10段階アップ

2004年5月4日 食生活
 現在、5月5日。

 昨日はうちのが数駅先のプールに泳ぎに行った。もう何年も自ら遠ざかっていたのに、2時間も泳いだらしく早速左膝を痛めてきた。莫迦だ。その後「アップルシード」を観賞してご帰還。凄かった、との感想しかなかったので「イノセンス」程には内容に感銘しなかったらしい。私は家で洗濯三昧。三昧などと書くと楽しく洗濯をしていたようだけれど、当然ダラなのでそんなことはない。嫌々渋々の洗濯である。我が家の洗濯機はひとり暮らし用の小さめの物であり、洗濯物を入れておく籠も小さめ。洗濯物が籠に山積みになり、更には周囲に溢れていた。ヨガに行って一気に洗濯物が増えた所為だ。ヨガマットの上に敷くタオル、途中で汗を拭くタオル、シャワー後に水気を取るタオル、ヨガ用の運動服。それがふたり分。これだけで籠が一杯になる。そして教室に行く前に着替えたり入浴したりで溜まっていた洗濯物。溜まっていた分だけで山となっており、ヨガ後の洗濯物で溢れた。先週は天気が安定しなかったので、洗濯するタイミングを逃し捲っていたというのがここ迄溜めてしまった第1要素。遂に入浴後に使うバスタオルがなくなった。仕方なく洗濯。三昧。激しく面倒だけれど放っておけば誰かがやっつけてくれる物ではなし、私がやるしかない。うちのは洗濯物を干すのがド下手なのでダメ。以前、私が働きに出ていてうちのが家事をしていた頃は酷かった。皺伸ばしや洗濯バサミを当てる位置がダメなのは言う迄もなく、1度笑ってしまって怒ることもままならなかった干し方をされた物があった。私のパジャマの上。乾きが余りにも遅いなあ、と思いよくよく見ると。パジャマの片袖がもう片方の袖の中に突っ込まれたような形で干されていたのだ。一体どうやったらこんな形になるんだ! ちゃんと見て伸ばして干せ! と叱ろうと思ったけれど、ケッタイな形になったパジャマを前にすると笑いが先にこみ上げた。きっと脱水で絡んだまま適当に洗濯バサミで挟んだだけなのだろうな。それ以来、うちのに洗濯を頼むことはなくなった。因みに同時に洗濯されていたうちののパジャマの袖は、こんなことにはなっていなかった。偶然だと思いたい。

 洗濯物をやっつけて、夕食作り。昨日はホイコーローもどきと茶碗蒸し。以前の日記で、茶碗蒸しリベンジについて書いた記憶がある。今回は完璧な蒸し加減に仕上げられた。しかし作ったのは卵出汁と具が一緒に冷凍された生協の物。外袋に書かれていた通りに蒸したら上手にできた。この蒸し方はオリジナルの茶碗蒸しにも通用するのだろうか。そのうち試そう。外袋は捨ててしまった為、ここに覚書。量は少なめで1カップ前後といったところ。卵出汁と具を器に入れてラップをかけ、沸騰したお湯の入った蒸し器に器を置いて蓋をして中火で4分半、その後火を消して余熱で5分。5分以上置いてもいいし、五徳から下ろしてシンクにおいても可。この茶碗蒸しを購入したのは、湯葉入りだったから。昔は苦手だった物がここ数年でいろいろ食べられるようになったどころか、好物になってきている。湯葉然り、きくらげ然り、レバー然り。驚いたのはピーマンだ。子供の頃から食べられないこともなかったけれど、好んで食べる物でもなかった。なのに気付いたらここ3週間ばかり、毎回生協で注文している。苦味が美味しく感じる舌になってきたのか、とも考えたけれど食材を思い浮かべると、許容できる及び好む食感が変わってきたようだ。何にしろ、好き嫌いが減ってきているのはいいことに違いない。

 今夜の夕食はシチュー・温泉卵・水餃子入りスープ・茶碗蒸し。うちのはこれプラスもずく。シチューはレトルトの物を鍋に開けて冷凍のブロッコリとアスパラを足した物。温泉卵は少し前に購入してそのままになっていた温泉卵作成器で。水餃子入りスープは鍋にお湯を沸かしてウェイパーを出汁として冷凍餃子と若布ときくらげと万能葱の小口切りを入れた物。茶碗蒸しは昨日と同じ。冷凍庫整理を兼ねたメニュー。私は生協への注文時に冷凍物が多く、冷凍庫が溢れんばかりになっていたのだ。で、こんなメニューになった訳だが、うちのからはこんな言葉が。昔に比べて10段階くらい料理のレベルが上がった。特にレトルト物に一手間加えるということが、以前の私を思うと考えられないことだったらしい。確かに昔は酷かった。夕食時にテーブルに並ぶ物はカップ麺ひとつやコンビニ弁当ひとつから始まり、ご飯を炊いてメインのおかずを1品作ってコンビニやスーパーのサラダを添えた物。ごはんとメインひとつと汁物ひとつ、ということが殆どだったのに、生協を取り始めてからはおかずが2品3品並ぶことが珍しくなくなった。それに肉類メインから魚や野菜がメインになることが物凄い勢いで増えた。変われば変わるものである。

 それでも手を抜くところは抜いている。コンロが2口なので味噌汁はレトルトとか、休日の昼食はインスタントやレトルトや冷凍物を多用とか。数日前に腹が立ったこと。昼食におかず1品と冷凍炒飯を出した。するとうちのが、この炒飯はいつもより美味い! と抜かしてきた。いつもは何かしらの炒飯の素と卵と家で炊いたごはんで作る。それよりも冷凍物の方が美味いとは。うーむ。うちのは、炒飯の素、そのものが余り好きではないらしい。時々、適当な有り物を刻んで炒飯にしないの? と言われる。前に私の友人がうちにきたときに、家の炒飯と言えば炒飯の素使用でしょ! と口を揃えて言って納得させたつもりだったのだが、気持ちはまだあのときの苦笑のままだったのか。有り物の炒飯を作るには、有り物、がなければならず、うちには基本的に有り物はないということは、なかなか理解してもらえないらしい。ついでに今日判明したこと。数ヶ月くらい前からか、うちのがパンを好まなくなっていた。けれど今朝出したのはトースト。そのときにうちのが、何故パンを美味いと思えなくなったのか閃いたらしい。うちで出されるトーストは焼いてあるにも拘らず冷めているからだ、と。どうも私がバターやジャムを塗る手際が悪いらしい。手際が悪いのは確かだが……今後は私が塗るのをやめて焼き立てを出して自分で塗ってもらうことにしよう。そうしよう。

BGM/アルバム「BABY BABY BABY×××」

莫迦の空気

2004年4月15日 食生活
 昨日、生協で注文しておいた苺が届いた。ので、洗ってヘタを取った苺を笊に上げ、醤油受け皿にバルサミコ酢を少量入れて、夕食後のデザートとして出した。苺にバルサミコ酢はフランス流の食べ方だとテレビで聞いた記憶があってのこと。爪楊枝で苺を刺して、緊張しつつバルサミコ酢をつけて食べる。うむ、オトナの味だ。けれど、私はコドモ味の苺の方が好きだ。私の子供時代の苺の食べ方。苺を深皿に入れる→牛乳をひたひた迄注ぐ→砂糖をたっぷり→苺をスプーンやフォークの背で潰す→潰れた苺を食す→残った苺ミルクを飲む。思い出しただけで甘々だ。でもこの食べ方が一番好きで、それは今でも変わっていない。昨日は面倒でしなかったけれど。残った3粒の苺はラップをして冷蔵庫に。そして今日、それを牛乳と砂糖で食べようと思っていたのだが、友人がネットにて画像入りでつけているハムスター日記を見てしまった。ハムが苺を食べてる! 可愛い。そして私のPCデスクの後ろには草食動物が。差し出したらがっついてきた。そうか、この草食は苺も食べるのか。けれど苺は草食にとって、すぐに飽きる食物らしい。干草を餌入れに入れたらそちらに夢中になってしまった。苺、勿体無かったか。うちでは日頃、果物を食べる習慣がない。ビタミン豊富な旬の果物に惹かれなくはないのだが、洗うだの、皮を剥くだの、ヘタを取るだの、種を取るだの、そういう面倒な作業を経て食べ終わるのはあっという間。こんな数分の為に手間をかけるのは甚だ面倒である。だからうちで果物を出すというのはかなり特別なことであり、草食に与えるのは一向に構わないけれど、飽きられるとやはり悔しいのだ。それに旬だろうとなんだろうと、果物は高い気がする。比較的安価なみかんは、私が薄皮嫌いなので避けている。冬、うちのはしきりにみかんを欲していたが、食べたければご自分でどうぞ、である。果物の中では、缶詰のシロップ漬けの桃が最も好きだ。白桃でも黄桃でもいい。甘くて種もなくて缶を開けるだけ。なんて楽で美味しい食べ物なのだろう。それでも滅多に食べない。風邪をひいたとき位だけ、贅沢品として食べる。貧乏な家の子供のようだ。

 昨日の夕食は、とうふハンバーグと鮭ごはんと煮物。うちのからの帰るコールにて、煮物について説明しておいた。和風だか中華風だかよく判らない薄味の不味くはないもの、と。うちのは、一体それはどんな料理なんだ? と不安に思いつつ帰ってきたらしい。食べさせてみると、美味い、と言ってくれた。この煮物の正体。里芋と人参と蒟蒻だ。里芋と蒟蒻または里芋と人参だけなら味醂を使って甘く煮る。人参と蒟蒻だけならピリ辛煮だ。しかし目の前にあるのは3種。さてどうしたものか。取り敢えず、だし汁で人参と蒟蒻を煮てみた。やや煮立ってから里芋を投入。里芋が最後なのは冷凍物だから。問題はここからの味付けだ。絶対に外れなかろう料理酒をどばどば入れた。それからファーストフードなどで出されて余らせて持ち帰ったまま放置していたガムシロップを4つ、砂糖代わりに投入。それから色で判断ができない白醤油を慎重に注いだ。これで最低限の味にはなっている筈だ。が、そんな最低限で満足していいのか。よくない。料理は想像力と発想力だ。洗って割って種を取った唐辛子を1本投入し、胡麻油を少々。ここで胡麻油を持ってきたのは、人参は油を加えて食べた方が効率的に栄養を摂取できるから。これだけの手を加え、再び煮立ってから弱火にし、アルミホイルで落し蓋をして1時間程放置。その後、落し蓋を取って鍋蓋を被せてまた暫く放置。うちのが帰宅した時間が、完成時間だ。野菜が柔らかくなったときから溶けかける迄ならいつ完成にしたって構わないから。あれやこれやと調味料を使いつつも激しく薄味で、私には食感しか楽しめなかった。うちのにはちょうどいい味付けだったらしい。味の擦り合わせが、どうにも上手くいかない。今日になって、一晩置いた所為かやっと私の舌にも味が伝わってきた。薄味料理は一晩放置の法則ができそうだ。

 薄味の煮物といえば、先日作った南瓜の煮物の話を避けては通れない。南瓜の煮物という料理から連想する味は? と問うたら恐らく大概の人は、和風の甘い感じ、と答えるだろう。実際、数人に問うたら皆からこのような同じ回答が返ってきた。制裁っ…! 南瓜の煮物の概念を覆すのだっ…! と、カットした南瓜をまずコンソメで煮てみた。南瓜のスープがあるのだから、コンソメは問題なかろうという無難路線からスタート。そして煮上がった南瓜をどうするか。考えに考えた末に私が取った行動は、器に盛ったコンソメで煮た南瓜にバルサミコ酢をひと垂らし、である。バルサミコ酢=ちょっとお洒落な料理上手サンが使う調味料、というイメージに基づいての行動。愚かっ…! 愚の骨頂っ…! ひと垂らしの筈が、手元が狂ってどばっとかかってしまった。修正不能。そのまま食卓へ。うちのは一口食べて、食べかけの南瓜を箸で摘まんでクンクンし始めた。行儀が悪い。これ何? と訊かれたので、上記のような説明で南瓜の煮物の概念を覆すという大いなる野望の失敗作、と答えた。うちのがクンクンしたのは酸味を感じた為であり、甘い筈なのに酸味のある野菜は腐っているのでは? と思ったからだったらしい。そしてバルサミコ酢のことを知ったうちのは、コンソメだけでよかったんじゃないの? と。久々に素直に、ごめんなさい、と言えてしまう料理だった。普段、南瓜の皮を私は残す。皮を残すことを好まないうちのは、私が残した皮を食べてくれる。この話を友人にしたら、家族だねえ、と驚かれた。カップル間では余りない行動の模様。この南瓜煮物概念転覆作戦の失敗により、冒頭に書いた苺の食べ方に於いて、醤油受け皿を使った次第。

 書いている最中に、草食が苺を食べ終えた。勿体無いことにならなくて一安心。また途中でうちのが帰宅してきた。10人弱で飲んできた席で、カップルや夫婦の間での許容範囲についての話で盛り上がったと言う。或る人は、自分の髭剃りで妻が内緒のつもりで腋毛を剃っているらしいことが許せない、と。髭とは明らかに違う毛が剃刀に残っていたことで発覚したらしい。許せないと言いつつ、その人は妻に文句を言ったりできないらしい。不思議な関係。また或る人は彼女が自分の目の前で鼻毛カッターを使うのがイヤで堪らないと言ったとか。そこでうちのは、俺の彼女は俺の鼻毛が出ていると眉毛切りを渡してきますよ、と言ったようだ。そしてその場にいた女性陣に引かれたらしい。世の人々の体毛順位は頭から足迄下がるにつれ、毛への嫌悪感が高まるらしく、女性らにとって自分のアイブロウカッターで彼氏が鼻毛を切る行為はイヤなもののようだ。専用カッターなどよりもピンポイントで的確に切れて、優れた鋏だと思うのだけれど。うちのがその場で言ったという許容外範囲。私の好きなパン用チョコクリームに黒猫専用マークをつけていること。それに対抗して、うちのは私に食べられたくないカップ麺にうちののマークをつけるようになった。……笑われたらしい。うちのは許容範囲外として話したようだが、実は私の黒猫専用マークを面白がっている。チョコクリーム以外には書かないの? などと訊いてきたりもする。南瓜の皮やら鋏の使い方やら、我が家の個人テリトリはほぼ皆無なのか。個人テリトリの究極は、当人の身体だろう。昨夜、うちのが下着姿で寝転がっているときに雑食動物がうちのの上に乗り、うちののパンツを嗅いだ。そしてすぐに顔を上げた。そのとき、鼻呼吸を拒否したい匂いだったらしく雑食の口は空いていて物凄く笑えた。さっき、うちのがパンツの上からケツを嗅いでみて、と言ってきたので言われるままに嗅いだ。口が空いた。尻ではなく、最早うんこの匂い。最悪。お返しに暫く洗っていない私の頭皮を嗅がせてやった。うちには莫迦の空気が漂っている。

