涅槃桜の森の満開の下
2004年4月8日 本・映画・音楽など 検索サイトから飛んでいろんなサイトを見ていたところ、どうしても納得できないものを発見。愛しの君の某バンドは海外の某バンドに似ている的記述が。違う! その海外の某バンドは、愛しの君の某バンドのファンなのだ。そして某曲をパク……いや、リスペクトして発表したりしている。この前後関係を間違うと、海外コンプレックスの強い多くの日本人の傾向として、海外某バンドに日本某バンドが似ている、となってしまうのだろうか。上記の納得できない表現で某バンドを評した方がそうとは限らないけれど、何とももにょる話である。もにょるのは、海外某バンドが日本某バンドのファンであり、某曲のパクリとも言えるようなイントロの曲があることを逆方向で勘違いされている気がする。大体、似ている海外バンドを挙げるなら、ブラック・サバスは外せない筈ではないか。サバスを外して他のバンドをあげているのが、何だかなあ、の原因である。和製サバスとの声も高いのに。誤解なきように書くと、他人様の評にケチをつけたいのではなく、勘違いを生みそうな表現だったことに不安を感じたのだ。日本某バンドを高く評価してくれてはいたけれど、仮にそれでこのバンドに興味を持ち、一緒に挙げられていた海外某バンドの作品と一緒に聴いた人がいたとする。そのとき、海外某バンドの某曲の後で日本某バンドの某曲を聴いたら、概ねパクリだと捉えられそうだ。いちいち発表年を調べたりしなければ、逆だとはまず気付かれます。うーむ。どうせ杞憂だとは思うけれど、思い入れある大好きな日本某バンド故に気になって夜も眠……りに眠って、今日起きたのは15時だった。所要睡眠10時間ベースは何があっても崩れないのか。
さて桜も満開を過ぎ、春風に吹かれて花弁舞い散る今日この頃。私の頭も気の触れ桜がひぃらひら。で、愛しの君の某バンドの曲と歌詞をチェックしてみた。春・桜が出てくる曲はどれくらいあるのか。手元にあるCDはアルバムのみで、1〜4枚目及び6〜10枚目。それらの歌詞カードを読み直してみた。
「無限の住人」に4曲もあって驚いた。ここ迄は歌詞カードからの引用なので確実。以下は聴き取りからなので不正確箇所ありかも。
上記に引用した歌詞の殆どは愛しの君が書いたもの。バンド名同様にもう愛しの君もへったくれも(以下略。今更実名を出すのもアレなので、このままの書き方で今後も日記続行。愛しの君がラジオでしていた話曰く、春の海は嫌いらしい。淋しい感じがするからだとか。春そのものからして好きではなさそうだった。なのに書き出してみたら春だの桜だのの多いことったら。嫌い嫌いも好きのうち。違うか。きっと桜という樹木及び花が、日本の草木を象徴するような存在なので多く用いがちになっているのだろう。けれど、うららかなイメージはあるらしい。淋しげとうららかは相容れない気もするのだが。歌詞をパーッと見て、秋の曲が少なく思った。秋は題材にしづらい季節なのだろうか。別に季節の曲ばかりを作っているバンドではなく、むしろそういったところから離れた猟奇的・文学的・頽廃的・宗教的・衒学趣味な歌詞が多いのだけれど。ベーシストの書く歌詞に猟奇趣味は顕著だ。愛しの君の書く歌詞は猟奇趣味だけに留まらず、バリエーションが豊富。天才肌と秀才肌の違いか。愛しの君は後者。ベーシストは演奏技術・作曲及び作詞技術が天才的ということではない。ただベーシストには余り、頑張っている感、が見出せず、愛しの君の作曲・作詞には努力の跡が見える気がするのである。その努力の跡や苦心の跡がまた心に沁みてきたりする。ランボーの「母音」から書かれた歌詞は、某サイトでけちょんけちょんに近く貶されていたけれど。デビュー当時の作品では猟奇趣味・文学趣味が前面に出ていたのに、最近の作品はよく言えば幅が広がってきており、悪く言えば軽い作品が増えてきている気がする。それでもちゃんとアルバム最終曲に大作を持ってきて、きちんと〆ている。一時期、アルバム最終曲だけを集めてフォルダを作って、通して聴いていた。重かった……。でもこの重さがいい。演奏も曲も歌詞も声も顔も体も指も大好き。と、のだめの如くさり気なく告白。
BGM/書く迄もなく……
さて桜も満開を過ぎ、春風に吹かれて花弁舞い散る今日この頃。私の頭も気の触れ桜がひぃらひら。で、愛しの君の某バンドの曲と歌詞をチェックしてみた。春・桜が出てくる曲はどれくらいあるのか。手元にあるCDはアルバムのみで、1〜4枚目及び6〜10枚目。それらの歌詞カードを読み直してみた。
・アルバム「人間失格」より
「桜の森の満開の下」→「桜のトンネル夜歩く旅人」「桜の森の満開の下で」
・アルバム「桜の森の満開の下」より
アルバム・タイトルのみ
・アルバム「黄金の夜明け」より
なし
・アルバム「羅生門」より
なし
・アルバム「踊る一寸法師」より
「モスラ」→「春の海にのたり」
「暗い日曜日」→「春のベンチでうたた寝したんだ」
・アルバム「無限の住人」より
「蛮カラ一代記」→「花は桜木人は武士」
「刀と鞘」→「抜いて咲くのは八重桜」
「辻斬り小唄無宿編」→「桜吹雪がこち吹かば」
「黒猫」→「春の弥生の空に」「気の触れ桜がひらひら」「春の涅槃の風に」
・アルバム「頽廃藝術展」より
「菊人形の呪い」→「桜の花なら」「桜の花びら」
「村の外れでビッグバン」→「春のうららに誘われて」
・アルバム「二十世紀葬送曲」より
「恋は三角木馬の上で」→「月の照らす春高楼」
「春の海」→「うららかな春の海」「ひろやかな春の海」「のどやかな春の海」「ひそやかな春の海」「春霞の帷」
・アルバム「怪人二十面相」より
「亜麻色のスカーフ」→「春の公園」
「無限の住人」に4曲もあって驚いた。ここ迄は歌詞カードからの引用なので確実。以下は聴き取りからなので不正確箇所ありかも。
・アルバム「人間椅子」より書き出しに疲れてぐったり。早く未入手のCDも買おう。そしてもう某バンドも減ったくれもなく明らかだなあ。前からか? いいや、もう。できればタグ類は一切使いたくなかったけれど、今回は余りに引用が多用につき念の為。こうやってまたひとつ、自分の中の禁止事項が減ってゆく。
「桜の森の満開の下」→アルバム「人間椅子」収録作に同じ
・シングル「刀と鞘」より
「刀と鞘」→アルバム「無限の住人」収録作に同じ
「桜下音頭」→「春の都にゃ今日も今日とて」「咲けよ桜よ我等を糧に」
・アルバム「見知らぬ世界」より
「涅槃桜」→「桜ひらひら降る夜は」「春の涅槃に舞うのさ」「桜の降りしきる森の中」「春の宵は退屈すぎる」「春の宵は幻惑させる」「桜はらはら散る夜は」「春の薫りの吹くまま」「春の宵は朧にふける」
・アルバム「修羅囃子」より
「相剋の家」→「月経の春」
上記に引用した歌詞の殆どは愛しの君が書いたもの。バンド名同様にもう愛しの君もへったくれも(以下略。今更実名を出すのもアレなので、このままの書き方で今後も日記続行。愛しの君がラジオでしていた話曰く、春の海は嫌いらしい。淋しい感じがするからだとか。春そのものからして好きではなさそうだった。なのに書き出してみたら春だの桜だのの多いことったら。嫌い嫌いも好きのうち。違うか。きっと桜という樹木及び花が、日本の草木を象徴するような存在なので多く用いがちになっているのだろう。けれど、うららかなイメージはあるらしい。淋しげとうららかは相容れない気もするのだが。歌詞をパーッと見て、秋の曲が少なく思った。秋は題材にしづらい季節なのだろうか。別に季節の曲ばかりを作っているバンドではなく、むしろそういったところから離れた猟奇的・文学的・頽廃的・宗教的・衒学趣味な歌詞が多いのだけれど。ベーシストの書く歌詞に猟奇趣味は顕著だ。愛しの君の書く歌詞は猟奇趣味だけに留まらず、バリエーションが豊富。天才肌と秀才肌の違いか。愛しの君は後者。ベーシストは演奏技術・作曲及び作詞技術が天才的ということではない。ただベーシストには余り、頑張っている感、が見出せず、愛しの君の作曲・作詞には努力の跡が見える気がするのである。その努力の跡や苦心の跡がまた心に沁みてきたりする。ランボーの「母音」から書かれた歌詞は、某サイトでけちょんけちょんに近く貶されていたけれど。デビュー当時の作品では猟奇趣味・文学趣味が前面に出ていたのに、最近の作品はよく言えば幅が広がってきており、悪く言えば軽い作品が増えてきている気がする。それでもちゃんとアルバム最終曲に大作を持ってきて、きちんと〆ている。一時期、アルバム最終曲だけを集めてフォルダを作って、通して聴いていた。重かった……。でもこの重さがいい。演奏も曲も歌詞も声も顔も体も指も大好き。と、のだめの如くさり気なく告白。
BGM/書く迄もなく……
夕飯の献立を早めに決めたら、うちのにメールで連絡をする。もっと早くに決めたときは前夜のうちに告げておく。昼食と被らないように気をつけてもらう為だ。今夜の夕食は昨夜の残りのポトフと紫蘇餃子と温泉卵かけごはん。その旨のメールを送った。つもりだった。夕方に返信されてきたメールは友人から。相手を間違って送ってしまった。和洋中のバランスを無視した献立を自ら披露。恥ずかしいったらありゃしない。友人に謝罪メールを送り、改めてうちのにメールを送り直した。返信内容は、今夜も豪華だね。これが嫌味ではないのが嬉しいやら情けないやら。残り物と焼くだけと割るだけのごはん。それでも豪華と言ってもらえるということは、如何にそれ迄の夕食が貧相だったかを物語っている。数ヶ月前にデジカメを買ってから、うちのがたまに夕食を撮影するようになった。本当に手間暇かけた豪華な食事を作ったときに限って撮り忘れるのが難だが。昨夜、過去に撮り溜めた画像をプレビューで見た。最初の頃はコンビニのおでんにビールだけとか、大皿に1品+茶碗に白ごはんだけとか。近頃は夕食時に最低各自みっつの器が並ぶようになった。凄い進歩だ。更に何度も何度も注意され続けて、大皿料理のときは常に受け皿を出すようになった。これも進歩。フツーのことかもしれないけれど、今迄できていなかったことをできるようになったのだから、進歩、と言いたい。
昨夜の夕食はポトフと鮭のバジルオイルソテーとごはんとふりかけ。ポトフはじゃがいもと玉葱を適当に切り、ひたひたよりもやや多い水とコンソメふたつで小一時間煮込んで玉葱の甘味を出し、食べる15分くらい前に冷凍ブロッコリを投入。ブロッコリに熱が通ったところでクレイジーソルトをバーッと振りかけただけ。好評だった。肉や魚を入れなかったのは敢えてだ。うちのがダイエットしたがっているから。因みにふりかけ以外、食材は全て生協の物。鮭も元から味付けしてあるので焼くだけ。素晴らしく楽ちん。今夜の紫蘇餃子と温泉卵も生協。これで生協が煙草とビールとサントリーのウーロン茶を安く提供してくれるようになれば、私は週に1度しか外出しなくてよくなりそうだ。ビールは生協の品目にある。けれど残念。うちのが呑む銘柄ではないのだ。後はおやつか。ケーキ類や和菓子類がよくパンフに掲載されている。食指を伸ばしたくなる物も多い。しかし殆ど買ったことがない。何故なら、それらの多くが冷凍物なのだ。1度冷凍されたケーキや和菓子……何となく美味しくなさそうな気がする。専門店ではまずなかろうが、もしかしたらコンビニやスーパーのケーキや和菓子は一旦冷凍されているかもしれない、とも思う。業者が店に持ってくる段階では冷凍されていないけれどその前段階に。可能性はあるけれど、そうではない可能性もある。なのでちょっとお菓子を食べたいときはコンビニやスーパーで購入している。ここでいう、お菓子、は生菓子全般。私は乾き物のお菓子は余り好まないのだ。
冷凍ではない食品を提供するのは難しいのだろうか。生菓子然り、肉・魚然り。私は生協を利用し始める前から、肉や魚は半額または割引シールが貼られた物を買ってきては冷凍保存するのが常だったので、構わないっちゃあ構わないのだが。それにしても生協の肉は高い。安全な産地で育った安心料込みと解っていても高く感じる。昨夜注文票に記入しつつ、何故こんなに高いんだろう、と考えた。そして解った。高くないのだ。単に私が、半額または割引シールを貼られた物を買うことが殆どだった為、その割り引かれた値段を基準にしているから高く感じるだけなのだろう、と思い至った。よくよく記憶を辿ると、陳列棚に定価シールのみが貼られた肉は生協のそれと同等の値段設定である。皆ビンボが悪いんや。貧乏といっても食うに困る貧乏ではなく、私自身の貧乏体質。素敵な奥様風に言うと節約体質。違う。節約なんか心掛けてはいない。食材だって定価購入の方が新鮮だろう。生もの以外、私の舌では新鮮かどうかなんてそんなに判別できないが。とにかく、定価=半額・割引シールなし=新鮮・安全、と考えてみる。私が生協を利用し始めたきっかけのひとつは、安全な食品を、だった。矛盾している。けれど安全な肉を買おうと思わない程に譲れない物があるのだ。煙草とサントリーのウーロン茶。このふたつだけは削れない。煙草は何処でも定価なので仕方なくそのまま購入しているけれど、ウーロン茶はコンビニやスーパーではまず買わず、198円で販売している薬局迄足を運んで購入している。肉に新鮮さや安全さを必要以上に追求していくと、ウーロン茶は煮出しに格下げせざるを得なくなる。無理。昔、うちのが私に、いつも2Lペットボトルのサントリーのウーロン茶を購入することに対し、無駄遣いだと苦言を呈してきたことがあった。煮出しにしろ、と。煮出しだと味が濁って不味くなる、と抵抗した。そしてうちのが、ひとつの提案をしてきた。本当にそうなのか? 味の区別がつくのか? もしつかなかったら煮出しに変更しろよ、と。受けて立ち、見事勝利。或る日、うちのに留守を頼んで出掛けて帰宅。ウーロン茶を飲もうとして、見た目から違和感を察知。煮出しはパックを使うので色が濁る。飲んでみると味も濁っていた。指摘すると、うちのはちょっと驚いていた。濃い味付けの好きな私を一億総味覚障害の一員だと思っていたらしく、まず見破られまい、これで煮出しに変更させて節約だ、と目論んでいたらしい。甘い! こんな出来事を経て、今もペットボトルのサントリーのウーロン茶を愛飲している。私のPDがカフェインに左右されない性質でよかった。
余談。昨日の午前中、うちのが出勤前に私の寝顔を撮ろうとしてそのフラッシュで目が覚めた。不細工だから寝顔撮影は勘弁してくれ。それはそうとして、起きてしまったのでうちのを見送ってから東風荘に接続。たまたま同卓したひとりがやたらと切るのが遅い。もうひとりはその遅い人と以前にも打ったことがあるようで、進みが遅いから洗濯でもしよう、と書いてきた。それで、私も洗濯しよー、と。前回の洗濯から中4日。フツーよりも洗濯ペースが低過ぎると思われそうだが、うちでは中4日での洗濯は早い方である。麻雀でこんな効果があるとは。雀荘だと同卓の相手がどんなに遅かろうと全て代打ちという訳にはいかないし、ネットならではのちょっと面白かった出来事。
BGM/「Exotic Lollipop」「Papa,Boy,And I」「(I Would Want To) Go !」など
昨夜の夕食はポトフと鮭のバジルオイルソテーとごはんとふりかけ。ポトフはじゃがいもと玉葱を適当に切り、ひたひたよりもやや多い水とコンソメふたつで小一時間煮込んで玉葱の甘味を出し、食べる15分くらい前に冷凍ブロッコリを投入。ブロッコリに熱が通ったところでクレイジーソルトをバーッと振りかけただけ。好評だった。肉や魚を入れなかったのは敢えてだ。うちのがダイエットしたがっているから。因みにふりかけ以外、食材は全て生協の物。鮭も元から味付けしてあるので焼くだけ。素晴らしく楽ちん。今夜の紫蘇餃子と温泉卵も生協。これで生協が煙草とビールとサントリーのウーロン茶を安く提供してくれるようになれば、私は週に1度しか外出しなくてよくなりそうだ。ビールは生協の品目にある。けれど残念。うちのが呑む銘柄ではないのだ。後はおやつか。ケーキ類や和菓子類がよくパンフに掲載されている。食指を伸ばしたくなる物も多い。しかし殆ど買ったことがない。何故なら、それらの多くが冷凍物なのだ。1度冷凍されたケーキや和菓子……何となく美味しくなさそうな気がする。専門店ではまずなかろうが、もしかしたらコンビニやスーパーのケーキや和菓子は一旦冷凍されているかもしれない、とも思う。業者が店に持ってくる段階では冷凍されていないけれどその前段階に。可能性はあるけれど、そうではない可能性もある。なのでちょっとお菓子を食べたいときはコンビニやスーパーで購入している。ここでいう、お菓子、は生菓子全般。私は乾き物のお菓子は余り好まないのだ。
冷凍ではない食品を提供するのは難しいのだろうか。生菓子然り、肉・魚然り。私は生協を利用し始める前から、肉や魚は半額または割引シールが貼られた物を買ってきては冷凍保存するのが常だったので、構わないっちゃあ構わないのだが。それにしても生協の肉は高い。安全な産地で育った安心料込みと解っていても高く感じる。昨夜注文票に記入しつつ、何故こんなに高いんだろう、と考えた。そして解った。高くないのだ。単に私が、半額または割引シールを貼られた物を買うことが殆どだった為、その割り引かれた値段を基準にしているから高く感じるだけなのだろう、と思い至った。よくよく記憶を辿ると、陳列棚に定価シールのみが貼られた肉は生協のそれと同等の値段設定である。皆ビンボが悪いんや。貧乏といっても食うに困る貧乏ではなく、私自身の貧乏体質。素敵な奥様風に言うと節約体質。違う。節約なんか心掛けてはいない。食材だって定価購入の方が新鮮だろう。生もの以外、私の舌では新鮮かどうかなんてそんなに判別できないが。とにかく、定価=半額・割引シールなし=新鮮・安全、と考えてみる。私が生協を利用し始めたきっかけのひとつは、安全な食品を、だった。矛盾している。けれど安全な肉を買おうと思わない程に譲れない物があるのだ。煙草とサントリーのウーロン茶。このふたつだけは削れない。煙草は何処でも定価なので仕方なくそのまま購入しているけれど、ウーロン茶はコンビニやスーパーではまず買わず、198円で販売している薬局迄足を運んで購入している。肉に新鮮さや安全さを必要以上に追求していくと、ウーロン茶は煮出しに格下げせざるを得なくなる。無理。昔、うちのが私に、いつも2Lペットボトルのサントリーのウーロン茶を購入することに対し、無駄遣いだと苦言を呈してきたことがあった。煮出しにしろ、と。煮出しだと味が濁って不味くなる、と抵抗した。そしてうちのが、ひとつの提案をしてきた。本当にそうなのか? 味の区別がつくのか? もしつかなかったら煮出しに変更しろよ、と。受けて立ち、見事勝利。或る日、うちのに留守を頼んで出掛けて帰宅。ウーロン茶を飲もうとして、見た目から違和感を察知。煮出しはパックを使うので色が濁る。飲んでみると味も濁っていた。指摘すると、うちのはちょっと驚いていた。濃い味付けの好きな私を一億総味覚障害の一員だと思っていたらしく、まず見破られまい、これで煮出しに変更させて節約だ、と目論んでいたらしい。甘い! こんな出来事を経て、今もペットボトルのサントリーのウーロン茶を愛飲している。私のPDがカフェインに左右されない性質でよかった。
余談。昨日の午前中、うちのが出勤前に私の寝顔を撮ろうとしてそのフラッシュで目が覚めた。不細工だから寝顔撮影は勘弁してくれ。それはそうとして、起きてしまったのでうちのを見送ってから東風荘に接続。たまたま同卓したひとりがやたらと切るのが遅い。もうひとりはその遅い人と以前にも打ったことがあるようで、進みが遅いから洗濯でもしよう、と書いてきた。それで、私も洗濯しよー、と。前回の洗濯から中4日。フツーよりも洗濯ペースが低過ぎると思われそうだが、うちでは中4日での洗濯は早い方である。麻雀でこんな効果があるとは。雀荘だと同卓の相手がどんなに遅かろうと全て代打ちという訳にはいかないし、ネットならではのちょっと面白かった出来事。
BGM/「Exotic Lollipop」「Papa,Boy,And I」「(I Would Want To) Go !」など
日記の内容をテーマ別に分けてみた。こんなに、家族・メンヘル・健康、について書いていた物が多かったとは驚き。雑感・所感よりも多いとは思っていなかった。他者からすれば、家族・メンヘル・健康、という括りに違和感を覚えるだろうことは予想される。しかし私の中でメンヘルの占める要素が大きく、それは家族関係、親子関係及び健康に繋がっているので切り離せない。過去の日記を全てテーマに当て嵌めて割り振りに、ちょっと苦労をした。常々徒然なるままに書いているので、テーマが跨っている日記も多かったのだ。因って他者から見れば、日記の内容が割り振られたテーマに沿っていなく感じる物もあるかもしれない。その点は何卒ご容赦を。相互リンクを貼ってくれている方が秘密日記で指摘してくれれば直すかもしれない。読者の声として一番聞こえるのは秘密日記だから。テーマ毎に分けるにあたり、ざっとではあるけれど、過去の日記を一通り読み返した。書き始めた当初に比べ、内容が軽く明るくなってきている。良き哉、良き哉。絶縁騒動の辺りはもうどろどろだった。今は親のスタンスが割とハッキリしており、私の生活の中に当時程の闇を持ちこんで来ないので楽。通して読むことで、自分の心の動きが解って面白かった。うちのが、非常識からだらしないに成長した、と私を評した気持ちもちょっと理解できた。家族絡みのことが生活の中で大きくなると私は非常識な言動を取りがちになり、それが落ち着いた今はダラなだけになっているのだ。ふむふむ。日々の記録だけでなく、そのときそのときで徒然と書いていたことで、私がその時期に何に凝っていて、次に何に凝って前に凝っていた物に飽きたかも把握できた。何やら誕生日前後、私は勉強をしたかったらしい。今は全くしたくない。某巨大掲示板某板某スレを通してダラな生き方が肯定できてきたからだろう。ダラのままでいい訳ではないけれど、ある意味前向き。
過去の日記の空白部分を埋めるにあたり、今自分の中で熱が上がっている、小悪魔になりたい幻想、について数日分書いた。2月の頭辺りで。莫迦丸出しなのはご愛嬌。でもなりたいのだ。小悪魔に! 友人は今、小雪になりたがっている。その友人と昨日メッセで会話した。内容はお互い、如何にして小雪または小悪魔になるか。因みに彼女と私は同い年。20代後半。くだらない幻想ではある。くだらないけれど、何も目標や憧れがなく日々を漫然と暮らすよりはマシな気がする。先日、友人の小雪オーラが欲しい願望を聞いてから、私が考えた小雪イメージを説明した。野菜も肉も魚も何でも生で食べていそうだ。この印象は、偶然見た「笑っていいとも」に因るものだ。番組内で彼女は、罰ゲームで使われる不味いと評判のお茶を平気で飲んでいた。ちょっと恰好いい。そこから、健康にいいものなら何でも摂取する→人参以外はきっと生で食べているだろう。人参は油で炒めた方が栄養価が高まるので加熱。その他食物はきっと生食。彼女が思う小悪魔が聴いていそうな音楽を教えてもらった。出てきた名前はジェーン・バーキンとマドンナ。……やはりHR/HMはダメらしい。増してやその中でもスラメタ。デスメタなんて以ての外のようだ。趣味はそうそう変えられるものではないので、HR/HMも聴く小悪魔を目指したい。うちのが帰宅してから、あんたが思う日本人の小悪魔は誰だ? と聴いてみたところ、いない、との回答。想像力のない奴め。強いて言うならベティちゃんらしい。日本人で、という前提は何処に行ったのだろう。そして私がベティと聞いて真っ先に出てくるのは、ゲイ・バーのベティ・ママだ。違う! 小悪魔とかそういう話ではなくなってしまっている。ダメ過ぎ。
彼女と話をすると何故か必ずと言っていい程、みうらじゅんが話題に上る。DTや親孝行について、彼女はまだ知らなかったらしい。ヴィレッジ・バンガードに行かねば! と言っていた。みうらじゅんの話からDTを通して伊集院光の話へ。先日、伊集院光が私の夢に出てきた。AV男優として。ビーチで企画女優を追っかけ回していた。何とも目覚めの悪い夢だった……。伊集院光のANNを水曜2部だった頃から聴いていた私は、当時本気でオペラ歌手上がりのタレントだと信じていた。それが嘘だと知ったのはいつだったか覚えていない。確か朝日新聞のインタビューでプロフィールを語ったところ真に受けてやんの、と何処かで暴露話をしていたのがきっかけだったと思う。そのプロフィールの内容。曰く、父はバイオリンだかギターだかの弾き語りをしており、母はフルートだか笛だかの吹き語りをしていて云々。吹き語りなんかできる訳ないのに! と笑い話として暴露。朝日新聞、要反省。むしろ猛省。
猛省で思い出した。レビュー機能は使っていないけれど、昨日ちょっと覗いてみた。そこに「萌えたん」のレビューがあり、例文の引用をしている人もおり且つ「AERA」の特集も見つけた。ただの萌え物だと思っていたら、索引が付いていないこと以外はかなりいい出来だ、と好評を博している。英単語集として。編集長は血を吐く程の苦労をしたとか。日本語訳まずありきで、それをやや強引に英訳して作ったようだ。そして元ネタが解る人にはニヤリとできる代物らしい。「カイジ」あり、「セーラームーン」あり、某巨大掲示板で流行った言い回しあり。月に代わっておしおきはどうでもいいけれど、それ以外はかなり読みたい。そのうち買ってしまいそう。荒井注レベルの英語力しかない私がそれで学力向上するかは別の話。ネタだ。が。果たして小悪魔の書棚に「萌えたん」の存在は許せるのか? 許せまい。葛藤。今の私の書棚も「モンキーターン」が並んでいる辺り、小悪魔書棚とは乖離している。今ある青木るえかや中村うさぎの著作もダメだろう。道端に落ちていたのを拾ってきた「カイジ」の存在もダメだ。「カイジ」そのものも小悪魔らしくないのに、拾ってきたってのがダメさに拍車をかけている。そんな書棚に「萌えたん」……。こっそり買って、サブカル臭ぷんぷんのうちのの書棚に紛れ込ませるか。うん、そうしよう。自分の書棚には決して入れたくない。さて、珍しく早起きもしたし洗濯でもして夕食の準備に早く取り掛かるか。小悪魔らしくないなあ。小悪魔ならやはりここで昼寝か? ともあれ当分、私の小悪魔熱は続く……。
BGM/「I Ain’t No Nice Guy」「Broken Down Angel」「Dream On」など
過去の日記の空白部分を埋めるにあたり、今自分の中で熱が上がっている、小悪魔になりたい幻想、について数日分書いた。2月の頭辺りで。莫迦丸出しなのはご愛嬌。でもなりたいのだ。小悪魔に! 友人は今、小雪になりたがっている。その友人と昨日メッセで会話した。内容はお互い、如何にして小雪または小悪魔になるか。因みに彼女と私は同い年。20代後半。くだらない幻想ではある。くだらないけれど、何も目標や憧れがなく日々を漫然と暮らすよりはマシな気がする。先日、友人の小雪オーラが欲しい願望を聞いてから、私が考えた小雪イメージを説明した。野菜も肉も魚も何でも生で食べていそうだ。この印象は、偶然見た「笑っていいとも」に因るものだ。番組内で彼女は、罰ゲームで使われる不味いと評判のお茶を平気で飲んでいた。ちょっと恰好いい。そこから、健康にいいものなら何でも摂取する→人参以外はきっと生で食べているだろう。人参は油で炒めた方が栄養価が高まるので加熱。その他食物はきっと生食。彼女が思う小悪魔が聴いていそうな音楽を教えてもらった。出てきた名前はジェーン・バーキンとマドンナ。……やはりHR/HMはダメらしい。増してやその中でもスラメタ。デスメタなんて以ての外のようだ。趣味はそうそう変えられるものではないので、HR/HMも聴く小悪魔を目指したい。うちのが帰宅してから、あんたが思う日本人の小悪魔は誰だ? と聴いてみたところ、いない、との回答。想像力のない奴め。強いて言うならベティちゃんらしい。日本人で、という前提は何処に行ったのだろう。そして私がベティと聞いて真っ先に出てくるのは、ゲイ・バーのベティ・ママだ。違う! 小悪魔とかそういう話ではなくなってしまっている。ダメ過ぎ。
