右目下瞼の腫れが半端なく酷くなり、見るも無残な逆お岩さん状態に。瞬きも痛く、堪らず眼科に行ってきた。生まれて初めての眼科。診察開始時間より早く言ったにも拘らず、受付を済ませ検査・診察を経て点眼薬を処方される迄にかかるは約2時間。無為な時間と思いきや、得るものあり。視力が上がっていた。両目共に1.2。そんなことはどうでもいいとして。ここ迄とは思わずともある程度は待たされることを視野に入れ、文庫本を持って行っていた。小林恭二の三島賞受賞作「カブキの日」。文庫購入から軽く1年は経っている本。何故読了がこんなに遅くなったのか、それは単に詰まらなかったからである。序盤は実に遅々として進められる。特に私は風景描写が長引くと飽きがくる性質である。眼科の待ち時間に差し掛かった中盤から一気に引き込まれた。何故こんなに長く、ともすると平坦とも思われる描写を淡々と綴ったのか。それは、終盤の数ページの為だけであったように思う。以下、ネタバレ注意。
私は歌舞伎にも能にも狂言にも明るくない。日本の伝統芸能への知識は、近世文学の授業で少し齧ったのみである。その知識も積年毎に薄れてきている。それでも基礎知識として知っている、歌舞伎役者の発端は河原乞食であった事実。士農工商に入れられなかった、蔑まれるべき存在として位置づけられた人々が生み出した、芸能、と呼ばれるもの。現代は、その河原乞食の子孫たちにファンや贔屓がつく時代。変われば変わるものである。伝統芸能、と書けば言えば聞こえは良いが、元は人の下のヒトのものであり、当時の役者や今の役者は果たしてそのような過去をどのように昇華して演じているのか。私はそんなことに今迄興味がなかった。ただ齧った知識でのみ、何故執拗な迄に伝統を重んじるのか、と疑問に思っていただけである。作中で顔見世に登場する役者たち。華やかでありながら腹の中は黒く渦巻き、その有様は魑魅魍魎にも似て読める。華やかな魑魅魍魎が跋扈する世界座は、さながら艶やかなカラクリ箱。カラクリ箱の3階は阿片窟の様相にして、黄泉のような、涅槃のような場所であるらしい。阿片窟に招かれた蕪と月彦はあくまで、無垢、の象徴であり汚されることはない。穢されては物語が成立しない。その無垢さを引き立たせる魑魅魍魎は、どんなに華やかに描かれようとも彼女らの引き立て役にしかならない。これは仕方がないことなのか。それとも小林の筆力が、引き立て役を作らねば彼女らの無垢さを引き出せない程度に落ちてしまったのか。私は小林の処女作「電話男」からのファンである。電話男の醜さは、美しい存在を描かずとも引き出されていた。対して蕪と月彦の存在は、汚らしい人々を描いてやっと光が射す。小林の力量の所為ではないだろう。文筆にあたり、汚らしいものや歪んだものははただそれだけで描写することが可能でも、輝くものは対比なくしては立たせ難いのではなかろうか。飽食の果て御馳走を御馳走とは思えなくなった先進国住人の胃袋のように、数多の俗欲の中で生活をする者に砂金は金としての価値を見出せないことに等しい。小銭と並べられなければ札束の価値が解らない程に、このような薄汚い対比が真っ先に思い浮かんだ私には、無垢、は難しい存在なのである。そして無垢とは本質であり、美の基本として本作では綴られている。無垢の象徴は蕪と月彦。蕪だけでは若しくは月彦だけではいけなかったのだろうか。美とは対であるべきものなのか。どうやらそうらしい。美醜も生死も対である。蕪は奔放=動=生であり月彦は抑制=静=死であり、且つ蕪と月彦ふたりの存在が動=生であり、彼らが去った空間は即ち静=死に等しい。
河原乞食たちが芸能と呼ばれるものを作ったのは、食べてゆく為である。唄って舞って銭を頂戴する。唄や舞は金銭授受の手段であり、それが磨かれれば磨かれる程に得るものもきっと大きくなっていったのだろう。作中中盤迄、磨くとはまず原型ありて為し得ることでありそれが、伝統、の正体であるかのように書かれている。そして磨いてゆくうちに或る原型はその姿をより大きくし、或る原型はその原型を留めない姿になってゆく。また時代と共に原型の意味がなくなるものもある。私には解らない。原型、とは本当に原型なのだろうか。発生したその瞬間が原型の誕生とは、こと伝統芸能に関しては全く以って思えない。かといって、原型が発生以前からあったものなのか、それとも発生以後ある程度磨かれてから原型とされるようになったのか、作品内で答えは出されている。そしてその答えは、ひとつの正解であろうと思われる。しかし実際に今現実世界で行われている、伝統芸能、に照らし合わせてみると、作品の答えと現実世界は連動していない。小説、所詮は作り話だからなのか。それともこの作品は予言なのか。
この世に文字が発生し確立した時点で、全ての記録が模られていれば、と思う。私たちの歴史は、たった100年前のことですら曖昧である。物事を知る為に、歴史を学ぶことは大切であるけれども、今伝えられている歴史が事実かどうかは解らない。さり気なくそんなことにも言及している作品。されば現と幻の境界も引けやしない。真偽は各々の脳に心に委ねられる。小林は現と幻の境界を曖昧にすることに長けた作家である。物語を物語として完結させない。これは読了後に余韻を残すことの比喩ではなく、物語の真偽を読者に委ねる作家だ、と私が認識しているからだ。小林の作品はいわば挑戦である。冗長は序章に過ぎず、本質はたった数ページ。この数ページに至る迄に、まず読者は篩にかけられる。そして読了後は何を以ってこの小説の真とするか。読者が導き出す真と作者が意図する真は同一とは限らない。けれどクラシックに於いて作曲者の意思が絶対であるように、こと小林の作品では作者の意思は絶対のように思える。小林の意図せぬ真は全て幻ではなかろうか。これ迄の作品では、小林は御丁寧にもきちんと夢と現、小説世界と現実世界の線引きを名称に因ってきちんとしてくれいていた。その親切をこの作品で捨てたようである。これは小林の成熟、熟練による驕りではなく、作家としての意思の強まりと私は感じた。詰まらんのう、と思いつつだらだら読んでいた本が、一気に化けた。こういう本は宝物になる。そして私は久々に小林贔屓の気持ちが強まったのであった。
服/as know asの1点物ノースリーブパイルチュニック+カーキの裾絞りカーゴパンツ+下駄+一澤帆布の国防色ミニトート
私は歌舞伎にも能にも狂言にも明るくない。日本の伝統芸能への知識は、近世文学の授業で少し齧ったのみである。その知識も積年毎に薄れてきている。それでも基礎知識として知っている、歌舞伎役者の発端は河原乞食であった事実。士農工商に入れられなかった、蔑まれるべき存在として位置づけられた人々が生み出した、芸能、と呼ばれるもの。現代は、その河原乞食の子孫たちにファンや贔屓がつく時代。変われば変わるものである。伝統芸能、と書けば言えば聞こえは良いが、元は人の下のヒトのものであり、当時の役者や今の役者は果たしてそのような過去をどのように昇華して演じているのか。私はそんなことに今迄興味がなかった。ただ齧った知識でのみ、何故執拗な迄に伝統を重んじるのか、と疑問に思っていただけである。作中で顔見世に登場する役者たち。華やかでありながら腹の中は黒く渦巻き、その有様は魑魅魍魎にも似て読める。華やかな魑魅魍魎が跋扈する世界座は、さながら艶やかなカラクリ箱。カラクリ箱の3階は阿片窟の様相にして、黄泉のような、涅槃のような場所であるらしい。阿片窟に招かれた蕪と月彦はあくまで、無垢、の象徴であり汚されることはない。穢されては物語が成立しない。その無垢さを引き立たせる魑魅魍魎は、どんなに華やかに描かれようとも彼女らの引き立て役にしかならない。これは仕方がないことなのか。それとも小林の筆力が、引き立て役を作らねば彼女らの無垢さを引き出せない程度に落ちてしまったのか。私は小林の処女作「電話男」からのファンである。電話男の醜さは、美しい存在を描かずとも引き出されていた。対して蕪と月彦の存在は、汚らしい人々を描いてやっと光が射す。小林の力量の所為ではないだろう。文筆にあたり、汚らしいものや歪んだものははただそれだけで描写することが可能でも、輝くものは対比なくしては立たせ難いのではなかろうか。飽食の果て御馳走を御馳走とは思えなくなった先進国住人の胃袋のように、数多の俗欲の中で生活をする者に砂金は金としての価値を見出せないことに等しい。小銭と並べられなければ札束の価値が解らない程に、このような薄汚い対比が真っ先に思い浮かんだ私には、無垢、は難しい存在なのである。そして無垢とは本質であり、美の基本として本作では綴られている。無垢の象徴は蕪と月彦。蕪だけでは若しくは月彦だけではいけなかったのだろうか。美とは対であるべきものなのか。どうやらそうらしい。美醜も生死も対である。蕪は奔放=動=生であり月彦は抑制=静=死であり、且つ蕪と月彦ふたりの存在が動=生であり、彼らが去った空間は即ち静=死に等しい。
河原乞食たちが芸能と呼ばれるものを作ったのは、食べてゆく為である。唄って舞って銭を頂戴する。唄や舞は金銭授受の手段であり、それが磨かれれば磨かれる程に得るものもきっと大きくなっていったのだろう。作中中盤迄、磨くとはまず原型ありて為し得ることでありそれが、伝統、の正体であるかのように書かれている。そして磨いてゆくうちに或る原型はその姿をより大きくし、或る原型はその原型を留めない姿になってゆく。また時代と共に原型の意味がなくなるものもある。私には解らない。原型、とは本当に原型なのだろうか。発生したその瞬間が原型の誕生とは、こと伝統芸能に関しては全く以って思えない。かといって、原型が発生以前からあったものなのか、それとも発生以後ある程度磨かれてから原型とされるようになったのか、作品内で答えは出されている。そしてその答えは、ひとつの正解であろうと思われる。しかし実際に今現実世界で行われている、伝統芸能、に照らし合わせてみると、作品の答えと現実世界は連動していない。小説、所詮は作り話だからなのか。それともこの作品は予言なのか。
この世に文字が発生し確立した時点で、全ての記録が模られていれば、と思う。私たちの歴史は、たった100年前のことですら曖昧である。物事を知る為に、歴史を学ぶことは大切であるけれども、今伝えられている歴史が事実かどうかは解らない。さり気なくそんなことにも言及している作品。されば現と幻の境界も引けやしない。真偽は各々の脳に心に委ねられる。小林は現と幻の境界を曖昧にすることに長けた作家である。物語を物語として完結させない。これは読了後に余韻を残すことの比喩ではなく、物語の真偽を読者に委ねる作家だ、と私が認識しているからだ。小林の作品はいわば挑戦である。冗長は序章に過ぎず、本質はたった数ページ。この数ページに至る迄に、まず読者は篩にかけられる。そして読了後は何を以ってこの小説の真とするか。読者が導き出す真と作者が意図する真は同一とは限らない。けれどクラシックに於いて作曲者の意思が絶対であるように、こと小林の作品では作者の意思は絶対のように思える。小林の意図せぬ真は全て幻ではなかろうか。これ迄の作品では、小林は御丁寧にもきちんと夢と現、小説世界と現実世界の線引きを名称に因ってきちんとしてくれいていた。その親切をこの作品で捨てたようである。これは小林の成熟、熟練による驕りではなく、作家としての意思の強まりと私は感じた。詰まらんのう、と思いつつだらだら読んでいた本が、一気に化けた。こういう本は宝物になる。そして私は久々に小林贔屓の気持ちが強まったのであった。
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レクイエムは「シンパシー」
2004年6月6日 本・映画・音楽など 去年末の入院騒動からライヴやイベントへの参加を禁止されていた私。半年我慢した。もう限界。そして秋のツアーの前の公開済みライヴ予定は名阪のみ。ということで、苦い顔をするうちのを尻目に、都内某所で数ヶ月に1度開催されるハードロック喫茶に行ってきた。開始23時半で終了5時くらい。マスターの好きな音楽と客からの漠然としたリクエストと客からの挑戦状と称される持込皿及びCDが、どかどかな大音量でかけられそれらを聴かせてもらえるイベントである。小屋に入って陣取ったのはドリンクカウンターの近く。理由は(以下略。右も左も左前も知り合いサンばかり。いろんな人に、久しぶりー! 大丈夫だった? と声をかけられた。お恥ずかしい。お恥ずかしい。一晩の入院で済んだことを伝えると皆、もう呑んじゃダメよ、気をつけてね、お大事にね、など。あのときのことは忘れてください、と言うのを忘れてしまった。愛しの君はいつの間にやら来ていた。存在を確認し、去年末にお騒がせしたことを詫びると、いやいや大変だったね、年賀状を読んで無事は確認できていたから、今日はほどほどに、などのお言葉を頂戴した。因って昨日はチケットについてくる1ドリンクでオレンジジュースを飲み、後は持参した麦茶。本当はドリンク持込はいけないのだろうが、ノンアルコールドリンクのメニューには私が苦手な物も多く、ウーロン茶は好きだけれどカフェインが入っていることもあり、まず大丈夫ではあるけれどより慎重に行動しようと決めたからには、麦茶持参は仕方がないと個人的には思う。小屋の収入減に繋がってはいるが、救急車を呼ぶことを考えると安い物だと思っていただきたい。客の全てが健康体ではないのである。
イベントでは最初マスターの好きな曲が数曲かけられ、それからリクエストコーナーへ。私は3枚のリクエストカードを提出し、2枚採用された。嬉しき出来事。ひとつは、マスター父と同じくバンドの音になってしまうとベースの音が拾えなくなるので、ベースが聴き取り易い曲をお願いします。マスターは、文面からしてマスター所属の某バンドのファンなのでしょうが、この人にとってライヴでの僕の存在は何なのでしょう、と。会場爆笑。私は肩をすくめて心の中で、パフォーマです……。言うなれば、電気グルーヴに於けるピエール瀧のような……。楽器は弾いておられますが……。このリクエストに対しては5曲、ベースのイントロから始まる曲をかけてくれた。3曲目と5曲目がかなり解り易かった。が、それらのタイトルをメモするのを忘れてしまった。莫迦だ。その真ん中4曲目がアイアン・メイデンだったのはちゃんと覚えているのに。もうひとつ採用されたのは、先月死んでしまった草食にどかどか煩いレクイエムをお願いします。ここでかけてくれた曲は、マスターに頼んでアーティスト名・アルバム名・曲タイトルをメモ書きしてもらった。ユーライア・ヒープの「ファイアフライ」の「シンパシー」。近々買いに行こう。昨日はゲスト招待がなかったので、実に適度な混み具合。その中でふたつもリクエストに応えてくれたのは幸運だったのだろう。マスター、有難うございました。終盤にかけられた愛しの君持参のなぎら健壱の漫談だか語りだかのCD。相当に面白く客席も沸いたが、ちっともハードロックである筈がなくマスターはやや不満だった様子。9月もまた行く予定。
ゲスト設定はなかったけれど、愛しの君と新ドラマーが中盤にステージ上へ。事実上の新ドラマーお披露目か。ぃぇ〜ぃと陰鬱な気分になるかと思いきや、想像以上にトークの上手い人だった。尤もその想像自体が下の下の下位だったので、ちょっとまともな喋りが聞ければ即ち、トークが上手い、に変換されるようなものだったのだが。とにかく喋る人だった。マスターも愛しの君も冗長にぼそぼそと喋るタイプなので、元気一杯にテキパキ喋るその姿に微妙な気分。バンドに於いて吉と出るか凶と出るか。履歴紹介を聞く限りでは、下手な人ではなさそうでその点では安心感を得られた。ただ手数の多さは不明。上手くても手数が少ないと私には物足りないのだ。逆にリズムが解らなくなるくらいにどかどかとあらん限りの部品を叩くドラマーが好き。現在は0時から6時迄が練習時間らしい。深夜の。おかしいって。それにかこつけて3時位に、昼食の時間なので、とピンクフロイドを回しっ放しにしてステージ上で食事をするのはどうよ? OK。面白いから。そしてレコーディングの最中らしい。やはり愛しの君の曲作りが進んでいない模様。新ドラマーは経験豊かな人らしいのに、曰く、このバンドの曲の作り方は新鮮だ、とのこと。というのも、新ドラマーが今迄に経験してきた曲作りは、曲の頭から順に作り進めていくやり方だったとか。それに対しこのバンドの曲作りは、最初に恰好いいフレーズを決めて、そこから全体を作っていく、と。思うに、それはきっと練習に適当なデモテープを持参するマスターの曲の作り方ではなかろうか。私が知る限り、完璧主義の愛しの君の曲作りは中途半端なままではメンバーにも曲を発表せず、個人的に完璧に仕上げてからバンドに持ち込む形だったと思うのだが。変わったのか? 新ドラマーは既存曲のうち7〜8曲は取得した模様。「天国に結ぶ恋」は凄い、と言っていた。確かにこれも凄いのだが、その頃の曲だと「夜叉ヶ池」の方が凄いと個人的には思う。「相剋の家」も取得済みらしい。ライヴで聴けるのだろうか。この曲が下手だったら私は確実に怒るし、満足いくプレイをしてくれたらリスペクト。
私の音楽の聴き方。ベースが聴き取り難いのは前述の通り。ベースが単調にリズムを刻んでいるとドラムとごっちゃになり、ベースがメロディを奏でるとギターとごっちゃになる。重くて手数が多くて速いのが好き。で、昨日のイベントで気がついた。私はドラムをかなり重視して曲を聴いている。昔はボーカルを中心に聴いていたのに、いつの間にかドラム中心になっていたようだ。その気付きは、重さ・手数・速さ、このどれもが曲の構成に於いてドラムに比重がかかるから。このみっつの次に重視する好きポイントは歪み。これはドラムではなかなか出せない。顕著に歪が出せるのはギターだ。ベースは……、ベースがいなければバンドは成り立たないと言われるが、聴き取り難い私にとってはおま(以下略。ベースの音をちゃんと拾えるようになれば変わるのだろうか。数人の友人は、CDなどの音源で聴いて楽器それぞれの音をきちんと分けて拾えると言う。尊敬。CDでは絶対に無理だ。私はCDではドラム≧ボーカル≧ギター>>>>>ベース。ライヴではギター>ボーカル>>ドラム>>ベース。愛しの君がベース奏者なら違ったかな。いや、愛しの君が愛しの君とはなっていなかったかもだ。朝、帰宅したら今に撤去した筈の灰皿があり、うちのの吸殻が多数残っていた。笑った。
服/コキュの水色アオザイ+ナショナルスタンダードの7分丈デニム+コキュの金魚刺繍ミュール+ベージュの変形カーディガン+ツモリのメッシュ地ベージュ手提げ鞄+アナスイの蝶とクリアビーズとチェーンのぶら下がりピアス+同ブレスレット+とんぼ玉ヘアゴム+ラインストーン付き青いヘアピン5本
メイク/アナスイの下地→下地→カバーマークコンシーラ→スティラのフレグランスカラーブックの真ん中左と下段2色→FSPのアクアストロボのトロ→スティラ同ブック上段2色→ランコムのマジィーシル02→アナスイのアイブロウパウダー→ポール&ジョーのリップスティック26番→スイドリーム
イベントでは最初マスターの好きな曲が数曲かけられ、それからリクエストコーナーへ。私は3枚のリクエストカードを提出し、2枚採用された。嬉しき出来事。ひとつは、マスター父と同じくバンドの音になってしまうとベースの音が拾えなくなるので、ベースが聴き取り易い曲をお願いします。マスターは、文面からしてマスター所属の某バンドのファンなのでしょうが、この人にとってライヴでの僕の存在は何なのでしょう、と。会場爆笑。私は肩をすくめて心の中で、パフォーマです……。言うなれば、電気グルーヴに於けるピエール瀧のような……。楽器は弾いておられますが……。このリクエストに対しては5曲、ベースのイントロから始まる曲をかけてくれた。3曲目と5曲目がかなり解り易かった。が、それらのタイトルをメモするのを忘れてしまった。莫迦だ。その真ん中4曲目がアイアン・メイデンだったのはちゃんと覚えているのに。もうひとつ採用されたのは、先月死んでしまった草食にどかどか煩いレクイエムをお願いします。ここでかけてくれた曲は、マスターに頼んでアーティスト名・アルバム名・曲タイトルをメモ書きしてもらった。ユーライア・ヒープの「ファイアフライ」の「シンパシー」。近々買いに行こう。昨日はゲスト招待がなかったので、実に適度な混み具合。その中でふたつもリクエストに応えてくれたのは幸運だったのだろう。マスター、有難うございました。終盤にかけられた愛しの君持参のなぎら健壱の漫談だか語りだかのCD。相当に面白く客席も沸いたが、ちっともハードロックである筈がなくマスターはやや不満だった様子。9月もまた行く予定。
ゲスト設定はなかったけれど、愛しの君と新ドラマーが中盤にステージ上へ。事実上の新ドラマーお披露目か。ぃぇ〜ぃと陰鬱な気分になるかと思いきや、想像以上にトークの上手い人だった。尤もその想像自体が下の下の下位だったので、ちょっとまともな喋りが聞ければ即ち、トークが上手い、に変換されるようなものだったのだが。とにかく喋る人だった。マスターも愛しの君も冗長にぼそぼそと喋るタイプなので、元気一杯にテキパキ喋るその姿に微妙な気分。バンドに於いて吉と出るか凶と出るか。履歴紹介を聞く限りでは、下手な人ではなさそうでその点では安心感を得られた。ただ手数の多さは不明。上手くても手数が少ないと私には物足りないのだ。逆にリズムが解らなくなるくらいにどかどかとあらん限りの部品を叩くドラマーが好き。現在は0時から6時迄が練習時間らしい。深夜の。おかしいって。それにかこつけて3時位に、昼食の時間なので、とピンクフロイドを回しっ放しにしてステージ上で食事をするのはどうよ? OK。面白いから。そしてレコーディングの最中らしい。やはり愛しの君の曲作りが進んでいない模様。新ドラマーは経験豊かな人らしいのに、曰く、このバンドの曲の作り方は新鮮だ、とのこと。というのも、新ドラマーが今迄に経験してきた曲作りは、曲の頭から順に作り進めていくやり方だったとか。それに対しこのバンドの曲作りは、最初に恰好いいフレーズを決めて、そこから全体を作っていく、と。思うに、それはきっと練習に適当なデモテープを持参するマスターの曲の作り方ではなかろうか。私が知る限り、完璧主義の愛しの君の曲作りは中途半端なままではメンバーにも曲を発表せず、個人的に完璧に仕上げてからバンドに持ち込む形だったと思うのだが。変わったのか? 新ドラマーは既存曲のうち7〜8曲は取得した模様。「天国に結ぶ恋」は凄い、と言っていた。確かにこれも凄いのだが、その頃の曲だと「夜叉ヶ池」の方が凄いと個人的には思う。「相剋の家」も取得済みらしい。ライヴで聴けるのだろうか。この曲が下手だったら私は確実に怒るし、満足いくプレイをしてくれたらリスペクト。
私の音楽の聴き方。ベースが聴き取り難いのは前述の通り。ベースが単調にリズムを刻んでいるとドラムとごっちゃになり、ベースがメロディを奏でるとギターとごっちゃになる。重くて手数が多くて速いのが好き。で、昨日のイベントで気がついた。私はドラムをかなり重視して曲を聴いている。昔はボーカルを中心に聴いていたのに、いつの間にかドラム中心になっていたようだ。その気付きは、重さ・手数・速さ、このどれもが曲の構成に於いてドラムに比重がかかるから。このみっつの次に重視する好きポイントは歪み。これはドラムではなかなか出せない。顕著に歪が出せるのはギターだ。ベースは……、ベースがいなければバンドは成り立たないと言われるが、聴き取り難い私にとってはおま(以下略。ベースの音をちゃんと拾えるようになれば変わるのだろうか。数人の友人は、CDなどの音源で聴いて楽器それぞれの音をきちんと分けて拾えると言う。尊敬。CDでは絶対に無理だ。私はCDではドラム≧ボーカル≧ギター>>>>>ベース。ライヴではギター>ボーカル>>ドラム>>ベース。愛しの君がベース奏者なら違ったかな。いや、愛しの君が愛しの君とはなっていなかったかもだ。朝、帰宅したら今に撤去した筈の灰皿があり、うちのの吸殻が多数残っていた。笑った。
服/コキュの水色アオザイ+ナショナルスタンダードの7分丈デニム+コキュの金魚刺繍ミュール+ベージュの変形カーディガン+ツモリのメッシュ地ベージュ手提げ鞄+アナスイの蝶とクリアビーズとチェーンのぶら下がりピアス+同ブレスレット+とんぼ玉ヘアゴム+ラインストーン付き青いヘアピン5本
メイク/アナスイの下地→下地→カバーマークコンシーラ→スティラのフレグランスカラーブックの真ん中左と下段2色→FSPのアクアストロボのトロ→スティラ同ブック上段2色→ランコムのマジィーシル02→アナスイのアイブロウパウダー→ポール&ジョーのリップスティック26番→スイドリーム
現在、5月20日。
少し前に友人から、「D.T.」が面白かった、というメールが届いていた。が、私にはその「D.T.」が何のことだか解らず、返信を出せずにいたのだが、ふと童貞のことだと気付いた。みうらじゅんと伊集院光の共著だ。そして友人に返信すると、彼女がPCを立ち上げてくれてメッセで会話。この本を彼女に紹介したのは私。でも未読。かなり面白かったようなので、近々読んでみる予定。数週間前に書店に行ったとき、以前、叔母にもらったまま放置していた図書カードが財布に入れっ放しだったことに気付き、4冊の本を纏め買い。「さくらん」「高速回線は光うさぎの夢を見るか?」「主婦の旅ぐらし」「リアル鬼ごっこ」以上。全て読了。「さくらん」は安野モヨコ。雑誌で1度立ち読みして単行本待ちしていたのだけれど、何となく買わずにいた漫画。図書カードがなければもっと先延ばしになっていたかも。もっと早く買っておいても良かったかも。第2部以降にも期待。今回購入の中では一番良かった。「高速回線〜」は華倫変。既に立ち読みで読了しており、何となく先延ばしにしていた漫画。後書は初読。表題作は南条あやのサイトを元に描いた作品らしい。自殺者に入れ込むと自殺を招くというが……もにょもにょ。華倫変は作品に入れ込まない漫画家だったとのことだが、その辺はどうなのだろう。それ以上に鬱の影響の方が強いか。再読してみると、下手な絵は相変わらずとして、アイディアが先走り過ぎてテクニックがいろんな意味で追いついておらず勿体無いものが多かった。「主婦の〜」は青木るえか。面白かったのだけれど……如何なものか。暫くこのシリーズは休んで欲しい。ネタが尽きてきている気がする。
そしてこの中で最も期待度が高かったのは「リアル鬼ごっこ」。この本は元々自費出版を請け負う出版社から著者と版元が費用を折半して発売されたもの。なのに売れた。そして早々の文庫化。解説によると、20万部売れたらしい。単行本の帯に書かれていたキャッチは覚えていないが、書店で平積みになっているのを見てから、ずっと気になっていたのだ。いつも通りうちのに偏屈だと言われる、解説→冒頭→ラスト→通読、の順で読んだ。以下ネタバレ注意。帯と冒頭とラストで粗筋が解った。何でこんな本がヒットするのか理解に苦しむ。日本人は絵を観るのが下手だと言われる。これには以前から同意していたが、まさか本の読み方迄下手だとは思っていなかった。本の読み方と言うか、買い方と言うか、長い物に巻かれろ気質と言うか、とにかくこんなうんこな内容の本がヒットした事実を、情けないと私は嘆く。買わなきゃ良かった。読まなきゃ良かった。損した。世の中に詰まらない本は数多あれど、私はこの手の内容が大嫌いなのだ。
著者の初執筆作品だとのこと。技術の拙さが目立つのはまだ我慢できる。けれども、私はパクリが嫌いである。「バトル・ロワイアル」を読んでいれば、この本を読む価値は皆無と断言したい。「バトル・ロワイアル」も拙かったけれど、内容は及第点だった。それはアイディアが充分に活かされており、読者を作品の世界観に惹きつけるだけの分量のある作品だったからである。分量、というのはそのままの意味で、人物描写の浅さは否めないながらもあれだけの人数の殺人が背景描写できちんと書かれていたから。それが「リアル鬼ごっこ」はどうだろう。全国の佐藤さんが王様の思いつきで鬼に殺される。これが主題。その主題で「バトル・ロワイアル」を思い出さない者がいるだろうか。〜〜によって罪無き〜〜の大量殺人。同じである。帯にも書かれていたので、二番煎じは承知して買った。だが、余りに酷い。著者は作品内で殺人=処刑の事実だけを書いており、それそのものの描写はない。その分、人物描写に力を入れたつもりなのだろう。解説は「ダ・ヴィンチ」編集長。彼は、著者がこの作品を自費出版社に持ち込んだのは正解だった、と書いている。私も正解だったと思う。しかし後書執筆者と私の意図は違う。後書執筆者は、自費出版界に光を当てたことと、大手出版社では一蹴される可能性のある作品だが持ち込み先の選択が良かったことで日の目を見たことを喜んでいるように書かれていた。真意は知らない。私が正解だと思うのは、実に消極的な意味合いである。オナニー作品は実費でやれ。むしろ同人誌でやってくれ。市場に出すな。どんなに著者自身が人物描写に力を入れようと、筆力が追いついていないにも程がある。著者及び編集者は本気で金を取れるだけの作品だと思ったのか。世迷言もいい加減にしろ。そしてまんまとその思惑に乗っかった私を含む読者の愚かさが悲しい。私は今後、小説を買う際には必ず立ち読みをしてからにしよう。もう懲り懲りだ。価値なき物に金など払いたくない。
主人公は親が離婚して母及び妹と生き別れになり、DVを振るう父親に育てられた男子大学生。鬼に狙われる立場に置かれ、生き別れの母・妹を探そうとする。主人公の設定がまず浅い。主役がこれだけ薄っぺらなのだから脇役は言わずもがな。しかもこの主人公、幾らDV被害家族とはいえ父親の役職も何も知らない。著者の世間知らず加減が安易に想像できる。当然父親が死んだらすぐに葬式だ。保険も何もあったものではない。一週間の非常事態の最中とはいえ、たった1日で終わる葬式や遺族の仕事が終わるものか。王様の捕獲命令がない人々は極々普通に生活しているというのに。リアリティに欠ける、なんて生易しさではなく、最早ファンタジーだ。そして生き別れの母は死んでおり、妹を探しに出る主人公。偶然、中学時代の親友に会う。そして長年離れ離れだったその親友が己の命を犠牲にして主人公を助ける。その後、偶然、妹の友人に会う。そこに偶然現れる妹。長年離れ離れだったにも拘らず、一蓮托生とばかりに助け合う兄妹。偶然、重なり過ぎだから。長年離れ離れだった親友を命を張って助けるとかリアルじゃないから。長年離れ離れだった兄妹が出会って、名前だけで相手の存在を受け入れられないから。しかも非常事態とはいえ、長年離れ離れだった年頃の兄妹がひとつ屋根の下で生活とか考え難いから。むしろ有り得ないから。そもそも王様、頭悪過ぎだから。「リアル鬼ごっこ」というタイトルは秀逸だ。人目を引く。でもそれだけ。リアルの意味は違うところにあると解っていつつも、ファンタジーな「リアル鬼ごっこ」に失笑。設定だけリアルならいいってもんじゃねえぞ、ゴルァ!
