現在6月6日。

 一昨日の夜にうちのが禁煙実行開始。私の煙草を気にして少し苛々していた。昼前にうちのと共に家を出て、うちのは髪を切りに、私は病院に。睡眠リズムは改善されつつあるけれど日中がとてもだるい、と話し、前回の処方を活かしつつパキシルを戻してもらい、ソラは戻さない代わりにメイラックスを追加。これで少しは改善されるかな? パキシルを切られていた間もだるくて堪らない日はストックを飲んで凌いでいたから変わらないか? 診察後にうちのと合流。昼食は気を遣って全席禁煙のラーメン屋へ。満席に近い混みようだと注文した物が出てくるのに多少時間がかかるのは仕方がなかろうも、うちのは、遅いなあ!、を連発。通常なら、まあ混んでるから仕方ないやね、と流せる程度の時間しか経っていないのに。何かがおかしい。注文した物が出されて美味しく食べて、ぶらぶらとお洋服屋や小物屋を冷やかし、途中でうちのが仕事用のシャツを2枚購入し、本屋へ。砂・南Q太・安彦麻理絵の最新刊をそれぞれ購入。それから無印良品でうちのが興味を持っていた食材を購入し、帰宅前に喫茶店に入った。注文して5分経つか経たないかのうちに再びうちのが、遅いなあ! と言い出した。煩い。そして煙草を吸う私に、煙い煙い! と。灰皿を自分の方に限りなく近づけ、極力うちのに煙がかからないように気をつけていたのに。きっと私が喫煙するのが悪いのではない。うちのが悪いのだ。禁煙は開始3日〜1週間が最もキツい期間らしい。それはそうかもしれないが、私には知ったこっちゃなし。吸いたいのに吸えない苛々を選んだのは、うちの自身だ。私は一言も禁煙してくれなんて頼んでいない。なのに何でこんなにあたられなければならないのか。禁煙者ではなく嫌煙者のように苛々したうちのを見ているとつらくなった。そして私は、とても窮屈な居心地だった。

 帰宅後、珈琲を飲んでいたうちのがいつの間にか寝てしまった。ヨガのレッスンに行く用意をして出発5分前に起こすと、だるくてダメ、ひとりで行っといで。眠かった私は便乗してヨガを休んで昼寝。ふとんにごろりと横たわって買ってきた3冊を読破。安彦麻理絵は良い意味でも悪い意味でも相変わらず。南Q太の「トラや」は連載を飛ばし飛ばし読んでいたもので、これは南Q太作品の中で1番好き。読んでいる最中はほのぼの、読後感は爽やか。いい人しか出てこない内容でも嫌味がなく、私はきっと飽きることなくこの漫画を愛し続けられそうな気がする。そして待望の第2作品集がいつの間にか刊行されていた砂。上手いのだけれど、安定感のない絵だ。上手いと言っても好みの絵柄ではないのだが。内容は……実験性は高まっているが、思想性に於いてパワーダウンの感を否めない。この作者のテーマは一貫して、搾取されない女性性である。テーマそのものは変わっていないけれど、日和が見える。自分の得意なパターンと読者サービスと思しきエロが鼻についた。エロはエロで一向に構わない。しかしそこで思想性を前面に出して男性に、コレで抜いたら負け、と思わせるようなアピールが減った気がする。減ったことでエロ漫画好きの層には受け入れ易くなったかもしれないけれど、私には物足りなくなってしまった。搾取される女性性とセックスシーンが一篇の中で分けられているのだ。「フェミニズム・セックスマシーン」ではエロシーンに強烈に思想性が入り込んでいたのが魅力だったのに、「サイバーポルノ」では……。商業性を高めようとしているのだろうか。質としては相変わらず高いが、前作と比較するとやはり劣る。のんびりと次回作品集の刊行を待とう。

 女性性は昔から東西を問わず、男性性に搾取されるものだった。うちのがシャツを購入した際に、私は何か手頃な値段で気に入る物があれば便乗しようと考えていた。この便乗とは子供がよくやるような、買い物主体者がレジで会計をするときにサッと自分の欲しい物を出してその場を離れて、というアレだ。帰り道に便乗できなかったのが残念だった、とチラッと話したら、うちのが文句を言ってきた。ので、かつて女性性は搾取される存在でしかなく、現代になってジェンダー・フリーの声が高まり、女性性を利用して男性から搾取することが可能になりつつあり、云々と田嶋某のような強引な理論をぶってみたところ、うちのが予想外の反応を見せてきた。反論してくるかと思いきや、拗ねてしまったのだ。どうせ俺は高卒だしジェンダーなんて難しい言葉は解りませんよ、大卒さんは凄いですね、何でも知っていますね、今あんたが働かずに暮らしているのも過去の女性性のなんちゃらかんちゃらですか、いやあ大卒の考える高尚なことは俺には解らん、と。女性性・男性性・ジェンダーについて私は最低限の知識しか持ち得ていない。その最低限の知識の中でちょっとした言葉遊びがしたかっただけなのに、まさか拗ねられてしまうとは。ついでに私の最終学歴は大卒だなんて言うのも憚られる学校である。バリバリ仕事をして、年齢の平均収入を上回るうちのに、学歴コンプレックスがあったとは驚きだった。普段はそんなコンプレックスを見せてこない人間なのだ。参った。私が悪かった。私は呉智英の潔い学歴至上主義を大半の部分で支持している。大半から漏れている支持できない部分は、学歴至上主義者には言うも恥ずかしい最終学歴の持ち主である自分の心に巣食うコンプレックスだ。アッシー・メッシー・貢クンなどという言葉がかなり前に流行した。女性が力を持ち始めたなどという論調もあった。アッシー・メッシー・貢クンの行動は女性の買い物に絡め取られて目につき易い。因って、買い物の便乗について話すときにジェンダー論を出しただけなのだ。私には言葉遊びでしかなかったのだ。言葉の主体は受け手にある。某巨大掲示板某板や某板の数スレに名言が残されている。悪気なく悪いことを言うのは悪い人。悪気なくものを言う人は善悪の区別がつかない危険人物。極論ではあるが、正しい。そして言葉遊びがしたかっただけの私の発言が、うちののコンプレックスを刺激したなら、私が悪い。この程度でコンプレックスを刺激されるなんて軟だ、なんて言うのは傲慢極まりない。誰しもデリケートな部分は持っており、何時なんどきそこを他者に突かれるかは解らない。防御できない者は弱者ではあるけれど、敗者ではない。言葉にしろ力にしろ、問題は暴力を振るう側にある。吉田秋生に同意する。
 世の中には区別の難しいものが沢山ある。そしてそれらの根底は真逆だったりするので、正しく判断できるかどうかで判断者の底が見えたりする。例えば、性格に於ける、大らかさとプライドのなさ、など。どれも前者は良い意味であり、後者は悪い意味と受け取られる単語だ。30年間弱生きてきて、私なりに他者を判断する為の基軸となるキーワードは、プライド、である。或る者は私のことを、プライド高き人間、と言い或る者は、プライドがない奴、と言う。他者からの評価が分かれるのは、私がときに鼻持ちならん態度を取り、ときに媚び諂う態度を取るからではない。以前、莫迦と利巧の見分け方として、プライドが多い人間程莫迦だ、と書いたと思う。これは自身が他者にどう見られるかを現すと同時に、自身による他者を見る目のテストでもある。判断を誤ると自身よりも低く見た他者より低い位置に自身を置くことになり、非常に恥ずかしい。しかもその恥ずかしさに自身では気付かないので、他者の腹の中で笑われる羽目になる。そして他者は腹の中を見せないので、自身は尚一層井の中の蛙となる。これはこれで、蛙は幸せだろう。蛙の分際で人間様気取りの者は少なくない。むしろ多数派かもしれない。この問題は実に難しく、誰も明瞭な答えが見出せないものであろう。因って自分が人間か蛙か、誰も教えてはくれないし答えを見つけることはできない。妥協が必要な命題であり、そんな命題を人は避けて通りたがるものである。

 日本人が多用する言葉のひとつに、済みません、がよく挙げられる。挨拶程度にも謝罪にも使える便利な言葉だ。腰の低さと強情であることの区別も難しい。やたらと、済みません、を使う人間は腰が低く見られると同時に、プライドも低い人間だと思われがちである。ところが正反対の考え方も成り立つ。自分にとってどうでもいいことだからこそ簡単に、済みません、と言ってしまえるのではないか。済みません多発者には両者が混在しており、早々に判断できない。私は、済みません、という言葉が嫌いである。上記のように便利であると同時に曖昧な言葉だからだ。嫌いだけれど、全く使わない訳ではない。私がこの言葉を使うときは、軽い謝罪やお礼を伝えたいときである。例えば電話をする。その電話を取った者に自分が話したい相手に繋いでもらうとき、済みません、と言う。お手数をおかけしてごめんなさいね、を略しての、済みません。挨拶代わりでの、済みません。心からの感謝の意を表したいときは、有難う。お礼の意味で、済みません、を使う者を否定はしないけれど、語彙が貧困なようには思ってしまう。自分が他者に対して心から悪いと思ったときには、ごめんなさい、と言う。ごめんなさい、の方が私にとっては、済みません、よりも遥かに重責を負う言葉なのだ。だからそう簡単に、ごめんなさい、は使えない。特に自身が納得行かないのに謝罪しなければならないとき。私は、済みませんでした、と言う。ごめんなさい、も、申し訳ありません、も使うことはない。そもそも納得が行かないのに誤らなければならない状況でも、私は謝って済まそうとは、まずしなかった。自身の持つ正論で相手を論破しようとしていた。最近はちょっと変化してきている。私の立場では私が正しい、貴方の立場では貴方が正しい。ボブ・ディランは正しい。

 済みません、が自身に対して多発されることで、黒猫はプライドが低い奴だ、と判断する者もいる。その判断を露にした態度で私に接する者を見ると、爽快な気分になる。これは、してやったり、といった腹黒い気持ちからではなく、井の中は狭くて気持ちいいのだろうな、とのある種の羨望だ。私は蛙が羨ましいのだ。自身は蛙に非ず、とは思っていない。きっと蛙だろう。しかし蛙である自分に満足ができないのである。人間になるのはきっと大変な労苦を要する。その労苦をクリアできて初めて、自身は人間である、と胸を張って言えるのだろう。私が羨望して止まない蛙は、蛙なのに人間として胸をはれているからに他ならない。自身の器を、自身の核を大っぴらに他者に見せるのは恥ずかしいことだと知っている。「さくらん」のきよ葉は、こんなことを言っていた。ない物をあるように見せるよりも、ある物をないように見せる方が粋だ、と。赤貧なのに見栄を張って借金をして他者に何かを奢る者がいる。ちっとも粋ではない。これと同じことが文章にも言える。自身の持つ知識を全てひけらかすような文章を綴るのは粋ではない。却ってその努力の跡が読む者を切なくさせる。10ある知識の4程度を用いて文章を書き、行間から残りの6を感じさせられるような文章を書きたいと、私は常々思っている。まだまだ修行が必要だ。

 豪華一点主義、というものがある。よく挙げられる例として、若い子が持つ高価なブランドのバッグや財布がある。渋谷109で固めたような恰好なのに、不釣合いなヴィトンのバッグを持っていたりするアレだ。この豪華一点主義はひとつも粋ではない。私の財力ではこれが限界、と触れて歩いているようなものだ。センスの問題である。チープそうな恰好をしていつつもそこに品があれば高価ブランドバッグも浮いては見えないし、逆に財力がありつつもそこにだけ価値を忍ばせる清貧な人に見える。赤貧と清貧は一文字違いで天地の差がある。答えを書くと、私は人間を目指す蛙であり、私のプライドは高い。蛙なりに身の程を知り、人間を目指す蛙に相応しいだけの粋さを持っていたいと思っている。清貧が美徳とも思わなければ、憧れもしない。ただ、赤貧なのにさも多くのものを持っているかのような振舞いだけは避けるべきだと考えている。粋でありたい。蛙の粋のあり方は身の程を知ることだ。だから私は駄文をここで書き散らす。ここの文章に持ち得る知識の全ては絶対に書かない。書いていない。こう言い張る。本当はどうなのか。それは他者に知らせるべきことではない。全ては書かない、と言い張ることが蛙の身の程を知った粋であり、プライドであると私は信じている。尤も、真に粋な者はこんな日記をネット媒体で書いたりはしないだろう。この辺が蛙故の莫迦さである。
 昨日、母親と電話で話した。私の名前について。親子関係云々はさて置いて、どうしてああも仕事運を重視した命名候補が挙がっていたのか。それは誰の意思だったのか。回答。あの命名候補は伯母の意思で挙げられた候補だったらしい。そして父母らは別にいろいろな名前を考えていたらしい。そちらは記録保存なし。親曰く、仕事運について重視した名前ではなく強運を持ち合わせた名前が候補として挙げられた、とのこと。そしていろいろ考えていたけれど、実の父親は伯母に渡された候補一覧を見て、G(先日の日記参照)に閃きを感じたとかでこの名前がつけられたとか。言葉を柔らかくしつつ、もっとこう幸せにとかって願いを込めた名前が欲しかったんだけど、そういうのよりも運が重視されたってことなの? その後の親の返事にちょっとしたカルチャー・ショックを与えられた。運がなければ幸せにもなれないでしょう? 例えば優しい子にって願いを込めて、優子、とつけても優しいだけじゃ世の中を渡っていけないでしょう? でも運が強いってことは、全てを含めているってことじゃない? ふむ。そういう考え方もあるか。要するに、様々な願いを込めに込めて、やはり運がなければどうにもならないという結論に達して、この名前になったらしい。しかし親が、運、などと不確かなものに願いを託していたとは驚いた。親は、でも運だけでなく努力も必要だけど、と付け加えてはいたが。この由来を覚えていた親は、私の進学と就職の際に、やはりこの子は強運の持ち主なのだなあ、と思っていたらしい。高学歴とされる学校には進めなかったし、一流とは言えない会社に就職することにはなったものの、碌すっぽ勉強もしていないのに平均レベルの学校・職場にストレートで進めたから。尤もその後の仕事運はぐだぐだな訳だが。