彼女と話をすると何故か必ずと言っていい程、みうらじゅんが話題に上る。DTや親孝行について、彼女はまだ知らなかったらしい。ヴィレッジ・バンガードに行かねば! と言っていた。みうらじゅんの話からDTを通して伊集院光の話へ。先日、伊集院光が私の夢に出てきた。AV男優として。ビーチで企画女優を追っかけ回していた。何とも目覚めの悪い夢だった……。伊集院光のANNを水曜2部だった頃から聴いていた私は、当時本気でオペラ歌手上がりのタレントだと信じていた。それが嘘だと知ったのはいつだったか覚えていない。確か朝日新聞のインタビューでプロフィールを語ったところ真に受けてやんの、と何処かで暴露話をしていたのがきっかけだったと思う。そのプロフィールの内容。曰く、父はバイオリンだかギターだかの弾き語りをしており、母はフルートだか笛だかの吹き語りをしていて云々。吹き語りなんかできる訳ないのに! と笑い話として暴露。朝日新聞、要反省。むしろ猛省。
猛省で思い出した。レビュー機能は使っていないけれど、昨日ちょっと覗いてみた。そこに「萌えたん」のレビューがあり、例文の引用をしている人もおり且つ「AERA」の特集も見つけた。ただの萌え物だと思っていたら、索引が付いていないこと以外はかなりいい出来だ、と好評を博している。英単語集として。編集長は血を吐く程の苦労をしたとか。日本語訳まずありきで、それをやや強引に英訳して作ったようだ。そして元ネタが解る人にはニヤリとできる代物らしい。「カイジ」あり、「セーラームーン」あり、某巨大掲示板で流行った言い回しあり。月に代わっておしおきはどうでもいいけれど、それ以外はかなり読みたい。そのうち買ってしまいそう。荒井注レベルの英語力しかない私がそれで学力向上するかは別の話。ネタだ。が。果たして小悪魔の書棚に「萌えたん」の存在は許せるのか? 許せまい。葛藤。今の私の書棚も「モンキーターン」が並んでいる辺り、小悪魔書棚とは乖離している。今ある青木るえかや中村うさぎの著作もダメだろう。道端に落ちていたのを拾ってきた「カイジ」の存在もダメだ。「カイジ」そのものも小悪魔らしくないのに、拾ってきたってのがダメさに拍車をかけている。そんな書棚に「萌えたん」……。こっそり買って、サブカル臭ぷんぷんのうちのの書棚に紛れ込ませるか。うん、そうしよう。自分の書棚には決して入れたくない。さて、珍しく早起きもしたし洗濯でもして夕食の準備に早く取り掛かるか。小悪魔らしくないなあ。小悪魔ならやはりここで昼寝か? ともあれ当分、私の小悪魔熱は続く……。
BGM/「I Ain’t No Nice Guy」「Broken Down Angel」「Dream On」など
鈴木京香は文句なしの美人だと思う。顔も体型も雰囲気も、現代日本美人の見本ではなかろうか。強いて欠点を探すなら、紙の量の多さか。けれどそんなのは取るに足らない欠点だ。松雪泰子も美人と言われる。若干の鷲鼻加減と声に難はあるけれど、凛とした雰囲気がそれら欠点を凌駕して、人々に美人と言わしめる。中山美穂も美人と言われているが、それには異議を唱えたい。あの鼻は致命的にダメだ。顔のパーツは整っているけれど、あの鼻の上向き加減が全てを台無しにしていると思われる。体型も今ひとつ垢抜けない。何故、世の中では中山美穂が美人だと言われているのか本当に不思議だ。鈴木京香や松雪泰子が上の上なら、中山美穂は中の上、世論を鑑みても上の下にしかランクインさせられない。これらはあくまで芸能人の中だけの独断ランキングであり、そこらを中山美穂が歩いていたら美人の部類に入るだろうことは理解している。独断偏見として、芸能人女性の美人で言えるのは、そのカテゴリの中で上の中以上でなければならないとしている。こんな見方なので、世論と私が思う美人芸能人の間には、深くて暗い河がある。今日の日記は、20代以上の女性芸能人について、美人とは何ぞや、を書く。加護ちゃんやあややは可愛いけれど、10代なので除外。余談になるが、私は辻ちゃんはちっとも可愛いと思わない。加護ちゃんはあと少しだけ痩せれば完璧に可愛い。あややは俯き気味の角度に限り、可愛い。はしのえみに似ていると言われるあやや。鼻に難あり。
本題に戻る。世論で美人と名高い松嶋菜々子。彼女は本当に美人なのか。面長よりも更に長い、相当に縦長の輪郭。致命的に低い鼻。タッパがあるので体型は良く見える。それでもあの顔は本当に美人か? 私には美人とは到底思えない。中の中くらいのレベル。それでも世の中では美女として絶大な支持を得ている。彼女は、雰囲気美人、ではあると思う。雰囲気というのは、全身を構成するパーツとは離れたところでの話だ。パーツとかけ離れていながらにして、美人、との高評価を得続ける松嶋菜々子。恐るべし。松たか子は美人とはなかなか言われない迄も、好印象を見る者に与えているらしい。ランキングでは下の上か中の下に位置していると思われる。ほんこんなのに。顔のパーツだけを見る。つぶらな瞳、高い頬骨、曲がった口元。芸能界不細工ナンバーワンと言われる、あのほんこんとそっくりではないか。うちでは松たか子がテレビに出る度にどちらかが、ほんこんさんが出てるよ、と言う。松たか子=ほんこん、として、うちのと私の間に共通認識が確立されているのだ。松嶋菜々子と松たか子が周囲に与える好印象。それは声という要素が強いと分析する。ふたりともおっとりした品のある口調で優しい声で話す。高過ぎず低過ぎずの、耳に心地良い声を持っている。特に歌手としても活躍している松たか子の歌声は、私も好きだったりする。格段に上手い訳ではないけれど、聴いていて何となく癒されたりしてしまう。ほんこんに癒されることに時として腹立ちを覚えなくもない。でも聴いていて心が穏やかになる声を持っていることは否定できない。雰囲気美人の最重要要素は声質。独断偏見で断言。
「やっぱり猫が好き」の三姉妹。長女はさて置き、次女三女は女優としての評価は高くともなかなか美人とは言われない。三女を演ずる室井滋の著書を何冊か読んだことがある。その中で友人から言われた言葉が書いてあった。読んだのがかなり昔であり現在手元にその本がないので原文ままではなく内容だけ。テレビの中では美人じゃないけど、同窓の中だと綺麗だよね。同年代のリアルの中では美人なのに、美人であることが前提とされている芸能人の中に入ると美人に見えない、という話だ。磯野貴理子もこの辺に位置していると思う。彼女は特別美人ではないけれど、中の中あたりのレベルだと思う。リアルで見たら、きっとかなり可愛いのではなかろうかと踏んでいる。室井滋と磯野貴理子の共通点。声及び口調に余り気品や可愛げが感じ取れない。もっと言ってしまえば下品。口調はともかく声質は生まれ持ったものなので、ちょっとしたひとつの悲劇と言えよう。声が良ければもっと高評価を得られように……。
顔の造作や全身のバランス、そして声。これらのバランスを絶妙に崩れさせつつ尚高い評価を得ているのが、篠原涼子とYOUだ。松雪泰子といい、「ごっつええ感じ」に出ていたことがいいのか? いや、そんな話ではなく。篠原涼子は某メイクアップアーティストに、完璧な形の唇、と言われたらしい。メイク如何では下品に転んでしまう唇。それがヌーディなメイクを施すことで表現しがたい色気を醸し出す。普段はざっくばらんなキャラでありつつ、忌野清志郎とのデュエットでも見られたセクシーな仕草。このギャップ、二面性が美人に見える不思議な人だ。きっと色気を前面に出した売り方だと反感を買っていた気がする。素のときと、素かどうか判らない面を巧みに見せることによって得られている高評価ではなかろうか。YOUの強みは年齢不詳に見えることだろう。彼女のファッションは決して歳相応とは言えない。しかし常に、似合う物、を身につけている。髪型然り。気取りのないキャラで色気には程遠く見えるが、写真だけで見ると実はかなり色気があったりする。このふたりの共通点はギャップと色気。そこにあるのはやはり雰囲気というものだ。元TPD、元フェアチャイルドという過去を全て払拭して活躍。因みにこのふたりの独断偏見ランキングは、造作のみで見ると中の中である。それでも雰囲気込みで評価するなら上の下くらい。
ついでに書いておくと、上記に挙げた芸能人らは褒めているかどうかに関わらず、特に好きでも嫌いでもない人々である。だからこそ個人的好みを挟みつつも、かなり客観的に見ることができていると思う。私の好みだけで書くと、広末涼子・深津絵里・西田尚美は外せない。そしてこの3人は、中の中から中の上に位置しており、上の中から上の上としている美人カテゴリには入れられず、かといって彼女らの魅力を文字にできる程の筆力を私は持っていないので敢えて省いた。広田レオナ・加賀まりこなどの小悪魔要素を持った人々は過去の日記参照のこと。
BGM/「South Of Heaven」「War Ensemble」「Angel of death」など
本題に戻る。世論で美人と名高い松嶋菜々子。彼女は本当に美人なのか。面長よりも更に長い、相当に縦長の輪郭。致命的に低い鼻。タッパがあるので体型は良く見える。それでもあの顔は本当に美人か? 私には美人とは到底思えない。中の中くらいのレベル。それでも世の中では美女として絶大な支持を得ている。彼女は、雰囲気美人、ではあると思う。雰囲気というのは、全身を構成するパーツとは離れたところでの話だ。パーツとかけ離れていながらにして、美人、との高評価を得続ける松嶋菜々子。恐るべし。松たか子は美人とはなかなか言われない迄も、好印象を見る者に与えているらしい。ランキングでは下の上か中の下に位置していると思われる。ほんこんなのに。顔のパーツだけを見る。つぶらな瞳、高い頬骨、曲がった口元。芸能界不細工ナンバーワンと言われる、あのほんこんとそっくりではないか。うちでは松たか子がテレビに出る度にどちらかが、ほんこんさんが出てるよ、と言う。松たか子=ほんこん、として、うちのと私の間に共通認識が確立されているのだ。松嶋菜々子と松たか子が周囲に与える好印象。それは声という要素が強いと分析する。ふたりともおっとりした品のある口調で優しい声で話す。高過ぎず低過ぎずの、耳に心地良い声を持っている。特に歌手としても活躍している松たか子の歌声は、私も好きだったりする。格段に上手い訳ではないけれど、聴いていて何となく癒されたりしてしまう。ほんこんに癒されることに時として腹立ちを覚えなくもない。でも聴いていて心が穏やかになる声を持っていることは否定できない。雰囲気美人の最重要要素は声質。独断偏見で断言。
「やっぱり猫が好き」の三姉妹。長女はさて置き、次女三女は女優としての評価は高くともなかなか美人とは言われない。三女を演ずる室井滋の著書を何冊か読んだことがある。その中で友人から言われた言葉が書いてあった。読んだのがかなり昔であり現在手元にその本がないので原文ままではなく内容だけ。テレビの中では美人じゃないけど、同窓の中だと綺麗だよね。同年代のリアルの中では美人なのに、美人であることが前提とされている芸能人の中に入ると美人に見えない、という話だ。磯野貴理子もこの辺に位置していると思う。彼女は特別美人ではないけれど、中の中あたりのレベルだと思う。リアルで見たら、きっとかなり可愛いのではなかろうかと踏んでいる。室井滋と磯野貴理子の共通点。声及び口調に余り気品や可愛げが感じ取れない。もっと言ってしまえば下品。口調はともかく声質は生まれ持ったものなので、ちょっとしたひとつの悲劇と言えよう。声が良ければもっと高評価を得られように……。
顔の造作や全身のバランス、そして声。これらのバランスを絶妙に崩れさせつつ尚高い評価を得ているのが、篠原涼子とYOUだ。松雪泰子といい、「ごっつええ感じ」に出ていたことがいいのか? いや、そんな話ではなく。篠原涼子は某メイクアップアーティストに、完璧な形の唇、と言われたらしい。メイク如何では下品に転んでしまう唇。それがヌーディなメイクを施すことで表現しがたい色気を醸し出す。普段はざっくばらんなキャラでありつつ、忌野清志郎とのデュエットでも見られたセクシーな仕草。このギャップ、二面性が美人に見える不思議な人だ。きっと色気を前面に出した売り方だと反感を買っていた気がする。素のときと、素かどうか判らない面を巧みに見せることによって得られている高評価ではなかろうか。YOUの強みは年齢不詳に見えることだろう。彼女のファッションは決して歳相応とは言えない。しかし常に、似合う物、を身につけている。髪型然り。気取りのないキャラで色気には程遠く見えるが、写真だけで見ると実はかなり色気があったりする。このふたりの共通点はギャップと色気。そこにあるのはやはり雰囲気というものだ。元TPD、元フェアチャイルドという過去を全て払拭して活躍。因みにこのふたりの独断偏見ランキングは、造作のみで見ると中の中である。それでも雰囲気込みで評価するなら上の下くらい。
ついでに書いておくと、上記に挙げた芸能人らは褒めているかどうかに関わらず、特に好きでも嫌いでもない人々である。だからこそ個人的好みを挟みつつも、かなり客観的に見ることができていると思う。私の好みだけで書くと、広末涼子・深津絵里・西田尚美は外せない。そしてこの3人は、中の中から中の上に位置しており、上の中から上の上としている美人カテゴリには入れられず、かといって彼女らの魅力を文字にできる程の筆力を私は持っていないので敢えて省いた。広田レオナ・加賀まりこなどの小悪魔要素を持った人々は過去の日記参照のこと。
BGM/「South Of Heaven」「War Ensemble」「Angel of death」など
久々に入浴。バスソルトはローズ。小悪魔だから……ではない。うちはユニットバスであり、体の疲れ云々を気にしなければ、シャワーで済ますのが妥当だ。なのにお湯を張ったのは、単に垢すりをするにあたり汗をかこうという試みの為だ。今日の夕方の入浴。準備は昨日の夜から始めた。まず顔の産毛処理。髪を丁寧に梳かして埃などを取り除く。左耳の新規ピアスホールをファーストピアスに変更。ついでに手指の爪をスクエアオフに鑢かけし、足の爪を切った。今日は強力なクレンジングクリームとウエットティッシュとクレンジングシートを駆使して顔の汚れを取り除き、その後角質排除のジェルでマッサージ。歯磨きも普段使っている物ではなく、たまにしか使わない脂取り用美白歯磨き粉を使用。首から上を綺麗にし、湯船につかった。自然に腰を落とした状態では狭くて、足が伸ばせないのがちょっとつらいけれどそれは我慢。縁に並べてあるシャンプーなどのバスグッズを退かし、頭を擡げてどうにか足を伸ばす。後焚きはできないのでお湯が温くなってきたら少し流して、その分熱いお湯を追加。それを数度繰り返したけれど、今日はかなり寒かった所為か体が冷えていて汗をかくには至らなかった。仕方がないので発汗を待たずに垢すり開始。
体を洗う順番はいつも、左腕→右腕→上半身前面→上半身背面→尻周り→右足→左足。垢すりのときは上半身背面が最後になる。順番通りに擦ると、何処もかしこも出るわ出るわ、ぽろぽろと。自分の手で届く範囲を済ませてからうちのを呼び、背中をこすってもらった。他者の手による垢すりは自分の手でするよりも気持ちいいものだと、昔は思っていた。間違っていた……。うちのがしてくれる垢すりはぬるい。もっとガシガシ擦って欲しいのに、ちょっと肌に赤味が差してくると終わりにしてしまうのだ。結局は硬い体に鞭して腕を背中に回して、やっとのことで自分でやり直すことになる。それでもどうしても届かない部分はあるので、うちのの協力は有難い。うちのは私の背中を擦りつつ、湯船に浮かんだ老廃物を見つつ、汚い汚い、と騒いでいた。汚い臭い、とうちのが煩いから風呂に入ったのだ。文句を言わないで戴きたい。自分の体臭には鈍くなるもので自身では全く感じないけれど、数日入浴しないでいるとうちのが臭がる。解らん。解らんけれど、臭い、と言うのだから臭いのだろう。私が傍にいないのに寝言で、臭い臭い、とぶつぶつ言っていたこともあった。常の私はそんなに迄も臭いのか……。
垢すり終了後、軽石で肘・膝・足裏をごしごしと擦り、お湯を排水溝に流し湯船を軽く洗ってからプレシャンプー。多めにつけて指の腹でわしわしと洗う。ぽかぽかしてきて気持ちいいけれど、このとき首と肩に相当な負担がかかる。唐辛子成分が入っている為、肌に流れてくると痛いのだ。だから思いっ切り上体を反らしてわしわし。プレシャンプーを洗い流して洗顔をして、ボディブラシで体を洗う。体を洗うにはボディブラシかナイロンタオルに限る、というのが私の持論だ。その他の素材のタオルやスポンジでは洗った気がしない。許容できるその他の素材は精々糸瓜くらいだ。けれどナイロンタオルは肌に宜しくないらしい。なので長年ボディブラシを使用している。このボディブラシにも拘りがあり、馬毛が大半を占めていなければならない。豚毛では柔らかすぎるのだ。馬・豚混毛のやや硬いくらいのコシのある物がいい。ボディブラシに某巨大掲示板某板某スレで教わった、残り香の少ない既に何度もリピートしているボディソープをつけてがしがしと洗う。垢すりの行き届いていない背中は特に念入りに。上半身を洗い終えたところでシャンプー。手指で泡立ててからシャンプーブラシ使用。昔はシャンプーブラシの使用に抵抗があったけれど、今となっては手放せない。指の腹でわしわし+シャンプーブラシでゴシゴシ。このふたつの手順を踏んでやっと頭皮が綺麗になった気になれる。コンディショナーを髪に馴染ませ、先日美容院でやってもらったように頭皮を指圧し、そのまま下半身を洗う。下半身を洗い終えてからコンディショナーを流す。このときはシャンプーを流すときの2〜3倍の時間をかける。そして体の泡を洗い流して、足裏洗浄剤で足の指の間迄、丁寧に手で洗う。最後に顔をもう一度洗い、輪郭周りの髪にもシャワーをかけて入浴終了。
シャワーを止めてタオルを手にしたら、最初に手指の爪に溜まった石鹸滓を取る。そして同じく手指の爪の甘皮を軽く押し、取れる皮は取ってしまう。その後、髪と体の水気を取る。このとき、決してタオルで擦ってはならない。あくまで水気を押さえ取るだけに留める。ここ迄終えてやっと風呂場を出て下着を着けてスキンケアに取り掛かる。今夜のスキンケアは精製水でのカルキ流し→WHでTゾーン拭き取り→ロゼットの無添加化粧液→エテュセのナイトアミュレットパウダー。髪にはアリミノのヘアクリームトリートメント。それからピアスを全て外し、ホール周辺を精製水を染み込ませたコットンで拭き取り、初めて右イヤロブの新規ホールにファーストではないピアスを装着してみた。違和感なし。ホールは無事に完成したと思って良さそうだ。後は閉じないように装着を忘れないようにするだけか。
この日記を書いている最中にうちのが入浴をしてあがってきた。今、布団の上に素っ裸で横たわっている。どうも久々にお湯を張ってつかった所為で心臓に負担がかかり、具合が悪くなったようである。あがるなり、倒れそうになった、死にそう、と呟いていた。途中、私がしてもらっとのと同じように背中の垢すり協力に呼ばれた。言われるままに擦ったところ、痛がられた。通常私が自分で垢すりするときの1/2程度の力しか加えていないのにだ。慣れの問題なのか、うちのの肌が弱いのか、私の肌が頑丈なのか……。うちのの指示通りに力加減を弱めて擦ったのだが、最早それは、擦った、とは言い難い力しか加えられなかった。こんなん、撫でてるだけちゃうんかと。だからか、それとも毎日入浴をしているからか、うちのの背中から垢は殆ど出てこなかった。つまらん。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
体を洗う順番はいつも、左腕→右腕→上半身前面→上半身背面→尻周り→右足→左足。垢すりのときは上半身背面が最後になる。順番通りに擦ると、何処もかしこも出るわ出るわ、ぽろぽろと。自分の手で届く範囲を済ませてからうちのを呼び、背中をこすってもらった。他者の手による垢すりは自分の手でするよりも気持ちいいものだと、昔は思っていた。間違っていた……。うちのがしてくれる垢すりはぬるい。もっとガシガシ擦って欲しいのに、ちょっと肌に赤味が差してくると終わりにしてしまうのだ。結局は硬い体に鞭して腕を背中に回して、やっとのことで自分でやり直すことになる。それでもどうしても届かない部分はあるので、うちのの協力は有難い。うちのは私の背中を擦りつつ、湯船に浮かんだ老廃物を見つつ、汚い汚い、と騒いでいた。汚い臭い、とうちのが煩いから風呂に入ったのだ。文句を言わないで戴きたい。自分の体臭には鈍くなるもので自身では全く感じないけれど、数日入浴しないでいるとうちのが臭がる。解らん。解らんけれど、臭い、と言うのだから臭いのだろう。私が傍にいないのに寝言で、臭い臭い、とぶつぶつ言っていたこともあった。常の私はそんなに迄も臭いのか……。
垢すり終了後、軽石で肘・膝・足裏をごしごしと擦り、お湯を排水溝に流し湯船を軽く洗ってからプレシャンプー。多めにつけて指の腹でわしわしと洗う。ぽかぽかしてきて気持ちいいけれど、このとき首と肩に相当な負担がかかる。唐辛子成分が入っている為、肌に流れてくると痛いのだ。だから思いっ切り上体を反らしてわしわし。プレシャンプーを洗い流して洗顔をして、ボディブラシで体を洗う。体を洗うにはボディブラシかナイロンタオルに限る、というのが私の持論だ。その他の素材のタオルやスポンジでは洗った気がしない。許容できるその他の素材は精々糸瓜くらいだ。けれどナイロンタオルは肌に宜しくないらしい。なので長年ボディブラシを使用している。このボディブラシにも拘りがあり、馬毛が大半を占めていなければならない。豚毛では柔らかすぎるのだ。馬・豚混毛のやや硬いくらいのコシのある物がいい。ボディブラシに某巨大掲示板某板某スレで教わった、残り香の少ない既に何度もリピートしているボディソープをつけてがしがしと洗う。垢すりの行き届いていない背中は特に念入りに。上半身を洗い終えたところでシャンプー。手指で泡立ててからシャンプーブラシ使用。昔はシャンプーブラシの使用に抵抗があったけれど、今となっては手放せない。指の腹でわしわし+シャンプーブラシでゴシゴシ。このふたつの手順を踏んでやっと頭皮が綺麗になった気になれる。コンディショナーを髪に馴染ませ、先日美容院でやってもらったように頭皮を指圧し、そのまま下半身を洗う。下半身を洗い終えてからコンディショナーを流す。このときはシャンプーを流すときの2〜3倍の時間をかける。そして体の泡を洗い流して、足裏洗浄剤で足の指の間迄、丁寧に手で洗う。最後に顔をもう一度洗い、輪郭周りの髪にもシャワーをかけて入浴終了。
シャワーを止めてタオルを手にしたら、最初に手指の爪に溜まった石鹸滓を取る。そして同じく手指の爪の甘皮を軽く押し、取れる皮は取ってしまう。その後、髪と体の水気を取る。このとき、決してタオルで擦ってはならない。あくまで水気を押さえ取るだけに留める。ここ迄終えてやっと風呂場を出て下着を着けてスキンケアに取り掛かる。今夜のスキンケアは精製水でのカルキ流し→WHでTゾーン拭き取り→ロゼットの無添加化粧液→エテュセのナイトアミュレットパウダー。髪にはアリミノのヘアクリームトリートメント。それからピアスを全て外し、ホール周辺を精製水を染み込ませたコットンで拭き取り、初めて右イヤロブの新規ホールにファーストではないピアスを装着してみた。違和感なし。ホールは無事に完成したと思って良さそうだ。後は閉じないように装着を忘れないようにするだけか。
この日記を書いている最中にうちのが入浴をしてあがってきた。今、布団の上に素っ裸で横たわっている。どうも久々にお湯を張ってつかった所為で心臓に負担がかかり、具合が悪くなったようである。あがるなり、倒れそうになった、死にそう、と呟いていた。途中、私がしてもらっとのと同じように背中の垢すり協力に呼ばれた。言われるままに擦ったところ、痛がられた。通常私が自分で垢すりするときの1/2程度の力しか加えていないのにだ。慣れの問題なのか、うちのの肌が弱いのか、私の肌が頑丈なのか……。うちのの指示通りに力加減を弱めて擦ったのだが、最早それは、擦った、とは言い難い力しか加えられなかった。こんなん、撫でてるだけちゃうんかと。だからか、それとも毎日入浴をしているからか、うちのの背中から垢は殆ど出てこなかった。つまらん。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
賭博とファッション
2004年4月3日 メイク・ファッション・ピアス ここ最近、ツキがない。麻雀で負け続けている。リアルでの雀荘の話ではなく、ネット雀荘である東風荘での話だ。昨日は白・中をポンしている相手にまさかと思いつつ河に1枚發が出ていることのみを頼りに切ったら……大三元命中。ちゅどーん。東風荘では三麻ばかりをしている。4人麻雀でかかる時間がネットを介してだととても長く感じるからだ。それでも雀荘でメンバーをしていた頃は、リアルでは四麻・ネットでは三麻と使い分けられていた。今の私は三麻専門。リアルで4人麻雀をやったとしても勝てる気がしない。混一と一通が得意になり、三色を作ることが気の遠くなる作業に思えてしまう。こんなところでもフツーのニチジョーへの復帰への不安を感じる。三麻専門の雀荘があれば……ってあったところで行く金はないのだが。雀荘にフリーで入る。卓に着いた当初は相手の強さが解らない。しかし東風荘ではRという麻雀偏差値のようなものが最初から表示されており、相手の強さが数値として把握できる。これがまた悔しい。自分よりRの高い相手に負けるのならまだ納得もできるとして、低い相手に負けると悔しさ倍増。登録して最初に与えられるRは1500。私は今、それよりもほんの少しだけ高い値で行ったりきたりしている。一時期は1600迄上がったけれど、どう考えてもあの時期にツイていただけであり、その数値は私の実力を表したものではなかった。そもそも私は麻雀が下手なのだ。メンバーとして働いていた頃にお客さんにもらえた褒め言葉は、真っ直ぐな麻雀を打つね、だった。要は河を気にせず、自分の作りたい役にまっしぐら、ということであり、いいカモだった訳である。私が打っていたのは点5のみ。ピンになるとレート負けしてしまうからだ。そして所謂ギャル雀ではなく一般的な雀荘だった為、卓代も負け分も自腹。週に5日、出勤日は約8時間働いて月給1万円。1年弱働いてうちのから、それは働いているとは言わない、とのお達しが出て辞めた。趣味を仕事にするのは諸刃の剣である。特に賭博関係は。
さっき昼寝をしていて夢を見た。閉店間際のパチ屋に1000円札一枚を持って入り、台を探して店内をうろうろするという内容だった。好きだった仕事人シリーズは全て撤去されており、なにやら知らない台が大半を占めている。海物語は残ってはいるものの釘の配置がかつての海物語りシリーズと全く違うリニューアルした物ばかりだった。現実には、先日映画に行くときにパチ屋を覗いた限りでは私が打っていた海物語は健在だったのに。夢の中で台を探している間に店は閉まってしまった。ハイ、帰った帰った、と言われんばかりの追い出されっぷり。閉店間際だったから仕方がなかったけれど、あわよくば何処かの台に5分でも腰を落ち着けて確変を引いて保障分をもらおうと目論んでいたのだ。夢の中でも私は浅ましい人間だった。雀荘通いはもとより、パチ屋からも足を洗って既に半年以上が経つ。普段の生活の中で博打欲求に駆られることは殆どなくなってきた。なのにこの夢。私は番地欲求が消え失せた訳ではなく、無理矢理押さえ込んで生きているのかもしれない。自分の稼ぎがない現状で博打はいけない。半年ちょっと前にパチから足を洗ったのは、うちのの貯金を使い込んだのがバレたからだ。稼げるようになる迄、このまま欲求を押さえ込んで生活しなければ、と夢を見て改めて心を戒めた。元々パチは好きな賭博ではないし、東風荘があるのが救いだ。
