詮無いこと

2004年5月14日 回顧
 現在、5月17日。

 草食を飼い始めたのは、1999年1月。ひとり暮らしを始めた私が帰省したときに、親が誕生日プレゼントの希望を訊いてきてくれた。その際、私は或る雑食動物を挙げた。だが、雑食はアパート暮らしには不向きとして反対され、代わりに飼い始めたのがこの草食だった。飼い始めた当初、草食が愛くるしくて自分なりに凄く可愛がった。撫でたり抱いたり。飼い始めてすぐにそんなことをしてはいけないと知ったのは暫く後だ。またごはんについてもペットショップで間違った知識を教えられ、ネットを使い始める迄は間違った知識のままに育てていた。間違った知識とは、ペレット主体のごはん設定である。幼児期から牧草に慣れさせる必要があると知ったのは、草食が大人になってから。知識を得てから食事の切り替えを図って失敗したりして、私は拙すぎる飼い主だったと反省している。ペットを飼うのは、知識をきちんと蓄えてからにすべきだった。衝動で飼うものではない。この反省は4年半程前からだ。ネットを使い始める前に飼育書などは読んでいたけれど、読めども読めども本によって書いてあることが違っており、どれが正しいのかイマイチ掴めないままに育てていたのだ。更に草食は予防接種などもなく、子供の頃は私に爪切りもさせてくれていたので動物病院に連れて行く機会もなかった。今となっては、飼い始めたときに速やかに健康診断に連れて行くべきだった、と思う。草食を動物病院に連れて行くようになったのは、草食が大人になってからだ。成長し、草食は私に懐かなくなった。これは私の育て方が悪かったからだ。

 飼い始めて半年と少しを過ぎた頃、里親として雑食をもらい受けてきた。草食と雑食を対面させた日のことは、今も鮮明に覚えている。私がアパートのドアを開けて部屋に入った途端に、草食、暴れ捲り。雑食を箱から出すと両者が暴れだした。両者を仲良くさせるのは無理だと解っていたので、どうにか共に気を荒立てないように接せられるよう小屋の配置を考えたりしているうちに、それぞれが距離の取り方を覚えてくれたようだ。しかしここでも私は飼育方法を間違えていた。先住の動物をより可愛がらなければならないと知ったのはかなり先であり、無知だった私は新参者を慣れさせるのが先と考えて、雑食を構い過ぎた。結果、草食はどんどん懐かなくなり、雑食はどんどん高飛車な甘えたになり……。草食にとって、私は嫌な飼い主であっただろう。本当に無知は罪だ。正しい知識を得てからは草食を優先していこうと思った。けれど時、既に遅し。元々草食が何を考えているかは掴み難かった。その上、心を閉ざされてしまった。動物も人間も、一旦閉ざしてしまった心を、再び開いてもらうのは至難の業だ。頑張っても頑張っても報われず、最低限の世話しかしない日もあった。そして反省してまた頑張ってやはり報われずのループが約5年。再度心を開き始めてくれたのは、今年の春。

