私が国文学を専攻したのは、言うまでもなく本が好きだったからだ。PDの自覚症状発覚から近所の内科を経て現在の主治医の元に通い出し、1年弱となる。自覚症状は今年の1月から現れ、服薬で発作はかなり治まりつつはあるものの、それ以来、未だ集中力を長時間保つことが困難になっている。因って600頁近くもある文庫本を1日で読み上げたのは久々である。読んだのは多島斗志之著「症例A」。このミス2000年度9位ということで、ここ数年は毎年購入しているこのミス2001年度版を取り出してみたら、確かにランクインして紹介されていた。2000年末、私はこの本に興味を持たなかったことが解った。文庫派故に、今回の文庫化待ちをしていたという訳でもない。ただ、近所の書店で平積みされているのを見、背表紙の簡単な文章を読み激しく興味を持った。しかし購入に至る迄に数ヶ月を要した。定価724円を惜しんでいたのではない。そのくらいの金銭はある。購入迄に時間が必要だったのは、購入の決心がなかなかつかなかったのだ。勘と言うべきか、それとも本能と言うべきか。この本は読んではいけない、という勘だか本能だかが私を躊躇わせていた。この本で取扱われているのは精神病である。中に出てくる主要病名に、私の諸事情が入っていた。だから好奇心を持った。同時に警戒心も芽生えた。今回購入したのは、好奇心が遂に勝ってしまったからだ。本の内容についてはミステリなので敢えてここでは触れない。
私の本の読み方は少し変わっているらしい。特に同じミステリ愛好者には、あり得ない読み方をしている、と言われることもある。まず後書や解説を読み、小説の結末を読み、それから冒頭部分から通読する。純文学でもミステリでもその他でも、どれもこの順番は同じである。この順番を狂わせて読むことにも特に抵抗はないので、こう読まねば、という強迫症状ではない。癖のようなものか。ことミステリに於いては、結末を読んでからという読み方をする者は少数派であるらしい。けれど私にとっては、活字を読む、という点で本の内容に区別はない。私にとっての読書とは、活字を追うことと言ってしまってもいい。活字となった文章から情報を得ることが目的であり、内容は後からついてくるものだと昔から考えている。強迫症状と言えば、仕事での参考資料などではなく趣味としての読書に限っての話ではあるが、以前は一冊の本を手にしたら、読了する迄は他のことに手が付けられなかった。手にしたが最後、読了=使命のようになっていてどんなに内容が詰まらない物であったとしても、途中で本を置いて他のことをするのは勿論のこと、読了せずに違う本を読み出すなど論外だった。うっかりそんなことをしてしまったときには、とてつもない罪悪感に苛まれたものだ。集中力の持続が困難になってからは、この強迫観念がなくなった。良いことか悪いことかは不明だが、生活への支障は減ったので良いことなのかもしれない。
さて今日読んだこの本、諸手を挙げて著者に降参。この著者の本を読んだのは初めてだが、完成度がとにかく高い。現在治療中・独学中の私が読んでも全く違和感を覚えない内容だった。逆に知らなかった知識を得ることができた。完成度とは物語の構成もだが、著者の下調べが行き届いているということだ。上記のような読書スタンスからか、私は小説の登場人物への感情移入はまずしない。それが今回はしてしまった。いや、させられた、と言う方が正確である。私が治療中の身だからという理由だけではない。記号の持つ力とは何と恐ろしいのだろう。途中、何度トイレと布団を行き来したことか。実際に吐きはしなかったものの、嘔吐感と頭痛に襲われたのだ。半分を少し過ぎた辺りだったか、一度は読了を諦めようともした。身体への不快感も一因ではあるが、それ以上に感情への揺さぶりが強く、本を置き、号泣してしまった。自分の諸事情の未来像への必要以上な想像をかき立てられ、過去のことを少し思い出そうとしたら泪と嗚咽が止まらなくなってしまったのだ。何かが思い出せない。急速に襲ってきた孤独感、不安感、恐怖心などが私をそうさせた。私の中には一部分、記憶の捏造と思われるものが存在している。本当に捏造なのかどうかは謎のままだ。解明を試みたが迷宮入りしてしまった。この本をきっかけに何かを捏造する危険性を感じた。読了した今、捏造が完了した可能性もある。捏造ではない思い出せない記憶が私を泣かせた可能性もある。真偽は判らない。そしてその確認作業が私の治療に必要かどうかも判別不能。判らない。解らない。逃げ出したい。怖い。物心ついてから大人になる迄の全ての記憶を持っている人はいるのだろうか。まずいないだろう。脳の収容能力には限界があり、不要だと脳に判断された記憶は奥へとしまわれてゆく。また時間と共に記憶が若干の変化をすることもある。これらは自然なことであり、問題は全くない。しかしその自然な脳の作業と、記憶の抜け落ちや捏造は話が違う。抜け落ちや捏造は、病気だ。作中に書かれている治療と治癒、治癒とは私が書く解寛とほぼ同意であろう、その姿勢は主治医及び私が思っているものと同じに読めた。異論を挟みたい学者や医師や患者もいるだろうが、それは私には関係がない。PD然り、諸事情然り、その他の精神疾患然り。どれも持ったままでは患者は生き難いのだ。だから治療をし、解寛を目指す。解寛とは、生き易い・生きていられる、と実感できるようになることだと私は思っている。現代は生き難い世界だ云々の話ではなく、精神衛生上の話である。心療内科・精神科・心療内科の患者は概して今の自分に生き難さを感じていると思われる。私もそのひとりだ。生き難さを自覚してしまうと、逃避願望から希死念慮や自閉傾向が生じ、余計に生き難くなる。
こういった救いを求める患者に手を差し伸べるのが専門医やカンウセラだが、私の諸事情は病院によっては病名を告げただけで、または医師やカウンセラがその診断を下した時点で追い払われることもある厄介な物だ。故に私は簡単に転院を薦めてくる者は、それだけで諸事情への理解が足りない相手だと判断する。そうでなくてもこの諸事情を持つ人間は、他者への猜疑心が突出して強い。諸事情を持つ私が言うのも可笑しな話かもしれないが、この諸事情を抱えた人間には近付かないのが最良の手段である。治療者でないならば尚更だ。近付いたとしても2者関係にならないことだ。仮に2者関係になるのなら、余程の覚悟と勉強が必要となる。この諸事情を知り自覚し、それから診断を下されて独学続行中の私は、諸事情の特徴や他者にかけ易い迷惑も把握しているつもりだ。それでも自分を制御できないときがある。内向型でなく巻き込み傾向が強い者なら、私以上に制御が困難だろう。こう書くと私が内向型と診断されたようだが、諸事情であるということしか診断は受けていないので、内向型か巻き込み型かは自分の独断でしかない。他者から見ると違って見えるかもしれないのは承知だ。私が内向型と自認しているのは、ある種の楽観と言い換えることも可能かもしれない。どちらでもいい。なんでもいい。死なないことで精一杯、という現状から抜け出せればいいのだ。が、この本を読み、今月1日付及び9日付のタイトルが、単なる洒落で済むことを今は願っている。不安が的中しなければいいのだが。尤も的中したところで、私はもう関知しない。
この本。完成度は高い。読了後の満足度もそこそこ。だが、精神疾患患者及び治療を受けていなくともその気配が自分で感じ取れる者は読まない方が吉。自身の精神が健常であるという自信のある人にしかお薦めはできない。ガリバー旅行記は未読だが、これも原書や正確な原書訳は読まない方が良さそうだ。
私の本の読み方は少し変わっているらしい。特に同じミステリ愛好者には、あり得ない読み方をしている、と言われることもある。まず後書や解説を読み、小説の結末を読み、それから冒頭部分から通読する。純文学でもミステリでもその他でも、どれもこの順番は同じである。この順番を狂わせて読むことにも特に抵抗はないので、こう読まねば、という強迫症状ではない。癖のようなものか。ことミステリに於いては、結末を読んでからという読み方をする者は少数派であるらしい。けれど私にとっては、活字を読む、という点で本の内容に区別はない。私にとっての読書とは、活字を追うことと言ってしまってもいい。活字となった文章から情報を得ることが目的であり、内容は後からついてくるものだと昔から考えている。強迫症状と言えば、仕事での参考資料などではなく趣味としての読書に限っての話ではあるが、以前は一冊の本を手にしたら、読了する迄は他のことに手が付けられなかった。手にしたが最後、読了=使命のようになっていてどんなに内容が詰まらない物であったとしても、途中で本を置いて他のことをするのは勿論のこと、読了せずに違う本を読み出すなど論外だった。うっかりそんなことをしてしまったときには、とてつもない罪悪感に苛まれたものだ。集中力の持続が困難になってからは、この強迫観念がなくなった。良いことか悪いことかは不明だが、生活への支障は減ったので良いことなのかもしれない。
さて今日読んだこの本、諸手を挙げて著者に降参。この著者の本を読んだのは初めてだが、完成度がとにかく高い。現在治療中・独学中の私が読んでも全く違和感を覚えない内容だった。逆に知らなかった知識を得ることができた。完成度とは物語の構成もだが、著者の下調べが行き届いているということだ。上記のような読書スタンスからか、私は小説の登場人物への感情移入はまずしない。それが今回はしてしまった。いや、させられた、と言う方が正確である。私が治療中の身だからという理由だけではない。記号の持つ力とは何と恐ろしいのだろう。途中、何度トイレと布団を行き来したことか。実際に吐きはしなかったものの、嘔吐感と頭痛に襲われたのだ。半分を少し過ぎた辺りだったか、一度は読了を諦めようともした。身体への不快感も一因ではあるが、それ以上に感情への揺さぶりが強く、本を置き、号泣してしまった。自分の諸事情の未来像への必要以上な想像をかき立てられ、過去のことを少し思い出そうとしたら泪と嗚咽が止まらなくなってしまったのだ。何かが思い出せない。急速に襲ってきた孤独感、不安感、恐怖心などが私をそうさせた。私の中には一部分、記憶の捏造と思われるものが存在している。本当に捏造なのかどうかは謎のままだ。解明を試みたが迷宮入りしてしまった。この本をきっかけに何かを捏造する危険性を感じた。読了した今、捏造が完了した可能性もある。捏造ではない思い出せない記憶が私を泣かせた可能性もある。真偽は判らない。そしてその確認作業が私の治療に必要かどうかも判別不能。判らない。解らない。逃げ出したい。怖い。物心ついてから大人になる迄の全ての記憶を持っている人はいるのだろうか。まずいないだろう。脳の収容能力には限界があり、不要だと脳に判断された記憶は奥へとしまわれてゆく。また時間と共に記憶が若干の変化をすることもある。これらは自然なことであり、問題は全くない。しかしその自然な脳の作業と、記憶の抜け落ちや捏造は話が違う。抜け落ちや捏造は、病気だ。作中に書かれている治療と治癒、治癒とは私が書く解寛とほぼ同意であろう、その姿勢は主治医及び私が思っているものと同じに読めた。異論を挟みたい学者や医師や患者もいるだろうが、それは私には関係がない。PD然り、諸事情然り、その他の精神疾患然り。どれも持ったままでは患者は生き難いのだ。だから治療をし、解寛を目指す。解寛とは、生き易い・生きていられる、と実感できるようになることだと私は思っている。現代は生き難い世界だ云々の話ではなく、精神衛生上の話である。心療内科・精神科・心療内科の患者は概して今の自分に生き難さを感じていると思われる。私もそのひとりだ。生き難さを自覚してしまうと、逃避願望から希死念慮や自閉傾向が生じ、余計に生き難くなる。
こういった救いを求める患者に手を差し伸べるのが専門医やカンウセラだが、私の諸事情は病院によっては病名を告げただけで、または医師やカウンセラがその診断を下した時点で追い払われることもある厄介な物だ。故に私は簡単に転院を薦めてくる者は、それだけで諸事情への理解が足りない相手だと判断する。そうでなくてもこの諸事情を持つ人間は、他者への猜疑心が突出して強い。諸事情を持つ私が言うのも可笑しな話かもしれないが、この諸事情を抱えた人間には近付かないのが最良の手段である。治療者でないならば尚更だ。近付いたとしても2者関係にならないことだ。仮に2者関係になるのなら、余程の覚悟と勉強が必要となる。この諸事情を知り自覚し、それから診断を下されて独学続行中の私は、諸事情の特徴や他者にかけ易い迷惑も把握しているつもりだ。それでも自分を制御できないときがある。内向型でなく巻き込み傾向が強い者なら、私以上に制御が困難だろう。こう書くと私が内向型と診断されたようだが、諸事情であるということしか診断は受けていないので、内向型か巻き込み型かは自分の独断でしかない。他者から見ると違って見えるかもしれないのは承知だ。私が内向型と自認しているのは、ある種の楽観と言い換えることも可能かもしれない。どちらでもいい。なんでもいい。死なないことで精一杯、という現状から抜け出せればいいのだ。が、この本を読み、今月1日付及び9日付のタイトルが、単なる洒落で済むことを今は願っている。不安が的中しなければいいのだが。尤も的中したところで、私はもう関知しない。
この本。完成度は高い。読了後の満足度もそこそこ。だが、精神疾患患者及び治療を受けていなくともその気配が自分で感じ取れる者は読まない方が吉。自身の精神が健常であるという自信のある人にしかお薦めはできない。ガリバー旅行記は未読だが、これも原書や正確な原書訳は読まない方が良さそうだ。
狂信者の如きの正体
2003年11月19日 家族・メンヘル・健康など 現在、20日に日付が変わったばかり。
一昨日の夜、親の動向を探るべく親の妹である叔母に電話をした。最も親と仲が良く、親からも叔母自身からも、親にできない相談はこの叔母にするように、と子供の頃から言われてきた叔母だ。親よりもかなり真っ当な人だと昨夜迄は思っていた。昨夜迄。話が要らぬ方向に流れた。叔母曰く、私はどちらの味方でもないとの前置きを据えた上で言うには、
・お母さんは心配している
・お母さんは一所懸命、黒猫を育ててきた
・同じ親として子供に依存だの支配だの言われるのは悲しい
・黒猫が親にならないと解らない
・黒猫はまだまだ(世の中や人の気持ちを)解っていない
そして、私が未だに実の父親の死を母親が見捨てたせいだと勘違いし続けていると思っていたようで、その方面で言い聞かされて辟易。お母さんはこんなこと言わないだろうけど、との前置きに母親の苦労話をさんざん聞かされたが、私は、全部聞かされて育ってきました、としか答えようがなかった。親は自分の不幸話や苦労話をいつも若干の改竄を加えつつ、私に話して聞かせていたのだから、こんなこと言わないだろうけど、の出発点から間違っている。
・今、幸せなんだぁ〜、ふぅ〜ん
・あんた病気だわ。注釈。だから通院している、と答えた。
・黒猫の話を聞いていると宗教に入っている人のよう
自分の感情論が通用しない相手は、親にとっては全て屁理屈、叔母にとっては全て病気か宗教に嵌ってしまった人に見えるらしい。宗教については全くと言っていい程の門外漢なので詳しい言及は避けたいが、確実なのは私は無神論者であるということだ。以下は少々主観混じり。親の実家は近所の寺の檀家だ。仏教の中でもかなりラフな部類に入ると思われる浄土真宗だと祖父の葬式の際に聞いた筈なのに、親や叔母の話は私に儒教の思想を髣髴させた。親は理屈抜きで敬わねばならないという思想は、揺るぎない何かに基づいたものでないのならば、前世紀に捨ててきて欲しい。話はうちのにも及び、
・二度あることは三度ある
・前科は消えない。注釈。前科の定義は刑法第9条・第27条参照すればこれがうちのの件に関しては間違っていることは明白。また以前にも書いたかもしれないが、うちのが犯した過ちは、被害者なき犯罪、と呼ばれる物の初犯の一般的判決であったことも再度書いておく。次はないと私が信じて納得して絶縁という結果になったのだからいいではないか。親切心の振りをした発言で不安感を煽ってくれるな。うちのがこう言ったいた。親戚って心配しているようでしてないもんだよ。正解だと身をもって思う。泪ながらの発言であっても、その泪に何が篭っているかは解らないのだ。当人さえも、その何かを勘違いしている可能性がある。
私が親に抑圧されて育てられたこと及び支配と依存について説明しても
・一所懸命だったから
・心配しているから
の感情論で一蹴。叔母が、私(の精神)にもお母さん(の身体)にも早く治して欲しいと言うので私が、身体もだけれど精神の方が心配・私の病気は環境遺伝・親が同病でなければ子供はこうはならない、ということを掻い摘んで説明すると、最後は、まあ早く病気を治してひとりで生きていきなよ、でした。叔母はうちのと一緒にいる必要性がどこにあるのかと執拗に聞いてきたが、それらは各種事情が絡んでいることであり付け加えるならば、逆にひとりにならなければならない必要性を小一時間問い詰めたい。当然ながら感情論は全て放棄した上で問い詰めたい。が、感情論放棄が無理そうだと察したので私が引いた。肉食獣を前にした草食動物のようである。そもそも説明する迄もなく、叔母は私がどのように育てられてきたか、その目で見てきたのだ。目で見た物事よりも聞いた改竄された物事の方が事実として認識されているのか。一見は百聞にしかず、は人によっては通用しないのかもしれないことを知った。二度と連絡することはないだろうが流石に凹んだ。単純に、親心を無視して突っ走ってる姪、としか見えていないのだろう。叔母は最後には、どっちの気持ちも解らん! と言っていたので親が次に何をしでかすか、相変わらず予測不可能。まるで傷付けられるためだけに電話したようで物凄い徒労感に襲われ未だ復活ならず。希死念慮、限界点ギリギリ。こちらから裁判所で調停などに持ち込んだ方が早いかもしれない。さっきうちのと話し合い、来月半ばになっても書類が提出されないようなら法律相談に行ってこようとなった。
どっちの気持ちも解らん、は主治医も恐らく同じ気持ちだろう。一昨日急襲をかけられた主治医の元に昨日謝罪兼診察に行ってきた。実質的には既に絶縁状態に突入している親の謝罪を、何故私がしなければならないのか。疑問は残るが取り敢えず謝ってきた。主治医曰く、親は目を血走らせて乗り込み、
・ふたりを別れさせなければならない
・あの子の言っていることは全て屁理屈だ
などと捲くし立て、話にならないことを感じた主治医は、あなたの話だけ聞いても解決しないので今度4人で話し合いましょう、と説得して帰したらしい。自身の思い込みによる身勝手な使命に突き動かされた独演会の所要時間は約20分程だったとか。この4人は主治医・親・うちの・私だ。うちのも私も御免被りたい。主治医もそうだろう。主治医は診察中でも感情を露にする医師だ。昨日の診察のときは、本気で辟易していたのが感じ取れた。主治医としては親の話と私の話を聞いて接点を見つけ、そこから解決の糸口を探そうと思っていたらしい。ところが親の話と私の話が全然噛み合わず、どうしていいものか困っている様子だった。困っている様子よりも辟易した様子の方が強く感じられたのがつらかった。激しい見捨てられ不安を抱えている私は、主治医が親の巻き込みを喰らったことで私をも見放してしまうのではないかという疑念が湧いている。そんなことはしない、とは言ってくれてはいたが……。この先親から連絡がこなければ放置する方針をうちのと共に固めたので、次回の診察時にはそのことを告げて私の治療のみに専念してもらうように言わねば。
目が血走っていた原因が寝不足なのか、泣き腫らしたのか、狂気が目にも滲み出ていたのかは不明。主治医は特に目が印象的だったようで、何度も目について述べていた。親は若かりし頃に目薬のポスターのモデルに起用されたこともあるらしく、その写真を見せてもらったことがある。我が親ながら、とても綺麗だった。ポスターの目的からして目は勿論だし、顔立ちも綺麗だった。顔立ちは年月と共に重力に逆らえなくなるのはある程度仕方がないことだろう。けれど、目の輝きが変わってくるのは如何なものか。目は志が変わらなければ輝きを失うことはないと思っていたのに。あの目がこのように語られる目になる日がくるとはまさか思ってもみなかった。苦手だし、その存在の下から脱兎すべくもがいている今でも、私は親を嫌いとは言えない。綺麗な親の姿は好きであり、ちょっとした自慢でもあった。その親が私を支配下に戻すべく、必死の形相で周囲の人々に改竄を加えた情報を撒き散らしている。それは今まで通りの私を追い詰める為の手段としては変わっていない。目が違ってくるというのだけは悲しみを禁じえない。世に恐ろしきは年月なのか、狂気なのか。日々を虚ろに過ごしている私の今の目は、将来の目は他者にどう映るのだろう。
一昨日の夜、親の動向を探るべく親の妹である叔母に電話をした。最も親と仲が良く、親からも叔母自身からも、親にできない相談はこの叔母にするように、と子供の頃から言われてきた叔母だ。親よりもかなり真っ当な人だと昨夜迄は思っていた。昨夜迄。話が要らぬ方向に流れた。叔母曰く、私はどちらの味方でもないとの前置きを据えた上で言うには、
・お母さんは心配している
・お母さんは一所懸命、黒猫を育ててきた
・同じ親として子供に依存だの支配だの言われるのは悲しい
・黒猫が親にならないと解らない
・黒猫はまだまだ(世の中や人の気持ちを)解っていない
そして、私が未だに実の父親の死を母親が見捨てたせいだと勘違いし続けていると思っていたようで、その方面で言い聞かされて辟易。お母さんはこんなこと言わないだろうけど、との前置きに母親の苦労話をさんざん聞かされたが、私は、全部聞かされて育ってきました、としか答えようがなかった。親は自分の不幸話や苦労話をいつも若干の改竄を加えつつ、私に話して聞かせていたのだから、こんなこと言わないだろうけど、の出発点から間違っている。
・今、幸せなんだぁ〜、ふぅ〜ん
・あんた病気だわ。注釈。だから通院している、と答えた。
・黒猫の話を聞いていると宗教に入っている人のよう
自分の感情論が通用しない相手は、親にとっては全て屁理屈、叔母にとっては全て病気か宗教に嵌ってしまった人に見えるらしい。宗教については全くと言っていい程の門外漢なので詳しい言及は避けたいが、確実なのは私は無神論者であるということだ。以下は少々主観混じり。親の実家は近所の寺の檀家だ。仏教の中でもかなりラフな部類に入ると思われる浄土真宗だと祖父の葬式の際に聞いた筈なのに、親や叔母の話は私に儒教の思想を髣髴させた。親は理屈抜きで敬わねばならないという思想は、揺るぎない何かに基づいたものでないのならば、前世紀に捨ててきて欲しい。話はうちのにも及び、
・二度あることは三度ある
・前科は消えない。注釈。前科の定義は刑法第9条・第27条参照すればこれがうちのの件に関しては間違っていることは明白。また以前にも書いたかもしれないが、うちのが犯した過ちは、被害者なき犯罪、と呼ばれる物の初犯の一般的判決であったことも再度書いておく。次はないと私が信じて納得して絶縁という結果になったのだからいいではないか。親切心の振りをした発言で不安感を煽ってくれるな。うちのがこう言ったいた。親戚って心配しているようでしてないもんだよ。正解だと身をもって思う。泪ながらの発言であっても、その泪に何が篭っているかは解らないのだ。当人さえも、その何かを勘違いしている可能性がある。
私が親に抑圧されて育てられたこと及び支配と依存について説明しても
・一所懸命だったから
・心配しているから
の感情論で一蹴。叔母が、私(の精神)にもお母さん(の身体)にも早く治して欲しいと言うので私が、身体もだけれど精神の方が心配・私の病気は環境遺伝・親が同病でなければ子供はこうはならない、ということを掻い摘んで説明すると、最後は、まあ早く病気を治してひとりで生きていきなよ、でした。叔母はうちのと一緒にいる必要性がどこにあるのかと執拗に聞いてきたが、それらは各種事情が絡んでいることであり付け加えるならば、逆にひとりにならなければならない必要性を小一時間問い詰めたい。当然ながら感情論は全て放棄した上で問い詰めたい。が、感情論放棄が無理そうだと察したので私が引いた。肉食獣を前にした草食動物のようである。そもそも説明する迄もなく、叔母は私がどのように育てられてきたか、その目で見てきたのだ。目で見た物事よりも聞いた改竄された物事の方が事実として認識されているのか。一見は百聞にしかず、は人によっては通用しないのかもしれないことを知った。二度と連絡することはないだろうが流石に凹んだ。単純に、親心を無視して突っ走ってる姪、としか見えていないのだろう。叔母は最後には、どっちの気持ちも解らん! と言っていたので親が次に何をしでかすか、相変わらず予測不可能。まるで傷付けられるためだけに電話したようで物凄い徒労感に襲われ未だ復活ならず。希死念慮、限界点ギリギリ。こちらから裁判所で調停などに持ち込んだ方が早いかもしれない。さっきうちのと話し合い、来月半ばになっても書類が提出されないようなら法律相談に行ってこようとなった。
どっちの気持ちも解らん、は主治医も恐らく同じ気持ちだろう。一昨日急襲をかけられた主治医の元に昨日謝罪兼診察に行ってきた。実質的には既に絶縁状態に突入している親の謝罪を、何故私がしなければならないのか。疑問は残るが取り敢えず謝ってきた。主治医曰く、親は目を血走らせて乗り込み、
・ふたりを別れさせなければならない
・あの子の言っていることは全て屁理屈だ
などと捲くし立て、話にならないことを感じた主治医は、あなたの話だけ聞いても解決しないので今度4人で話し合いましょう、と説得して帰したらしい。自身の思い込みによる身勝手な使命に突き動かされた独演会の所要時間は約20分程だったとか。この4人は主治医・親・うちの・私だ。うちのも私も御免被りたい。主治医もそうだろう。主治医は診察中でも感情を露にする医師だ。昨日の診察のときは、本気で辟易していたのが感じ取れた。主治医としては親の話と私の話を聞いて接点を見つけ、そこから解決の糸口を探そうと思っていたらしい。ところが親の話と私の話が全然噛み合わず、どうしていいものか困っている様子だった。困っている様子よりも辟易した様子の方が強く感じられたのがつらかった。激しい見捨てられ不安を抱えている私は、主治医が親の巻き込みを喰らったことで私をも見放してしまうのではないかという疑念が湧いている。そんなことはしない、とは言ってくれてはいたが……。この先親から連絡がこなければ放置する方針をうちのと共に固めたので、次回の診察時にはそのことを告げて私の治療のみに専念してもらうように言わねば。
目が血走っていた原因が寝不足なのか、泣き腫らしたのか、狂気が目にも滲み出ていたのかは不明。主治医は特に目が印象的だったようで、何度も目について述べていた。親は若かりし頃に目薬のポスターのモデルに起用されたこともあるらしく、その写真を見せてもらったことがある。我が親ながら、とても綺麗だった。ポスターの目的からして目は勿論だし、顔立ちも綺麗だった。顔立ちは年月と共に重力に逆らえなくなるのはある程度仕方がないことだろう。けれど、目の輝きが変わってくるのは如何なものか。目は志が変わらなければ輝きを失うことはないと思っていたのに。あの目がこのように語られる目になる日がくるとはまさか思ってもみなかった。苦手だし、その存在の下から脱兎すべくもがいている今でも、私は親を嫌いとは言えない。綺麗な親の姿は好きであり、ちょっとした自慢でもあった。その親が私を支配下に戻すべく、必死の形相で周囲の人々に改竄を加えた情報を撒き散らしている。それは今まで通りの私を追い詰める為の手段としては変わっていない。目が違ってくるというのだけは悲しみを禁じえない。世に恐ろしきは年月なのか、狂気なのか。日々を虚ろに過ごしている私の今の目は、将来の目は他者にどう映るのだろう。
独演会再び
2003年11月18日 家族・メンヘル・健康など 明け方の5時に眠剤を入れ、18時に起床。起きたきっかけは主治医からの電話である。調剤薬局からは何度か電話をもらったことがある。けれど、主治医からの電話というのは初めてだったのでとても驚いた。寝惚けつつ主治医の話を聞く。どうやら今日、親が主治医の元に押しかけて、うちのと私を別れさせなきゃいけないだのなんだかんだと独演会を開き、主治医は、お母さんの話だけを聞いてもどうしようもないので今度皆で話し合いましょう、と、とにかくお引取り願ったそうだ。私が直接迷惑をかけた訳ではないのだが大変に恐縮してしまった。巻き込み型は本当に怖い。昨今、諸事情被害者の会スレの人々の気持ちがなんだか解る気がしている。電話で簡潔にだけ説明したが、明日、主治医の元に行って一連の流れを詳しく説明しなくてはならなくなってしまった。何がなんだか知らないうちにどこかとんでもないとこに来た、といった気分である。一体何がしたいのか、全く以って解らなくなってきた。先週の土曜に私が養子縁組離縁届に判を押したことでカタは付いたのではないのか。付いていないらしい。因って実家に保管されていた私の荷物が届くのは当分先になるようだ。昨日は役所への各種変更届について調べたのだが、その実行もまだ先になりそうである。年内に片付けばいいのだが、いやはや先が見えない展開になってしまった。私が判を押したとき、親はこれで泥沼は避けられる、と言っていた。親が言う泥沼とは民事裁判のことであったと予測できるが、裁判沙汰にならずとも既に泥沼である。しかも泥沼を深くしていっているのはどう考えても親ではないか。何故に主治医の元に押しかけるのか解らない。別れさせなければならないと言っていたようだが、土曜にそんな話は出されなかった。うちのにも電話で主治医からの話を説明したが困惑していた。そりゃそうだ。何なんだよ、もう!