某ファッション雑誌を捲っていると、春の新商品としてサイラスのペンダントがふたつ掲載されていた。そのうちのひとつのモチーフがチーピン。欲しい! 猛烈に欲しい! が、一体チーピンモチーフのペンダントをつけて何処に出掛けるのか。思いつくのは雀荘だけだ。麻雀をしない婦女子ならただのモチーフとして捉えられようが、麻雀好きな私にはチーピンはチーピンでしかない。ペンチャン待ちうずうずの対象でしかない。……私がつけるととても邪悪な念が篭りそうである。購入は見送るのが吉とみた。それにしても。牌をモチーフにしてくるなんて、ファッション業界もいよいよネタ切れなのだろうか。一般的に賭博は良からぬものという風潮が未だ根強い。それを敢えて持ってきたのは何故か。サイラスのデザイナーが雀キチという可能性もなくはないけれど、それでも精々モチーフにするならイーソウだろう。チーピンにした理由が解らない。そんなことを詮索することが野暮なのは承知。でも麻雀好きには気になるものなのだ。昔、ファビラスラフインで取った馬券を換金し、馬モチーフのシルバーピアスを購入したことがある。今もたまにつけている。馬モチーフはアリだと思う。エルメスだって元は乗馬道具屋であり、今も馬モチーフは健在だ。けれどチーピン……。同じ賭博ながら、そこには大きな違いがある。
同雑誌を見ていて、気になった商品が幾つかあった。その中のひとつが、赤ピンクのタンクトップ。プリントは煙草を吸う猫のシルエット。かわいい。チェーンスモーカな私は、PCに向っているときと賭博に熱中しているとき、煙草の本数が異常に増える。煙草とは、集中力を要するときにその場から離れずに気を逸らす道具でもあるのだ。そのタンクトップも手が出ない値段ではない。欲しい。ネットオークションやフリーマーケットや店頭とは違い雑誌を見ながら、この服またはアクセサリーが欲しいなあ、と考えるとき、さてこれを買ったとして着たとして何処に出掛けるのが相応しいか、と考える。チーピンネックレスをつけたら、きっと迷わず雀荘に足を向けてしまうだろう。喫煙猫のタンクトップでも何処かしらの鉄火場に行ってしまいそうだ。……雑誌を参考に服装を考えるのは私には適していないのかもしれない。ああ! そうだ。服は暫く買い控えようと去年決めたではないか! 先日のフリマで早速破ってしまったけれど。また衣類を処分しなければ、と先日の日記でも書いた。今、処分を考えている衣類。毛足の短い起毛素材の服を幾つか。小動物がいて掃除も余りせずという家に於いて、その手の素材の服を綺麗に管理することは困難だとやっと気付いた。そのうち片付けよう。そのうち……。
さっき昼寝をしていて夢を見た。閉店間際のパチ屋に1000円札一枚を持って入り、台を探して店内をうろうろするという内容だった。好きだった仕事人シリーズは全て撤去されており、なにやら知らない台が大半を占めている。海物語は残ってはいるものの釘の配置がかつての海物語りシリーズと全く違うリニューアルした物ばかりだった。現実には、先日映画に行くときにパチ屋を覗いた限りでは私が打っていた海物語は健在だったのに。夢の中で台を探している間に店は閉まってしまった。ハイ、帰った帰った、と言われんばかりの追い出されっぷり。閉店間際だったから仕方がなかったけれど、あわよくば何処かの台に5分でも腰を落ち着けて確変を引いて保障分をもらおうと目論んでいたのだ。夢の中でも私は浅ましい人間だった。雀荘通いはもとより、パチ屋からも足を洗って既に半年以上が経つ。普段の生活の中で博打欲求に駆られることは殆どなくなってきた。なのにこの夢。私は番地欲求が消え失せた訳ではなく、無理矢理押さえ込んで生きているのかもしれない。自分の稼ぎがない現状で博打はいけない。半年ちょっと前にパチから足を洗ったのは、うちのの貯金を使い込んだのがバレたからだ。稼げるようになる迄、このまま欲求を押さえ込んで生活しなければ、と夢を見て改めて心を戒めた。元々パチは好きな賭博ではないし、東風荘があるのが救いだ。
某ファッション雑誌を捲っていると、春の新商品としてサイラスのペンダントがふたつ掲載されていた。そのうちのひとつのモチーフがチーピン。欲しい! 猛烈に欲しい! が、一体チーピンモチーフのペンダントをつけて何処に出掛けるのか。思いつくのは雀荘だけだ。麻雀をしない婦女子ならただのモチーフとして捉えられようが、麻雀好きな私にはチーピンはチーピンでしかない。ペンチャン待ちうずうずの対象でしかない。……私がつけるととても邪悪な念が篭りそうである。購入は見送るのが吉とみた。それにしても。牌をモチーフにしてくるなんて、ファッション業界もいよいよネタ切れなのだろうか。一般的に賭博は良からぬものという風潮が未だ根強い。それを敢えて持ってきたのは何故か。サイラスのデザイナーが雀キチという可能性もなくはないけれど、それでも精々モチーフにするならイーソウだろう。チーピンにした理由が解らない。そんなことを詮索することが野暮なのは承知。でも麻雀好きには気になるものなのだ。昔、ファビラスラフインで取った馬券を換金し、馬モチーフのシルバーピアスを購入したことがある。今もたまにつけている。馬モチーフはアリだと思う。エルメスだって元は乗馬道具屋であり、今も馬モチーフは健在だ。けれどチーピン……。同じ賭博ながら、そこには大きな違いがある。
同雑誌を見ていて、気になった商品が幾つかあった。その中のひとつが、赤ピンクのタンクトップ。プリントは煙草を吸う猫のシルエット。かわいい。チェーンスモーカな私は、PCに向っているときと賭博に熱中しているとき、煙草の本数が異常に増える。煙草とは、集中力を要するときにその場から離れずに気を逸らす道具でもあるのだ。そのタンクトップも手が出ない値段ではない。欲しい。ネットオークションやフリーマーケットや店頭とは違い雑誌を見ながら、この服またはアクセサリーが欲しいなあ、と考えるとき、さてこれを買ったとして着たとして何処に出掛けるのが相応しいか、と考える。チーピンネックレスをつけたら、きっと迷わず雀荘に足を向けてしまうだろう。喫煙猫のタンクトップでも何処かしらの鉄火場に行ってしまいそうだ。……雑誌を参考に服装を考えるのは私には適していないのかもしれない。ああ! そうだ。服は暫く買い控えようと去年決めたではないか! 先日のフリマで早速破ってしまったけれど。また衣類を処分しなければ、と先日の日記でも書いた。今、処分を考えている衣類。毛足の短い起毛素材の服を幾つか。小動物がいて掃除も余りせずという家に於いて、その手の素材の服を綺麗に管理することは困難だとやっと気付いた。そのうち片付けよう。そのうち……。
昨日、母親と電話で話した。私の名前について。親子関係云々はさて置いて、どうしてああも仕事運を重視した命名候補が挙がっていたのか。それは誰の意思だったのか。回答。あの命名候補は伯母の意思で挙げられた候補だったらしい。そして父母らは別にいろいろな名前を考えていたらしい。そちらは記録保存なし。親曰く、仕事運について重視した名前ではなく強運を持ち合わせた名前が候補として挙げられた、とのこと。そしていろいろ考えていたけれど、実の父親は伯母に渡された候補一覧を見て、G(先日の日記参照)に閃きを感じたとかでこの名前がつけられたとか。言葉を柔らかくしつつ、もっとこう幸せにとかって願いを込めた名前が欲しかったんだけど、そういうのよりも運が重視されたってことなの? その後の親の返事にちょっとしたカルチャー・ショックを与えられた。運がなければ幸せにもなれないでしょう? 例えば優しい子にって願いを込めて、優子、とつけても優しいだけじゃ世の中を渡っていけないでしょう? でも運が強いってことは、全てを含めているってことじゃない? ふむ。そういう考え方もあるか。要するに、様々な願いを込めに込めて、やはり運がなければどうにもならないという結論に達して、この名前になったらしい。しかし親が、運、などと不確かなものに願いを託していたとは驚いた。親は、でも運だけでなく努力も必要だけど、と付け加えてはいたが。この由来を覚えていた親は、私の進学と就職の際に、やはりこの子は強運の持ち主なのだなあ、と思っていたらしい。高学歴とされる学校には進めなかったし、一流とは言えない会社に就職することにはなったものの、碌すっぽ勉強もしていないのに平均レベルの学校・職場にストレートで進めたから。尤もその後の仕事運はぐだぐだな訳だが。
この命名候補の紙、親は私が22〜23歳で結婚するときに渡そうと思っていたようだ。その頃は結婚どころではなくヤリまくっていた時期だ……。そしていつになったらその機会が来ることやら、と伺っていたけれど、挙句親が反対する相手との結婚がほぼ確定となり先日渡してくれるに至ったらしい。この話が出て、うちのの親姉妹にも結婚を反対されているようだ、と少しだけ話した。親曰く、うちの(仮名)とあんたの結婚には今もやっぱり反対、だから結婚するとしてもこちらから何もする気はない、それでもあんたは私の子には変わりないんだからあんた個人とは付き合いを続けたい、と。願わくば、うちのの親姉妹とうちのの距離もこのようになってくれればいいのだが。どちらの親も別の意味でちょっと面倒な親であり、うちのも私もお互いの親には極力関わりたくないと思っている。そしてこのような関係が築ければ、世で言う嫁姑婿舅ごちゃごちゃの問題は避けられるであろう。反対されることでいいこともありそうな気がしている昨今である。
名前という記号の話に戻して。名前とは記号である。その記号で他者との識別を図る。記号は記号でしかない。黒柳徹子の著書で昔読んだ一文が印象に残っている。読んだのが昔なので原文ままではないけれど、彼女が芸名を考えようと思っていたときに他者に言われた言葉。貴女の名前が□△○×子でも、貴女がちゃんと仕事をしていれば覚えてくれる人はちゃんと覚えてくれる。名前なんて記号でしかない、という話の極論だ。そしてそれは正しい。他者との識別さえできれば、名前という記号は充分に役割を果たしていることになる。が。現実に生きている者としては、そこに自分がこの世に存在したときに願った親の気持ちが入っている。記号に意味を見出すことはくだらないことなのだろうか。机は机、椅子は椅子。この命名の由来を辿るのは簡単ではない。だから大抵の人はあるがままの記号として受け入れる。それに比べて自分の名前の由来を辿るのは簡単である。簡単故に辿りたくなるのか。それに辿った末に見つけられた意味と、その名前を名乗りつつ生きている自分に直結した、何か、は見出せるのか。見出せまい。精々、名前に込められた願い通りの人間になっているか、そうではないと解るだけか、だ。作家によっては、作品の登場人物にストーリーに関わる何かしらの暗示を込めた名前をつける。私の卒論でも取扱った。極端なことを言えば、小説の中の登場人物などA、B、C……と書かれていても大して問題はない。それでも作者は名前をつける。名前という概念が根付いた世の中に生きる人間にリアリティを持たせる為だけではない。私が卒論で扱った小説は、名前、という概念に疑問を呈するものだった。それでも違和感と矛盾を含有しつつ名前の存在はあった。名前という記号の意味。その答えを私はまだ見つけられてはいない。
うちのの名前は苗字と絡めた駄洒落のような、とても前向きな名前である。しかし一時期は裏街道まっしぐら。私の名前も前向きな名前。それでも私のだらしない性分と相俟って、名は体を現すだね〜としょうもない洒落のように思われ易い。お互いに親の期待を裏切りまくってこの人生を生きている。昨日ふたりでそんな話をしつつ笑った。そして私の中で、やはり名前は記号でしかない、との思いを強くした。同姓の人間は沢山いる。同名の人間も少ないかもしれないけれどいるだろう。偶然にも同姓同名の人と出会ったとき、記号は記号としての役割をちゃんと果たせるだろうか。果たせまい。名前もメタなのだ。また私の名前は字を間違えられ易い。以前の苗字も間違えられ易い字だった。一字違うだけならまだしも、4つの漢字のうちの2字を間違えられてしまうと、既にその表記された名前は、私を表す記号としての役割は担えない、と考える。記号とはときとしてアイデンティティとも深く関わる。だから私は人名表記の間違いには過敏になる。当然のことだと思っている。けれど世の中には人の名前を軽々しく扱う者もいる。その手の者は他者を尊重できない、もっと言えば他者の尊厳を軽々しく踏み躙る者、と私は考えている。そんな権利は誰にもない。たかが記号、されど記号。人名程、そのものが主張をする記号はないのではなかろうか。何故、記号がこうも主張をするのか。これからも私が追い続けるテーマだろう。
BGM/「Black Sabbath」「N.I.B」「Paranoid」など
この命名候補の紙、親は私が22〜23歳で結婚するときに渡そうと思っていたようだ。その頃は結婚どころではなくヤリまくっていた時期だ……。そしていつになったらその機会が来ることやら、と伺っていたけれど、挙句親が反対する相手との結婚がほぼ確定となり先日渡してくれるに至ったらしい。この話が出て、うちのの親姉妹にも結婚を反対されているようだ、と少しだけ話した。親曰く、うちの(仮名)とあんたの結婚には今もやっぱり反対、だから結婚するとしてもこちらから何もする気はない、それでもあんたは私の子には変わりないんだからあんた個人とは付き合いを続けたい、と。願わくば、うちのの親姉妹とうちのの距離もこのようになってくれればいいのだが。どちらの親も別の意味でちょっと面倒な親であり、うちのも私もお互いの親には極力関わりたくないと思っている。そしてこのような関係が築ければ、世で言う嫁姑婿舅ごちゃごちゃの問題は避けられるであろう。反対されることでいいこともありそうな気がしている昨今である。
名前という記号の話に戻して。名前とは記号である。その記号で他者との識別を図る。記号は記号でしかない。黒柳徹子の著書で昔読んだ一文が印象に残っている。読んだのが昔なので原文ままではないけれど、彼女が芸名を考えようと思っていたときに他者に言われた言葉。貴女の名前が□△○×子でも、貴女がちゃんと仕事をしていれば覚えてくれる人はちゃんと覚えてくれる。名前なんて記号でしかない、という話の極論だ。そしてそれは正しい。他者との識別さえできれば、名前という記号は充分に役割を果たしていることになる。が。現実に生きている者としては、そこに自分がこの世に存在したときに願った親の気持ちが入っている。記号に意味を見出すことはくだらないことなのだろうか。机は机、椅子は椅子。この命名の由来を辿るのは簡単ではない。だから大抵の人はあるがままの記号として受け入れる。それに比べて自分の名前の由来を辿るのは簡単である。簡単故に辿りたくなるのか。それに辿った末に見つけられた意味と、その名前を名乗りつつ生きている自分に直結した、何か、は見出せるのか。見出せまい。精々、名前に込められた願い通りの人間になっているか、そうではないと解るだけか、だ。作家によっては、作品の登場人物にストーリーに関わる何かしらの暗示を込めた名前をつける。私の卒論でも取扱った。極端なことを言えば、小説の中の登場人物などA、B、C……と書かれていても大して問題はない。それでも作者は名前をつける。名前という概念が根付いた世の中に生きる人間にリアリティを持たせる為だけではない。私が卒論で扱った小説は、名前、という概念に疑問を呈するものだった。それでも違和感と矛盾を含有しつつ名前の存在はあった。名前という記号の意味。その答えを私はまだ見つけられてはいない。
うちのの名前は苗字と絡めた駄洒落のような、とても前向きな名前である。しかし一時期は裏街道まっしぐら。私の名前も前向きな名前。それでも私のだらしない性分と相俟って、名は体を現すだね〜としょうもない洒落のように思われ易い。お互いに親の期待を裏切りまくってこの人生を生きている。昨日ふたりでそんな話をしつつ笑った。そして私の中で、やはり名前は記号でしかない、との思いを強くした。同姓の人間は沢山いる。同名の人間も少ないかもしれないけれどいるだろう。偶然にも同姓同名の人と出会ったとき、記号は記号としての役割をちゃんと果たせるだろうか。果たせまい。名前もメタなのだ。また私の名前は字を間違えられ易い。以前の苗字も間違えられ易い字だった。一字違うだけならまだしも、4つの漢字のうちの2字を間違えられてしまうと、既にその表記された名前は、私を表す記号としての役割は担えない、と考える。記号とはときとしてアイデンティティとも深く関わる。だから私は人名表記の間違いには過敏になる。当然のことだと思っている。けれど世の中には人の名前を軽々しく扱う者もいる。その手の者は他者を尊重できない、もっと言えば他者の尊厳を軽々しく踏み躙る者、と私は考えている。そんな権利は誰にもない。たかが記号、されど記号。人名程、そのものが主張をする記号はないのではなかろうか。何故、記号がこうも主張をするのか。これからも私が追い続けるテーマだろう。
BGM/「Black Sabbath」「N.I.B」「Paranoid」など
椅子新調とカースト
2004年4月1日 例のアレに新ドラマー加入の話ではなく、私のPCデスク用の椅子が新しくなった話。先日フリーマーケットにて800円で購入した椅子を、父親に都内某所迄車で持ってきてもらい、ついでに喫茶店でケーキをふたつもご馳走になって受け取ってきたのだ。800円で購入と言えど、タクシー代を鑑みると2000円程の椅子になってしまった訳だが。それでも2000円以上の価値ある木製のしっかりした椅子であり、安定感も抜群。中古だけれど傷みは殆どない。新品同然。惜しむらくは、後3cm椅子の幅が狭ければいいのに。そうすればデスクの下に丁度収まるのだ。またはタワーがもっと小さければ……いや、戴き物のPCに文句をつけてはならない。それにしても今迄座っていた椅子はなんて劣悪なものだったのだろう。今日の昼間迄使っていた椅子は、座るには劣悪な飾り椅子だったのだ。木製で背凭れ部分が猫の形になっている小さめの三脚椅子。とても可愛くお気に入りなのでこれはこれで取っておく。うちのが使っていたガタがきていたボロ椅子は処分。と思っていたけれど、方針変更。ボロ椅子はベランダ用にすることにした。うちのベランダは狭く日当たりも悪く、洗濯物を干せばもう立つ場所もないくらいなのだけれど、草食動物に外の空気を吸わせる際に監視用としてボロ椅子を使おうかと。立ちっ放しで気侭なケモノを見続けるのはしんどいのだ。
この草食動物の小屋を少し前に模様替えした。木の大きなすのこを半分の大きさの竹のすのこに変更。水入れを餌入れと同じ形の物から小屋に取り付けるタイプのボトルに。すのこは変更して良かった模様。問題はボトルだ。やっぱりこのタイプのボトルはダメなのか。このタイプのボトルと書いても、小動物を飼っていない人には判りにくいと思うので解説。飲み口が金属の筒になっており、その筒の中に同じ金属のボールが入っていて、小動物が下でそのボールを動かすことで外付けのボトルから気圧・水圧の関係から水が出てくるという物。どうやらうちの草食動物はこのボトルからの水の飲み方が下手らしい。気付くと小屋の床が水浸しになっており、草食動物はとても居心地悪そうにしている。おまけに水浸しなのをいいことにトイレではない場所で小用をしてしまったり。これで昨日、酷い目に遭った。水浸しになった小屋に気付いて掃除しようとし、すのこを取り出した。草食動物は小屋の中。跳ねた。水と小水の混ざったものが飛び散った。私の左目に入った……。この小動物の小水には石灰分が多く含まれており何かあったらどうしようと不安になったけれど、目薬を差して一晩寝たが何ともなっておらずやや違和感を感じる程度なので大丈夫だろう。すのこを小さくしたので干草の無駄が減って良き哉、良き哉。しかも掃除し易くなったことで掃除の回数も増え、小屋に手を入れる回数が増えた分だけ草食動物とスキンシップを取る回数も増え、やっと草食動物と仲良くなれてきた気がする。ここ迄5年。長かった。これからはもっと仲良くしよう。
そうなると今度は雑食動物が嫉妬してくる。雑食動物は常に自分がちやほやされていなければ気が済まない姫なので、草食動物ばかりに構っていると、雑食が草食を虐めるようになってしまう。雑食にもちょっかいを出さなければならない。雑食と私の最近の遊びは、雑食vs私の手、だ。私の手を敵に見立てさせてちょっかいを出させる。襲わせたり、押さえさせたり、甘噛みさせたり。一方的にやらせるのではなく、手を出したり引っ込めたりして駆け引きさせる。かぷかぷと噛まれたり、ぷよぷよの肉球で押さえられるとちょっと嬉しくなる。雑食から私への愛情を感じるのだ。しかしこれは序盤だけ。雑食が本気になってきたら噛み方も強くなり、爪でざくっとやられることになる。これがまた痛い。しかも爪で刺されたり引っかかれたりした部分は痛痒く赤くなって腫れる。洗剤などにも沁みるようになり、日常生活に支障が出る。なので本気になったら終わり。この間も雑食が本気になってきたのでやめた〜とうちのと話し込んでいて、暫くしてからふと雑食を見ると、まだ待っていた。溜め、長過ぎ! 放置しようと思ったけれど、姫の下僕である私はうちのに突付かれて引き続き雑食の遊び相手に。うちのがいなければそのまま放っとくのだが、うちのが、遊んでやれ、と煩い。遊んでいる間に引っかかれたり勢い余って手をテーブルの足にぶつけたりしても、だ。私の体よりも雑食の楽しみを優先しろ、と……。やっぱりうちのカーストは、雑食>うちの>草食>私、だ。どうにか雑食=草食>うちの=私、にはならないものか。……ならないんだろうな。動物らを可愛がってくれるのと同程度に私も可愛がってもらいたい、ともう4年も願っているのに、カーストに変化が生じる気配はない。うちは印度か。
今日の夕飯は、炊き立て白ご飯、韮・茄子・生きくらげ・海老の中華炒め、湯葉の海老すり身ふわふわ包み、胡瓜と春若布の青紫蘇ドレッシング和え、おから。それにうちのにだけあさりの味噌汁。中華炒めは、クック・ドゥの酢豚用ソースを使用。海老料理なのに敢えて海老チリソースを使わずに甘く仕上げたところがポイント。どうかな〜と恐る恐る食卓に出したけれど、とても好評で一安心。うちのが感動していたのは、おから、だった。うちにこんな料理が出てくるなんて、と。おからを出したのは初めてではないのだが……。少し前迄は、主食、おかず、汁物しか出さなかった私が、ここのところ箸休めを出すようになったことに感動している模様。生協様様だ。うちのも子供の頃は、箸休めなんか要らないからボリュームあるおかずを欲していたらしい。けれどそれは叶わなかったとか。大人になってから箸休めが欲しくなったらしく、少し前迄の私の料理には物足りなさを感じていたらしい。子供の頃の話を聞き、当時の夢が叶い、更に最近は欲している箸休めも出されるようになり万々歳ではないか、感謝しろ、と思ったり思わなかったり。私自身は箸休めは食卓必須とは考えていない。むしろ出すのが面倒なのだが、うちのが常々要求してくるのでそれに応えるようになったのだ。持ちつ持たれつ。
BGM/「僕の宗教にようこそ」「きのこパワー」「労働者M」など
この草食動物の小屋を少し前に模様替えした。木の大きなすのこを半分の大きさの竹のすのこに変更。水入れを餌入れと同じ形の物から小屋に取り付けるタイプのボトルに。すのこは変更して良かった模様。問題はボトルだ。やっぱりこのタイプのボトルはダメなのか。このタイプのボトルと書いても、小動物を飼っていない人には判りにくいと思うので解説。飲み口が金属の筒になっており、その筒の中に同じ金属のボールが入っていて、小動物が下でそのボールを動かすことで外付けのボトルから気圧・水圧の関係から水が出てくるという物。どうやらうちの草食動物はこのボトルからの水の飲み方が下手らしい。気付くと小屋の床が水浸しになっており、草食動物はとても居心地悪そうにしている。おまけに水浸しなのをいいことにトイレではない場所で小用をしてしまったり。これで昨日、酷い目に遭った。水浸しになった小屋に気付いて掃除しようとし、すのこを取り出した。草食動物は小屋の中。跳ねた。水と小水の混ざったものが飛び散った。私の左目に入った……。この小動物の小水には石灰分が多く含まれており何かあったらどうしようと不安になったけれど、目薬を差して一晩寝たが何ともなっておらずやや違和感を感じる程度なので大丈夫だろう。すのこを小さくしたので干草の無駄が減って良き哉、良き哉。しかも掃除し易くなったことで掃除の回数も増え、小屋に手を入れる回数が増えた分だけ草食動物とスキンシップを取る回数も増え、やっと草食動物と仲良くなれてきた気がする。ここ迄5年。長かった。これからはもっと仲良くしよう。
そうなると今度は雑食動物が嫉妬してくる。雑食動物は常に自分がちやほやされていなければ気が済まない姫なので、草食動物ばかりに構っていると、雑食が草食を虐めるようになってしまう。雑食にもちょっかいを出さなければならない。雑食と私の最近の遊びは、雑食vs私の手、だ。私の手を敵に見立てさせてちょっかいを出させる。襲わせたり、押さえさせたり、甘噛みさせたり。一方的にやらせるのではなく、手を出したり引っ込めたりして駆け引きさせる。かぷかぷと噛まれたり、ぷよぷよの肉球で押さえられるとちょっと嬉しくなる。雑食から私への愛情を感じるのだ。しかしこれは序盤だけ。雑食が本気になってきたら噛み方も強くなり、爪でざくっとやられることになる。これがまた痛い。しかも爪で刺されたり引っかかれたりした部分は痛痒く赤くなって腫れる。洗剤などにも沁みるようになり、日常生活に支障が出る。なので本気になったら終わり。この間も雑食が本気になってきたのでやめた〜とうちのと話し込んでいて、暫くしてからふと雑食を見ると、まだ待っていた。溜め、長過ぎ! 放置しようと思ったけれど、姫の下僕である私はうちのに突付かれて引き続き雑食の遊び相手に。うちのがいなければそのまま放っとくのだが、うちのが、遊んでやれ、と煩い。遊んでいる間に引っかかれたり勢い余って手をテーブルの足にぶつけたりしても、だ。私の体よりも雑食の楽しみを優先しろ、と……。やっぱりうちのカーストは、雑食>うちの>草食>私、だ。どうにか雑食=草食>うちの=私、にはならないものか。……ならないんだろうな。動物らを可愛がってくれるのと同程度に私も可愛がってもらいたい、ともう4年も願っているのに、カーストに変化が生じる気配はない。うちは印度か。
今日の夕飯は、炊き立て白ご飯、韮・茄子・生きくらげ・海老の中華炒め、湯葉の海老すり身ふわふわ包み、胡瓜と春若布の青紫蘇ドレッシング和え、おから。それにうちのにだけあさりの味噌汁。中華炒めは、クック・ドゥの酢豚用ソースを使用。海老料理なのに敢えて海老チリソースを使わずに甘く仕上げたところがポイント。どうかな〜と恐る恐る食卓に出したけれど、とても好評で一安心。うちのが感動していたのは、おから、だった。うちにこんな料理が出てくるなんて、と。おからを出したのは初めてではないのだが……。少し前迄は、主食、おかず、汁物しか出さなかった私が、ここのところ箸休めを出すようになったことに感動している模様。生協様様だ。うちのも子供の頃は、箸休めなんか要らないからボリュームあるおかずを欲していたらしい。けれどそれは叶わなかったとか。大人になってから箸休めが欲しくなったらしく、少し前迄の私の料理には物足りなさを感じていたらしい。子供の頃の話を聞き、当時の夢が叶い、更に最近は欲している箸休めも出されるようになり万々歳ではないか、感謝しろ、と思ったり思わなかったり。私自身は箸休めは食卓必須とは考えていない。むしろ出すのが面倒なのだが、うちのが常々要求してくるのでそれに応えるようになったのだ。持ちつ持たれつ。
BGM/「僕の宗教にようこそ」「きのこパワー」「労働者M」など