 この命名候補の紙、親は私が22〜23歳で結婚するときに渡そうと思っていたようだ。その頃は結婚どころではなくヤリまくっていた時期だ……。そしていつになったらその機会が来ることやら、と伺っていたけれど、挙句親が反対する相手との結婚がほぼ確定となり先日渡してくれるに至ったらしい。この話が出て、うちのの親姉妹にも結婚を反対されているようだ、と少しだけ話した。親曰く、うちの(仮名)とあんたの結婚には今もやっぱり反対、だから結婚するとしてもこちらから何もする気はない、それでもあんたは私の子には変わりないんだからあんた個人とは付き合いを続けたい、と。願わくば、うちのの親姉妹とうちのの距離もこのようになってくれればいいのだが。どちらの親も別の意味でちょっと面倒な親であり、うちのも私もお互いの親には極力関わりたくないと思っている。そしてこのような関係が築ければ、世で言う嫁姑婿舅ごちゃごちゃの問題は避けられるであろう。反対されることでいいこともありそうな気がしている昨今である。

 名前という記号の話に戻して。名前とは記号である。その記号で他者との識別を図る。記号は記号でしかない。黒柳徹子の著書で昔読んだ一文が印象に残っている。読んだのが昔なので原文ままではないけれど、彼女が芸名を考えようと思っていたときに他者に言われた言葉。貴女の名前が□△○×子でも、貴女がちゃんと仕事をしていれば覚えてくれる人はちゃんと覚えてくれる。名前なんて記号でしかない、という話の極論だ。そしてそれは正しい。他者との識別さえできれば、名前という記号は充分に役割を果たしていることになる。が。現実に生きている者としては、そこに自分がこの世に存在したときに願った親の気持ちが入っている。記号に意味を見出すことはくだらないことなのだろうか。机は机、椅子は椅子。この命名の由来を辿るのは簡単ではない。だから大抵の人はあるがままの記号として受け入れる。それに比べて自分の名前の由来を辿るのは簡単である。簡単故に辿りたくなるのか。それに辿った末に見つけられた意味と、その名前を名乗りつつ生きている自分に直結した、何か、は見出せるのか。見出せまい。精々、名前に込められた願い通りの人間になっているか、そうではないと解るだけか、だ。作家によっては、作品の登場人物にストーリーに関わる何かしらの暗示を込めた名前をつける。私の卒論でも取扱った。極端なことを言えば、小説の中の登場人物などA、B、C……と書かれていても大して問題はない。それでも作者は名前をつける。名前という概念が根付いた世の中に生きる人間にリアリティを持たせる為だけではない。私が卒論で扱った小説は、名前、という概念に疑問を呈するものだった。それでも違和感と矛盾を含有しつつ名前の存在はあった。名前という記号の意味。その答えを私はまだ見つけられてはいない。

 うちのの名前は苗字と絡めた駄洒落のような、とても前向きな名前である。しかし一時期は裏街道まっしぐら。私の名前も前向きな名前。それでも私のだらしない性分と相俟って、名は体を現すだね〜としょうもない洒落のように思われ易い。お互いに親の期待を裏切りまくってこの人生を生きている。昨日ふたりでそんな話をしつつ笑った。そして私の中で、やはり名前は記号でしかない、との思いを強くした。同姓の人間は沢山いる。同名の人間も少ないかもしれないけれどいるだろう。偶然にも同姓同名の人と出会ったとき、記号は記号としての役割をちゃんと果たせるだろうか。果たせまい。名前もメタなのだ。また私の名前は字を間違えられ易い。以前の苗字も間違えられ易い字だった。一字違うだけならまだしも、4つの漢字のうちの2字を間違えられてしまうと、既にその表記された名前は、私を表す記号としての役割は担えない、と考える。記号とはときとしてアイデンティティとも深く関わる。だから私は人名表記の間違いには過敏になる。当然のことだと思っている。けれど世の中には人の名前を軽々しく扱う者もいる。その手の者は他者を尊重できない、もっと言えば他者の尊厳を軽々しく踏み躙る者、と私は考えている。そんな権利は誰にもない。たかが記号、されど記号。人名程、そのものが主張をする記号はないのではなかろうか。何故、記号がこうも主張をするのか。これからも私が追い続けるテーマだろう。

BGM/「Black Sabbath」「N.I.B」「Paranoid」など
 現在3月30日。

 私はなんで、黒猫(仮名)、って名前なの? 私の名前は漢字で2文字、読みが2音である。子供の頃に聞いた私の名前の由来は、仮名に例えて説明すると、黒い猫だから黒猫なんだよ、というものだった。その実態は28日付の日記に書いたように、仕事運と親子関係に於いて良い数意を持っていたから、だった。まだ子供の頃に説明されていた由来の方が、願いが込められているように感じられる。数意ってなんだ。くだらん。実にくだらん。しかも全く現状に沿っていないところが噴飯物。余談だが、うちのと入籍するとまた私は苗字が変わる。すると姓名判断的には今より更に運勢が下降するらしい。ネットのいろんなサイトで占ってみたが、何処でも必ず運勢下降との結果が出た。このことを日曜に親に笑い話としてしたら、親は既に知っていた。どうやら何処かで姓名判断を既にしていたらしい。そして、やっぱり結婚はどうかと……、というようなことを言い出そうとしたのでしょうもない話で遮った。姓名判断が本当に中るのなら、今頃私は家の一軒も建てていそうだ。少なくともメンヘルのヒキにはなっていなかろう。いっそあらゆる占いで良くないとされる苗字になった方が運勢が上昇したりして、などとひねくれたことを考えたりもしてしまう。そもそも私は占いが嫌いだ。会話のきっかけ程度にしか思っていない。いや、会話のきっかけに占いを用いる人間を莫迦だとすら思う。この考えでホステス時代にどれだけ客に顰蹙を買ったことか……話が逸れた。

 世の中にはいろんな占いがある。暇潰しにしかならないと思っているし、一喜一憂の一因にすらならない。例えば星占い。一時期13星座占いなるものが流行った。そしてすぐに廃れて12星座占いに落ち着いている。血液型占いというものもある。ABO型しか私は知らない。この一般的と思われる12星座と4つの血液型を混ぜた占いを使ったところで、世の中の人間が皆48のどれかのパターンに当て嵌まろう筈がない。四柱推命然り、姓名判断然り。人間の運勢やら将来やらを既に用意された数字を含めて何かしらの、パターン、に当て嵌めようとすること自体に無理がある。例えば。天涯孤独で波乱万丈の人生を送っている、あらゆる占いに於いて悪い運勢を示される貧乏人がいたとする。当人をよく知らない人がその人を見たら、占い通りだわ、となるだろう。しかしその人の気持ちとしては、家族はないしいろいろあるし貧乏だけど雨風を凌げて食うに困らないんだから自分は幸せだ、かも知れない。起きて半畳寝て一畳、一汁一菜で幸せだと感じる人間だって確実にいる。己の尺度で他者の不幸や幸福を量るのは驕りだ。

 因って誰の意思かは知らないけれど、仕事運と親子関係に重きを置いてつけられた私の名前を、私自身は有難く感じない。私が最も欲しているのは昔から、平穏、であり、仕事や親子関係などは二の次なのだ。名前に囚われずに自分の道は自分で切り拓いていくしかない。そんなことは百も承知。けれど、他者から名前を呼ばれるたびに、何かに名前を書くたびに、名前は私に付き纏う。そして重く圧し掛かる。嫌いな伯母が候補を挙げた名前。望まない願いを数字に託されてつけられた名前。従妹の字面も響きも良く、親の願いが込められた名前。いや、比較してはいけない。いけないのだが……何かが腑に落ちない。この、何か、を私は上手く説明できない。何なのだろう。妬みや嫉みか。私の持つ、記号、への拘りか。自分の道は自分で。名は体を現す。どちらも正しく感じる。名が体を現していないことの、または体が名に追いついていないことへのもどかしさか。これも違う気がする。単に、もっと私が重視している幸福についての願いを込めて欲しかった、という届かぬ願いか。不幸なことに子供は名前を選べない。誰しも成人したら自分で好きな名前をつけていい、という制度が生まれればいいのにと切に思う。けれどそんな制度は生まれない。役所が面倒だからか、周囲が混乱するからか、それとも他者の殆どは改名の必要を感じていないからか。きっと最後が正解。けれど親の呪縛から逃れたい者にとって、名前の存在は余りに重い。改名によって身軽になれる人間も決して少なくないと想像している。

 だから私はネットという架空空間で仮想現実でHNを使って日記をつけている。ここでは私は身軽になれる。付き纏う記号から離れた場所で、黒猫という人間らしくない名前を名乗って、最早人間として存在していたいという気持ちすらも捨て去って好き勝手なことを書き綴る。苗字もつけない。苗字には家が圧し掛かる。ネットの世界では苗字をつけたところで家もへったくれもないけれど、それでも黒猫という2文字だけで自身を現すことに、とてつもない開放感を得られる。親の結婚に賛成したのは、父親の持っていた苗字の字面と響きが気に入ったから。あの頃私は若かった。その苗字の後ろにくっついてくる、家、の存在を全く考えていなかった。父親の両親は私を可愛がってくれ、持ち家を将来私にあげたい、と言ってきたことがある。勘弁願いたい。家なんぞ要らん。苗字も名前も、私へ地に足をつけることを要求してくる。私は宙ぶらりんでいたい。モラトリアムで結構。足をつけたくない地に、柵で強制的に縛り付けられるのは御免だ。私は私が足をつけたい地を選びたい。柵は全て断ち切りたい。家も要らない。墓も要らない。うちのと小動物らが私の傍にいてくれれば充分だ。傍にいてくれることで私は支えられて、友人知人を含む他者と接することができる。恐る恐るながらも外界に触れられる。親や親戚とは柵なしには接することができない。しかもその柵は、友人知人らと違い自分で選んで築いた柵ではないところが厄介だ。一個人として考えるなら、親も親戚も、決して進んで仲良くなりたいと思える性格の持ち主らではない。逆に苦手な性格の持ち主らだ。なのに親子だから、親戚だから、〜〜だから。鬱陶しいことこの上ない。私は私。他者は他者。本来なら母体から脱した時点で、百歩譲って成人したら親も他者。その感覚を麻痺させるものこそが、苗字と名前の存在ではなかろうか。

BGM/アルバム「無限の住人」
 現在3月30日。

 日曜は実家の近く迄赴き、両親と会ってきた。名目は父親からのホワイトデイのお返しもらい。もらったのはその日開催されていたフリーマーケットでの買い物代。有難く頂戴した。フリマで久々に衣類大量購入。また要る服・要らない服を選別しなくては。掘り出し物は木製椅子。今、うちにある椅子はひとつはバランスが悪く、ひとつは壊れかかっている。壊れかかっている方を処分して、購入した椅子を代わりにする予定。予定、なのは椅子が重かった為に実家に預け、近々うちの近所迄車で持ってきてもらって受け取ることになっているから。その後、昼食を摂り、駅ビルをうろついてお茶を飲み、帰宅。両親は私に、うちに寄っていかないのか? 泊まっていかないのか? としきりに訊いてきたがスルー。懐柔されるのは御免だ。私はあくまで距離を置いてでしか付き合いたくない。私はすっかり忘れていたのだけれど、この日の数日前は両親が入籍した日だった。おめでとう、と言うと親は、あなたが今の苗字になった日でもあるのよ、と。確かにそうである。そして私が両親の結婚に賛成したのは、その前の苗字が余り好きではなく、今の父親が持っていた苗字の響きが気に入ったからだ。でも。はあ……、でも去年サインした養子縁組解消届はどうなっているんだ? 突付くとまたややこしいことになりそうなので、あーそうだね、と軽く受け流す。そして当時親が何度も私に言っていた言葉、結婚に反対だったらいつでも言って、あんたが反対ならやめるから。結婚式の直前、1度だけ反対の意を示した。父親の言動に無遠慮な部分を感じたことがきっかけだった。そのときの親の言葉を思い出す。今更何言ってるのよ。私は引き下がった。思い出してもちょっとしたストレス。距離を置く、というスタンスだけは崩さないようにあれからも親と接してはいる。しかし時折、あの絶縁騒動は何だったのか、と考える。

 今回親元に行った私の理由は、ホワイトデイのお返し受取ではない。親が保管していた、私が生まれたときに考えられた名前の候補一覧をもらう為だった。長いときを経て、その候補名と名付けの理由が綴られた紙は変色していた上、ぼろぼろになっていた。字が親のものではなかった。訊けば、私の名を考えたのは伯母であり、その中から実の父親が選んだと言う。因みに私はその伯母が大嫌いである。この候補一覧に、親自身が考えた名前は入っていない。それで良かったのか。子供の頃、本当は別につけたい名前があったと聞いた。その名前は今、私の従妹につけられている。従妹の名を口にするときに、何となく悔しさを覚えるのは何故だろう。従妹の名が特に欲しかった訳ではない。ただ、彼女の名は彼女の親が考え、彼女への両親の想いが詰まっていることを知っているからか。私の名前は、伯母が姓名判断に基づいて候補を挙げ、そこから実の父親が選んだ名前……。

 私の名前の候補は、今の名前を含めて7つあった。以下、本文まま引用。ところどころ達筆過ぎて読めない字があったので脳内補完。
A/女子名として最高です。科学、文学、教育者として最もよく家庭運強く福をもつよい名前です。只、親子の関係から見るといろんな災難にあい易い。
B/目的達成に向って成功しますが時として気持だけが先走って苦労する事もあります。家庭的にはよいですが矢張親子の関係からすると混迷してなかなか脱却出来ず苦労します。
C/頭領運をもち、事業家として必ず成功します。それ丈に女子名として見た場合には強すぎて家庭的には恵まれにくい。親子関係から見ればとてもよい数意を持っています。
D/起伏の激しい人生ですが財運には恵まれます。が病弱、孤独になりがちで努力してもなかなか報われません、親子関係も余り感心しません。
E/自分が努力する割には恵まれず辛苦しますが、親子関係から見るととてもよく事業などでは成功し、結婚してからだんだんよくなって来ます。
F/チャンスを生かせば驚く程時運に乗って成功する、又中心的人物として運がつよく、家庭的にも恵まれ、結婚して尚よく子供にも家族にも恵れてますます繁栄し内助の功よく事業をおこしても必ず大成します。地より天にのぼる数意で実によい。親が疎い仕事をしても必ず成功します。
G/命名として実によい数意をもち頭領運をもって人をリードしていきます。分野を選ばずとも出世して大成します。親子関係から見てもFと同じ様な強い運をもっていて誰から見てもまことに好ましい力強い関係です。
 以下、伯母の総評。同じく本文まま。
名前は私の考えでは姓と名が必ず一体とならなければせっかく良い名前でもそれ丈の力が発揮出来ないと思います、矢張お宅では、大地を踏みしめて展(ひろ)く発展してほしいものです。又必ずそこにはいわれ起源があるものですからそれを大切にしてほしいと思います。従って私は上記の2つ(黒猫註/FとGのこと)の名を推薦します。しかし、女子は結婚すれば姓が変る事が多いですから少々悪くてもそれは絶対ではないと思います。