毎度毎度話が違っていて対処に困る。土曜の独演会では、親らと私との直接の連絡の取り合いはやめようと、親の方から提案してきて私は了承した。親が出す養子縁組離縁届の提出完了は連絡がないと困ると言ったが、直接するかどうかは未定、第三者から連絡して貰うかもしれない、と言われたので了承した。親類縁者へも私からは連絡をしないようにと言うので、これまた了承。なので、こちらから親らや親類縁者に連絡は取れない。親が主治医をも巻き込んできたので直接文句を言いたい気持ちは山々だが、口約束を破ったなどと因縁をつけられたら厄介なので避ける。となると、こちらはどうしようもないし、また主治医のところで独演会開催という想像外のことをやらかされたことで、次に親がしでかすことも予測不可能なので本当に参っている。私の予定では、昨日今日のうちに親が役所に養子縁組離縁届を提出している筈であり、どこかから連絡がくるとすれば届が受理されたという内容である筈だったのだ。それがまさか主治医からの親の独演会報告とは。
ここ数日、うちのと私の会話でよく出る単語は、世にも奇妙な物語、トワイライト・ゾーン、アメージング・ストーリーなどだ。会話の内容は、うちのの家族が今回の件についてどう思っているか。うちの曰く、俺らが私の親の反対を振り切って一緒になりたいが為の絶縁であり、作り話だと思われているのではないか。私もその線は濃厚だと思う。うちののお姉さんらがうちののお母さんへの理解に協力をしてくれると言っていたが、会話も理解もなかなか進まないだろう。お姉さん自身が半信半疑なのだから、半信半疑のことを他者に理解させるのは相当に難しい。〜〜〜ということらしいよ→でもそんなことは考え難いわ→私もそう思うんだけどねえ……。のループとなることは安易に想像できる。これを電話で言うのはアレなので年末年始の帰省迄お預けだが、冷静に考えて欲しい。仮にこの一連の話が作り話であったとしよう。余りにも突拍子がなさ過ぎるではないか。うちのも私も元々はエディター兼ライターである。作り話ならば、もっと信憑性のある納得し易い話をでっち上げる。聞く者を狂気山脈に迷わせたりする話は作らない。もっと話に脈絡を作り、尤もらしく仕上げられる。このことにうちのの家族の誰かが気付いてくれれば、それが糸口となると思うのだがどうだろう。うちのの上のお姉さんの旦那さん辺りが気付いてくれることを切に願う。
次に親が何をしでかすか予測不可能、と上に書いた。何かをしでかせば私たちは皆、巻き込みの被害者となる。それを避ける方法がひとつだけある。それはうちのと私が入籍してしまうことだ。すると現在の苗字で署名した養子縁組離縁届は無効となり、私はうちのの籍に入ることになり、その上で親らに連絡を取らなければ実質上の絶縁となるのだ。めでたしめでたし。この方法はうちのの家族のストップがなければ可能なのだが、今現在ストップがかかっている以上うちのは理屈は理解できても婚姻届の提出に躊躇するだろう。因って困難。親に余計なことをしでかされる前にうちのの家族を説得できるか。時間が欲しいと言われている以上、こちらから執拗に説得の電話をするのは善処とはなり得ない。年末年始迄、うちのの家族への説得は無理と見るのが現実的だ。年末年始迄に後一ヵ月半。その間にもっと事を大きく面倒にするのは、親にとっては簡単であろう。事を大きく面倒にしている自覚などないとは思うが。
親心という名の風呂敷に包まれた支配と依存。養子縁組離縁届と私が親の遺産を放棄する書類を提出して受理されると同時に、親は支配と依存の対象を失うことになる。私が書類に判を押して親が帰宅した後で気付いたのだろうか、支配と依存を消失した後の自分の生きる拠り所が今現在皆無ということに。知ったことではない。親への心配が全くないとは言えないが、それよりも私の保身の方が大切なのは明白である。主治医の元に通い始めてから、風呂敷の隙間からそれらは露呈した。それ迄は気付いてはいなかった。支配も依存も誰もの心に宿ってはいるだろう。私の心に宿っている幼少時から強制され続けて根を張らされた依存は、他者のそれよりも肥大している。なので私は通院している。親の心に宿っているそれらは私以上に肥大している。最早、健全の域をとうに超えていて、常人の理解の範疇を超越しているのだ。当人とその取り巻きだけが気付いていない。うちのも私も第三者も気付いている。親に今必要なのは、届の提出でも絶縁でもなく、通院及びカウンセリングであろう。しかし本人に多少なりとも自覚が芽生えなければ無理な話であり、刃物を振り回すなどの危害は周囲に与えていないので措置入院も不可能か。明日、主治医と相談してこなくては。事の次第によってはこちらが先に弁護士を立てる必要が生じるかもしれない。手間も暇もかかって面倒迷惑極まりない。文字通り頭が痛い。
BGM/アルバム「黄金の夜明け」
最近BGMの記載がなかったのは書き忘れていた訳ではなく、本当に何も聴かずに日記をつけていたからだ。
毎度毎度話が違っていて対処に困る。土曜の独演会では、親らと私との直接の連絡の取り合いはやめようと、親の方から提案してきて私は了承した。親が出す養子縁組離縁届の提出完了は連絡がないと困ると言ったが、直接するかどうかは未定、第三者から連絡して貰うかもしれない、と言われたので了承した。親類縁者へも私からは連絡をしないようにと言うので、これまた了承。なので、こちらから親らや親類縁者に連絡は取れない。親が主治医をも巻き込んできたので直接文句を言いたい気持ちは山々だが、口約束を破ったなどと因縁をつけられたら厄介なので避ける。となると、こちらはどうしようもないし、また主治医のところで独演会開催という想像外のことをやらかされたことで、次に親がしでかすことも予測不可能なので本当に参っている。私の予定では、昨日今日のうちに親が役所に養子縁組離縁届を提出している筈であり、どこかから連絡がくるとすれば届が受理されたという内容である筈だったのだ。それがまさか主治医からの親の独演会報告とは。
ここ数日、うちのと私の会話でよく出る単語は、世にも奇妙な物語、トワイライト・ゾーン、アメージング・ストーリーなどだ。会話の内容は、うちのの家族が今回の件についてどう思っているか。うちの曰く、俺らが私の親の反対を振り切って一緒になりたいが為の絶縁であり、作り話だと思われているのではないか。私もその線は濃厚だと思う。うちののお姉さんらがうちののお母さんへの理解に協力をしてくれると言っていたが、会話も理解もなかなか進まないだろう。お姉さん自身が半信半疑なのだから、半信半疑のことを他者に理解させるのは相当に難しい。〜〜〜ということらしいよ→でもそんなことは考え難いわ→私もそう思うんだけどねえ……。のループとなることは安易に想像できる。これを電話で言うのはアレなので年末年始の帰省迄お預けだが、冷静に考えて欲しい。仮にこの一連の話が作り話であったとしよう。余りにも突拍子がなさ過ぎるではないか。うちのも私も元々はエディター兼ライターである。作り話ならば、もっと信憑性のある納得し易い話をでっち上げる。聞く者を狂気山脈に迷わせたりする話は作らない。もっと話に脈絡を作り、尤もらしく仕上げられる。このことにうちのの家族の誰かが気付いてくれれば、それが糸口となると思うのだがどうだろう。うちのの上のお姉さんの旦那さん辺りが気付いてくれることを切に願う。
次に親が何をしでかすか予測不可能、と上に書いた。何かをしでかせば私たちは皆、巻き込みの被害者となる。それを避ける方法がひとつだけある。それはうちのと私が入籍してしまうことだ。すると現在の苗字で署名した養子縁組離縁届は無効となり、私はうちのの籍に入ることになり、その上で親らに連絡を取らなければ実質上の絶縁となるのだ。めでたしめでたし。この方法はうちのの家族のストップがなければ可能なのだが、今現在ストップがかかっている以上うちのは理屈は理解できても婚姻届の提出に躊躇するだろう。因って困難。親に余計なことをしでかされる前にうちのの家族を説得できるか。時間が欲しいと言われている以上、こちらから執拗に説得の電話をするのは善処とはなり得ない。年末年始迄、うちのの家族への説得は無理と見るのが現実的だ。年末年始迄に後一ヵ月半。その間にもっと事を大きく面倒にするのは、親にとっては簡単であろう。事を大きく面倒にしている自覚などないとは思うが。
親心という名の風呂敷に包まれた支配と依存。養子縁組離縁届と私が親の遺産を放棄する書類を提出して受理されると同時に、親は支配と依存の対象を失うことになる。私が書類に判を押して親が帰宅した後で気付いたのだろうか、支配と依存を消失した後の自分の生きる拠り所が今現在皆無ということに。知ったことではない。親への心配が全くないとは言えないが、それよりも私の保身の方が大切なのは明白である。主治医の元に通い始めてから、風呂敷の隙間からそれらは露呈した。それ迄は気付いてはいなかった。支配も依存も誰もの心に宿ってはいるだろう。私の心に宿っている幼少時から強制され続けて根を張らされた依存は、他者のそれよりも肥大している。なので私は通院している。親の心に宿っているそれらは私以上に肥大している。最早、健全の域をとうに超えていて、常人の理解の範疇を超越しているのだ。当人とその取り巻きだけが気付いていない。うちのも私も第三者も気付いている。親に今必要なのは、届の提出でも絶縁でもなく、通院及びカウンセリングであろう。しかし本人に多少なりとも自覚が芽生えなければ無理な話であり、刃物を振り回すなどの危害は周囲に与えていないので措置入院も不可能か。明日、主治医と相談してこなくては。事の次第によってはこちらが先に弁護士を立てる必要が生じるかもしれない。手間も暇もかかって面倒迷惑極まりない。文字通り頭が痛い。
BGM/アルバム「黄金の夜明け」
最近BGMの記載がなかったのは書き忘れていた訳ではなく、本当に何も聴かずに日記をつけていたからだ。
最優先事項且つ最大の難題
2003年11月17日 家族・メンヘル・健康など 今日は1時に寝て10時に起き、朝からごみ出しをし、キッチンとトイレの掃除をし、うちのを送り出し、洗濯をし、山となっていた衣類等を片付けた。と書くと若干まともな主婦っぽい。拙い叙述レトリックを除いては。正しくは13時に寝て、22時に起きたのだ。完璧な迄の昼夜逆転。宜しくない。家事をこなせばいいというものではない。しかも家事をした理由が、考え事をしない為、というのがまたネガティヴである。昼夜逆転を矯正しなければならないのは、昔からの私の課題である。ときどき昼夜を正しく過ごせる時期もあるにはあるのだが、リズムが1日に1時間とか2時間とかのリズムで少しずつずれ、それの生じるズレでたまたま正しいリズムに当て嵌まる時期が生じるだけなので根本的解決には程遠い。人間の体内時計は25時間であり、太陽の光を浴びることで24時間というリズムに日々矯正されていると聞く。睡眠障害改善には日光、特に朝の光は有効だという。その光に似た物を発生させる器具も、深刻な睡眠障害治療に用いられることがあるらしい。
今日は朝の光を存分に浴びた。うちのが出社してから部屋中の窓を開け放ち、洗濯物を干す為にベランダにも出たのだから存分に浴びている筈である。それでも午後になってから寝て夜起きた。脳と身体を癒す為の睡眠というのも確かではある。しかし起きていることが不可能だった訳ではない。昼間に起きていてはならない理由があったのだ。親の独演会の際、私はひとつだけ頼みごとをした。私の物は全て処分するという親に、着払いで実家にある衣類と山とある書籍類を、私の今いる部屋に送ってくれと頼んだのだ。これらの荷物がいつ届くか判らない。下手に昼間に起きていて届いてしまったら、着払いの料金が幾らになるか想像が付かない。一体何十箱届くのか、また書籍類は重さもあるのでどれ程の料金を請求されるのか読めない。因って、居留守不可能な状態、例えば窓を開けて私が起きていることが外から確認できる状態でいるのは危険なのだ。着払い料金が払えないので一旦持ち帰ってください、と言うのは相当に恰好悪いし、運送屋にとってもかなりの迷惑だろう。着払い料金が払えない迄に貧乏な訳ではないのだが、ではその額を銀行から下ろしてくるので待っていてください、と言うのも通るまい。なので寝ていた。窓とカーテンを閉め、電気を消して寝ていれば居留守とは気付かれないだろう、と。まるで町金に追われる負債者のようである。相手の動きが読めないというのは、こうも不都合なのか。出かけて、文字通り留守にしているという手もあった。しかしその気力体力がなかった。起きてから新聞受けや郵便受けを見た。不在届けは入っていなかった。十分な睡眠を取った後の徒労感はどうにも空しい。いつ迄もこんな生活を送っている訳にはいかない。また社会復帰を目指す者としては、昼夜逆転矯正は必須課題なので本末転倒でもある。
私の初眠剤はアモバンだった。PD発覚前に夜泣きが訪れ不眠となり、検査を受けた内科で処方してもらった。注釈。夜泣きとは寝付けずにぐずって泣く子供のアレではなく、当時の私は毎晩床に着くと思い出し泣きや想像泣きをしていたのだ。現在処方されている眠剤は導眠用にマイスリー、中途覚醒対策にサイレースである。アモバンは私には苦味もなく合っていたのだが効かなくなってしまったので、今の主治医の元に通い出して暫くしてからマイスリーに変更された。幸い幻覚も見ないし、奇妙な行動を取ることもないのでこれらの眠剤も合っているのだろう。導眠剤であるマイスリーが投入から50〜60分後に効いてくるようになってしまったこと、精神状態によってはサイレースを投入していても中途覚醒が起きるのはのはご愛嬌か。主治医にもこれらのことは伝えてあるが、そのときの状態で眠剤が常に正しく効くとは限らない、とのことで処方が変わらないのでこれでいいのだろう。各種眠剤は、当然のことながら寝付けないときの為、生活リズム矯正の為に処方されている。それでも私は毎晩の投入はしないし、特に翌日に予定がある日は絶対に飲まない。前者は内臓への気遣いから、後者はもしその日に限って効き過ぎて予定通りに起きられなかったら困るからだ。後者に関しては思い込みによる恐怖心が強く働いている自覚はある。固執的完璧主義も言ってしまえば思い込みだ。これら多くの思い込みによる縛りを少しずつ解いていく必要性は強く感じている。
不眠に陥る前、それこそ中学生の頃から私は夜型の生活を送っており、とにかく朝起きるということが苦手だった。社会に出てからも絶対に遅刻できないという日は、徹夜してそのまま仕事に行っていた。目覚まし時計は勿論セットする。なのに気付いたら止まっているのだ。不思議である。絶対にセットしていてもアラームは鳴らない。鳴っていた記憶はない。誰が止めいてるのだ。……私だ。不思議でも何でもなく、無意識に止めて2度寝・3度寝を満喫しているだけである。眠剤とこの無意識の悪癖は別物だ。眠剤でリズムを整えようとしたところで、悪癖が直らなければ予定通りに起きることはいつ迄経っても不可能だろう。私のパキ投入は朝である。眠気を催す人の方が多いらしいが、私は覚醒してしまうからだ。起床直後にパキを入れられれば2度寝などは防げそうだが、まず最初の起床時に意識がないから難しい。どうすればこの悪癖は直るのだろう。こんな場合はまずいつ頃からこの悪癖が身に付いたのかを思い出し、そこから原因を探る。いつ頃か。記憶なし。因って原因を探るのも不可能。少なくとも精神状態がこうも緩くなる前からの悪癖だということくらいしか判らない。
個人によって適した睡眠時間というものがあるという。今の生活に入ってから判ったのは、私に必要な睡眠時間は10〜12時間ということだ。これがロング・スリーパーに該当する睡眠時間なのかどうかは、睡眠障害専門外来に行ったことがないので不明。世の中には3〜6時間の睡眠で事足りるという人もいる。要する時間の違いは睡眠の深さに起因する。睡眠中に熟睡できている時間は、ロング・スリーパーであってもショート・スリーパーであってもさほど変わらないらしい。生まれ持っての体質も関係しているだろう。そして日々の生活の中身にも関係しているだろう。肉体的疲労は睡眠を取らずとも横たわって身体を休めるだけで回復されるという。睡眠は脳の疲労を回復する為に必要なのだ。世の人々の多くは肉体的疲労と脳の疲労のバランスが取れているのだろうか。私は明らかにバランスが悪い。脳の疲労>肉体的疲労。これは昔から変わっていない。不眠対策に適度な運動は有効だというが、私には余り効果が実感できない。不眠の度合いが適度な運動で解消できる程度ではないということなのだろう。体質と悪癖を前提に、日光・運動・食事を正しく取り、生活の中身による疲労バランスを考えなければ不眠・過眠は矯正できない。文字にすると簡単そうだがひとつひとつが難題だし、これ迄に培われてきた不規則な体内時計を正す必要もある。私の体内時計は25時間ではなく、日によって3時間や40時間だったりするのだ。けれどそろそろ真剣に取り組まなくては。まずはいつ運送屋が来てもいいように準備しなければ。
今日は朝の光を存分に浴びた。うちのが出社してから部屋中の窓を開け放ち、洗濯物を干す為にベランダにも出たのだから存分に浴びている筈である。それでも午後になってから寝て夜起きた。脳と身体を癒す為の睡眠というのも確かではある。しかし起きていることが不可能だった訳ではない。昼間に起きていてはならない理由があったのだ。親の独演会の際、私はひとつだけ頼みごとをした。私の物は全て処分するという親に、着払いで実家にある衣類と山とある書籍類を、私の今いる部屋に送ってくれと頼んだのだ。これらの荷物がいつ届くか判らない。下手に昼間に起きていて届いてしまったら、着払いの料金が幾らになるか想像が付かない。一体何十箱届くのか、また書籍類は重さもあるのでどれ程の料金を請求されるのか読めない。因って、居留守不可能な状態、例えば窓を開けて私が起きていることが外から確認できる状態でいるのは危険なのだ。着払い料金が払えないので一旦持ち帰ってください、と言うのは相当に恰好悪いし、運送屋にとってもかなりの迷惑だろう。着払い料金が払えない迄に貧乏な訳ではないのだが、ではその額を銀行から下ろしてくるので待っていてください、と言うのも通るまい。なので寝ていた。窓とカーテンを閉め、電気を消して寝ていれば居留守とは気付かれないだろう、と。まるで町金に追われる負債者のようである。相手の動きが読めないというのは、こうも不都合なのか。出かけて、文字通り留守にしているという手もあった。しかしその気力体力がなかった。起きてから新聞受けや郵便受けを見た。不在届けは入っていなかった。十分な睡眠を取った後の徒労感はどうにも空しい。いつ迄もこんな生活を送っている訳にはいかない。また社会復帰を目指す者としては、昼夜逆転矯正は必須課題なので本末転倒でもある。
私の初眠剤はアモバンだった。PD発覚前に夜泣きが訪れ不眠となり、検査を受けた内科で処方してもらった。注釈。夜泣きとは寝付けずにぐずって泣く子供のアレではなく、当時の私は毎晩床に着くと思い出し泣きや想像泣きをしていたのだ。現在処方されている眠剤は導眠用にマイスリー、中途覚醒対策にサイレースである。アモバンは私には苦味もなく合っていたのだが効かなくなってしまったので、今の主治医の元に通い出して暫くしてからマイスリーに変更された。幸い幻覚も見ないし、奇妙な行動を取ることもないのでこれらの眠剤も合っているのだろう。導眠剤であるマイスリーが投入から50〜60分後に効いてくるようになってしまったこと、精神状態によってはサイレースを投入していても中途覚醒が起きるのはのはご愛嬌か。主治医にもこれらのことは伝えてあるが、そのときの状態で眠剤が常に正しく効くとは限らない、とのことで処方が変わらないのでこれでいいのだろう。各種眠剤は、当然のことながら寝付けないときの為、生活リズム矯正の為に処方されている。それでも私は毎晩の投入はしないし、特に翌日に予定がある日は絶対に飲まない。前者は内臓への気遣いから、後者はもしその日に限って効き過ぎて予定通りに起きられなかったら困るからだ。後者に関しては思い込みによる恐怖心が強く働いている自覚はある。固執的完璧主義も言ってしまえば思い込みだ。これら多くの思い込みによる縛りを少しずつ解いていく必要性は強く感じている。
不眠に陥る前、それこそ中学生の頃から私は夜型の生活を送っており、とにかく朝起きるということが苦手だった。社会に出てからも絶対に遅刻できないという日は、徹夜してそのまま仕事に行っていた。目覚まし時計は勿論セットする。なのに気付いたら止まっているのだ。不思議である。絶対にセットしていてもアラームは鳴らない。鳴っていた記憶はない。誰が止めいてるのだ。……私だ。不思議でも何でもなく、無意識に止めて2度寝・3度寝を満喫しているだけである。眠剤とこの無意識の悪癖は別物だ。眠剤でリズムを整えようとしたところで、悪癖が直らなければ予定通りに起きることはいつ迄経っても不可能だろう。私のパキ投入は朝である。眠気を催す人の方が多いらしいが、私は覚醒してしまうからだ。起床直後にパキを入れられれば2度寝などは防げそうだが、まず最初の起床時に意識がないから難しい。どうすればこの悪癖は直るのだろう。こんな場合はまずいつ頃からこの悪癖が身に付いたのかを思い出し、そこから原因を探る。いつ頃か。記憶なし。因って原因を探るのも不可能。少なくとも精神状態がこうも緩くなる前からの悪癖だということくらいしか判らない。
個人によって適した睡眠時間というものがあるという。今の生活に入ってから判ったのは、私に必要な睡眠時間は10〜12時間ということだ。これがロング・スリーパーに該当する睡眠時間なのかどうかは、睡眠障害専門外来に行ったことがないので不明。世の中には3〜6時間の睡眠で事足りるという人もいる。要する時間の違いは睡眠の深さに起因する。睡眠中に熟睡できている時間は、ロング・スリーパーであってもショート・スリーパーであってもさほど変わらないらしい。生まれ持っての体質も関係しているだろう。そして日々の生活の中身にも関係しているだろう。肉体的疲労は睡眠を取らずとも横たわって身体を休めるだけで回復されるという。睡眠は脳の疲労を回復する為に必要なのだ。世の人々の多くは肉体的疲労と脳の疲労のバランスが取れているのだろうか。私は明らかにバランスが悪い。脳の疲労>肉体的疲労。これは昔から変わっていない。不眠対策に適度な運動は有効だというが、私には余り効果が実感できない。不眠の度合いが適度な運動で解消できる程度ではないということなのだろう。体質と悪癖を前提に、日光・運動・食事を正しく取り、生活の中身による疲労バランスを考えなければ不眠・過眠は矯正できない。文字にすると簡単そうだがひとつひとつが難題だし、これ迄に培われてきた不規則な体内時計を正す必要もある。私の体内時計は25時間ではなく、日によって3時間や40時間だったりするのだ。けれどそろそろ真剣に取り組まなくては。まずはいつ運送屋が来てもいいように準備しなければ。
幻想乖離
2003年11月16日 家族・メンヘル・健康など 現在、日付が17日に変わったばかり。
うちのの下のお姉さんに今回の件に関して、誤解を解く為に渾身の説明をした。お姉さんは、何となくわかった、と言っていたがやはり信じられないらしい。うちのや私の話が信用できないという意味ではなく、親の言動そのものについてである。そのような言動をする人間が、まさかこの現実世界にいるとは……といったところなのだろう。テレビドラマのような展開のスピードについていけない、とも言われた。これも解る。まずこのような展開自体が類稀なこと、そして類稀な出来事が二転三転を繰り返した末に10日やそこらで決定されたこと。テレビドラマなら2クール乃至は一年、もしかしたら北の国から並みに10年以上の時間を要されただろうことが2時間ドラマに短縮されては、観客が混乱するのも無理はない。本当にそれでいいの? と何度も訊かれたこと、私が可哀相という言葉が数度出てきたこと、私の病気やうちのが抱いていた私の親への所感を初めて聞いてとても驚かれていたということのみここに記して、他の会話は割愛。
テレビドラマのような展開のスピード。私自身やその周辺事情に於いて、他者からこのような表現をされたのは初めてではない。友人連中と近況報告をしあっているときにも言われた言葉だ。そのときは親の話だけではなく私自身の話も含めての評だった。親や私が係わる物事は奇なる物事が多く、得てしてその物事は急展開で進んでゆく。諸事情のなせる業なのだろうと今は思える。昔は何故そう評されるのか理解できなかった。現実に私の周辺で起きた物事・出来事であり、その渦中にいた私からすれば、奇でもなければ急展開でもないと感じることの方が多かったのだ。私の生い立ちに関してもそうである。他者からよく不憫がられ、何度となく可哀相という言葉を浴びせられた。それも解せなかった。どこが不憫なのだろう? 私は可哀相と思われる存在なのか? とても不思議だったので少し考えた。もしかして私が教えられてきた現実社会と、真の現実社会は物凄く乖離しているのではないだろうか。
夜逃げ同然に生まれた土地から家族で上京したこと→ままある。親の離婚→よくある。その直後の父親の死→やや稀。親の同棲→ままある。親の再婚→よくある。養父との養子縁組→よくある。自称・普通の親に幼少時からこのように教わって、私は育った。そして孤児院などにいる子に比べれば私は恵まれている、と。周囲のクラスメイトや友人知人を見回し、よくある・ままあることが降りかかってこない人間の方が多いなあと思いつつも、ただ皆を羨んでいた。親からの刷り込みにより現実を直視できていなかったのではないか。私の生い立ちに於ける大きな出来事の数々は、実はよくあることやままあることではなかったのではないか。幼少時、子供の世界は家庭のみである。それから保育園なり幼稚園を経て義務教育に上がり、また更に進学をしていく中で数多の人たちを見てきた筈だ。けれども強力な刷り込みにより、私は数多の人々の方こそ、珍しくアクシデントのない環境に育った人々だと思っていた。呪縛が解けた今、ひとつ気付いた。数多の環境こそがよくあることであり、私の環境は稀なものだったのか。テレビドラマのような展開。スピード。こう考えると、数多のよくある環境で育った他者から見れば、そりゃあ私の話は奇であり急展開なのだろう。
普通とは幻想である。それでも世の中は多数決の原理に従って、普通・常識などが成立している。私の親は自身のことを、普通、と私に言い続けてきていた。だから私の中では親が普通なのであり、親と違う考えを持つ自分は異常なのだと思わされてきた。あんたは異常。数え切れない程に親から言われ続けてきた呪詛。社会に出てから少しずつこの呪詛に疑念が湧いてきた。親は普通、多くの他者はもっと普通、私は異常とずっと思ってきていたけれど、ひょっとしたら親が異常、多くの他者が普通なのではないか。そうなると私はどっちだ? 異常という地盤が揺れだし、私は混乱してきた。私のことを異常と言う人もいれば、正常=普通と言う人もいた。解らない。正常=普通と言ってくれる人たちの言葉を信じたい。でも親の呪詛が私にそれを許さなかった。自己の正当性を否定され続けた。世の親はみんなこうなんだ、でももっとまともな親もいて、そういう親に育てられた子はいいなあ……思考停止。
主治医の元に通い出し、自身の諸事情について独学し、やっと私の親や家庭環境が普通ではなかったことを認知できるようになった。可哀相は優越感。言葉そのものに嫌悪感は感じるし、この嫌悪感がなくなることはないとは思うが、しかし他者が私を見て優越感や安堵を覚える気持ちも何となくは解るようになってきた。普通の親と家庭環境の下に育った他者から見れば、異常な親や家庭環境に育った私は可哀相なのだ。全く問題性のない人間や家庭は存在していないと今でも思ってはいる。けれど、ここ迄大きく数多い問題を抱えた親や家庭は明らかに少数なのだ。異常という呪詛をかけられたまま揺るぎ続ける私の地盤。その下に確固なる異常な地盤の存在認知。揺るぐ私の地盤は今、とても緩くなっている。再度しっかりした地盤が築かれるとき、どのような形になっているのか想像も付かない。
私の肉体の三半規管は弱い。心の三半規管も弱い。揺るぐ物の上に足を乗せると、どちらもすぐに酔ってしまう。27年の歳月を経てやっと開眼。見えてきた世界は刷り込まれていた世界と余りにも違い過ぎている。呪詛と現実の狭間で混乱し続ける脳内、酔わせ続ける足元。例えようのない恐怖感。狂ってしまうのではないかとすら思える混沌。立っていられないので逃げたくなる。布団だけが私の安堵できる場所。しかし逃げていては開眼を始めた目は閉じてしまう予感がする。布団の下の地盤は揺れ続け、心の酔いは落ち着かないだろう。変形し続ける地盤の上で、私はいつまで立ち続けていられるのか? 耐えている間に新たな地盤は築けるのか? 限界迄追い詰められた精神が開放されるとき、私は普通という幻想の中に招かれるのだと信じて疑わなかった。私の思っていた普通という幻想、世の中を回している普通という幻想。そこに乖離があっただなんて思いもしなかった。ちゃんと移行できるかどうか、自信がない。ひとりでは無理。支えて。うちの、主治医、友人知人。皆、助けてくれるだろうか。本当に正しく導いてくれるだろうか。呪縛から解放された私の精神に残された呪詛。解きたい。解けなければ解寛しない。解寛したとき、私の精神は、地盤はどうなっているのか全く以って予知不能。だから恐怖。射してきた光の先にあるのはお花畑か、それとも世の中を回している普通という幻想か。光は私が辿り着く迄、射し続けてくれるのだろうか……。
うちのの下のお姉さんに今回の件に関して、誤解を解く為に渾身の説明をした。お姉さんは、何となくわかった、と言っていたがやはり信じられないらしい。うちのや私の話が信用できないという意味ではなく、親の言動そのものについてである。そのような言動をする人間が、まさかこの現実世界にいるとは……といったところなのだろう。テレビドラマのような展開のスピードについていけない、とも言われた。これも解る。まずこのような展開自体が類稀なこと、そして類稀な出来事が二転三転を繰り返した末に10日やそこらで決定されたこと。テレビドラマなら2クール乃至は一年、もしかしたら北の国から並みに10年以上の時間を要されただろうことが2時間ドラマに短縮されては、観客が混乱するのも無理はない。本当にそれでいいの? と何度も訊かれたこと、私が可哀相という言葉が数度出てきたこと、私の病気やうちのが抱いていた私の親への所感を初めて聞いてとても驚かれていたということのみここに記して、他の会話は割愛。
テレビドラマのような展開のスピード。私自身やその周辺事情に於いて、他者からこのような表現をされたのは初めてではない。友人連中と近況報告をしあっているときにも言われた言葉だ。そのときは親の話だけではなく私自身の話も含めての評だった。親や私が係わる物事は奇なる物事が多く、得てしてその物事は急展開で進んでゆく。諸事情のなせる業なのだろうと今は思える。昔は何故そう評されるのか理解できなかった。現実に私の周辺で起きた物事・出来事であり、その渦中にいた私からすれば、奇でもなければ急展開でもないと感じることの方が多かったのだ。私の生い立ちに関してもそうである。他者からよく不憫がられ、何度となく可哀相という言葉を浴びせられた。それも解せなかった。どこが不憫なのだろう? 私は可哀相と思われる存在なのか? とても不思議だったので少し考えた。もしかして私が教えられてきた現実社会と、真の現実社会は物凄く乖離しているのではないだろうか。
夜逃げ同然に生まれた土地から家族で上京したこと→ままある。親の離婚→よくある。その直後の父親の死→やや稀。親の同棲→ままある。親の再婚→よくある。養父との養子縁組→よくある。自称・普通の親に幼少時からこのように教わって、私は育った。そして孤児院などにいる子に比べれば私は恵まれている、と。周囲のクラスメイトや友人知人を見回し、よくある・ままあることが降りかかってこない人間の方が多いなあと思いつつも、ただ皆を羨んでいた。親からの刷り込みにより現実を直視できていなかったのではないか。私の生い立ちに於ける大きな出来事の数々は、実はよくあることやままあることではなかったのではないか。幼少時、子供の世界は家庭のみである。それから保育園なり幼稚園を経て義務教育に上がり、また更に進学をしていく中で数多の人たちを見てきた筈だ。けれども強力な刷り込みにより、私は数多の人々の方こそ、珍しくアクシデントのない環境に育った人々だと思っていた。呪縛が解けた今、ひとつ気付いた。数多の環境こそがよくあることであり、私の環境は稀なものだったのか。テレビドラマのような展開。スピード。こう考えると、数多のよくある環境で育った他者から見れば、そりゃあ私の話は奇であり急展開なのだろう。
