梅雨ってなんだっけ? というような晴天続きの日々。たまに雨が降ってもすぐに止んでしまったりで、真夏の断水が怖い今日この頃。節水の為に入浴回数は控えめで……。とにかく暑くて機嫌が悪い。うちのとも顔を合わせると言い合いになる芳しくない傾向。今朝はTシャツについての言い合い。うちのは日頃、釦ダウンのシャツのインナーに、半袖Tシャツを着ている。半袖Tシャツは主にユニクロの3枚パック。私には洗濯をするときに、襟元の汚れなどをチェックする習慣がない。と言うのもチェックしたところで、まだ大丈夫でしょ、と全て問題なしと判断してしまうのだ。目立つシミなどがあれば別だが、全体的についた汗染みなどは気付かない。うちのはそういう点に煩い。今朝シャワーを浴びてからTシャツを着て、これ襟元が黒ずんできているよ、と言い出した。そうか? 私にはよく解らん。黒ずんできてるんだよ! はあ。買い足しといてよ。明日でいい? なんで明日なんだよ。今日は出かけるつもりなかったし。普通は言わなくても彼女なり奥さんなりが気付いて買っといてくれるもんだろ。はあ。あんた、こんなシャツを彼氏に平気で着せている彼女だと思われていいの? 別にいちいちそんなとこ見ないし。なんでも自分を基準にするのは良くない! 俺は見るよ! はあ。じゃあ買ってきて。えー……、今10枚はあるでしょ。ないよ! あるってば。じゃあ数えてみろよ、なかったら買ってきてよ。と、数えてみると、インナー用衣装箱の中に半袖Tシャツが7枚+外に干してあるのが2枚+洗濯籠に1枚。ちょうど10枚あるよ。衣装箱の中だけであるかっつってんだよ! 最初そんなこと言ってなかったじゃない、全部合わせて10枚あるってば。もういい! 腹が立つから口を利くな! ……。

 そのまま無言で通しはせず、ちゃんと普通に喋ってからうちのは仕事に行った。暫くして電話あり。直ぐに切れた。着信履歴を見ると親からだったのでかけてみた。私がまだ寝ているかと思って即切りしたらしい。因みに着信時間は9時半過ぎ。ここ数日、私は22時頃寝て、5〜8時の間に起床する激しく健康的な生活。親の用件は、祖母の健康状態とお盆の帰省についてだった。祖母の具合が著しく悪くなっているらしく数ヶ月前以上にやせ細っている上、もうベッドから自力では起き上がれないとか。長くはないらしい。親曰く、今年の冬迄は持たないだろう。親孝行として孫の中で一番可愛がられていたあんたを会わせてあげたいから、お盆に一緒に行かないか。深夜バスのチケット発売日迄に連絡をくれ。お盆帰省の打診は前からあり、今も迷っている最中である。祖母は私に会うと喜んでくれる。私も祖母が好きだ。しかし。前回祖母の見舞いに行ったとき、もう会いたくないな、と思ってしまったのだ。ひとりでは動けない、食事の嚥下も苦しそう。そんな祖母を見るのがとてもつらかったから。これは私の我侭である。まだ先がある者の我侭よりも、老い先短い者の希望を叶えるのがひととしては正しかろう。それでも私は見たくない。元気だった頃の祖母の姿を鮮明に覚えておきたいのだが、会うと私の記憶の中で苦しそうな祖母の姿の方が色濃くなってしまう。親に、祖母を見るのがつらい、ということを伝えた。そして行くかどうかもう少し考えさせてくれ、と。すると、こういうのは人によって考え方が違うしいいよ、今つらくて会わないで後々後悔するか、会いに行くか考えなさい、と言われた。これはもにょる。

 親が親孝行をしたがっているのはよく解る。だが、その親孝行に私を使われるのは御免だ、という気持ちが強い。私の中に親への確執はまだあるのだ。そして私の医師を尊重するかのようだけれども、よく聞くと必ず後で後悔すると決めてかかるような言い方。私が帰らないと言う答えを出したとしたら、いいよ、と言いつつ、先々迄ことある毎に嫌味を言われ続けることは明白である。この夏に祖母の元へ行かなかったとして、私はきっと後悔するだろう。それは生きているうちにもう1度祖母に会っておきたかった、ではなく、こんな嫌味をずっと言われるくらいなら行っておけばよかった、だ。こんな気持ちで会いに行っても、祖母は喜んでくれるのだろうか。疑問である。今の私には、弱った祖母を直視する勇気がない。また別の問題として、私のPDも治まってはいない。発作も予期不安もちょくちょく起きている。長時間、親や叔母や従弟たちに会うのも気が重い。答えを出す迄の猶予は一週間弱。

 祖母は以前から親と叔母に遺言として、密葬を希望しているらしい。親の兄姉妹らは死んだ祖父と存命の祖母の扱いを巡って二派に分かれて関係が悪化している。長男がどのような葬儀を出すかはまだ不明だけれども、祖母の意思を無視した葬儀を行うようならば、親と叔母は通夜には欠席して告別式だけに出る予定らしい。すると私や叔母の子供らは、通夜に出席したいと思っても出ることを強硬に反対されるのだろう。私はその二派のどちらの味方でもなく、ただのひとりの孫である。関わりたくない。巻き込まれたくない。当然ながら祖母が希望する形での葬儀が理想ではあるけれども、例えどんな形の葬儀であっても孫としてきちんと見送りたいと思っている。孫の意思は子によって憚られて然るべきものなのだろうか。ひとの死は、そんなものではないと思う。故人を弔う気持ちに邪魔が入るのは如何なものか。祖母が希望している密葬を行うのが最良である。けれどきっと所謂一般的な葬儀が執り行われる。定年退職して地元に家を買ってそこに住んでいる、長男の世間体が重視されるだろうから。実にくだらない、くだらなさ過ぎる話でげんなりする。葬儀は遺された者の為にするものだ、というのが私の基本的な考え方である。だが、それは決して世間体などに振り回されるようなことではなく、死者の記憶をどのように整理するか、という意味だ。死者への感情整理の為の葬儀。そして死者の最後の願いを叶える葬儀。両立は可能だ。可能なのに身内の中での格付けやその他諸々で不可能になるなんて、大変おかしな話である。孫の立場は弱い。弱過ぎて無力な私も情けない。

BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
 常々、俺が眼鏡を買いに行きたいと言ってもあんたはちっとも付き合ってくれない、と嫌味の種になっていたうちのの眼鏡買い替え。昨日は久しぶりにまともに熟睡できた。しかも中途覚醒は1回のみで、12時間睡眠という素晴らしさ。寝過ぎの所為か全身が痛んだけれど、寝不足不機嫌よりは遥かにマシ。どちらが先に起きても相手が自然に目覚める迄は起こさない、という約束がうちのに守られたお陰で気分良く起きることができ、おまけに暑いから夕方から出掛けようということをうちのから提案してきて、渋谷へ。うちのの好きなパルコの某眼鏡店にてあれこれ試着し、今迄とはちょっとだけイメージが違うセルフレームに決定。椅子に座って店員さんとレンズについて相談。うちのがこれ迄にかけていた眼鏡も、その眼鏡店の別支店で購入した物。店員さんにそれを渡し、店員さんが戻ってくるのを暫し待っていた。挙動不審になりつつ戻ってきた店員さん。親切にレンズの歪みを直してくれ……ようとしたらしい。しかしそれなりに使い込んでいて脆くなっていたのか、それとも店員さんの手際がまずかったのか、フレームがパキッと。呆然とするうちの。全く同じフレームはもう渋谷店にも別店舗にもないとか。そして出されたのが、別色同フレーム3つ。どれも、これは……、と声を失う色ばかり。うちのの眼鏡にスペアはなく私が取りに帰ってくることも不可能だし、帰ることは不可能な視力。店側が次に出した打開策は、同色別フレームで急遽今迄のレンズを調整して嵌めるというもの。それで手打ち。それでもレンズ調整に小1時間かかると言われ、うちのはぼんやり。私も手持ち無沙汰。うちのが、自分の見たい物を見てくれば? と言ってくれたのでお言葉に甘えてひとりで店内探索へ。