 ざっと見たところ、仕事運と親子関係について述べられた部分が多く目についた。これは私の実の父親が事業をしていたことに関係するのだろうか。そして父親も母親も子供と非常に仲良くしたかったのだろうか。と、推測できる。この2点を重視して伯母のツテで誰かに姓名判断をしてもらったのでは、と思われる。私につけられた名前はGだ。今の苗字は親の離婚再婚を経て3つ目。それを差し引いても、大成もしていなければ親子関係も最悪に近い形になっている。姓名判断なんぞひとつも当てにならないことが身を持って立証できている。占い云々はともかく、今の私の現状は嬉しいものではないけれど。それにしても。親子関係について親が希望を持つのはまあいいとしよう。だが、仕事運を重視されていたのは納得がいかない。勿論、仕事運も良いに越したことはなかろうが、それよりも大切な願いはなかったのか。幸せな人生を。笑って過ごせる人生を。そんな願いを込めて欲しかった。数意はどうあれ、現実がどうあれ、そんな願いを込めてつけられた名前が、私は欲しかった。
 絶縁後も家訓であった、クレジットカードは所持しない、を私は守っている。クレジットカードを使用しての買い物は借金なのにその感覚が薄れてドツボに嵌る。嵌らない人も多くいるのは承知だが、私は漏れなく嵌る。それを危惧して及び実の父の借金癖での苦労を踏まえて考えた、親が作った家訓だ。親はアレでもこの家訓は尤もだと思っている。うちのはクレジットカードを持っている。訊けば、プロバイダ加入にあたり作った、とか。それは一向に構わないのだけれど、最近一緒に買い物に行くと、カード支払いにすることが多くやや気になっている。一緒に行く買い物を具体的に書けば、私へのプレゼント。勘違いして欲しくないのは、私が無闇に物を強請っているのではなく、単に12月から3月にかけてにイベントが集中しているからだ。12月はクリスマス、1月は私の誕生月、3月にはホワイトデイ。その時期にプレゼントという通常外出費が重なるのでカードを使用してしまうことになる、とうちのは言う。特に高価な物を強請っているつもりはない。基本は、私からうちのへのプレゼントの3倍、である。私がプレゼントする物自体は高価ではないので、高くてもうちのから私へのプレゼントは3万で収まる。3倍返しを基本としているのは贅沢なのだろうか。うちのと付き合う前は、私から相手へのプレゼントの値段がもっともっと低く、それこそ10倍返し20倍返しで受け取っていたので3倍返し基準は、私からうちのへの愛情表現の一種のつもりなのだが。それでもうちのは贅沢だと言う。うちのの基本は等倍返しらしい。そのときに欲しいと思ったものが私からのプレゼントと同額であれば等倍でもいいのだけれど、何故か3倍程度高値の物を欲しいと思ってしまっている自分がいる。親の口癖として、自分で買える値段のプレゼントは要らない、というのがあった。今は大分丸くなり且つ私と名目上絶縁している関係もあって、安価なプレゼントでも喜んでもらえるようにはなったけれど昔は、こんなもの……、とプレゼントした物をあしらわれたこともあった。こんな悪い部分を受け継いでしまっているのか。でも。欲しい物は欲しいんだもん! と中村うさぎのような気持ちもあり、私が強請るプレゼントが法外な値段ではないこともあり、さてはてどうしたものか。

 私のことを一言で表せば、非常識、だとうちのは言う。先日この相互プレゼント価格の話をしていたときには、金に関してだけは常識を持ってる、と言ってきた。ということは、3倍返しは非常識ではなさそうだ。このままで良さそうな気がした。大体、冬にイベントが集中しているのは自明なのだからその為に蓄えておけ、と言いたい。その場でこの言葉を飲み込んでしまったのは弱気だったか。家計簿をつけ始めてからは、私の小遣い額を一定させるようになった。そしてその中で冬の各種プレゼント費用を蓄え始めた。できることなら、うちのにもそうして欲しいものである。あ、今思い出した。過去に私からのプレゼントよりも低価格のお返しをホワイトデイにもらったことがあった。確かそのときは雑貨屋のピアスとヘアピン。たまたまプレゼントの買い物に一緒に出かけたときに目に付いて欲しくなり、これがいい、と強請った。そんなこともある。3倍返しに執着している訳ではないのだ。

 プレゼントとは離れたお金関連の話。うちのも私も金銭感覚は緩い。しかしその緩さのベクトルは真逆だ。うちのは貸すことに緩く、私は借りることに緩い。付き合い始めの頃、貧窮していた私は当時住んでいたアパートの更新料を払えずに困っていた。付き合い始め故に相手を理解しきっている訳ではなく私は雑談の中で、更新料が払えなくてね〜、と話した。その数日後、うちのはン十万入った銀行の封筒を私に差し出し、これを貸すから払っておいで、と言ってくれた。激しく同様。付き合って数ヶ月も経っていない人間にこんな大金を貸す人間がいるとは! 当然私は遠慮して辞退した。それでも、今余裕あるから大丈夫だよ、と言ってくれて最後には甘えさせてもらった。同棲してからそのお金の出所が発覚。銀行貸付の範囲で借金してくれたお金だったのだ。びっくりした。そして私はその行為が緩いながらも私への愛情表現のひとつであり、ここ迄尽くしてくれるなんて……この人についていこう、と思った。そのお金は未だ完済していない。むしろその後もうちのからン十万の借金をしたり、パチンコで貯金を使い込んでしまったりとの体たらく。働いていた頃には少しだけ返済したけれど、働ける状態にない今、返済の目処は全くついていない。いっそ結納金先もらいだったことしてチャラに、なんて。

 今は他者から借金をする行為はない。私の金銭感覚の緩さは諸事情にも関係していたことを知り、それからは箍が外れた一時期を除き自重している。箍が外れてしまった後は、自重だけでなく自身の金銭感覚に警戒していると言っても過言ではない。そんな私の昔からのポリシーとして、各種金融機関からは借金をしない、というのがある。利息が怖いからだ。なら何処から借金するか。友人知人らであった。関わりを持ち続けたい友人には当然返済し終えている。そうでない相手には……余計なことは書くまい。数日前、真逆ベクトルのうちのと軽い言い合いになった。この間書いたうちのの友人にお金を貸してしまった件。友人知人から、汚い言い方だけれども、金を引っ張るコツを心得ている私としては、そのうちのの友人がどういう心境か想像できてしまうのだ。しかも前にはうちのから10万引っ張っている。他者がついつい金を貸したくなってしまう状況説明、というものがある。うちののその友人がこのツボを身につけているように思えてならない。コツも然ることながら、貸してくれる友人知人を見極める嗅覚も必要だ。嗅覚とツボを身につけてしまった者は、何処かで引き返す場所を見つけなければならない。そうでなければどんどん自分の社会・交友範囲を狭めてしまう。私の引き返し地点はPD発症で始めた通院だった。そこで諸事情も発覚し、やっと気付けた。私は過去を省みつつ自重と警戒を続けていく。うちのは……きっとその友人から返済がないと見極められたときに緩さに気付くと思っている。
現在3月20日になったばかり。

 9日付日記を書いた際に、ゲシュタルト知覚のない人にはどう見えるのか、という疑問を呈した。疑問を持ったからには調べずにいられない性分であり、いろいろと検索してみたところ驚くべき事実発覚。この日記のタイトルままに、ゲシュタルト崩壊、という言葉があった。そしてそれは誰にでも起こりうる現象であることを知った。例えば、あ、という文字をじーっと眺めてみる。暫く眺めていると、本当に、あ、ってこんな形の文字だっけ? という感覚に陥る。これをゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい。50%の確率で人がゲシュタルト崩壊に至る迄の眺める時間は約25秒と書かれているサイトもあった。そんな短時間で、人間が持ち合わせている感覚が失われるものなのか。ゲシュタルトという単語は、統合・統一などの意味を持っており、心理学の領域らしい。実際にゲシュタルト崩壊の状態で絵を見るとどのように見えるかを画像で示しているサイトもあり、かなり参考になった。個人的に強いて言えば、ダリやピカソの一部の作品に通ずるところがあるのではないか、との所見。奇形を成した球体関節人形の姿こそが、ゲシュタルト崩壊の実現かもしれないと思った。人間の身体がいろいろなパーツで構成されているように、文字は直線と曲線で構成されている。成程。そう考えれば、ゲシュタルト崩壊は自然な現象で、想像していたよりも遥かに身近なものだ。私は子供の頃から、本に印刷された活字を眺めては、この字は本当にこんな形だったか、という疑問を持った。大概はそこから目を逸らし、軽く頭を振るとゲシュタルト知覚が復活したことを覚えている。大人になり、忙しくなり、崩壊した感覚を忘れていただけだったらしい。またこのようなゲシュタルト〜〜という単語を知らなかったことも一因だろう。内田春菊に「永遠の普通少女」という作品がある。その中で主人公は、からすって本当にからすだっけ? らかすとかすらかじゃなかったっけ? と呟く場面があった。これもゲシュタルト崩壊の一種なのだろうと思われる。

 私は文章を書くことと同時に、文字そのものへの愛着がある。単語や文章になっていなくても、単純に文字を書くのが昔から好きだった。そんな私も小学生くらい迄だったか稀に、夜になると文字に脅かされていた。寝ようとして目を閉じる。視界が暗くなる。瞼の裏にひとつのひらがなが描かれ、そのひらがなが段々と大きくなって迫りくるのだ。夢の中の話ではなく、寝付く前の意識がある状態でである。瞼を閉じているときに限らず、遠近感を失って何かしらの対象物が迫りくる感覚があった。そしてその感覚は常に恐怖を伴っていた。ゲシュタルト崩壊について調べていたら、偶然にもこの感覚について書かれたサイトに会った。遠近感の消失などの錯視や時間感覚の狂いは、不思議の国のアリス症候群、と名付けられているようで、私だけが持っていた感覚でないことを知って安心した。というのも、ゲシュタルト崩壊について他者に話をしたときには同意を得られることが多くても、この不思議の国のアリス症候群と呼ばれる感覚について話して他者に同意してもらえたことがなかったのだ。恐怖を伴う感覚に共感を得られず恐怖感だけでなく孤独感にも襲われ、次第に私は不思議の国のアリス症候群の現象について他者に話をしなくなっていった。そしてずっと、私は何処かおかしいのだ、と思い悩んだものだ。昨日やっとこの孤独感から開放された。しかし疑問はまだ残る。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群は何故発生するのだろう。脳生理学の問題なのかな、とは思う。どうやら未だ科学的解明はなされていないらしい。

 よくある話。例えば、赤、という色がある。色弱者などを除き果たして他者も自分と同じ、赤、に見えているのか。それともこの世の人間全員、持っている色彩感覚は別個のものなのか。大変に興味深いところであるけれども、どうやら検証は困難なようだ。ここ数日読んでいた日本で起きた有名な犯罪を時系列を追って、ときには犯人の養育歴も含めて書かれたサイトの中に、精神鑑定などに於いて絵を描かせ、その色使いによって精神的な諸々を考える検査の存在があった。紫を多用する子供の精神状態はなんちゃらかんちゃら。そこでこの疑問に立ち返る。紫を多用して絵を描いた子供にとって、紫はその絵を観た人と同じ紫に見えているのだろうか。色にはイメージがある、という通説がある。例えば暖色系なら暖かさをイメージし、寒色系なら冷たさを感じるとか。けれどもどんな色にもニュアンスはある。痛切な印象を与える暖色もあれば、穏やかな印象を与える寒色もある。ひと括りにしてしまうことに、私は強引な印象をもってしまう。皆がひとつの色に対して同じように見える、という前提なくしてこの診断は成り立たない筈だ。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群については簡単に否定してくる他者がいる。色についてはそのようなことは余りない。私の中では、知覚、という括りで擬似的存在なのだけれど違うのだろうか。前に立ち読みした本に、数字や文字や単語に色がついて見える人の話が書かれていた。ノンフィクションだ。生まれ持っての性質であるらしい。この感覚を持つ者は極少数で、またこの感覚を持っていながらにしても文字通り十人十色の着色がなされているとのこと。それを思い出すと、やはり、知覚、として上記感覚は切り離せないように思う。極一部なら無視していいということはない筈で、極一部だからこそ重視すべき点ではなかろうか。

 ゲシュタルト崩壊に話を戻す。手をじっと見つめているとパーツが浮き上がって見えてきて怖いというような話を以前書いた。この怖さの理由は長年解らなかったけれど、ゲシュタルト崩壊、という単語を知ったことで理解できるようになった気がする。以前は、ゲシュタルト知覚のない人、という書き方をした。これはこの単語を知らなかったからだ。ゲシュタルトの意味を知り、ゲシュタルトに知覚・崩壊という言葉をつけて意味を成す。近くはともかく、崩壊、という単語は怖い。崩れた上に壊れるのだから怖くない筈がない。いや、中には平気な人もいるのかもしれないけれど、少なくとも私には恐怖だ。ゲシュタルト崩壊は、自分の知覚にへの自信喪失を招く。百聞は一見にしかず、という言葉がある。意味は解説する迄もないだろう。そして私はこの言葉を半分程信用している。半分なのは、目で見たものが全てではない、と思っているからだ。この信用度は幼少期のゲシュタルト崩壊の頻発や不思議の国のアリス症候群の兆しに繋がると思うのだが、どうだろう。識者に聞いてみたいところだが、その識者が実際に私と同じような知覚の狂いを経験しておらず、机上の知識のみで話をするとなると必ずやズレが生じてくると思われる。またこのような知覚の狂いとて、先に挙げた文字や単語に色を見出す人々と同じく、皆が私と同じ様式で知覚の狂いを認識しているとは限らない。下手をすると謎が謎を呼んで余計に困惑するかもしれない。この問題に出口はあるのか。私はその、あるかもしれない出口、に是非とも出会いたいと願っている。
 現在3月17日。