こんなうんこ小説を読んだのは久々だ。友人にざっと粗筋を説明すると、全部読んだの? と訊かれた。読んだ、と答えると、お疲れさま、と労われた。読了後、うちのに愚痴を溢そうと思っていたのに聞いてくれなかった。未だ聞いてくれない。粗筋などは話していないけれど、うんこだ、時間の無駄だ、と散々言っているのに、うちのは読むつもりらしい。酔狂だ。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
少し前に友人から、「D.T.」が面白かった、というメールが届いていた。が、私にはその「D.T.」が何のことだか解らず、返信を出せずにいたのだが、ふと童貞のことだと気付いた。みうらじゅんと伊集院光の共著だ。そして友人に返信すると、彼女がPCを立ち上げてくれてメッセで会話。この本を彼女に紹介したのは私。でも未読。かなり面白かったようなので、近々読んでみる予定。数週間前に書店に行ったとき、以前、叔母にもらったまま放置していた図書カードが財布に入れっ放しだったことに気付き、4冊の本を纏め買い。「さくらん」「高速回線は光うさぎの夢を見るか?」「主婦の旅ぐらし」「リアル鬼ごっこ」以上。全て読了。「さくらん」は安野モヨコ。雑誌で1度立ち読みして単行本待ちしていたのだけれど、何となく買わずにいた漫画。図書カードがなければもっと先延ばしになっていたかも。もっと早く買っておいても良かったかも。第2部以降にも期待。今回購入の中では一番良かった。「高速回線〜」は華倫変。既に立ち読みで読了しており、何となく先延ばしにしていた漫画。後書は初読。表題作は南条あやのサイトを元に描いた作品らしい。自殺者に入れ込むと自殺を招くというが……もにょもにょ。華倫変は作品に入れ込まない漫画家だったとのことだが、その辺はどうなのだろう。それ以上に鬱の影響の方が強いか。再読してみると、下手な絵は相変わらずとして、アイディアが先走り過ぎてテクニックがいろんな意味で追いついておらず勿体無いものが多かった。「主婦の〜」は青木るえか。面白かったのだけれど……如何なものか。暫くこのシリーズは休んで欲しい。ネタが尽きてきている気がする。
そしてこの中で最も期待度が高かったのは「リアル鬼ごっこ」。この本は元々自費出版を請け負う出版社から著者と版元が費用を折半して発売されたもの。なのに売れた。そして早々の文庫化。解説によると、20万部売れたらしい。単行本の帯に書かれていたキャッチは覚えていないが、書店で平積みになっているのを見てから、ずっと気になっていたのだ。いつも通りうちのに偏屈だと言われる、解説→冒頭→ラスト→通読、の順で読んだ。以下ネタバレ注意。帯と冒頭とラストで粗筋が解った。何でこんな本がヒットするのか理解に苦しむ。日本人は絵を観るのが下手だと言われる。これには以前から同意していたが、まさか本の読み方迄下手だとは思っていなかった。本の読み方と言うか、買い方と言うか、長い物に巻かれろ気質と言うか、とにかくこんなうんこな内容の本がヒットした事実を、情けないと私は嘆く。買わなきゃ良かった。読まなきゃ良かった。損した。世の中に詰まらない本は数多あれど、私はこの手の内容が大嫌いなのだ。
著者の初執筆作品だとのこと。技術の拙さが目立つのはまだ我慢できる。けれども、私はパクリが嫌いである。「バトル・ロワイアル」を読んでいれば、この本を読む価値は皆無と断言したい。「バトル・ロワイアル」も拙かったけれど、内容は及第点だった。それはアイディアが充分に活かされており、読者を作品の世界観に惹きつけるだけの分量のある作品だったからである。分量、というのはそのままの意味で、人物描写の浅さは否めないながらもあれだけの人数の殺人が背景描写できちんと書かれていたから。それが「リアル鬼ごっこ」はどうだろう。全国の佐藤さんが王様の思いつきで鬼に殺される。これが主題。その主題で「バトル・ロワイアル」を思い出さない者がいるだろうか。〜〜によって罪無き〜〜の大量殺人。同じである。帯にも書かれていたので、二番煎じは承知して買った。だが、余りに酷い。著者は作品内で殺人=処刑の事実だけを書いており、それそのものの描写はない。その分、人物描写に力を入れたつもりなのだろう。解説は「ダ・ヴィンチ」編集長。彼は、著者がこの作品を自費出版社に持ち込んだのは正解だった、と書いている。私も正解だったと思う。しかし後書執筆者と私の意図は違う。後書執筆者は、自費出版界に光を当てたことと、大手出版社では一蹴される可能性のある作品だが持ち込み先の選択が良かったことで日の目を見たことを喜んでいるように書かれていた。真意は知らない。私が正解だと思うのは、実に消極的な意味合いである。オナニー作品は実費でやれ。むしろ同人誌でやってくれ。市場に出すな。どんなに著者自身が人物描写に力を入れようと、筆力が追いついていないにも程がある。著者及び編集者は本気で金を取れるだけの作品だと思ったのか。世迷言もいい加減にしろ。そしてまんまとその思惑に乗っかった私を含む読者の愚かさが悲しい。私は今後、小説を買う際には必ず立ち読みをしてからにしよう。もう懲り懲りだ。価値なき物に金など払いたくない。
主人公は親が離婚して母及び妹と生き別れになり、DVを振るう父親に育てられた男子大学生。鬼に狙われる立場に置かれ、生き別れの母・妹を探そうとする。主人公の設定がまず浅い。主役がこれだけ薄っぺらなのだから脇役は言わずもがな。しかもこの主人公、幾らDV被害家族とはいえ父親の役職も何も知らない。著者の世間知らず加減が安易に想像できる。当然父親が死んだらすぐに葬式だ。保険も何もあったものではない。一週間の非常事態の最中とはいえ、たった1日で終わる葬式や遺族の仕事が終わるものか。王様の捕獲命令がない人々は極々普通に生活しているというのに。リアリティに欠ける、なんて生易しさではなく、最早ファンタジーだ。そして生き別れの母は死んでおり、妹を探しに出る主人公。偶然、中学時代の親友に会う。そして長年離れ離れだったその親友が己の命を犠牲にして主人公を助ける。その後、偶然、妹の友人に会う。そこに偶然現れる妹。長年離れ離れだったにも拘らず、一蓮托生とばかりに助け合う兄妹。偶然、重なり過ぎだから。長年離れ離れだった親友を命を張って助けるとかリアルじゃないから。長年離れ離れだった兄妹が出会って、名前だけで相手の存在を受け入れられないから。しかも非常事態とはいえ、長年離れ離れだった年頃の兄妹がひとつ屋根の下で生活とか考え難いから。むしろ有り得ないから。そもそも王様、頭悪過ぎだから。「リアル鬼ごっこ」というタイトルは秀逸だ。人目を引く。でもそれだけ。リアルの意味は違うところにあると解っていつつも、ファンタジーな「リアル鬼ごっこ」に失笑。設定だけリアルならいいってもんじゃねえぞ、ゴルァ!
こんなうんこ小説を読んだのは久々だ。友人にざっと粗筋を説明すると、全部読んだの? と訊かれた。読んだ、と答えると、お疲れさま、と労われた。読了後、うちのに愚痴を溢そうと思っていたのに聞いてくれなかった。未だ聞いてくれない。粗筋などは話していないけれど、うんこだ、時間の無駄だ、と散々言っているのに、うちのは読むつもりらしい。酔狂だ。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
最近になって再び読書ができるようになってきた。最近読んだのは、北村薫「朝霧」と新保裕一「ストロボ」。後者はかなり前からあったのにうちのの読後に放置してあったもので、前者はハードカバー発売から6年待ってやっと文庫化されたもの。先に読んだのは、待ち侘びていた「朝霧」だ。3本の中篇から成る。今現在、「私」シリーズの最終作。このシリーズは友人が1作目を卒論に取り上げてからずっと読み続けている。短篇もあれば長篇もあり。殺人事件などの大掛かりなミステリではなく身近な謎を解き明かしていく。長篇では死人が出ていたけれど。心穏やかになる珍しいタイプのミステリ。著者が元国語教師だったことも関係するのか、それとも元来綺麗な日本語を使う人だったからか、読んでいて気持ちがいい作品ばかりだ。どんな物語も、綺麗な、いや正しい言葉で綴られていなければ読む気が失せる。さてこのシリーズ。前作「六の宮の姫君」で見切りをつけようかと迷った。というのも、作品そのものの出来が私には良いとは思えなかったから。悪い意味で、とても良く出来た完成度の高い作品だったのだ。私が思う、悪い意味でいい作品、とはどんなものか。
著作をする者にとって、自らの持つ知識は宝である。この宝のストックがないまま小手先で何かを書いても話は薄っぺらくなり、小手先すらなければ読むに耐えない作品になる。北村薫の文学知識は物凄い。尊敬に値する。だが、持つ知識を全て出して書いたと読者に受け取られてしまう作品は、悪い作品ではないだろうか。いっぱいいっぱいな部分が見え隠れすると、萎えてしまう。きっと北村自身にはもっと豊富な芥川への知識があるとは思う。思うのだけれど読んでいて、知識ひけらかし的な印象を受けてしまった。感想を一言で纏められてしまう。ハイ、スゴイデスネー。一言感想しか読後に齎さない作品を、良い作品とは思わない。私が読書をするとき、自らの知識を増やす為、という要素が強い。この知識欲は充分に満たしてくれた。でも、それだけ。ならば文学論や芥川作品そのものを読めばいいのだ。北村を通して芥川に触れた、その効果が皆無に近かった。詰まらなかった訳ではない。詰まらなくはないのだけれど、読み返す気には全くならない。読み捨て本。私は北村に、読み捨て本を期待していない。お手軽な作品は要らない。読後、どっぷりと世界観を引き摺り、そのまま他者にその本の話をしたくなるような作品を求めている。北村作品は大きくふたつに分けられると思う。ひとつは、とても出来のいい作品。もうひとつは、悪い意味で出来のいい作品。前者は言葉のままであり、後者は上記のような知識ひけらかし系と小手先やっつけ仕事系に分けられる。で、「朝霧」。これも知識ひけらかしは多かった。だが、前者。とても良い作品。北村知識が鼻につかないように描かれていた。知識がまぶされた作品ではなく、一部に密集して知識をだーっと書き連ねていたのに。「六の宮の姫君」と「朝霧」の違いは、その北村知識が、主人公である「私」の成長から浮いているか、沿っているかだ。「朝霧」の短歌の羅列は見事に「私」の成長を示していた。「六の宮の姫君」の芥川知識は、卒論ということもあってか、ストーリから浮いているように感じられたのだ。「朝霧」の中の一篇に感動した。どれかは書かない。主題とそれに纏わる人々の処理の仕方が今迄の北村作品と大きく異なっているように感じた。きっと少し前の北村なら、もっと厭らしい処理になっていただろう。好きな作家の秀作を読めると、とても嬉しい。ストーリは作者と読者が共に紡ぐもの、尤もだ。もしかしたら読んでから数年経っている「六の宮の姫君」も今読むと、また違った感想が持てるだろうか。
「朝霧」読了から数日後に読んだ新保裕一の「ストロボ」。ちょっと変わった構成になっていて、その発想自体は良いと思う。良いのだけれど、内容が……。読み進めていくうちにどんどん話が薄くなっていく。これが著者自身の計算なのかどうかが読めず、もどかしかった。構成上、薄くなっていってもいい作品ではあるのだ。だが読者である私からしたら読み始めから最後迄、同程度のテンションを保ちたいのだ。この薄さは著者の筆力でどうにかならなかったのだろうか。新保はどうにかするだけの筆力を持つ作家なのだ。なのに薄い。となると、これは計算なのか、とも思えてくる。しかし売れっ子になった新保。小手先で仕事をするようになったのか、とも思える。新保作品は順を追って読んでいない為、判断がつかない。どちらなのだろう。読んでがっかりはしなかったけれど、もやもやが残っている。何か別の新保作品を買ってもやもやを晴らしたいところだ。主人公の性格や歴史設定のベタさも気になった。小役人シリーズが与えてくれた、小役人への偏見のようなものを払拭してくれるような設定にはできなかったのだろうか。そうやって考えていくと、この「ストロボ」はやっつけ仕事、または実験的構成だけで満足してしまっただけの作品に思えてくる。とはいえ、この設定自体がそれ程斬新ということもない。古今東西、ままある設定に過ぎない。そんな設定を自作に用いただけで満足する作家とは思わない。あの作品は何だったのか。ミステリ要素を散りばめる、という設定以外での著者自身の楽しみだけが先走りしてしまったのか。もやもやもやもや。
私の逆をいくように、うちのが漫画を読み始めた。「のだめカンタービレ」は読了。早く9巻10巻も読みたい、買ってきて、とのこと。まだ発売されてないのだが。そして何やら次は「編集王」を読みたいと言い出している。どうなっているんだ。「編集王」はとてもいい作品だとは思うけれど絵柄が濃い為、漫画を読みなれていない者には余りオススメできない。ストーリ重視で読むならあの絵柄も気にならないだろうか。いや、以前土屋の別作品上下巻を立ち読みしたとき、それだけで漫画読みの私でもくたびれた。読書の習慣のない者が細かい文字がずらりと並んだ文庫を見ただけで疲れるように、漫画を読みつけていない者にまだ土屋作品は早い。折角漫画に興味を持ち始めてくれたので、嫌気が差さないように上手く馴染めるようにいろいろと薦めてみたい所存。
BGM/アルバム「NUM-HEAVYMETALLIC」
著作をする者にとって、自らの持つ知識は宝である。この宝のストックがないまま小手先で何かを書いても話は薄っぺらくなり、小手先すらなければ読むに耐えない作品になる。北村薫の文学知識は物凄い。尊敬に値する。だが、持つ知識を全て出して書いたと読者に受け取られてしまう作品は、悪い作品ではないだろうか。いっぱいいっぱいな部分が見え隠れすると、萎えてしまう。きっと北村自身にはもっと豊富な芥川への知識があるとは思う。思うのだけれど読んでいて、知識ひけらかし的な印象を受けてしまった。感想を一言で纏められてしまう。ハイ、スゴイデスネー。一言感想しか読後に齎さない作品を、良い作品とは思わない。私が読書をするとき、自らの知識を増やす為、という要素が強い。この知識欲は充分に満たしてくれた。でも、それだけ。ならば文学論や芥川作品そのものを読めばいいのだ。北村を通して芥川に触れた、その効果が皆無に近かった。詰まらなかった訳ではない。詰まらなくはないのだけれど、読み返す気には全くならない。読み捨て本。私は北村に、読み捨て本を期待していない。お手軽な作品は要らない。読後、どっぷりと世界観を引き摺り、そのまま他者にその本の話をしたくなるような作品を求めている。北村作品は大きくふたつに分けられると思う。ひとつは、とても出来のいい作品。もうひとつは、悪い意味で出来のいい作品。前者は言葉のままであり、後者は上記のような知識ひけらかし系と小手先やっつけ仕事系に分けられる。で、「朝霧」。これも知識ひけらかしは多かった。だが、前者。とても良い作品。北村知識が鼻につかないように描かれていた。知識がまぶされた作品ではなく、一部に密集して知識をだーっと書き連ねていたのに。「六の宮の姫君」と「朝霧」の違いは、その北村知識が、主人公である「私」の成長から浮いているか、沿っているかだ。「朝霧」の短歌の羅列は見事に「私」の成長を示していた。「六の宮の姫君」の芥川知識は、卒論ということもあってか、ストーリから浮いているように感じられたのだ。「朝霧」の中の一篇に感動した。どれかは書かない。主題とそれに纏わる人々の処理の仕方が今迄の北村作品と大きく異なっているように感じた。きっと少し前の北村なら、もっと厭らしい処理になっていただろう。好きな作家の秀作を読めると、とても嬉しい。ストーリは作者と読者が共に紡ぐもの、尤もだ。もしかしたら読んでから数年経っている「六の宮の姫君」も今読むと、また違った感想が持てるだろうか。
「朝霧」読了から数日後に読んだ新保裕一の「ストロボ」。ちょっと変わった構成になっていて、その発想自体は良いと思う。良いのだけれど、内容が……。読み進めていくうちにどんどん話が薄くなっていく。これが著者自身の計算なのかどうかが読めず、もどかしかった。構成上、薄くなっていってもいい作品ではあるのだ。だが読者である私からしたら読み始めから最後迄、同程度のテンションを保ちたいのだ。この薄さは著者の筆力でどうにかならなかったのだろうか。新保はどうにかするだけの筆力を持つ作家なのだ。なのに薄い。となると、これは計算なのか、とも思えてくる。しかし売れっ子になった新保。小手先で仕事をするようになったのか、とも思える。新保作品は順を追って読んでいない為、判断がつかない。どちらなのだろう。読んでがっかりはしなかったけれど、もやもやが残っている。何か別の新保作品を買ってもやもやを晴らしたいところだ。主人公の性格や歴史設定のベタさも気になった。小役人シリーズが与えてくれた、小役人への偏見のようなものを払拭してくれるような設定にはできなかったのだろうか。そうやって考えていくと、この「ストロボ」はやっつけ仕事、または実験的構成だけで満足してしまっただけの作品に思えてくる。とはいえ、この設定自体がそれ程斬新ということもない。古今東西、ままある設定に過ぎない。そんな設定を自作に用いただけで満足する作家とは思わない。あの作品は何だったのか。ミステリ要素を散りばめる、という設定以外での著者自身の楽しみだけが先走りしてしまったのか。もやもやもやもや。
私の逆をいくように、うちのが漫画を読み始めた。「のだめカンタービレ」は読了。早く9巻10巻も読みたい、買ってきて、とのこと。まだ発売されてないのだが。そして何やら次は「編集王」を読みたいと言い出している。どうなっているんだ。「編集王」はとてもいい作品だとは思うけれど絵柄が濃い為、漫画を読みなれていない者には余りオススメできない。ストーリ重視で読むならあの絵柄も気にならないだろうか。いや、以前土屋の別作品上下巻を立ち読みしたとき、それだけで漫画読みの私でもくたびれた。読書の習慣のない者が細かい文字がずらりと並んだ文庫を見ただけで疲れるように、漫画を読みつけていない者にまだ土屋作品は早い。折角漫画に興味を持ち始めてくれたので、嫌気が差さないように上手く馴染めるようにいろいろと薦めてみたい所存。
BGM/アルバム「NUM-HEAVYMETALLIC」
現在、4月28日。
愛しの君のバンドの新ドラマーが決定したらしいとの噂。良き哉良き哉。これで秋のツアー説にも信憑性が出てきた。ツアー全てに行けるような経済力も行動力もないけれど、都内近郊のライヴには行く予定。そして飲酒厳禁。秋にツアーということは、夏頃には新譜が出るのかもしれない。非常に楽しみである。ガーリッシュたる者HR/HM好きはいかんだろう、と思っていたけれどそうでもないらしい。某スレを見たところ、ちょうど音楽の話になっており私以外にもHM好きはいたし、HIPHOP好きなガーリッシュ・スタイルの人々も多くいた。好きな音楽は何でもいいようである。考えてみれば、当たり前の話だ。好きな恰好と好きな音楽に脈絡は必要ない。何もかもトータル・コーディネートしようとすると、何処かで破綻したときにかなり痛くなる。適度なアンバランスさはあって然るべきものなのかもしれない。フレンチ・ポップやらクラシックやらに傾倒した方がいいのかなあ、という気持ちが捨てられて気楽になった。クラシックといえば。のだめのCDが初回のみで生産中止に。中古価格で5万円をつけている人も出てきている有様。生産中止になった経緯は知らないけれど限定物とは知らず、まあそのうち買えばいいや、と先延ばしにしていた自分の愚かさに後悔しきり。特典で付いていた4コマ漫画が、今発売中のKissに袋綴じ掲載されていたので買ってしまった。雑誌立ち読み・単行本購入派なので本誌を買ったのは初めてかも。4コマ4本に390円。高いんだか、安いんだか。いつかCDが安く手に入れば更にいいのだが……。
のだめのトートバッグがいつの間にか変わってしまった。今度はボーダーにト音記号の付いた物。何処のだろう。初代のだめバッグに飛びついた莫迦としては、新のだめバッグも欲しい。初代のだめバッグよりも、新のだめバッグの方がガーリッシュだし春夏向き。また楽器屋取扱の物なのだろうか。近々初代のだめバッグを取り寄せてもらった店に行って訊いてみる予定。のだめの持ち物でもうひとつ欲しい物がある。ブローチ付きの黒いタートルワンピース。実在のお洋服がモデルになっているかどうかは不明。きっと探せば黒いタートルのワンピースはあるだろうし、それにブローチをつければいいだけの話だろう。ところが。このワンピースはある程度スタイルが良くなければ着こなせない代物。ストンとしたシルエットなので、尻だけ立派な幼児体型者には禁忌なのだ。因みにコスプレ目的ではない。念の為。
前号で連載終了した蕾ちゃん。てっきり打ち切りだと思っていたのだが、違ったらしい。作者曰く、担当者と打ち合わせの上、半年前から終了時期を決めていたとのこと。これは作者のサイトの日記に書かれていたこと。それにしては最終回に強引さが否めないのだけれど、読者がそう思ったところで作者が違うというのだから追求はできない。彼女は売れっ子漫画家という訳ではない。佳作と駄作が極端に分かれる作家。知名度もさほど高くないと思われる。それでも金持ちなんだなあ、と日記を読んで驚いた。滅多にしない、と言いつつもシャネルでお買い物かい。大ヒット無しのコンスタントな売り上げと思われる漫画家でもシャネル。一発当てたいと思う人々の気持ちが解るような。いやいや、そうではなく。ラブボ関連の服を登場人物に着せているのに、作者はシャネルってところに驚いた、と。決してシャネルに僻んでいるのではない。似合わないのは解っているし。シャネルだの何だのそっち系ゴージャス趣味は無いし。蕾ちゃん、ストーリー的には佳作の部類。楽しみだったのは蕾ちゃんの服装。可愛かったんだ、これが。思い切り私好みのカジュアル路線。菊ちゃん程のナイスバディではなかったので、参考にし易かった。重ね着とか小物使いとか。漫画のキャラはいいなあ、と思う。大量に衣類を買う金も湧いてきているようだし、収納に困っている様子もない。漫画も変わった。昔はお洒落の参考になる漫画という物が限りなく少なかったように思う。それがいつの間にかリアルの女の子に近い恰好をしているキャラが増えてきた。ストーリーも現実味を帯びた物が増えてきた。見方によっては、夢がなくなってきたとも言えるだろうが、それは悪いことではないと思う。
話は二ノ宮知子に戻り。「GREEN」がタイトルを変えてNHKでドラマ化されるらしい。「天才ファミリーカンパニー」のドラマ化で失敗しているので、もう作品のドラマ化に許可は出さないと思っていたので意外だった。テレビ離れしているから「GREEN」も観ないだろうが。「天ファミ」ドラマ放映時は二ノ宮知子に興味がなかったので観ていなかった。どうもジャニタレ糞ドラマに仕上がってしまったらしい、と後で知った。二ノ宮知子の漫画は面白い。面白いけれど、最近読み返していて気になった点が何箇所もあった。吹き出し内の活字と、コマ内の文字の食い違いが目立つ。漫画なので実在の企業名などをもじってコマに書く。それが吹き出し内では実在企業名そのままになっていたり。面前なのに鳴いたかのように牌が描かれていたり。これは一例だけれど、この手の単純ミスが目立つ。使えない編集が担当なのか。吉田秋生の「YASYA」と「イヴの眠り」でも気になる箇所が。登場人物のつけているピアスが出鱈目。このピアスに関しては、今年に入ってセルフ・ピアッシングでホールを作製する迄は気にならなかった。自分の興味のあることには殊更目が向いてしまうものらしい。両者とも完成度の高い作品を描くので、凡ミスが惜しくてならない。作者にとって、ピアスはキャラを立てる為の記号のひとつでしかないのだろう。キャラに沿っていれば何処にどんなピアスがあってもいいかのようだ。「編集王」に出てくるような編集者はいないのか。いないんだろうな、悲しいけれど。私は漫画の編集に関わったことはない。私が編集していたのは雑誌だ。雑誌の中でイラストなども殆ど扱わなかった為、この手のことで作者にダメ出ししたことはない。漫画の編集に私が携わっていたら……直しを入れてもらうだろうな、きっと。私のように気にする読者もいるのだから。
愛しの君のバンドの新ドラマーが決定したらしいとの噂。良き哉良き哉。これで秋のツアー説にも信憑性が出てきた。ツアー全てに行けるような経済力も行動力もないけれど、都内近郊のライヴには行く予定。そして飲酒厳禁。秋にツアーということは、夏頃には新譜が出るのかもしれない。非常に楽しみである。ガーリッシュたる者HR/HM好きはいかんだろう、と思っていたけれどそうでもないらしい。某スレを見たところ、ちょうど音楽の話になっており私以外にもHM好きはいたし、HIPHOP好きなガーリッシュ・スタイルの人々も多くいた。好きな音楽は何でもいいようである。考えてみれば、当たり前の話だ。好きな恰好と好きな音楽に脈絡は必要ない。何もかもトータル・コーディネートしようとすると、何処かで破綻したときにかなり痛くなる。適度なアンバランスさはあって然るべきものなのかもしれない。フレンチ・ポップやらクラシックやらに傾倒した方がいいのかなあ、という気持ちが捨てられて気楽になった。クラシックといえば。のだめのCDが初回のみで生産中止に。中古価格で5万円をつけている人も出てきている有様。生産中止になった経緯は知らないけれど限定物とは知らず、まあそのうち買えばいいや、と先延ばしにしていた自分の愚かさに後悔しきり。特典で付いていた4コマ漫画が、今発売中のKissに袋綴じ掲載されていたので買ってしまった。雑誌立ち読み・単行本購入派なので本誌を買ったのは初めてかも。4コマ4本に390円。高いんだか、安いんだか。いつかCDが安く手に入れば更にいいのだが……。
のだめのトートバッグがいつの間にか変わってしまった。今度はボーダーにト音記号の付いた物。何処のだろう。初代のだめバッグに飛びついた莫迦としては、新のだめバッグも欲しい。初代のだめバッグよりも、新のだめバッグの方がガーリッシュだし春夏向き。また楽器屋取扱の物なのだろうか。近々初代のだめバッグを取り寄せてもらった店に行って訊いてみる予定。のだめの持ち物でもうひとつ欲しい物がある。ブローチ付きの黒いタートルワンピース。実在のお洋服がモデルになっているかどうかは不明。きっと探せば黒いタートルのワンピースはあるだろうし、それにブローチをつければいいだけの話だろう。ところが。このワンピースはある程度スタイルが良くなければ着こなせない代物。ストンとしたシルエットなので、尻だけ立派な幼児体型者には禁忌なのだ。因みにコスプレ目的ではない。念の為。
前号で連載終了した蕾ちゃん。てっきり打ち切りだと思っていたのだが、違ったらしい。作者曰く、担当者と打ち合わせの上、半年前から終了時期を決めていたとのこと。これは作者のサイトの日記に書かれていたこと。それにしては最終回に強引さが否めないのだけれど、読者がそう思ったところで作者が違うというのだから追求はできない。彼女は売れっ子漫画家という訳ではない。佳作と駄作が極端に分かれる作家。知名度もさほど高くないと思われる。それでも金持ちなんだなあ、と日記を読んで驚いた。滅多にしない、と言いつつもシャネルでお買い物かい。大ヒット無しのコンスタントな売り上げと思われる漫画家でもシャネル。一発当てたいと思う人々の気持ちが解るような。いやいや、そうではなく。ラブボ関連の服を登場人物に着せているのに、作者はシャネルってところに驚いた、と。決してシャネルに僻んでいるのではない。似合わないのは解っているし。シャネルだの何だのそっち系ゴージャス趣味は無いし。蕾ちゃん、ストーリー的には佳作の部類。楽しみだったのは蕾ちゃんの服装。可愛かったんだ、これが。思い切り私好みのカジュアル路線。菊ちゃん程のナイスバディではなかったので、参考にし易かった。重ね着とか小物使いとか。漫画のキャラはいいなあ、と思う。大量に衣類を買う金も湧いてきているようだし、収納に困っている様子もない。漫画も変わった。昔はお洒落の参考になる漫画という物が限りなく少なかったように思う。それがいつの間にかリアルの女の子に近い恰好をしているキャラが増えてきた。ストーリーも現実味を帯びた物が増えてきた。見方によっては、夢がなくなってきたとも言えるだろうが、それは悪いことではないと思う。
話は二ノ宮知子に戻り。「GREEN」がタイトルを変えてNHKでドラマ化されるらしい。「天才ファミリーカンパニー」のドラマ化で失敗しているので、もう作品のドラマ化に許可は出さないと思っていたので意外だった。テレビ離れしているから「GREEN」も観ないだろうが。「天ファミ」ドラマ放映時は二ノ宮知子に興味がなかったので観ていなかった。どうもジャニタレ糞ドラマに仕上がってしまったらしい、と後で知った。二ノ宮知子の漫画は面白い。面白いけれど、最近読み返していて気になった点が何箇所もあった。吹き出し内の活字と、コマ内の文字の食い違いが目立つ。漫画なので実在の企業名などをもじってコマに書く。それが吹き出し内では実在企業名そのままになっていたり。面前なのに鳴いたかのように牌が描かれていたり。これは一例だけれど、この手の単純ミスが目立つ。使えない編集が担当なのか。吉田秋生の「YASYA」と「イヴの眠り」でも気になる箇所が。登場人物のつけているピアスが出鱈目。このピアスに関しては、今年に入ってセルフ・ピアッシングでホールを作製する迄は気にならなかった。自分の興味のあることには殊更目が向いてしまうものらしい。両者とも完成度の高い作品を描くので、凡ミスが惜しくてならない。作者にとって、ピアスはキャラを立てる為の記号のひとつでしかないのだろう。キャラに沿っていれば何処にどんなピアスがあってもいいかのようだ。「編集王」に出てくるような編集者はいないのか。いないんだろうな、悲しいけれど。私は漫画の編集に関わったことはない。私が編集していたのは雑誌だ。雑誌の中でイラストなども殆ど扱わなかった為、この手のことで作者にダメ出ししたことはない。漫画の編集に私が携わっていたら……直しを入れてもらうだろうな、きっと。私のように気にする読者もいるのだから。
大変に憂鬱で陰鬱な気分になる事実発覚。岡田斗志夫の声が好みだ……。何故、今日になってこんな事実が発覚してしまったのか。岡田の著作は本としては読んだことがない。「TVブロス」を購入していた頃に連載を読んでいた程度。敢えて避けて通ってきていたのだ。あの、オタクは文化だ、というようなノリがもうイヤでイヤで。確かに最早ひとつの文化と言えよう。しかし、オタク、なノリというのは趣味であり、他者の趣味を満たすべく自らの趣味も兼ねて仕事とする。そんな形でなければならない、と私は思っている。岡田の何がイヤって、オタクの第一人者として大学講師なんかをしてしまっているところだ。嗚呼、イヤだイヤだ。呉智英はいいのだけれど、岡田だと抵抗がある。何故だろう。呉智英には儒教という別の得意分野があるからか? 潔い迄の学歴至上主義だから? 封建主義者だから? 話が逸れた。オタクが嫌いなのではない。むしろ私自身がオタクと分類されるような趣味を持っている。化粧オタクとかの最近ありがちな、今コレに結構嵌っちゃっているからオタクかも? いやーん、でも楽しい、うふっ、というような照れの入った甘々な括りではなく、古典的オタクの趣味の象徴である漫画、そしてアニメ。ずぶずぶの所謂オタクではないけれど、学生時代にはコミケに足を運んだことも。それでも今はいしかわじゅんのような立場でありたい。オタク嫌い。コミケなんて糞喰らえ。数十頁程度の本で幾らオフセット4色とはいえ高いんじゃい! という話ではなく。こう、なんというか、オタクの特権、とでも言おうか、オタクな自分肯定って恰好いい、そんな匂いが嫌いで仕方がない。著作を読んでいないので岡田のスタンスをちゃんと把握している訳ではなく、上記のようなオタクなのかどうかは知らないけれど。