 最初に覗いたのはスナオクワハラ。i.sの頃に比べて数段デコラティブになっており、同時に値段も跳ね上がっていて、うー……む。余りそそられる物がなく残念。その次に覗いたA/Tでもピンとくる物はなく、ツモリでやっと欲しいと思える物を発見。幾つも。ワゴンで最初に目についたのはピンク地に蛇アップリケ付の財布。可愛い! でもこの大きさじゃカード類は殆ど入るまい、と断念。ドッキングのワンピは高過ぎ。スエードのジャンパーは季節外れなのに5万オーバー。無理。クレプリ物で2枚、可愛いプリントシャツを発見。試着。インパクトが強過ぎて着回しが利かなさそうに思え、諦めたけれどまだ名残惜しい。きっともしまた見てしまったら買ってしまうだろう。バーゲン終了迄、ツモリに足を運ぶのはやめておこう。ピンクのバレエシューズ、数色の革紐で編まれたサンダルも気になった。けど、履物の多さでしゅっちゅううちのに怒られていることを思い出して元に戻した。アゴストで気になったのはトングサンダル。サイズが合わないか、と思っているところに店員さんが来て、もうひとつ小さいサイズをお探ししましょうか? いえ、結構です。高い……。アナスイも何だかイマイチ。気になったのは結婚式に行くようなワンピースのみであり、とてもじゃないけれど普段は着られない代物。Qでやっとお手頃価格のお気に入りに出会えた。水色のコサージュとグレーのクロッシェ。裾に小さめフリルの付いたクロップドパンツも可愛かったし、プリントの鞄も良かった。ここでは諦めるという形ではなく、どれにしようか迷って、でも決められずに困って店を出た。決断力に欠けている。最後にグレースコンチネンタル。どうせどれも高かろうな、と思いつつ覗いて真っ先に目に入ったのはぺたんこサンダル。駱駝革。軽くて履き易そう。試し履きしたらサイズもちょうど。36でも入る靴があるなんて! 幅広甲高なのでこういうジャストサイズのサンダルは明らかに買いである。心配しつつ値札を……え? これでいいの? 一桁間違ってない? というお値段。即決。早まってQで買い物しなくて良かった。その場で履き替えて、先に向かいのユニクロに行っていた、予期せず今日から新フレームの眼鏡になってしまったうちのの元へ。私は見る物なし。うちのもピンと来なかった模様で、別パルコの無印良品へ。うちのはリネンかガーゼ地の白シャツが欲しかったらしい。しかし無印のガーゼ地は薄過ぎて、やっぱりユニクロのリネンの方が良かった、と。無印のガーゼ地、二重にすればかなりいいといつも思うのだが、毎年一重の物しか出してこない。無印を後にして私がナショナルスタンダードを覗き始めたらうちのは、俺、ユニクロに行ってる、と。ナショスタもなんとなく前と雰囲気が変わってしまった様子。でも白黒ドットのレインブーツは可愛かったなあ。鳥プリントのTシャツも。クチャで気になったのは、カーキのコットンアンクルブーツと春秋物のコートとスカートとパンツ。パンツを買おうかかなり迷ったのだけれど、あったのは水色と緑のみ。ベージュかネイビーがあれば即買いだったのに。コートではベージュがあった。迷っているとうちのから電話。さっさと来い。仕方なくその場を離れてまた合流。70%オフになっていたし、買ってしまっても良かったかなあ、とこれを書いている今も思う。だが。春秋物のコートは既に数枚持っており、それぞれ余り活躍していない事実もある。買ったら買ったで、無駄使いになってしまいそうな悪寒も。

 好きなショップを幾つか覗いて、改めて思わされてしまったこと。前々から好きだったブランドの幾つかが、今は全くとは言わない迄もかなり雰囲気が変わってしまっていた。それでも暫く追っていれば、またコレだと思えるような物が出てくるのだろうか。それとも徐々に今以上に私の好みから外れて行くのだろうか。仕方がないことなのかもしれないけれど、前のあのシリーズみたいなのが出てこないかなあ、なんて懐古。他の人は、時代や年齢と共に趣味も変わっていくのだろうか。少し前からやたらと雑誌では取り上げられているけれど、ちっとも見かけなかったレディースのショートパンツ。本当に穿いている人が渋谷にはいてびっくり。見かけた人たち誰もが似合っていない気がしたのは、私の目が曇っているのではなく、無理に流行を追いかけている人々だったからだと思いたい。ショートパンツは余程スタイルが良くなければ難しいって!

 一週間も日記が空いてしまったのは、メイラックス服薬で生活ががたがたになってしまった所為。空白期間の分はぼちぼち埋めて行く予定。

BGM/「Beggars Day」「Dream On」「Black Betty」など

服/クラッチの水色ベース細紐付きスクラッチカットソー+DUNIMEのデニムパンツ+黒地に白・水色・シルバーのドットシースルーキャミワンピ+コキュの金魚刺繍ミュール(途中からグレースのキャメル×グリーンオリエンタル柄駱駝革ぺたんこサンダル)+ツモリのオフホワイトトート+オフホワイトのクロッシェ+ブルーのジルコニアのピアス
 現在7月4日。

 寝付き及び寝起きが激しく悪い昨今、うちでは喧嘩が絶えない。寝付きが悪く朝迄起きてしまっていることも度々で、そういう日はうちのの目覚まし時計が鳴ると、朝食を出す。簡単なものばかりだけれど。暑くなってきて、うちのはシャワーを出勤前に浴びるようになった。因ってうちのの朝の流れは、起きる→朝食を食べる→シャワー→着替え及び身支度→出勤。朝食を出して玄関で見送る迄の時間、私は大変に暇である。朝食に使った食器を洗うと、シャワーの勢いが落ちるので後回しにしたい。うちのは自分が家にいるときに洗濯をされると落ち着かないから嫌がる。掃除も同様。朝食迄出しておいて見送らずに寝てしまうと、これまた臍が曲がる。なのでだらだらと30分弱の時間、これ迄はPCでかちゅ〜しゃを開いたり、ネットオークションを覗いて暇潰しをしていた。そしていつも、朝からいい身分だな、おい、と嫌味を言われていた。少し前から、私がよく覗く某巨大掲示板某板某スレで、落ちゲーが流行っている。「ぷよぷよ」や「テトリス」のようなアレだ。で、スレに落ちゲーのURLが貼られていたので、ぼーっとそのゲームをしていたら、怒られた。朝からゲームなんかしてんな! そうか、ゲームをしていると怒られるのか。翌朝。この時間に私は漫画を読んでいた。ゲームをしてはならないらしいが、漫画ならまだマシだろう、と。また怒られた。朝から漫画なんか読むな! 漫画もダメか。どっちにしても怒られるのなら、とまた翌朝はゲームに戻った。シャワーを浴びる為に服を脱ぎつつ、うちのが言った。毎朝毎朝、俺だって言いたくないんだよ! 反射的にぽそりと独り言が出てしまった。なら、言わなきゃいいじゃん。背中に衝撃。うちのが脱いだシャツとパンツを投げつけてきた。何すんの! と、こちらも急速沸騰。うちのがシャワーを浴び終えて直ぐに無言で食器洗い開始。洗い終えてもうちのの身支度は終わっていない。途中で何か話しかけてきたけれど、聞く気がないから聞こえない。無視して夕食の準備をし始めると、ああそうですか、と手早く身支度を済ませて黙って出勤していった。

 日常の中で、ぽっかりと空いてしまう時間は誰にでもあるもののように思う。例えば仕事中。何かひとつの作業をやり終えて、時間を見ると後15分で会議開始。15分でできる簡単な仕事があればいいけれど、次にやろうとしていた他のことに取り掛かるには時間が足りない。なのでその間は喫煙所へ。なんてことは普通だと思う。私の朝に置き換えれば、その喫煙タイムがゲームや漫画に当て嵌まる。何度か怒られているときに、そんなに暇なら掃除でもしろよ! そんな暇があったら洗濯でもしてろ! などと言われた。ここで素直にその作業に取り掛かると、うちのの身支度中に絶対に、落ち着かない! とまた怒られる。八方塞なのだ。うちが何部屋もあるとか、洗濯場所としてちゃんとそれなりのスペースがあるとかなら話は変わってくるだろう。うちのの目に付かない部屋を掃除したり、洗濯をすればいい。しかしうちは狭い1DK。掃除をしようにも身支度でキッチンと居間を行き来するうちのの視界に、せせこましく動く私が入る。洗濯をしようにも洗濯物の選り分けで、ただでさえ狭い玄関先がより狭くなる。本当にどうしていいか解らない時間なのだ。けれど、空いた15分に喫煙所に行く人を、その後の会議に出席予定のない忙しい人は、あいつは暇そうだな、と思ったりすることもあるだろう。ちょっと想像力を働かせれば、ぽっかり空いてしまった時間なのかな? 位のことは考えつきそうなものだと私は思うけれど。