恋愛障害者
2004年3月31日 家族・メンヘル・健康など 現在4月1日。
ここ数日、某巨大掲示板某板某女人禁制スレの纏めサイトを読み耽り。童貞毒男の中にはダンゴムシとして生きることをモットーとしている方も多いようで……。何やらその方々は、キモイ、だのという言葉を常日頃から浴びているらしい。私はこの、キモイ、という言葉が嫌いだ。気心知れている人に言ったこともなければ、当然ながら見知らぬ他人にそんな言葉をぶつけたことがない。失礼にも程がある。キモイ=気持ち悪い、なんて言葉は、「さくらの唄」の仲村真理くらいの目に遭ってからでないといってはならない言葉だと思っている。しかし彼らにとってはこのような言葉の暴力を受けることは日常であり、あまつさえそれは自分の存在そのものが他者に迷惑に思われるものだから致し方なし、などと考えている模様。ここで、努力すればどうにでもなるって! といったポジティヴ思考は毛嫌いされている。彼らはどんなに努力しようとも、女性に好かれることはおろかフツーに接せられることもないとか。不思議なのは、キモイ、と言われて彼らがそのまま凹んでしまうところだ。そんな言葉を平気で使う人間は男女を問わず歪んだ人間である。断言する。なのに言霊に囚われて、ひたすらに我が身を縮ませて生活しているようだ。女性に近付かないように、不快感を与えないように。ただただ自分が傷つかないようにする為の自己防衛。ネガティヴ方向への積極性には感動を覚えんばかりだった。そんな彼らの嘆きの体験談や悟りに近い文章を読み、私は十数年前の自分を思い出した。といっても、同じような心構えでいた訳ではない。彼らの殆どが容姿に只ならぬコンプレックスを持っており、私もその点では同じだったからだ。
十数年前……中高生だった頃である。小学生の頃からクラスでも浮いた存在であり、それは中・高と上がるに連れて浮き具合も目立つようになっていた。ちょっとした虐めにあったこともある。肉体的暴力はなかったけれど言葉の暴力はあり、また私が教室に入っただけで空気が変わることを身に沁みて感じ取れてしまったこともあった。群れたがる女子はまず私のことを怪訝な目で観察し、同類ではないと見做すと今度は隔離しようとしてくる。その際、群れている女子グループと仲の良い男子グループも一緒になり、その数はクラスの半分程になったりする。回避性の気が当時からあったのか、莫迦にされたり無視されたりして多少落ち込むことはあっても私自身を変えようとは思わなかった。自分に問題があるとは思わずに俯瞰して、あんな連中に染まりたくない、と迎合することなく過ごした。集団でなければ何もできない人間は昔も今も嫌いである。振り返れば、当時の私は無自覚にして只ならぬ問題を抱えており、今その問題は歪ではあれ改善されているよう他者に見せられるようにはなった。問題とは協調性のなさである。協調と迎合の違いが未だによく判らない。少々不便はあるけれど、当時よりも悪い方向に達観しているので気にしない。そしてこんな環境だったので、モテには程遠い存在だった。それも当時はいいと思っていた。色恋に現を抜かすのは莫迦だ。
と、自分に嘘をついていた。色恋云々には興味津々であり耳年増であり。恋愛至上主義の世の中を斜に構えて莫迦だと一刀両断しつつ憧れが捨て切れなかった。そして努力した。10人並み程度の容姿を持っていて且つ若い女性に、男性はいとも簡単に落ちる。その事実を知ってしまったが最後、落とす、という行動をして実を結ぶことが楽しくなってしまった。もっと落としたい、となり容姿にも気を遣うようになった。すると容姿についてお褒めの言葉を戴ける迄に成長した。学生時代の私、それはもう不細工だった。それでも落ちる男がいるのだから、磨けばもっと落とし易くなるだろう……。ゲーム感覚だ。中・高でも学校外に彼氏はいて真面目に付き合っていたけれど、社会人になって一気に弾けた。安彦麻理絵の描く女性登場人物よろしく、男性にそういう対象として見られたい、という欲求が高まり、そういう対象として見てもらえた後は簡単についていった。学生時代の自分の不細工さに復讐しているかのように。女を捨てていながら女に憧れ、女になって女の武器を駆使し始めた。他者への依存・セックス依存、発症。社内で喰いまくって、居辛くなって辞めたこともある。その後、人伝に上層部の人間が私について話していたことを小耳にした。あの子をい続けさせていたら会社が滅茶苦茶になっていた。その通りかもしれない。その後勤めた会社でも男絡みで辞めたことがある。社員旅行でヤッちゃあいけなかったな。そんなこんなの紆余曲折を経て、うちのに出会い、その他諸々の困難と年月を経て、自治体も認めるダメ人間になった。中身だけでなく容姿にも気遣いが減り、今は精々10人並みだ。
それでもきっと某スレに集う彼らから見たら、私は恋愛健常者に見えることだろう。けれど、断固として否定したい。私も形は違えど恋愛障害者だ。個を維持できずに共依存、依存させてくれるうちのに甘えてセックスレス数年。生活を共にしていながら、だ。こんなのは恋愛健常者である筈がない。また恋愛への……もっと正確に表現するならば、セックスへの幻想と依存が私の恋愛感の基礎となっており、うちのとの関係はその基礎を通過して家族としての愛となっている。私自身の過去を振り返り、恋人同士の愛情、が確立されたことはないかもしれない。そのときは確立されたと思っても、思い返せば全てまやかしだったように感じる。私が求めていたものは何だったのか。父親だ。ファザコンではなく、逆エディプス・コンプレックス、と表現したい。岩月某は父親と娘との親子関係の中で恋愛間が云々と語る。くだらん、と思ったのは自身の中の闇を否定したいからだ。私は今、うちのに、父親の役目、を求めてしまっている。この生活はまるで父子家庭のそれだ。健全とは言えない。うちのはそんな関係は望んでいないけれど、病んだ私に自分の求める生活を強いてはこない。甘んじている自分が情けない。先日初めてうちのが言ったこと。黒猫ちゃんが家庭を守ってくれているから俺は働けてる、貯金もふたりで貯めたお金。今迄ずっと、稼いできている俺が偉い、だったのにどうした心境の変化か。退職を目前に何か思うところがあったのか。この心境の変化はとても嬉しい。私のことをひとりの人間として扱ってくれている言葉だ。甘えるだけでなく、もっと応えられるように精神的に自立したい。私が精神的に自立したとき、初めてうちのと恋愛健常者として付き合い、生活を共にし、末永く一緒にいられるのだろう。達観したつもりでいたこと自体が甘えだった、と今なら言える。甘え続けるだけの人生は詰まらない。他者との関係が続かない。脱却したい。
ここ数日、某巨大掲示板某板某女人禁制スレの纏めサイトを読み耽り。童貞毒男の中にはダンゴムシとして生きることをモットーとしている方も多いようで……。何やらその方々は、キモイ、だのという言葉を常日頃から浴びているらしい。私はこの、キモイ、という言葉が嫌いだ。気心知れている人に言ったこともなければ、当然ながら見知らぬ他人にそんな言葉をぶつけたことがない。失礼にも程がある。キモイ=気持ち悪い、なんて言葉は、「さくらの唄」の仲村真理くらいの目に遭ってからでないといってはならない言葉だと思っている。しかし彼らにとってはこのような言葉の暴力を受けることは日常であり、あまつさえそれは自分の存在そのものが他者に迷惑に思われるものだから致し方なし、などと考えている模様。ここで、努力すればどうにでもなるって! といったポジティヴ思考は毛嫌いされている。彼らはどんなに努力しようとも、女性に好かれることはおろかフツーに接せられることもないとか。不思議なのは、キモイ、と言われて彼らがそのまま凹んでしまうところだ。そんな言葉を平気で使う人間は男女を問わず歪んだ人間である。断言する。なのに言霊に囚われて、ひたすらに我が身を縮ませて生活しているようだ。女性に近付かないように、不快感を与えないように。ただただ自分が傷つかないようにする為の自己防衛。ネガティヴ方向への積極性には感動を覚えんばかりだった。そんな彼らの嘆きの体験談や悟りに近い文章を読み、私は十数年前の自分を思い出した。といっても、同じような心構えでいた訳ではない。彼らの殆どが容姿に只ならぬコンプレックスを持っており、私もその点では同じだったからだ。
十数年前……中高生だった頃である。小学生の頃からクラスでも浮いた存在であり、それは中・高と上がるに連れて浮き具合も目立つようになっていた。ちょっとした虐めにあったこともある。肉体的暴力はなかったけれど言葉の暴力はあり、また私が教室に入っただけで空気が変わることを身に沁みて感じ取れてしまったこともあった。群れたがる女子はまず私のことを怪訝な目で観察し、同類ではないと見做すと今度は隔離しようとしてくる。その際、群れている女子グループと仲の良い男子グループも一緒になり、その数はクラスの半分程になったりする。回避性の気が当時からあったのか、莫迦にされたり無視されたりして多少落ち込むことはあっても私自身を変えようとは思わなかった。自分に問題があるとは思わずに俯瞰して、あんな連中に染まりたくない、と迎合することなく過ごした。集団でなければ何もできない人間は昔も今も嫌いである。振り返れば、当時の私は無自覚にして只ならぬ問題を抱えており、今その問題は歪ではあれ改善されているよう他者に見せられるようにはなった。問題とは協調性のなさである。協調と迎合の違いが未だによく判らない。少々不便はあるけれど、当時よりも悪い方向に達観しているので気にしない。そしてこんな環境だったので、モテには程遠い存在だった。それも当時はいいと思っていた。色恋に現を抜かすのは莫迦だ。
と、自分に嘘をついていた。色恋云々には興味津々であり耳年増であり。恋愛至上主義の世の中を斜に構えて莫迦だと一刀両断しつつ憧れが捨て切れなかった。そして努力した。10人並み程度の容姿を持っていて且つ若い女性に、男性はいとも簡単に落ちる。その事実を知ってしまったが最後、落とす、という行動をして実を結ぶことが楽しくなってしまった。もっと落としたい、となり容姿にも気を遣うようになった。すると容姿についてお褒めの言葉を戴ける迄に成長した。学生時代の私、それはもう不細工だった。それでも落ちる男がいるのだから、磨けばもっと落とし易くなるだろう……。ゲーム感覚だ。中・高でも学校外に彼氏はいて真面目に付き合っていたけれど、社会人になって一気に弾けた。安彦麻理絵の描く女性登場人物よろしく、男性にそういう対象として見られたい、という欲求が高まり、そういう対象として見てもらえた後は簡単についていった。学生時代の自分の不細工さに復讐しているかのように。女を捨てていながら女に憧れ、女になって女の武器を駆使し始めた。他者への依存・セックス依存、発症。社内で喰いまくって、居辛くなって辞めたこともある。その後、人伝に上層部の人間が私について話していたことを小耳にした。あの子をい続けさせていたら会社が滅茶苦茶になっていた。その通りかもしれない。その後勤めた会社でも男絡みで辞めたことがある。社員旅行でヤッちゃあいけなかったな。そんなこんなの紆余曲折を経て、うちのに出会い、その他諸々の困難と年月を経て、自治体も認めるダメ人間になった。中身だけでなく容姿にも気遣いが減り、今は精々10人並みだ。
それでもきっと某スレに集う彼らから見たら、私は恋愛健常者に見えることだろう。けれど、断固として否定したい。私も形は違えど恋愛障害者だ。個を維持できずに共依存、依存させてくれるうちのに甘えてセックスレス数年。生活を共にしていながら、だ。こんなのは恋愛健常者である筈がない。また恋愛への……もっと正確に表現するならば、セックスへの幻想と依存が私の恋愛感の基礎となっており、うちのとの関係はその基礎を通過して家族としての愛となっている。私自身の過去を振り返り、恋人同士の愛情、が確立されたことはないかもしれない。そのときは確立されたと思っても、思い返せば全てまやかしだったように感じる。私が求めていたものは何だったのか。父親だ。ファザコンではなく、逆エディプス・コンプレックス、と表現したい。岩月某は父親と娘との親子関係の中で恋愛間が云々と語る。くだらん、と思ったのは自身の中の闇を否定したいからだ。私は今、うちのに、父親の役目、を求めてしまっている。この生活はまるで父子家庭のそれだ。健全とは言えない。うちのはそんな関係は望んでいないけれど、病んだ私に自分の求める生活を強いてはこない。甘んじている自分が情けない。先日初めてうちのが言ったこと。黒猫ちゃんが家庭を守ってくれているから俺は働けてる、貯金もふたりで貯めたお金。今迄ずっと、稼いできている俺が偉い、だったのにどうした心境の変化か。退職を目前に何か思うところがあったのか。この心境の変化はとても嬉しい。私のことをひとりの人間として扱ってくれている言葉だ。甘えるだけでなく、もっと応えられるように精神的に自立したい。私が精神的に自立したとき、初めてうちのと恋愛健常者として付き合い、生活を共にし、末永く一緒にいられるのだろう。達観したつもりでいたこと自体が甘えだった、と今なら言える。甘え続けるだけの人生は詰まらない。他者との関係が続かない。脱却したい。
だらだらどろどろ血みどろ
2004年3月30日 家族・メンヘル・健康など 昔から生理が重くてキツくて眠くてつらい。稀にやや軽いときもあるけれど、その次の生理が倍くらいつらい。しかもだらだらと丸々1週間続く。性欲があった頃、計算してみた。世の女性で生理期間が短い人は3日で終わるらしい。私は7日。一般的28日周期というのを無視して、月に1度の血みどろ祭と考えて私は祭期間が4日長い。年にして48日もの間、血みどろな訳である。そして生理時期には性交をしないものと仮定して、私は3日で終わる人に比べて性交可能日数が1ヵ月半も少ない。これは人生に於いて物凄く損な体質なのではなかろうか、と我が体を呪わしく思ったことも。性欲皆無な今はそんなことはどうでもいいのだけれど、やはりだるい期間が長引くのはしんどい。しかも生理の少し前からだるくなったり風邪っぽい症状が出たりするので、私は毎月凡そ10日間、月の1/3は具合が悪い。不定期に鬱々となることもあり、また慢性の肩凝り腰痛持ちでもあり、年がら年中体調不良と言っても過言ではない。是非とも皆々さまに労わってもらいたい。シルバーシートに座らせてもらいたい。が、見た目からして解る不調ではない故に滅多に席は譲ってもらえない。常々顔色も悪い私。学生時代に睡眠不足以外は特に不調がないときのこと。満員電車に揺られつつ眠気から立ったまま舟をこいでいたら、隣にいたおばさんが私の前に座っていたサラリーマンらしき人に声をかけた。ちょっとこの人具合が悪そうだから、席を空けてくれない? サラリーマンらしき人は親切に席を空けてくれた。私は有難く座らせてもらった。そのときの恩返しではないけれど、先日うちのと出掛けたときに電車に爺さんが乗り込んできて私の前に立った。そのときはそれ程不調ではなく且つ降りる駅迄数駅だったこともあり、どうぞ、と譲った。私らが降車するときに爺さんが、軽く会釈してくれたのが嬉しかった。うちのは非常に驚いたらしい。普段、私は座ったらまず動かない、席を譲るなんて天地がひっくり返るかの如くあり得ない出来事、と思っていたとか。失礼な。こう見えても、自分がそこそこ元気なときに近くに自分よりもしんどそうな人がいれば席を譲るよう心がけているのに。
で、今日はまだ血みどろ祭続行中。もう数日続く。だるー。なのに昼間に起きてメーラーをチェックをしたら、昔の職場の上司から、明日会いませんか? とのメールが。忙しい方なので多少の体調不良は我慢して会いに出かけよう、と当然思う。電話をくれとのことだったので、一応の定時である17時を少し過ぎた頃に電話をした。すると……あちらの書いた、明日、は今日のことだったらしい。電話で話しながら届いていたメールをチェックすると到着時刻は1時過ぎ。深夜だ。このくらいの時間帯のメールは実に紛らわしい。日付が変わる感覚が人間にはなく起きてから寝る迄を1日として捉えがちであり、深夜のメールで書かれる昨日・今日・明日は判断し難いのだ。以前にも別の人との遣り取りの中で、同様のすれ違いを起こしかけたことがあった。私はこのような経験から、メールでは昨日・今日・明日の後に日付や曜日を書くように心掛けている。けれども他者からのメールでは余りこのような注意書きは見られない。暗黙の了解として、おきてから寝る迄が1日、と世の中ではなっているのだろうか。困る。起床就寝時間がまちまちだったり世間様とズレている人間は混乱する。約束事を取り付ける際には、日付や曜日も記載するという暗黙の了解が欲しい。暗黙でなくても、世間一般でなくてもいい。私へのメールではちゃんと書いて戴きたい。
いつものように入浴していなかった為、その上司とはも今日は会えずまた後日に……となった。非常に残念。そして上司からのメールを読み返す。冒頭に桜についての記述があった。桜を見ると幸せを感じる、とのこと。前にも書いたように、今の私にはこの感覚がない。桜が咲いている、と強く意識しなければ綺麗だと感じられないし、増してや幸せなどの感動は発生しない。彼女は季節感を感じられるのだ。彼女だけでなく、世の多くの人は季節を感じつつ日々を過ごしているのだろう。桜が咲くくらいであり、昨今は暖かくなってきている。らしい。1日の半分程を布団の中で過ごしている私にはイマイチ実感はない。なので着替えるにしても、ネットやテレビの天気予報で知らされる予想気温という数字に頼っている。体感温度が信用できないのだ。数字を確認せずして、暖かいか寒いかにも自信が持てない。自分が寒いと思ってもうちのに、寒い? と訊き、同意を得られてからでないと、今日は寒いのだな、と思えない。同意されなければ、寒いと感じるのは私だけのようなのできっと今日は寒くないのだろう、と思う。心身共に歪み過ぎだ。主治医の言葉が脳裏に甦る。季節を感じられるようにならなければ、社会復帰しても続かない。
生理中は特に体感温度が狂う。貧血気味になる所為か、体がとても冷える。末端冷え性にも拍車がかかる。なのでこれを書いている今も、季節は春だというらしいのに毛糸の靴下を履いていたりする。本当ならカイロも張りたい。カイロを我慢しているのは、PCの前から動くのが面倒だからだ。座っているときでも気持ち悪いのに、動いているときに体内からどろりと血が流れ出るあの感覚。今はもう後半に入っているけれど、前半の大量出血時期の胎内の粘膜が剥がれ落ちて、血液と共に赤黒いモノが排出されるあの感じ。初潮から十数年を経た現在も慣れてはいない。いつも気持ち悪い。特に性欲がなくなってから、生涯子供は要らないと思うようになってから、生理が疎ましくてならない。どうしてもオンナであることを意識させられる。オンナであることがいつも嫌な訳ではない。メイクやお洒落を楽しむときは、女で良かった、と思う。きっと生理期間に非常にオンナであることが悲しくなるのは、この器官が繁殖に直結しているからだろう。取り外せることができればいいのに。球体関節人形のように。ふと思った。私が球体関節人形に魅せられた一因として、これもあるのかもしれない。不要な器官とそうでない器官が選別可能。異形の姿の中に見え隠れする強い意志。製作者の鏡である人形。
BGM/アルバム「人間椅子」「人間失格」
で、今日はまだ血みどろ祭続行中。もう数日続く。だるー。なのに昼間に起きてメーラーをチェックをしたら、昔の職場の上司から、明日会いませんか? とのメールが。忙しい方なので多少の体調不良は我慢して会いに出かけよう、と当然思う。電話をくれとのことだったので、一応の定時である17時を少し過ぎた頃に電話をした。すると……あちらの書いた、明日、は今日のことだったらしい。電話で話しながら届いていたメールをチェックすると到着時刻は1時過ぎ。深夜だ。このくらいの時間帯のメールは実に紛らわしい。日付が変わる感覚が人間にはなく起きてから寝る迄を1日として捉えがちであり、深夜のメールで書かれる昨日・今日・明日は判断し難いのだ。以前にも別の人との遣り取りの中で、同様のすれ違いを起こしかけたことがあった。私はこのような経験から、メールでは昨日・今日・明日の後に日付や曜日を書くように心掛けている。けれども他者からのメールでは余りこのような注意書きは見られない。暗黙の了解として、おきてから寝る迄が1日、と世の中ではなっているのだろうか。困る。起床就寝時間がまちまちだったり世間様とズレている人間は混乱する。約束事を取り付ける際には、日付や曜日も記載するという暗黙の了解が欲しい。暗黙でなくても、世間一般でなくてもいい。私へのメールではちゃんと書いて戴きたい。
いつものように入浴していなかった為、その上司とはも今日は会えずまた後日に……となった。非常に残念。そして上司からのメールを読み返す。冒頭に桜についての記述があった。桜を見ると幸せを感じる、とのこと。前にも書いたように、今の私にはこの感覚がない。桜が咲いている、と強く意識しなければ綺麗だと感じられないし、増してや幸せなどの感動は発生しない。彼女は季節感を感じられるのだ。彼女だけでなく、世の多くの人は季節を感じつつ日々を過ごしているのだろう。桜が咲くくらいであり、昨今は暖かくなってきている。らしい。1日の半分程を布団の中で過ごしている私にはイマイチ実感はない。なので着替えるにしても、ネットやテレビの天気予報で知らされる予想気温という数字に頼っている。体感温度が信用できないのだ。数字を確認せずして、暖かいか寒いかにも自信が持てない。自分が寒いと思ってもうちのに、寒い? と訊き、同意を得られてからでないと、今日は寒いのだな、と思えない。同意されなければ、寒いと感じるのは私だけのようなのできっと今日は寒くないのだろう、と思う。心身共に歪み過ぎだ。主治医の言葉が脳裏に甦る。季節を感じられるようにならなければ、社会復帰しても続かない。
生理中は特に体感温度が狂う。貧血気味になる所為か、体がとても冷える。末端冷え性にも拍車がかかる。なのでこれを書いている今も、季節は春だというらしいのに毛糸の靴下を履いていたりする。本当ならカイロも張りたい。カイロを我慢しているのは、PCの前から動くのが面倒だからだ。座っているときでも気持ち悪いのに、動いているときに体内からどろりと血が流れ出るあの感覚。今はもう後半に入っているけれど、前半の大量出血時期の胎内の粘膜が剥がれ落ちて、血液と共に赤黒いモノが排出されるあの感じ。初潮から十数年を経た現在も慣れてはいない。いつも気持ち悪い。特に性欲がなくなってから、生涯子供は要らないと思うようになってから、生理が疎ましくてならない。どうしてもオンナであることを意識させられる。オンナであることがいつも嫌な訳ではない。メイクやお洒落を楽しむときは、女で良かった、と思う。きっと生理期間に非常にオンナであることが悲しくなるのは、この器官が繁殖に直結しているからだろう。取り外せることができればいいのに。球体関節人形のように。ふと思った。私が球体関節人形に魅せられた一因として、これもあるのかもしれない。不要な器官とそうでない器官が選別可能。異形の姿の中に見え隠れする強い意志。製作者の鏡である人形。
BGM/アルバム「人間椅子」「人間失格」
現在3月30日。
私はなんで、黒猫(仮名)、って名前なの? 私の名前は漢字で2文字、読みが2音である。子供の頃に聞いた私の名前の由来は、仮名に例えて説明すると、黒い猫だから黒猫なんだよ、というものだった。その実態は28日付の日記に書いたように、仕事運と親子関係に於いて良い数意を持っていたから、だった。まだ子供の頃に説明されていた由来の方が、願いが込められているように感じられる。数意ってなんだ。くだらん。実にくだらん。しかも全く現状に沿っていないところが噴飯物。余談だが、うちのと入籍するとまた私は苗字が変わる。すると姓名判断的には今より更に運勢が下降するらしい。ネットのいろんなサイトで占ってみたが、何処でも必ず運勢下降との結果が出た。このことを日曜に親に笑い話としてしたら、親は既に知っていた。どうやら何処かで姓名判断を既にしていたらしい。そして、やっぱり結婚はどうかと……、というようなことを言い出そうとしたのでしょうもない話で遮った。姓名判断が本当に中るのなら、今頃私は家の一軒も建てていそうだ。少なくともメンヘルのヒキにはなっていなかろう。いっそあらゆる占いで良くないとされる苗字になった方が運勢が上昇したりして、などとひねくれたことを考えたりもしてしまう。そもそも私は占いが嫌いだ。会話のきっかけ程度にしか思っていない。いや、会話のきっかけに占いを用いる人間を莫迦だとすら思う。この考えでホステス時代にどれだけ客に顰蹙を買ったことか……話が逸れた。
世の中にはいろんな占いがある。暇潰しにしかならないと思っているし、一喜一憂の一因にすらならない。例えば星占い。一時期13星座占いなるものが流行った。そしてすぐに廃れて12星座占いに落ち着いている。血液型占いというものもある。ABO型しか私は知らない。この一般的と思われる12星座と4つの血液型を混ぜた占いを使ったところで、世の中の人間が皆48のどれかのパターンに当て嵌まろう筈がない。四柱推命然り、姓名判断然り。人間の運勢やら将来やらを既に用意された数字を含めて何かしらの、パターン、に当て嵌めようとすること自体に無理がある。例えば。天涯孤独で波乱万丈の人生を送っている、あらゆる占いに於いて悪い運勢を示される貧乏人がいたとする。当人をよく知らない人がその人を見たら、占い通りだわ、となるだろう。しかしその人の気持ちとしては、家族はないしいろいろあるし貧乏だけど雨風を凌げて食うに困らないんだから自分は幸せだ、かも知れない。起きて半畳寝て一畳、一汁一菜で幸せだと感じる人間だって確実にいる。己の尺度で他者の不幸や幸福を量るのは驕りだ。
因って誰の意思かは知らないけれど、仕事運と親子関係に重きを置いてつけられた私の名前を、私自身は有難く感じない。私が最も欲しているのは昔から、平穏、であり、仕事や親子関係などは二の次なのだ。名前に囚われずに自分の道は自分で切り拓いていくしかない。そんなことは百も承知。けれど、他者から名前を呼ばれるたびに、何かに名前を書くたびに、名前は私に付き纏う。そして重く圧し掛かる。嫌いな伯母が候補を挙げた名前。望まない願いを数字に託されてつけられた名前。従妹の字面も響きも良く、親の願いが込められた名前。いや、比較してはいけない。いけないのだが……何かが腑に落ちない。この、何か、を私は上手く説明できない。何なのだろう。妬みや嫉みか。私の持つ、記号、への拘りか。自分の道は自分で。名は体を現す。どちらも正しく感じる。名が体を現していないことの、または体が名に追いついていないことへのもどかしさか。これも違う気がする。単に、もっと私が重視している幸福についての願いを込めて欲しかった、という届かぬ願いか。不幸なことに子供は名前を選べない。誰しも成人したら自分で好きな名前をつけていい、という制度が生まれればいいのにと切に思う。けれどそんな制度は生まれない。役所が面倒だからか、周囲が混乱するからか、それとも他者の殆どは改名の必要を感じていないからか。きっと最後が正解。けれど親の呪縛から逃れたい者にとって、名前の存在は余りに重い。改名によって身軽になれる人間も決して少なくないと想像している。