 壁などのシミが人の顔を象っているように見える。勝手に脳の中でシミを目や鼻や口に見立ててしまう。これがゲシュタルト知覚だ。人形の実物や写真を眺めているうちに私は、何故これらがヒトに見えるのか、と考えた。人形の素材は磁器であり硝子であり、その他諸々いろいろな素材だ。頭の中では、人間を模して作られた物なのだから人間に見えて当然、とも思う。けれど、ふと思いついた。もしかして人形という物は、ヒトの持つゲシュタルト知覚を利用している物ではなかろうか。何故硝子が瞳に見えるのかというと、ヒトの顔の目に位置するところにその硝子が嵌め込まれているからだ。これは「・_・」の「・」が目に見えてしまうことや「_」が口に見えてしまうこととどう違うのだろう。「・」に該当するところに硝子が嵌め込まれている。硝子の放つ光や存在感が、より目のように見えてしまう。もしかしてそれだけのことではなかろうか。例えば、一体の人形の中で普段は目に使う硝子が、他の場所に瞼のような物も作らずに嵌め込まれていたとする。果たしてヒトはその硝子を見て、ここにも目がついている、と瞬時に理解できるか。できないのではなかろうか。こんな私の考えが、人形とゲシュタルト知覚を結びつけた。関節球体人形は、基本的にその球体である関節を外してバラバラにできる。例えば、膝の関節と足首の関節を解体する。残るのは脛と脹脛を模した磁器なりなんなりの微妙な曲線で作られた物体だ。この物体がころんとその辺に転がされていたとする。それをすぐに脚だと思えるか。私は、思えないような気がする。傍に他の人形を構成する足首からしたや腕や顔などの部品があり、そこでやっと、これは脚を構成する部品ではなかろうか、という発想に結びつくのではないかと思う。壁に「・」というシミがひとつだけあったとして、これを目だと思う人はまずいなかろう。それと同義だと考えたのだ。

 様々な物質を捏ね繰り回して接続して、人形は作られる。球体関節人形から少し離れる。粘土を用いてヒトを作るとしよう。手元にあるのは一塊の粘土だ。この粘土にヒトを見出す人はまずいまい。それが作者の手で粘土が千切られ、捏ねて伸ばされ、徐々に人間らしき形になってゆく。その様は粘土の塊から手足が生えて首が乗せられたかのように見え、更に手を加えていくとヒトに見えてくる。それでも元は粘土でしかない。意図的にヒトの持つゲシュタルト知覚を刺激し、ゲシュタルト知覚を利用して人形に見せること。こんな人為的作業が人形の基本ではなかろうか。絵画でも同じである。この日記で尤も表しやすいのは上記のようなアスキーアートと呼ばれる記号で以ってヒトに見せかける物だと思うので、それを利用しつつ考えたい。(・・)←これは()が輪郭であり、・・が目に見えるだろう。しかし今バラしたように、実態は()であり・・でしかない。それでもヒトに見えるのは、人間がよく目にする人間の顔に(・・)が似ているように見えるという、認知に頼ったものだからだ。その精巧な物が人形ではなかろうか、というのが私の仮説である。私の仮説、と書いたけれどもしかしたら他にも同じことを考えたり、とうの昔にこの説を立証している人もいるかもしれない。けれどその手の話を見聞きしたことはないので、私の仮説(仮)としておく。

 人形に魅入られ、それはもう寝ても覚めてもいろんなことを考えた。何故人形に魅入られるのか。美しい物はこの世に沢山ある。そこらに咲く花も美しいし、夜空に浮かぶ月も美しい。けれど私はそれらに魅入られはしない。人形の美しさは、私の中では格別の輝きを持っている。ヒトが最も美しく感じる顔は、左右対称の顔だという。だからだろうか。花や月は見える限り、左右対象ではない。精巧な人形は、左右対称であることが多い。しかしこれでは納得しかねる。ベルメールを始めとする左右対象ではない人形にも惹かれてしまう理由と矛盾するからだ。左右対称ではなくとも美しい物は存在する。これは確実に言えることだろう。球体関節人形展のコピー、人は何故自分の似姿を作りたがるのか。人間にとって、やはり人間の姿というものは格別なのか。四谷シモンが面白いことを言っていた。概要。初心者に人形を作らせると、まず自分の顔や姿に似た物を作る。この世の誰もが自分の顔や姿に満足している筈はない。それは化粧や整形、ファッションにこうも人の興味が集まることの理由にならないからだ。自分の不足を補いたくて、人はこれらに興味を持つ。自分に似た人形を作った人の作品を見たことはないけれど、恐らくかなりの美化をされているであろうことは予想ができる。美化をした上で、自分の特徴、自覚できる長所や自分でも好きな自分の特徴を盛り込んで人形を作るものと思われる。これもゲシュタルト知覚の利用ではなかろうか。まず作成者が五体満足であることを前提とする。そして五体満足の人形を作成する。ここで基本は外れなくなる。生まれたばかりの赤ん坊を見て、親や祖父母が猿同然の子供を見て、ここが自分に似ている、ここは誰それに似ている、という会話を交わすことは珍しくない。それは、見ようによってはそう見える、の粋をまず出ない。ここにひとつのヒントがある気がする。

 ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間も、必ずやいると思われる。そういう人間に、人形はどう見えるのか。これが今の私の一番興味深い点である。壁のシミはただのシミとしか認識できないだろう。だけれど、明らかにヒトを模した人形は? ヒトを模していてもいろんな物質の集大成である人形。意図的に人の顔を模した訳ではないシミと意図的にヒトを模した人形。どう違うのか。この人為的行動が、ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にどう映るのか。生憎、私の身近にゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間はいないので答えは解らない。そんな人間に出会えば、私のこの疑問は速やかに解決されるように思われる。ゲシュタルト知覚に頼らずとも人形は人形としての存在が認められるのか。ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にも人形は作れるのか。気になって仕方がない。
 さっき迄、途中からだけれどTBSの特別報道番組「告白」を観ていた。被害者の方々にお悔やみを……という書き出しが無難だろう。けれど敢えてそこには触れずに書く。私が観始めたのは、林受刑囚が逮捕されて取調べを受けているシーンから。取調室・接見室・検察のセットの嘘臭さに失笑しつつ観ているうちに……嵌まり込んでいった。流石、平田満。役作りは完璧と言っていいのではないだろうか。少なくとも私の中では完璧。見始めた当初、何で受刑囚がドラマに出ているんだ? 出られないよな……外見が似ている役者を探してきたのか? と考えていたらうちのが、平田満じゃないの? と。ああ、よーく観ると確かに平田満だ。たまたま早く帰宅したうちのと夕飯を食べつつ観た。取調室、違うよねえ。調書の作り方も違うね。接見室であんな差し入れ方はないのに。嵌め窓もあんなじゃなかったね。あそこで手錠はかからないよね。あんなのただの電パチじゃん。などなどの現実とフィクションの違いを話しながら観ていて、少し経ってから会話がなくなり、もう少し経ってから箸が止まるようになり、もっと経って食べ終えて暫くした頃、私は泣き出した。平田満演ずる林受刑囚に激しく感情移入してしまった。彼の気持ちが解った。いや、実際には違うのかもしれないけれど手に取るように解る気になってしまったのだ。私は林受刑囚の(以下、林と記載)ような勤勉さ・才能・信仰はない。けれど或る種の人間の心の動きとして理解ができてしまった。気がした。

 林が留置所で泣き崩れるシーン。うちのの過去の諸々の当初、私も家で同じように泣いた。繰り返すが、私には信仰はない。信仰は崇拝かもしれない。崇拝の根っこは信用や信頼だと私は思う。林の場合はその対象がマツモトチヅオという、自称・最終解脱者だった。私の知る限り、私の周囲には厚い信仰心を持った者はいない。けれど皆、心から誰かしらを信用し信頼している。私はうちのを信用し信頼していた。その信用や信頼の拠所が白日の下で嘘っぱちだったと気付いてしまったときの、知らされたときのショック。心の表面に氷の幕のように張られた信用や信頼に皹が入り、割れ崩れ、下の沼にやっと目が向く。その沼に潜んでいるものは懐疑や裏切。沼の底には鏡があり、林の場合は信仰、私の場合は信用と信頼が完全にできていなかった自分の醜い姿が映る。信仰・信用・信頼の対象は既に沼の泥水に溶けかかり、醜い自分が余計に歪む。それを人は素直に受け入れられるか。溶けかかる対象に縋り付いて、醜く歪んだ自分の姿から目を逸らしたくはならないだろうか。私はなった。林もなったと思う。対象=偶像が溶けきるときに出てくる物は涙だ。本当に悲しいときは涙は出ない、と言う人もいる。確かにいるだろう。けれど、その悲しみに自分が投影され且つどうしても現実を受け容れざるを得なくなったとき、涙で偶像を洗い流す必要がある人間も確実に存在している。涙に明け暮れ、偶像を洗い流し、消し去り、自分の醜さを受け容れた上ででなければ、立ち上がれない。自分の偶像は自分の鏡。醜い自分を受け容れてから出なければ、偶像と対峙できない。涙には浄化作用もあるのだ。

 矛盾や間違いに気付いたら方向転換すべきだろう。目的地と反対方向に歩を進めていることを知りつつ、その道を進む者はまずいないと思う。けれどそれは目的地という確固として存在している土地の場合だ。土地ではなく、それが解脱を含めて想像・妄想だったら? 林は矛盾や間違いに気付きつつも犯罪に手を染めていった。それは信仰の偶像に縋り、解脱という呪縛に囚われていたからだろう。私には、私から見れば噴飯物……失礼、高尚な信仰はない。が、様々な物事に拘りがある。物凄く俗な次元に話を落とすことになるけれど、例えば入浴。頭では髪を洗うだけでもいい、お湯を浴びるだけでも何もしないにより遥かにマシと理解している。でもできない。新陳代謝機能がある限り決して可能ではないであろうけれど、完璧な入浴、というものが頭の中にできあがっていて、どうしても逆らえない。逆らって入浴しても、脳内完璧入浴が纏わりついて却って気分が悪くなる。フツーにニチジョー生活を送れている他者から見れば、噴飯物の実にくだらない拘りにしか思えないに違いないと自分でも思う。それでも脳内完璧入浴の呪縛は解けない。体臭の指摘などのトラウマもない私でもこの始末。いわんや、医師として患者の生命を救うことを信念として完璧を求めていた林をや。サリンを撒いたときの苦悩は想像を絶する。そして矛盾しているけれど想像はできてしまう。

 オウムに限らず宗教、特に新興宗教の信者を私は腹の中で嘲笑って生きてきた。プロテスタント系の学校に通いつつ、神の存在なんぞ信じない、というレポートも書いたことがある。キリスト教概論の授業は物理や基礎解析と同じくらい詰まらなかった。なのに今日、解ってしまった。この世の信仰心の厚い信者という者の存在と私は紙一重だ。名前だけ連ねているような幽霊部員ならぬ幽霊信者、ではなく、あくまで信仰心の厚い信者。私が林の立場だったら……胸の奥で逡巡しつつも、きっと、撒いた。胸の奥の、沼の底の、醜い自分との対峙を避ける為に。信用に、信頼に、信仰に、象徴に、偶像に縋りたい一心で、撒いた。撒いた後、林のように呪縛から解かれたかどうかは解らない。宗教に無関心な生き方をしてきて本当に良かった、と思えた数時間だった。受刑中の林は無期懲役だという。ということは、恐らく20年くらいで、残り10年程を塀の中で過ごして出てくるだろう。判決が下されたとき、死ぬことも許されないのですね、と言ったらしい。林が出てきて受け入れ先はあるのだろうか。あっても自決してしまうのではないだろうか。囚人の行く末をここ迄考えたのは初めてではないだろうか。だからといって自分が身元引受人に……と迄は言えない。一生に2度もそんな責任は負えない。偽善は嫌いな私が偽善かも知れないことを書くことは珍しい。医師免許は剥奪されたであろう、死んで詫びたい気持ちもまだ強かろう、それでもひっそりとでも林に生きて欲しい。誰にでも、過去に何があろうとも、何かしらできることはある筈。その、できること、の内容は解らないけれどある筈。絶対にある筈。私は死刑廃止論者ではないし、林を擁護するつもりもない。ただ、つまらない呪縛から逃れられない人間としてそんな藁を妄想し、どうにか生きているのだ。
 現在23日日中。

 昨夜のうちのとの喧嘩。昨日は朝から夜迄、私は日がな1日寝ていた。起きたのは20時頃。深夜1時頃、いつ迄起きているんだ! 早く寝ろ! とうちのに怒られたのが発端。そのとき私はPCに向かっており、キーボードの傍に眠剤を用意していたので、寝る用意はしている、と答えた。いつ寝るんだ、と問われて、もうすぐ、と答えた。うちのは2時過ぎに布団に入った。そして、お前も寝ろ、と。私は眠剤が慣れてきていて投入してもすぐに眠くならない。1時半くらいに投入したけれど、睡魔が来るのは早くて後30分と見ていた。それから大喧嘩。ご近所さん、すまん。うちの曰く、寝る用意をしている=眠剤投入済み、と捉えていたらしい。私の中では、すぐに眠剤を投入できるように用意をしている=寝る用意をしている。根底の部分でズレが生じている。うちのは、寝る準備をしていると言われたら眠剤を入れていると思うだろ! と怒っていた。そんなこと言われても……。もうすぐと言われたら5分後10分後だと思うだろ! とも。は? 私の中では、すぐ=5〜15分後くらい、もうすぐ=1〜2時間後くらいなのだ。いろんな部分で各々の定義が違っていることが発覚。

 うちのは怒るときに頭ごなしに大きな声で怒る。そして私の言うことを屁理屈だと一蹴する。思いたくないし言いたくないけれど、親の私への怒り方と似ている。叱る≠怒る。頭ごなしに怒られたり、自分の意見を屁理屈だと言われると何もする気がなくなる。どうせ何をしたって否定されるんだから……と自己嫌悪に陥り、PCや過剰な睡眠に逃避してしまう。うちのの大声に怯えつつ泣きながら意見を述べているうちに、お互いに少し落ち着いてきた。私の持病が発症して1年が過ぎた。当初からの目標は、朝起きて夜寝るというリズムを作ること。達成できていない。うちのはそのことに対し、私の努力が見えないから苛つく、と言っていた。そして、朝起きられないのは仕方がないとしても目覚まし時計をセットするなりの努力と夜になったら布団に入る習慣をつけろ、と。私の意見。努力しようという気持ちは見えないかもしれないが、常にある。目覚ましは何度か試したけれど気付かずに寝たまま1時間鳴りっぱなしにしてしまったことがあり近所迷惑を考えてやめた。寝る時間に対しては……うちのの寝る時間基準になっていることに抵抗がある、と答えた。反抗心が規則正しい生活をするという目標に勝っているのかと責められたけれど、正直な気持ちである。うちのが2時に寝るときは2時にそろそろ寝ろと言われ、3時に寝るときは3時にいい加減に寝ろと言われる。そのことに激しい抵抗があった。生活時間を相手基準にするように強いられているように感じられるのだ。うちのが言うには、一緒に暮らしていて片方が布団に入ったら自分も寝ようと思わないのか? 私には全く以ってそのような考えが浮かばない。ああ、うちのは寝るのか、のみである。この考え方がうちのには全く解せないらしい。今後は目覚まし時計をセットした上で布団の近くに置いて対処すること、自分で時間を決めていいからその決めた時間に従って布団に入ること、を約束した。約束する迄もなく寝ることに関してはいつもそのように考えていても、心と体が別行動をしてしまうのだが……。