誤爆

2004年4月7日 食生活
 夕飯の献立を早めに決めたら、うちのにメールで連絡をする。もっと早くに決めたときは前夜のうちに告げておく。昼食と被らないように気をつけてもらう為だ。今夜の夕食は昨夜の残りのポトフと紫蘇餃子と温泉卵かけごはん。その旨のメールを送った。つもりだった。夕方に返信されてきたメールは友人から。相手を間違って送ってしまった。和洋中のバランスを無視した献立を自ら披露。恥ずかしいったらありゃしない。友人に謝罪メールを送り、改めてうちのにメールを送り直した。返信内容は、今夜も豪華だね。これが嫌味ではないのが嬉しいやら情けないやら。残り物と焼くだけと割るだけのごはん。それでも豪華と言ってもらえるということは、如何にそれ迄の夕食が貧相だったかを物語っている。数ヶ月前にデジカメを買ってから、うちのがたまに夕食を撮影するようになった。本当に手間暇かけた豪華な食事を作ったときに限って撮り忘れるのが難だが。昨夜、過去に撮り溜めた画像をプレビューで見た。最初の頃はコンビニのおでんにビールだけとか、大皿に1品+茶碗に白ごはんだけとか。近頃は夕食時に最低各自みっつの器が並ぶようになった。凄い進歩だ。更に何度も何度も注意され続けて、大皿料理のときは常に受け皿を出すようになった。これも進歩。フツーのことかもしれないけれど、今迄できていなかったことをできるようになったのだから、進歩、と言いたい。

 昨夜の夕食はポトフと鮭のバジルオイルソテーとごはんとふりかけ。ポトフはじゃがいもと玉葱を適当に切り、ひたひたよりもやや多い水とコンソメふたつで小一時間煮込んで玉葱の甘味を出し、食べる15分くらい前に冷凍ブロッコリを投入。ブロッコリに熱が通ったところでクレイジーソルトをバーッと振りかけただけ。好評だった。肉や魚を入れなかったのは敢えてだ。うちのがダイエットしたがっているから。因みにふりかけ以外、食材は全て生協の物。鮭も元から味付けしてあるので焼くだけ。素晴らしく楽ちん。今夜の紫蘇餃子と温泉卵も生協。これで生協が煙草とビールとサントリーのウーロン茶を安く提供してくれるようになれば、私は週に1度しか外出しなくてよくなりそうだ。ビールは生協の品目にある。けれど残念。うちのが呑む銘柄ではないのだ。後はおやつか。ケーキ類や和菓子類がよくパンフに掲載されている。食指を伸ばしたくなる物も多い。しかし殆ど買ったことがない。何故なら、それらの多くが冷凍物なのだ。1度冷凍されたケーキや和菓子……何となく美味しくなさそうな気がする。専門店ではまずなかろうが、もしかしたらコンビニやスーパーのケーキや和菓子は一旦冷凍されているかもしれない、とも思う。業者が店に持ってくる段階では冷凍されていないけれどその前段階に。可能性はあるけれど、そうではない可能性もある。なのでちょっとお菓子を食べたいときはコンビニやスーパーで購入している。ここでいう、お菓子、は生菓子全般。私は乾き物のお菓子は余り好まないのだ。

 冷凍ではない食品を提供するのは難しいのだろうか。生菓子然り、肉・魚然り。私は生協を利用し始める前から、肉や魚は半額または割引シールが貼られた物を買ってきては冷凍保存するのが常だったので、構わないっちゃあ構わないのだが。それにしても生協の肉は高い。安全な産地で育った安心料込みと解っていても高く感じる。昨夜注文票に記入しつつ、何故こんなに高いんだろう、と考えた。そして解った。高くないのだ。単に私が、半額または割引シールを貼られた物を買うことが殆どだった為、その割り引かれた値段を基準にしているから高く感じるだけなのだろう、と思い至った。よくよく記憶を辿ると、陳列棚に定価シールのみが貼られた肉は生協のそれと同等の値段設定である。皆ビンボが悪いんや。貧乏といっても食うに困る貧乏ではなく、私自身の貧乏体質。素敵な奥様風に言うと節約体質。違う。節約なんか心掛けてはいない。食材だって定価購入の方が新鮮だろう。生もの以外、私の舌では新鮮かどうかなんてそんなに判別できないが。とにかく、定価=半額・割引シールなし=新鮮・安全、と考えてみる。私が生協を利用し始めたきっかけのひとつは、安全な食品を、だった。矛盾している。けれど安全な肉を買おうと思わない程に譲れない物があるのだ。煙草とサントリーのウーロン茶。このふたつだけは削れない。煙草は何処でも定価なので仕方なくそのまま購入しているけれど、ウーロン茶はコンビニやスーパーではまず買わず、198円で販売している薬局迄足を運んで購入している。肉に新鮮さや安全さを必要以上に追求していくと、ウーロン茶は煮出しに格下げせざるを得なくなる。無理。昔、うちのが私に、いつも2Lペットボトルのサントリーのウーロン茶を購入することに対し、無駄遣いだと苦言を呈してきたことがあった。煮出しにしろ、と。煮出しだと味が濁って不味くなる、と抵抗した。そしてうちのが、ひとつの提案をしてきた。本当にそうなのか? 味の区別がつくのか? もしつかなかったら煮出しに変更しろよ、と。受けて立ち、見事勝利。或る日、うちのに留守を頼んで出掛けて帰宅。ウーロン茶を飲もうとして、見た目から違和感を察知。煮出しはパックを使うので色が濁る。飲んでみると味も濁っていた。指摘すると、うちのはちょっと驚いていた。濃い味付けの好きな私を一億総味覚障害の一員だと思っていたらしく、まず見破られまい、これで煮出しに変更させて節約だ、と目論んでいたらしい。甘い! こんな出来事を経て、今もペットボトルのサントリーのウーロン茶を愛飲している。私のPDがカフェインに左右されない性質でよかった。

 余談。昨日の午前中、うちのが出勤前に私の寝顔を撮ろうとしてそのフラッシュで目が覚めた。不細工だから寝顔撮影は勘弁してくれ。それはそうとして、起きてしまったのでうちのを見送ってから東風荘に接続。たまたま同卓したひとりがやたらと切るのが遅い。もうひとりはその遅い人と以前にも打ったことがあるようで、進みが遅いから洗濯でもしよう、と書いてきた。それで、私も洗濯しよー、と。前回の洗濯から中4日。フツーよりも洗濯ペースが低過ぎると思われそうだが、うちでは中4日での洗濯は早い方である。麻雀でこんな効果があるとは。雀荘だと同卓の相手がどんなに遅かろうと全て代打ちという訳にはいかないし、ネットならではのちょっと面白かった出来事。

BGM/「Exotic Lollipop」「Papa,Boy,And I」「(I Would Want To) Go !」など
 現在3月18日。

 過去、何度となく牛や豚でカレーを作ってきた。昨夜作ったのはラムカレー。ラムには臭みがありまた脂も多いのでカレー専門店勤めではない私としては、吉と出るか凶と出るかの賭けでもあった。作り方もいつもは玉葱・じゃがいも・人参を適当に切って肉と共に炒めて煮込むだけだったのを、今回は玉葱は微塵切り、じゃがいもは微塵……にできなかったので仕方なく小さめのぶつ切り。これらをラムの肩ロースと炒めて煮込んだ。灰汁が普段よりも多く出て、煮込んでいる最中からラムの匂いが強くどうなることかと思ったけれど大成功! カレールーを投入するとラムの匂いがほんのりと薄れてカレーの匂いと絶妙なハーモニーを。今迄に作ってきたカレーは全て失敗作だったのではないかと思える程の美味。昨日はトーストと共に味見程度に食し、今日になってご飯と共に食べてみた。カレーはなんて美味いんだー! ジンギスカンのラムは焼き過ぎると固くなってしまうけれど、適度に炒めてから煮込んだラムは柔らかくなった。新発見。今度は是非ともラムシチューに挑戦してみたい所存。ブラウンルーを使えば絶対に美味しくできると確信している。また近所のスーパーで取り扱っているジンギスカン用のラム丸肉でもカレーを作ってみたい。本来なら私は四角く切られた肉よりも、牛でも豚でもへれへれの小間切れなどで作るカレーが好きなのだ。炒めるときに適度にバラせば、丸肉でもへれへれ肉同様のカレーができそうな気がする。

 食したことはないけれど、ラムしゃぶやラムのハンバーグなる料理もあるらしい。これらも試してみたい。生はともかく、煮てよし焼いてよし湯がいてよし、と肉料理の基本三拍子を備えたラム肉。何故日本では余り浸透しないのか。疑問でならない。臭みが苦手という人が多いようだが、秋刀魚の塩焼きなどの方がより臭みやえぐみがあるように思う。現在、多くの人にとって手近な羊料理といえば、ラムチョップのソテーとジンギスカンだろう。高級フレンチの店などを除き、あくまで庶民限定で話を進めるとこのふたつに明らかに偏っている。勿体無いことこの上ない。牛や豚の副産物として革が挙げられる。しかし革を取るには、食肉としての屠殺が前提だ。ラムやマトンに関して言えば、革だけでなく羊毛も取れてその後食肉としての屠殺にもできる。雑食動物である人間は、獣を食べる。ひとつの資源として捉える。ならば、資源の有効活用として羊の方が効率もよいのではなかろうか。BSE問題発覚から、私はひたすらに羊への世間の着目を望んでいる。しかしそれは実現しておらず、残念でならない。もっと多くの店で多種の羊肉を扱ってくれることを願ってやまない。羊は美味いのだ!

 都内某所に鯨料理専門店がある。また別の場所にはさくら肉専門店もある。それぞれとても美味しい料理を提供してくれる。特に鯨肉専門店に初めて行ったときには驚かされた。それ迄、鯨は刺身に限ると思っていたのだけれど、その店で出された鯨の唐揚の美味しかったことったらもう……。ここの唐揚の衣は一般的な鶏の唐揚の衣とは違い、小麦粉ではなく片栗粉を使っているらしい。自分でも作ってみたいところだけれど、如何せん鯨肉入手が難しい。価格もさることながら扱ってる店が少なすぎるのだ。鯨肉食反対の動きは当然知っている。そして鯨と海豚には厳密な区別がないことも知っている。そんなことはともかく、私は家で気軽に鯨を食したい。この鯨料理専門店から程近い場所に、羊料理専門店があった。かなり昔に行ったので今もあるかは判らない。ここでは羊肉の鉄板焼きが食べられた。香辛料を存分に使い、羊特有の臭みは殆ど感じられずただただ美味だった。また食べたい。或る店で、羊の餃子を食べた記憶がある。臭みが全く気にならないどころか却って好きな私にはとても美味しかった。この餃子は臭みが苦手な人には食べられたものではないかもしれない。豚肉で作られた餃子や肉まんに多くの人は、ジューシーさ、を求める。このジューシーと感じる要素は豚肉の脂であり、羊の脂とどう違うのか解らない。どちらの脂にも肉の臭みがある筈だ。程度問題なのか? いや、私は違う気がする。羊が余り好まれない理由に、冷めたときの不味さ、があると思われる。例えばお弁当。牛・豚・鶏は冷めて多少味が落ちても食べられる。羊の場合は脂の多くが白く浮いて非常に不味いものとなってしまう。これは敬遠される一要因ではなかろうか。わざわざ冷めた餃子を食べる人は少ないだろう。ところが肉まんとなると、コンビニで買って帰宅してから食べる人も多い。この場合、その肉まんは多少冷めていることになる。豚ならそれでも美味しく食べられる。羊なら……まあ、不味くなってしまっているだろう。

 羊にも鯨にも馬にも特有の臭みがあるという。けれど、ならば、牛や豚や鶏には臭みが全くないというのか。それは嘘だろう。確かに上記の動物に比べたら臭みは強いかもしれない。しかしそれらは所詮慣れの問題ではなかろうか。例えば羊肉をメインとする食文化圏があったとする。そこで牛・豚・鶏を出した場合、現在の日本人の多くとは逆に味気なさを感じられるかもしれない。少なくとも私は羊を食べた後に鶏を食べると、味気なく感じる。以前にも書いたことがあるように、私は焼肉よりもレバ刺やユッケの方が好きだったりする。牡蠣もフライより生の方が好きだ。特に貝殻に乗ったままの大きめの生牡蠣に紅葉卸を乗せ、レモンを絞ってちゅるんと食べる瞬間は至福。私と同じ食嗜好の人に未だかつて出会ったことがない。単に私が臭みのあるもの・えぐみのあるのが好きなだけなのだろうか。焼き魚でも白身部分にはこれっぽっちも魅力を感じず、無心に血合い部分ばかりを食べたりする。この血合いの話を何人かにしたことがある。皆かなり驚いていた。中には、血合い部分は残すもの、という人もいた。まるで私がゲテ食いのようではないか。失礼な。その分、他者が手を伸ばさないものを存分に食べられるということで得なのだろうか。いや、そんな得よりも私は気軽に羊や鯨を入手できる環境を望む。