そんなこんなで避けてきた岡田。ずーっと前にうぷろだでDLしたまま放置してた「BSマンガ夜話」に出ていた……。岡田よりも呉智英を出せ! ってのは無理か。夏目房之介と被るし。で、昨日今日で「PINK」「機動警察パトレイバー」「賭博黙示録カイジ」「燃えよペン」「編集王」「ナニワ金融道」の計6回分を観た。じっくりと全画面表示で観た訳ではなく、東風荘の片手間に観ていただけなので、聴いた、と言った方が正確かもしれない。そしてこの番組に於いて岡田はレギュラー。私のツボに嵌る声質。イヤだイヤだ、と繰り返していても話が進まないので内容へ。まず腹が立ったのが「機動警察パトレイバー」の回。司会者やレギュラーに作品への正しい知識がないなら取り上げない方が賢明かと。何故、ヘッドギア、の名前が出てこないのか。オウムを連想させるからではあるまい。それだと「燃えよペン」についてなんて取り上げられないし。いしかわが少しその辺の、複数の人々が携わって作られた作品云々とは言っていたけれど、それについて他の人に詳しい説明を求めていた。苛々。「OUT」を読まずしてゆうきまさみを語るな! 「究極超人あ〜る」「じゃじゃ馬グルーミンUP」を話に出すのはまあいい。でも。なんで「アッセンブル・インサート」が出てこないのかと小一時間(以下略。知識が中途半端なんじゃ! と。素人は語るな、と。いや、私も素人だけれど、テレビという公共の媒体で半端なことをされると苛つくのだ。描写の入れと抜きの話には成程。
「PINK」の回では女性出演者が多かった所為か、男オタク気質が作品に馴染めなかった所為かテンション低め。低いのはいいのだけれど岡崎京子の作品は、読者が語る、ものではないような。読者が岡崎の作品から感じるものはある。その、番組内でもよく使われていた単語で言うところの、気分。それは目から読み、脳で理解し、脳で感想を持ち、そこから言葉として口に出す迄の本当に短い瞬間に違うものと化してはしまわないか。気分とか空気感とか、その手のものを言葉にするのは難しい。けれど何故か、岡崎の読者は語りたがりの傾向が強い。一般人に。私の中では岡崎と桜沢エリカは同列の、トイレで暇潰しに読むもの。この話をして、以前岡崎ファンに桜沢と同列にするな、と叩かれたことがある。絵柄の所為ではなく両者の作品の共通点は、そのときの気分や空気を読むもの、であり、後からいろいろ語る作品ではないと私は今も思う。因みに両者の読者ではあるけれど、取り立てて好きな作家ではない。それにしても岡崎が交通事故に遭ってからどれだけの媒体が特集を組んだことか。商業主義極まれり。げんなりした。
その姿勢を否定するかのような「編集王」。もう皆語っていることが見当外れ過ぎて……。土田世紀、ストーリーは編集者に頼り捲って作品を描いているのは周知の事実ではないのか? この番組の放映は、別冊宝島で漫画家特集を出した前だったか? 調べるのが面倒なので強くは突っ込めないけれど、なんだかなあ、と萎えた。土田の作品を語るときに、作者は何を表現したがっているか、に触れるのはタブーではないのか? と。わざわざテレビで、見当外れなことと誰もが持つ感想ばかり述べるのは如何なものか。マンボ好塚に感動したり、作中作品を読みたいなんて素人でも思うことちゃうんか、と。もうちょっと、そんな見方もあるのか! 的発言が欲しかった。「編集王」は漫画雑誌編集者の話。その漫画雑誌編集者と共に作品を作る漫画家を描いたのが「燃えよペン」。誰だったかが、これを文庫で読むのはつまらない、できれば新聞紙くらいの大きさで読みたい、と言っていた。激しく同意。読後、無駄に熱くなってしまうのにも共感。島本和彦自身、本当に熱い人らしい。コミケで出す作品も、2番手メジャー雑誌掲載作と同じくらい熱いと言う。書き下ろし日捲りカレンダーの存在には笑った。そしてアシスタントも島本並みに熱いとか。この回でのみ、コミケに出入りしている岡田が役に立った。読んでも熱い、語っても熱い、語りを聞いているだけでも熱くなる島本漫画、恐るべし。聞いたままのテンションで今この日記を書いているので、ちょっと熱いかもしれない。まあこんな日があってもいいではないか。今の私はとても熱い。先日、うちのがDQCが何の略かを私から聞いて興奮していたときくらいに熱い。この略については何度も説明したことがあるのに毎回、そうだったのか! と熱くなってくれて面白い。うちのにとって私のDQC正式名称話は、私にとっての島本漫画なのかもしれない。違うって。
日記内表記について。私は漫画をカタカナでマンガと書くことに抵抗がある為、番組名以外は漢字表記。そして「賭博黙示録カイジ」「ナニワ金融道」については全巻所持しておらず、間違ったことを書いてしまう可能性もあるので触れずにおいた。日記内で触れた作品は全て所持及び読破済み。それにしてもこの番組。読んだことがない作品の回を観ても面白いのだろうか。先に書いたように、読んだことがあってもつまらない回もあったのだが。そして他の人は1度フルネームを出したら後は苗字だけで表記したのに対し呉智英だけ違うのは、くれともふさ・ごちえい、どちらで呼んでも構わないと当人が言っており、世間でも呼び方が二分している為。
そんなこんなで避けてきた岡田。ずーっと前にうぷろだでDLしたまま放置してた「BSマンガ夜話」に出ていた……。岡田よりも呉智英を出せ! ってのは無理か。夏目房之介と被るし。で、昨日今日で「PINK」「機動警察パトレイバー」「賭博黙示録カイジ」「燃えよペン」「編集王」「ナニワ金融道」の計6回分を観た。じっくりと全画面表示で観た訳ではなく、東風荘の片手間に観ていただけなので、聴いた、と言った方が正確かもしれない。そしてこの番組に於いて岡田はレギュラー。私のツボに嵌る声質。イヤだイヤだ、と繰り返していても話が進まないので内容へ。まず腹が立ったのが「機動警察パトレイバー」の回。司会者やレギュラーに作品への正しい知識がないなら取り上げない方が賢明かと。何故、ヘッドギア、の名前が出てこないのか。オウムを連想させるからではあるまい。それだと「燃えよペン」についてなんて取り上げられないし。いしかわが少しその辺の、複数の人々が携わって作られた作品云々とは言っていたけれど、それについて他の人に詳しい説明を求めていた。苛々。「OUT」を読まずしてゆうきまさみを語るな! 「究極超人あ〜る」「じゃじゃ馬グルーミンUP」を話に出すのはまあいい。でも。なんで「アッセンブル・インサート」が出てこないのかと小一時間(以下略。知識が中途半端なんじゃ! と。素人は語るな、と。いや、私も素人だけれど、テレビという公共の媒体で半端なことをされると苛つくのだ。描写の入れと抜きの話には成程。
「PINK」の回では女性出演者が多かった所為か、男オタク気質が作品に馴染めなかった所為かテンション低め。低いのはいいのだけれど岡崎京子の作品は、読者が語る、ものではないような。読者が岡崎の作品から感じるものはある。その、番組内でもよく使われていた単語で言うところの、気分。それは目から読み、脳で理解し、脳で感想を持ち、そこから言葉として口に出す迄の本当に短い瞬間に違うものと化してはしまわないか。気分とか空気感とか、その手のものを言葉にするのは難しい。けれど何故か、岡崎の読者は語りたがりの傾向が強い。一般人に。私の中では岡崎と桜沢エリカは同列の、トイレで暇潰しに読むもの。この話をして、以前岡崎ファンに桜沢と同列にするな、と叩かれたことがある。絵柄の所為ではなく両者の作品の共通点は、そのときの気分や空気を読むもの、であり、後からいろいろ語る作品ではないと私は今も思う。因みに両者の読者ではあるけれど、取り立てて好きな作家ではない。それにしても岡崎が交通事故に遭ってからどれだけの媒体が特集を組んだことか。商業主義極まれり。げんなりした。
その姿勢を否定するかのような「編集王」。もう皆語っていることが見当外れ過ぎて……。土田世紀、ストーリーは編集者に頼り捲って作品を描いているのは周知の事実ではないのか? この番組の放映は、別冊宝島で漫画家特集を出した前だったか? 調べるのが面倒なので強くは突っ込めないけれど、なんだかなあ、と萎えた。土田の作品を語るときに、作者は何を表現したがっているか、に触れるのはタブーではないのか? と。わざわざテレビで、見当外れなことと誰もが持つ感想ばかり述べるのは如何なものか。マンボ好塚に感動したり、作中作品を読みたいなんて素人でも思うことちゃうんか、と。もうちょっと、そんな見方もあるのか! 的発言が欲しかった。「編集王」は漫画雑誌編集者の話。その漫画雑誌編集者と共に作品を作る漫画家を描いたのが「燃えよペン」。誰だったかが、これを文庫で読むのはつまらない、できれば新聞紙くらいの大きさで読みたい、と言っていた。激しく同意。読後、無駄に熱くなってしまうのにも共感。島本和彦自身、本当に熱い人らしい。コミケで出す作品も、2番手メジャー雑誌掲載作と同じくらい熱いと言う。書き下ろし日捲りカレンダーの存在には笑った。そしてアシスタントも島本並みに熱いとか。この回でのみ、コミケに出入りしている岡田が役に立った。読んでも熱い、語っても熱い、語りを聞いているだけでも熱くなる島本漫画、恐るべし。聞いたままのテンションで今この日記を書いているので、ちょっと熱いかもしれない。まあこんな日があってもいいではないか。今の私はとても熱い。先日、うちのがDQCが何の略かを私から聞いて興奮していたときくらいに熱い。この略については何度も説明したことがあるのに毎回、そうだったのか! と熱くなってくれて面白い。うちのにとって私のDQC正式名称話は、私にとっての島本漫画なのかもしれない。違うって。
日記内表記について。私は漫画をカタカナでマンガと書くことに抵抗がある為、番組名以外は漢字表記。そして「賭博黙示録カイジ」「ナニワ金融道」については全巻所持しておらず、間違ったことを書いてしまう可能性もあるので触れずにおいた。日記内で触れた作品は全て所持及び読破済み。それにしてもこの番組。読んだことがない作品の回を観ても面白いのだろうか。先に書いたように、読んだことがあってもつまらない回もあったのだが。そして他の人は1度フルネームを出したら後は苗字だけで表記したのに対し呉智英だけ違うのは、くれともふさ・ごちえい、どちらで呼んでも構わないと当人が言っており、世間でも呼び方が二分している為。
涅槃桜の森の満開の下
2004年4月8日 本・映画・音楽など 検索サイトから飛んでいろんなサイトを見ていたところ、どうしても納得できないものを発見。愛しの君の某バンドは海外の某バンドに似ている的記述が。違う! その海外の某バンドは、愛しの君の某バンドのファンなのだ。そして某曲をパク……いや、リスペクトして発表したりしている。この前後関係を間違うと、海外コンプレックスの強い多くの日本人の傾向として、海外某バンドに日本某バンドが似ている、となってしまうのだろうか。上記の納得できない表現で某バンドを評した方がそうとは限らないけれど、何とももにょる話である。もにょるのは、海外某バンドが日本某バンドのファンであり、某曲のパクリとも言えるようなイントロの曲があることを逆方向で勘違いされている気がする。大体、似ている海外バンドを挙げるなら、ブラック・サバスは外せない筈ではないか。サバスを外して他のバンドをあげているのが、何だかなあ、の原因である。和製サバスとの声も高いのに。誤解なきように書くと、他人様の評にケチをつけたいのではなく、勘違いを生みそうな表現だったことに不安を感じたのだ。日本某バンドを高く評価してくれてはいたけれど、仮にそれでこのバンドに興味を持ち、一緒に挙げられていた海外某バンドの作品と一緒に聴いた人がいたとする。そのとき、海外某バンドの某曲の後で日本某バンドの某曲を聴いたら、概ねパクリだと捉えられそうだ。いちいち発表年を調べたりしなければ、逆だとはまず気付かれます。うーむ。どうせ杞憂だとは思うけれど、思い入れある大好きな日本某バンド故に気になって夜も眠……りに眠って、今日起きたのは15時だった。所要睡眠10時間ベースは何があっても崩れないのか。
さて桜も満開を過ぎ、春風に吹かれて花弁舞い散る今日この頃。私の頭も気の触れ桜がひぃらひら。で、愛しの君の某バンドの曲と歌詞をチェックしてみた。春・桜が出てくる曲はどれくらいあるのか。手元にあるCDはアルバムのみで、1〜4枚目及び6〜10枚目。それらの歌詞カードを読み直してみた。
「無限の住人」に4曲もあって驚いた。ここ迄は歌詞カードからの引用なので確実。以下は聴き取りからなので不正確箇所ありかも。
上記に引用した歌詞の殆どは愛しの君が書いたもの。バンド名同様にもう愛しの君もへったくれも(以下略。今更実名を出すのもアレなので、このままの書き方で今後も日記続行。愛しの君がラジオでしていた話曰く、春の海は嫌いらしい。淋しい感じがするからだとか。春そのものからして好きではなさそうだった。なのに書き出してみたら春だの桜だのの多いことったら。嫌い嫌いも好きのうち。違うか。きっと桜という樹木及び花が、日本の草木を象徴するような存在なので多く用いがちになっているのだろう。けれど、うららかなイメージはあるらしい。淋しげとうららかは相容れない気もするのだが。歌詞をパーッと見て、秋の曲が少なく思った。秋は題材にしづらい季節なのだろうか。別に季節の曲ばかりを作っているバンドではなく、むしろそういったところから離れた猟奇的・文学的・頽廃的・宗教的・衒学趣味な歌詞が多いのだけれど。ベーシストの書く歌詞に猟奇趣味は顕著だ。愛しの君の書く歌詞は猟奇趣味だけに留まらず、バリエーションが豊富。天才肌と秀才肌の違いか。愛しの君は後者。ベーシストは演奏技術・作曲及び作詞技術が天才的ということではない。ただベーシストには余り、頑張っている感、が見出せず、愛しの君の作曲・作詞には努力の跡が見える気がするのである。その努力の跡や苦心の跡がまた心に沁みてきたりする。ランボーの「母音」から書かれた歌詞は、某サイトでけちょんけちょんに近く貶されていたけれど。デビュー当時の作品では猟奇趣味・文学趣味が前面に出ていたのに、最近の作品はよく言えば幅が広がってきており、悪く言えば軽い作品が増えてきている気がする。それでもちゃんとアルバム最終曲に大作を持ってきて、きちんと〆ている。一時期、アルバム最終曲だけを集めてフォルダを作って、通して聴いていた。重かった……。でもこの重さがいい。演奏も曲も歌詞も声も顔も体も指も大好き。と、のだめの如くさり気なく告白。
BGM/書く迄もなく……
さて桜も満開を過ぎ、春風に吹かれて花弁舞い散る今日この頃。私の頭も気の触れ桜がひぃらひら。で、愛しの君の某バンドの曲と歌詞をチェックしてみた。春・桜が出てくる曲はどれくらいあるのか。手元にあるCDはアルバムのみで、1〜4枚目及び6〜10枚目。それらの歌詞カードを読み直してみた。
・アルバム「人間失格」より
「桜の森の満開の下」→「桜のトンネル夜歩く旅人」「桜の森の満開の下で」
・アルバム「桜の森の満開の下」より
アルバム・タイトルのみ
・アルバム「黄金の夜明け」より
なし
・アルバム「羅生門」より
なし
・アルバム「踊る一寸法師」より
「モスラ」→「春の海にのたり」
「暗い日曜日」→「春のベンチでうたた寝したんだ」
・アルバム「無限の住人」より
「蛮カラ一代記」→「花は桜木人は武士」
「刀と鞘」→「抜いて咲くのは八重桜」
「辻斬り小唄無宿編」→「桜吹雪がこち吹かば」
「黒猫」→「春の弥生の空に」「気の触れ桜がひらひら」「春の涅槃の風に」
・アルバム「頽廃藝術展」より
「菊人形の呪い」→「桜の花なら」「桜の花びら」
「村の外れでビッグバン」→「春のうららに誘われて」
・アルバム「二十世紀葬送曲」より
「恋は三角木馬の上で」→「月の照らす春高楼」
「春の海」→「うららかな春の海」「ひろやかな春の海」「のどやかな春の海」「ひそやかな春の海」「春霞の帷」
・アルバム「怪人二十面相」より
「亜麻色のスカーフ」→「春の公園」
「無限の住人」に4曲もあって驚いた。ここ迄は歌詞カードからの引用なので確実。以下は聴き取りからなので不正確箇所ありかも。
・アルバム「人間椅子」より書き出しに疲れてぐったり。早く未入手のCDも買おう。そしてもう某バンドも減ったくれもなく明らかだなあ。前からか? いいや、もう。できればタグ類は一切使いたくなかったけれど、今回は余りに引用が多用につき念の為。こうやってまたひとつ、自分の中の禁止事項が減ってゆく。
「桜の森の満開の下」→アルバム「人間椅子」収録作に同じ
・シングル「刀と鞘」より
「刀と鞘」→アルバム「無限の住人」収録作に同じ
「桜下音頭」→「春の都にゃ今日も今日とて」「咲けよ桜よ我等を糧に」
・アルバム「見知らぬ世界」より
「涅槃桜」→「桜ひらひら降る夜は」「春の涅槃に舞うのさ」「桜の降りしきる森の中」「春の宵は退屈すぎる」「春の宵は幻惑させる」「桜はらはら散る夜は」「春の薫りの吹くまま」「春の宵は朧にふける」
・アルバム「修羅囃子」より
「相剋の家」→「月経の春」
上記に引用した歌詞の殆どは愛しの君が書いたもの。バンド名同様にもう愛しの君もへったくれも(以下略。今更実名を出すのもアレなので、このままの書き方で今後も日記続行。愛しの君がラジオでしていた話曰く、春の海は嫌いらしい。淋しい感じがするからだとか。春そのものからして好きではなさそうだった。なのに書き出してみたら春だの桜だのの多いことったら。嫌い嫌いも好きのうち。違うか。きっと桜という樹木及び花が、日本の草木を象徴するような存在なので多く用いがちになっているのだろう。けれど、うららかなイメージはあるらしい。淋しげとうららかは相容れない気もするのだが。歌詞をパーッと見て、秋の曲が少なく思った。秋は題材にしづらい季節なのだろうか。別に季節の曲ばかりを作っているバンドではなく、むしろそういったところから離れた猟奇的・文学的・頽廃的・宗教的・衒学趣味な歌詞が多いのだけれど。ベーシストの書く歌詞に猟奇趣味は顕著だ。愛しの君の書く歌詞は猟奇趣味だけに留まらず、バリエーションが豊富。天才肌と秀才肌の違いか。愛しの君は後者。ベーシストは演奏技術・作曲及び作詞技術が天才的ということではない。ただベーシストには余り、頑張っている感、が見出せず、愛しの君の作曲・作詞には努力の跡が見える気がするのである。その努力の跡や苦心の跡がまた心に沁みてきたりする。ランボーの「母音」から書かれた歌詞は、某サイトでけちょんけちょんに近く貶されていたけれど。デビュー当時の作品では猟奇趣味・文学趣味が前面に出ていたのに、最近の作品はよく言えば幅が広がってきており、悪く言えば軽い作品が増えてきている気がする。それでもちゃんとアルバム最終曲に大作を持ってきて、きちんと〆ている。一時期、アルバム最終曲だけを集めてフォルダを作って、通して聴いていた。重かった……。でもこの重さがいい。演奏も曲も歌詞も声も顔も体も指も大好き。と、のだめの如くさり気なく告白。
BGM/書く迄もなく……
現在3月29日。
金曜に美容院に予約を入れたものの前々夜から具合が悪く、キャンセルしようかどうしようか迷ったのだが、この日はたまたま早く目覚めて入浴時間が取れたので、身綺麗にしてうちのと出掛けた。ピアスホールがなかなか安定しなかった為、髪を切るのは凡そ3ヶ月ぶり。結局未だ安定せず、ピアスをつけたままでカットしてもらうことになった。長らく放置していたのが功を為して、初めて前髪とサイドを繋げる形にできた。全体の印象に一体感が出て、後ろは余り長さを変えずに軽く。簪で纏め髪ができるよう伸ばそうかと思ったけれど、担当さんと相談の結果、私にはそこ迄伸ばす根性がないと判断して切ってもらった。もさーっとなっていたのが春らしくなり且つサイドのライターで焦がしてしまった毛先もなくなり手触りも良くなり、いい気分。うちのもスッキリと短くカットしてもらった。美容院を出て普段と違う道を歩いていたらフェレット専門店を発見した。珍しくうちのから、覗いてみよう、と言い出してショップに入ると10本程度のフェレットが大人しくケージの中で寝ていたり、ハンモックの上で寝ていたり。初めて、フェレットもいいなあ、うちの雑食動物と仲良くできるかなあ、とうちのの方から言い出したけれど値段が高く断念。うちで飼っている雑食動物とフェレットの相性は一般的には悪くない。仲良くなるとお互いの尻尾を追いかけっこしたりするらしい。けれど如何せん、姫、として我侭に育ってしまったうちの雑食動物が、新規参入動物と仲良くできるかは疑問。余談だが、昨日某県某所の駅前にてうちのと同種雑食動物の里親探しをしていた。うちのが動物の新規参入にやや気乗りしてきたと土曜に判断した私はかなり悩み、もらうのをやめた。やはりうちの姫が新しい仔を受け入れられるどうかが疑問だったからだ。ストレスで脱毛症になられても、新規の仔を虐めるようになっても困るし悲しい。いずれはもう1匹何かしらを飼いたいとは思っているが、うちの雑食動物がもっと歳を取って穏やかになってからの話か。
フェレット屋を出て川沿いの桜を眺め、やや遅い昼食を摂ろうと新しくできたらしいカレー屋へ。うちのは違う物が食べたかったらしいが店先のメニューにあった、仔羊のカレー、の文字に私が魅入られてしまった。半端な時間帯にも拘らずとても混んでいてやや待って席についてメニューを見ると……無念。その店のカレーは具によってルーを変えておりそれぞれ辛さが違う。私が目当てにしていた仔羊のは最も辛く作られていたので断念して中辛程度のものを注文。うちのは辛いのが好きなので仔羊を注文。チーズトッピングをしていたのに相当辛かったようだ。私も半熟卵をトッピングすればよかった、とやや後悔。ふたりして辛さで汗だくになった所為か、食後のサービスで出されたアイスチャイがとても美味しく感じた。普段、私はどちらかと言うとチャイは苦手な方なのだが。香草よりも茶葉の香りが強かったので飲み易かったのかもしれない。カレー屋を出て駅迄歩き、新宿へ。私は予備知識をたんまり蓄えて1度目、うちのは1度見て以来予備知識などはつけずに2度目の「イノセンス」観賞。
以下、ネタバレ注意。うちのは前回よりも眠くなったとかで、結局半分程の時間は寝ていたらしい。私は非常に楽しめた。とにかく映像と音楽が素晴らしく綺麗で圧巻。絵柄は映画版パトよりも観易くなっていた。が、あの絵柄では子供を可愛らしく描くことは難しそうに感じた。また筋肉の動きで表情を出す絵柄の為、誰の言葉だったかは忘れたけれど、人間の笑顔が美しいというのは嘘だ、造形が崩れて笑顔などは見苦しい、本当に美しい表情は無表情だ、という言葉が頭に浮かんだ。私も常々そう思っており、アニメーションを見て更にその思いに確信を持った。全体的な感想としては、物凄く作り込んだんだなあ、と。ただ作り込まれた感が強いだけあり、アニメ特有の声や足音のズレが気になってしまった。もっと雑な作りなら気にならなかっただろう。または電脳社会なのだから、いっそ口元を発声に必要な形では一切動かさずに作るとか。もしかしたらその方が設定がリアルになったかもしれない。ストーリーはきっと知識をつけずに行っても、バトーが少女の写真を拾ったところで勘付けたと思う。ヤクザのシーンは蛇足か。あのシーンがなくともストーリー上で支障はなかったかと。それよりは保護された少女が何故あそこに連れて行かれたかを描いた方が、話に膨らみが持たせられた気がする。またハダリがセクサロイドであるという設定を科白以外でも表現してもらいたかった。これは海外公開を前提に且つジブリが絡んだ時点で難しいか……。ベルメール人形をモチーフ、いや人形・作品そのままが2箇所出てきたところで、つけていった予備知識が活きてニヤリ。球体関節人形も美しく表現されていた。欲を言えば、電脳化されていない球体関節人形を祭りのシーンででも出してくれれば、ハダリたちがより未来を感じさせるものになったかも。私が予備知識を得た某巨大掲示板某板の数スレで、押井がバセットハウンドを描く為に作った映画だ、と揶揄されていた。あの映画にさほど魅力を感じなかった人には、犬の行動が特に印象に残ったのも頷けた。それくらいバセットハウンドはリアルに動いていたのだ。少佐の存在が新しい表現だ、とうちのは思ったらしい。私は……4分33秒という曲を思い出した。聴こうと思えば聴こえる、見ようと思えば見える。
服装/ozocのサーモンピンクカットソー+scolarのターコイズブルージップアップカーデ+ビリジアンブルー立体裁断クロップドパンツ+モナミピエルロのオフホワイト革ジャケット+オフホワイトのスラトップドライビングシューズ+ポーターの黒斜め掛け鞄+アナスイの蝶型チェーンピアス+同お揃いのブレスレット
メイク/ルティーナのクリスタルクリエーターUV→P&Jのパウダリーファンデ01→アナスイのアイブロウパウダー→ピエヌのスパークリングアイズBL204→ビューコスのボリュームマスカラ→資生堂SのトリックパーティーE→イプサのフェースカラーM502→ル・ミュウのエッセンスリップグロスのピンク
金曜に美容院に予約を入れたものの前々夜から具合が悪く、キャンセルしようかどうしようか迷ったのだが、この日はたまたま早く目覚めて入浴時間が取れたので、身綺麗にしてうちのと出掛けた。ピアスホールがなかなか安定しなかった為、髪を切るのは凡そ3ヶ月ぶり。結局未だ安定せず、ピアスをつけたままでカットしてもらうことになった。長らく放置していたのが功を為して、初めて前髪とサイドを繋げる形にできた。全体の印象に一体感が出て、後ろは余り長さを変えずに軽く。簪で纏め髪ができるよう伸ばそうかと思ったけれど、担当さんと相談の結果、私にはそこ迄伸ばす根性がないと判断して切ってもらった。もさーっとなっていたのが春らしくなり且つサイドのライターで焦がしてしまった毛先もなくなり手触りも良くなり、いい気分。うちのもスッキリと短くカットしてもらった。美容院を出て普段と違う道を歩いていたらフェレット専門店を発見した。珍しくうちのから、覗いてみよう、と言い出してショップに入ると10本程度のフェレットが大人しくケージの中で寝ていたり、ハンモックの上で寝ていたり。初めて、フェレットもいいなあ、うちの雑食動物と仲良くできるかなあ、とうちのの方から言い出したけれど値段が高く断念。うちで飼っている雑食動物とフェレットの相性は一般的には悪くない。仲良くなるとお互いの尻尾を追いかけっこしたりするらしい。けれど如何せん、姫、として我侭に育ってしまったうちの雑食動物が、新規参入動物と仲良くできるかは疑問。余談だが、昨日某県某所の駅前にてうちのと同種雑食動物の里親探しをしていた。うちのが動物の新規参入にやや気乗りしてきたと土曜に判断した私はかなり悩み、もらうのをやめた。やはりうちの姫が新しい仔を受け入れられるどうかが疑問だったからだ。ストレスで脱毛症になられても、新規の仔を虐めるようになっても困るし悲しい。いずれはもう1匹何かしらを飼いたいとは思っているが、うちの雑食動物がもっと歳を取って穏やかになってからの話か。
フェレット屋を出て川沿いの桜を眺め、やや遅い昼食を摂ろうと新しくできたらしいカレー屋へ。うちのは違う物が食べたかったらしいが店先のメニューにあった、仔羊のカレー、の文字に私が魅入られてしまった。半端な時間帯にも拘らずとても混んでいてやや待って席についてメニューを見ると……無念。その店のカレーは具によってルーを変えておりそれぞれ辛さが違う。私が目当てにしていた仔羊のは最も辛く作られていたので断念して中辛程度のものを注文。うちのは辛いのが好きなので仔羊を注文。チーズトッピングをしていたのに相当辛かったようだ。私も半熟卵をトッピングすればよかった、とやや後悔。ふたりして辛さで汗だくになった所為か、食後のサービスで出されたアイスチャイがとても美味しく感じた。普段、私はどちらかと言うとチャイは苦手な方なのだが。香草よりも茶葉の香りが強かったので飲み易かったのかもしれない。カレー屋を出て駅迄歩き、新宿へ。私は予備知識をたんまり蓄えて1度目、うちのは1度見て以来予備知識などはつけずに2度目の「イノセンス」観賞。
以下、ネタバレ注意。うちのは前回よりも眠くなったとかで、結局半分程の時間は寝ていたらしい。私は非常に楽しめた。とにかく映像と音楽が素晴らしく綺麗で圧巻。絵柄は映画版パトよりも観易くなっていた。が、あの絵柄では子供を可愛らしく描くことは難しそうに感じた。また筋肉の動きで表情を出す絵柄の為、誰の言葉だったかは忘れたけれど、人間の笑顔が美しいというのは嘘だ、造形が崩れて笑顔などは見苦しい、本当に美しい表情は無表情だ、という言葉が頭に浮かんだ。私も常々そう思っており、アニメーションを見て更にその思いに確信を持った。全体的な感想としては、物凄く作り込んだんだなあ、と。ただ作り込まれた感が強いだけあり、アニメ特有の声や足音のズレが気になってしまった。もっと雑な作りなら気にならなかっただろう。または電脳社会なのだから、いっそ口元を発声に必要な形では一切動かさずに作るとか。もしかしたらその方が設定がリアルになったかもしれない。ストーリーはきっと知識をつけずに行っても、バトーが少女の写真を拾ったところで勘付けたと思う。ヤクザのシーンは蛇足か。あのシーンがなくともストーリー上で支障はなかったかと。それよりは保護された少女が何故あそこに連れて行かれたかを描いた方が、話に膨らみが持たせられた気がする。またハダリがセクサロイドであるという設定を科白以外でも表現してもらいたかった。これは海外公開を前提に且つジブリが絡んだ時点で難しいか……。ベルメール人形をモチーフ、いや人形・作品そのままが2箇所出てきたところで、つけていった予備知識が活きてニヤリ。球体関節人形も美しく表現されていた。欲を言えば、電脳化されていない球体関節人形を祭りのシーンででも出してくれれば、ハダリたちがより未来を感じさせるものになったかも。私が予備知識を得た某巨大掲示板某板の数スレで、押井がバセットハウンドを描く為に作った映画だ、と揶揄されていた。あの映画にさほど魅力を感じなかった人には、犬の行動が特に印象に残ったのも頷けた。それくらいバセットハウンドはリアルに動いていたのだ。少佐の存在が新しい表現だ、とうちのは思ったらしい。私は……4分33秒という曲を思い出した。聴こうと思えば聴こえる、見ようと思えば見える。
服装/ozocのサーモンピンクカットソー+scolarのターコイズブルージップアップカーデ+ビリジアンブルー立体裁断クロップドパンツ+モナミピエルロのオフホワイト革ジャケット+オフホワイトのスラトップドライビングシューズ+ポーターの黒斜め掛け鞄+アナスイの蝶型チェーンピアス+同お揃いのブレスレット
メイク/ルティーナのクリスタルクリエーターUV→P&Jのパウダリーファンデ01→アナスイのアイブロウパウダー→ピエヌのスパークリングアイズBL204→ビューコスのボリュームマスカラ→資生堂SのトリックパーティーE→イプサのフェースカラーM502→ル・ミュウのエッセンスリップグロスのピンク
現在3月16日。
球体関節人形展を観に、うちのと一緒に東京都現代美術館迄足を運んだ。私が球体関節人形の実物を観たのはこの日が初めて。正直な感想を。ベルメールの影響により、特異な形で日本で球体関節人形文化が発展したのは当然予備知識として持って出掛けた。そして生で観て……がっかり度40%。何が不満だったのか。それは私の思い描いていた球体関節人形と実物の球体関節人形の遥かなる乖離だ。球体関節人形と冠しているからには、どれも球体関節稼動が可能な人形だと思っていた。けれど行ってみると、稼動不可能な人形が多く、関節部分に球体らしき形の何かを嵌め込んでいるように見せかけて実はしっかりと接続されていて稼動不可能な人形が多かった。私は辞書通りに言葉を使ってくれないと戸惑う。球体関節人形と言うからには、関節部分に球体を使って稼動可能な人形でなければ腑に落ちない。球体関節人形もどき、の多さにがっかりしたのだ。もうひとつのがっかり部分。安っぽい黒ロリの、美しい人形に対する罵倒。キモチワルーイ。キモチワルイのはおまいの顔(以下略。恋月姫目当てなのは解った。三浦悦子の所謂ヴィジュアル系に好まれそうなサイバーな人形だったのも解る。でも。美術館には様々な人が様々な目的を持ってやってきているのだ。自分の趣味嗜好に合わないからと言ってそのまんま口にするな。それから親子連れ。ツマンナーイとうろちょろする餓鬼を連れてくるな。ただでさえ餓鬼には刺激の強い人形が多いのだ。弁えろ。そして親自身。山海塾と言いたい気持ちは解る。でも言うな。兎に角、思ったことを全て大きな声で口にする、精神年齢の低い客に気分を害された。私が狭量なのか?