だから私はネットという架空空間で仮想現実でHNを使って日記をつけている。ここでは私は身軽になれる。付き纏う記号から離れた場所で、黒猫という人間らしくない名前を名乗って、最早人間として存在していたいという気持ちすらも捨て去って好き勝手なことを書き綴る。苗字もつけない。苗字には家が圧し掛かる。ネットの世界では苗字をつけたところで家もへったくれもないけれど、それでも黒猫という2文字だけで自身を現すことに、とてつもない開放感を得られる。親の結婚に賛成したのは、父親の持っていた苗字の字面と響きが気に入ったから。あの頃私は若かった。その苗字の後ろにくっついてくる、家、の存在を全く考えていなかった。父親の両親は私を可愛がってくれ、持ち家を将来私にあげたい、と言ってきたことがある。勘弁願いたい。家なんぞ要らん。苗字も名前も、私へ地に足をつけることを要求してくる。私は宙ぶらりんでいたい。モラトリアムで結構。足をつけたくない地に、柵で強制的に縛り付けられるのは御免だ。私は私が足をつけたい地を選びたい。柵は全て断ち切りたい。家も要らない。墓も要らない。うちのと小動物らが私の傍にいてくれれば充分だ。傍にいてくれることで私は支えられて、友人知人を含む他者と接することができる。恐る恐るながらも外界に触れられる。親や親戚とは柵なしには接することができない。しかもその柵は、友人知人らと違い自分で選んで築いた柵ではないところが厄介だ。一個人として考えるなら、親も親戚も、決して進んで仲良くなりたいと思える性格の持ち主らではない。逆に苦手な性格の持ち主らだ。なのに親子だから、親戚だから、〜〜だから。鬱陶しいことこの上ない。私は私。他者は他者。本来なら母体から脱した時点で、百歩譲って成人したら親も他者。その感覚を麻痺させるものこそが、苗字と名前の存在ではなかろうか。
BGM/アルバム「無限の住人」
私はなんで、黒猫(仮名)、って名前なの? 私の名前は漢字で2文字、読みが2音である。子供の頃に聞いた私の名前の由来は、仮名に例えて説明すると、黒い猫だから黒猫なんだよ、というものだった。その実態は28日付の日記に書いたように、仕事運と親子関係に於いて良い数意を持っていたから、だった。まだ子供の頃に説明されていた由来の方が、願いが込められているように感じられる。数意ってなんだ。くだらん。実にくだらん。しかも全く現状に沿っていないところが噴飯物。余談だが、うちのと入籍するとまた私は苗字が変わる。すると姓名判断的には今より更に運勢が下降するらしい。ネットのいろんなサイトで占ってみたが、何処でも必ず運勢下降との結果が出た。このことを日曜に親に笑い話としてしたら、親は既に知っていた。どうやら何処かで姓名判断を既にしていたらしい。そして、やっぱり結婚はどうかと……、というようなことを言い出そうとしたのでしょうもない話で遮った。姓名判断が本当に中るのなら、今頃私は家の一軒も建てていそうだ。少なくともメンヘルのヒキにはなっていなかろう。いっそあらゆる占いで良くないとされる苗字になった方が運勢が上昇したりして、などとひねくれたことを考えたりもしてしまう。そもそも私は占いが嫌いだ。会話のきっかけ程度にしか思っていない。いや、会話のきっかけに占いを用いる人間を莫迦だとすら思う。この考えでホステス時代にどれだけ客に顰蹙を買ったことか……話が逸れた。
世の中にはいろんな占いがある。暇潰しにしかならないと思っているし、一喜一憂の一因にすらならない。例えば星占い。一時期13星座占いなるものが流行った。そしてすぐに廃れて12星座占いに落ち着いている。血液型占いというものもある。ABO型しか私は知らない。この一般的と思われる12星座と4つの血液型を混ぜた占いを使ったところで、世の中の人間が皆48のどれかのパターンに当て嵌まろう筈がない。四柱推命然り、姓名判断然り。人間の運勢やら将来やらを既に用意された数字を含めて何かしらの、パターン、に当て嵌めようとすること自体に無理がある。例えば。天涯孤独で波乱万丈の人生を送っている、あらゆる占いに於いて悪い運勢を示される貧乏人がいたとする。当人をよく知らない人がその人を見たら、占い通りだわ、となるだろう。しかしその人の気持ちとしては、家族はないしいろいろあるし貧乏だけど雨風を凌げて食うに困らないんだから自分は幸せだ、かも知れない。起きて半畳寝て一畳、一汁一菜で幸せだと感じる人間だって確実にいる。己の尺度で他者の不幸や幸福を量るのは驕りだ。
因って誰の意思かは知らないけれど、仕事運と親子関係に重きを置いてつけられた私の名前を、私自身は有難く感じない。私が最も欲しているのは昔から、平穏、であり、仕事や親子関係などは二の次なのだ。名前に囚われずに自分の道は自分で切り拓いていくしかない。そんなことは百も承知。けれど、他者から名前を呼ばれるたびに、何かに名前を書くたびに、名前は私に付き纏う。そして重く圧し掛かる。嫌いな伯母が候補を挙げた名前。望まない願いを数字に託されてつけられた名前。従妹の字面も響きも良く、親の願いが込められた名前。いや、比較してはいけない。いけないのだが……何かが腑に落ちない。この、何か、を私は上手く説明できない。何なのだろう。妬みや嫉みか。私の持つ、記号、への拘りか。自分の道は自分で。名は体を現す。どちらも正しく感じる。名が体を現していないことの、または体が名に追いついていないことへのもどかしさか。これも違う気がする。単に、もっと私が重視している幸福についての願いを込めて欲しかった、という届かぬ願いか。不幸なことに子供は名前を選べない。誰しも成人したら自分で好きな名前をつけていい、という制度が生まれればいいのにと切に思う。けれどそんな制度は生まれない。役所が面倒だからか、周囲が混乱するからか、それとも他者の殆どは改名の必要を感じていないからか。きっと最後が正解。けれど親の呪縛から逃れたい者にとって、名前の存在は余りに重い。改名によって身軽になれる人間も決して少なくないと想像している。
だから私はネットという架空空間で仮想現実でHNを使って日記をつけている。ここでは私は身軽になれる。付き纏う記号から離れた場所で、黒猫という人間らしくない名前を名乗って、最早人間として存在していたいという気持ちすらも捨て去って好き勝手なことを書き綴る。苗字もつけない。苗字には家が圧し掛かる。ネットの世界では苗字をつけたところで家もへったくれもないけれど、それでも黒猫という2文字だけで自身を現すことに、とてつもない開放感を得られる。親の結婚に賛成したのは、父親の持っていた苗字の字面と響きが気に入ったから。あの頃私は若かった。その苗字の後ろにくっついてくる、家、の存在を全く考えていなかった。父親の両親は私を可愛がってくれ、持ち家を将来私にあげたい、と言ってきたことがある。勘弁願いたい。家なんぞ要らん。苗字も名前も、私へ地に足をつけることを要求してくる。私は宙ぶらりんでいたい。モラトリアムで結構。足をつけたくない地に、柵で強制的に縛り付けられるのは御免だ。私は私が足をつけたい地を選びたい。柵は全て断ち切りたい。家も要らない。墓も要らない。うちのと小動物らが私の傍にいてくれれば充分だ。傍にいてくれることで私は支えられて、友人知人を含む他者と接することができる。恐る恐るながらも外界に触れられる。親や親戚とは柵なしには接することができない。しかもその柵は、友人知人らと違い自分で選んで築いた柵ではないところが厄介だ。一個人として考えるなら、親も親戚も、決して進んで仲良くなりたいと思える性格の持ち主らではない。逆に苦手な性格の持ち主らだ。なのに親子だから、親戚だから、〜〜だから。鬱陶しいことこの上ない。私は私。他者は他者。本来なら母体から脱した時点で、百歩譲って成人したら親も他者。その感覚を麻痺させるものこそが、苗字と名前の存在ではなかろうか。
BGM/アルバム「無限の住人」
現在3月30日。
日曜は実家の近く迄赴き、両親と会ってきた。名目は父親からのホワイトデイのお返しもらい。もらったのはその日開催されていたフリーマーケットでの買い物代。有難く頂戴した。フリマで久々に衣類大量購入。また要る服・要らない服を選別しなくては。掘り出し物は木製椅子。今、うちにある椅子はひとつはバランスが悪く、ひとつは壊れかかっている。壊れかかっている方を処分して、購入した椅子を代わりにする予定。予定、なのは椅子が重かった為に実家に預け、近々うちの近所迄車で持ってきてもらって受け取ることになっているから。その後、昼食を摂り、駅ビルをうろついてお茶を飲み、帰宅。両親は私に、うちに寄っていかないのか? 泊まっていかないのか? としきりに訊いてきたがスルー。懐柔されるのは御免だ。私はあくまで距離を置いてでしか付き合いたくない。私はすっかり忘れていたのだけれど、この日の数日前は両親が入籍した日だった。おめでとう、と言うと親は、あなたが今の苗字になった日でもあるのよ、と。確かにそうである。そして私が両親の結婚に賛成したのは、その前の苗字が余り好きではなく、今の父親が持っていた苗字の響きが気に入ったからだ。でも。はあ……、でも去年サインした養子縁組解消届はどうなっているんだ? 突付くとまたややこしいことになりそうなので、あーそうだね、と軽く受け流す。そして当時親が何度も私に言っていた言葉、結婚に反対だったらいつでも言って、あんたが反対ならやめるから。結婚式の直前、1度だけ反対の意を示した。父親の言動に無遠慮な部分を感じたことがきっかけだった。そのときの親の言葉を思い出す。今更何言ってるのよ。私は引き下がった。思い出してもちょっとしたストレス。距離を置く、というスタンスだけは崩さないようにあれからも親と接してはいる。しかし時折、あの絶縁騒動は何だったのか、と考える。
今回親元に行った私の理由は、ホワイトデイのお返し受取ではない。親が保管していた、私が生まれたときに考えられた名前の候補一覧をもらう為だった。長いときを経て、その候補名と名付けの理由が綴られた紙は変色していた上、ぼろぼろになっていた。字が親のものではなかった。訊けば、私の名を考えたのは伯母であり、その中から実の父親が選んだと言う。因みに私はその伯母が大嫌いである。この候補一覧に、親自身が考えた名前は入っていない。それで良かったのか。子供の頃、本当は別につけたい名前があったと聞いた。その名前は今、私の従妹につけられている。従妹の名を口にするときに、何となく悔しさを覚えるのは何故だろう。従妹の名が特に欲しかった訳ではない。ただ、彼女の名は彼女の親が考え、彼女への両親の想いが詰まっていることを知っているからか。私の名前は、伯母が姓名判断に基づいて候補を挙げ、そこから実の父親が選んだ名前……。
私の名前の候補は、今の名前を含めて7つあった。以下、本文まま引用。ところどころ達筆過ぎて読めない字があったので脳内補完。
A/女子名として最高です。科学、文学、教育者として最もよく家庭運強く福をもつよい名前です。只、親子の関係から見るといろんな災難にあい易い。
B/目的達成に向って成功しますが時として気持だけが先走って苦労する事もあります。家庭的にはよいですが矢張親子の関係からすると混迷してなかなか脱却出来ず苦労します。
C/頭領運をもち、事業家として必ず成功します。それ丈に女子名として見た場合には強すぎて家庭的には恵まれにくい。親子関係から見ればとてもよい数意を持っています。
D/起伏の激しい人生ですが財運には恵まれます。が病弱、孤独になりがちで努力してもなかなか報われません、親子関係も余り感心しません。
E/自分が努力する割には恵まれず辛苦しますが、親子関係から見るととてもよく事業などでは成功し、結婚してからだんだんよくなって来ます。
F/チャンスを生かせば驚く程時運に乗って成功する、又中心的人物として運がつよく、家庭的にも恵まれ、結婚して尚よく子供にも家族にも恵れてますます繁栄し内助の功よく事業をおこしても必ず大成します。地より天にのぼる数意で実によい。親が疎い仕事をしても必ず成功します。
G/命名として実によい数意をもち頭領運をもって人をリードしていきます。分野を選ばずとも出世して大成します。親子関係から見てもFと同じ様な強い運をもっていて誰から見てもまことに好ましい力強い関係です。
以下、伯母の総評。同じく本文まま。
名前は私の考えでは姓と名が必ず一体とならなければせっかく良い名前でもそれ丈の力が発揮出来ないと思います、矢張お宅では、大地を踏みしめて展(ひろ)く発展してほしいものです。又必ずそこにはいわれ起源があるものですからそれを大切にしてほしいと思います。従って私は上記の2つ(黒猫註/FとGのこと)の名を推薦します。しかし、女子は結婚すれば姓が変る事が多いですから少々悪くてもそれは絶対ではないと思います。
ざっと見たところ、仕事運と親子関係について述べられた部分が多く目についた。これは私の実の父親が事業をしていたことに関係するのだろうか。そして父親も母親も子供と非常に仲良くしたかったのだろうか。と、推測できる。この2点を重視して伯母のツテで誰かに姓名判断をしてもらったのでは、と思われる。私につけられた名前はGだ。今の苗字は親の離婚再婚を経て3つ目。それを差し引いても、大成もしていなければ親子関係も最悪に近い形になっている。姓名判断なんぞひとつも当てにならないことが身を持って立証できている。占い云々はともかく、今の私の現状は嬉しいものではないけれど。それにしても。親子関係について親が希望を持つのはまあいいとしよう。だが、仕事運を重視されていたのは納得がいかない。勿論、仕事運も良いに越したことはなかろうが、それよりも大切な願いはなかったのか。幸せな人生を。笑って過ごせる人生を。そんな願いを込めて欲しかった。数意はどうあれ、現実がどうあれ、そんな願いを込めてつけられた名前が、私は欲しかった。
日曜は実家の近く迄赴き、両親と会ってきた。名目は父親からのホワイトデイのお返しもらい。もらったのはその日開催されていたフリーマーケットでの買い物代。有難く頂戴した。フリマで久々に衣類大量購入。また要る服・要らない服を選別しなくては。掘り出し物は木製椅子。今、うちにある椅子はひとつはバランスが悪く、ひとつは壊れかかっている。壊れかかっている方を処分して、購入した椅子を代わりにする予定。予定、なのは椅子が重かった為に実家に預け、近々うちの近所迄車で持ってきてもらって受け取ることになっているから。その後、昼食を摂り、駅ビルをうろついてお茶を飲み、帰宅。両親は私に、うちに寄っていかないのか? 泊まっていかないのか? としきりに訊いてきたがスルー。懐柔されるのは御免だ。私はあくまで距離を置いてでしか付き合いたくない。私はすっかり忘れていたのだけれど、この日の数日前は両親が入籍した日だった。おめでとう、と言うと親は、あなたが今の苗字になった日でもあるのよ、と。確かにそうである。そして私が両親の結婚に賛成したのは、その前の苗字が余り好きではなく、今の父親が持っていた苗字の響きが気に入ったからだ。でも。はあ……、でも去年サインした養子縁組解消届はどうなっているんだ? 突付くとまたややこしいことになりそうなので、あーそうだね、と軽く受け流す。そして当時親が何度も私に言っていた言葉、結婚に反対だったらいつでも言って、あんたが反対ならやめるから。結婚式の直前、1度だけ反対の意を示した。父親の言動に無遠慮な部分を感じたことがきっかけだった。そのときの親の言葉を思い出す。今更何言ってるのよ。私は引き下がった。思い出してもちょっとしたストレス。距離を置く、というスタンスだけは崩さないようにあれからも親と接してはいる。しかし時折、あの絶縁騒動は何だったのか、と考える。
今回親元に行った私の理由は、ホワイトデイのお返し受取ではない。親が保管していた、私が生まれたときに考えられた名前の候補一覧をもらう為だった。長いときを経て、その候補名と名付けの理由が綴られた紙は変色していた上、ぼろぼろになっていた。字が親のものではなかった。訊けば、私の名を考えたのは伯母であり、その中から実の父親が選んだと言う。因みに私はその伯母が大嫌いである。この候補一覧に、親自身が考えた名前は入っていない。それで良かったのか。子供の頃、本当は別につけたい名前があったと聞いた。その名前は今、私の従妹につけられている。従妹の名を口にするときに、何となく悔しさを覚えるのは何故だろう。従妹の名が特に欲しかった訳ではない。ただ、彼女の名は彼女の親が考え、彼女への両親の想いが詰まっていることを知っているからか。私の名前は、伯母が姓名判断に基づいて候補を挙げ、そこから実の父親が選んだ名前……。
私の名前の候補は、今の名前を含めて7つあった。以下、本文まま引用。ところどころ達筆過ぎて読めない字があったので脳内補完。
A/女子名として最高です。科学、文学、教育者として最もよく家庭運強く福をもつよい名前です。只、親子の関係から見るといろんな災難にあい易い。
B/目的達成に向って成功しますが時として気持だけが先走って苦労する事もあります。家庭的にはよいですが矢張親子の関係からすると混迷してなかなか脱却出来ず苦労します。
C/頭領運をもち、事業家として必ず成功します。それ丈に女子名として見た場合には強すぎて家庭的には恵まれにくい。親子関係から見ればとてもよい数意を持っています。
D/起伏の激しい人生ですが財運には恵まれます。が病弱、孤独になりがちで努力してもなかなか報われません、親子関係も余り感心しません。
E/自分が努力する割には恵まれず辛苦しますが、親子関係から見るととてもよく事業などでは成功し、結婚してからだんだんよくなって来ます。
F/チャンスを生かせば驚く程時運に乗って成功する、又中心的人物として運がつよく、家庭的にも恵まれ、結婚して尚よく子供にも家族にも恵れてますます繁栄し内助の功よく事業をおこしても必ず大成します。地より天にのぼる数意で実によい。親が疎い仕事をしても必ず成功します。
G/命名として実によい数意をもち頭領運をもって人をリードしていきます。分野を選ばずとも出世して大成します。親子関係から見てもFと同じ様な強い運をもっていて誰から見てもまことに好ましい力強い関係です。
以下、伯母の総評。同じく本文まま。
名前は私の考えでは姓と名が必ず一体とならなければせっかく良い名前でもそれ丈の力が発揮出来ないと思います、矢張お宅では、大地を踏みしめて展(ひろ)く発展してほしいものです。又必ずそこにはいわれ起源があるものですからそれを大切にしてほしいと思います。従って私は上記の2つ(黒猫註/FとGのこと)の名を推薦します。しかし、女子は結婚すれば姓が変る事が多いですから少々悪くてもそれは絶対ではないと思います。
ざっと見たところ、仕事運と親子関係について述べられた部分が多く目についた。これは私の実の父親が事業をしていたことに関係するのだろうか。そして父親も母親も子供と非常に仲良くしたかったのだろうか。と、推測できる。この2点を重視して伯母のツテで誰かに姓名判断をしてもらったのでは、と思われる。私につけられた名前はGだ。今の苗字は親の離婚再婚を経て3つ目。それを差し引いても、大成もしていなければ親子関係も最悪に近い形になっている。姓名判断なんぞひとつも当てにならないことが身を持って立証できている。占い云々はともかく、今の私の現状は嬉しいものではないけれど。それにしても。親子関係について親が希望を持つのはまあいいとしよう。だが、仕事運を重視されていたのは納得がいかない。勿論、仕事運も良いに越したことはなかろうが、それよりも大切な願いはなかったのか。幸せな人生を。笑って過ごせる人生を。そんな願いを込めて欲しかった。数意はどうあれ、現実がどうあれ、そんな願いを込めてつけられた名前が、私は欲しかった。
現在3月29日。
金曜に美容院に予約を入れたものの前々夜から具合が悪く、キャンセルしようかどうしようか迷ったのだが、この日はたまたま早く目覚めて入浴時間が取れたので、身綺麗にしてうちのと出掛けた。ピアスホールがなかなか安定しなかった為、髪を切るのは凡そ3ヶ月ぶり。結局未だ安定せず、ピアスをつけたままでカットしてもらうことになった。長らく放置していたのが功を為して、初めて前髪とサイドを繋げる形にできた。全体の印象に一体感が出て、後ろは余り長さを変えずに軽く。簪で纏め髪ができるよう伸ばそうかと思ったけれど、担当さんと相談の結果、私にはそこ迄伸ばす根性がないと判断して切ってもらった。もさーっとなっていたのが春らしくなり且つサイドのライターで焦がしてしまった毛先もなくなり手触りも良くなり、いい気分。うちのもスッキリと短くカットしてもらった。美容院を出て普段と違う道を歩いていたらフェレット専門店を発見した。珍しくうちのから、覗いてみよう、と言い出してショップに入ると10本程度のフェレットが大人しくケージの中で寝ていたり、ハンモックの上で寝ていたり。初めて、フェレットもいいなあ、うちの雑食動物と仲良くできるかなあ、とうちのの方から言い出したけれど値段が高く断念。うちで飼っている雑食動物とフェレットの相性は一般的には悪くない。仲良くなるとお互いの尻尾を追いかけっこしたりするらしい。けれど如何せん、姫、として我侭に育ってしまったうちの雑食動物が、新規参入動物と仲良くできるかは疑問。余談だが、昨日某県某所の駅前にてうちのと同種雑食動物の里親探しをしていた。うちのが動物の新規参入にやや気乗りしてきたと土曜に判断した私はかなり悩み、もらうのをやめた。やはりうちの姫が新しい仔を受け入れられるどうかが疑問だったからだ。ストレスで脱毛症になられても、新規の仔を虐めるようになっても困るし悲しい。いずれはもう1匹何かしらを飼いたいとは思っているが、うちの雑食動物がもっと歳を取って穏やかになってからの話か。
フェレット屋を出て川沿いの桜を眺め、やや遅い昼食を摂ろうと新しくできたらしいカレー屋へ。うちのは違う物が食べたかったらしいが店先のメニューにあった、仔羊のカレー、の文字に私が魅入られてしまった。半端な時間帯にも拘らずとても混んでいてやや待って席についてメニューを見ると……無念。その店のカレーは具によってルーを変えておりそれぞれ辛さが違う。私が目当てにしていた仔羊のは最も辛く作られていたので断念して中辛程度のものを注文。うちのは辛いのが好きなので仔羊を注文。チーズトッピングをしていたのに相当辛かったようだ。私も半熟卵をトッピングすればよかった、とやや後悔。ふたりして辛さで汗だくになった所為か、食後のサービスで出されたアイスチャイがとても美味しく感じた。普段、私はどちらかと言うとチャイは苦手な方なのだが。香草よりも茶葉の香りが強かったので飲み易かったのかもしれない。カレー屋を出て駅迄歩き、新宿へ。私は予備知識をたんまり蓄えて1度目、うちのは1度見て以来予備知識などはつけずに2度目の「イノセンス」観賞。
以下、ネタバレ注意。うちのは前回よりも眠くなったとかで、結局半分程の時間は寝ていたらしい。私は非常に楽しめた。とにかく映像と音楽が素晴らしく綺麗で圧巻。絵柄は映画版パトよりも観易くなっていた。が、あの絵柄では子供を可愛らしく描くことは難しそうに感じた。また筋肉の動きで表情を出す絵柄の為、誰の言葉だったかは忘れたけれど、人間の笑顔が美しいというのは嘘だ、造形が崩れて笑顔などは見苦しい、本当に美しい表情は無表情だ、という言葉が頭に浮かんだ。私も常々そう思っており、アニメーションを見て更にその思いに確信を持った。全体的な感想としては、物凄く作り込んだんだなあ、と。ただ作り込まれた感が強いだけあり、アニメ特有の声や足音のズレが気になってしまった。もっと雑な作りなら気にならなかっただろう。または電脳社会なのだから、いっそ口元を発声に必要な形では一切動かさずに作るとか。もしかしたらその方が設定がリアルになったかもしれない。ストーリーはきっと知識をつけずに行っても、バトーが少女の写真を拾ったところで勘付けたと思う。ヤクザのシーンは蛇足か。あのシーンがなくともストーリー上で支障はなかったかと。それよりは保護された少女が何故あそこに連れて行かれたかを描いた方が、話に膨らみが持たせられた気がする。またハダリがセクサロイドであるという設定を科白以外でも表現してもらいたかった。これは海外公開を前提に且つジブリが絡んだ時点で難しいか……。ベルメール人形をモチーフ、いや人形・作品そのままが2箇所出てきたところで、つけていった予備知識が活きてニヤリ。球体関節人形も美しく表現されていた。欲を言えば、電脳化されていない球体関節人形を祭りのシーンででも出してくれれば、ハダリたちがより未来を感じさせるものになったかも。私が予備知識を得た某巨大掲示板某板の数スレで、押井がバセットハウンドを描く為に作った映画だ、と揶揄されていた。あの映画にさほど魅力を感じなかった人には、犬の行動が特に印象に残ったのも頷けた。それくらいバセットハウンドはリアルに動いていたのだ。少佐の存在が新しい表現だ、とうちのは思ったらしい。私は……4分33秒という曲を思い出した。聴こうと思えば聴こえる、見ようと思えば見える。
服装/ozocのサーモンピンクカットソー+scolarのターコイズブルージップアップカーデ+ビリジアンブルー立体裁断クロップドパンツ+モナミピエルロのオフホワイト革ジャケット+オフホワイトのスラトップドライビングシューズ+ポーターの黒斜め掛け鞄+アナスイの蝶型チェーンピアス+同お揃いのブレスレット
メイク/ルティーナのクリスタルクリエーターUV→P&Jのパウダリーファンデ01→アナスイのアイブロウパウダー→ピエヌのスパークリングアイズBL204→ビューコスのボリュームマスカラ→資生堂SのトリックパーティーE→イプサのフェースカラーM502→ル・ミュウのエッセンスリップグロスのピンク
金曜に美容院に予約を入れたものの前々夜から具合が悪く、キャンセルしようかどうしようか迷ったのだが、この日はたまたま早く目覚めて入浴時間が取れたので、身綺麗にしてうちのと出掛けた。ピアスホールがなかなか安定しなかった為、髪を切るのは凡そ3ヶ月ぶり。結局未だ安定せず、ピアスをつけたままでカットしてもらうことになった。長らく放置していたのが功を為して、初めて前髪とサイドを繋げる形にできた。全体の印象に一体感が出て、後ろは余り長さを変えずに軽く。簪で纏め髪ができるよう伸ばそうかと思ったけれど、担当さんと相談の結果、私にはそこ迄伸ばす根性がないと判断して切ってもらった。もさーっとなっていたのが春らしくなり且つサイドのライターで焦がしてしまった毛先もなくなり手触りも良くなり、いい気分。うちのもスッキリと短くカットしてもらった。美容院を出て普段と違う道を歩いていたらフェレット専門店を発見した。珍しくうちのから、覗いてみよう、と言い出してショップに入ると10本程度のフェレットが大人しくケージの中で寝ていたり、ハンモックの上で寝ていたり。初めて、フェレットもいいなあ、うちの雑食動物と仲良くできるかなあ、とうちのの方から言い出したけれど値段が高く断念。うちで飼っている雑食動物とフェレットの相性は一般的には悪くない。仲良くなるとお互いの尻尾を追いかけっこしたりするらしい。けれど如何せん、姫、として我侭に育ってしまったうちの雑食動物が、新規参入動物と仲良くできるかは疑問。余談だが、昨日某県某所の駅前にてうちのと同種雑食動物の里親探しをしていた。うちのが動物の新規参入にやや気乗りしてきたと土曜に判断した私はかなり悩み、もらうのをやめた。やはりうちの姫が新しい仔を受け入れられるどうかが疑問だったからだ。ストレスで脱毛症になられても、新規の仔を虐めるようになっても困るし悲しい。いずれはもう1匹何かしらを飼いたいとは思っているが、うちの雑食動物がもっと歳を取って穏やかになってからの話か。
フェレット屋を出て川沿いの桜を眺め、やや遅い昼食を摂ろうと新しくできたらしいカレー屋へ。うちのは違う物が食べたかったらしいが店先のメニューにあった、仔羊のカレー、の文字に私が魅入られてしまった。半端な時間帯にも拘らずとても混んでいてやや待って席についてメニューを見ると……無念。その店のカレーは具によってルーを変えておりそれぞれ辛さが違う。私が目当てにしていた仔羊のは最も辛く作られていたので断念して中辛程度のものを注文。うちのは辛いのが好きなので仔羊を注文。チーズトッピングをしていたのに相当辛かったようだ。私も半熟卵をトッピングすればよかった、とやや後悔。ふたりして辛さで汗だくになった所為か、食後のサービスで出されたアイスチャイがとても美味しく感じた。普段、私はどちらかと言うとチャイは苦手な方なのだが。香草よりも茶葉の香りが強かったので飲み易かったのかもしれない。カレー屋を出て駅迄歩き、新宿へ。私は予備知識をたんまり蓄えて1度目、うちのは1度見て以来予備知識などはつけずに2度目の「イノセンス」観賞。
