土曜からうちのが冬休みに入り、頗る機嫌が悪い。土曜は私が寝てしまい、夕食を家に常備しているレトルト物で済まさせてしまった。日曜は簡単ながら昼食・夕食を作った。夕食の献立は焼き魚。昨日は友人と昼夜外食した為、うちのの夕飯は作っていない。今夜はうちのは友人と呑みに行っている。日曜・今日とうちでは大喧嘩が繰り広げられている。昨日は喧嘩ではないがずっと嫌味を言われていた。まず日曜。土曜に寝てしまい夕食が作れなかったことに対し、ぐちぐちぐちぐちと嫌味の連発。その夜、うちのは小動物二匹への夕食もあげてくれなかった。そのことに対してのみ、日曜に苦言を呈した。うちのの夕食を作らなかったのは私が悪い。弁解の余地なし。けれど、小動物二匹は元々私がひとり暮らしの頃から飼っていたとはいえ、今はふたりで飼っている。私が寝てしまって起きないと判断できたのなら餌だけはやって欲しかった、と。この苦言に対するうちのの返答。小動物二匹の世話はお前の仕事、責任感を持て。責任感は言われる迄もなくある。それでもできない日というのがあるのだ。そういうときはフォローして欲しい、と頼んだところこう言われた。これで俺が餌をやって、お前が自分が寝ても餌をやってくれるからいーや、と甘えられたら嫌だ。……感謝こそすれども、それでいーやとは決して思ったりしない。でもあんたはそういう目で私を見ていたのか。もうがっかりである。本当に悲しくなる。ちゃんとした生活をしろ! する気を持て! とも言われた。ちゃんとした生活リズムを築きたい気持ちは常にある。でもできない。常に自己嫌悪。できていたら働きに出ている……。私のPD・諸事情を解ってくれてはいなかったのか……。後で、感情的になり過ぎた、と謝られたし感情的になる気持ちも理解はできるのだが、数日経っている今でも悲しい。働きたくても働けない私にとって、稼いでいる者が偉い理論は非常に惨い。このことは冷静なときはうちのもよく解ってくれているのだが、感情的になるとやはり出てしまうようだ。感情的になっているだから仕方がない、とは思えない。悲しいものは悲しい。
今日の喧嘩は、うちのが冬休みに入ってから全く飯を作ってもらっていない、とうちのが言い出したことに始まった。おまいは一昨日何を食いましたか、と小一時間(以下略。土曜は私が全面的に悪かった。日曜は簡単ながらもちゃんと作った。昨日は私は外食してきた。夕飯も外で済ませてくる、と電話したときにうちのは、わかった、と言ってすぐに電話を切った。なのでうちのの夕食の買い物を素材も弁当も何も買わずに帰宅した。うちのが、俺は食ってないからなんか買ってきて、と頼んでくれていたら当然買って帰った。しかし。私が出かける際に、俺もどっか出かけるかも、と言っていたうちのである。私の用件を聞いてすぐに電話を切られ、家にいるのか外にいるのかも判らない。そんな相手に無駄になるかもしれない夕食を買って帰る人はいるのだろうか? そしてそんな相手に、気が利かないと言われて腹を立てない人はいるのだろうか。いるかもしれない。でも莫迦だと思う。そして今夜。うちのは友人と呑みに出かけた。うちのの脳内では、冬と言えば鍋、という図式があるらしい。私にはない。なので言われなければ作らない。そもそも私は余り鍋が好きではないのだ。言えば作る。今迄言わないでいて、鍋が出てこない、と急に言われても私には、またいちゃもんかよ、としか思えない。また、がポイント。
本来、昨日の夕食はジンギスカンの予定だった。けれども友人とラーメン話に花が咲いて今日に持ち越し。ところが今日になってうちのが、友人と呑みに行く、と言い出した。因ってジンギスカンは明日の夕食になる。夜は年越し蕎麦だから。これがうちのには解せなかったらしい。そういえば、去年から今年にかけての年末年始にうちのの実家に泊まりに行ったとき、夕食後に蕎麦が出て私は少し驚いた。私の家では大晦日の夕食=蕎麦だったのだ。育った環境の違いは大きい。100歩譲って明日の夕食にジンギスカン、その後で蕎麦を提案したのだが、鍋に拘り続けるうちの。元旦は雑煮、3〜4日は旅行なので2日に鍋でいいではないか。よくないらしい。とにかく年内に鍋を食べたく仕方がないようなのだ。鍋の後のおじやは大好きだが、鍋そのものってそんなに美味いか? 解らん。年を越してもまだ冬だろ! 2日でいいじゃないか! と言うもうちのはずっと怒っていた。妥協案として、明日の昼にジンギスカン、夜に鍋を提案するも、昼からジンギスカンはイヤだ、と却下された。こちらも苛々が募る。手の込んだものが食いたいだの何だの言うが、鍋だって切って煮るだけじゃねえか! と。心の中の叫び。元旦の食事にも話が飛んだ。私は雑煮しか作るつもりがなかったのだが、うちのが御節が食べたいなどと言い出した。あれは手間暇がかかるんじゃ! 金もな! と喉元まで出かかるも飲み込む。大人。ネットで簡単で余り金額のかからない御節を検索していると、うちのが、御節はいい、と言い出した。どっちじゃ! 解った、では雑煮だけ作る、と言ったら激しく抵抗。私は過去に2度、雑煮を作って悪評を得ている。1度目は確かに自分でも失敗だったと思った。2度目は美味しくできたと思ったのに、うちの曰く、また鶏がらの味しかしない。私が作る雑煮は鶏がらで出汁を取るのだ。初回は鶏がらスープの取り方を失敗した自覚がある。2度目は市販の鶏がらスープを利用。私にはかなり美味だったのだが……。そしてこうもイマイチと言い続けられると、どうにか同じ出汁で美味いと言わせたいと思うものではないか。因って来年の雑煮も鶏がらベースで1・2回目の失敗部分を補正しつつ作る予定だったのだが、やめた。出かける直前にうちのが、お前の雑煮は不味い、と言い放ったのだ。苛々爆発。もう2度と私の作ったもんは食うな! 食わねえよ、その代わり何も作んな! 作るなってことは私は何も食うなと言うことか。腹立たしいことこの上なし。
明日の昼はジンギスカンの予定、夜は鍋、夜食に蕎麦、元旦は簡単な御節と雑煮を作る予定。雑煮は鰹ベースの淡白な物を作ろうかと思っている。頭を下げてくるまで絶対に食わせてやらん。何度も本人に指摘している、うちのの一番悪いところ。良いところや上手くできたことを褒めずに、その近くにある悪いところやできていない点を貶す。例えば、今日は洗顔後にゴマージュパック→角栓取りパック→美容液パックをした。肌はしっとりもちもちのすべすべである。それをうちのに言うと小さなニキビを見つけて、ここ吹き出物あるよ。瑣末なところではなく全体を見ろ! キッチンの掃除をしたと告げる。居間の掃除は? 今日は! キッチンを! 掃除! したと! 言っている!! 大体言わなきゃ気付きもしないくせに難癖ばっかりつけてくんな! キッチンでも居間でも掃除したと言って、綺麗になったね、と言われたことが殆どない。料理をする。珍しい、100ヶ月ぶりだ、などと言われる。100ヶ月前、私はあなたと知り合っていませんが、何か? この日記を読んでいる男性がどれくらいいるか解らないけれど、こういう物言いは気をつけるべきだと思う。できたことや作った物を褒められたり喜ばれたりすると、またやるぞ! と思うが、別の箇所の粗をそのときの物事と比較して貶されると途端にやる気が失せる。その最たる例。うちのはよく私に、〜〜できたことが一度もない、〜〜したことが一度もない、という言い方をする。できたこと、したことがあっても。毎日・毎回のことでなければ、たまのことだと全てなかったことになるのか……、ととても侘しくなる。どうせ忘れられるのならできなくて・しなくていいや、と思わされる。今日、うちのが出かける際に着ようとしていたコート。かなり前にボタンの付け直しとポケットの補修を頼まれて糸を買ってきた放置していた…
今日の喧嘩は、うちのが冬休みに入ってから全く飯を作ってもらっていない、とうちのが言い出したことに始まった。おまいは一昨日何を食いましたか、と小一時間(以下略。土曜は私が全面的に悪かった。日曜は簡単ながらもちゃんと作った。昨日は私は外食してきた。夕飯も外で済ませてくる、と電話したときにうちのは、わかった、と言ってすぐに電話を切った。なのでうちのの夕食の買い物を素材も弁当も何も買わずに帰宅した。うちのが、俺は食ってないからなんか買ってきて、と頼んでくれていたら当然買って帰った。しかし。私が出かける際に、俺もどっか出かけるかも、と言っていたうちのである。私の用件を聞いてすぐに電話を切られ、家にいるのか外にいるのかも判らない。そんな相手に無駄になるかもしれない夕食を買って帰る人はいるのだろうか? そしてそんな相手に、気が利かないと言われて腹を立てない人はいるのだろうか。いるかもしれない。でも莫迦だと思う。そして今夜。うちのは友人と呑みに出かけた。うちのの脳内では、冬と言えば鍋、という図式があるらしい。私にはない。なので言われなければ作らない。そもそも私は余り鍋が好きではないのだ。言えば作る。今迄言わないでいて、鍋が出てこない、と急に言われても私には、またいちゃもんかよ、としか思えない。また、がポイント。
本来、昨日の夕食はジンギスカンの予定だった。けれども友人とラーメン話に花が咲いて今日に持ち越し。ところが今日になってうちのが、友人と呑みに行く、と言い出した。因ってジンギスカンは明日の夕食になる。夜は年越し蕎麦だから。これがうちのには解せなかったらしい。そういえば、去年から今年にかけての年末年始にうちのの実家に泊まりに行ったとき、夕食後に蕎麦が出て私は少し驚いた。私の家では大晦日の夕食=蕎麦だったのだ。育った環境の違いは大きい。100歩譲って明日の夕食にジンギスカン、その後で蕎麦を提案したのだが、鍋に拘り続けるうちの。元旦は雑煮、3〜4日は旅行なので2日に鍋でいいではないか。よくないらしい。とにかく年内に鍋を食べたく仕方がないようなのだ。鍋の後のおじやは大好きだが、鍋そのものってそんなに美味いか? 解らん。年を越してもまだ冬だろ! 2日でいいじゃないか! と言うもうちのはずっと怒っていた。妥協案として、明日の昼にジンギスカン、夜に鍋を提案するも、昼からジンギスカンはイヤだ、と却下された。こちらも苛々が募る。手の込んだものが食いたいだの何だの言うが、鍋だって切って煮るだけじゃねえか! と。心の中の叫び。元旦の食事にも話が飛んだ。私は雑煮しか作るつもりがなかったのだが、うちのが御節が食べたいなどと言い出した。あれは手間暇がかかるんじゃ! 金もな! と喉元まで出かかるも飲み込む。大人。ネットで簡単で余り金額のかからない御節を検索していると、うちのが、御節はいい、と言い出した。どっちじゃ! 解った、では雑煮だけ作る、と言ったら激しく抵抗。私は過去に2度、雑煮を作って悪評を得ている。1度目は確かに自分でも失敗だったと思った。2度目は美味しくできたと思ったのに、うちの曰く、また鶏がらの味しかしない。私が作る雑煮は鶏がらで出汁を取るのだ。初回は鶏がらスープの取り方を失敗した自覚がある。2度目は市販の鶏がらスープを利用。私にはかなり美味だったのだが……。そしてこうもイマイチと言い続けられると、どうにか同じ出汁で美味いと言わせたいと思うものではないか。因って来年の雑煮も鶏がらベースで1・2回目の失敗部分を補正しつつ作る予定だったのだが、やめた。出かける直前にうちのが、お前の雑煮は不味い、と言い放ったのだ。苛々爆発。もう2度と私の作ったもんは食うな! 食わねえよ、その代わり何も作んな! 作るなってことは私は何も食うなと言うことか。腹立たしいことこの上なし。
明日の昼はジンギスカンの予定、夜は鍋、夜食に蕎麦、元旦は簡単な御節と雑煮を作る予定。雑煮は鰹ベースの淡白な物を作ろうかと思っている。頭を下げてくるまで絶対に食わせてやらん。何度も本人に指摘している、うちのの一番悪いところ。良いところや上手くできたことを褒めずに、その近くにある悪いところやできていない点を貶す。例えば、今日は洗顔後にゴマージュパック→角栓取りパック→美容液パックをした。肌はしっとりもちもちのすべすべである。それをうちのに言うと小さなニキビを見つけて、ここ吹き出物あるよ。瑣末なところではなく全体を見ろ! キッチンの掃除をしたと告げる。居間の掃除は? 今日は! キッチンを! 掃除! したと! 言っている!! 大体言わなきゃ気付きもしないくせに難癖ばっかりつけてくんな! キッチンでも居間でも掃除したと言って、綺麗になったね、と言われたことが殆どない。料理をする。珍しい、100ヶ月ぶりだ、などと言われる。100ヶ月前、私はあなたと知り合っていませんが、何か? この日記を読んでいる男性がどれくらいいるか解らないけれど、こういう物言いは気をつけるべきだと思う。できたことや作った物を褒められたり喜ばれたりすると、またやるぞ! と思うが、別の箇所の粗をそのときの物事と比較して貶されると途端にやる気が失せる。その最たる例。うちのはよく私に、〜〜できたことが一度もない、〜〜したことが一度もない、という言い方をする。できたこと、したことがあっても。毎日・毎回のことでなければ、たまのことだと全てなかったことになるのか……、ととても侘しくなる。どうせ忘れられるのならできなくて・しなくていいや、と思わされる。今日、うちのが出かける際に着ようとしていたコート。かなり前にボタンの付け直しとポケットの補修を頼まれて糸を買ってきた放置していた…
現在、30日の朝。昨夜、21:30頃に床に就き、今朝は8:20に起床。素晴らしき小学生的生活。
昨夜、通常の8時間ほど早く寝たのには理由がある。特に規則正しい生活をなどということではなく、単に友人と会ってやたらと食事をし、帰宅してから急速に満腹感が襲ってきて動けなくなったから寝たのだ。友人と会ったのが14時頃。別れたのが19時頃。その間にカレー→お茶→ラーメン。いやもう食った食った。しかもお茶のときはケーキを2つ食す。上品さの欠片もない私はケーキセットがあろうとも、どうしても食べてみたいケーキがあれば単品でも注文する。昨日の喫茶店では私がケーキセットとケーキ単品を頼んだところで、ウエイターが去ろうとした。友人の注文が済んでいないのですぐに呼び止めたのは当然だが、客の話は最後迄聞け。この喫茶店の名物は、スイートポテトだと独断決定している。味は非常に美味しい。けれど見た目が、とぐろうんこ。このうんこの佇まいを見せたくてこの喫茶店に友人を連れて行った。友人は当初、うんこ、と聞いて浅草にあるかの有名なオブジェを連想したようだが、違う。あくまでとぐろうんこなのだ。私も初めて見たときは、あまりのとぐろっぷりに驚いた。美味い。でもうんこ。こういうギャップは大好きだ。
友人と会うことになったのは、私の一番のお気に入りのカレー屋に彼女が興味を持ったからだ。このカレー屋、ややクセがあり、物凄く辛い。私は餓鬼舌なので辛いものは苦手なのだけれどもここのカレーは平気。後でクる辛さなのだ。その昔、親を連れて行ったこともある。ココイチの方が美味いと言われ、非常に立腹した記憶がある。今思えば、家庭的カレー好きには確かに余り好まれないカレーかもしれない。けれど家庭のカレーと外食のカレーは別物と考えているうちのや私は大好きな店なのだ。この店、店から50メートル離れた先からもカレーの香りが漂う店で、そこそこ名の知れた店である。友人も名前だけは知っていたらしい。気にはなっているが、言ったことがないと言っていた。行っていない理由は、彼女の彼氏が一度行って、2度と行きたくないほど辛かった、と言っていたかららしい。確かに辛いが食べてみる価値はある! と私が力説し、昨日行くことになった。非常に汗をかくのですっぴんで来るように行っておいたのに彼女はメイクをしてきた。私はすっぴん。食べつつだくだくと汗をかく。一口目で額に汗が滲み、食べ終わる頃には頭皮が汗で湿る。つーっと汗が流れ出す程に辛い。食べるサウナといった感じか。久々に食べてとても幸せ。友人も気に入った様子で良かった良かった。
それからマツキヨで彼女は彼氏用の保湿クリーム購入、私は自分用のゴマージュパックを購入。友人に、ボディ用保湿に一番効くのはどれ? と訊かれるも私は普通のボディローションで事足りるのでよく解らない……。前以ってリサーチ依頼をしておいてもらえれば調べてこれたのだが。うちのも冬になると体が尋常でなく乾燥する性質であり、今回は彼女の彼氏に人身御供になってもらい、良ければうちのにも購入する予定。私のゴマージュパックは当然リサーチしてからの購入。その足で伊勢丹に行き、アナスイで来月廃盤になるという物から、気になっていたものを2品購入。しかし廃盤間際の物の中に他にも気になるもの多数。買ってしまうか悩み中。以前、FSPの撤退祭りで要らない物迄コンプしてしまった経験を活かし、今回は慎重に物色していく予定。気になる代物とはリキッドアイライナーの色物なのだが、種類が多過ぎてもう何がなにやら。今回はカラーリキッドでグレーを購入してくるも、帰宅後に既に持っているピエヌにやや似ていることを思い出して少し後悔。所持しているマジィーシルのグレーに合わせてのグレー購入にしたのだが、似たものがあるのでは余り意味がない。紫とピンクが気になりだした。紫はガリュのマスカラに合いそうである。スティックフェイスカラーもピンク系が欲しかったのにイエローベース向きの色出しが多く、仕方なく400番の真っ赤を購入。白系もハイライトに良さそうだったがパールがキツくてやや悩む……。後半月、ゆっくり考えよう。アナの来月の新作では限定アイカラー2種とアイブロウパウダーのグレーが気になっている。その前にエレガンスのアイブロウペンシルを買えよ、と思うがあれは高いので思い切りが必要。限定品・新作品には余り躊躇がなくなるのに、何故か既に定番となっているものには触手が伸び難い。悪い癖である。余談。先日買った三善のクリンシングクリームを初めて使用。落ちはいいが、ワセリンを顔全体に塗ったかのようで幾ら洗ってもぬるぬる感が残る。なんだ、あの某コスメサイトでの評価の高さは! と憤るも高評価をつけていた人たちは、使用後にちゃんと拭き取ってから洗顔していた模様。商品のシンプルな説明書きはいいけれど、もう一言、拭き取り後に洗顔、とくらいは書いておいて欲しかった。某コスメサイトを知らずに使用している人は、きっと昨日の私同様に苦労していることだろう。
お茶をを飲みつつ、友人と彼氏の出会いの経緯を聞く。ネットだったのか……。昨今、ネットでの出会いが多いのは知ってはいたけれど、まさか彼女がそうだったとは! ネットでの出会いを否定している訳ではなく、10年以上の付き合いになる彼女をよく知る友人として、何となく意外だった。会話はあちこちに飛び、ラーメンの話に行き着く。何故、人はラーメンの話になると、無性に食べたくなってしまうのだろう。ふたりの知るラーメン屋の話になり、行ったことがない店に行ってみよう、となるもどうもいい店が見つからず、前々から気になっていた沖縄そば屋に入ろうとするも、店頭のメニューにあった、麩定食、にふたりで引いてしまった。麩がメインの定食。しかも麩なのに880円。価格設定に激しく疑問を持ち、無難に近くのラーメン屋に入る。ここは自分で具をセレクトできる店。ラーメンによく入っている葱を抜くことができるので私は割と好きな店。けれどがっかり。初めてスープこってりで注文したのにちっともこってりではなかった。ダメだ! こってりってのは、スープの下が見えないくらいに背脂が浮いててなんぼだ! と強く主張したくなるも我慢。大人。まあまあ美味しかった。カレー→ケーキセット+ケーキひとつ→ラーメン+鶏飯を食べても満腹感はこなかった。けれど、立ち上がる際にスカートのホックが漫画のように外れて笑った。帰宅後に急速に満腹感が襲ってきて最低限のやるこをやって就寝。満腹中枢の異常はいつ治るのだろう……。体重が正常に戻った頃に治るといいなあと楽観視。目標はプラス5kgなのである。因みにうちのに出された宿題をひとつこなす。彼女と彼氏の生活費は15〜20万とのこと。そんなもんだろう。うちのの意識改革、なるか?
BGM/アルバム「無限の住人」
昨夜、通常の8時間ほど早く寝たのには理由がある。特に規則正しい生活をなどということではなく、単に友人と会ってやたらと食事をし、帰宅してから急速に満腹感が襲ってきて動けなくなったから寝たのだ。友人と会ったのが14時頃。別れたのが19時頃。その間にカレー→お茶→ラーメン。いやもう食った食った。しかもお茶のときはケーキを2つ食す。上品さの欠片もない私はケーキセットがあろうとも、どうしても食べてみたいケーキがあれば単品でも注文する。昨日の喫茶店では私がケーキセットとケーキ単品を頼んだところで、ウエイターが去ろうとした。友人の注文が済んでいないのですぐに呼び止めたのは当然だが、客の話は最後迄聞け。この喫茶店の名物は、スイートポテトだと独断決定している。味は非常に美味しい。けれど見た目が、とぐろうんこ。このうんこの佇まいを見せたくてこの喫茶店に友人を連れて行った。友人は当初、うんこ、と聞いて浅草にあるかの有名なオブジェを連想したようだが、違う。あくまでとぐろうんこなのだ。私も初めて見たときは、あまりのとぐろっぷりに驚いた。美味い。でもうんこ。こういうギャップは大好きだ。
友人と会うことになったのは、私の一番のお気に入りのカレー屋に彼女が興味を持ったからだ。このカレー屋、ややクセがあり、物凄く辛い。私は餓鬼舌なので辛いものは苦手なのだけれどもここのカレーは平気。後でクる辛さなのだ。その昔、親を連れて行ったこともある。ココイチの方が美味いと言われ、非常に立腹した記憶がある。今思えば、家庭的カレー好きには確かに余り好まれないカレーかもしれない。けれど家庭のカレーと外食のカレーは別物と考えているうちのや私は大好きな店なのだ。この店、店から50メートル離れた先からもカレーの香りが漂う店で、そこそこ名の知れた店である。友人も名前だけは知っていたらしい。気にはなっているが、言ったことがないと言っていた。行っていない理由は、彼女の彼氏が一度行って、2度と行きたくないほど辛かった、と言っていたかららしい。確かに辛いが食べてみる価値はある! と私が力説し、昨日行くことになった。非常に汗をかくのですっぴんで来るように行っておいたのに彼女はメイクをしてきた。私はすっぴん。食べつつだくだくと汗をかく。一口目で額に汗が滲み、食べ終わる頃には頭皮が汗で湿る。つーっと汗が流れ出す程に辛い。食べるサウナといった感じか。久々に食べてとても幸せ。友人も気に入った様子で良かった良かった。
それからマツキヨで彼女は彼氏用の保湿クリーム購入、私は自分用のゴマージュパックを購入。友人に、ボディ用保湿に一番効くのはどれ? と訊かれるも私は普通のボディローションで事足りるのでよく解らない……。前以ってリサーチ依頼をしておいてもらえれば調べてこれたのだが。うちのも冬になると体が尋常でなく乾燥する性質であり、今回は彼女の彼氏に人身御供になってもらい、良ければうちのにも購入する予定。私のゴマージュパックは当然リサーチしてからの購入。その足で伊勢丹に行き、アナスイで来月廃盤になるという物から、気になっていたものを2品購入。しかし廃盤間際の物の中に他にも気になるもの多数。買ってしまうか悩み中。以前、FSPの撤退祭りで要らない物迄コンプしてしまった経験を活かし、今回は慎重に物色していく予定。気になる代物とはリキッドアイライナーの色物なのだが、種類が多過ぎてもう何がなにやら。今回はカラーリキッドでグレーを購入してくるも、帰宅後に既に持っているピエヌにやや似ていることを思い出して少し後悔。所持しているマジィーシルのグレーに合わせてのグレー購入にしたのだが、似たものがあるのでは余り意味がない。紫とピンクが気になりだした。紫はガリュのマスカラに合いそうである。スティックフェイスカラーもピンク系が欲しかったのにイエローベース向きの色出しが多く、仕方なく400番の真っ赤を購入。白系もハイライトに良さそうだったがパールがキツくてやや悩む……。後半月、ゆっくり考えよう。アナの来月の新作では限定アイカラー2種とアイブロウパウダーのグレーが気になっている。その前にエレガンスのアイブロウペンシルを買えよ、と思うがあれは高いので思い切りが必要。限定品・新作品には余り躊躇がなくなるのに、何故か既に定番となっているものには触手が伸び難い。悪い癖である。余談。先日買った三善のクリンシングクリームを初めて使用。落ちはいいが、ワセリンを顔全体に塗ったかのようで幾ら洗ってもぬるぬる感が残る。なんだ、あの某コスメサイトでの評価の高さは! と憤るも高評価をつけていた人たちは、使用後にちゃんと拭き取ってから洗顔していた模様。商品のシンプルな説明書きはいいけれど、もう一言、拭き取り後に洗顔、とくらいは書いておいて欲しかった。某コスメサイトを知らずに使用している人は、きっと昨日の私同様に苦労していることだろう。
お茶をを飲みつつ、友人と彼氏の出会いの経緯を聞く。ネットだったのか……。昨今、ネットでの出会いが多いのは知ってはいたけれど、まさか彼女がそうだったとは! ネットでの出会いを否定している訳ではなく、10年以上の付き合いになる彼女をよく知る友人として、何となく意外だった。会話はあちこちに飛び、ラーメンの話に行き着く。何故、人はラーメンの話になると、無性に食べたくなってしまうのだろう。ふたりの知るラーメン屋の話になり、行ったことがない店に行ってみよう、となるもどうもいい店が見つからず、前々から気になっていた沖縄そば屋に入ろうとするも、店頭のメニューにあった、麩定食、にふたりで引いてしまった。麩がメインの定食。しかも麩なのに880円。価格設定に激しく疑問を持ち、無難に近くのラーメン屋に入る。ここは自分で具をセレクトできる店。ラーメンによく入っている葱を抜くことができるので私は割と好きな店。けれどがっかり。初めてスープこってりで注文したのにちっともこってりではなかった。ダメだ! こってりってのは、スープの下が見えないくらいに背脂が浮いててなんぼだ! と強く主張したくなるも我慢。大人。まあまあ美味しかった。カレー→ケーキセット+ケーキひとつ→ラーメン+鶏飯を食べても満腹感はこなかった。けれど、立ち上がる際にスカートのホックが漫画のように外れて笑った。帰宅後に急速に満腹感が襲ってきて最低限のやるこをやって就寝。満腹中枢の異常はいつ治るのだろう……。体重が正常に戻った頃に治るといいなあと楽観視。目標はプラス5kgなのである。因みにうちのに出された宿題をひとつこなす。彼女と彼氏の生活費は15〜20万とのこと。そんなもんだろう。うちのの意識改革、なるか?
BGM/アルバム「無限の住人」
英国式生活術を教えてくれた友人に絡んでしまって自己嫌悪。今日、書店にて節約関係の本を眺めていたところ、書棚に「イングリッシュ・シンプル・ライフ」とかなんとかハッキリ憶えられないようなおハイソ臭がぷんぷん漂う本があり、友人が言っていたのはこれか? と手にとってみた。いきなり、ゲストを招くときのマナーから始まった。なんじゃこりゃ。「前回きてくれたときのことを思い出し、生野菜が苦手な人なら朝食にポトフを出すなどの工夫を」などと書かれている。パラパラと捲っていくと、「壁を飾ろう」「花を飾ろう」だのなんだの……それ、シンプルか? というような内容ばかり。シンプルではなく「イングリッシュ・スタイリッシュ・ライフ」とかそんなタイトルだったのかもしれない。タイトルはどうでもよく、英国人て……。まずゲストって表現がイヤ。客でいいじゃねーか、と喉元迄出掛かるも書店なので呑みこむ。それに壁。うちには小動物がいるので壁に何かを飾るも引っかかれてズタボロにされるのが目に見えている。花を飾りたい気持ちはあるが、小動物に食われるので却下。全く以って役立たなさそうな本だったのですぐに棚に戻した。その傍に「ドイツ式生活のなんちゃらかんちゃら」という本が数冊並んでいた。どれも同じ著者。どんなもんなんだろう、と捲ってみると正に友人が言っていた通りの生活方法が書かれているではないか! その友人と明日会う為、待ち合わせ時間などの確認の電話の最中にこの話をする。テンションがまだ狂っている為か、無礼な切り出し方をしてしまった。嘘を教えたでしょ! 友人が読んだという英国式の本の話をもう一度よく聞く。どうも今日私が手に取った本とは全く違うらしい。そしてこの手の本は、私の想像以上の数が出版されていることを知った。友人、ごめん。それにしても私が手に取り買ってきたドイツ式と友人の言う英国式は酷似している模様。友人曰く、読んだ英国式の本にはドイツ式は厳しいので日本人には英国式の方が合っている、と書かれていたらしい。じゃあ私が買ってきたドイツ式は……? 友人が出した結論。どこの国でも手際よく無駄なく生活している人は、同じようなことをしているのではないか。同意する。きっと似たり寄ったりの本が英国式だのドイツ式だのの謳い文句で、セレブ願望の強い淑女の財布の紐を緩めるのに一役買っているのだろう。私にはセレブ願望などなく、単に手際よく無駄のない生活方法というものが皆目見当つかない故に買っただけである。今夜から取り敢えずこのドイツ式を読んでみる予定。年内に読了し、年明けには同じく今日買ってきた「日本の思想」を紐解く予定。積読の山は気にしない。そのうち読むだろう。今日買ってきた三冊のうち、最後の一冊が「猫デリレシピ」。洋風レシピが大半だけれども、小動物の御節や誕生日用。そのレシピの中にメインの材料が、うちのもう一匹の小動物のものがあり苦笑。このもう一匹の方、友人知人によく、非常食か? と訊かれる生き物。乾パン100個買っておいた方が余程安上がりですが、何か?