最近のごはん

2004年3月15日 食生活
 現在3月17日。

 先日の夕飯は、山掛け蕎麦と蓮根のたらこ炒め。作り方は実に簡単。まず山掛け蕎麦。山芋を摩り下ろし、大葉を千切りにし、蕎麦を湯がいて、出汁を入れたどんぶりに蕎麦→摩り下ろした山芋→大葉の順に入れて若しくは乗せてゆくだけ。蓮根のたらこ炒めは、蓮根を輪切りにして酢水で灰汁抜きをし、フライパンで炒めてたらこパスタの素をまぶして終了。可もなく不可もなくできた夕食、の筈だった。しかし食べられた物ではなかった……。まず作っていたのがうちのの入浴中。あがった頃を見計らってテーブルに並べた。そしてすぐに食べていれば問題はなかっただろう。けれど、私は散らかった流し台を片付けるべく洗い物に精を出し、うちのは風呂上りに湿疹のできた箇所に薬を塗ったりと、出来上がりから食べ始め迄にかなりの時間を費やしてしまった。そして食卓へ。私が席に着いたときにはうちのは蕎麦を食べ終えており、蓮根をつまみにビールを飲んでいた。私が蕎麦を食べようと箸で蕎麦を運んで一口食べて、箸を置いた。ご馳走さまでした。食えたもんじゃない。伸びた蕎麦がここ迄不味いとは思っていなかった。味自体は悪くない。しかし蕎麦をすすって噛もうとしたとき、奥歯と顎に激しい違和感が発生。たった一口分のむにゅむにょとした感触に、歯も顎もおかしな感覚に見舞われ、その感覚には耐え切れなかった。普段は食べ物を残すと怒るうちのも、この日ばかりはやむを得ぬと思ったようだ。それでもこんな不味い蕎麦を完食したうちのは凄い。またおかずの蓮根の炒め物が、シャキシャキして美味しいのが完膚なき迄に違和感を増幅させた。口直しになるどころか、奥歯と顎に感じた異様な感覚がシャキシャキ感を全て凌駕してギブアップ。

 以前にも書いたことがあるように、私は蟲が湧いた蕎麦を食卓に出して大顰蹙を買ったことがある。今回は蟲は湧いていなかったけれど激しく不味かった。食えた物ではない蕎麦を作らせたら、私は日本一かもしれない。最早、蕎麦という食物の存在に呪われているとしか思えない程に、私と蕎麦の相性は最悪である。自画自賛でアレだけれど、パスタはそれなりに美味しく作れる。うどんは私が嫌いなのでまず食卓には出さない。という訳で、比較できる麺類は蕎麦とパスタ。どうしてこんなにも深くて暗い溝が発生するのだろうか。和洋料理の腕に差がある訳でもないのに。うちで唯一うまくできた蕎麦は、去年の年越し蕎麦だけだ。何が違ったのだろう。麺や出汁はそれぞれ違うが、そこが問題ではないように思う。あのときの蕎麦の出来自体は格別美味しい物でもなかったけれど、私の作る蕎麦、としては別格の出来だったと言えよう。そんなこんなで不味い蕎麦を作らせたら日本一と自覚できた私、もう今後は年越し蕎麦以外は作らないことを固く決意するに至った。

 話を変えて、最近好評だった料理。某巨大掲示板某板某スレで紹介されていた鶏レタス。これは鍋底に適当な野菜を敷き、その上に強く塩胡椒した鶏を乗せ、その上に適当に千切ったレタスを鍋いっぱいに入れて蓋をして中火でひたすら煮込むだけの料理。これのアレンジとして、私は底にトマト、その上に生きくらげ、その上に鶏の変わりの豚コマ、そしてレタス1玉で作った。煮込んだのは30分くらいか。レタスから水分がたっぷり出て実に美味しく出来上がった。水分が出たレタスは嵩が減り鍋いっぱいだった具は完成時には鍋の半分くらい迄に減っていた。それでもボリュームたっぷりで簡単で美味しく、うちの定番メニューのひとつになりそうである。このメニューを公開した名無しさんは、そのスレでは高い評価を得ている。定番メニューといえば、我が家の休日のブランチ定番はホットサンド。これはホットサンド器を使った料理ではなく、食パンにとろけるチーズとベーコンかハムを全体に乗せたものをふたつ用意し、どちらか1枚に塩胡椒またはクレイジーソルトで味付け。3分程トースターで焼いて、どちらか1枚にケチャップを適量かけて2枚を重ね合わせただけの簡単料理。毎週出されるので、うちのはそろそろ飽きてきたようだが、気にしない。簡単だし、私は飽きていないから。

 外食の話に移る。この間、テレビで松屋にて牛めし復活を知り、4年ぶりくらいに松屋に行った。松屋蛙混入クレーム事件を聞いて以来、ずっと足を遠ざけていたのだ。そして牛めし。具の量が少ないのは仕方がないのか。惜しむべくは、つゆだくだくと注文し忘れてしまったこと。かつての吉野家でなら絶対につゆだくだくと付け加えることは忘れなかったのに、店が変わったことでうっかり。もう1度行って、今度はつゆだくだくで注文してみようと思う。その松屋、うちのが豚めしが美味いと言う。これも試してみようか。私が行った松屋では、豚めしの注文を受けた店員は厨房に、豚めし一丁、と言っていた。うちのがよく行く松屋では、豚一丁、と言うらしい。そしてこの、豚一丁、がうちのに大変気分を害すると言う。まるで豚の飼料のようではないか、と。しょうもないことを気にするなあ、と笑わせてもらった。現在うちのはダイエット中だから余計に気になるのだろう。本当にどうでもいいことだと思うのだけれど。

 今日は生協2回目の配達日。それと我が家の冷凍庫に以前からしまっておいて昨日解凍したラム肉を使って、ラムカレーを作る予定。ラムでのカレー作りは初挑戦。野菜ごろごろの家庭的なカレーを作るか、それとも全てを摩り下ろしたり微塵切りにしたりして店で出てくるような肉をメインとしたカレーにするか、昨日から悩んでいる。どちらの方がいいのだろう。私は鍋焦がし名人でもあるから、摩り下ろしや微塵切りの方が焦がしを避け易いだろうかと思わなくもない。また冷凍するときに、ごろごろしたじゃがいもは味を落とすし。でもうちのは、家のカレーは野菜ごろごろの家庭的カレーの方が好きらしい。うーむ、悩みどころである。作るのは私だ。私の好きに作りたい。かつて野菜摩り下ろしや微塵切りでカレーを作ったことはない。挑戦したい。普段なら迷わず挑戦する。躊躇している理由はただひとつ。今回使用の肉がラムだからだ。なかなかカレーに適したラム肉を入手する機会はないので失敗は避けたい。どうしたものか。余談。前々から欲しかった、子羊料理大全を書店で見つけてパラパラと立ち読みしてみた。羊のいろんな部分を使った、それはもう美味しそうな料理が写真と共にレシピ紹介されていた。ご親切に、羊に強い肉屋の紹介もあった。でもその本を買うのはやめた。今の私に、わざわざ羊入手の為に遠出する気力はないからだ。
 昨夜の夕食のメインメニューはジンギスカン丼。初挑戦のオリジナルメニューである。今、近所のスーパーで北海道フェアなるものをやっており、ラムの切り落としパックが売っていたのだ。徒歩圏内のスーパーでラムを扱うところは他にもあるが、普段からここではラム肉に力を入れているようで、丸いジンギスカン用の肉は勿論、たれ漬け込みのパックも常備されている。羊好きの私にとっては大変に嬉しいスーパーだ。ただ通常時は、切り落とし迄は陳列されていない。で、買ってきた切り落としをフライパンで炒めて塩胡椒し、フライパンを傾けてキッチンペーパーを2枚使って脂を取り、ベルのたれを全体に回して暫く放置。その間に丼にごはんを盛り、その上に炒めたラムを乗せてフライパン内に残ったたれをかけて終了。大変に簡単だった。しかし初挑戦。キッチンペーパーで吸収したとはいえ脂の多いラム肉。下手を打ったら脂ギトギトで食べられた物ではなくなる諸刃の剣。出来上がりとほぼ同時にうちのが帰宅。そして一緒に食事。食べ始めから暫くして本当に同時に、なかなかいけるね、と。余りのタイミングの良さに、これが阿吽の呼吸か? などと長年連れ添った夫婦気分。そこから丼物についての話題。

 当然その矛先は吉野家へと向かう。牛丼がなくなって最初に打ち出したのがカレー丼でそれ以来迷走している、と。なかなかに今回のジンギスカン丼を気に入った模様のうちのは、売り込んでみれば、と冗談半分に言い出した。そして私は考えた。吉野家が何故現在迷走状態にあるのか。吉野家のメイン食器は丼である。そして調理器具は炊飯器(?)と寸胴(?)が主力と見ている。今迄これらを使って牛丼メインでやってきて、切り替えるにも初期投資を避けたいが為に今ある食器や調理器具を活用しようとして迷走状態にあるのではないか。して今回私が作ったジンギスカン丼が吉野家で早い・美味い・安いの三大条件をクリアして作れるかを脳内シミュレート。美味い・安いはクリアできると思う。問題は早い=調理スピードだ。これ迄吉野家が早く注文品を出せていたのは、牛丼の具を寸胴(?)に大量に作っており、注文を受けてすぐに炊飯器(?)から白米を丼に盛り、調理済みの具を乗せていたからだ。牛丼の具は適度に煮詰めた方が美味しい。私が作ったジンギスカン丼は煮詰めて作るものではない。煮詰めたら絶対に確実に漏れなく不味くなる。因って現在の吉野家のメイン調理器具で対応できる商品とはなり得ないという結論に達した。どちらかといえば、定食にも前々から力を入れてきていた松屋向きメニューと言えようが、松屋は放っといてもこのまま吉野家が迷走を続けていれば、半年後には業界トップになると予測しているので売りこむ迄もなし。そもそも売り込んだところで採用されるとは限らないし、採用されたとして北海道以外ではまだまだ羊肉は牛・豚・鶏に比較してマイナーな存在なのでさほど注文も取れまい。それ以前に売り込みに行くのが面倒だし、我が家のオリジナルメニューとして温存したい。因みにこのメニューをもしどこかの企業が作ってみたいと思ったらご一報ください。メールアドレスを探す方法やアクセスする方法もいろいろありますので。なんちて。

 昨今の牛・鶏の規制を受けて、どう表現すればいいのだろう……精肉業界駝鳥部門? が活発な動きを見せ始めているという記事をヤフーのニューストピックスで読んだ。駝鳥の刺身を以前何処かの呑み屋で食したことがあるが、余り美味い物とは思えなかった。駝鳥よりはまだメジャーなラムやマトンや鴨に力を入れて欲しい。私は牛・豚・鶏よりも羊や鴨の方が好きだから。学生時代の同級生に、羊がどうしても食べられないという子がいた。クセがあるからとか脂が多いからという理由ではなく、子供の頃に親と行ったどこぞのファミリー牧場で生きた羊を見た後の食事に羊が出てきて、さっきの羊が……とトラウマになったそうな。ファミリー牧場的場所に私は行ったことはないけれど、確かに生きる為に生き物を食べる必要性をちゃんと理解していなかったり、理解していても繊細な子供にとってはトラウマになりかねない場所であろう。あの乳牛のミルクでできたアイスクリームですよ〜! ならば乳牛はまだ生きているので、牛さん有難うと食べられようけれど、同じ牛だとして、あの牛さんを捌いて焼いた肉ですよ〜! ならば生きることの残酷さを見せ付けられた子供皆が生き物の宿命と捉えられるとは思えない。少し前に見た牛と出された牛が違う個体でも連想してしまうだろう。話が逸れた。幸い私にはその手のトラウマはないので、精肉業界の羊部門・鴨部門の方々に頑張って各種肉の一般化に励んでいただきたい。これもまた逸れているか。

 近所のスーパーの北海道フェアは今月いっぱいなので、今日明日中にラムの切り落としをまとめ買いしておく予定である。ジンギスカン丼ならば丸肉でも良さそうだが、ラムカレーには切り落としの方が良さそうだから。そう、今度はラムカレーに初挑戦しようという目論み。マトンカレーも好きだし、ラムなら肉も柔らかくマトンよりももっと美味しいのではないかと期待している。できればマトンでも作ってみたいけれど、今回の北海道フェアではマトンは扱われていなくてやや残念。因みに、北海道といえばジンギスカン、という発想で今回のフェアに於いて羊に力を入れているようだが、扱われているラム肉はオーストラリア産だったりする。ご愛嬌か。北海道出身のうちのにこのスーパーのチラシを見せて、この中で欲しいものはある? と訊いた。懐かしく感じられるかもしれないお菓子類などもあったからだ。うちのが、コレ! と言って指差したのは1杯2500円の毛蟹。阿呆か! 何の記念日でもないのにそんな高い食材が使えるかってんだ! じゃあコレ、と指差したのは1尾78円の秋刀魚。旬じゃないだろ……。やはりラム切り落とし纏め買いだけだな。あ、ソラチのたれが気になる。しかしうちにはベルのたれが開封済み1本、未開封1本と余っている状態。ソラチのたれ……欲しい。でもベルのが……悶々と悩む週末になりそうだ。
 最近、生協に興味を持ち始めた。安全・安価・宅配といいこと尽くし。物によっては品質に大差がなくスーパーの方が安い物もあり、その辺の見極めさえできればかなり便利ではないかと。また家事が億劫で堪らないダラ似非奥にも宅配は何にも勝る魅力である。某宅配業者の野菜の品質が好評なようだが価格が高い。価格と安全性のバランスを考えて生協にネットから資料請求。すると1〜2日で連絡がきて連絡当日に社員がサンプルと説明書を持ってきてくれた。サンプルの木綿とうふと牛乳はまあまあ、プリンは美味しかった。人参は近日中に調理予定。近日中なのは、また過眠期突入中だから。1日に昼寝込みで12時間は寝ている。それでも寝足りない。死期が近付いているのか……という程に眠い。今も眠い。過眠の話はともかく。昨夜、うちのの帰宅後に眠さを堪えつつ生協の魅力についてとくと語って聞かせた。
私の主張
・どうせなら安価で安全性の高い食物で料理したい
・学生時代に親が腱鞘炎になり家事不可能で実家で宅配業者を利用していた頃に、毎日料理をしていた実績がある
・生活の基礎の基礎は食であり、家計を考えつつ安全で美味しい物を食べて欲しい
・家事がルーチンワークになるから主婦の生活はつまらなくなる、最も創造力を活かせる家事は料理だと思う、そして料理に楽しみを見出せるようになれば他の家事にも楽しさを感じられるようになるかもしれない
うちのの主張
・今現在、毎日料理していない奴が何を言っとるか
・宅配に頼らず外に出て歩いてスーパーなり何なりに出かけろ
・どうせ食材を使い切れずに腐らせるのがオチだ