 また、言いたくない、と言いつつ人を注意したり叱ったり怒ったりする人も世の中には少なくない。単純に私は、ならなんで言いたくないことを言うのだろう、と思う。言いたくないことを言っている間、その人は気分が悪くないのだろうか。どうも私がこれ迄に出会ってきた、言いたくないけれどと前置きして何かを言う人、は皆揃って気分が悪そうだ。そして往々にしてその前置きがついた後に続く話は私も余り面白くない。双方楽しくないのになんでそんな話を一々するのか、本当に解らない。30年弱生きてきて、よくそういう話をされる私は勝手に、言いたくないけれどと前置きして何かを言う人は、きっとそれを言いたいのだと決めている。すると次にひとつ疑問が出てくる。言いたいことを言うのに何故、言いたくないけれど、なんて前置きをするのだろう。言いたいから言うのなら、そんな前置きは不必要な筈である。なのに、前置きがついてくる。前説のようなものなのか。それにしては詰まらない。言いたくないけれど、と言うことで、言う人は何か楽しかったりするのだろうか。自分が言わないからさっぱり想像がつかない。けれどそれではあんまりなので、よく考えてみた。言いたくないけれど、と言う人のその科白の後の話は、十中八九トメトメしい話である。嫁子さん、言いたくないんだけれどね、云々云々云々(以下略。トメトメしくなるとそういう言葉が枕詞のように出てくるのか、はたまたそういう言葉を枕詞のように使う人はトメトメしいのか。どちらにしても、トメトメしい人の特徴のひとつのような気がしてきた。言いたいのに、言いたくないけれど、と言う人の心理が知りたい。ただの興味本位だけれど。でも、言いたくないけれど、と言う人にそれを訊くと、これまた決まって怒られる。どうもトメトメしい人々の中では、これは触れてはならない琴線らしい。もう物を投げつけられるのは御免なので、これからは訊かなくても、なら言わなきゃいいのに、という本音も隠しておいた方が良いのだろう。あ。訊いて怒られるときは、あんたが言わせているんだ! と必ず言われる。そんなつもりはないし、仮に私が言わせているのだとしても、言いたくないことは言わなければいいと思うので、やはりよく解らない。

 物を投げつけて黙って出勤し、夜になって帰宅したうちの。生茶のオマケであるらしいパンダのキーホルダーをくれた。まだ物を投げつけられたこと、怒っているよ、と言ったところ。ひとつだけ言わせてくれ、最近毎朝出勤するとき、もうあんたとはやっていけないんじゃないかと思う、以上、と言われた。どうなることやら。余談。昨夜、うちのが実家に電話をしていた。切った後の話によると、どうも結婚反対ムードは収まって入籍前に皆に挨拶にくるように、と言われたらしい。私と一緒に、とは言われなかったらしい。よく解らん。どうなることやら尽くしである。
 右目下瞼の腫れが半端なく酷くなり、見るも無残な逆お岩さん状態に。瞬きも痛く、堪らず眼科に行ってきた。生まれて初めての眼科。診察開始時間より早く言ったにも拘らず、受付を済ませ検査・診察を経て点眼薬を処方される迄にかかるは約2時間。無為な時間と思いきや、得るものあり。視力が上がっていた。両目共に1.2。そんなことはどうでもいいとして。ここ迄とは思わずともある程度は待たされることを視野に入れ、文庫本を持って行っていた。小林恭二の三島賞受賞作「カブキの日」。文庫購入から軽く1年は経っている本。何故読了がこんなに遅くなったのか、それは単に詰まらなかったからである。序盤は実に遅々として進められる。特に私は風景描写が長引くと飽きがくる性質である。眼科の待ち時間に差し掛かった中盤から一気に引き込まれた。何故こんなに長く、ともすると平坦とも思われる描写を淡々と綴ったのか。それは、終盤の数ページの為だけであったように思う。以下、ネタバレ注意。

 私は歌舞伎にも能にも狂言にも明るくない。日本の伝統芸能への知識は、近世文学の授業で少し齧ったのみである。その知識も積年毎に薄れてきている。それでも基礎知識として知っている、歌舞伎役者の発端は河原乞食であった事実。士農工商に入れられなかった、蔑まれるべき存在として位置づけられた人々が生み出した、芸能、と呼ばれるもの。現代は、その河原乞食の子孫たちにファンや贔屓がつく時代。変われば変わるものである。伝統芸能、と書けば言えば聞こえは良いが、元は人の下のヒトのものであり、当時の役者や今の役者は果たしてそのような過去をどのように昇華して演じているのか。私はそんなことに今迄興味がなかった。ただ齧った知識でのみ、何故執拗な迄に伝統を重んじるのか、と疑問に思っていただけである。作中で顔見世に登場する役者たち。華やかでありながら腹の中は黒く渦巻き、その有様は魑魅魍魎にも似て読める。華やかな魑魅魍魎が跋扈する世界座は、さながら艶やかなカラクリ箱。カラクリ箱の3階は阿片窟の様相にして、黄泉のような、涅槃のような場所であるらしい。阿片窟に招かれた蕪と月彦はあくまで、無垢、の象徴であり汚されることはない。穢されては物語が成立しない。その無垢さを引き立たせる魑魅魍魎は、どんなに華やかに描かれようとも彼女らの引き立て役にしかならない。これは仕方がないことなのか。それとも小林の筆力が、引き立て役を作らねば彼女らの無垢さを引き出せない程度に落ちてしまったのか。私は小林の処女作「電話男」からのファンである。電話男の醜さは、美しい存在を描かずとも引き出されていた。対して蕪と月彦の存在は、汚らしい人々を描いてやっと光が射す。小林の力量の所為ではないだろう。文筆にあたり、汚らしいものや歪んだものははただそれだけで描写することが可能でも、輝くものは対比なくしては立たせ難いのではなかろうか。飽食の果て御馳走を御馳走とは思えなくなった先進国住人の胃袋のように、数多の俗欲の中で生活をする者に砂金は金としての価値を見出せないことに等しい。小銭と並べられなければ札束の価値が解らない程に、このような薄汚い対比が真っ先に思い浮かんだ私には、無垢、は難しい存在なのである。そして無垢とは本質であり、美の基本として本作では綴られている。無垢の象徴は蕪と月彦。蕪だけでは若しくは月彦だけではいけなかったのだろうか。美とは対であるべきものなのか。どうやらそうらしい。美醜も生死も対である。蕪は奔放=動=生であり月彦は抑制=静=死であり、且つ蕪と月彦ふたりの存在が動=生であり、彼らが去った空間は即ち静=死に等しい。

 河原乞食たちが芸能と呼ばれるものを作ったのは、食べてゆく為である。唄って舞って銭を頂戴する。唄や舞は金銭授受の手段であり、それが磨かれれば磨かれる程に得るものもきっと大きくなっていったのだろう。作中中盤迄、磨くとはまず原型ありて為し得ることでありそれが、伝統、の正体であるかのように書かれている。そして磨いてゆくうちに或る原型はその姿をより大きくし、或る原型はその原型を留めない姿になってゆく。また時代と共に原型の意味がなくなるものもある。私には解らない。原型、とは本当に原型なのだろうか。発生したその瞬間が原型の誕生とは、こと伝統芸能に関しては全く以って思えない。かといって、原型が発生以前からあったものなのか、それとも発生以後ある程度磨かれてから原型とされるようになったのか、作品内で答えは出されている。そしてその答えは、ひとつの正解であろうと思われる。しかし実際に今現実世界で行われている、伝統芸能、に照らし合わせてみると、作品の答えと現実世界は連動していない。小説、所詮は作り話だからなのか。それともこの作品は予言なのか。