さて、25日から渋々と家計簿をつけ始めている。今日、早速役立った。私が記入しているところでうちのが私のPCの傍を通ったので見せてみる。ほー……、ハァ? 詰問タイム。なんで残高がこれしかないんだ! なんでって貰っている額が少ないからですが何か? とは被扶養者としては言えないので、記入したところ迄の家計簿をプリントアウトして見せる。携帯代かかり過ぎ→絶縁騒動に関わる諸々で電話の回数や時間が嵩んだ為確かに今月、普段の倍くらいかかっている。レトルト物の購入が多い→常備していないと私の食事回数がどんどん減っていく。おやつ購入が多い→これはちょっと減らす方向で考えよう。指摘された中で私が強硬に反対したのは、ウーロン茶のペットボトル購入をやめて煮出しで、という案である。即座に却下。不幸なことに私は煮出しウーロン茶で美味しいものを飲んだことがない。かなり昔からウーロン茶については指摘されており、うちのが煮出しもペットボトルも変わらん、と言い出したことがある。私は絶対に違うと猛反発した。そんならお前が飲んでみて区別がつかなかったら煮出しに切替! となり数日後、私が帰宅してお茶を飲むといつもと味が違う。そして妙に色が濁っている。うちのに指摘。その後、少なくとも私は煮出しウーロン茶を不味いと思うし前置きがなくともちゃんと区別がつく、ということでペットボトル続行となったのだ。今回は、味よりも経済事情を優先しろ、と迫られた。譲りたくない点である。でも悲しきかな被扶養者。月の半分は蕎麦茶にするか……くらいの譲歩の気持ちは芽生えている。以前揉めて実験したときは、私も働けていたので強気に出られたのだが。あんたは普段節約にどういう気を遣っているの? と問われたので答える。
・ウーロン茶はコンビニではなく薬局でコンビニよりも100円安く購入している
・洗剤類などのリピート時は詰替え用を購入
・食材は夕方から夜に買い出しに行き、値引きや半額の物を購入してその日か翌日に食卓に出すなり、冷凍庫で保存するなりしている
三つ目に納得行かなかった模様。冷凍すんな、と。安い物を買ってきたらその日に出せ、と。私は二日前の刺身でも平気で食べてしまえる人間なのだが、うちのは賞味期限や消費期限に拘る。そんなにすぐに傷むことはないのに。そしてうちのから宿題が課された。同棲または結婚している友人に月々の生活費を訊いてみろ。どこもうちよりは多いと思う。他所の生活費を聞いて、うちのがどう反応するか楽しみである。
今月、やっとかなり前に書いた原稿のギャラが入っていた。予定よりも多く。3本振られて、1本は編集者の持ってきたネタが古く且つ資料のソースが某巨大掲示板のニュー速+ということでこちらからボツにさせたものだ。資料を見て一発で某巨大掲示板だと解ってしまう私も私だが、まともな仕事でいくら+とはいえ某巨大掲示板からネタを引いてくるのはどうよ、と。そんなこんなで1本ポシャり、私が書いたのは2本だったのだがちゃんと3本分振り込まれていた。編プロ経由だったので全く期待していなかったのだが、法人のフリーペーパーだったのがラッキーだったのか。法人は金持ちである。このギャラは生活費には回さない。あくまで私の小遣い。また貰っている生活費から私の小遣いを一定額引くことになった。これは家計簿をつけることを渋った私への、うちのからの妥協案である。私が渋ったのは面倒だからというのが第一の理由で、第二にうちのへのプレゼント代が明瞭になるのがイヤだったからだ。第二の理由についてはうちのが、そんならヘソクリを作れ、と言ってきた。家計簿に、ヘソクリ、と書くのも憚られるので名義上は小遣い。この小遣いで私のメイク物とうちのへのプレゼントなどを遣り繰りして行く予定。基礎化粧品は日用品だ。しかしこの小遣いに今日、また難癖がついた。生活費から残った分は好きにしていい=小遣いにしていい。そんなんじゃずーっとバレンタインも誕生日もクリスマスも、うちのへのプレゼントは存在できなくなるかと。取り敢えず周辺リサーチと一ヶ月の家計簿を元に、生活費見直し及びベースアップ再交渉の予定。
さて、25日から渋々と家計簿をつけ始めている。今日、早速役立った。私が記入しているところでうちのが私のPCの傍を通ったので見せてみる。ほー……、ハァ? 詰問タイム。なんで残高がこれしかないんだ! なんでって貰っている額が少ないからですが何か? とは被扶養者としては言えないので、記入したところ迄の家計簿をプリントアウトして見せる。携帯代かかり過ぎ→絶縁騒動に関わる諸々で電話の回数や時間が嵩んだ為確かに今月、普段の倍くらいかかっている。レトルト物の購入が多い→常備していないと私の食事回数がどんどん減っていく。おやつ購入が多い→これはちょっと減らす方向で考えよう。指摘された中で私が強硬に反対したのは、ウーロン茶のペットボトル購入をやめて煮出しで、という案である。即座に却下。不幸なことに私は煮出しウーロン茶で美味しいものを飲んだことがない。かなり昔からウーロン茶については指摘されており、うちのが煮出しもペットボトルも変わらん、と言い出したことがある。私は絶対に違うと猛反発した。そんならお前が飲んでみて区別がつかなかったら煮出しに切替! となり数日後、私が帰宅してお茶を飲むといつもと味が違う。そして妙に色が濁っている。うちのに指摘。その後、少なくとも私は煮出しウーロン茶を不味いと思うし前置きがなくともちゃんと区別がつく、ということでペットボトル続行となったのだ。今回は、味よりも経済事情を優先しろ、と迫られた。譲りたくない点である。でも悲しきかな被扶養者。月の半分は蕎麦茶にするか……くらいの譲歩の気持ちは芽生えている。以前揉めて実験したときは、私も働けていたので強気に出られたのだが。あんたは普段節約にどういう気を遣っているの? と問われたので答える。
・ウーロン茶はコンビニではなく薬局でコンビニよりも100円安く購入している
・洗剤類などのリピート時は詰替え用を購入
・食材は夕方から夜に買い出しに行き、値引きや半額の物を購入してその日か翌日に食卓に出すなり、冷凍庫で保存するなりしている
三つ目に納得行かなかった模様。冷凍すんな、と。安い物を買ってきたらその日に出せ、と。私は二日前の刺身でも平気で食べてしまえる人間なのだが、うちのは賞味期限や消費期限に拘る。そんなにすぐに傷むことはないのに。そしてうちのから宿題が課された。同棲または結婚している友人に月々の生活費を訊いてみろ。どこもうちよりは多いと思う。他所の生活費を聞いて、うちのがどう反応するか楽しみである。
今月、やっとかなり前に書いた原稿のギャラが入っていた。予定よりも多く。3本振られて、1本は編集者の持ってきたネタが古く且つ資料のソースが某巨大掲示板のニュー速+ということでこちらからボツにさせたものだ。資料を見て一発で某巨大掲示板だと解ってしまう私も私だが、まともな仕事でいくら+とはいえ某巨大掲示板からネタを引いてくるのはどうよ、と。そんなこんなで1本ポシャり、私が書いたのは2本だったのだがちゃんと3本分振り込まれていた。編プロ経由だったので全く期待していなかったのだが、法人のフリーペーパーだったのがラッキーだったのか。法人は金持ちである。このギャラは生活費には回さない。あくまで私の小遣い。また貰っている生活費から私の小遣いを一定額引くことになった。これは家計簿をつけることを渋った私への、うちのからの妥協案である。私が渋ったのは面倒だからというのが第一の理由で、第二にうちのへのプレゼント代が明瞭になるのがイヤだったからだ。第二の理由についてはうちのが、そんならヘソクリを作れ、と言ってきた。家計簿に、ヘソクリ、と書くのも憚られるので名義上は小遣い。この小遣いで私のメイク物とうちのへのプレゼントなどを遣り繰りして行く予定。基礎化粧品は日用品だ。しかしこの小遣いに今日、また難癖がついた。生活費から残った分は好きにしていい=小遣いにしていい。そんなんじゃずーっとバレンタインも誕生日もクリスマスも、うちのへのプレゼントは存在できなくなるかと。取り敢えず周辺リサーチと一ヶ月の家計簿を元に、生活費見直し及びベースアップ再交渉の予定。
現在28日の朝。
鮪に中ってやや不調。エゲツナイ生き物を見てにやにや笑いの表情が張り付いてしまっている。卑しいので仕方なし。綺麗事だけで生きているとは思っていない。卑しい・厭らしい部分を覆い隠して生きているのが人間であり、他者の前でならともかく、個の場でならばその卑しさなどを隠しはしない。26日の日記に書いた、友人に教えてもらったURLの話である。いやいや、もう鮪を含めていろんなひとに天晴。何の役にも立たないことに対し、面白ければそれでよし!と労力を使ったり時間を割くのは好きな方だが、ここ迄は幾らなんでもできないし、そんな根気もない。短期集中ならともかく、数ヶ月以上もひとつのサイトやひとりの管理人を観察し続けられるその根気が凄い。そして環境を作り、あらゆる手を尽くしてネタに昇華し、ネタキャラサイトを立ち上げたり、会話のできない人間とチャットを試みたり、本当に凄い。しかし第三者にそれだけの力を使わせるだけの鮪、一年経っても飽きさせない鮪はもっと凄い。絶対に正面からは関わりたくない鮪。なのに観察を経て、正面から関わろうとした人が数人いた。そこ迄人を動かせる鮪って。もう少しオツムがあれば平成の千石イエスになれていたのではなかろうか。間違えなくて良かった、いや、足りなくて良かった。
ヒストリー全て・特別企画全般・資料保存室・FAQしかまだ読了しておらず、他のページはこれから読むのだがここ迄の印象。何度か同意見を目にしたが、やはり鮪はちょっと足りないのではなかろうか。所謂、可哀相な子、ではないかと。そして誰かが述べていたこと、ネットでは肉体的・精神的共に障害があったとしても相手にそれを理解してもらうのは難しいだろう。激しく同意する。この人アレかな? と思ってもそうでないこともあるし、普通だと思っていても会ってみるとアレなこともあるし、自称アレも掃いて捨てる程いるのがネットである。モニタの前では皆平等。アレであろうとなかろうと、けったいな生物の発見、その生態観察は悪趣味で面白い。そしてその生物が他者に迷惑をかけているならば、尚更おちょくったりしたくなるものだ。放置できてこそ大人なのかもしれないが、j3直接関わりたくなくても観察くらいはしていたい気持ちはとてもよく解る・・・る
鮪のことをここでいろいろ書くのは本意ではない。アレな子の陰口を叩きたくない、なんて気持ちは更々なく、単に長くなりそうだからであり、今頃私が思った感想などどれも激しく既出だから。j3鮪の話から自分の身近なところに話を寄せる。さっきから書いているj3、前段落最後のる。これは一般的に言うところのタイプミス、鮪流に言うところの文字化けだ。j3=まあ、る=。なのだ。鮪はかな入力者であり、焦ると英数入力設定のままかな入力をしてしまったり、シフトキーを押し忘れるのでこのようなタイプミスを発信してしまう。観察者たちは最初、j3って何? と思ったようである。私は思わなかった。昨日程、自分がかな入力であることを恥ずかしいと思った日はない。一発でj3などが何を意味しているか、解ってしまったのだ。チラッと頭を過ぎる、鮪と同類、という言葉。ローマ字入力に切り替えようかとすら思ってしまった。それくらいに嫌悪感を憶える鮪なのである。今思ったこと。鮪の存在をあのサイトで知り、あのサイトは友人から教わったURLであり、その友人とはリアルでの会話以上にメッセで会話しており……もしかして私が何度かシフトキーを押し忘れて、る、と書いてしまっての訂正を暗にからかわれたのだろうか。勘繰り過ぎは承知。しかしそんな考えが頭を過ぎる程に鮪と同類はイヤなのである。タイプミスにはくれぐれも気をつけよう。そして今迄もしたことはないがギャルゲーには今後とも手を出さず、同じくエロチャには今後とも手を出さず、同じくサイト開設にも今後とも手を出さず、人の話はきちんと聞き、余りにも美味しい話は疑ってかかろう。話の途中でのタイマーもなくし、人様にいきなり大きなファイルを送ることもせず、人様にいきなり抱きつきもせず、ネット・ストークもせず、会ったことがない人間へのプロポーズもせず……などと書いているとまるで今迄していたかのようだが、当然こんなことは一度もしたことはない。それでも、今後ともやらないように、と固くサバスに誓わせられる程のインパクトがあった。鮪の真逆の言動をしていれば、とてもまともな人間になれそうである。私の親以上に反面教師に最適な人材がこの世にいるとは思っていなかった。
可哀相な子かもしれない鮪の叩きは美味である。悪趣味だが美味なのはしょうがない・・・わさびだ。と書きたくなってしまうくらいに魅了される。河豚の肝のようなものか。食べたことないけど。鮪はアレだとほぼ確信していてもこんなことを書くと性善説採用者に叩かれそうだけれど、私は性善説を採らない者なので気にしない。私がアレだと確信したのは、あのサイトのトップページの注意書きに、サイトの存在に対して鮪が許可をしている、と書いてあったからだ。鈍い人間というのはどこにでもいる。けれど、その鈍さも度を越せばアレだと思ってしまう。多少の鈍さは自己防衛に必要だとは思う。それでも自身の恥を晒すサイトの存在を許可する鈍さは半端ではない。しかも自身が成長し過去の自身を自嘲するような目的があるのではなく、どう考えてもサイトの趣旨・意義が理解できていないとしか思えない。因ってアレ、脳内独断確定。私の親とは対極のベクトルでの反面教師に認定。世の中はこんなにも広いものなのか。ネカマに騙されてチャットで抜いたことが全国・全世界の人に知られても平気な人間がいるとは。しかも自称中学生のネカマ。しかも抜いたらタイマーが作動して落ちる。しかも内容が童貞丸出し。素人童貞という説が強いが、私は玄人も知らない童貞ではないかと疑っている。玄人でも知っていたらあんなに稚拙ではなかろうて。アレだから全て仕方がないのか。アレであることはこんなにも悲惨なことなのか。なぎら健壱の悲惨な戦いを思い出させられた戦記だった。
鮪に中ってやや不調。エゲツナイ生き物を見てにやにや笑いの表情が張り付いてしまっている。卑しいので仕方なし。綺麗事だけで生きているとは思っていない。卑しい・厭らしい部分を覆い隠して生きているのが人間であり、他者の前でならともかく、個の場でならばその卑しさなどを隠しはしない。26日の日記に書いた、友人に教えてもらったURLの話である。いやいや、もう鮪を含めていろんなひとに天晴。何の役にも立たないことに対し、面白ければそれでよし!と労力を使ったり時間を割くのは好きな方だが、ここ迄は幾らなんでもできないし、そんな根気もない。短期集中ならともかく、数ヶ月以上もひとつのサイトやひとりの管理人を観察し続けられるその根気が凄い。そして環境を作り、あらゆる手を尽くしてネタに昇華し、ネタキャラサイトを立ち上げたり、会話のできない人間とチャットを試みたり、本当に凄い。しかし第三者にそれだけの力を使わせるだけの鮪、一年経っても飽きさせない鮪はもっと凄い。絶対に正面からは関わりたくない鮪。なのに観察を経て、正面から関わろうとした人が数人いた。そこ迄人を動かせる鮪って。もう少しオツムがあれば平成の千石イエスになれていたのではなかろうか。間違えなくて良かった、いや、足りなくて良かった。
ヒストリー全て・特別企画全般・資料保存室・FAQしかまだ読了しておらず、他のページはこれから読むのだがここ迄の印象。何度か同意見を目にしたが、やはり鮪はちょっと足りないのではなかろうか。所謂、可哀相な子、ではないかと。そして誰かが述べていたこと、ネットでは肉体的・精神的共に障害があったとしても相手にそれを理解してもらうのは難しいだろう。激しく同意する。この人アレかな? と思ってもそうでないこともあるし、普通だと思っていても会ってみるとアレなこともあるし、自称アレも掃いて捨てる程いるのがネットである。モニタの前では皆平等。アレであろうとなかろうと、けったいな生物の発見、その生態観察は悪趣味で面白い。そしてその生物が他者に迷惑をかけているならば、尚更おちょくったりしたくなるものだ。放置できてこそ大人なのかもしれないが、j3直接関わりたくなくても観察くらいはしていたい気持ちはとてもよく解る・・・る
鮪のことをここでいろいろ書くのは本意ではない。アレな子の陰口を叩きたくない、なんて気持ちは更々なく、単に長くなりそうだからであり、今頃私が思った感想などどれも激しく既出だから。j3鮪の話から自分の身近なところに話を寄せる。さっきから書いているj3、前段落最後のる。これは一般的に言うところのタイプミス、鮪流に言うところの文字化けだ。j3=まあ、る=。なのだ。鮪はかな入力者であり、焦ると英数入力設定のままかな入力をしてしまったり、シフトキーを押し忘れるのでこのようなタイプミスを発信してしまう。観察者たちは最初、j3って何? と思ったようである。私は思わなかった。昨日程、自分がかな入力であることを恥ずかしいと思った日はない。一発でj3などが何を意味しているか、解ってしまったのだ。チラッと頭を過ぎる、鮪と同類、という言葉。ローマ字入力に切り替えようかとすら思ってしまった。それくらいに嫌悪感を憶える鮪なのである。今思ったこと。鮪の存在をあのサイトで知り、あのサイトは友人から教わったURLであり、その友人とはリアルでの会話以上にメッセで会話しており……もしかして私が何度かシフトキーを押し忘れて、る、と書いてしまっての訂正を暗にからかわれたのだろうか。勘繰り過ぎは承知。しかしそんな考えが頭を過ぎる程に鮪と同類はイヤなのである。タイプミスにはくれぐれも気をつけよう。そして今迄もしたことはないがギャルゲーには今後とも手を出さず、同じくエロチャには今後とも手を出さず、同じくサイト開設にも今後とも手を出さず、人の話はきちんと聞き、余りにも美味しい話は疑ってかかろう。話の途中でのタイマーもなくし、人様にいきなり大きなファイルを送ることもせず、人様にいきなり抱きつきもせず、ネット・ストークもせず、会ったことがない人間へのプロポーズもせず……などと書いているとまるで今迄していたかのようだが、当然こんなことは一度もしたことはない。それでも、今後ともやらないように、と固くサバスに誓わせられる程のインパクトがあった。鮪の真逆の言動をしていれば、とてもまともな人間になれそうである。私の親以上に反面教師に最適な人材がこの世にいるとは思っていなかった。
可哀相な子かもしれない鮪の叩きは美味である。悪趣味だが美味なのはしょうがない・・・わさびだ。と書きたくなってしまうくらいに魅了される。河豚の肝のようなものか。食べたことないけど。鮪はアレだとほぼ確信していてもこんなことを書くと性善説採用者に叩かれそうだけれど、私は性善説を採らない者なので気にしない。私がアレだと確信したのは、あのサイトのトップページの注意書きに、サイトの存在に対して鮪が許可をしている、と書いてあったからだ。鈍い人間というのはどこにでもいる。けれど、その鈍さも度を越せばアレだと思ってしまう。多少の鈍さは自己防衛に必要だとは思う。それでも自身の恥を晒すサイトの存在を許可する鈍さは半端ではない。しかも自身が成長し過去の自身を自嘲するような目的があるのではなく、どう考えてもサイトの趣旨・意義が理解できていないとしか思えない。因ってアレ、脳内独断確定。私の親とは対極のベクトルでの反面教師に認定。世の中はこんなにも広いものなのか。ネカマに騙されてチャットで抜いたことが全国・全世界の人に知られても平気な人間がいるとは。しかも自称中学生のネカマ。しかも抜いたらタイマーが作動して落ちる。しかも内容が童貞丸出し。素人童貞という説が強いが、私は玄人も知らない童貞ではないかと疑っている。玄人でも知っていたらあんなに稚拙ではなかろうて。アレだから全て仕方がないのか。アレであることはこんなにも悲惨なことなのか。なぎら健壱の悲惨な戦いを思い出させられた戦記だった。
現在、28日早朝。
25日の日記を書いて1日で100以上のアクセスがあり、非常に驚いた。一体誰が読んでいるのか。リンクを貼っている各氏と友人数人くらいしかこのURLを知らないので計10人程度にしか知られていない日記の筈なのに。どこかで晒されているのか? と簡単に調べてみるも晒された形跡なし。
金曜にしたこと。医者に行き、年末年始の処方箋を書いてもらう。診察室に入り、救急車騒動の話をすると、覿面に主治医の機嫌が悪くなった。入院した病院名と飲酒の原因を訊かれたので率直に答えるも、イベントやらライヴやらに行ったことがないと思われる主治医には、理解してもらえなかった模様。不調について話すもまともに聞いてくれず、処方の追加はなし。食欲関係のことはいつも漢方薬でどうにかしていたので合うものを出して欲しかったのに、主治医にその気が全くなし。導眠剤の変更を申し出るのがやっとだった。私の導眠剤はマイスリーで、本来10〜20分で効いてくる筈の物なのに、常に50〜60分経過しないと効いてこないのでどうにかしてくれ、と言ったところ、酒と併用していると効果が薄れる、などと言われる。人の話を聞いてくれ……、飲酒習慣はないと何度も言っているじゃないか……。似た薬はないと言われる。嘘こけ、と思うもどうにか交渉して以前の導眠剤に戻してもらうのがやっと。主治医は私が薬や病気の知識をつけるのを好まないようなので、過去に処方されたことがない薬に関しては切り出し難い。それにしても。医者によっては診察毎に導眠剤の処方を代えてくれると聞く。耐性をつき難くする為である。私もそうして欲しいのだが、ない、と断言されるともうどうしようもない。入院した際に親に会った話をするも、特に反応なし。私の諸事情と親の存在は切っても切れないものではなかったのか? そんなことより、なんで患者が主治医の機嫌に気を遣わなければならないのか。私の主治医はそれなりにいい医者だと思っており、それ故に転院せずに通っているのだが、機嫌の良し悪しをすぐに出すのだけが難である。
夜、友人がうちに中古のテレビを引き取りにくる。チャリで。テレビは21インチであり、無理だよ、と何度も言ったのに交通費を浮かせたいが為のチャリ。テレビを見てやっと友人も無謀さが解ったようで、大人しくタクシーで帰宅。チャリは折りたたみ可能なものだったのでタクシーのトランクに。その友人から深夜、とんでもないURLを知らされる。激しく面白いが、激しく生活リズムを狂わされるURLであり、土曜の早朝から読み始めてヒストリー読了迄に8時間を費やす。その後、特別企画ページに取り掛かるも途中で寝てしまい、起きたら午前4時。いかんいかん。うちのが冬休みに入っているので、生活リズムを整えねばならないのに止められない。世の中にこんなに面白い魚がいたなんて知らなかった。普段行かない板にこんな逸材がいたとは。この魚については27日付の日記で。不調・疲労などの重なりにつき、短め。
25日の日記を書いて1日で100以上のアクセスがあり、非常に驚いた。一体誰が読んでいるのか。リンクを貼っている各氏と友人数人くらいしかこのURLを知らないので計10人程度にしか知られていない日記の筈なのに。どこかで晒されているのか? と簡単に調べてみるも晒された形跡なし。
金曜にしたこと。医者に行き、年末年始の処方箋を書いてもらう。診察室に入り、救急車騒動の話をすると、覿面に主治医の機嫌が悪くなった。入院した病院名と飲酒の原因を訊かれたので率直に答えるも、イベントやらライヴやらに行ったことがないと思われる主治医には、理解してもらえなかった模様。不調について話すもまともに聞いてくれず、処方の追加はなし。食欲関係のことはいつも漢方薬でどうにかしていたので合うものを出して欲しかったのに、主治医にその気が全くなし。導眠剤の変更を申し出るのがやっとだった。私の導眠剤はマイスリーで、本来10〜20分で効いてくる筈の物なのに、常に50〜60分経過しないと効いてこないのでどうにかしてくれ、と言ったところ、酒と併用していると効果が薄れる、などと言われる。人の話を聞いてくれ……、飲酒習慣はないと何度も言っているじゃないか……。似た薬はないと言われる。嘘こけ、と思うもどうにか交渉して以前の導眠剤に戻してもらうのがやっと。主治医は私が薬や病気の知識をつけるのを好まないようなので、過去に処方されたことがない薬に関しては切り出し難い。それにしても。医者によっては診察毎に導眠剤の処方を代えてくれると聞く。耐性をつき難くする為である。私もそうして欲しいのだが、ない、と断言されるともうどうしようもない。入院した際に親に会った話をするも、特に反応なし。私の諸事情と親の存在は切っても切れないものではなかったのか? そんなことより、なんで患者が主治医の機嫌に気を遣わなければならないのか。私の主治医はそれなりにいい医者だと思っており、それ故に転院せずに通っているのだが、機嫌の良し悪しをすぐに出すのだけが難である。
夜、友人がうちに中古のテレビを引き取りにくる。チャリで。テレビは21インチであり、無理だよ、と何度も言ったのに交通費を浮かせたいが為のチャリ。テレビを見てやっと友人も無謀さが解ったようで、大人しくタクシーで帰宅。チャリは折りたたみ可能なものだったのでタクシーのトランクに。その友人から深夜、とんでもないURLを知らされる。激しく面白いが、激しく生活リズムを狂わされるURLであり、土曜の早朝から読み始めてヒストリー読了迄に8時間を費やす。その後、特別企画ページに取り掛かるも途中で寝てしまい、起きたら午前4時。いかんいかん。うちのが冬休みに入っているので、生活リズムを整えねばならないのに止められない。世の中にこんなに面白い魚がいたなんて知らなかった。普段行かない板にこんな逸材がいたとは。この魚については27日付の日記で。不調・疲労などの重なりにつき、短め。
人の姿を為していながら、人の心を持たぬ者の多き事。酷く嘆き悲しむも一向に減少模様を見せず、徒に増えゆかんとす。女人の姿を為していながら、男根所持を偽る者も同罪と見做し、甚だ遺憾に思わん。古き善き時代は終焉の時を迎え、此の先の行く末には擬態あらん。従来の物事の理は崩れゆかん。偽者現りたる底に一線の痕跡を見ゆ。男根主義。女人禁制。彼の古来、本来、女人たるや一目の象徴であり得たるも、時を経て座は盗られ、盗り返せぬ侭に数世紀。座を上に見つつ育ち来た者、座を羨望し同形に憧憬を憶えるは、腹から産まれ来た者を記憶の先に見出す故。座を奪い取りし者、座を奪われんと古代の虐げられし記憶を残し、形相を歪めて護らんとす。その座たるや、誰の物でも無き座に過ぎず、全ては白昼夢の如き硝子細工にも拘らず攻防は止まず、下らなき事この上無し。気付きたる者在りしも、気付きたる事を気付かせぬ様に振舞う、その様子は不自然に尽きる。諸悪の根源にして岸向こうの砂城等、踏付け蹴り散乱させ、海に戻すが正しき道。誰の心に残るとて全て残像。而して白昼夢の硝子細工に必死な者は、一旦消え失せ様と再び砂城の再建に努めよう。空虚な箇所を濡れ砂で埋めた心に果たして何が宿ろうか。宿りたるや、泥色近似の妖怪の輪郭。輪郭を辿り尽くし、触れる眼球が幾つ在ろうとて、皆目暗と誰が気付くか。気付くとて伝え得ん。
彼の者が創りし道程には雑草茂り、道は道の姿を隠蔽する故に、後に道を辿りし者は又創見せねばならず、繰り返されるが歴史の運命。悪しき循環遮断に試みたる者、他者に追われ逃げ逝くばかり。逝く先に在りしは三途の川。黄泉の道とて地の池とて、新たに命を削りし者に託された最期の試練。只管に石を重ねるも痴れ者に蹴り散らされ、三途の川を目前に石を探して跪かん。痴れ者に賄賂渡せし者のみと云う汚濁した川のあちらに、渡り得た処で何も在らん。白き光か黒き闇かも光の反射の記号なり。真相は闇の中にて黒き闇を辿りし者に、光の届く日が何時訪れるのか。安直至極、白き光を選びし者に降り注ぐは槍。白は赤へと暗転す。呑まれた者の面は般若と化し、死者を哂いし者を早急に招かんと糸を手繰る。糸の先に憑きし蜘蛛の形をした物が、八本の肢で生者を幻惑に陥没ささんと懸命に動く。視野に入りし蜘蛛に魅入られた者の逝く末は、同じく暗転の彼方なり。逝けども逝けども、足裏に刺さる鋭利な棘は消えず。浄土を目指して歩き逝くだけ無駄に思えようと足を休める事、足裏からの体内への棘侵入許可に違わず、更なる苦痛を避けるべくして歩を速める。紫檀の薫りに纏われし者は舌を抜かれ、麝香の薫りに纏われし者は爪を剥がれる。是が黙示録の掟故に、閻魔の姿を為していながら、人の心を持ちし者も逆らう事は許されぬ。
救済の手を求める程に疲労は増さん。最果ての地を求める程に思考は鈍磨す。安息日すらも存在はせず、終ぞ車刑を求むるも与えらるるは火刑に如かず。菩薩を待つ者を哂うは天上の痴れ人共。痴れ人の供は翼を生やした異形。白き衣装に惑わされし者の逝く先も、羽を拾い得た者の逝く先すらも全て三途の川原。涅槃を夢見て阿羅漢を目指すも、まずは眼前の石に指先の熱を奪取されねば話にならぬ。桃の香を感じし者は姦淫者と見做し弾劾断首に処す。桃の香を撒くは彼の象徴たる女人。恨みの菊を背負いし女人の桃の香たるや、甘美な誘いに違わず。弾劾断首を求めし者こそ、女人。男根を持つも持たぬも、皆姦淫者と見做す。盲目者は女人に多き事実の転覆を図る者は裏切者と見做され、縄で縛られ馬牛に四肢を引かれて千切れた肉の断片と化す。女人はその肉を食して更に桃の香を撒かん。誘惑幻惑で太りし女人の多きは、その肉を胎内へと貯蓄す。女人の可笑しさに気付かぬ者は呆け、気付きし者は堕ちゆ。何処迄進むも何処迄堕ちゆも末は同じ石を拾う場所なり。鬼となるか蛇となるか、さて果て閻魔の座に就こうとも同じ道。道標を建てんとす者は、女人にその侭喰われる定め。