 結論。私は主張をする前から利用を脳内決定していたので押し切りで黒星。但し条件をつけられた。
・余程体調が悪いときを除き、週に3回以上自炊をすること
・食材を腐らせないこと
・できなければ私の衣類を10枚処分すること
・チャンスは5回、それ以上食材を無駄にしたり自炊が続かなければ宅配をストップすること
 何故チャンスが5回なのか。これは優しさではなく、うちのは私の自炊が続くとは思っておらず、嵩張っている衣類を処分させることに重点を置いているからである。目的と手段が間違っている。来月から利用を開始する予定。さてはてどうなることやら……って何が何でも続かせる予定だけれど。うちの曰く、薄ら笑いを浮かべて条件をつけながらもこう言い放った。俺程優しい奴もいないよなあ。はあ? 普通は自炊が習慣になっていない相手が食材宅配利用をしたいなどと言い出したところで速攻で却下するとのこと。そういうものなのだろうか? 私の予想では、今迄自炊を余り積極的にしてこなかった者が自分で調べて積極的に取り組もうとしていることに対して、それ程迄に姿勢を変えて更に俺の健康を気遣ってくれるなんて! と感涙してもおかしくないと思っていたのだが。

 現在の我が家の恥ずかしき食生活。1食丸ごとコンビニ・外食頼りが半分。もう半分は自炊。しかし主食とメインディッシュのみというのが主。味噌汁はインスタントが8割。副菜はスーパーやコンビニのお惣菜が9割。味噌汁や副菜を作らない理由。肉や魚は1度で使い切れるけれど、野菜が残るから。残り野菜の使い道を考えるのが苦手なのだ。苦手ながらも考えた。副菜で野菜を使う→残ったら味噌汁に投入。これで全部使えるではないか! 世の主婦の多くは当然だと思うかもしれないけれど、私としては大発見。逆バージョンとして具沢山味噌汁の残りの野菜を適当に煮たり焼いたりして副菜に。料理本やレシピサイトで中途半端に残った野菜や肉・魚の調理法解説があれば、きっと私は本を買うだろうし、しょっちゅうサイトにアクセスするだろう。誰か出版なりサイト開設なりしてくれないか。半端な量の食材処理=調理に困っている主婦は決して少なくない筈だ。むしろ多い筈! 私だけとは思いたくないのだ……。

 ところで、2人分以上の料理をして他者と食事をした場合は相手の反応が気になるものだと思う。うちの場合は概して腹が立つことが多い。凝った料理を作ると、イマイチ。簡単な料理程、美味い。こんな反応が返ってくる。前向きに考えれば、簡単な物で美味しがってくれるなら簡単ではないか、となるけれど、何時間もかけて作った物にイマイチの評価を下されると落胆する。努力と評価は別物だと解っていても、落胆するのは仕方がない。その場合、イマイチな部分を修正してまた作ればいいと思うだろうが、うちのにとってはイマイチでも私にとっては美味ということが実に多い。因ってどこを修正すればよいか解らない。イマイチな部分を具体的に聞き出して作ると、今度は私にとって余り美味しくなくなる。食生活は一生付き纏うものであり、味覚の違いで離婚に至る例もあるという。同時に味覚の違いで悩む夫婦の話もよく見聞きする。幸いうちのは、お袋の作った物の方が美味い、的発言はしない。きっとこれを言われたら私は怒る。この手の発言はしないけれど、うちのは私の料理に対して、もっと薄味がいい、とは言ってくる。きっとうちのの母親の料理は薄味が多かったのだろう。対して私の母親の料理は濃い味付けが多く、私はそれを美味しいと感じて育ってきた。育った環境の違いで起きる問題は多々ある。現在、他にも環境の違いで持ち上がっている問題がうちのと私の間にある。それはまた別の日付の日記で書く予定。さて、啖呵とも言える発言で押し切った生協宅配。この場合、私がうちのの好みに合わせた味付けで料理をして、やはり宅配を始めて良かった、と思わせるべきか。それとも私好みの味付けで料理をして、これがうちの味じゃ! とうちのの舌に教え込ませるべきか。今、一番悩んでいる部分である。

BGM/アルバム「踊る一寸法師」
 朝食と言っても、先日大量に作って冷凍しておいたホットケーキを解凍してバターを塗って牛乳と一緒に出しただけである。それだけで、奇跡だ、ミラクルだ、と驚かれた。その言い方はないんじゃないかと問うたところ、今年初めての朝食に驚くのは当然だ、と。私の記憶では、今年に入ってから2〜3回は朝食を出したことがある筈。けれどそれがいつだったか思い出せない。ので、反論ができなかった。奇跡だ、ミラクルだ、と言われてもいいのだが、もう少し他に言い方があるだろう。普通に、有難う、戴きます、ご馳走さま、そんな風に言ってはもらえないものだろうか。単純に有難がってもらえると、また作ろう、という気になれるものを、こんな風に莫迦にされた言い方をされるとやる気を失くす。と告げたところ、期待していないんだから別に作らなくていいよ、との返事。期待されて裏切って怒られるよりも、期待されない方が楽ではある。楽ではあるが、少しくらい期待されたい気がしないでもない。どちらが楽なんだろう。

 ことの発端は昨日のこと。現在過眠期真っ只中の私は、昨日は3時間程度しか起きていなかった。後はずっと布団の中でぐっすり。休日、うちのが私を起こすときの台詞は決まって、飯は〜? である。何でもいいというので、言われるがままに昼食を出した。昨日出したのは無印のレトルトグリーンカレーに解凍した白米を突っ込んだ物。これでオカンムリである。起きたばっかりでこんな辛い物を出すな! はあ……。でも何でもいいって言ったじゃない。何でもにも程があるらしい。知らん。起きたてに辛い物は怒られると学習したので、今後は辛くない物を出そう。うちのがその食事を摂っているとき、私はぼーっとしていた。食欲もなかったので何も食べず、うちのが食べ終えた食器を片付けてまた布団に入って寝た。寝ている間にうちのが髪を切りに出かけた。のは何となく記憶にあるけれど、その時間などは覚えていない。寝ていたから。安眠を取っていると、うちのから電話があった。今終わったけど出てくる? 寝ているんだから出て行く筈がない。行かない、と言って電話を切って数時間後、うちのが帰宅してきた。夕食は? 鍋なら1時間、と答える。そんなに待てないと言う。炒飯なら20分と答える。……もうカップ麺でいいと言われたのでお湯を沸かし始めた。私の分も必要だし、薬缶に多く水を張りガスにかける。いつ迄経ってもお湯が沸かない。水を多く張りすぎたらしく、ピーと沸騰音がなるより先に、薬缶の蓋などからお湯が溢れてきた。怒られた。こんな不必要に水を沸かす莫迦が何処にいる! ここです。カップ麺を作り、うちのに出す。文句を言いながら啜っていた。文句を言われても過眠期突入中の私にはどんな言葉も、はあ……である。そんなに文句を言うなら、何時くらいに帰るからメシの支度よろしく、と言っておいてくれれば良かったのに。鍋は今夜に持ち越し。

 極々簡単な夕食を終え、また眠くなった私がごろごろしようとするとうちのがカリカリし始めた。もう寝ていろ! と強い語気で言う。あー、怒ってるよ……。しかも昨日は怒りが噴出していた模様であり、自ら小動物らの世話や掃除や洗い物をし始めた。いかん! これは非常にまずい事態。うちのがすすんで家事をするときは、必ず機嫌の悪いときなのだ。自分ですれば腹が立たないから、と言いつつこなす家事は実にいい加減で私が再度やらねばならない羽目になるし、何より機嫌が悪くなる。仕方なく小動物2の世話だけ私がした。うちのが居間に掃除機をかけ始めた頃に小動物2の世話が終わり、居間に戻るとうちのが掃除機を止めた。さあ寝ろ、早く寝ろ、とっとと寝ろ。もう起きていても碌なことがなさそうなので、言われるがままに布団に入った。寝る直前にソラナックスを入れることにも不機嫌。それは何だ? 抗不安薬。寝るのにそんな物が必要なのか。いや、寝る為に必要とかそーいうんじゃなくてね、血中濃度がね……。と説明したかったけれど、多分理解してもらえなかろう、と諦めて寝た。

 結局昨日は3時間くらいしか起きていなかった気がする。過眠期はそういう日々が続く時期なのだが、うちのには理解不能であるらしい。解ってくれと言うのが贅沢なのだろうか。規則的な生活をしなければ、という気概は常にある。でも体が思うように動かない。真っ当な生活を営んでいる他者から見たら、私のような不眠・過眠の繰り返しは悲しき哉、本能のままに動いているようにしか見えないらしいのだ。うちの曰く、あんたの生活は人の生活ではなくケモノの生活だそうな。ここ最近の私の生活は非常にローテンションである。ローテンション故に寝逃げに走っている。真っ当な生活者からすれば、ローテンションだろうがなんだろうが、真っ当に朝起きて夜寝る生活をしてこそ、人間であるらしい。自己保身の為の寝逃げという発想や行動はヒトのソレではないらしい。因って最近の私はヒト以下の扱いを受けている。悲しき哉、悲しき哉。ヒトとしてのソレを取り戻すべく頑張っているつもりなのだが、特に俺様気質のうちのには理解が得られない。他者はともかく、うちのには理解してもらえないと悲しいのだが……。

 さて、これからどうするべきか。うちのが出かける前に私も目が覚めたときは、朝食を出したいと当然思う。けれど朝食を出すことが日常になると、今度は出さない日に文句を言われることが目に見えている。このまま、うちでは朝食は出ないものだ、と思われている方が楽なのかもしれない。かといって、ずっと出さないことを基本にしてたまに出したときに、今朝のように奇跡だのミラクルだの言われるのも癪に障る。今朝、個人的な希望としては、うわ、朝ごはんだ! 有難う! という反応を期待していたのにこの有様。なんだか出した分だけ損した気分である。子供は褒められると褒められるよう努力する子に、貶されると所詮何をしても貶されるんだし、と自分に与えられた役割を自然と自分に課すようになるそうだ。体は大人でも精神的には子供の私。私がうちのに望んでいることは歪んだ幼少期を取り戻すべく、育て直し。どうか褒めて伸ばす教育を心掛けていただきたいものである。
 現在26日。

 土曜の話。幸いにもうちのはインフルエンザではなく、疲労からの喉にくる風邪だった模様。それは喜ばしいことなのだが、私よりも体温が低いくせに、やれだるい、やれ具合悪い、だのと抜かすのがやや気に障る。こっちはだるいのが常なのでいちいち言わないように心掛けるようになっただけで、基本的にはいつもだるいんじゃ! 今のおまいよりもきっと私の方が具合悪いんじゃ! などとは言わずに、渋々と眠剤が抜け切っていない体を起こして着替えてマクドナルドに昼食を調達に行き、ついでにうちのの為にホットレモンだのアミノなんちゃらというノーカロリーのペットボトルだの煙草だのを買い帰宅。もそもそと昼食を摂り、うちのが再び布団に入った。うちではいつも寝入り端に諍いが起きる。うちのの床に就く時間はまちまちであり、私は大概明け方に床に入る。まちまちなのに、うちのは寝るときに私が傍にいないと布団から嫌味を言い始めるのだ。既にその嫌味もパターン化しており、最初は、一緒に寝ようよー。次に、俺のこと嫌いなんだろー。最後に、規則正しい生活を送れ! とくる。最初とその次はいい。構って欲しいんだなあ、と可愛くすら思える。因って、嫌いなんだろー、が出てから寝付かれる分にはさほど腹も立たない。が、規則正しい云々が出てくると腹が立つ。うちのの寝る時間が一定していれば説得力もあるけれど、2時に寝たり4時に寝たりしている奴に規則正しい云々言われても、それは違うだろ、と。単に同時間に行動を共にして欲しいだけちゃうんか、と。

 常々そんな調子なので、昼食後にうちのが布団に入った際、私も進んで布団に入った。そして寝た。起きたら20時。うちのに、夕飯まだー、と起こされたのだ。ふらつきながら起きてスーパーに買いだしに行った。土曜の夕食は鍋物と数日前から決定していたので買い物は簡単……ではなかった。うちでは滅多に鍋物をしない。何故なら椅子を出さねば届かない収納場所にカセットコンロと土鍋をしまっており、私がそれらを取るのが面倒だから。うちのは鍋好きで、年に数回の鍋物の為の買い物時はいつも一緒にスーパーへと行っていた。土曜のうちのは風邪っぴきだったので一緒に行ってはくれず、私ひとりでスーパーへ。買い物籠を手に取り店内を歩きつつ途方に暮れた。はて、鍋の材料ってなんだっけ? 葱と白菜は入っていたと思う。あと椎茸。それから鶏肉。あ、豚しゃぶ用の肉が安くなってる。これも使うか。豆腐は絹ではない。木綿か焼きか。迷って焼きとうふを籠に入れ、近くにあったがんもどきも鍋に付き物のような気がして籠へ。魚介コーナーへ行き生食用の海老を発見。水炊きでありながらしゃぶしゃぶであり、また肉ではなく海老をしゃぶしゃぶっぽく食すのはオツな気がした。なので海老を手に取り、それから魚河岸あげ。鍋に合うかどうかは判らなかったけれど好きだから。最後に雑炊用の卵も。買い物終了。