うちのが気に入った人形作家は吉田良。確かに非常に美しく、小柄ながらも存在感のある人形が多く且つそれらは皆力強い瞳を持っており、観ると感嘆の溜息を漏らさずにいられない求心力を持っていた。私が惹かれたのは伽井丹彌の作品。特にこの日記のタイトルにした、ひかるもの、は球体関節人形のお手本のような作りになっており、妖艶な唇の輝きと夜叉か菩薩かと私を惑わせる瞳が素晴らしかった。素晴らしいというか、欲しい。幾らするんだろう……考えるだに恐ろしい価格でありそうだ。因みに日本に於ける球体関節人形の第一人者である四谷シモンの人形は、一体500万〜1000万円らしい。伽井のひかるものに次ぐインパクトを齎した人形は、三浦悦子のバイオリン・ハープの対と思われる2体。この人形の特筆すべき点は着色だろう。失血部分と鬱血部分のコントラストが白い肢体に映えて暫く視線を逸らせなかった。井桁裕子の闘病日誌。この精密さには驚かされた。どの人面瘡も微妙に違う表情をしており、仕事の丁寧さが伺えた。期待外れだったのは土井典と四谷シモン。土井の作品全般、私は球体関節人形には思えなかった。狂態関節人形を模したオブジェ、でしかないのではないか。狂態、と誤入力で変換してしまったけれど、強ち外れていない気がするのでそのままとする。現代的過ぎたのも私を引かせる一因だったかもしれない。四谷シモンの作品について。私の目には、未来と過去のイヴを除く作品は綺麗に纏まり過ぎていた。綺麗ではある。精巧ではある。ただ、それだけ。小さく纏まっているという訳でもないのだけれど、どこかインパクトに欠けてしまっているように感じてしまった。完成されすぎてしまっているのかもしれない。以前の日記でも触れた三輪輝子の萌香。これはその他3体の人形と共に展示されており、萌香含む4体が同素材の衣類を纏っていた為に魅力が埋没してしまった感がある。
今回の展示の目玉はやはり天野可淡の作品たちだろう。だろうが……解った。私は和のテイストがある人形が基本的に好きなようだ。そして可淡の人形は洋風の雰囲気。一部に圧倒的支持を受けている恋月姫の展示作品も洋風。四谷シモンの作品も洋風。私が球体関節人形の存在を知り、ベルメールの人形に衝撃を受けた。それでも人形に求めるものは、和、だったようである。もうひとつ解ったこと。私にとって人形を中心とした芸術の最終形は、写真らしい。正直なところ、ネットで観た画像の期待を裏切られた人形がとても多かった。実物を観てしまうと、人形に宿る魂のようなものの存在を疑うものが多く、所詮は無機物、と思ってしまう作品が多かったのだ。美術館を出る際、うちのは吉田良の作品写真集を、私は今回の企画の纏め本を購入した。そして家で観た。やはり私には実物よりも、フィルムなどを通して二次元の世界に押し込まれた人形の方が魅力的だ。実物を観て、圧倒的な存在感に圧されたり、目を奪われたり、所有欲を掻き立てられたり、ただただ作家の情熱に感動したりと様々な感情を短時間に味わえたのは久しぶりのことであり、ヒキコモリ傾向の私には十分な刺激となり、行ってよかったと素直に言えよう。この球体関節人形展のパンフについての所感は後日書く予定。
この日はホワイトデイであり、美術館に行くことをメインの目的としたうちのとデートだった。美術館を出て折角だからと深川めしを食し、美味しかったけど高いねー、などと話しながら電車に乗り……私はうとうと。徹夜で出掛けてしまったのだ。またこの日は珍しくヒール靴を履いており、疲労は相当なもので予定していた「イノセンス」鑑賞は持ち越し。これは私の疲労のせいだけでなくうちのの体調不良と、ふたりの悲しき哉加齢を感じざるを得ない、1日に吸収できる情報量やそれに伴う感受性の減少の自覚もあった。ので、その後はうちのの携帯電話新規購入に付き合い、私へのホワイトデイのプレゼントを買ってもらい帰宅。そしてあっという間に眠りに就いた。ホワイトデイのプレゼントについては以前この日記でも候補を挙げて考えていた。そして取り敢えずちょっと覗こうと思ったアナスイのアクセサリ売り場で、ひとつのピアスに一目惚れ! シルバーとガーネットで作られた都内某デパートと大阪府内某デパート限定の物。即決。誕生石使用ということもありこちらが誕生日プレゼントに相応しかったのでは? という気もするけれど……気にしない。綺麗な物を観て、綺麗な物をプレゼントしてもらい、綺麗な1日だったように思う。余談。ホワイトデイということもあってか、デパートのアクセサリ売り場はカップルでいっぱいだった。人込みは嫌いだ。
服装/scolarの茶系花柄メタリックパープルライン入りカットソー+セレクトショップの紫の綿カーディガン+Spick&Spanのオフホワイトストレッチパンツ+インポート物のグレーのコート+メタリックパープルのパンプス+PORTERの黒い斜めかけバッグ
BGM/アルバム「筋少の大水銀」
球体関節人形展を観に、うちのと一緒に東京都現代美術館迄足を運んだ。私が球体関節人形の実物を観たのはこの日が初めて。正直な感想を。ベルメールの影響により、特異な形で日本で球体関節人形文化が発展したのは当然予備知識として持って出掛けた。そして生で観て……がっかり度40%。何が不満だったのか。それは私の思い描いていた球体関節人形と実物の球体関節人形の遥かなる乖離だ。球体関節人形と冠しているからには、どれも球体関節稼動が可能な人形だと思っていた。けれど行ってみると、稼動不可能な人形が多く、関節部分に球体らしき形の何かを嵌め込んでいるように見せかけて実はしっかりと接続されていて稼動不可能な人形が多かった。私は辞書通りに言葉を使ってくれないと戸惑う。球体関節人形と言うからには、関節部分に球体を使って稼動可能な人形でなければ腑に落ちない。球体関節人形もどき、の多さにがっかりしたのだ。もうひとつのがっかり部分。安っぽい黒ロリの、美しい人形に対する罵倒。キモチワルーイ。キモチワルイのはおまいの顔(以下略。恋月姫目当てなのは解った。三浦悦子の所謂ヴィジュアル系に好まれそうなサイバーな人形だったのも解る。でも。美術館には様々な人が様々な目的を持ってやってきているのだ。自分の趣味嗜好に合わないからと言ってそのまんま口にするな。それから親子連れ。ツマンナーイとうろちょろする餓鬼を連れてくるな。ただでさえ餓鬼には刺激の強い人形が多いのだ。弁えろ。そして親自身。山海塾と言いたい気持ちは解る。でも言うな。兎に角、思ったことを全て大きな声で口にする、精神年齢の低い客に気分を害された。私が狭量なのか?
うちのが気に入った人形作家は吉田良。確かに非常に美しく、小柄ながらも存在感のある人形が多く且つそれらは皆力強い瞳を持っており、観ると感嘆の溜息を漏らさずにいられない求心力を持っていた。私が惹かれたのは伽井丹彌の作品。特にこの日記のタイトルにした、ひかるもの、は球体関節人形のお手本のような作りになっており、妖艶な唇の輝きと夜叉か菩薩かと私を惑わせる瞳が素晴らしかった。素晴らしいというか、欲しい。幾らするんだろう……考えるだに恐ろしい価格でありそうだ。因みに日本に於ける球体関節人形の第一人者である四谷シモンの人形は、一体500万〜1000万円らしい。伽井のひかるものに次ぐインパクトを齎した人形は、三浦悦子のバイオリン・ハープの対と思われる2体。この人形の特筆すべき点は着色だろう。失血部分と鬱血部分のコントラストが白い肢体に映えて暫く視線を逸らせなかった。井桁裕子の闘病日誌。この精密さには驚かされた。どの人面瘡も微妙に違う表情をしており、仕事の丁寧さが伺えた。期待外れだったのは土井典と四谷シモン。土井の作品全般、私は球体関節人形には思えなかった。狂態関節人形を模したオブジェ、でしかないのではないか。狂態、と誤入力で変換してしまったけれど、強ち外れていない気がするのでそのままとする。現代的過ぎたのも私を引かせる一因だったかもしれない。四谷シモンの作品について。私の目には、未来と過去のイヴを除く作品は綺麗に纏まり過ぎていた。綺麗ではある。精巧ではある。ただ、それだけ。小さく纏まっているという訳でもないのだけれど、どこかインパクトに欠けてしまっているように感じてしまった。完成されすぎてしまっているのかもしれない。以前の日記でも触れた三輪輝子の萌香。これはその他3体の人形と共に展示されており、萌香含む4体が同素材の衣類を纏っていた為に魅力が埋没してしまった感がある。
今回の展示の目玉はやはり天野可淡の作品たちだろう。だろうが……解った。私は和のテイストがある人形が基本的に好きなようだ。そして可淡の人形は洋風の雰囲気。一部に圧倒的支持を受けている恋月姫の展示作品も洋風。四谷シモンの作品も洋風。私が球体関節人形の存在を知り、ベルメールの人形に衝撃を受けた。それでも人形に求めるものは、和、だったようである。もうひとつ解ったこと。私にとって人形を中心とした芸術の最終形は、写真らしい。正直なところ、ネットで観た画像の期待を裏切られた人形がとても多かった。実物を観てしまうと、人形に宿る魂のようなものの存在を疑うものが多く、所詮は無機物、と思ってしまう作品が多かったのだ。美術館を出る際、うちのは吉田良の作品写真集を、私は今回の企画の纏め本を購入した。そして家で観た。やはり私には実物よりも、フィルムなどを通して二次元の世界に押し込まれた人形の方が魅力的だ。実物を観て、圧倒的な存在感に圧されたり、目を奪われたり、所有欲を掻き立てられたり、ただただ作家の情熱に感動したりと様々な感情を短時間に味わえたのは久しぶりのことであり、ヒキコモリ傾向の私には十分な刺激となり、行ってよかったと素直に言えよう。この球体関節人形展のパンフについての所感は後日書く予定。
この日はホワイトデイであり、美術館に行くことをメインの目的としたうちのとデートだった。美術館を出て折角だからと深川めしを食し、美味しかったけど高いねー、などと話しながら電車に乗り……私はうとうと。徹夜で出掛けてしまったのだ。またこの日は珍しくヒール靴を履いており、疲労は相当なもので予定していた「イノセンス」鑑賞は持ち越し。これは私の疲労のせいだけでなくうちのの体調不良と、ふたりの悲しき哉加齢を感じざるを得ない、1日に吸収できる情報量やそれに伴う感受性の減少の自覚もあった。ので、その後はうちのの携帯電話新規購入に付き合い、私へのホワイトデイのプレゼントを買ってもらい帰宅。そしてあっという間に眠りに就いた。ホワイトデイのプレゼントについては以前この日記でも候補を挙げて考えていた。そして取り敢えずちょっと覗こうと思ったアナスイのアクセサリ売り場で、ひとつのピアスに一目惚れ! シルバーとガーネットで作られた都内某デパートと大阪府内某デパート限定の物。即決。誕生石使用ということもありこちらが誕生日プレゼントに相応しかったのでは? という気もするけれど……気にしない。綺麗な物を観て、綺麗な物をプレゼントしてもらい、綺麗な1日だったように思う。余談。ホワイトデイということもあってか、デパートのアクセサリ売り場はカップルでいっぱいだった。人込みは嫌いだ。
服装/scolarの茶系花柄メタリックパープルライン入りカットソー+セレクトショップの紫の綿カーディガン+Spick&Spanのオフホワイトストレッチパンツ+インポート物のグレーのコート+メタリックパープルのパンプス+PORTERの黒い斜めかけバッグ
BGM/アルバム「筋少の大水銀」
球体関節人形展パンフ所感
2004年3月11日 本・映画・音楽など 現在3月21日。
14日に行った球体関節人形展にて帰りにパンフを購入してきた。1日経って一通り見ての感想。まず不満編から箇条書き。
・展示作品の全てが収められていない
・特に対になっていると思われる人形の片方が掲載されていないのは片手落ちではないか
・天野可淡作品が一切掲載されていないことに人形界全体の狭量さとの可淡への強引な高尚さへの狙いを感じてしまう
・耽美系及び前面に異形を表現した作品に重点を置きすぎていないか
・球体関節人形から最早離れた亜流といって過言ではないような作品を重視しすぎてはいないか
・その構図で撮影すると全体像への違和感が発生するのではないかと危惧してしまう写真の多さ
・展覧会の中でも個人的には非常に浮いた存在に見えたマリオ・Aの作品に何故あんなに頁数を費やしているのか→そのぶんベルメールの写真を多用できなかったものか
・敢えて既存作に名を挙げて批判はしないけれど、一部の関節人形作家ファンへの媚を感じる
・月光社の作品は駄洒落とも思えるタイトルで非常に損をしている気がする
・映画「イノセンス」を主題として作られた球体関節人形はともかく、犬の人形は不要としか思えない
以上は、私個人の批判。どうしても犬に拘るならば、革人形での作成のほうが向いているように思う。
以下、うちのの不満。
・最も強烈な印象だった吉田良の一作品が掲載されていないことに強い不満を持った
あくまで個人的感想であり、人形展そのものやパンフ作成への批判ではないことを断っておく。以下は反してパンフに於ける個人的に良かった点。
・最も好きな伽井の「ひかるもの」がちゃん全身掲載されていた
・同作家の「鏡−陰毛−」がサイトの画像ではちゃん判らなかったけれど、展示人形とパンフの写真でタイトルと直結できたこと
・中村寝郎の作品掲載数は彼の作品が一貫性があり且つ前衛的な何かを思わせるので少数の掲載で成功だったのではなかろうか
パンフを見て、改めて私にとって人形の完成形は写真及び画像だと認識。その発端は、チラシではあれ程魅入られた「萌香」の実物の印象の薄さが原因だ。私にとっては、背景・衣装・稼動させた人形のポーズ及び人形を撮影するにあたっての角度の問題が重要なのだろう。「萌香」そのものは、和装洋装共に似合う人形だと思う。けれど展示では4体の人形が同種の衣装を纏い、その姿がパンフにに納められている。残念でならない。全ての人形を展示状態のままで掲載するのでなければ、展示されておりパンフに掲載される人形も、その魅力を存分に引き出す姿で撮影・掲載できなかったものだろうか。パンフで全作品を展示状態ままで掲載するならこのような未消化もなかったかもしけないけれど……悔しさが残る。掲載されていた人形によっては、写真の構図が展示状態と微妙に変わっている物も少なくない。人形作家が望むことは何なのだろう。あるがままの人形を観てもらいたいのにか、それともより良く人形を観せたいのか、はたまた人形完成時に作家にとっての全てが完了してしまい後はお好きに、となってしまうのだろうか。私は人形作家ではないし、上記パターンのどれを目指すまたは根ざす人がいてもおかしくないと思う。もっと言う場、更に違う角度で完成とする人形師もいるかもしれない。私は一鑑賞者として想像を働かせることしかできず、一傍観者である私の好みとして、作られた人形の特徴を活かしつつ美しく撮影された写真や画像を観たいと思うだけである。
このパンフと同時に、うちのが吉田良の「Astral Dall」という作品写真集を購入した。一通り鑑賞し、私が特に惹かれたのはこれといった目立った特徴のない一体の少女人形だった。この人形は2ページに渡って2カットが掲載されており、その表情に目を奪われた。鏡を使っての撮影で、2カットに4つの表情が写っている。人形は一体。1度完成された人形は、ひとつの表情で以って顔を造形されている筈だ。なのに角度によって全て表情が違って見える。これは凄い技術ではなかろうか。人間の表情は、正面から見たら微笑であっても、角度を変えて見ると皮肉を含んだ笑みに見えたり、無表情にに見えたり、物思いに耽っているように見える。人の心の機微は、表情に表れるのは当然のことだ。けれど人形は物質であり、完成形であり、心が宿っているように見えるのは人間の錯覚や人形への思い入れの変形だろう。このように理解をしていても、その吉田良の一体の人形は心を、魂を宿らせているように見えた。吉田良の作品としては大人し目の作品であり、いろいろ見てきた球体関節人形の中で唯一、うちで一緒に暮らしてもいいな、と思える人形だった。価格は判らないながら、手の届く額でないことは容易に想像できるが。
或る人形作家の言葉で、人形の持ち主の人形への接し方で人形そのものの表情が変わる、というのを読んだことがある。人形をネグレクトすると冷たい表情になり、常日頃から手をかけてやさしく接すると人形の表情も柔らかくなっていくとか。ペットは生き物であり、接し方によって性格や表情が変わることはよく知っている。それが人形にも当て嵌まるとは簡単には想像できない話だ。けれどその作家自身またはその作家の人形を所有している人からすれば尤もな話なのかもしれない。私が球体関節人形を所有していない故に想像力が追いつかないのだろうか。いや、きっと常日頃からこのような芸術作品に触れていない者は、私以外にもやはり理解し難い考え方だと思われる。理解し難いけれど、1度某作家のサイトで少しだけ解った気がした画像に出会った。その画像に映された人形は、正面から見たら表情なのに斜め横からみると微笑を携えていたのだ。上記談話の知識を得る前に見た画像にも拘わらず、この人形は愛されているのだな、と半ば本能で感じ取れた。そしてひとつの疑問。人形は人間の擬態であり、感情移入は比較的簡単であると思われる。そして動物の擬態であり往々にしてデフォルメされたぬいぐるみにもこのような感情移入は可能なのか。有名なぬいぐるみコレクタに新井素子がいる。彼女は無垢な瞳を閉じることなく見つめてくるぬいぐるみの愛を一心に受け止められる、稀有ともいえる能力の持ち主らしい。私は人形にしてもぬいぐるみにしても、見返りを求められない無垢な愛情をあるがままに受け止めたり、同じような愛情で返す自信がない。玉石を持たない、様々な物質により構成された人や動物の擬態を愛せるかどうか。今回、球体関節人形を知っていろいろ調べた結果、新しく作られてしまった私への課題なのか。まずは棚に放置されっぱなしの、ひとり暮らしの頃に購入したピクルス・フロッグを洗濯して愛し直すことから始めてみよう。そうすることで私自身の心に何かしらの変化が生じるかもしれない。良い変化が生じるか、それとも非現実方向への変化が生じるかは今のところ全く解らない。
14日に行った球体関節人形展にて帰りにパンフを購入してきた。1日経って一通り見ての感想。まず不満編から箇条書き。
・展示作品の全てが収められていない
・特に対になっていると思われる人形の片方が掲載されていないのは片手落ちではないか
・天野可淡作品が一切掲載されていないことに人形界全体の狭量さとの可淡への強引な高尚さへの狙いを感じてしまう
・耽美系及び前面に異形を表現した作品に重点を置きすぎていないか
・球体関節人形から最早離れた亜流といって過言ではないような作品を重視しすぎてはいないか
・その構図で撮影すると全体像への違和感が発生するのではないかと危惧してしまう写真の多さ
・展覧会の中でも個人的には非常に浮いた存在に見えたマリオ・Aの作品に何故あんなに頁数を費やしているのか→そのぶんベルメールの写真を多用できなかったものか
・敢えて既存作に名を挙げて批判はしないけれど、一部の関節人形作家ファンへの媚を感じる
・月光社の作品は駄洒落とも思えるタイトルで非常に損をしている気がする
・映画「イノセンス」を主題として作られた球体関節人形はともかく、犬の人形は不要としか思えない
以上は、私個人の批判。どうしても犬に拘るならば、革人形での作成のほうが向いているように思う。
以下、うちのの不満。
・最も強烈な印象だった吉田良の一作品が掲載されていないことに強い不満を持った
あくまで個人的感想であり、人形展そのものやパンフ作成への批判ではないことを断っておく。以下は反してパンフに於ける個人的に良かった点。
・最も好きな伽井の「ひかるもの」がちゃん全身掲載されていた
・同作家の「鏡−陰毛−」がサイトの画像ではちゃん判らなかったけれど、展示人形とパンフの写真でタイトルと直結できたこと
・中村寝郎の作品掲載数は彼の作品が一貫性があり且つ前衛的な何かを思わせるので少数の掲載で成功だったのではなかろうか
パンフを見て、改めて私にとって人形の完成形は写真及び画像だと認識。その発端は、チラシではあれ程魅入られた「萌香」の実物の印象の薄さが原因だ。私にとっては、背景・衣装・稼動させた人形のポーズ及び人形を撮影するにあたっての角度の問題が重要なのだろう。「萌香」そのものは、和装洋装共に似合う人形だと思う。けれど展示では4体の人形が同種の衣装を纏い、その姿がパンフにに納められている。残念でならない。全ての人形を展示状態のままで掲載するのでなければ、展示されておりパンフに掲載される人形も、その魅力を存分に引き出す姿で撮影・掲載できなかったものだろうか。パンフで全作品を展示状態ままで掲載するならこのような未消化もなかったかもしけないけれど……悔しさが残る。掲載されていた人形によっては、写真の構図が展示状態と微妙に変わっている物も少なくない。人形作家が望むことは何なのだろう。あるがままの人形を観てもらいたいのにか、それともより良く人形を観せたいのか、はたまた人形完成時に作家にとっての全てが完了してしまい後はお好きに、となってしまうのだろうか。私は人形作家ではないし、上記パターンのどれを目指すまたは根ざす人がいてもおかしくないと思う。もっと言う場、更に違う角度で完成とする人形師もいるかもしれない。私は一鑑賞者として想像を働かせることしかできず、一傍観者である私の好みとして、作られた人形の特徴を活かしつつ美しく撮影された写真や画像を観たいと思うだけである。
このパンフと同時に、うちのが吉田良の「Astral Dall」という作品写真集を購入した。一通り鑑賞し、私が特に惹かれたのはこれといった目立った特徴のない一体の少女人形だった。この人形は2ページに渡って2カットが掲載されており、その表情に目を奪われた。鏡を使っての撮影で、2カットに4つの表情が写っている。人形は一体。1度完成された人形は、ひとつの表情で以って顔を造形されている筈だ。なのに角度によって全て表情が違って見える。これは凄い技術ではなかろうか。人間の表情は、正面から見たら微笑であっても、角度を変えて見ると皮肉を含んだ笑みに見えたり、無表情にに見えたり、物思いに耽っているように見える。人の心の機微は、表情に表れるのは当然のことだ。けれど人形は物質であり、完成形であり、心が宿っているように見えるのは人間の錯覚や人形への思い入れの変形だろう。このように理解をしていても、その吉田良の一体の人形は心を、魂を宿らせているように見えた。吉田良の作品としては大人し目の作品であり、いろいろ見てきた球体関節人形の中で唯一、うちで一緒に暮らしてもいいな、と思える人形だった。価格は判らないながら、手の届く額でないことは容易に想像できるが。
或る人形作家の言葉で、人形の持ち主の人形への接し方で人形そのものの表情が変わる、というのを読んだことがある。人形をネグレクトすると冷たい表情になり、常日頃から手をかけてやさしく接すると人形の表情も柔らかくなっていくとか。ペットは生き物であり、接し方によって性格や表情が変わることはよく知っている。それが人形にも当て嵌まるとは簡単には想像できない話だ。けれどその作家自身またはその作家の人形を所有している人からすれば尤もな話なのかもしれない。私が球体関節人形を所有していない故に想像力が追いつかないのだろうか。いや、きっと常日頃からこのような芸術作品に触れていない者は、私以外にもやはり理解し難い考え方だと思われる。理解し難いけれど、1度某作家のサイトで少しだけ解った気がした画像に出会った。その画像に映された人形は、正面から見たら表情なのに斜め横からみると微笑を携えていたのだ。上記談話の知識を得る前に見た画像にも拘わらず、この人形は愛されているのだな、と半ば本能で感じ取れた。そしてひとつの疑問。人形は人間の擬態であり、感情移入は比較的簡単であると思われる。そして動物の擬態であり往々にしてデフォルメされたぬいぐるみにもこのような感情移入は可能なのか。有名なぬいぐるみコレクタに新井素子がいる。彼女は無垢な瞳を閉じることなく見つめてくるぬいぐるみの愛を一心に受け止められる、稀有ともいえる能力の持ち主らしい。私は人形にしてもぬいぐるみにしても、見返りを求められない無垢な愛情をあるがままに受け止めたり、同じような愛情で返す自信がない。玉石を持たない、様々な物質により構成された人や動物の擬態を愛せるかどうか。今回、球体関節人形を知っていろいろ調べた結果、新しく作られてしまった私への課題なのか。まずは棚に放置されっぱなしの、ひとり暮らしの頃に購入したピクルス・フロッグを洗濯して愛し直すことから始めてみよう。そうすることで私自身の心に何かしらの変化が生じるかもしれない。良い変化が生じるか、それとも非現実方向への変化が生じるかは今のところ全く解らない。
ハンス・ベルメールの仕事
2004年3月8日 本・映画・音楽など 現在10日日中。
ヒットラー率いるナチス全盛、芸術規制により逆に多くの芸術が生み出された。芸術を生み出す人は芸術家。ハンス・ベルメールもそのひとりである。シュール・レアリズムの括りに入るらしい。ベルメールの名を知ったのはほんの数日前……だと思ったけれど、どうも記憶の彼方に放置されていたらしい。というのも、ベルメールとその作品について調べていくと、随所に澁澤龍彦の名が出てきたのだ。どうやら学生時代に読み漁った澁澤が何本ものエッセイでベルメールについて語っていたらしい。それならば絶対に何処かでベルメールの名を目にした筈であり、エッセイの数本は読んでいた筈だ。なのに記憶の引出しを探らなければならなかったのは、私が澁澤に入ったきっかけがマルキ・ド・サドであり、読み漁っていた当時はサドの名ばかりを追っていてベルメールをスルーしてしまっていたからだろう。なんて勿体無いことをしていたのか。それとも当時ベルメールをスルーしたのは防衛本能が働いたのか。サドにしてもベルメールにしても芸術的観点からしたらバッド・テイストなものだろう。それが文章かそれ以外の表現方法かの違いであり、サドとベルメールには通じるところがあると、私は思う。私の視点からすれば、両者共に加虐趣味だ。
ベルメールは球体関節人形を作った人。そして比較的早くから、澁澤以前からも日本に紹介されていた芸術家である。澁澤は一部の者しか知らなかったベルメールの作品と名をより広めた功績者である。澁澤はベルメールを人形師として取り上げた。そして澁澤を通してベルメールを知った日本人が球体関節人形を作り始めた。その代表者が四谷シモンであり、私が人形師として四谷シモンの名を何故知っていたかがここで紐解けた。それはそうとして、或るサイトで澁澤の功罪を論じていた。功は日本で球体関節人形を発展させたこと、罪はベルメールを人形師として取り上げたこと。さて、私はこの日記の中でベルメールを芸術家と書いている。それはベルメールの遺した仕事の幅が広いからだ。絵画・版画・写真、そして人形造形。ベルメールの最初の作品は、写真集だ。内容は人形を作る過程・工程を写真に収めた物。そこに澁澤との軋轢が見つかる。澁澤はベルメールを人形師として見た。ということは、ベルメールの仕事の終点は人形の完成なのか。仮に人形の完成が終点であるならば、製作過程・工程、先は稼動させた写真は不要であっただろう。そして私の疑問が発生した。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。ベルメールにとっての終点は解らないけれど、人形の完成が終点ではないことが想像できる。写真集の発刊や人形を撮影した写真に着色していることがこの想像の根拠である。
私が知る限り、ベルメールの作った人形は全て異形だ。頭のてっぺんから足の先迄全て、人間の形、を模した物はなかった。ベルメールが人形作りをしていた時代は、造形と解剖が急速に発展していた時代であるらしい。造形と解剖は紙一重であり、ベルメールの人形はそんな時代の混沌の象徴と言える気もする。人間を構成するパーツを分解≠解剖し、そのパーツを再構築。再構築に要するのはひとつの人間のパーツだけではなく、複数の人間のパーツを用いたりする。そんなベルメールの人形を見て、改めて自分の体を見る。関節毎に、内臓毎に、血管毎に、私の身体はパーツに分解できる。そして子供の頃の恐怖心を思い出す。私はヒトの手が怖かった。自分の手も怖かった。手は足よりも目に付く場所に設置されており、稼動する回数も足の指の比ではない。漠然と怖かった昔を思い出しつつ今、その恐怖の理由を考えた。手を手首から先の物と定義して、見る。小さい。その小さな面積と体積の中に20程の関節が備わっている。こんな箇所、身体の他のパーツにはない。しかもそれら関節が実によく動く。こうして日記をタイピングしている今このときもフル稼働だ。タイピングの最中、意識は手にない。表面化の意識は今考えていることを文章化することに集中しており、その意識が指先に信号を出している。ふと手を止め、同時に文章化という作業を放置する。そして手を見る。親指から小指迄、順に意識をして関節を曲げてみる。その様を凝視。不気味だ。身体の中の何処かを何かが通って手指を動かしていることを実感する。何処を、何が、通っているのかは知識でしか知らず、見てはいない。ずっと動かすこととその動きを意識しつつ見ていると、果たしてこの動きは本当に自分の脳が命令して動かしているのか、それとも違う何かが動かしているのか判らなくなる。これは、本当に怖い。
こんな怖さを凝縮した物がベルメールの人形だ。自分の身体を信用できなくなる。たまたまパーツがあるべきところにあるべき姿でついているだけで、これが自分の本当の本来の姿なのか懐疑心を抱いてしまう。抱かされてしまう。脚と腹部球体関節だけで構成されたベルメールの作品がある。乳房だけで構成された作品もある。これらも人形と呼ばれている。人形? 全体像として人の形を成していなくても人形? ならば人とは? 脚だけで、乳房だけで人と呼べてしまうのか? 人とされており、自分でもヒトと認識できている自分の姿形の意味を問う。意義も問う。答えは出ない。人≠ヒトは脳が司っている物ではないのか。脳の所在無くして人≠ヒトとしていいのか。そこで問われるのは自分の持つ人≠ヒトの形の概念であり、倫理だ。ベルメールの人形が、オブジェとのみ呼ばれるのなら、すんなりと納得できる。しかし彼の作った、人形、を私は人形として受け入れることができるかとなると、引っ掛かりを覚える。人形、という言葉の定義が解らなくなる。因って私の中ではベルメール=写真家・画家・版画家という肩書きがしっくりときて、人形師と言われると違和感が纏わりつく。ベルメールの人形は暴力的だ。人の破壊衝動の擬似体現とも思える。そこで疑問。ベルメールが日本の球体関節人形の祖とするならば、人形師の仕事の終点とは。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。
BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