到達し者の説かん言葉は女人の嬌声に消滅、流布されたるは到達し者の晒し首。女人の手を渡り逝く毎に髪が減らん。抜かれし髪は女人の歯を染め影とさす。牙を隠匿し得た女人の恐ろしきは、滴る血を舐め尽す仕草。全ては闇の中の出来事にして、誰も気付かん。闇の中に光る一石は、屍の骨で作られた装飾品の残骸。手を伸ばさんとした者は腕ごと切り落とされ、切り口から滴る血が奪われた腕の肉が女人を肥えさせ、爪と骨が女人を飾る。切り口から漂う梅の香は、女人の桃の香に無き物とされん。腕を奪われし痴れ者の石を積む手は片方なりて、三途の向こうは更に遠のく。群れを為した女人共に敵いし者は存在せず、客家の如く追いやられん。果敢なる者の血程美味と云う。悟りし者の肉程美味と云う。真に美味たる物は女人の胎内の紅き粘膜と誰も気付かん。紅き粘膜から養分を得た赤子と誰も気付かん。同性内繁殖の術を取得し欠落箇所を海泥で埋めし女人の恐怖なる物、以上の物はこの世もあの世も無きにけり。真に妖しきは潮の薫り。月読みのみが知る事実とて、月読みは繁殖の為に女人に飼われし畜生にして、尻尾で知らすも誰も気付かん。
聖者の証の草履の鼻緒は女人の卵管、草履の裏は男根の皮と云う。鼻緒は頑丈なりて断固として千切れん。裏は百歩毎に張り替えねばならぬ。弱き裏を強き卵巣の皮に張り替える事を知りつつも、そ知らぬ振りが出来てこその聖者と云う。聖者は額の眼球の奥に奇譚を綴り、口から漏らすを禁じられるは万人の知る処にして、就寝中に耳から漏れるを恐れ削ぎし者は最早聖者たらん。裏の張替え毎に、耳を塞ぐ毎に、弱き心を憧憬し帯を締め直し人の心を保てると云う。しかして聖者の姿が見えぬのは、聖者は愚行を好まぬ故に草履を脱ぎ、耳を削ぐ。痴れ者の真似する事が生きる道と極めし者こそ聖者たる。心頭滅却。川枕漱石。故に三途の川原で腕を女人に自ら与え、冷たき砂利に体を横たえ、己の肉体が乾き乾涸び鴉に喰われ、骨が風に流れるのを待つ。その姿こそが仏の姿。風に流れて女人に張り付き、悔恨の念を女人の脳髄に沁み亘らさんことが聖者の願い。願い叶いし時にこそ、成仏の光が射さんと云う。
彼の者が創りし道程には雑草茂り、道は道の姿を隠蔽する故に、後に道を辿りし者は又創見せねばならず、繰り返されるが歴史の運命。悪しき循環遮断に試みたる者、他者に追われ逃げ逝くばかり。逝く先に在りしは三途の川。黄泉の道とて地の池とて、新たに命を削りし者に託された最期の試練。只管に石を重ねるも痴れ者に蹴り散らされ、三途の川を目前に石を探して跪かん。痴れ者に賄賂渡せし者のみと云う汚濁した川のあちらに、渡り得た処で何も在らん。白き光か黒き闇かも光の反射の記号なり。真相は闇の中にて黒き闇を辿りし者に、光の届く日が何時訪れるのか。安直至極、白き光を選びし者に降り注ぐは槍。白は赤へと暗転す。呑まれた者の面は般若と化し、死者を哂いし者を早急に招かんと糸を手繰る。糸の先に憑きし蜘蛛の形をした物が、八本の肢で生者を幻惑に陥没ささんと懸命に動く。視野に入りし蜘蛛に魅入られた者の逝く末は、同じく暗転の彼方なり。逝けども逝けども、足裏に刺さる鋭利な棘は消えず。浄土を目指して歩き逝くだけ無駄に思えようと足を休める事、足裏からの体内への棘侵入許可に違わず、更なる苦痛を避けるべくして歩を速める。紫檀の薫りに纏われし者は舌を抜かれ、麝香の薫りに纏われし者は爪を剥がれる。是が黙示録の掟故に、閻魔の姿を為していながら、人の心を持ちし者も逆らう事は許されぬ。
救済の手を求める程に疲労は増さん。最果ての地を求める程に思考は鈍磨す。安息日すらも存在はせず、終ぞ車刑を求むるも与えらるるは火刑に如かず。菩薩を待つ者を哂うは天上の痴れ人共。痴れ人の供は翼を生やした異形。白き衣装に惑わされし者の逝く先も、羽を拾い得た者の逝く先すらも全て三途の川原。涅槃を夢見て阿羅漢を目指すも、まずは眼前の石に指先の熱を奪取されねば話にならぬ。桃の香を感じし者は姦淫者と見做し弾劾断首に処す。桃の香を撒くは彼の象徴たる女人。恨みの菊を背負いし女人の桃の香たるや、甘美な誘いに違わず。弾劾断首を求めし者こそ、女人。男根を持つも持たぬも、皆姦淫者と見做す。盲目者は女人に多き事実の転覆を図る者は裏切者と見做され、縄で縛られ馬牛に四肢を引かれて千切れた肉の断片と化す。女人はその肉を食して更に桃の香を撒かん。誘惑幻惑で太りし女人の多きは、その肉を胎内へと貯蓄す。女人の可笑しさに気付かぬ者は呆け、気付きし者は堕ちゆ。何処迄進むも何処迄堕ちゆも末は同じ石を拾う場所なり。鬼となるか蛇となるか、さて果て閻魔の座に就こうとも同じ道。道標を建てんとす者は、女人にその侭喰われる定め。
到達し者の説かん言葉は女人の嬌声に消滅、流布されたるは到達し者の晒し首。女人の手を渡り逝く毎に髪が減らん。抜かれし髪は女人の歯を染め影とさす。牙を隠匿し得た女人の恐ろしきは、滴る血を舐め尽す仕草。全ては闇の中の出来事にして、誰も気付かん。闇の中に光る一石は、屍の骨で作られた装飾品の残骸。手を伸ばさんとした者は腕ごと切り落とされ、切り口から滴る血が奪われた腕の肉が女人を肥えさせ、爪と骨が女人を飾る。切り口から漂う梅の香は、女人の桃の香に無き物とされん。腕を奪われし痴れ者の石を積む手は片方なりて、三途の向こうは更に遠のく。群れを為した女人共に敵いし者は存在せず、客家の如く追いやられん。果敢なる者の血程美味と云う。悟りし者の肉程美味と云う。真に美味たる物は女人の胎内の紅き粘膜と誰も気付かん。紅き粘膜から養分を得た赤子と誰も気付かん。同性内繁殖の術を取得し欠落箇所を海泥で埋めし女人の恐怖なる物、以上の物はこの世もあの世も無きにけり。真に妖しきは潮の薫り。月読みのみが知る事実とて、月読みは繁殖の為に女人に飼われし畜生にして、尻尾で知らすも誰も気付かん。
聖者の証の草履の鼻緒は女人の卵管、草履の裏は男根の皮と云う。鼻緒は頑丈なりて断固として千切れん。裏は百歩毎に張り替えねばならぬ。弱き裏を強き卵巣の皮に張り替える事を知りつつも、そ知らぬ振りが出来てこその聖者と云う。聖者は額の眼球の奥に奇譚を綴り、口から漏らすを禁じられるは万人の知る処にして、就寝中に耳から漏れるを恐れ削ぎし者は最早聖者たらん。裏の張替え毎に、耳を塞ぐ毎に、弱き心を憧憬し帯を締め直し人の心を保てると云う。しかして聖者の姿が見えぬのは、聖者は愚行を好まぬ故に草履を脱ぎ、耳を削ぐ。痴れ者の真似する事が生きる道と極めし者こそ聖者たる。心頭滅却。川枕漱石。故に三途の川原で腕を女人に自ら与え、冷たき砂利に体を横たえ、己の肉体が乾き乾涸び鴉に喰われ、骨が風に流れるのを待つ。その姿こそが仏の姿。風に流れて女人に張り付き、悔恨の念を女人の脳髄に沁み亘らさんことが聖者の願い。願い叶いし時にこそ、成仏の光が射さんと云う。
鳥頭で不調で我侭で不機嫌
2003年12月24日 雑感・所感 腕が痛い現在、25日明け方。
年々質が劣化してきているのを承知で、それでも今年も明石屋サンタを観た。いや、電話した。去年も一昨年もその前もその前も電話したが繋がらず今年こそ、と携帯2台と家電を駆使して頑張ったがやはり繋がらず。全部仕込みなのか? それとも最初の3秒勝負なのか? 来年からは葉書を出すか。前半1時間を電話しながら観て、後半1時間はテレビから離れ某巨大掲示板実況板に行ってみた。異様に重い。どうにか開くも、もう番組貶しっぱなし。視聴者の目は肥える一方で、番組の質が劣化となると恒例行事も今年で終了にはならないだろうが、来年もコケたら終わりか。やらせゴミ拾いを堂々と放送できる局だから、それでもしぶとく続けるだろうか。番組終了迄にはどうにか2ゲトしたいものだ……。ではなく、来年はネタになりそうな話に見舞われない年を送りたいものである。マッサージ椅子、テンピュールのベッド、車、CM共演権&G1チケット10回分など景品の質だけは向上して行っている模様。今年の電話で本当に悲惨だったのは、子供の顔が判らなかった父親だけに思えた。裏に隠れた電話をかける徒労と今年本当に不幸に見舞われた奴に時間を割いて欲しいと切に願う。
重いと言えば。昨日はクリスマス・イヴであり、でかいオーブンなどなく七面鳥の丸焼きを作れない庶民の多くがケンタッキーに集う日。もう混み過ぎ。店に行ったら並ぶだろうな、うちに届けてくれるデリバリしている販売店はないものか、と初めてケンタッキーのサイトを覗いた。なかった。なかったのは仕方がない。道1本、1駅先にケンタッキーがあるのを知っており、それより遠くのピザ屋は届けてくれるぞ、と言いたいが仕方がない。けれども。店が混んでいることを予測していたのは私だけではなく全国津々浦々にいたようであり、サイト迄もが重かった。該当店なし、に辿り着くのに何度エラーが発生したことか。もう少し簡便なサイト作りを希望。体調不良と寒さで1駅先に足を伸ばすのをやめた私は近所のモスでチキンを購入。ここのモスは只でさえ注文の品が出るのが遅く、最高で30分程待たされたことがある店。嫌なので先に電話をして時刻指定をして取りに行った。取りに行くときに私の頭にあったのは、チキンとビール、だ。ビールは私のではなくうちの。チキン・ビール・チキン・ビール……と脳内反芻しつつモスに取りに行き、コンビニでビールを買って帰宅。その20分後くらいにうちのが帰宅した。チキンとビールを出す。これだけ? あー……、サイドメニュー忘れた。鳥頭な上に、1個→2個→たくさん。ふたりしてもそもそと食していると、うちのが、ピザでも取るか、と言い出したので注文。50〜60分かかると言う。うちのことは棚に上げて、おまいら自炊しろよ、と。昨日、夕食以外は自炊をした。昼過ぎに米を2合炊き、レトルトカレー、卵、ぺとぺと海苔などと合わせて全部食べた。ひとりで。1日に米を2合も食べたのはどれくらいぶりだっただろう。米だけと言えども胃もたれ・胸焼けに襲われた。それでも空腹感はあり、チキンを食べつつピザ到着を待つ。届く直前になって、やっと満腹中枢に刺激が行ったようである。ピザとチキンの残りは明日の昼食へ。先日の入院騒動から空腹感・満腹感がおかしくなっている。それ以前からおかしく、今年に入ってからは殆ど空腹感を感じず漢方で無理矢理食欲を出したりしていたのだが、おかしさのベクトルが変わった。完全な空腹と完全な満腹しかない。1日の半分が、腹減った、であり、もう半分が、これ以上入りません。明後日、年内最後の診察で相談してくる予定。
他にもおかしくなってしまっている部分があり、女性ホルモンの分泌と睡眠事情に実感が伴っている。ホルモン分泌はそのうち治まるだろうが、睡眠事情が悪化の一途を辿っている。今迄も不眠と仮眠を繰り返し、導眠剤・睡眠薬を頓服してどうにか眠りについていたのだが、上記のように空腹感と満腹感がおかしくなっていることと、先日のアルコール過剰摂取で肝腎機能にかなりの負担をかけてしまったこととで眠剤による導眠を控えている所為か、不眠傾向が強まっている。そして肝腎機能の負担が未だ回復していないのか、常時だるさが抜けず且つ疲れ易くなっている。おまけに前よりも予期不安の多発+1回の時間が長期化。この辺も明後日相談してこなければ。今年かけた心身の負担や疲れは、なるべく年内に解消したい日本人なのだ。
年内は今迄のペース、新しいことを始めたり何かを変えたりするのは来年から、と年末が近付くと毎年思う。けれど、明日から始めなければならないことができてしまった。とても面倒だし財布も嵩張るしで嫌々ではあるけれども、如何せん金銭感覚が欠如している故に、うちのに家計簿をつけるよう命じられたのだ。既にフリーソフトの家計簿をインストールして使い方はマスターした。それでも、明日からつけ始めることが非常に苦痛且つ激しく嫌だ。何が嫌って、年の瀬から物事を始めることが嫌でならない。キレイな言い方をすれば、美学に反する、といったところか。当然、美学、などと言える程高尚なものである筈はなく、なんと言うか、長編小説の最終章の頭から読み始めるような、そんな気分なのである。小説と言えば、このミス。毎年末、購入し続けているムック。去年から、このミス大賞、なるものもできた。私にミステリは書けないと思うのだが、今年の最終選考に残った作品のひとつにショックを受けた。ああ、この業界を扱うのがアリなら書けたかもしれなかった……。私が数年前に身を置いていたところにかなり近い距離の仕事をメインに扱った作品があったのだ。早い者勝ち。文字通り、1本取られたような心境。尤も、私が同テーマで書いたとして最終選考に残れたかどうかは判らないが。今月に入ってから、ミステリではないがやっと1本目に取り掛かり始めた。創作活動は思い立ったが吉日。年内1稿出しを目標にしていたけれど、どう考えても無理。来年の春迄に1稿を上げ、夏に完成させられれば上出来だろう。
某所にてネナベがわらわらと現れてきて心地悪し。今日は銀行回りやら何やらで慌しい愛しの君とキリストの生誕日だ。
年々質が劣化してきているのを承知で、それでも今年も明石屋サンタを観た。いや、電話した。去年も一昨年もその前もその前も電話したが繋がらず今年こそ、と携帯2台と家電を駆使して頑張ったがやはり繋がらず。全部仕込みなのか? それとも最初の3秒勝負なのか? 来年からは葉書を出すか。前半1時間を電話しながら観て、後半1時間はテレビから離れ某巨大掲示板実況板に行ってみた。異様に重い。どうにか開くも、もう番組貶しっぱなし。視聴者の目は肥える一方で、番組の質が劣化となると恒例行事も今年で終了にはならないだろうが、来年もコケたら終わりか。やらせゴミ拾いを堂々と放送できる局だから、それでもしぶとく続けるだろうか。番組終了迄にはどうにか2ゲトしたいものだ……。ではなく、来年はネタになりそうな話に見舞われない年を送りたいものである。マッサージ椅子、テンピュールのベッド、車、CM共演権&G1チケット10回分など景品の質だけは向上して行っている模様。今年の電話で本当に悲惨だったのは、子供の顔が判らなかった父親だけに思えた。裏に隠れた電話をかける徒労と今年本当に不幸に見舞われた奴に時間を割いて欲しいと切に願う。
重いと言えば。昨日はクリスマス・イヴであり、でかいオーブンなどなく七面鳥の丸焼きを作れない庶民の多くがケンタッキーに集う日。もう混み過ぎ。店に行ったら並ぶだろうな、うちに届けてくれるデリバリしている販売店はないものか、と初めてケンタッキーのサイトを覗いた。なかった。なかったのは仕方がない。道1本、1駅先にケンタッキーがあるのを知っており、それより遠くのピザ屋は届けてくれるぞ、と言いたいが仕方がない。けれども。店が混んでいることを予測していたのは私だけではなく全国津々浦々にいたようであり、サイト迄もが重かった。該当店なし、に辿り着くのに何度エラーが発生したことか。もう少し簡便なサイト作りを希望。体調不良と寒さで1駅先に足を伸ばすのをやめた私は近所のモスでチキンを購入。ここのモスは只でさえ注文の品が出るのが遅く、最高で30分程待たされたことがある店。嫌なので先に電話をして時刻指定をして取りに行った。取りに行くときに私の頭にあったのは、チキンとビール、だ。ビールは私のではなくうちの。チキン・ビール・チキン・ビール……と脳内反芻しつつモスに取りに行き、コンビニでビールを買って帰宅。その20分後くらいにうちのが帰宅した。チキンとビールを出す。これだけ? あー……、サイドメニュー忘れた。鳥頭な上に、1個→2個→たくさん。ふたりしてもそもそと食していると、うちのが、ピザでも取るか、と言い出したので注文。50〜60分かかると言う。うちのことは棚に上げて、おまいら自炊しろよ、と。昨日、夕食以外は自炊をした。昼過ぎに米を2合炊き、レトルトカレー、卵、ぺとぺと海苔などと合わせて全部食べた。ひとりで。1日に米を2合も食べたのはどれくらいぶりだっただろう。米だけと言えども胃もたれ・胸焼けに襲われた。それでも空腹感はあり、チキンを食べつつピザ到着を待つ。届く直前になって、やっと満腹中枢に刺激が行ったようである。ピザとチキンの残りは明日の昼食へ。先日の入院騒動から空腹感・満腹感がおかしくなっている。それ以前からおかしく、今年に入ってからは殆ど空腹感を感じず漢方で無理矢理食欲を出したりしていたのだが、おかしさのベクトルが変わった。完全な空腹と完全な満腹しかない。1日の半分が、腹減った、であり、もう半分が、これ以上入りません。明後日、年内最後の診察で相談してくる予定。
他にもおかしくなってしまっている部分があり、女性ホルモンの分泌と睡眠事情に実感が伴っている。ホルモン分泌はそのうち治まるだろうが、睡眠事情が悪化の一途を辿っている。今迄も不眠と仮眠を繰り返し、導眠剤・睡眠薬を頓服してどうにか眠りについていたのだが、上記のように空腹感と満腹感がおかしくなっていることと、先日のアルコール過剰摂取で肝腎機能にかなりの負担をかけてしまったこととで眠剤による導眠を控えている所為か、不眠傾向が強まっている。そして肝腎機能の負担が未だ回復していないのか、常時だるさが抜けず且つ疲れ易くなっている。おまけに前よりも予期不安の多発+1回の時間が長期化。この辺も明後日相談してこなければ。今年かけた心身の負担や疲れは、なるべく年内に解消したい日本人なのだ。
年内は今迄のペース、新しいことを始めたり何かを変えたりするのは来年から、と年末が近付くと毎年思う。けれど、明日から始めなければならないことができてしまった。とても面倒だし財布も嵩張るしで嫌々ではあるけれども、如何せん金銭感覚が欠如している故に、うちのに家計簿をつけるよう命じられたのだ。既にフリーソフトの家計簿をインストールして使い方はマスターした。それでも、明日からつけ始めることが非常に苦痛且つ激しく嫌だ。何が嫌って、年の瀬から物事を始めることが嫌でならない。キレイな言い方をすれば、美学に反する、といったところか。当然、美学、などと言える程高尚なものである筈はなく、なんと言うか、長編小説の最終章の頭から読み始めるような、そんな気分なのである。小説と言えば、このミス。毎年末、購入し続けているムック。去年から、このミス大賞、なるものもできた。私にミステリは書けないと思うのだが、今年の最終選考に残った作品のひとつにショックを受けた。ああ、この業界を扱うのがアリなら書けたかもしれなかった……。私が数年前に身を置いていたところにかなり近い距離の仕事をメインに扱った作品があったのだ。早い者勝ち。文字通り、1本取られたような心境。尤も、私が同テーマで書いたとして最終選考に残れたかどうかは判らないが。今月に入ってから、ミステリではないがやっと1本目に取り掛かり始めた。創作活動は思い立ったが吉日。年内1稿出しを目標にしていたけれど、どう考えても無理。来年の春迄に1稿を上げ、夏に完成させられれば上出来だろう。
某所にてネナベがわらわらと現れてきて心地悪し。今日は銀行回りやら何やらで慌しい愛しの君とキリストの生誕日だ。
開講日
2003年12月23日 メイク・ファッション・ピアス 現在24日深夜。
昨日は結婚して遠くに引っ越してしまった友人が、帰省のついでに来訪してくれた。メールなどでは頻繁に遣り取りしているが、会うのは久しぶり。思っていたよりも元気そうで何より。これは友人も同じように思ったことだろう。彼女も私も病人でありお互いの心身の不調をよく知っていたので。祭日でうちのは休みだったが、家にいられると只でさえ気ぃ遣いぃの彼女が余計に疲れるだろうと思い、家を空けてもらった。クリスマス・イヴイヴに付きどこに行ってもカップルで一杯だったそうで、一人歩きさせたことを少し申し訳なく思った。多謝。そしてそれを聞き、やはり家を空けてもらって正解だったと思った。彼女も私も病人なので、きっとそんな喧騒の中では草臥れ切ってしまうこと間違いない。元気者は外へ、病人は家で。うちのが出かけたのは、彼女から私の最寄駅到着の電話がかかってきてから。彼女の出迎え兼うちのの見送りで駅迄。ふたりを紹介しあい、彼女を連れて私は帰宅。うちのに会った彼女は、すごく感じいい、お洒落だ、と褒めちぎり。調子に乗るから余り言ってくれるな。
うちに到着したら小動物らがお出迎え。彼女は動物好きなのでそこでまず和んだようだ。アニマル・セラピー。近況報告をしつつ、彼女がうちに来た最大の要件に取り掛かる。その用件とは……メイク・レッスン。彼女からメイクの悩みを聞き、私のスクラップからそれに適した物を紹介。そして彼女のメイク道具や使用アイテムをチェック。いい物を使っているのに道具のお手入れが! まずはビューラーの掃除からさせてしまった。そしてアイテムチェックをしてみたら、ブルーベースには合わない色が幾つもあり、基本色を指南。こまめにメモを取る彼女はかわいかった。それから実践。どこをメイクすればいい? 眉と、目と、チークと……。じゃあフルメイクだ。となり、予定外の基礎からの開講。基礎については、まず彼女自身にさせてみて、至らない点を私が指摘。コスメオタクの私としては、ちょっと衝撃と懐かしさを覚えた彼女の基礎化粧品の扱い方だった。クレンジングのときに擦る擦る。ダメッ! 彼女は敏感肌である。摩擦は肌にとってかなりの刺激だ。押さえて、馴染ませて落とすことを教える。私も昔はごしごし落としていたものだ。そして基礎物をつけてもらう。化粧水、少な過ぎ。美容液・乳液は多過ぎ。化粧水の適量と、美容液・乳液を付け過ぎた際の対処法としての角切りパフでのパッティングを教える。それから下地。彼女の下地は私の下地とは全く違う物で、ちょっと気になってしまった。ティントとして使えそうだったので私も購入したく思った。ティント的下地であり且つ彼女の使用ファンデがブルーベースには余り合わないものだったので、その上に私のお粉をブラシでつけ、それからシャドウ下地。ここは手順が逆になってしまったが、取り敢えずベース終了。凶悪なクマ飼いの私は、コンシーラ不要の彼女の肌が激しく羨ましかった。
メイクは青系の目元が苦手、面長が気になるということで、私の所持アイテムから青系シャドウを選んでもらい、以下の通り。スティラ・ウインターブルースの白を眉下から目の際迄→アイホールにFSP・ノースショアのパウダー→二重幅と下瞼目尻から1/3にFSP・インディゴのパウダー→頬の一番高い部分にオーブのムースチーク・ローズで小さく円を描く→イプサのフェイスカラー502で山本式チークの自己流応用→ブラシに残ったチークを顎先へ→彼女持参のピエヌ新作マスカラで上睫→アユーラの限定マスカラのローズを下睫へ→ケサランパサラン・フェイスカラーの焦げ茶と茶で眉を整える→アユーラのリップライナー・グレーで口角のみを描く→スティラ・バナナダイキリの一番薄い色と中間色を指で混ぜつつ少しだけ取ってノーズシャドウに→イプサのリップカラー・401→上下の唇の中央のみに横長にグロスを乗せる→CゾーンにトリックパーティーのEをうっすら乗せる→終了。悩み解消ポイント。青系苦手の克服としては、色を目立たせるよりも立体感に重きを置いた部分。チップは一切使用せずに全てブラシで色を乗せた。ブラシにパウダーを取ったら必ず一度ティッシュなり手の甲なりではたき、余分なパウダーを落とす。そしてブラシで何度もなぞることでパウダーに含有されたパールを磨いて艶感を出す。チップだとどうしても色ありきになりがちで、薄付きにすることとパール感の際立たせが難しくなるのだ。また二重幅にかなり濃い色をきちんと置くことでアイライン苦手も解消。彼女のメイク道具を見て、1回1回洗う必要のないブラシの方が彼女のメイクには向いているように思った。面長についてはチークの入れ方と眉の長さ。チークをやや上部に横長に入れることと顎先のチーク、眉を本来よりもやや長めに描くこと。チークと眉で横幅を広く見せ、顎先チークで縦幅を誤魔化すことで面長が目立たなくなる。チークの二種使いは立体感を持たせる・化粧持ちを良くさせるという利点がある。上睫については彼女が、うまく使いこなせていない、という持参マスカラを持て余させない為に敢えて使用。ピエヌの新作マスカラはブラシの形が特殊で、睫カールに重点を置いて作られたものだ。そのこととブラシの形状上の利点、そして基礎的なマスカラの付け方として、ブラシを前後に動かすだけでなく左右に動かすことでマスカラ液を睫に絡ませられることを教えた。マスカラが瞼についてしまったときは、日本薬局方のオリブ油を綿棒に含ませて落とすだけで十分。彼女が自分でマスカラを付けたとき、私が下睫にマスカラを乗せる際に汚してしまった部分を綿棒で落とし、アイシャドウの取れてしまったところをアナスイのマーブルシャドウ・青系で誤魔化した。このアイテム、可愛さに負けて購入してメインとしては余り使っていないものだけれども、こういうときには役に立つ助太刀アイテムに近いシャドウである。眉が細すぎることにも自ら苦言を呈しており、簡単に整える為にフェリエを紹介し、ペンシルよりもパウダーで自然な太さにすることを指導。ペンシルは眉の隙間を埋めるものであり、パウダーは眉に影をつけるものだ。影の量が多ければ眉そのものも多くあるように見える。ディグニータの繊維入りアイブロウを勧めておいた。メイクとは、見るものをどれだけ錯覚させられるかの勝負でもあったりする。メイク実践と指導で所用時間は丸々2時間。物凄く楽しかった。私が。自分の知識や技術で人が綺麗になることがまず楽しく、彼女が鏡を見て喜んでくれたのが嬉しく、そして今回は彼女から前以ってメイク講座を希望してくれていた為に遠慮なく指導でき、更に部屋一杯にメイク道具やアイテムを散乱させられたことがもう楽しくて楽しくて。うちのがいるときにあんなに道具やアイテムを広げることはできないから。
その後、私の所有衣類で彼女が着てくれそうな物を持たせて一石二鳥。うちのに帰宅OKコールを入れて、駅の近くでお茶を飲んでいるところに、うちのが現れた。印象を良くするツボを心得たうちのである。これでまたうちのの株が上がるのか。合流して雑談。彼女から学生時代の私のエピソードが幾つか登場。どれも殆ど記憶にない。そして恥ずかしいものばかり……。莫迦は昔から莫迦だったのだなあ、と豆腐の角で頭をぶつけたい気持ちに襲われたりも。失恋した友達をハゲヅラ被って慰めたり、入学直後のミーティングで皆が緊張している中、ひとりスポーツ新聞の競馬欄を読み耽っていたり。彼女にとってはかなり印象深かったらしい。うむ。私だってそんな奴がいきなり現れたら印象に残る……って、どれも私のしたことだ。記憶にないというのが一番恥ずかしい。彼女がクリスマスケーキをお土産に持ってきてくれたことで、うちは1日早くクリスマス。私からうちのへの今年のクリスマスプレゼントは、113ひきのねこのてがみ、というサンタ宛てにねこ…
昨日は結婚して遠くに引っ越してしまった友人が、帰省のついでに来訪してくれた。メールなどでは頻繁に遣り取りしているが、会うのは久しぶり。思っていたよりも元気そうで何より。これは友人も同じように思ったことだろう。彼女も私も病人でありお互いの心身の不調をよく知っていたので。祭日でうちのは休みだったが、家にいられると只でさえ気ぃ遣いぃの彼女が余計に疲れるだろうと思い、家を空けてもらった。クリスマス・イヴイヴに付きどこに行ってもカップルで一杯だったそうで、一人歩きさせたことを少し申し訳なく思った。多謝。そしてそれを聞き、やはり家を空けてもらって正解だったと思った。彼女も私も病人なので、きっとそんな喧騒の中では草臥れ切ってしまうこと間違いない。元気者は外へ、病人は家で。うちのが出かけたのは、彼女から私の最寄駅到着の電話がかかってきてから。彼女の出迎え兼うちのの見送りで駅迄。ふたりを紹介しあい、彼女を連れて私は帰宅。うちのに会った彼女は、すごく感じいい、お洒落だ、と褒めちぎり。調子に乗るから余り言ってくれるな。
うちに到着したら小動物らがお出迎え。彼女は動物好きなのでそこでまず和んだようだ。アニマル・セラピー。近況報告をしつつ、彼女がうちに来た最大の要件に取り掛かる。その用件とは……メイク・レッスン。彼女からメイクの悩みを聞き、私のスクラップからそれに適した物を紹介。そして彼女のメイク道具や使用アイテムをチェック。いい物を使っているのに道具のお手入れが! まずはビューラーの掃除からさせてしまった。そしてアイテムチェックをしてみたら、ブルーベースには合わない色が幾つもあり、基本色を指南。こまめにメモを取る彼女はかわいかった。それから実践。どこをメイクすればいい? 眉と、目と、チークと……。じゃあフルメイクだ。となり、予定外の基礎からの開講。基礎については、まず彼女自身にさせてみて、至らない点を私が指摘。コスメオタクの私としては、ちょっと衝撃と懐かしさを覚えた彼女の基礎化粧品の扱い方だった。クレンジングのときに擦る擦る。ダメッ! 彼女は敏感肌である。摩擦は肌にとってかなりの刺激だ。押さえて、馴染ませて落とすことを教える。私も昔はごしごし落としていたものだ。そして基礎物をつけてもらう。化粧水、少な過ぎ。美容液・乳液は多過ぎ。化粧水の適量と、美容液・乳液を付け過ぎた際の対処法としての角切りパフでのパッティングを教える。それから下地。彼女の下地は私の下地とは全く違う物で、ちょっと気になってしまった。ティントとして使えそうだったので私も購入したく思った。ティント的下地であり且つ彼女の使用ファンデがブルーベースには余り合わないものだったので、その上に私のお粉をブラシでつけ、それからシャドウ下地。ここは手順が逆になってしまったが、取り敢えずベース終了。凶悪なクマ飼いの私は、コンシーラ不要の彼女の肌が激しく羨ましかった。