普通とは幻想である。それでも世の中は多数決の原理に従って、普通・常識などが成立している。私の親は自身のことを、普通、と私に言い続けてきていた。だから私の中では親が普通なのであり、親と違う考えを持つ自分は異常なのだと思わされてきた。あんたは異常。数え切れない程に親から言われ続けてきた呪詛。社会に出てから少しずつこの呪詛に疑念が湧いてきた。親は普通、多くの他者はもっと普通、私は異常とずっと思ってきていたけれど、ひょっとしたら親が異常、多くの他者が普通なのではないか。そうなると私はどっちだ? 異常という地盤が揺れだし、私は混乱してきた。私のことを異常と言う人もいれば、正常=普通と言う人もいた。解らない。正常=普通と言ってくれる人たちの言葉を信じたい。でも親の呪詛が私にそれを許さなかった。自己の正当性を否定され続けた。世の親はみんなこうなんだ、でももっとまともな親もいて、そういう親に育てられた子はいいなあ……思考停止。
主治医の元に通い出し、自身の諸事情について独学し、やっと私の親や家庭環境が普通ではなかったことを認知できるようになった。可哀相は優越感。言葉そのものに嫌悪感は感じるし、この嫌悪感がなくなることはないとは思うが、しかし他者が私を見て優越感や安堵を覚える気持ちも何となくは解るようになってきた。普通の親と家庭環境の下に育った他者から見れば、異常な親や家庭環境に育った私は可哀相なのだ。全く問題性のない人間や家庭は存在していないと今でも思ってはいる。けれど、ここ迄大きく数多い問題を抱えた親や家庭は明らかに少数なのだ。異常という呪詛をかけられたまま揺るぎ続ける私の地盤。その下に確固なる異常な地盤の存在認知。揺るぐ私の地盤は今、とても緩くなっている。再度しっかりした地盤が築かれるとき、どのような形になっているのか想像も付かない。
私の肉体の三半規管は弱い。心の三半規管も弱い。揺るぐ物の上に足を乗せると、どちらもすぐに酔ってしまう。27年の歳月を経てやっと開眼。見えてきた世界は刷り込まれていた世界と余りにも違い過ぎている。呪詛と現実の狭間で混乱し続ける脳内、酔わせ続ける足元。例えようのない恐怖感。狂ってしまうのではないかとすら思える混沌。立っていられないので逃げたくなる。布団だけが私の安堵できる場所。しかし逃げていては開眼を始めた目は閉じてしまう予感がする。布団の下の地盤は揺れ続け、心の酔いは落ち着かないだろう。変形し続ける地盤の上で、私はいつまで立ち続けていられるのか? 耐えている間に新たな地盤は築けるのか? 限界迄追い詰められた精神が開放されるとき、私は普通という幻想の中に招かれるのだと信じて疑わなかった。私の思っていた普通という幻想、世の中を回している普通という幻想。そこに乖離があっただなんて思いもしなかった。ちゃんと移行できるかどうか、自信がない。ひとりでは無理。支えて。うちの、主治医、友人知人。皆、助けてくれるだろうか。本当に正しく導いてくれるだろうか。呪縛から解放された私の精神に残された呪詛。解きたい。解けなければ解寛しない。解寛したとき、私の精神は、地盤はどうなっているのか全く以って予知不能。だから恐怖。射してきた光の先にあるのはお花畑か、それとも世の中を回している普通という幻想か。光は私が辿り着く迄、射し続けてくれるのだろうか……。
そして試練は続く……
2003年11月15日 家族・メンヘル・健康など 現在16日。
昨日、4者会談……ならぬ、親の独演会に行ってきた。髪を切り、黒いコートを身に纏った親の気合十分な姿は、うちのと私を引かせるに十分な演出だった。判り易過ぎる。来るなりうちのに、私の将来を背負う覚悟はあるのか、と問い詰め、うちのが頷いたら、私に判を押せと言い、うちのにも保証人になれと言い、嫌味を言って帰って行った。要は話し合いにならなかったのである。話し合いをするから来い、と言って呼びつけたのは誰だ。こちらは話し合いを重ねた末、私の病状改善に努めるよう親に約束させる契約書を用意して行った。その契約書作成にあたり、うちのは私の逃げ道も用意してくれた。条件付での、別れる、にしたのだ。帰省を伴う別離は希死念慮の強い私の命がかかっていることであり、親子の絶縁や親の離婚は避けさせたいと思いつつも、現状のまま帰すことを懸念してくれたうちのの苦肉の策だ。出すには出したが、そんな物を出される迄もなく判っている、と言う。親らが幾ら私の病状改善に親身になっても私が聞く耳を持たない、と言う。そして、あなた方にそういう物を出す権利はない、と言う。権利って何だ。
親は親身の例として、転院やセカンド及びサード・オピニオンを付けることを前々から提案してきている、と言っていた。こんな単語は親は知らないので出てこず、回りくどくの説明だったが。確かに提案はされてきた。私が拒んでいた。それはPDや諸事情などの精神疾患患者にとって転院やセカンド及びサード・オピニオンを付けることは患者の混乱を招きやすく、今の主治医とやっと信頼関係が築け、しかも通院開始からまだ1年も経っていない私には早いと判断したからだ。親は以前から私のこの意見を、屁理屈、と一蹴していた。親が薦めてきた転院先は某大学病院である。テレビで某芸能人の諸事情を解寛させたと紹介されていたからだ。そして親は、私の諸事情に強い他の病院や医師を調べてなどはいない。また、親も私の病気について本を読んだりして勉強している、と言い別の某芸能人の名を挙げた。世間にPDの名を浸透させることに一役買っている人の名だ。何と言う本を読んだのか訊いたが、答えは返ってこなかった。女性週刊誌のことなのだろう。テレビや雑誌の情報を無駄だとは言わない。しかしそれだけで親身だの勉強しているだの言われても、ひとつも説得力はない。その辺をうちのは指摘しようとしててくれたが、話を遮るばかりでうちのの言いたいことは言えずじまいだった。聞く耳を持たないのは誰だ。
その場での私は、蚊帳の外だった。要所要所で言葉は挟んだものの、親はその言葉の殆どをスルーした。どれも屁理屈にしか聞こえなかったのだろう。途中で私の態度を親に注意された。話を聞く態度ではない、と。そのとき私は椅子の背に体重を預け、ぼんやりと煙草をふかしていた。蚊帳の外の観客がどのような姿勢で茶番を鑑賞しようと、劇中人物に関係ないと思いつつ見ていたのだ。注意を受け、蚊帳の外に置かれていることくらい私でも判る、と言ったら、親はそれ以上の追求はしてこなかった。とにかく酷い茶番だった。人として、けじめとして、法的にも、が出てくる出てくる。同じ言葉の反復は相手に印象付けるために、ある程度迄は有効ではある。しかし不必要なところに迄それらの言葉が挟まれると、重点を失い効果はなくなり、単なる出来の悪い脚本となる。人としてそうじゃないだろう、けじめとしてそれは違うだろう、法的にもそれは通らないだろう。そんな文脈で、自己正当化の為にこれらの単語を挟まれても困る。更に独演会開始直後に親は、自己正当化はしない、と言い切っていた。なのに出てくる台詞は上記のような物や、うちのが提出した契約書を見ての、そうやって文書にされなきゃいけない親なのかもしれないけれども。けれども、が付いた時点で正当化への準備となっていることに気付かないのか。気付かないのだろう。言う迄もなく、その後には言い訳や責任転嫁の言葉が続いていた。
そもそも最初から親らと私たちの論点が違っていた。前日迄の親とうちのとの電話での会話では、親がうちのに別離を迫り、別れる・もう会わないということを証明しろ、という物だった。だから条件付契約書を用意して行った。なのに独演会では別れろ的発言はなかった。おかしいではないか。うちのへの電話での詰問は、全く意味のないものであり仕事の邪魔をしたかっただけなのか。話が噛み合っていないことを私が指摘しても、父親は噛み合っていると言う。どんな脚本を渡されていたのか、非常に興味深い。こちらは別れる準備をして行き、あちらは絶縁の準備しかしてこなかった。一体何がしたかったのか皆目見当が付かない。うちのも私も親の性質の悪さを熟知している。なので話し合いにならないことは察知していた。一方的に別離を迫り、強引に同意させ、ひたすら捲くし立てて私を連れ帰るつもりなのだと覚悟をしていた。なのに幕が開いたらこの有様。予定とは違う映画館に間違って入ってしまったような錯覚を招いた。そうだ。これが私の親なのだ。話し合いと言いつつ、自分が出した結論を一方的に押し付ける。それが当初の話と違うものであっても気にしない。そういう人だ。絶縁上等。私は迷わず養子縁組解消の書類に判を押した。その保証人になるよう迫られたうちのは、かなり時間を置いてから判を押した。後日、私の元に親の遺産放棄の為の書類が送られてくるらしい。それにも私は判を押して返送する。これら手続終了後に私は住民票や本籍を移動させる手続に追われることになる。
親らが先に席を立ち、独演会は幕を閉じた。場所を変えてお茶を飲もうと移動している最中に、各種手続が面倒だ、と私が愚痴を溢していたらうちのが、この際だから籍を入れるか、と言ってくれた。親と私を絶縁させた故の責任感からの入籍ならば私は望まない。何度も確認した。この責任感が全く係わらないと言うのは、幾ら何でも嘘だろう。けれど、前々からそのつもりがあっての同棲・事実婚であり時期が早まっただけだ、と言ってくれた。本来は来年の夏に入籍することを私たちは考えていたのだ。予期せぬごたごたにより時期を早める、というのは理解も納得もでき、私にとっては各種手続の面倒さも軽減されて有難いので申し出を快諾させてもらった。お茶を飲みつつ、独演会の感想を述べ合った。何がしたかったんだろう? 自分で自分の首を絞めていることに気付いていないのか? 父親も何を考えているんだ? この先、親らはどうするつもりなのだろう? 疑問符のオンパレード。出された結論は、私以上の0か100か思考の人間がちょっと法律に凝り始めた末の行動としか思えない、となった。多分、正解だろう。因みにうちのが保証人に判を押すのに時間をかけたのは、茶番をマシにする為の演出だったと言っていた。真相は謎のままでもいい。
親とのこのような終幕に後悔はないのか? と何度もうちのに確認された。ない。少なくとも、今は。今後、後悔する日がこないとは言い切れない。けれど、今、自分が出せる最良の結論はこれしかないのだ。過去も未来も、今の積み重ねで成り立つ物だ。今の自分に嘘をついてより良い将来が待っているとは思えない。なるべくしてなった終幕。たまたまうちのがきっかけになっただけだ。うちのの母親にうちのが一連の流れをたどたどしく報告し、私も一言挨拶をした。たどたどしくなるのは仕方あるまい。このような話し合いという名に模られた独演会の存在など、巻き込まれた人間しか解らない物であり第三者に説明するのは困難だ。うちのの母親は寝込んでしまったらしい。その後、うちのの下の姉から、すぐの入籍はやめろ、と私が寝ている間に電話があったそうだ。私の親や私が勢いだけでこのようなことをしていると思われてしまったのだ。今日からうちのの家族への説得をしていかなければならない。
昨日、4者会談……ならぬ、親の独演会に行ってきた。髪を切り、黒いコートを身に纏った親の気合十分な姿は、うちのと私を引かせるに十分な演出だった。判り易過ぎる。来るなりうちのに、私の将来を背負う覚悟はあるのか、と問い詰め、うちのが頷いたら、私に判を押せと言い、うちのにも保証人になれと言い、嫌味を言って帰って行った。要は話し合いにならなかったのである。話し合いをするから来い、と言って呼びつけたのは誰だ。こちらは話し合いを重ねた末、私の病状改善に努めるよう親に約束させる契約書を用意して行った。その契約書作成にあたり、うちのは私の逃げ道も用意してくれた。条件付での、別れる、にしたのだ。帰省を伴う別離は希死念慮の強い私の命がかかっていることであり、親子の絶縁や親の離婚は避けさせたいと思いつつも、現状のまま帰すことを懸念してくれたうちのの苦肉の策だ。出すには出したが、そんな物を出される迄もなく判っている、と言う。親らが幾ら私の病状改善に親身になっても私が聞く耳を持たない、と言う。そして、あなた方にそういう物を出す権利はない、と言う。権利って何だ。
親は親身の例として、転院やセカンド及びサード・オピニオンを付けることを前々から提案してきている、と言っていた。こんな単語は親は知らないので出てこず、回りくどくの説明だったが。確かに提案はされてきた。私が拒んでいた。それはPDや諸事情などの精神疾患患者にとって転院やセカンド及びサード・オピニオンを付けることは患者の混乱を招きやすく、今の主治医とやっと信頼関係が築け、しかも通院開始からまだ1年も経っていない私には早いと判断したからだ。親は以前から私のこの意見を、屁理屈、と一蹴していた。親が薦めてきた転院先は某大学病院である。テレビで某芸能人の諸事情を解寛させたと紹介されていたからだ。そして親は、私の諸事情に強い他の病院や医師を調べてなどはいない。また、親も私の病気について本を読んだりして勉強している、と言い別の某芸能人の名を挙げた。世間にPDの名を浸透させることに一役買っている人の名だ。何と言う本を読んだのか訊いたが、答えは返ってこなかった。女性週刊誌のことなのだろう。テレビや雑誌の情報を無駄だとは言わない。しかしそれだけで親身だの勉強しているだの言われても、ひとつも説得力はない。その辺をうちのは指摘しようとしててくれたが、話を遮るばかりでうちのの言いたいことは言えずじまいだった。聞く耳を持たないのは誰だ。
その場での私は、蚊帳の外だった。要所要所で言葉は挟んだものの、親はその言葉の殆どをスルーした。どれも屁理屈にしか聞こえなかったのだろう。途中で私の態度を親に注意された。話を聞く態度ではない、と。そのとき私は椅子の背に体重を預け、ぼんやりと煙草をふかしていた。蚊帳の外の観客がどのような姿勢で茶番を鑑賞しようと、劇中人物に関係ないと思いつつ見ていたのだ。注意を受け、蚊帳の外に置かれていることくらい私でも判る、と言ったら、親はそれ以上の追求はしてこなかった。とにかく酷い茶番だった。人として、けじめとして、法的にも、が出てくる出てくる。同じ言葉の反復は相手に印象付けるために、ある程度迄は有効ではある。しかし不必要なところに迄それらの言葉が挟まれると、重点を失い効果はなくなり、単なる出来の悪い脚本となる。人としてそうじゃないだろう、けじめとしてそれは違うだろう、法的にもそれは通らないだろう。そんな文脈で、自己正当化の為にこれらの単語を挟まれても困る。更に独演会開始直後に親は、自己正当化はしない、と言い切っていた。なのに出てくる台詞は上記のような物や、うちのが提出した契約書を見ての、そうやって文書にされなきゃいけない親なのかもしれないけれども。けれども、が付いた時点で正当化への準備となっていることに気付かないのか。気付かないのだろう。言う迄もなく、その後には言い訳や責任転嫁の言葉が続いていた。
そもそも最初から親らと私たちの論点が違っていた。前日迄の親とうちのとの電話での会話では、親がうちのに別離を迫り、別れる・もう会わないということを証明しろ、という物だった。だから条件付契約書を用意して行った。なのに独演会では別れろ的発言はなかった。おかしいではないか。うちのへの電話での詰問は、全く意味のないものであり仕事の邪魔をしたかっただけなのか。話が噛み合っていないことを私が指摘しても、父親は噛み合っていると言う。どんな脚本を渡されていたのか、非常に興味深い。こちらは別れる準備をして行き、あちらは絶縁の準備しかしてこなかった。一体何がしたかったのか皆目見当が付かない。うちのも私も親の性質の悪さを熟知している。なので話し合いにならないことは察知していた。一方的に別離を迫り、強引に同意させ、ひたすら捲くし立てて私を連れ帰るつもりなのだと覚悟をしていた。なのに幕が開いたらこの有様。予定とは違う映画館に間違って入ってしまったような錯覚を招いた。そうだ。これが私の親なのだ。話し合いと言いつつ、自分が出した結論を一方的に押し付ける。それが当初の話と違うものであっても気にしない。そういう人だ。絶縁上等。私は迷わず養子縁組解消の書類に判を押した。その保証人になるよう迫られたうちのは、かなり時間を置いてから判を押した。後日、私の元に親の遺産放棄の為の書類が送られてくるらしい。それにも私は判を押して返送する。これら手続終了後に私は住民票や本籍を移動させる手続に追われることになる。
親らが先に席を立ち、独演会は幕を閉じた。場所を変えてお茶を飲もうと移動している最中に、各種手続が面倒だ、と私が愚痴を溢していたらうちのが、この際だから籍を入れるか、と言ってくれた。親と私を絶縁させた故の責任感からの入籍ならば私は望まない。何度も確認した。この責任感が全く係わらないと言うのは、幾ら何でも嘘だろう。けれど、前々からそのつもりがあっての同棲・事実婚であり時期が早まっただけだ、と言ってくれた。本来は来年の夏に入籍することを私たちは考えていたのだ。予期せぬごたごたにより時期を早める、というのは理解も納得もでき、私にとっては各種手続の面倒さも軽減されて有難いので申し出を快諾させてもらった。お茶を飲みつつ、独演会の感想を述べ合った。何がしたかったんだろう? 自分で自分の首を絞めていることに気付いていないのか? 父親も何を考えているんだ? この先、親らはどうするつもりなのだろう? 疑問符のオンパレード。出された結論は、私以上の0か100か思考の人間がちょっと法律に凝り始めた末の行動としか思えない、となった。多分、正解だろう。因みにうちのが保証人に判を押すのに時間をかけたのは、茶番をマシにする為の演出だったと言っていた。真相は謎のままでもいい。
親とのこのような終幕に後悔はないのか? と何度もうちのに確認された。ない。少なくとも、今は。今後、後悔する日がこないとは言い切れない。けれど、今、自分が出せる最良の結論はこれしかないのだ。過去も未来も、今の積み重ねで成り立つ物だ。今の自分に嘘をついてより良い将来が待っているとは思えない。なるべくしてなった終幕。たまたまうちのがきっかけになっただけだ。うちのの母親にうちのが一連の流れをたどたどしく報告し、私も一言挨拶をした。たどたどしくなるのは仕方あるまい。このような話し合いという名に模られた独演会の存在など、巻き込まれた人間しか解らない物であり第三者に説明するのは困難だ。うちのの母親は寝込んでしまったらしい。その後、うちのの下の姉から、すぐの入籍はやめろ、と私が寝ている間に電話があったそうだ。私の親や私が勢いだけでこのようなことをしていると思われてしまったのだ。今日からうちのの家族への説得をしていかなければならない。
−×−=+
2003年11月14日 家族・メンヘル・健康など うちのの実家も今でこそ落ち着いているものの、昔はいろいろあったようである。先日、初めてそのいろいろの一端を知らされた。私は以前、うちのの親を引き合いにうちのを責めたことがある。猛省。今更な話だが、早く言ってくれればそんな責め方はしなかったであろう。うちのも私とは形こそ違えど、環境遺伝の被害者であるらしい。そして私と同様に環境遺伝からの開放を望んでいる。家庭という物は代々作られてゆく物である。ひとり立ちをしても、頼る先は大概、親という育った家庭の大元に行き着くだろう。これは環境遺伝の呪縛を引き摺る一因になっている気がする。その一因を排除するにはどうすればいいか。私が思うのは、絶縁乃至は新しく自分自身の家庭を築くことだ。前者は今現在の私の問題となってはいるが極論なので、後者について考えていきたい。
新たな家庭を築き、その家庭の祖となることで育った家庭がなくなる訳ではない。しかし人生に於ける重心は変わる筈である。重心の変化と環境遺伝という物への気付きによって、呪縛から解かれる可能性は非常に高いのではないだろうか。うちのは私の諸事情を通して、以前は曖昧だった自身の環境遺伝に対し、明確な自覚が芽生えた。しかし環境遺伝は誰でもしていると言う。正しい。けれど、その環境遺伝が良いものならば代々継いでいくことが理想であろうが、悪しきものならば気付いた者が断ち切るべきだと私は考える。私は気付いた。うちのも気付いた。ふたりで断ち切りたいと思う私の気持ちは不自然なものではないと信じている。しかもお互いに悪しき環境遺伝に汚染された者同士である。お互いに気付きがなければ最悪な家庭が築かれるであろうが、気付いた者同士であればその汚染から脱することはできると思う。本当の祖になればいいのだ。これが私が今考えられる、最も良い解決法である。うちのが出した別れるという結論は逃げとしか思えない。逃げも確かにひとつの手ではあるだろう。けれど逃げ続けていては何も生まれないではないか。お互いの環境遺伝からの逃亡は必要。けれど全てからの逃亡は、今後も同様の事態を繰り返すことに繋がるのではないか。それは無意味だ。
状況はやや違うが、私の親とうちのの母親の一時期の境遇がとても似ていたことを知った。私の親は子供の為に離別を選び、うちのの母親は子供の為に継続を選んだ。対極の選択をしたのだ。これは子供である私とうちのの、親や家庭への考え方の相違に大きく影響している。私は、親はいればいいというものではないという考え方であり、うちのは、母親を誰よりも大切に想っている。私はうちのの考えを尊重する。うちのがそう考えているならば、私も同様にうちのの母親を大切にしたいと思う。うちのは私の考えを理解はしてくれていても納得はできないようだ。互いの家庭が違ったのだからやむを得ないと思っている。ただ、私がこういう考えの持ち主だということだけ理解してくれればそれでいい。できれば、私が決意した養子縁組解除と絶縁が私自身の唯一の防衛であることも理解及び納得して欲しいが……。うちのの母親はうちのにとってはいた方がいい親であるのだろうが、私の親は私にとっていない方がいい親なのである。各々の母親は子供の為にと苦汁を舐めてきた。苦汁を舐めてくれる親全てがいい親ではないのだ。
うちのが育つ上でしてきた苦労と、私が育つ上でしてきた苦労を秤にかけることはできないし、かけたところで意味はないがお互いにつらい思いをして育ったことだけは確かである。うちのが父親に与えられたつらさのツケと、私が実の両親から与えられたつらさのツケは別の形で出ている。うちののツケは過去の過ちとして、私のツケは諸事情として。何度となく書いていることだが、精神的に弱い者同士なのだ。うちのはマイナスとマイナスを足すと更にマイナスになると考えているようだ。私は違う。マイナスとマイナスは掛ければプラスに転じる。人と人との関係は足し算・引き算ではなく、掛け算・割り算だと考えているのだ。これは、マイナスな人間はどんなプラスな人間と一緒になってもマイナスになるという、ネガティブな考え方かもしれない。それは間違っている、と異議を唱える人もいるかもしれない。けれど私の経験則ではこれが正解である。
昨夜、うちのの母親とも電話で少しだけ話をした。うちのの実家は、今うちのと私が住んでいる場所から遠く離れた場所にある。うちのの母親はうちののことをとても心配していた。私がうちのと一緒にいてくれるのは安心であるけれど、娘も持つ親として私の親の気持ちも解ると言っていた。先の意見は本音だろうが、後の意見は違うだろう。うちのの母親が嘘をついたという意味ではない。うちのの母親は私の親と違って破綻した人格の持ち主ではないので、うちのの母親が思う私の親の考えは一般的想像の範疇に収まっており、現実の壊れた考えに迄は至っていないだろうという意味だ。真っ当な人ならば、真っ当でない人の考えに達せないのは当然なので、これは仕方がないことである。私の親も、うちのの親なら気持ちを解ってくれるだろうと言っていた。きっと実際に私の親が思っていること伝えたら、うちのの母親は混乱するだろう。破綻しており、自己犠牲の皮を被った自己中心的な考えであり、他者の罪悪感や見捨てられ不安を煽るような意見に、他者の意見の脳内変換が加わる。私の親は土曜の話し合いにうちのの親をも呼びたがっていたが、うちのがそれに反対した。私はどちらでも良かった。うちのの母親を巻き込みたくないのが半分、私の親の不可解さを知ってもらいたいのが半分だったので。
私の母方の祖母は、うちのの母親と同じ選択をした人間であり、私の親は祖母をとても大切に想っている。そこに私は環境遺伝の形の多様さを見る。親を想う子供の気持ちは基本的に美しい。しかし子を想う親の気持ちはときに不気味さを感じさせることがある。うちのの母親はうちのを真っ直ぐに育てたことが容易に想像できる。生じてしまった歪みは別の部分からの影響だろう。私の親は私を真っ直ぐに育てたと自己陶酔しているが、現実には意識的な部分と無意識の部分を含め翻弄しつつ育てた。私の歪みは実の両親それぞれから生じさせられた物だろう。うちのと私の生まれついての気質が歪みに抵抗し切れなかったことは否定しない。私の親は泣きながら昨日私にこう言っていた「死ぬ程嫌われようと、絶縁しようと、養子縁組を解消しようと、私たちはただ黒猫の幸せを願っている」。言っていることと、やっていることと、しようとしていることが出鱈目である。この手の作戦じみた自己陶酔には飽き飽きだ。反吐が出る。親らが私の幸せを願えば願う程に、私の思う自身の幸せから遠のいていっている。遠のかせている自覚がないのがまた性質が悪い。うちのに私の親は「あの子を普通の人と結婚させたい」と言ったそうだ。親よりはうちのの方が十分に、普通、である。過去の過ちでレッテルを貼ってうちのを、普通ではない、と言ってのける親の方が私からすれば異常である。うちののレッテルは後半年と少しで法的には剥がされる。一度貼られたレッテルは一生ついて回るという他者も多い。他者は他者。私は辞書通り、法通りに生きたいと願っている。そこにしか私の幸せは見出せない。
新たな家庭を築き、その家庭の祖となることで育った家庭がなくなる訳ではない。しかし人生に於ける重心は変わる筈である。重心の変化と環境遺伝という物への気付きによって、呪縛から解かれる可能性は非常に高いのではないだろうか。うちのは私の諸事情を通して、以前は曖昧だった自身の環境遺伝に対し、明確な自覚が芽生えた。しかし環境遺伝は誰でもしていると言う。正しい。けれど、その環境遺伝が良いものならば代々継いでいくことが理想であろうが、悪しきものならば気付いた者が断ち切るべきだと私は考える。私は気付いた。うちのも気付いた。ふたりで断ち切りたいと思う私の気持ちは不自然なものではないと信じている。しかもお互いに悪しき環境遺伝に汚染された者同士である。お互いに気付きがなければ最悪な家庭が築かれるであろうが、気付いた者同士であればその汚染から脱することはできると思う。本当の祖になればいいのだ。これが私が今考えられる、最も良い解決法である。うちのが出した別れるという結論は逃げとしか思えない。逃げも確かにひとつの手ではあるだろう。けれど逃げ続けていては何も生まれないではないか。お互いの環境遺伝からの逃亡は必要。けれど全てからの逃亡は、今後も同様の事態を繰り返すことに繋がるのではないか。それは無意味だ。
状況はやや違うが、私の親とうちのの母親の一時期の境遇がとても似ていたことを知った。私の親は子供の為に離別を選び、うちのの母親は子供の為に継続を選んだ。対極の選択をしたのだ。これは子供である私とうちのの、親や家庭への考え方の相違に大きく影響している。私は、親はいればいいというものではないという考え方であり、うちのは、母親を誰よりも大切に想っている。私はうちのの考えを尊重する。うちのがそう考えているならば、私も同様にうちのの母親を大切にしたいと思う。うちのは私の考えを理解はしてくれていても納得はできないようだ。互いの家庭が違ったのだからやむを得ないと思っている。ただ、私がこういう考えの持ち主だということだけ理解してくれればそれでいい。できれば、私が決意した養子縁組解除と絶縁が私自身の唯一の防衛であることも理解及び納得して欲しいが……。うちのの母親はうちのにとってはいた方がいい親であるのだろうが、私の親は私にとっていない方がいい親なのである。各々の母親は子供の為にと苦汁を舐めてきた。苦汁を舐めてくれる親全てがいい親ではないのだ。
うちのが育つ上でしてきた苦労と、私が育つ上でしてきた苦労を秤にかけることはできないし、かけたところで意味はないがお互いにつらい思いをして育ったことだけは確かである。うちのが父親に与えられたつらさのツケと、私が実の両親から与えられたつらさのツケは別の形で出ている。うちののツケは過去の過ちとして、私のツケは諸事情として。何度となく書いていることだが、精神的に弱い者同士なのだ。うちのはマイナスとマイナスを足すと更にマイナスになると考えているようだ。私は違う。マイナスとマイナスは掛ければプラスに転じる。人と人との関係は足し算・引き算ではなく、掛け算・割り算だと考えているのだ。これは、マイナスな人間はどんなプラスな人間と一緒になってもマイナスになるという、ネガティブな考え方かもしれない。それは間違っている、と異議を唱える人もいるかもしれない。けれど私の経験則ではこれが正解である。
昨夜、うちのの母親とも電話で少しだけ話をした。うちのの実家は、今うちのと私が住んでいる場所から遠く離れた場所にある。うちのの母親はうちののことをとても心配していた。私がうちのと一緒にいてくれるのは安心であるけれど、娘も持つ親として私の親の気持ちも解ると言っていた。先の意見は本音だろうが、後の意見は違うだろう。うちのの母親が嘘をついたという意味ではない。うちのの母親は私の親と違って破綻した人格の持ち主ではないので、うちのの母親が思う私の親の考えは一般的想像の範疇に収まっており、現実の壊れた考えに迄は至っていないだろうという意味だ。真っ当な人ならば、真っ当でない人の考えに達せないのは当然なので、これは仕方がないことである。私の親も、うちのの親なら気持ちを解ってくれるだろうと言っていた。きっと実際に私の親が思っていること伝えたら、うちのの母親は混乱するだろう。破綻しており、自己犠牲の皮を被った自己中心的な考えであり、他者の罪悪感や見捨てられ不安を煽るような意見に、他者の意見の脳内変換が加わる。私の親は土曜の話し合いにうちのの親をも呼びたがっていたが、うちのがそれに反対した。私はどちらでも良かった。うちのの母親を巻き込みたくないのが半分、私の親の不可解さを知ってもらいたいのが半分だったので。
私の母方の祖母は、うちのの母親と同じ選択をした人間であり、私の親は祖母をとても大切に想っている。そこに私は環境遺伝の形の多様さを見る。親を想う子供の気持ちは基本的に美しい。しかし子を想う親の気持ちはときに不気味さを感じさせることがある。うちのの母親はうちのを真っ直ぐに育てたことが容易に想像できる。生じてしまった歪みは別の部分からの影響だろう。私の親は私を真っ直ぐに育てたと自己陶酔しているが、現実には意識的な部分と無意識の部分を含め翻弄しつつ育てた。私の歪みは実の両親それぞれから生じさせられた物だろう。うちのと私の生まれついての気質が歪みに抵抗し切れなかったことは否定しない。私の親は泣きながら昨日私にこう言っていた「死ぬ程嫌われようと、絶縁しようと、養子縁組を解消しようと、私たちはただ黒猫の幸せを願っている」。言っていることと、やっていることと、しようとしていることが出鱈目である。この手の作戦じみた自己陶酔には飽き飽きだ。反吐が出る。親らが私の幸せを願えば願う程に、私の思う自身の幸せから遠のいていっている。遠のかせている自覚がないのがまた性質が悪い。うちのに私の親は「あの子を普通の人と結婚させたい」と言ったそうだ。親よりはうちのの方が十分に、普通、である。過去の過ちでレッテルを貼ってうちのを、普通ではない、と言ってのける親の方が私からすれば異常である。うちののレッテルは後半年と少しで法的には剥がされる。一度貼られたレッテルは一生ついて回るという他者も多い。他者は他者。私は辞書通り、法通りに生きたいと願っている。そこにしか私の幸せは見出せない。
呪縛からの開放と寿命
2003年11月13日 家族・メンヘル・健康など 現在、14日。
大辞林によると、けじめを付ける、とは以下のような意味らしい。
(1)区別をはっきりさせる。
(2)過失や非難に対して、明白なかたちで責任をとる。
このような言葉を引いたのは、昨夜、親からもうちのからも、けじめ、と言う言葉が出てきたからだ。親は父親と離婚すると言う。うちのが結論を出した。別れると言う。そして両者とも、それがけじめだ、と。私は辞書通りの意味でなく言葉を使われると混乱する。なので調べたのだが、両者の言っていることと、けじめ、という言葉が私の中ではどうしても結びつかない。因って理解も納得も不能。この件に直接係わっている私以外の者らの意見を全て通すと、全ての者に幸せはなく、全員が不幸な結末となるのではないか。いいのか、それで? いいらしい。私は良くない。全く以って良くない。
まずは親の離婚から検証したい。私がうちのと一緒にいることで、父親の世間体などに傷が付く恐れがある。それを回避するために養子縁組解消。了解。しかし離婚の必然性は感じず、ふたりが出した結論に激しく異議がある。なので父親に訊いた。話にならなかった。なんなんだよ、だの、そういうんじゃねーんだよ、だの答えになっていない。親に訊いた。解り易くチャート式で以下に記す。
親の再婚、因みに職場結婚、は私の学生時代だった為、父親の保険に扶養家族として入っていたことがある
↓
養子縁組解消
↓
養子とも上手くいっていたことを知っていた職場の者が不審に思い、妙な噂を立てられる可能性がある
↓
母親の頑固な性格も職場結婚だった故に父親の周囲の人はよく知っている
↓
離婚という形を取る方が妙な噂が立つ可能性が低い