 帰宅してカセットコンロと土鍋を出し、キッチンのガスコンロにて土鍋に少なめに水を張り昆布投入。出汁取り。その間に野菜等を切った。ダラ似非奥の私にしては珍しく椎茸には十字の飾り切りも施し、土鍋の湯が沸き浮いてきた昆布を取り出し、鍋に野菜やとうふや揚げ物類を投入。蓋をしてしばし待つ間に米を研ぎ早炊き設定でスイッチを入れたところで鍋に鶏肉も投入。またしばらく煮て居間に用意したカセットコンロ上へと土鍋を移して食事開始。失礼なうちのは受け皿に対して、ちゃんと洗ったか? 鍋に対して、ちゃんと昆布で出汁は取ったか? などと訊いてきた。最近段々解ってきた。うちのは失礼なのではなく、無礼なのかもしれない。失う為には最初は礼が存在していた筈だ。その気配が見えない。それはともかく、当然ちゃんと受け皿は洗っていたし、上記のように出汁も取った。土鍋の蓋を開け、うちのはきょとんとした。どうして鶏が煮えてないの? 最後に入れたから。間違っているらしい。どうも鶏は最初に入れるものなのだそうだ。今回私は昔、実家で鍋について話しているときに親から聞いたことを思い出しながら作った。親曰く、水は少なめにして白菜をよく煮てそこから水分を出させた方が美味しい。これが私の中の基本になっていたので、最初に野菜類を入れたのだ。違ったのか。ひとつ勉強になった。

 魚河岸あげは本来は鍋に必要ではないらしいけれど、好評だった。その代わり、がんもどきが要らない、と。次からはやめよう。ふたりで鍋を突付いてしばらくしてから、葱が入ってたのか! と驚かれた。白菜の下に隠れて見えていなかったのだ。そして葱には存分に火が通りとろっとしていた。私は長ねぎでも玉葱でもとろっとしている方が好きなのでこれでいい。うちのは葱にシャキシャキ感を求める。知らん。海老のしゃぶしゃぶは失敗。食べられなくはないのだけれど、外側は熱々で内側は冷や冷やという非常に口内が戸惑う結果に。従ってしゃぶしゃぶ状にして食すのは諦めて投入して煮えるのを待った。長時間食していると中身が減ってくる訳で、すると底も見えてくる訳で。以前、私は鍋を焦がさせたら日本一だか世界一だかと書いたことがある。土鍋にも通じていた。葱やとうふが焦げていた……。焦げをお玉で削ぎ落としてさて雑炊にと言うところで、うちのがお腹いっぱいと言い出した。なので雑炊は日曜に持ち越し。で、昨日の昼にまた、ごはんはー? と起こされて眠剤が抜け(中略、雑炊を作った。何かが足りない。醤油を垂らす。まだ何かが足りない。ああ、卵を落とし忘れた。うちのは不満気だったけれど、まあいいではないか。食えない物を出した訳でなし。それにしても買い物で途方に暮れた割には大した失敗もなく、そして鍋物はとても簡単だと知った。コンロと土鍋をしまうのも面倒なので暫く鍋類にしようかと思案中。また同じ水炊きでは芸がないし、牡蠣の土手鍋か鴨鍋か……高くつくなあ。鮟鱇鍋が食べたいけれど国産物の鮟鱇は近所には売っていない。取り敢えずはおでんかな。ダラ奥の多くが鍋祭・おでん祭を開催する理由がよく解った。因みに買出しから食卓に鍋を出す迄にかかった時間はちょうど1時間だった。楽ちん。

服装/セレクト物のネル素材ピンク地花柄ツインカットソー+A.P.C.のデニムパンツ+モナミピエルロのベージュのレザージャケット+ピンクの厚手のマフラー+パトリックの紺のスエードスニーカー

熱発症

2004年1月18日 食生活
 昨日の夕食Mに続き、今日は新宿のIへ。ほうれん草とマトンのカレーを食す。辛い。でも美味い。Iの難点はライスである。私はサフランライスなどの香辛料を混ぜて炊かれた米が苦手なのだけれども、Iには白ご飯という物がない。因って仕方なくナン。ナンはナンで美味しいのだけれど、やっぱり白米が恋しくなる。明日は家でごはんを炊いてカレーにしよう。カレー熱発症の模様。来週はBに行こうと思っているけれどBも白米はない。カレーってなんで1度食べると連続して食べたくなるのだろう。似た感じのシチューやハヤシだとそうはならないのに不思議だ。うちのの買い物に付き合い、カレーを食べて帰ろうという話になり、どこに行こうか相談するも埒が明かず、たまには行ったことがない店で、ということで今日は私が何年も前に数回行っただけのIにしたのだけれど、うちのは最初あからさまにがっかりしていた。ごはんでカレーを食べるつもりだったのに、本格インドのカレー屋だったから。出てからは、美味かった、と機嫌は戻ったけれど。気持ちは解らなくもない。今夜はロールキャベツだと思って楽しみにしていて、いざ夕食を食べようと食卓に着いたらメザシを出されたら誰だってがっかりする。もっと綿密に希望を聞いておけばよかったのかもしれない。

 その後、ミスタードーナツにて店内でのお茶とテイクアウトのドーナツ+コーヒーで無理矢理2000円分の買い物。来週末迄のキャンペーン景品が欲しかったから。今季の景品はボウル3組かパスタ皿2枚かキッチンスケール。どれも猫柄。全部欲しい。けれどキッチンスケールは450g迄しか量れないとのことでイマイチ実用性に欠け、パスタ皿は人気だったようで既に欠品。なのでボウルをもらってきた。可愛い。可愛い物は嬉しい物。ピングーなどのキャラ物もいいけれど、今回のようなシンプルな猫柄は激しく嬉しい。景品がなければミスタードーナツに行く回数は今よりも確実に減るだろうなあ、と思う。もしかしたら景品が気に入っても今後減るかもしれない。ポイントのシステムが変わってしまったから。以前はスクラッチカードで、銀色の部分を削ってポイントが出てきていたのに、前回キャンペーン辺りからスクラッチ形式ではなく、単純に200円で1ポイントとなってしまった。ということは、運次第で簡単に景品をもらえることはなく、欲しければ期間内に2000円以上を飲み食いせよ、ということだ。面白み半減。他のファーストフード店でもああいう景品プレゼントがあればいいのにと切に思う。マクドナルドのハッピーセットのようなオモチャオモチャしたものではなく、ミスタードーナツ位に実用性のある物で。うちの食器類には景品が多い。ティーポットひとつ、ティーカップふたつ、皿2枚、弁当箱ひとつ、カフェオレボウルひとつ、炒飯皿2枚、ラーメンどんぶりふたつがミスタードーナツの物。ティーカップふたつ、硝子のカップふたつ、スプーン類数本は今は亡き住友銀行のバンクー。それ以外の食器の多くはもらい物。自分たちで買った食器は1割もないかもしれない。従って、我が家の食卓に並ぶ食器類には統一性がない。けれどそれで困ったことは特にないので良し。

 帰宅後、うちのと「新・仁義なき戦い」を観賞。主人公ふたりに仁義ありまくりで苦笑。タイトル重視で観れば、主人公は岸辺一徳になりそうだ。キャストはまあまあ豪華。本家は1本目しか観ていないので比較は避ける。まあ、別物として観ればそれなりに楽しめた。浮いた芝居をする役者がいなかったのが良し。問題点はストーリーの構成と安っぽさ。構成に関しては、村上淳・哀川翔・大和武士の役割がよく見えない部分。重要なことをやってのけている割に、主要人物との関わりの根源が不明で唐突さが否めない。安っぽさに関しては、雰囲気がVシネ的というか何というか……。うちの曰く、60点。同意。個人的ツボはストーリーの一部に出てくるキーワードとキャスティングの妙。詳しくは書かないけれど、知っている人が観ればニヤリとなるのではないだろうか。さり気なくカムアウト? ってそれは勘繰り過ぎか。取り敢えず本家の2本目以降をまた見よう。これと同時に「ピンポン」と「人狼」をレンタルしてきた。近日中に観る予定。そのときにレンタル落ち1本100円のワゴンセールに「北京原人」やら「あぶない刑事」やらがあってうちのが欲しがって困った。激しく要らない。それより先に前に私が独断で買ってきて溜まっている「売春暴力団」などのやくざ映画をやっつけねば。「ピンポン」が面白ければ、「ドラッグストア・ガール」を観に行くかもしれない。今はきっと松尾スズキよりも宮藤勘九郎の方が稼いでいるんだろうなあ。

 ここんとこ、人と話しているといろんな人の口から、金が欲しい、一発当てたい、という言葉が出てくる。うちのが語る脳内一発金持ちプランはイリーガルなのでさておき、先日友人から出てきた一発話。近頃、家計簿をPCでつけている主婦が増えている。ふむ、私も似非だけれどそのひとりと言えるだろう。その主婦らはレシートを見ながらいちいち入力していくのは面倒臭かろう。確かに面倒だ。そこで考えたのだが、レシートにバーコードをつけてPC外付けのPOSを発売してレシートのバーコードから一発入力できる物を開発・特許取得・発売すれば当たるのではなかろうか。……無理だと思うよ。これはイケル! と思っていた友人に何故私が無理だと思ったかを解説。その方式だと内緒の買い物やヘソクリの作成や明細を書きたくない買い物の内容が露になるから。具体的なところで、例えばコンドームやタンポンを買ったとする。最近のレシートはよくできたもので、商品名迄打ち出してくる。それがそのままトレースされて家計簿に書かれるとなれば、うすうす、だの、ユニチャームスーパーサイズ、だのと入力される。これは嫌だ。少なくとも私は嫌だ。この手の物は、生理用品、程度にしか書きたくない。因ってそんなPOSは無用の長物。友人はがっかりしていた。一発とはユーザの身になって考えねばならないことなのだ。サイズを変更できる落し蓋とか。個人的に特許製品で最も欲しいのはドクター中松のジャンピング・シューズ。アレはどこで売っているのだろう。一般的な靴屋は勿論のこと、ハンズや王様のアイデアでも見かけたことがない。あれはローラー付のスニーカーなどよりも非常に楽ちんそうで欲しくて仕方がない。

BGM/アルバム「怪人二十面相」
 現在18日。

 昨夜の夕飯はハワイアンな雰囲気のカレー屋M。近所でありつつ行ったのは初めて。うちのも私もカレー好きではあるのだが、このMは以前某BBSにて賛否両論が書かれており、私はその否が引っかかっておりなかなかいく気になれなかった店で、先日友人にまあまあ美味しかったよ、と聞いたことでやっと行く気になった。アルコール類が充実している所為か、夕食時と思われる時間帯よりも後に行ったのに満員御礼の混み具合。青襟連中、うるせえよ。というのはともかく。まずメニューが面白かった。肉 ¥?。なんじゃこりゃ? 時価? こんな期待を持たせる書き方をしているということは所謂まんが肉であると脳内断定。そのうち注文してみよう。今日食べたサブメニューは鴨の焙り。予想外に美味い! カレー専門店なのにメインメニューのところに鴨丼と思しき物があって、これにも少し笑いを誘われた。私が注文したのは辛さ0の8分盛、うちのが注文したのは辛さ3の普通サイズ。最大の問題である味。問題なし。美味いには美味いが、病み付きになる程でもない。近いので、ちょっとカレーを食べたくなったらまた行くか、というくらい。うちのと私の外食カレーの基準は新宿のGである。そこと比べるとメニューは豊富だけれど、あそこのカレーが無性に食べたい! というレベルでは……。店員さんの親切さは圧倒的にMに軍配が上がる。辛さについて、量について、実に的確で親切な回答をしてくれて気分良く食べられた。昼間はバイキングになっているこのM。今度はランチタイムに行っていろいろ食べてみようか。

 私の行動範囲のメイン都市は新宿であり、ランチタイムにバイキングをしているカレー専門店は知っている限り2軒。カリーで有名なNとアルタ裏のI。ゆっくりと食事を楽しみたい人にはN、本格的なカレーを多種楽しみたい人にはIが適切かと。私はIの方が好き。何故ならマトンやグリーンカレーがあるからだ。Gにマトンカレーがあったら毎日でもGに通いたい。また西口のB。ここにもマトンがある。Bも美味しい。系統としてBとIは近い。それに比べてNは上品。Nに行くなら1階か地下の喫茶店の方がいい。いつの間にかNの地下のレアチーズケーキがなくなっていることに気付いたときはかなりがっかりした。あのブルーベリーソース、美味しかったのに。チーズケーキも多様化してきて嬉しい限りだけれど、逆に昔Nにあったような昔ながらとも言えるようなレアチーズケーキが減ってきている気がする。残念。それでもカリーがウリのNはカリーよりもケーキ類の方が食べる価値があるような……。

 うちのも私もお気に入りのカレー専門店G。いつだったかひとりで行ったときに作り方を訊いたことがある。当然ながら教えてはくれなかったが、毎回作るのではなく減ってきたら各種諸々を足しているとのこと。この回答だけで満足。家で作るカレーはこれができない。外食にあたり、代々秘伝の〜〜、というような話を聞くと私はそれだけで嬉しくなる。〜〜、はルーでもタレでも何でもいい。最初に作ったタネを寝かせて育ててと大事にしている感じが好きなのだ。その店の伝統と誇りを感じる。それでも不味かったり新鮮味がなかったりしたら論外な訳だが。家でその手の物を作ろうと思ったら何だろう。糠床か味噌あたりか。糠床は漬物嫌いの私にはちょっとアレだし、味噌は……果たしてどうやって作るのだろう? 調べてみようか。面倒だな。いいや。場所も取りそうだし。でも自家製の味噌で卵黄漬けを作ってみたい気もする。それに卵の殻を割るのが下手な私が、卵黄漬けを毎回失敗なく作れるかどうかが最初の問題だ。1度市販の味噌で試してみようか。昔Dという呑み屋で酒の肴に食べた卵黄漬けと同じ、せめて似た物が作れるだろうか。そしてアルコール禁忌となった私が、素面でそれを食べて美味しいと思えるかどうか。試しに市販の味噌で作ってみて美味しかったら、その後で自家製味噌の作製について考えよう。