ヒットラー率いるナチス全盛、芸術規制により逆に多くの芸術が生み出された。芸術を生み出す人は芸術家。ハンス・ベルメールもそのひとりである。シュール・レアリズムの括りに入るらしい。ベルメールの名を知ったのはほんの数日前……だと思ったけれど、どうも記憶の彼方に放置されていたらしい。というのも、ベルメールとその作品について調べていくと、随所に澁澤龍彦の名が出てきたのだ。どうやら学生時代に読み漁った澁澤が何本ものエッセイでベルメールについて語っていたらしい。それならば絶対に何処かでベルメールの名を目にした筈であり、エッセイの数本は読んでいた筈だ。なのに記憶の引出しを探らなければならなかったのは、私が澁澤に入ったきっかけがマルキ・ド・サドであり、読み漁っていた当時はサドの名ばかりを追っていてベルメールをスルーしてしまっていたからだろう。なんて勿体無いことをしていたのか。それとも当時ベルメールをスルーしたのは防衛本能が働いたのか。サドにしてもベルメールにしても芸術的観点からしたらバッド・テイストなものだろう。それが文章かそれ以外の表現方法かの違いであり、サドとベルメールには通じるところがあると、私は思う。私の視点からすれば、両者共に加虐趣味だ。
ベルメールは球体関節人形を作った人。そして比較的早くから、澁澤以前からも日本に紹介されていた芸術家である。澁澤は一部の者しか知らなかったベルメールの作品と名をより広めた功績者である。澁澤はベルメールを人形師として取り上げた。そして澁澤を通してベルメールを知った日本人が球体関節人形を作り始めた。その代表者が四谷シモンであり、私が人形師として四谷シモンの名を何故知っていたかがここで紐解けた。それはそうとして、或るサイトで澁澤の功罪を論じていた。功は日本で球体関節人形を発展させたこと、罪はベルメールを人形師として取り上げたこと。さて、私はこの日記の中でベルメールを芸術家と書いている。それはベルメールの遺した仕事の幅が広いからだ。絵画・版画・写真、そして人形造形。ベルメールの最初の作品は、写真集だ。内容は人形を作る過程・工程を写真に収めた物。そこに澁澤との軋轢が見つかる。澁澤はベルメールを人形師として見た。ということは、ベルメールの仕事の終点は人形の完成なのか。仮に人形の完成が終点であるならば、製作過程・工程、先は稼動させた写真は不要であっただろう。そして私の疑問が発生した。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。ベルメールにとっての終点は解らないけれど、人形の完成が終点ではないことが想像できる。写真集の発刊や人形を撮影した写真に着色していることがこの想像の根拠である。
私が知る限り、ベルメールの作った人形は全て異形だ。頭のてっぺんから足の先迄全て、人間の形、を模した物はなかった。ベルメールが人形作りをしていた時代は、造形と解剖が急速に発展していた時代であるらしい。造形と解剖は紙一重であり、ベルメールの人形はそんな時代の混沌の象徴と言える気もする。人間を構成するパーツを分解≠解剖し、そのパーツを再構築。再構築に要するのはひとつの人間のパーツだけではなく、複数の人間のパーツを用いたりする。そんなベルメールの人形を見て、改めて自分の体を見る。関節毎に、内臓毎に、血管毎に、私の身体はパーツに分解できる。そして子供の頃の恐怖心を思い出す。私はヒトの手が怖かった。自分の手も怖かった。手は足よりも目に付く場所に設置されており、稼動する回数も足の指の比ではない。漠然と怖かった昔を思い出しつつ今、その恐怖の理由を考えた。手を手首から先の物と定義して、見る。小さい。その小さな面積と体積の中に20程の関節が備わっている。こんな箇所、身体の他のパーツにはない。しかもそれら関節が実によく動く。こうして日記をタイピングしている今このときもフル稼働だ。タイピングの最中、意識は手にない。表面化の意識は今考えていることを文章化することに集中しており、その意識が指先に信号を出している。ふと手を止め、同時に文章化という作業を放置する。そして手を見る。親指から小指迄、順に意識をして関節を曲げてみる。その様を凝視。不気味だ。身体の中の何処かを何かが通って手指を動かしていることを実感する。何処を、何が、通っているのかは知識でしか知らず、見てはいない。ずっと動かすこととその動きを意識しつつ見ていると、果たしてこの動きは本当に自分の脳が命令して動かしているのか、それとも違う何かが動かしているのか判らなくなる。これは、本当に怖い。
こんな怖さを凝縮した物がベルメールの人形だ。自分の身体を信用できなくなる。たまたまパーツがあるべきところにあるべき姿でついているだけで、これが自分の本当の本来の姿なのか懐疑心を抱いてしまう。抱かされてしまう。脚と腹部球体関節だけで構成されたベルメールの作品がある。乳房だけで構成された作品もある。これらも人形と呼ばれている。人形? 全体像として人の形を成していなくても人形? ならば人とは? 脚だけで、乳房だけで人と呼べてしまうのか? 人とされており、自分でもヒトと認識できている自分の姿形の意味を問う。意義も問う。答えは出ない。人≠ヒトは脳が司っている物ではないのか。脳の所在無くして人≠ヒトとしていいのか。そこで問われるのは自分の持つ人≠ヒトの形の概念であり、倫理だ。ベルメールの人形が、オブジェとのみ呼ばれるのなら、すんなりと納得できる。しかし彼の作った、人形、を私は人形として受け入れることができるかとなると、引っ掛かりを覚える。人形、という言葉の定義が解らなくなる。因って私の中ではベルメール=写真家・画家・版画家という肩書きがしっくりときて、人形師と言われると違和感が纏わりつく。ベルメールの人形は暴力的だ。人の破壊衝動の擬似体現とも思える。そこで疑問。ベルメールが日本の球体関節人形の祖とするならば、人形師の仕事の終点とは。人形という芸術作品に於ける最終地点は何処なのか。完成させた人形か、人形を稼動させた姿を残すことか、はたまた製作過程が芸術なのか。
BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
未見映画「イノセンス」から球体関節人形へ
2004年3月7日 本・映画・音楽など 現在10日日中。
7日、うちのが押井守監督最新作「イノセンス」を観てきた。私も誘われたけれど、前作「甲殻機動隊」の内容をすっかり忘れてしまっていた為に辞退。帰宅したうちのは延々と映画の感想を述べていた。この感想がどうにもおかしい。評価が二転三転する。例えば映像はいい、ストーリーはイマイチというような評価変動なら解る。けれど違う。ひとつの要素に対する感想が二転三転するのだ。100人が観れば100通りの感想や解釈や意見が出るだろう。うちのはひとりしかいないのに、10人20人から感想を聞いているような、それくらいに様々な感想が述べられたのだ。これはおかしい。うちのは過去の職歴からして映画を観ることには慣れており、観方も決して下手ではない。むしろ1本のフィルムに対して1度できちんと纏まった感想を述べるだけの能力に長けている。なのにまるで人格がめくるめく入れ替わっているかのような、多様な意見が述べられるのだ。聞いているこちらは戸惑う。さっき言っていたことと今言ったことが違う。何が言いたいのかよく解らない。本人は私がそう指摘する迄、自分の述べていることが矛盾を孕んでいるとは思っていなかったようだ。この日うちのは映画館の他、2箇所に立ち寄ったらしいが、それらの箇所についての感想などは殆ど会話に出てこない。ずーっと映画について話している。これで興味を持つなという方に無理がある。うちのが、もう1度観る、と言うのでそのときに私も同行することにした。
私は映画にしても本にしても、先に粗筋やオチを知ってしまうことに全く抵抗がないので、某巨大掲示板やオフィシャル・サイトなどでできる限りの情報収集をし始めた。十人十色の意見が渦巻く中、映画のモチーフのひとつに惹かれた。人形。球体関節人形。起源を探る。現状を見る。引き込まれる。持っていかれた。手当たり次第に現在の日本の人形師のサイトを覗いた。作られた人形が写真として掲載されている。この数日で何十、何百体の人形の写真を見たことか。その中の一握りに私は持っていかれた。時の概念は消え失せ、心身が分離する。錯覚。人形の中に私の心が宿る。倒錯。一握りの、私を持っていく人形、とそうでない人形の違いは何か。或る人形師曰く、人形は人の鏡。或る人形師曰く、人は何故か自分に似た人形を作る傾向がある。私を持っていく人形は私を映しているのか。私を持っていく人形は私に似ているのか。否、だと思う。精巧で脆くて頑固な人形たちが私を映しているとは思えないし、言う迄もなく私は人形のように美しくはない。持っていかれる、この感覚を他の言葉に置き換えるならば、吸い込まれる、が近そうだ。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な例えがある。私を持っていく人形たちは決して私を吸い込みそうな瞳をしてはいない。逆に私を拒絶しているように思う。人形に拒絶された私は、何故自分が拒絶しているか解らない。人形は私を拒絶している理由を語ってはくれない。拒絶しているのか受容しているのか、その真相も教えてはくれない。人形の真意が知りたくて目を逸らせなくなる。果たして人形に真意はあるのか。それも解らない。真意……私を持っていく人形のどれもに魂が宿っているように思うのかと言われると、胸を張って違うと言える。人形とは物質の集合体として作られた物体だから魂などの存在する余地はない。人形師は、人形は人形でありそれ以上でも以下でもない、と言う。その通りなのだろう。けれど、でも。人形って何? 球体関節人形の存在意義は? 人形の持つ存在感は? 何故、一部の人形が私を、持っていく?
昨日、うちのが文化村で開催されていた球体関節人形の写真展を観てきた。私の、持っていかれる、の感覚が解ってもらえたらしい。その写真展で、球体関節人形展のチラシをもらって持って帰ってきてくれた。そこにヒントがあった。チラシに掲載されている人形の写真は9点。表の1点は別として、裏に並んだ8点に話を絞る。この8点中、私を持っていったのは1点。下段右から2番目にある三輪輝子氏が作った「萌香」。他の7点との違いを考えた。「木枠で出来た少女」は首から下が人間として虚構である。「Fujita doll」は人間としては奇形。「鍵穴」は首から上と腕がないことでやはり虚構。「少女」は縫い目らしきものが見える点でやはり虚構。「Twins’ paradox」も人形師のサイトで先に全体像を観ていた為に虚構。「りんね」は人間というよりも天使を連想させる点でヒトガタから外れる。「人形」は人体解剖模型を虚構に昇華した作品。「萌香」は写真からは人形の、虚構の匂いがしない。更に微笑をたたえている。人間の表情の中で最も他者に感情を読まれない表情は微笑である。他の顔を持つ人形の表情からは、それが正解かどうかは別として、人形の考えに想像が及ぶ。「萌香」だけが何を考えているのか想像できない。何を考えているのか知りたい。理解したい。危険思想かもしれないけれど、彼女の生い立ち、成長の過程迄知りたい。人形だから成長もへったくれもないのに。
日本で球体関節人形が発展するにあたり、ハンス・ベルメールの影響は切り離せない。うちのが「イノセンス」を観てきた日に、球体関節人形展に誘われた。そこに四谷シモンの名があったので行こうと思った。その時点で唯一知っていた人形師の名前が四谷シモンだったという理由以外にはない。元々私は人形が好きではないのだ。怖いから。どうして恐怖や畏怖を感じるのか、自分でも解らない。ただ、私以外にも人形を怖いと思う人は少なくはないらしい。人間の本能のようなものなのだろうか。ならば人形を作ったり愛でたりする人は本能が壊れているのか。答えはきっと、こんな浅はかな考えとは乖離していると思う。そもそも人間とは何なのか。人形を作るのは人間だけである。別の生き物が自らの姿に似せたものを作るなどという話は聞いたことがない。人間だけに許された技術なのか。それとも人間だけが許されざる行為をしているのか。許す・許さないって、誰が? 騙し絵で行けども行けども上り若しくは下りの階段を描いた作品がある。そんな中に今の私はある。
BGM/アルバム「修羅囃子」
7日、うちのが押井守監督最新作「イノセンス」を観てきた。私も誘われたけれど、前作「甲殻機動隊」の内容をすっかり忘れてしまっていた為に辞退。帰宅したうちのは延々と映画の感想を述べていた。この感想がどうにもおかしい。評価が二転三転する。例えば映像はいい、ストーリーはイマイチというような評価変動なら解る。けれど違う。ひとつの要素に対する感想が二転三転するのだ。100人が観れば100通りの感想や解釈や意見が出るだろう。うちのはひとりしかいないのに、10人20人から感想を聞いているような、それくらいに様々な感想が述べられたのだ。これはおかしい。うちのは過去の職歴からして映画を観ることには慣れており、観方も決して下手ではない。むしろ1本のフィルムに対して1度できちんと纏まった感想を述べるだけの能力に長けている。なのにまるで人格がめくるめく入れ替わっているかのような、多様な意見が述べられるのだ。聞いているこちらは戸惑う。さっき言っていたことと今言ったことが違う。何が言いたいのかよく解らない。本人は私がそう指摘する迄、自分の述べていることが矛盾を孕んでいるとは思っていなかったようだ。この日うちのは映画館の他、2箇所に立ち寄ったらしいが、それらの箇所についての感想などは殆ど会話に出てこない。ずーっと映画について話している。これで興味を持つなという方に無理がある。うちのが、もう1度観る、と言うのでそのときに私も同行することにした。
私は映画にしても本にしても、先に粗筋やオチを知ってしまうことに全く抵抗がないので、某巨大掲示板やオフィシャル・サイトなどでできる限りの情報収集をし始めた。十人十色の意見が渦巻く中、映画のモチーフのひとつに惹かれた。人形。球体関節人形。起源を探る。現状を見る。引き込まれる。持っていかれた。手当たり次第に現在の日本の人形師のサイトを覗いた。作られた人形が写真として掲載されている。この数日で何十、何百体の人形の写真を見たことか。その中の一握りに私は持っていかれた。時の概念は消え失せ、心身が分離する。錯覚。人形の中に私の心が宿る。倒錯。一握りの、私を持っていく人形、とそうでない人形の違いは何か。或る人形師曰く、人形は人の鏡。或る人形師曰く、人は何故か自分に似た人形を作る傾向がある。私を持っていく人形は私を映しているのか。私を持っていく人形は私に似ているのか。否、だと思う。精巧で脆くて頑固な人形たちが私を映しているとは思えないし、言う迄もなく私は人形のように美しくはない。持っていかれる、この感覚を他の言葉に置き換えるならば、吸い込まれる、が近そうだ。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な例えがある。私を持っていく人形たちは決して私を吸い込みそうな瞳をしてはいない。逆に私を拒絶しているように思う。人形に拒絶された私は、何故自分が拒絶しているか解らない。人形は私を拒絶している理由を語ってはくれない。拒絶しているのか受容しているのか、その真相も教えてはくれない。人形の真意が知りたくて目を逸らせなくなる。果たして人形に真意はあるのか。それも解らない。真意……私を持っていく人形のどれもに魂が宿っているように思うのかと言われると、胸を張って違うと言える。人形とは物質の集合体として作られた物体だから魂などの存在する余地はない。人形師は、人形は人形でありそれ以上でも以下でもない、と言う。その通りなのだろう。けれど、でも。人形って何? 球体関節人形の存在意義は? 人形の持つ存在感は? 何故、一部の人形が私を、持っていく?
昨日、うちのが文化村で開催されていた球体関節人形の写真展を観てきた。私の、持っていかれる、の感覚が解ってもらえたらしい。その写真展で、球体関節人形展のチラシをもらって持って帰ってきてくれた。そこにヒントがあった。チラシに掲載されている人形の写真は9点。表の1点は別として、裏に並んだ8点に話を絞る。この8点中、私を持っていったのは1点。下段右から2番目にある三輪輝子氏が作った「萌香」。他の7点との違いを考えた。「木枠で出来た少女」は首から下が人間として虚構である。「Fujita doll」は人間としては奇形。「鍵穴」は首から上と腕がないことでやはり虚構。「少女」は縫い目らしきものが見える点でやはり虚構。「Twins’ paradox」も人形師のサイトで先に全体像を観ていた為に虚構。「りんね」は人間というよりも天使を連想させる点でヒトガタから外れる。「人形」は人体解剖模型を虚構に昇華した作品。「萌香」は写真からは人形の、虚構の匂いがしない。更に微笑をたたえている。人間の表情の中で最も他者に感情を読まれない表情は微笑である。他の顔を持つ人形の表情からは、それが正解かどうかは別として、人形の考えに想像が及ぶ。「萌香」だけが何を考えているのか想像できない。何を考えているのか知りたい。理解したい。危険思想かもしれないけれど、彼女の生い立ち、成長の過程迄知りたい。人形だから成長もへったくれもないのに。
日本で球体関節人形が発展するにあたり、ハンス・ベルメールの影響は切り離せない。うちのが「イノセンス」を観てきた日に、球体関節人形展に誘われた。そこに四谷シモンの名があったので行こうと思った。その時点で唯一知っていた人形師の名前が四谷シモンだったという理由以外にはない。元々私は人形が好きではないのだ。怖いから。どうして恐怖や畏怖を感じるのか、自分でも解らない。ただ、私以外にも人形を怖いと思う人は少なくはないらしい。人間の本能のようなものなのだろうか。ならば人形を作ったり愛でたりする人は本能が壊れているのか。答えはきっと、こんな浅はかな考えとは乖離していると思う。そもそも人間とは何なのか。人形を作るのは人間だけである。別の生き物が自らの姿に似せたものを作るなどという話は聞いたことがない。人間だけに許された技術なのか。それとも人間だけが許されざる行為をしているのか。許す・許さないって、誰が? 騙し絵で行けども行けども上り若しくは下りの階段を描いた作品がある。そんな中に今の私はある。
BGM/アルバム「修羅囃子」
「くますけと一緒に」「おしまいの日」再読
2004年3月1日 本・映画・音楽など 現在3月17日。
少し前、この2冊を久々に読んだ。これ迄も何度も読んでいる2冊で、その時々の心理状態により感想が変わるという、私の中ではちょっと別格とも言える本である。著者は共に新井素子。「くますけと一緒に」を初めて読んだときは物凄い衝撃を受けた。以下、ネタバレ注意。子供の頃は盲信していた親。思春期になり外部から親子関係の違うあり方を知り、私は親への感情を持て余していた。そんな頃に出会った本だ。手に取ったのはタイトルが可愛かったから。読んでみて……泣いてしまった。そうか、親は嫌ってもいいんだ。親を嫌うことは罪ではないと教えてくれた、私を開眼させてくれた。なっちゃんがくますけと共に家出をする。親よりも好きな人がいること・その人に危害を与えたくないこと、そんな動機での家出。なっちゃんの気持ちはとてもよく解る。この本は親への呪縛に囚われた少女が開放される本だ。手にしてから何度も読んだ。その都度泣いた。泣くシーンは決まって、なっちゃんが親を嫌ってもいいことを信用できる大人に教えてもらうシーン。子供にとって、親の庇護下から逃れることは罪悪だと刷り込まれた子供にとって、この教えは禁忌を破るものであり、おいそれと鵜呑みにはできない。大人は、親は絶対に子供を愛する義務がある・子供は親を嫌う権利があると教える。親への気持ちをどうしていいか解らず……それは親からの呪縛に囚われていた私にとって、閉められたままの古びたカーテンが開き、きらきらとしたお日さまの光が挿すことを感じられるような描写で、私の呪縛も少し解かれた。親だから、育ててくれたからといって必ずしも親を愛する必要はない。勿論、無条件に親を愛せればそれに越したことはないけれど、努力して遠慮に遠慮を重ねて迄強引に親を愛さなければと自分に足枷をつける必要はなかったのだ。
しかし親は子供に愛情を求める。ときには、私はこんなにも貴女を愛しているのに、といった愛情の押し付けで子供に同様の、またはそれ以上の愛情という見返りを求めてくる。私の親もこのタイプだった。育ててくれた恩・感謝と、親への愛情は別物なのだ。それに気付いていながらも私は、親は親から愛情を求められたときに逆らう術を知らなかった。語弊があるか。逆らう術を知っていつつも行動に移せなかった。私は親が与えてくる愛情は押し付けだと気付いており、親自身の自己愛を私に投影したものだとも気付いていた。親は、純粋な愛だ、と主張する。だから私は自身の気付きに自信が持てなかった。どうしていいか解らず、親を愛しているフリを続けてきた。そして……破綻した。愛することを自分に強いて、愛せない自分に後ろめたさとが付き纏い、様々な矛盾を孕んだまま大人になった私は、1年と少し前に心の病を発病した。愛情を求めてくる親へのもやもやした気持ちを外に発散させられず、心の中に押し込めに押し込んだ結果だ。なっちゃんには、親を愛さなくてもいいと教えてくれる大人がいた。これは、物語、だ。果たして世の中にこんな当たり前のことを教えてくれる大人はどれだけいるだろう。現実社会の中で、そんな大人に私は出会ったことがない。私には結婚式を挙げるつもりが更々ない。それは、母親の旦那としか思えない父親とヴァージンロードを歩くことへの抵抗と親への感謝の手紙なんか書けないという心情に基づく。よくある質問。崖から落ちた親と恋人がいてふたりが助けを求めている。さてあなたならどちらを助ける? この問いで、私は親を選んだことがただの一度もない。親は、選べないのだ。今回の再読で、私は泣かなかった。やっと、親は愛さなければならない存在、という足枷から開放されたのか。
そして「おしまいの日」。ネタバレ注意。初読時、私は三津子の日記の表現方法のみが怖かった。再読し、印象が変わった。日記の表現方法は確かに怖い。けれど今回は、そういった視覚効果に基づく怖さとは別の怖さを感じた。三津子は春さんにべったりだ。春さん中心に三津子の日常は回る。春さんと直接関係しない日常は三津子にとっては煩わしいばかりであり、三津子はひたすら四六時中春さんのことだけを考えて生きていたいと願った。そして子供ができ……病んだ。彼女は、春さんの為に、という繕いで以って自身の依存心と彼への追い詰めに言い訳をする。登場人物全員が空回りをする物語。誰もが誰かのことを想い、対象の為に良かれ、と行動をするが、その行動はどれも対象を追い詰めていく。しかしどれひとつとして実を結ばない。けれど誰も悪くはない。悪人はひとりもいないのに全てが破綻に結びついてしまった。いろんな人に、おしまいの日、がやってくる。完璧なる悲劇。良かれと思って、という一個人の感情による行動が他者を追い詰めていくことは多い。そんな気持ちで私も他者を追い詰めてしまったことがある。他者に私が追い詰められてしまったこともある。誰も悪くないから、誰もが解決の糸口を見出せない。そして三津子は壊れた。私も、私以外の他者も、壊れる可能性を秘めている。
新井素子の文体は軽い。だから、怖い。この2冊は同時期に書かれた作品であり、著者の中では対になっている作品だという。「くますけと一緒に」が元々は「開放の日」というタイトル候補だったことも後書で明らかにされている。なっちゃんは開放の日を迎え、三津子はおしまいの日を迎えた。なっちゃんが大人になり、三津子のような悲劇を迎えないとは限らない。この世で最も恐ろしいものは、愛情、なのか。適切ではない愛情を育んでしまう土壌に基準はないだろう。健全な精神の持ち主とて、いつ壊れるかは解らない。そもそも個々の持つその精神が健全であるなどと、誰が断言できようか。三津子だけでなく、なっちゃんを取り巻く環境にも、悪人はいなかった。それでも病んだ。個人の素質が悪いのか、環境が悪いのか。誰も答えられないと思う。ただ、歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。こればかりは誰にもどうしようもない。噛み合わない歯車から逃れる為には、そこから身を引くことだけではないだろうか。そんな歯車の中に身を投じたままでは、誰もが壊れる可能性がある。それでも噛み合わないことに気付きつつ若しくは気付かないままで生活している人は多かろう。大切なのは、自身の気付き、だ。気付きなくして、状況は変えられない。気付くためのアンテナを張り巡らせ、気付いたときの拠所となる思想を持ち合わせることだけが対応策だろう。
少し前、この2冊を久々に読んだ。これ迄も何度も読んでいる2冊で、その時々の心理状態により感想が変わるという、私の中ではちょっと別格とも言える本である。著者は共に新井素子。「くますけと一緒に」を初めて読んだときは物凄い衝撃を受けた。以下、ネタバレ注意。子供の頃は盲信していた親。思春期になり外部から親子関係の違うあり方を知り、私は親への感情を持て余していた。そんな頃に出会った本だ。手に取ったのはタイトルが可愛かったから。読んでみて……泣いてしまった。そうか、親は嫌ってもいいんだ。親を嫌うことは罪ではないと教えてくれた、私を開眼させてくれた。なっちゃんがくますけと共に家出をする。親よりも好きな人がいること・その人に危害を与えたくないこと、そんな動機での家出。なっちゃんの気持ちはとてもよく解る。この本は親への呪縛に囚われた少女が開放される本だ。手にしてから何度も読んだ。その都度泣いた。泣くシーンは決まって、なっちゃんが親を嫌ってもいいことを信用できる大人に教えてもらうシーン。子供にとって、親の庇護下から逃れることは罪悪だと刷り込まれた子供にとって、この教えは禁忌を破るものであり、おいそれと鵜呑みにはできない。大人は、親は絶対に子供を愛する義務がある・子供は親を嫌う権利があると教える。親への気持ちをどうしていいか解らず……それは親からの呪縛に囚われていた私にとって、閉められたままの古びたカーテンが開き、きらきらとしたお日さまの光が挿すことを感じられるような描写で、私の呪縛も少し解かれた。親だから、育ててくれたからといって必ずしも親を愛する必要はない。勿論、無条件に親を愛せればそれに越したことはないけれど、努力して遠慮に遠慮を重ねて迄強引に親を愛さなければと自分に足枷をつける必要はなかったのだ。
しかし親は子供に愛情を求める。ときには、私はこんなにも貴女を愛しているのに、といった愛情の押し付けで子供に同様の、またはそれ以上の愛情という見返りを求めてくる。私の親もこのタイプだった。育ててくれた恩・感謝と、親への愛情は別物なのだ。それに気付いていながらも私は、親は親から愛情を求められたときに逆らう術を知らなかった。語弊があるか。逆らう術を知っていつつも行動に移せなかった。私は親が与えてくる愛情は押し付けだと気付いており、親自身の自己愛を私に投影したものだとも気付いていた。親は、純粋な愛だ、と主張する。だから私は自身の気付きに自信が持てなかった。どうしていいか解らず、親を愛しているフリを続けてきた。そして……破綻した。愛することを自分に強いて、愛せない自分に後ろめたさとが付き纏い、様々な矛盾を孕んだまま大人になった私は、1年と少し前に心の病を発病した。愛情を求めてくる親へのもやもやした気持ちを外に発散させられず、心の中に押し込めに押し込んだ結果だ。なっちゃんには、親を愛さなくてもいいと教えてくれる大人がいた。これは、物語、だ。果たして世の中にこんな当たり前のことを教えてくれる大人はどれだけいるだろう。現実社会の中で、そんな大人に私は出会ったことがない。私には結婚式を挙げるつもりが更々ない。それは、母親の旦那としか思えない父親とヴァージンロードを歩くことへの抵抗と親への感謝の手紙なんか書けないという心情に基づく。よくある質問。崖から落ちた親と恋人がいてふたりが助けを求めている。さてあなたならどちらを助ける? この問いで、私は親を選んだことがただの一度もない。親は、選べないのだ。今回の再読で、私は泣かなかった。やっと、親は愛さなければならない存在、という足枷から開放されたのか。
そして「おしまいの日」。ネタバレ注意。初読時、私は三津子の日記の表現方法のみが怖かった。再読し、印象が変わった。日記の表現方法は確かに怖い。けれど今回は、そういった視覚効果に基づく怖さとは別の怖さを感じた。三津子は春さんにべったりだ。春さん中心に三津子の日常は回る。春さんと直接関係しない日常は三津子にとっては煩わしいばかりであり、三津子はひたすら四六時中春さんのことだけを考えて生きていたいと願った。そして子供ができ……病んだ。彼女は、春さんの為に、という繕いで以って自身の依存心と彼への追い詰めに言い訳をする。登場人物全員が空回りをする物語。誰もが誰かのことを想い、対象の為に良かれ、と行動をするが、その行動はどれも対象を追い詰めていく。しかしどれひとつとして実を結ばない。けれど誰も悪くはない。悪人はひとりもいないのに全てが破綻に結びついてしまった。いろんな人に、おしまいの日、がやってくる。完璧なる悲劇。良かれと思って、という一個人の感情による行動が他者を追い詰めていくことは多い。そんな気持ちで私も他者を追い詰めてしまったことがある。他者に私が追い詰められてしまったこともある。誰も悪くないから、誰もが解決の糸口を見出せない。そして三津子は壊れた。私も、私以外の他者も、壊れる可能性を秘めている。
新井素子の文体は軽い。だから、怖い。この2冊は同時期に書かれた作品であり、著者の中では対になっている作品だという。「くますけと一緒に」が元々は「開放の日」というタイトル候補だったことも後書で明らかにされている。なっちゃんは開放の日を迎え、三津子はおしまいの日を迎えた。なっちゃんが大人になり、三津子のような悲劇を迎えないとは限らない。この世で最も恐ろしいものは、愛情、なのか。適切ではない愛情を育んでしまう土壌に基準はないだろう。健全な精神の持ち主とて、いつ壊れるかは解らない。そもそも個々の持つその精神が健全であるなどと、誰が断言できようか。三津子だけでなく、なっちゃんを取り巻く環境にも、悪人はいなかった。それでも病んだ。個人の素質が悪いのか、環境が悪いのか。誰も答えられないと思う。ただ、歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。こればかりは誰にもどうしようもない。噛み合わない歯車から逃れる為には、そこから身を引くことだけではないだろうか。そんな歯車の中に身を投じたままでは、誰もが壊れる可能性がある。それでも噛み合わないことに気付きつつ若しくは気付かないままで生活している人は多かろう。大切なのは、自身の気付き、だ。気付きなくして、状況は変えられない。気付くためのアンテナを張り巡らせ、気付いたときの拠所となる思想を持ち合わせることだけが対応策だろう。
現在22日未明。
昨日の夜は大喧嘩。原因はうちのが自分用に買ってきていたカップ焼きそばを私が勝手に食べたこと。買ってきたときに、これは俺専用のだから、と言われていたのをすっかり忘れて小腹が空いた夕方に間食。明日買いに行けばいーや、と思ってたところ、夕飯が足りなかったのか、焼きそば作ってくれ、と。スミマセン、私が食べました、と正直に答えらたもう怒る怒る。お前は俺の発言を軽視しているとか何とか。そーいうんじゃなくて只の健忘なんだよ。私が医者通いを始めたときに、薬の副作用で忘れっぽくなると言っておいたではないか! ともかくぐちぐち言われ、また私専用のつもりで買ってきて、私専用という意思表示の為に「〜〜専用」と書いておいたパン用チョコペーストを発見されて、意地汚い、と。だってチョコペーストは私の大好物だもん! 書いとかないとそれこそ自分ひとりで食っちまうくせに!