親はこれが最後にできる父親への善処だと言う。……意味不明。離婚を切り出したのは親であり、渋る父親を無理矢理頷かせたそうだ。そんな過程は関係ない。私は父親を見損なった。どのように説き伏せられたにせよ、最終的に頷いたということは、親への気持ちよりも世間体を採ったとしか私には思えない。親も親だ。養子縁組を解消さえすれば、離婚の必要はないだろう。養子と養父がうまくいかないなんてよくある話ではないか。妙な噂が立てられたとしても、それは所詮火のないところの煙である。すぐに鎮火するであろう。親に生活力はない。今後どうするつもりなのか。衝動的に離婚しても生活というものは付いてくる。そこのところをどう考えているのか解らない。私が実家に戻れば離婚が回避できるのかと訊いた。すると、判らないけれど戻るなら戻るで心を入れ替えて戻ってきてもらわないと嬉しくないし却って迷惑だ、と言われた。このことにより、親の離婚話は半分本気、残る半分はうちのと私の罪悪感への煽りと、私が実家に戻る際に言質を取る為のものと私は判断した。大体、心を入れ替えるって……? 今迄間違った心持だったような言われようではないか。他者からどう思われているかは判らないが、私自身は自分に正直な心持で生きてきたつもりなので、入れ替えるべき心の予備など持ち合わせてはいない。
次にうちのの出した結論への検証。これは根本だけを考えれば、答えは簡単だと思われる。私がいると私の親がごちゃごちゃと訳の解らないことを言ってくる。甚だ面倒であり迷惑である。ならば諸悪の根源となってしまっている私を排除すれば、うちのにとっての面倒や迷惑はなくなる、という考えに基づくものではないだろうか。疲れた、と言っていた。この言葉が上記の全てを物語る言葉だと思われる。また他の要因として、うちのは極端に他者に迷惑をかけることを嫌う傾向がある。因って、私と別れることによりうちの離散を防げるならば、親類縁者の将来の道の邪魔にならずに済むならば、などの思惑も含まれているだろう。理解はできる。けれど、私はどうなる? 親の離婚にしてもうちのの結論にしても、どうも肝心の私の身の置き場や気持ちが蔑ろにされている気がしてならない。私がいなければ、全て丸く収まるのか? という気がしている。
昨夜は親から私の元へも、仕事中であったうちのの元へも電話があった。うちのの帰宅後にお互いの電話での会話を照らし合わせてみたら噛み合わない部分が多々あった。うちのも私も親にはほとほと呆れている。ふたりとも係わりたくないと思っている。うちのは電話でかなり傷付けられたようだ。私も同様である。しかし親は自分ひとりが被害者気取りだ。自慢げに、あんたは言い訳ばかりの人生だとこの間言ってやった、と語る親にうちのは、そうやって貴女が黒猫を追い詰めているんじゃないですか? と言ったそうだ。そして、実家に帰るくらいなら死んだ方がマシだと黒猫は言っていた、とも伝えたらしい。私がうちのにそう言ったのは確かである。親は、死んだ方がマシなくらい嫌な親だったのか? と私と話す電話口で泣いていた。泣きたいのはこっちだ。嫌ではない。苦手なのだ。そして親と生活を共にするということは、私の精神的自立が、親が死ぬ迄阻まれ続けることに耐えられないのだ。ここに書いたまま親に伝えたが、やはり理解はできなかったらしい。私と親との関係は何だったの? とも訊かれたので、支配と依存、と率直に答えた。親から私への支配と依存、私が半ば依存を強制させられて育ったことを簡潔に説明した。これも理解できなかったようだ。仕方がないだろう。親も無意識にしてきたことなのだから。形而下にあるものをまず表面化させることが必要だ、と私は主治医に言われている。親にも同様のことが言えるだろうが、柔軟性が皆無とも言える親は全てを、親心として当然のこと、と括ってしまっている。その縛りを自らの気付きにより解かなければ、永遠に理解できる日はこないだろう。もう私は理解を欲してはいない。環境遺伝の呪縛から解き放たれたいだけだ。
うちのが親に対して言ったことの諸々を、親は本意とはかけ離れた美化をして捉えていた。土曜に4者で会うことになっている。うちのはそこで、来年半ば迄は仕送りをして私にひとり暮らしをさせるのでそこから先は親が面倒をみてやってくれ、と言うつもりらしい。別れさせたがっている親と、帰るくらいなら死にたいと言う私との間に立っての折衷案のつもりなのだろう。しかしながら不況とローンの狭間で、実家にはその先の仕送りを工面する経済力はない。私の寿命は残り7ヶ月らしい。親もうちのには、それが私の寿命だと言ったらしい。私は安楽死に賛成する者である。生き長らえさせられることを、良きこととは決して思わない。その場凌ぎの寿命など要らない。ただうちの小動物たちの今後が心配ではある。うちのに面倒をみて欲しいが、多忙なうちのにそれは困難である。うちのが出した結論は、私と小動物2匹を路頭に迷わせる結論である。小動物の1匹はとても利口で勘がいい。先日からうちのと私に異様な甘え方をしている。鳴き声も違う。何かを察知しているのだろう。今夜が山場だ。うちのの出した結論を覆させられなければ、明後日が私という無縁仏の命日になる可能性が高い。私はうちのと共に生きて行きたいと思っている。うちのは親に言われて傷付けられた言葉を気にしている。私と親は別人格の他者である。きちんと理解して欲しい。今、うちのが心身共に疲れ果てているのは判る。その疲れの原因のひとつを排除したいのも判る。それでも、判る、と、解る、は別物だ。
大辞林によると、けじめを付ける、とは以下のような意味らしい。
(1)区別をはっきりさせる。
(2)過失や非難に対して、明白なかたちで責任をとる。
このような言葉を引いたのは、昨夜、親からもうちのからも、けじめ、と言う言葉が出てきたからだ。親は父親と離婚すると言う。うちのが結論を出した。別れると言う。そして両者とも、それがけじめだ、と。私は辞書通りの意味でなく言葉を使われると混乱する。なので調べたのだが、両者の言っていることと、けじめ、という言葉が私の中ではどうしても結びつかない。因って理解も納得も不能。この件に直接係わっている私以外の者らの意見を全て通すと、全ての者に幸せはなく、全員が不幸な結末となるのではないか。いいのか、それで? いいらしい。私は良くない。全く以って良くない。
まずは親の離婚から検証したい。私がうちのと一緒にいることで、父親の世間体などに傷が付く恐れがある。それを回避するために養子縁組解消。了解。しかし離婚の必然性は感じず、ふたりが出した結論に激しく異議がある。なので父親に訊いた。話にならなかった。なんなんだよ、だの、そういうんじゃねーんだよ、だの答えになっていない。親に訊いた。解り易くチャート式で以下に記す。
親の再婚、因みに職場結婚、は私の学生時代だった為、父親の保険に扶養家族として入っていたことがある
↓
養子縁組解消
↓
養子とも上手くいっていたことを知っていた職場の者が不審に思い、妙な噂を立てられる可能性がある
↓
母親の頑固な性格も職場結婚だった故に父親の周囲の人はよく知っている
↓
離婚という形を取る方が妙な噂が立つ可能性が低い
親はこれが最後にできる父親への善処だと言う。……意味不明。離婚を切り出したのは親であり、渋る父親を無理矢理頷かせたそうだ。そんな過程は関係ない。私は父親を見損なった。どのように説き伏せられたにせよ、最終的に頷いたということは、親への気持ちよりも世間体を採ったとしか私には思えない。親も親だ。養子縁組を解消さえすれば、離婚の必要はないだろう。養子と養父がうまくいかないなんてよくある話ではないか。妙な噂が立てられたとしても、それは所詮火のないところの煙である。すぐに鎮火するであろう。親に生活力はない。今後どうするつもりなのか。衝動的に離婚しても生活というものは付いてくる。そこのところをどう考えているのか解らない。私が実家に戻れば離婚が回避できるのかと訊いた。すると、判らないけれど戻るなら戻るで心を入れ替えて戻ってきてもらわないと嬉しくないし却って迷惑だ、と言われた。このことにより、親の離婚話は半分本気、残る半分はうちのと私の罪悪感への煽りと、私が実家に戻る際に言質を取る為のものと私は判断した。大体、心を入れ替えるって……? 今迄間違った心持だったような言われようではないか。他者からどう思われているかは判らないが、私自身は自分に正直な心持で生きてきたつもりなので、入れ替えるべき心の予備など持ち合わせてはいない。
次にうちのの出した結論への検証。これは根本だけを考えれば、答えは簡単だと思われる。私がいると私の親がごちゃごちゃと訳の解らないことを言ってくる。甚だ面倒であり迷惑である。ならば諸悪の根源となってしまっている私を排除すれば、うちのにとっての面倒や迷惑はなくなる、という考えに基づくものではないだろうか。疲れた、と言っていた。この言葉が上記の全てを物語る言葉だと思われる。また他の要因として、うちのは極端に他者に迷惑をかけることを嫌う傾向がある。因って、私と別れることによりうちの離散を防げるならば、親類縁者の将来の道の邪魔にならずに済むならば、などの思惑も含まれているだろう。理解はできる。けれど、私はどうなる? 親の離婚にしてもうちのの結論にしても、どうも肝心の私の身の置き場や気持ちが蔑ろにされている気がしてならない。私がいなければ、全て丸く収まるのか? という気がしている。
昨夜は親から私の元へも、仕事中であったうちのの元へも電話があった。うちのの帰宅後にお互いの電話での会話を照らし合わせてみたら噛み合わない部分が多々あった。うちのも私も親にはほとほと呆れている。ふたりとも係わりたくないと思っている。うちのは電話でかなり傷付けられたようだ。私も同様である。しかし親は自分ひとりが被害者気取りだ。自慢げに、あんたは言い訳ばかりの人生だとこの間言ってやった、と語る親にうちのは、そうやって貴女が黒猫を追い詰めているんじゃないですか? と言ったそうだ。そして、実家に帰るくらいなら死んだ方がマシだと黒猫は言っていた、とも伝えたらしい。私がうちのにそう言ったのは確かである。親は、死んだ方がマシなくらい嫌な親だったのか? と私と話す電話口で泣いていた。泣きたいのはこっちだ。嫌ではない。苦手なのだ。そして親と生活を共にするということは、私の精神的自立が、親が死ぬ迄阻まれ続けることに耐えられないのだ。ここに書いたまま親に伝えたが、やはり理解はできなかったらしい。私と親との関係は何だったの? とも訊かれたので、支配と依存、と率直に答えた。親から私への支配と依存、私が半ば依存を強制させられて育ったことを簡潔に説明した。これも理解できなかったようだ。仕方がないだろう。親も無意識にしてきたことなのだから。形而下にあるものをまず表面化させることが必要だ、と私は主治医に言われている。親にも同様のことが言えるだろうが、柔軟性が皆無とも言える親は全てを、親心として当然のこと、と括ってしまっている。その縛りを自らの気付きにより解かなければ、永遠に理解できる日はこないだろう。もう私は理解を欲してはいない。環境遺伝の呪縛から解き放たれたいだけだ。
うちのが親に対して言ったことの諸々を、親は本意とはかけ離れた美化をして捉えていた。土曜に4者で会うことになっている。うちのはそこで、来年半ば迄は仕送りをして私にひとり暮らしをさせるのでそこから先は親が面倒をみてやってくれ、と言うつもりらしい。別れさせたがっている親と、帰るくらいなら死にたいと言う私との間に立っての折衷案のつもりなのだろう。しかしながら不況とローンの狭間で、実家にはその先の仕送りを工面する経済力はない。私の寿命は残り7ヶ月らしい。親もうちのには、それが私の寿命だと言ったらしい。私は安楽死に賛成する者である。生き長らえさせられることを、良きこととは決して思わない。その場凌ぎの寿命など要らない。ただうちの小動物たちの今後が心配ではある。うちのに面倒をみて欲しいが、多忙なうちのにそれは困難である。うちのが出した結論は、私と小動物2匹を路頭に迷わせる結論である。小動物の1匹はとても利口で勘がいい。先日からうちのと私に異様な甘え方をしている。鳴き声も違う。何かを察知しているのだろう。今夜が山場だ。うちのの出した結論を覆させられなければ、明後日が私という無縁仏の命日になる可能性が高い。私はうちのと共に生きて行きたいと思っている。うちのは親に言われて傷付けられた言葉を気にしている。私と親は別人格の他者である。きちんと理解して欲しい。今、うちのが心身共に疲れ果てているのは判る。その疲れの原因のひとつを排除したいのも判る。それでも、判る、と、解る、は別物だ。
説破
2003年11月12日 家族・メンヘル・健康など 昨夜遅く、親から電話があった。父親に今回の一連の話をして絶縁に同意を得たと言っていた。職業柄、父親は今の時期から年末迄とても忙しいので年内は内緒にしておこうと、親と私の間で口約束がされていたが、親はそれを破ったようだ。まあ遅かれ早かれの話であるし、親の腰巾着である父親が親の提案に頷かない訳はないので構わない。年末年始に私の姓は変わるだろう。私が調べたところ、養子縁組は解消できても、血縁関係にある親子の縁は法的には切れないようなので、このままだと私の次の姓は、親の旧姓になるようだ。私も嫌だし、親も嫌だろう。そして私がこれを調べたことにより親が言っていた、弁護士にも相談済みの法的手段を伴う絶縁、は恐らくハッタリであることが判明した。wwwとポケット六法に感謝。しかし私が見落としている法があるのかもしれないし、年内に調べ直し及び以前お世話になった弁護士に念の為、相談に行くつもりではある。私の理想は、親との絶縁と同時にうちのと入籍してしまうことだ。理由は簡単。合理的で様々な手間が省けるからである。しかしながら入籍はひとりではできない。うちのの同意が必要だ。話し合いをしなければ、と思っていたが、現在は話し合いではなく説破できるか否かの様相を呈している。
私の帰省中、うちのもいろいろ考えてくれていたようである。仕事で心身共に疲労しているのに……多謝。そしてうちのが出してきた提案は、別れた方がいいのではないか、だった。激しく同意できない。よって理由を問い質す。うちのは私が親に絶縁されることを良く思っておらず、またその絶縁の原因が自分であることに重責を感じており堪えられる自信がない、と。親と私、双方共に絶縁を望んでいるのだから気にする必要は一切ないのだが、そういうものではないと言う。家庭環境の違いがここに出ている。うちのは、血は水より濃い、と思っている人間だ。私はそれどころか、いない方がいい親もいる、と思っている人間だ。この私の思いをうちのは理解はしてくれているが、納得は伴っていない。うちのの家庭も過去にいろいろと問題があったようではあるが、私の境遇よりは相当に恵まれて育ったと思える。どうにか私を取り巻く状況を、理解だけでなく納得もさせねばならない。困難だが、第1の壁である。これを乗り越えられねば話は先へと進まない。進めたいので説破しなければならない。早急に理論武装を更に固める必要がある。
別れた方がいい、と、別れたい、は大きく違う。うちのが口にするのは前者である。その言葉には、自分が身を引くことで親と私の関係が修復するなら……といったものが感じ取れた。ここをハッキリさせなければならない。私を取り巻く周辺事情を抜きに、私の人格・性格・諸事情をひっくるめて考えて別れたいと思っているのか、YESかNOで答えるように訊いた。YESでありNOであるという、非常にずるい答えが返ってきた。というか、それ答えになっていないし。詳細を訊く。人格・性格はいい。注釈。私の人格や性格が良いという話ではなく、今後ふたりでやっていく上でそこは問題ではないという意味である。そしてネックは私の抱える諸事情だ、と。概して精神疾患患者は他者に理解を得難く、苦労をしている。患者の多くは、一見、普通の健常者に見えてしまうからだ。うちのは私の諸事情を理解してくれている。基本的には納得もしてくれている。しかしときには納得しきれない面もあると言う。理解も納得もできる。が。ひっくるめて考えて答えろと言ったではないか! うちのが私を受容してくれなければ、現在生活能力のない私は、実家に強制送還される羽目になる。親の中の人が替わっていなかった以上実家への収監は、親による私の精神的自立の阻止の継続を意味する。不本意である。現状よりも諸事情が悪化するなど考えたくもないが、安易に想像できてしまうのが恐怖だ。
うちののDV的言動は、私の諸事情への、ときとして納得できていない場合に引き出されることが多い。親との絶縁が解寛への近道と思う私にとって、これは今後、絶縁によってクリアされる可能性の高い問題に思える。暴力的発言が肉体的暴力に発展しない例は少ない。金銭への考え方が変化する可能性も少ない。うちのが犯した過ちは再犯されないことの方が少ない。これら少ないの連発は、各々の、またトータルでのリスクの高さを意味する。多くの人間はリスクの高い賭けは避けたいと考えるだろう。けれど忘れてはならないことがある。少ない=ゼロではなく、少数ながらもそこに当て嵌まらない人間は、確実に存在しているのだ。私は賭けごとが好きだ。賭けはリスクが高ければ高い程賭け甲斐がある。単勝万馬券などに賭けるのは非常にわくわくする。人は人を変えることはできない。自分自身が変わるしかない。主治医も言っていたし、私も経験則で理解・納得ができる。うちのが変わるきっかけに私はなりたい。気付きを作りたい。私はこれ迄に苦労もかけられたが、うちのに変わるきっかけや気付きもたくさんもらった。親は私がうちのから得たものはPCの知識くらいだろうと言うが、とんでもない誤解である。うちのには短所だけでなく長所も多々あり、その長所によって私の諸事情の一症状が消えたのを、親は忘れているようだ。それだけでも大きな収穫であり、他にもいろいろいい意味でも悪い意味でも類稀な経験をさせてもらったのを、私は貴重な経験と考えている。親にとっては余計な経験としか思えないようだが、類稀な経験はしようと思ってできるものではなく、それだけ私は珍しい人生経験ができたということなのだが。単純に私は弱い者同士、支え合って生きていきたいだけ。そしてふたりで強くなりたい。生活を共にして4年。お互いにいろいろあったし、お互いのそれ迄の過去にもいろいろあった。全て承知だ。うちのが犯した過ちが発覚した際に交わした、うちのと私の往復書簡がある。その頃は私の諸事情が表面化していなかったので、そこに書いた・書かれた全てをこなすことはできない。できる範囲でやるしかない。それは解ってもらう必要がある。そしてもっと解ってもらわなければならないのは、その書簡に書いた、私の根底の気持ちは変わっていないということだ。うちのは変わっているのだろうか? 変わっていないことを願う。次の説破は明日になるだろう。そのときに書簡の話を持ち出してみよう。
座右の銘である、人生は死ぬ迄の暇潰し。次に好きな言葉が、誰の言葉だったか忘れてしまったが、人生は最大の博打である。暇潰しに博打は持ってこいだ。競馬・パチンコ・スロット・非合法カジノ・麻雀・外馬。競輪・競艇・賭場……特に手本引きはやってみたかったが、もういい。麻雀は続けるだろうが、今後の私のメインの博打は人生そのものだ。うちのへの説破は第1レースであり、釘読み台選びであり、東場第一局である。ここで主導権を取れなければ、暇潰しも終了。博打は命懸けである方が楽しいというのが、博打打ちの性なのか。
私の帰省中、うちのもいろいろ考えてくれていたようである。仕事で心身共に疲労しているのに……多謝。そしてうちのが出してきた提案は、別れた方がいいのではないか、だった。激しく同意できない。よって理由を問い質す。うちのは私が親に絶縁されることを良く思っておらず、またその絶縁の原因が自分であることに重責を感じており堪えられる自信がない、と。親と私、双方共に絶縁を望んでいるのだから気にする必要は一切ないのだが、そういうものではないと言う。家庭環境の違いがここに出ている。うちのは、血は水より濃い、と思っている人間だ。私はそれどころか、いない方がいい親もいる、と思っている人間だ。この私の思いをうちのは理解はしてくれているが、納得は伴っていない。うちのの家庭も過去にいろいろと問題があったようではあるが、私の境遇よりは相当に恵まれて育ったと思える。どうにか私を取り巻く状況を、理解だけでなく納得もさせねばならない。困難だが、第1の壁である。これを乗り越えられねば話は先へと進まない。進めたいので説破しなければならない。早急に理論武装を更に固める必要がある。
別れた方がいい、と、別れたい、は大きく違う。うちのが口にするのは前者である。その言葉には、自分が身を引くことで親と私の関係が修復するなら……といったものが感じ取れた。ここをハッキリさせなければならない。私を取り巻く周辺事情を抜きに、私の人格・性格・諸事情をひっくるめて考えて別れたいと思っているのか、YESかNOで答えるように訊いた。YESでありNOであるという、非常にずるい答えが返ってきた。というか、それ答えになっていないし。詳細を訊く。人格・性格はいい。注釈。私の人格や性格が良いという話ではなく、今後ふたりでやっていく上でそこは問題ではないという意味である。そしてネックは私の抱える諸事情だ、と。概して精神疾患患者は他者に理解を得難く、苦労をしている。患者の多くは、一見、普通の健常者に見えてしまうからだ。うちのは私の諸事情を理解してくれている。基本的には納得もしてくれている。しかしときには納得しきれない面もあると言う。理解も納得もできる。が。ひっくるめて考えて答えろと言ったではないか! うちのが私を受容してくれなければ、現在生活能力のない私は、実家に強制送還される羽目になる。親の中の人が替わっていなかった以上実家への収監は、親による私の精神的自立の阻止の継続を意味する。不本意である。現状よりも諸事情が悪化するなど考えたくもないが、安易に想像できてしまうのが恐怖だ。
うちののDV的言動は、私の諸事情への、ときとして納得できていない場合に引き出されることが多い。親との絶縁が解寛への近道と思う私にとって、これは今後、絶縁によってクリアされる可能性の高い問題に思える。暴力的発言が肉体的暴力に発展しない例は少ない。金銭への考え方が変化する可能性も少ない。うちのが犯した過ちは再犯されないことの方が少ない。これら少ないの連発は、各々の、またトータルでのリスクの高さを意味する。多くの人間はリスクの高い賭けは避けたいと考えるだろう。けれど忘れてはならないことがある。少ない=ゼロではなく、少数ながらもそこに当て嵌まらない人間は、確実に存在しているのだ。私は賭けごとが好きだ。賭けはリスクが高ければ高い程賭け甲斐がある。単勝万馬券などに賭けるのは非常にわくわくする。人は人を変えることはできない。自分自身が変わるしかない。主治医も言っていたし、私も経験則で理解・納得ができる。うちのが変わるきっかけに私はなりたい。気付きを作りたい。私はこれ迄に苦労もかけられたが、うちのに変わるきっかけや気付きもたくさんもらった。親は私がうちのから得たものはPCの知識くらいだろうと言うが、とんでもない誤解である。うちのには短所だけでなく長所も多々あり、その長所によって私の諸事情の一症状が消えたのを、親は忘れているようだ。それだけでも大きな収穫であり、他にもいろいろいい意味でも悪い意味でも類稀な経験をさせてもらったのを、私は貴重な経験と考えている。親にとっては余計な経験としか思えないようだが、類稀な経験はしようと思ってできるものではなく、それだけ私は珍しい人生経験ができたということなのだが。単純に私は弱い者同士、支え合って生きていきたいだけ。そしてふたりで強くなりたい。生活を共にして4年。お互いにいろいろあったし、お互いのそれ迄の過去にもいろいろあった。全て承知だ。うちのが犯した過ちが発覚した際に交わした、うちのと私の往復書簡がある。その頃は私の諸事情が表面化していなかったので、そこに書いた・書かれた全てをこなすことはできない。できる範囲でやるしかない。それは解ってもらう必要がある。そしてもっと解ってもらわなければならないのは、その書簡に書いた、私の根底の気持ちは変わっていないということだ。うちのは変わっているのだろうか? 変わっていないことを願う。次の説破は明日になるだろう。そのときに書簡の話を持ち出してみよう。
座右の銘である、人生は死ぬ迄の暇潰し。次に好きな言葉が、誰の言葉だったか忘れてしまったが、人生は最大の博打である。暇潰しに博打は持ってこいだ。競馬・パチンコ・スロット・非合法カジノ・麻雀・外馬。競輪・競艇・賭場……特に手本引きはやってみたかったが、もういい。麻雀は続けるだろうが、今後の私のメインの博打は人生そのものだ。うちのへの説破は第1レースであり、釘読み台選びであり、東場第一局である。ここで主導権を取れなければ、暇潰しも終了。博打は命懸けである方が楽しいというのが、博打打ちの性なのか。
早期解寛への道
2003年11月11日 家族・メンヘル・健康など 9及び10日付の続き。
私の親はマス・メディアの報道に疑問を感じない人間である。芸能関係はともかく、報道となると鵜呑みにしてしまっていると言っても過言ではあるまい。うちのが犯した過ちはよくメディアでも取り上げられる事柄のひとつだ。関連書籍も山と出版されている。メディアに於ける報道の方向性は政府・警察の検閲でもあるかのように一貫されている。関連書籍では様々な取り上げられ方をしている。書籍を読み漁れば多方向から解釈ができてくる。因って私は一概にうちのの犯した過ちを全否定はできなくなる。非はある。うちのの精神的弱さだ。しかしその非はあっても全否定はしない。できない。親はその手の書籍を一冊も読んだことがない。元来読書の苦手な人間だ。情報の殆どをテレビのワイドショーや報道番組から得ている。なので一方向からの視点でしか、この物事に関しては考えられない。勉強しろとは言わないが、一方向からしか物事を捉えられない危険性を全く感じていないところに不安が残る。今が戦時下なら大本営発表を鵜呑みして一喜一憂するんだろうなあ、と思うと不安というか、可笑しいというか、まあ複雑な心境になる。
日本には六法という明文化された法律がある。国会に於いて改正・廃止・新法成立などが行われて、そのときどきで変化する。その中で放置されたままの法もある。放置されているのにはいろいろな理由があるだろう。その法が現在は殆ど使われていない、その法がなければ国への不利益が生じる、その法があることでどこかの誰かが利益を得ているなど。他国との比較もときには必要である。某国では合法なことが某国では違法だったりもする。それはどのような背景に基づいて違っているのか。稀に医学的視点も必要となってくる。何故こちらの方が害が大きいのに合法とされ、こちらの方が害が少ないのに違法とされているのか。何故昔は合法だったのに、今は違法とされているのかなど。私は法に限らず様々な事柄や現象に疑問を持つ。悪いことだとは欠片も思っておらず、むしろ良いことだと思っている。何も疑問や疑念を抱かない人間は、知識も教養も増えない。しかし私のような人間をいぶかしむ者もいる。大本営発表を鵜呑みにするような人間だ。ニュースでこう言っているんだから正しいに決まっている、文化人がこう語っているんだから間違っていないに決まっている。そういうタイプの人間からしたら私のような存在そのものが不思議であり、またときとして非国民のように見えるらしい。ニュースの報道も一意見、文化人の意見も個人の一意見。それが電波に乗ったからといって普遍であると、何故無邪気に信じられるのか。私から見たらそちらの方が不思議でならない。普通とは幻想、と前に断言した。同様に、普遍なる物はこの世に存在しないとも断言する。
親からの法を伴う絶縁宣言は、私を切ることで周囲に迷惑をかけない為だと言う。それはいい。確かに私がうちのと一緒にいることで、うちのの過ちが発覚した場合に不都合を被る人間もいるのは事実であり、うちのの為に彼らが肩身狭い思いをする必要はない。それだけが真の理由ならば、切られることも仕方がないと素直に受け止められる。しかし今現在、私はそうではなさそうな気配を感じている。私の諸事情の大きな症状として見捨てられ不安がある。それをまた煽ろうとしているのではないか、そして自分の支配下に私を置くことで親が再び私の自立を妨げようとしているのではないか。私の諸事情の0か100か思考の極端な状況として、絶縁を持ち出してきているのではないか。私の諸事情は環境遺伝する物だ。これらの気配は恐らくただの気配ではなく、真実の一片だろう。もうその手には乗らない。主治医からの診断を得、自ら勉強もし、手口は見えている。今の私に親からの見捨てられ不安がないといったら嘘になる。けれど、ここでその不安に打ち勝たなければ、私はいつまで経っても自立もできなければ諸事情の解寛もないだろう。今回の親を取るかうちのを取るかという件に於いて、私が最重要視しているのはどちらへの愛が強いかなどではない。どちらと生活を共にする方が、私の解寛への近道となるかだ。所詮、死なないことで精一杯な人間だ。家族も恋人も関係ない。ただ、私自身に、生きていくことへの強さが欲しいだけである。
うちのと私は共依存の関係にある。うちのは診断を受けていないのでハッキリとは判らないが、私の諸事情と同じか若しくはそれと類似した別の諸事情を抱えている筈である。本人は否定するであろうが。うちのと以前、共依存について話し合ったことがある。そのときうちのはこう言った「恋人同士や家族で依存しあうのは普通じゃない?」。普通ではない。自立した者同士で助け合ったり支えあったりする恋人同士や家族が理想だ。今のうちのと私にそれはできない。でも、この先できるようになる可能性はある。うちのが弱さを克服し、私が解寛したときだ。私が実家を選んだ場合、自立して助け合い支え合うという家族像は親の幻想の元に模られ、そこに嵌りきれないであろう私は遅かれ早かれまた見捨てられ不安を煽られて、型に嵌ることを強要される=自立を妨げられるか、もう一度今回のような判子を伴う見捨てをされるかのどちらかに違いあるまい。
実の父親と親が離婚する際に親が私に言った言葉を鮮明に覚えている。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。正論であり、激しく同意する。ここ迄育ててくれたことへの感謝はこの先も忘れることはない。同時に意識的に、または無意識に親が私にしてきた仕打ちも忘れないだろう。私は小柄で貧乳ながらも大人の体格になり、選挙権を得て7年が経つ。肉体的・社会的には大人だ。精神を早く追いつかせたい。死なないことで精一杯の崖をどうにか登りきって、地に足を付かせたい。法的なものも伴う絶縁によって、私がこの先様々な不利益を被ることもあるだろう。それらは精神的に大人になる為の通過儀礼として受け止める覚悟をしている。先日括った腹は、親の意見翻しにより一旦解いたが改めて括り直した。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。あのときは父親のことだったが、今は違う。この言葉を言った母親自身のことである。彼女は一生気付かないだろう。50代も半ばを過ぎて、これに気付くことと気付かないこと、どちらが幸せかは解らない。けれど私は気付いてしまった。そして今、気付けた自分は幸せだと思っている。残る問題は、うちのが私を受け入れてくれる方向で腹を括ってくれるかだ。話し合わねば。
私の親はマス・メディアの報道に疑問を感じない人間である。芸能関係はともかく、報道となると鵜呑みにしてしまっていると言っても過言ではあるまい。うちのが犯した過ちはよくメディアでも取り上げられる事柄のひとつだ。関連書籍も山と出版されている。メディアに於ける報道の方向性は政府・警察の検閲でもあるかのように一貫されている。関連書籍では様々な取り上げられ方をしている。書籍を読み漁れば多方向から解釈ができてくる。因って私は一概にうちのの犯した過ちを全否定はできなくなる。非はある。うちのの精神的弱さだ。しかしその非はあっても全否定はしない。できない。親はその手の書籍を一冊も読んだことがない。元来読書の苦手な人間だ。情報の殆どをテレビのワイドショーや報道番組から得ている。なので一方向からの視点でしか、この物事に関しては考えられない。勉強しろとは言わないが、一方向からしか物事を捉えられない危険性を全く感じていないところに不安が残る。今が戦時下なら大本営発表を鵜呑みして一喜一憂するんだろうなあ、と思うと不安というか、可笑しいというか、まあ複雑な心境になる。