以下、ネタバレ注意。うちのは前回よりも眠くなったとかで、結局半分程の時間は寝ていたらしい。私は非常に楽しめた。とにかく映像と音楽が素晴らしく綺麗で圧巻。絵柄は映画版パトよりも観易くなっていた。が、あの絵柄では子供を可愛らしく描くことは難しそうに感じた。また筋肉の動きで表情を出す絵柄の為、誰の言葉だったかは忘れたけれど、人間の笑顔が美しいというのは嘘だ、造形が崩れて笑顔などは見苦しい、本当に美しい表情は無表情だ、という言葉が頭に浮かんだ。私も常々そう思っており、アニメーションを見て更にその思いに確信を持った。全体的な感想としては、物凄く作り込んだんだなあ、と。ただ作り込まれた感が強いだけあり、アニメ特有の声や足音のズレが気になってしまった。もっと雑な作りなら気にならなかっただろう。または電脳社会なのだから、いっそ口元を発声に必要な形では一切動かさずに作るとか。もしかしたらその方が設定がリアルになったかもしれない。ストーリーはきっと知識をつけずに行っても、バトーが少女の写真を拾ったところで勘付けたと思う。ヤクザのシーンは蛇足か。あのシーンがなくともストーリー上で支障はなかったかと。それよりは保護された少女が何故あそこに連れて行かれたかを描いた方が、話に膨らみが持たせられた気がする。またハダリがセクサロイドであるという設定を科白以外でも表現してもらいたかった。これは海外公開を前提に且つジブリが絡んだ時点で難しいか……。ベルメール人形をモチーフ、いや人形・作品そのままが2箇所出てきたところで、つけていった予備知識が活きてニヤリ。球体関節人形も美しく表現されていた。欲を言えば、電脳化されていない球体関節人形を祭りのシーンででも出してくれれば、ハダリたちがより未来を感じさせるものになったかも。私が予備知識を得た某巨大掲示板某板の数スレで、押井がバセットハウンドを描く為に作った映画だ、と揶揄されていた。あの映画にさほど魅力を感じなかった人には、犬の行動が特に印象に残ったのも頷けた。それくらいバセットハウンドはリアルに動いていたのだ。少佐の存在が新しい表現だ、とうちのは思ったらしい。私は……4分33秒という曲を思い出した。聴こうと思えば聴こえる、見ようと思えば見える。
服装/ozocのサーモンピンクカットソー+scolarのターコイズブルージップアップカーデ+ビリジアンブルー立体裁断クロップドパンツ+モナミピエルロのオフホワイト革ジャケット+オフホワイトのスラトップドライビングシューズ+ポーターの黒斜め掛け鞄+アナスイの蝶型チェーンピアス+同お揃いのブレスレット
メイク/ルティーナのクリスタルクリエーターUV→P&Jのパウダリーファンデ01→アナスイのアイブロウパウダー→ピエヌのスパークリングアイズBL204→ビューコスのボリュームマスカラ→資生堂SのトリックパーティーE→イプサのフェースカラーM502→ル・ミュウのエッセンスリップグロスのピンク
現在3月29日。
金曜、銀行回りをして買い物をして一旦帰宅。その後、病院に行き買い物をして帰宅。通院はほぼ1ヶ月ぶり。診察町の時間がつらかった。診察室で主治医が他の患者さんに向かって説教をしている大声が聞こえた。他者が大声で叱られていると自分まで叱られている気がして私は小さくなってしまう。またその説教の内容が、貴方はロボットなんですか? 人間なんですか? 自分の心の動きは自分が理解しなきゃダメでしょう! なんて内容。私にも思い当たるところが多く、余計につらい。悩みを抱えた顔で診察室から出てきた人は初老の男性。私が呼ばれて診察室に入って最初に言ったことは、先生、今、怖かったです。ああ、黒猫さんはああいう大声に怯えちゃうんだよね。前もそんなことがあったね。主治医は守秘義務を守りつつ、大声を出していた理由を簡潔に説明してくれた。自分の弱さを認められずに自分で枠組みを作り、他者をもその枠組みに従わせようとしてはいけないんだよ。よく理解できた。私も身近な人間には無意識のうちにそれを強いていることがある気がする。気をつけよう。しかし自分で枠組みを設定できているとおり、その枠組みに嵌れないことへのつらさはあるかもしれないけれど、枠組みを作れていること自体は自己がしっかりしているという意味では幸せかもしれず羨ましい。すると主治医。あのおじさんは幸せそうだった? ……いいえ。それから主治医に私の近況報告。発作の回数自体はそれ程増えていないけれど、1回の発作が大きい。先日は余りの痛みに泣いてしまった。また以前の発作は呼吸の苦しさと心臓の痛みだったのに、最近は心臓と同時に胃も痛くなる。胃の方は心配なら1度内科で検査してきなさい、とのこと。それから前回の診察から随分と間が空いてしまった理由の説明。この間に、私は気心が知れているとは言い難い知人に何度か会っている。その都度、楽しい時間は過ごせたけれど疲労が激しかった。そもそも私は他者に異様に愛想を振りまいて疲れることが多い。通院しなければ、という気持ちはあったものの主治医に会って普段なら疲れはしないけれど上記理由から他者との会話後の疲労に怖さが生じて足が遠のいてしまっていた、と。主治医曰く、それは自分に自信がないから嫌われたくないと過剰に気を遣ってしまっているんだね。はい、そうです。そうやって自分の弱さを認められるのは黒猫さんのいいところだね。褒められてしまいにたにたしつつ、有難うございます。でも少し思う。主治医の言葉に頷けているのは、主治医を気心が知れてはいない他者と認識しているからこそ、相手にとって気分のいい返事ができているのかもしれない。
この日の夕食は前日の残りのきんぴらごぼうならぬ、牛蒡と人参の煮物と野菜は全て乱切りにして肉も切り落としのままで作ってチンジャオロースもどき。おかず2種が共に千切りになるのを避ける為に敢えて乱切りにして、もどき、にした。うちのからは、美味い、と。しかもそれだけでなく、最近はよくご飯作ってるね、とのお言葉も。またにたにた。私は褒められ慣れていないので、スマートな対応ができない。にこっと笑って、ありがと、くらいがいいなあ、と思ってはいるものの行動が伴わない。もっと他人様に褒められるようになりたいものである。いや、それ以前に自身が他者を信用できるようにならなければ、か。どうも昔から貶され慣れてきている所為か、私は他者の褒め言葉を信用するのが難しい。ただのお世辞、または何か下心があるんじゃないかなどと勘繰ってしまい素直に喜べない。必要以上ににたついてしまったり、動揺して謙遜を通り越し相手の言葉を否定してしまったりもする。直したいが、尤も褒め言葉をいただける機会というのが殆どない。イメトレするのも空しい……。
貶されて育った人間と褒められて育った人間とでは、心の根っこもさることながら、表情からして違う気がする。貶されて育った人間は卑屈になりがちで人の顔色を伺い、何処かおどおどしていることが多く感じる。褒められて育った人間は素直で朗らかで、心持に余裕を持っているように感じる。前者な私に余裕はない。余裕がないから人の顔色を伺うし、他者の大声にびくつくのだろう。表面だけでも堂々とゆとりある素振りを心掛けていれば、そのうちに心も行動に追いついてくれるだろうか。それとも行動と心が伴わないストレスで参ってしまうか。参ってしまうのは怖いので、暫くはこのままでいるしかない。主治医の言ってくれた、いいところ。得てして人の長所と短所は表裏一体であり、弱さを認められるということは心のハードルが低く、他者につけ込まれ易いとも言えよう。これが悪い考え方。弱さを認められるのは意地っ張りではなく素直だと褒めてくれた、という解釈も可能なのに悪い方へとばかり考えが走る。
この日の外出で最後に寄ったデパートのコスメフロア。某カウンタで買い物をしたら、ファンデーションのサンプルを差し上げたいんですけど、と言われた。ので頂戴した。それはいい。ただBAの教育がなっていないな、と思った。BAは色合わせの為に、私の頬にファンデを塗ってこようとした。スッピンだった私は、肌が荒れていて休ませようと下地も何も塗っていないので、と断った。すると、お肌が綺麗なのでてっきりファンデを使っていらっしゃるかと思いました〜。ここ数年、ニキビ痕が残り易くなってしまった私のすっぴん肌は決して綺麗とは言えない。歯の浮くお世辞混じりのセールストークは嫌いだ。しかし相手はそれが仕事であり、そんなに怒る程のことではない。教育がなっていないと思ったのは、ファンデを塗っていると思っていたのならまずはそれを落としてから別のファンデをつけないと、前以って塗っていたファンデの色と混ざってしまい色合わせの意味がないからだ。そしてこちらがすっぴんだと告げたら、肌が荒れていない部分に下地をつけて色を見ることも可能だった筈だ。要するに、セールストークだけが先走って最も大切な仕事ができていないという話である。オチとして、カウンタを離れてセルフコスメのコーナーに設置された鏡を見たら、口元の産毛がやや伸びていてヒゲっぽく……。やはり当分、他人様の褒め言葉には疑念を持たざるを得ない。
金曜、銀行回りをして買い物をして一旦帰宅。その後、病院に行き買い物をして帰宅。通院はほぼ1ヶ月ぶり。診察町の時間がつらかった。診察室で主治医が他の患者さんに向かって説教をしている大声が聞こえた。他者が大声で叱られていると自分まで叱られている気がして私は小さくなってしまう。またその説教の内容が、貴方はロボットなんですか? 人間なんですか? 自分の心の動きは自分が理解しなきゃダメでしょう! なんて内容。私にも思い当たるところが多く、余計につらい。悩みを抱えた顔で診察室から出てきた人は初老の男性。私が呼ばれて診察室に入って最初に言ったことは、先生、今、怖かったです。ああ、黒猫さんはああいう大声に怯えちゃうんだよね。前もそんなことがあったね。主治医は守秘義務を守りつつ、大声を出していた理由を簡潔に説明してくれた。自分の弱さを認められずに自分で枠組みを作り、他者をもその枠組みに従わせようとしてはいけないんだよ。よく理解できた。私も身近な人間には無意識のうちにそれを強いていることがある気がする。気をつけよう。しかし自分で枠組みを設定できているとおり、その枠組みに嵌れないことへのつらさはあるかもしれないけれど、枠組みを作れていること自体は自己がしっかりしているという意味では幸せかもしれず羨ましい。すると主治医。あのおじさんは幸せそうだった? ……いいえ。それから主治医に私の近況報告。発作の回数自体はそれ程増えていないけれど、1回の発作が大きい。先日は余りの痛みに泣いてしまった。また以前の発作は呼吸の苦しさと心臓の痛みだったのに、最近は心臓と同時に胃も痛くなる。胃の方は心配なら1度内科で検査してきなさい、とのこと。それから前回の診察から随分と間が空いてしまった理由の説明。この間に、私は気心が知れているとは言い難い知人に何度か会っている。その都度、楽しい時間は過ごせたけれど疲労が激しかった。そもそも私は他者に異様に愛想を振りまいて疲れることが多い。通院しなければ、という気持ちはあったものの主治医に会って普段なら疲れはしないけれど上記理由から他者との会話後の疲労に怖さが生じて足が遠のいてしまっていた、と。主治医曰く、それは自分に自信がないから嫌われたくないと過剰に気を遣ってしまっているんだね。はい、そうです。そうやって自分の弱さを認められるのは黒猫さんのいいところだね。褒められてしまいにたにたしつつ、有難うございます。でも少し思う。主治医の言葉に頷けているのは、主治医を気心が知れてはいない他者と認識しているからこそ、相手にとって気分のいい返事ができているのかもしれない。
この日の夕食は前日の残りのきんぴらごぼうならぬ、牛蒡と人参の煮物と野菜は全て乱切りにして肉も切り落としのままで作ってチンジャオロースもどき。おかず2種が共に千切りになるのを避ける為に敢えて乱切りにして、もどき、にした。うちのからは、美味い、と。しかもそれだけでなく、最近はよくご飯作ってるね、とのお言葉も。またにたにた。私は褒められ慣れていないので、スマートな対応ができない。にこっと笑って、ありがと、くらいがいいなあ、と思ってはいるものの行動が伴わない。もっと他人様に褒められるようになりたいものである。いや、それ以前に自身が他者を信用できるようにならなければ、か。どうも昔から貶され慣れてきている所為か、私は他者の褒め言葉を信用するのが難しい。ただのお世辞、または何か下心があるんじゃないかなどと勘繰ってしまい素直に喜べない。必要以上ににたついてしまったり、動揺して謙遜を通り越し相手の言葉を否定してしまったりもする。直したいが、尤も褒め言葉をいただける機会というのが殆どない。イメトレするのも空しい……。
貶されて育った人間と褒められて育った人間とでは、心の根っこもさることながら、表情からして違う気がする。貶されて育った人間は卑屈になりがちで人の顔色を伺い、何処かおどおどしていることが多く感じる。褒められて育った人間は素直で朗らかで、心持に余裕を持っているように感じる。前者な私に余裕はない。余裕がないから人の顔色を伺うし、他者の大声にびくつくのだろう。表面だけでも堂々とゆとりある素振りを心掛けていれば、そのうちに心も行動に追いついてくれるだろうか。それとも行動と心が伴わないストレスで参ってしまうか。参ってしまうのは怖いので、暫くはこのままでいるしかない。主治医の言ってくれた、いいところ。得てして人の長所と短所は表裏一体であり、弱さを認められるということは心のハードルが低く、他者につけ込まれ易いとも言えよう。これが悪い考え方。弱さを認められるのは意地っ張りではなく素直だと褒めてくれた、という解釈も可能なのに悪い方へとばかり考えが走る。
この日の外出で最後に寄ったデパートのコスメフロア。某カウンタで買い物をしたら、ファンデーションのサンプルを差し上げたいんですけど、と言われた。ので頂戴した。それはいい。ただBAの教育がなっていないな、と思った。BAは色合わせの為に、私の頬にファンデを塗ってこようとした。スッピンだった私は、肌が荒れていて休ませようと下地も何も塗っていないので、と断った。すると、お肌が綺麗なのでてっきりファンデを使っていらっしゃるかと思いました〜。ここ数年、ニキビ痕が残り易くなってしまった私のすっぴん肌は決して綺麗とは言えない。歯の浮くお世辞混じりのセールストークは嫌いだ。しかし相手はそれが仕事であり、そんなに怒る程のことではない。教育がなっていないと思ったのは、ファンデを塗っていると思っていたのならまずはそれを落としてから別のファンデをつけないと、前以って塗っていたファンデの色と混ざってしまい色合わせの意味がないからだ。そしてこちらがすっぴんだと告げたら、肌が荒れていない部分に下地をつけて色を見ることも可能だった筈だ。要するに、セールストークだけが先走って最も大切な仕事ができていないという話である。オチとして、カウンタを離れてセルフコスメのコーナーに設置された鏡を見たら、口元の産毛がやや伸びていてヒゲっぽく……。やはり当分、他人様の褒め言葉には疑念を持たざるを得ない。
絶縁後も家訓であった、クレジットカードは所持しない、を私は守っている。クレジットカードを使用しての買い物は借金なのにその感覚が薄れてドツボに嵌る。嵌らない人も多くいるのは承知だが、私は漏れなく嵌る。それを危惧して及び実の父の借金癖での苦労を踏まえて考えた、親が作った家訓だ。親はアレでもこの家訓は尤もだと思っている。うちのはクレジットカードを持っている。訊けば、プロバイダ加入にあたり作った、とか。それは一向に構わないのだけれど、最近一緒に買い物に行くと、カード支払いにすることが多くやや気になっている。一緒に行く買い物を具体的に書けば、私へのプレゼント。勘違いして欲しくないのは、私が無闇に物を強請っているのではなく、単に12月から3月にかけてにイベントが集中しているからだ。12月はクリスマス、1月は私の誕生月、3月にはホワイトデイ。その時期にプレゼントという通常外出費が重なるのでカードを使用してしまうことになる、とうちのは言う。特に高価な物を強請っているつもりはない。基本は、私からうちのへのプレゼントの3倍、である。私がプレゼントする物自体は高価ではないので、高くてもうちのから私へのプレゼントは3万で収まる。3倍返しを基本としているのは贅沢なのだろうか。うちのと付き合う前は、私から相手へのプレゼントの値段がもっともっと低く、それこそ10倍返し20倍返しで受け取っていたので3倍返し基準は、私からうちのへの愛情表現の一種のつもりなのだが。それでもうちのは贅沢だと言う。うちのの基本は等倍返しらしい。そのときに欲しいと思ったものが私からのプレゼントと同額であれば等倍でもいいのだけれど、何故か3倍程度高値の物を欲しいと思ってしまっている自分がいる。親の口癖として、自分で買える値段のプレゼントは要らない、というのがあった。今は大分丸くなり且つ私と名目上絶縁している関係もあって、安価なプレゼントでも喜んでもらえるようにはなったけれど昔は、こんなもの……、とプレゼントした物をあしらわれたこともあった。こんな悪い部分を受け継いでしまっているのか。でも。欲しい物は欲しいんだもん! と中村うさぎのような気持ちもあり、私が強請るプレゼントが法外な値段ではないこともあり、さてはてどうしたものか。
私のことを一言で表せば、非常識、だとうちのは言う。先日この相互プレゼント価格の話をしていたときには、金に関してだけは常識を持ってる、と言ってきた。ということは、3倍返しは非常識ではなさそうだ。このままで良さそうな気がした。大体、冬にイベントが集中しているのは自明なのだからその為に蓄えておけ、と言いたい。その場でこの言葉を飲み込んでしまったのは弱気だったか。家計簿をつけ始めてからは、私の小遣い額を一定させるようになった。そしてその中で冬の各種プレゼント費用を蓄え始めた。できることなら、うちのにもそうして欲しいものである。あ、今思い出した。過去に私からのプレゼントよりも低価格のお返しをホワイトデイにもらったことがあった。確かそのときは雑貨屋のピアスとヘアピン。たまたまプレゼントの買い物に一緒に出かけたときに目に付いて欲しくなり、これがいい、と強請った。そんなこともある。3倍返しに執着している訳ではないのだ。
プレゼントとは離れたお金関連の話。うちのも私も金銭感覚は緩い。しかしその緩さのベクトルは真逆だ。うちのは貸すことに緩く、私は借りることに緩い。付き合い始めの頃、貧窮していた私は当時住んでいたアパートの更新料を払えずに困っていた。付き合い始め故に相手を理解しきっている訳ではなく私は雑談の中で、更新料が払えなくてね〜、と話した。その数日後、うちのはン十万入った銀行の封筒を私に差し出し、これを貸すから払っておいで、と言ってくれた。激しく同様。付き合って数ヶ月も経っていない人間にこんな大金を貸す人間がいるとは! 当然私は遠慮して辞退した。それでも、今余裕あるから大丈夫だよ、と言ってくれて最後には甘えさせてもらった。同棲してからそのお金の出所が発覚。銀行貸付の範囲で借金してくれたお金だったのだ。びっくりした。そして私はその行為が緩いながらも私への愛情表現のひとつであり、ここ迄尽くしてくれるなんて……この人についていこう、と思った。そのお金は未だ完済していない。むしろその後もうちのからン十万の借金をしたり、パチンコで貯金を使い込んでしまったりとの体たらく。働いていた頃には少しだけ返済したけれど、働ける状態にない今、返済の目処は全くついていない。いっそ結納金先もらいだったことしてチャラに、なんて。
今は他者から借金をする行為はない。私の金銭感覚の緩さは諸事情にも関係していたことを知り、それからは箍が外れた一時期を除き自重している。箍が外れてしまった後は、自重だけでなく自身の金銭感覚に警戒していると言っても過言ではない。そんな私の昔からのポリシーとして、各種金融機関からは借金をしない、というのがある。利息が怖いからだ。なら何処から借金するか。友人知人らであった。関わりを持ち続けたい友人には当然返済し終えている。そうでない相手には……余計なことは書くまい。数日前、真逆ベクトルのうちのと軽い言い合いになった。この間書いたうちのの友人にお金を貸してしまった件。友人知人から、汚い言い方だけれども、金を引っ張るコツを心得ている私としては、そのうちのの友人がどういう心境か想像できてしまうのだ。しかも前にはうちのから10万引っ張っている。他者がついつい金を貸したくなってしまう状況説明、というものがある。うちののその友人がこのツボを身につけているように思えてならない。コツも然ることながら、貸してくれる友人知人を見極める嗅覚も必要だ。嗅覚とツボを身につけてしまった者は、何処かで引き返す場所を見つけなければならない。そうでなければどんどん自分の社会・交友範囲を狭めてしまう。私の引き返し地点はPD発症で始めた通院だった。そこで諸事情も発覚し、やっと気付けた。私は過去を省みつつ自重と警戒を続けていく。うちのは……きっとその友人から返済がないと見極められたときに緩さに気付くと思っている。
私のことを一言で表せば、非常識、だとうちのは言う。先日この相互プレゼント価格の話をしていたときには、金に関してだけは常識を持ってる、と言ってきた。ということは、3倍返しは非常識ではなさそうだ。このままで良さそうな気がした。大体、冬にイベントが集中しているのは自明なのだからその為に蓄えておけ、と言いたい。その場でこの言葉を飲み込んでしまったのは弱気だったか。家計簿をつけ始めてからは、私の小遣い額を一定させるようになった。そしてその中で冬の各種プレゼント費用を蓄え始めた。できることなら、うちのにもそうして欲しいものである。あ、今思い出した。過去に私からのプレゼントよりも低価格のお返しをホワイトデイにもらったことがあった。確かそのときは雑貨屋のピアスとヘアピン。たまたまプレゼントの買い物に一緒に出かけたときに目に付いて欲しくなり、これがいい、と強請った。そんなこともある。3倍返しに執着している訳ではないのだ。
プレゼントとは離れたお金関連の話。うちのも私も金銭感覚は緩い。しかしその緩さのベクトルは真逆だ。うちのは貸すことに緩く、私は借りることに緩い。付き合い始めの頃、貧窮していた私は当時住んでいたアパートの更新料を払えずに困っていた。付き合い始め故に相手を理解しきっている訳ではなく私は雑談の中で、更新料が払えなくてね〜、と話した。その数日後、うちのはン十万入った銀行の封筒を私に差し出し、これを貸すから払っておいで、と言ってくれた。激しく同様。付き合って数ヶ月も経っていない人間にこんな大金を貸す人間がいるとは! 当然私は遠慮して辞退した。それでも、今余裕あるから大丈夫だよ、と言ってくれて最後には甘えさせてもらった。同棲してからそのお金の出所が発覚。銀行貸付の範囲で借金してくれたお金だったのだ。びっくりした。そして私はその行為が緩いながらも私への愛情表現のひとつであり、ここ迄尽くしてくれるなんて……この人についていこう、と思った。そのお金は未だ完済していない。むしろその後もうちのからン十万の借金をしたり、パチンコで貯金を使い込んでしまったりとの体たらく。働いていた頃には少しだけ返済したけれど、働ける状態にない今、返済の目処は全くついていない。いっそ結納金先もらいだったことしてチャラに、なんて。
今は他者から借金をする行為はない。私の金銭感覚の緩さは諸事情にも関係していたことを知り、それからは箍が外れた一時期を除き自重している。箍が外れてしまった後は、自重だけでなく自身の金銭感覚に警戒していると言っても過言ではない。そんな私の昔からのポリシーとして、各種金融機関からは借金をしない、というのがある。利息が怖いからだ。なら何処から借金するか。友人知人らであった。関わりを持ち続けたい友人には当然返済し終えている。そうでない相手には……余計なことは書くまい。数日前、真逆ベクトルのうちのと軽い言い合いになった。この間書いたうちのの友人にお金を貸してしまった件。友人知人から、汚い言い方だけれども、金を引っ張るコツを心得ている私としては、そのうちのの友人がどういう心境か想像できてしまうのだ。しかも前にはうちのから10万引っ張っている。他者がついつい金を貸したくなってしまう状況説明、というものがある。うちののその友人がこのツボを身につけているように思えてならない。コツも然ることながら、貸してくれる友人知人を見極める嗅覚も必要だ。嗅覚とツボを身につけてしまった者は、何処かで引き返す場所を見つけなければならない。そうでなければどんどん自分の社会・交友範囲を狭めてしまう。私の引き返し地点はPD発症で始めた通院だった。そこで諸事情も発覚し、やっと気付けた。私は過去を省みつつ自重と警戒を続けていく。うちのは……きっとその友人から返済がないと見極められたときに緩さに気付くと思っている。
現在3月25日。
うちのの給料日だと言うのに銀行回りをしなかったのは初めてだと思う。現在財布の中は1000円程度。明日こそ行かねば。今日出かけなかったのは、昨日から風邪をひいてしまったから。くしゃみハナミズは全部花粉症の所為だとばかり思っていたのに、どうやら風邪の予兆だったらしい。ブタクサ花粉症なのにまだ杉の季節で、今年から杉にも反応するようになったのかと不安になっていたが違っていた模様。うちのの帰宅後に体温を計ったら発熱していた。因って夕飯終了後に風邪薬とソラナックスと眠剤2種を投入して就寝。日付変更前に布団に入ったのはどれ程ぶりだろう。眠剤の効果を待っている間、布団の中で生協次回注文分のチラシを見ていたら……来た! ずーっと欲しかった、ニット類ホームクリーニング後の平干し用ネットが登場! コート類のホームクリーニングは諦めているものの、ニット類をクリーニングに出すことに長く苛立ちを抱えていた私。近所のスーパーなどでも平干し用ネットは扱っておらず、クリーニング屋に取扱っている店を訊いたこともある。莫迦だ。クリーニング屋曰く苦笑しつつ、うちに出してください。そりゃそうだ。商売敵とも言える道具の販売店、例え知っていてもおいそれと教えてはくれまい。ダスキンで販売しているのは知っていたけれど、普段の生活では縁のない店なので、なんとなく購入には至らなかった。生協のお陰で苛立ち解消。来週、必ず注文しなくては。
なんて書いていると私は家事が大好きな人間のようだ。過去の日記にもあるように本来は家事全般、嫌いである。嫌いではなく面倒、と書いた方が正しいか。なのに何故かここ数日、家事をしたくて堪らない。前にも書いた気がするけれど不思議なことに、私は体調がやや悪い状態のときに限って家事をしたくなる。だから最近連続で夕飯を作れていたのかもしれない。寝てりゃいいのに。むしろ熱があるなら寝ろ! と自分に叱りたい。思うに、熱が出た=風邪の悪化の直接的原因は昨日の早朝にありそうだ。昨日の早朝、早朝故にうちのは寝ていた。私は起きていた。昨日出すべき生協の注文書記入を済ませていなかったからだ。うちの間取りは1DKであり、居間と寝室は兼用だ。うちのが寝ているからには、寝室でもある居間で蛍光灯をつけてチラシをガサガサ言わせつつ注文書に記入するのは憚られ、DK部分でその作業をしていた。DKと言ってもダイニングの機能は果たしていない。キッチン兼PC部屋である。だからチラシを大っぴらに広げられるのは床のみ。床に広げ、床に寝っ転がり記入。DK部分に暖房はない。ストーブをつけることは可能だったけれど、そうするとチラシが広げられない。そんなこんなの事情で、最も底冷えする早朝にフローリングの床に寝そべって作業すること1時間強。注文書は無事に提出できたものの、私の体は無事ではなかった。今日も具合が悪い。