 とまあ、昨夜はMで夕食を食べ、その後近くのセブンイレブンへ。私の中でのコンビニ中華まんナンバーワンは昔からセブンイレブンのあんまんなのだ。因って、あんまんを買いに行った訳で、レジであんまんを頼みバイトであろう店員のニーチャンが紙袋に入れようとしたところ、他のバイトであろう店員のネーチャンとオッチャンの会話が聞こえた。あんまん、もうできてたっけ? いや、さっき入れたばかり。入れたばかりというのは、スチーマーにということだろう。レジのニーチャンはその会話が聞こえているのかいないのか、トングであんまんを挟んで紙袋へ……というところで、やっぱりいいです、と私たちは店を後にした。できあがっていない中華まんを売るってのはどういうことだ。腹立たしいったらありゃしない。ネーチャン・オッチャンも会話でできあがっていないことが確認できたのなら、聞こえているかどうか不明なニーチャンに教えに行け! 苛々しつつ歩いて近所のスーパーへ。シュークリームか何かを買おうと思ったのだけれど、まだ〜円引き乃至半額シールが貼られていなかったので何も購入せずにスーパーを出たところ、後ろから知らないネーチャンに声をかけられた。唐突に、私、ライターなんですけどあのスーパーはどうですか? などと訊いてくる。は? 舐めてますか? 取材したけりゃ名刺を出すのが当然の礼儀である。相手の身分を訊く。某新聞系列の雑誌の取材でなんたらかんたら。身分を訊くってのはだな、名刺を寄越せってことだ。そして某新聞系列であろうとなかろうと雑誌名をちゃんと言え。仕事の仕方を知らない素人か。適当に答える。そしてそのネーチャンが去り、うちのと歩きつつ会話。うちの曰く、あんなに丁寧に答えることないのに。雑に答えたつもりだったが、それでもうちのにとっては丁寧の範疇だったらしい。うちの曰く、あそこは某宗教団体の系列で信者である自分はあそこで買い物しなきゃいけないんです、とでも答えれば良かったのに。確かにその回答は面白い。面白いけれど、折角便利な場所にできた長時間開いているスーパーに悪評は立てたくない。嫌いな方のスーパーに関して訊かれることが仮にあれば、その回答にしよう。面白いから。

BGM/アルバム「修羅囃子」

連敗

2004年1月8日 食生活
 現在9日になったばかり。

 ここ数日料理の話が続いている気がする。今日も料理の話から。去年末の大掃除の際、キッチンスケールを捨てた。ネットオークション出品物の重さを量る事以外に使い道がなく且つ上皿が割れていたからだ。私は学生時代の家庭科の授業以外でキッチンスケールを料理に使ったことは殆どない。大昔、お菓子作りに凝っていた頃は使っていた気がする。お菓子作りを目分量でやっつけられるのはかなり熟練者であり、ど素人の私にはとてもとてもだったからだ。今年に入ってから、毎日のように料理をしている。主材料も味付けも、全て目分量である。私のPCには、レシピ、というフォルダがあり、そこにはオリジナルレシピが詰まっている。簡単で好評だった料理のみ。このレシピ、他の人が使おうと思ったらかなり混乱すると思われる。塩・胡椒は全て、適当・適量、と書かれており、醤油や味醂は、鍋〜回し、と書かれている。〜には適当な数字が入る。要するに、鍋の大きさや個人の味付けの好みによって味が大きく変わるのだ。うちで使っている鍋やフライパン用のレシピでしかない。今のところ、問題はない。毎日のように料理を作るのに、いちいち計るなんて面倒なことはやってられん。小匙・大匙もティスプーン・カレースプーンで代用。いや、代用する日はまだいい。大概は瓶などから直接投入して色味で判断する。毎回味が違うなんて楽しいじゃないか、と自己正当化。

 今夜の献立は、鯖の生姜焼き・茶碗蒸し・鴨葱つみれの味噌汁・ごはん。茶碗蒸しは初挑戦だったので蒸し加減がよく判らず、かなりゆるめの仕上がりになってしまった。かなりゆるめ、は自賛し過ぎ。食卓に汁物2種というか、茶碗汁というか……。味は悪くなかったので、弱火過ぎたか、蒸し時間が短かったか。また雛祭頃に再挑戦の予定。茶碗蒸しの失敗はまだいい。酷いのは鯖だ。中迄火が通っておらず、レンジにかけたら胡麻油と生姜での風味付けが、魚の生臭さに負けてしまった。しかもまだ生っぽい。私は無頓着なので気にせず食べた。うちのは、他に食べ物がないので渋々食べていた。美味いと言ってもらえたのは味噌汁。市販のつみれ使用。空しい。何度か失敗料理を作ってはいるが、流石に連敗は初めてだ。うちのと敗因を探る。今夜の自作は3品。普段、私は1〜2品作って、もう1〜2品は市販のお惣菜やインスタント物で誤魔化している。うちの曰く、3品も作ったから全てに気が回らなくなってしまったのではないか。その通りのような気もする。1度に複数のことがこなせない鈍臭い人間には無謀だったらしい。これ以上連敗記録を伸ばしたくないので、明日は餅ラザニアとインスタントスープにしよう。これからは、少しずつ簡単な料理で複数品の調理に慣れていかねば。気が向いたら。

 失敗作ではあったけれど、今日の料理は楽しかった。昼間に買い物に出かけ、セール品だった大きな、これ迄の倍くらいの大きさのまな板を購入してきて初めて使ったのだ。新しい物を使うのは気分がいい。それに調理スペースが広がるのも便利だ。このまな板、流し台の向こう縁と手前縁を橋渡しできる大きさで、実質上の調理スペースは約4倍くらいになった。快適。まな板の素材が木ではないので、熱くなった鍋を置いたりするのは躊躇われるが、それでもいい。今迄使っていたまな板は、今迄の調理スペースにちょうどいい大きさであり、それ故にまな板を使うと他の作業が滞る羽目になっていたのだ。スチームトレイも買ったし、まな板も大きくなったし、我が家のキッチンはどんどん便利になってゆく。去年迄は、便利になった→気分がいい→満足、と自己完結していたけれど、今年からはちゃんと使っていく予定。あくまで、予定。予定は決定に非ずだが、習慣付けばいいなあという気はある。あくまで、気は。このまな板を買い、夕方、うちのにメールを出した。昼過ぎに出かけて文字通りでかい買い物をしてきたよ、と。その返信。昼過ぎって〜時くらいでしょ、青いコートを着てビニール袋をぶら下げて〜〜を通って帰った、違うかな? 違わない。どういうことだ? と思いきや、今日のその時間頃、うちの近所の喫茶店で打ち合わせをしていて、そこから私を見かけたらしい。いつ何処で誰に見られているか解らないものである。悪さはしないようにしよう。しないも何も処女回帰でできない体になっている訳だが。アチラはアレだが、今、穴を空けたくて仕方がない。友人が耳のピアスホールをひとつ増やした。羨ましい。私も片方に3つ、片方に4つのホールを空けたいと前々から思っているけれど、今のところ左右にひとつずつしか空いていない。過去に2度、他者に頼んでピアッサーでホール貫通を試みたけれど連敗。コスメボックスに今、ピアッサーがひとつ余っている。今度は自分で空けようか、それとも医者かボディピ専門店でニードルで空けてもらうか思案中。後者の方が確実だけれど、そうなるとピアッサーが勿体無い。来月中には空けるか空けまいか、空けるとしたら誰が空けるかを決めなければならない。暖かい時期にピアスホールを作るのは膿み易くなって危険だから。

 ここ迄書いて、手を休めた。腕の内側を何の気なく見る。松田優作の名台詞。右腕内側にみっつ、左腕内側にひとつ、線状の赤い傷があった。右腕には点状の傷もひとつ。小人サンが自傷……ではない。全て火傷である。鈍ちんな私は、フライパンの油跳ねも避けられなければ、気ままに飛ぶことなど絶対にあり得ない、熱くなったオーブントースターの扉に勝手に腕をぶつけたりしては傷を増やしている。しかもその場では、熱い、と思うのみで冷やしたりしないので片っ端から痕になっていく。諸事情故の自傷行為が全くない訳ではないけれど、癖になってはいないのが唯一の救いなのに、こんな腕では意味がない。悲しい。私の鈍臭さはノートン先生にも感染したらしく、最近上手く働いてくれない。どうしたものか。これではいろいろDLしづらいではないか。DLといえば、一昨日某アップローダから落とした某女優の主演ドラマの1シーン。このシーンがある故にビデオ化もされていない例のアレ。いい乳だった。うん。しかしだな。或る程度の覚悟を決めた上で脱いだのだろうに、ビデオ化不許可とは如何なものか。脱ぐなら脱ぐで後々のことも考えて脱げと強く主張したい。余談。この女優、私の最終卒業校の先輩である。卒業生の就職先一覧を見ていたところ、所属事務所の名前が書いてあり、まるでその事務所の事務員になったかのようで笑ったのを思い出した。

BGM/アルバム「修羅囃子」

元旦イヴ

2003年12月31日 食生活
 普段よりもかなり早めに夕食にジンギスカンを1時間半かけて食し、その30分後くらいにやっと満腹感を得られた。相変わらず可笑しな体である。夕食を早めにしたのは、年越し蕎麦を食べる為。昨日の日記をうちのに読んでもらい話し合い、いろいろと歩み寄って折衷案を出した次第。うちで蕎麦を作るのは1年半ぶりくらいだろうか。以前、蟲の湧いた蕎麦を湯がいてしまって以来、ずっと蕎麦は避けてきていたのだ。うどんは私が好きではないので作らない。今夜は年越し蕎麦をどうしても作らねばならず、けれども蟲が怖いので生麺を買ってみた。乾麺でない蕎麦をうちで作るのは初めて。果たしてどんな味なのやら。山芋を乗せてとろろ蕎麦にする予定。あんなに食後の年越し蕎麦に拘っていたうちのだが、今、余り食べたくなさそうである。うちのジンギスカンの締めは焼きそばになる。それで相当、満腹になってしまったようだ。でも作る。その後、簡単に御節と雑煮の仕込み開始。その合間にボブvs曙を見たいので入浴は元旦になる。ここ数年、ずっと私の年越しは風呂場だった。今年の汚れは今年のうちに、と昔の掃除洗剤CMのように大晦日に入浴するも、年内に入浴を済ますことができていなかったのだ。今年の汚れは来年落とすよう転向。

 話は変わって生活費。私が貰っている生活費は少ない。と私や私の友人たちは思っている。うちのは十分だと思っている。足りないと主張しベースアップを交渉したところ、環境の近い、同棲・結婚をしている友人たちに生活費を訊いてみろ、と言われた。うちで言う生活費とは、うちのの小遣い・家賃・水道代・プロバイダ料金を除いた額である。3人にリサーチ。皆、最低ラインとして15万と言ってきた。先日の友人が言っていた通り、やはり15〜20が相場らしい。この件の交渉は現在進行中。ベースアップされる・されないに関わらず、今月は足してもらわなければもう無理。現在の残りが既に5000円程度なのだ。年末年始は物入り。今日の夕方の買い物は、今夜の夕食と夜食、そして元旦の食事の分。それだけで8000円弱。普段、2日分でここ迄食費がかかることは流石にない。けれども、御節は品数を作らなければならず、更にメーカの価格設定が高い! なんで卵と魚のすり身と砂糖くらいしか使われていない伊達巻が1000円前後もするのか! ぼられている感が否めない。なのに買ってしまう卵好きな餓鬼舌の持ち主。栗きんとんは諦めた。小さなパックで1000円以上し、半額シールが貼られていても500円以上。高い。豆きんとんならもっと安いのだが、豆きんとんは好きでないので却下。黒豆も好きでないので金時豆に変更。今日、友人と電話で話をしていてこんな話になった。御節料理って美味いか? ふたりとも答えは否。何故、さほど美味しくないものを皆食べたがるのか、激しく疑問である。私は単品だけを見るのではなく、全体として見た場合、御節が嫌いだと断言する。なのに御節を有難がるうちの。譲歩して、私の好きな物だけ出すことに決定。うちに重箱がある訳でもなし、食べたくない物に出す金はない。

 明日の御節メニュー。
・筑前煮
・昆布巻
・数の子
・金時豆
・伊達巻
・スモークサーモンのチーズとハーブの巻物
・紅白なます
・紅白蒲鉾
 そして雑煮。下みっつは紅白の縁起物。サーモンはともかくなますも蒲鉾も好きではないけれど正月だから。あ、どうせ紅白ならエビチリの白葱散らしにでもすればよかった。やや後悔。今度作ろう。やや短めだが、そろそろ年越し蕎麦作りに取り掛からねばならないので、今年の日記は終了。よいお年を。