 以前、同種の草食を飼っていたという知人がうちに来てくれたときに、扱い方を教わった。どうすれば草食が喜ぶか。その前は、草食のご機嫌斜めなときに小屋に手を入れると噛まれていたのだけれど、心を開いて懐き始めてくれてからは噛まれることもなくなった。手を触っても尻を触っても怒らなくなった。小屋の飼い始めて以来の環境整備にも取り掛かった。ずっと幼少時から同じ環境を作っていた小屋。中のスノコを変えてみたり、いろいろし始めた。それは懐いてきてくれた嬉しさと、干草の袋の裏には寿命が5〜10年と書かれている。草食の後半生を快適に過ごしてもらう為の環境整備。後半生。私は後5年は生きてくれると思い込んでいたのだ。ごはんもよく食べていたし、水も沢山飲んでいたし、後ろ足に触ると怒って跳ねてくれたし。人参をあげると物凄い勢いで平らげてくれるので、毎週のようにあげていた。ふと昔を思い出し、そういえば青梗菜も好きだったな、と生協で注文したのは先週だ。今週、その青梗菜が届く。受け取りたくない。草食の小屋を昨夜整理した。予備に用意しておいた新品の干草とトイレ砂も処分。救急で連れて行った動物病院に引取りに行った帰り、行きつけの動物病院に寄った。先の動物病院で教わったところよりも近い動物霊園を紹介してもらおうと考えて。紹介された霊園は同じだった。この辺りではそこがいいのだろう。そのときに主治獣医に死因について話した。内臓疾患かもしれなかった、と。主治獣医曰く、干草に毒草や農薬が混ざっていた可能性もある、とのこと。一飼い主でそこ迄解らん! でも、もし、一昨日迄あげていた干草のパックを破棄して新しい干草をあげていたら……。本当の死因は今となっては解らない。内臓疾患にしても干草にしても何にしても、悔いだけが残る。ああしていれば良かった。もっとこうしていれば良かった。考えても考えても尽きず、どれも詮無いことなのだけれど。

 息を引き取った後、うちのと私が迎えに行く前に草食を綺麗にしてくれるよう、動物病院に頼んだら拭くだけでなくシャンプーをしてくれていた。草食は最期迄トイレを覚えなかったので、いつも足裏と尻が汚かったのだ。連れて行くときは当然急だったので、綺麗にしている余裕がなかった。戻ってきた草食は、寝ているようにしか見えなかった。でも。全身がふわふわしていて、シャンプーのいい香りがして、体中何処でも触らせてくれた。一昨日迄の草食とは大違い。耳の内側も白いし……。耳の内側はピンクでナンボだ。それは、血が通っているということなのだから。それにうちの草食が全身ふわふわなんておかしい。トイレを覚えない足りないうちの子は、薄汚れていてナンボだ。後ろ足だって触られて怒るのがうちの子なのだ。されるがままだなんて、うちの子らしくない。帰ってきたうちの草食は、もううちの草食ではなくなっていた。午後を少し過ぎて、霊園の車が迎えに来てくれた。今夜は霊安室に置かれ、明日以降に火葬されるらしい。お骨になったらまた連絡をくれるそうだ。連絡がきたら草食のお参りに行こう。神様なんていない、とずっと思っていたし、今も思っている。誰の所為だか知らないけれど、小動物に病気を作ったのは余りにも罪だ。小動物は自分で病院には行けないのだし、つらくてもそれを飼い主に伝えることもできない。特に草食は、限界迄我慢してしまう種であり、倒れているのに気付いたときには大半は既に手遅れ、という動物。昨日は早起きして良かった。寝ている間に逝かれたのでは堪らない。しかし。寝ずに起きていたら、異変にもっと早く気付けた可能性もある。……詮無いことだ。

草食回顧

2004年5月13日 回顧
 現在、5月17日。

 草食と出会ったのは某ペットショップ。草食は黒と白でできていた。全体的には黒く、首周り一周と両手の先と、鼻の半分が白かった。首と手はまるでマフラーと手袋をしているようだった。店員さんに声をかけて抱かせてもらう。抱く、というより、手に乗せる。小さ過ぎて抱くこともできないのだ。それこそ、片手に収まってしまう程度の大きさ。草食は怖がりな動物で、慣れない環境に置かれると固まってしまう。私の手の上でも確か震えていたのではなかったか。草食を買ってもらい、飼い始めた。名前は私がかつて一番好きだった馬の冠を取ったもの、そのまま。けれどその名はなかなかに呼びづらく、呼び名はその名前の頭文字を取って伸ばして、ちゃん付けしたものに、いつの間にか落ち着いた。小屋には表札代わりに、その馬の単勝馬券を貼った。草食用に用意した小屋は最初とても大きく見えたけれど、もう一回り小さくても良かったか? と思っていた期間は短かった。よく食べ、よく育ち、一時期は標準よりもかなり大きくなった。獣医さんにダイエットの必要性を指摘されて、食餌管理を修正してからは痩せたが。掌に乗る位の大きさから、両掌でどうにか収まる程度に大きくなったのはどれ程かかっただろう。ハッキリとは覚えていないけれど、数ヶ月だった筈だ。それでも両掌程度の大きさのうちは抱かせてくれていた。いや、抱かせてくれていたというよりは、抵抗せずに大人しく乗ってくれていた、と書くのが正確か。抵抗するようになったのは、もう少し大きくなってから。それでも部屋中を飛び回り、昼寝している私の顔の上に本棚からダイヴしてくれたり、同様に私が寝ているときに放置していたガムテープのロールのかなりの量を齧られたりと、いろいろやってくれた。一番困ったのは、プラスチックを食べる癖がついてしまったことだ。普通は食べない。でもうちの草食は何故だか食べた。怒っても怒っても食べていた。小屋の部品は勿論のこと、当初使っていたプラスチック製のトイレをも食べていた。悩んだ末に、トイレの素材を陶器に代えた。