 この世に文字が発生し確立した時点で、全ての記録が模られていれば、と思う。私たちの歴史は、たった100年前のことですら曖昧である。物事を知る為に、歴史を学ぶことは大切であるけれども、今伝えられている歴史が事実かどうかは解らない。さり気なくそんなことにも言及している作品。されば現と幻の境界も引けやしない。真偽は各々の脳に心に委ねられる。小林は現と幻の境界を曖昧にすることに長けた作家である。物語を物語として完結させない。これは読了後に余韻を残すことの比喩ではなく、物語の真偽を読者に委ねる作家だ、と私が認識しているからだ。小林の作品はいわば挑戦である。冗長は序章に過ぎず、本質はたった数ページ。この数ページに至る迄に、まず読者は篩にかけられる。そして読了後は何を以ってこの小説の真とするか。読者が導き出す真と作者が意図する真は同一とは限らない。けれどクラシックに於いて作曲者の意思が絶対であるように、こと小林の作品では作者の意思は絶対のように思える。小林の意図せぬ真は全て幻ではなかろうか。これ迄の作品では、小林は御丁寧にもきちんと夢と現、小説世界と現実世界の線引きを名称に因ってきちんとしてくれいていた。その親切をこの作品で捨てたようである。これは小林の成熟、熟練による驕りではなく、作家としての意思の強まりと私は感じた。詰まらんのう、と思いつつだらだら読んでいた本が、一気に化けた。こういう本は宝物になる。そして私は久々に小林贔屓の気持ちが強まったのであった。

服/as know asの1点物ノースリーブパイルチュニック+カーキの裾絞りカーゴパンツ+下駄+一澤帆布の国防色ミニトート
 現在6月24日。

 23日、親に電話。国民年金の納付書が届いていないかどうかを確認。届いているとのこと。送ってくれるよう頼む。通話時間、1分位か。前日迄夏風邪で高熱を出していたとのことだけれど、母の日の直後と同じ感じ。きっと父の日をスルーしたのが気に入らないのであろう。今朝、到着したのでお礼の電話をした。通話時間、30秒位か。何を考えているか解らない人との付き合いもしんどいが、こうも解り易過ぎる人との付き合いもしんどい。なんでこんなにトメトメしいのか……。最寄り駅の終電到着時間を少し過ぎた頃にうちが帰宅。酔っ払っていて私に、もはあああ、と酒臭い息をかけてくる。主治医から禁酒令が出てからというもの、アルコールそのものはまだ平気だけれど、アルコールを摂取した人の匂いが苦手になった。口臭だけでなく、体臭も。それを何度も言っているのに、もはあああ、としてくるうちの。放置していたら勝手に寝た。右目下瞼に違和感。今日になってものもらい本格化。激しく不快で、元眼科勤務の友人にヘルプのメールを出したところ、アイボンや普通の目薬は無意味なので使わず、あればものもらい用の目薬を差して後は冷やすように、とのこと。最も良くないのは擦ってしまうことらしい。ものもらい用の目薬はないので冷やそう、と目に冷えピタを貼ってみたのだが……冷えるには冷えるが別の悪影響がありそうな気がして剥がし、現在は額に貼っている。涼しい。ものもらいができるなんて何年ぶりだろう。子供の頃はよくできていた記憶があるけれど、大人になってからは殆どできなくなった。久々の不快感に食事を作る気力もなくなった。何日くらいで治るものなのだろう。治る迄は余り眼精疲労を招きたくないので短めで。

雑談

2004年6月22日 雑感・所感
 現在6月23日。

 昨日は歯科予約及び友人とヨガに行く約束を入れていた。起床時間、19時前。当然どちらもすっぽかした形になった。どちらにも迷惑をかけてしまって自己嫌悪。歯科には今日謝罪と再予約の電話を入れよう。友人とはメッセで話して解決。今度会うときはお詫びにお茶でも奢らせてもらおう。で、何故こんな起床時間になってしまったのか。月曜、うちのと話し合いをして糸口を探り、取り敢えず問題解決はした。それはいい。解決できない問題は私の夜泣き。いろいろ考えてみて、前回から処方されているメイラックスが合わない所為ではないか、と思い至り昨夜からメイラックス断薬。すると再び不眠。どうにか寝付けたのは明け方。朝、うちのを見送りそのまま起きている筈だったのに、携帯にアラームをセットしたことに基づき布団に戻ってしまった。セットした時間に携帯がなる。計5回。全て止めた記憶はある。が、その先の記憶がない。そして気付けば19時前。今夜からは残りのサイレースをメイラックス代わりに飲もう。昨日は起きていた時間の殆どを、友人とのメッセで費やした気がする。会話の中身はしょーもない。そのしょーもなさが、張り詰めた私の気持ちを少し解してくれた。有難い話である。

 最初の話題は、昨日のヨガ。友人が行った回の生徒は、友人と体験レッスンの女性ふたり組と同じく体験レッスンの男性ふたり組。そして不可解な話になってきた。体験レッスンにきていた男性たちがビデオカメラを持ち込んでいた、という。そのカメラは何ですか? と問う先生に、自分たちを撮りたいんです、と答えていたとか。そして実際にレッスン中もカメラを置いて撮影していたらしい。なんじゃそりゃ。先生から、今日は撮影が入ります、などのアナウンスもなくレッスンは行われたそうだ。私は休んでよかった。きっとそんなのに遭遇したら切れるか泣くかのどちらかになっていた筈。友人やオネーチャン先生に彼らは、何故ヨガを始めたんですか? 何故ジムではなくヨガなんですか? などと訊いてきたらしい。友人も先生も鬱陶しく思いつつも答えたそうだが、そこで友人が思ったのは、これは何かの取材か? である。自然な発想だと思う。しかし取材なら取材で然るべき手順を踏んで当然であり、自分たちを撮る為に、などというお為ごかしでカメラを持ち込んでいい筈がない。ふたりのうちのひとりがカメラを操作してもうひとりを撮るのならともかく、スタジオの端にカメラを置いて撮影していたということは定点撮影であり、そこには必ず他の生徒や先生も入り込むからだ。ならばその場にいる全員の許可を得てからカメラを持ち込み、撮影をすべきである。先生も先生だ。何故断らないのか若しくはちゃんと他の生徒にアナウンスをしないのか。次回レッスンに行ったときに訊いてみよう。その際の答え如何では、ちょっと考えなければならないかもしれない。でも次にレッスンに行けるのはいつだろう。時間はあるのだけれど、何せここ数日右膝から下に神経痛が出ていて痛くて仕方がない。どうにかやっと歩ける位で、レッスンはキツい。また漢方薬の世話にならねばならないのか。暫くは前回の季節の変わり目に出してもらった残りで凌ごう。通院もしんどい。

 それから学生時代の思い出話を交えつつのファッション談義。友人は私に、服は面白くなくていい、と教えてくれた人間ではあるが、その友人自身の服も聞いている分にはかなり面白くて困惑。明日、彼女は某テーマパークに彼氏と行くという。何を着て行くの? と訊くと、今着ているダンキンドーナッツと書かれたこのTシャツかな、と。ダンキンドーナッツ? 景品? 違うらしい。景品でないとすれば、オゾンが前に出していたダンキンパロディシリーズしか思い浮かばない。それも違うらしい。何だかよく解らないけれど、ダンキンドーナッツやらセブンイレブンやらドールやらのロゴが沢山描かれたTシャツであり、面白い・欲しい・怪しいなどの感想をいろんな人に頂戴した代物だとか。そんなTシャツを着ている奴に、服は面白くなくていいんだ、と言われた私。そしてその言葉を脳に刻み込まれてしまった某巨大掲示板某板某スレの一部の住人の存在はこれ如何に。次からはお互いに、自分ではアリだと思っているけれど世間的にはどうよ? な恰好で会うことに決定。第1回目、彼女はそのTシャツを着てきてくれるそうだ。私は赤地に一面薔薇が描かれたアオザイで行くことを予告。そんなTシャツを着ている彼女でもアオザイはナシだと言う。先日某イベントで撮った私がアオザイを着た画像を送ると、崎陽軒のようだ、とバッサリ。崎陽軒……。彼女曰く、スタンドカラーの服はどれも怪しいらしい。どんな基準なんだか解らん。話は流れてギャルソンへ。彼女は数年前に青山の路面店にて、つり目でハートのTシャツなどを目にして、なんじゃこりゃ! と驚いたそうだ。メッセしつつネットオークションで検索して当たりが出た。彼女が言っているのは、PLAYラインのことだった。確かにアレはナシだと私も思う。私が持っている・持っていたギャルソンの服を説明するにあたり、解体・復元、という単語が自然に出てきた。そして会話の場所はメッセ。当然それらはフォントとして目に入ってくる。おかしい。服なのに、解体・復元、って。ギャルソンの服には解体したが最後、復元の困難な服が多数あるのだ。なんで服にこんな苦労を! と途中で投げ出したくなる程に難しい服もあり、実際に私は投げ出してしまった。金銭問題もさることながら、私がギャルソン離れをした一因でもあることが判明。また彼女の服の傾向が私の固定観念と乖離していたことにもびっくり。私の中では、彼女=アジア系雑貨屋の服、だったのに、実はドゥ!ファミリーやツモリも好きだったとか。意外。