メイクは青系の目元が苦手、面長が気になるということで、私の所持アイテムから青系シャドウを選んでもらい、以下の通り。スティラ・ウインターブルースの白を眉下から目の際迄→アイホールにFSP・ノースショアのパウダー→二重幅と下瞼目尻から1/3にFSP・インディゴのパウダー→頬の一番高い部分にオーブのムースチーク・ローズで小さく円を描く→イプサのフェイスカラー502で山本式チークの自己流応用→ブラシに残ったチークを顎先へ→彼女持参のピエヌ新作マスカラで上睫→アユーラの限定マスカラのローズを下睫へ→ケサランパサラン・フェイスカラーの焦げ茶と茶で眉を整える→アユーラのリップライナー・グレーで口角のみを描く→スティラ・バナナダイキリの一番薄い色と中間色を指で混ぜつつ少しだけ取ってノーズシャドウに→イプサのリップカラー・401→上下の唇の中央のみに横長にグロスを乗せる→CゾーンにトリックパーティーのEをうっすら乗せる→終了。悩み解消ポイント。青系苦手の克服としては、色を目立たせるよりも立体感に重きを置いた部分。チップは一切使用せずに全てブラシで色を乗せた。ブラシにパウダーを取ったら必ず一度ティッシュなり手の甲なりではたき、余分なパウダーを落とす。そしてブラシで何度もなぞることでパウダーに含有されたパールを磨いて艶感を出す。チップだとどうしても色ありきになりがちで、薄付きにすることとパール感の際立たせが難しくなるのだ。また二重幅にかなり濃い色をきちんと置くことでアイライン苦手も解消。彼女のメイク道具を見て、1回1回洗う必要のないブラシの方が彼女のメイクには向いているように思った。面長についてはチークの入れ方と眉の長さ。チークをやや上部に横長に入れることと顎先のチーク、眉を本来よりもやや長めに描くこと。チークと眉で横幅を広く見せ、顎先チークで縦幅を誤魔化すことで面長が目立たなくなる。チークの二種使いは立体感を持たせる・化粧持ちを良くさせるという利点がある。上睫については彼女が、うまく使いこなせていない、という持参マスカラを持て余させない為に敢えて使用。ピエヌの新作マスカラはブラシの形が特殊で、睫カールに重点を置いて作られたものだ。そのこととブラシの形状上の利点、そして基礎的なマスカラの付け方として、ブラシを前後に動かすだけでなく左右に動かすことでマスカラ液を睫に絡ませられることを教えた。マスカラが瞼についてしまったときは、日本薬局方のオリブ油を綿棒に含ませて落とすだけで十分。彼女が自分でマスカラを付けたとき、私が下睫にマスカラを乗せる際に汚してしまった部分を綿棒で落とし、アイシャドウの取れてしまったところをアナスイのマーブルシャドウ・青系で誤魔化した。このアイテム、可愛さに負けて購入してメインとしては余り使っていないものだけれども、こういうときには役に立つ助太刀アイテムに近いシャドウである。眉が細すぎることにも自ら苦言を呈しており、簡単に整える為にフェリエを紹介し、ペンシルよりもパウダーで自然な太さにすることを指導。ペンシルは眉の隙間を埋めるものであり、パウダーは眉に影をつけるものだ。影の量が多ければ眉そのものも多くあるように見える。ディグニータの繊維入りアイブロウを勧めておいた。メイクとは、見るものをどれだけ錯覚させられるかの勝負でもあったりする。メイク実践と指導で所用時間は丸々2時間。物凄く楽しかった。私が。自分の知識や技術で人が綺麗になることがまず楽しく、彼女が鏡を見て喜んでくれたのが嬉しく、そして今回は彼女から前以ってメイク講座を希望してくれていた為に遠慮なく指導でき、更に部屋一杯にメイク道具やアイテムを散乱させられたことがもう楽しくて楽しくて。うちのがいるときにあんなに道具やアイテムを広げることはできないから。
その後、私の所有衣類で彼女が着てくれそうな物を持たせて一石二鳥。うちのに帰宅OKコールを入れて、駅の近くでお茶を飲んでいるところに、うちのが現れた。印象を良くするツボを心得たうちのである。これでまたうちのの株が上がるのか。合流して雑談。彼女から学生時代の私のエピソードが幾つか登場。どれも殆ど記憶にない。そして恥ずかしいものばかり……。莫迦は昔から莫迦だったのだなあ、と豆腐の角で頭をぶつけたい気持ちに襲われたりも。失恋した友達をハゲヅラ被って慰めたり、入学直後のミーティングで皆が緊張している中、ひとりスポーツ新聞の競馬欄を読み耽っていたり。彼女にとってはかなり印象深かったらしい。うむ。私だってそんな奴がいきなり現れたら印象に残る……って、どれも私のしたことだ。記憶にないというのが一番恥ずかしい。彼女がクリスマスケーキをお土産に持ってきてくれたことで、うちは1日早くクリスマス。私からうちのへの今年のクリスマスプレゼントは、113ひきのねこのてがみ、というサンタ宛てにねこ…
現在12月22日になったばかり。
久々に簡単ながらも夕食を作ってみたら、うちのの機嫌が非常に良くなった。飯は偉大也。そのまま、これまた久々に一緒にゆっくりとテレビを見ていて頭の中に爆弾行進曲がぐるぐる回りだしたあたりで、丸山真男の名が出てきた。これもまた久々に聞いた名前。久々づくしのいろいろの中で、やはり一番久々だったのはこの丸山真男だ。学生時代に何か読んだけれどもよく解らなかったような、そんな記憶が甦るも先日意識障害を起こしたばかりの頭が思い出せる筈もなく、アマゾンで調べてみた。丸山真男、39件。39冊の著書がある訳ではない。吉本隆明を始めいろいろな評論家が丸山真男について述べた本も含めての数だった。ざっと見るもどれを読んだか思い出せない。そもそも私が読んだのは本当に丸山真男の著書だったのか、それとも他者が丸山真男について述べた物だったのかすら判別不能。近々、岩波新書の本人著書でも読んでみる所存。ついでに仔羊料理大全も欲しい。この料理大全、日本初の仔羊料理専門書だとか。羊好きとしては興味津々。鴨大全も出て欲しい。話が逸れた。丸山真男。本当に読んだかどうかも定かではない著述物について論ずるは詮無いこと。昔は書物を無闇に乱読しても、内容と著者とタイトルは必ず覚えていたのにこの体たらく。歳は取りたくないものだ。
テレビを見ていて思ったこと。思想家・学者は無力である。テレビが引用していた丸山真男の論は非常に公正且つ明瞭で、そのまま世の中が動けばいい世の中になるであろう、と思わせられるものだった。理想論である。民主主義について。私が学校で教わったことと違うことを丸山真男は論じていた。脳内考証。成る程。学校で教わったこと以前の問題から語っていた人だったのか。社会科系教科書の見直しは戦中の事実関係云々など以前に、ここから必要なのではないだろうか。言葉の定義とは大切である。言葉の定義を間違えると、その先の話が全て変わってくる。また間違っていない迄も曖昧なままで話を進めると、その先の話が全て曖昧に終わる。学校、特に社会科系の授業や専攻は、学問であると同時に伝承の場でもある、と私は考えている。伝承は正確な相互理解なしに伝えられると、代を経て都市伝説のように変貌していってしまう危険性がある。都市伝説と化した伝承は、伝説化していることに気付く者が現れたところから再度検証され直すことだろう。そんな繰り返しは大変に無駄なので避けたいものである。雰囲気に流される国家。なんとなく、でことが進んでいく国家。そんな国家に基礎的な部分で警鐘を鳴らし続けたのが丸山真男である。
左右に係わらず、なんとなく、で物事が運ぶ人種が日本人であるらしい。左右のどちらに属していても、その意思を幾ら本人が強固な物だと信じていても、流されゆくことは歴史が証明している。内ゲバ。内紛。流れなければそんなことにはなるまい。ノンセクトは。昨今の日本人は似非ノンセクトであったと思われる。ここにきて、意思を問われるようになった。けれど似非ノンセクトの人間がどれだけ情報に流されず、どれだけ正しい知識を礎に己の思想を語れるというのか。似非ノンセクトは似非ノンセクト故に、左右の極端なことしか知らない。因って、そのような人間に問いかけをすること自体が危険な行為であると言えよう。思想を語るに必要な物は、数多の情報・判断力・構成力。このみっつだと思う。どれが欠けても偏りが生じたり、思想はあってもきちんと語れなかったりする。私がまずすべきことは……六法全書の新調か。教科書は不要。どの教科書にも偏りがある。もし教科書を手にするならば、全ての教科書を読まねば流されることだろう。教科書に流されずに正しいことを正しく生徒に伝承できる教師に出会ったことはない。教科書内の偏りに気付き、独学した。無数の情報の中で混乱し、混乱の中でなんとなく、放棄してしまった。考えがない訳ではない。あるけれど言葉にできない。もどかしい。言葉という記号を、こと思想に於いては正しく扱える自信が全くない。テレビ如きに勉強し直す気にさせられてしまった。心なしか悔しいが、ひとつのきっかけとして活かすべき気がしている。
テレビを見つつ、私とうちのが持った一致した思い。こいつらは莫迦じゃなかろうか。或る立場に於いて、或ることに反対している人々のことだ。美談でもなんでもない。無知を曝け出すことと思想を語ることの違いなどついていないことが安易に想像できてしまう。恥を知れ、とすら思ってしまう。私は非常に恥知らずな人間である。恥知らずでも多少の拘りはあり、無知を曝け出す形での恥を極端に嫌う。学のない人間は嫌いだ。無知により恥を晒した場合、恥終了後に勉強する。テキーラは40度。雑味が多く下腹部にすぐくるアルコール。砂漠で飲むことに適している……私の住んでいるところは砂漠ではないのでもう2度と呑まない。学のない人間とは。私の履歴書は学があるとは判断され難い履歴書である。だからこそ、勿論どれもまだまだではあるがいろいろ独学した、とも言えるかもしれない。学歴と個人の所有する学は別物だと考えている。学生時代、脳死についての法整備について世の中が動き出した頃、とても情けない思いをしたことがある。1度だけ合コンなるものに出たときの話。相手はそこそこの学校の学生たちであり、やや偉そうな態度であった。まずそこで気に喰わない。そして話をしているうちに、私はひとりの人と大討論を展開してしまった。脳死ってのは、死じゃないんだよね。……阿呆か、と感情をそのまま口にするのは子供なので自分の意見を正しく述べた。述べた意見は所謂反論である。相手は、死じゃないんだよね、で感心して欲しかったらしい。まさか反論されるとは思っていなかったらしく、攻撃的な口調に変わる。そこで相手の求めいてた物を察知し、子供な私はその口調に乗って同じ土俵に上ってしまった。阿呆だの莫迦だのの直球は出なくとも、相手が自分をどう思っているかはお互いに伝わった。丁寧な口調で討論は続き、よっしゃこのまま論破! というところでふと周りを見たら……他の参加者は皆引いていた。そのときのテーブルは円卓であり、私と相手を除く全員が少し距離を開けてこちらを見ていた。急速冷却には十分な光景であり、討論終了。情ないと思うのは、やはり論破できなかった点である。引いていた周囲に流された、それ迄に短時間で論破できるだけの構成力がなかった。一対一の討論の場は鉄火場だ。気迫で押し、言葉で押す。論議は穏やかになされるべきだと思っている。しかし討論となるとそれはディベートであり、勝たねばならなくなる。勝つ必要がなくとも、勝たなければ気が済まなくなる。熱くなった者が負ける鉄火場の空気。冷淡に気迫と言葉にだけ熱を持たせるのがポイント。と書きつつ、暫くまともな討論をしていないことに気がついた。……アルコールを早く抜くのが先だ。こんなことが書きたかったのではなく、思想・学問の無力さについて書く予定だったのに。それについては、また今度。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
久々に簡単ながらも夕食を作ってみたら、うちのの機嫌が非常に良くなった。飯は偉大也。そのまま、これまた久々に一緒にゆっくりとテレビを見ていて頭の中に爆弾行進曲がぐるぐる回りだしたあたりで、丸山真男の名が出てきた。これもまた久々に聞いた名前。久々づくしのいろいろの中で、やはり一番久々だったのはこの丸山真男だ。学生時代に何か読んだけれどもよく解らなかったような、そんな記憶が甦るも先日意識障害を起こしたばかりの頭が思い出せる筈もなく、アマゾンで調べてみた。丸山真男、39件。39冊の著書がある訳ではない。吉本隆明を始めいろいろな評論家が丸山真男について述べた本も含めての数だった。ざっと見るもどれを読んだか思い出せない。そもそも私が読んだのは本当に丸山真男の著書だったのか、それとも他者が丸山真男について述べた物だったのかすら判別不能。近々、岩波新書の本人著書でも読んでみる所存。ついでに仔羊料理大全も欲しい。この料理大全、日本初の仔羊料理専門書だとか。羊好きとしては興味津々。鴨大全も出て欲しい。話が逸れた。丸山真男。本当に読んだかどうかも定かではない著述物について論ずるは詮無いこと。昔は書物を無闇に乱読しても、内容と著者とタイトルは必ず覚えていたのにこの体たらく。歳は取りたくないものだ。
テレビを見ていて思ったこと。思想家・学者は無力である。テレビが引用していた丸山真男の論は非常に公正且つ明瞭で、そのまま世の中が動けばいい世の中になるであろう、と思わせられるものだった。理想論である。民主主義について。私が学校で教わったことと違うことを丸山真男は論じていた。脳内考証。成る程。学校で教わったこと以前の問題から語っていた人だったのか。社会科系教科書の見直しは戦中の事実関係云々など以前に、ここから必要なのではないだろうか。言葉の定義とは大切である。言葉の定義を間違えると、その先の話が全て変わってくる。また間違っていない迄も曖昧なままで話を進めると、その先の話が全て曖昧に終わる。学校、特に社会科系の授業や専攻は、学問であると同時に伝承の場でもある、と私は考えている。伝承は正確な相互理解なしに伝えられると、代を経て都市伝説のように変貌していってしまう危険性がある。都市伝説と化した伝承は、伝説化していることに気付く者が現れたところから再度検証され直すことだろう。そんな繰り返しは大変に無駄なので避けたいものである。雰囲気に流される国家。なんとなく、でことが進んでいく国家。そんな国家に基礎的な部分で警鐘を鳴らし続けたのが丸山真男である。
左右に係わらず、なんとなく、で物事が運ぶ人種が日本人であるらしい。左右のどちらに属していても、その意思を幾ら本人が強固な物だと信じていても、流されゆくことは歴史が証明している。内ゲバ。内紛。流れなければそんなことにはなるまい。ノンセクトは。昨今の日本人は似非ノンセクトであったと思われる。ここにきて、意思を問われるようになった。けれど似非ノンセクトの人間がどれだけ情報に流されず、どれだけ正しい知識を礎に己の思想を語れるというのか。似非ノンセクトは似非ノンセクト故に、左右の極端なことしか知らない。因って、そのような人間に問いかけをすること自体が危険な行為であると言えよう。思想を語るに必要な物は、数多の情報・判断力・構成力。このみっつだと思う。どれが欠けても偏りが生じたり、思想はあってもきちんと語れなかったりする。私がまずすべきことは……六法全書の新調か。教科書は不要。どの教科書にも偏りがある。もし教科書を手にするならば、全ての教科書を読まねば流されることだろう。教科書に流されずに正しいことを正しく生徒に伝承できる教師に出会ったことはない。教科書内の偏りに気付き、独学した。無数の情報の中で混乱し、混乱の中でなんとなく、放棄してしまった。考えがない訳ではない。あるけれど言葉にできない。もどかしい。言葉という記号を、こと思想に於いては正しく扱える自信が全くない。テレビ如きに勉強し直す気にさせられてしまった。心なしか悔しいが、ひとつのきっかけとして活かすべき気がしている。
テレビを見つつ、私とうちのが持った一致した思い。こいつらは莫迦じゃなかろうか。或る立場に於いて、或ることに反対している人々のことだ。美談でもなんでもない。無知を曝け出すことと思想を語ることの違いなどついていないことが安易に想像できてしまう。恥を知れ、とすら思ってしまう。私は非常に恥知らずな人間である。恥知らずでも多少の拘りはあり、無知を曝け出す形での恥を極端に嫌う。学のない人間は嫌いだ。無知により恥を晒した場合、恥終了後に勉強する。テキーラは40度。雑味が多く下腹部にすぐくるアルコール。砂漠で飲むことに適している……私の住んでいるところは砂漠ではないのでもう2度と呑まない。学のない人間とは。私の履歴書は学があるとは判断され難い履歴書である。だからこそ、勿論どれもまだまだではあるがいろいろ独学した、とも言えるかもしれない。学歴と個人の所有する学は別物だと考えている。学生時代、脳死についての法整備について世の中が動き出した頃、とても情けない思いをしたことがある。1度だけ合コンなるものに出たときの話。相手はそこそこの学校の学生たちであり、やや偉そうな態度であった。まずそこで気に喰わない。そして話をしているうちに、私はひとりの人と大討論を展開してしまった。脳死ってのは、死じゃないんだよね。……阿呆か、と感情をそのまま口にするのは子供なので自分の意見を正しく述べた。述べた意見は所謂反論である。相手は、死じゃないんだよね、で感心して欲しかったらしい。まさか反論されるとは思っていなかったらしく、攻撃的な口調に変わる。そこで相手の求めいてた物を察知し、子供な私はその口調に乗って同じ土俵に上ってしまった。阿呆だの莫迦だのの直球は出なくとも、相手が自分をどう思っているかはお互いに伝わった。丁寧な口調で討論は続き、よっしゃこのまま論破! というところでふと周りを見たら……他の参加者は皆引いていた。そのときのテーブルは円卓であり、私と相手を除く全員が少し距離を開けてこちらを見ていた。急速冷却には十分な光景であり、討論終了。情ないと思うのは、やはり論破できなかった点である。引いていた周囲に流された、それ迄に短時間で論破できるだけの構成力がなかった。一対一の討論の場は鉄火場だ。気迫で押し、言葉で押す。論議は穏やかになされるべきだと思っている。しかし討論となるとそれはディベートであり、勝たねばならなくなる。勝つ必要がなくとも、勝たなければ気が済まなくなる。熱くなった者が負ける鉄火場の空気。冷淡に気迫と言葉にだけ熱を持たせるのがポイント。と書きつつ、暫くまともな討論をしていないことに気がついた。……アルコールを早く抜くのが先だ。こんなことが書きたかったのではなく、思想・学問の無力さについて書く予定だったのに。それについては、また今度。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
遠隔自殺未遂
2003年12月21日 家族・メンヘル・健康など 2003年度の三冠達成。精神病発覚で一冠。親との絶縁で一冠。お目当てを観られないまま急性アル厨で一冠。誤変換を訂正しないのは自嘲。競馬で言うなら三冠、麻雀で言うなら最強位、ダイナマイトで言うなら15連荘。ワーッ! ダイナマイトを打ったことはなく、私が嵌った羽根物台はひょっこりひょうたん島だ。そんなことはどうでもよく、普通に言えば三冠だのの名誉ある話ではなく、阿呆なダメ人間弾けまくりの年。昨日は弾け過ぎた。弾けるのはいいが、他者に迷惑をかけてはならない。昨日から今日にかけて私に迷惑をかけられた人や店舗はどれほどだろう。数えてみる。
・うちの
・両親
・和み系バカの友人
・救急隊員
・病院関係者
・担当美容師さんとサロンのスタッフ
・小屋のスタッフ
サロンのスタッフは人数を知らず、小屋のスタッフは人数を知らない上に記憶喪失。救急隊員と病院関係者も同じく。酒で記憶喪失って。20代も後半になって急性アル厨って。もう(以下略。上記の迷惑をかけてしまった中で一番の被害者は友人。物理的且つ精神的被害者。私がライヴを観られずイベントにも行けなかったのは自業自得だが、彼は私の所為でライヴを観られなくなり、その後うちのの病院到着迄ついていてくれた為、その後のイベントにも行けず、おまけに終電を乗り過ごして始発待ち。しかも彼は私の荷物はちゃんと病院に届けてくれたのに、私の介抱で自分のことに気が回らなくなり小屋に自分の荷物をまるまる忘れてきてしまったとか。ダメ押しでジャケットに私の吐瀉物がびしゃーっと……。近日、お詫びさせて貰う予定。これだけの迷惑をかけても友人でいてくれることに多謝。二番目に迷惑を被ったのがうちの。精神的及び金銭的被害者。絶縁騒動で気まずくなっている親と病室で深夜から朝迄ふたりきり。引き合わせてしまった張本人である私は病室で高鼾だったらしい。入院代・病院駆けつけ及び帰宅時のタクシー代でかなりの金額を使わせてしまったことが申し訳ない。私はクリスマスプレゼントにブーツを希望していたのにうちの曰く、予期せぬ1泊旅行、に消えてしまった。予期している筈がない。意識不明時に使われた金銭でブーツが流れてしまうとは……無念である。
昨日の流れは、狂ったテンションで徹夜、朝入浴をしたものの取り掛かりが遅く美容院の予約時間に間に合わず電話をかけてずらしてもらい、その後うちのを起こして昼食を摂らせて出かけた。出かける間際に自分の分のヘアカット代があるのかと問われ、ないと答え、何故ないのかを問われ、記憶がないと答えた。喧嘩。今回は博打に使ったりしていないのは確かだけれども、いつどう消えたのかの記憶が曖昧で前後がハッキリしておらず、判っているのはネットオークションで買い物し過ぎたことくらい。次回給料日から家計簿をつけることを約束させられた。そんな喧嘩と叱責を受けつつ美容院に到着。髪を切り、セットをしてもらい、このセットにかなりの時間がかかり、喫茶店でサクッとお茶を飲もうと店に入るも注文した品が出てくるのが異様に遅く、友人との待ち合わせに遅れ、それでも会場到着は一番乗り。開場待ちの間に目の前を通りかかった愛しの君と簡単に言葉を交わし、握手をしてもらい、開場。入場し、前座バンドだか今回のイベントだかの恒例行事となっている、テキーラ・タイム、とやらに舞台に上げられ、服用薬によりアルコール禁忌とは言えず、場の雰囲気を壊すことに抵抗があり、瓶からテキーラを呑めるところ迄らっぱで一気。むしろ体への一揆。あっという間に腹が熱くなり、酔っぱのゴールへまっしぐら。2回目のテキーラ・タイムでもステージ上で再び一気。完全酔っぱらいと化したその後、友人に当然の如くビールを奢らせ、一気ではないが1缶開け、イベント主宰の女性から次に愛しの君らのバンドが登場する旨のMCを聞きつつ、やっとだー、とスピーカに腰掛けて前後に体を揺らしてぼんやりしていたところ迄は記憶にある。その先が不明。友人曰く、スピーカから降りてその場にしゃがみ込んだ私を見て、酔ってしまったと思い様子を見、愛しの君が登場したら飛び起きるだろうと思っていたのに、飛び起きない。ここで重大事だと判断。急いで私を小屋の外に運び出し、会場スタッフに手伝ってもらい介抱しつつ119番。救急車で運ばれ、親とうちのに連絡。このとき、友人はうちのの名を知らなかった為、そして親との絶縁を知っていた為、かなり困ったらしい。困った末に意識のない私に親に連絡していいかを問い、いいという合図を送ったらしい。そして私の携帯電話から親に連絡。その後、私の携帯電話のアドレス帳を一通り見て、幾つも同じ名前があった、との理由で多分これが彼氏であろうと予測し、うちのに電話をしてくれたらしい。家電・携帯・各種メアドを分けて登録していたことがこんな形で功を為すとは。そのうち纏めて一件にしようと思っていたが、このまま纏めずにおき且つうちのの携帯番号のところに、緊急時連絡先、と入力を加えておこう。そしてまずうちのが到着。そこで友人は病院を出たらしい。愛しの君に白目を剥いて倒れて担ぎ出される私を見られてしまった……。嘔吐場面を見られなかったのが救いか。MCで私の話も少し出たらしいが、詳細は不明。
気付いたのが明け方の6時頃。文字通り、ここはどこ? 状態。横を向くと親とうちのが座っていて、急性アル厨で運び込まれて連絡が来たことなどを教えられ、後は昨日の日記の通り。1.5リットルの生食点滴で2リットルの尿が出ることを初めて知った。この排尿はカテーテルでの強制排尿。カテーテル挿入は痛いと聞いていたが、意識不明だったので痛みは無し。しかしアレは抜くときに痛かった。何故誰も抜くときの痛みには触れずに語るのか。未だに注射でも泣く私だが、点滴挿入時の痛みも意識不明だったので無し。意識不明って便利。何度も点滴の針挿入を試んだ痕が腕にあったがこれも記憶無し。親やうちのに、意識がない間に死んだり殺されたりしたらどうするの! と叱咤されたが私は、まあねえ……でもそれは楽そうでいいなあ、と答えてしまった。殺されない迄も、病院到着時には体が冷え切っていたらしく、凍死していた可能性もあった。自殺するならテキーラと眠剤を持って冬山に行こう、と思った。もう自殺の試みなどしないつもりだけれど。今回の騒動を掘り下げていくと、アルコール摂取による希死念慮が増幅しての遠隔な自殺未遂と言えそうである。カテーテル挿入の強制排尿により袋に溜まっていく尿を親やうちのに見られたのは戴けなかったが。服が医療用のものに代えられていたのはすぐに理解できたが、下半身にオムツが着けられていたことには驚いた。カテーテルを挿入されているのだから当然ではあるけれど、果たして私のパンツは……? 親とうちのに訊くも、始めからなかった、との回答。意識不明のときに誰かに犯されたか。と思いきや、カテーテルを外す際、ナースにパンツの所在を問うと、親が急いで、あるよっ! と。騙されていた。退院直前に、お見舞いにお父さんらしき人が、と別のナースが登場。親が迎えに行く。その間に、うちのに私は、愛しの君(仮名)さんだったらどうしよう、とうきうき且つ恥ずかしい姿でいることに戸惑って訊くと、バカ! あんたの父さんだよ! と一蹴。実際、父親だった。まあ当然である。愛しの君とて、酔っぱで潰れた一ファンのお見舞いにくる程暇でもなかろう。いや、それならベーブ=ルースは暇だったのか? 違う。思い遣りの……違う。愛しの君がお見舞いに? という発想そのものが莫迦の莫迦たる所以。莫迦の極み。明日は入院費の支払いに病院と、帰宅後の荷物点検でなくなっていたキャミとスカートを預かってくれている小屋に行く。当分はワンマン以外のライヴには行かせてもらえそうにない。生活に直接係わりのない親もだが、うちのも病院に小屋やイベントの関係…
・うちの
・両親
・和み系バカの友人
・救急隊員
・病院関係者
・担当美容師さんとサロンのスタッフ
・小屋のスタッフ
サロンのスタッフは人数を知らず、小屋のスタッフは人数を知らない上に記憶喪失。救急隊員と病院関係者も同じく。酒で記憶喪失って。20代も後半になって急性アル厨って。もう(以下略。上記の迷惑をかけてしまった中で一番の被害者は友人。物理的且つ精神的被害者。私がライヴを観られずイベントにも行けなかったのは自業自得だが、彼は私の所為でライヴを観られなくなり、その後うちのの病院到着迄ついていてくれた為、その後のイベントにも行けず、おまけに終電を乗り過ごして始発待ち。しかも彼は私の荷物はちゃんと病院に届けてくれたのに、私の介抱で自分のことに気が回らなくなり小屋に自分の荷物をまるまる忘れてきてしまったとか。ダメ押しでジャケットに私の吐瀉物がびしゃーっと……。近日、お詫びさせて貰う予定。これだけの迷惑をかけても友人でいてくれることに多謝。二番目に迷惑を被ったのがうちの。精神的及び金銭的被害者。絶縁騒動で気まずくなっている親と病室で深夜から朝迄ふたりきり。引き合わせてしまった張本人である私は病室で高鼾だったらしい。入院代・病院駆けつけ及び帰宅時のタクシー代でかなりの金額を使わせてしまったことが申し訳ない。私はクリスマスプレゼントにブーツを希望していたのにうちの曰く、予期せぬ1泊旅行、に消えてしまった。予期している筈がない。意識不明時に使われた金銭でブーツが流れてしまうとは……無念である。
昨日の流れは、狂ったテンションで徹夜、朝入浴をしたものの取り掛かりが遅く美容院の予約時間に間に合わず電話をかけてずらしてもらい、その後うちのを起こして昼食を摂らせて出かけた。出かける間際に自分の分のヘアカット代があるのかと問われ、ないと答え、何故ないのかを問われ、記憶がないと答えた。喧嘩。今回は博打に使ったりしていないのは確かだけれども、いつどう消えたのかの記憶が曖昧で前後がハッキリしておらず、判っているのはネットオークションで買い物し過ぎたことくらい。次回給料日から家計簿をつけることを約束させられた。そんな喧嘩と叱責を受けつつ美容院に到着。髪を切り、セットをしてもらい、このセットにかなりの時間がかかり、喫茶店でサクッとお茶を飲もうと店に入るも注文した品が出てくるのが異様に遅く、友人との待ち合わせに遅れ、それでも会場到着は一番乗り。開場待ちの間に目の前を通りかかった愛しの君と簡単に言葉を交わし、握手をしてもらい、開場。入場し、前座バンドだか今回のイベントだかの恒例行事となっている、テキーラ・タイム、とやらに舞台に上げられ、服用薬によりアルコール禁忌とは言えず、場の雰囲気を壊すことに抵抗があり、瓶からテキーラを呑めるところ迄らっぱで一気。むしろ体への一揆。あっという間に腹が熱くなり、酔っぱのゴールへまっしぐら。2回目のテキーラ・タイムでもステージ上で再び一気。完全酔っぱらいと化したその後、友人に当然の如くビールを奢らせ、一気ではないが1缶開け、イベント主宰の女性から次に愛しの君らのバンドが登場する旨のMCを聞きつつ、やっとだー、とスピーカに腰掛けて前後に体を揺らしてぼんやりしていたところ迄は記憶にある。その先が不明。友人曰く、スピーカから降りてその場にしゃがみ込んだ私を見て、酔ってしまったと思い様子を見、愛しの君が登場したら飛び起きるだろうと思っていたのに、飛び起きない。ここで重大事だと判断。急いで私を小屋の外に運び出し、会場スタッフに手伝ってもらい介抱しつつ119番。救急車で運ばれ、親とうちのに連絡。このとき、友人はうちのの名を知らなかった為、そして親との絶縁を知っていた為、かなり困ったらしい。困った末に意識のない私に親に連絡していいかを問い、いいという合図を送ったらしい。そして私の携帯電話から親に連絡。その後、私の携帯電話のアドレス帳を一通り見て、幾つも同じ名前があった、との理由で多分これが彼氏であろうと予測し、うちのに電話をしてくれたらしい。家電・携帯・各種メアドを分けて登録していたことがこんな形で功を為すとは。そのうち纏めて一件にしようと思っていたが、このまま纏めずにおき且つうちのの携帯番号のところに、緊急時連絡先、と入力を加えておこう。そしてまずうちのが到着。そこで友人は病院を出たらしい。愛しの君に白目を剥いて倒れて担ぎ出される私を見られてしまった……。嘔吐場面を見られなかったのが救いか。MCで私の話も少し出たらしいが、詳細は不明。