で、普段なら昼過ぎに、飯〜、と起こされるのに昨日は朝の9時から起こしてきやがった。こっちは眠いんじゃ! と思いつつも焼きそばの件を申し訳なく思う気持ちが働き、モスへ食糧調達。うちのへのロースカツバーガーのオニポテセット、私は大根バーガーの単品。この大根バーガー、以前から気になっていたけれど不信感が強く手を出せず、昨日は一念発起で買ってみた。そして食べてみた。不味くはない。でも旨いかと問われると……。単純にライスバーガーの方が合うと思う。なんでパンズなんだろう。リピートする気にはなれず、もう1回食べたからいーや、な気分。その後、モス以外でも買い物してきた私はくたびれて食事してパジャマに着替えてごろごろ。出かけようと煩いうちのにハイハイと適当に答えてゴロゴロ。結局出かけたのは14時頃。うちのは立ち食い鮨屋に行きたかった模様だが、強引に近所のMのランチバイキングに連れ込む。牛頬肉の煮込みカレーが旨い! 狂牛病がナンボのもんじゃ! 豚の醤油煮もあっさり+コク有りで旨い。醤油煮は自分でも頑張れば作れそうな予感。ブロックの豚バラをゆっくりあっさり生姜を利かせて煮て、一晩置いてもう1度温めて解せばよさそうな。1度試してみよう。頬肉のはうちでは無理だな。そして初めて知ったこと。このカレー屋M。ハワイア〜ンな雰囲気の店なのでハワイア〜ンなカレーかと思いきや、欧風カレーとのこと。欧風とは何か違う気がするのだが……。そして欧風ならトロピカルなデザートも何か違う(以下略。美味しいのでまた行く予定ではある。したしMのカレーを食べるとGのカレーが恋しくなるのは何故なのか。今度出かけるときはGだな。
食後、偶然落ち着いた雰囲気の紅茶専門喫茶店を見つけて初めて入ってみた。なかなか。もうちょっとお茶の味が濃い方が私の好みではあるけれど。ケーキ+アイスティーセットで550円、+ホットティーセットで600円。私は年中アイスティー派であり、迷うはケーキのみ。ウインドウに飾られたケーキを見て2番目に高いショートケーキを注文。うちのは一番安いシュークリームを注文。もうね、アホかとバ(以下略。好きなときに好きな物を食べるのが高価な品・チープな品に限らずいい贅沢だと頭では解っていても私の中の勿体無いお化けがそれを許してくれない。実は私もシュークリームが食べたかったのだが、中のお化けに負けた。敗北感しきり……。その後てってけ歩いて西新宿の格安チケット店巡り。目当ては「ゼブラーマン」の割引きチケット。4件目でやっとあった。人気なんだねー、と話しつつ映画館へ行くと上映館が変更されている。そんなに客が多いのか。変更された映画館に足を向けると、「ゼブラーマン」の列の最後尾はこちらです〜と職員が声をあげている。うへえ……と並んでいる時点で疲れてきたが幸い座れてゆっくり観賞。三池+哀川+宮藤で期待しない訳がない。
Yahoo!の映画評では5点満点中3.5くらいだった。4〜5だと思っていたので予備期待を気持ち減らして観てみたところ、うー……ん。悪くはない。及第点は十分越えているし、三池なり宮藤なりのツッコミところもあった。でもなんかもにょもにょ……。註:以下、ネタバレ有り。ゼブラーナースを何故夢の中の登場人物としかしなかったのか。私の中ではゼブラーナースが出てきたところで、家庭不和の哀川宅が離婚して小学生の息子だけを引き取って鈴木京香と再婚、と迄脳内ストーリーが出来上がってしまっていたのでしょぼん。宇宙人の作りが余りにチャチ。出来が良過ぎても映画の質が変わるのではないか? がうちのの説ではあるけれど、なんだかなー感が拭えない。またエンドロールで大杉漣の名前が渡部篤郎よりも前にあったのも、本当に些細なことだけれど気になる。何よりのツッコミどころかも知れない、Anything Goneで空が飛べるといトンデモっぷりはちっとも気にならなかった。いやはや、ロリでなければゼブラーナースの谷間を拝むだけでも観る価値あるかと。ロリと言えば「週刊わたしのおにいちゃん」、凄いな……。全号フィギュア付なのはいい。けれどそのフィギュアがエゲツナイ。特別増刊号のフィギュアは猫耳をつけたコスプレ幼女が猫と一緒に溢しながら皿に入ったミルクを飲んでいる代物。5号の無駄に口元からミルクを溢しつつ牛乳瓶を口にあててる金髪幼女も、その前の水バケツを取り外すととお漏らし少女になるのも、最初の号の全着替えフィギュアもどれもこれもアレなんだけも。しかし自分自身でもそれらフィギュアの実物を見てみたい好奇心もあったり……。人の趣味思考をとやかく言う気はないんだけれど、リアルとバーチャルの区別だけはつけておいて欲しいと切に切に。ともあれ世も末。くわばらくわばら。
服装/ozocの厚手黄寄りベージュタートルニット+As Know Asの1点物白ベースノースリーブチュニック+bulle de savonのカーキパンツ+クラークスの黒サイドゴアショートブーツ+グレーのインポート物コート+のだめトート+ヴィヴィアンのニット手袋
メイク/下地→舞妓はんのおしろい→魔女・魔法の粉II+魔女ネロ→オーブ・ムースチークのローズ→アナスイ・アイブロウパウダーのグレー→テスティモ・リップPK185
昨日の夜は大喧嘩。原因はうちのが自分用に買ってきていたカップ焼きそばを私が勝手に食べたこと。買ってきたときに、これは俺専用のだから、と言われていたのをすっかり忘れて小腹が空いた夕方に間食。明日買いに行けばいーや、と思ってたところ、夕飯が足りなかったのか、焼きそば作ってくれ、と。スミマセン、私が食べました、と正直に答えらたもう怒る怒る。お前は俺の発言を軽視しているとか何とか。そーいうんじゃなくて只の健忘なんだよ。私が医者通いを始めたときに、薬の副作用で忘れっぽくなると言っておいたではないか! ともかくぐちぐち言われ、また私専用のつもりで買ってきて、私専用という意思表示の為に「〜〜専用」と書いておいたパン用チョコペーストを発見されて、意地汚い、と。だってチョコペーストは私の大好物だもん! 書いとかないとそれこそ自分ひとりで食っちまうくせに!
で、普段なら昼過ぎに、飯〜、と起こされるのに昨日は朝の9時から起こしてきやがった。こっちは眠いんじゃ! と思いつつも焼きそばの件を申し訳なく思う気持ちが働き、モスへ食糧調達。うちのへのロースカツバーガーのオニポテセット、私は大根バーガーの単品。この大根バーガー、以前から気になっていたけれど不信感が強く手を出せず、昨日は一念発起で買ってみた。そして食べてみた。不味くはない。でも旨いかと問われると……。単純にライスバーガーの方が合うと思う。なんでパンズなんだろう。リピートする気にはなれず、もう1回食べたからいーや、な気分。その後、モス以外でも買い物してきた私はくたびれて食事してパジャマに着替えてごろごろ。出かけようと煩いうちのにハイハイと適当に答えてゴロゴロ。結局出かけたのは14時頃。うちのは立ち食い鮨屋に行きたかった模様だが、強引に近所のMのランチバイキングに連れ込む。牛頬肉の煮込みカレーが旨い! 狂牛病がナンボのもんじゃ! 豚の醤油煮もあっさり+コク有りで旨い。醤油煮は自分でも頑張れば作れそうな予感。ブロックの豚バラをゆっくりあっさり生姜を利かせて煮て、一晩置いてもう1度温めて解せばよさそうな。1度試してみよう。頬肉のはうちでは無理だな。そして初めて知ったこと。このカレー屋M。ハワイア〜ンな雰囲気の店なのでハワイア〜ンなカレーかと思いきや、欧風カレーとのこと。欧風とは何か違う気がするのだが……。そして欧風ならトロピカルなデザートも何か違う(以下略。美味しいのでまた行く予定ではある。したしMのカレーを食べるとGのカレーが恋しくなるのは何故なのか。今度出かけるときはGだな。
食後、偶然落ち着いた雰囲気の紅茶専門喫茶店を見つけて初めて入ってみた。なかなか。もうちょっとお茶の味が濃い方が私の好みではあるけれど。ケーキ+アイスティーセットで550円、+ホットティーセットで600円。私は年中アイスティー派であり、迷うはケーキのみ。ウインドウに飾られたケーキを見て2番目に高いショートケーキを注文。うちのは一番安いシュークリームを注文。もうね、アホかとバ(以下略。好きなときに好きな物を食べるのが高価な品・チープな品に限らずいい贅沢だと頭では解っていても私の中の勿体無いお化けがそれを許してくれない。実は私もシュークリームが食べたかったのだが、中のお化けに負けた。敗北感しきり……。その後てってけ歩いて西新宿の格安チケット店巡り。目当ては「ゼブラーマン」の割引きチケット。4件目でやっとあった。人気なんだねー、と話しつつ映画館へ行くと上映館が変更されている。そんなに客が多いのか。変更された映画館に足を向けると、「ゼブラーマン」の列の最後尾はこちらです〜と職員が声をあげている。うへえ……と並んでいる時点で疲れてきたが幸い座れてゆっくり観賞。三池+哀川+宮藤で期待しない訳がない。
Yahoo!の映画評では5点満点中3.5くらいだった。4〜5だと思っていたので予備期待を気持ち減らして観てみたところ、うー……ん。悪くはない。及第点は十分越えているし、三池なり宮藤なりのツッコミところもあった。でもなんかもにょもにょ……。註:以下、ネタバレ有り。ゼブラーナースを何故夢の中の登場人物としかしなかったのか。私の中ではゼブラーナースが出てきたところで、家庭不和の哀川宅が離婚して小学生の息子だけを引き取って鈴木京香と再婚、と迄脳内ストーリーが出来上がってしまっていたのでしょぼん。宇宙人の作りが余りにチャチ。出来が良過ぎても映画の質が変わるのではないか? がうちのの説ではあるけれど、なんだかなー感が拭えない。またエンドロールで大杉漣の名前が渡部篤郎よりも前にあったのも、本当に些細なことだけれど気になる。何よりのツッコミどころかも知れない、Anything Goneで空が飛べるといトンデモっぷりはちっとも気にならなかった。いやはや、ロリでなければゼブラーナースの谷間を拝むだけでも観る価値あるかと。ロリと言えば「週刊わたしのおにいちゃん」、凄いな……。全号フィギュア付なのはいい。けれどそのフィギュアがエゲツナイ。特別増刊号のフィギュアは猫耳をつけたコスプレ幼女が猫と一緒に溢しながら皿に入ったミルクを飲んでいる代物。5号の無駄に口元からミルクを溢しつつ牛乳瓶を口にあててる金髪幼女も、その前の水バケツを取り外すととお漏らし少女になるのも、最初の号の全着替えフィギュアもどれもこれもアレなんだけも。しかし自分自身でもそれらフィギュアの実物を見てみたい好奇心もあったり……。人の趣味思考をとやかく言う気はないんだけれど、リアルとバーチャルの区別だけはつけておいて欲しいと切に切に。ともあれ世も末。くわばらくわばら。
服装/ozocの厚手黄寄りベージュタートルニット+As Know Asの1点物白ベースノースリーブチュニック+bulle de savonのカーキパンツ+クラークスの黒サイドゴアショートブーツ+グレーのインポート物コート+のだめトート+ヴィヴィアンのニット手袋
メイク/下地→舞妓はんのおしろい→魔女・魔法の粉II+魔女ネロ→オーブ・ムースチークのローズ→アナスイ・アイブロウパウダーのグレー→テスティモ・リップPK185
現在24日。
先日、華倫変の「デッド・トリック!」上下巻が発売されているのを見て昨日「モンキーターン」26巻と共に購入。どうやらこれが遺作らしい。去年自殺したと知り、立ち読みで済ませてしまった電気羊が最後だと思っていたので驚いた。近々購入しよう。因みに、公式発表で死因は心不全となっているけれどきっと自殺。根拠なし。友人の兄と話をしていた中で山本直樹が好きだと言ったときに、なら華倫変もきっと嵌るよ、と薦められたのをきっかけに知った漫画家だ。「デッド・トリック!」の解説に友人の兄の名が出てきていてびっくりした。面識があったのか。いいなあ。ともあれ華倫変。寡作な漫画家である。薦められて「カリクラ」を読み、それ以降殆ど見かけなかった。内容は鬱々とする物でクッキリと好みが分かれるだろう。それ以前に、非常に絵が下手で手にも取らない人が多いのではなかろうか。ヘタウマとかでなく、下手。それでも読ませる内容を描ける漫画家であり、私はとても好きだった。華倫変本人がトリップ付で某巨大掲示板に書き込みをしていたと知ったのは死後のことである。残念。ネット上でもいいから1度話をしてみたかった。本人のサイトも死後に知った。無念。そして合掌。「デッド・トリック!」そのものの出来は正直なところ宜しくないと思われる。解説によると編集に踊らされて描いたと誤解されているが本人の意思で描いたものだったらしい。あの絵でその転向には無理があったと思う。あの絵は、「カリクラ」的内容でしか許容できない絵柄ではなかろうか。内容自体はベタではあるが悪いとは思わない。キャラもちゃんと立っているし、動かせている。ただ、絵柄とミスマッチ過ぎるのだ。もっと言わせてもらえば、華倫変の絵柄は短編でないと読んでいてキツイ。短くどろどろしたものを描かせたら物凄くいいのに、何故あんな転向を図ったのか。そのときの心の動きが気になる。私の中では、心の動きが気になる作家とならない作家が区別されている。華倫変は前者である。
同じ前者にこれまた故人の青山正明がいる。作家ではなくエディター兼ライターだが。うちのも青山正明が好きだった。一緒に仕事をしていた時期があったらしい。激しく羨ましい。以前私が出入りしていた某出版社の担当編集者氏も一緒に仕事をしていたことがあるらしい。激しく羨ましい。知り合いの知り合い、と言える存在だけれど私は直接面識がなく、1点を除いてただただ尊敬するエディター兼ライターだった。椎名誠は野暮である。青山正明が学生時代に作ったものを読んだうちのが私に、好きなジャンルを扱っていいとしてお前にこれくらいのものを作れるか? と訊いてきた。うちのは、俺は無理だ、と言っていた。私もうちのには無理だと思う。悩んだ末におこがましくも、気力があればできるかもしれない、と答えた。青山正明がそれを作ったのと同年齢で同程度のものを作れるか、と問われたら絶対に無理だ。業界内で経験を積んで、時間だけは有り余っている今なら気力があればできるかもしれない。けれど、それには条件が付く。今の私の能力で、青山正明がそれを作ったのと同時代に発行できるなら。うちのの問いの真意は、自分の興味のある物事を自分の持っている知識で茶化したりしつつ何処迄面白可笑しく他者に読ませる自信があるか、ということである。ネックは、茶化したり、の部分。約20年の時を経て、創作活動はメタと化してしまった。今、当時青山正明が作ったものを読んでみて、面白可笑しくはあるけれど斬新さはない。それは茶化しの部分が、既に数多の創作者によってパクら……いや、パスティーシュ的に使われてきて、最早出尽くした感すらあるからだ。青山正明の使う茶化しの方法は昔からの私も得意とする方法であり、青山正明の存在を知ってしまってからは、もう定番と化している方法なのだなあ、と知った。気付くも気付かずもメタである。となると、私が今同程度のものを作るにあたり最も必要なのは、斬新さ、となる。解り易い例を出せば、鶴見済の「完全自殺マニュアル」。これが発行されて以来、様々なマニュアル本が出た。マニュアル内の項目紹介も酷似しており、ネタを変えただけのパクりじゃねえか、と思わされる本も多数。むしろ、そっちの方が多数。人々に受ける斬新な物はパクられる運命にあるのだと思う。
私が学生時代に夢を頓挫したのは、自分には0から1を作る力はなく、1を10や100にする力が強いと気付いたからだ。青山正明は1を100にも1000にもする方法を0から1へと導いた。本当に偉大な人だった。活字系創作者として或るジャンルに於いて全てを持った人だったとすら思う。努力の賜物もあるだろうが、天賦の才の方が大きかったのではなかろうか。また茶化し方だけでなく、扱っていたネタ自体も当時としては斬新な部類に入ったと思われる。タブーとされていつつ、でも人々が突いてみたい且つ茶化してみたいことを片っ端からやってのけていた気がする。それらのネタは今、鬼畜系、などと括られてアングラなサブカルの中央に近いところに位置しているように思う。と、書いていてふと思った。先日も日記で、サブカル、という単語を使った。言わずもがな、サブ・カルチャーの略称だ。ではメイン・カルチャーとは何だ。メインあってのサブであり、アングラだ。昔働いていた職場の面子と呑みつつ、メイン・カルチャーとはなんぞや? という話題が何度も出た。そして毎回、メインなんてない、という答えに行き着いた。では現存するカルチャーは、全てサブ・カルチャーなのか。ならば何故わざわざ、サブ、という単語が付くのか。会話の中で誰かが言った。今あるメインと思われているカルチャー全てが元はサブだった。ならば現存するメイン・カルチャーの前にメインだったものは何だったのか。私を含め誰も答えられなかった。無知集合体。
今、街中でも某巨大掲示板の名を耳にすることがある。或る雑誌では社会学者が某巨大掲示板を基に小論を発表した。私が某巨大掲示板を知り出入りするようになったのは4年強前。うちのに教えてもらったのがきっかけだ。うちのはその前の某大掲示板から今の某巨大掲示板に流れてきた者であり、今でも某巨大掲示板にアングラ幻想を持っている。私も一昨年迄はそう思っていた。早い・安い・美味いの店で、極々フツーの人がねぎだくを注文している姿を見てしまい、驚愕し、その後にもう某巨大掲示板はアングラではないのだと思った。その思いは、別の早い・安い・美味いの店で、PCの使い方も知らないようなカップルの男がねぎだくを注文し、女が何それ〜? などと訊き、男が、裏メニューみたいなもんだよ、と自慢げに語り始めたのを聞いて思いから確信に変わり、また別の(以下略の店で持ち帰り用にでこの話に半信半疑だったうちのの為にねぎだくを、私用に汁だくだくを注文したら、入れ物のシールに、ねぎだく、つゆだく、と印刷されているのを見て決定付けられた。今や某巨大掲示板もメイン・カルチャーのひとつなのだろうか。少なくともまだ、つゆだくだく、は定着していないようだが。
先日、華倫変の「デッド・トリック!」上下巻が発売されているのを見て昨日「モンキーターン」26巻と共に購入。どうやらこれが遺作らしい。去年自殺したと知り、立ち読みで済ませてしまった電気羊が最後だと思っていたので驚いた。近々購入しよう。因みに、公式発表で死因は心不全となっているけれどきっと自殺。根拠なし。友人の兄と話をしていた中で山本直樹が好きだと言ったときに、なら華倫変もきっと嵌るよ、と薦められたのをきっかけに知った漫画家だ。「デッド・トリック!」の解説に友人の兄の名が出てきていてびっくりした。面識があったのか。いいなあ。ともあれ華倫変。寡作な漫画家である。薦められて「カリクラ」を読み、それ以降殆ど見かけなかった。内容は鬱々とする物でクッキリと好みが分かれるだろう。それ以前に、非常に絵が下手で手にも取らない人が多いのではなかろうか。ヘタウマとかでなく、下手。それでも読ませる内容を描ける漫画家であり、私はとても好きだった。華倫変本人がトリップ付で某巨大掲示板に書き込みをしていたと知ったのは死後のことである。残念。ネット上でもいいから1度話をしてみたかった。本人のサイトも死後に知った。無念。そして合掌。「デッド・トリック!」そのものの出来は正直なところ宜しくないと思われる。解説によると編集に踊らされて描いたと誤解されているが本人の意思で描いたものだったらしい。あの絵でその転向には無理があったと思う。あの絵は、「カリクラ」的内容でしか許容できない絵柄ではなかろうか。内容自体はベタではあるが悪いとは思わない。キャラもちゃんと立っているし、動かせている。ただ、絵柄とミスマッチ過ぎるのだ。もっと言わせてもらえば、華倫変の絵柄は短編でないと読んでいてキツイ。短くどろどろしたものを描かせたら物凄くいいのに、何故あんな転向を図ったのか。そのときの心の動きが気になる。私の中では、心の動きが気になる作家とならない作家が区別されている。華倫変は前者である。
同じ前者にこれまた故人の青山正明がいる。作家ではなくエディター兼ライターだが。うちのも青山正明が好きだった。一緒に仕事をしていた時期があったらしい。激しく羨ましい。以前私が出入りしていた某出版社の担当編集者氏も一緒に仕事をしていたことがあるらしい。激しく羨ましい。知り合いの知り合い、と言える存在だけれど私は直接面識がなく、1点を除いてただただ尊敬するエディター兼ライターだった。椎名誠は野暮である。青山正明が学生時代に作ったものを読んだうちのが私に、好きなジャンルを扱っていいとしてお前にこれくらいのものを作れるか? と訊いてきた。うちのは、俺は無理だ、と言っていた。私もうちのには無理だと思う。悩んだ末におこがましくも、気力があればできるかもしれない、と答えた。青山正明がそれを作ったのと同年齢で同程度のものを作れるか、と問われたら絶対に無理だ。業界内で経験を積んで、時間だけは有り余っている今なら気力があればできるかもしれない。けれど、それには条件が付く。今の私の能力で、青山正明がそれを作ったのと同時代に発行できるなら。うちのの問いの真意は、自分の興味のある物事を自分の持っている知識で茶化したりしつつ何処迄面白可笑しく他者に読ませる自信があるか、ということである。ネックは、茶化したり、の部分。約20年の時を経て、創作活動はメタと化してしまった。今、当時青山正明が作ったものを読んでみて、面白可笑しくはあるけれど斬新さはない。それは茶化しの部分が、既に数多の創作者によってパクら……いや、パスティーシュ的に使われてきて、最早出尽くした感すらあるからだ。青山正明の使う茶化しの方法は昔からの私も得意とする方法であり、青山正明の存在を知ってしまってからは、もう定番と化している方法なのだなあ、と知った。気付くも気付かずもメタである。となると、私が今同程度のものを作るにあたり最も必要なのは、斬新さ、となる。解り易い例を出せば、鶴見済の「完全自殺マニュアル」。これが発行されて以来、様々なマニュアル本が出た。マニュアル内の項目紹介も酷似しており、ネタを変えただけのパクりじゃねえか、と思わされる本も多数。むしろ、そっちの方が多数。人々に受ける斬新な物はパクられる運命にあるのだと思う。
私が学生時代に夢を頓挫したのは、自分には0から1を作る力はなく、1を10や100にする力が強いと気付いたからだ。青山正明は1を100にも1000にもする方法を0から1へと導いた。本当に偉大な人だった。活字系創作者として或るジャンルに於いて全てを持った人だったとすら思う。努力の賜物もあるだろうが、天賦の才の方が大きかったのではなかろうか。また茶化し方だけでなく、扱っていたネタ自体も当時としては斬新な部類に入ったと思われる。タブーとされていつつ、でも人々が突いてみたい且つ茶化してみたいことを片っ端からやってのけていた気がする。それらのネタは今、鬼畜系、などと括られてアングラなサブカルの中央に近いところに位置しているように思う。と、書いていてふと思った。先日も日記で、サブカル、という単語を使った。言わずもがな、サブ・カルチャーの略称だ。ではメイン・カルチャーとは何だ。メインあってのサブであり、アングラだ。昔働いていた職場の面子と呑みつつ、メイン・カルチャーとはなんぞや? という話題が何度も出た。そして毎回、メインなんてない、という答えに行き着いた。では現存するカルチャーは、全てサブ・カルチャーなのか。ならば何故わざわざ、サブ、という単語が付くのか。会話の中で誰かが言った。今あるメインと思われているカルチャー全てが元はサブだった。ならば現存するメイン・カルチャーの前にメインだったものは何だったのか。私を含め誰も答えられなかった。無知集合体。
今、街中でも某巨大掲示板の名を耳にすることがある。或る雑誌では社会学者が某巨大掲示板を基に小論を発表した。私が某巨大掲示板を知り出入りするようになったのは4年強前。うちのに教えてもらったのがきっかけだ。うちのはその前の某大掲示板から今の某巨大掲示板に流れてきた者であり、今でも某巨大掲示板にアングラ幻想を持っている。私も一昨年迄はそう思っていた。早い・安い・美味いの店で、極々フツーの人がねぎだくを注文している姿を見てしまい、驚愕し、その後にもう某巨大掲示板はアングラではないのだと思った。その思いは、別の早い・安い・美味いの店で、PCの使い方も知らないようなカップルの男がねぎだくを注文し、女が何それ〜? などと訊き、男が、裏メニューみたいなもんだよ、と自慢げに語り始めたのを聞いて思いから確信に変わり、また別の(以下略の店で持ち帰り用にでこの話に半信半疑だったうちのの為にねぎだくを、私用に汁だくだくを注文したら、入れ物のシールに、ねぎだく、つゆだく、と印刷されているのを見て決定付けられた。今や某巨大掲示板もメイン・カルチャーのひとつなのだろうか。少なくともまだ、つゆだくだく、は定着していないようだが。
レア物とかプレミア物とか評価とか
2004年1月19日 本・映画・音楽など 現在20日の日中。
10日付の日記に書いた、うちのが欲しがっていたネットオークションの出品物がどうにか落札でき、さっき届いた。20年程前の小雑誌4冊。椎名誠が某コラムで扱き下ろしたアレだ。うちのの入札額上限設定ギリギリで決着した物。入札者数1桁。けれどかなりの高値になった。私ともうひとりの入札者で終了時間を延長させつつ競りに競った。私は賭博打ちの素質に欠ける競ると熱くなるタイプであり、上限設定を超えても粘る気で挑み、そこに達する迄に相手が降りてくれた。届いた商品は年月に伴う劣化を考えれば傷みは許容範囲であり、満足のいく物だった。うちのの上限設定額は20000円。ということは、うちのにとって1冊に5000円出す価値のある物だった訳で、届いてからネットで市場価格を調べてみた。……ヒットなし。サブカル誌に強そうな古書店でも、高価買取リストに入っていただけで店に在庫はなさそうである。持っている人のレビューが書かれたサイトもあり読んでみたところ、その人も創刊号は見たことがないらしい。今回手にした4冊が創刊号から休刊(?)迄の全てである。レア物好きでサブカル好きな私としては嬉しい限り。うちのが読んでからじっくり楽しませてもらおう。サブカルに強そうなネット古書店数軒を覗いてみたところ、私が実家に置きっぱなしにしてある本が何冊もプレミア扱いになっていた。青林堂関係のコミックスに希少価値が付いているのは知っていたけれど、驚いた雑誌があった。数号で廃刊(?)になった某お笑い雑誌。確か実家に創刊号と2号はあった筈。あんなものにプレミアが付いていたなんて意外。本は取っておく物だ。売る気はないけど。月刊OUTにもプレミアを付けている古書店もあった。あれは全部捨ててしまった気がする。悔しい。
散財好きの私が親によく言われていた言葉のひとつに、お金はいつでも役に立つけれど物に代えたら終わり、というのがある。本、音源、貴金属や骨董類には当て嵌まらないのになあ、といつも思っていた。骨董類蒐集の趣味はないけれど。あ、ひとつ寝かせている未使用の皿がある。もらい物のロイヤルコペンハーゲンの限定絵皿。数年では価格高騰しないだろうが、数十年も経てば高値になると見込んでいる。うちのは皿や茶碗の価値を知らないのでもらってきてすぐに、いらねー、と抜かしていた。莫迦だ。寝かせれば高値になると諭して保管している。うちのは莫迦で、私は厭らしい。もらい物なのにいらねー。もらい物なのに将来売ることを前提に保管。どっちもどっちか。衣類にはなかなかプレミアが付かない。付くとすれば、発売直後に完売した物くらい。コスメだと廃盤・限定品はままプレミアが付く。食品だとワインや日本酒などの酒類くらいしか思い付かない。ブランド物のテディ・ベアあたりは判り易くプレミアが付くが、これも骨董扱いか。尤も、プレミアを見込んで物を買うのは莫迦らしい。自分の好きな物を買って、読むなり使うなりしてその後にプレミアが付いていることを知るのが私は楽しい。