 それより意外なのはやはり今日、彼女が出掛ける場所である。某テーマパークなど、彼女が嫌ってやまない場所だとばかり思っていたのに。実際、さほど行きたい場所ではないらしい。なのに何故行くのか。彼氏が行きたいと言っているから。……。そこで、私は行きたくない! ひとりで行け! と恫喝してこそ彼女かと思いきや、だって彼氏がかわいいから、ときたものだ。ノロケ。これもこの彼氏と付き合う前の彼女からは聞いたことがなかった。別に彼女はモテなかった訳ではなく、過去に何人も彼氏はいたのにノロケはなかったのだ。俗世に塗れてゆく彼女が悲しいやら微笑ましいやら複雑な心境。そんなにいい彼氏なのか? そんなに可愛いのか? 悔しいので私もノロケて見たけれど長続きせず。うちのは際限なくノロケられる程、可愛くはないようだ。かといって恰好良くもない。片や、〜〜ちゃん、隣県の某テーマパーク行こうよ→いいよ。片や、2駅先徒歩5分の某店に行こうよ→あんたにとってはちょっとそこ迄でも、私にとってはフルマラソンを走る位の体力気力が必要であり、今の私にはそんな体力気力はないから勘弁してくれ。大違いである。
 現在6月22日。

 遠くに行きたい……。お迎え待ち。疲れた。
 茹だるような暑さでバテバテ。外はピーカン、風も強い。そんな日は……洗濯だ! と一念発起して速攻で苛々爆発。今日の日中の時点で洗濯機は2回と予想して洗濯物の選り分け。色柄物だとか素材だとかは無視して、私は干すときに楽なように分ける。洗濯挟みを使って干す物・ハンガーを使って干す物、だ。タオル、パンツ、靴下、シャツ。シャツの釦が開けっ放し! 前回の洗濯から私は1度もシャツを着ていないので、うちののシャツである。ムカッとしつつ釦を留めていく。そしてうちのに一言、釦留めてから籠に入れてよ、と。パンツ、タオル、Tシャツ、シャツ……また釦が! タオル、Tシャツ、Tシャツ、シャ……ムカーッ!! おまいは子供か! シャツの釦くらい留めてから洗濯籠に入れる位ことなかろうが! Tシャツも靴下もいつもその辺に脱ぎっ放しで……靴下、臭いんじゃ! あーーー、もうーーーーーっ! と声に出すとうちのがすっ飛んできた。謝る為ではなく、洗濯を手伝う為でもなく、逆切れ。俺がやるよ! うるせー! と怒鳴りたいのをぐっと堪えて、いいよっ! とシャツを奪い返す。俺がやるよ、と言って洗濯物の分別をする私の傍らで、にこやかに釦を留めてくれるのであれば、なんていい人なんだろう、とこちらもほっこりした気分になれそうなのだが、うちのはそういうタイプではない。家事ができない訳ではないが、私より下手だ。下手な癖して偉そうに、おまけに不機嫌に事を進めるので傍にいて本当に嫌になる。こういうとき、本当にこの人とやっていけるんだろうか、と考えてしまう。結局5枚以上あったシャツのうち、ちゃんと釦が留まっていたのは1枚のみ。ひどいのは、釦を掛け違えたまま籠に入れてあったシャツ。二度手間なんじゃ! ムカムカ、苛々。洗濯機を回している間にうちのがシャワーを浴びた。出てきてからまたしょーもないことをぐだぐだ言っている。しょーもないので放置していたら、あんたを楽しませようとして言っているのに、と拗ねてくる。はあ……、そうですか……。でもしょーもないし。

 洗濯機を回し終え、干す。パンパンと皺を伸ばして干す私。布団の上でごろごろとPCと戯れるうちの。……。俺も手伝おうか? の一言位出てこないものかね? 皺伸ばしは下手だから頼みはしないのだが、暑い中こっちは家事をしているのにごろごろされていると腹が立つ。何も言ってこない辺りに、外で働いている俺様=家では上げ膳下げ膳で何もしなくていい俺様、と思っているんちゃうんかと小1時間問い詰めたくなる。実際に手伝わなくても、手伝おうか? などの言葉ひとつで私も機嫌良く家事ができるというのに。しかも何やら訳の解らんCDをかけていやがる。ハワイアンな感じ。暑い中で好みでもないこんなん聴かされたら余計に暑く感じるんじゃ! 止めてやろうかと思ったけれど大人なのでまたグッと我慢し、自分のPCで好きなアルバムを普段なら絶対に設定しないような大音量でかけて気を紛らわす。ごろごろしているうちのが私に何かを話しかけた。が、ハワイアンなCDに掻き消されてはっきり聞こえなかったので聞き直した。すると。私の返事のデフォルトは、あー、だ。うん、とか、ハイ、ではなく、あー。子供の頃からである。音引き部分の上げ下げに無意識の感情が出てしまうらしい。どうも苛々が声に出たらしく、単に聞き直しただけのつもりが、かなり不機嫌な、あー、となったようである。うちのが絡んできた。そんなつもりはなかった私は、その絡みで爆発。何なんだよ、もう! 絡まないでよ! 絡んできたのはお前だ! 絡んでない! 暫し無言。そのまま無言。洗濯物を干し終えてうちのを見ると……寝ていやがった。何様?

 放っておいて私は私で好きなことをして、夕方前にうちのに声をかけた。コンビニ、行く? 横に首を振られたので、ひとりで出かけた。おむすびとアイスクリームとドーナツとココアと煙草と、うちの用の珈琲を購入。帰ってきたらまだ寝ていた。自分用のおやつを食べて、私も転寝。19時過ぎに起こされた。腹減った。……何であんたはいつもいつもいつもいつもそうなんだよ! それ以外に起こす為の言葉を知らんのか? 如何にも飯炊き女扱いされている気がして頗る気分の悪い言葉だと、何度も何度も何度も何度も言った筈だが。何回言えば、それは私に対して失礼な起こし方だ、と解るのだろう。もう理解してくれとは言わん。体で覚えろ! つるつるの脳の僅かな皺に刻み込め! その起こし方は嫌がられる起こし方だ! しかも、腹減った、と私を起こして自分はまだ寝ているし。それでも健気に夕食を作る。一口焼き芋・ひろうすと蒟蒻の煮付け・ソイの味醂漬け。出来上がってうちのを起こしてテーブルを片付けてもらった。テーブルの上にある物は全てうちのの物であり私の物ではないから。手前の物は手前で片付けやがれ。言われる前にな! 腹減った、っつって起こしたんだから飯が出てくるのは餓鬼でも解るだろうが! 食後。味付けが薄かった。……手前で作りやがれ。今日も精進料理のようだった。……肉が食いたきゃ手前で買ってきて手前で焼きやがれ。あんたがダイエットダイエットと騒いでいるから、低カロリー高蛋白を心掛けて飯を作っているってのにそれかよ。

 そもそも。日曜になると出掛けたがるその性分は何とかならんのか。私は昨今情緒不安定につき出掛ける気力が薄く昨日にも、起きて体調と気分が出掛けられそうなら、と言ってある。なのに。延々。くどくど。出掛けようよ。〜〜買いに行こうよ。ひとりで行ってきてくれ。そういう体調でも気分でもない、と何遍も何遍も何遍も何遍も何遍も、言っているよな! 聞いているよな! 手を変え品を変え外に連れ出そうとすんな! 毎週毎週毎週毎週。こちとら健常じゃないんだよ。心と体が思い通りにならなくて一番参っているのは私だ。何でそれが解らない? おまいの辞書に、そっとしておく、という言葉はないのか? あとな、悪気がなきゃ何を言ってもいい=悪いように捉える方が悪い、ってトメトメしい考え方、捨てろ。暴力も発言も一緒。振るう側・言う側の問題なんだよ! 迷惑をかけている自覚はあるから、それ以上責めてくれるな!

