでも大概の動物病院ではちょっとした質問には答えてくれたりするけれど、しょっちゅう無料相談なんて甘え過ぎだし、もしものことを考えるとちゃんと行きつけの動物病院を見つけておくに越したことはないし。
電話を切ってから、少し私は考えた。彼女は初めてハムを飼うにあたり、いろいろと困惑している。飼育書を読んだりして勉強しているようだけれど、飼育書も本によって書いてあることがまちまちだったりして余計に混乱を招く場合がある。現に彼女は綿について混乱していて、ハム飼い経験のない私に相談してくる程だった。私だったら彼女と同じ立場にたった場合、どうするだろう。他者の意見を聞きたいと思うのは彼女と同じだ。その他者に誰を選ぶか。身近に同種動物飼いの人がいなければ、私なら某巨大掲示板で同種動物飼いの人に意見を求めるだろう。この違いは何か。幾らPCが浸透したとはいえ、仕事以外でPCを日常的に使う人の実数はそんなに多くはないのではないか。友人らのPCとの付き合い方を思い出すと、皆数日に1度、短時間だけ立ち上げてネットを彷徨ったりお気に入りサイトを見たり、メールチェックをしてすぐに電源を落とすらしい。私は日がな1日飽きもせずにPCに張り付いていたりする。しかもPCに時間を費やし過ぎて家事を疎かにしてしまうことも多々ある。生活習慣の違いの大きさを感じた。日々のことがちゃんとできているけれど何かあったときの対処に困るのと、日々のことは疎かになりがちだけれど何かあったときに素早く対処法を検索できるのと、果たしてどちらの方がいいのだろう。両立できるのが理想なのは解っているけれど。
昨夜、遠方に嫁いだ友人に久々に電話した。用件は私のPC故障によりメールが使えなくなったので当分は某フリーメールに送ってね。長年の友人であり、お互いに連れが帰宅前だったこともありで暫し雑談。通話内容は近況報告とPCの話と家事の話が半分。残りの半分は友人からの相談。この友人は少し前からジャンガリアンハムスターを飼い始め、その子との付き合い方がよく解らないとのこと。具体的に話を聞いてみると、その子がヒキコモリになってしまった、と。どうやら彼女が小屋に設置したトイレに綿を運んで巣篭もりし始めて滅多に出てきてくれないとか。巣篭もりが始まってから別の場所にトイレを設置したらそっちで用を足すようになり、トイレとごはんのとき以外はずっと綿の中に篭っているらしく淋しい、と。そして綿についても飼育書によっておもちゃとして与えた方がいいと書かれていたり与えない方がいいと書かれていて混乱している、と。ふむ……解らん! 私はハムスターを飼ったことがないから本当に解らない。因ってうちにいる草食動物とハムスターが同じげっ歯類故にそこから関連するかもしれない事項を考えて答えてみた。
うちの草食動物は悪評高い大手ペットショップチェーンで購入した子であり、購入時に店員さんに教わったことはかなりいい加減であり、後々自分で調べたり獣医さんに聞いたことと当初店員さんに教わったことではかなり違った。店員さんに教わったこと。トイレは新聞紙とかの紙類や猫砂でOK。これは間違い。紙類も猫砂も食べてしまう。フードはこれでOK。間違ってはいないけれど勧められたのは粗悪なフードであり後に良質なフードに変更など。店員さんに教わって正しかったことは、トイレの場所を飼い主が決めないようにということと、環境に慣れる迄は暫く構わないように。後者はどのペットにも言えることだろう。前者は、この草食動物は自分でトイレの場所を決める動物なので飼い主が設置したトイレを使わないことがあり、その場合は様子を見て動物自身が決めた場所にトイレを設置するように。以下、私の想像に基づくアドバイス。まず構い過ぎていた点を注意。これは旦那にも注意されていたらしい。そして当分は構わないこと。それこそ、飼わせて戴いて有難や位の気持ちでハムの習性や感情を優先すること。まだ飼い始めて間がないので暫く好きにさせていれば小屋から見える景色や傍にいる友人=飼い主にもハムの方から興味を持って友好関係を築けるかもしれない。トイレについて。何故トイレに綿を運んで巣篭もりをするようになったのか。もしかしたら友人が置いたトイレの場所は、ハムとしては寛ぎたい場所だったのかもしれない。なので新しく設置したトイレを使っているなら最初に設置したトイレを撤去し、ハムが作った綿の巣のみを残してみたらどうか。綿の善し悪しは私には解らない。電話しながら私はPCにて某巨大掲示板某板にてハムスレッド及びジャンガリアンハムスレッドの存在を確認。過去ログを読んだ上で質問をしてアドバイスを求めてみたらどうか。某獣医師らによるサイトもあるにはあるけれどハムのコンテンツがあったかどうか記憶が定かではなく、あったとしてもそのサイトの掲示板は非常に読みづらく、それ以前にそのサイトのURLが私の故障中PCにある為、すぐに教えられなかったので取り敢えず某巨大掲示板を。そもそも普段から私は解らないことがあればすぐに某巨大掲示板に行く癖がついてしまっているのだ。
それから一番大切なこととして、馴染みの動物病院を作っておくこと。できれば24時間診てくれる病院も探しておくこと。うちの小動物2匹は同じ動物病院で世話になるようにしている。この動物病院を選んだ理由。
・うちから近い
・ペットホテルも兼ねている
・新しい=設備も整っているであろう
・獣医師自身が勉強熱心
・私との意思疎通がスムーズ=よく話を聞いてくれて的確なアドバイスをくれる
・動物看護士も丁寧な対応
それでもやはり年に1回予防接種に行くだけではそうそう親しくもなれなかろうし、ちょっとした相談事もし難い。そして私は予防接種のときに雑食動物のフードを何にするか相談する際にアドバイスを求め、パンフレットをもらい自分でいろいろ調べて成分や安全性やコスト・パフォーマンスもひっくるめて動物病院のみで取り扱っている某フードに決定した。これで数ヶ月に1度は動物病院に行くことになり、顔を出せば診察券を出さずともカルテを用意してくれるまでになれた。そして雑食の方は爪切りをさせてくれるけれど、凶暴な草食の方は爪切りをさせてくれないのでその為だけに病院に行くことも。顔馴染だからかついでに無料で歯の伸び具合迄診てくれて有難い。といった経験則から、行きつけの動物病院を選ぶときに私が重視していることと、馴染みになる為のコツを教えた。ハムの場合は予防接種もないし、ちょくちょく爪切りに行って数百円払って、ついでとして、相談事をしてみれば? と。電話口などでも大概の動物病院ではちょっとした質問には答えてくれたりするけれど、しょっちゅう無料相談なんて甘え過ぎだし、もしものことを考えるとちゃんと行きつけの動物病院を見つけておくに越したことはないし。