先日、都内某所にてマニア向けの漫画喫茶らしき店を発見した。そこらの漫画喫茶よりもやや高値。正確には覚えていないけれど看板に、稀少本多数、というようなことが書かれていた。本当に稀少本が多くあるのだろうか。「カムイ伝」全巻くらいでそんなことを謳っていたら鼻で笑わせてもらいたい。看板に書く程に在庫に自信があるということは、ちゃんと「最後の世界大戦」を置いてあるんだろうな、と。この「最後の世界大戦」、非常に読んでみたい1冊である。某漫画専門古書店で昔見かけたことがある。気軽に手に取れる書棚ではなく、鍵付きの硝子ケースに飾られていた。100万だかそれ位の価格設定だったと記憶している。が、今調べたら市場価格300万だったことが判明。今もあるのだろうか。もう売れてしまっただろうか。あったところで購入するような金銭的余裕はないけれど気になる。近々、私はひとつ歳を取る。うちのがさっき、欲しい物はある? とメールで訊いてきた。ボディピアスを入れたいというのは却下されたので無しとして、これをねだったらどんな反応をされるのだろう……正座させられて叱られそうな悪寒。そもそも今現在市場に出回っているかどうかも確かではない。手元に来なくてもいい。ただただ読んでみたい。
昨夜、ネットオークションにて出品されていた某雑誌が3000円強で決着した。私は2000円で降りた。バンド・ブームの頃の雑誌で、表紙と特集が愛しの君のバンドの物。欲しかったけれど3000円の価値は見出せなかった。特集ページも何ページ組まれていたか質問し忘れていたし。愛しの君のバンドは、お世辞にも売れているとは言えない。デビュー当時からコアなファンこそ付いていたけれど、大衆受けはしていなかった。因ってネットオークションに古い廃盤音源やその他グッズなどのレア物が出ると高値になる。それはいい。廃盤物や入手困難な物が高値になるのは当然だと思う。けれど中には勘違いした出品者がいることも確か。現行商品なのに、レア物、と謳っていたり、廃盤、などと虚偽記述をしていたり。1度、現行で初版商品なのにうっかりほぼ定価で落札してしまったことがあるけれど、その出品者は既にこのバンドから離れていて初版が未だ現行だと知らなかったようだし、私も知らなかったので致し方ない。けれどその後、同一商品にプレミアを付けて出品している者を発見。勘違いサンなのか現状を知ってのことなのかは不明。当然ながら落札されることはなく、回転している。衣類等ではまず見ないけれど、このバンド関係の商品や書籍類に入札したり落札した場合、他の入札者の評価欄からオークション購入履歴を見ることがある。皆、似たり寄ったりの趣味をしている。冒頭に書いたミニコミ誌で競り合った相手は、明白にサブカル・猟奇好きの人だった。自分がこういうことをしているので、他者から見た私の履歴の感想も少し気になる。9割方は衣類の出品及び落札だけれど、その中に場違いな物が紛れ込んでいる。私の使用しているIDはうちのと共同で使っている物だけれど果たして複数者が使っている者と見られているのか、それとも同一者が手広く出品・落札していると見られているのか。一番確率が高いのは、人はそこ迄見ちゃいないのでは、だと思っている。
10日付の日記に書いた、うちのが欲しがっていたネットオークションの出品物がどうにか落札でき、さっき届いた。20年程前の小雑誌4冊。椎名誠が某コラムで扱き下ろしたアレだ。うちのの入札額上限設定ギリギリで決着した物。入札者数1桁。けれどかなりの高値になった。私ともうひとりの入札者で終了時間を延長させつつ競りに競った。私は賭博打ちの素質に欠ける競ると熱くなるタイプであり、上限設定を超えても粘る気で挑み、そこに達する迄に相手が降りてくれた。届いた商品は年月に伴う劣化を考えれば傷みは許容範囲であり、満足のいく物だった。うちのの上限設定額は20000円。ということは、うちのにとって1冊に5000円出す価値のある物だった訳で、届いてからネットで市場価格を調べてみた。……ヒットなし。サブカル誌に強そうな古書店でも、高価買取リストに入っていただけで店に在庫はなさそうである。持っている人のレビューが書かれたサイトもあり読んでみたところ、その人も創刊号は見たことがないらしい。今回手にした4冊が創刊号から休刊(?)迄の全てである。レア物好きでサブカル好きな私としては嬉しい限り。うちのが読んでからじっくり楽しませてもらおう。サブカルに強そうなネット古書店数軒を覗いてみたところ、私が実家に置きっぱなしにしてある本が何冊もプレミア扱いになっていた。青林堂関係のコミックスに希少価値が付いているのは知っていたけれど、驚いた雑誌があった。数号で廃刊(?)になった某お笑い雑誌。確か実家に創刊号と2号はあった筈。あんなものにプレミアが付いていたなんて意外。本は取っておく物だ。売る気はないけど。月刊OUTにもプレミアを付けている古書店もあった。あれは全部捨ててしまった気がする。悔しい。
散財好きの私が親によく言われていた言葉のひとつに、お金はいつでも役に立つけれど物に代えたら終わり、というのがある。本、音源、貴金属や骨董類には当て嵌まらないのになあ、といつも思っていた。骨董類蒐集の趣味はないけれど。あ、ひとつ寝かせている未使用の皿がある。もらい物のロイヤルコペンハーゲンの限定絵皿。数年では価格高騰しないだろうが、数十年も経てば高値になると見込んでいる。うちのは皿や茶碗の価値を知らないのでもらってきてすぐに、いらねー、と抜かしていた。莫迦だ。寝かせれば高値になると諭して保管している。うちのは莫迦で、私は厭らしい。もらい物なのにいらねー。もらい物なのに将来売ることを前提に保管。どっちもどっちか。衣類にはなかなかプレミアが付かない。付くとすれば、発売直後に完売した物くらい。コスメだと廃盤・限定品はままプレミアが付く。食品だとワインや日本酒などの酒類くらいしか思い付かない。ブランド物のテディ・ベアあたりは判り易くプレミアが付くが、これも骨董扱いか。尤も、プレミアを見込んで物を買うのは莫迦らしい。自分の好きな物を買って、読むなり使うなりしてその後にプレミアが付いていることを知るのが私は楽しい。
先日、都内某所にてマニア向けの漫画喫茶らしき店を発見した。そこらの漫画喫茶よりもやや高値。正確には覚えていないけれど看板に、稀少本多数、というようなことが書かれていた。本当に稀少本が多くあるのだろうか。「カムイ伝」全巻くらいでそんなことを謳っていたら鼻で笑わせてもらいたい。看板に書く程に在庫に自信があるということは、ちゃんと「最後の世界大戦」を置いてあるんだろうな、と。この「最後の世界大戦」、非常に読んでみたい1冊である。某漫画専門古書店で昔見かけたことがある。気軽に手に取れる書棚ではなく、鍵付きの硝子ケースに飾られていた。100万だかそれ位の価格設定だったと記憶している。が、今調べたら市場価格300万だったことが判明。今もあるのだろうか。もう売れてしまっただろうか。あったところで購入するような金銭的余裕はないけれど気になる。近々、私はひとつ歳を取る。うちのがさっき、欲しい物はある? とメールで訊いてきた。ボディピアスを入れたいというのは却下されたので無しとして、これをねだったらどんな反応をされるのだろう……正座させられて叱られそうな悪寒。そもそも今現在市場に出回っているかどうかも確かではない。手元に来なくてもいい。ただただ読んでみたい。
昨夜、ネットオークションにて出品されていた某雑誌が3000円強で決着した。私は2000円で降りた。バンド・ブームの頃の雑誌で、表紙と特集が愛しの君のバンドの物。欲しかったけれど3000円の価値は見出せなかった。特集ページも何ページ組まれていたか質問し忘れていたし。愛しの君のバンドは、お世辞にも売れているとは言えない。デビュー当時からコアなファンこそ付いていたけれど、大衆受けはしていなかった。因ってネットオークションに古い廃盤音源やその他グッズなどのレア物が出ると高値になる。それはいい。廃盤物や入手困難な物が高値になるのは当然だと思う。けれど中には勘違いした出品者がいることも確か。現行商品なのに、レア物、と謳っていたり、廃盤、などと虚偽記述をしていたり。1度、現行で初版商品なのにうっかりほぼ定価で落札してしまったことがあるけれど、その出品者は既にこのバンドから離れていて初版が未だ現行だと知らなかったようだし、私も知らなかったので致し方ない。けれどその後、同一商品にプレミアを付けて出品している者を発見。勘違いサンなのか現状を知ってのことなのかは不明。当然ながら落札されることはなく、回転している。衣類等ではまず見ないけれど、このバンド関係の商品や書籍類に入札したり落札した場合、他の入札者の評価欄からオークション購入履歴を見ることがある。皆、似たり寄ったりの趣味をしている。冒頭に書いたミニコミ誌で競り合った相手は、明白にサブカル・猟奇好きの人だった。自分がこういうことをしているので、他者から見た私の履歴の感想も少し気になる。9割方は衣類の出品及び落札だけれど、その中に場違いな物が紛れ込んでいる。私の使用しているIDはうちのと共同で使っている物だけれど果たして複数者が使っている者と見られているのか、それとも同一者が手広く出品・落札していると見られているのか。一番確率が高いのは、人はそこ迄見ちゃいないのでは、だと思っている。
単語の意味を知らぬ侭に言葉を使うのは莫迦である。街中でもよく耳にする言葉に、Sなのかな、Mかも、といった台詞がある。S=サディスト・M=マゾヒスト。SMが市民権を得た、と言ったのは団鬼六。それを否定しているのが濡木痴夢男。世の多くの所謂ノーマルな人間は、SMへの知識が本当に乏しく思う。乏しくても一向に構わない。けれど、サディスト=いじめるのが好き・マゾヒスト=いじめられるのが好き、としてしか認知されていないようだ。いじめ、をひらがなにしたのは、虐め、と漢字にする程の重さもないからである。認識の浅い人間が使うSやMという言葉は、お笑いでいうところのボケとツッコミに値しそうだ。ボケにツッこむのが好きなのがSでなければ、ボケてツッこまれて喜ぶのがMでもない。単語が浸透したという意味のみでは、団鬼六は正しい。正しく認知されておらず相変わらず真のSM嗜好者は異端視されるという意味では濡木痴夢男が正しい。正しい理解がなされずに単語のみが浸透していくのは、正しい言葉を愛する私としては本当に遺憾である。私の友人たちはこの手の意味合いでSだのMだのという言葉を、少なくとも私の前では使わない。使ったが最後、説教を喰らうからだろう。
SMには知識と演技力が要される。まず知識。SとMの言葉の定義が大前提。簡単に書くと、Sは奉仕に悦びを見出す者で、Mは被虐に悦びを見出す者。特にSについて勘違いしている者が余りにも多い。男マグロで、俺はSだから、なんぞと抜かしている奴は、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえばいい。Sの方に大変な労力と気遣いが必要である。労力は相手を責めるとき、気遣いは相手に傷をつけない為。逆説。Mは楽である。極論ではあるが、相手の為すが侭になっていれば。していればいいだけだから。そして演技力。これはSMの世界観にどっぷりと漬かれる精神力とも言い換えられる。行為中に現実を持ってきてはならないのだ。現実と非現実のギリギリの線で行われるのが理想。人によってはキッパリと線引きを求めたりもする。この辺は個人の好み。どちらにしても非現実に身を置いている自覚を持っての行動をしなければならない。そして最も必要なのがお互いへの信頼感である。特にMは拘束されたが最後、相手に殺される可能性もある。Sは相手を過失致死させてしまう恐れがある。その覚悟を持てなければ手を出すべきではない。SMクラブなんて全て潰れてしまえばいい。一時期、ソフトSMなどという言葉が半ば流行していた時期があったが、最近は聞かない。廃れたのか浸透してノーマルの域に達したのかは知らない。前者なら喜ばしく、後者なら勝手にやってくれ、という感想しか持てない。話をもっと深く進めて行きたいけれどもこの日記サイトの性質上、ここで留める。コチラ方面への私の拘りは強く、3日3晩かけても語り切れない。そしてこんなにSMに拘るのは、私がそちらの性癖を持つ者だからである。マルキ・ド・サドは数冊読んでおり、それにつれて澁澤龍彦も読んだ。澁澤はいいけれど、稲垣足穂は嫌いではないけれどちょっと違う。マゾッホは未読。言わずもがな「花と蛇」は名著。個人的意見。「花と蛇」はドリフ的面白さである。「家畜人ヤプー」は購入したものの実家に置きっぱなしで未読。再購入を考えている最中。
今日この話を書いたのは、濡木痴夢男の著書を読み返したからである。そしてこれを読み返したのは奇譚クラブを思い出したからであり、奇譚クラブを思い出したのはネットオークションのウォッチリストに私が入れていない出品物が入っていたからだ。パス漏れか? と慌ててうちのにメールをしたところ、うちのが入れたことが判明。出品物のタイトルを冷静にやっとうちのがコレを欲しがっている理由を思い出した。おまいは、サブカル嫌いを自称しているじゃないか、と小一時間(以下略。落札協力は喜んでする。私も欲しい物だし。出品者はコレの価値をイマイチ解っていない模様。解っていたら絶対に検索用に入れるであろう単語が入っていない。落札を考える者としては有難い限り。昔住んでいた家から少し離れた場所に、ちょっと変わった古本屋があった。そこに並んでいた本が今でも欲しい。正確なタイトルは失念したけれど、ゾッキ本や赤線についての歴史的資料であり、箱入のシリーズ物で10巻近くあったと思う。当時、学生だった私には高くて買えない本たち。今は誰かの手に渡ってしまっているのだろうか。いつの日か、私の手元にも回ってくるだろうか。仮に再び目にすることがなくとも、購入した人には大切に読んでもらいたい。寡聞にして、ゾッキ本の資料、という物を私はあの本以外に知らない。他にもあるのか気になる。無性に神田に行きたくなってきたけれど、その前に国会図書館に行かねば。去年中に済ませたかった調べ物を今年に持ち越してしまったのだ。天気と体調がいい日に動きたいのに、なかなかそれらが一致してくれない。そもそも体調のいい日が殆どなかったりする……。
価値感というものは、人によって様々だ。或る漫画で、ピカソの絵を見て感動する子供なんてまずいない、といった台詞があった。私は今見ても感動しない。描かれた当時の歴史的背景をきちんと理解してから見る絵だと思う。ゴッホのひまわり。私は面白い色使いの絵だなあという感想しか抱けなかったのだが、あの絵について某巨大掲示板にて驚いたことがあった。色盲の人から見れば、極自然な色使いに見えるそうなのだ。成る程……。物を見聞きする際に、予備知識があった方がいい物と、予備知識がない方がいいものは確かに分かれるところだ。予備知識も歪んでいては意味がない。物事を、正確に、自分の知識として身につけるのは難しいことだし面倒なことだけれども、そこにだけは手を抜きたくないと昔から思っている。冒頭に書いたような噴飯しそうな莫迦者には決してなりたくない。せめて、ビートルズをアメリカ人だと勘違いしたり、スピードと重さが足りない失笑を買う程度のスラメタ好きに留めたく思う。今はちゃんとイギリスだと知っていることを追記。
BGM/アルバム「頽廃藝術展」
SMには知識と演技力が要される。まず知識。SとMの言葉の定義が大前提。簡単に書くと、Sは奉仕に悦びを見出す者で、Mは被虐に悦びを見出す者。特にSについて勘違いしている者が余りにも多い。男マグロで、俺はSだから、なんぞと抜かしている奴は、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえばいい。Sの方に大変な労力と気遣いが必要である。労力は相手を責めるとき、気遣いは相手に傷をつけない為。逆説。Mは楽である。極論ではあるが、相手の為すが侭になっていれば。していればいいだけだから。そして演技力。これはSMの世界観にどっぷりと漬かれる精神力とも言い換えられる。行為中に現実を持ってきてはならないのだ。現実と非現実のギリギリの線で行われるのが理想。人によってはキッパリと線引きを求めたりもする。この辺は個人の好み。どちらにしても非現実に身を置いている自覚を持っての行動をしなければならない。そして最も必要なのがお互いへの信頼感である。特にMは拘束されたが最後、相手に殺される可能性もある。Sは相手を過失致死させてしまう恐れがある。その覚悟を持てなければ手を出すべきではない。SMクラブなんて全て潰れてしまえばいい。一時期、ソフトSMなどという言葉が半ば流行していた時期があったが、最近は聞かない。廃れたのか浸透してノーマルの域に達したのかは知らない。前者なら喜ばしく、後者なら勝手にやってくれ、という感想しか持てない。話をもっと深く進めて行きたいけれどもこの日記サイトの性質上、ここで留める。コチラ方面への私の拘りは強く、3日3晩かけても語り切れない。そしてこんなにSMに拘るのは、私がそちらの性癖を持つ者だからである。マルキ・ド・サドは数冊読んでおり、それにつれて澁澤龍彦も読んだ。澁澤はいいけれど、稲垣足穂は嫌いではないけれどちょっと違う。マゾッホは未読。言わずもがな「花と蛇」は名著。個人的意見。「花と蛇」はドリフ的面白さである。「家畜人ヤプー」は購入したものの実家に置きっぱなしで未読。再購入を考えている最中。
今日この話を書いたのは、濡木痴夢男の著書を読み返したからである。そしてこれを読み返したのは奇譚クラブを思い出したからであり、奇譚クラブを思い出したのはネットオークションのウォッチリストに私が入れていない出品物が入っていたからだ。パス漏れか? と慌ててうちのにメールをしたところ、うちのが入れたことが判明。出品物のタイトルを冷静にやっとうちのがコレを欲しがっている理由を思い出した。おまいは、サブカル嫌いを自称しているじゃないか、と小一時間(以下略。落札協力は喜んでする。私も欲しい物だし。出品者はコレの価値をイマイチ解っていない模様。解っていたら絶対に検索用に入れるであろう単語が入っていない。落札を考える者としては有難い限り。昔住んでいた家から少し離れた場所に、ちょっと変わった古本屋があった。そこに並んでいた本が今でも欲しい。正確なタイトルは失念したけれど、ゾッキ本や赤線についての歴史的資料であり、箱入のシリーズ物で10巻近くあったと思う。当時、学生だった私には高くて買えない本たち。今は誰かの手に渡ってしまっているのだろうか。いつの日か、私の手元にも回ってくるだろうか。仮に再び目にすることがなくとも、購入した人には大切に読んでもらいたい。寡聞にして、ゾッキ本の資料、という物を私はあの本以外に知らない。他にもあるのか気になる。無性に神田に行きたくなってきたけれど、その前に国会図書館に行かねば。去年中に済ませたかった調べ物を今年に持ち越してしまったのだ。天気と体調がいい日に動きたいのに、なかなかそれらが一致してくれない。そもそも体調のいい日が殆どなかったりする……。
価値感というものは、人によって様々だ。或る漫画で、ピカソの絵を見て感動する子供なんてまずいない、といった台詞があった。私は今見ても感動しない。描かれた当時の歴史的背景をきちんと理解してから見る絵だと思う。ゴッホのひまわり。私は面白い色使いの絵だなあという感想しか抱けなかったのだが、あの絵について某巨大掲示板にて驚いたことがあった。色盲の人から見れば、極自然な色使いに見えるそうなのだ。成る程……。物を見聞きする際に、予備知識があった方がいい物と、予備知識がない方がいいものは確かに分かれるところだ。予備知識も歪んでいては意味がない。物事を、正確に、自分の知識として身につけるのは難しいことだし面倒なことだけれども、そこにだけは手を抜きたくないと昔から思っている。冒頭に書いたような噴飯しそうな莫迦者には決してなりたくない。せめて、ビートルズをアメリカ人だと勘違いしたり、スピードと重さが足りない失笑を買う程度のスラメタ好きに留めたく思う。今はちゃんとイギリスだと知っていることを追記。
BGM/アルバム「頽廃藝術展」
文化庁メディア芸術祭のマンガ部門で安達哲の「バカ姉弟」が優秀賞を受賞していた。安達哲は大好きな漫画家のひとりである。「キラキラ!」から読み始め、「ホワイトアルバム」に遡り、「さくらの唄」「お天気お姉さん」他、全ての作品を読んできた。秀作揃いの作品の中で、異彩を放っているのがこの「バカ姉弟」だ。安達曰く、また「さくらの唄」のような作品を描いて欲しいと言われることが多い。私もまた描いて欲しいと思う。安達は「バカ姉弟」という新分野を開拓しているのに過去の作品群のようなものを求められるのはイヤなようだ。「バカ姉弟」も素晴らしい作品である。これを読むと長閑な気分になれ、また苛立っていても和やかな気分にさせてくれる。α波の出る漫画とでも言えようか。けれども。私はやはり安達作品の中では「さくらの唄」が一番好きだ。「バカ姉弟」を除く作品群に通ずるものは、青さ・切なさだ。その極みが「さくらの唄」だと思っている。青春像を描いた漫画は数多ある。その中で最も青く、最も切なく、最も心に響く漫画はこれだ。このような漫画は安達にしか描けまい。少女漫画の名作と名高い「ホットロード」。あれも青く、切なく、心に響いた。「さくらの唄」との違いはどこにあるか。それは激しさに他ならない。鬱屈した思春期の少年を描かせたら天下一品の腕前を持つ安達。「ホットロード」も名作ではあるが、同程度の印象深さの漫画が他にないとは言えない。「さくらの唄」に似た漫画は他にはない。今後も出てこないであろう。「バカ姉弟」と同じ作者の作品とは思えないくらいに「さくらの唄」はいろいろな意味で激しい。「バカ姉弟」はいろいろな意味で和む。多彩な作品を創造できる人間は素晴らしい。でも。小さなカラー1カットで10万は高いだろうよ。その後、横浜の風俗街で明らかに無許可で絵を使っている、お天気お姉さん、という名の風俗店を見かけて無性に悲しくなったよ。1度一緒に仕事してみたかった。下記のよしもとにも依頼したけれど、多忙を理由に断られた。寡作なのに多忙って……。まあ依頼したのがエロ本だったから仕方なし。
去年から星里もちるの新連載「ルナハイツ」が始まっている。1巻背表紙のキャッチには、ラブコメの第一人者が放つ新境地、ここに開幕!! と書かれている。は……? 星里が青年誌に移ってから一貫して取り上げているテーマは、居場所、である。「本気のしるし」もそうだった。何より「りびんぐゲーム」。これは居と個の居場所を関連させた作品であり、表現方法は違えど「ルナハイツ」と同じではなかろうか。何を以って新境地などと謳えるのか。全く解らない。掲載誌が変われば新境地になるのか? 読者をバカにしたキャッチである。担当者のレベルを疑う。星里はどたばたコメディを最も得意とする漫画家だ。新境地を拓きたかったのは「本気のしるし」だろう。けれど余り読者の支持を得られなかったと思われる。画風もやや変わり、どたばたはなく、過去の星里作品のファンはかなり離れてしまったのではなかろうか、と私は予測している。「本気のしるし」、某巨大掲示板の幾つかのスレでヒロインが私の諸事情と同じ病気ではなかろうかと言われていた。私もそう思っていた。ラストが近付くにつれ、ヒロインは強くなってしまった。星里作品のラストは常にハッピーエンドだ。途中まではヒロインに諸事情を背負わせていたと思われるが、そのままではハッピーエンドに導くには困難なので路線変更したのか。路線変更場面にさほど無理を感じないので、それでも読み応えのある漫画ではある。「ルナハイツ」は今後の展開に期待してはいるけれど、「りびんぐゲーム」と似通わないようにしてもらいたい。
私は本が好きであり、漫画も相当数読んでいると自負している。好きな漫画家も多数おり、上記の安達・星里も勿論だが、その他にここで数人挙げたい。ひとりはよしもとよしとも。寡作なので著書の少ない、所謂サブカルの括りに入れられてしまう漫画家である。よしもとも切ない青春を描かせると滅茶苦茶上手い。絵柄が洗練されすぎており読み流され易いのが少し悔しい。代表作であろう「青い車」の表題作。小沢健二の「ラブリー」を途中に挟んでいる。この挟み方が絶妙! 書き文字で表現された歌詞が切なさの表現に多大に影響を与えており、ラストの投げやりさに上手く繋いでいる。「オレンジ」も構成で主人公の荒廃した心が切ない。4コマや連載物は余り上手ではないと思う。でも短編には秀作が多い。一読の価値あり。よしもとの作品を軽く読み流せてしまう人とは、私は仲良くなれない。断言。次に挙げたいのは二ノ宮知子。「トレンドの女王」は未読。編集者の指示通りに描いた漫画らしいので今後も読む予定はなし。友人と漫画の話をしていて、私が二ノ宮を余りに褒めるので驚かれたことがある。漫画に限らず、本を読むときの感想の基本は、面白いか詰まらないかだ。それが二ノ宮の漫画は違う。めっさ面白い>かなり面白い>面白いの3段階。ハズレがないので安心して読める物を描く漫画家なのだ。今、連載している「のだめカンタービレ」はかなり面白い。現在、掲載誌で新展開に向かいつつあり目が離せない。「天才ファミリーカンパニー」は去年、スペシャル版が出た。あちこちの書店で完売。どうにか全巻入手。何度読んでも面白い。二ノ宮作品で一番面白さが解り易いのは「平成酔っ払い研究所」だろうか。できれば文庫版ではない方で手に取ってもらいたい。文庫は表紙が余りにアレである……。最後に「ショムニ」の作者である安田弘之。「ショムニ」で安田を知ったつもりになって欲しくない。まずは「ちひろ」と「紺野さんと遊ぼう」を読んで欲しい。安田は漫画家というよりもイラストで漫画を構成しているかのように思う。その絵柄は「ショムニ」や現在連載中のものよりも上記2作で効果が引き出されている。
今回挙げた漫画家は基本的にハズレ作品の少ない人たち。他にも挙げたい漫画家は多くいるが、当たりハズレが激しいので作品毎に書きたい。因ってそのうち、徐々に作品について書いていきたい所存。古屋兎丸とか町野変丸とか、白倉由美とか中山乃梨子とか、さそうあきらとかゆうきまさみとか、川原泉とか南Q太とか、安彦麻理絵とか桜沢エリカとか、唐沢なをきとか華倫変とか、喜国雅彦とか山本直樹とか、玉置勉強とか内田春菊とか。あ、町野はもうお家芸なのでハズレとかそういう問題ではないか。
BGM/「それで自由になったのかい」「山谷ブルース」「手紙」など
去年から星里もちるの新連載「ルナハイツ」が始まっている。1巻背表紙のキャッチには、ラブコメの第一人者が放つ新境地、ここに開幕!! と書かれている。は……? 星里が青年誌に移ってから一貫して取り上げているテーマは、居場所、である。「本気のしるし」もそうだった。何より「りびんぐゲーム」。これは居と個の居場所を関連させた作品であり、表現方法は違えど「ルナハイツ」と同じではなかろうか。何を以って新境地などと謳えるのか。全く解らない。掲載誌が変われば新境地になるのか? 読者をバカにしたキャッチである。担当者のレベルを疑う。星里はどたばたコメディを最も得意とする漫画家だ。新境地を拓きたかったのは「本気のしるし」だろう。けれど余り読者の支持を得られなかったと思われる。画風もやや変わり、どたばたはなく、過去の星里作品のファンはかなり離れてしまったのではなかろうか、と私は予測している。「本気のしるし」、某巨大掲示板の幾つかのスレでヒロインが私の諸事情と同じ病気ではなかろうかと言われていた。私もそう思っていた。ラストが近付くにつれ、ヒロインは強くなってしまった。星里作品のラストは常にハッピーエンドだ。途中まではヒロインに諸事情を背負わせていたと思われるが、そのままではハッピーエンドに導くには困難なので路線変更したのか。路線変更場面にさほど無理を感じないので、それでも読み応えのある漫画ではある。「ルナハイツ」は今後の展開に期待してはいるけれど、「りびんぐゲーム」と似通わないようにしてもらいたい。