 すぐ・もうすぐの基準については、このような曖昧な表現を避けて具体的に何分後・何時間後とお互いに表現することを心掛けるようにということで収まった。私の中の、もうすぐ、の基準は異常らしい。もうすぐ=5〜15分後程度、が普通らしいのだ。ここでまた私の頭は?で埋まる。普通が解らない。一般的にとか、常識的にとか、その手の言葉と同じように私の辞書の中では影が薄い言葉であり、それらの言葉は自分を含めて大多数の人間の意見を自分の目で見て耳で聞いて平均化したものが、普通・一般・常識という言葉に還元される。けれど、うちのに限らずこの手の言葉は、考えなくても・聞く迄もなく解るだろ! という言葉らしい。解らない。このように言う人は、自分の中の定義=普通・一般・常識と思っている気配を感じる。何故、自分の定義や考えを普遍的な物と信じ込めるのか、全く解らない。

 人を殺してはならない、物を盗んではならない。これらのことは常識として受け止められている。日本の法律が明文化されているからだ。また辞書に書いてある言葉の定義には従える。けれど曖昧な単語や曖昧な表現については本当に解らない。しかし自分の意見=普通・一般・常識となっている人からすれば、この、解らない、がもう屁理屈として聞こえるらしい。私にとっては八方塞である。身動きが取れず、かといってそのような意見を鵜呑みにはできず、混乱する。私が曖昧な表現や言葉について考えるのは、人それぞれの解釈、である。因って、私の中のもうすぐ=1〜2時間が、他者にとって5〜10分でも3〜5時間でも、ふーん、としか思わない。今回の喧嘩で、曖昧な表現は定義が違う者同士の間では諍いの原因となることを学んだ。ので、今後は具体的返答を心掛ける。それにしても。相手の定義が自分と違っているときに激昂する人はなんでこうも多いのだろう。何事にも、人それぞれという考えを基準にしている私の方がおかしいのか。自分と全く同じ思考回路や思想を持つ人なんていないと思う。だから、人それぞれ、と私は考える。特に曖昧な表現や言葉に関してはこのように捉えないと、無駄に怒りが発生するのではないだろうか。私にも自分の意見の中に、普通・一般・常識というものが全くない訳ではない。なくはないけれど、その自分の普通・常識・一般から外れた意見を持つ人に激昂はしない。そもそも激昂という感情表現は野蛮だと考えている。また私の経験則では、簡単に激昂する人程、理論性に欠けており、相手の意見を受け入れない。この柔軟性のなさこそが問題だと思うのだが、この手の人に限って自分は柔軟性に富んでいると思っているから性質が悪い。うちのもすぐに激昂する性質だが、少し時間を置けばちゃんと話し合いができる。激昂する前に10数えて落ち着いてくれれば、もっと話し合いはスムーズに行くのではないだろうか。大体私は大声を出す人に対しては恐怖心が先に立ち、蛇に睨まれた蛙状態になってしまうのだ。うちのが大声を出さなくなれば、きっともっと心身共に生活が楽になるように思う。

BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
 現在12日。

 うちのベランダに時折他所の外飼い猫が入ってくる。するとうちの小動物2が過剰な反応を示す。ベランダの窓は基本的に閉めっぱなしなのだけれど気配で判るようで、ベランダの窓の傍で絨毯に爪を立てて警戒する。9日にもその猫が入ってきときに、小動物2の反応で解り、窓を開けて網戸越しに対面させた。小動物2は私の腕の中。私の腕や肩にぎりぎりと爪を立てつつ、外の猫を観察している。ここ迄はよくあること。この後がびっくり。小動物2が鳴き始めた。ウールルルールールー、ウルールルールールルー。明らかに普段の鳴き声とは違う。例えるなら発信音。淡々としていつつ微妙に音程を変えて。何かを発信しているような声。びっくり。小動物2は多彩な鳴き声を発し、この小動物を余り好きではない友人知人にも、この子の声は可愛い、と評されるのだけれど、このときの声はちっとも可愛くなかった。只の発信音。ベランダに入ってきた猫は場所をうちのベランダのすぐ傍に止めてある大家の車の上に移動して鎮座。そして小動物2の発信音を傍受している。外の猫は何も言わない。何してんだ、こいつら。外の猫は人間には聞こえない超音波でも発して、うちの小動物2と何らかの意思疎通をしているのだろうか。

 それはともかく。私は外飼い反対派である。このときの猫はよくうちのベランダに侵入してくる。猫飼いなので侵入してくる分にはいいのだけれど、ベランダに置いてあるゴミ袋を破こうとしてきたときには流石に腹が立った。うちの近所には野良猫も外飼い猫も多い。けしからん。近所の野良猫の1匹に、私が勝手にマダラと名付けている猫がいる。顔や体の模様がまだらだからマダラ。このマダラ、在る家で餌をもらっている。この家は近所の野良猫に庭で餌付けしている。以前その家の人に、お宅で飼っているんですか? と訊ねたところ、餌をやっているだけ、と答えられた。無責任だと腹を立てたがその場では、そうですか、と流した。或る日、マダラの片目が傷ついて殆ど開いていない状態だった。私にもそこそこ懐いていたマダラ。放っておけない。因って強引に捕獲して、行きつけの動物病院に連れて行って治療をしてもらい、飲み薬と目薬をもらってきた。うちの自腹である。本来なら餌付けしている家の人が気付いて連れて行くのが筋だと私は思っていた。飲み薬と目薬の件もありその家を訪ねて、マダラの目の不調の話をして薬をやってくれるよう頼んだ。その家の人に言われたこと。ふうーん、野良猫に親切だねえ。嘲笑混じり。飲み薬は与えてくれると請け負ってくれたものの、目薬はそっちでやってくれとのこと。仕方なく了承。当然ながら、あちらから治療費についての話は出てこなかった。私がマダラ捕獲時に引っかかれたときの傷にも触れてこなかった。私は自他共に認める猫好きだ。けれど野良猫は淘汰されて然るべきものと考えている。マダラはその人懐っこさからして、元々は誰かに飼われていた様子だった。何らかの人間の勝手な事情により捨てられてしまったのだろう。うちで飼えればベストだけれど既に我が家には小動物が2匹おり、現実問題として無理である。だから日常に於いて負傷を負った猫を病院に連れて行くことくらいしかできない。また負傷を負っていても、マダラでなければ連れて行かなかっただろう。マダラとその他の猫の違いは何か。マダラには餌をくれる人間の存在がある。そこでは水もやっている。要はライフラインが確保できている猫なのだ。ライフラインがある以上、例えあのまま片目が見えなくなってしまったとしてもマダラは生きていけてしまう。私は餌だけを与えて傷や病気の処置をしないその人の人間性を疑わずにはいられない。もしマダラがライフラインを確保できていない猫ならば、心の痛みを隠しつつも私はマダラの傷を放置しただろう。

 本来、野良猫という生き物は存在しない筈なのである。人間の都合で飼い始め、人間の都合で捨てられて、初めて野良猫となる。また捨てられた猫が繁殖をして野良猫が増える悪循環。私以外にもそれら野良猫を保護したいと思っていても、住居や経済的な事情でままならない人も多いと思われる。ある程度、野良猫への知識がある人は偽善的行為は行わない。偽善的行為とは、飼う気もないのに野良猫に餌を与える=ライフラインを作ることである。これは本当に罪作りなことであり、一部の人間の自己満足と偽善でしかない。飼えない人間が野良猫にしてやれることは、淘汰を待つことだけなのだ。一度は愛情を注がれて安全を確保してもらったのに、その後ポイッと捨てられた猫は不幸。捨てられた猫たちの間で生まれた安全を知らない猫も不幸。できればそれらの猫を全て飼いたい。猫が好きだから。飼って愛情を注いだり安全を確保してやれないのに偽善行為を行う人間を私は軽蔑している。

 猫の死因で最も多いのは、交通事故である。猫飼いにも2種類の人間がいる。ひとつは徹底室内飼い。ひとつは外飼い。後者の言い分としては、室内に閉じ込めるなんて猫が可哀相。中には元々野良だった猫を拾ってきて、外を知っている猫を室内に押し込めるのは残酷。もうね、阿呆かと。猫と会話が交わせる訳でなし、本当に猫が室内で飼われることに多大なストレスを感じているなどと何故に人間が判断できるのか。そもそも猫は本来自分で縄張りを決める生き物であり、その縄張りに実は広さはさほど必要ではない。ある程度のスペースと高さがあれば猫は自由に運動できる。それを知ってか知らずか、猫を外飼いにした上で交通事故に遭ったり猫が行方不明になったりして嘆き悲しむ飼い主がいる。莫迦の極み。飼い主に最も必要なのは、猫の習性を理解した上で飼っている子の安全を確保してやることではないのだろうか。自分の家の庭で餌だけやって後は放置など論外。餌をやる=ライフラインを作る=猫に責任を持つ、ではないのか。マダラはあのまま傷を放置していれば、片目が不自由になったことだろう。それでも餌を与えてくれる人がいれば生き長らえることだろう。これは猫にとって幸せなことなのか? 近所に小型犬を飼っている家がある。夕方、その犬を散歩の為に外に出す。リード無し。また躾が悪く通りがかる人に片っ端から走り寄り、キャンキャンと吠え立てる。飼い主は犬に甘ったるい声で、ダメよ〜、などと言って吠え立てられた人に謝ったりはしない。悪いと思っていないのだろう。当然その道は公道である。何度か飼い主に、散歩のときはリードを付けて下さい、と提言したことがあるが毎回スルーされている。うちの可愛いワンちゃんが人様に危害を加えるなんてある訳ないじゃない、とでも思っているのだろうか。お前にとっては可愛いワンちゃんでも、毎度吠えられる人間にとっては例え噛み付かれたりしていなくてもそれだけで不快なんじゃ! こういう奴に限って、犬が車に跳ねられたりしたら運転手に食ってかかって治療費云々慰謝料云々言うのだろうなあ。動物を飼うのも免許制にすればいいのに、と思う。
 現在4月5日。

 某うぷろだでDLした「情熱大陸」の安野モヨコ特集をやっと見た。自宅はともかく仕事部屋が小悪魔! 本人は当然のことながらロンパースちゃんではなく、小悪魔でもなかったけれど心掛けが小悪魔っぽくて参考になってしまった。なってしまった、というのは本来そんな番組ではないから。私が思ったモヨコの心掛けの小悪魔っぽさ。その日のメイクが決まらなければ仕事もパシッと決まらない、という部分。仕事をするだけなのにメイクとファッションに拘る。しかも必ず10cmヒールを履く。必然性がないのに10cmヒールは小悪魔要素のひとつな気がする。因みに私は10cmのヒールなんかもってはいない。か、買うか……? ショート丈の毛皮のコートも小悪魔っぽかった。うん。小悪魔に毛皮は似合う。むしろ必須アイテム。しかもショート丈ってのが小悪魔らしい。ここ迄要素を満たしていながら、何故にモヨコは小悪魔ではないのか。それは造作も然ることながらやはり、所帯、が見え隠れするからだ。監督の為に、仕事に出る前に昼食を用意する場面があった。小悪魔は人に尽くしてはならない気がする。尽くすにしても、結果として人の役に立っちゃった、であり、わざわざ他者の為に行動などしてはならない。小悪魔の行動原理は、自分が楽しいから、でなくては。頽廃的享楽趣味。一番楽しいのはビール呑みながら麻雀打ってるとき、と軽く言ってのける加賀まりこ。これぞ小悪魔。因ってモヨコのインテリア趣味及びメイクやファッションへの拘りは小悪魔的であっても、もっと底の方にあるべき小悪魔要素が欠けていて失格。

 「月曜日のユカ」は未見だけれど、評判を聞くに主人公はかなりの小悪魔っぷりを発揮しているらしい。そして主人公を演じた加賀まりこの当時も今のようなオバチャン・テイストは皆無で、ひたすらに小悪魔な外見を駆使して小悪魔な行動をしていたようだ。当時の彼女の画像をネットで見たことがある。確かに小悪魔。今も彼女の外見はかなり小悪魔だと思う。惜しむらくはたまに性格に滲み出るオバチャンっぽさ。年月とはなんと惨いものなのだろう。人間、生涯一小悪魔でいることは不可能なのだろうか。黒澤優もそのうち母親宜しくオバチャンっぽくなってしまうのだろうか。悲しい。黒澤優→葉月理緒菜→広田レオナという私の小悪魔年代別理想は、未だその先が見出せていない。加賀まりこを広田レオナの先に置くことはできない。オバチャン・テイストさえなければ……。黒澤優も広田レオナも、何もしなくても男女共に人々が何故か傅いてしまうような雰囲気を持ち合わせている。昔はともかく、今の加賀まりこにその雰囲気はない。小悪魔たるもの、親っ跳ねに振り込んでも悔しがったりしてはならないのだ。広田レオナの旦那は吹越満。広田レオナ曰く、結婚してくれなきゃ死んじゃう! とプロポーズされ、死んじゃうのは可哀相だなあ、と思って結婚したとか。こうでなければ! ここ迄相手に言わしめさせてこその小悪魔なのだ。……私には到底無理そうなのが悲しい。泪を禁じ得ないくらいに悲しい。

 今迄の日記の中で、小悪魔要素のひとつとして乳の大きさを挙げてきた。ふと気付いたのだが、黒澤優はそれ程乳は大きくない気がする。葉月理緒菜に至ってはヌード写真集で披露したように貧乳だ。因みに私の乳も葉月レベル。乳の大きさはもしかしたら小悪魔の条件への重大要素ではなく、附属要素なのかもしれない。貧乳でも小悪魔になれる可能性はありそうだ。一縷の希望、発見か! 貧乳でも小悪魔実現可能とする。葉月理緒菜と私の違いを考えてみよう。歳は同じ。これはどうでもいいことで、それはさて置き、違い……色気か。乳に頼らない色気。常に眠たげな目にポイントがありそうだ。私も常に眠たげである。しかし本当にいつも眠いからであり、天性の眠たげな目元ではない。小悪魔の目は眠たげならいいというものではなく、パッチリしていればいいというものでもない。気だるげな色気がそこには必要だ。この、気だるげ要素が私にはない。私にあるのは、だるそう、であり決して、気だるげ、とは似ても似つかないものである。だるさ、という共通点はありながら大きく違うそれの正体は一体何なのだろう。ダラか。私の醸し出すダラ加減が敗因なのか。