電話を切ってから、少し私は考えた。彼女は初めてハムを飼うにあたり、いろいろと困惑している。飼育書を読んだりして勉強しているようだけれど、飼育書も本によって書いてあることがまちまちだったりして余計に混乱を招く場合がある。現に彼女は綿について混乱していて、ハム飼い経験のない私に相談してくる程だった。私だったら彼女と同じ立場にたった場合、どうするだろう。他者の意見を聞きたいと思うのは彼女と同じだ。その他者に誰を選ぶか。身近に同種動物飼いの人がいなければ、私なら某巨大掲示板で同種動物飼いの人に意見を求めるだろう。この違いは何か。幾らPCが浸透したとはいえ、仕事以外でPCを日常的に使う人の実数はそんなに多くはないのではないか。友人らのPCとの付き合い方を思い出すと、皆数日に1度、短時間だけ立ち上げてネットを彷徨ったりお気に入りサイトを見たり、メールチェックをしてすぐに電源を落とすらしい。私は日がな1日飽きもせずにPCに張り付いていたりする。しかもPCに時間を費やし過ぎて家事を疎かにしてしまうことも多々ある。生活習慣の違いの大きさを感じた。日々のことがちゃんとできているけれど何かあったときの対処に困るのと、日々のことは疎かになりがちだけれど何かあったときに素早く対処法を検索できるのと、果たしてどちらの方がいいのだろう。両立できるのが理想なのは解っているけれど。
現在3月5日日中。
小学生の確か3年生のときのこと。雛祭りの日ではない或る日、学校から家に帰ると実父と作業着を着たオッサン数人が家にいた。オッサンらは私のピアノと確か7段飾りであっただろう雛壇及び雛人形を運び出そうとしていた。お父さん、何これ? この人たちは誰? 何してるの? ちょっとお父さんにピアノと雛人形を貸して。すぐにちゃんと戻ってくるから。いい夫ではなかったけれどいい父親だった実父のことが私はとても好きだったから、疑わずに信じた。ピアノも雛人形も戻ってくる日はなかった。これが私の雛祭りに関する思い出。同時に思い出したこと。数度だけれど、父と母と私の家族3人で夜の散歩をした。父か母が小さめのテレビを自転車の後ろに載せての散歩。何屋か判らなかったけれど、父か母がそこにテレビを置いてきて、帰りは何も載せていない自転車を押して帰った。大人になってから判った。あそこは質屋だったのだな。そしてあの普段は使っていなかった小さめのテレビは質屋に出し入れするための物だったのだな。それから私のピアノと雛人形はきっと借金のカタに持っていかれたか担保にされたかで、お父さんはその借金を返済できなかったから私の元に戻ってはこなかったのだな……。あのお雛様はまだこの世に存在しているのだろうか。それとも焼却処分でもされてしまったか。手元に戻ってきてなんて贅沢は言わない。せめて何処かで存在していて、誰かの節句を祝っていて欲しいとは思う。
実父は借金塗れの人だった。事業失敗も原因のひとつ、呑む打つ買うも原因のひとつ。死後に遺産放棄をしたので私に父の借金が降りかかってくることはないが、1度だけ、遺産放棄の前だったか後だったかは覚えていないけれど母親に実父の残した借金額を書面で見せてもらったことがある。詳細な額迄は記憶にないが、約1億だったことは覚えている。銀行や消費者金融だけの額だったのか、街金も含めての額だったのかは知らない。3〜4年程前だったか、親と家裁に行った。私宛に街金であろうところから父の残した借金返済請求書が来た為に、家裁で遺産放棄手続済の書類をもらいに行ったのだ。その書類を送ってからは請求はきていないらしい。世の中には後継者が遺産放棄済と知っていても、ダメ元でその手の請求書を送ってくる業者もあるようだ。奇しくも家裁に行った日は、実父の誕生日だった。行く前に喫茶店で落ち合った親は、死んだ後迄こんな迷惑をかけて本当にあの人は……と嘆いていた。そんなあの人が私の実父であり、私の半分は実父でできている。今でも私は実父が好きである。親兄弟にも絶縁され、葬式も挙げてもらえなかった父だけれど好きだ。昭和1桁台生まれの父。
離婚したと偽って母親と付き合って、母親との結婚直前に前妻を籍から抜いた父。母親が私を身篭っているときに母親のお腹を蹴ったという父。男が生まれたらコインロッカーに捨てると言っていたらしい父。遊びに行こう、と私を誘っては競艇場に私を連れて行っていた父。しょっちゅう愛人から自宅に電話があり、母親を悩ませていた父。母親と私を母方の親戚の家に遊びに行かせるにあたり馬券購入を頼み、私が熱を出したとの連絡を受けてすっ飛んできての第一声が、馬券は? だった父。事業が右下がりになり倒産して自堕落になっていった父。母親と私が家を出るときに、パチ屋に逃避した父。自力でトイレにも行けなくなり自分で救急車を呼んだ父。余命1週間にも拘わらず私以外には誰1人身内に見舞ってもらえなかった父。肝硬変で死んだ父。お情けで親が買っていた墓に入れてもらった父。碌な男じゃない。でも、これが、私の父親である。そして大好きな父親なのである。ここに書いていないいい面を私は沢山見てきたつもりだし、父親なりに私に愛情を注いでくれたと疑っていない。幼児だった頃の私を抱いた父の写真が一葉ある。父は笑顔だ。この父、一時期は物凄く甲斐性のある人だったらしい。その部分は私には遺伝しなかったようで、悪い部分ばかりが遺伝してしまったようだ。賭博好きとか、精神的な脆さとか。今の父親とは正反対である。呑む打つ買うは皆無に近いくらいしない。親に暴力も揮わない。趣味らしい趣味もなく、真面目一直線のような今の父親。私の性質は今の父親よりも実父に遥かに近い。今の父親を実の父親のように思ったことはない。あくまで、親の旦那。これは親が再婚したときから変わっていないスタンスだ。今の父親と親が結婚して良かったと思っているし、私は私でいろいろな面で感謝はしている。でもどうしても実の父親のようには慕えなかったし、恐らくは今後もそうだろう。昔は、実の親より育ての親、という言葉に悩まされた。今でも悩むことはあるが、だからといって気持ちに嘘はつけない。
今、実父に近い存在がいる。うちのの父親だ。やはり呑む打つ買うだった人で、DVがあり、家族から絶縁などはされていないけれど疎まれている。これだけで私は歪んだ認知かもしれないけれど、うちのの父親に親近感を持ってしまっている。またうちのの父親は持病があり、摂生が必要なのに自己管理ができていない。ここはもう死んでしまった母方の祖父と被る。うちのの父親と母方の祖父と同じ持病であり、摂取食物の種類は違うけれど摂生できていないのも一緒。私はうちのの身内の中で、うちのの父親と一番仲良くなりたいと思っている。これに関してうちのは複雑そうである。少し前に、うちのの父親が持病の合併症によりやや大掛かりな手術をし、成功したらしい。良かった良かった。術後にうちのの母親から連絡があった。電話を取ったのは私。もしもし、うちのの母(仮名)だけど、黒猫(仮名)ちゃん? はい、ご無沙汰しています。元気にしてる? はい。そう、うちの(仮名)、いる? はい。うちの(仮名)に変わってくれる? はい。電話交代。手術のことはうちのからの伝聞。うちのの母親がいっぱいいっぱいなのも解ってるんだけどね。籍を入れている訳でもなし両家で挨拶したことがあるでなし私は所詮余所者だってことも解ってるんだけどね。だけどね……。