日本には六法という明文化された法律がある。国会に於いて改正・廃止・新法成立などが行われて、そのときどきで変化する。その中で放置されたままの法もある。放置されているのにはいろいろな理由があるだろう。その法が現在は殆ど使われていない、その法がなければ国への不利益が生じる、その法があることでどこかの誰かが利益を得ているなど。他国との比較もときには必要である。某国では合法なことが某国では違法だったりもする。それはどのような背景に基づいて違っているのか。稀に医学的視点も必要となってくる。何故こちらの方が害が大きいのに合法とされ、こちらの方が害が少ないのに違法とされているのか。何故昔は合法だったのに、今は違法とされているのかなど。私は法に限らず様々な事柄や現象に疑問を持つ。悪いことだとは欠片も思っておらず、むしろ良いことだと思っている。何も疑問や疑念を抱かない人間は、知識も教養も増えない。しかし私のような人間をいぶかしむ者もいる。大本営発表を鵜呑みにするような人間だ。ニュースでこう言っているんだから正しいに決まっている、文化人がこう語っているんだから間違っていないに決まっている。そういうタイプの人間からしたら私のような存在そのものが不思議であり、またときとして非国民のように見えるらしい。ニュースの報道も一意見、文化人の意見も個人の一意見。それが電波に乗ったからといって普遍であると、何故無邪気に信じられるのか。私から見たらそちらの方が不思議でならない。普通とは幻想、と前に断言した。同様に、普遍なる物はこの世に存在しないとも断言する。
親からの法を伴う絶縁宣言は、私を切ることで周囲に迷惑をかけない為だと言う。それはいい。確かに私がうちのと一緒にいることで、うちのの過ちが発覚した場合に不都合を被る人間もいるのは事実であり、うちのの為に彼らが肩身狭い思いをする必要はない。それだけが真の理由ならば、切られることも仕方がないと素直に受け止められる。しかし今現在、私はそうではなさそうな気配を感じている。私の諸事情の大きな症状として見捨てられ不安がある。それをまた煽ろうとしているのではないか、そして自分の支配下に私を置くことで親が再び私の自立を妨げようとしているのではないか。私の諸事情の0か100か思考の極端な状況として、絶縁を持ち出してきているのではないか。私の諸事情は環境遺伝する物だ。これらの気配は恐らくただの気配ではなく、真実の一片だろう。もうその手には乗らない。主治医からの診断を得、自ら勉強もし、手口は見えている。今の私に親からの見捨てられ不安がないといったら嘘になる。けれど、ここでその不安に打ち勝たなければ、私はいつまで経っても自立もできなければ諸事情の解寛もないだろう。今回の親を取るかうちのを取るかという件に於いて、私が最重要視しているのはどちらへの愛が強いかなどではない。どちらと生活を共にする方が、私の解寛への近道となるかだ。所詮、死なないことで精一杯な人間だ。家族も恋人も関係ない。ただ、私自身に、生きていくことへの強さが欲しいだけである。
うちのと私は共依存の関係にある。うちのは診断を受けていないのでハッキリとは判らないが、私の諸事情と同じか若しくはそれと類似した別の諸事情を抱えている筈である。本人は否定するであろうが。うちのと以前、共依存について話し合ったことがある。そのときうちのはこう言った「恋人同士や家族で依存しあうのは普通じゃない?」。普通ではない。自立した者同士で助け合ったり支えあったりする恋人同士や家族が理想だ。今のうちのと私にそれはできない。でも、この先できるようになる可能性はある。うちのが弱さを克服し、私が解寛したときだ。私が実家を選んだ場合、自立して助け合い支え合うという家族像は親の幻想の元に模られ、そこに嵌りきれないであろう私は遅かれ早かれまた見捨てられ不安を煽られて、型に嵌ることを強要される=自立を妨げられるか、もう一度今回のような判子を伴う見捨てをされるかのどちらかに違いあるまい。
実の父親と親が離婚する際に親が私に言った言葉を鮮明に覚えている。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。正論であり、激しく同意する。ここ迄育ててくれたことへの感謝はこの先も忘れることはない。同時に意識的に、または無意識に親が私にしてきた仕打ちも忘れないだろう。私は小柄で貧乳ながらも大人の体格になり、選挙権を得て7年が経つ。肉体的・社会的には大人だ。精神を早く追いつかせたい。死なないことで精一杯の崖をどうにか登りきって、地に足を付かせたい。法的なものも伴う絶縁によって、私がこの先様々な不利益を被ることもあるだろう。それらは精神的に大人になる為の通過儀礼として受け止める覚悟をしている。先日括った腹は、親の意見翻しにより一旦解いたが改めて括り直した。「親というのはいればいいというものではない。いない方がいい親もいる」。あのときは父親のことだったが、今は違う。この言葉を言った母親自身のことである。彼女は一生気付かないだろう。50代も半ばを過ぎて、これに気付くことと気付かないこと、どちらが幸せかは解らない。けれど私は気付いてしまった。そして今、気付けた自分は幸せだと思っている。残る問題は、うちのが私を受け入れてくれる方向で腹を括ってくれるかだ。話し合わねば。
人として
2003年11月10日 家族・メンヘル・健康など 現在11日。9日付の続きである。
帰省中の発作時、親は近くにいたが「大丈夫?」の一言も私にかけてこなかった。2年半前のことを根に持っているらしい。その2年半前の出来事。私が心身を消耗させつつ、うちのが犯した過ちの処理に忙しくしていた頃の話である。親が駅で意識を失って救急車で運ばれた、と父親から電話があった。子供として当然心配をし運ばれた病院を聞き、すぐに行こうか? と訊いたところ、大丈夫だから、との返事だったので私は行かなかった。自分も消耗しているのに大丈夫と聞けば行く気はなくなる。薄情と思う人もいるだろうが、少なくとも私はそうだ。ましてや元々余りいい感情を持っていない親のことである。このときのことを、親が未だに根に持っていたとは思っていなかった。私にしてみれば、大丈夫だと父親が言っているのだから大丈夫なのだろう、と行かなかった迄だ。しかし親の抱いていた思いは違っていた。あのとき、私は娘に捨てられた、と思い、今もそう思っているらしい。なので今回の絶縁も一度捨てられた身なのだから再び娘に捨てられることは怖くないし、こちらから捨てるのも平気だ、とのこと。私が発作で苦しんでいるときに「大丈夫?」の一言もないので、私はまた親がトンデモなことを考えているのだと思っていた。前に書いた、親が言っていた頓珍漢なこと、のひとつに、私はあなたは病気ではないと思うの、というのがあった。因みにこれは主治医の元にもう通い出し、また自治体に主治医が出した診断書も認められた後の発言である。なので心配のひとつもしてこないのは、まだ私が仮病を使っているとでも考えているのかと思ったのだが、そうではなく上記のようなことらしい。如何様な事情があろうと、目の前で呼吸を荒げて床で丸まって苦しんでいる人間がいれば心配するのが、普通、だと思うのだが違うようだ。今日の病院帰り、間抜けな私は、駅に向かう途中で濡れた床で足を滑らせて転んだ。「あいたー!」と言う私の声に驚いた、前を歩いていたカップルだか夫婦だかが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。このカップルだか夫婦だかは見知らぬ他人様である。膝を打っただけなので「大丈夫です。驚かせて済みません」と詫びてその場をやり過ごしたが、実は私はそのとき泣きそうだった。膝の痛みからの泪ではない。彼らが振り向いて声をかけてくれたことに対してである。
親はしょっちゅう、人として、という言葉を使う。人として〜〜してはいけない。人として〜〜すべきだ。私もときどき使う言葉ではある。この、人として、は個々の考える正義に基づいて出る発言だと私は思っている。なので私の口からはときどきしか出ない。親の口からはしょっちゅう出る。私は自分の言う、人として、を否定されても相手の考えを尊重するよう心がけている。親は否定されると相手の人間性そのものを否定して自己肯定する。個々の正義とは個々のプライドに繋がっていると思う。いつか、プライドをたくさん持っている奴は莫迦だ、と書いたことがあると思う。恥ずかしながら、私の親は私の思う莫迦の集大成というか、見本市というか……どうにも相性が悪い。他者の意見を尊重できない、自分の意見とは違う意見は全て屁理屈。よくわからん。親は狭く深くながらも長年の友人がいることは素晴らしいと言う。私も素晴らしいと思うし、私と長く付き合ってくれている友人らに感謝している。そして、親にそれだけ長年の友人がいないのは何故だろう? 全ては語るまい。
私の嫌いな言葉のひとつに、生理的に、という便利な言葉がある。大概は何かを否定する際に用いられる言葉だ。そしてその否定をきちんと説明できないときに、生理的に、の出番はやってくることが多く感じる。私は嫌いなので、この言葉はまず使わない。もっとハッキリ言えば、莫迦の使う言葉として認定している。莫迦は自分の喜怒哀楽や愛憎を言語化するのが下手だ。これは口下手とかそういう問題ではなく、喜怒哀楽や愛憎をただ感情任せに垂れ流しているだけであり、自分自身で何故にそのような感情が発生しているのか理解できていないのだと、私は思う。親の言う、人として〜〜してはいけない、は得てして、生理的に受け付けない、に等しい。その背景や歴史や世界情勢は考えない。背景などを持ち出したのは、うちのの過去の過ちにこの言葉を使っていたからだ。うちのも私のもその過ちに対し、そこそこ造詣が深い。親はそんな諸々を知ろうとはせずに、ただ受け付けないと繰り返す。受け付けないのはいい。それを尤もらしく、人として〜〜、などというから腹が立つ。それはあくまで親にとっての正義の旗であり、うちのや私の旗とは違う。私にとって、旗が違うのはそれはそれでいい。けれど、自分では確固とした説明もできないのに、人として、を振りかざすことには多大なる疑問を感じてしまう。親に言わせれば、そこに疑問を感じること自体が、人としてダメらしい。ダメで結構。
何事にも理由や理論を付けたがるのはいけないことなのだろうか? 理論武装、私は大好きである。ディベートの基本だ。本格的にディベートを学んだことはないけれど。お互いに理論武装して意見を戦わせることには、有意義である。相手が違う意見を違う理論で語ってくれることにより、こちらにもまた違う部分が見えてくることは少なくない。そして筋道の通った理論武装をできる人間は、莫迦ではない場合が多い。莫迦は理論武装をしているつもりでも、あちらこちらに破綻が見えるので解る。その手の莫迦より性質が悪いのが、自分にとって全ての、生理的にダメ、をさも世間一般の代表のように、人として〜〜と語る人間であり、私の親がそのひとりであることに情けなさを感じる。更に情けないのは、親の勢いに負けて莫迦さ加減を指摘できない自分である。勢いとは恐ろしい。私が理論の前振りを語る間もなく、ダメ! 絶対! の連発で攻撃してくる。泣く子と地頭と親には勝てない……。勝ちたいとは思わないが、あの性格のまま親が一生を過ごすことに私は不憫や哀れを感じてしまう。単純に、狭量な人間は損だと思うからだ。教養は大切である。学歴ではない。教養。書を捨てよ、町へ出よう、は嘘である。書を持って、町へ出るべきだ。私が寺山嫌いだから言っているのではなく、私の経験に基づいて否定したい書名なのだ。本の内容は昔読んだけれど忘れた。読み直すことはあるのかなあ。あれを読み直すなら、トマトケチャップ皇帝をもう一度観たいところだ。
帰省中の発作時、親は近くにいたが「大丈夫?」の一言も私にかけてこなかった。2年半前のことを根に持っているらしい。その2年半前の出来事。私が心身を消耗させつつ、うちのが犯した過ちの処理に忙しくしていた頃の話である。親が駅で意識を失って救急車で運ばれた、と父親から電話があった。子供として当然心配をし運ばれた病院を聞き、すぐに行こうか? と訊いたところ、大丈夫だから、との返事だったので私は行かなかった。自分も消耗しているのに大丈夫と聞けば行く気はなくなる。薄情と思う人もいるだろうが、少なくとも私はそうだ。ましてや元々余りいい感情を持っていない親のことである。このときのことを、親が未だに根に持っていたとは思っていなかった。私にしてみれば、大丈夫だと父親が言っているのだから大丈夫なのだろう、と行かなかった迄だ。しかし親の抱いていた思いは違っていた。あのとき、私は娘に捨てられた、と思い、今もそう思っているらしい。なので今回の絶縁も一度捨てられた身なのだから再び娘に捨てられることは怖くないし、こちらから捨てるのも平気だ、とのこと。私が発作で苦しんでいるときに「大丈夫?」の一言もないので、私はまた親がトンデモなことを考えているのだと思っていた。前に書いた、親が言っていた頓珍漢なこと、のひとつに、私はあなたは病気ではないと思うの、というのがあった。因みにこれは主治医の元にもう通い出し、また自治体に主治医が出した診断書も認められた後の発言である。なので心配のひとつもしてこないのは、まだ私が仮病を使っているとでも考えているのかと思ったのだが、そうではなく上記のようなことらしい。如何様な事情があろうと、目の前で呼吸を荒げて床で丸まって苦しんでいる人間がいれば心配するのが、普通、だと思うのだが違うようだ。今日の病院帰り、間抜けな私は、駅に向かう途中で濡れた床で足を滑らせて転んだ。「あいたー!」と言う私の声に驚いた、前を歩いていたカップルだか夫婦だかが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれた。このカップルだか夫婦だかは見知らぬ他人様である。膝を打っただけなので「大丈夫です。驚かせて済みません」と詫びてその場をやり過ごしたが、実は私はそのとき泣きそうだった。膝の痛みからの泪ではない。彼らが振り向いて声をかけてくれたことに対してである。
親はしょっちゅう、人として、という言葉を使う。人として〜〜してはいけない。人として〜〜すべきだ。私もときどき使う言葉ではある。この、人として、は個々の考える正義に基づいて出る発言だと私は思っている。なので私の口からはときどきしか出ない。親の口からはしょっちゅう出る。私は自分の言う、人として、を否定されても相手の考えを尊重するよう心がけている。親は否定されると相手の人間性そのものを否定して自己肯定する。個々の正義とは個々のプライドに繋がっていると思う。いつか、プライドをたくさん持っている奴は莫迦だ、と書いたことがあると思う。恥ずかしながら、私の親は私の思う莫迦の集大成というか、見本市というか……どうにも相性が悪い。他者の意見を尊重できない、自分の意見とは違う意見は全て屁理屈。よくわからん。親は狭く深くながらも長年の友人がいることは素晴らしいと言う。私も素晴らしいと思うし、私と長く付き合ってくれている友人らに感謝している。そして、親にそれだけ長年の友人がいないのは何故だろう? 全ては語るまい。
私の嫌いな言葉のひとつに、生理的に、という便利な言葉がある。大概は何かを否定する際に用いられる言葉だ。そしてその否定をきちんと説明できないときに、生理的に、の出番はやってくることが多く感じる。私は嫌いなので、この言葉はまず使わない。もっとハッキリ言えば、莫迦の使う言葉として認定している。莫迦は自分の喜怒哀楽や愛憎を言語化するのが下手だ。これは口下手とかそういう問題ではなく、喜怒哀楽や愛憎をただ感情任せに垂れ流しているだけであり、自分自身で何故にそのような感情が発生しているのか理解できていないのだと、私は思う。親の言う、人として〜〜してはいけない、は得てして、生理的に受け付けない、に等しい。その背景や歴史や世界情勢は考えない。背景などを持ち出したのは、うちのの過去の過ちにこの言葉を使っていたからだ。うちのも私のもその過ちに対し、そこそこ造詣が深い。親はそんな諸々を知ろうとはせずに、ただ受け付けないと繰り返す。受け付けないのはいい。それを尤もらしく、人として〜〜、などというから腹が立つ。それはあくまで親にとっての正義の旗であり、うちのや私の旗とは違う。私にとって、旗が違うのはそれはそれでいい。けれど、自分では確固とした説明もできないのに、人として、を振りかざすことには多大なる疑問を感じてしまう。親に言わせれば、そこに疑問を感じること自体が、人としてダメらしい。ダメで結構。
何事にも理由や理論を付けたがるのはいけないことなのだろうか? 理論武装、私は大好きである。ディベートの基本だ。本格的にディベートを学んだことはないけれど。お互いに理論武装して意見を戦わせることには、有意義である。相手が違う意見を違う理論で語ってくれることにより、こちらにもまた違う部分が見えてくることは少なくない。そして筋道の通った理論武装をできる人間は、莫迦ではない場合が多い。莫迦は理論武装をしているつもりでも、あちらこちらに破綻が見えるので解る。その手の莫迦より性質が悪いのが、自分にとって全ての、生理的にダメ、をさも世間一般の代表のように、人として〜〜と語る人間であり、私の親がそのひとりであることに情けなさを感じる。更に情けないのは、親の勢いに負けて莫迦さ加減を指摘できない自分である。勢いとは恐ろしい。私が理論の前振りを語る間もなく、ダメ! 絶対! の連発で攻撃してくる。泣く子と地頭と親には勝てない……。勝ちたいとは思わないが、あの性格のまま親が一生を過ごすことに私は不憫や哀れを感じてしまう。単純に、狭量な人間は損だと思うからだ。教養は大切である。学歴ではない。教養。書を捨てよ、町へ出よう、は嘘である。書を持って、町へ出るべきだ。私が寺山嫌いだから言っているのではなく、私の経験に基づいて否定したい書名なのだ。本の内容は昔読んだけれど忘れた。読み直すことはあるのかなあ。あれを読み直すなら、トマトケチャップ皇帝をもう一度観たいところだ。
中の人が戻った模様
2003年11月9日 家族・メンヘル・健康など 現在11日。
今月1日付の日記に親の中の人が替わったと書いたが、帰省して替わっていなかったことが判明した。またはあの近辺の数日のみ、臨時勤務していたのか。それにしても戻ってきた中の人は相変わらずのトンデモ振りを発揮してくれ、私は帰省中に2度PD発作を起こし、帰宅直前に希死念慮が最高潮に達した為、主治医の元に寄って帰ったきた。私の主治医はヤブだがたまにいいことも言う。今日はそのたまの日であったようで、いいことを言ったくれた「普通・常識などの言葉を使いたがる人程、普通や常識的ではない人間だ」。激しく同意する。私の親が口にする文章のほぼ全てには、普通・常識・一般・みんななどの言葉が織り交ぜられている。これらの言葉は全て幻想だと思っている私には、この手の単語が混ざった瞬間、言葉は上滑りする。上滑りするとこちらの聞き方が適当になるのは仕方がないことだと思うのだが、とにかく親は私が、親の思う普通・常識・一般・みんな、を理解及び納得していない点に非常に立腹する。相変わらずの地軸っぷりであった。そんな親でも稀に、人それぞれ、という言葉を使うことがある。この場合、人それぞれの考え方を尊重するという意味ではなく、人それぞれだけれども親の意見に同調しない人間は異常だ、というニュアンスを含んでいる。帰り際の話で私にぶつけられた言葉は「あんたは人を踏み台にして利用することばかり考えている我侭な、言い訳ばかりしている人間だ」。勿論私は、常日頃から他者の誰もを踏み台として利用しようと考えている訳ではないし、言い訳ばかりしているということもない。けれども、言い分と言い訳の区別すらも付かない人間には、それが親であろうが利用してやろう的意図が、勝手に働いていた気もする。仕方がないではないか。親であっても莫迦なんだから。自分と同じ意見を持たない者の意見は全て、言い訳としか解釈できないような狭量な親の下に生まれた不幸を、私は本気で嘆いている。やはり子離れできていないというか……親と子が別人格の持ち主であるということを、知識としては知っていても理解・納得が追いついていないのだろう。
私の諸事情に詳しいどこかのサイトでこんな話が書かれていた。子が自立する際にその準備を全てしてしまうという、協力に見せかけた自立の阻止をする親がいる。正に私の親がこうであった。私が実家を出た原因はいろいろな事情が複合されての物だが、その中で一番大きかったのは、当時の彼氏と半同棲をして家に余り帰らなかった時期に親が興信所に依頼して、私を尾行させたことだ。親は心配が高まって取った末の依頼・行動だったと言う。気持ちが全く解らない訳ではない。けれど非常識だと思ったし、今でも極端すぎると思っている。この一件で私から親への信用はなくなった。今すぐにここを出なければ碌な目に遭わないと直感させられた。当時私には貯金がなかった為、友人に敷金礼金などを借金して部屋を探して出る準備をし、部屋を決めてから親に報告をした。親はその部屋が見たいと言い、保証人の問題もあるので承諾したところ、私が決めた部屋とは違うところに手付けを打ってきた。あの部屋は畳が良くない、と。畳が良くなかったのは確かだが……。そしてテキパキと家財道具を集めてくれた。感謝と挫折を同時に味わった。布団もカーテンもなしに出発するつもりだったところに思いがけない親心、そしてゼロから出発したかったのに親心による家財道具によってそれが叶わなくなったこと。私は親に反発するのが下手だ。因ってその家財道具にも甘えてしまった。それが今朝、物凄い話に変わっていた。そのとき私は家財道具を集めたくれた親に「そんなこと迄してくれなくていいのに」と言った筈であり、親はそれに「娘を送り出すのに最低限のことはしてやりたいという気持ちだから」と答えてくれた筈だ。その気持ちの良し悪しは、敢えてここでは問わない。前振りから察してもらえるだろう。ただ、こういうやり取りがあった筈なのだ。それが親の脳内ではこう変化していた。何もなしで送り出す訳にはいかなかったので家財道具を揃えてやった。あの子が自分からその家財道具を購入する際にかかったお金を返してきたら、それをそのまま貯金しておいてやろうと思っていた。なのに一銭も返してこなかった。……絶句。なんじゃそりゃ。そんな話なら私は最初から受け取らなかったぞ! あのときに言っていた、気持ち、って一体何だったんだ? 返してこなかった、の後にこう続いた。もしも私がうちのを選ぶならそのお金は請求しない。手切れ金とする。この手切れとは、親子の縁の手切れを意味する。
前の日記で最後の逃げ場は残してくれていると書いたが、それも親の脳内では翻っていた。私がうちのを選んだ場合、別れても戻ってはこさせない。うちのを選んだ時点で、または今年中に私がどちらを取るかの選択ができなかった時点で法的手段で親子の縁を切り、契約書だかなんだかを用意されるらしい。親子の縁を切るとは養子縁組している父親の籍から抜けるということであり、結婚歴もないのに今の苗字がみっつめの私としては、そうなったらどんな苗字になるのか興味深いところである。悠長なようだが所謂複雑な家庭環境で育った身としては、苗字という記号への興味が深いのだ。また親は泥沼に嵌りたくない為に契約書を用意するようなことを仄めかしていたが、余りにもな内容だった場合はこちらも弁護士を立てねばならない。金も時間もかかりそうで甚だ厄介である。だからといって、この厄介から逃げる為に実家に帰ったら私の病状が悪化するのは明らかであり、今回の件に関してはとにかく私は自分の病状がこれ以上悪化しない道を選びたいのだ。もっと言えば希死念慮に任せてお空の父親の元に今すぐにでも逃げたい。お空でない場所に逃げた場合は、地の果て迄も追いかけて判を押させる、と親は言っていた。好きにしてくれ。
主治医に一連の話をし、私はどっちに行くといいと思いますか? と訊いたところ本気で困った顔をしていた。一医者が患者の一生を左右するような問題に口出ししたがらないだろうというのは承知だ。しかし慢性的抑うつ状態にある私に、今、何かを決定するだけの判断力は薄い。全くない訳ではないがこうも話が拗れては薄くなる一方なので、主治医からのアドバイスが欲しかったのだが案の上、はぐらかされてしまった。けれど、どちらに行っても私が精神的に参ったときはサポートしてくれる、と言ってくれ、また最初に書いたいいことの後に「親御さんよりあなたの方がまともだ」と言ってくれたのには救われた。なのでまだ生きている。余談だが親子の縁を切った場合には住民票なども動かすことになるのだが、32条の変更手続が簡単に済みそうなのも、今の私には少しだけ明るい話である。
今月1日付の日記に親の中の人が替わったと書いたが、帰省して替わっていなかったことが判明した。またはあの近辺の数日のみ、臨時勤務していたのか。それにしても戻ってきた中の人は相変わらずのトンデモ振りを発揮してくれ、私は帰省中に2度PD発作を起こし、帰宅直前に希死念慮が最高潮に達した為、主治医の元に寄って帰ったきた。私の主治医はヤブだがたまにいいことも言う。今日はそのたまの日であったようで、いいことを言ったくれた「普通・常識などの言葉を使いたがる人程、普通や常識的ではない人間だ」。激しく同意する。私の親が口にする文章のほぼ全てには、普通・常識・一般・みんななどの言葉が織り交ぜられている。これらの言葉は全て幻想だと思っている私には、この手の単語が混ざった瞬間、言葉は上滑りする。上滑りするとこちらの聞き方が適当になるのは仕方がないことだと思うのだが、とにかく親は私が、親の思う普通・常識・一般・みんな、を理解及び納得していない点に非常に立腹する。相変わらずの地軸っぷりであった。そんな親でも稀に、人それぞれ、という言葉を使うことがある。この場合、人それぞれの考え方を尊重するという意味ではなく、人それぞれだけれども親の意見に同調しない人間は異常だ、というニュアンスを含んでいる。帰り際の話で私にぶつけられた言葉は「あんたは人を踏み台にして利用することばかり考えている我侭な、言い訳ばかりしている人間だ」。勿論私は、常日頃から他者の誰もを踏み台として利用しようと考えている訳ではないし、言い訳ばかりしているということもない。けれども、言い分と言い訳の区別すらも付かない人間には、それが親であろうが利用してやろう的意図が、勝手に働いていた気もする。仕方がないではないか。親であっても莫迦なんだから。自分と同じ意見を持たない者の意見は全て、言い訳としか解釈できないような狭量な親の下に生まれた不幸を、私は本気で嘆いている。やはり子離れできていないというか……親と子が別人格の持ち主であるということを、知識としては知っていても理解・納得が追いついていないのだろう。
私の諸事情に詳しいどこかのサイトでこんな話が書かれていた。子が自立する際にその準備を全てしてしまうという、協力に見せかけた自立の阻止をする親がいる。正に私の親がこうであった。私が実家を出た原因はいろいろな事情が複合されての物だが、その中で一番大きかったのは、当時の彼氏と半同棲をして家に余り帰らなかった時期に親が興信所に依頼して、私を尾行させたことだ。親は心配が高まって取った末の依頼・行動だったと言う。気持ちが全く解らない訳ではない。けれど非常識だと思ったし、今でも極端すぎると思っている。この一件で私から親への信用はなくなった。今すぐにここを出なければ碌な目に遭わないと直感させられた。当時私には貯金がなかった為、友人に敷金礼金などを借金して部屋を探して出る準備をし、部屋を決めてから親に報告をした。親はその部屋が見たいと言い、保証人の問題もあるので承諾したところ、私が決めた部屋とは違うところに手付けを打ってきた。あの部屋は畳が良くない、と。畳が良くなかったのは確かだが……。そしてテキパキと家財道具を集めてくれた。感謝と挫折を同時に味わった。布団もカーテンもなしに出発するつもりだったところに思いがけない親心、そしてゼロから出発したかったのに親心による家財道具によってそれが叶わなくなったこと。私は親に反発するのが下手だ。因ってその家財道具にも甘えてしまった。それが今朝、物凄い話に変わっていた。そのとき私は家財道具を集めたくれた親に「そんなこと迄してくれなくていいのに」と言った筈であり、親はそれに「娘を送り出すのに最低限のことはしてやりたいという気持ちだから」と答えてくれた筈だ。その気持ちの良し悪しは、敢えてここでは問わない。前振りから察してもらえるだろう。ただ、こういうやり取りがあった筈なのだ。それが親の脳内ではこう変化していた。何もなしで送り出す訳にはいかなかったので家財道具を揃えてやった。あの子が自分からその家財道具を購入する際にかかったお金を返してきたら、それをそのまま貯金しておいてやろうと思っていた。なのに一銭も返してこなかった。……絶句。なんじゃそりゃ。そんな話なら私は最初から受け取らなかったぞ! あのときに言っていた、気持ち、って一体何だったんだ? 返してこなかった、の後にこう続いた。もしも私がうちのを選ぶならそのお金は請求しない。手切れ金とする。この手切れとは、親子の縁の手切れを意味する。
前の日記で最後の逃げ場は残してくれていると書いたが、それも親の脳内では翻っていた。私がうちのを選んだ場合、別れても戻ってはこさせない。うちのを選んだ時点で、または今年中に私がどちらを取るかの選択ができなかった時点で法的手段で親子の縁を切り、契約書だかなんだかを用意されるらしい。親子の縁を切るとは養子縁組している父親の籍から抜けるということであり、結婚歴もないのに今の苗字がみっつめの私としては、そうなったらどんな苗字になるのか興味深いところである。悠長なようだが所謂複雑な家庭環境で育った身としては、苗字という記号への興味が深いのだ。また親は泥沼に嵌りたくない為に契約書を用意するようなことを仄めかしていたが、余りにもな内容だった場合はこちらも弁護士を立てねばならない。金も時間もかかりそうで甚だ厄介である。だからといって、この厄介から逃げる為に実家に帰ったら私の病状が悪化するのは明らかであり、今回の件に関してはとにかく私は自分の病状がこれ以上悪化しない道を選びたいのだ。もっと言えば希死念慮に任せてお空の父親の元に今すぐにでも逃げたい。お空でない場所に逃げた場合は、地の果て迄も追いかけて判を押させる、と親は言っていた。好きにしてくれ。
主治医に一連の話をし、私はどっちに行くといいと思いますか? と訊いたところ本気で困った顔をしていた。一医者が患者の一生を左右するような問題に口出ししたがらないだろうというのは承知だ。しかし慢性的抑うつ状態にある私に、今、何かを決定するだけの判断力は薄い。全くない訳ではないがこうも話が拗れては薄くなる一方なので、主治医からのアドバイスが欲しかったのだが案の上、はぐらかされてしまった。けれど、どちらに行っても私が精神的に参ったときはサポートしてくれる、と言ってくれ、また最初に書いたいいことの後に「親御さんよりあなたの方がまともだ」と言ってくれたのには救われた。なのでまだ生きている。余談だが親子の縁を切った場合には住民票なども動かすことになるのだが、32条の変更手続が簡単に済みそうなのも、今の私には少しだけ明るい話である。
持ちつ持たれつ
2003年11月8日 メイク・ファッション・ピアス 現在9日早朝。
うちには滅多に人がこない。狭いし汚いし小動物と煙草の混ざった匂いがするしで呼びにくいのだ。また友人たちには家が遠い者が多いというのもある。そんな我が家に珍しく昨日、友人がきてくれた。その友人が奇特な趣味があると言うので、その趣味の実行のためにきたのだ。奇特な趣味とは、とことん汚れた場所を徹底的に綺麗にすることだという。持つべきものは友人である。きてもらい、玄関のドアの内側・ユニットバスのドアの内外・冷蔵庫などの拭き掃除をしてくれた。彼女は拭くことが好きなようだ。拭こうとしている場所に洗剤を拭きかけると、汚れが溶け出す。茶色? 黒? ドドメ色? どう表現すべきだろう……汚い。コレだ。とにかく汚い色となって洗剤が垂れ、それを彼女が拭いていく。一度ではムラになるので何度も拭く。そして激しく綺麗になった。そうか、元はこんな色のドアだったのか、と感心しきりである。彼女が掃除してくれている間、私はぼんやりとしていた。お前も違うところを掃除しろよ! と言う声が聞こえてきそうだが実際には聞こえてこなかったのでしていない。彼女が掃除している姿をくだらない話をしつつ、凄いなあ、偉いなあ、と眺めていた。一昨日辺りから過眠期に突入した気配がありやや眠かったが、流石に友人に掃除をさせておいて自分は寝てしまう訳にはいかないので、頑張って起きていた。彼女は自分の趣味の為にきてくれたのであり、徹底的に全箇所の掃除をする為にきてくれたのではないので、彼女が疲れたら終わりである。それでも十分綺麗になった。本当に有難う。
後はお茶を飲みつつ、雑誌を捲りつつ喋っていた。その中で彼女がピンク系メイクが似合わないというようなことを言った。人は自分が誰かに有難いことをしてもらったら、相手にお礼をしたくなるものだろう。そして私はその点に於いては常識的人間であり、メイクは趣味兼特技である。私のメイクボックス・メイク用品の入ったバニティポーチ・メイクブラシ収納ケースをばーっと広げた時点で眠気はかなり去った。私のシャドウ類を並べ彼女に使ってみたい色を選んでもらった。そのシャドウをメインにメイク開始。一手順ごとに説明をし、鏡で確認してもらいながらの作業。