 タイトルは二ノ宮知子「のだめカンタービレ」の峰と真澄ちゃんの台詞より。

大喧嘩

2003年12月30日 食生活
 土曜からうちのが冬休みに入り、頗る機嫌が悪い。土曜は私が寝てしまい、夕食を家に常備しているレトルト物で済まさせてしまった。日曜は簡単ながら昼食・夕食を作った。夕食の献立は焼き魚。昨日は友人と昼夜外食した為、うちのの夕飯は作っていない。今夜はうちのは友人と呑みに行っている。日曜・今日とうちでは大喧嘩が繰り広げられている。昨日は喧嘩ではないがずっと嫌味を言われていた。まず日曜。土曜に寝てしまい夕食が作れなかったことに対し、ぐちぐちぐちぐちと嫌味の連発。その夜、うちのは小動物二匹への夕食もあげてくれなかった。そのことに対してのみ、日曜に苦言を呈した。うちのの夕食を作らなかったのは私が悪い。弁解の余地なし。けれど、小動物二匹は元々私がひとり暮らしの頃から飼っていたとはいえ、今はふたりで飼っている。私が寝てしまって起きないと判断できたのなら餌だけはやって欲しかった、と。この苦言に対するうちのの返答。小動物二匹の世話はお前の仕事、責任感を持て。責任感は言われる迄もなくある。それでもできない日というのがあるのだ。そういうときはフォローして欲しい、と頼んだところこう言われた。これで俺が餌をやって、お前が自分が寝ても餌をやってくれるからいーや、と甘えられたら嫌だ。……感謝こそすれども、それでいーやとは決して思ったりしない。でもあんたはそういう目で私を見ていたのか。もうがっかりである。本当に悲しくなる。ちゃんとした生活をしろ! する気を持て! とも言われた。ちゃんとした生活リズムを築きたい気持ちは常にある。でもできない。常に自己嫌悪。できていたら働きに出ている……。私のPD・諸事情を解ってくれてはいなかったのか……。後で、感情的になり過ぎた、と謝られたし感情的になる気持ちも理解はできるのだが、数日経っている今でも悲しい。働きたくても働けない私にとって、稼いでいる者が偉い理論は非常に惨い。このことは冷静なときはうちのもよく解ってくれているのだが、感情的になるとやはり出てしまうようだ。感情的になっているだから仕方がない、とは思えない。悲しいものは悲しい。

 今日の喧嘩は、うちのが冬休みに入ってから全く飯を作ってもらっていない、とうちのが言い出したことに始まった。おまいは一昨日何を食いましたか、と小一時間(以下略。土曜は私が全面的に悪かった。日曜は簡単ながらもちゃんと作った。昨日は私は外食してきた。夕飯も外で済ませてくる、と電話したときにうちのは、わかった、と言ってすぐに電話を切った。なのでうちのの夕食の買い物を素材も弁当も何も買わずに帰宅した。うちのが、俺は食ってないからなんか買ってきて、と頼んでくれていたら当然買って帰った。しかし。私が出かける際に、俺もどっか出かけるかも、と言っていたうちのである。私の用件を聞いてすぐに電話を切られ、家にいるのか外にいるのかも判らない。そんな相手に無駄になるかもしれない夕食を買って帰る人はいるのだろうか? そしてそんな相手に、気が利かないと言われて腹を立てない人はいるのだろうか。いるかもしれない。でも莫迦だと思う。そして今夜。うちのは友人と呑みに出かけた。うちのの脳内では、冬と言えば鍋、という図式があるらしい。私にはない。なので言われなければ作らない。そもそも私は余り鍋が好きではないのだ。言えば作る。今迄言わないでいて、鍋が出てこない、と急に言われても私には、またいちゃもんかよ、としか思えない。また、がポイント。

 本来、昨日の夕食はジンギスカンの予定だった。けれども友人とラーメン話に花が咲いて今日に持ち越し。ところが今日になってうちのが、友人と呑みに行く、と言い出した。因ってジンギスカンは明日の夕食になる。夜は年越し蕎麦だから。これがうちのには解せなかったらしい。そういえば、去年から今年にかけての年末年始にうちのの実家に泊まりに行ったとき、夕食後に蕎麦が出て私は少し驚いた。私の家では大晦日の夕食=蕎麦だったのだ。育った環境の違いは大きい。100歩譲って明日の夕食にジンギスカン、その後で蕎麦を提案したのだが、鍋に拘り続けるうちの。元旦は雑煮、3〜4日は旅行なので2日に鍋でいいではないか。よくないらしい。とにかく年内に鍋を食べたく仕方がないようなのだ。鍋の後のおじやは大好きだが、鍋そのものってそんなに美味いか? 解らん。年を越してもまだ冬だろ! 2日でいいじゃないか! と言うもうちのはずっと怒っていた。妥協案として、明日の昼にジンギスカン、夜に鍋を提案するも、昼からジンギスカンはイヤだ、と却下された。こちらも苛々が募る。手の込んだものが食いたいだの何だの言うが、鍋だって切って煮るだけじゃねえか! と。心の中の叫び。元旦の食事にも話が飛んだ。私は雑煮しか作るつもりがなかったのだが、うちのが御節が食べたいなどと言い出した。あれは手間暇がかかるんじゃ! 金もな! と喉元まで出かかるも飲み込む。大人。ネットで簡単で余り金額のかからない御節を検索していると、うちのが、御節はいい、と言い出した。どっちじゃ! 解った、では雑煮だけ作る、と言ったら激しく抵抗。私は過去に2度、雑煮を作って悪評を得ている。1度目は確かに自分でも失敗だったと思った。2度目は美味しくできたと思ったのに、うちの曰く、また鶏がらの味しかしない。私が作る雑煮は鶏がらで出汁を取るのだ。初回は鶏がらスープの取り方を失敗した自覚がある。2度目は市販の鶏がらスープを利用。私にはかなり美味だったのだが……。そしてこうもイマイチと言い続けられると、どうにか同じ出汁で美味いと言わせたいと思うものではないか。因って来年の雑煮も鶏がらベースで1・2回目の失敗部分を補正しつつ作る予定だったのだが、やめた。出かける直前にうちのが、お前の雑煮は不味い、と言い放ったのだ。苛々爆発。もう2度と私の作ったもんは食うな! 食わねえよ、その代わり何も作んな! 作るなってことは私は何も食うなと言うことか。腹立たしいことこの上なし。

 明日の昼はジンギスカンの予定、夜は鍋、夜食に蕎麦、元旦は簡単な御節と雑煮を作る予定。雑煮は鰹ベースの淡白な物を作ろうかと思っている。頭を下げてくるまで絶対に食わせてやらん。何度も本人に指摘している、うちのの一番悪いところ。良いところや上手くできたことを褒めずに、その近くにある悪いところやできていない点を貶す。例えば、今日は洗顔後にゴマージュパック→角栓取りパック→美容液パックをした。肌はしっとりもちもちのすべすべである。それをうちのに言うと小さなニキビを見つけて、ここ吹き出物あるよ。瑣末なところではなく全体を見ろ! キッチンの掃除をしたと告げる。居間の掃除は? 今日は! キッチンを! 掃除! したと! 言っている!! 大体言わなきゃ気付きもしないくせに難癖ばっかりつけてくんな! キッチンでも居間でも掃除したと言って、綺麗になったね、と言われたことが殆どない。料理をする。珍しい、100ヶ月ぶりだ、などと言われる。100ヶ月前、私はあなたと知り合っていませんが、何か? この日記を読んでいる男性がどれくらいいるか解らないけれど、こういう物言いは気をつけるべきだと思う。できたことや作った物を褒められたり喜ばれたりすると、またやるぞ! と思うが、別の箇所の粗をそのときの物事と比較して貶されると途端にやる気が失せる。その最たる例。うちのはよく私に、〜〜できたことが一度もない、〜〜したことが一度もない、という言い方をする。できたこと、したことがあっても。毎日・毎回のことでなければ、たまのことだと全てなかったことになるのか……、ととても侘しくなる。どうせ忘れられるのならできなくて・しなくていいや、と思わされる。今日、うちのが出かける際に着ようとしていたコート。かなり前にボタンの付け直しとポケットの補修を頼まれて糸を買ってきた放置していた…
 今日も午前中に目が覚めた。良かった。今日は夕方に目が覚めてはいけなかったのである。ケーキを焼かねばならなかったから。起きて一服してケーキ作りに取り掛かる。メレンゲを作らなくていいから楽チン〜と思っていたら甘かった。卵と牛乳と粉Aを混ぜ、もったりする迄ひたすら泡立て器で混ぜる。ひたすらひたすら。激しく右腕が痛い。右肩も首も痛い。明日は右上半身筋肉痛必至。電動泡立て器が激しく欲しくなった。過去にも欲しくなったことは何度もあるものの、1度も購入したことがない。きっとすぐに使わなくなるだろうことが明らかだからである。もったりしてから粉Bを混ぜ、型に流し込み後は焼くだけ。焼くといっても、私が使うのはオーブンではなく炊飯器である。うちの炊飯器は去年だか一昨年だかに買い替えて、今はIHジャーとなっている。ダメ。白米・玄米を炊く際や炊き込みご飯を作るときはいい。しかしケーキは焼けなかった。炊飯器の内釜にケーキの型を置き、そこにタネを流し込み2度炊きすれば完成、となる筈だったのに炊飯機能が働かないではないか! やむなく型から内釜そのものへとタネを移し、早炊き・煮沸コースで2度炊きした。ふんわり度よりもしっとり度の勝ったスポンジになったのは、ご愛嬌。竹串にタネがついてきたりはしなかったので生ではなかろう。腹を壊さなければ良いのだ。スポンジを冷まし、デコレーションもし、後はうちのの帰宅を待つばかりである。予想以上に疲れたケーキ作りではあったが、時間はそれ程かからなかった。ケーキのデコレーションをしているあたりから妙にテンションが上がってしまったので、だるかったけれども寝ないで掃除に取り掛かる。

 今日した掃除。キッチンはタイル部分と扉部分と冷蔵庫・電子レンジ・オーブントースターの拭き掃除及び床の掃き掃除と目立つ汚れの拭き掃除。タイル部分はどうしても手の届かないところがあり、そこだけ汚れが残っているが仕方なし。その後、洗濯機の掃除。外回りの見えている部分と蓋の表・裏、洗濯層の上部。洗濯層そのものは今、浸け置きしている。残る掃除すべき部分は、ガスコンロ周り及び換気扇、玄関、小動物2匹の小屋と寝床、居間と玄関の照明のみとなった。照明と小動物の小屋はうちのにやってもらう。私では手が届かないし、小動物の寝床はともかく小屋は風呂場で中腰になって洗わなければならないので腰痛持ちの私には無理なのだ。主婦って凄い。毎年こんなことをしているなんて、尊敬する。私にはできない。尤も来年からは英国淑女になるので大掃除などしない予定。今日はケーキ作りと上記掃除をして現在19時30分。食事を摂っていないことに今、気がついた。空腹を忘れる程に掃除が好きになってしまったのか。無論そんな筈はなく、気付いたらこんな時間になっていただけの話である。3訂予定表よりもかなり進んでいる。良き哉、良き哉。

 昨日悩んでいた、うちのへの誕生日プレゼントの渡し時。結局うちのはいつも通り終電で帰宅し、終電となったからには当然午前様であったので、テーブルの上に気付くように置いておいた。なのに気付かない……。仕方がないから開けるように促し、やっと渡せた。今年の誕生日プレゼントは、肩と首の凝りを解す物にした。電子レンジで1分暖め、それを肩と首に乗せるとぽかぽかして血行が良くなるという代物。使わせてみたところ、気休め程度には効果があったようである。プレゼントは気持ちなので、気休めでも構わない。私も借りてみたらなかなかに暖かく気持ちのいい物だった。やっぱりこれにして正解だった。私も時々借りることにしよう。肩凝り腰痛十年選手の私は、健康グッズが好きなのである。どれもそのうちに飽きてしまうのだが、今迄にもアイピロー、足ツボ刺激板、カステラ枕、肩と腰の凝りを解す物などいろいろ試してきた。何故どれも飽きてしまうのか解らない。カステラ枕は効果がなかったからだと解っているのだが、その他は不明。きっと使い終わってしまってしまうと、次に取り出すのが面倒になるからだろう。不精、ここに極まれり。うちのは今年になってから肩凝りが始まった。プレゼントを物色しに雑貨屋に行ってパッと目に付いたのがコレだった。悩まずに閃きで買う物の方が、ことプレゼントに於いては喜ばれる、というのが私の経験則である。

 誕生祝いのメインは、昨日も書いたように今夜の夕食である。タンシチューは私が作った物とは思えない程良くできた。唯一私らしさが出たのは、鍋底だ。こんならしさも激しく不要なのだが、鍋を焦がさせたら日本一かもしれないというくらいに私はよく鍋を焦がす。今回も新品の鍋を使ったというのに、1回の使用で1年は使い込んでいるかのような鍋に変身させた。鍋底を焦がした場合、水を張って火にかけて沸騰させると自然に剥がれるという。嘘だ。いや、嘘ではないかもしれないが、私が焦がした鍋はそんな甘い方法で綺麗になったりはしない。スチールタワシで無心にこそげ落とす。今回の焦げっぷりは過去最強であり、排水溝から水が流れなくなった。うちの生ゴミ入れは排水溝への嵌め込み型であり、愛用している生ゴミネットはストッキング状の物だ。こそげ取られた焦げにより、目詰まり発生。素手でネットを撫で回して目詰まりをなくす。実に嫌な作業である。食品は何故一旦生ゴミ入れに入ると、その直後から汚い物として認識されるのか。焦げも元は食品だった筈である。しかし黒くなった瞬間から汚物。無心に数十分鍋底を擦り続け、やっと焦げはなくなった。鍋底が綺麗になった分、爪がぼろぼろになった。スチールタワシを使うときは必ずゴム手袋を着けよう、と毎回思う。毎回=鶏頭なので毎回忘れて爪をぼろぼろにしているということだ。どうにも学習能力が足りなくていけない。そしてスチールタワシは爪だけでなく指先もぼろぼろにしてくれる。おまけに鍋に突っ込みっぱなしでかき混ぜに使っていたおたまが何製だかしらないけれども熱くなる物であり、指先に軽い火傷も負った。これも毎回、お玉を触るときは鍋掴みを(以下略。我が身はぼろぼろになったが、作ったシチューに焦げの匂いは移っておらず、また懸念していたタンの皮もついていなかったので楽にスライスできた。終わり良ければ全て良し。今夜、美味しい、と言ってもらえることを願うのみ也。