 気だるげながらも意志の強そうな色気のある目。作為的にどうこうできるものではなさそうだ。整形したって作り出せっこなさそうな目。うーむ。これに似たものを作り出す残された手段は、心掛け、しかなさそうだ。似たもの、しか作れなさそうなのがまた悲しいけれど。ぼんやりしつつ感情を余り感じさせない、けれど強い眼力を持っていそうなそれに、ダラな心が出てはならない。ダラは小悪魔には禁忌だ。頽廃的享楽を楽しむ人に、ダラな気持ちは皆無だろう。ダラ要素を消し去らなければ。ダラを消し去りつつ、シャキになってもいけない。その匙加減が何とも難しそうだ。ダラやシャキの持つ生活感を失くす。これか! と起きたてのパジャマ姿でスラメタ聴きつつ煙草片手にこれを書いている私。小悪魔はパジャマなんて着ていなさそうだよなあ。寝るときは裸かシースルーやレースをふんだんに使ったベビードールを着ていそうだ。和製小悪魔なら浴衣。私のようにパジャマのゴムが伸びてきたからといって、ゴムを入れ替えもせずにちょっと引っ張り出して結んで調整など小悪魔にあるまじき行為だろう。しかもパジャマの素材がネル。ネル素材はパジャマはもとより、小悪魔なら普段も着てはならない気がする。自分の持っている衣類を思い返す。ネル素材、多いな。ああ、トレーナーやパーカも着なさそうだ。小悪魔なら。HR/HMも小悪魔は聴かない気がする。逆に嫌っていそう。よく解らないけれど、テクノとかハウスとか、若しくはクラシックを好みそうである。私が持っているハウス……某巨大掲示板発のムネオハウスくらいだ。ダメにも程がある。遠い。小悪魔への道のりは、私には余りに遠い。ならば方向転換をして天使というのはどうだろう。天使もHR/HMは嫌いっぽい。そもそも私は天使っぽさには憧れていないし。私が小悪魔になりたいのは何故だろう。他者を翻弄できそうだからか? そう考えると、私の諸事情を肯定してしまう理由を欲しているかのようだ。違う! 生活感のない色気が欲しいだけなのだ! 何から頑張ればいいのかよく考えてみよう。考える、という行為こそが小悪魔らしくないのは解っている。解っているけれど、天性の小悪魔要素を持ち合わせていない今の私にできるのは考えること、そして努力だけだ。

BGM/「Kill Again」「Overt Enemy」「Love To Hate」など
 現在12月22日になったばかり。

 久々に簡単ながらも夕食を作ってみたら、うちのの機嫌が非常に良くなった。飯は偉大也。そのまま、これまた久々に一緒にゆっくりとテレビを見ていて頭の中に爆弾行進曲がぐるぐる回りだしたあたりで、丸山真男の名が出てきた。これもまた久々に聞いた名前。久々づくしのいろいろの中で、やはり一番久々だったのはこの丸山真男だ。学生時代に何か読んだけれどもよく解らなかったような、そんな記憶が甦るも先日意識障害を起こしたばかりの頭が思い出せる筈もなく、アマゾンで調べてみた。丸山真男、39件。39冊の著書がある訳ではない。吉本隆明を始めいろいろな評論家が丸山真男について述べた本も含めての数だった。ざっと見るもどれを読んだか思い出せない。そもそも私が読んだのは本当に丸山真男の著書だったのか、それとも他者が丸山真男について述べた物だったのかすら判別不能。近々、岩波新書の本人著書でも読んでみる所存。ついでに仔羊料理大全も欲しい。この料理大全、日本初の仔羊料理専門書だとか。羊好きとしては興味津々。鴨大全も出て欲しい。話が逸れた。丸山真男。本当に読んだかどうかも定かではない著述物について論ずるは詮無いこと。昔は書物を無闇に乱読しても、内容と著者とタイトルは必ず覚えていたのにこの体たらく。歳は取りたくないものだ。

 テレビを見ていて思ったこと。思想家・学者は無力である。テレビが引用していた丸山真男の論は非常に公正且つ明瞭で、そのまま世の中が動けばいい世の中になるであろう、と思わせられるものだった。理想論である。民主主義について。私が学校で教わったことと違うことを丸山真男は論じていた。脳内考証。成る程。学校で教わったこと以前の問題から語っていた人だったのか。社会科系教科書の見直しは戦中の事実関係云々など以前に、ここから必要なのではないだろうか。言葉の定義とは大切である。言葉の定義を間違えると、その先の話が全て変わってくる。また間違っていない迄も曖昧なままで話を進めると、その先の話が全て曖昧に終わる。学校、特に社会科系の授業や専攻は、学問であると同時に伝承の場でもある、と私は考えている。伝承は正確な相互理解なしに伝えられると、代を経て都市伝説のように変貌していってしまう危険性がある。都市伝説と化した伝承は、伝説化していることに気付く者が現れたところから再度検証され直すことだろう。そんな繰り返しは大変に無駄なので避けたいものである。雰囲気に流される国家。なんとなく、でことが進んでいく国家。そんな国家に基礎的な部分で警鐘を鳴らし続けたのが丸山真男である。

 左右に係わらず、なんとなく、で物事が運ぶ人種が日本人であるらしい。左右のどちらに属していても、その意思を幾ら本人が強固な物だと信じていても、流されゆくことは歴史が証明している。内ゲバ。内紛。流れなければそんなことにはなるまい。ノンセクトは。昨今の日本人は似非ノンセクトであったと思われる。ここにきて、意思を問われるようになった。けれど似非ノンセクトの人間がどれだけ情報に流されず、どれだけ正しい知識を礎に己の思想を語れるというのか。似非ノンセクトは似非ノンセクト故に、左右の極端なことしか知らない。因って、そのような人間に問いかけをすること自体が危険な行為であると言えよう。思想を語るに必要な物は、数多の情報・判断力・構成力。このみっつだと思う。どれが欠けても偏りが生じたり、思想はあってもきちんと語れなかったりする。私がまずすべきことは……六法全書の新調か。教科書は不要。どの教科書にも偏りがある。もし教科書を手にするならば、全ての教科書を読まねば流されることだろう。教科書に流されずに正しいことを正しく生徒に伝承できる教師に出会ったことはない。教科書内の偏りに気付き、独学した。無数の情報の中で混乱し、混乱の中でなんとなく、放棄してしまった。考えがない訳ではない。あるけれど言葉にできない。もどかしい。言葉という記号を、こと思想に於いては正しく扱える自信が全くない。テレビ如きに勉強し直す気にさせられてしまった。心なしか悔しいが、ひとつのきっかけとして活かすべき気がしている。

 テレビを見つつ、私とうちのが持った一致した思い。こいつらは莫迦じゃなかろうか。或る立場に於いて、或ることに反対している人々のことだ。美談でもなんでもない。無知を曝け出すことと思想を語ることの違いなどついていないことが安易に想像できてしまう。恥を知れ、とすら思ってしまう。私は非常に恥知らずな人間である。恥知らずでも多少の拘りはあり、無知を曝け出す形での恥を極端に嫌う。学のない人間は嫌いだ。無知により恥を晒した場合、恥終了後に勉強する。テキーラは40度。雑味が多く下腹部にすぐくるアルコール。砂漠で飲むことに適している……私の住んでいるところは砂漠ではないのでもう2度と呑まない。学のない人間とは。私の履歴書は学があるとは判断され難い履歴書である。だからこそ、勿論どれもまだまだではあるがいろいろ独学した、とも言えるかもしれない。学歴と個人の所有する学は別物だと考えている。学生時代、脳死についての法整備について世の中が動き出した頃、とても情けない思いをしたことがある。1度だけ合コンなるものに出たときの話。相手はそこそこの学校の学生たちであり、やや偉そうな態度であった。まずそこで気に喰わない。そして話をしているうちに、私はひとりの人と大討論を展開してしまった。脳死ってのは、死じゃないんだよね。……阿呆か、と感情をそのまま口にするのは子供なので自分の意見を正しく述べた。述べた意見は所謂反論である。相手は、死じゃないんだよね、で感心して欲しかったらしい。まさか反論されるとは思っていなかったらしく、攻撃的な口調に変わる。そこで相手の求めいてた物を察知し、子供な私はその口調に乗って同じ土俵に上ってしまった。阿呆だの莫迦だのの直球は出なくとも、相手が自分をどう思っているかはお互いに伝わった。丁寧な口調で討論は続き、よっしゃこのまま論破! というところでふと周りを見たら……他の参加者は皆引いていた。そのときのテーブルは円卓であり、私と相手を除く全員が少し距離を開けてこちらを見ていた。急速冷却には十分な光景であり、討論終了。情ないと思うのは、やはり論破できなかった点である。引いていた周囲に流された、それ迄に短時間で論破できるだけの構成力がなかった。一対一の討論の場は鉄火場だ。気迫で押し、言葉で押す。論議は穏やかになされるべきだと思っている。しかし討論となるとそれはディベートであり、勝たねばならなくなる。勝つ必要がなくとも、勝たなければ気が済まなくなる。熱くなった者が負ける鉄火場の空気。冷淡に気迫と言葉にだけ熱を持たせるのがポイント。と書きつつ、暫くまともな討論をしていないことに気がついた。……アルコールを早く抜くのが先だ。こんなことが書きたかったのではなく、思想・学問の無力さについて書く予定だったのに。それについては、また今度。

BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
 その1、としたのは今後も記号について書くことがあることが想像できるからである。記号論というものは卒論だけに留まらず、私のライフ・テーマとも言えるものだからだ。そして今回の内容は全て、私の個人的印象に基づくものであり、不快感を覚える人もいるかもしれない内容であるが、私見なので勘弁な、と前置きしておく。以下、本文。昨日、洗い物水切り籠を浸け置き洗浄しているときに、友人からアクセスがあった。本の話をしている中で森山塔の名を出すと、彼女が、先日六本木ヒルズに行ってきたと言い出した。六本木丘。六本木アイランド、できれば六本木島にして欲しかった、と述べたところ、彼女はパール兄弟好きではないのでついてこれなかった。しょぼん。で、六本木丘。そこには森タワーなる建造物があるらしく、その名を知った彼女は森山塔を思い出したとかで、タイムリーに出てきたなあ、と言っていた。六本木ヒルズ。森タワー。共に変な名前だと思う。場所は変わるがエッフェル塔も変。凱旋門を凱旋ゲートとは言わないくせに。現地でどう呼ばれているかは知らないが、エッフェルタワーと呼ぶべきではないか。私は、漢字+カタカナにの名称に何故か奇妙な印象を受ける。六本木丘にはハリウッドビューティーなる建造物もあったらしい。欧米コンプレックス丸出しの恥ずかしい名前。その中には某専門学校が入っているという。もし仮に私が子を産んだとし、その子が大きくなってその専門学校に行きたいと言ってきたら、私は全身全霊で諦めさせるに違いない。一生、履歴書にその学校名を書くんだぞ、恥ずかしくないのか、と。多分これは、私が義務教育を終えてからの進学の際、学校名の印象をかなり重視してきたことに起因する。高校を選ぶとき、自分の偏差値でギリギリ入れる学校を選んだ。その学校名が気に入ったから。内申書が悪かった為、入試500満点中430点を取る必要があった学校だ。私が入った年から、希望者には入試の点数を教えてくれるようになった。今でも覚えている。435点で合格。危ない橋を渡ったものだ。その後の進学の際、5校を受けて2勝2敗1引分。引分は補欠合格。2勝のうちの1校は全国区で有名だが体育会系バカの印象を持つ学校、もう1校はマイナーなカトリック系の学校。迷うことなく後者を選んだ。学校名の印象が悪くなかったから。記号の持つ印象は強く、ものによっては一生付き纏うものである。

 私は彼氏を選ぶ際、相手の苗字を、もしかしたら眼鏡の有無以上に重視しているかもしれない。その相手と結婚したら自分もその苗字を名乗ることになるのだから、やはりここは拘りたいところだ。変な苗字の人には、その人がどんなにいい人であったとしても惚れたくない。自身の名前とのバランスも考える。例えばミタライさん。カタカナ変換はわざとだ。この苗字に私の名前がくっつくと、大変トイレが近い人のような印象になる。激しく嫌だ。昔は自身の名前とのバランスを抜きにして、綾小路って苗字は恰好いいなあ、と思っていた。今は嫌だ。きみまろのイメージが付いてくるから。また差別意識の強い、むしろ差別主義者な親の下で育った影響により、アッチ系の苗字にも詳しくなった。幼少時から、あの苗字はアッチ系などと教えられていたのだ。自分に差別意識がないとは言わない。言えない。言い訳に読めるかもしれないが、思春期に差別意識をなくそうと頑張ったが、悉く親に否定されたことの影響が強いと思う。今は素直に、私にも差別意識がある、と言う。差別意識所有≠差別主義者。親が差別主義者になったのは、親自身の生まれ育った土地柄の影響も大きいのだろう。話が逸れた。まあなるべくならアッチ系の苗字も避けたい気持ちがなきにしも非ず……と言葉を濁すチキンな私なのがやや悲し。

 うちのの苗字と名前のバランスはとても良く、また前向きな印象を与えるものである。初対面のときに名刺をもらい、ペンネームだと思った程だ。本名だと知って驚いた。そして本名でこんな駄洒落みたいな名前って……とも思った。苗字+名前=駄洒落系ではあるが、印象の良さは変わらなかった。この苗字は二通りの読み方があり、うちのは少数派の読み方である。これがまた良かった。私は訓読み好きなのだ。そして、うちのがミタライさんならきっと付き合っていなかっただろう。これだけ苗字というものに拘るのは、私の生い立ちが原因である。過去の日記でも書いたことがあると思うが、私は結婚歴がないにも拘らず、何度も苗字が変わっているのだ。余り好きになれなかった苗字→同じく余り好きになれなかった苗字→好みの苗字。最後の好みの苗字は、母親が再婚した相手の苗字である。この際、養子縁組をして私の苗字をどうするかが話し合われたのだが、そのときの私は迷うことなく養子縁組を選択した。単純に好みの苗字だったから。その後、絶縁だの何だのになることは当然ながら想定していなかったのだ。尤もそんな想定をして、親の再婚時に苗字をどうこう考える人も少なかろう。今となっては余計なことをしなければよかったとなっているが、致し方なし。