具合は悪いが、夕食を作り洗濯物を畳んだ。この日記をアップし終えたら動物らのトイレなどを掃除して、うちののシャツの釦付けをする予定。この釦付け。どうも随分前に頼まれていたらしい。随分とは、1週間か10日くらい前。昨日付けていないことを指摘されて、あー前に頼まれていたようなそうでないような……となった。記憶が定かでないのは、単に私が寝ているときにうちのが頼んできたからである。寝ている状態で話しかけられても、私は生返事はできるらしい。だから相手は了承を得たと勘違いする。こちらには記憶なし。うちのにもその傾向はあり、昔はこの手のすれ違いでよく喧嘩になった。今はお互いに慣れてきて、おいおい頼むよ〜、で済まされている。これが良いことかどうかは判らないけれど、似た喧嘩が減ってきているという点では良いことだ。因みに、具合が悪いのだから今日は夕食作りも洗濯物の整理もしなくても構わなかった。勿論、釦付けだって今夜しなくてもいい。でも無性にしたい。このシャキっぷりが持続できれば我が家はどれくらい平和になるのだろう、と思うが、シャキ持続はしたくない。そもそも私の性分に合わず、努力してシャキを持続させてしまったら却って現状よりも家庭の空気が悪くなりそうだ。シャキシャキと家事をこなす日々が続いたとする。うちのはそのシャキっぷりに慣れ、それをあるべき家庭の姿だと思うだろう。けれど素質としてシャキを持ち合わせていない私のことだから、きっと息切れしてしまう。そしてだらっぷりに拍車がかかり、シャキ慣れしたうちのは、元々であっただらっぷり、もしかしたら反動で今以上にだらになる私に我慢できなかろうと簡単に想像できてしまう。少し前にうちのに言われた言葉がある。お前はだらしない。ご尤もだ。しかしその後に続いた言葉に困惑。非常識から、だらしないという段階に成長したんだなあ。だらしない、が成長の証にされる私って一体……。でもそのくらいの認識でいてくれる方が楽だ。
今夜の夕食は紫蘇餃子ときんぴらごぼう。昨日の夕食は、桜の葉の塩漬け巻き鯛の押鮨・一昨日の残りのトマトとクリームチーズのイタリアンドレッシング和え・たまごサラダ・きくらげと銀杏の湯葉巻き・たまごどうふ。今夜はともかく、昨夜は盛り付けにも自分なりに凝ってみた。そして気付いた。うちには食器が足りない。いや、食器そのものは充分にあるのだけれど、凝った盛り付けに使えるような小鉢や器がないのだ。本当は昨夜の夕飯の盛り付けを懐石っぽくしたかったのに、思い描いていたものとはかけ離れたものになってしまった。それでもうちのとしては、料理の種類がいつもより多かったことや大皿にどーんではない盛り付けに、そこそこ満足してくれたらしい。私は済んだ夕食に未だ不満足。もっときちんと盛り付けしたかった……。そして食器を増やしたい衝動に駆られたが、少し立ち止まってみた。普段の盛り付けではこのようなことは全く考えず、食えりゃいいだろ的盛り付けばかりであり、本音を言えば鍋ごと・フライパンごと食卓に出したい。洗い物が減るから。昨日に限って凝ってみたいと思ったのは、きっと具合が悪いからだ。そんな一時の衝動で食器を増やしても、殆どは日の目を見ないことだろう。何だか冷静。これは風邪が治りかけている兆しだろうか。しかし今も悪寒がし、頭痛が続いている。週末のお出かけが本当に可能なのか不安だ。明日の夕方迄は様子を見なければ予定が立てられなさそうだ。それでもその夕方迄に銀行周り必須。体調不良スパイラルに陥った模様。
うちのの給料日だと言うのに銀行回りをしなかったのは初めてだと思う。現在財布の中は1000円程度。明日こそ行かねば。今日出かけなかったのは、昨日から風邪をひいてしまったから。くしゃみハナミズは全部花粉症の所為だとばかり思っていたのに、どうやら風邪の予兆だったらしい。ブタクサ花粉症なのにまだ杉の季節で、今年から杉にも反応するようになったのかと不安になっていたが違っていた模様。うちのの帰宅後に体温を計ったら発熱していた。因って夕飯終了後に風邪薬とソラナックスと眠剤2種を投入して就寝。日付変更前に布団に入ったのはどれ程ぶりだろう。眠剤の効果を待っている間、布団の中で生協次回注文分のチラシを見ていたら……来た! ずーっと欲しかった、ニット類ホームクリーニング後の平干し用ネットが登場! コート類のホームクリーニングは諦めているものの、ニット類をクリーニングに出すことに長く苛立ちを抱えていた私。近所のスーパーなどでも平干し用ネットは扱っておらず、クリーニング屋に取扱っている店を訊いたこともある。莫迦だ。クリーニング屋曰く苦笑しつつ、うちに出してください。そりゃそうだ。商売敵とも言える道具の販売店、例え知っていてもおいそれと教えてはくれまい。ダスキンで販売しているのは知っていたけれど、普段の生活では縁のない店なので、なんとなく購入には至らなかった。生協のお陰で苛立ち解消。来週、必ず注文しなくては。
なんて書いていると私は家事が大好きな人間のようだ。過去の日記にもあるように本来は家事全般、嫌いである。嫌いではなく面倒、と書いた方が正しいか。なのに何故かここ数日、家事をしたくて堪らない。前にも書いた気がするけれど不思議なことに、私は体調がやや悪い状態のときに限って家事をしたくなる。だから最近連続で夕飯を作れていたのかもしれない。寝てりゃいいのに。むしろ熱があるなら寝ろ! と自分に叱りたい。思うに、熱が出た=風邪の悪化の直接的原因は昨日の早朝にありそうだ。昨日の早朝、早朝故にうちのは寝ていた。私は起きていた。昨日出すべき生協の注文書記入を済ませていなかったからだ。うちの間取りは1DKであり、居間と寝室は兼用だ。うちのが寝ているからには、寝室でもある居間で蛍光灯をつけてチラシをガサガサ言わせつつ注文書に記入するのは憚られ、DK部分でその作業をしていた。DKと言ってもダイニングの機能は果たしていない。キッチン兼PC部屋である。だからチラシを大っぴらに広げられるのは床のみ。床に広げ、床に寝っ転がり記入。DK部分に暖房はない。ストーブをつけることは可能だったけれど、そうするとチラシが広げられない。そんなこんなの事情で、最も底冷えする早朝にフローリングの床に寝そべって作業すること1時間強。注文書は無事に提出できたものの、私の体は無事ではなかった。今日も具合が悪い。
具合は悪いが、夕食を作り洗濯物を畳んだ。この日記をアップし終えたら動物らのトイレなどを掃除して、うちののシャツの釦付けをする予定。この釦付け。どうも随分前に頼まれていたらしい。随分とは、1週間か10日くらい前。昨日付けていないことを指摘されて、あー前に頼まれていたようなそうでないような……となった。記憶が定かでないのは、単に私が寝ているときにうちのが頼んできたからである。寝ている状態で話しかけられても、私は生返事はできるらしい。だから相手は了承を得たと勘違いする。こちらには記憶なし。うちのにもその傾向はあり、昔はこの手のすれ違いでよく喧嘩になった。今はお互いに慣れてきて、おいおい頼むよ〜、で済まされている。これが良いことかどうかは判らないけれど、似た喧嘩が減ってきているという点では良いことだ。因みに、具合が悪いのだから今日は夕食作りも洗濯物の整理もしなくても構わなかった。勿論、釦付けだって今夜しなくてもいい。でも無性にしたい。このシャキっぷりが持続できれば我が家はどれくらい平和になるのだろう、と思うが、シャキ持続はしたくない。そもそも私の性分に合わず、努力してシャキを持続させてしまったら却って現状よりも家庭の空気が悪くなりそうだ。シャキシャキと家事をこなす日々が続いたとする。うちのはそのシャキっぷりに慣れ、それをあるべき家庭の姿だと思うだろう。けれど素質としてシャキを持ち合わせていない私のことだから、きっと息切れしてしまう。そしてだらっぷりに拍車がかかり、シャキ慣れしたうちのは、元々であっただらっぷり、もしかしたら反動で今以上にだらになる私に我慢できなかろうと簡単に想像できてしまう。少し前にうちのに言われた言葉がある。お前はだらしない。ご尤もだ。しかしその後に続いた言葉に困惑。非常識から、だらしないという段階に成長したんだなあ。だらしない、が成長の証にされる私って一体……。でもそのくらいの認識でいてくれる方が楽だ。
今夜の夕食は紫蘇餃子ときんぴらごぼう。昨日の夕食は、桜の葉の塩漬け巻き鯛の押鮨・一昨日の残りのトマトとクリームチーズのイタリアンドレッシング和え・たまごサラダ・きくらげと銀杏の湯葉巻き・たまごどうふ。今夜はともかく、昨夜は盛り付けにも自分なりに凝ってみた。そして気付いた。うちには食器が足りない。いや、食器そのものは充分にあるのだけれど、凝った盛り付けに使えるような小鉢や器がないのだ。本当は昨夜の夕飯の盛り付けを懐石っぽくしたかったのに、思い描いていたものとはかけ離れたものになってしまった。それでもうちのとしては、料理の種類がいつもより多かったことや大皿にどーんではない盛り付けに、そこそこ満足してくれたらしい。私は済んだ夕食に未だ不満足。もっときちんと盛り付けしたかった……。そして食器を増やしたい衝動に駆られたが、少し立ち止まってみた。普段の盛り付けではこのようなことは全く考えず、食えりゃいいだろ的盛り付けばかりであり、本音を言えば鍋ごと・フライパンごと食卓に出したい。洗い物が減るから。昨日に限って凝ってみたいと思ったのは、きっと具合が悪いからだ。そんな一時の衝動で食器を増やしても、殆どは日の目を見ないことだろう。何だか冷静。これは風邪が治りかけている兆しだろうか。しかし今も悪寒がし、頭痛が続いている。週末のお出かけが本当に可能なのか不安だ。明日の夕方迄は様子を見なければ予定が立てられなさそうだ。それでもその夕方迄に銀行周り必須。体調不良スパイラルに陥った模様。
睡眠第1条件
2004年3月23日 家族・メンヘル・健康など 現在3月24日。
某サイトにて、立派なダラ奥、と認定された私に対し、何が何でも規則正しい生活をさせたい奇特なうちのが、昨日の朝すやすやと眠る私をぬくぬくと温める布団を引っぺがして起こそうとした。ちょっと前迄は暖かかったのに、またここ数日は寒くなっている。特に朝晩。寒いのが苦手な私にとって、ぬくぬく布団を剥がされるのは死ねと罵られるくらいにつらい。本当につらい。凍死させられるのでは? と思ってしまう程につらい。故に、死ぬ! 死んじゃう〜! と本能で喚いた。余りに喚いて布団にしがみつく私に見切りをつけて、うちのは炊飯器で保温していたひじきご飯を掻っ込んで出勤したらしい。生死を賭けた戦いに勝った私。うちのが食事していったことを知ったのは、14時半頃に起きてシンクに置かれた茶碗と箸を見てからだった。戦いの後、私はまたすぐに寝付いたらしい。生まれてこの方、規則正しい生活、とかいうものをしたことがない私に今更それを求められても困る。諦めて欲しい。むしろ諦念しろ。昨日は布団を引っぺがしながら、ほら起きろ! という起こされ方だった。うちのなりに譲歩したらしい。一昨日の夜、我が家で話し合いをした。土日、基本的にうちのの仕事は休みだ。稀に私の方が早く起きて簡単な朝食を作るなり、買出しに出かけてからうちのを起こす。しかし大概はうちのの方が早く起きて私を起こす。その起こし方がずーっと気に入らなかった。常に第一声が、メシ、なのだ。露骨に飯炊き女扱いをされている気がして毎週末が嫌で嫌で仕方がなく、うちのにその起こし方はやめてくれと頼んだのだ。だからきっと昨日は、起きろ! だったのだろう。同義でも気分は違う。どっちにしても起きなかったけど。昨日は平日。なのに何故起こされかけたのか。
うちのは気分屋だ。因ってその時々で言うことが変わる。4年以上生活を共にしてきて、正確に数えてはいないけれど恐らくほぼ同じ回数の、毎朝メシを出して欲しい・朝食はいらない、を聞いてきた。聞く度に生活サイクルを変えるのは嫌だ、と一昨日の話し合いで伝えた。そして、とにかく簡単でもいいから朝食が食いたい、炊飯器なり冷蔵庫なり冷凍庫なり鍋なりに何かすぐに食べられるものを常備しておいてくれ、と頼まれた。因みに昨今は何故かパンが美味しく感じられなくなったとかで、米類か麺類限定で頼まれた。うちのは、私に規則正しい生活を求めるという建前の下に、俺様の生活リズムに合わせろ的側面がある。私は偏屈且つ理屈屋なので言われることや言われる時間が違う度に従えない。お互いの性分や要求の譲り合いを考えた。そして取り敢えず食べ物が何もない状態は作らないようにするから、メシ、と言って起こすのは控えるべし、で折り合いがついた。筈だった。炊飯器にちゃんとご飯があるんだから勝手に食べて行ってくれ。起こしてくれるな! そして昨夜、再び軽く話し合い。うちのの要求は、せめて土日の朝はメシを出してくれ、にハードルが下がった。そのくらいなら頑張れるか。 いや、頑張ろう。少なくとも今は頑張ろうと思っている。なるべく……。
PC逝去から復活の間に使えなかった某巨大掲示板専用ブラウザを立ち上げ、復活からついさっき迄かかって溜まっていたレスを読破した。因みに巡回スレは数板に渡り延べ50強。その中にちょっと面白い話があった。日々眠い・寝過ぎると却って疲れる・余裕で12時間、長ければ20時間寝られる、などの話が続いていた中での1レス。そのレスを書いた人は、怒ると眠くなるらしい。一見奇妙な話に思えたが、ちゃんと理由も書かれていた。要約。怒っているときは興奮状態にあり、人間は酷い興奮状態に陥ると失神する。睡魔は失神には至らないだけの状態で、心に平穏を保つ為の防衛本能だとか。要約したつもりがレスそのものよりも長くなったような……気にしない。で、ふと思った。私は目覚まし時計であれ他者であれ、起こされる、ということそのものが非常に嫌いである。起こされると腹が立つ。そして通常は寝付きが悪く、余程の不眠の後でもない限りは眠剤が欠かせないのに、起こされた後ならすぐに眠りにつける。これは起こされた腹立ちからの防衛本能なのか。こじ付けのようだけれど、自己完結的納得ができた。
もうひとつ仮説。目覚まし時計を止める若しくは起こそうとしていた相手が諦めると、私は勝った気になり安心して眠れる。調べてはいないけれど、満腹時に眠くなるのも飢餓の恐れがない状態からの安心感に基づくのではなかろうか。また怒り過ぎたり悲しかったりして泣いた後で一旦でも解決したように感じられるとスッと眠れる。これもまやかし込みで安心感が得られて眠れるのではないかと推測。書いていて尤もな気がしてきた。私が不眠症になった原因は漠然とした不安感に囚われたからであり、それが未だに拭えないから眠剤を手放せない。私の睡眠の第1条件は、安心感を得ること、なのか。そういえば、うちの雑食動物が布団に入ってきたり私の手の届く場所で寝ているときは、そうでないときに比較して寝付きが良くなる。昔、何かの本で動物の毛に触れているとα波が出て安心できる、と読んだ記憶がある。α波云々については詳しくないが、動物の毛と体温で安心して眠りにつき易いことは日々の生活で実感している。ここ迄考えて思ったこと。私が規則正しい生活を生まれてこの方してこれなかったのは、常に安心感から縁遠い日々を送っていたからではなかろうか。そして規則正しい生活を送るには、毎日決まった時間に安心感が得られればいいのではなかろうか。この考えはかなりいい線をいっている気がしてきた。それでもクリアすべき問題はまだある。まず、どうやって毎日決まった時間に私を睡眠に導くべき安心感を得る方法を確立するか。そして規則正しい生活をする為には起床時間も安定させねばならず、どうすれば睡眠の質を向上させて時間短縮ができるのか。まだまだ課題は多い。それ以前に、何故私は目覚まし時計を止めたり他者に起こすのを諦めさせることで、勝った、などと思ってしまうのだろう。その性分で数え切れない程の損をしてきたというのに、学習能力がないったらありゃしない。
某サイトにて、立派なダラ奥、と認定された私に対し、何が何でも規則正しい生活をさせたい奇特なうちのが、昨日の朝すやすやと眠る私をぬくぬくと温める布団を引っぺがして起こそうとした。ちょっと前迄は暖かかったのに、またここ数日は寒くなっている。特に朝晩。寒いのが苦手な私にとって、ぬくぬく布団を剥がされるのは死ねと罵られるくらいにつらい。本当につらい。凍死させられるのでは? と思ってしまう程につらい。故に、死ぬ! 死んじゃう〜! と本能で喚いた。余りに喚いて布団にしがみつく私に見切りをつけて、うちのは炊飯器で保温していたひじきご飯を掻っ込んで出勤したらしい。生死を賭けた戦いに勝った私。うちのが食事していったことを知ったのは、14時半頃に起きてシンクに置かれた茶碗と箸を見てからだった。戦いの後、私はまたすぐに寝付いたらしい。生まれてこの方、規則正しい生活、とかいうものをしたことがない私に今更それを求められても困る。諦めて欲しい。むしろ諦念しろ。昨日は布団を引っぺがしながら、ほら起きろ! という起こされ方だった。うちのなりに譲歩したらしい。一昨日の夜、我が家で話し合いをした。土日、基本的にうちのの仕事は休みだ。稀に私の方が早く起きて簡単な朝食を作るなり、買出しに出かけてからうちのを起こす。しかし大概はうちのの方が早く起きて私を起こす。その起こし方がずーっと気に入らなかった。常に第一声が、メシ、なのだ。露骨に飯炊き女扱いをされている気がして毎週末が嫌で嫌で仕方がなく、うちのにその起こし方はやめてくれと頼んだのだ。だからきっと昨日は、起きろ! だったのだろう。同義でも気分は違う。どっちにしても起きなかったけど。昨日は平日。なのに何故起こされかけたのか。
うちのは気分屋だ。因ってその時々で言うことが変わる。4年以上生活を共にしてきて、正確に数えてはいないけれど恐らくほぼ同じ回数の、毎朝メシを出して欲しい・朝食はいらない、を聞いてきた。聞く度に生活サイクルを変えるのは嫌だ、と一昨日の話し合いで伝えた。そして、とにかく簡単でもいいから朝食が食いたい、炊飯器なり冷蔵庫なり冷凍庫なり鍋なりに何かすぐに食べられるものを常備しておいてくれ、と頼まれた。因みに昨今は何故かパンが美味しく感じられなくなったとかで、米類か麺類限定で頼まれた。うちのは、私に規則正しい生活を求めるという建前の下に、俺様の生活リズムに合わせろ的側面がある。私は偏屈且つ理屈屋なので言われることや言われる時間が違う度に従えない。お互いの性分や要求の譲り合いを考えた。そして取り敢えず食べ物が何もない状態は作らないようにするから、メシ、と言って起こすのは控えるべし、で折り合いがついた。筈だった。炊飯器にちゃんとご飯があるんだから勝手に食べて行ってくれ。起こしてくれるな! そして昨夜、再び軽く話し合い。うちのの要求は、せめて土日の朝はメシを出してくれ、にハードルが下がった。そのくらいなら頑張れるか。 いや、頑張ろう。少なくとも今は頑張ろうと思っている。なるべく……。
PC逝去から復活の間に使えなかった某巨大掲示板専用ブラウザを立ち上げ、復活からついさっき迄かかって溜まっていたレスを読破した。因みに巡回スレは数板に渡り延べ50強。その中にちょっと面白い話があった。日々眠い・寝過ぎると却って疲れる・余裕で12時間、長ければ20時間寝られる、などの話が続いていた中での1レス。そのレスを書いた人は、怒ると眠くなるらしい。一見奇妙な話に思えたが、ちゃんと理由も書かれていた。要約。怒っているときは興奮状態にあり、人間は酷い興奮状態に陥ると失神する。睡魔は失神には至らないだけの状態で、心に平穏を保つ為の防衛本能だとか。要約したつもりがレスそのものよりも長くなったような……気にしない。で、ふと思った。私は目覚まし時計であれ他者であれ、起こされる、ということそのものが非常に嫌いである。起こされると腹が立つ。そして通常は寝付きが悪く、余程の不眠の後でもない限りは眠剤が欠かせないのに、起こされた後ならすぐに眠りにつける。これは起こされた腹立ちからの防衛本能なのか。こじ付けのようだけれど、自己完結的納得ができた。
もうひとつ仮説。目覚まし時計を止める若しくは起こそうとしていた相手が諦めると、私は勝った気になり安心して眠れる。調べてはいないけれど、満腹時に眠くなるのも飢餓の恐れがない状態からの安心感に基づくのではなかろうか。また怒り過ぎたり悲しかったりして泣いた後で一旦でも解決したように感じられるとスッと眠れる。これもまやかし込みで安心感が得られて眠れるのではないかと推測。書いていて尤もな気がしてきた。私が不眠症になった原因は漠然とした不安感に囚われたからであり、それが未だに拭えないから眠剤を手放せない。私の睡眠の第1条件は、安心感を得ること、なのか。そういえば、うちの雑食動物が布団に入ってきたり私の手の届く場所で寝ているときは、そうでないときに比較して寝付きが良くなる。昔、何かの本で動物の毛に触れているとα波が出て安心できる、と読んだ記憶がある。α波云々については詳しくないが、動物の毛と体温で安心して眠りにつき易いことは日々の生活で実感している。ここ迄考えて思ったこと。私が規則正しい生活を生まれてこの方してこれなかったのは、常に安心感から縁遠い日々を送っていたからではなかろうか。そして規則正しい生活を送るには、毎日決まった時間に安心感が得られればいいのではなかろうか。この考えはかなりいい線をいっている気がしてきた。それでもクリアすべき問題はまだある。まず、どうやって毎日決まった時間に私を睡眠に導くべき安心感を得る方法を確立するか。そして規則正しい生活をする為には起床時間も安定させねばならず、どうすれば睡眠の質を向上させて時間短縮ができるのか。まだまだ課題は多い。それ以前に、何故私は目覚まし時計を止めたり他者に起こすのを諦めさせることで、勝った、などと思ってしまうのだろう。その性分で数え切れない程の損をしてきたというのに、学習能力がないったらありゃしない。
アクセス元表示を見るのが非常に楽しい。人々の期待を裏切りまくっている模様。皆、こんなん探してた訳じゃねーんだよ! と思いつつブラウザを閉じているんだろうなあ、と思ったり。という訳で、期待を裏切られたであろう方の検索の一部を披露してしまおう。
最もがっかりだったであろうは「椿油 ギター 指板」で検索された方。恐らく、ギターの指板部分のケアに椿油を使えるかどうかが知りたかったのだろう。私はギター弾きではないので確実なことは言えないけれど、きっと椿油でのケアは向いていないのではなかろうか。もっと適した油があると思うので探していただきたい。親切ぶってググって調べようかとも思ったけれど、面倒なのでご自分でよろしく。
「闇 メールアドレスを探す」で検索された方。一体何を調べようとしているのか。闇、という単語からしてアングラサイトの誰かのメアドを調べる方法を知りたいのだろうか、と推測。そんな方法、私は知らん。私が、メールアドレスを探す、という文章を含む日記の中に、その方法がある、とは確かに書いた。しかしそれは過去に私のメアドが某所に晒されたことがあったからで、晒された場所を見つけられれば私のメアドが判る、という意味でしかない。因って私は他人様の公開されていないメアドを探す方法は知らない。別に知らなくていいと思っているし。下手にメアドを探すという行為は悪趣味ではなかろうか。
「ツィギー チーク」で検索された方。ツィギーのチークの特徴迄は把握できていない。この手のことを調べたいときは、画像をググるのが確実かと思われる。またツィギーが活躍していたのはかなり昔の話であり、今現在同じチークを入手することは困難かと。個人的印象としては、ツィギーのチークはピンク系が多かったように記憶している。って、こんなことは参考にならないか。
「おじやレシピ」で検索された方。私も何度か検索したことがあるけれど、おじややお粥のレシピはネット上には少ないので、自力で想像力を駆使して実践あるのみ。出汁の使い方を間違えなければ、白米なり玄米なりに合うおかずに使われる食材を選べば、極端な失敗は避けられる筈。同時に意外な美味しいおじやをオリジナルレシピとして開発できる可能性も。料理のセンスは想像力、とはよく言ったものだと思う。
「無印良品 アイピロー」で検索された方。私は無印のアイピローを使ったことがないので使用感は不明。それどころか無印でアイピローが発売されているのかも不明。ジェル状のものが好みか蕎麦殻状のものが好みかで、無印に拘らずに探すのがよろしいかと。ジェル状のものの一部は温めたり冷やしたりできるのが利点。蕎麦殻状のものは安定感があるのが利点。参考迄に。私は安定感重視なので蕎麦殻状のものが好き。目が腫れやすい人にはジェル状のものをオススメ。また最近はリラックスできる香りをつけているアイピローもあるけれど、それらは封を開けた最後、香りは飛んでいく一方。また使い始めは却って香りが気になって寝付きが悪くなることも。
「濡木痴夢男」で検索された方。緊美研のサイトには行っただろうか。そこが一番濡木氏に詳しいサイトかと。濡木氏の名前を検索しているという点で、趣味嗜好とセンスが伺えて勝手に親近感を抱けたり。某M氏や某R氏の縛りなど比にならないくらいに素晴らしいので是非ちゃんと調べてもらいたい。また濡木氏の著作も幾つかあり、神保町辺りでは濡木氏の緊縛テクを解説した本を置いてある書店もある。この解説本は未所有。やや高いけれど欲しい本の一冊だ。
「レバー克服」で検索された方。レバーが苦手及び克服したい・させたいが解らないので想像で。臭みが苦手なら水ではなく牛乳で血抜きを。また香りの強い野菜と一緒に料理をするとレバー自体の香りが薄まり食べ易くなる。食感が苦手なら、まずは新鮮なレバ刺であのぐにぐに感への偏見を失くす。火を通す料理にするときは必ず薄切りで。厚く切るとその分、ぐにぐに感が増幅するから。火を通しすぎないこともぐにぐに感を薄める為のコツ。レバーペーストなどはレバー上級者向けなので、当分は手を出さないように。
「コスメボックス」で検索された方。シュウウエムラやA&Aのコスメボックスは優秀だけれどブランド名を冠している分、高価。いろいろな雑貨屋に足を運んでスライドできる段が多いコスメボックスを探そう。雑貨屋によくある小さなかわいいコスメボックスは実用性が顕著に劣る。可愛さよりも実用性を求めるコスメ好きなら大きな物を購入するが吉。また素材はプラスチックや革張りが上等に見えるけれども、紙製でも十分。3000円程度で購入した私のメイクボックスは、6年程経つ今でも多少の擦れ以外は全く問題なく現役である。このまま10年選手になれるだろうと予測しているくらいに丈夫だ。
「結婚祝い もらって嬉しい物」で検索された方。私は未婚なので判りかねるけれど、一般的には現金や商品券が実用的で喜ばれるかと。よくある食器類のプレゼントは、よくある、と言われるだけあり余り嬉しい物ではないらしい。絵柄の入った調理器具も相手のセンスを熟知していなければ危険。欲しいけれどちょっと買うのを躊躇う、といった商品としてル・クルーゼの鍋類などは如何か。それは単に今私が欲しい物だというだけか? いや、ル・クルーゼは重いという点が長所でもあり短所でもあるので、ティファールの取っ手が外せるフライパンや鍋が欲しい。別に結婚祝いのプレゼント=台所関係、ではないけれど。
「心療歯科」で検索された方。いい心療歯科があれば私が知りたい。
その他、私の日記に辿り着く検索単語として、ピアス関係・ファッション関係・コスメ関係・法的な問題を含む親子関係・メンヘル関係が多いとの傾向が解った。解ったけれど、きっとどの人にとっても碌に役に立ってはいないだろう。所詮、日記なんてそんなものだ。ひとつ気になった検索単語は「恋は相剋の家」。ピンポイントでこの日記を探したのだとしか思えない。友人なら安心だが、もしかしてウォッチャーがいるのか?