気付いたのが明け方の6時頃。文字通り、ここはどこ? 状態。横を向くと親とうちのが座っていて、急性アル厨で運び込まれて連絡が来たことなどを教えられ、後は昨日の日記の通り。1.5リットルの生食点滴で2リットルの尿が出ることを初めて知った。この排尿はカテーテルでの強制排尿。カテーテル挿入は痛いと聞いていたが、意識不明だったので痛みは無し。しかしアレは抜くときに痛かった。何故誰も抜くときの痛みには触れずに語るのか。未だに注射でも泣く私だが、点滴挿入時の痛みも意識不明だったので無し。意識不明って便利。何度も点滴の針挿入を試んだ痕が腕にあったがこれも記憶無し。親やうちのに、意識がない間に死んだり殺されたりしたらどうするの! と叱咤されたが私は、まあねえ……でもそれは楽そうでいいなあ、と答えてしまった。殺されない迄も、病院到着時には体が冷え切っていたらしく、凍死していた可能性もあった。自殺するならテキーラと眠剤を持って冬山に行こう、と思った。もう自殺の試みなどしないつもりだけれど。今回の騒動を掘り下げていくと、アルコール摂取による希死念慮が増幅しての遠隔な自殺未遂と言えそうである。カテーテル挿入の強制排尿により袋に溜まっていく尿を親やうちのに見られたのは戴けなかったが。服が医療用のものに代えられていたのはすぐに理解できたが、下半身にオムツが着けられていたことには驚いた。カテーテルを挿入されているのだから当然ではあるけれど、果たして私のパンツは……? 親とうちのに訊くも、始めからなかった、との回答。意識不明のときに誰かに犯されたか。と思いきや、カテーテルを外す際、ナースにパンツの所在を問うと、親が急いで、あるよっ! と。騙されていた。退院直前に、お見舞いにお父さんらしき人が、と別のナースが登場。親が迎えに行く。その間に、うちのに私は、愛しの君(仮名)さんだったらどうしよう、とうきうき且つ恥ずかしい姿でいることに戸惑って訊くと、バカ! あんたの父さんだよ! と一蹴。実際、父親だった。まあ当然である。愛しの君とて、酔っぱで潰れた一ファンのお見舞いにくる程暇でもなかろう。いや、それならベーブ=ルースは暇だったのか? 違う。思い遣りの……違う。愛しの君がお見舞いに? という発想そのものが莫迦の莫迦たる所以。莫迦の極み。明日は入院費の支払いに病院と、帰宅後の荷物点検でなくなっていたキャミとスカートを預かってくれている小屋に行く。当分はワンマン以外のライヴには行かせてもらえそうにない。生活に直接係わりのない親もだが、うちのも病院に小屋やイベントの関係…
酒と雰囲気に呑まれ……
2003年12月20日 家族・メンヘル・健康など 現在21日。
ライヴ中、愛しの君の登場を前に意識喪失。急性アル中で倒れて救急車→一晩入院。退院してきた今も当然ながら不調。いい歳こいてダメ過ぎ。迷惑をかけた関係者各位に深く謝罪。もう呑むものか! その場の雰囲気よりも我が身を守るべきだ、と親とうちのに怒られた。返す言葉無し。愛しの君のプレイとその後に予約していたイベントは緊急入院により消えてしまったが、良かったことがひとつ。もう2度と会えないと思っていた親に会えた。絶縁は事実上だけであり、戸籍の移動などはされていなかった。何度も籍が替わって一番悲しい思いをしてきたのはあんただから、との親の言葉に泪。親も離婚していないらしい。今回の件をきっかけに親と和解に向かうか、事実上絶縁続行となるかは解らない。単純に、今回病院に駆けつけてくれたこと、会えたことが本当に嬉しかった。
そんなダメ人間最強位の私への、うちのからのクリスマスプレゼントは今回の入院費に消えた。しょぼん。けれども自業自得。うちのに、本当にやってくれるなあ、という呆れの言葉とお叱りの言葉を受けた。ちょっと早いクリスマスプレゼントのおまけか。不調続行中に付、短め。
ライヴ中、愛しの君の登場を前に意識喪失。急性アル中で倒れて救急車→一晩入院。退院してきた今も当然ながら不調。いい歳こいてダメ過ぎ。迷惑をかけた関係者各位に深く謝罪。もう呑むものか! その場の雰囲気よりも我が身を守るべきだ、と親とうちのに怒られた。返す言葉無し。愛しの君のプレイとその後に予約していたイベントは緊急入院により消えてしまったが、良かったことがひとつ。もう2度と会えないと思っていた親に会えた。絶縁は事実上だけであり、戸籍の移動などはされていなかった。何度も籍が替わって一番悲しい思いをしてきたのはあんただから、との親の言葉に泪。親も離婚していないらしい。今回の件をきっかけに親と和解に向かうか、事実上絶縁続行となるかは解らない。単純に、今回病院に駆けつけてくれたこと、会えたことが本当に嬉しかった。
そんなダメ人間最強位の私への、うちのからのクリスマスプレゼントは今回の入院費に消えた。しょぼん。けれども自業自得。うちのに、本当にやってくれるなあ、という呆れの言葉とお叱りの言葉を受けた。ちょっと早いクリスマスプレゼントのおまけか。不調続行中に付、短め。
世の中に創造により世に出たがっているものは多い。音楽然り、絵画然り、文章然り。その中の99%以上の者は商業ベースに乗るレベルに達しないことにどこかで気付かされ、日常に埋没してゆく。商業ベースに乗るために必要な三大要素は、才能・努力・運だと私は思っている。埋没してゆく者の多くは、才能がないのにあると勘違いしていたり、運に恵まれなかったりする。それでも継続は力である部分もあり、良い例がゴッホである。彼は存命中は全く世に認められず、それでも描き続けて死後、認められた。これが幸せなことかどうかは別の話である。才能に焦点を当てて話を進める。いろいろなものを読んだり聴いたりする中で、むずむずとさせられるものに当たることがある。むずむずの正体は、勘違い、である。才能はオリジナリティという言葉に置換可能だ。現代に於いてオリジナリティの発揮は本当に困難だ。過去、各ジャンルに於いて既に様々なものが発表され尽くされているといっても過言ではなく、それを再構築し、そこにどうにかオリジナリティを見出せるか否かにかかっていると言えるのではなかろうか。現代の創造物のほぼ全ては、メタである。私が悲惨だと思うのは、メタに気付かず、パスティーシュにも模倣にも達しておらず、勿論再構築には程遠い場所にありつつ、それでもオリジナルだと勘違いして創造している者である。知らぬが仏か。しかし人間たるもの、霞を喰らって生きていける訳ではない。
その昔、P2Pを使っていた頃、某人気女性自作自演屋の新曲と謳われて出回っていた曲があった。DLして聴いてみて、本当にその自作自演屋の作品だと思った。のだが、某巨大掲示板でその曲の正体を知った。某売れていない女性シンガーのオリジナル曲だったのだ。うちのにもそれを聴かせてみたところ、やはり某人気自作自演屋の歌だと思ったようである。某人気女性アーティストがデビューした当時、某自作自演屋のパクりだと揶揄されていたが、今、そのアーティストは我が道を行きつつ成功している。某売れていない女性シンガーは、今頃どうしているのだろう。一旦は売れずとも商業ベースに乗った人ではあるが、引退したのだろうか。彼女はきっと踊らされたのだろうと想像している。某自作自演屋の登場→某アーティストのデビューからオリジナル路線への転向と成功を見たPに、これで売れればその先は自分のカラーで行けるから、などと言われてその楽曲を作製・発表し、消えたのではなかろうか。これはこれで悲惨な話である。そしてもし、本人がこれが私のオリジナルと思って作製・発表した楽曲であれば、もっと悲惨な話である。全てがメタだと気付いたところから、知ったところから、現代は創造が可能となる。
明日行く愛しの君のライヴは、と或るイベント内で行われる。そのイベントの趣旨とライヴは全く関連性がなく、単に過去に数度イベント主宰の小さな小屋では割と人気があるらしい女性アーティストと対バンしたことでの、イベント内ライヴだと予想している。イベントは先日の日記にも書いたように女性無料のドレスコードがレオパード・水着・下着というアレだ。趣旨は、セックスを真面目に考える、というものらしい。もう趣旨からして間違っている。セックスは真面目に考えるものではなく、真面目にスルものなのだ。主催者はまだ17歳だか18歳だかの高校中退者で、まあ学歴は関係ないのだけれども、彼女のウリは、間違ったセックスを一通りした上でセックスを真面目に考えるようになった、というものらしい。らしい、が多いのは私が彼女をよく知らないからであり、何度か小屋で聴いてはいるもののオリジナリティは見出せず、因って興味を持っていないからである。何の自慢にもならないことだが、間違ったセックスをしてきた過去なら、彼女よりも私の方が勝っている気がする。気がする、は謙遜。彼女を詳しく知らずとも、絶対に勝っているに決まっている。負けているのは乳のでかさか。しょぼん。いや、そんなことはどうでもよく。まずイベント趣旨の発想からして間違いを感じ、そしてドレスコードがそれに止めを刺す。肌の露出が性的欲求や性的妄想を掻き立てるとは限らず、またもしも、セックスを真面目に考える、という趣旨を肯定するならば、肌を露出する必要は全くなく心のみを裸にすればいいだけの話である。肌の露出と内面の露出は別物であり、もし本当にこの趣旨でイベントをしたいのであれば、自らの性的経験を赤裸々に公表できる者につき入場無料とすべきではなかろうか。また女性にのみ入場無料のドレスコードを設けている点も戴けない。逆女性差別に値するものだと私は思う。昨今、巷では女性差別だけではなく男性差別も問題化している。その辺りのことをきちんと理解してから、このようなイベントを開催するのが正しいのではなかろうか。彼女の表現したいものを知り、表現方法を観聴きし、商業ベースには乗れなかろうな、と思っている。本人が乗りたがっているかどうか迄は知らない。これだけいちゃもんを付けつつも行くのは、単に愛しの君の年内見納めだからだ。
冒頭にゴッホの例を挙げた。生存中の彼は苦労続きであっただろう。けれども商業ベースに乗れないながらも創造をし且つ現在に至って消費はされていない。商業ベースに乗ってしまうと消費されていく者が大半である。商業ベースに乗れずに三大欲求の日々に消費されてしまう者はもっと多い。そして理想。商業ベースに乗りつつ消費されない物の創造。天才は1%の閃きと99%の努力だと述べたのはエジソンであるが、これは果たして本当だろうか。嘘ではない≠本当。こと芸術方面に於いてのみで生活を成り立たせようと思うならば、才が40%、努力が30%、運が30%くらいが妥当ではなかろうか。しかしこれはその生業の期間のトータルであり、発端の商業ベースに乗ることだけを考えて極論すれば、天賦の才が1%、運が99%。そこから商業ベース上での活動を生涯継続しようと思えば、才が40%、努力が40%、運が20%。更に商業ベースにありつつ消費されない物の創造となると、才が40%、努力が55%、運が5%。因みに発端にのみ才に、天賦、とつけたのは見聞を広げることにより天賦だけではない才が生じると信じているからである。理想郷を目指して邁進。されど理想郷の所在は未だ見つからず。そもそも才の有無からして疑ってかかるべきであろうか。末は博士か大臣か。20歳過ぎれば只の人……。
その昔、P2Pを使っていた頃、某人気女性自作自演屋の新曲と謳われて出回っていた曲があった。DLして聴いてみて、本当にその自作自演屋の作品だと思った。のだが、某巨大掲示板でその曲の正体を知った。某売れていない女性シンガーのオリジナル曲だったのだ。うちのにもそれを聴かせてみたところ、やはり某人気自作自演屋の歌だと思ったようである。某人気女性アーティストがデビューした当時、某自作自演屋のパクりだと揶揄されていたが、今、そのアーティストは我が道を行きつつ成功している。某売れていない女性シンガーは、今頃どうしているのだろう。一旦は売れずとも商業ベースに乗った人ではあるが、引退したのだろうか。彼女はきっと踊らされたのだろうと想像している。某自作自演屋の登場→某アーティストのデビューからオリジナル路線への転向と成功を見たPに、これで売れればその先は自分のカラーで行けるから、などと言われてその楽曲を作製・発表し、消えたのではなかろうか。これはこれで悲惨な話である。そしてもし、本人がこれが私のオリジナルと思って作製・発表した楽曲であれば、もっと悲惨な話である。全てがメタだと気付いたところから、知ったところから、現代は創造が可能となる。
明日行く愛しの君のライヴは、と或るイベント内で行われる。そのイベントの趣旨とライヴは全く関連性がなく、単に過去に数度イベント主宰の小さな小屋では割と人気があるらしい女性アーティストと対バンしたことでの、イベント内ライヴだと予想している。イベントは先日の日記にも書いたように女性無料のドレスコードがレオパード・水着・下着というアレだ。趣旨は、セックスを真面目に考える、というものらしい。もう趣旨からして間違っている。セックスは真面目に考えるものではなく、真面目にスルものなのだ。主催者はまだ17歳だか18歳だかの高校中退者で、まあ学歴は関係ないのだけれども、彼女のウリは、間違ったセックスを一通りした上でセックスを真面目に考えるようになった、というものらしい。らしい、が多いのは私が彼女をよく知らないからであり、何度か小屋で聴いてはいるもののオリジナリティは見出せず、因って興味を持っていないからである。何の自慢にもならないことだが、間違ったセックスをしてきた過去なら、彼女よりも私の方が勝っている気がする。気がする、は謙遜。彼女を詳しく知らずとも、絶対に勝っているに決まっている。負けているのは乳のでかさか。しょぼん。いや、そんなことはどうでもよく。まずイベント趣旨の発想からして間違いを感じ、そしてドレスコードがそれに止めを刺す。肌の露出が性的欲求や性的妄想を掻き立てるとは限らず、またもしも、セックスを真面目に考える、という趣旨を肯定するならば、肌を露出する必要は全くなく心のみを裸にすればいいだけの話である。肌の露出と内面の露出は別物であり、もし本当にこの趣旨でイベントをしたいのであれば、自らの性的経験を赤裸々に公表できる者につき入場無料とすべきではなかろうか。また女性にのみ入場無料のドレスコードを設けている点も戴けない。逆女性差別に値するものだと私は思う。昨今、巷では女性差別だけではなく男性差別も問題化している。その辺りのことをきちんと理解してから、このようなイベントを開催するのが正しいのではなかろうか。彼女の表現したいものを知り、表現方法を観聴きし、商業ベースには乗れなかろうな、と思っている。本人が乗りたがっているかどうか迄は知らない。これだけいちゃもんを付けつつも行くのは、単に愛しの君の年内見納めだからだ。
冒頭にゴッホの例を挙げた。生存中の彼は苦労続きであっただろう。けれども商業ベースに乗れないながらも創造をし且つ現在に至って消費はされていない。商業ベースに乗ってしまうと消費されていく者が大半である。商業ベースに乗れずに三大欲求の日々に消費されてしまう者はもっと多い。そして理想。商業ベースに乗りつつ消費されない物の創造。天才は1%の閃きと99%の努力だと述べたのはエジソンであるが、これは果たして本当だろうか。嘘ではない≠本当。こと芸術方面に於いてのみで生活を成り立たせようと思うならば、才が40%、努力が30%、運が30%くらいが妥当ではなかろうか。しかしこれはその生業の期間のトータルであり、発端の商業ベースに乗ることだけを考えて極論すれば、天賦の才が1%、運が99%。そこから商業ベース上での活動を生涯継続しようと思えば、才が40%、努力が40%、運が20%。更に商業ベースにありつつ消費されない物の創造となると、才が40%、努力が55%、運が5%。因みに発端にのみ才に、天賦、とつけたのは見聞を広げることにより天賦だけではない才が生じると信じているからである。理想郷を目指して邁進。されど理想郷の所在は未だ見つからず。そもそも才の有無からして疑ってかかるべきであろうか。末は博士か大臣か。20歳過ぎれば只の人……。
現在19日に日付が変わったばかり。
先日、うちのの書棚にあった「ユリイカ」に手を伸ばしてみたところ、それは2000年度の中原中也賞が発表された号であり、そこには大賞受賞作が載っており、その詩人のインタビューなんぞも載っており、読んでみて、現代詩とはこういうものかと知った私は詩について詳しくはなく、所謂門外漢であり、詩を読んでみて、選評も読んでみて、ちょっと詳しくなった気になったりして、でも気付いてしまったりして、その詩の手法は私が勤務していたエロ本出版社で一番売れていた雑誌の編集長が得意としていたリズム感によって成り立っていて、それがその受賞者の詩のリズムの全てではないけれども、明らかに流れを汲んでいる詩もひとつではなく存在しており、その詩よりもその編集長が雑誌で書いていた文章の方が先に世に出ており、しかしエロ雑誌という特性からして受賞者は恐らく読んでおらず、選者も恐らく読んでおらず、それでも新鮮だとか言われていて、でも私からしたら言葉選びは斬新ながらもリズムに新鮮さは見出せず、性的表現にオブラートしか見出せず、その編集長のテイストで無記名ライターとして所謂代筆をもしていた私としては、むしろ読み飽きた感もあり、それでもエロ写真を伴わないそれは、まあ言われてみれば新鮮なのかなあ、という感想を抱かせ、でもそんな感想はまやかしで、ちっとも新鮮なんかではなく或る分野に於いては遣り尽くされた感のあるもので、極められた感のあるもので、専門バカという言葉を思い出させられたりし、視野は広く持たねばと自分を叱咤し、その詩を何度か読んでみた訳だが、はあそうですか、としか思えず、感受性が弱まっているのかとも思ったり、そうであろうと思わなかったり。
そして何故、こんな文体で日記を綴っているのかと言うと、友人と詩の話になったからであり、友人の詩を読ませてもらってテーマが現代的だと思い、いや普遍的だとも思い、たまたま読んだその中原中也賞の詩を思い出してしまい、同時に上記エロ雑誌を思い出してしまい、私がその雑誌で当時書いていた文章の勘を取り戻し、取り戻せきってはいないけれども、でも取り戻そうと思い、今回この文体で日記を綴っている訳であり、こういったように過去の自分の文体を駆使したり、他者の文体をパスティーシュしたり、独自の文体を用いたりといった、実験的な試みは本当は来年からする予定だったのだけれども、たまたま昨日の会話でその欲求が噴出してしまい、どうしてもこの文体で書いてみたくなってしまい、この文体は改行に気をつけなければ読み難くなるのも承知で、でもこのサイトでは句読点のぶら下げができないのも承知で、でも改行を使うとこれ迄の日記から明らかに浮いてしまうのも承知で、仕方なくこういう形になってしまっており、これを読んでくれている方々には申し訳ないという気持ちもほんの少しあり、けれども元々自分の為の日記だからいいやという気持ちの方が強く、だらだらと書いている次第。
この文体はとても書くのが楽な文体だということは、物書きなら端くれでも知っていることであり、物書きが読んだらこの日記は手抜き日記であり、情けないと思われかねない代物で、詠ずることある代物で、この辺りに普段のテイストを紛れ込ませているあざとさを自覚、あざとさを含めての自分を肯定しようと、そんな高尚な気持ちで書いている訳でもなく、思いつくままに、徒然に、長々と、だらだらと、こんな文章を綴って何になるのかと問われれば、そもさん、説破、自己満足、としか答えられず、文章訓練からは程遠く、怠け心から書いているのではないかと勘繰られようとも、単に文章が下手糞だと罵られようとも、文句の言いようがなくとも、書き始めたからには通しきらねばならず、ならずなどと言ってもそれは自分の都合であり、自分の規制であり、自分の勝手であり、他者には関係ない話であり、こんな文章でサーバ負荷をかけられる管理人さんごめんなさい、この辺でそんな気持ちが生じてきても書き始めてしまったので、書かせて貰いつつ自己嫌悪も混ざってきて、この日記をつけ始めてから自分の文章の何が進歩したかと問われると、やはり答えようがなく、精神安定には役立てども、文章鍛錬には役立たず、果たして、これが、将来の、礎に、本当に、なり得るのか、そんな考えが前頭葉を掠め取って、奪い取って、未だ廃人続行中につき、勘弁願いたく、自己弁護しつつ、生まれてすみません、そんな太宰な気分になったりする、けれども、私は太宰が嫌いであり、太宰は男性的だと思い、荷風のような文章が好きで、谷崎のような文章が好きで、でも、ゆあんゆよんも捨て難く、ガタギシと軋む線路を模した脳の皺は、今、こんな、文章しか、発車できないもので、始発駅も、終着駅もなく、幽霊列車、走る。走る。走る。
この文体で書いていた頃に、鍛えられたものは、文章のリズム感だったと思われ、それ以外のことには、これといって特に役立たなかった気もするが、それでもリズム感取得には十分であり、けれどもリズム感は取得するものではなく、矛盾が生じているのは私の文章表現能力が至らないからで、正しくはリズム感の鍛錬と書くべきであり、それは文章のリズム感は取得しようと思って得られるものではなく、過去の読書歴と読書の質と生まれもっての性質がものを言う部分で、努力して得られたリズム感というものは所詮技巧でしかなく、人に心地良さを感じさせる為の技術でしかなく、感動は与えられない代物で、それでもリズム感のない文章は、そもそも人の読む気を殺がせるに値するもので、そんなものは最早文章とは呼べないもので、記号の羅列、自己の羅刹、脳髄の羅漢から滴る水の如く土へと吸い込まれてゆき、その水は周囲の木々の養分になりはせず、周囲に木々など生えてはおらず、樹木は羅漢の遠き向こうの彼方のあちらに生息しており、土へと吸われた水はただ蒸発してゆくばかり、消費されてゆくばかり、雲として、再生産されることもなく、ただ、ただ、宙を、彷徨い、流離い、消えゆくばかり、世の儚さは人の夢であり、十年百年の時間を、草から大木へと、百花繚乱から一粒の種へと、そんなものは人の夢、儚き想いが語らせる夢、物の全ては朽ちる。朽ちる。朽ちる。
BGM/アルバム「ペテン師と空気男」
先日、うちのの書棚にあった「ユリイカ」に手を伸ばしてみたところ、それは2000年度の中原中也賞が発表された号であり、そこには大賞受賞作が載っており、その詩人のインタビューなんぞも載っており、読んでみて、現代詩とはこういうものかと知った私は詩について詳しくはなく、所謂門外漢であり、詩を読んでみて、選評も読んでみて、ちょっと詳しくなった気になったりして、でも気付いてしまったりして、その詩の手法は私が勤務していたエロ本出版社で一番売れていた雑誌の編集長が得意としていたリズム感によって成り立っていて、それがその受賞者の詩のリズムの全てではないけれども、明らかに流れを汲んでいる詩もひとつではなく存在しており、その詩よりもその編集長が雑誌で書いていた文章の方が先に世に出ており、しかしエロ雑誌という特性からして受賞者は恐らく読んでおらず、選者も恐らく読んでおらず、それでも新鮮だとか言われていて、でも私からしたら言葉選びは斬新ながらもリズムに新鮮さは見出せず、性的表現にオブラートしか見出せず、その編集長のテイストで無記名ライターとして所謂代筆をもしていた私としては、むしろ読み飽きた感もあり、それでもエロ写真を伴わないそれは、まあ言われてみれば新鮮なのかなあ、という感想を抱かせ、でもそんな感想はまやかしで、ちっとも新鮮なんかではなく或る分野に於いては遣り尽くされた感のあるもので、極められた感のあるもので、専門バカという言葉を思い出させられたりし、視野は広く持たねばと自分を叱咤し、その詩を何度か読んでみた訳だが、はあそうですか、としか思えず、感受性が弱まっているのかとも思ったり、そうであろうと思わなかったり。
そして何故、こんな文体で日記を綴っているのかと言うと、友人と詩の話になったからであり、友人の詩を読ませてもらってテーマが現代的だと思い、いや普遍的だとも思い、たまたま読んだその中原中也賞の詩を思い出してしまい、同時に上記エロ雑誌を思い出してしまい、私がその雑誌で当時書いていた文章の勘を取り戻し、取り戻せきってはいないけれども、でも取り戻そうと思い、今回この文体で日記を綴っている訳であり、こういったように過去の自分の文体を駆使したり、他者の文体をパスティーシュしたり、独自の文体を用いたりといった、実験的な試みは本当は来年からする予定だったのだけれども、たまたま昨日の会話でその欲求が噴出してしまい、どうしてもこの文体で書いてみたくなってしまい、この文体は改行に気をつけなければ読み難くなるのも承知で、でもこのサイトでは句読点のぶら下げができないのも承知で、でも改行を使うとこれ迄の日記から明らかに浮いてしまうのも承知で、仕方なくこういう形になってしまっており、これを読んでくれている方々には申し訳ないという気持ちもほんの少しあり、けれども元々自分の為の日記だからいいやという気持ちの方が強く、だらだらと書いている次第。
この文体はとても書くのが楽な文体だということは、物書きなら端くれでも知っていることであり、物書きが読んだらこの日記は手抜き日記であり、情けないと思われかねない代物で、詠ずることある代物で、この辺りに普段のテイストを紛れ込ませているあざとさを自覚、あざとさを含めての自分を肯定しようと、そんな高尚な気持ちで書いている訳でもなく、思いつくままに、徒然に、長々と、だらだらと、こんな文章を綴って何になるのかと問われれば、そもさん、説破、自己満足、としか答えられず、文章訓練からは程遠く、怠け心から書いているのではないかと勘繰られようとも、単に文章が下手糞だと罵られようとも、文句の言いようがなくとも、書き始めたからには通しきらねばならず、ならずなどと言ってもそれは自分の都合であり、自分の規制であり、自分の勝手であり、他者には関係ない話であり、こんな文章でサーバ負荷をかけられる管理人さんごめんなさい、この辺でそんな気持ちが生じてきても書き始めてしまったので、書かせて貰いつつ自己嫌悪も混ざってきて、この日記をつけ始めてから自分の文章の何が進歩したかと問われると、やはり答えようがなく、精神安定には役立てども、文章鍛錬には役立たず、果たして、これが、将来の、礎に、本当に、なり得るのか、そんな考えが前頭葉を掠め取って、奪い取って、未だ廃人続行中につき、勘弁願いたく、自己弁護しつつ、生まれてすみません、そんな太宰な気分になったりする、けれども、私は太宰が嫌いであり、太宰は男性的だと思い、荷風のような文章が好きで、谷崎のような文章が好きで、でも、ゆあんゆよんも捨て難く、ガタギシと軋む線路を模した脳の皺は、今、こんな、文章しか、発車できないもので、始発駅も、終着駅もなく、幽霊列車、走る。走る。走る。
この文体で書いていた頃に、鍛えられたものは、文章のリズム感だったと思われ、それ以外のことには、これといって特に役立たなかった気もするが、それでもリズム感取得には十分であり、けれどもリズム感は取得するものではなく、矛盾が生じているのは私の文章表現能力が至らないからで、正しくはリズム感の鍛錬と書くべきであり、それは文章のリズム感は取得しようと思って得られるものではなく、過去の読書歴と読書の質と生まれもっての性質がものを言う部分で、努力して得られたリズム感というものは所詮技巧でしかなく、人に心地良さを感じさせる為の技術でしかなく、感動は与えられない代物で、それでもリズム感のない文章は、そもそも人の読む気を殺がせるに値するもので、そんなものは最早文章とは呼べないもので、記号の羅列、自己の羅刹、脳髄の羅漢から滴る水の如く土へと吸い込まれてゆき、その水は周囲の木々の養分になりはせず、周囲に木々など生えてはおらず、樹木は羅漢の遠き向こうの彼方のあちらに生息しており、土へと吸われた水はただ蒸発してゆくばかり、消費されてゆくばかり、雲として、再生産されることもなく、ただ、ただ、宙を、彷徨い、流離い、消えゆくばかり、世の儚さは人の夢であり、十年百年の時間を、草から大木へと、百花繚乱から一粒の種へと、そんなものは人の夢、儚き想いが語らせる夢、物の全ては朽ちる。朽ちる。朽ちる。
BGM/アルバム「ペテン師と空気男」
ダメダメ僻み厨
2003年12月17日 家族・メンヘル・健康など 体調が芳しくないと、心の調子も芳しくなくなってくる。筋肉痛が長引き、今も体中が痛い。そして昨日の夕方からいきなり凹みだした。何があったという訳でもないのに、猛烈に孤独感・閉塞感に襲われ、奈落のゴールへまっしぐら。2回睡眠を取っても切り替えられていないので、この凹みは長引きそうな悪寒。凹みの発端は、大切にされていない感である。昨日の夕方、うちのに送ったメールその1。以下、一部改定して引用。
筋肉痛+何があったと言うわけでもないが激しく陰鬱。
急に無性にうちのの下の姉さんの言葉が引っかかりだした。
「絶縁して一番つらいのは本人だから」
旦那さんにはそう思えても私には思えないのかなあ、
弟の嫁、しかも嫁候補なんざ所詮他人かよ……と。
「結婚は簡単なもんじゃない」
絶縁して一番つらいのは本人なんでしょ?