 苗字への拘りは、上記自身の苗字の変遷だけでなく、自分の名前が好きでないことにも影響されている。私の名付け親は、私が嫌いな伯母であるらしい。その伯母を嫌いになったのは小学校高学年のときであり、原因は当時私がその伯母の息子=従兄に犯されかけたからだ。それはともかく。私の本名は漢字2文字、読みも2音である。まず漢字。字面が可愛くない。そしてよく書き間違えられる。名前の書き間違いは最大の失礼だと思うので、毎度いい気はしない。特にDMなどでは名前を書き間違えられているだけで、買い物する気が失せる。母方の旧姓が私の苗字になっていた頃、その苗字も書き間違えられ易いものだった。苗字にも名前にも誤字発生ということが多々あった。そこ迄くると最早その名前は私の記号ではなくなっている。誰の名前だよ……と思ったものだ。そして読み。そもそも2音というのが嫌。理由は特にないが、漢字2文字で3音乃至4音の方が可愛いと思うのだ。3文字になってしまうけれど、この名前にせめて、子、が付いていればマシだったのにと思う。一時期、子、が付く名前に憧れた。元を辿れば男性の名前に用いられる漢字ではあるけれども、現代では女性の名前に用いられており、私の世代ではまだ、子、のつく名前が多かったのだ。因ってPNやHNに、子、または、こ、を多用していた時期がある。今はそれ程、子、への拘りはなくなった。尤もだからといって自分の名前が好きになった訳ではない。好きでないものは好きでない。過去に知り合った女性の中で、印象深い可愛い名前を持った人が数人いた。奏ちゃん、桜子ちゃん、由乃ちゃん、など。かなでちゃん、ようこちゃん、よしのちゃん、と読む。奇を衒っておらず且つ名付け親の思いが伝わる名前。濁音の入る名前も実は余り好きではないのだが、奏ちゃんという名前だけは、凄くいい名前だと思った。昨今は、奇を衒い過ぎているとしか思えないような名前の子供が増えているらしい。海ちゃん、小宇宙くん、など。これで、まりんちゃん、こすもくん、と読むらしい。嫌な傾向だと思う。海ちゃんなんて、パチ好きに名付けられたのかななどと勘繰ってしまう私も私だが。

BGM/アルバム「見知らぬ世界」

柔軟な言葉

2003年11月28日 思想もどき
 時代と共に言葉は変わるらしい。世の人々は皆、その変化を受け入れ且つ自らも変化した言葉を使用しているようだ。如何ともし難い不本意な流れだと感じるのは、私が柔軟性のない頑固者だからか。私は古き良き日本語を美しいと思う。近代ならば谷崎の綴る日本語は大好きであり、現代ならば北村薫の操る日本語が綺麗だと感じる。また言葉は辞書の解釈通りに使われて然るべきだとも思う。因って昨今の言葉の変化には、戸惑いと嫌悪感を覚える。うっかり自分がその手の言葉を使ってしまったときなど、激しく落ち込んでしまう。以前にも書いたが、まったりを雰囲気表現で使うのは許しがたい。日本人としてあるまじき言葉遣いだと思う。だから私は味覚表現以外では絶対に使わない言葉だ。また、超、マジ、などは世に定着し過ぎている為、自然と耳にする機会も多く、私もうっかり口にしてしまうことがあるが言った後で嫌な気分になる。綺麗な言葉だとは思えないからだ。日本語には他国語にはない大きな特徴がある。ひらがな・カタカナ・漢字。このみっつに加えてローマ字やアルファベットも定着している。これだけの記号=言葉の表現方法を持つ国は他になかろう。多様な文化が入り乱れて言葉が増えるのはいい。けれども、基本として日本語は流暢であって欲しいと願っている。そして私は他者がどうあろうと、流暢な日本語を操りたいと思う。

 しかしながら所謂、業界用語、的な言葉には寛容であったりもする。業界通ぶった、ワイハ、などは論外だが、その業界で長く使われてきた言葉は辞書通りでなくとも特にどうも思わない。私自身も未だに、熱を出したときに熱発、絶対だと思ったときに鉄板、というような言葉を使ったりもする。前者は競馬業界、後者は博打打ちの言葉である。以前は競馬業界に身を置いていたことがあった由縁だろう。それでも、マンシュウ、はどうしても受け入れることができなかった。漢字で書くと、万舟。これは競馬で言うところの万馬券に該当する舟券のことであり、即ち競艇業界用語が競馬業界に流れてきたものなのだから、その言葉は競艇業界でのみ使われるべきだと思ったからだ。ワード、とは言葉のことである。しかし出版業界では、言葉数ではなく文字数の表現として使われる。原稿依頼で、20w×20l、と書かれていれば1行に20文字で20行という意味である。w=ワード、l=ラインだ。ラインはともかく、ワードの使い方は辞書通りではない。それでも業界としての通例表現であるからして、受け入れる。始めは違和感を感じたもののすぐに慣れた。

 言葉は慣れるものである。先に書いた、超、マジ、なども耳に馴染んでしまった為に自身も口にしてしまうことがある。昨今、まったり、を雰囲気表現に使う者はとても多く、従って耳にする機会も多い。それでも慣れないのは何故だろう。考えて、ひとつ思い当たったことがある。私は某巨大掲示板に頻繁に出入りするようになり、4年以上の月日が経つ。専用ブラウザも入れている。まったり、がここ迄蔓延する前に、マターリに慣れてしまったからかもしれない。マターリはいいのだ。辞書にない言葉であり、某巨大掲示板住人用語だから。某巨大掲示板用語にはいろいろな種類がある。マターリを始めとし、キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━!!!!、(’A`)/マンドクセー、など数限りない。大概に一行顔文字が付いてくる。私のPCの辞書登録はこんなもので埋め尽くされている。しょぼんを一発変換すると(´・ω・`)、うまーを一発変換すると(゜д゜)ウマーが出てくる。因みにこれらのカタカナは、ここでは便宜上全角で表示しているが、半角でなければもにょる。この、もにょる、も元は同人用語だったものがネット用語と化したものらしい。もにょるの他に、DQN(ドキュン、ドキュソ)などの言葉もある。これらは実に上手い表現だと思う。馴染んでしまった今、もにょるやらDQNやらを他の言葉に言い換えるのが困難になっている程だ。それもどうかと思うが。この日記では、冒頭に書いたように綺麗で流暢な、いや技術がそこ迄追いついていないので、少なくとも正しい日本語で書くように心がけている。そして自分の好きな言葉を使うようにしている。辞書にあり、その意味通りに使われていても好きではない日本語もあるのだ。

 フィクションの本を読む。内容が面白ければ言わずもがなのめり込む。しかしその途中で間違った使い方をされた言葉や好きではない言葉が出てきた瞬間、醒めて現実に引き戻される。好き嫌いが激しいというか、キャパが狭いというか……。ノンフィクションの本ならば余り気にならない。特にノンフィクションで「」内にその手の言葉が出てきたりしたら、逆にリアリティが増したりする。それはノンフィクション内にフィクションが混入されていないことの証明と、私には思えるからだ。気取ったり構えたりして文章を綴ると、著者のその意識はどうしても滲み出てしまうものなのだ。如何に上手くその意識を隠そうとしても、読むものが読めば見破れる。ノンフィクションを書く怖さはここにある。フィクションには気取りや構えが見えても構わない。むしろ、程度問題ではあるが多少見え隠れしている方が、読者であるこちら側にも著者の緊張感が伝わる。就寝前に読書をする習慣が付いて15年以上経つ。以前、私の枕元には必ず一冊の本があった。PDになり集中力がなくなってからは読みかけ・未読を含め数冊の本が散らばっている。今は「カブキの日」「デカルト」「心が晴れるノート」「ファイト!」など。その中でここ数日毎日読んでいるのは「拷問全書」である。大変に興味深い本で面白い。知らないことを知りたいと思う業を無くしたら、私は廃人となってしまうだろう。多くの書物に触れることで、言葉への拘りは薄れるだろうか、それとも今以上に増すのだろうか。綺麗で流暢な日本語を好みつつも、変化を受け入れられるようになりたいとは思う。それでも味覚表現以外での、まったり、は禁止。好きな作家がこれを使ったら嫌いになるかもしれないくらいダメである。禁止。
 のび太は偉大なる作家である。彼の日記にはこう書かれている。
 「朝起きて、昼寝して、夜寝た。」
 どのような賞賛の言葉を浴びせてもこの日記を前にしては翳んでしまう。文章を書く上で、長文よりも短文の方が難しいと言われている。ひとつの言葉でより多くのことを表現し、長文では許される無駄を片っ端から排除しなければならない。小説の世界でも長編よりも短編に名作は少ないと感じる。それがのび太はどうだ。たった一行でその日一日の全てを要約できる才を持つ。少し学べば素晴らしい俳人になれるであろう。世で彼の才能はあやとりと射撃しか認められていない。しかし私は彼に多大なる文才を見る。彼のように無駄を省ききった文章を書けるようになりたいと思うものだが、これでは仕事が来ないのが難である。適度な無駄を散りばめなければ商業的には成り立たないのだ。そう思うとやはりのび太は作家よりも詩人に近いのか。この才が埋もれているのは非常に勿体無い。是非花を咲かせるべきである。

 人生は死ぬ迄の暇潰し、との名言を残したのは故・青山正明である。恐らく彼も胡蝶の夢の住人であったのではないか。この明言を逃げと捉える者も多い。つまらん人間である。人生に於いて何に重きを置くか。誰しもがモラトリアム期に考えることだろう。学問・仕事・恋愛など形而上の物事に重きを見出すことこそ逃げではないかと私は考える。人間の脳の7〜8割は眠っていると考えられている。形而上の物事に重きを置く人間は9割を眠らせているのではないだろうか。それを悪いとは思わない。彼らは生活という物に重きを置いているに他ならず、また生活がなければ生きていくことそのものが困難だからだ。けれど世捨て人とも称される私は青山正明に激しく同意する。正に今の私の現状がそうであるからだ。生きていくことに精一杯な人間は多いだろう。その反面、その日一日死なずに生き延びることに精一杯な人間もおり、私は後者である。人生に価値などない。死ねば全ては無になる。どのような生き方をしようと、どのような死に方をしようと、基本的に人は土へと帰る。私はいつ土に帰っても構わない。残されたひとつの夢は私という人間がこの世に生きていた証を残すことであり、それが叶えば自ら土へと帰る可能性もある。この世は余りにも私にとって生き難い世界なのだ。主治医も、私にとってこの世は生き難い世界だと明言している。

 少し前、近所のビルから空を飛ぼうとしたことがある。そのとき眠剤を入れて眠気が来るのを待った。眠気がきたところで恐怖心を薄めて飛ぼうとしたのだが、眠気がくる前に空から銀色の粉が舞ってきた。それを掴もうとしているうちに目が冴えてしまい、未遂に終わった。この話を親にしたとき、親はこう言った。あんたが死んだら私も死ぬわよ。阿呆かと思った。これが私の希死念慮に歯止めをかけられると思っているのか。自らの存在価値が他者である私にそれ程迄の影響を持っていると何を根拠に信じられるのか。自意識過剰。これらをひっくるめて主治医に話した。主治医が述べた意見は新鮮且つ衝撃であった。君の親は自分の人生を君に依存している。成る程。逆転の発想である。私の存在が親自身の存在価値であり、それを失ったら自分も生きていられないということだったのか。親を生かせる為に希死念慮を押さえ込もうとは思わないが、とにかくこの意見は新鮮であった。

 話は戻る。形而上の学問・仕事・恋愛などに重きを置いて生きている人々はそれらに依存しているのではないか。リストラに遭い廃人のようになってしまったという人の話をメディアはよく取り上げる。彼らは自らの存在価値を仕事のみに依存していた為、それを失うと同時に廃人と化すのであろう。何に重きを置くかは個々の問題であり関与する気は更々ないが、ひとつ言えることはあると思う。ひとつの物事のみに重きを置くのは大きな危険を孕んでいる。長くこの世に留まりたければ、重きをやや軽くして分散させておく方が利口だろう。これを逃げ道と呼ぶ人もいるかもしれないが、生き延びるための知恵である。何かを極めるにはそれに没頭しなければならない。それのみに重きを置く必要が生じる。しかしながら、何かを極める必要がある人間がこの世にどれだけいるか、果たして疑問である。貴方の代わりはいない。こんな台詞は嘘だ。虚言に惑わされてはならない。生き延びるには多芸でなくとも多趣味であるに越したことはない。

 と書き綴りつつも私は現在多芸でも多趣味でもない。別にこの世に留まりたいとは思っていないし、周囲に死ぬなと言われているから生きているだけなのでいいのである。死なないことで精一杯。ひとりだけ、昔働いていた職場で尊敬できる人がいた。中間管理職にあった50代の女性だ。彼女の仕事は私からは要領が悪く見えたがまあそれはともかく懸命にこなし、部下を大切にする為、上司に媚び諂うこともなく、人の世話を焼くことが好きであり、人に頼られれば実に親身になってくれる人であった。当然ながら人望も厚い。彼女は私を大切にしてくれたのでいろいろと話を聞いてもらった。彼女自身の苦労話も聞かせてもらった。彼女は多趣味でもあった。乙女心と大人としての自覚や責任を両立させていた女性。家庭も持っていた。仮に私が後20年、30年と生きるならば彼女のようになりたいと思う。容姿は年齢相当であるが内面から輝いており、自己卑下と自信のバランスを非常に上手に取っていた。職場から去って今は疎遠ではあるが、私は今でも彼女が好きだし尊敬している。

 定年を迎え仕事を失っても、彼女は活き活きと生活するに違いない。多趣味なので仕事に割かれていた時間をそちらに当てて、より充実した日々を過ごすであろう。子供をひとりの、自分とは別人格の人間と捉えていた。彼女はきっと子供が自殺未遂をしても我が親のような発言はしないに違いない。単純に未遂で終わったことを喜びそうだ。私の親も苦労人であり、その点では彼女との共通項があると言える。違いは多趣味かどうかだ。多趣味な人間は依存事項が多いのでそれらに気持ちが分散される。私の親は趣味らしい趣味もないので私への依存が強く、別人格だと理解はしていても納得ができていないようだ。なので親の発する言葉の多くは私の中で上滑りしている。私に親身になっている自分が好き、という気持ちが見え隠れする点に嫌悪を覚えることもある。私は親を嫌いではないが、苦手ではある。依存されるのは重い。私の抱えている諸事情は環境遺伝されると言われている。思えば確かに私の親にもその傾向が見て取れる。普通は治療に取り組まずとも40代にもなれば自然と解寛されると言われている諸事情であるが、50代半ばの私の親に解寛の気配は見えない。更に私の親は私にはない諸事情をもうひとつ持っていそうである。私は医者ではないので正しい診断はできないが、きっと合っているだろう。