 小屋の中や、小屋から出て部屋の中をぴょんこぴょんこと跳ね、また紙やプラスチックを好んで齧って食べていた草食。草食と暮らし始めて2〜3ヶ月の頃、実家に連れて帰った。その日は私の実家の部屋に段ボール箱を置き、草食をその中に入れていた。そして数時間出かけて戻ってくると、段ボール箱に大きな穴が! 草食が齧って穴を空けたのだ。そして脱走。ベッドの裏で元気な草食を発見して安堵。あのときは驚いた。小さな草食に、そんな力があるなんて思ってもみなかったのだ。その後、草食をダンボールのキャリーに入れて、チャリで何処だったかに出かけようとした。断念。キャリーを籠に乗せた途端に、しっこされた。ダンボールのキャリーはぐしょぐしょでもうダメ。このタイミングでするか……、というときに、よくやられた。このキャリーのときも困ったが、日常、部屋の中で放しているときによく好んで布団の上にやってきては、シャーッと。何度となく、やられた。うんこもされた。うんこはまだいいのだ。草食のうんこは丸くころころしているので、下していない限りはすぐに捨てられる。しっこは困る。何度濡れたままの布団で寝る破目になっただろう。私がひとり暮らしをしていた頃は私ひとりの我慢だったけれど、うちのと暮らし始めてからはそうも言ってられず、いつの間にか草食は部屋ではなるべく放さずに小屋で、となった。幾ら困らせられても、私らが我慢すれば良かっただけの話なのに。

 雑食がくる迄は、ぴょんこぴょんこと跳ねていた草食だが、外に連れて行くと動かなかった。首輪をつけて夜、散歩がてら外に連れて行く。動かない。何度か試したけれど、やはり動かない。草食が散歩先で動くようになったのは、ここ1年位の話だ。外で跳ねる草食は伸び伸びとしていたが、連れて出た私は大変だった。蚊に喰われ捲り、草食が叢に入ろうとしたら方向転換をさせ。外に慣れ始めた草食を、出不精な私は余り散歩に連れて行かなかった。今、激しく後悔。もっともっともっともっと伸び伸びと遊ばせれば良かった。私の気分で草食を左右せず、晴れた日は毎日でも連れて行けば良かった。その分、家の中で構っていたかというと、そうでもない。トイレを覚えないことと雑食がちょっかいを出すことで、基本的には小屋の中。撫でたりはしていたけれど、大きくなってからは抱かせてはくれなくなっていた。以前、強引に抱こうとして、鳩尾に蹴りをまともに入れられたことがある。それからは抱く気が薄れてしまった。草食から進んでスキンシップを取ろうとしてきてくれたのは、ここ数ヶ月。小屋を開け放っていると、毎回ではないけれどふと気が向いたように出てきてくれた。そして私の膝や背中の上に手を置いたり。その都度、服にしっこの付いた手足を置かれる羽目になったけれど、嬉しかった。家の中でお洒落している訳でもなし、服が汚れても洗えばいいだけだし、そんなことよりも草食の方から警戒心なく私に近付いてきてくれるのが、ただただ嬉しかった。雑食を迎えて以来、やっと本当に懐いてくれた、と思えた瞬間。これからが蜜月だと信じていた。