小学生の確か3年生のときのこと。雛祭りの日ではない或る日、学校から家に帰ると実父と作業着を着たオッサン数人が家にいた。オッサンらは私のピアノと確か7段飾りであっただろう雛壇及び雛人形を運び出そうとしていた。お父さん、何これ? この人たちは誰? 何してるの? ちょっとお父さんにピアノと雛人形を貸して。すぐにちゃんと戻ってくるから。いい夫ではなかったけれどいい父親だった実父のことが私はとても好きだったから、疑わずに信じた。ピアノも雛人形も戻ってくる日はなかった。これが私の雛祭りに関する思い出。同時に思い出したこと。数度だけれど、父と母と私の家族3人で夜の散歩をした。父か母が小さめのテレビを自転車の後ろに載せての散歩。何屋か判らなかったけれど、父か母がそこにテレビを置いてきて、帰りは何も載せていない自転車を押して帰った。大人になってから判った。あそこは質屋だったのだな。そしてあの普段は使っていなかった小さめのテレビは質屋に出し入れするための物だったのだな。それから私のピアノと雛人形はきっと借金のカタに持っていかれたか担保にされたかで、お父さんはその借金を返済できなかったから私の元に戻ってはこなかったのだな……。あのお雛様はまだこの世に存在しているのだろうか。それとも焼却処分でもされてしまったか。手元に戻ってきてなんて贅沢は言わない。せめて何処かで存在していて、誰かの節句を祝っていて欲しいとは思う。
実父は借金塗れの人だった。事業失敗も原因のひとつ、呑む打つ買うも原因のひとつ。死後に遺産放棄をしたので私に父の借金が降りかかってくることはないが、1度だけ、遺産放棄の前だったか後だったかは覚えていないけれど母親に実父の残した借金額を書面で見せてもらったことがある。詳細な額迄は記憶にないが、約1億だったことは覚えている。銀行や消費者金融だけの額だったのか、街金も含めての額だったのかは知らない。3〜4年程前だったか、親と家裁に行った。私宛に街金であろうところから父の残した借金返済請求書が来た為に、家裁で遺産放棄手続済の書類をもらいに行ったのだ。その書類を送ってからは請求はきていないらしい。世の中には後継者が遺産放棄済と知っていても、ダメ元でその手の請求書を送ってくる業者もあるようだ。奇しくも家裁に行った日は、実父の誕生日だった。行く前に喫茶店で落ち合った親は、死んだ後迄こんな迷惑をかけて本当にあの人は……と嘆いていた。そんなあの人が私の実父であり、私の半分は実父でできている。今でも私は実父が好きである。親兄弟にも絶縁され、葬式も挙げてもらえなかった父だけれど好きだ。昭和1桁台生まれの父。
離婚したと偽って母親と付き合って、母親との結婚直前に前妻を籍から抜いた父。母親が私を身篭っているときに母親のお腹を蹴ったという父。男が生まれたらコインロッカーに捨てると言っていたらしい父。遊びに行こう、と私を誘っては競艇場に私を連れて行っていた父。しょっちゅう愛人から自宅に電話があり、母親を悩ませていた父。母親と私を母方の親戚の家に遊びに行かせるにあたり馬券購入を頼み、私が熱を出したとの連絡を受けてすっ飛んできての第一声が、馬券は? だった父。事業が右下がりになり倒産して自堕落になっていった父。母親と私が家を出るときに、パチ屋に逃避した父。自力でトイレにも行けなくなり自分で救急車を呼んだ父。余命1週間にも拘わらず私以外には誰1人身内に見舞ってもらえなかった父。肝硬変で死んだ父。お情けで親が買っていた墓に入れてもらった父。碌な男じゃない。でも、これが、私の父親である。そして大好きな父親なのである。ここに書いていないいい面を私は沢山見てきたつもりだし、父親なりに私に愛情を注いでくれたと疑っていない。幼児だった頃の私を抱いた父の写真が一葉ある。父は笑顔だ。この父、一時期は物凄く甲斐性のある人だったらしい。その部分は私には遺伝しなかったようで、悪い部分ばかりが遺伝してしまったようだ。賭博好きとか、精神的な脆さとか。今の父親とは正反対である。呑む打つ買うは皆無に近いくらいしない。親に暴力も揮わない。趣味らしい趣味もなく、真面目一直線のような今の父親。私の性質は今の父親よりも実父に遥かに近い。今の父親を実の父親のように思ったことはない。あくまで、親の旦那。これは親が再婚したときから変わっていないスタンスだ。今の父親と親が結婚して良かったと思っているし、私は私でいろいろな面で感謝はしている。でもどうしても実の父親のようには慕えなかったし、恐らくは今後もそうだろう。昔は、実の親より育ての親、という言葉に悩まされた。今でも悩むことはあるが、だからといって気持ちに嘘はつけない。
今、実父に近い存在がいる。うちのの父親だ。やはり呑む打つ買うだった人で、DVがあり、家族から絶縁などはされていないけれど疎まれている。これだけで私は歪んだ認知かもしれないけれど、うちのの父親に親近感を持ってしまっている。またうちのの父親は持病があり、摂生が必要なのに自己管理ができていない。ここはもう死んでしまった母方の祖父と被る。うちのの父親と母方の祖父と同じ持病であり、摂取食物の種類は違うけれど摂生できていないのも一緒。私はうちのの身内の中で、うちのの父親と一番仲良くなりたいと思っている。これに関してうちのは複雑そうである。少し前に、うちのの父親が持病の合併症によりやや大掛かりな手術をし、成功したらしい。良かった良かった。術後にうちのの母親から連絡があった。電話を取ったのは私。もしもし、うちのの母(仮名)だけど、黒猫(仮名)ちゃん? はい、ご無沙汰しています。元気にしてる? はい。そう、うちの(仮名)、いる? はい。うちの(仮名)に変わってくれる? はい。電話交代。手術のことはうちのからの伝聞。うちのの母親がいっぱいいっぱいなのも解ってるんだけどね。籍を入れている訳でもなし両家で挨拶したことがあるでなし私は所詮余所者だってことも解ってるんだけどね。だけどね……。
現在、3月17日。
ここ数日、私を虜にしていたのは、過去の凶悪事件を詳細に解説している幾つかのサイトだ。そんなサイトを覗くに至ったのはAの退院に起因する。この世の中で、凶悪と呼ばれる犯罪を起こしたのは何もAだけではなく、その他にも多くの人間がいろいろな犯罪を犯している。人は何故犯罪を犯すのか。その背景にあるものは。背景に納得できたからといっても、それら犯罪が許されるべきものではない。それでも知りたいと思ってしまう気持ちを、単なる好奇心と呼ばれても構わない。私は犯罪心理学に詳しくない。また精神鑑定を盲信できないことは知っている。私がサイトで知った・覗いた事件の数々は私の身近で起きたものではない。それでも時折、私自身の現住所近辺の地名や卒業校の名称が出てきて驚いた。その驚きは、他人事ではない、という気持ちの芽生えである。毎日様々な事件がテレビや新聞を賑わす。それからを見聞きし、怖いなあと思いつつも、どこかで遠くの出来事と考えてしまっている人間も多いと思われる。その心の動きには、平安な日常への保身や精神の均衡を図ろうという無意識が働いているのではないだろうか。遠くの出来事と思わなければやっていけない。それは解る。しかしそこに全てを終結させてしまっては何の発展もない。情報過多の世の中で、あらゆる事件の始終を把握することは不可能とも言えよう。全ての記事に目を通すことは不可能だし、もっと言えば報道そのものが事実を伝えているとも限らない。知ること・考えることこそが自己防衛の第一だと私は考える。