BGM/アルバム「修羅囃子」

服/オゾンコミュニティの白地カラフル蝶プリントVネックTシャツ+DUNIMEのデニムパンツ+下駄
 現在、6月20日。

 数日前に私の後ろを通りがかったうちのに、うわっ! と言われた。どうやら頭が凄いことになっていたらしい。しつこく、入浴しろ、と言われたので渋々入った。フルの2時間コース。未だ疲れが抜けず。夜泣きも続行中。何がつらいのか、悲しいのか、自分でもよく解らない。でも泪が出る。遠くに行きたい。
 現在6月19日。

 久々に夜泣き。とっても心身不安定。私の苛々が、うちのに感染している模様。宜しくない傾向。
 昨日届いたハンガーラック。届いて直ぐに組み立てて服を吊るし、今日の日中、私がPCに向っているその後ろで、どんがらがっしゃーん、と倒れた。ので、慌ててまた組み立て直してPCに向って数分後に再び、どんがらがっしゃーん、と倒れた。ので、生協本部に電話をして交換要請。破損ショックから立ち直ったのは、ついさっきである。破損したラックはバラしてキッチンの隅に置いてある。箱は既に月末のフリマに出品する衣類を詰めてしまっているので、戻すに戻せないのだ。そして隅に置いたラックの残骸の上にまた出品用の服塚を作っている最中。来週水曜迄には、出品物をどうにか形にしたい所存。

 そんなことはどうでもいいとして。ここ数日、10年来の中高時代からの友人とメッセで話をする機会が複数回あった。その中で私は彼女の知らない私の友人について話をした。どうもその話し振りが友人には熱く感じられたらしい。そして、自分って……と思ってしまった、というようなことを言われた。デ・ジャヴ。かなり前に、彼女が私の知らない友人のことを、親友、と表現した。そのとき私は尋常ならぬショックを受けた。私って……。女友達には見せない私の女々しい部分。彼氏にはよく見せてしまうベタな姿。私は貴方にとって何なの? 私と〜〜、どっちが大事なの? 私は彼女のことを親友だと思っていた。でも彼女は別の子のことを、親友、と言った。私たちはお互いに、私たちは親友よね! なんて確認しあったことは1度もなかったので、彼女を親友だと思っていたのは私だけだったのか、彼女にとって私は複数いる友達のひとりに過ぎなかったのか、と落ち込んだ。親友、の定義は人によって違うだろう。ひとりだけを親友とする人もいれば、親友が複数いたっていいじゃない、という人もいる。彼女が前者なのか後者なのか、未だに知らない。どうでもよくなったのだ。友人について語る私に彼女は、黒猫はその子のことが本当に好きなんだな、と思えたらしい。そしてそれは正しいと言えると同時に、間違いであるとも言える。私はそのとき話題に出ていた友人のことがとても好きである。しかしその、好き、はとても歪んでいる。友人として好き、なのではなく、私にとってその友人は、女の子の見本、的存在なのだ。だからその友人について語るときは男性的視線になっていることは少なくない。それはその友人も知っている筈だ。きっと迷惑に思っているだろう。ごめんよ。更に、女の子の見本、であるが故に浮世人よりももっと、崇高な存在、に私の中では昇華されていたりもする。男性的視線で見られること以上に迷惑だろう。ごめんよ。謝っておけばいいと思っている私。そしてメッセで会話していた友人は私にとって、親友的存在、だと思っていた。

 ふたりで話を深めて行った。まず彼女が感じた淋しさ。それは私が彼女ではない別の友人のことをとても好きであることを感じ取り、私から見た彼女は一体何なのか、と思ってしまったことに基づく。そして私が以前感じた淋しさ。それは別の友人のことを、親友、と言われて、なら私は何なのだろう、と。彼女はとても正直だ。淋しさを感じた翌日にこのことを私に言ってきた。私は彼女に自分が感じた淋しさを、そのとき迄打ち明けずにいた。女々しい自分を見せたくない見栄で、彼女の中での私の価値を曖昧にし続けていた。翌日言ってきた彼女は偉いと思う。話し合っていくうちに初めて知ったこと。彼女はその親友としょっちゅう冗談めかして、私たちって親友だよね! というような会話を交わしてきていた過去があったらしい。因って直ぐに、親友、という表現が出てきた。私とはそんな会話をしたことはなく、またお互いにそれ迄は確認しあう必要を感じていなかったのだ。だからといって、相手にとって自分は親友である、という確信も持ててはいなかった。だからお互いに余計な淋しさを感じ、感じさせることになってしまった。でもきっとこれは、長年の付き合いに甘んじてきたお互いへの甘えであり、いずれは確認しあう日がくることだったのだろう。

 言わなくても感じられること。でも言ってもらわないとその感じたことに確証を持てない私たち。いて当然であり、いわば空気のような存在。お互いに自分が持っていない相手の長所を褒めることができ、相手の短所を指摘することができる稀少な存在。それを、親友、と言うのかどうか、私は知らない。そして、親友の定義なんてもうどうでもいいや、と思えるようになった。ふたりが仲良しで、お互いにいないと淋しくて、でも暫く会わなくても平気だったり、暫く会っていないのに自然に会話ができたり。そういうことが大切なのであり、言葉に拘る悪癖が出てしまっていただけだ。こんな友人を得られたことだけが、私の中高時代6年間での唯一の幸せであろう。彼女と私は似ているところと真逆なところが、数えたことはないけれどきっと同じくらいあると思う。人間の生涯の幸と不幸は同数である、という人がいる。私はそれをそのまま信用できる程、無垢な人間ではない。けれど彼女との似たところと真逆のところがきっと半々であろうことは、お互いにいいバランスなのだろう、だから長く付き合えるのだろうと思える。これからもよろしくね、なんて言葉は必要ない存在。言葉は必要ないけれど、心ではずっと思い続けている。照れ臭くて言葉にしないだけ。これも甘えか。でも改まって言うのも変だから、このままでいいのだろう。

 先に出た、彼女に淋しさを感じさせてしまう位に私に熱く語らせてしまう友人。彼女にとってはもしかしたら私は迷惑な存在かもしれない。私なら自分を、崇高な存在、として見ている、友人、とは付き合いづらいから。この友人も私にとって大切な友人のひとり。ただ私が思う、理想の女の子、を体現し過ぎているだけなのだ。上記友人にはサラッと言えることが、同じようにこの友人に言っていても実は内心、こんなこと言って嫌われたらどうしよう、なんて思っていたりする。なら言わなきゃいいだけの話なのだが。この友人と会ったり話したりしているときは、他の友人とはまた別の感情が湧いてくる。なんというか、学園のアイドルさまがこんなダンゴムシと会ってくださるとは! お声をかけてくださるとは! というような。根っこは毒男なのか、私は。卑下している訳ではなく、半ヒキコモリな私にも他の友人と同じように話してくれる、顔も声も可愛くて小さくて柔らかくて巨乳で自分の意思はハッキリ言えて自分が昔から目指していた職業に就いてイキイキと働いている友人が、眩しく見えない筈がないではないか。憧れだけれども、追いつきたいとすら最早思えぬ友人。やっぱり毒男的思考の私なのである。
 月末に初フリーマーケット出店予定。ということで、出品する衣類を選出。出るわ出るわ……冬物ばかり。どうしても今の季節の物やもう直ぐ出番が来るであろう夏物は出し惜しみしてしまう。この夏、着るかもなー、なんて思う訳だがきっと着ない。取り敢えずここ2年ばかり袖を通していない服と、サイズが合わなくなってしまった服と、好みではなくなってしまった服を取り出して畳んで箱詰め。全部捌けてくれれば安値でもいいや、と思いリアルレザー物や1点物も混ぜてある。売れ線ブランドも数点。最初はネットオークションに出品し、売れ残った物をフリマに回そうかと目論んだ。が。まず画像を撮るのが面倒臭い。全体像を撮り、ブランドタグを撮り、ポイントとなる箇所または難有りの箇所を撮影。私はネットオークション出品の際は、大抵この3枚をアップする。そして採寸。トップスなら肩幅と着丈。ボトムスならウエストとヒップと着丈または股上と股下。非常に七面倒臭い作業であり、またその衣類と接している時間にその服を買ったときや着たときのことが走馬灯のように思い出され、何だか惜しくなってやっぱり売るのやめよう、なんてことも。画像を撮ったり採寸した時間が無駄である。出品して入札者が入ったところで発送準備。消臭スプレーをかけてから乾かし、丁寧に畳み、1枚目の袋に入れる。ここ迄が発送準備第一段階。終了時間が過ぎたらメールの遣り取りをして、2枚目の袋に発送準備第一段階を済ませた服を入れ紙に落札者の住所氏名などを書いて貼り、入金を確認してから郵便局に持っていく。重さを量るのは前回の出品からやめた。面倒だから全部送料込み。それでもやっぱりまだ面倒。更には画像撮影や採寸をしても入札が入らなかったとき、これは悲惨。時間だけでなく出品料も無駄である。無事に取引が済んだと思っても動物の毛を取り除き切れなかったり、煙草の匂いに敏感な相手だったりするとお叱りを戴いたり。最初から出品者である私はペット飼いの喫煙者であると明記していても、だ。幸いなことに今迄に郵便事故の経験はないけれど、こちらが出品者の立場だと相手からの届きましたメールまたは評価が入る迄、気が気でない。禿げそうに疲れる。ので、フリーマーケット。画像も撮らなくていいし、採寸も不要。楽ちん。恵まれたことに最寄り駅前での開催もある。問題は上手くお客さんの相手をできるか、だ。フリマに行って値切って買い物した経験は何度となくある。しかし今度は値切られる側。お互いに嫌な気持ちにならずに売ることができるか、全く以って自信がない。オークションは自分が決めた最安値から他者が勝手に値を上げていってくれるけれど、フリマではそんな夢のような事態は起こり得ず、ひたすら値切られるだけである。当然それは考えた。しかし手間をかけてそこそこの額を得るよりも、薄利多売でいこうと決意。