今回の場合、私でしょ?
ならもっと簡単にしてくれてもいいじゃない!ってね……。
皆に大切にされてるうちのが凄く羨ましいやら妬ましいやら。
嫌な感情だね。ごめん。でも書きたかったんだ。
気遣いクレクレの構って厨になりかかっている自覚あり。
洗濯物畳んで寝てます。。。
うちのからの返信。
まあ、あれだ。
ゴタゴタが続いているから、そういった責任抜きで
本当に一緒になりたいのかと俺に聞きたいんだと思うよ。
黒猫が一緒にいると本音が言いづらいとか、
そういった面に気を使ってのことで反対ではないと。
そこをきちんと説明すれば、あとは問題ないと俺は思ってる。
私からのメールその2。
慰め、ありがと。
反対されていないにしても「大事にされていない感」がちょっとね……。
まあ少なくとも今は他人様だし求めたって仕方がないことなんだけど。
余りにもうちのを大切にしてて私の事情や存在そのものが二の次になっている気が。
ごめんね。ひと寝入りしたけどまだ切り替えられていないや。
暫く引き摺っちゃうかも……。我ながら僻み厨でウザーです。。。
年末年始のうちのの実家への帰省がなくなったことでその場の重荷が消えはしたが、先を思いやられているのだ。私がいると本音が言い難い。私を他の間に置いておいても言い難い本音。もうこれは結婚への反対としか思えなくなってきた。うちのの身内の身近に、うつ病の人が数人いると言う。そしてその人々は話を聞く限り、重度のうつらしい。私もうつだと勘違いされており、周囲に重度のひとばかり→うつの症状は重度しかない→私もうつ病と勘違いされている→結婚反対。こんなチャート式思考に絡められてきてしまった。そしてうちのは身内にとても大切にしてもらえている。私にはもう大切にしてくれる身内はいない。身内がいた頃の大切にされ加減も歪んだ形だった。うちのが羨ましく妬ましく、悲しい。詮無いことを考えてしまっているのは解っている。解ってはいる。だがしかし。メールその1が最も正確な本音。何故、旦那さんにはそう思えて、同じ思いが私に適用されないのか。絶縁によって一番つらい思いをしているのが本人だと思っているなら、もっと気遣って欲しい。構ってチャンになってしまっている。陰鬱な気分に自己嫌悪が加わる。
昨日はうちのが早く帰ってきてくれた。うちのは、各種誤解は話せば解ける、と楽観視している。私は悲観視している。育った環境の違いだろうか。私の身内は話したからといって誤解が簡単に解ける人々ではなかったので。正直な話をした。年明けにうちのがひとりで帰省したとき、多分結婚反対を言い渡されるよ、と。そうしたらどうするの? と。うちのは育った環境により母親をとても大切にしている。≠マザコン。大切な母親に私との結婚を反対されたらどうするつもりなのか、きちんと聞いていなかったことも不安の一因になっていた。ので、率直に訊いた。泣きながら不安感と大切にされていない感のつらさについて話した。嬉しい答えが返ってきた。うちのに激しく感謝。でも私はうちのにだけでなく、うちのと同様にその身内にも大切にされたいのだ。私は自分の身内と絶縁したが、うちのの家族としてスムーズに歓迎されたかった。すんなりと新しい家族が欲しかった。現状、スムーズどころか歓迎されていない。その悲しさは消えていない。うちのは、それは誤解が解けてその先の話、と言っていた。それも一理ある。うちのの身内は、私の絶縁に伴う急展開についてこれていない。それならば、事態をそのまま受け止めて、絶縁して一番つらいのは本人だから、を私に当て嵌めて接して欲しかったという気持ちは残ってしまっている。メールにも書いたように、暫く引き摺りそうだ。今週の私は廃人だろう。人は皆、その人なりに一所懸命に生きていると思う。うちのも一所懸命。私も一所懸命。他者も一所懸命。それでも周囲からの大切にされ加減が、大切にされる方法に差異が生じるのは何故だ。私もうちののように皆に大切にされたい。諸行無常。
結婚は婚姻届1枚の提出とそれに伴う必要な諸手続、後は記念写真を撮るだけで済ませるつもりだったけれど、ここに来て皆に祝福されたい願望が沸いてきた。無宗教だけれども、ふたりだけで式を挙げて神からの祝福を得たいとか、友人連中を呼んで簡単なパーティーを開きたいとか。このパーティー、会費制で闇おむすび大会を希望。具に何が入っているか判らないようにして私が作る。なんでこんなところにネタを挟みたいのか……。いや、ネタ無しでも皆と会いたい気持ちが強いのだ。友人連中とは学校を卒業してからメールなどで連絡を取ったり、たまに個々に会ったりはしている。しかしなかなか皆で集まる機会というものが減ってきている。環境が違うのだから仕方がない。会おうと思っても仕事やら何やらで、友達付き合いが最優先事項になることは稀だ。ところが、冠婚葬祭は最優先事項となり易く、皆に集まってもらい易い。式や披露宴は諸々で無理だし、うちのも私も気恥ずかしさと金銭的事情により気乗りしていないものの、友人連中との気軽なパーティーならいいのではないかな、と前々から思っていた。よく身内だけで式や披露宴をする人がいる。私は昔からそれが嫌だった。身内の前で、この人としかもうセックスしません宣言、など恥ずかしくて居た堪れない。私にとって結婚式=この人としかセックスしません宣言なのである。歪んでいるのは承知。でも友人連中相手なら、しかも宣誓などがないならいいなあ、と。結婚しようとしまいと、身内がいようといまいと、基本的に人間はひとりだと思っている。身近な人間はその孤独感を薄めてくれる存在でしかないとも解っている。それでもこんな祝福されたい願望が強く沸いてきているのは、今の私が弱りきっているからだ。気持ちの切替がとことん下手。今後の課題のひとつだ。
BGM/アルバム「羅生門」
筋肉痛+何があったと言うわけでもないが激しく陰鬱。
急に無性にうちのの下の姉さんの言葉が引っかかりだした。
「絶縁して一番つらいのは本人だから」
旦那さんにはそう思えても私には思えないのかなあ、
弟の嫁、しかも嫁候補なんざ所詮他人かよ……と。
「結婚は簡単なもんじゃない」
絶縁して一番つらいのは本人なんでしょ?
今回の場合、私でしょ?
ならもっと簡単にしてくれてもいいじゃない!ってね……。
皆に大切にされてるうちのが凄く羨ましいやら妬ましいやら。
嫌な感情だね。ごめん。でも書きたかったんだ。
気遣いクレクレの構って厨になりかかっている自覚あり。
洗濯物畳んで寝てます。。。
うちのからの返信。
まあ、あれだ。
ゴタゴタが続いているから、そういった責任抜きで
本当に一緒になりたいのかと俺に聞きたいんだと思うよ。
黒猫が一緒にいると本音が言いづらいとか、
そういった面に気を使ってのことで反対ではないと。
そこをきちんと説明すれば、あとは問題ないと俺は思ってる。
私からのメールその2。
慰め、ありがと。
反対されていないにしても「大事にされていない感」がちょっとね……。
まあ少なくとも今は他人様だし求めたって仕方がないことなんだけど。
余りにもうちのを大切にしてて私の事情や存在そのものが二の次になっている気が。
ごめんね。ひと寝入りしたけどまだ切り替えられていないや。
暫く引き摺っちゃうかも……。我ながら僻み厨でウザーです。。。
年末年始のうちのの実家への帰省がなくなったことでその場の重荷が消えはしたが、先を思いやられているのだ。私がいると本音が言い難い。私を他の間に置いておいても言い難い本音。もうこれは結婚への反対としか思えなくなってきた。うちのの身内の身近に、うつ病の人が数人いると言う。そしてその人々は話を聞く限り、重度のうつらしい。私もうつだと勘違いされており、周囲に重度のひとばかり→うつの症状は重度しかない→私もうつ病と勘違いされている→結婚反対。こんなチャート式思考に絡められてきてしまった。そしてうちのは身内にとても大切にしてもらえている。私にはもう大切にしてくれる身内はいない。身内がいた頃の大切にされ加減も歪んだ形だった。うちのが羨ましく妬ましく、悲しい。詮無いことを考えてしまっているのは解っている。解ってはいる。だがしかし。メールその1が最も正確な本音。何故、旦那さんにはそう思えて、同じ思いが私に適用されないのか。絶縁によって一番つらい思いをしているのが本人だと思っているなら、もっと気遣って欲しい。構ってチャンになってしまっている。陰鬱な気分に自己嫌悪が加わる。
昨日はうちのが早く帰ってきてくれた。うちのは、各種誤解は話せば解ける、と楽観視している。私は悲観視している。育った環境の違いだろうか。私の身内は話したからといって誤解が簡単に解ける人々ではなかったので。正直な話をした。年明けにうちのがひとりで帰省したとき、多分結婚反対を言い渡されるよ、と。そうしたらどうするの? と。うちのは育った環境により母親をとても大切にしている。≠マザコン。大切な母親に私との結婚を反対されたらどうするつもりなのか、きちんと聞いていなかったことも不安の一因になっていた。ので、率直に訊いた。泣きながら不安感と大切にされていない感のつらさについて話した。嬉しい答えが返ってきた。うちのに激しく感謝。でも私はうちのにだけでなく、うちのと同様にその身内にも大切にされたいのだ。私は自分の身内と絶縁したが、うちのの家族としてスムーズに歓迎されたかった。すんなりと新しい家族が欲しかった。現状、スムーズどころか歓迎されていない。その悲しさは消えていない。うちのは、それは誤解が解けてその先の話、と言っていた。それも一理ある。うちのの身内は、私の絶縁に伴う急展開についてこれていない。それならば、事態をそのまま受け止めて、絶縁して一番つらいのは本人だから、を私に当て嵌めて接して欲しかったという気持ちは残ってしまっている。メールにも書いたように、暫く引き摺りそうだ。今週の私は廃人だろう。人は皆、その人なりに一所懸命に生きていると思う。うちのも一所懸命。私も一所懸命。他者も一所懸命。それでも周囲からの大切にされ加減が、大切にされる方法に差異が生じるのは何故だ。私もうちののように皆に大切にされたい。諸行無常。
結婚は婚姻届1枚の提出とそれに伴う必要な諸手続、後は記念写真を撮るだけで済ませるつもりだったけれど、ここに来て皆に祝福されたい願望が沸いてきた。無宗教だけれども、ふたりだけで式を挙げて神からの祝福を得たいとか、友人連中を呼んで簡単なパーティーを開きたいとか。このパーティー、会費制で闇おむすび大会を希望。具に何が入っているか判らないようにして私が作る。なんでこんなところにネタを挟みたいのか……。いや、ネタ無しでも皆と会いたい気持ちが強いのだ。友人連中とは学校を卒業してからメールなどで連絡を取ったり、たまに個々に会ったりはしている。しかしなかなか皆で集まる機会というものが減ってきている。環境が違うのだから仕方がない。会おうと思っても仕事やら何やらで、友達付き合いが最優先事項になることは稀だ。ところが、冠婚葬祭は最優先事項となり易く、皆に集まってもらい易い。式や披露宴は諸々で無理だし、うちのも私も気恥ずかしさと金銭的事情により気乗りしていないものの、友人連中との気軽なパーティーならいいのではないかな、と前々から思っていた。よく身内だけで式や披露宴をする人がいる。私は昔からそれが嫌だった。身内の前で、この人としかもうセックスしません宣言、など恥ずかしくて居た堪れない。私にとって結婚式=この人としかセックスしません宣言なのである。歪んでいるのは承知。でも友人連中相手なら、しかも宣誓などがないならいいなあ、と。結婚しようとしまいと、身内がいようといまいと、基本的に人間はひとりだと思っている。身近な人間はその孤独感を薄めてくれる存在でしかないとも解っている。それでもこんな祝福されたい願望が強く沸いてきているのは、今の私が弱りきっているからだ。気持ちの切替がとことん下手。今後の課題のひとつだ。
BGM/アルバム「羅生門」
来年の目標
2003年12月16日 家族・メンヘル・健康など 昨日の日記の中に可笑しな箇所を発見。最終段落にて、除く、芸能人。と書いておきつつ愛しの君を引き合いに出していた。曲がりなりにも愛しの君は芸能人なのに。マイナーでも。今は売れていなくても。ファンからの写真の要望に気軽に応えて、ラブホを背景にした写真になることを臆しなくても。会報誌が手作りムード満載でしょぼくても。昨夜、寝る前にうちのと話をしていて、将来もしも子を産んでその子が男の子だったら愛しの君の名をつける、と言ったところ、物凄い勢いで拒否された。子を欲しいとは思っていないので冗談だったのだが、私の愛しの君への溺愛っぷりを日々見ているうちのは、理解してくれなかったようだ。子、激しく不要なのだが、将来産まなければならないのだろうか。うちのは長男だからやはり期待されたりするのだろうか。嫌な話。うちののことは好きだが、子を欲しいとは全く以って思えない。好きな人の子なら欲しいと思うのが女性の性、なんて寝言を抜かすやからも存在する。莫迦。生物には繁殖本能はある。だからといって、全ての生物の雌に母性本能があるとは限らない。人間に於ける、母性本能、とは後付のすり込みなのに。男性が子育てをして、女性が漁猟をする民族の存在などを知らないのだろう。
不要な子の話を始めたのは、来年の目標を増やしたからである。日々の日記の中で織り込みつつ書いているので、ここで一旦来年の目標を昨日新たに立てたものを含めて纏める。
・英国淑女になる
・こまめに入浴
・なるべく衣類購入を控える
・セックスレス解消
最後のが、新たな目標である。不能になり久しい。いかん。結婚を控えている身として、文字通り夫婦生活が成り立たない、というのは大きな問題だ。セイフティ・セックスに意義が見出せないというのは、あくまで私の中の論理であり、それをうちのに押し付けてはならない。年末年始のうちのの実家への帰省の予定が消えたので、温泉宿にでも旅行に行こうという話が昨日持ち上がった。うちのと私はこれだけ長く付き合っていながら、1度もふたりきりでの旅行というものをしていなかったのだ。ネットで調べたところ案の定、年跨ぎで宿泊できる近場の宿は皆無。因って年内のみ若しくは年始から1泊2日くらいで泊まれる宿を探す予定。私の希望としては、年始である。そこで上手くいくかどうかは別として、姫始めを試みたいと思っている。うちのには、日本人だなあ、と莫迦にされたがきっかけが欲しいのだ。うちのと生活を共にして長い。一緒にいることが日常となっており、またコトを営めていた頃もよく小動物に邪魔をされた。邪魔の入らないところで、正月という区切りを以って心機一転を図りたい。宿を探しているときに、英国淑女に相応しい宿を見つけた。天蓋付ベッドに猫足バスタブがあるホテル。うちのに却下された。正月は、和、がいいらしい。私のことを日本人だなあと莫迦にしていながら、うちのも十分に日本人である。そして、この宿はラブホ風味が強い、と。確かにラブホ風味は強いが、天蓋付ベッドに猫足バスタブに憧れて何が悪い。可愛いじゃないか。そして英国淑女ではないか。来年の目標のひとつ目に挙げた英国淑女。英国式生活を教えてくれた友人と話をしていて、私が来年からしようとしている生活は英国淑女ではなく英国主婦ではないか、という疑念が湧いた。英国淑女は家事などせず、全てメイドがやってくれているのではなかろうか……。気のせいに違いないので気にしない。
うちのの実家への帰省予定の消滅について。先方がとにかく私抜きでうちのと話をしたがっているのだ。私抜きで話したいときは、私は別の間にいさせる、とうちのが言っても難色を示された。先方の意見。
・結婚に反対している訳ではない
・鬱持ちの相手と結婚することに不安がある
・結婚したら今後うちのがひとりで帰省することはまずなかろうから、ゆっくりと話がしたい
余りに執拗な難色の示しっぷり。結婚に反対している訳ではないという意見と行動が伴っていないようにしか見えないこと。うんざり。最大の理由は、招かれざる客として3泊4日など私が耐えられない、居心地が悪すぎる、そこ迄来て欲しくないと言うならばもう行きたくない、と私が言ったことだ。そんなこんなで帰省予定消滅に至り、後日、うちのが週末の休みを利用してひとりで帰省することになった。恐らく、うつ病と勘違いされている私に来られてしまうと、どう接していいのか戸惑うのではないかという不安に駆られるているのだろう。うつ病と抑うつ症状は違うのだが、そんな理解を求めるのはダメそうである。うちのの身内に安心感を与えるだけの、正確とは程遠い説得案をうちのに授けた。PDはともかく、諸事情はややこしいので説明しようとしてもきっと付いてきてくれないだろうと想像してのことであり且つ先方が求めているのは正確な情報ではなく安心感を得ることのみであろうから。こういう考え方は嫌いだが、致し方なし。みっつ目の理由だけ少し面白かった。あちらとしては私に対して角が立たないようにと考えて言ってきたことであろうが、まるで娘を嫁に出す家族のような発想。逆なのに。大体結婚しても、うちのがひとりで帰省することは可能なのに。むしろ、帰省はひとりでして欲しい。今回こうも不安がられていることが発覚し、この先は先方も私も会う際には絶対に必要以上に構えてしまうことが安易に想像できる。面倒。友人が以前付き合っていた相手の話を聞き、友人の親がその相手との結婚を勧めてきたという話を聞いた。その相手は身寄りのない人だったらしい。厄介な嫁姑問題やら親戚付き合いに悩まされる必要がなくていいじゃないの! という理由に基づく結婚推奨。彼女は結局その相手とは別れ、今は別の相手と付き合っている。彼女の親御さんの気持ちがとてもよく解る。私もその昔、結婚するなら身寄りのない人がいいなあ、と同様の理由で思っていたことがあったからだ。柵反対、個人主義万歳。
先々のことばかり考えていても仕方がない。目の前の問題からやっつけていかなくては、と思いつつも今日の通院が面倒で仕方がない。日曜の有酸素運動による筋肉痛が酷いのだ。特に首。少し前の日記で、家の中でもヘドバンして鍛える、と書いたが成功しなかった。一朝一夕で鍛えられるものではない、という話ではなく、家の中でのヘドバンとライヴでのヘドバンが全くの別物だと日曜に身を以って知った。二足歩行である人間の首の常態は、縦に真っ直ぐ、である。家の中でのヘドバンはその真っ直ぐの常態から下方向へと振る。人間の首は四足歩行だった頃の名残で下方向への運動はさほど苦にならない。ライヴでのヘドバンでも苦にならないように振ることは可能。可能ではあるが、下方向にばかり振っているとステージの愛しの君が観られない。因って常態から後ろへ反らす方向でのヘドバンになる。今後は家でのヘドバンも実践を意識してのものに変更。現在の筋肉痛が治まったら直ぐに週末のライヴとイベント。そこでまた筋肉痛必至。週末のライヴに行くことをうちのに反対されている。昨日の日記を読んだのか、歳を考えろ、と言われた。人前で水着や下着になる歳じゃなかろう、と。だが、レオパード柄の衣類を所有していないからには仕方なし。日曜のライヴに行く際、うちのに怒られた。ライヴのチケットに金をかけるか、衣類に金をかけるかせめてどっちかにしてくれ。ライヴの為に衣類を買うな、という話である。必要な衣類は現在一通り揃っているので、もう買い足すことは余りなかろう。レオパード柄の衣類を買っても普段絶対に着ないであろうから、入場時に水着か下着で無料で入る。ライヴ・チケットにもライヴの為の被服費もかからずいい話ではないか。
BGM/「化人幻戯」改め「無題」セットリスト自己編集
不要な子の話を始めたのは、来年の目標を増やしたからである。日々の日記の中で織り込みつつ書いているので、ここで一旦来年の目標を昨日新たに立てたものを含めて纏める。
・英国淑女になる
・こまめに入浴
・なるべく衣類購入を控える
・セックスレス解消
最後のが、新たな目標である。不能になり久しい。いかん。結婚を控えている身として、文字通り夫婦生活が成り立たない、というのは大きな問題だ。セイフティ・セックスに意義が見出せないというのは、あくまで私の中の論理であり、それをうちのに押し付けてはならない。年末年始のうちのの実家への帰省の予定が消えたので、温泉宿にでも旅行に行こうという話が昨日持ち上がった。うちのと私はこれだけ長く付き合っていながら、1度もふたりきりでの旅行というものをしていなかったのだ。ネットで調べたところ案の定、年跨ぎで宿泊できる近場の宿は皆無。因って年内のみ若しくは年始から1泊2日くらいで泊まれる宿を探す予定。私の希望としては、年始である。そこで上手くいくかどうかは別として、姫始めを試みたいと思っている。うちのには、日本人だなあ、と莫迦にされたがきっかけが欲しいのだ。うちのと生活を共にして長い。一緒にいることが日常となっており、またコトを営めていた頃もよく小動物に邪魔をされた。邪魔の入らないところで、正月という区切りを以って心機一転を図りたい。宿を探しているときに、英国淑女に相応しい宿を見つけた。天蓋付ベッドに猫足バスタブがあるホテル。うちのに却下された。正月は、和、がいいらしい。私のことを日本人だなあと莫迦にしていながら、うちのも十分に日本人である。そして、この宿はラブホ風味が強い、と。確かにラブホ風味は強いが、天蓋付ベッドに猫足バスタブに憧れて何が悪い。可愛いじゃないか。そして英国淑女ではないか。来年の目標のひとつ目に挙げた英国淑女。英国式生活を教えてくれた友人と話をしていて、私が来年からしようとしている生活は英国淑女ではなく英国主婦ではないか、という疑念が湧いた。英国淑女は家事などせず、全てメイドがやってくれているのではなかろうか……。気のせいに違いないので気にしない。
うちのの実家への帰省予定の消滅について。先方がとにかく私抜きでうちのと話をしたがっているのだ。私抜きで話したいときは、私は別の間にいさせる、とうちのが言っても難色を示された。先方の意見。
・結婚に反対している訳ではない
・鬱持ちの相手と結婚することに不安がある
・結婚したら今後うちのがひとりで帰省することはまずなかろうから、ゆっくりと話がしたい
余りに執拗な難色の示しっぷり。結婚に反対している訳ではないという意見と行動が伴っていないようにしか見えないこと。うんざり。最大の理由は、招かれざる客として3泊4日など私が耐えられない、居心地が悪すぎる、そこ迄来て欲しくないと言うならばもう行きたくない、と私が言ったことだ。そんなこんなで帰省予定消滅に至り、後日、うちのが週末の休みを利用してひとりで帰省することになった。恐らく、うつ病と勘違いされている私に来られてしまうと、どう接していいのか戸惑うのではないかという不安に駆られるているのだろう。うつ病と抑うつ症状は違うのだが、そんな理解を求めるのはダメそうである。うちのの身内に安心感を与えるだけの、正確とは程遠い説得案をうちのに授けた。PDはともかく、諸事情はややこしいので説明しようとしてもきっと付いてきてくれないだろうと想像してのことであり且つ先方が求めているのは正確な情報ではなく安心感を得ることのみであろうから。こういう考え方は嫌いだが、致し方なし。みっつ目の理由だけ少し面白かった。あちらとしては私に対して角が立たないようにと考えて言ってきたことであろうが、まるで娘を嫁に出す家族のような発想。逆なのに。大体結婚しても、うちのがひとりで帰省することは可能なのに。むしろ、帰省はひとりでして欲しい。今回こうも不安がられていることが発覚し、この先は先方も私も会う際には絶対に必要以上に構えてしまうことが安易に想像できる。面倒。友人が以前付き合っていた相手の話を聞き、友人の親がその相手との結婚を勧めてきたという話を聞いた。その相手は身寄りのない人だったらしい。厄介な嫁姑問題やら親戚付き合いに悩まされる必要がなくていいじゃないの! という理由に基づく結婚推奨。彼女は結局その相手とは別れ、今は別の相手と付き合っている。彼女の親御さんの気持ちがとてもよく解る。私もその昔、結婚するなら身寄りのない人がいいなあ、と同様の理由で思っていたことがあったからだ。柵反対、個人主義万歳。
先々のことばかり考えていても仕方がない。目の前の問題からやっつけていかなくては、と思いつつも今日の通院が面倒で仕方がない。日曜の有酸素運動による筋肉痛が酷いのだ。特に首。少し前の日記で、家の中でもヘドバンして鍛える、と書いたが成功しなかった。一朝一夕で鍛えられるものではない、という話ではなく、家の中でのヘドバンとライヴでのヘドバンが全くの別物だと日曜に身を以って知った。二足歩行である人間の首の常態は、縦に真っ直ぐ、である。家の中でのヘドバンはその真っ直ぐの常態から下方向へと振る。人間の首は四足歩行だった頃の名残で下方向への運動はさほど苦にならない。ライヴでのヘドバンでも苦にならないように振ることは可能。可能ではあるが、下方向にばかり振っているとステージの愛しの君が観られない。因って常態から後ろへ反らす方向でのヘドバンになる。今後は家でのヘドバンも実践を意識してのものに変更。現在の筋肉痛が治まったら直ぐに週末のライヴとイベント。そこでまた筋肉痛必至。週末のライヴに行くことをうちのに反対されている。昨日の日記を読んだのか、歳を考えろ、と言われた。人前で水着や下着になる歳じゃなかろう、と。だが、レオパード柄の衣類を所有していないからには仕方なし。日曜のライヴに行く際、うちのに怒られた。ライヴのチケットに金をかけるか、衣類に金をかけるかせめてどっちかにしてくれ。ライヴの為に衣類を買うな、という話である。必要な衣類は現在一通り揃っているので、もう買い足すことは余りなかろう。レオパード柄の衣類を買っても普段絶対に着ないであろうから、入場時に水着か下着で無料で入る。ライヴ・チケットにもライヴの為の被服費もかからずいい話ではないか。
BGM/「化人幻戯」改め「無題」セットリスト自己編集
ブスの種類
2003年12月15日 メイク・ファッション・ピアス 世の中には2種類のブスがいる、と描いたのは安彦麻理絵である。1種は、努力すれば可愛くなれるブス。もう1種は、努力しても可愛くなれないブス。激しく同意。衣類・ヘアメイクに無頓着だった頃、私は本当に酷かった。当時の写真は全て焼き捨てたい程である。他者が所持している当時の私の写真も焼き捨てたい。卒業アルバムでも私の写真のあるページはセロテープで封印してある。当時の私の髪質は硬くて太かった。やや癖のある前髪を放置し、眉の辺りで切り揃えた場合は真ん中で分けられ、左右の前髪がそれぞれ外方向に向かう。サイドの髪はいつも耳にかけていた。ここにも少し癖があり、耳にかけた部分が前方に向かって跳ねる。友人には、みうらじゅん扱いされた。花の女子高生がMJ扱いされるとは何とも遺憾な話である。また口髭もふぁっさふぁっさしていた。口元だけでなく、体中の産毛も放置。言わずもがな、眉もぼさぼさ。特に口元にはコンプレックスがあり、従来の歯並びの悪さ、喫煙を覚える前から喫煙者のように黄ばんでいた歯、そして小学生の頃に欠けてしまって不揃いだったやや前方向に向いた前歯。服は制服か今となっては目を背けたくなるような、スーパーの衣料品売り場で売っていたような物。悲惨。むしろ無残。
可愛い若しくは綺麗な女は得だ、と周囲を見て知ってから、自己流故の失敗を経つつだが努力した。ダイエットをし、伸ばしかけがみっともないという考えから脱して髪を梳いたりレイヤーを入れることと、額を出すことへの抵抗をなくした。今は好んで地色にしているが、黒髪への拘りというものは捨てた。この時点で脱MJ。肌の手入れに気を使い、体毛処理もし、自分に合った眉の形を模索し、前歯の治療をし、ファッション及びメイクを研究した。結果、私は前者のブスだったことが判明。可愛い・綺麗と言っても美人とは言えず、10人並みを越えはしない範囲ではあるが、少なくとも容姿に羞恥は覚えないレベルに迄は達した。そしてこのレベルを最低限ラインと考えて維持しつつ、向上や年齢と共に変化する容姿に対応させている。若いときにもっと身形に気を使っていれば……と今でも後悔することがある。後悔は仕方がない。少なくともこの先に同様の後悔をしないように向上心を持ち続けているのだ。身形への気配り開始とは別に、向上心の維持にはきっかけがあった。数年前に遡る。ゴールデン街某呑み屋のママに嫌われた。原因不明。そのことに気を揉んだヒトラー似の某ジャンル大御所が仲良くさせようとしてくれた。そのときにママがヒトラー似に言った言葉。若い娘は嫌い。復讐。若さに対して。ママは若い頃、いろいろと苦労をしたらしい。未だ当時のことから今現在のこと迄思うところが多いのだろう。この段落の冒頭の一文。これには特に若さが物を言ったりする。ママが若さを復讐したい迄に憎んでいる詳細は知らない。生活面・仕事面などいろいろであると思われる。そして容姿も絶対に絡んでいると思うのだ。ママに言われた嫌味を覚えている。男性多数の大人数での呑み会に参加した際、私もいたしママもいた。私が他の人にサワーを作ろうとしても遠慮され、逆に他の人が作ってくれる状態に陥ってしまった。後日。ママは私に、遠慮されても女が作るものよ! と説教してきた。女が作るものかどうかという発想の是非はここで論じないが、他の人に酒を作っていたママ・他の人に酒を作ってもらえた私。若いからってちやほやされやがって、というその場での視線も後日の説教とは別に覚えている。私は若い娘を妬むオバハンにはなりたくない。常にそのときの自分を誇れるオバハンになりたい。若い娘を見て、あんな頃もあったわね〜、と思えるオバハンになりたい。行儀の悪さは別だ。