事件の背景には様々な物事が隠れている。家族との繋がり、学問や思想に基づくもの、痴情の縺れ、金銭問題……。昭和初期から最近の事件迄をざっと見て、私が最も気になったのはやはり家族の在り方である。徹底した放任も良くない、過干渉も良くない。適切な親子関係を築く為に、努力すべきは子供を育てる大人だ。私が読んだ事件の数々で親子関係の歪みに起因するものの多くに、希薄な存在の父親が目立った。だからといって父権復活を単純に望めはしない。父権の振りかざしによる犯罪もある。どのような家庭が理想なのか、は一概には言えまい。ただ言えるとすれば、その子供個人にとって健全と感じられる家庭こそがその子供を健全に育むのではないか、ということだ。子供の素質も性格も様々であり、それらに目を向けずして、これこそが理想的な家庭、と言えるものはない筈だ。子供の個性などを家族が見極める必要がある。もっと言えば、見極められない保護者に良い家庭が築けることはない。保護者の丁寧な子供の観察、それに基づく接し方。このふたつが揃えば、多くの子供は健全に育ち、その末に健全な大人になると思われる。機能不全家族と思われる家庭で育った犯罪者が余りにも多く感じた。勿論、機能不全家族で育った子供の全てが犯罪を犯すことはない。犯罪を起こすには、きっかけがある筈だ。そんなきっかけに触れないように子供を育てることが、家族の大切な役割とは言えまいか。
精神鑑定を読んで気になった言葉がある。犯罪気質または犯罪病質。これらは得てして生まれ持った物と思われる。心理学や病理学に疎い人間の方がこの世には多いと思われる。それらの大人が犯罪気質・犯罪病質を子供の中に発見できるか。まず難しかろう。そこには、子供に対して客観視できない親などの多さがある。子供に対して欲目を持ち認められない場合もあれば、子供に対して興味を失い気質や病質に気付いても放置してしまうことがある。そんなこんなで、これら気質や病質は芽を出し、悪の花を咲かせる。と、されている。けれど果たして、これら気質や病質は本当に生まれ持ったものばかりなのだろうか。環境により発生し、環境により芽を出し花を咲かせてはいないだろうか。そして私が思うこと。全ての大人に大切なのは、子供に理性を植え付けることではなかろうか。用意周到であれ突発的であれ犯罪を犯す者は皆、理性に欠けていると私は思った。極論だけれどその理性が、人を殺してはいけない・人の物を盗んではいけない、と理詰めで教えられるものではなくても良いと思う。憲法や法律を持ち出さずして殺人を否定でき、他者を納得させられるだけの説得力を持つ人は実は少ない。ならば。人を殺すと・人の物を盗むと捕まって貴方の人生に汚点が残るからやめましょう。こんな教え方でも良いではないか。全ての人間が所謂、良心、を持ち合わせているとは限らない。自己利益の為に犯罪を起こさないという人間も少なからずいる。それでもいい。どんな理由付けでもいいから、犯罪を起こさせないだけの理性、を身につけさせるのが先決だ。例え後者のように教えられても、いずれ良心の下に犯罪への否定心を持てるようになるかもしれない。要はコトを起こさせないようにするべきである。
いろいろな犯罪に触れ、心に残ったのは津山30人殺人事件と三菱銀行のソドムの市。共に、いやその他の犯罪でも気になったのは、残虐さだけでなく犯罪者の心には自己愛の歪みが見られることだ。自己肯定の薄さも気になった。犯罪で以って歪んだ自己肯定を実現させる。犯罪で以って歪んだ自己愛の解決法を探す。不幸である。同情はしない。それでも不幸だ。このふたつの事件の背景には、育てる大人の威厳や愛情の注ぎ方の歪みが見えた。人を育てるのは保護者だけではない。しかし三つ子の魂百迄。幼少期の原体験ともいえる家庭内の環境は、決して無視できるものではない。もうひとつ、気になった事件はロボトミー殺人事件。これは或る事件で捕まった犯人がロボトミー手術を強引に施され、後にその手術の失敗を恨み医師を殺害しようとして医師の家族を殺害した事件。これは時代の不幸とも言えよう。何故この事件が私の琴線に触れたのか。それは私が日々服用している薬が一部で、飲むロボトミー、と揶揄されているからである。この先、私が主治医を恨んで殺害するだろうか。殺害は絶対にしない。けれどまだ新薬の部類に入る故、今後明らかな副作用に悩まされて主治医を恨んでしまう可能性は無きにしも非ず。平山事件の鑑定書の疑問も含め、医療と犯罪の因果関係立証は困難であろう。平山事件は冤罪説濃厚なのでここでは敢えて避けて書くとして、ロボトミー殺人事件は我がことのように気になった。医療事故とはまた違う、医療の進歩と犯罪という点で私には避けて通れない、考えるべき事件と言える。
ここ数日、私を虜にしていたのは、過去の凶悪事件を詳細に解説している幾つかのサイトだ。そんなサイトを覗くに至ったのはAの退院に起因する。この世の中で、凶悪と呼ばれる犯罪を起こしたのは何もAだけではなく、その他にも多くの人間がいろいろな犯罪を犯している。人は何故犯罪を犯すのか。その背景にあるものは。背景に納得できたからといっても、それら犯罪が許されるべきものではない。それでも知りたいと思ってしまう気持ちを、単なる好奇心と呼ばれても構わない。私は犯罪心理学に詳しくない。また精神鑑定を盲信できないことは知っている。私がサイトで知った・覗いた事件の数々は私の身近で起きたものではない。それでも時折、私自身の現住所近辺の地名や卒業校の名称が出てきて驚いた。その驚きは、他人事ではない、という気持ちの芽生えである。毎日様々な事件がテレビや新聞を賑わす。それからを見聞きし、怖いなあと思いつつも、どこかで遠くの出来事と考えてしまっている人間も多いと思われる。その心の動きには、平安な日常への保身や精神の均衡を図ろうという無意識が働いているのではないだろうか。遠くの出来事と思わなければやっていけない。それは解る。しかしそこに全てを終結させてしまっては何の発展もない。情報過多の世の中で、あらゆる事件の始終を把握することは不可能とも言えよう。全ての記事に目を通すことは不可能だし、もっと言えば報道そのものが事実を伝えているとも限らない。知ること・考えることこそが自己防衛の第一だと私は考える。
事件の背景には様々な物事が隠れている。家族との繋がり、学問や思想に基づくもの、痴情の縺れ、金銭問題……。昭和初期から最近の事件迄をざっと見て、私が最も気になったのはやはり家族の在り方である。徹底した放任も良くない、過干渉も良くない。適切な親子関係を築く為に、努力すべきは子供を育てる大人だ。私が読んだ事件の数々で親子関係の歪みに起因するものの多くに、希薄な存在の父親が目立った。だからといって父権復活を単純に望めはしない。父権の振りかざしによる犯罪もある。どのような家庭が理想なのか、は一概には言えまい。ただ言えるとすれば、その子供個人にとって健全と感じられる家庭こそがその子供を健全に育むのではないか、ということだ。子供の素質も性格も様々であり、それらに目を向けずして、これこそが理想的な家庭、と言えるものはない筈だ。子供の個性などを家族が見極める必要がある。もっと言えば、見極められない保護者に良い家庭が築けることはない。保護者の丁寧な子供の観察、それに基づく接し方。このふたつが揃えば、多くの子供は健全に育ち、その末に健全な大人になると思われる。機能不全家族と思われる家庭で育った犯罪者が余りにも多く感じた。勿論、機能不全家族で育った子供の全てが犯罪を犯すことはない。犯罪を起こすには、きっかけがある筈だ。そんなきっかけに触れないように子供を育てることが、家族の大切な役割とは言えまいか。