 蜜月は結局、数ヶ月で終焉。草食の死を報告したときに親は、最期の恩返しだったのかもよ、と言った。小動物に擬人化は禁忌だと思う。それに、そんな恩返しはいらなかったからもっともっと生きて欲しかった、とも思う。反面、くだらない戯言が慰めになることもある。急な、余りにも急過ぎた草食の死に親も驚いていた。けれどやはり親は親。今度動物を飼うときは云々、葬儀について云々。煩い。うちのや私の頭の中では解っている。解っているこの手のことを、第三者に言われると非常に腹が立つ。まだ悲しみもきちんとした形で通過できていないのに、何故この先飼うかどうかも解らない子の話をされねばならんのだ。しかもくどくどと。世の中には、子に恵まれない夫婦や子を授かったばかりの夫婦に、子供のことを考えてペットを捨てろ、という年寄りは少なくないとか。私の親はこの件だけは違うと思っていたけれど、その手のタイプなのかもしれない。軽蔑する。これからじわじわとやってくるであろうペットロス。それを乗り越えられるかどうかも解らないのに先のペットのこと、三回忌・七回忌の費用のことを言ってくる親の気遣いのなさに呆れた。そういう人だと知ってはいたけれど、それでもあんまりだ。今は大人しく、草食の死に実感が湧くのを待つしかない。うちのも、私も。ふたりして泣いたけれど、何処かにぽっかりと穴が開いただけで、お互いに実感が伴ってはいない。うちのは昨日、仕事を休んだ。こんな日に迄普段通りに仕事をしなければならない世の中なんて間違っている、と言って。まともな人で本当に良かった。昨日のうちのと私の会話は不自然だった。草食の話題はなるべく出さないように、ふたりとも話していた。いつか自然に、思い出話ができる日はくるのだろうか。

雛祭り

2004年3月3日 回顧
 現在3月5日日中。

 小学生の確か3年生のときのこと。雛祭りの日ではない或る日、学校から家に帰ると実父と作業着を着たオッサン数人が家にいた。オッサンらは私のピアノと確か7段飾りであっただろう雛壇及び雛人形を運び出そうとしていた。お父さん、何これ? この人たちは誰? 何してるの? ちょっとお父さんにピアノと雛人形を貸して。すぐにちゃんと戻ってくるから。いい夫ではなかったけれどいい父親だった実父のことが私はとても好きだったから、疑わずに信じた。ピアノも雛人形も戻ってくる日はなかった。これが私の雛祭りに関する思い出。同時に思い出したこと。数度だけれど、父と母と私の家族3人で夜の散歩をした。父か母が小さめのテレビを自転車の後ろに載せての散歩。何屋か判らなかったけれど、父か母がそこにテレビを置いてきて、帰りは何も載せていない自転車を押して帰った。大人になってから判った。あそこは質屋だったのだな。そしてあの普段は使っていなかった小さめのテレビは質屋に出し入れするための物だったのだな。それから私のピアノと雛人形はきっと借金のカタに持っていかれたか担保にされたかで、お父さんはその借金を返済できなかったから私の元に戻ってはこなかったのだな……。あのお雛様はまだこの世に存在しているのだろうか。それとも焼却処分でもされてしまったか。手元に戻ってきてなんて贅沢は言わない。せめて何処かで存在していて、誰かの節句を祝っていて欲しいとは思う。