 またこの背景には、違う側面もある。ネットオークション慣れしている私。ということは、それなりに売買をしてきたということに等しい。そしてそれは、私の衣類の中にはネットオークションで買った物も多数含まれている、ということである。最近ネットオークションを覗いていてよく目にする言文。こちらで譲っていただいたのですがサイズが合わず、とか、こちらで譲っていただいたのですが趣味が変わり、とか、こちらで譲っていただいたのですが似た服を買ってしまい、など。最初のは試着できない以上、仕方がないことだと思う。真ん中のはまあネットオークションそのものの歴史が長くなるにつれ参加者も歳を重ねるのだし仕方がないことかもしれない。でも最後のって……。気持ちは解る。私も似たテイストの服を買いがちだ。アオザイとか、アオザイとか、アオザイとか。しかし、似た服を買ったからやっぱり要らない、と公共の回線上で書く勇気が私にはない。書けてしまう人は凄いなあ、と思う。悪い意味で。買った物をどうするか。それは買った人の自由だ。自由なのだけれど、何というかこう、気遣いのない人だなあ、という印象を受けてしまう。以前、ネットオークションで冬物のジャケットを落札したことがある。その人は最低落札価格を設定しようとして、希望落札価格にその金額を入力してしまった。その商品は1度目の出品では売れ残り、2度目で出品者はこの失敗をしてしまった。私は勘付いていた。けれど指摘せず、開始価格そのままで落札した。そしてメールで遣り取り。出品者はそのジャケットをとても気に入っており、けれど衣類は増え、売ることをかなり躊躇っていたらしい。だから最低落札価格を設定しようとした。だが、操作を間違ってしまった。出品者の思い入れをメールで読み、私は辞退を申し出た。その出品者は操作を間違った私が悪いのだし、黒猫さんならこのジャケットを大切に着てくれそうだから、と譲ってくれた。勘付いていたのに指摘しなかったことをやや恥じつつも有難く譲ってもらい、そのジャケットは毎冬活躍し、周囲からも好評を得ている。

 こんな売買を経験してしまうと、こちらで譲ってもらったけれど最近似た服を買ってしまったから、とか、箪笥の肥やしになっているので、などとは書けない。以前の持ち主のことを考えてしまう。買った人の自由なのだけれど……。私もオークションで落札した物を再出品したことがある。それはサイズが合わなかったからだ。落札から数年を経て趣味が変わった場合なら、もしかしたらその旨を書いて出品してしまうかもしれない。でも、できるだけそんなことは避けたい。例え要らなくなってしまったとしても、元の持ち主が不快になる可能性のある言文は書きたくない。そんなときはフリマに出してしまう方がいいと私は考えている。落札価格がそれなりに高かったとしても、フリマでは安価で買い叩かれてしまうとしても。それが買った者の礼儀だと思っている。画像の使い回しなんか以ての外だ。自分が出品し落札された衣類が、落札者によって再出品されていたのを見かけたことがある。けれどそこには悲しくなるような文章はなく、それは仕方ないね、と思える書かれ方だった。取引も売買も対等な立場で、気持ちよく行いたいものである。はてさて私はフリマに於いて気持ちいい出店者になれるだろうか。まず願うのは、梅雨だけれど月末は晴れてくれることだ。
 3年前の今日、私は東京地裁にいた。うちのの裁判の証人として法廷に出るからだ。4月に捕まり、留置され、起訴迄に奔走して、国選弁護人が決まると同時に弁護人に会い、保釈申請をしてもらい、どうにか保釈が認められ、裁判準備に駆け回った。弁護人も初めての経験という裁判初日即日判決。1.6の3。今日、執行猶予が明ける。うちのにも私にもいろいろな出来事があり、長かったような短かったような、もう判断もつかない月日が過ぎた。これでやっとおてんとさまに顔を向けて歩ける気がする。うちの本人の意思も勿論ある。それと同時にいろんな人が手を貸してくれて、うちのは更正できた筈。もうあんなことはしない筈。私もできる限りのことをしたつもり。おめでとう、うちの。そして私の苦労を労えってんだ!

 体調不良に付き短め。
 現在6月15日。

 食事中、うちのが少し静かになった。単に疲れていて話す気力がなくなっているだけかもしれないけれど、私には有難い。私は食事中の姿を他者に見られるのが、大の苦手なのである。若干、会食不全の気あり。他者に口元の動きを見られるのが本当にイヤでイヤで仕方がない。なのである程度親しい食餌を共にする相手には機会があれば、余り食事中にこっちを見ないで、と言っている。それでも見てくる人はいる。うちのもそのひとりだ。先日、夕食中にうちのが私を見てこう言った。でかい口開けて食べてる食べてる。単なる冷やかしでしかないのだろう、と理解できてはいる。しかしその言葉を私は受け止め切れない。スプーンを置いて席を立ち、その場を離れた。半泣き。恥ずかしくてつらくて仕方がなかった。悪気がないうちのは困っていた。誰も悪くない。他者から見て、私の食事姿はとても美味しく食べているように見えるらしい。自覚はない。美味しそうに食べるよねえ、とかつていろんな人に言われてきた。そして私はその言葉を褒め言葉と思えたことはただの1度もなく、その都度、辱めを受けている気分に陥った。箸が上手に持てない・溢すことが少なくない、なども見られて恥ずかしい理由の一部だ。しかしそれらは表層的なものでしかない。

 人間の三大欲求は、食欲・睡眠欲・性欲、と言われている。この食欲と睡眠欲に他者が関わると、私は過剰に拒否反応を起こしてしまう。食事姿を眺められるとすぐさま食欲は消え失せ泣き出したり、睡眠中の姿を写真に撮られたら本気で怒ったりする。うちのに対しても、だ。むしろ親しければ親しい程、こういうことへの拒否反応は強く出る気がする。遡って食事について考える。私の幼少期は本当に食が細く、今とは違う育児方法が主流だったこともあり親はとにかく私に物を食べさせたがった。私は強制される食事が苦痛で堪らなかった。決められた食事時間をオーバーしてしまうと、オーバーした分だけ罰として正座を強いられる。または夜、外に追い出される。食事は楽しみではなく、苦痛の前座のようなものだった。これもきっと、私の会食不全気味の傾向に影響がなくはないだろう。他者が私の食事姿を眺める姿は、そのときの食事での私の落ち度を見つけて、罰を与える用意をしているのではないかと勘繰ることすらある。怖い。ただただ怖い。けれど俯瞰した位置にいる私は、共に食事をしている人が私に意地悪をしてはこない、と理解してもいる。実存する私と俯瞰している私の矛盾点を結ぶ方法は未だ見つかってはいない。

 三大欲求は人間だけでなく、その他ケモノにもある本能だ。ということは、作法云々の人間特有のものはあれども、食事姿・睡眠姿・性交姿は、人間としての理性の皮を被ったケモノの本能を満たす姿でもある。人間でありたいと思う気持ちが強過ぎて、私は食事姿や睡眠姿を他者に見られることに羞恥と嫌悪を覚えるのか。それもひとつの正解であろう。ただこれのみを正解とはできない。それは性交姿を他者に見られることに対しては羞恥はあれど、嫌悪はないからだ。同性ならイヤなのだけれど、異性であれば逆に見られることでより高まったりする。激しい矛盾である。性交時は食事時や睡眠時よりも余程ヒトはケモノに近くなっている筈であり、また多くの人間は性交姿は他者から隠蔽するものと考えている。そしてそのような倫理観が日本では蔓延している。要するに、私は性的にはアブノーマルな人間である。性的にオープンなら、食事や睡眠に関してよりオープンでも何ら不思議はない。またそういう人もいるだろう。ただ、私は違う。命題。三大欲求の中で、私にとって性欲のみが異質なのは何故か。