精神鑑定を読んで気になった言葉がある。犯罪気質または犯罪病質。これらは得てして生まれ持った物と思われる。心理学や病理学に疎い人間の方がこの世には多いと思われる。それらの大人が犯罪気質・犯罪病質を子供の中に発見できるか。まず難しかろう。そこには、子供に対して客観視できない親などの多さがある。子供に対して欲目を持ち認められない場合もあれば、子供に対して興味を失い気質や病質に気付いても放置してしまうことがある。そんなこんなで、これら気質や病質は芽を出し、悪の花を咲かせる。と、されている。けれど果たして、これら気質や病質は本当に生まれ持ったものばかりなのだろうか。環境により発生し、環境により芽を出し花を咲かせてはいないだろうか。そして私が思うこと。全ての大人に大切なのは、子供に理性を植え付けることではなかろうか。用意周到であれ突発的であれ犯罪を犯す者は皆、理性に欠けていると私は思った。極論だけれどその理性が、人を殺してはいけない・人の物を盗んではいけない、と理詰めで教えられるものではなくても良いと思う。憲法や法律を持ち出さずして殺人を否定でき、他者を納得させられるだけの説得力を持つ人は実は少ない。ならば。人を殺すと・人の物を盗むと捕まって貴方の人生に汚点が残るからやめましょう。こんな教え方でも良いではないか。全ての人間が所謂、良心、を持ち合わせているとは限らない。自己利益の為に犯罪を起こさないという人間も少なからずいる。それでもいい。どんな理由付けでもいいから、犯罪を起こさせないだけの理性、を身につけさせるのが先決だ。例え後者のように教えられても、いずれ良心の下に犯罪への否定心を持てるようになるかもしれない。要はコトを起こさせないようにするべきである。
いろいろな犯罪に触れ、心に残ったのは津山30人殺人事件と三菱銀行のソドムの市。共に、いやその他の犯罪でも気になったのは、残虐さだけでなく犯罪者の心には自己愛の歪みが見られることだ。自己肯定の薄さも気になった。犯罪で以って歪んだ自己肯定を実現させる。犯罪で以って歪んだ自己愛の解決法を探す。不幸である。同情はしない。それでも不幸だ。このふたつの事件の背景には、育てる大人の威厳や愛情の注ぎ方の歪みが見えた。人を育てるのは保護者だけではない。しかし三つ子の魂百迄。幼少期の原体験ともいえる家庭内の環境は、決して無視できるものではない。もうひとつ、気になった事件はロボトミー殺人事件。これは或る事件で捕まった犯人がロボトミー手術を強引に施され、後にその手術の失敗を恨み医師を殺害しようとして医師の家族を殺害した事件。これは時代の不幸とも言えよう。何故この事件が私の琴線に触れたのか。それは私が日々服用している薬が一部で、飲むロボトミー、と揶揄されているからである。この先、私が主治医を恨んで殺害するだろうか。殺害は絶対にしない。けれどまだ新薬の部類に入る故、今後明らかな副作用に悩まされて主治医を恨んでしまう可能性は無きにしも非ず。平山事件の鑑定書の疑問も含め、医療と犯罪の因果関係立証は困難であろう。平山事件は冤罪説濃厚なのでここでは敢えて避けて書くとして、ロボトミー殺人事件は我がことのように気になった。医療事故とはまた違う、医療の進歩と犯罪という点で私には避けて通れない、考えるべき事件と言える。
「くますけと一緒に」「おしまいの日」再読
2004年3月1日 本・映画・音楽など 現在3月17日。
少し前、この2冊を久々に読んだ。これ迄も何度も読んでいる2冊で、その時々の心理状態により感想が変わるという、私の中ではちょっと別格とも言える本である。著者は共に新井素子。「くますけと一緒に」を初めて読んだときは物凄い衝撃を受けた。以下、ネタバレ注意。子供の頃は盲信していた親。思春期になり外部から親子関係の違うあり方を知り、私は親への感情を持て余していた。そんな頃に出会った本だ。手に取ったのはタイトルが可愛かったから。読んでみて……泣いてしまった。そうか、親は嫌ってもいいんだ。親を嫌うことは罪ではないと教えてくれた、私を開眼させてくれた。なっちゃんがくますけと共に家出をする。親よりも好きな人がいること・その人に危害を与えたくないこと、そんな動機での家出。なっちゃんの気持ちはとてもよく解る。この本は親への呪縛に囚われた少女が開放される本だ。手にしてから何度も読んだ。その都度泣いた。泣くシーンは決まって、なっちゃんが親を嫌ってもいいことを信用できる大人に教えてもらうシーン。子供にとって、親の庇護下から逃れることは罪悪だと刷り込まれた子供にとって、この教えは禁忌を破るものであり、おいそれと鵜呑みにはできない。大人は、親は絶対に子供を愛する義務がある・子供は親を嫌う権利があると教える。親への気持ちをどうしていいか解らず……それは親からの呪縛に囚われていた私にとって、閉められたままの古びたカーテンが開き、きらきらとしたお日さまの光が挿すことを感じられるような描写で、私の呪縛も少し解かれた。親だから、育ててくれたからといって必ずしも親を愛する必要はない。勿論、無条件に親を愛せればそれに越したことはないけれど、努力して遠慮に遠慮を重ねて迄強引に親を愛さなければと自分に足枷をつける必要はなかったのだ。
しかし親は子供に愛情を求める。ときには、私はこんなにも貴女を愛しているのに、といった愛情の押し付けで子供に同様の、またはそれ以上の愛情という見返りを求めてくる。私の親もこのタイプだった。育ててくれた恩・感謝と、親への愛情は別物なのだ。それに気付いていながらも私は、親は親から愛情を求められたときに逆らう術を知らなかった。語弊があるか。逆らう術を知っていつつも行動に移せなかった。私は親が与えてくる愛情は押し付けだと気付いており、親自身の自己愛を私に投影したものだとも気付いていた。親は、純粋な愛だ、と主張する。だから私は自身の気付きに自信が持てなかった。どうしていいか解らず、親を愛しているフリを続けてきた。そして……破綻した。愛することを自分に強いて、愛せない自分に後ろめたさとが付き纏い、様々な矛盾を孕んだまま大人になった私は、1年と少し前に心の病を発病した。愛情を求めてくる親へのもやもやした気持ちを外に発散させられず、心の中に押し込めに押し込んだ結果だ。なっちゃんには、親を愛さなくてもいいと教えてくれる大人がいた。これは、物語、だ。果たして世の中にこんな当たり前のことを教えてくれる大人はどれだけいるだろう。現実社会の中で、そんな大人に私は出会ったことがない。私には結婚式を挙げるつもりが更々ない。それは、母親の旦那としか思えない父親とヴァージンロードを歩くことへの抵抗と親への感謝の手紙なんか書けないという心情に基づく。よくある質問。崖から落ちた親と恋人がいてふたりが助けを求めている。さてあなたならどちらを助ける? この問いで、私は親を選んだことがただの一度もない。親は、選べないのだ。今回の再読で、私は泣かなかった。やっと、親は愛さなければならない存在、という足枷から開放されたのか。