貧乏体質

2003年12月3日 食生活
 やはり風邪をひき、くしゃみ連発で目が覚めた現在12月4日午前。

 頭が重く、寒気が続き、くしゃみ連発、ハナミズずるずる。疑う余地は皆無。風邪だ。耳鳴りは昨夜のライヴの残遺症状だろう。電子レンジの鳴る音が遠くに聞こえるし、エアコンの動く音に至っては何も聞こえない。通常ならば一晩経てば耳鳴りは殆ど消えていたのに、今回はかなり長引きそうな悪寒。首に違和感があり、後ろに反らすことに怖さを伴う。普段は鳴らない関節がパキポキと音をたてる。脚には既に筋肉痛の症状が出ている。明日は全身筋肉痛必至。こんなに具合が悪いのに、通院がさぼり気味になっていた為、明日は主治医の元にも行かねばならない。今日はうちのに居間を掃除をするよう言われた。具合悪いんじゃ! とは言えずに了解した。ライヴやイベントに行く日の前後、私は普段以上に家事をする。うちのが稼いできてくれた金で、うちのが仕事をしている最中に、私はライヴで快楽を得る。そこにうちのへの感謝と申し訳なさが生じるのか、勝手に体が家事をする。ライヴ前には洗濯やキッチン・玄関の掃除と片付けをした。夕食も普段よりやや豪華になったりする。先日の豪華且つあっさりな夕食は、ふぐの湯豆腐及びその出汁を使った卵雑炊であった。あっさりが勝ったようで、昨夜のライヴ時の体調はまあまあ。体調不良とは腹具合のことだったのだ。

 私は日常に於いてジャンクな食べ物ばかり摂取している。コンビニやファーストフードで買えるお手軽な食事ばかりだ。それが日曜、うちのからうちのの親の意見を聞いた私はしょげていた。そこに降って湧いた、うちのからの有難いお言葉。焼肉でも行くか。行く! 即答。で、行ったのは近所にありつつも一度も行ったことがなかった焼肉屋。これが美味かった。食欲不振からは脱しつつある為、それはもうばくばくと食べた。うちのは魚の方が好きである。煮る・焼くは肉も魚も好き。けれど生魚はよくても生肉はやや苦手。私は煮る・生はどちらも好き。焼き魚の一部が苦手。骨を取るのが面倒だし下手だから。そんな嗜好の私は、焼肉屋に行ったら必ずハラミ・カルビ・タン・レバ刺しを注文する。入った店にレバ刺しがなければ、チッ、ハズレか、と落胆する。レバー克服のきっかけは数年前、ホステスをしていた頃に遡る。馴染みのお客さんが焼肉に連れて行ってくれたときのこと。レバーが苦手だと言う私に、まあまあまあ、と強引にレバ刺しを勧めてきた。相手はお客さんなので渋々食す。美味い! 焼いたのと全然違う! ぐにぐにじゃなくてシャキシャキ! 嵌った。それ以来レバ刺しは大好物となり、ニラレバなども好きになった。日曜に行った店は肉の質が良かった。レバ刺しも新鮮で美味。ふたりで3皿注文し、私ひとりで2皿分食べた。うちのは余り好まないユッケも1皿注文。ひとりで皿を抱えて掻き込んだ。希死念慮の強い精神病の嫁候補ということで、うちのの親は心配・反対をしている。我ながら、嫌な嫁候補だと思う。それが、生肉好きの希死念慮の強い精神病の嫁候補、となると嫌さ倍増。知られないようにしよう。只でさえ、うちのの家族と私は或るひとつのメニューに於いての価値観が大きく違うのだ。そのメニューとは鍋。私は相当仲のいい他者以外と鍋をつつくのが苦手なのだ。特に直箸なんて論外。よく知らない人の作ったおむすびも苦手。他人を汚いと思っている自覚はないのだが、これらを考えるとどこかでそういう意識が働いているのだろう。前回、うちのの実家に行ったときは私に気を遣ってくれて鍋は避けてくれた。下のお姉さんが、うちのと私が帰る日に言った独り言が忘れられない。今夜は鍋ね! ……私への嫌味か?

 ともかく焼肉。久々に豪勢な物を食してほくほくと帰宅した。そして味の感想を述べ合う。私が、美味しかったけどちょっと塩気が強かったね、と言うとうちのが、あんたでもそう思ったのか! と。うちのは薄味好きで、私は濃い味付けが好きだ。うちで台所に立つのは私なので基本的にうちのメニューはどれも味付けが濃い目だ。うちのも段々それに慣れてきてくれてはいるが、それでも少ししか箸を付けない物もある。魚のアラ煮。私は下茹でせずにいきなりだばだばと醤油を注いで煮込み始める。いや、ちゃんと出汁やみりんや生姜も使うが、魚で一番好きな部分は血合いなので臭みも風味と脳内変換されている。うちのは血合い自体を余り好まない。1回だけ、うちのに譲歩して下茹でしてからアラ煮を作ったことがある。そのときは美味いと言ってたくさん食べてくれた。私にとっては水臭くてイマイチだったのだが。そんなうちのは、焼肉を食べつつとても塩辛く感じていたらしい。店では特にそういうことを言わずに私はがっついていたので、薄味好き故に感じる塩辛さだと思っていたらしい。そして私にも少し塩がきつかったと言ったことで、あんたがそう思うくらいなら相当だよ……、と。

 翌日から腹具合が芳しくなくなった。塩気の所為かとも思ったがどうも違う。普段食べつけない豪華な物をたくさん食べたからでは? とうちのに言われた。納得してしまった。日常の中で私はいろいろな面で貧乏根性を発揮している。いつの間にか体質迄も貧乏になっていたようだ。これは悲しく、そして我が身を哀れに思う。なので火曜の夕食は、ふぐ。貧乏体質ではない! 塩気の所為の不調だ! と証明したかったのだ。結果、腹具合は良くなった。けれどもこれが豪華な食材も大丈夫という証明になるかどうかは、まだ疑問が残る。うちで使ったふぐは安価なとらふぐだった。もっといいふぐを食べたらまた不調が起きるかもしれない。早く証明したいので、年内にいいふぐ屋に連れて行って欲しい、とか書くとうちのにまた金食い虫呼ばわりされそうだ。いいふぐ屋はちょっとした焼肉屋よりもかなりお値段が張る。なので叙々苑の特選カルビで焼肉へのリベンジがしたい。どちらにしても贅沢だ。そしてこれでまた腹具合が悪くなったら、貧乏体質所持者決定である。少しずついい食材に慣らしていく方が賢明かもしれない。ヒラメの縁側とくじらの刺身が恋しい。

BGM/耳に耳鳴り、脳内で愛しの君が、後ろの自分に叫ぶのだー! などと唄っている。
 ここ2年ばかり、うちのは凄い。毎月のように1ヶ月の残業時間が200時間を越える。とにかくよく働いている。土日出勤や平日泊まりになることも当然のようにあり、帰宅しても1日の睡眠時間90分なんてことがざらにある。しかも根を詰めて仕事するタイプなので、これ迄は縁のなかった肩凝り腰痛にも悩まされ始めた。いつ過労死しても不思議はない。本人も、このままじゃ死ぬ、転職したい、とよく溢している。そして今日、遂に倒れた。昨日から39.0℃前後の発熱が続いている。それでも打ち合わせだなんだで出社の必要があったらしく、午前中は行こうかどうしようか考えていたようだが、午後になってからは、もう知らん、と言い出して今は寝ている。私は年に1度、40℃近い熱を出して倒れるのが恒例となっている。しかしうちのがこれだけの発熱をして倒れたのは、この4年で初めてだ。近所の内科に行かせたら、2時間近く経ってから、薬だけもらって怒りながら帰ってきた。前回私が倒れたときには点滴を打たれたので、てっきり同じように点滴で時間を取られたのだと思っていたのに、どうやら殆どが待ち時間であったらしく、点滴も注射もなかったらしい。薬局の薬剤師さんが他の客と話しているのが聞こえてきたところによると、今年の風邪は高熱が出るものらしいので、うちのは病院で適当に扱われたようだ。

 その昔、私は飽きっぽくもあったが凝り性だった。ひとつの物事に嵌ると毎日それに時間を費やし、他のことはしなくなる。その中で料理に嵌って凝った物を連日のように作っていた時期がある。同棲を始めた当初と狂牛病騒動が大きかった頃だ。特に狂牛病騒動のときは牛関連食物を全て排除し、カレーは市販のルーに頼らずにスパイスから、ミートソースも缶やレトルトに頼らずに鰹を叩いてトマトで煮込んで作ったりしていた。家事全般の中で特に好きなのは料理である。けれども病んでからは慢性的な抑うつで余り料理をしなくなった。昨今の疲れと昨日の読書疲れで昨日は早々に床に着き、帰宅したうちのの相手もせずに寝ていた。久々に熟睡できたのは良かった。それなりに気力と体力がなければ、数日だけであっても看病などできない。今日は寝覚めも良く、午前中から近所のあの憎きスーパーに買い物に行ってきた。あのスーパーで買い物などしたくはなかったが、行きつけの八百屋は夕方近くにならないと開かないので、仕方がなかったのだ。買い物前にネットで風邪に効く料理を検索。うちにもレシピ集はあるが、食材別や所要時間別のものであり、体調不良の症状別などと言うものはない。ネットは本当に便利だ。

 昼食に作ったのは、厚揚げと茸類の炒め物及びニラ玉粥。厚揚げと茸類は本当は炒め物にする気はなかった。当初は私のオリジナルレシピである、厚揚げの茸あんかけを作る予定だったのだ。急遽変更の理由は、茸類を炒めたときにちっとも水分が出なかったからである。水分が出たらそれに片栗粉を加えてとろみをつけ醤油と若干の塩胡椒で味付けし、オーブンで焼いた厚揚げにかけるのが本来のレシピだ。ニラ玉粥は、検索で引っかかった発熱を伴う風邪に効くおじやレシピを基本だけ押さえて簡略化した物だ。発汗作用の最も強い野菜は生姜だと書かれていて、そのおじやに必須の野菜として生姜・大蒜・葱・ニラが挙げられていたので、それらを胡麻油で炒め、ごはんとシラスを加え、だし汁で煮込んでから溶き卵を落としてひと煮立ちさせて完成。私にはまあまあ美味しかったが、うちのには生姜が強すぎると言われた。確かに生姜は多く入れた。けれどもそれは、風邪をひいたうちのの発汗を促す為である。そこに文句を言ってくるとは恩知らずめ。ややムッときたが相手は病人。我慢しなければならない。それにうちのは、私が肉体的に具合の悪いときや精神的に徹底的にダメなときは基本的に優しい。仕事により慢性疲労なので食事を作ってはくれないが、仕事帰りにレトルトのお粥や私がリクエストした桃缶とプリンはちゃんと買ってきてくれる。同棲も長い所為か、この頃では風邪での発熱・食欲不振を訴えると、リクエストしなくても桃缶やプリンを買ってきてくれるようになった。点滴を受けなかったと聞き、買い物に出る前にはポカリを買ってこようと思っていたのに、すっかり忘れて帰ってきた私とは学習能力が違う。

 同棲し始めたとき、私はレパートリーが乏しかった。また味付けの勘も悪く、酷いものを作ったこともある。その中には未だにうちのにとって忘れられない料理もあるらしい。うちのは褒めない人間だと前にも書いた。料理でも、美味い、と言うことは少ない。美味しいときはまあまあ、不味いときは味見をしないことを怒られる。私は味見をしないのだ。そして作るときは、1度でも作ったことがあるものなら全て目分量で味付けしてしまう。なので毎回微妙に味が違っていたりするが、私はそんなに気にはならない。毎回、それなりに美味しい、と思える。うちのが言う私が作った中で忘れられない料理は3つ。まず大根の黒胡椒炒め。これ程辛い物は食べたことがなかったらしい。敗因は、適量の黒胡椒では見た目に物足りなくて適当に見栄えが良くなる迄胡椒の量を増やしてしまった点にある。次に雑煮。私には美味しかったのだが、うちのには、鶏がらの味しかしない、と酷評されて鍋いっぱいに作った殆どを私ひとりで食べる羽目になった。最後に蕎麦。この敗因は私の点検ミスである。乾麺の蕎麦を取り出したときにも湯がいたときにも気付かなかった。食卓に出し、食べ終わる寸前にうちのが言った。おわんの中を見せつつ、これ何……? と。観察したところ、蟲の幼虫だった。うちのはすぐさまトイレで吐いた。私も吐こうとしたが、やや嘔吐恐怖の気がある為、吐けずに終わった。暫くは腹の中で孵化したらどうしようと不安ではあったが、湯がいている時点で死んでいた筈だし、私は今も生きているので大丈夫だろう。それにしても蟲の湧いた物を食べさせられても、私と結婚したいと言ってくるとは何と奇特なうちのだろう。大切にしなければ、と今これを書いていて改めて思った。

 今は食材点検も欠かさないし、凝った頃の勘も失っていないので、そんなに酷いものは作らない。うちのに褒められた料理も幾つかある。スルメイカ炒めのバルサミコ酢和え・市販ルーを使ったカレー・鳥はむのゴールデンスープを使ったラーメン・市販のパンプキン・スープと缶詰のミートソースを使ったパスタなど。共通して言えることは、どれも手がかかっていない物だということだ。簡単で単純な料理程好評。解せない。いや、腹が立つ。これではまるで私が手をかければかけるだけ、料理が不味くなっていくようではないか! うちの曰く、家では家庭料理らしい単純な物の方がいいんだよ、とのことだが、手をかけた物程褒められたいというのも作る側の人情ではないか。今夜の献立は豚汁と大根と鶏の煮物の予定。気力があれば里芋の煮っ転がしも作るか。一度でいいから凝った料理で、美味い、と言わせてみたいという野望がまた湧いてきた。テールシチューにでも挑戦してみたいところだ。問題は、いつになったらそんな大作に手を出す気力が戻ってくるかである。うちのの風邪が治ったら、元通り料理からは縁遠くなりそうな予感だが。