そんなこんなで努力して10人並みの容姿を得た私が友人と話していて、こんな話になった。街で明らかに自分よりも劣った容姿やセンスの人間を見かけると、何故か目が釘付けになる。先日書いた、差別の話に繋がる。自分よりも劣った容姿の人間を見ると、友人や私は安心感を覚えてしまうのだ。容姿は10人並みでも心はブスである。友人が言った。本当の美人は、他者の容姿などは気にせず夕日を見て綺麗だなあと思ったりするものらしい、と。私は前述安彦の別の漫画から、人はブスを見ると心の中で陵辱してしまうものだという話を読んだことがある、と答えた。友人と私の持ち出した話は別物の例え話である。友人は本物の美人の話、私は努力してどうにか美人になった人間の話をしている。そしてどちらも本当であり、美人かどうかはさておき私も友人も後者寄りであることは確かなのだろう。容姿の美人と性格美人、どちらがいいか? という話がよくある。多くは後者に軍配を上げる。各々により、理由は幾つもあるらしい。美人は3日で飽きるがブスは3日で慣れる、容姿は年齢と共に衰えるが性格は衰えない、など。前者に軍配を上げる者は、性格は変わることもあるが容姿は変わらない、と答えることが多く思う。私の結論。どっちもどっち。理由。性格も容姿も年齢は関係なく、本人の努力で変えられるものだから。因みに自分よりも容姿やセンスの劣った者を心の中で陵辱することを悪いことだとは思っていない。表に出さなければいいのだ。そのうち詳しき書きたいが、私は性悪説を採る人間である。
以上は女性の話であるが、男性はどうなのだろう。除く、芸能人。髪型・髪色と眉の手入れがやっと定着しつつある、といったところだろうか。今は基礎化粧が定着中か? 男性用チークをNARSだかアルマーニだかが発売するという話を少し前にどこかで聞いたが、定着には程遠いと思われる。いろんな意味でモテたい願望が強いことに男女差は関係ないと思う。化粧という武器がない分、男性の方が素の容姿への気遣いが大きいのかな、と昨日感じた。愛しの君の愛煙銘柄はゴールデンバッドの両切りである。歯並びの良さは持って生まれたものかもしれないが、両切り愛煙とは思えない程に歯が白かった。照明効果だけとは思えない。こまめに歯磨きしているのだろうか。元来歯の色が悪く、更にチェーンスモーカになってからは色がもっと悪くなってきている私。脂取りは今まで以上にしようと決意した昨夜であった。20日迄にどこまで綺麗にできるか、自分への勝負! 余談。20日のライヴは或るイベントの中で行われるもので、そのイベントのドレスコードを守ってきた女性のみ入場無料となる。ドレスコードはレオパード・水着・下着。入場してしまってからは着衣してもいいらしいので、取り敢えずは体を張って無料入場を目論んでいる。
BGM/アルバム「見知らぬ世界」
可愛い若しくは綺麗な女は得だ、と周囲を見て知ってから、自己流故の失敗を経つつだが努力した。ダイエットをし、伸ばしかけがみっともないという考えから脱して髪を梳いたりレイヤーを入れることと、額を出すことへの抵抗をなくした。今は好んで地色にしているが、黒髪への拘りというものは捨てた。この時点で脱MJ。肌の手入れに気を使い、体毛処理もし、自分に合った眉の形を模索し、前歯の治療をし、ファッション及びメイクを研究した。結果、私は前者のブスだったことが判明。可愛い・綺麗と言っても美人とは言えず、10人並みを越えはしない範囲ではあるが、少なくとも容姿に羞恥は覚えないレベルに迄は達した。そしてこのレベルを最低限ラインと考えて維持しつつ、向上や年齢と共に変化する容姿に対応させている。若いときにもっと身形に気を使っていれば……と今でも後悔することがある。後悔は仕方がない。少なくともこの先に同様の後悔をしないように向上心を持ち続けているのだ。身形への気配り開始とは別に、向上心の維持にはきっかけがあった。数年前に遡る。ゴールデン街某呑み屋のママに嫌われた。原因不明。そのことに気を揉んだヒトラー似の某ジャンル大御所が仲良くさせようとしてくれた。そのときにママがヒトラー似に言った言葉。若い娘は嫌い。復讐。若さに対して。ママは若い頃、いろいろと苦労をしたらしい。未だ当時のことから今現在のこと迄思うところが多いのだろう。この段落の冒頭の一文。これには特に若さが物を言ったりする。ママが若さを復讐したい迄に憎んでいる詳細は知らない。生活面・仕事面などいろいろであると思われる。そして容姿も絶対に絡んでいると思うのだ。ママに言われた嫌味を覚えている。男性多数の大人数での呑み会に参加した際、私もいたしママもいた。私が他の人にサワーを作ろうとしても遠慮され、逆に他の人が作ってくれる状態に陥ってしまった。後日。ママは私に、遠慮されても女が作るものよ! と説教してきた。女が作るものかどうかという発想の是非はここで論じないが、他の人に酒を作っていたママ・他の人に酒を作ってもらえた私。若いからってちやほやされやがって、というその場での視線も後日の説教とは別に覚えている。私は若い娘を妬むオバハンにはなりたくない。常にそのときの自分を誇れるオバハンになりたい。若い娘を見て、あんな頃もあったわね〜、と思えるオバハンになりたい。行儀の悪さは別だ。
そんなこんなで努力して10人並みの容姿を得た私が友人と話していて、こんな話になった。街で明らかに自分よりも劣った容姿やセンスの人間を見かけると、何故か目が釘付けになる。先日書いた、差別の話に繋がる。自分よりも劣った容姿の人間を見ると、友人や私は安心感を覚えてしまうのだ。容姿は10人並みでも心はブスである。友人が言った。本当の美人は、他者の容姿などは気にせず夕日を見て綺麗だなあと思ったりするものらしい、と。私は前述安彦の別の漫画から、人はブスを見ると心の中で陵辱してしまうものだという話を読んだことがある、と答えた。友人と私の持ち出した話は別物の例え話である。友人は本物の美人の話、私は努力してどうにか美人になった人間の話をしている。そしてどちらも本当であり、美人かどうかはさておき私も友人も後者寄りであることは確かなのだろう。容姿の美人と性格美人、どちらがいいか? という話がよくある。多くは後者に軍配を上げる。各々により、理由は幾つもあるらしい。美人は3日で飽きるがブスは3日で慣れる、容姿は年齢と共に衰えるが性格は衰えない、など。前者に軍配を上げる者は、性格は変わることもあるが容姿は変わらない、と答えることが多く思う。私の結論。どっちもどっち。理由。性格も容姿も年齢は関係なく、本人の努力で変えられるものだから。因みに自分よりも容姿やセンスの劣った者を心の中で陵辱することを悪いことだとは思っていない。表に出さなければいいのだ。そのうち詳しき書きたいが、私は性悪説を採る人間である。
以上は女性の話であるが、男性はどうなのだろう。除く、芸能人。髪型・髪色と眉の手入れがやっと定着しつつある、といったところだろうか。今は基礎化粧が定着中か? 男性用チークをNARSだかアルマーニだかが発売するという話を少し前にどこかで聞いたが、定着には程遠いと思われる。いろんな意味でモテたい願望が強いことに男女差は関係ないと思う。化粧という武器がない分、男性の方が素の容姿への気遣いが大きいのかな、と昨日感じた。愛しの君の愛煙銘柄はゴールデンバッドの両切りである。歯並びの良さは持って生まれたものかもしれないが、両切り愛煙とは思えない程に歯が白かった。照明効果だけとは思えない。こまめに歯磨きしているのだろうか。元来歯の色が悪く、更にチェーンスモーカになってからは色がもっと悪くなってきている私。脂取りは今まで以上にしようと決意した昨夜であった。20日迄にどこまで綺麗にできるか、自分への勝負! 余談。20日のライヴは或るイベントの中で行われるもので、そのイベントのドレスコードを守ってきた女性のみ入場無料となる。ドレスコードはレオパード・水着・下着。入場してしまってからは着衣してもいいらしいので、取り敢えずは体を張って無料入場を目論んでいる。
BGM/アルバム「見知らぬ世界」
現在15日深夜。広末のデキ婚会見日。
今回のタイトルは右から読むように。●は赤のつもりで。これは、昨日のライヴで愛しの君がしていた鉢巻に書かれていた文字と日の丸。ご本尊……ならぬご本人曰く、恰好だけ三島。昨日の愛しの君は白地の着物に縞模様の袴、ベビーピンクの襷、いつもの眼鏡に、この鉢巻。足元の草履は1回目のアンコール中に脱ぎ捨てて裸足になっていた。鉢巻姿を見たのは初めてだったけれども、やっぱり永遠の美少年は何を身に着けても似合う。クソったれなマスコミにピース! とか言い出したらどうしようかとわくわく……ではなく、ハラハラしたけれども、MCによると鉢巻の文字の由縁は、練習スタジオで愛しの君と幼馴染のベーシストが会話をしている中で自衛隊イラク派遣の話になり、70年代の青年のような討論になりかけてやめたこととか。またその際、自衛隊の存在自体が合憲かどうかなどの話にもなりかけたとか。討論ということは意見が対立しかけたということが予測され、果たしてどちらが右でどちらが左かが気になるところ。鉢巻からして愛しの君は右か……? となると、私の思想とは(以下略。思想はともかく、昨日はSEも愛しの君が土ワイのドラマを編集して作ったといういつもよりも判り易く凝ったもので、ステージではスモークが焚かれ、某曲ではミラーボールが回り、とにかく今迄よりも凝っていた印象。私は1階席愛しの君側2列目で観ていた為アンプの陰に隠れてよく判らなかったのだが、愛しの君の足元には尋常ならぬ自作エフェクタが並べられており、その多さ故に踏み間違えまくっていたとか。そんな愛しの君を可愛いと思ってしまうのは、なんちゃらは盲目というアレか。
愛しの君の衣装は上記の通り。ベーシストは私は初めて見る銀の和服に褌に素足。この和服は新調したもののような予感。ドラマーはアメリカのユニクロと揶揄されることもある某アメリカ・チープ・ブランドのロゴTシャツにいつものサングラス。昨日のセットリストはバランスよく組まれ、ドラマーがボーカルを取る曲も入っており、3者全員パフォーマンスも豊富で絡みも多く、やはり不仲説は風化・バンドは安泰……と思われたのもつかの間。アンコールでベーシストがいきなり、ドラマーの脱退を発表した。観客がどよめく。号泣している者もいた。その発表を聞いた私の感想。前回の平成元年と今回のライヴのできの良さは、ドラマーの中で、またバンドとして何かが吹っ切れた所為か。そしてドラマーの衣装に後付で投げやりさを感じてしまった。ライヴ終了・アンコール終了後もドラマーへのコールは止まず、挙句ローディーが客を煽り、予定外の再アンコール。その後もコールは続いたが、もう登場はなかった。何度もドラマーが後退しているバンドであり、歴代ドラマーの中で最も巧いドラマーであり、最も長くこのバンドに在籍したドラマーであり、愛しの君のプレイ目当てでライヴに通ったりCDを聴いたりしている私も、出戻りファンとなった今年、このドラマーがいたからこその完成度があったから出戻れたとも言え……無念。無情。毎度思うが、昨日はやはり行って良かった。行かなければ生涯後悔する羽目になっていたかもしれない。しかし。
前以ってオフィシャル・サイトなどで告知があっても良かったのではないだろうか。何故にアンコールで発表したのか、その意図が解らない。ドラマーのファンで今日のライヴを見送った遠方者など、悔やんでも悔やみきれなかろうに。このバンドはどちらかと言うと、ファンを大切にしているバンドだと思う。毎回セットリストを変えているのもツアー全てについてくるファンを飽きさせない為の配慮だろう。前々回のライヴについて書いたときに、開演20分前から愛しの君が楽屋で自分のソロ・パートをコピーし始めたという話を書いたと思う。そしてそれは如何なものか、と。昨日、隣にいた人と話しているときに初めて知ったのだが、よくあることらしい。セットリストを毎回変える故に練習が追いつかないからだとか。まあどうにか納得できる話。ファンを飽きさせない工夫の為に、苦労をしているという話だ。それはそれでいいことだと思うけれども、ファンを大切にする、ということの形は様々だ。セットリストを毎回変えるのもそのひとつ、ライヴを多く演るのもそのひとつ、ファンと直接交流し易いイベントをしてくれるのもそのひとつ、入り待ち・出待ちを無視しないのもそのひとつ。メンバー脱退の早めの告知はその中でも大切なもの、むしろ最重要事項ではなかろうか。どんな意図があったのかは知らない。急な決定だったのかもしれない。解らないこと尽くしだが、ただただ、大きな配慮がひとつ欠けているのではないか、という印象は残ってしまった。
憂国ならぬ憂バンドという今の心境。そして2度目のアンコール曲もどうも腑に落ちない。予定外だったということで、即披露可能な曲が少なかったことは考えられるが、脱退発表をしたらドラマーへのコールが発生するのは想像に難くない筈だ。いや、明白。ならば、ドラマーがボーカルを取る曲なり、少し前に私が日記のタイトルに使った曲なりを演ってくれて然るべきだと思った。あくまで私見。2度目のアンコール曲は、昨今のアンコール定番曲の前の、アンコール定番曲。演奏し慣れていて予定外アンコールに応えられるのがこれだけだった、と言われても言い訳にしか聴こえない。今回はハッキリ書く。ドラマーがボーカルを取る曲の中でセットリストに入ってはいなかった「都会の童話」なり「亜麻色のスカーフ」なり、若しくは愛しの君がボーカルを取る曲ではあるがこのバンドの曲の中で最も別れを意識した曲である「さよならの向こう側」を演奏して欲しかった。よりによって「ダイナマイト」かよ! こんな脱退の仕方、納得不能。前回・今回とできが良かっただけに、ドラマーの激しく脱退が悔しい。不仲説風化どころか、決定ではないか! きっと本人らにドラマー脱退の理由を尋ねたら、音楽性の違い、とベタに答えることだろう。けれど、そんな言葉は言い訳にしか聞こえない。前々々回とその前のライヴで出てきた不仲の雰囲気を、私は目の当たりにしてしまっているのだから。昨日迄のドラマーは実に巧いドラマーだった。因って次代のドラマーに余り期待ができない。願わくば、正式メンバーとしては脱退したが、今後はサポート・メンバーとして参加し続けて欲しい。悲しい。悔しい。先日、ネットオークションでこのバンドのライヴ・ビデオを落札した。初回限定パッケージ未開封物。手数料など込み込みでほぼ定価。ラッキー! と思っていたら今日の物販に同じ物が置かれていた……。悲しい。悔しい。せめて現行品にはステッカーが入っていないことを望む。ひとつだけ良かったこと。先日のライヴの物販で購入した缶バッジが昨日は限定50個、ベーシストの手作りと謳われて売られていた。売り子さんに訊くと、先日の物販品と同品らしい。ということは、私の手元に既にある缶バッジもベーシストの手作りということだ。予感的中。デザインは愛しの君が手掛けたとか。大切にしよう。今日買おうと思っていたお札ステッカーが売り切れていたのが残念。次は愛しの君が別バンドの人々と組んでいるソロ活動の一環のイベントと、ベーシストのハードロック喫茶。ハシゴの予定。今週は昨日の疲れを癒し、週末のハシゴに備えての体力蓄積に集中。某巨大掲示板某板某スレを見たところ、記憶ミス発覚。大事な部分ではあるが印象は変わらないので訂正なし。
BGM/アルバム「修羅囃子」
今回のタイトルは右から読むように。●は赤のつもりで。これは、昨日のライヴで愛しの君がしていた鉢巻に書かれていた文字と日の丸。ご本尊……ならぬご本人曰く、恰好だけ三島。昨日の愛しの君は白地の着物に縞模様の袴、ベビーピンクの襷、いつもの眼鏡に、この鉢巻。足元の草履は1回目のアンコール中に脱ぎ捨てて裸足になっていた。鉢巻姿を見たのは初めてだったけれども、やっぱり永遠の美少年は何を身に着けても似合う。クソったれなマスコミにピース! とか言い出したらどうしようかとわくわく……ではなく、ハラハラしたけれども、MCによると鉢巻の文字の由縁は、練習スタジオで愛しの君と幼馴染のベーシストが会話をしている中で自衛隊イラク派遣の話になり、70年代の青年のような討論になりかけてやめたこととか。またその際、自衛隊の存在自体が合憲かどうかなどの話にもなりかけたとか。討論ということは意見が対立しかけたということが予測され、果たしてどちらが右でどちらが左かが気になるところ。鉢巻からして愛しの君は右か……? となると、私の思想とは(以下略。思想はともかく、昨日はSEも愛しの君が土ワイのドラマを編集して作ったといういつもよりも判り易く凝ったもので、ステージではスモークが焚かれ、某曲ではミラーボールが回り、とにかく今迄よりも凝っていた印象。私は1階席愛しの君側2列目で観ていた為アンプの陰に隠れてよく判らなかったのだが、愛しの君の足元には尋常ならぬ自作エフェクタが並べられており、その多さ故に踏み間違えまくっていたとか。そんな愛しの君を可愛いと思ってしまうのは、なんちゃらは盲目というアレか。
愛しの君の衣装は上記の通り。ベーシストは私は初めて見る銀の和服に褌に素足。この和服は新調したもののような予感。ドラマーはアメリカのユニクロと揶揄されることもある某アメリカ・チープ・ブランドのロゴTシャツにいつものサングラス。昨日のセットリストはバランスよく組まれ、ドラマーがボーカルを取る曲も入っており、3者全員パフォーマンスも豊富で絡みも多く、やはり不仲説は風化・バンドは安泰……と思われたのもつかの間。アンコールでベーシストがいきなり、ドラマーの脱退を発表した。観客がどよめく。号泣している者もいた。その発表を聞いた私の感想。前回の平成元年と今回のライヴのできの良さは、ドラマーの中で、またバンドとして何かが吹っ切れた所為か。そしてドラマーの衣装に後付で投げやりさを感じてしまった。ライヴ終了・アンコール終了後もドラマーへのコールは止まず、挙句ローディーが客を煽り、予定外の再アンコール。その後もコールは続いたが、もう登場はなかった。何度もドラマーが後退しているバンドであり、歴代ドラマーの中で最も巧いドラマーであり、最も長くこのバンドに在籍したドラマーであり、愛しの君のプレイ目当てでライヴに通ったりCDを聴いたりしている私も、出戻りファンとなった今年、このドラマーがいたからこその完成度があったから出戻れたとも言え……無念。無情。毎度思うが、昨日はやはり行って良かった。行かなければ生涯後悔する羽目になっていたかもしれない。しかし。
前以ってオフィシャル・サイトなどで告知があっても良かったのではないだろうか。何故にアンコールで発表したのか、その意図が解らない。ドラマーのファンで今日のライヴを見送った遠方者など、悔やんでも悔やみきれなかろうに。このバンドはどちらかと言うと、ファンを大切にしているバンドだと思う。毎回セットリストを変えているのもツアー全てについてくるファンを飽きさせない為の配慮だろう。前々回のライヴについて書いたときに、開演20分前から愛しの君が楽屋で自分のソロ・パートをコピーし始めたという話を書いたと思う。そしてそれは如何なものか、と。昨日、隣にいた人と話しているときに初めて知ったのだが、よくあることらしい。セットリストを毎回変える故に練習が追いつかないからだとか。まあどうにか納得できる話。ファンを飽きさせない工夫の為に、苦労をしているという話だ。それはそれでいいことだと思うけれども、ファンを大切にする、ということの形は様々だ。セットリストを毎回変えるのもそのひとつ、ライヴを多く演るのもそのひとつ、ファンと直接交流し易いイベントをしてくれるのもそのひとつ、入り待ち・出待ちを無視しないのもそのひとつ。メンバー脱退の早めの告知はその中でも大切なもの、むしろ最重要事項ではなかろうか。どんな意図があったのかは知らない。急な決定だったのかもしれない。解らないこと尽くしだが、ただただ、大きな配慮がひとつ欠けているのではないか、という印象は残ってしまった。
憂国ならぬ憂バンドという今の心境。そして2度目のアンコール曲もどうも腑に落ちない。予定外だったということで、即披露可能な曲が少なかったことは考えられるが、脱退発表をしたらドラマーへのコールが発生するのは想像に難くない筈だ。いや、明白。ならば、ドラマーがボーカルを取る曲なり、少し前に私が日記のタイトルに使った曲なりを演ってくれて然るべきだと思った。あくまで私見。2度目のアンコール曲は、昨今のアンコール定番曲の前の、アンコール定番曲。演奏し慣れていて予定外アンコールに応えられるのがこれだけだった、と言われても言い訳にしか聴こえない。今回はハッキリ書く。ドラマーがボーカルを取る曲の中でセットリストに入ってはいなかった「都会の童話」なり「亜麻色のスカーフ」なり、若しくは愛しの君がボーカルを取る曲ではあるがこのバンドの曲の中で最も別れを意識した曲である「さよならの向こう側」を演奏して欲しかった。よりによって「ダイナマイト」かよ! こんな脱退の仕方、納得不能。前回・今回とできが良かっただけに、ドラマーの激しく脱退が悔しい。不仲説風化どころか、決定ではないか! きっと本人らにドラマー脱退の理由を尋ねたら、音楽性の違い、とベタに答えることだろう。けれど、そんな言葉は言い訳にしか聞こえない。前々々回とその前のライヴで出てきた不仲の雰囲気を、私は目の当たりにしてしまっているのだから。昨日迄のドラマーは実に巧いドラマーだった。因って次代のドラマーに余り期待ができない。願わくば、正式メンバーとしては脱退したが、今後はサポート・メンバーとして参加し続けて欲しい。悲しい。悔しい。先日、ネットオークションでこのバンドのライヴ・ビデオを落札した。初回限定パッケージ未開封物。手数料など込み込みでほぼ定価。ラッキー! と思っていたら今日の物販に同じ物が置かれていた……。悲しい。悔しい。せめて現行品にはステッカーが入っていないことを望む。ひとつだけ良かったこと。先日のライヴの物販で購入した缶バッジが昨日は限定50個、ベーシストの手作りと謳われて売られていた。売り子さんに訊くと、先日の物販品と同品らしい。ということは、私の手元に既にある缶バッジもベーシストの手作りということだ。予感的中。デザインは愛しの君が手掛けたとか。大切にしよう。今日買おうと思っていたお札ステッカーが売り切れていたのが残念。次は愛しの君が別バンドの人々と組んでいるソロ活動の一環のイベントと、ベーシストのハードロック喫茶。ハシゴの予定。今週は昨日の疲れを癒し、週末のハシゴに備えての体力蓄積に集中。某巨大掲示板某板某スレを見たところ、記憶ミス発覚。大事な部分ではあるが印象は変わらないので訂正なし。
BGM/アルバム「修羅囃子」
その1、としたのは今後も記号について書くことがあることが想像できるからである。記号論というものは卒論だけに留まらず、私のライフ・テーマとも言えるものだからだ。そして今回の内容は全て、私の個人的印象に基づくものであり、不快感を覚える人もいるかもしれない内容であるが、私見なので勘弁な、と前置きしておく。以下、本文。昨日、洗い物水切り籠を浸け置き洗浄しているときに、友人からアクセスがあった。本の話をしている中で森山塔の名を出すと、彼女が、先日六本木ヒルズに行ってきたと言い出した。六本木丘。六本木アイランド、できれば六本木島にして欲しかった、と述べたところ、彼女はパール兄弟好きではないのでついてこれなかった。しょぼん。で、六本木丘。そこには森タワーなる建造物があるらしく、その名を知った彼女は森山塔を思い出したとかで、タイムリーに出てきたなあ、と言っていた。六本木ヒルズ。森タワー。共に変な名前だと思う。場所は変わるがエッフェル塔も変。凱旋門を凱旋ゲートとは言わないくせに。現地でどう呼ばれているかは知らないが、エッフェルタワーと呼ぶべきではないか。私は、漢字+カタカナにの名称に何故か奇妙な印象を受ける。六本木丘にはハリウッドビューティーなる建造物もあったらしい。欧米コンプレックス丸出しの恥ずかしい名前。その中には某専門学校が入っているという。もし仮に私が子を産んだとし、その子が大きくなってその専門学校に行きたいと言ってきたら、私は全身全霊で諦めさせるに違いない。一生、履歴書にその学校名を書くんだぞ、恥ずかしくないのか、と。多分これは、私が義務教育を終えてからの進学の際、学校名の印象をかなり重視してきたことに起因する。高校を選ぶとき、自分の偏差値でギリギリ入れる学校を選んだ。その学校名が気に入ったから。内申書が悪かった為、入試500満点中430点を取る必要があった学校だ。私が入った年から、希望者には入試の点数を教えてくれるようになった。今でも覚えている。435点で合格。危ない橋を渡ったものだ。その後の進学の際、5校を受けて2勝2敗1引分。引分は補欠合格。2勝のうちの1校は全国区で有名だが体育会系バカの印象を持つ学校、もう1校はマイナーなカトリック系の学校。迷うことなく後者を選んだ。学校名の印象が悪くなかったから。記号の持つ印象は強く、ものによっては一生付き纏うものである。
私は彼氏を選ぶ際、相手の苗字を、もしかしたら眼鏡の有無以上に重視しているかもしれない。その相手と結婚したら自分もその苗字を名乗ることになるのだから、やはりここは拘りたいところだ。変な苗字の人には、その人がどんなにいい人であったとしても惚れたくない。自身の名前とのバランスも考える。例えばミタライさん。カタカナ変換はわざとだ。この苗字に私の名前がくっつくと、大変トイレが近い人のような印象になる。激しく嫌だ。昔は自身の名前とのバランスを抜きにして、綾小路って苗字は恰好いいなあ、と思っていた。今は嫌だ。きみまろのイメージが付いてくるから。また差別意識の強い、むしろ差別主義者な親の下で育った影響により、アッチ系の苗字にも詳しくなった。幼少時から、あの苗字はアッチ系などと教えられていたのだ。自分に差別意識がないとは言わない。言えない。言い訳に読めるかもしれないが、思春期に差別意識をなくそうと頑張ったが、悉く親に否定されたことの影響が強いと思う。今は素直に、私にも差別意識がある、と言う。差別意識所有≠差別主義者。親が差別主義者になったのは、親自身の生まれ育った土地柄の影響も大きいのだろう。話が逸れた。まあなるべくならアッチ系の苗字も避けたい気持ちがなきにしも非ず……と言葉を濁すチキンな私なのがやや悲し。
うちのの苗字と名前のバランスはとても良く、また前向きな印象を与えるものである。初対面のときに名刺をもらい、ペンネームだと思った程だ。本名だと知って驚いた。そして本名でこんな駄洒落みたいな名前って……とも思った。苗字+名前=駄洒落系ではあるが、印象の良さは変わらなかった。この苗字は二通りの読み方があり、うちのは少数派の読み方である。これがまた良かった。私は訓読み好きなのだ。そして、うちのがミタライさんならきっと付き合っていなかっただろう。これだけ苗字というものに拘るのは、私の生い立ちが原因である。過去の日記でも書いたことがあると思うが、私は結婚歴がないにも拘らず、何度も苗字が変わっているのだ。余り好きになれなかった苗字→同じく余り好きになれなかった苗字→好みの苗字。最後の好みの苗字は、母親が再婚した相手の苗字である。この際、養子縁組をして私の苗字をどうするかが話し合われたのだが、そのときの私は迷うことなく養子縁組を選択した。単純に好みの苗字だったから。その後、絶縁だの何だのになることは当然ながら想定していなかったのだ。尤もそんな想定をして、親の再婚時に苗字をどうこう考える人も少なかろう。今となっては余計なことをしなければよかったとなっているが、致し方なし。
苗字への拘りは、上記自身の苗字の変遷だけでなく、自分の名前が好きでないことにも影響されている。私の名付け親は、私が嫌いな伯母であるらしい。その伯母を嫌いになったのは小学校高学年のときであり、原因は当時私がその伯母の息子=従兄に犯されかけたからだ。それはともかく。私の本名は漢字2文字、読みも2音である。まず漢字。字面が可愛くない。そしてよく書き間違えられる。名前の書き間違いは最大の失礼だと思うので、毎度いい気はしない。特にDMなどでは名前を書き間違えられているだけで、買い物する気が失せる。母方の旧姓が私の苗字になっていた頃、その苗字も書き間違えられ易いものだった。苗字にも名前にも誤字発生ということが多々あった。そこ迄くると最早その名前は私の記号ではなくなっている。誰の名前だよ……と思ったものだ。そして読み。そもそも2音というのが嫌。理由は特にないが、漢字2文字で3音乃至4音の方が可愛いと思うのだ。3文字になってしまうけれど、この名前にせめて、子、が付いていればマシだったのにと思う。一時期、子、が付く名前に憧れた。元を辿れば男性の名前に用いられる漢字ではあるけれども、現代では女性の名前に用いられており、私の世代ではまだ、子、のつく名前が多かったのだ。因ってPNやHNに、子、または、こ、を多用していた時期がある。今はそれ程、子、への拘りはなくなった。尤もだからといって自分の名前が好きになった訳ではない。好きでないものは好きでない。過去に知り合った女性の中で、印象深い可愛い名前を持った人が数人いた。奏ちゃん、桜子ちゃん、由乃ちゃん、など。かなでちゃん、ようこちゃん、よしのちゃん、と読む。奇を衒っておらず且つ名付け親の思いが伝わる名前。濁音の入る名前も実は余り好きではないのだが、奏ちゃんという名前だけは、凄くいい名前だと思った。昨今は、奇を衒い過ぎているとしか思えないような名前の子供が増えているらしい。海ちゃん、小宇宙くん、など。これで、まりんちゃん、こすもくん、と読むらしい。嫌な傾向だと思う。海ちゃんなんて、パチ好きに名付けられたのかななどと勘繰ってしまう私も私だが。