ファンデはしているというので、マスカラを残して精製水でアイメイクを落とす。それからエスティローダーのシャドウベース→スティラのストロベリーダイキリをアイホールに広げる→マジョリカマジョルカの赤ライナーを目尻寄り1/3に引き微妙に跳ね上げる→ライナーの上と奥二重の範囲にFSPのゴーハッピーを薄めに乗せる→同じくゴーハッピーを下瞼にも薄く入れる。マスカラは元々黒マスカラをしていたので、遊び心として睫の毛先にのみ軽くガリュの偏光パープルマスカラをつける。眉にもニュアンスを付ける為にケサランパサランのボールドーフェイスカラーを乗せ、簡単に落ちないようにアイブロウコートを付ける。チークを入れていないと言うので、ピエヌの真っ赤な水チークを暈し、その上にパラドゥのパール入りの薄ピンクフェイスカラーを重ねる。立体感をつける為にスティラのバナナダイキリの一番淡い色と中間色を指で混ぜてノーズシャドウを入れ、イプサのフェイスカラーでシェーディング。唇や肌が香料で荒れ易いと言うので、パラドゥのラメ入りリップケアグロスを付けて終了。
私は自分が作った彼女の顔の出来栄えに相当な満足感を得られた。彼女は鏡を見つつ、いつもと雰囲気の違う顔になった自分に照れくさそうな表情を浮かべていた。かわいい。輪郭を覆うように髪を下ろしていたので、ピンク系のピン2本で髪を留めてみた。当然そのピンはプレゼントさせてもらった。服も暖色系や大胆な柄物が苦手だと前から言っていたので、私の持っているピンクのパンツを穿かせたり、和柄のピーチピンクのコートを着せてみた。うん、似合う。彼女も満更ではなさそうだった。今回はピンク系の楽しさが解ってもらえたようで、私も嬉しかった。彼女の得意なメイクはグリーン系、衣類はモノトーンである。今度はブルー系メイク、もっと大胆な色使い・柄使いの服の楽しさを知って欲しい。他者からアドバイスや意見をもらうのが好きなのと同様に、私から他者にアドバイスや意見をするのも好きなのだ。その為にはもっといろいろ知識と技術を身に付けなければ、とも思った。
彼女の帰宅後、私はすぐに眠りに落ち深夜に目覚めた。彼女からメールがきていた。彼氏にメイクを見せたところ「血色がよくなった」との意見をもらい、ヘアピンは好評だったらしい。彼女は彼氏に言われたメイクの感想にやや不満を感じたようだ。しかし施した私からすれば褒め言葉である。撮影やパーティではなく普段するピンクメイクの目標は、湯上り美人、なのだ。湯上りということは血色も良くなっている訳なので、彼の意見は的を射ている。前に書いた内面と外見の近付けを試みている友人とは彼女である。昨日の帰り道、早速ピンクシャドウを購入したと書いてあった。彼女の根っこはとても優しい人間である。昨日うちに来てくれたのも趣味である掃除半分、精神的に参っている私への心配半分だっただろうことは想像に難くない。彼女は照れ屋なので心配しているなどとは言わない。けれど態度で判る。私には彼女の気遣いが凄く嬉しかった。今の私には彼女への恩返しはそうそうできそうにない。昨日伝授したピンクメイクで、きつく見えがちな彼女の内面の優しさを他者にも認識してもらえたらと願える程度である。次はブルー系メイクで凛とした彼女の魅力を引き出したい。
今朝から明日か明後日まで帰省の為、日記はお休み。
うちには滅多に人がこない。狭いし汚いし小動物と煙草の混ざった匂いがするしで呼びにくいのだ。また友人たちには家が遠い者が多いというのもある。そんな我が家に珍しく昨日、友人がきてくれた。その友人が奇特な趣味があると言うので、その趣味の実行のためにきたのだ。奇特な趣味とは、とことん汚れた場所を徹底的に綺麗にすることだという。持つべきものは友人である。きてもらい、玄関のドアの内側・ユニットバスのドアの内外・冷蔵庫などの拭き掃除をしてくれた。彼女は拭くことが好きなようだ。拭こうとしている場所に洗剤を拭きかけると、汚れが溶け出す。茶色? 黒? ドドメ色? どう表現すべきだろう……汚い。コレだ。とにかく汚い色となって洗剤が垂れ、それを彼女が拭いていく。一度ではムラになるので何度も拭く。そして激しく綺麗になった。そうか、元はこんな色のドアだったのか、と感心しきりである。彼女が掃除してくれている間、私はぼんやりとしていた。お前も違うところを掃除しろよ! と言う声が聞こえてきそうだが実際には聞こえてこなかったのでしていない。彼女が掃除している姿をくだらない話をしつつ、凄いなあ、偉いなあ、と眺めていた。一昨日辺りから過眠期に突入した気配がありやや眠かったが、流石に友人に掃除をさせておいて自分は寝てしまう訳にはいかないので、頑張って起きていた。彼女は自分の趣味の為にきてくれたのであり、徹底的に全箇所の掃除をする為にきてくれたのではないので、彼女が疲れたら終わりである。それでも十分綺麗になった。本当に有難う。
後はお茶を飲みつつ、雑誌を捲りつつ喋っていた。その中で彼女がピンク系メイクが似合わないというようなことを言った。人は自分が誰かに有難いことをしてもらったら、相手にお礼をしたくなるものだろう。そして私はその点に於いては常識的人間であり、メイクは趣味兼特技である。私のメイクボックス・メイク用品の入ったバニティポーチ・メイクブラシ収納ケースをばーっと広げた時点で眠気はかなり去った。私のシャドウ類を並べ彼女に使ってみたい色を選んでもらった。そのシャドウをメインにメイク開始。一手順ごとに説明をし、鏡で確認してもらいながらの作業。
ファンデはしているというので、マスカラを残して精製水でアイメイクを落とす。それからエスティローダーのシャドウベース→スティラのストロベリーダイキリをアイホールに広げる→マジョリカマジョルカの赤ライナーを目尻寄り1/3に引き微妙に跳ね上げる→ライナーの上と奥二重の範囲にFSPのゴーハッピーを薄めに乗せる→同じくゴーハッピーを下瞼にも薄く入れる。マスカラは元々黒マスカラをしていたので、遊び心として睫の毛先にのみ軽くガリュの偏光パープルマスカラをつける。眉にもニュアンスを付ける為にケサランパサランのボールドーフェイスカラーを乗せ、簡単に落ちないようにアイブロウコートを付ける。チークを入れていないと言うので、ピエヌの真っ赤な水チークを暈し、その上にパラドゥのパール入りの薄ピンクフェイスカラーを重ねる。立体感をつける為にスティラのバナナダイキリの一番淡い色と中間色を指で混ぜてノーズシャドウを入れ、イプサのフェイスカラーでシェーディング。唇や肌が香料で荒れ易いと言うので、パラドゥのラメ入りリップケアグロスを付けて終了。
私は自分が作った彼女の顔の出来栄えに相当な満足感を得られた。彼女は鏡を見つつ、いつもと雰囲気の違う顔になった自分に照れくさそうな表情を浮かべていた。かわいい。輪郭を覆うように髪を下ろしていたので、ピンク系のピン2本で髪を留めてみた。当然そのピンはプレゼントさせてもらった。服も暖色系や大胆な柄物が苦手だと前から言っていたので、私の持っているピンクのパンツを穿かせたり、和柄のピーチピンクのコートを着せてみた。うん、似合う。彼女も満更ではなさそうだった。今回はピンク系の楽しさが解ってもらえたようで、私も嬉しかった。彼女の得意なメイクはグリーン系、衣類はモノトーンである。今度はブルー系メイク、もっと大胆な色使い・柄使いの服の楽しさを知って欲しい。他者からアドバイスや意見をもらうのが好きなのと同様に、私から他者にアドバイスや意見をするのも好きなのだ。その為にはもっといろいろ知識と技術を身に付けなければ、とも思った。
彼女の帰宅後、私はすぐに眠りに落ち深夜に目覚めた。彼女からメールがきていた。彼氏にメイクを見せたところ「血色がよくなった」との意見をもらい、ヘアピンは好評だったらしい。彼女は彼氏に言われたメイクの感想にやや不満を感じたようだ。しかし施した私からすれば褒め言葉である。撮影やパーティではなく普段するピンクメイクの目標は、湯上り美人、なのだ。湯上りということは血色も良くなっている訳なので、彼の意見は的を射ている。前に書いた内面と外見の近付けを試みている友人とは彼女である。昨日の帰り道、早速ピンクシャドウを購入したと書いてあった。彼女の根っこはとても優しい人間である。昨日うちに来てくれたのも趣味である掃除半分、精神的に参っている私への心配半分だっただろうことは想像に難くない。彼女は照れ屋なので心配しているなどとは言わない。けれど態度で判る。私には彼女の気遣いが凄く嬉しかった。今の私には彼女への恩返しはそうそうできそうにない。昨日伝授したピンクメイクで、きつく見えがちな彼女の内面の優しさを他者にも認識してもらえたらと願える程度である。次はブルー系メイクで凛とした彼女の魅力を引き出したい。
今朝から明日か明後日まで帰省の為、日記はお休み。
自己犠牲か絶縁を伴う幸せ
2003年11月7日 家族・メンヘル・健康など 一昨日付の日記で山脈の狭間に置かれていると書いた。昨夜、うちのも同じ場所へと突き落とした。自分ひとりで選べる山々ではなく、同じ考えを持った上で、どの山を選ぶか決めなければならないからである。うちのは常に疲れている。それでも今回はきちんと聞いてくれた。どの山を選ぶかによって、今後の状況は大いに変わってくる。冷静に時間をかけてゆっくりと選ばなければならない。うちのにとっては、相手が私に限らず一生ついて回る選択且つ問題となる。以前したことの重大さが今回は今迄とは違う形で表面化し、それがまた身に沁みて解ったようで、きちんと考えてくれるらしい。昨夜の話では諦念と投げやり感が見え隠れしていたが、それでもきちんと前向きに考えなければならない状況にあることは把握できたようだ。私は既にひとつの山を選択して腹を括っている。うちのが同じ山を選ぶかどうかは判らない。どの山を選ぶもうちのの自由。しかし選ぶにあたって、ちゃんと腹を括ってくれなければならない。仮に私と同じ山を選んでくれるとしたら、その山には数々の崖があることも説明した。その崖を乗り越えるにあたって、カウンセリングを受けて欲しいことも説明した。今迄は無条件にカウンセリングを拒んでいたうちのだが、今度ばかりは前向きに考えてくれるようである。昨日も今日も寝起きの絡みやDV的発言は出てきていない。これに惑わされてはならないと、私は自分に言い聞かせている。ただ、このまま治ってくれることに希望は持ちたい。話し合いで判ったこと。私はうちのと自分とが共に幸せになれる山を選びたく思っている。対してうちのは、私が幸せになれる山を選ぼうとしていた。どちらがお互いにとって、また相手の、自分の幸せにより良い山かは時間が経たなければ判明はしない。うちのは、自業自得、という名の下に自らの幸せを捨てて私を幸せにしようとしているように思えた。それはうちのが自分の幸せを犠牲にしているように思えた。ダメである。うちのが私の幸せを最優先してくれるのは、嬉しく有難いことである。けれど、私はうちのの幸せを最優先したい。気持ちは同じなのである。ただ、どちらの幸せを最優先するかによって選ぶ山は変わってくる。慎重に選ばなければならない。焦らずにじっくりとふたりで考える必要がある。
昨夜の話し合いでひとつ解ったことがある。うちのと私とでは、家族、というものに対する考え方が大きく違っているようだった。私は、血は水よりも濃い、などという言葉を信じてはいない。それが本当ならこの世に遺産相続争いなどあり得ない。また私の今の父親は法的にはふたり目であり、実質的には3人目に等しい。家族など代替の利くものだと思っている。また私の病気の根源が幼少期からの親子関係にあるように、親が離婚を決意した時の気持ちと同様に、親はいればいいというものではないと思っている。うちのは違うらしい。末っ子の長男として甘やかされて育ち、今はひとり立ちをしてはいるものの、親兄弟はかけがえのないものだと考えているようだ。そのような考えの持ち主であるうちのは、やっと相互理解できてきた私と親との関係を壊したくないと思っているらしい。そう思ってくれるのは有難い。有難いのだが、その意見を採用すると私が登ろうと腹を括った山には登れなくなる。育った環境の違いを大きく感じさせられた。私とて親を粗末に考えている訳ではない。親は親で大事である。しかし親よりも大事だと思えるものがあるのだ。うちのは過去の過ち故に、私に限らずどんな相手であっても、皆に祝福されて結ばれるという望みは薄い。それが今、私たちが抱えている問題で解ったらしい。私は皆に祝福される必要などないと思っている。本人たちが幸せならばそれでいいではないか。うちのは皆に祝福されて結ばれることを望んでいる。そんな考えは捨ててしまえ。無駄だ。望むのは自由だが、余りにも期待の薄い台にしがみついて全財産を北に貢ぐようなものだ。どこかで割り切る、見切りをつける必要がある。私は今、うちのに皆からの祝福というものに見切りをつけてもらいたいと思っている。自己犠牲は宜しくない。
私は自分が登りたいと思っている山をうちのに示した。その山を登るにあたっての条件もつけた。うちのはそれらを全て理解及び納得はしてくれた。後は実践が伴うかどうかである。伴わなければ、私がその山を選ぶ価値はない。うちのにだけ条件を課した訳ではなく、自分にもクリアすべき諸々がある。ふたりでそれを乗り越えたい。自業自得に自己犠牲。そんなものでうちのが別の山を選び、私の幸せを最優先してくれてしまうと、今度は私に罪悪感が残る。うちのは私と同じ山を選ぶと罪悪感が伴い、その罪悪感に負けそうだと言っていた。過去の過ちからして、うちのは精神的に弱い人間である。私も精神科通いをしていることだけでも判るように、メンタル面が強い人間ではない。それでもうちのよりは多少なりとも強いつもりだ。ならば強い方に弱い方が甘えてしまえば良いではないか。どの山を選んでもどちらかに罪悪感は伴うのである。私に甘えて欲しい。そして私の甘えることで罪悪感に負けそうだと言うならば、その負けそうな気持ちを乗り越える強さを身につけて欲しい。弱い人間同士である。共に強くなりたい。
私の親の最初の結婚は破綻した。昨日初めて聞かされたことであるが、私の親も結婚にあたり周囲の反対を押し切って強引に入籍したらしい。私の親は同じ轍を私に踏んで欲しくないと願っている。子を思う親の気持ちは有難い。けれど、私の親の結婚が破綻したからといって、私の結婚が同様に周囲の反対を押し切ったものだからといって、破綻するとは限らないのだ。可能性はゼロではない。それは破綻する可能性・破綻しない可能性、両方に言える筈だ。リスクの高い方に賭けて欲しくないという親の気持ちはよく解る。けれど、忘れてはいまいか。私は実の父親の血を引いた娘であり、根っからの博打打ちなのだ。リスクの高い博打に程、遣り甲斐を感じるのが博打打ちの性である。私が、血は水よりも濃い、などと思っていないことはさっき書いた。それでも私の血は両親の血を引いた物であり、母親の血よりも父親の血の方が濃いと感じることはある。精神的弱さ、博打好き。母親は強い人間である。その強さを親の意に沿わない形で引き出そうと、今の私はもがいている。前に、親が嫌いではないが苦手ではある、と書いた。今、その苦手意識が薄れてきてはいるものの全くなくなった訳ではない。けれど、それらを抜きにしても、私は親を尊敬している。彼女は強い。酸いも甘いも噛み締めつつ人生を歩み、やっと安堵して生活できる場所に辿り着いた。今の父親は私の親も私も大切にしてくれている。嬉しいことである。親のことは父親に安心して任せておけると思っている。なので私は、崖の多い山を選ぶことができたのだ。うちのが同じ山を選んでくれなければ、私はその山を登ることはできないが、それでも自分の中では選べた。私が選んでいる山を登り始めたら、実家への出入りはできなくなる。親を始めとした身内の葬式にも呼んでもらえなくなる。覚悟の上で選んだ。親には親で守るべきものがあるのだから仕方がない。それでも最終的にその山を登りきれなかったときは、戻ってきてもいいという道は残してくれた。私がこの山を選べたのも、親が最後に残してくれた道があるからである。うちのの犯した過ちは、繰り返されることが多いと一般的に認識されている。統計上の数字にも顕著に表されているが、少数ながら更正できた者もいるのも確かだ。山を登り始めたが最後、親の葬式には呼んでもらえなくなるらしい。それでも私は押しかけて、更正できる人間もいるということを、臨終時に教えてやりたいと思う。
コラム形式で日記を書いているので、これ迄敢えて説明していなかったことを、ここに明記する。私が書…
昨夜の話し合いでひとつ解ったことがある。うちのと私とでは、家族、というものに対する考え方が大きく違っているようだった。私は、血は水よりも濃い、などという言葉を信じてはいない。それが本当ならこの世に遺産相続争いなどあり得ない。また私の今の父親は法的にはふたり目であり、実質的には3人目に等しい。家族など代替の利くものだと思っている。また私の病気の根源が幼少期からの親子関係にあるように、親が離婚を決意した時の気持ちと同様に、親はいればいいというものではないと思っている。うちのは違うらしい。末っ子の長男として甘やかされて育ち、今はひとり立ちをしてはいるものの、親兄弟はかけがえのないものだと考えているようだ。そのような考えの持ち主であるうちのは、やっと相互理解できてきた私と親との関係を壊したくないと思っているらしい。そう思ってくれるのは有難い。有難いのだが、その意見を採用すると私が登ろうと腹を括った山には登れなくなる。育った環境の違いを大きく感じさせられた。私とて親を粗末に考えている訳ではない。親は親で大事である。しかし親よりも大事だと思えるものがあるのだ。うちのは過去の過ち故に、私に限らずどんな相手であっても、皆に祝福されて結ばれるという望みは薄い。それが今、私たちが抱えている問題で解ったらしい。私は皆に祝福される必要などないと思っている。本人たちが幸せならばそれでいいではないか。うちのは皆に祝福されて結ばれることを望んでいる。そんな考えは捨ててしまえ。無駄だ。望むのは自由だが、余りにも期待の薄い台にしがみついて全財産を北に貢ぐようなものだ。どこかで割り切る、見切りをつける必要がある。私は今、うちのに皆からの祝福というものに見切りをつけてもらいたいと思っている。自己犠牲は宜しくない。
私は自分が登りたいと思っている山をうちのに示した。その山を登るにあたっての条件もつけた。うちのはそれらを全て理解及び納得はしてくれた。後は実践が伴うかどうかである。伴わなければ、私がその山を選ぶ価値はない。うちのにだけ条件を課した訳ではなく、自分にもクリアすべき諸々がある。ふたりでそれを乗り越えたい。自業自得に自己犠牲。そんなものでうちのが別の山を選び、私の幸せを最優先してくれてしまうと、今度は私に罪悪感が残る。うちのは私と同じ山を選ぶと罪悪感が伴い、その罪悪感に負けそうだと言っていた。過去の過ちからして、うちのは精神的に弱い人間である。私も精神科通いをしていることだけでも判るように、メンタル面が強い人間ではない。それでもうちのよりは多少なりとも強いつもりだ。ならば強い方に弱い方が甘えてしまえば良いではないか。どの山を選んでもどちらかに罪悪感は伴うのである。私に甘えて欲しい。そして私の甘えることで罪悪感に負けそうだと言うならば、その負けそうな気持ちを乗り越える強さを身につけて欲しい。弱い人間同士である。共に強くなりたい。
私の親の最初の結婚は破綻した。昨日初めて聞かされたことであるが、私の親も結婚にあたり周囲の反対を押し切って強引に入籍したらしい。私の親は同じ轍を私に踏んで欲しくないと願っている。子を思う親の気持ちは有難い。けれど、私の親の結婚が破綻したからといって、私の結婚が同様に周囲の反対を押し切ったものだからといって、破綻するとは限らないのだ。可能性はゼロではない。それは破綻する可能性・破綻しない可能性、両方に言える筈だ。リスクの高い方に賭けて欲しくないという親の気持ちはよく解る。けれど、忘れてはいまいか。私は実の父親の血を引いた娘であり、根っからの博打打ちなのだ。リスクの高い博打に程、遣り甲斐を感じるのが博打打ちの性である。私が、血は水よりも濃い、などと思っていないことはさっき書いた。それでも私の血は両親の血を引いた物であり、母親の血よりも父親の血の方が濃いと感じることはある。精神的弱さ、博打好き。母親は強い人間である。その強さを親の意に沿わない形で引き出そうと、今の私はもがいている。前に、親が嫌いではないが苦手ではある、と書いた。今、その苦手意識が薄れてきてはいるものの全くなくなった訳ではない。けれど、それらを抜きにしても、私は親を尊敬している。彼女は強い。酸いも甘いも噛み締めつつ人生を歩み、やっと安堵して生活できる場所に辿り着いた。今の父親は私の親も私も大切にしてくれている。嬉しいことである。親のことは父親に安心して任せておけると思っている。なので私は、崖の多い山を選ぶことができたのだ。うちのが同じ山を選んでくれなければ、私はその山を登ることはできないが、それでも自分の中では選べた。私が選んでいる山を登り始めたら、実家への出入りはできなくなる。親を始めとした身内の葬式にも呼んでもらえなくなる。覚悟の上で選んだ。親には親で守るべきものがあるのだから仕方がない。それでも最終的にその山を登りきれなかったときは、戻ってきてもいいという道は残してくれた。私がこの山を選べたのも、親が最後に残してくれた道があるからである。うちのの犯した過ちは、繰り返されることが多いと一般的に認識されている。統計上の数字にも顕著に表されているが、少数ながら更正できた者もいるのも確かだ。山を登り始めたが最後、親の葬式には呼んでもらえなくなるらしい。それでも私は押しかけて、更正できる人間もいるということを、臨終時に教えてやりたいと思う。
コラム形式で日記を書いているので、これ迄敢えて説明していなかったことを、ここに明記する。私が書…
私の住んでいる都内某所はコンビニエンスストアが無駄に多い。徒歩10分圏内に12軒ある。そのうちの2軒はまだ新しい。2軒とも当初コンビニであった。それが潰れ、付近住民には定食屋などができることを望んでいた者が多かったと記憶している。けれども2軒とも、またコンビニとなった。近所に大きな交差点があり、うちのと私はその交差点を○○○○交差点と呼んでいる。○○○○はコンビニ名。交差点の4つ角の全てに同一チェーンのコンビニがあるのだ。コンビニは基本的に24時間営業であり、そこで生活必需品の多くは揃えられる、とても有難い店である。のが理想だと思う。それがこうも多いと有難味が薄れるどころか、淘汰されてしまえとすら思えてならない。淘汰される気配は今のところ見えない。某街道・某通り沿いのコンビニは残されてもいいが、交差点を制覇したコンビニは全てなくなっても構わない。なくなれ。そして魚屋・肉屋・総菜屋・大戸屋になって欲しい。近所にオヤジの口は悪いが、野菜の質はいい八百屋があるのでそれはいらない。肉屋も近くにあるけれど、もう少し品揃えのいい肉屋が欲しいのでそれは作ってもらいたい。
もう1年程経つだろうか。私は近所のスーパーで食料品を買うことが殆どなくなった。安いことで有名なチェーン展開しているスーパーなのに高い。ここだけ成城石井か? と問い質したくなる程に高い。そして成城石井と違って品質も悪い。品質が多少悪かろうが、一箇所で一通りの買い物を済ませられるのはとても便利なことであり、付近住民の多くはそこで買い物をしているようだ。そのスーパーの袋を提げて歩いている人の多さから判る。それでも私はそのスーパーの食料品売り場には行かない。やむを得ぬ事情で、別フロアの雑貨を買いに行くことはある。そのついででも絶対に食料品売り場には行かない。品質が悪いからではない。店員の態度の悪さ及びそのスーパーの経営方針が気に入らないからである。私にとって、最低最悪の企業の代名詞はあのスーパーの名前に他ならず、4つ角を制覇した某コンビニチェーン以上に潰れて欲しい存在である。
ここ迄私を怒らせたのには、当然きっかけがある。或る日、私はそのスーパーの鮮魚コーナーでパックされた魚を買おうとしていた。しかしそのパックには穴が開いており、別の同一品の入ったパックを探したものの見当たらなかったので、店員を呼び止めてパックのし直しを頼んだ。私が呼び止めた店員はバイトだったようで「ちょっと待ってください」と言い、社員を呼びに行った。客商売で「ちょっと」は如何なものか。「少々」と言え! 待つこと5分程、社員らしき店員がやってきてもう一度説明させられた。バイト、お前が伝えておけ! そして社員は「あー、じゃ、ちょっと待ってて」と言ってそのパックを持って裏へと行った。「あー」? 「じゃ」? 「ちょっと」? 「待ってて」? タメ口かよ! 更に待つこと10分弱、パックし直されたそれを持ったパートらしきオバハンが奥から現れた。他者も同じ立場なら同じことを考えると思う。ああ、オバハンはそのパックを私に渡す為に出てきたのだな、と。……違っていた。オバハンは奥から出てきて棚の前出しをしながらゆっくりと私の方に近付いてきた。異様に時間がかかったがやっと渡される、と思いきや! オバハンはそのパックを棚に置きやがった。ちょっと待て! そのパックは私が買うつもりでパックし直してもらった物だ。何故棚に戻す!? オバハンに「それ、私が(以下略」と説明したけれどオバハンは少し足りない人だったのが内容が飲み込めなかったらしく、「はあ……」と私にそのパックを手渡した。怒髪天を突くとはこのこと也。「もういいです!」と言い捨てて私はその場を去った。立ち去る私の背中にかけられたオバハンの言葉は陽気な口調で大声で「またどうぞー!!」。追い討ちか。
帰宅後、すぐに私はそのスーパーの本社に苦情メールを出した。品質管理がなっていないこと、従業員同士の意思疎通がなっていないこと、おまけに以前腹が立ったレジのバイトの話も書いた。明らかに高校生と判るそのバイトは、社会常識を持ち合わせていない者だった。高校生だから許されるというものではない。時給をもらって働くからには、仕事をこなすべきである。そして実際に接客させる前に社会常識を教えるのは、正社員や先輩バイトの仕事である筈だ。そのバイトは商品を袋に詰める際の常識を知らなかったらしく、崩れ易い物などを先に入れ、後からその上に重い物を入れようとした。要は考えなしにレジを通した物から順に詰めようとしていたのである。そして生肉鮮魚類を別の小さなビニールに入れようともしなかった。彼は考える手間も省け、小袋に入れる手間も省けていいかもしれない。けれど私はそれでは困るのだ。因って穏やかに注意をした。私が彼の立場なら「すみません」と謝り、もう一度袋に入れ直すだろう。彼は確かに私の注意を受けて申し訳程度の入れ直しはした。が、頂戴したお言葉は「すみません」ではなく「チッ」という舌打ちである。ふざけんな! 私は金を払う客がその店の従業員よりも偉いなどという、下劣な考えの持ち主ではない。客は商品とサービスを得る対価として金を払い、店は商品とサービスを提供する対価として金を貰うという対等な立場だと考えている。しかしこのスーパーは違うようである。苦情メールを出し返事を待った。待てど暮らせど返事は未だきてはいない。
私が接客を伴う仕事をしたのは、学生時代の数年間のコンビニバイトのみである。そこで接客の基礎を学んだ。その経験は今尚ネットオークションなどで役立っている。前にネットオークション絡みで苦情がきたと少し書いた。それらは全て円満に解決した。その出品時以外にもクレームをもらったことはある。クレームとはもらう物であり、つけられる物ではない。私は不満があったときに泣き寝入りせず、冷静なクレームをくれる落札者の方が有難く感じる。自分の至らなかった点が明白になり、今後に活かせるからだ。きちんと非を詫び、誠意を見せ、迅速に対処し、今後の対策も相手に示す。この対処法により、私がもらったクレームは拗れたことがない。売り手も買い手も人の子である。捻くれや開き直りなどをせず、相手に誠心誠意接すれば気持ちは伝わるものである。某企業お客様問い合わせセンターで以前勤めていた友人がこう言っていた「クレームをくれるお客は上顧客にすることができる」。尤もである。企業に、相手に、今後何も期待をしない者はそもそもクレームすら入れてこないのだ。クレームを入れてくる=今後より良い商品や接客サービスの提供をそこに求めるからこその行為である。そしてひとりからクレームがくれば、他の何も言ってこない者の中にも、同様の不満を持っている者の陰が見えてくる。悪質なクレーマーを除き、本来クレームとは皆にとっても良い結果に繋がる物なのである。
もう1年程経つだろうか。私は近所のスーパーで食料品を買うことが殆どなくなった。安いことで有名なチェーン展開しているスーパーなのに高い。ここだけ成城石井か? と問い質したくなる程に高い。そして成城石井と違って品質も悪い。品質が多少悪かろうが、一箇所で一通りの買い物を済ませられるのはとても便利なことであり、付近住民の多くはそこで買い物をしているようだ。そのスーパーの袋を提げて歩いている人の多さから判る。それでも私はそのスーパーの食料品売り場には行かない。やむを得ぬ事情で、別フロアの雑貨を買いに行くことはある。そのついででも絶対に食料品売り場には行かない。品質が悪いからではない。店員の態度の悪さ及びそのスーパーの経営方針が気に入らないからである。私にとって、最低最悪の企業の代名詞はあのスーパーの名前に他ならず、4つ角を制覇した某コンビニチェーン以上に潰れて欲しい存在である。
ここ迄私を怒らせたのには、当然きっかけがある。或る日、私はそのスーパーの鮮魚コーナーでパックされた魚を買おうとしていた。しかしそのパックには穴が開いており、別の同一品の入ったパックを探したものの見当たらなかったので、店員を呼び止めてパックのし直しを頼んだ。私が呼び止めた店員はバイトだったようで「ちょっと待ってください」と言い、社員を呼びに行った。客商売で「ちょっと」は如何なものか。「少々」と言え! 待つこと5分程、社員らしき店員がやってきてもう一度説明させられた。バイト、お前が伝えておけ! そして社員は「あー、じゃ、ちょっと待ってて」と言ってそのパックを持って裏へと行った。「あー」? 「じゃ」? 「ちょっと」? 「待ってて」? タメ口かよ! 更に待つこと10分弱、パックし直されたそれを持ったパートらしきオバハンが奥から現れた。他者も同じ立場なら同じことを考えると思う。ああ、オバハンはそのパックを私に渡す為に出てきたのだな、と。……違っていた。オバハンは奥から出てきて棚の前出しをしながらゆっくりと私の方に近付いてきた。異様に時間がかかったがやっと渡される、と思いきや! オバハンはそのパックを棚に置きやがった。ちょっと待て! そのパックは私が買うつもりでパックし直してもらった物だ。何故棚に戻す!? オバハンに「それ、私が(以下略」と説明したけれどオバハンは少し足りない人だったのが内容が飲み込めなかったらしく、「はあ……」と私にそのパックを手渡した。怒髪天を突くとはこのこと也。「もういいです!」と言い捨てて私はその場を去った。立ち去る私の背中にかけられたオバハンの言葉は陽気な口調で大声で「またどうぞー!!」。追い討ちか。
帰宅後、すぐに私はそのスーパーの本社に苦情メールを出した。品質管理がなっていないこと、従業員同士の意思疎通がなっていないこと、おまけに以前腹が立ったレジのバイトの話も書いた。明らかに高校生と判るそのバイトは、社会常識を持ち合わせていない者だった。高校生だから許されるというものではない。時給をもらって働くからには、仕事をこなすべきである。そして実際に接客させる前に社会常識を教えるのは、正社員や先輩バイトの仕事である筈だ。そのバイトは商品を袋に詰める際の常識を知らなかったらしく、崩れ易い物などを先に入れ、後からその上に重い物を入れようとした。要は考えなしにレジを通した物から順に詰めようとしていたのである。そして生肉鮮魚類を別の小さなビニールに入れようともしなかった。彼は考える手間も省け、小袋に入れる手間も省けていいかもしれない。けれど私はそれでは困るのだ。因って穏やかに注意をした。私が彼の立場なら「すみません」と謝り、もう一度袋に入れ直すだろう。彼は確かに私の注意を受けて申し訳程度の入れ直しはした。が、頂戴したお言葉は「すみません」ではなく「チッ」という舌打ちである。ふざけんな! 私は金を払う客がその店の従業員よりも偉いなどという、下劣な考えの持ち主ではない。客は商品とサービスを得る対価として金を払い、店は商品とサービスを提供する対価として金を貰うという対等な立場だと考えている。しかしこのスーパーは違うようである。苦情メールを出し返事を待った。待てど暮らせど返事は未だきてはいない。
私が接客を伴う仕事をしたのは、学生時代の数年間のコンビニバイトのみである。そこで接客の基礎を学んだ。その経験は今尚ネットオークションなどで役立っている。前にネットオークション絡みで苦情がきたと少し書いた。それらは全て円満に解決した。その出品時以外にもクレームをもらったことはある。クレームとはもらう物であり、つけられる物ではない。私は不満があったときに泣き寝入りせず、冷静なクレームをくれる落札者の方が有難く感じる。自分の至らなかった点が明白になり、今後に活かせるからだ。きちんと非を詫び、誠意を見せ、迅速に対処し、今後の対策も相手に示す。この対処法により、私がもらったクレームは拗れたことがない。売り手も買い手も人の子である。捻くれや開き直りなどをせず、相手に誠心誠意接すれば気持ちは伝わるものである。某企業お客様問い合わせセンターで以前勤めていた友人がこう言っていた「クレームをくれるお客は上顧客にすることができる」。尤もである。企業に、相手に、今後何も期待をしない者はそもそもクレームすら入れてこないのだ。クレームを入れてくる=今後より良い商品や接客サービスの提供をそこに求めるからこその行為である。そしてひとりからクレームがくれば、他の何も言ってこない者の中にも、同様の不満を持っている者の陰が見えてくる。悪質なクレーマーを除き、本来クレームとは皆にとっても良い結果に繋がる物なのである。