 実父は借金塗れの人だった。事業失敗も原因のひとつ、呑む打つ買うも原因のひとつ。死後に遺産放棄をしたので私に父の借金が降りかかってくることはないが、1度だけ、遺産放棄の前だったか後だったかは覚えていないけれど母親に実父の残した借金額を書面で見せてもらったことがある。詳細な額迄は記憶にないが、約1億だったことは覚えている。銀行や消費者金融だけの額だったのか、街金も含めての額だったのかは知らない。3〜4年程前だったか、親と家裁に行った。私宛に街金であろうところから父の残した借金返済請求書が来た為に、家裁で遺産放棄手続済の書類をもらいに行ったのだ。その書類を送ってからは請求はきていないらしい。世の中には後継者が遺産放棄済と知っていても、ダメ元でその手の請求書を送ってくる業者もあるようだ。奇しくも家裁に行った日は、実父の誕生日だった。行く前に喫茶店で落ち合った親は、死んだ後迄こんな迷惑をかけて本当にあの人は……と嘆いていた。そんなあの人が私の実父であり、私の半分は実父でできている。今でも私は実父が好きである。親兄弟にも絶縁され、葬式も挙げてもらえなかった父だけれど好きだ。昭和1桁台生まれの父。

 離婚したと偽って母親と付き合って、母親との結婚直前に前妻を籍から抜いた父。母親が私を身篭っているときに母親のお腹を蹴ったという父。男が生まれたらコインロッカーに捨てると言っていたらしい父。遊びに行こう、と私を誘っては競艇場に私を連れて行っていた父。しょっちゅう愛人から自宅に電話があり、母親を悩ませていた父。母親と私を母方の親戚の家に遊びに行かせるにあたり馬券購入を頼み、私が熱を出したとの連絡を受けてすっ飛んできての第一声が、馬券は? だった父。事業が右下がりになり倒産して自堕落になっていった父。母親と私が家を出るときに、パチ屋に逃避した父。自力でトイレにも行けなくなり自分で救急車を呼んだ父。余命1週間にも拘わらず私以外には誰1人身内に見舞ってもらえなかった父。肝硬変で死んだ父。お情けで親が買っていた墓に入れてもらった父。碌な男じゃない。でも、これが、私の父親である。そして大好きな父親なのである。ここに書いていないいい面を私は沢山見てきたつもりだし、父親なりに私に愛情を注いでくれたと疑っていない。幼児だった頃の私を抱いた父の写真が一葉ある。父は笑顔だ。この父、一時期は物凄く甲斐性のある人だったらしい。その部分は私には遺伝しなかったようで、悪い部分ばかりが遺伝してしまったようだ。賭博好きとか、精神的な脆さとか。今の父親とは正反対である。呑む打つ買うは皆無に近いくらいしない。親に暴力も揮わない。趣味らしい趣味もなく、真面目一直線のような今の父親。私の性質は今の父親よりも実父に遥かに近い。今の父親を実の父親のように思ったことはない。あくまで、親の旦那。これは親が再婚したときから変わっていないスタンスだ。今の父親と親が結婚して良かったと思っているし、私は私でいろいろな面で感謝はしている。でもどうしても実の父親のようには慕えなかったし、恐らくは今後もそうだろう。昔は、実の親より育ての親、という言葉に悩まされた。今でも悩むことはあるが、だからといって気持ちに嘘はつけない。

 今、実父に近い存在がいる。うちのの父親だ。やはり呑む打つ買うだった人で、DVがあり、家族から絶縁などはされていないけれど疎まれている。これだけで私は歪んだ認知かもしれないけれど、うちのの父親に親近感を持ってしまっている。またうちのの父親は持病があり、摂生が必要なのに自己管理ができていない。ここはもう死んでしまった母方の祖父と被る。うちのの父親と母方の祖父と同じ持病であり、摂取食物の種類は違うけれど摂生できていないのも一緒。私はうちのの身内の中で、うちのの父親と一番仲良くなりたいと思っている。これに関してうちのは複雑そうである。少し前に、うちのの父親が持病の合併症によりやや大掛かりな手術をし、成功したらしい。良かった良かった。術後にうちのの母親から連絡があった。電話を取ったのは私。もしもし、うちのの母(仮名)だけど、黒猫(仮名)ちゃん? はい、ご無沙汰しています。元気にしてる? はい。そう、うちの(仮名)、いる? はい。うちの(仮名)に変わってくれる? はい。電話交代。手術のことはうちのからの伝聞。うちのの母親がいっぱいいっぱいなのも解ってるんだけどね。籍を入れている訳でもなし両家で挨拶したことがあるでなし私は所詮余所者だってことも解ってるんだけどね。だけどね……。