そして「おしまいの日」。ネタバレ注意。初読時、私は三津子の日記の表現方法のみが怖かった。再読し、印象が変わった。日記の表現方法は確かに怖い。けれど今回は、そういった視覚効果に基づく怖さとは別の怖さを感じた。三津子は春さんにべったりだ。春さん中心に三津子の日常は回る。春さんと直接関係しない日常は三津子にとっては煩わしいばかりであり、三津子はひたすら四六時中春さんのことだけを考えて生きていたいと願った。そして子供ができ……病んだ。彼女は、春さんの為に、という繕いで以って自身の依存心と彼への追い詰めに言い訳をする。登場人物全員が空回りをする物語。誰もが誰かのことを想い、対象の為に良かれ、と行動をするが、その行動はどれも対象を追い詰めていく。しかしどれひとつとして実を結ばない。けれど誰も悪くはない。悪人はひとりもいないのに全てが破綻に結びついてしまった。いろんな人に、おしまいの日、がやってくる。完璧なる悲劇。良かれと思って、という一個人の感情による行動が他者を追い詰めていくことは多い。そんな気持ちで私も他者を追い詰めてしまったことがある。他者に私が追い詰められてしまったこともある。誰も悪くないから、誰もが解決の糸口を見出せない。そして三津子は壊れた。私も、私以外の他者も、壊れる可能性を秘めている。
新井素子の文体は軽い。だから、怖い。この2冊は同時期に書かれた作品であり、著者の中では対になっている作品だという。「くますけと一緒に」が元々は「開放の日」というタイトル候補だったことも後書で明らかにされている。なっちゃんは開放の日を迎え、三津子はおしまいの日を迎えた。なっちゃんが大人になり、三津子のような悲劇を迎えないとは限らない。この世で最も恐ろしいものは、愛情、なのか。適切ではない愛情を育んでしまう土壌に基準はないだろう。健全な精神の持ち主とて、いつ壊れるかは解らない。そもそも個々の持つその精神が健全であるなどと、誰が断言できようか。三津子だけでなく、なっちゃんを取り巻く環境にも、悪人はいなかった。それでも病んだ。個人の素質が悪いのか、環境が悪いのか。誰も答えられないと思う。ただ、歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。こればかりは誰にもどうしようもない。噛み合わない歯車から逃れる為には、そこから身を引くことだけではないだろうか。そんな歯車の中に身を投じたままでは、誰もが壊れる可能性がある。それでも噛み合わないことに気付きつつ若しくは気付かないままで生活している人は多かろう。大切なのは、自身の気付き、だ。気付きなくして、状況は変えられない。気付くためのアンテナを張り巡らせ、気付いたときの拠所となる思想を持ち合わせることだけが対応策だろう。
少し前、この2冊を久々に読んだ。これ迄も何度も読んでいる2冊で、その時々の心理状態により感想が変わるという、私の中ではちょっと別格とも言える本である。著者は共に新井素子。「くますけと一緒に」を初めて読んだときは物凄い衝撃を受けた。以下、ネタバレ注意。子供の頃は盲信していた親。思春期になり外部から親子関係の違うあり方を知り、私は親への感情を持て余していた。そんな頃に出会った本だ。手に取ったのはタイトルが可愛かったから。読んでみて……泣いてしまった。そうか、親は嫌ってもいいんだ。親を嫌うことは罪ではないと教えてくれた、私を開眼させてくれた。なっちゃんがくますけと共に家出をする。親よりも好きな人がいること・その人に危害を与えたくないこと、そんな動機での家出。なっちゃんの気持ちはとてもよく解る。この本は親への呪縛に囚われた少女が開放される本だ。手にしてから何度も読んだ。その都度泣いた。泣くシーンは決まって、なっちゃんが親を嫌ってもいいことを信用できる大人に教えてもらうシーン。子供にとって、親の庇護下から逃れることは罪悪だと刷り込まれた子供にとって、この教えは禁忌を破るものであり、おいそれと鵜呑みにはできない。大人は、親は絶対に子供を愛する義務がある・子供は親を嫌う権利があると教える。親への気持ちをどうしていいか解らず……それは親からの呪縛に囚われていた私にとって、閉められたままの古びたカーテンが開き、きらきらとしたお日さまの光が挿すことを感じられるような描写で、私の呪縛も少し解かれた。親だから、育ててくれたからといって必ずしも親を愛する必要はない。勿論、無条件に親を愛せればそれに越したことはないけれど、努力して遠慮に遠慮を重ねて迄強引に親を愛さなければと自分に足枷をつける必要はなかったのだ。
しかし親は子供に愛情を求める。ときには、私はこんなにも貴女を愛しているのに、といった愛情の押し付けで子供に同様の、またはそれ以上の愛情という見返りを求めてくる。私の親もこのタイプだった。育ててくれた恩・感謝と、親への愛情は別物なのだ。それに気付いていながらも私は、親は親から愛情を求められたときに逆らう術を知らなかった。語弊があるか。逆らう術を知っていつつも行動に移せなかった。私は親が与えてくる愛情は押し付けだと気付いており、親自身の自己愛を私に投影したものだとも気付いていた。親は、純粋な愛だ、と主張する。だから私は自身の気付きに自信が持てなかった。どうしていいか解らず、親を愛しているフリを続けてきた。そして……破綻した。愛することを自分に強いて、愛せない自分に後ろめたさとが付き纏い、様々な矛盾を孕んだまま大人になった私は、1年と少し前に心の病を発病した。愛情を求めてくる親へのもやもやした気持ちを外に発散させられず、心の中に押し込めに押し込んだ結果だ。なっちゃんには、親を愛さなくてもいいと教えてくれる大人がいた。これは、物語、だ。果たして世の中にこんな当たり前のことを教えてくれる大人はどれだけいるだろう。現実社会の中で、そんな大人に私は出会ったことがない。私には結婚式を挙げるつもりが更々ない。それは、母親の旦那としか思えない父親とヴァージンロードを歩くことへの抵抗と親への感謝の手紙なんか書けないという心情に基づく。よくある質問。崖から落ちた親と恋人がいてふたりが助けを求めている。さてあなたならどちらを助ける? この問いで、私は親を選んだことがただの一度もない。親は、選べないのだ。今回の再読で、私は泣かなかった。やっと、親は愛さなければならない存在、という足枷から開放されたのか。
そして「おしまいの日」。ネタバレ注意。初読時、私は三津子の日記の表現方法のみが怖かった。再読し、印象が変わった。日記の表現方法は確かに怖い。けれど今回は、そういった視覚効果に基づく怖さとは別の怖さを感じた。三津子は春さんにべったりだ。春さん中心に三津子の日常は回る。春さんと直接関係しない日常は三津子にとっては煩わしいばかりであり、三津子はひたすら四六時中春さんのことだけを考えて生きていたいと願った。そして子供ができ……病んだ。彼女は、春さんの為に、という繕いで以って自身の依存心と彼への追い詰めに言い訳をする。登場人物全員が空回りをする物語。誰もが誰かのことを想い、対象の為に良かれ、と行動をするが、その行動はどれも対象を追い詰めていく。しかしどれひとつとして実を結ばない。けれど誰も悪くはない。悪人はひとりもいないのに全てが破綻に結びついてしまった。いろんな人に、おしまいの日、がやってくる。完璧なる悲劇。良かれと思って、という一個人の感情による行動が他者を追い詰めていくことは多い。そんな気持ちで私も他者を追い詰めてしまったことがある。他者に私が追い詰められてしまったこともある。誰も悪くないから、誰もが解決の糸口を見出せない。そして三津子は壊れた。私も、私以外の他者も、壊れる可能性を秘めている。