私は本が好きであり、漫画も相当数読んでいると自負している。好きな漫画家も多数おり、上記の安達・星里も勿論だが、その他にここで数人挙げたい。ひとりはよしもとよしとも。寡作なので著書の少ない、所謂サブカルの括りに入れられてしまう漫画家である。よしもとも切ない青春を描かせると滅茶苦茶上手い。絵柄が洗練されすぎており読み流され易いのが少し悔しい。代表作であろう「青い車」の表題作。小沢健二の「ラブリー」を途中に挟んでいる。この挟み方が絶妙! 書き文字で表現された歌詞が切なさの表現に多大に影響を与えており、ラストの投げやりさに上手く繋いでいる。「オレンジ」も構成で主人公の荒廃した心が切ない。4コマや連載物は余り上手ではないと思う。でも短編には秀作が多い。一読の価値あり。よしもとの作品を軽く読み流せてしまう人とは、私は仲良くなれない。断言。次に挙げたいのは二ノ宮知子。「トレンドの女王」は未読。編集者の指示通りに描いた漫画らしいので今後も読む予定はなし。友人と漫画の話をしていて、私が二ノ宮を余りに褒めるので驚かれたことがある。漫画に限らず、本を読むときの感想の基本は、面白いか詰まらないかだ。それが二ノ宮の漫画は違う。めっさ面白い>かなり面白い>面白いの3段階。ハズレがないので安心して読める物を描く漫画家なのだ。今、連載している「のだめカンタービレ」はかなり面白い。現在、掲載誌で新展開に向かいつつあり目が離せない。「天才ファミリーカンパニー」は去年、スペシャル版が出た。あちこちの書店で完売。どうにか全巻入手。何度読んでも面白い。二ノ宮作品で一番面白さが解り易いのは「平成酔っ払い研究所」だろうか。できれば文庫版ではない方で手に取ってもらいたい。文庫は表紙が余りにアレである……。最後に「ショムニ」の作者である安田弘之。「ショムニ」で安田を知ったつもりになって欲しくない。まずは「ちひろ」と「紺野さんと遊ぼう」を読んで欲しい。安田は漫画家というよりもイラストで漫画を構成しているかのように思う。その絵柄は「ショムニ」や現在連載中のものよりも上記2作で効果が引き出されている。
今回挙げた漫画家は基本的にハズレ作品の少ない人たち。他にも挙げたい漫画家は多くいるが、当たりハズレが激しいので作品毎に書きたい。因ってそのうち、徐々に作品について書いていきたい所存。古屋兎丸とか町野変丸とか、白倉由美とか中山乃梨子とか、さそうあきらとかゆうきまさみとか、川原泉とか南Q太とか、安彦麻理絵とか桜沢エリカとか、唐沢なをきとか華倫変とか、喜国雅彦とか山本直樹とか、玉置勉強とか内田春菊とか。あ、町野はもうお家芸なのでハズレとかそういう問題ではないか。
BGM/「それで自由になったのかい」「山谷ブルース」「手紙」など
愛しかない、それが世界を動かしている
2004年1月2日 本・映画・音楽など 現在3日深夜。
昨日は昼前に起床→食事→入浴→着替え・化粧→デート、という年相応の1日だった。再度の初夢はまたまた最悪だったがもう気にしない。今年も初夢は見なかったことに、脳内記憶改竄する。デートらしいデートをしたのなんてどれくらいぶりだろう……。思い出せない程遥か昔の話である。デートコースは初詣→お茶→買い物→映画鑑賞→夕食。お手本のようなデートで大変に新鮮な1日だった。出かける前に小競り合いがあったのは気にしない。今年初であり且つ久々のデート故に気合を入れてお洒落した。うちのの反応。その服、いつ買ったの。細かいことは気にしないでもらいたい。いつでもいいではないか。かわいい恰好をしている今、そのときを褒めれ。初詣は近所の神社に。2日の夕方ということもあり、小さな神社ということもあり、がらがらだった。おみくじは吉。お賽銭を入れて、今年のお願い。心身共に健康になりますように。私とうちのと小動物2匹が何事もなく過ごせますように。お茶を飲もうと行った店がまだ昨日は開いておらず、さて困ったな、と思ったところで視界に入ってきた無国籍料理の店に入ってみた。これが当たり。非常に凝った内装で雰囲気が良く、お値段も手頃。こんな穴場には落とし穴がある筈だと思うも、注文したデザートセットも美味いときたものだ。幸先のいい初外食であった。その後、映画館に行くために乗った電車内で、今年初の発作勃発。座って胸を押さえて俯いて、肩で息をしつつ目標駅まで耐え凌いだ。駅で一休みして、デパートのコスメ売り場やうちのの愛用している眼鏡屋を冷やかして映画館へ。
目当ての映画は「アイデン&ティティ」。漫画や小説が原作の実写映画で当たりだったことは本当に少ない。けれどもこれは大当たり! 観に行った最大の目的は愛しの君の出演シーン。1回目はピンで簡単なインタビューに答えており、2回目は年末に脱退したドラマーも含めてバンド全員で一瞬だけ出演。私は愛しの君を観たくて出かけたので、最初の5分で気が済んでしまった……と思いきや、どんどんストーリーに呑み込まれていった。原作と違う! と憤ること皆無。これは役者の人選が良かったことが多大に影響していると思う。出てくる主要役者全てが、原作の絵に忠実なのだ。こんな映画は珍しい。音楽の能力や演技力に拘ってのキャストとのことだが、本当はみうらじゅんの絵に似た顔を持った人を基準に集めたのでは? と思いたくなるほど似ていた。マギーが浮くことを心配するも杞憂に終わった。ディラン役はエンケン。実は映画を観る前に友人と、ディラン役はこの映画の主人公のモデルである愛しの君がやるべきではないか、と話をしていた。エンケンで正解。愛しの君では勤まらないという訳ではなく、愛しの君はリアルなバンドブームの波に乗っていた生き証人という大事な役目があり、ディラン役を演じてしまうと行き証人としての証言ができなくなる。なのでエンケンで正解。三上寛。歌は聴いたことがあったが観たことはなかった。あんなオッサンだったのか。できれば鼻歌でもよかったので、なにか歌って欲しかった。エンディングで、後日談的な「マリッジ」への繋ぎか? と思った。しかし仮に「マリッジ」を撮るならばオノ・ヨーコの許可が必要であり、果たして叶うかどうか。ディランを説き伏せたスタッフたちなら可能か。暫く田口トモロヲとみうらじゅんの動向に期待。
上記段落はなるべくストーリーに触れないようにした、観ながら持った感想。ここからは鑑賞後の感想。うちのも私も、切ないね……、という言葉を交わしつつ映画館を出た。ストーリーの構造としては、器用な=汚い大人VSモラトリアムな大人。私は日本経済社会を上手く回したいのならば、こういう映画こそ18禁指定にすべきだと思う。もし私がこれを中高生時代に観ていたら、間違いなくモラトリアムな大人に傾向し、器用な大人を軽蔑する。おまいは今もモラトリアムじゃねーか、というツッコミは甘んじて受け止めよう。私は汚い大人が嫌いだ。けれど汚さをも包括できなければ世を渡っていくのは物凄く困難であり、傷つく。それでも汚くなりたくない。傷ついても綺麗な心を残したい。青いのは承知。それでも、青は、綺麗な色だ。大杉漣演じる編集者に格別の嫌悪感を抱いた。大杉漣は好きな役者なので、役者自体・演技自体に嫌悪感を抱いた訳ではない。役柄がとにかく汚かったのだ。そしてそんな現実を私は知っている。編集者を突き動かすものは、無粋な好奇心である。去年末、「FLASH EX」という雑誌が発売された。その中の特集のひとつに、イカ天ブームのその後、といったものがあった。「アイデン&ティティ」の冒頭でインタビューに答えていた半数程のミュージシャンはイカ天出身であり且つその雑誌のインタビューにも登場していた。あんな風にインタビューされたのだろうか……そんな想像が頭を過ぎり、自分迄悔しくなって膝にかけたコートを握り締めた。器用な大人は嫌いだ。汚い大人は大嫌いだ。
ディランの台詞は全て字幕だった。全て原作に出てきていた台詞だ。ディランの台詞は原作よりもスクリーンで読む方が説得力があった。スクリーンの力なのか、音とあいまった上での力なのかは私には解らない。けれど、どの言葉にも納得をしてしまった。今、私の手元にはパンフレットがある。そこにディランの言葉も多く書かれている。紙媒体で読むと、ディランの台詞にも納得し難いものがある。奇麗事を抜かすな、と反発したくなる言葉もある。なのにスクリーンではしみじみと心に届いた。この違いは何なのだろう。近々、ディランのCDを聴きつつパンフをじっくりと読みたく思う。原作が実家に放置されっぱなしになっているのが悔しい限り。今日、原作をもう一度買おうかと思ったのだが、既に持っていると判っている本を自分で買うのは癪なのでうちのが買うのを待つとする。自称サブカル嫌いのうちの。この手の映画は好まない筈である。それでも私が強引に誘って一緒に観に行った。映画を観て、何か思うところがあったようで、誘った私としては嬉しかった。うちのと付き合って毎年正月に映画を観ている。去年迄とは違い、今年は初めて殺人が絡まない映画を観に行った。殺伐の代わりに青い気持ちを取り戻し、そして今の自分の汚さを鑑みて……じっくりいろいろ考えよう。いつか答えは見つかる筈だ。生きることは悲しいよ、生きることはさわぎだよ。
明日から1泊2日で温泉旅行。因って、明日の日記はお休み。帰宅後に何かしら書く予定。
服装/長袖カットソー→古着の半袖パフスリーブニット+白い中綿入りロングスカート+スピック&スパンのインポート物グレーのフードつきコート+ピンクのラビットファーマフラー+黒い膝丈編上げブーツ+黒系ポピーバッグ
メイク/アナスイ・ファンデーションプライマー+エスティシャドウ下地+カバマお粉+アナスイ・リキッドアイライナー02→ランコム・マジィーシル02→ランコム・ブラッシュフォーカス13→ケサランパサラン・フェイスカラー(アイブロウ専用に使用)→アナスイ・グロスルージュ(品番失念)
昨日は昼前に起床→食事→入浴→着替え・化粧→デート、という年相応の1日だった。再度の初夢はまたまた最悪だったがもう気にしない。今年も初夢は見なかったことに、脳内記憶改竄する。デートらしいデートをしたのなんてどれくらいぶりだろう……。思い出せない程遥か昔の話である。デートコースは初詣→お茶→買い物→映画鑑賞→夕食。お手本のようなデートで大変に新鮮な1日だった。出かける前に小競り合いがあったのは気にしない。今年初であり且つ久々のデート故に気合を入れてお洒落した。うちのの反応。その服、いつ買ったの。細かいことは気にしないでもらいたい。いつでもいいではないか。かわいい恰好をしている今、そのときを褒めれ。初詣は近所の神社に。2日の夕方ということもあり、小さな神社ということもあり、がらがらだった。おみくじは吉。お賽銭を入れて、今年のお願い。心身共に健康になりますように。私とうちのと小動物2匹が何事もなく過ごせますように。お茶を飲もうと行った店がまだ昨日は開いておらず、さて困ったな、と思ったところで視界に入ってきた無国籍料理の店に入ってみた。これが当たり。非常に凝った内装で雰囲気が良く、お値段も手頃。こんな穴場には落とし穴がある筈だと思うも、注文したデザートセットも美味いときたものだ。幸先のいい初外食であった。その後、映画館に行くために乗った電車内で、今年初の発作勃発。座って胸を押さえて俯いて、肩で息をしつつ目標駅まで耐え凌いだ。駅で一休みして、デパートのコスメ売り場やうちのの愛用している眼鏡屋を冷やかして映画館へ。
目当ての映画は「アイデン&ティティ」。漫画や小説が原作の実写映画で当たりだったことは本当に少ない。けれどもこれは大当たり! 観に行った最大の目的は愛しの君の出演シーン。1回目はピンで簡単なインタビューに答えており、2回目は年末に脱退したドラマーも含めてバンド全員で一瞬だけ出演。私は愛しの君を観たくて出かけたので、最初の5分で気が済んでしまった……と思いきや、どんどんストーリーに呑み込まれていった。原作と違う! と憤ること皆無。これは役者の人選が良かったことが多大に影響していると思う。出てくる主要役者全てが、原作の絵に忠実なのだ。こんな映画は珍しい。音楽の能力や演技力に拘ってのキャストとのことだが、本当はみうらじゅんの絵に似た顔を持った人を基準に集めたのでは? と思いたくなるほど似ていた。マギーが浮くことを心配するも杞憂に終わった。ディラン役はエンケン。実は映画を観る前に友人と、ディラン役はこの映画の主人公のモデルである愛しの君がやるべきではないか、と話をしていた。エンケンで正解。愛しの君では勤まらないという訳ではなく、愛しの君はリアルなバンドブームの波に乗っていた生き証人という大事な役目があり、ディラン役を演じてしまうと行き証人としての証言ができなくなる。なのでエンケンで正解。三上寛。歌は聴いたことがあったが観たことはなかった。あんなオッサンだったのか。できれば鼻歌でもよかったので、なにか歌って欲しかった。エンディングで、後日談的な「マリッジ」への繋ぎか? と思った。しかし仮に「マリッジ」を撮るならばオノ・ヨーコの許可が必要であり、果たして叶うかどうか。ディランを説き伏せたスタッフたちなら可能か。暫く田口トモロヲとみうらじゅんの動向に期待。
上記段落はなるべくストーリーに触れないようにした、観ながら持った感想。ここからは鑑賞後の感想。うちのも私も、切ないね……、という言葉を交わしつつ映画館を出た。ストーリーの構造としては、器用な=汚い大人VSモラトリアムな大人。私は日本経済社会を上手く回したいのならば、こういう映画こそ18禁指定にすべきだと思う。もし私がこれを中高生時代に観ていたら、間違いなくモラトリアムな大人に傾向し、器用な大人を軽蔑する。おまいは今もモラトリアムじゃねーか、というツッコミは甘んじて受け止めよう。私は汚い大人が嫌いだ。けれど汚さをも包括できなければ世を渡っていくのは物凄く困難であり、傷つく。それでも汚くなりたくない。傷ついても綺麗な心を残したい。青いのは承知。それでも、青は、綺麗な色だ。大杉漣演じる編集者に格別の嫌悪感を抱いた。大杉漣は好きな役者なので、役者自体・演技自体に嫌悪感を抱いた訳ではない。役柄がとにかく汚かったのだ。そしてそんな現実を私は知っている。編集者を突き動かすものは、無粋な好奇心である。去年末、「FLASH EX」という雑誌が発売された。その中の特集のひとつに、イカ天ブームのその後、といったものがあった。「アイデン&ティティ」の冒頭でインタビューに答えていた半数程のミュージシャンはイカ天出身であり且つその雑誌のインタビューにも登場していた。あんな風にインタビューされたのだろうか……そんな想像が頭を過ぎり、自分迄悔しくなって膝にかけたコートを握り締めた。器用な大人は嫌いだ。汚い大人は大嫌いだ。
ディランの台詞は全て字幕だった。全て原作に出てきていた台詞だ。ディランの台詞は原作よりもスクリーンで読む方が説得力があった。スクリーンの力なのか、音とあいまった上での力なのかは私には解らない。けれど、どの言葉にも納得をしてしまった。今、私の手元にはパンフレットがある。そこにディランの言葉も多く書かれている。紙媒体で読むと、ディランの台詞にも納得し難いものがある。奇麗事を抜かすな、と反発したくなる言葉もある。なのにスクリーンではしみじみと心に届いた。この違いは何なのだろう。近々、ディランのCDを聴きつつパンフをじっくりと読みたく思う。原作が実家に放置されっぱなしになっているのが悔しい限り。今日、原作をもう一度買おうかと思ったのだが、既に持っていると判っている本を自分で買うのは癪なのでうちのが買うのを待つとする。自称サブカル嫌いのうちの。この手の映画は好まない筈である。それでも私が強引に誘って一緒に観に行った。映画を観て、何か思うところがあったようで、誘った私としては嬉しかった。うちのと付き合って毎年正月に映画を観ている。去年迄とは違い、今年は初めて殺人が絡まない映画を観に行った。殺伐の代わりに青い気持ちを取り戻し、そして今の自分の汚さを鑑みて……じっくりいろいろ考えよう。いつか答えは見つかる筈だ。生きることは悲しいよ、生きることはさわぎだよ。
明日から1泊2日で温泉旅行。因って、明日の日記はお休み。帰宅後に何かしら書く予定。
服装/長袖カットソー→古着の半袖パフスリーブニット+白い中綿入りロングスカート+スピック&スパンのインポート物グレーのフードつきコート+ピンクのラビットファーマフラー+黒い膝丈編上げブーツ+黒系ポピーバッグ
メイク/アナスイ・ファンデーションプライマー+エスティシャドウ下地+カバマお粉+アナスイ・リキッドアイライナー02→ランコム・マジィーシル02→ランコム・ブラッシュフォーカス13→ケサランパサラン・フェイスカラー(アイブロウ専用に使用)→アナスイ・グロスルージュ(品番失念)
現在28日の朝。
鮪に中ってやや不調。エゲツナイ生き物を見てにやにや笑いの表情が張り付いてしまっている。卑しいので仕方なし。綺麗事だけで生きているとは思っていない。卑しい・厭らしい部分を覆い隠して生きているのが人間であり、他者の前でならともかく、個の場でならばその卑しさなどを隠しはしない。26日の日記に書いた、友人に教えてもらったURLの話である。いやいや、もう鮪を含めていろんなひとに天晴。何の役にも立たないことに対し、面白ければそれでよし!と労力を使ったり時間を割くのは好きな方だが、ここ迄は幾らなんでもできないし、そんな根気もない。短期集中ならともかく、数ヶ月以上もひとつのサイトやひとりの管理人を観察し続けられるその根気が凄い。そして環境を作り、あらゆる手を尽くしてネタに昇華し、ネタキャラサイトを立ち上げたり、会話のできない人間とチャットを試みたり、本当に凄い。しかし第三者にそれだけの力を使わせるだけの鮪、一年経っても飽きさせない鮪はもっと凄い。絶対に正面からは関わりたくない鮪。なのに観察を経て、正面から関わろうとした人が数人いた。そこ迄人を動かせる鮪って。もう少しオツムがあれば平成の千石イエスになれていたのではなかろうか。間違えなくて良かった、いや、足りなくて良かった。
ヒストリー全て・特別企画全般・資料保存室・FAQしかまだ読了しておらず、他のページはこれから読むのだがここ迄の印象。何度か同意見を目にしたが、やはり鮪はちょっと足りないのではなかろうか。所謂、可哀相な子、ではないかと。そして誰かが述べていたこと、ネットでは肉体的・精神的共に障害があったとしても相手にそれを理解してもらうのは難しいだろう。激しく同意する。この人アレかな? と思ってもそうでないこともあるし、普通だと思っていても会ってみるとアレなこともあるし、自称アレも掃いて捨てる程いるのがネットである。モニタの前では皆平等。アレであろうとなかろうと、けったいな生物の発見、その生態観察は悪趣味で面白い。そしてその生物が他者に迷惑をかけているならば、尚更おちょくったりしたくなるものだ。放置できてこそ大人なのかもしれないが、j3直接関わりたくなくても観察くらいはしていたい気持ちはとてもよく解る・・・る
鮪のことをここでいろいろ書くのは本意ではない。アレな子の陰口を叩きたくない、なんて気持ちは更々なく、単に長くなりそうだからであり、今頃私が思った感想などどれも激しく既出だから。j3鮪の話から自分の身近なところに話を寄せる。さっきから書いているj3、前段落最後のる。これは一般的に言うところのタイプミス、鮪流に言うところの文字化けだ。j3=まあ、る=。なのだ。鮪はかな入力者であり、焦ると英数入力設定のままかな入力をしてしまったり、シフトキーを押し忘れるのでこのようなタイプミスを発信してしまう。観察者たちは最初、j3って何? と思ったようである。私は思わなかった。昨日程、自分がかな入力であることを恥ずかしいと思った日はない。一発でj3などが何を意味しているか、解ってしまったのだ。チラッと頭を過ぎる、鮪と同類、という言葉。ローマ字入力に切り替えようかとすら思ってしまった。それくらいに嫌悪感を憶える鮪なのである。今思ったこと。鮪の存在をあのサイトで知り、あのサイトは友人から教わったURLであり、その友人とはリアルでの会話以上にメッセで会話しており……もしかして私が何度かシフトキーを押し忘れて、る、と書いてしまっての訂正を暗にからかわれたのだろうか。勘繰り過ぎは承知。しかしそんな考えが頭を過ぎる程に鮪と同類はイヤなのである。タイプミスにはくれぐれも気をつけよう。そして今迄もしたことはないがギャルゲーには今後とも手を出さず、同じくエロチャには今後とも手を出さず、同じくサイト開設にも今後とも手を出さず、人の話はきちんと聞き、余りにも美味しい話は疑ってかかろう。話の途中でのタイマーもなくし、人様にいきなり大きなファイルを送ることもせず、人様にいきなり抱きつきもせず、ネット・ストークもせず、会ったことがない人間へのプロポーズもせず……などと書いているとまるで今迄していたかのようだが、当然こんなことは一度もしたことはない。それでも、今後ともやらないように、と固くサバスに誓わせられる程のインパクトがあった。鮪の真逆の言動をしていれば、とてもまともな人間になれそうである。私の親以上に反面教師に最適な人材がこの世にいるとは思っていなかった。
可哀相な子かもしれない鮪の叩きは美味である。悪趣味だが美味なのはしょうがない・・・わさびだ。と書きたくなってしまうくらいに魅了される。河豚の肝のようなものか。食べたことないけど。鮪はアレだとほぼ確信していてもこんなことを書くと性善説採用者に叩かれそうだけれど、私は性善説を採らない者なので気にしない。私がアレだと確信したのは、あのサイトのトップページの注意書きに、サイトの存在に対して鮪が許可をしている、と書いてあったからだ。鈍い人間というのはどこにでもいる。けれど、その鈍さも度を越せばアレだと思ってしまう。多少の鈍さは自己防衛に必要だとは思う。それでも自身の恥を晒すサイトの存在を許可する鈍さは半端ではない。しかも自身が成長し過去の自身を自嘲するような目的があるのではなく、どう考えてもサイトの趣旨・意義が理解できていないとしか思えない。因ってアレ、脳内独断確定。私の親とは対極のベクトルでの反面教師に認定。世の中はこんなにも広いものなのか。ネカマに騙されてチャットで抜いたことが全国・全世界の人に知られても平気な人間がいるとは。しかも自称中学生のネカマ。しかも抜いたらタイマーが作動して落ちる。しかも内容が童貞丸出し。素人童貞という説が強いが、私は玄人も知らない童貞ではないかと疑っている。玄人でも知っていたらあんなに稚拙ではなかろうて。アレだから全て仕方がないのか。アレであることはこんなにも悲惨なことなのか。なぎら健壱の悲惨な戦いを思い出させられた戦記だった。
鮪に中ってやや不調。エゲツナイ生き物を見てにやにや笑いの表情が張り付いてしまっている。卑しいので仕方なし。綺麗事だけで生きているとは思っていない。卑しい・厭らしい部分を覆い隠して生きているのが人間であり、他者の前でならともかく、個の場でならばその卑しさなどを隠しはしない。26日の日記に書いた、友人に教えてもらったURLの話である。いやいや、もう鮪を含めていろんなひとに天晴。何の役にも立たないことに対し、面白ければそれでよし!と労力を使ったり時間を割くのは好きな方だが、ここ迄は幾らなんでもできないし、そんな根気もない。短期集中ならともかく、数ヶ月以上もひとつのサイトやひとりの管理人を観察し続けられるその根気が凄い。そして環境を作り、あらゆる手を尽くしてネタに昇華し、ネタキャラサイトを立ち上げたり、会話のできない人間とチャットを試みたり、本当に凄い。しかし第三者にそれだけの力を使わせるだけの鮪、一年経っても飽きさせない鮪はもっと凄い。絶対に正面からは関わりたくない鮪。なのに観察を経て、正面から関わろうとした人が数人いた。そこ迄人を動かせる鮪って。もう少しオツムがあれば平成の千石イエスになれていたのではなかろうか。間違えなくて良かった、いや、足りなくて良かった。
ヒストリー全て・特別企画全般・資料保存室・FAQしかまだ読了しておらず、他のページはこれから読むのだがここ迄の印象。何度か同意見を目にしたが、やはり鮪はちょっと足りないのではなかろうか。所謂、可哀相な子、ではないかと。そして誰かが述べていたこと、ネットでは肉体的・精神的共に障害があったとしても相手にそれを理解してもらうのは難しいだろう。激しく同意する。この人アレかな? と思ってもそうでないこともあるし、普通だと思っていても会ってみるとアレなこともあるし、自称アレも掃いて捨てる程いるのがネットである。モニタの前では皆平等。アレであろうとなかろうと、けったいな生物の発見、その生態観察は悪趣味で面白い。そしてその生物が他者に迷惑をかけているならば、尚更おちょくったりしたくなるものだ。放置できてこそ大人なのかもしれないが、j3直接関わりたくなくても観察くらいはしていたい気持ちはとてもよく解る・・・る
鮪のことをここでいろいろ書くのは本意ではない。アレな子の陰口を叩きたくない、なんて気持ちは更々なく、単に長くなりそうだからであり、今頃私が思った感想などどれも激しく既出だから。j3鮪の話から自分の身近なところに話を寄せる。さっきから書いているj3、前段落最後のる。これは一般的に言うところのタイプミス、鮪流に言うところの文字化けだ。j3=まあ、る=。なのだ。鮪はかな入力者であり、焦ると英数入力設定のままかな入力をしてしまったり、シフトキーを押し忘れるのでこのようなタイプミスを発信してしまう。観察者たちは最初、j3って何? と思ったようである。私は思わなかった。昨日程、自分がかな入力であることを恥ずかしいと思った日はない。一発でj3などが何を意味しているか、解ってしまったのだ。チラッと頭を過ぎる、鮪と同類、という言葉。ローマ字入力に切り替えようかとすら思ってしまった。それくらいに嫌悪感を憶える鮪なのである。今思ったこと。鮪の存在をあのサイトで知り、あのサイトは友人から教わったURLであり、その友人とはリアルでの会話以上にメッセで会話しており……もしかして私が何度かシフトキーを押し忘れて、る、と書いてしまっての訂正を暗にからかわれたのだろうか。勘繰り過ぎは承知。しかしそんな考えが頭を過ぎる程に鮪と同類はイヤなのである。タイプミスにはくれぐれも気をつけよう。そして今迄もしたことはないがギャルゲーには今後とも手を出さず、同じくエロチャには今後とも手を出さず、同じくサイト開設にも今後とも手を出さず、人の話はきちんと聞き、余りにも美味しい話は疑ってかかろう。話の途中でのタイマーもなくし、人様にいきなり大きなファイルを送ることもせず、人様にいきなり抱きつきもせず、ネット・ストークもせず、会ったことがない人間へのプロポーズもせず……などと書いているとまるで今迄していたかのようだが、当然こんなことは一度もしたことはない。それでも、今後ともやらないように、と固くサバスに誓わせられる程のインパクトがあった。鮪の真逆の言動をしていれば、とてもまともな人間になれそうである。私の親以上に反面教師に最適な人材がこの世にいるとは思っていなかった。
可哀相な子かもしれない鮪の叩きは美味である。悪趣味だが美味なのはしょうがない・・・わさびだ。と書きたくなってしまうくらいに魅了される。河豚の肝のようなものか。食べたことないけど。鮪はアレだとほぼ確信していてもこんなことを書くと性善説採用者に叩かれそうだけれど、私は性善説を採らない者なので気にしない。私がアレだと確信したのは、あのサイトのトップページの注意書きに、サイトの存在に対して鮪が許可をしている、と書いてあったからだ。鈍い人間というのはどこにでもいる。けれど、その鈍さも度を越せばアレだと思ってしまう。多少の鈍さは自己防衛に必要だとは思う。それでも自身の恥を晒すサイトの存在を許可する鈍さは半端ではない。しかも自身が成長し過去の自身を自嘲するような目的があるのではなく、どう考えてもサイトの趣旨・意義が理解できていないとしか思えない。因ってアレ、脳内独断確定。私の親とは対極のベクトルでの反面教師に認定。世の中はこんなにも広いものなのか。ネカマに騙されてチャットで抜いたことが全国・全世界の人に知られても平気な人間がいるとは。しかも自称中学生のネカマ。しかも抜いたらタイマーが作動して落ちる。しかも内容が童貞丸出し。素人童貞という説が強いが、私は玄人も知らない童貞ではないかと疑っている。玄人でも知っていたらあんなに稚拙ではなかろうて。アレだから全て仕方がないのか。アレであることはこんなにも悲惨なことなのか。なぎら健壱の悲惨な戦いを思い出させられた戦記だった。
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