現在、6日に日付が変わったばかり。
身辺に纏わる精神の動きがかなりの変化をし始め、疲れてきている。考えなければならないこと、継続が必要なこと、断ち切らなければならないことの山脈の狭間で身動きが取れなくなっている。こういうときは無理に動くと碌なことがない。そして下手の考え休むに似たり。休むに似た考えで脳をフル回転させて知恵熱を出すのは莫迦莫迦しいので休む。休むと言いつつ昨日は家事をこなし、今日は病院に行ってきた。体調が不良状態で不安定だった為にまた中二週。週一と一応は約束されているが薬の処方でかなり私の意見を通してもらっているので中二週でも特に困らない。飲み方も処方上の注意よりも心身の状態重視なので足りなくなるということもまずない。主治医も私の飲み方をある程度信用してくれている。1日の許容量を破ったのは希死念慮が最高潮に達した1度のみであり、それ以外は許容量の範囲で調整しているからだろう。血液検査の結果も異常なし。半年以上の服薬で異常値がないのはよくあることなのだろうか? 何かしらで異常値が出ることを覚悟していたので拍子抜けした。尤も異常値などないに越したことはなく、安心もしている。必要以上の薬を出したがらない主治医に感謝。そして今日はレスタスをやっと処方から外してもらえ、しかもパキ増量。3度目か4度目かの交渉だった。それ迄はずっと「効いている実感はなくても底の方で支えてくれている薬だから」と処方され続けていたのだ。効いている実感の伴わない薬などいらん。パキは効いている実感が伴っているので好きだ。寝逃げできないけれど抑うつ状態が酷くなったときに投薬するつもりでのパキ増量である。面倒なのでこんな説明はしなかったが。パキは個人によって、またその場そのときによって適量が変わる薬であるらしい。適量より多くても少なくても効かないようである。なので現状の服薬量を守りつつ念の為の増量だ。状況に合わせて上手く調整できればしめたものである。私の処方内調薬は今迄成功しているので、今回も大丈夫だろうと楽観視している。
冒頭の話に戻る。考えるという行為はしようと思ってするときと、しないでおこうと思ってもしてしまうときがある。今、私が考えなければならないことは脳の大部分を占めている為、後者になってしまう。こういう場合の対策は敢えて意図的に違う物事を考えることである。そしてタイトルに繋がる。私には10年くらい前から抱き続けている野望がある。大いなる野望過ぎて生きている間には叶わないくらいの野望だ。油田を掘り当てたいとか、その手の妄想とは少し違う。私の野望とは、多くの他者の書いた文章から一文ずつ抜き取って一篇の小説を編むことである。漱石から一文、ヘミングウェイから一文、荘子から一文……といった具合に様々な書物から一文ずつを抜き取って、ひとつのオリジナルの作品を作ってみたいのだ。美術でいうところのコラージュにあたるか。例え実現できたとしても著作権の問題も絡むだろうから発刊には至らないだろうから、一個人の読書という趣味の延長上の作品となるだろう。
初めにこの野望を抱いたのは、学生時代に手当たり次第に本を読み漁っていた頃である。例えば「私は食べた」「彼はそれを手にした」などの簡潔な文章は様々な書物に出てくる一文である。それらも欠かせない一構成物となり、一篇の小説なり論文なりになっていることに気が付いた。ならば引用という形ではなく、数多ある書物から一文ずつ拾ってつぎはぎして一篇の小説が編めるのではないか? と思ったのだ。物理的には絶対に可能な筈である。写真集などを除けば、基本的には小説でも論文でも解説文でも、文章があってこそ成り立っている書物なのだから。漫画でもそうだ。大多数の漫画では、噴出し内に書かれた台詞や空白部分に書かれた心理描写の文章表現が存在している。コラージュしてオリジナル作品の作成は物理的には可能。なのに未だ実現には至っておらず、生きている間には叶わないかもというのは余りにも大きな壁が立ち塞がっているからに他ならない。
大きな壁。それは読書量である。私は近現代文学に強いと言われる或る学校の国文科を卒業しており、人並み以上に読書はしてきたつもりである。作家別の偏りはあるものの、ジャンル的にはそこそこの幅を網羅していると自負している。それでもまだまだ足りない。私の野望を実現可能にする為には現状の数千倍・数万倍の書物を読まねばなるまい。インテリゲンチャンこと高橋源一郎もなかなかの読書家ではあるが全然足りない。論外に近い程足りない。真のインテリと自負している呉智英と、荒俣宏と山田五郎を足して100をかけたくらいの読書量が必要だろう。……無理だ。時間はあれどもそんな気力は今の私にはない。気力が戻ってきたら働きに出るべきであり、すると今度は時間がなくなる。余談だが呉智英と荒俣宏と山田五郎は私が尊敬する読書家であり、尚且つ思想家であり評論家であり文筆家である。私は物知りを見ると無条件に尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、その知識を持っている、というだけで尊敬に値すると思う。同様に私ができないことをできる人間も尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、それができるというだけで尊敬。他者からはこの尊敬は単純に見えるかもしれないけれど、自分にはない、物質ではないものを持っている人は凄いのだ。
その昔、私は小説家になりたいと本気で思っていた。諦めたのは小林恭二の電話男を読んだからである。今のように携帯電話が普及する前に書かれた作品であり、今から読んでも衝撃は薄いと思うので敢えてオススメはしない。彼の知名度は低いだろう。まずデビューが海燕という今は亡きマイナー文芸誌であり、数年前にやっとカブキの日で三島賞を取ったが映画化もドラマ化もされておらず、また三島賞そのものが一般的知名度の低い文学賞である。CXの深夜番組が充実していた頃に放映されていた、たほいや、という番組にたまに出演していた利き酒が特技の小説家とい……っても思い出せる人は殆どいないか。とにかく小林恭二は知名度は低いが、高クオリティの作家なのだ。卒論のテーマを決める際、結局は違う作家の某作品を選んだが最後迄、電話男と迷ったのを覚えている。あの頃、あの小説に出会えたことで私の人生は変わったと言っても過言ではない。
電話男で私が小説家になるのを諦めた……むしろ挫折したのは、私には0から1を作り出す能力が欠けていることを感じさせられたからだ。あの創造力は素晴らしい。そして小説家に最も必要なのは創造力だと私は思っている。文章力は二の次だ。私は文章はそれなりに書けるが創造力はない。なので今はもう引退しているが、文章にアドバイスを加えたり手直しを入れたりするエディター兼0から1を創造するのではなく1を10にも100にも膨らます作業をするライターになったのだ。創造力というものは努力して身に付けられるものなのだろうか。解らない。けれど小説を編んでみたいという気持ちは捨て切れない。因って生まれたのが、この野望である。野望を叶えるにも創造力を身に付けるにも文章力を伸ばすにも、どれにでも対応可能な努力は読書である。小説でも雑誌でも論文でも、はたまた漫画でも何でもいい。1日に1度は何らかの書物に触れることを忘れずに生活したい。手にした書物から今考えなければならないことのヒントを得られる可能性もある。活字不況真っ最中。けれど書物の持つ可能性、個人に与える影響は不況に負けずにいてもらいたいものである。
身辺に纏わる精神の動きがかなりの変化をし始め、疲れてきている。考えなければならないこと、継続が必要なこと、断ち切らなければならないことの山脈の狭間で身動きが取れなくなっている。こういうときは無理に動くと碌なことがない。そして下手の考え休むに似たり。休むに似た考えで脳をフル回転させて知恵熱を出すのは莫迦莫迦しいので休む。休むと言いつつ昨日は家事をこなし、今日は病院に行ってきた。体調が不良状態で不安定だった為にまた中二週。週一と一応は約束されているが薬の処方でかなり私の意見を通してもらっているので中二週でも特に困らない。飲み方も処方上の注意よりも心身の状態重視なので足りなくなるということもまずない。主治医も私の飲み方をある程度信用してくれている。1日の許容量を破ったのは希死念慮が最高潮に達した1度のみであり、それ以外は許容量の範囲で調整しているからだろう。血液検査の結果も異常なし。半年以上の服薬で異常値がないのはよくあることなのだろうか? 何かしらで異常値が出ることを覚悟していたので拍子抜けした。尤も異常値などないに越したことはなく、安心もしている。必要以上の薬を出したがらない主治医に感謝。そして今日はレスタスをやっと処方から外してもらえ、しかもパキ増量。3度目か4度目かの交渉だった。それ迄はずっと「効いている実感はなくても底の方で支えてくれている薬だから」と処方され続けていたのだ。効いている実感の伴わない薬などいらん。パキは効いている実感が伴っているので好きだ。寝逃げできないけれど抑うつ状態が酷くなったときに投薬するつもりでのパキ増量である。面倒なのでこんな説明はしなかったが。パキは個人によって、またその場そのときによって適量が変わる薬であるらしい。適量より多くても少なくても効かないようである。なので現状の服薬量を守りつつ念の為の増量だ。状況に合わせて上手く調整できればしめたものである。私の処方内調薬は今迄成功しているので、今回も大丈夫だろうと楽観視している。
冒頭の話に戻る。考えるという行為はしようと思ってするときと、しないでおこうと思ってもしてしまうときがある。今、私が考えなければならないことは脳の大部分を占めている為、後者になってしまう。こういう場合の対策は敢えて意図的に違う物事を考えることである。そしてタイトルに繋がる。私には10年くらい前から抱き続けている野望がある。大いなる野望過ぎて生きている間には叶わないくらいの野望だ。油田を掘り当てたいとか、その手の妄想とは少し違う。私の野望とは、多くの他者の書いた文章から一文ずつ抜き取って一篇の小説を編むことである。漱石から一文、ヘミングウェイから一文、荘子から一文……といった具合に様々な書物から一文ずつを抜き取って、ひとつのオリジナルの作品を作ってみたいのだ。美術でいうところのコラージュにあたるか。例え実現できたとしても著作権の問題も絡むだろうから発刊には至らないだろうから、一個人の読書という趣味の延長上の作品となるだろう。
初めにこの野望を抱いたのは、学生時代に手当たり次第に本を読み漁っていた頃である。例えば「私は食べた」「彼はそれを手にした」などの簡潔な文章は様々な書物に出てくる一文である。それらも欠かせない一構成物となり、一篇の小説なり論文なりになっていることに気が付いた。ならば引用という形ではなく、数多ある書物から一文ずつ拾ってつぎはぎして一篇の小説が編めるのではないか? と思ったのだ。物理的には絶対に可能な筈である。写真集などを除けば、基本的には小説でも論文でも解説文でも、文章があってこそ成り立っている書物なのだから。漫画でもそうだ。大多数の漫画では、噴出し内に書かれた台詞や空白部分に書かれた心理描写の文章表現が存在している。コラージュしてオリジナル作品の作成は物理的には可能。なのに未だ実現には至っておらず、生きている間には叶わないかもというのは余りにも大きな壁が立ち塞がっているからに他ならない。
大きな壁。それは読書量である。私は近現代文学に強いと言われる或る学校の国文科を卒業しており、人並み以上に読書はしてきたつもりである。作家別の偏りはあるものの、ジャンル的にはそこそこの幅を網羅していると自負している。それでもまだまだ足りない。私の野望を実現可能にする為には現状の数千倍・数万倍の書物を読まねばなるまい。インテリゲンチャンこと高橋源一郎もなかなかの読書家ではあるが全然足りない。論外に近い程足りない。真のインテリと自負している呉智英と、荒俣宏と山田五郎を足して100をかけたくらいの読書量が必要だろう。……無理だ。時間はあれどもそんな気力は今の私にはない。気力が戻ってきたら働きに出るべきであり、すると今度は時間がなくなる。余談だが呉智英と荒俣宏と山田五郎は私が尊敬する読書家であり、尚且つ思想家であり評論家であり文筆家である。私は物知りを見ると無条件に尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、その知識を持っている、というだけで尊敬に値すると思う。同様に私ができないことをできる人間も尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、それができるというだけで尊敬。他者からはこの尊敬は単純に見えるかもしれないけれど、自分にはない、物質ではないものを持っている人は凄いのだ。
その昔、私は小説家になりたいと本気で思っていた。諦めたのは小林恭二の電話男を読んだからである。今のように携帯電話が普及する前に書かれた作品であり、今から読んでも衝撃は薄いと思うので敢えてオススメはしない。彼の知名度は低いだろう。まずデビューが海燕という今は亡きマイナー文芸誌であり、数年前にやっとカブキの日で三島賞を取ったが映画化もドラマ化もされておらず、また三島賞そのものが一般的知名度の低い文学賞である。CXの深夜番組が充実していた頃に放映されていた、たほいや、という番組にたまに出演していた利き酒が特技の小説家とい……っても思い出せる人は殆どいないか。とにかく小林恭二は知名度は低いが、高クオリティの作家なのだ。卒論のテーマを決める際、結局は違う作家の某作品を選んだが最後迄、電話男と迷ったのを覚えている。あの頃、あの小説に出会えたことで私の人生は変わったと言っても過言ではない。
電話男で私が小説家になるのを諦めた……むしろ挫折したのは、私には0から1を作り出す能力が欠けていることを感じさせられたからだ。あの創造力は素晴らしい。そして小説家に最も必要なのは創造力だと私は思っている。文章力は二の次だ。私は文章はそれなりに書けるが創造力はない。なので今はもう引退しているが、文章にアドバイスを加えたり手直しを入れたりするエディター兼0から1を創造するのではなく1を10にも100にも膨らます作業をするライターになったのだ。創造力というものは努力して身に付けられるものなのだろうか。解らない。けれど小説を編んでみたいという気持ちは捨て切れない。因って生まれたのが、この野望である。野望を叶えるにも創造力を身に付けるにも文章力を伸ばすにも、どれにでも対応可能な努力は読書である。小説でも雑誌でも論文でも、はたまた漫画でも何でもいい。1日に1度は何らかの書物に触れることを忘れずに生活したい。手にした書物から今考えなければならないことのヒントを得られる可能性もある。活字不況真っ最中。けれど書物の持つ可能性、個人に与える影響は不況に負けずにいてもらいたいものである。
消耗品か限定品か
2003年11月4日 メイク・ファッション・ピアス 今日は朝から入浴し、垢太郎を作り、布団を干し、洗濯をし、買い物に行き……力尽きて昼寝した。気付いたら19:30。病院、終わってた。貯薬が減ってきているので明日こそ行かねば。垢太郎は嘘である。どれくらい入浴していないかをふたりの友人に話したところ、両者からその単語が出てきたのだ。垢太郎、そんなに有名なのか? せめて三年寝太郎くらいにして欲しいものである。垢太郎は女としていかんだろう! しかしそのいかん状態にしていたのは自分自身なのだから仕方なく、また垢太郎が作れるほどに垢が出なかったことにがっかりなどはしてはならない。断じてがっかりなどしていない。最近の私は本当に酷い状態だったのだ。抑うつ傾向が強まり且つ継続的微熱により常時疲労状態で入浴どころの体調ではなかったのである。入浴しなければ着替えない。敢えて書かないがこの不入浴期の私の恰好は酷い物であった。簡単に例えるなら、新宿西口にいそうな定住所を持たないオバハン。今日は入浴したので清潔だ。そしてまともな恰好をしている。入浴しなくてもネットオークションという便利な物のお陰で出かけずとも買い物ができるため、相変わらず衣類は増殖し続けている。
今日の服装。トップス。インポート物の焦げ茶に赤い三つ釦のヴィンテージ加工ストレッチジャケットのインに、45rpmの茶ベースに青と白のチェックが入ったネルシャツ、更にそのインにローズバッドの緑寄りカーキにピンクの花とドットラメがプリントされたカットソー。ボトムスはスイートキャメルのローライズブラックデニムの上に、スカラーのピンクの前スリット入りストレッチカーゴスカート。そしてレトロな紫レースの靴下にヴィンテージ物の茶色いヒール。帽子はローズバッドのリバーシブル帽のカーキ一色の面を表にして被り、鞄はいつもの一澤帆布の国防色ミニトート。おまけにシルバーのロングピアスまで付けていた。今朝迄の私とは、外の人が替わったかのような恰好である。しかもジャケット・靴下・鞄・ピアスを除けば、全て自分にとっては新品のものばかりであった。自分にとっては、というのは中古品が多いからである。今日、身につけていた物の中に曲者がひとつある。最初に書いたジャケットだ。このジャケットは大変に着易くシルエットも綺麗で、この秋とても重宝している。他者にも何度かお褒めいただいたことがある逸品である。けれど、このジャケットの入手方法は決して大声では言えないのだ。何故なら……ゴミ捨て場に捨ててあった物だから。
1ヶ月程前だっただろうか。朝、ゴミを捨てに行った。ゴミを置こうとして目に入ったのがビームスの紙袋である。ゴミ袋に入れられておらず、その紙袋の取っ手部分だけが縛られており、中が丸見えの状態だった。中身は全て布類であり、私がゴミを捨てる際にするような拾われ防止策の煙草の吸殻まぶしなどはされていなかった。好奇心とは暴走し易いものである。ゴミを捨てに行ったのが8時頃。通勤通学の為に駅へと足を進める一般の方々の白い目など気にもせずに無心に漁った。するとお宝がどっさりと入っていたのだ。上記ジャケットを始め、インポート物・ブランド物のコート・ジャケット・スカートなど……お持ち帰り決定である。厳密に言えば私のした行為は違法だが気にしない。目の前のゴミの山にお宝があれば拾いたくなるのが人情だろう。私は法に縛られた機械的な人間ではなく人情に厚い人間なのだ、と言い訳させて貰う。人情という言葉の使い方が間違っているのも気にしない。前にちらっと所有衣類を減らしたいが難航しているという話を書いたと思う。このゴミの捨て主はきっと衣類を無駄に溜め込むことのない人なのだろう。尊敬する。拾ってきた中には確かに破れてもう着られないものもあった。それでも大半は新品同然なのだ。流行遅れになった物という訳でもない。むしろ今着ないでどうする? というような物も多かったし、ヴィンテージ物などは流行に囚われることも余りない。素材・縫製・ブランドタグのどれを見ても箆棒に高くはなさそうではあるが、そこそこの値はした筈の物ばかりだった。そのゴミ袋の中にツモリやズッカの新品タグが切って入れられていたので、恐らくは新しい服を購入したので前から持っていた物を捨てたのであろう。収納の達人の技を実践できている人のようだ。反面、私は服を減らしたいという野望を抱きつつもゴミ捨て場から服を拾ってきてしまう人間である。この違いは何なのだろう。
私が衣類を捨てる場合の多くは、大きなシミを作ってしまったときや自分では補修できない破れを作ってしまったときである。まず釦を全部切り取る。他の服の釦がなくなったときの交換用にする為だ。それからどこかしらに鋏でざっくりと切込みを入れる。私のような不届き者に拾われて再利用されたら悔しいからである。下着類の処分は必ず生ゴミと一緒の袋に入れる。最後に灰皿に山と溜まった吸殻を全体にまぶしてから捨てに行く。究極の貧乏根性である。自分が要らなくて捨てた物、下着類は別としても服などは再利用されたって構わないではないか、と思わなくもない。しかしどこかに再利用される悔しさを感じてしまう。尤もシミや破れがあるのが大前提なのだから再利用のしようもないとは思うのだが、それでも拾った主がシミ抜き名人だったら、補修名人だったら、と思うとどうにも悔しい。私もシミ抜き名人や補修名人になりたいと切に思う。ここ迄書いて気が付いた。お宝を捨てた主と私との一番の違いは、服への思い入れではないだろうか? 私は自分の所有している衣類の殆どが値段に関係なく好きであり、とても愛着がある。捨てた主は服への思い入れが少ないのではないだろうか。世の中には、衣類とは着飾って傷んできたら捨てる消耗品、と考えられる人もいるらしい。服の代金はその着飾ったときの楽しい気分の代金である、という考え方である。ライヴ料金のような考え方だ。理解も納得もできる。けれど実践はできない。消耗品と考えるには価格が高いのが一番の理由であるが、以前も書いたように衣類は定番商品を除いて、そのシーズン限りの限定品なのである。一度手放したら最後、なかなか再会できることはない。そう思ってしまうともう簡単には手放せなくなってしまうのだ。
一般論。ふたりの子供を持つ親がいる。3人でも4人でもいいが計算を簡単にするためにふたりとする。愛情はひとりに50%、ひとりに50%ではなく、ふたりともに100%の愛情を注ぐものらしい。私の衣類はどんどんぐんぐんばんばんじゃんじゃん増殖している。それら全てに100%の愛着がある……とは言えないが、どれもに80%程度の愛着があるのだ。これがあるからこっちはいらないとは決してならず、これとこれは似ているけれどここが微妙に違っていて両方のその微妙な違いが好き、となる。私はいい親になれそうだ。と、綺麗なオチをつけたいところだが私は生涯子供を持つ気がないので、永遠に服屋や出品者のいいカモであり続けるのだろう。
今日の服装。トップス。インポート物の焦げ茶に赤い三つ釦のヴィンテージ加工ストレッチジャケットのインに、45rpmの茶ベースに青と白のチェックが入ったネルシャツ、更にそのインにローズバッドの緑寄りカーキにピンクの花とドットラメがプリントされたカットソー。ボトムスはスイートキャメルのローライズブラックデニムの上に、スカラーのピンクの前スリット入りストレッチカーゴスカート。そしてレトロな紫レースの靴下にヴィンテージ物の茶色いヒール。帽子はローズバッドのリバーシブル帽のカーキ一色の面を表にして被り、鞄はいつもの一澤帆布の国防色ミニトート。おまけにシルバーのロングピアスまで付けていた。今朝迄の私とは、外の人が替わったかのような恰好である。しかもジャケット・靴下・鞄・ピアスを除けば、全て自分にとっては新品のものばかりであった。自分にとっては、というのは中古品が多いからである。今日、身につけていた物の中に曲者がひとつある。最初に書いたジャケットだ。このジャケットは大変に着易くシルエットも綺麗で、この秋とても重宝している。他者にも何度かお褒めいただいたことがある逸品である。けれど、このジャケットの入手方法は決して大声では言えないのだ。何故なら……ゴミ捨て場に捨ててあった物だから。
1ヶ月程前だっただろうか。朝、ゴミを捨てに行った。ゴミを置こうとして目に入ったのがビームスの紙袋である。ゴミ袋に入れられておらず、その紙袋の取っ手部分だけが縛られており、中が丸見えの状態だった。中身は全て布類であり、私がゴミを捨てる際にするような拾われ防止策の煙草の吸殻まぶしなどはされていなかった。好奇心とは暴走し易いものである。ゴミを捨てに行ったのが8時頃。通勤通学の為に駅へと足を進める一般の方々の白い目など気にもせずに無心に漁った。するとお宝がどっさりと入っていたのだ。上記ジャケットを始め、インポート物・ブランド物のコート・ジャケット・スカートなど……お持ち帰り決定である。厳密に言えば私のした行為は違法だが気にしない。目の前のゴミの山にお宝があれば拾いたくなるのが人情だろう。私は法に縛られた機械的な人間ではなく人情に厚い人間なのだ、と言い訳させて貰う。人情という言葉の使い方が間違っているのも気にしない。前にちらっと所有衣類を減らしたいが難航しているという話を書いたと思う。このゴミの捨て主はきっと衣類を無駄に溜め込むことのない人なのだろう。尊敬する。拾ってきた中には確かに破れてもう着られないものもあった。それでも大半は新品同然なのだ。流行遅れになった物という訳でもない。むしろ今着ないでどうする? というような物も多かったし、ヴィンテージ物などは流行に囚われることも余りない。素材・縫製・ブランドタグのどれを見ても箆棒に高くはなさそうではあるが、そこそこの値はした筈の物ばかりだった。そのゴミ袋の中にツモリやズッカの新品タグが切って入れられていたので、恐らくは新しい服を購入したので前から持っていた物を捨てたのであろう。収納の達人の技を実践できている人のようだ。反面、私は服を減らしたいという野望を抱きつつもゴミ捨て場から服を拾ってきてしまう人間である。この違いは何なのだろう。
私が衣類を捨てる場合の多くは、大きなシミを作ってしまったときや自分では補修できない破れを作ってしまったときである。まず釦を全部切り取る。他の服の釦がなくなったときの交換用にする為だ。それからどこかしらに鋏でざっくりと切込みを入れる。私のような不届き者に拾われて再利用されたら悔しいからである。下着類の処分は必ず生ゴミと一緒の袋に入れる。最後に灰皿に山と溜まった吸殻を全体にまぶしてから捨てに行く。究極の貧乏根性である。自分が要らなくて捨てた物、下着類は別としても服などは再利用されたって構わないではないか、と思わなくもない。しかしどこかに再利用される悔しさを感じてしまう。尤もシミや破れがあるのが大前提なのだから再利用のしようもないとは思うのだが、それでも拾った主がシミ抜き名人だったら、補修名人だったら、と思うとどうにも悔しい。私もシミ抜き名人や補修名人になりたいと切に思う。ここ迄書いて気が付いた。お宝を捨てた主と私との一番の違いは、服への思い入れではないだろうか? 私は自分の所有している衣類の殆どが値段に関係なく好きであり、とても愛着がある。捨てた主は服への思い入れが少ないのではないだろうか。世の中には、衣類とは着飾って傷んできたら捨てる消耗品、と考えられる人もいるらしい。服の代金はその着飾ったときの楽しい気分の代金である、という考え方である。ライヴ料金のような考え方だ。理解も納得もできる。けれど実践はできない。消耗品と考えるには価格が高いのが一番の理由であるが、以前も書いたように衣類は定番商品を除いて、そのシーズン限りの限定品なのである。一度手放したら最後、なかなか再会できることはない。そう思ってしまうともう簡単には手放せなくなってしまうのだ。
一般論。ふたりの子供を持つ親がいる。3人でも4人でもいいが計算を簡単にするためにふたりとする。愛情はひとりに50%、ひとりに50%ではなく、ふたりともに100%の愛情を注ぐものらしい。私の衣類はどんどんぐんぐんばんばんじゃんじゃん増殖している。それら全てに100%の愛着がある……とは言えないが、どれもに80%程度の愛着があるのだ。これがあるからこっちはいらないとは決してならず、これとこれは似ているけれどここが微妙に違っていて両方のその微妙な違いが好き、となる。私はいい親になれそうだ。と、綺麗なオチをつけたいところだが私は生涯子供を持つ気がないので、永遠に服屋や出品者のいいカモであり続けるのだろう。
文明の利器が刺激するコンプレックス
2003年11月3日 雑感・所感 久々に憧れのかわいい友人からメールがきた。ので、電話した。私はメールを貰っても遠方の友人でなければ返信では済ませず、電話をかけることが多い。近況報告が短く済まないからである。また声で相手の調子が判るのも良い。特にこの友人は自分の都合の悪いときには電話には出ないので、相手の時間の都合なども余り考える必要がなく気軽にかけられる。以前聞いたことだが、彼女にとって電話とは自分の都合の良いときにかけ、自分の都合の良いときにのみ出るものらしい。この考え方は良いと思う。私は自分に都合が悪いときにでも電話に出てしまう。発作の真っ只中で呼吸さえも苦しいときにでも、電話が鳴れば出る。莫迦である。そんな状況にあるのに電話に出る必要はないのだ。なのに条件反射的に出てしまうのは悪い癖のひとつなのだろう。電話がかかってきているのに出ないという行為にとても罪悪感を感じてしまう。かけてきてくれた相手に申し訳なさを感じてしまうのだ。不必要である。電話とは一方的に用件のある人間が相手にかけるものであり、強制されるものではない筈なのに。私の電話への考え方は親からの刷り込みが強いと思われる。
私の親は彼女の考え方を否定する。最近勤務し始めた中の人の考えは解らないが、前の中の人は否定していた。理由は、緊急時の電話かもしれないのに、ということらしい。例え出なくとも、緊急時ならば留守電が残されるであろう。それを聞いてかけ直せばいいのである。私が実家に電話をするときに、留守電テープが回ることがよくある。大概に於いては大した用事ではないので何も吹き込まずに切る。暫くして親から電話がかかってくる。そして怒られる。なんで何も吹き込まないの! と。大した用事ではないから吹き込まないだけなのだが、親は大層気になってしまうらしい。そしてまた何も吹き込んでいないにも拘らず、私のところに電話してくるのが凄い。私か親戚の一部しか実家に電話する者はいないので、まずは私だと思うようなのだ。かかってきて訊かれれば、さっきかけたのは私だ、と答える。すると、何故何も吹き込まないのか! と怒られる。吹き込むも吹き込まないもかけた者の自由だと思うのだが、我が実家に於いては留守電には必ず吹き込むというルールがあるらしい。知らん。そんなルールを強要されても困る。が、毎度怒られるのも嫌なのでそれからは、またかける、とだけ吹き込むようにしている。
留守電は嫌いなのだ。他者から私の電話に残される留守電は構わない。自分が他者の留守電に声を残すのがとても苦手なのである。私は子供の頃から自分の声が嫌いでならないのだ。貧乳に次ぐ第二のコンプレックスである。私の声は区別するならばソプラノだ。ソプラノと書けば聞こえがいいが、単に高いのだ。そしてこれは直したいところだが、どちらかといえば早口である。高い声の早口は聞き取りづらい。よって留守電に吹き込むときは意識的にのんびりした口調に変える。一度その残された声を自分で聞いたことがある。私の脳内ではその口調は、のんびり且つおっとりであった……筈なのに単に間延びしていた。間延びというか、間抜けというか、とにかく印象のいい言葉では括りようのない口調であった。即座に消した。私の口調に訛りはない。しかしイントネーションが独特であるらしい。数人の他者から指摘されたことがある。気になるが、指摘してきた他者に訊いても具体的には教えてもらえなかった。聞き流せる程度ではあり、敢えて訊かれても答えられない物らしい。それでも気になる。直したいと思っても自覚は全くないので、どこを直せばいいのか皆目見当が付かない。他者と会話を交わすのは好きだ。私はよく喋る。それは全て、その場だけの会話、であるという前提に則ってのことである。残るのがとにかく嫌なのだ。
他者、特に男性からは声や口調を褒められることがよくあった。高くて可愛い声、おっとりした口調と評された。むず痒かった。自分の持っている印象と余りに違う褒め言葉をかけられたとき、他者はどう思うのだろう。素直に喜んだりするのだろうか? 私はダメである。相手の持ってくれている印象を、自分の持っている印象を基準に全力で否定してしまう。ここで否定できないとお前は死ぬのか? と言われるくらいの全力だ。元来褒められるのが苦手である。自己否定を固まりにしてそこにサントリーのウーロン茶を60〜70%加えてできているのが私なのだ。自覚できている長所やいい点が全くない訳ではない。それらを褒められれば素直に有難うと言える。しかし思ってもいない箇所・欠点だと思っている箇所は褒められたくない。対応に困るからだ。褒められて、さらっとお礼を言ってかわせる人が世の中にはいる。とても羨ましく思うし、そのかわす技を盗みたく思うのだが、なかなか上手くいかない。ああいう人はどこでその技を取得しているのだろう。道場でもあるのだろうか。褒められてさらっとかわせる人間は得てして他者に好印象を与え、卑下したり否定したりする者は可愛げがないと思われ易い。損である。損は嫌いだ。どうにか上手くかわせるようになりたい。女性誌を読んでいると、よくモノクロページでこの手の小特集があったりする。当然、年甲斐もなく熱心に熟読する。……私にはできない。小恥ずかしくて溜まらない。いたたまれない気持ちに襲われる。照れ屋という便利な言葉もあるが、全力で否定してかかるのはどう考えても可愛くない。ときには褒めた相手に、もしかして悪いことを言ったのか? と思わせてしまったりする。最悪である。