BGM/1999.12.25「全身焦燥家」
最もがっかりだったであろうは「椿油 ギター 指板」で検索された方。恐らく、ギターの指板部分のケアに椿油を使えるかどうかが知りたかったのだろう。私はギター弾きではないので確実なことは言えないけれど、きっと椿油でのケアは向いていないのではなかろうか。もっと適した油があると思うので探していただきたい。親切ぶってググって調べようかとも思ったけれど、面倒なのでご自分でよろしく。
「闇 メールアドレスを探す」で検索された方。一体何を調べようとしているのか。闇、という単語からしてアングラサイトの誰かのメアドを調べる方法を知りたいのだろうか、と推測。そんな方法、私は知らん。私が、メールアドレスを探す、という文章を含む日記の中に、その方法がある、とは確かに書いた。しかしそれは過去に私のメアドが某所に晒されたことがあったからで、晒された場所を見つけられれば私のメアドが判る、という意味でしかない。因って私は他人様の公開されていないメアドを探す方法は知らない。別に知らなくていいと思っているし。下手にメアドを探すという行為は悪趣味ではなかろうか。
「ツィギー チーク」で検索された方。ツィギーのチークの特徴迄は把握できていない。この手のことを調べたいときは、画像をググるのが確実かと思われる。またツィギーが活躍していたのはかなり昔の話であり、今現在同じチークを入手することは困難かと。個人的印象としては、ツィギーのチークはピンク系が多かったように記憶している。って、こんなことは参考にならないか。
「おじやレシピ」で検索された方。私も何度か検索したことがあるけれど、おじややお粥のレシピはネット上には少ないので、自力で想像力を駆使して実践あるのみ。出汁の使い方を間違えなければ、白米なり玄米なりに合うおかずに使われる食材を選べば、極端な失敗は避けられる筈。同時に意外な美味しいおじやをオリジナルレシピとして開発できる可能性も。料理のセンスは想像力、とはよく言ったものだと思う。
「無印良品 アイピロー」で検索された方。私は無印のアイピローを使ったことがないので使用感は不明。それどころか無印でアイピローが発売されているのかも不明。ジェル状のものが好みか蕎麦殻状のものが好みかで、無印に拘らずに探すのがよろしいかと。ジェル状のものの一部は温めたり冷やしたりできるのが利点。蕎麦殻状のものは安定感があるのが利点。参考迄に。私は安定感重視なので蕎麦殻状のものが好き。目が腫れやすい人にはジェル状のものをオススメ。また最近はリラックスできる香りをつけているアイピローもあるけれど、それらは封を開けた最後、香りは飛んでいく一方。また使い始めは却って香りが気になって寝付きが悪くなることも。
「濡木痴夢男」で検索された方。緊美研のサイトには行っただろうか。そこが一番濡木氏に詳しいサイトかと。濡木氏の名前を検索しているという点で、趣味嗜好とセンスが伺えて勝手に親近感を抱けたり。某M氏や某R氏の縛りなど比にならないくらいに素晴らしいので是非ちゃんと調べてもらいたい。また濡木氏の著作も幾つかあり、神保町辺りでは濡木氏の緊縛テクを解説した本を置いてある書店もある。この解説本は未所有。やや高いけれど欲しい本の一冊だ。
「レバー克服」で検索された方。レバーが苦手及び克服したい・させたいが解らないので想像で。臭みが苦手なら水ではなく牛乳で血抜きを。また香りの強い野菜と一緒に料理をするとレバー自体の香りが薄まり食べ易くなる。食感が苦手なら、まずは新鮮なレバ刺であのぐにぐに感への偏見を失くす。火を通す料理にするときは必ず薄切りで。厚く切るとその分、ぐにぐに感が増幅するから。火を通しすぎないこともぐにぐに感を薄める為のコツ。レバーペーストなどはレバー上級者向けなので、当分は手を出さないように。
「コスメボックス」で検索された方。シュウウエムラやA&Aのコスメボックスは優秀だけれどブランド名を冠している分、高価。いろいろな雑貨屋に足を運んでスライドできる段が多いコスメボックスを探そう。雑貨屋によくある小さなかわいいコスメボックスは実用性が顕著に劣る。可愛さよりも実用性を求めるコスメ好きなら大きな物を購入するが吉。また素材はプラスチックや革張りが上等に見えるけれども、紙製でも十分。3000円程度で購入した私のメイクボックスは、6年程経つ今でも多少の擦れ以外は全く問題なく現役である。このまま10年選手になれるだろうと予測しているくらいに丈夫だ。
「結婚祝い もらって嬉しい物」で検索された方。私は未婚なので判りかねるけれど、一般的には現金や商品券が実用的で喜ばれるかと。よくある食器類のプレゼントは、よくある、と言われるだけあり余り嬉しい物ではないらしい。絵柄の入った調理器具も相手のセンスを熟知していなければ危険。欲しいけれどちょっと買うのを躊躇う、といった商品としてル・クルーゼの鍋類などは如何か。それは単に今私が欲しい物だというだけか? いや、ル・クルーゼは重いという点が長所でもあり短所でもあるので、ティファールの取っ手が外せるフライパンや鍋が欲しい。別に結婚祝いのプレゼント=台所関係、ではないけれど。
「心療歯科」で検索された方。いい心療歯科があれば私が知りたい。
その他、私の日記に辿り着く検索単語として、ピアス関係・ファッション関係・コスメ関係・法的な問題を含む親子関係・メンヘル関係が多いとの傾向が解った。解ったけれど、きっとどの人にとっても碌に役に立ってはいないだろう。所詮、日記なんてそんなものだ。ひとつ気になった検索単語は「恋は相剋の家」。ピンポイントでこの日記を探したのだとしか思えない。友人なら安心だが、もしかしてウォッチャーがいるのか?
BGM/1999.12.25「全身焦燥家」
現在3月22日日中。
昨日の午後、第二次十字軍のおふたりが来訪してくれて、無事にPCが復活。うちのがマザーボードを接続してくれた際に、配線を1箇所間違っていたことが原因だった模様。ということで、修理にはさほど時間もかからず、おまけにより通気性を良くする為の処理も施してもらい、さて起動させてみようとなったところでとんでもないことを思い出してしまった。起動させる→HDDの記録は残っている→デスクトップ画像が以前のまま→エロエロなアブノーマル画像がおふたりの目の前に出現……。物凄い勢いで引かれてしまった。そして呑んべいなおふたりはビールや焼酎を持参されており、うちで打ち上げ。デスクトップを見たからか話はエロ方向に進む進む。因みにおふたりは妻ある身。それでもオネーチャンのいる呑み屋にしょっちゅう通っていることを聞き、脳裏に不安が過ぎった。今月に入ってうちのに、小遣いが足らない、と言われて生活費より2万を渡した。これは生活費に余裕があって渡せたのではなく、今月から生協に加入した為に食材後払いの部分が増えているからだ。来月からはそうはいかない。それはともかく。小遣いが足りなくなった理由は、友人に金を貸してしまったからだと言う。この友人には以前にも10万を貸している。言わずもがな、返ってきていない。それなのに追加で貸すとはなんてお人好しなのか! とその昔は借金癖のあった私の過去の経験と心情をとくと語って聞かせたのだけれど、もしかしてオネーチャンのいる呑み屋に……? 呑み屋でも風俗でもうちの中にトラブルや病気を持ち込まなければ行ってくれて構わないのだが、おふたりの話を聞いて、行ってんなら素直に言えや! という気持ちになった。本当にただ金を貸しただけかもしれないけれど。
その打ち上げでは本当にいろいろな話が出てきて、他者との会話が極端に少ない日々を送っている私にはとても楽しい時間だった。惜しむべくは、修理の為に遠征してもらった身でありそれなりに気遣いを要した点と、ふたりはへべれけなのに私ひとりが素面だった点か。その2点を差し引いても十分に楽しませてもらったのだが。会話の中で各々、オフレコで、という話が続出。でもこの日記では書いてしまえる。そのプロジェクトと全く関連のないHNで日記を書くことにして本当に良かった! ここでなら某氏のちんこ露出事件にも触れられる! おふたりの呑み屋通いの話もオフレコのひとつ。その他、某氏や某氏の性癖の話、某氏の母上のアレっぷり、いつの間にかバツ1になっていた某氏と某氏の結婚話などが主なオフレコ。半オフレコの話として、以前私がしていた仕事の話がある。私が編集に携わっていた某雑誌。昨日来ていただいたおひとりはよく読んでいる雑誌だったらしく且つその雑誌に登場している人々と交流があるとか。これには驚いた。そしてその雑誌と同じ出版社から発行されている某雑誌の話を振るとふたりとも、知ってる知ってる! と。そんなに有名なのか。その雑誌の編集長には昔よくしてもらっていて、名刺を見せたら感動されてしまった。酔っ払いって凄い。私の名刺ホルダを一通り見せているとふたりから、この人知ってる、ン百万の機材を買ってくれたいい人だ! この人も知ってる、あの雑誌に出てくる人だ! この人、面識あるよー! 世の中狭過ぎ。 私の名刺ホルダの中身はかなり偏った人々の名刺が集まっているのだけれど、それらを個人的に知っている人がこんな身近にいたなんて。昨日来てくれたおふたりは共に私とは畑違いの仕事をされている方々なのに。
個人的に面白かったのが、即席授業。おひとりは数日前に辞めたとのことだけれど高校の世界史の教師だったのだ。失礼ながら教職者には見えなかった。いや、単に私との関わりが皆PC絡みなので、私の独断偏見でこのおふたりに限らずその集まりの中の人全員がPC関係の仕事だと思っていただけなのだけれど。この元教師さん、教え方が上手く且つ丁寧。莫迦ちんな私にも理解し易く、万葉集の解釈方法や世界史・地理の一部・語学の理解の仕方などを教えてくれた。凄い。地理といえば。おふたりの住所は東京都に隣接する某県であり、私が学生時代に住んでいた県。地名も学校名も解説する迄もなく通じるのが楽で、そして親近感が湧いた。故にかその県内の話も多く出てきて懐かしさも感じられたり。話は少々ずれて、私のPC修理の為に遠征してきてくれたというのに、おひとりがお土産にお菓子を持ってきてくれた。多謝。たまたま一昨日の夜、私は蓮根と牛筋の煮物を作っており、酒宴が開かれたうちでどうにか体裁が保てたのが救い。このお土産を持ってきてくれたおひとり、実は今回の修理にあたり、私に自分の家迄PCを持ってこいと言いたかったのだとか。当然である。そして申し訳ない……と思いきや、自宅に呼ぼうと思った理由にちょっとびっくり。何でも料理が好きらしく、修理がてら手料理を振舞いたかったのだとか。それでも非力な私に重いPCを持ってこさせるのもなあ、ということで遠征してくださったらしい。もうひとりの方は、私が某サイトの掲示板にPC復旧ならずの報告を書いてすぐに、PC一式揃えたから緊急出動できる旨を書いてくれた方。つくづく気遣いの人々である。こういう人々が中心となっているから、沢山の人がそこに集うのだろうなあ。ネットを介して知り合った仲間ながらも、リアルの友達としての付き合いにすぐに移行できるというのも頷けた。
酒宴終了後。おふたりは終電を逃してしまったらしい。陳謝。うちの雑食動物が異様に警戒心を持ち、動物好きなおふたりはどうにか懐かせようと努力し、結果、私を含め3人が激しい襲撃に遭って流血沙汰に。これにも深く陳謝。その後、私は……PCが使えない期間にレポート用紙に書き記していた家計簿をソフトに全て入力し、某サイトの掲示板にお礼を書き込み、その間に発作に襲われて痛みで泣き、仮PCから記入していた別ページの日記をこちらに移してすぐに就寝。起きたのは15時前。久々に長時間他者と接した所為か、楽しかったのに疲労は現れた模様。雑食動物だけでなく、私ももっと人馴れしなければならないのかもしれない。
服装/セントジェームスのコバルトブルーのバスクシャツ+X-girlの黒パーカ+DENIMEのジーンズ
BGM/アルバム「踊る一寸法師」
昨日の午後、第二次十字軍のおふたりが来訪してくれて、無事にPCが復活。うちのがマザーボードを接続してくれた際に、配線を1箇所間違っていたことが原因だった模様。ということで、修理にはさほど時間もかからず、おまけにより通気性を良くする為の処理も施してもらい、さて起動させてみようとなったところでとんでもないことを思い出してしまった。起動させる→HDDの記録は残っている→デスクトップ画像が以前のまま→エロエロなアブノーマル画像がおふたりの目の前に出現……。物凄い勢いで引かれてしまった。そして呑んべいなおふたりはビールや焼酎を持参されており、うちで打ち上げ。デスクトップを見たからか話はエロ方向に進む進む。因みにおふたりは妻ある身。それでもオネーチャンのいる呑み屋にしょっちゅう通っていることを聞き、脳裏に不安が過ぎった。今月に入ってうちのに、小遣いが足らない、と言われて生活費より2万を渡した。これは生活費に余裕があって渡せたのではなく、今月から生協に加入した為に食材後払いの部分が増えているからだ。来月からはそうはいかない。それはともかく。小遣いが足りなくなった理由は、友人に金を貸してしまったからだと言う。この友人には以前にも10万を貸している。言わずもがな、返ってきていない。それなのに追加で貸すとはなんてお人好しなのか! とその昔は借金癖のあった私の過去の経験と心情をとくと語って聞かせたのだけれど、もしかしてオネーチャンのいる呑み屋に……? 呑み屋でも風俗でもうちの中にトラブルや病気を持ち込まなければ行ってくれて構わないのだが、おふたりの話を聞いて、行ってんなら素直に言えや! という気持ちになった。本当にただ金を貸しただけかもしれないけれど。
その打ち上げでは本当にいろいろな話が出てきて、他者との会話が極端に少ない日々を送っている私にはとても楽しい時間だった。惜しむべくは、修理の為に遠征してもらった身でありそれなりに気遣いを要した点と、ふたりはへべれけなのに私ひとりが素面だった点か。その2点を差し引いても十分に楽しませてもらったのだが。会話の中で各々、オフレコで、という話が続出。でもこの日記では書いてしまえる。そのプロジェクトと全く関連のないHNで日記を書くことにして本当に良かった! ここでなら某氏のちんこ露出事件にも触れられる! おふたりの呑み屋通いの話もオフレコのひとつ。その他、某氏や某氏の性癖の話、某氏の母上のアレっぷり、いつの間にかバツ1になっていた某氏と某氏の結婚話などが主なオフレコ。半オフレコの話として、以前私がしていた仕事の話がある。私が編集に携わっていた某雑誌。昨日来ていただいたおひとりはよく読んでいる雑誌だったらしく且つその雑誌に登場している人々と交流があるとか。これには驚いた。そしてその雑誌と同じ出版社から発行されている某雑誌の話を振るとふたりとも、知ってる知ってる! と。そんなに有名なのか。その雑誌の編集長には昔よくしてもらっていて、名刺を見せたら感動されてしまった。酔っ払いって凄い。私の名刺ホルダを一通り見せているとふたりから、この人知ってる、ン百万の機材を買ってくれたいい人だ! この人も知ってる、あの雑誌に出てくる人だ! この人、面識あるよー! 世の中狭過ぎ。 私の名刺ホルダの中身はかなり偏った人々の名刺が集まっているのだけれど、それらを個人的に知っている人がこんな身近にいたなんて。昨日来てくれたおふたりは共に私とは畑違いの仕事をされている方々なのに。
個人的に面白かったのが、即席授業。おひとりは数日前に辞めたとのことだけれど高校の世界史の教師だったのだ。失礼ながら教職者には見えなかった。いや、単に私との関わりが皆PC絡みなので、私の独断偏見でこのおふたりに限らずその集まりの中の人全員がPC関係の仕事だと思っていただけなのだけれど。この元教師さん、教え方が上手く且つ丁寧。莫迦ちんな私にも理解し易く、万葉集の解釈方法や世界史・地理の一部・語学の理解の仕方などを教えてくれた。凄い。地理といえば。おふたりの住所は東京都に隣接する某県であり、私が学生時代に住んでいた県。地名も学校名も解説する迄もなく通じるのが楽で、そして親近感が湧いた。故にかその県内の話も多く出てきて懐かしさも感じられたり。話は少々ずれて、私のPC修理の為に遠征してきてくれたというのに、おひとりがお土産にお菓子を持ってきてくれた。多謝。たまたま一昨日の夜、私は蓮根と牛筋の煮物を作っており、酒宴が開かれたうちでどうにか体裁が保てたのが救い。このお土産を持ってきてくれたおひとり、実は今回の修理にあたり、私に自分の家迄PCを持ってこいと言いたかったのだとか。当然である。そして申し訳ない……と思いきや、自宅に呼ぼうと思った理由にちょっとびっくり。何でも料理が好きらしく、修理がてら手料理を振舞いたかったのだとか。それでも非力な私に重いPCを持ってこさせるのもなあ、ということで遠征してくださったらしい。もうひとりの方は、私が某サイトの掲示板にPC復旧ならずの報告を書いてすぐに、PC一式揃えたから緊急出動できる旨を書いてくれた方。つくづく気遣いの人々である。こういう人々が中心となっているから、沢山の人がそこに集うのだろうなあ。ネットを介して知り合った仲間ながらも、リアルの友達としての付き合いにすぐに移行できるというのも頷けた。
酒宴終了後。おふたりは終電を逃してしまったらしい。陳謝。うちの雑食動物が異様に警戒心を持ち、動物好きなおふたりはどうにか懐かせようと努力し、結果、私を含め3人が激しい襲撃に遭って流血沙汰に。これにも深く陳謝。その後、私は……PCが使えない期間にレポート用紙に書き記していた家計簿をソフトに全て入力し、某サイトの掲示板にお礼を書き込み、その間に発作に襲われて痛みで泣き、仮PCから記入していた別ページの日記をこちらに移してすぐに就寝。起きたのは15時前。久々に長時間他者と接した所為か、楽しかったのに疲労は現れた模様。雑食動物だけでなく、私ももっと人馴れしなければならないのかもしれない。
服装/セントジェームスのコバルトブルーのバスクシャツ+X-girlの黒パーカ+DENIMEのジーンズ
BGM/アルバム「踊る一寸法師」
未完成理由を考証
2004年3月20日 メイク・ファッション・ピアス 現在3月21日。
1月に作成したみっつのピアスホール。完成したのはまだひとつのみという情けない現状。しかもその完成ホールが作成時に思いっきり斜めになってしまったホールだというのが奇妙だ。斜めに貫通したということは、垂直に完成した部分よりも傷となった部分が長く治癒に時間がかかるのではないか。なのに斜めのだけが完成。もうふたつのホールからは微量ではあるけれど未だ分泌液が出ている。その分泌液に因る汚れの洗浄にハンドソープだけでなく精製水と綿棒を用いている。綿棒に精製水を浸し、キャッチを外して汚れを拭き取り、ホール裏面を洗浄、ピアスを動かして前面も洗浄。当然、ポストの部分も拭く。ほぼ毎日このようにしているのが逆効果なのか。ときにはピアスを丸ごと外して本体とホール全体を精製水で綺麗にしている。そして再度装着するときに薄皮しか張っていないホールを傷つけてしまい、出血してしまったりしている。そろそろテラマイシン軟膏の使用も考えた方がいいのかもしれない。完成したホールは今回の複数ホール作成の中で最も早く空けたもの。だから治癒も最も早かったのかとも思う。しかしそれにしても数日しか違わずに作成にしたもうふたつの治癒が遅すぎる。作成日以外の違いはファーストピアスの素材だ。完成したホールに装着していたのは18K鍍金。未完成ホールに装着しているのはチタン鍍金。今は金をファーストピアスに使用するのは良くないとされており、チタンかサージカルステンレスが推奨されている。ならばチタンの方が早く完成して然るべきではなかろうか。それとも鍍金の質が悪過ぎるのか。素人なのでそこ迄は見極めがつかない。
他の要因として考えられるのは、寝るときの姿勢である。私は仰向けで寝るのが子供の頃から苦手であり、右腕を枕の下に伸ばした状態で枕の上に右耳を乗せて寝るか、左側面を布団に横たえて寝るか、どちらかの恰好になる。治癒していないホールはふたつとも右側だ。寝入り端は上記の姿勢の確率はほぼ半々。寝ているときの姿勢は自覚がないのでうちのに訊いてみたところ、後者の姿勢で寝ていることが多いらしい。どういうことだ。左ホールには一般的悪条件が揃っており、右ホールには好条件が揃っている。なのに早々に完成したのは左ホール。左ホールにも普段はまだファーストに使用したピアスを装着していることが多いけれど、SV925ピアスに付け替えても異常はない。右ホールは不安定故に不安で、洗浄時に外すことはあっても他ピアスに交換できない。が、この状況に於いて鳥頭の私に思い付く要因はひとつ。もしかしたら私の体質にチタンは合わないのではないか。安全だと言われているチタンやサージカルステンレスもシルバーやゴールドなどの他金属に比較しての話であり、万人に合う訳ではなく稀に金属アレルギーなどの拒否反応を起こす人もいるらしい。私はその、稀、な体質なのかもしれない。ホールを作って2ヶ月程経っている。日々ピアス交換をしたい欲求は高まってきており、同時にこのままチタンを付け続けていいのかとも考え始めている。
今迄どんな安物のピアスを付けても被れたりしたことはなく、自身に金属アレルギーがあるとは思っていなかった。チタンにアレルギーがあるかどうかも憶測の域を出てはいない。確実なのは皮膚科でテストしてもらうことだけれど、そうなるとまずテスト以前にピアスを外せという指摘を受けるであろう。スタジオならホールを残すことを前提に善後策を考えてくれるかもしれないが、ピアッサーで空けたホールなので診てもらうことに躊躇してしまう。イヤロブならまず大丈夫だろう、というピアッサー使用にあたっての見通しが甘かったのか。苛立ちの持って行き場がないのがもどかしいったらもう。ともあれ、折角痛い思いをして作成したホールを易々と埋めてしまいたくはないのは人情で、自力で案を講じなければならない。普段の寝易い姿勢を無理矢理仰向けに変えようとすると、きっと不眠が悪化してしまうだろう。洗浄を控えるのも、これといった根拠はないけれど何か違う気がする。そう考えていくと、行き着く先は18Kピアスへの交換だ。未完成ホールはふたつ。ファーストに使うゲージの大きな18Kピアスは、右耳のホールを作成したときのひとつ。学生時代に皮膚科でホールを作ったときのファーストふたつは処分してしまっている。ひとつのピアスでふたつのホールをフォローするのは不可能だ。
太目のゲージにさえ拘らなければ、18Kピアスは幾つも手元にある。PTピアスもある。このゲージを諦めて細目のピアスで完成を目指すのが堅実なのだろうか。私のピアス熱を再発させた、友人の私のホール作成時期と前後して作ったホールは完成したらしい。彼女のホールのひとつは、通常ファーストとしてはまず使われない細目のピアスで完成させられた。細目ゲージのピアスでホールを作ることへの不安は、太目ゲージのピアスで作るホールよりも閉じてしまい易い点だ。今のところ、この問題はクリアされているらしい。今回の私のホール作成で、ひとつのホールを昔親にもらったセカンドピアス専用にしようと考えていた。セカンドピアスはふたつで一組になっているもので、できれば毎日寝る際には右耳のホールにファーストを入れて今のゲージを保ち、時にはひとつだけでなく一組として並べてつけられるようにしたかった。それを断念しなければならないのか。若しくは一般的にファーストで用いられる18Kピアスをもうひとつ購入するか、一旦細目ゲージで完成させてから拡張していくか。前者は金銭的に少しだけとはいえ痛く、後者は明らかに肉体的に痛い。痛いのは避けたい。やや大胆な発想になるけれど、そのSV925のセカンドピアスを使ってホールを完成させてしまうことはできないだろうか。学生時代もホールの完成を待たずしてこのセカンドを付けていたことを思い返すと、丸っきり不可能ではない気がする。なのに思い切れないのは、ピアスに関して当時よりも遥かに多くの知識を身につけてしまったからだ。今月一杯現状保持で様子を見て、ダメならセカンドに付け替えてしまおうか。
1月に作成したみっつのピアスホール。完成したのはまだひとつのみという情けない現状。しかもその完成ホールが作成時に思いっきり斜めになってしまったホールだというのが奇妙だ。斜めに貫通したということは、垂直に完成した部分よりも傷となった部分が長く治癒に時間がかかるのではないか。なのに斜めのだけが完成。もうふたつのホールからは微量ではあるけれど未だ分泌液が出ている。その分泌液に因る汚れの洗浄にハンドソープだけでなく精製水と綿棒を用いている。綿棒に精製水を浸し、キャッチを外して汚れを拭き取り、ホール裏面を洗浄、ピアスを動かして前面も洗浄。当然、ポストの部分も拭く。ほぼ毎日このようにしているのが逆効果なのか。ときにはピアスを丸ごと外して本体とホール全体を精製水で綺麗にしている。そして再度装着するときに薄皮しか張っていないホールを傷つけてしまい、出血してしまったりしている。そろそろテラマイシン軟膏の使用も考えた方がいいのかもしれない。完成したホールは今回の複数ホール作成の中で最も早く空けたもの。だから治癒も最も早かったのかとも思う。しかしそれにしても数日しか違わずに作成にしたもうふたつの治癒が遅すぎる。作成日以外の違いはファーストピアスの素材だ。完成したホールに装着していたのは18K鍍金。未完成ホールに装着しているのはチタン鍍金。今は金をファーストピアスに使用するのは良くないとされており、チタンかサージカルステンレスが推奨されている。ならばチタンの方が早く完成して然るべきではなかろうか。それとも鍍金の質が悪過ぎるのか。素人なのでそこ迄は見極めがつかない。
他の要因として考えられるのは、寝るときの姿勢である。私は仰向けで寝るのが子供の頃から苦手であり、右腕を枕の下に伸ばした状態で枕の上に右耳を乗せて寝るか、左側面を布団に横たえて寝るか、どちらかの恰好になる。治癒していないホールはふたつとも右側だ。寝入り端は上記の姿勢の確率はほぼ半々。寝ているときの姿勢は自覚がないのでうちのに訊いてみたところ、後者の姿勢で寝ていることが多いらしい。どういうことだ。左ホールには一般的悪条件が揃っており、右ホールには好条件が揃っている。なのに早々に完成したのは左ホール。左ホールにも普段はまだファーストに使用したピアスを装着していることが多いけれど、SV925ピアスに付け替えても異常はない。右ホールは不安定故に不安で、洗浄時に外すことはあっても他ピアスに交換できない。が、この状況に於いて鳥頭の私に思い付く要因はひとつ。もしかしたら私の体質にチタンは合わないのではないか。安全だと言われているチタンやサージカルステンレスもシルバーやゴールドなどの他金属に比較しての話であり、万人に合う訳ではなく稀に金属アレルギーなどの拒否反応を起こす人もいるらしい。私はその、稀、な体質なのかもしれない。ホールを作って2ヶ月程経っている。日々ピアス交換をしたい欲求は高まってきており、同時にこのままチタンを付け続けていいのかとも考え始めている。
今迄どんな安物のピアスを付けても被れたりしたことはなく、自身に金属アレルギーがあるとは思っていなかった。チタンにアレルギーがあるかどうかも憶測の域を出てはいない。確実なのは皮膚科でテストしてもらうことだけれど、そうなるとまずテスト以前にピアスを外せという指摘を受けるであろう。スタジオならホールを残すことを前提に善後策を考えてくれるかもしれないが、ピアッサーで空けたホールなので診てもらうことに躊躇してしまう。イヤロブならまず大丈夫だろう、というピアッサー使用にあたっての見通しが甘かったのか。苛立ちの持って行き場がないのがもどかしいったらもう。ともあれ、折角痛い思いをして作成したホールを易々と埋めてしまいたくはないのは人情で、自力で案を講じなければならない。普段の寝易い姿勢を無理矢理仰向けに変えようとすると、きっと不眠が悪化してしまうだろう。洗浄を控えるのも、これといった根拠はないけれど何か違う気がする。そう考えていくと、行き着く先は18Kピアスへの交換だ。未完成ホールはふたつ。ファーストに使うゲージの大きな18Kピアスは、右耳のホールを作成したときのひとつ。学生時代に皮膚科でホールを作ったときのファーストふたつは処分してしまっている。ひとつのピアスでふたつのホールをフォローするのは不可能だ。
太目のゲージにさえ拘らなければ、18Kピアスは幾つも手元にある。PTピアスもある。このゲージを諦めて細目のピアスで完成を目指すのが堅実なのだろうか。私のピアス熱を再発させた、友人の私のホール作成時期と前後して作ったホールは完成したらしい。彼女のホールのひとつは、通常ファーストとしてはまず使われない細目のピアスで完成させられた。細目ゲージのピアスでホールを作ることへの不安は、太目ゲージのピアスで作るホールよりも閉じてしまい易い点だ。今のところ、この問題はクリアされているらしい。今回の私のホール作成で、ひとつのホールを昔親にもらったセカンドピアス専用にしようと考えていた。セカンドピアスはふたつで一組になっているもので、できれば毎日寝る際には右耳のホールにファーストを入れて今のゲージを保ち、時にはひとつだけでなく一組として並べてつけられるようにしたかった。それを断念しなければならないのか。若しくは一般的にファーストで用いられる18Kピアスをもうひとつ購入するか、一旦細目ゲージで完成させてから拡張していくか。前者は金銭的に少しだけとはいえ痛く、後者は明らかに肉体的に痛い。痛いのは避けたい。やや大胆な発想になるけれど、そのSV925のセカンドピアスを使ってホールを完成させてしまうことはできないだろうか。学生時代もホールの完成を待たずしてこのセカンドを付けていたことを思い返すと、丸っきり不可能ではない気がする。なのに思い切れないのは、ピアスに関して当時よりも遥かに多くの知識を身につけてしまったからだ。今月一杯現状保持で様子を見て、ダメならセカンドに付け替えてしまおうか。