新井素子の文体は軽い。だから、怖い。この2冊は同時期に書かれた作品であり、著者の中では対になっている作品だという。「くますけと一緒に」が元々は「開放の日」というタイトル候補だったことも後書で明らかにされている。なっちゃんは開放の日を迎え、三津子はおしまいの日を迎えた。なっちゃんが大人になり、三津子のような悲劇を迎えないとは限らない。この世で最も恐ろしいものは、愛情、なのか。適切ではない愛情を育んでしまう土壌に基準はないだろう。健全な精神の持ち主とて、いつ壊れるかは解らない。そもそも個々の持つその精神が健全であるなどと、誰が断言できようか。三津子だけでなく、なっちゃんを取り巻く環境にも、悪人はいなかった。それでも病んだ。個人の素質が悪いのか、環境が悪いのか。誰も答えられないと思う。ただ、歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。こればかりは誰にもどうしようもない。噛み合わない歯車から逃れる為には、そこから身を引くことだけではないだろうか。そんな歯車の中に身を投じたままでは、誰もが壊れる可能性がある。それでも噛み合わないことに気付きつつ若しくは気付かないままで生活している人は多かろう。大切なのは、自身の気付き、だ。気付きなくして、状況は変えられない。気付くためのアンテナを張り巡らせ、気付いたときの拠所となる思想を持ち合わせることだけが対応策だろう。
PCが逝ってしまった
2004年2月29日 その他生活 現在、3月5日。
2月29日。私のPCが逝ってしまった。その少し前から不調だなあとは思いつつ騙し騙し使っていたけれど、29日の昼寝中、PCをつけっぱなしにしたまま昼寝して、夕方起きたら……死亡。享年1年半。現在使っているのはうちののサブPC。こちらも不調でやはり騙し騙し使っている状態。OSの再インスト迄したけれど、どうもエラーが出易い。で、逝った私のPC。もらい物の自作機である。修理に出すにももらい物であるからして出すべき場所も解らず、初めて自分で箱を開けてみた。汚い! 取り敢えず埃を取り除き、いろんな部分の接続を弄ってみた。知識皆無故に抜いたり挿したり位しか弄り方が解らないのだ。懸命に復旧に望む私の姿を見て、私よりは数百倍はPCに詳しいであろううちのが、ちょっと弄ってやろうか? と申し出てくれた。私は今回の故障にあたり、電源部分の接続不良と読んでいた。うちのはHDDあぼーんと思っていた模様。うちのが弄ってくれている間、門外漢の私はすることがないので深夜だけれどコンビニに買出し。お菓子などをたんまり買い込んで戻ってきても直っていなかった。……俺の手には負えないよ、バックアップは取ってあるの? こんなすぐに逝くとは思っていなかったので不調と知りつつもバックアップを完璧に怠っていた間抜けは私である。因ってメールチェックもできなければ、ややこしいIDやpassを求められるここや東風荘は当分お預けとなった。自業自得。東風荘は我慢するとしても、日記を書けないのがつらかったので、さっきこの臨時日記ページをレンタルした。後日、復旧したらhttp://diary.note.ne.jp/d/39966/に丸ごと移す。そしてまたPCが不調になったらhttp://diary.note.ne.jp/d/45877/へ。
復旧予定は一応今週末。私にPCをくれたのは、某巨大掲示板の某プロジェクト参加者の皆様。一昨年、そのオフ会でPCの自作をしている方々が不要パーツを持ち寄って組み立てた物をいただいたのだ。で、PCの電源が入らない旨をその方々が集まるサイトの掲示板に書き込んでみたところ、マザーボードの某箇所を確認してみて、とのこと。急いで確認。これか! マザーボードのメーカに修理の問い合わせをすると、約7000円かかると言われ、うちのに修理代の話をすると、新品買えるじゃん、と。確かに。そんな中、ご親切に修理を試みてくださるという方々が登場。甘えさせていただくことに。最悪、直らなければホワイトデイにマザーボードを買ってもらおう。アクセサリーもいいけどルンバが欲しいと思っていた私としては、プレゼントがマザーボードという色気もへったくれもないめっさ実務的な物になってしまうのは何となく悲しかったりもするけれど、私の日常にPCがなくなるのはもっともっと悲しいので良しとする。
上記に書いた、ルンバ、も実用的で色気も何もない代物である。ルンバとはお掃除ロボット。起動音はやや大き目らしいけれど、日中に使う分には問題ないらしい。部屋の角迄は掃除も行き届かないらしいけれどそれでも良し。広い部分を勝手に移動しつつ掃除してくれて、私は角だけを掃除すればよくなるのだ。なんて素晴らしいロボットなのだろう! 食洗機に次ぐ主婦の味方である。うちのにルンバの素晴らしさをとくと語って聞かせたところ、この部屋は角ばかりじゃないか、との突き放した言葉が。確かに。カラーボックスやら無印良品の衣装箱やらでやたらと角の多い部屋だ。うーむ……。私の持論としては、家具や家電は生活費で賄う物、である。けれど家具も家電もそれなりの物を求めれば高価になるし、ルンバの存在を知ってからは家電+安価なアクセサリーなどをプレゼントとしてもらうのも悪くないかな、と思うようになってきた。食洗機とか、ルンバとか、ミシンとか、布団乾燥機とか……。欲しい家電はいろいろあるのだ。家電と言えばアイロン。去年末、嬉々としてアイロン台を購入した。これでうちでもアイロンがかけられる! けれどまだ1度も使用していない。そもそもうちではふたりともハンカチを持ち歩く習慣は余りないし、衣類にしてもアイロンかけ不要を重視して購入することも多く必要不可欠な家電ではなかったらしい。よくよく考えてみれば、うちのと暮らして4年強、アイロンを使っていなかったのだから何を今更な話ではある。先日、私の収納が杜撰でうちのに、皺が酷くて着ていけない、と言われて出されたシャツがあったが面倒で消臭兼皺取りスプレーをかけまくって1晩放置して着ていってもらった。果たしてうちでアイロンを使う日がくるのはいつだろう。
家電とくれば家事である。さっき、今年初めて掃除機をかけた。砂の飛び散りやダンボールのカスや髪の毛や小動物の毛がカーペットについていて、うちのは相当に不快だったらしく何度も掃除しろと言われていたのだけれど、私はさほど気にならず放置していた。なのに何故今日、掃除機をかけたのか。それはまだ予定ではあるけれど今週末にPC修理の為に有志の方々がうちまで参上してくれることになったからである。どうせならマザー以外もチェックしてもらいたくて自宅を修理場所に私から指定させてもらったのだけれど、ふと見回すととてもじゃないけれど他人様に上がってもらえる状態ではない。掃除しなきゃだ、とんでもない提案をしてしまった、と後悔先に立たず。仕方がないから居間に掃除機をかけた。ついでだからエアコンと網戸にも掃除機をかけた。シャキ奥からすれば当然毎日することなのだろうが、ダラな私には重労働。掃除機をかけるためには万年床を干さねばならないからだ。うちには押入れがない為、布団を上げようにも部屋の端に畳んで置くことになる。そして掃除の習慣がないので布団全体に髪の毛やら小動物の毛やら埃やらがついており、空いたスペースに掃除機をかける→布団を移動→布団を置いていた場所に掃除機をかける→布団を戻す→またカーペットに諸々が付くので掃除機をかける、の無限ループに陥る。疲れるじゃないか! だから掃除機は布団を干したときにかけるのだ。ならば毎日布団を干せば……とはいかない。うちのベランダは狭く、洗濯物を干すと布団は干せなくなる。この時期は寒くて洗濯物の乾きが遅いので2〜3日はベランダに出しっ放し。室内干しをするにも部屋そのものも狭いので圧迫感が増してうちのの機嫌が悪くなる。また布団を干して掃除を、と思うと普段しなれないことをしようとするせいか雨が降ったり。ああ、引越し欲が湧いてきてしまった。でも荷造りや荷解きが面倒だからいいや。そもそもうちには滅多に他者はこないし。