 人生は死ぬ迄の暇潰し。激しく同意する。私は諸事情の解寛の目処が立っていないことに加え、元々子供嫌いなので遺伝子を残す気はないが、もし、仮に、子供を持ったとしたら書初めでこの言葉を書かせたいと思う。病んだ親が不健全な子供を育てることになりそうだ。やはり子供は持たない方が私には懸命であろう。うちのは欲しそうだが諦めてくれ。パキやソラや各種眠剤等を服薬している限りは叶わぬ夢だし、今は希死念慮を押さえるという約束を守ることで精一杯なのだ。ついでにこの日記の所在を探すのもできれば勘弁して欲しい。
 20代後半から30代前半、企業に属する者はひとつの転機を迎えることが多いようだ。責任の伴う立場に立たされるようになるらしい。最近、私の身近な人間でふたり、責任ある立場に立つか否かで悩んでいた及び悩んでいる者がいる。ふたりの共通項は、責任の伴う立場には立ちたくない、と主張していることだ。理解はできる、納得はできない。ふたりともそれだけの力があると見込まれて打診を受けた筈なのだ。私は彼らの仕事振りを現場では見ていないので想像でしかないが、素の彼らを見て確かにそれだけの力を持っていると思う。何故自分の力を出し切ろうと思わないのか、何故自分の裁量の幅を広げたいと思わないのか、何故責任という言葉の前で逃げ腰になったり二の足を踏むのか。実に勿体無い話である。彼らにとっても、企業にとっても、彼らの部下になる筈だった人間たちにとっても。裁量の幅は広ければ広い程いいに決まっている。給料も上がれば上がる程いいに決まっている。これらの利益を捨てて迄、彼らは責任を負いたくはないと言う。現代っ子だ、と思った。

 野心。野望。競争心。向上心。戦後、これらの心持は世代が重なるにつれ薄れていっていると言われている。個人差はあるが、全体として見れば確かにそうだろう。私の含まれる世代は相当に薄まっている。その中でこれらのモチベーションの高い人間はやはり少ないらしい。彼らに言われた。私は心持を失ってはいない。いつかビッグになってやる、と言って本当にビッグになったのは矢沢永吉である。彼の著書・成り上がりはセールスも良くドラマ化もされた。それに引き換えジョニーは……余談だが、私はつい最近、某ライヴに行く迄、何故かジョニー大倉はキャロル解散後、石倉三郎と名を変えて俳優になっていると思っていた。私の中で男の中の男と言えば、加山雄三でもなければアントニオ猪木でもなく長淵剛でもない。硝子のコップを肴に日本酒を呑む男・石倉三郎なのだ。いや、矢沢もジョニーも石倉もどうでもいい。野心の話である。力があるのに野心を失って小さく纏まっている人間を見ると非常にもどかしさを覚える。事なかれ主義は嫌いだ。

 この日記をつけ始めてから、以前書いた0か100かの思考を治す為の行動療法に見切りをつけた方がいいように感じ始めている。自分の思いや考えをこの場で言語化していること及び身近な人間のいろいろな話に因っている。0か100か思考を治し、広く浅くの人間関係を身につけるということがどんな弊害を含んでいるのかを考えた。広く浅くということは、世に憚る莫迦をも受け入れるということに等しいのだ。そんな人間関係が果たして自分に必要だろうか。即断できた。社会で歓迎される円滑な人間関係は広く浅くである。社会とは多くの莫迦とほんの少数の利口で成り立っている。広く浅くは莫迦に喜ばれる人間関係に他ならない。大体利口な人間と知り合ったとき、浅くの関係で済ませたいと思うか。否。では広く深くの人間関係を築くことはできるか。否。余程の幸運に恵まれた者でない限り周囲に莫迦は蔓延っている。莫迦を避けて生きたいという気持ちを捨てられなければ狭く深くを通すしかないのだ。器用な利口なら莫迦を上手くあしらいつつ、広く浅くと深く狭くを使い分けることができるのだろう。私は不器用な人間なので、できない。莫迦に迎合したくはない。愛しの君の歌詞で、他人を羨み自分を蔑み未来を忘れて何処へ行こうか、という一節がある。この冒頭を、他人を蔑み、と間違えそうになることが多々あるらしい。熱く大きな自己愛を自己否定の風呂敷で包んでいるような愛しの君のことだ。きっと間違って口にしかける歌詞の方が本音に近いのだろう。こういったタイプの人間は、多くの人間と接しなければならない場所に属することがとても難儀である。

 莫迦はミスをしたり過ちを犯したりするものだ。責任を回避し続けていれば莫迦の尻拭いはしなくて済むだろう。処世術と自己防衛の果ては責任回避の事なかれ主義に行き着くのか。行き着いてそれで納得して留まるのか。留まったらそこから先に道は作れるのか。

 留まることを否定はしない。時には留まらなければならないこともあるだろう。今の私は留まらなければならない時期である。しかし留まり続ける気は更々ない。少し前はもう一生このままでいいと思っていた。自覚しないうちにどこかで転機を迎えたらしい。絶対に先に進む。社会に出て仕事をするうちに私はふたつの夢を持った。ひとつは数年前に既に叶っている。もうひとつは未だ叶っていない。叶える。どれくらい時間を要するかは不明である。目処は皆無。それでも叶えると思い続け、小さな歩幅ででも進んでいくしかないではないか。私は企業に属せない。そして私の原稿は20点か100点かのどちらかだ。ここでつけている日記は20点である。20点でも書かなければならない。100点の原稿が書ける心身の状態を迎えたそのとき、技術が追いつかないのでは話にならないのだ。継続は力なり、という言葉を昔は信じていなかった。出戻って、離れていた時期の愛しの君らの活動を追い、継続は力であることを知ることができた。有難う。感謝の気持ちを惜しまない。

 人々に消費されたくない。様々な柵に囚われたくない。納得できる形で残る物を作りたい。その為に生じる軋轢ならば甘んじて受け止めようではないか。単純な開き直りではない。思考回路を修正して世に迎合しようと努力し、その後に得た結論なのだ。昔はこういった努力なく自らの思考に絡め取られていた。やっと自分がモラトリアム期の最中にあることを自覚できるようになった。ここからである。今の私が立つ場所は最底辺。ならば後は這い上がるのみである。這い上がるに必要な基礎体力作りの場がここである。ネットに馴染み過ぎた文体を活字用文体に直し、顔文字などは全て排除。私の文章の弱点は構成力にある。身につけよう。数年前、私は自分の原稿に絶対的な自信を持っていた。羞恥心を煽られる若気の至りの極み。それでも最低ラインは優にクリアしている。世には、てにをは、すらもまともに扱えない物書きが溢れている。根拠なき自信を持っていた頃の原稿を読み返し、至らなさは感じた。けれど文章に力があった。その頃の力を取り戻したい。

 知人に絵のモデルを頼まれたことがある。因みに着衣である。その知人に何故私にそれを依頼するのか訊いた。「目に力があるから」との答えを頂戴した。根拠なき自信に支えられていた頃の話だ。恥ずかしい自信が目にをも力を与えていたのだろう。この歳になり、もう根拠なき自信は通用しない。確固とした自信を身に付けなければならない歳になっている。今度私の目に力が宿るときは、確固とした自信に支えられた光を宿していると信じたい。信じつつ、次の一歩を踏み出す先を、踏み出す時期を逃さぬように慎重に足元と前方を見据えるのだ。

BGM/「相剋の家」「ダイスを転がせ」「流星ビバップ」など
 今頃私は都内某ライヴハウス前で開場待ちをしている予定だった。が、今こうして家で日記をつけている。体調が芳しくない。起きてからずっと予期不安に襲われている。無理に出かけたら道中またはライヴの最中に発作が起きる確率がかなり高い。なので念の為、こうして家で安静にしている。予約してあるのでライヴハウスには申し訳ないが致し方ない。シャンシャンを経験してみたいという好奇心の為にパキを数日抜いたのが裏目に出た。何も今日その裏目が出なくても昨日や明日でもいいではないか。実に勝手な言い草である。今頃、愛しの君は都内某ライヴハウス内かその近辺にいるのだろう。観たかった。聴きたかった。今日の不調はこれだけではない。私の体調不良は精神的なものに大きく左右される。先日、外馬に乗り損ねた者に恨まれたと書いた。その者らがどこの誰か私は知らない。しかしながらライヴハウスで遭遇する可能性は多々ある。避けたい。ずっと避け続けるのは困難であるが、とにかく今日は嫌である。いろんな人に疑いの目を向けてしまいそうだ。私が狭量なのだろうか。狭量ではないと思いたい。ないに違いない。誰だってあんな目に遭えば凹む筈だ。友人を得たのは嬉しく、またそれで苛々鬱々もかなり晴れたが、かなりの範疇であり完璧に晴れた訳ではない。精神的に億弱な私にはやはりかなり応える悪意であった。

 そのせいかパキ断薬を試みていたせいか、はたまた効果を実感できないレスタスの服薬をさぼっているせいか、今日の私に現実感はない。元々現実感の薄い人間である。離人症も疑ったが違うようだ。上手く言い表せないのがむず痒いのだが、端的に言うと私には夢と現の区別が付いていない。主治医にもこの話はしてある。主治医曰く、そう思っている自分が現実。しかし夢の中でも同様のことを考えている自分がいる。ではそれも現実ということになり、私の中に夢という観念はなくなり全てが現実となってしまう。こう言うと主治医はやや困っていた。主治医にとって私は扱いにくい患者であろう。勝手に薬の知識を得てくるし、勝手に服薬調整するし、訳の解らないことを言うし。まあそういう人間を相手にするのが主治医の仕事だ。主治医の話もよく解らない部分がある。お互い様だ。

 夢と現の話である。思う故に在り。コギトなんちゃらかんちゃらの訳だ。これは正確な訳であり一般的には、我思う故に我在り、と訳されている。本当は主語はない。この思想は、上記主治医の発言と同じである。そう思っている自分が現実、と。思う故に在りという言葉は有名である。しかしこの思想よりももっともっと前に中国の思想家が唱えた思想がある。胡蝶の夢、という思想。これは今こうしている自分が現実のように思うのが人であるが、そうでない可能性もあるのではないか。こうしている自分は胡蝶の夢の中の存在であり、夢に登場する胡蝶こそが本来の我ではないかという思想だ。私は思う故に在りには同意できない。反して胡蝶の夢にこそリアルを感じる。眠りに付く際、毎日のように考えることがある。私は今から夢の世界に行くのだろうか? それとも現実に帰るのだろうか? 答えは出ない。いや、出ているのかもしれないが、その答えに同意もできなければ実感も伴わないのだ。

 夢と現の区別について、誰しも子供の頃に混乱したことはあるという。朝起きて、みんなが消えていたらどうしよう……。子供の頃に一度は思ったろう。大多数の人間は大人になるに従い、このようなことは考えなくなるらしい。現実に追われて考える余裕がなくなるからだそうだ。そして自分を追っている諸々のある場所こそが現実であると認識できるようになるらしい。私は大人であるが認識できていない。昼夜を問わず夢と現について考えている。某巨大掲示板某板にてこのような感覚を持った人間がスレッドを立てた。数人の同士が現れた。私もそのひとりである。同士とはいえ、各々の夢と現の曖昧さは微妙に違っていることがそのスレの成長と共に判明してきた。スレ住人は少ない。ここ数日はやや多忙だったこともありそのスレは見ていないのだが、もしかしたらもうdat逝きになっているかもしれない。それ程に住人の少ないスレである。住人が少ないということは、この手の感覚を持っている人間が少ないということに等しい。皆、夢と現の区別が付いているようだ。

 私はそのスレでひとつの仮定を提示した。喫煙者は口唇期を抜けきっていないという説がある。口唇期とは肛門期などと同様に子供の成長過程に於いて訪れる通過儀礼のようなものだ。夢と現の混乱は子供の頃は皆が持つらしいのに、成長と共に区別が付くようになる。ということは、この感覚を大人になっても引きずっている者は、何らかの成長に於ける通過儀礼を飛ばしてしまったのではなかろうか? 立証したいと思うが追求していくのが怖い気もしており、簡単な文献を購入したものの未だ読んではいない。仮に立証できてしまったら私の諸事情がまた拗れる可能性を秘めている。卵と鶏、どちらが先か。立証できた暁には諸事情が少し解れる可能性もある。ふたつの可能性を天秤にかけ、億弱な私は今現在前者の可能性を強く感じているため、敢えて勉強を怠らしている。

 以下は以前うちのに送ったメールである。

通勤通学に足を動かす常人たちの中
同じ方向に歩きつつ違う方向に足を進める自分

生きるために食事をとる常人
生かされるために食餌を摂る自分

明日の為に睡眠をとる常人
明日がないから睡眠をとれない自分

夢と現の区別がつく常人
夢が現で現が夢の自分

孤独 閉塞 不足 快感 不快感

人という字は人という字であり人でしかない
記号 それは記号 それは意味を失った記号

昨日今日明日 前後左右不覚

歪んだ平衡感覚 失った時の概念

喜怒哀楽 無無無無

表現は虚言で嘘は得

気になる 気にならない 気にならない 気にならない

思う故在り 胡蝶の夢こそ真実を語り
時を失い羽ばたく胡蝶
胡蝶が自分 胡蝶は自分
今いる自分はまやかしであり蜃気楼であり
全ての概念を無くしたときこそ思え在り得る

概念たる概念とは……そもさん!

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説破してください。

 メールの件名は無題。説破はされていない。できないようだ。私の卒論は或る小説を元にした記号論であった。今でも記号という物についてよく考える。全ては記号である。あなたは誰ですか? この質問に正確に答えられる人間に出会ったことはない。私も答えられない。きっと利口は思う故に在りに基づいた回答をしてくるだろう。しかし思う故に在りという思想に否定的な私にはその回答に満足はできない。そして胡蝶の夢に囚われている自分はこの質問を前には口を閉ざすしかない。あなたは誰ですか? の質問に対して名前を始めとし、自らの育ちや境遇、職業などに基づいて回答してくる人間は莫迦の極みである。名前や職業は言うまでもなく、育ちや境遇すらも言葉に変換された時点で全て記号と化す。言葉という記号は便利な物であるが、言葉にした時点で記号と化す為に回答から遠ざかってしまう。死ぬ前には正確な解答を出したい。その反面、名前その他で回答しきれた気になれる莫迦に羨望してならない。どちらが幸せなのだろう。