教育者の人間性

2004年1月28日 回顧
 googleで、札幌南高校・東京経済大学卒業。、とキーワードを入れて検索すると、ある人物のプロフィールが出てくる。そのプロフィールの一番下に、教育論、と銘打たれたリンクが貼られており、コラム一覧のページに飛ぶ。某所にてこのコラム一覧のうちのひとつが貼られており、読んでみた。一見、尤もらしいことが書かれている。しかしこの人物は偏見の塊であると思われる。上昇志向・固執癖・自分の記憶が全て・時代の流れを認めない。戸塚宏と変わりなくすら思える。いや、戸塚の方がマシかもしれない。よく知らないけど。尤もらしく日本語の乱れについて述べる、その文章に日本語の乱れが見られる。その日本語の使い方こそが、おまいの言いたい日本語の乱れに値するんじゃないのか、と。ペットを慈しみ死を悲しむ、けれどペットが死に至る過程である自分の家族らのペットへの配慮は棚上げ。おまいらがちゃんと気を遣っていればそんな事故は防げたんじゃないのか、と。犬が凍死? 戸締りしとけや! 猫が琴の下敷きに? 猫がちょっかいを出さない場所にしまっとけや! ペットを飼育するにあたっての常識を身につけてから出直せ。阿呆か。この人物は日本の北の方にある学校の校長を務めているらしい。私なら絶対にこんな校長のいる学校には通いたくない、また自分に子ができたとしても絶対に通わせたくない。通わせない。自己愛の強い教育者は子供の人格形成に悪影響を与える、というのが私の持論だ。私の日記をこの人物が読むことはなかろうが仮に読んだとして、今時の若者の戯言、と一笑に付すだろう。

 この人物のコラムの全てがちゃんちゃら話にならない訳ではない。例えば良質な子供番組が減っていること。例えば勤労への知識が足りない子供について。またアルファ・シンドロームを人間の親子関係に当て嵌めて論じる視点はなかなかだと思った。あくまで視点だけだけれども。そして上記のように、まず自己愛ありき、なので幾つかいいことを書いていても、その他のコラムの歪みで説得力が半減してしまっている。茶髪・ピアスを嫌うオトナは少なくない。私の知る茶髪・ピアスを嫌うオトナは、親からもらった体を弄ることへの反感、を示していた。要は、子供は親の所有物であり子供の、個、を認められない大人になりきれないオトナだと私は思っている。この人物は茶髪・ピアスへの否定に、社会不適合性を持ってきて論じている。尤もらしく読めるけれども、説得力はない。またピアスホールを作ったりピアスを装着することで脳細胞の減少は3倍早くなる、と述べている。科学的ソースを出してからものを言って欲しい。海外の論文、という言葉ほど胡散臭いソースはない、なんてことにこの人物は気付いていないのだろう。

 小〜高校生の化粧についての否定コラムもあった。私も肌が綺麗な頃からの基礎物以外の化粧品を使うことには否定的である。第二次性徴期などにニキビで悩む子がニキビの隠し方の相談を掲示板でしている場合、私はまずニキビの質を判断した上でアクネケアまたは保湿の基礎化粧をちゃんとすること、無理に隠そうとすると悪化に繋がることを自分の経験に基づいてレスをし、メイクについての相談を見かけた場合はスルーしている。否定的であっても、若いうちからお化粧なんて! とは言わない。書かない。自己判断ありきと考えてスルー。この人物のコラムでのエピソードのひとつに、メイクをした女子高生に暴言を吐いた、というものがあった。そして暴言を吐いた自分を、卑下したポーズを取っていたけれど、その裏に良識的な紳士気取りの姿が見え隠れして非常に気味が悪かった。メイクを施す女子高生を嫌うのはいい。個人の自由であり、美意識の違いだ。けれど、その美意識の違いを暴言という形で擦違いざまに見知らぬ女子高生らに投げつける、その行為に変質的なものを感じた。こんな人物が教育者として堂々としていられることが激しく疑問だ。教育者は聖職者たれ、とは思っていない。教育者もひとりの人間であり、主義思想の自由はあって当然。ただ私なら、紳士気取りを拙いレトリックで覆い隠して女子高生に暴言をぶつけたことを自慢げに語る教育者など、決して信用できないという話である。