2月29日。私のPCが逝ってしまった。その少し前から不調だなあとは思いつつ騙し騙し使っていたけれど、29日の昼寝中、PCをつけっぱなしにしたまま昼寝して、夕方起きたら……死亡。享年1年半。現在使っているのはうちののサブPC。こちらも不調でやはり騙し騙し使っている状態。OSの再インスト迄したけれど、どうもエラーが出易い。で、逝った私のPC。もらい物の自作機である。修理に出すにももらい物であるからして出すべき場所も解らず、初めて自分で箱を開けてみた。汚い! 取り敢えず埃を取り除き、いろんな部分の接続を弄ってみた。知識皆無故に抜いたり挿したり位しか弄り方が解らないのだ。懸命に復旧に望む私の姿を見て、私よりは数百倍はPCに詳しいであろううちのが、ちょっと弄ってやろうか? と申し出てくれた。私は今回の故障にあたり、電源部分の接続不良と読んでいた。うちのはHDDあぼーんと思っていた模様。うちのが弄ってくれている間、門外漢の私はすることがないので深夜だけれどコンビニに買出し。お菓子などをたんまり買い込んで戻ってきても直っていなかった。……俺の手には負えないよ、バックアップは取ってあるの? こんなすぐに逝くとは思っていなかったので不調と知りつつもバックアップを完璧に怠っていた間抜けは私である。因ってメールチェックもできなければ、ややこしいIDやpassを求められるここや東風荘は当分お預けとなった。自業自得。東風荘は我慢するとしても、日記を書けないのがつらかったので、さっきこの臨時日記ページをレンタルした。後日、復旧したらhttp://diary.note.ne.jp/d/39966/に丸ごと移す。そしてまたPCが不調になったらhttp://diary.note.ne.jp/d/45877/へ。
復旧予定は一応今週末。私にPCをくれたのは、某巨大掲示板の某プロジェクト参加者の皆様。一昨年、そのオフ会でPCの自作をしている方々が不要パーツを持ち寄って組み立てた物をいただいたのだ。で、PCの電源が入らない旨をその方々が集まるサイトの掲示板に書き込んでみたところ、マザーボードの某箇所を確認してみて、とのこと。急いで確認。これか! マザーボードのメーカに修理の問い合わせをすると、約7000円かかると言われ、うちのに修理代の話をすると、新品買えるじゃん、と。確かに。そんな中、ご親切に修理を試みてくださるという方々が登場。甘えさせていただくことに。最悪、直らなければホワイトデイにマザーボードを買ってもらおう。アクセサリーもいいけどルンバが欲しいと思っていた私としては、プレゼントがマザーボードという色気もへったくれもないめっさ実務的な物になってしまうのは何となく悲しかったりもするけれど、私の日常にPCがなくなるのはもっともっと悲しいので良しとする。
上記に書いた、ルンバ、も実用的で色気も何もない代物である。ルンバとはお掃除ロボット。起動音はやや大き目らしいけれど、日中に使う分には問題ないらしい。部屋の角迄は掃除も行き届かないらしいけれどそれでも良し。広い部分を勝手に移動しつつ掃除してくれて、私は角だけを掃除すればよくなるのだ。なんて素晴らしいロボットなのだろう! 食洗機に次ぐ主婦の味方である。うちのにルンバの素晴らしさをとくと語って聞かせたところ、この部屋は角ばかりじゃないか、との突き放した言葉が。確かに。カラーボックスやら無印良品の衣装箱やらでやたらと角の多い部屋だ。うーむ……。私の持論としては、家具や家電は生活費で賄う物、である。けれど家具も家電もそれなりの物を求めれば高価になるし、ルンバの存在を知ってからは家電+安価なアクセサリーなどをプレゼントとしてもらうのも悪くないかな、と思うようになってきた。食洗機とか、ルンバとか、ミシンとか、布団乾燥機とか……。欲しい家電はいろいろあるのだ。家電と言えばアイロン。去年末、嬉々としてアイロン台を購入した。これでうちでもアイロンがかけられる! けれどまだ1度も使用していない。そもそもうちではふたりともハンカチを持ち歩く習慣は余りないし、衣類にしてもアイロンかけ不要を重視して購入することも多く必要不可欠な家電ではなかったらしい。よくよく考えてみれば、うちのと暮らして4年強、アイロンを使っていなかったのだから何を今更な話ではある。先日、私の収納が杜撰でうちのに、皺が酷くて着ていけない、と言われて出されたシャツがあったが面倒で消臭兼皺取りスプレーをかけまくって1晩放置して着ていってもらった。果たしてうちでアイロンを使う日がくるのはいつだろう。
家電とくれば家事である。さっき、今年初めて掃除機をかけた。砂の飛び散りやダンボールのカスや髪の毛や小動物の毛がカーペットについていて、うちのは相当に不快だったらしく何度も掃除しろと言われていたのだけれど、私はさほど気にならず放置していた。なのに何故今日、掃除機をかけたのか。それはまだ予定ではあるけれど今週末にPC修理の為に有志の方々がうちまで参上してくれることになったからである。どうせならマザー以外もチェックしてもらいたくて自宅を修理場所に私から指定させてもらったのだけれど、ふと見回すととてもじゃないけれど他人様に上がってもらえる状態ではない。掃除しなきゃだ、とんでもない提案をしてしまった、と後悔先に立たず。仕方がないから居間に掃除機をかけた。ついでだからエアコンと網戸にも掃除機をかけた。シャキ奥からすれば当然毎日することなのだろうが、ダラな私には重労働。掃除機をかけるためには万年床を干さねばならないからだ。うちには押入れがない為、布団を上げようにも部屋の端に畳んで置くことになる。そして掃除の習慣がないので布団全体に髪の毛やら小動物の毛やら埃やらがついており、空いたスペースに掃除機をかける→布団を移動→布団を置いていた場所に掃除機をかける→布団を戻す→またカーペットに諸々が付くので掃除機をかける、の無限ループに陥る。疲れるじゃないか! だから掃除機は布団を干したときにかけるのだ。ならば毎日布団を干せば……とはいかない。うちのベランダは狭く、洗濯物を干すと布団は干せなくなる。この時期は寒くて洗濯物の乾きが遅いので2〜3日はベランダに出しっ放し。室内干しをするにも部屋そのものも狭いので圧迫感が増してうちのの機嫌が悪くなる。また布団を干して掃除を、と思うと普段しなれないことをしようとするせいか雨が降ったり。ああ、引越し欲が湧いてきてしまった。でも荷造りや荷解きが面倒だからいいや。そもそもうちには滅多に他者はこないし。