先日、顔が小さい、と他者に言われた。生まれてこの方、3回程度しか言われていない言葉であり、大多数の友人・知人は私のことを大顔面と判ってくれているので、私も自分の顔の大きさをネタにすることもある。そのとき言ってくれた相手は明らかに私よりも顔が小さかった。嫌味か? とも思ったがどうやら本気であったらしい。気が触れている訳でもなさそうであり対処に困った。だから全力で否定。思っていないどころか欠点だと自覚している箇所をそのように言われたのだから、否定するにも焦る気持ちが先走って見当外れなことを言ってしまった。「いや! 座高高いし!」「でも! 普段モンペだし!」。全く以って相手の褒め言葉と噛み合っていなかったことに気付いたのは帰宅後である。この否定により相手は私を面白い人だと更に良い解釈をしてくれたらしい。彼女は私を大誤解している。彼女が思っている私は、私ではない人間のようだ。そのまま勘違いしていて欲しい。化けの皮が剥がれるのが大変に恐ろしい。前にいい誤解をされたいと書いたが、それもよくはなさそうだ。素の自分を受け入れてくれる長年の友人たちに多謝。
私の親は彼女の考え方を否定する。最近勤務し始めた中の人の考えは解らないが、前の中の人は否定していた。理由は、緊急時の電話かもしれないのに、ということらしい。例え出なくとも、緊急時ならば留守電が残されるであろう。それを聞いてかけ直せばいいのである。私が実家に電話をするときに、留守電テープが回ることがよくある。大概に於いては大した用事ではないので何も吹き込まずに切る。暫くして親から電話がかかってくる。そして怒られる。なんで何も吹き込まないの! と。大した用事ではないから吹き込まないだけなのだが、親は大層気になってしまうらしい。そしてまた何も吹き込んでいないにも拘らず、私のところに電話してくるのが凄い。私か親戚の一部しか実家に電話する者はいないので、まずは私だと思うようなのだ。かかってきて訊かれれば、さっきかけたのは私だ、と答える。すると、何故何も吹き込まないのか! と怒られる。吹き込むも吹き込まないもかけた者の自由だと思うのだが、我が実家に於いては留守電には必ず吹き込むというルールがあるらしい。知らん。そんなルールを強要されても困る。が、毎度怒られるのも嫌なのでそれからは、またかける、とだけ吹き込むようにしている。
留守電は嫌いなのだ。他者から私の電話に残される留守電は構わない。自分が他者の留守電に声を残すのがとても苦手なのである。私は子供の頃から自分の声が嫌いでならないのだ。貧乳に次ぐ第二のコンプレックスである。私の声は区別するならばソプラノだ。ソプラノと書けば聞こえがいいが、単に高いのだ。そしてこれは直したいところだが、どちらかといえば早口である。高い声の早口は聞き取りづらい。よって留守電に吹き込むときは意識的にのんびりした口調に変える。一度その残された声を自分で聞いたことがある。私の脳内ではその口調は、のんびり且つおっとりであった……筈なのに単に間延びしていた。間延びというか、間抜けというか、とにかく印象のいい言葉では括りようのない口調であった。即座に消した。私の口調に訛りはない。しかしイントネーションが独特であるらしい。数人の他者から指摘されたことがある。気になるが、指摘してきた他者に訊いても具体的には教えてもらえなかった。聞き流せる程度ではあり、敢えて訊かれても答えられない物らしい。それでも気になる。直したいと思っても自覚は全くないので、どこを直せばいいのか皆目見当が付かない。他者と会話を交わすのは好きだ。私はよく喋る。それは全て、その場だけの会話、であるという前提に則ってのことである。残るのがとにかく嫌なのだ。
他者、特に男性からは声や口調を褒められることがよくあった。高くて可愛い声、おっとりした口調と評された。むず痒かった。自分の持っている印象と余りに違う褒め言葉をかけられたとき、他者はどう思うのだろう。素直に喜んだりするのだろうか? 私はダメである。相手の持ってくれている印象を、自分の持っている印象を基準に全力で否定してしまう。ここで否定できないとお前は死ぬのか? と言われるくらいの全力だ。元来褒められるのが苦手である。自己否定を固まりにしてそこにサントリーのウーロン茶を60〜70%加えてできているのが私なのだ。自覚できている長所やいい点が全くない訳ではない。それらを褒められれば素直に有難うと言える。しかし思ってもいない箇所・欠点だと思っている箇所は褒められたくない。対応に困るからだ。褒められて、さらっとお礼を言ってかわせる人が世の中にはいる。とても羨ましく思うし、そのかわす技を盗みたく思うのだが、なかなか上手くいかない。ああいう人はどこでその技を取得しているのだろう。道場でもあるのだろうか。褒められてさらっとかわせる人間は得てして他者に好印象を与え、卑下したり否定したりする者は可愛げがないと思われ易い。損である。損は嫌いだ。どうにか上手くかわせるようになりたい。女性誌を読んでいると、よくモノクロページでこの手の小特集があったりする。当然、年甲斐もなく熱心に熟読する。……私にはできない。小恥ずかしくて溜まらない。いたたまれない気持ちに襲われる。照れ屋という便利な言葉もあるが、全力で否定してかかるのはどう考えても可愛くない。ときには褒めた相手に、もしかして悪いことを言ったのか? と思わせてしまったりする。最悪である。
先日、顔が小さい、と他者に言われた。生まれてこの方、3回程度しか言われていない言葉であり、大多数の友人・知人は私のことを大顔面と判ってくれているので、私も自分の顔の大きさをネタにすることもある。そのとき言ってくれた相手は明らかに私よりも顔が小さかった。嫌味か? とも思ったがどうやら本気であったらしい。気が触れている訳でもなさそうであり対処に困った。だから全力で否定。思っていないどころか欠点だと自覚している箇所をそのように言われたのだから、否定するにも焦る気持ちが先走って見当外れなことを言ってしまった。「いや! 座高高いし!」「でも! 普段モンペだし!」。全く以って相手の褒め言葉と噛み合っていなかったことに気付いたのは帰宅後である。この否定により相手は私を面白い人だと更に良い解釈をしてくれたらしい。彼女は私を大誤解している。彼女が思っている私は、私ではない人間のようだ。そのまま勘違いしていて欲しい。化けの皮が剥がれるのが大変に恐ろしい。前にいい誤解をされたいと書いたが、それもよくはなさそうだ。素の自分を受け入れてくれる長年の友人たちに多謝。
努力と我慢
2003年11月2日 家族・メンヘル・健康など 1日付の続きである。親の言葉が身に沁みたと書いた。それでも相変わらず上滑りしていた言葉もあった。これは親に限らず、誰に言われても上滑りする言葉だが「自分を大切に」「自分を粗末にしてはいけない」。これらの意味がよく解らないのだ。この言葉を構成している単語自体は当然判る。しかし具体的なところが全くと言っていい程に解らない。子供の頃から親にも親戚にも友人にも言われ続けている言葉である。昔は今よりも莫迦だったので漠然と解ったつもりになっていたけれど、よくよく考えてみるとこれは抽象的概念であり、深く訊くと人それぞれで具体例が変わる。他者からは私の生き方を含めて、自分自身の扱い方がとても粗末に見えるらしい。私にその実感はない。例えば水商売や風俗で働くこと、誰にでも股を開いていたこと、裏を抱えたうちのと同棲していること。これらは多くの他者からは非難に値することのようである。しかし私はそのときそのときで自分のしたいこと、自分に必要なことをしてきた及びしているだけであり、後悔もなければ自分を粗末にしている実感も伴っていない。
私の親にとって、我が子可愛さを抜きにして、うちのの株価はさほど高くなかったことが判明した。裏を打ち明ける前である。少しばかり救われた気がした。さっきも書いたようにうちのの寝起きは凶悪である。親はその実態を見てはいないものの私の話した範囲では知っている。親曰く「食と睡眠は一生付いて回る」。尤もである。これはうちのの寝起きの悪態が直らなければ、私は一生恐怖を感じつつ生きなければならないということに他ならない。うちで喧嘩が起きる多くは、うちのの寝起きの悪態に起因している。本人にも言ったことがある。寝起きの態度が直らなければ私でなくどんな女でも逃げ出したくなる、畳の上で死ねないよ、と。それくらい酷いのだ。友人たちはそれでも「寝起きだけ我慢すればいいじゃない。それ以外のところでは特に不満はないんでしょ?」と言う。不満は山程ある。「誰の金で生活できていると思っているんだ」が口癖となっているDVにも括られる金銭への考え方、「ごめんなさい」などの謝罪の言葉が言えない意固地さ、うちのの裏を知りつつも私に任せっぱなしなのに私への気配りが殆どなく長男であるうちのを甘やかしているとしか見えないうちのの親兄弟。他者によっては瑣末なことに見えるかもしれない。けれどこれら不満のどれもがその場だけではなく、一生付きまといそうなところにとても不安は感じている。
これ迄にも何度も言われてきたことであるが「一度同棲を解消して離れて付き合ってみたら?」という台詞がまた親から出てきた。これに対して親と生活を共にすることへの恐怖心が強く、ずっと頑なに拒否し続けていた。そして親のこの言葉は子離れできていない親自身が一人娘である私を手元に取り戻したいが為の言葉だと思っていた。一昨日、初めて真意を知った。うちのへの愚痴を私から何度も聞き、離れて冷静に考えてみると何か違うことが見えてくるのではないか、という意図だったらしい。成る程。確かにそうかもしれない。そして今、私の中で親への恐怖心は薄れている。親の中に前の人が戻ってこなければ、帰省が予定より長くなる可能性もある。ところがその後に続いた親の台詞が、私の中で大きな問題となっている。「自分を大切にして、そろそろちゃんと将来を見つめなくちゃね」。大切、よく解らない。将来、要らない。東風荘があって本当に良かった。なければまたパチ屋へ行っていたかもしれない。夢と現の境界が曖昧な人間にとって、現の将来などと言われても全く以ってピンとこないので本当に困っている。困ったときは寝逃げか何かへの依存で回避してきたが、今度はそうもしていられないようだ。
私のPD及び諸事情の症状は一進一退、一進二退を繰り返している。これ迄に私の諸事情は幼少期からの親子関係の縺れが原因だと書いたと思う。親子関係は今の人が親の中に留まっていてくれれば改善できそうな気配が感じ取れてきた。原因が解消されれば一気に治るか。残念ながら答えは否であろう。一進一退、一進二退はうちのの言動に左右されている面が強い。となると、原因が解消されても環境改善がなければ引きずってしまう可能性は高い。うちのの言動は直るのだろうか? と書きたいところだが、どうも、治るのだろうか? と書かなければならない程に深刻である。寝起きの悪態は頭ではいけないと判っているらしい。しかし気持ちが先走って言葉や行動に出てしまうようなのだ。カウンセリングの必要性を感じるが、うちのはそれを拒否している。拒否しなかったところで仕事に追われている現在、カウンセリングに割く時間はない……。うちのは私の主治医と一度会っている。うちのは主治医の言っていることが自分の質問への答えになっておらず、高みからはぐらかすようなことしか言っていなかったと怒っていた。主治医のはぐらかしはうちのへだけではなく私に対してもそうなので違和感は感じなかったのだが、うちのはかなりの苛立ちを感じたようだ。主治医はうちのを、彼も心の中にいろいろと闇を持っていそうだね、と言っていた。今も言っている。
私の親とうちのの共通点のひとつに、答えを急ぐ、というのがある。スラッシュ禅問答並みのスピードで自分の質問や疑問への回答が得られなければ気が済まず、苛立ちをすぐに表に出すのだ。バラード禅問答では遅過ぎるらしい。親はその点に於いては解寛してきているように一昨日の会話で感じた。うちのにも解寛する日はくるのだろうか……。解寛するには自覚が必要だと思う。けれど指摘しても全力で否定する。いろいろひっくるめて悪しき亭主関白の見本のようなうちのだ。これだけうちのを悪く書いていながら私が長く一緒にいるのは、眼鏡だから……だけではない。そうそうお目にかかれない程の環境への柔軟性に富んでいる人間なのだ。この長所により、うちのは比類なきダメ人間である私と一緒に暮らせている。環境への柔軟性は私もそれなりに自信がある。因ってその箱の中身も知っている。慣れと我慢が詰められた箱なのだ。
親が言った「努力と我慢は違う」。とても重要な言葉だと思う。これは私だけでなく他者にとっても混同しがちなものではないだろうか。私は現状を変えられるように狭いながらもできる範囲で努力をしてきた。この努力には我慢も含まれていた。一度分けて考えなければいけないようだ。お互いに分けて考えることにより、うちのと私の将来への展望が大きく変わりそうな気が……して怖いので逃避している。将来なんて要らないし。夢は叶えたいけれど将来は要らないというのは矛盾している。でも今の私の正直な気持ちである。矛盾は嫌いだ。因って自分の言動や感情が矛盾しているのはとても気分が悪い。答えを出したい。となると将来を考えるということから逃げていてはいけないのだろうが、どこから考えていいものか手がかりも見つからない。手がかりを闇雲に求めるのではなく、今の一進一退悪循環ループから抜け出せるのが理想。ひとりでできる作業ではないのがもどかしくてならなかった私に射してきた光が、我慢と粗末の関連性の見い出しというのは非常に悔しいものである。
ここ迄を読むと私の親はとても真っ当な人間のようだ。癪なので、一昨日から真っ当になったが、それ迄は真っ当ではないどころかトンデモと他者からも評される人間であったことは書かせてもらいたい。トンデモな部分もまだ残っている。「結局は薬局」という駄洒落を何かの格言と勘違いしていたり、「繰返しとは繰り返すから繰り返しなのだ」などの名言だか迷言だか判別に困る言葉を吐いたり。「努力と我慢は違う」という名言の後に聞いた為、これらの意味不明な言葉にもその場では妙に納得してしまった私は莫迦である。
私の親にとって、我が子可愛さを抜きにして、うちのの株価はさほど高くなかったことが判明した。裏を打ち明ける前である。少しばかり救われた気がした。さっきも書いたようにうちのの寝起きは凶悪である。親はその実態を見てはいないものの私の話した範囲では知っている。親曰く「食と睡眠は一生付いて回る」。尤もである。これはうちのの寝起きの悪態が直らなければ、私は一生恐怖を感じつつ生きなければならないということに他ならない。うちで喧嘩が起きる多くは、うちのの寝起きの悪態に起因している。本人にも言ったことがある。寝起きの態度が直らなければ私でなくどんな女でも逃げ出したくなる、畳の上で死ねないよ、と。それくらい酷いのだ。友人たちはそれでも「寝起きだけ我慢すればいいじゃない。それ以外のところでは特に不満はないんでしょ?」と言う。不満は山程ある。「誰の金で生活できていると思っているんだ」が口癖となっているDVにも括られる金銭への考え方、「ごめんなさい」などの謝罪の言葉が言えない意固地さ、うちのの裏を知りつつも私に任せっぱなしなのに私への気配りが殆どなく長男であるうちのを甘やかしているとしか見えないうちのの親兄弟。他者によっては瑣末なことに見えるかもしれない。けれどこれら不満のどれもがその場だけではなく、一生付きまといそうなところにとても不安は感じている。
これ迄にも何度も言われてきたことであるが「一度同棲を解消して離れて付き合ってみたら?」という台詞がまた親から出てきた。これに対して親と生活を共にすることへの恐怖心が強く、ずっと頑なに拒否し続けていた。そして親のこの言葉は子離れできていない親自身が一人娘である私を手元に取り戻したいが為の言葉だと思っていた。一昨日、初めて真意を知った。うちのへの愚痴を私から何度も聞き、離れて冷静に考えてみると何か違うことが見えてくるのではないか、という意図だったらしい。成る程。確かにそうかもしれない。そして今、私の中で親への恐怖心は薄れている。親の中に前の人が戻ってこなければ、帰省が予定より長くなる可能性もある。ところがその後に続いた親の台詞が、私の中で大きな問題となっている。「自分を大切にして、そろそろちゃんと将来を見つめなくちゃね」。大切、よく解らない。将来、要らない。東風荘があって本当に良かった。なければまたパチ屋へ行っていたかもしれない。夢と現の境界が曖昧な人間にとって、現の将来などと言われても全く以ってピンとこないので本当に困っている。困ったときは寝逃げか何かへの依存で回避してきたが、今度はそうもしていられないようだ。
私のPD及び諸事情の症状は一進一退、一進二退を繰り返している。これ迄に私の諸事情は幼少期からの親子関係の縺れが原因だと書いたと思う。親子関係は今の人が親の中に留まっていてくれれば改善できそうな気配が感じ取れてきた。原因が解消されれば一気に治るか。残念ながら答えは否であろう。一進一退、一進二退はうちのの言動に左右されている面が強い。となると、原因が解消されても環境改善がなければ引きずってしまう可能性は高い。うちのの言動は直るのだろうか? と書きたいところだが、どうも、治るのだろうか? と書かなければならない程に深刻である。寝起きの悪態は頭ではいけないと判っているらしい。しかし気持ちが先走って言葉や行動に出てしまうようなのだ。カウンセリングの必要性を感じるが、うちのはそれを拒否している。拒否しなかったところで仕事に追われている現在、カウンセリングに割く時間はない……。うちのは私の主治医と一度会っている。うちのは主治医の言っていることが自分の質問への答えになっておらず、高みからはぐらかすようなことしか言っていなかったと怒っていた。主治医のはぐらかしはうちのへだけではなく私に対してもそうなので違和感は感じなかったのだが、うちのはかなりの苛立ちを感じたようだ。主治医はうちのを、彼も心の中にいろいろと闇を持っていそうだね、と言っていた。今も言っている。
私の親とうちのの共通点のひとつに、答えを急ぐ、というのがある。スラッシュ禅問答並みのスピードで自分の質問や疑問への回答が得られなければ気が済まず、苛立ちをすぐに表に出すのだ。バラード禅問答では遅過ぎるらしい。親はその点に於いては解寛してきているように一昨日の会話で感じた。うちのにも解寛する日はくるのだろうか……。解寛するには自覚が必要だと思う。けれど指摘しても全力で否定する。いろいろひっくるめて悪しき亭主関白の見本のようなうちのだ。これだけうちのを悪く書いていながら私が長く一緒にいるのは、眼鏡だから……だけではない。そうそうお目にかかれない程の環境への柔軟性に富んでいる人間なのだ。この長所により、うちのは比類なきダメ人間である私と一緒に暮らせている。環境への柔軟性は私もそれなりに自信がある。因ってその箱の中身も知っている。慣れと我慢が詰められた箱なのだ。
親が言った「努力と我慢は違う」。とても重要な言葉だと思う。これは私だけでなく他者にとっても混同しがちなものではないだろうか。私は現状を変えられるように狭いながらもできる範囲で努力をしてきた。この努力には我慢も含まれていた。一度分けて考えなければいけないようだ。お互いに分けて考えることにより、うちのと私の将来への展望が大きく変わりそうな気が……して怖いので逃避している。将来なんて要らないし。夢は叶えたいけれど将来は要らないというのは矛盾している。でも今の私の正直な気持ちである。矛盾は嫌いだ。因って自分の言動や感情が矛盾しているのはとても気分が悪い。答えを出したい。となると将来を考えるということから逃げていてはいけないのだろうが、どこから考えていいものか手がかりも見つからない。手がかりを闇雲に求めるのではなく、今の一進一退悪循環ループから抜け出せるのが理想。ひとりでできる作業ではないのがもどかしくてならなかった私に射してきた光が、我慢と粗末の関連性の見い出しというのは非常に悔しいものである。
ここ迄を読むと私の親はとても真っ当な人間のようだ。癪なので、一昨日から真っ当になったが、それ迄は真っ当ではないどころかトンデモと他者からも評される人間であったことは書かせてもらいたい。トンデモな部分もまだ残っている。「結局は薬局」という駄洒落を何かの格言と勘違いしていたり、「繰返しとは繰り返すから繰り返しなのだ」などの名言だか迷言だか判別に困る言葉を吐いたり。「努力と我慢は違う」という名言の後に聞いた為、これらの意味不明な言葉にもその場では妙に納得してしまった私は莫迦である。
中の人が替わった模様
2003年11月1日 家族・メンヘル・健康など 現在2日早朝。
長く微熱が続いている。自律神経の狂いが原因のようだ。ここ数ヶ月の私の平熱は36.8℃である。異常だ。しかもここ数日は風邪をひいたらしく37.1〜37.2℃で安定している。心身共に健康だった頃の平熱は36.1℃だった。常に疲労状態である。予定では今頃はライヴ疲れで熟睡している筈だった。なのに今こうして日記をつけているということは……寝過ごした。ちょっとだけという常套句の元に昼寝をしてしまい起きたら20:00近く。開場は18:00、開演は18:30。すぐさま出かければ恐らくトリを飾ったであろう愛しの君を観ることはできたかもしれない。しかし出かけられなかった。今もまだ私はばっちいのだ。のそのそと起きて夕食を作るも鍋底全面を焦がす始末。碌でもない日であった。足の小指をどこかの角にぶつけて怒りの持って行き場が見当たらないような、そんな鬱々とした気分が今も続いている。一昨日からいろいろな歯車が狂い始めている。そして私は今、真剣に自分の未来を考えなければならないときに差しかかっているらしい。物事を考えるのは好きである。けれど患ってからの私は自分の将来についてなど、自身の諸々について考えるのは非常に苦手だ。何故なら将来も未来も要らないからである。なのに考えろと言われ、東風荘などに逃避している。困った状況だ。
私は親への愚痴をうちのに溢し、うちのへの愚痴を親に溢すことで精神の安定を保っている。うちのの寝起きは凶悪である。一昨日の朝、うちのに暴言を吐かれ、挙句布団越しにだが数度に渡り蹴飛ばされた。そのとき私は寝た振りをしていた。うちのの寝起きには立ち会いたくないのだ。嫌味や小言や因縁や、とにかく文句を言われるからだ。本人は半無意識らしいがこちらは意識があるので腹も立つ。何度も蹴られ、寝た振りをやめて起きた。延々と嫌味や文句を言いつつうちのは出社した。一緒に暮らし始めてからうちのの寝起きは変わっていない。普段はいろいろ不愉快なことを言われても、ストレスが溜まっているんだな、今の私にできることはそのストレスを受け止めるくらいだから仕方ないな、と我慢してきていた。因って言葉の暴力にはある程度慣れているつもりであるが、肉体的暴力となると話が変わってくる。うちのが出社してからすぐにYahoo!にて「言葉の暴力」「DV」で余り期待せずに検索をかけた。沢山のページが引っかかった。肉体的な暴力だけでなく言葉の暴力もDVだったのか! とても損をしていた気がした。私はDV=肉体的暴力だとしか思っていなかったのだ。うちのに解り易いページのURLと嫌味を書いたメールを送りつけた。そして親へと電話して愚痴を溢した。
私は自分の母親を地軸と例えることが多い。そのココロは自分基準で世界が回っている。そういう人なのだ。と思っていたが、一昨日の親は違っていた。とても驚いた。他者である私の話がきちんと最後迄聞け、そしてその話を理解できる人になっていたのだ! 当たり前のことのようだが、今迄が今迄だったので驚愕した。まるで親の中の人が替わってしまったかのようだった。元に戻らず、今の中の人にずっと親の中の人を勤めていただきたいと切に願う。まともな会話を成立させられるようになった親から、いろいろとためになる言葉が出てきた。まずは「言葉の暴力から肉体的暴力に発展する例は多い」。ふむ。私はこれ迄は分けて考えていたのだが、実際に一昨日の朝のような目に遭うと実感を伴ってすんなりと理解ができた。それから「努力と我慢は違う」。凄い! 私の親からベタではない目から鱗が落ちるような格言らしき言葉が出てくるとは! 私が病気になってから親は「私も勉強しているけど」との前置きをつけて頓珍漢なことばかりを述べていた。なので勉強しているつもりになっているだけだと思っていた。違ったようだ。親の経験訓と反省と勉強の成果が一昨日の私にはとてもよく伝わった。子供の成長に驚く親の話はよく聞くが、親の成長に驚く子供も多いのだろうか? それとも私くらいのものなのだろうか? いや、そんなことはどちらでもいい。なんだか親との蟠りが薄れる未来を感じさせられた会話だったことが私には大切なのだ。今の母の中の人なら何かで怒っても、これ迄のように私の人格全否定はしなさそうである。なので少し甘えさせてもらった。遂にうちのの裏を親に話したのだ。2年半もの間、ずっと隠し続けていた重大事である。実家に連れ戻される恐怖から言えずにいたこと。親はきちんと冷静に聞いてくれ、うちのへの非難も私への同情もしなかった。第三者としての意見と私の親としての意見をバランスよく言葉にしてくれた。話し終え、電話口で泣いてしまった。親がきちんと話を聞いてくれたことが嬉しかった。隠し事をしている後ろめたさから開放された。泪を流して泣いたのは久しぶりである。精神の一部分が浄化されたように思えた。元々私は隠し事が苦手な性質だ。この2年半の隠蔽は自分で思っていた以上に重責だったらしい。
来週末、1年ぶりくらいで実家に帰省することを決めた。うちのと一緒ではないひとりでの帰省と考えると2年ぶりくらいか。父親の誕生祝を都内某所で一緒にごはんでも食べてしようか、との親からの申し出に自ら変更を加えたのだ。私は病気になってから長距離の移動が苦手となった為、会うときはいつも親に私の最寄り駅から二駅のところ迄出てきてもらっていた。それを申し訳なく思っていたのがひとつ。もうひとつは今の親なら怖くなさそうに思えたのだ。私は幼少時から親への恐怖心を常に抱いていた。怒らせると、または勝手に怒り出すと私の人格を全否定されるからだ。その物事だけを怒るということができない人だった。できるようになったように思えた。その安心感に基づいての帰省決定である。予定としては1泊2日か2泊3日。長期滞在中にまた親の中の人が戻ると怖いので。現在の居住地から実家へは1時間強の距離である。この帰省中に心身の変動が起きなければ、年内には祖母のいる田舎に母と行くつもりだ。祖母は7人いる孫の中でも私を最も可愛がってくれている。過去の数年間、子供の頃の祖母と境遇がとても似ていた故の自己投影もあるのだろう。前回母が田舎に帰ったとき、祖母は他の孫の名前ではなく、私の名前ばかりを口にしていたそうである。数年前に祖父が亡くなり、今年・来年という話でもないが祖母ももう長くはないだろう。おばあちゃんに会いたい。
長く微熱が続いている。自律神経の狂いが原因のようだ。ここ数ヶ月の私の平熱は36.8℃である。異常だ。しかもここ数日は風邪をひいたらしく37.1〜37.2℃で安定している。心身共に健康だった頃の平熱は36.1℃だった。常に疲労状態である。予定では今頃はライヴ疲れで熟睡している筈だった。なのに今こうして日記をつけているということは……寝過ごした。ちょっとだけという常套句の元に昼寝をしてしまい起きたら20:00近く。開場は18:00、開演は18:30。すぐさま出かければ恐らくトリを飾ったであろう愛しの君を観ることはできたかもしれない。しかし出かけられなかった。今もまだ私はばっちいのだ。のそのそと起きて夕食を作るも鍋底全面を焦がす始末。碌でもない日であった。足の小指をどこかの角にぶつけて怒りの持って行き場が見当たらないような、そんな鬱々とした気分が今も続いている。一昨日からいろいろな歯車が狂い始めている。そして私は今、真剣に自分の未来を考えなければならないときに差しかかっているらしい。物事を考えるのは好きである。けれど患ってからの私は自分の将来についてなど、自身の諸々について考えるのは非常に苦手だ。何故なら将来も未来も要らないからである。なのに考えろと言われ、東風荘などに逃避している。困った状況だ。
私は親への愚痴をうちのに溢し、うちのへの愚痴を親に溢すことで精神の安定を保っている。うちのの寝起きは凶悪である。一昨日の朝、うちのに暴言を吐かれ、挙句布団越しにだが数度に渡り蹴飛ばされた。そのとき私は寝た振りをしていた。うちのの寝起きには立ち会いたくないのだ。嫌味や小言や因縁や、とにかく文句を言われるからだ。本人は半無意識らしいがこちらは意識があるので腹も立つ。何度も蹴られ、寝た振りをやめて起きた。延々と嫌味や文句を言いつつうちのは出社した。一緒に暮らし始めてからうちのの寝起きは変わっていない。普段はいろいろ不愉快なことを言われても、ストレスが溜まっているんだな、今の私にできることはそのストレスを受け止めるくらいだから仕方ないな、と我慢してきていた。因って言葉の暴力にはある程度慣れているつもりであるが、肉体的暴力となると話が変わってくる。うちのが出社してからすぐにYahoo!にて「言葉の暴力」「DV」で余り期待せずに検索をかけた。沢山のページが引っかかった。肉体的な暴力だけでなく言葉の暴力もDVだったのか! とても損をしていた気がした。私はDV=肉体的暴力だとしか思っていなかったのだ。うちのに解り易いページのURLと嫌味を書いたメールを送りつけた。そして親へと電話して愚痴を溢した。
私は自分の母親を地軸と例えることが多い。そのココロは自分基準で世界が回っている。そういう人なのだ。と思っていたが、一昨日の親は違っていた。とても驚いた。他者である私の話がきちんと最後迄聞け、そしてその話を理解できる人になっていたのだ! 当たり前のことのようだが、今迄が今迄だったので驚愕した。まるで親の中の人が替わってしまったかのようだった。元に戻らず、今の中の人にずっと親の中の人を勤めていただきたいと切に願う。まともな会話を成立させられるようになった親から、いろいろとためになる言葉が出てきた。まずは「言葉の暴力から肉体的暴力に発展する例は多い」。ふむ。私はこれ迄は分けて考えていたのだが、実際に一昨日の朝のような目に遭うと実感を伴ってすんなりと理解ができた。それから「努力と我慢は違う」。凄い! 私の親からベタではない目から鱗が落ちるような格言らしき言葉が出てくるとは! 私が病気になってから親は「私も勉強しているけど」との前置きをつけて頓珍漢なことばかりを述べていた。なので勉強しているつもりになっているだけだと思っていた。違ったようだ。親の経験訓と反省と勉強の成果が一昨日の私にはとてもよく伝わった。子供の成長に驚く親の話はよく聞くが、親の成長に驚く子供も多いのだろうか? それとも私くらいのものなのだろうか? いや、そんなことはどちらでもいい。なんだか親との蟠りが薄れる未来を感じさせられた会話だったことが私には大切なのだ。今の母の中の人なら何かで怒っても、これ迄のように私の人格全否定はしなさそうである。なので少し甘えさせてもらった。遂にうちのの裏を親に話したのだ。2年半もの間、ずっと隠し続けていた重大事である。実家に連れ戻される恐怖から言えずにいたこと。親はきちんと冷静に聞いてくれ、うちのへの非難も私への同情もしなかった。第三者としての意見と私の親としての意見をバランスよく言葉にしてくれた。話し終え、電話口で泣いてしまった。親がきちんと話を聞いてくれたことが嬉しかった。隠し事をしている後ろめたさから開放された。泪を流して泣いたのは久しぶりである。精神の一部分が浄化されたように思えた。元々私は隠し事が苦手な性質だ。この2年半の隠蔽は自分で思っていた以上に重責だったらしい。
来週末、1年ぶりくらいで実家に帰省することを決めた。うちのと一緒ではないひとりでの帰省と考えると2年ぶりくらいか。父親の誕生祝を都内某所で一緒にごはんでも食べてしようか、との親からの申し出に自ら変更を加えたのだ。私は病気になってから長距離の移動が苦手となった為、会うときはいつも親に私の最寄り駅から二駅のところ迄出てきてもらっていた。それを申し訳なく思っていたのがひとつ。もうひとつは今の親なら怖くなさそうに思えたのだ。私は幼少時から親への恐怖心を常に抱いていた。怒らせると、または勝手に怒り出すと私の人格を全否定されるからだ。その物事だけを怒るということができない人だった。できるようになったように思えた。その安心感に基づいての帰省決定である。予定としては1泊2日か2泊3日。長期滞在中にまた親の中の人が戻ると怖いので。現在の居住地から実家へは1時間強の距離である。この帰省中に心身の変動が起きなければ、年内には祖母のいる田舎に母と行くつもりだ。祖母は7人いる孫の中でも私を最も可愛がってくれている。過去の数年間、子供の頃の祖母と境遇がとても似ていた故の自己投影もあるのだろう。前回母が田舎に帰ったとき、祖母は他の孫の名前ではなく、私の名前ばかりを口にしていたそうである。数年前に祖父が亡くなり、今年・来年という話でもないが祖母ももう長くはないだろう。おばあちゃんに会いたい。