 学生時代、私は担任教師に嫌われる生徒だった。不登校ではないけれど学校にこないし、授業中に寝ていたり競馬新聞を読んだりしているし、何も言わずに帰ったりするし、定期試験の点数は悪いし。定期試験の成績が悪いのに、県内統一などでは標準の点数を取れることがまた癪に障っていたらしい。学力は標準なのに、授業に関心がないということが数値で証明されるから。担任教師とは仲が悪かったけれど、学年主任や教頭などとは仲が良かった。それも担任教師にとっては嫌な存在だっただろう。校則に関係ないことで注意を受けただの、希望校受験を頑なに担任が受け付けないだのと話していたし。校則に関係ないことで受けた注意は下着についてである。中学生のとき、校則で決められた白いブラウスの下に白×紺のストライプのタンクトップを着ており、派手だからやめなさい、と。穴あき紐パンを穿いていた訳でなし、余りにも些細でくだらないと思った。志望校受験を反対されたのは高校時代。担任が志望校の志願書をどうしてもくれないので、担任を飛ばして学年主任のところにもらいに行った。この2教師とは違う、中学3年のときの担任教師には最も酷い仕打ちを受けた。その担任教師は卒業式の後、クラスの生徒全員に手紙を書いて渡してた。私への手紙だけ宛名なし……。書かれていた手紙の中身は、もっと協調性をつけて視野を広く持ってください。確かに協調性は欠落していた。今も協調性はない。けれど、教師って生徒にはせめて上辺だけでも公平に接するものではないのか? 協調性がなくて視野が狭いのはあんたもじゃないのか? 帰宅後、親に怒られた。そんなもん受け取ってくるな! プライドはないのか! 投げ返してくればよかったのに! 確かにその通りである。その日のうちに手紙は処分したと記憶している。

 話は全く変わり、今日の昼間のこと。父親から電話があった。着信拒否設定をしていたことを疑われたのでしどろもどろで否定。話したのは短時間。最初は親と同じく、元気にしてるのか? という確認。最後に、電話が繋がらなくて心配してた、何かあったらちゃんと電話してこいよ! 父さんはお前のことちゃんと考えてるから! と。また滂沱の涙。逡巡の末、こんな風に考えが纏まってきている。
養子縁組解消の書類に判を押させることは踏み絵だった(過去に過ちがある相手と一緒になる覚悟の確認)

親らにとってはうちのの過去は許せないけれど好き同士を引き離しても現在私は治療中であり且つ病気の一因として親の存在がある以上、如何ともし難い

事実上の絶縁という形を取りつつ遠くから私(とうちのも)を見守る
ということで落ち着いてるのかな?と。これが正解かどうかは不明。けれどこう考えたことでほんの少しだけれども根無し草感が薄れてきた気がしてきている。
・私は形はどうあれ心配されている=見捨てられてはいない
・うちのの下に私がいることを黙認=うちののことを全否定はしていない
ということではないだろうか。心配をかけていることへの申し訳なさはあるけれど、心配してもらえていることがこんなに嬉しいことだったとは。昔は親が、心配、という言葉を持ち出すだけで、心配してくれなんて頼んでない! 心配しているフリを押し付けんな! と思っていたのに少なくとも今は全然そんな感情が出てこない。情緒欠落の一部が改善されてきている……んだといいなあ。

半年

2003年10月1日 回顧