BGM/アルバム「見知らぬ世界」
私は彼氏を選ぶ際、相手の苗字を、もしかしたら眼鏡の有無以上に重視しているかもしれない。その相手と結婚したら自分もその苗字を名乗ることになるのだから、やはりここは拘りたいところだ。変な苗字の人には、その人がどんなにいい人であったとしても惚れたくない。自身の名前とのバランスも考える。例えばミタライさん。カタカナ変換はわざとだ。この苗字に私の名前がくっつくと、大変トイレが近い人のような印象になる。激しく嫌だ。昔は自身の名前とのバランスを抜きにして、綾小路って苗字は恰好いいなあ、と思っていた。今は嫌だ。きみまろのイメージが付いてくるから。また差別意識の強い、むしろ差別主義者な親の下で育った影響により、アッチ系の苗字にも詳しくなった。幼少時から、あの苗字はアッチ系などと教えられていたのだ。自分に差別意識がないとは言わない。言えない。言い訳に読めるかもしれないが、思春期に差別意識をなくそうと頑張ったが、悉く親に否定されたことの影響が強いと思う。今は素直に、私にも差別意識がある、と言う。差別意識所有≠差別主義者。親が差別主義者になったのは、親自身の生まれ育った土地柄の影響も大きいのだろう。話が逸れた。まあなるべくならアッチ系の苗字も避けたい気持ちがなきにしも非ず……と言葉を濁すチキンな私なのがやや悲し。
うちのの苗字と名前のバランスはとても良く、また前向きな印象を与えるものである。初対面のときに名刺をもらい、ペンネームだと思った程だ。本名だと知って驚いた。そして本名でこんな駄洒落みたいな名前って……とも思った。苗字+名前=駄洒落系ではあるが、印象の良さは変わらなかった。この苗字は二通りの読み方があり、うちのは少数派の読み方である。これがまた良かった。私は訓読み好きなのだ。そして、うちのがミタライさんならきっと付き合っていなかっただろう。これだけ苗字というものに拘るのは、私の生い立ちが原因である。過去の日記でも書いたことがあると思うが、私は結婚歴がないにも拘らず、何度も苗字が変わっているのだ。余り好きになれなかった苗字→同じく余り好きになれなかった苗字→好みの苗字。最後の好みの苗字は、母親が再婚した相手の苗字である。この際、養子縁組をして私の苗字をどうするかが話し合われたのだが、そのときの私は迷うことなく養子縁組を選択した。単純に好みの苗字だったから。その後、絶縁だの何だのになることは当然ながら想定していなかったのだ。尤もそんな想定をして、親の再婚時に苗字をどうこう考える人も少なかろう。今となっては余計なことをしなければよかったとなっているが、致し方なし。
苗字への拘りは、上記自身の苗字の変遷だけでなく、自分の名前が好きでないことにも影響されている。私の名付け親は、私が嫌いな伯母であるらしい。その伯母を嫌いになったのは小学校高学年のときであり、原因は当時私がその伯母の息子=従兄に犯されかけたからだ。それはともかく。私の本名は漢字2文字、読みも2音である。まず漢字。字面が可愛くない。そしてよく書き間違えられる。名前の書き間違いは最大の失礼だと思うので、毎度いい気はしない。特にDMなどでは名前を書き間違えられているだけで、買い物する気が失せる。母方の旧姓が私の苗字になっていた頃、その苗字も書き間違えられ易いものだった。苗字にも名前にも誤字発生ということが多々あった。そこ迄くると最早その名前は私の記号ではなくなっている。誰の名前だよ……と思ったものだ。そして読み。そもそも2音というのが嫌。理由は特にないが、漢字2文字で3音乃至4音の方が可愛いと思うのだ。3文字になってしまうけれど、この名前にせめて、子、が付いていればマシだったのにと思う。一時期、子、が付く名前に憧れた。元を辿れば男性の名前に用いられる漢字ではあるけれども、現代では女性の名前に用いられており、私の世代ではまだ、子、のつく名前が多かったのだ。因ってPNやHNに、子、または、こ、を多用していた時期がある。今はそれ程、子、への拘りはなくなった。尤もだからといって自分の名前が好きになった訳ではない。好きでないものは好きでない。過去に知り合った女性の中で、印象深い可愛い名前を持った人が数人いた。奏ちゃん、桜子ちゃん、由乃ちゃん、など。かなでちゃん、ようこちゃん、よしのちゃん、と読む。奇を衒っておらず且つ名付け親の思いが伝わる名前。濁音の入る名前も実は余り好きではないのだが、奏ちゃんという名前だけは、凄くいい名前だと思った。昨今は、奇を衒い過ぎているとしか思えないような名前の子供が増えているらしい。海ちゃん、小宇宙くん、など。これで、まりんちゃん、こすもくん、と読むらしい。嫌な傾向だと思う。海ちゃんなんて、パチ好きに名付けられたのかななどと勘繰ってしまう私も私だが。
BGM/アルバム「見知らぬ世界」
自分の目で見た物が全てではないのだ
2003年12月12日 家族・メンヘル・健康など 昨夜の夕飯の献立。タンシチュー、にんじんのグラッセのバター焼き、茹でブロッコリーのバター焼き、茸のチーズリゾット、蟹と帆立のマカロニサラダ、じゃがいものスープ。食後にチョコスポンジのマロン・ショートケーキ。スープを除いては全て手作りである。うちのはまず見た目に圧倒され、凄い! を連発。そして食べて、美味い! と言ってもらえた。以前の日記で、私の料理は手の込んだ物程悪評で、テールシチューあたりを作って美味いと言わせたいと書いていた。テールシチューではないがタンシチューで野望達成。我ながらどれも美味しくできた。うちのはタンシチューを食したのは昨夜が初めてだったようで、物凄く美味しがってくれて作った甲斐があったというものである。しかしながら、今、食べ物の話を書いているだけで胸焼けをしてきている。うちのは今朝、吐いたらしい。食中りではなく食べ過ぎの所為である。それくらい食べた。今夜の夕食はサラダの残りとケーキの残り。出鱈目なメニューだが、共に足の早い物なので仕方がない。それにふたりとも当分豪華な食事は結構、という心境なのでこれでよし。明日はタンシチューのルーの残りで、ビーフストロガノフか煮込みハンバーグの予定。明日の夕食作成後は、年内はもうクリスマス迄手の込んだ物は作らない予定。夕食そのものももう作る気なし。今年の精魂は、もう残るライヴ2回とイベント1回とクリスマス分しか残っていないのだ。
昨日の日記を書き終えてから、うちのから帰宅が遅くなる旨のメールが届いた。因って最難関であったガスコンロ周辺と換気扇フィルターの掃除を開始。レンジクリーナーが1本空になった。雑巾4枚と毛糸タワシひとつがダメになった。それでもまだ落ちきっていない部分もある。もういい。落ちない部分は諦めた。手の届く範囲と落ちる部分のみ徹底的に掃除し、換気扇フィルターの上に更にフィルター、コンロ下にはアルミの下敷き、コンロ上には油跳ねガードを設置。生活感溢れるキッチンとなった。残っている私の掃除箇所は玄関と食器水切り籠と小動物1匹の寝床のみ。こんなのは年内であればいつでもいいし、さほど手間暇がかからない場所なので楽だ。そして後は現状を維持すべく英国淑女のようにこまめに、といっても週に1度くらい掃除機かけと掃き掃除と埃や汚れが目立つ部分を拭き掃除するだけ。うちののバースデー・ディナーといい、大掃除といい、今の私は達成感に溢れている。予定表前倒し作戦の甲斐あり、今の予定表にはライヴやイベントの予定以外は殆ど書き込まれていない。素晴らしい! しかし私がこんなに働くなんて異常事態だ。おかしい。天変地異が起きたら、きっと私の所為である。世の皆様、すまん。個人ひとりの達成感で世を天変地異に陥れる可能性があるなんて、私って凄い。そんな凄い私にうちのは失礼なメールや発言を何度もしてきていた。私は掃除が一段落するとうちのに、どこそこを掃除した、とメールなり口頭なりで毎回報告していたのだが、うちのはその都度、無茶するな、と返事をよこしてきていた。頑張り過ぎるな、無理するな、などなら解る。無茶とはなんだ! 失礼な奴である。それとも天変地異を危惧してのは発言だったのだろうか? そんなこんなでうちのの一大イベント終了及び大掃除一旦終了。
大掃除の最中、母方の叔母から、親に内緒で電話があった。着信拒否にしていたので気付かなかった為、こちらからかけなおした。着信拒否の理由は、親の携帯を除き親絡みの他者の電話番号の殆どを着信拒否にしている為である。親の携帯のみ着信を許可しているのは事務連絡が入る可能性がある為。今のところは何もきていないが。叔母からの用件。
・祖母が脳梗塞で倒れた
・命に別状はなく意識もしっかりしているが、黒猫を含めいろんな人に会いたがっている
・近々黒猫の親が帰省するらしいので、都合が付けば一緒に帰ってこれないか
倒れた祖母は心配である。会いたいのも帰りたいのも山々だ。しかしそれらは全て無理。理由。
・親と絶縁したときにもう葬式にも呼ばないと言われているので親と一緒の帰省など私も嫌だが、親にとっても論外であろう
・一人で帰るにしても、もし祖母が親に会ったときに、この間黒猫ちゃんが来てくれた、などと口を滑らせるとまた揉める
因って、叔母がひとりで帰省したときに黒猫が、元気で長生きしてね、と伝言していたと伝えてくれるように頼んだ。黒猫の親は黒猫の帰省を嫌がったりしないと思う、と叔母は言っていた。違うんだよな……。それ程迄に拗れる親子関係、というものが仲良し家族の叔母には信じられないのだろう。そして叔母は親の妹であり、生まれたときから親に接していた訳であり、かつての私のように、親の異常さ=普通、と思い込んでいるのだろう。また大人になってからは叔母と親は距離も離れ、それぞれの環境も変わり、叔母にとって私の親は、口煩いが気は優しく働き者の姉、と認識されていることは想像に難くない。
確かに私の親にそういう一面もある。しかしそうではない一面もあるのだ。絶縁騒動の少し前迄だろうか、私も、自分の目で見た物が真実の全て、と思っていた。違った。千里眼がある訳でもなし、人間の視野など所詮は狭いものなのだ。また、叔母に主治医の話をした。あの歳になると精神療法も効かないと言っていた、と。叔母は初め、私の話だと思ったようだが、親の話だと言うと激しく驚いていた。そして、そんなことを言う医者はどうなの? と。先日の診察時、主治医はかつてない程に私に同情的であり、あのお母さんには胃が痛くなる、1度会っただけにも拘らずそう言っていた。その親の下で27年育った私の精神が病むのも致し方なし、と主治医は思っているようである。私も同意。叔母には、叔母の知らない私の親の姿ってものもあるんだよ、とだけ伝えた。理解してくれたかどうかは解らない。以前の会話で、子供にそんなことを言われたら親としてとても悲しい、言っていた。過去の日記参照。そういうことを子供に言わせてしまう親だ、とは思えないようだ。精々、自分の子供が将来、精神科にかからずに済むよう育ててやってくれ。うちのに祖母の話をしたところ、会いに行ってくれば? と言ってくれた。揉める=また親と係わるのが嫌だし……と言うと、あんたらとは縁を切ったがばあちゃんと迄絶縁してはいないと言ってやればいい、と言われた。正論である。正論ではあるが、如何せん正論ではなく自分の理論のみが正論と思い込んでいる親だ。ばあちゃんには会いたい。けれどもそれ以上に親と係わりたくない気持ちが強い。親は、祖母にももう会ってくれるなと言ってくる前は、会いたければひとりで帰れば? と言っていた。前言撤回後の会ってくれるな発言。親にとってどちらが記憶に残っているか不明。どうしたものか……。悩みは尽きないが、叔母が親抜きに叔母の考えのみに基づいて、祖母の近況を連絡してきてくれたことには感謝。叔母の携帯の着信拒否設定は解こうと思う。携帯は会話ができればそれでよし、と考えている私はイマイチ機能を使いこなせていない。着信拒否設定はできているが、その解き方を知らないので、今から調べねば。
BGM/アルバム「頽廃藝術展」
昨日の日記を書き終えてから、うちのから帰宅が遅くなる旨のメールが届いた。因って最難関であったガスコンロ周辺と換気扇フィルターの掃除を開始。レンジクリーナーが1本空になった。雑巾4枚と毛糸タワシひとつがダメになった。それでもまだ落ちきっていない部分もある。もういい。落ちない部分は諦めた。手の届く範囲と落ちる部分のみ徹底的に掃除し、換気扇フィルターの上に更にフィルター、コンロ下にはアルミの下敷き、コンロ上には油跳ねガードを設置。生活感溢れるキッチンとなった。残っている私の掃除箇所は玄関と食器水切り籠と小動物1匹の寝床のみ。こんなのは年内であればいつでもいいし、さほど手間暇がかからない場所なので楽だ。そして後は現状を維持すべく英国淑女のようにこまめに、といっても週に1度くらい掃除機かけと掃き掃除と埃や汚れが目立つ部分を拭き掃除するだけ。うちののバースデー・ディナーといい、大掃除といい、今の私は達成感に溢れている。予定表前倒し作戦の甲斐あり、今の予定表にはライヴやイベントの予定以外は殆ど書き込まれていない。素晴らしい! しかし私がこんなに働くなんて異常事態だ。おかしい。天変地異が起きたら、きっと私の所為である。世の皆様、すまん。個人ひとりの達成感で世を天変地異に陥れる可能性があるなんて、私って凄い。そんな凄い私にうちのは失礼なメールや発言を何度もしてきていた。私は掃除が一段落するとうちのに、どこそこを掃除した、とメールなり口頭なりで毎回報告していたのだが、うちのはその都度、無茶するな、と返事をよこしてきていた。頑張り過ぎるな、無理するな、などなら解る。無茶とはなんだ! 失礼な奴である。それとも天変地異を危惧してのは発言だったのだろうか? そんなこんなでうちのの一大イベント終了及び大掃除一旦終了。
大掃除の最中、母方の叔母から、親に内緒で電話があった。着信拒否にしていたので気付かなかった為、こちらからかけなおした。着信拒否の理由は、親の携帯を除き親絡みの他者の電話番号の殆どを着信拒否にしている為である。親の携帯のみ着信を許可しているのは事務連絡が入る可能性がある為。今のところは何もきていないが。叔母からの用件。
・祖母が脳梗塞で倒れた
・命に別状はなく意識もしっかりしているが、黒猫を含めいろんな人に会いたがっている
・近々黒猫の親が帰省するらしいので、都合が付けば一緒に帰ってこれないか
倒れた祖母は心配である。会いたいのも帰りたいのも山々だ。しかしそれらは全て無理。理由。
・親と絶縁したときにもう葬式にも呼ばないと言われているので親と一緒の帰省など私も嫌だが、親にとっても論外であろう
・一人で帰るにしても、もし祖母が親に会ったときに、この間黒猫ちゃんが来てくれた、などと口を滑らせるとまた揉める
因って、叔母がひとりで帰省したときに黒猫が、元気で長生きしてね、と伝言していたと伝えてくれるように頼んだ。黒猫の親は黒猫の帰省を嫌がったりしないと思う、と叔母は言っていた。違うんだよな……。それ程迄に拗れる親子関係、というものが仲良し家族の叔母には信じられないのだろう。そして叔母は親の妹であり、生まれたときから親に接していた訳であり、かつての私のように、親の異常さ=普通、と思い込んでいるのだろう。また大人になってからは叔母と親は距離も離れ、それぞれの環境も変わり、叔母にとって私の親は、口煩いが気は優しく働き者の姉、と認識されていることは想像に難くない。
確かに私の親にそういう一面もある。しかしそうではない一面もあるのだ。絶縁騒動の少し前迄だろうか、私も、自分の目で見た物が真実の全て、と思っていた。違った。千里眼がある訳でもなし、人間の視野など所詮は狭いものなのだ。また、叔母に主治医の話をした。あの歳になると精神療法も効かないと言っていた、と。叔母は初め、私の話だと思ったようだが、親の話だと言うと激しく驚いていた。そして、そんなことを言う医者はどうなの? と。先日の診察時、主治医はかつてない程に私に同情的であり、あのお母さんには胃が痛くなる、1度会っただけにも拘らずそう言っていた。その親の下で27年育った私の精神が病むのも致し方なし、と主治医は思っているようである。私も同意。叔母には、叔母の知らない私の親の姿ってものもあるんだよ、とだけ伝えた。理解してくれたかどうかは解らない。以前の会話で、子供にそんなことを言われたら親としてとても悲しい、言っていた。過去の日記参照。そういうことを子供に言わせてしまう親だ、とは思えないようだ。精々、自分の子供が将来、精神科にかからずに済むよう育ててやってくれ。うちのに祖母の話をしたところ、会いに行ってくれば? と言ってくれた。揉める=また親と係わるのが嫌だし……と言うと、あんたらとは縁を切ったがばあちゃんと迄絶縁してはいないと言ってやればいい、と言われた。正論である。正論ではあるが、如何せん正論ではなく自分の理論のみが正論と思い込んでいる親だ。ばあちゃんには会いたい。けれどもそれ以上に親と係わりたくない気持ちが強い。親は、祖母にももう会ってくれるなと言ってくる前は、会いたければひとりで帰れば? と言っていた。前言撤回後の会ってくれるな発言。親にとってどちらが記憶に残っているか不明。どうしたものか……。悩みは尽きないが、叔母が親抜きに叔母の考えのみに基づいて、祖母の近況を連絡してきてくれたことには感謝。叔母の携帯の着信拒否設定は解こうと思う。携帯は会話ができればそれでよし、と考えている私はイマイチ機能を使いこなせていない。着信拒否設定はできているが、その解き方を知らないので、今から調べねば。
BGM/アルバム「頽廃藝術展」
あちらこちらに潜む罠
2003年12月11日 食生活 今日も午前中に目が覚めた。良かった。今日は夕方に目が覚めてはいけなかったのである。ケーキを焼かねばならなかったから。起きて一服してケーキ作りに取り掛かる。メレンゲを作らなくていいから楽チン〜と思っていたら甘かった。卵と牛乳と粉Aを混ぜ、もったりする迄ひたすら泡立て器で混ぜる。ひたすらひたすら。激しく右腕が痛い。右肩も首も痛い。明日は右上半身筋肉痛必至。電動泡立て器が激しく欲しくなった。過去にも欲しくなったことは何度もあるものの、1度も購入したことがない。きっとすぐに使わなくなるだろうことが明らかだからである。もったりしてから粉Bを混ぜ、型に流し込み後は焼くだけ。焼くといっても、私が使うのはオーブンではなく炊飯器である。うちの炊飯器は去年だか一昨年だかに買い替えて、今はIHジャーとなっている。ダメ。白米・玄米を炊く際や炊き込みご飯を作るときはいい。しかしケーキは焼けなかった。炊飯器の内釜にケーキの型を置き、そこにタネを流し込み2度炊きすれば完成、となる筈だったのに炊飯機能が働かないではないか! やむなく型から内釜そのものへとタネを移し、早炊き・煮沸コースで2度炊きした。ふんわり度よりもしっとり度の勝ったスポンジになったのは、ご愛嬌。竹串にタネがついてきたりはしなかったので生ではなかろう。腹を壊さなければ良いのだ。スポンジを冷まし、デコレーションもし、後はうちのの帰宅を待つばかりである。予想以上に疲れたケーキ作りではあったが、時間はそれ程かからなかった。ケーキのデコレーションをしているあたりから妙にテンションが上がってしまったので、だるかったけれども寝ないで掃除に取り掛かる。
今日した掃除。キッチンはタイル部分と扉部分と冷蔵庫・電子レンジ・オーブントースターの拭き掃除及び床の掃き掃除と目立つ汚れの拭き掃除。タイル部分はどうしても手の届かないところがあり、そこだけ汚れが残っているが仕方なし。その後、洗濯機の掃除。外回りの見えている部分と蓋の表・裏、洗濯層の上部。洗濯層そのものは今、浸け置きしている。残る掃除すべき部分は、ガスコンロ周り及び換気扇、玄関、小動物2匹の小屋と寝床、居間と玄関の照明のみとなった。照明と小動物の小屋はうちのにやってもらう。私では手が届かないし、小動物の寝床はともかく小屋は風呂場で中腰になって洗わなければならないので腰痛持ちの私には無理なのだ。主婦って凄い。毎年こんなことをしているなんて、尊敬する。私にはできない。尤も来年からは英国淑女になるので大掃除などしない予定。今日はケーキ作りと上記掃除をして現在19時30分。食事を摂っていないことに今、気がついた。空腹を忘れる程に掃除が好きになってしまったのか。無論そんな筈はなく、気付いたらこんな時間になっていただけの話である。3訂予定表よりもかなり進んでいる。良き哉、良き哉。
昨日悩んでいた、うちのへの誕生日プレゼントの渡し時。結局うちのはいつも通り終電で帰宅し、終電となったからには当然午前様であったので、テーブルの上に気付くように置いておいた。なのに気付かない……。仕方がないから開けるように促し、やっと渡せた。今年の誕生日プレゼントは、肩と首の凝りを解す物にした。電子レンジで1分暖め、それを肩と首に乗せるとぽかぽかして血行が良くなるという代物。使わせてみたところ、気休め程度には効果があったようである。プレゼントは気持ちなので、気休めでも構わない。私も借りてみたらなかなかに暖かく気持ちのいい物だった。やっぱりこれにして正解だった。私も時々借りることにしよう。肩凝り腰痛十年選手の私は、健康グッズが好きなのである。どれもそのうちに飽きてしまうのだが、今迄にもアイピロー、足ツボ刺激板、カステラ枕、肩と腰の凝りを解す物などいろいろ試してきた。何故どれも飽きてしまうのか解らない。カステラ枕は効果がなかったからだと解っているのだが、その他は不明。きっと使い終わってしまってしまうと、次に取り出すのが面倒になるからだろう。不精、ここに極まれり。うちのは今年になってから肩凝りが始まった。プレゼントを物色しに雑貨屋に行ってパッと目に付いたのがコレだった。悩まずに閃きで買う物の方が、ことプレゼントに於いては喜ばれる、というのが私の経験則である。
誕生祝いのメインは、昨日も書いたように今夜の夕食である。タンシチューは私が作った物とは思えない程良くできた。唯一私らしさが出たのは、鍋底だ。こんならしさも激しく不要なのだが、鍋を焦がさせたら日本一かもしれないというくらいに私はよく鍋を焦がす。今回も新品の鍋を使ったというのに、1回の使用で1年は使い込んでいるかのような鍋に変身させた。鍋底を焦がした場合、水を張って火にかけて沸騰させると自然に剥がれるという。嘘だ。いや、嘘ではないかもしれないが、私が焦がした鍋はそんな甘い方法で綺麗になったりはしない。スチールタワシで無心にこそげ落とす。今回の焦げっぷりは過去最強であり、排水溝から水が流れなくなった。うちの生ゴミ入れは排水溝への嵌め込み型であり、愛用している生ゴミネットはストッキング状の物だ。こそげ取られた焦げにより、目詰まり発生。素手でネットを撫で回して目詰まりをなくす。実に嫌な作業である。食品は何故一旦生ゴミ入れに入ると、その直後から汚い物として認識されるのか。焦げも元は食品だった筈である。しかし黒くなった瞬間から汚物。無心に数十分鍋底を擦り続け、やっと焦げはなくなった。鍋底が綺麗になった分、爪がぼろぼろになった。スチールタワシを使うときは必ずゴム手袋を着けよう、と毎回思う。毎回=鶏頭なので毎回忘れて爪をぼろぼろにしているということだ。どうにも学習能力が足りなくていけない。そしてスチールタワシは爪だけでなく指先もぼろぼろにしてくれる。おまけに鍋に突っ込みっぱなしでかき混ぜに使っていたおたまが何製だかしらないけれども熱くなる物であり、指先に軽い火傷も負った。これも毎回、お玉を触るときは鍋掴みを(以下略。我が身はぼろぼろになったが、作ったシチューに焦げの匂いは移っておらず、また懸念していたタンの皮もついていなかったので楽にスライスできた。終わり良ければ全て良し。今夜、美味しい、と言ってもらえることを願うのみ也。
今日した掃除。キッチンはタイル部分と扉部分と冷蔵庫・電子レンジ・オーブントースターの拭き掃除及び床の掃き掃除と目立つ汚れの拭き掃除。タイル部分はどうしても手の届かないところがあり、そこだけ汚れが残っているが仕方なし。その後、洗濯機の掃除。外回りの見えている部分と蓋の表・裏、洗濯層の上部。洗濯層そのものは今、浸け置きしている。残る掃除すべき部分は、ガスコンロ周り及び換気扇、玄関、小動物2匹の小屋と寝床、居間と玄関の照明のみとなった。照明と小動物の小屋はうちのにやってもらう。私では手が届かないし、小動物の寝床はともかく小屋は風呂場で中腰になって洗わなければならないので腰痛持ちの私には無理なのだ。主婦って凄い。毎年こんなことをしているなんて、尊敬する。私にはできない。尤も来年からは英国淑女になるので大掃除などしない予定。今日はケーキ作りと上記掃除をして現在19時30分。食事を摂っていないことに今、気がついた。空腹を忘れる程に掃除が好きになってしまったのか。無論そんな筈はなく、気付いたらこんな時間になっていただけの話である。3訂予定表よりもかなり進んでいる。良き哉、良き哉。
昨日悩んでいた、うちのへの誕生日プレゼントの渡し時。結局うちのはいつも通り終電で帰宅し、終電となったからには当然午前様であったので、テーブルの上に気付くように置いておいた。なのに気付かない……。仕方がないから開けるように促し、やっと渡せた。今年の誕生日プレゼントは、肩と首の凝りを解す物にした。電子レンジで1分暖め、それを肩と首に乗せるとぽかぽかして血行が良くなるという代物。使わせてみたところ、気休め程度には効果があったようである。プレゼントは気持ちなので、気休めでも構わない。私も借りてみたらなかなかに暖かく気持ちのいい物だった。やっぱりこれにして正解だった。私も時々借りることにしよう。肩凝り腰痛十年選手の私は、健康グッズが好きなのである。どれもそのうちに飽きてしまうのだが、今迄にもアイピロー、足ツボ刺激板、カステラ枕、肩と腰の凝りを解す物などいろいろ試してきた。何故どれも飽きてしまうのか解らない。カステラ枕は効果がなかったからだと解っているのだが、その他は不明。きっと使い終わってしまってしまうと、次に取り出すのが面倒になるからだろう。不精、ここに極まれり。うちのは今年になってから肩凝りが始まった。プレゼントを物色しに雑貨屋に行ってパッと目に付いたのがコレだった。悩まずに閃きで買う物の方が、ことプレゼントに於いては喜ばれる、というのが私の経験則である。
誕生祝いのメインは、昨日も書いたように今夜の夕食である。タンシチューは私が作った物とは思えない程良くできた。唯一私らしさが出たのは、鍋底だ。こんならしさも激しく不要なのだが、鍋を焦がさせたら日本一かもしれないというくらいに私はよく鍋を焦がす。今回も新品の鍋を使ったというのに、1回の使用で1年は使い込んでいるかのような鍋に変身させた。鍋底を焦がした場合、水を張って火にかけて沸騰させると自然に剥がれるという。嘘だ。いや、嘘ではないかもしれないが、私が焦がした鍋はそんな甘い方法で綺麗になったりはしない。スチールタワシで無心にこそげ落とす。今回の焦げっぷりは過去最強であり、排水溝から水が流れなくなった。うちの生ゴミ入れは排水溝への嵌め込み型であり、愛用している生ゴミネットはストッキング状の物だ。こそげ取られた焦げにより、目詰まり発生。素手でネットを撫で回して目詰まりをなくす。実に嫌な作業である。食品は何故一旦生ゴミ入れに入ると、その直後から汚い物として認識されるのか。焦げも元は食品だった筈である。しかし黒くなった瞬間から汚物。無心に数十分鍋底を擦り続け、やっと焦げはなくなった。鍋底が綺麗になった分、爪がぼろぼろになった。スチールタワシを使うときは必ずゴム手袋を着けよう、と毎回思う。毎回=鶏頭なので毎回忘れて爪をぼろぼろにしているということだ。どうにも学習能力が足りなくていけない。そしてスチールタワシは爪だけでなく指先もぼろぼろにしてくれる。おまけに鍋に突っ込みっぱなしでかき混ぜに使っていたおたまが何製だかしらないけれども熱くなる物であり、指先に軽い火傷も負った。これも毎回、お玉を触るときは鍋掴みを(以下略。我が身はぼろぼろになったが、作ったシチューに焦げの匂いは移っておらず、また懸念していたタンの皮もついていなかったので楽にスライスできた。終わり良ければ全て良し。今夜、美味しい、と言ってもらえることを願うのみ也。