 私はノーマルもOKではあるけれど、被虐嗜好を持っている。性行為に於いて対等な関係は一切望んでおらず、私は徹底的に下層の者または物として扱われたい欲求がある。その場合、私よりも上層にいる相手が第三者を連れてきて私の姿を晒そうとしたとして、私に拒否権はない。むしろそれを好しとして捉えねばならない。羞恥はともかく、嫌悪の気持ちを持ってはならないのだ。これを読んだ大多数の人間は、そんなのおかしい、と感じるだろう。だが嗜虐乃至被虐を好む者にとって、この構図は極々自然なものに見える筈だ。自分の問題に戻る。ケモノな自分を肯定するにあたり、私は他者の力添えがなければならないのではないか。本来ならばひとりで肯定できるべき成長過程を踏むべきなのに、私はその過程の何処かで足を踏み外してしまった気がしてならない。トイレ・トレーニングは母子若しくは親子関係の絆を強めるらしい。肛門期の次に来るのは口唇期である。口唇期にも親子の絆を深めるべきだったのではなかろうか。その方法はただひとつ、できたら褒める、である。私の場合、トイレ・トレーニングも相当に強引なものだったらしい。かなり早い時期から食事が済んだらおまるに座らされ、出る迄そこを離れることは許されなかった。これは薄っすら記憶にある。出たら出たで褒めてもらえた記憶もあるので、強引ながらもトイレ・トレーニングには大きな失敗はなかったのではなかろうか。そして口唇期。時間内に出された食事を全て食べることができたら褒められた。しかしそんなのは何十回に1回の割合であり、殆どの食事に於いては罰の前座でしかなかった。これが今の会食不全の気に繋がっている気がする。そして睡眠。決められた時間には半ば無理矢理布団に入れられた。眠くなくても。眠くなる迄、私は豆電球の下で本を読んでいた。そのときの私の部屋は一戸建ての2階。階段の下の方では足音を顰め、上に近付くに連れて足音を立てて駆けて私の部屋のドアを開けて、まだ起きてる!、と怒る親。布団に入ってから寝付ける迄の時間も苦痛でしかなかった。これらの苦痛は幼少期からの積み重ねである。性的なものはオトナになってから経験することだ。三大欲求のうち、ふたつを素直に出せなくなった私。オトナになって残るひとつの欲求の出し方に、ふたつの欲求の歪んだ姿から歪が生じたのでは、と考えている。間違っているかどうかは解らない。誰にも答えは出せないだろう。
 最近購入した衣類の中でヒットだったのは、ズッカのスカート。一見、バイアスチェックの膝丈台形スカート。しかしよく見ると、白・薄水色・濃水色の3色の布のパッチワークでバイアスチェック風に見えるようになっている、かなり手の込んだ作りのスカート。こういう一見無難に見えてよくよく見ると手の込んだ服が好き、というタイプならきっと私の衣類は今のように大量にはならなかっただろうし、愉快な服も所有するに至らなかっただろう。それは手の込んだ服は無難に見えても高価であり、無難に見えるが故に愉快な服ではないからだ。昨年秋から私を魅了してやまない柄は、水玉、である。水玉でこのズッカのスカートのように手の込んだ物を作るのはかなり大変かと思われる。精々、水玉プリントではなく水玉刺繍にするのが、大量生産型の限界だろう。水玉に開眼した昨年秋、水玉のカットソー・水玉のフリルブラウス・水玉の変形スカートを購入した。この3点、濃淡は違えどどれも茶色ベースに白の水玉。そのときの沸いた私の脳内は、水玉カットソーに水玉ブラウスを羽織り、水玉スカートを穿いたらきっとガーリッシュだわん〜、であった。病院行って精密検査を受けて来いレベルの間違いだ。取り敢えず、家でそのような恰好をしてみた訳だが……くどい! くど過ぎる! このまま外に出たら通報される! そんな具合だった。沸いた脳内の夢、儚く消え失せるの巻。水玉のセットアップや水玉のワンピースは、色使いなどで多少くどく見えることはあっても、落ち着いた色合いなら単純に可愛い。因って、茶色ベースに白の水玉を選んだ。敗因は何だったのか。きっと3点の色合いや水玉の大きさが違うことで、統一感が欠けていた所為だろう。いっそポップなバラバラの色でやってみれば良かったのか……更に早急に通報されていたに違いない。

 何処かで読んだのだが、関東では全体の中に柄物は1点しか使わず、関西では2点以上の柄物を合わせることに抵抗がない、らしい。都内在住脳内関西人か、私は。私の衣類には柄物が圧倒的に多い。同価格なら無地よりも柄物の方がお得に感じるから。しかし少し前迄は、柄物に柄物を合わせることに抵抗があった。やり過ぎ感が出てしまうのではないか、と。その抵抗感を幸か不幸か薄れさせてしまったのは、スクラッチカットソーの存在である。スクラッチカットソーとは前身頃・後ろ身頃・袖などで色柄が違う布地を使って作られるカットソーのこと。大雑把なパッチワークと言ってしまってもいいだろう。パッチワークは基本的に違う色柄の布を縫い合わせて1枚の服にする。パッチワークの服は好き。なら似た布地を使って作るパッチワークのように全体像のイメージ作りをできないものか、と考えた末に出来上がったのが、通報待ちの水玉狂いな恰好だった。何処でどう間違えたのか、イマイチ説明できない。説明はできないけれど、間違いだと解り通報されずに済んだだけマシだったか。

 色柄に頼らない可愛い服もある。ギャザーやパフスリーブやリボンやフリルやレースを使った服や、シフォンやアコーディオンプリーツなど。こういう色柄に頼らない物で全体像を作ればいい気がしてきたのは最近である。しかし色柄がなければ物足りないので1〜2点は色柄物を使う。やっと都内在住脳内関東人に近づいてきたのか。そんな色柄に頼らない服の中、私の中でブーム再燃中なのが、ティアードスカートである。フリル付きスカートよりも過剰なガーリッシュを演出してくれるのが、ティアードスカート。言わずもがな、スクラッチティアードよりも無地同素材ティアードの方が使い回しは利く。現在ネットオークションで狙っているティアードスカート数枚。全部購入したらきっと持て余す。そうでなくても、実はジーンズ派でスカートは余り穿かないのだ。無駄毛処理が面倒だから。この時点で女失格とかそういう無粋な突っ込みはさておき。ティアードスカートは脹脛丈が可愛いと思う。その長さだと、パンツとのレイヤードは難しい。靴下で誤魔化すか……無駄毛処理くらいしろよ、私。実はミニのティアードスカートも持っている。これはこれで可愛く、パンツとのレイヤードに活躍してくれている。冬場に。何故ならそのスカートの素材がクラッシュベロアだから。友人には、クラッシュベロアってどうなのよ? と言われたけれど、私は特に問題ないと思っている。クラッシュといえども激しいクラッシュ感はなく穏やかなニュアンス程度なので。問題あるクラッシュは今微妙に流行っているらしいデニムのクラッシュではかなろうか。それから古着加工のデニム。どうにも受け付けない。前者は清潔感に欠けるように思うし、後者は自分の体に合っていない色落ち感は如何なものか、と。どちらもガーリッシュなアイテムではないのでスルーでいいのだが。

 話は飛んで。去年の梅雨、私は何を羽織っていたのか全く記憶にない。先週から関東は入梅。何を着ればいいのか解らないので、有り物のジャケットやブルゾンに使おうかとレインガードを買ってみた。缶の何処を見てもどの程度の期間、水に耐えてくれるのかが書かれていない。1回全体に吹きつけたら、梅雨時期ずっと耐えてくれるのだろうか? 1〜2回程度で効果がなくなるなら、クリーニング屋で撥水加工処理を頼んだ方がお得だ。レインガード発売元のサイトを見ても、私の疑問の答えは書かれていなかった。ググッてみても見つからない。試してみるしかないのだろうか。なんとなく腑に落ちない。発売元の不親切さが気に食わない。なので買ってしまったレインガードは効果持続の程度が判らないにしても有り物の衣類に使い、また別にナイロンジャケットの購入を考えている。現在私が所有しているナイロンジャケットは1枚。花柄のライダース型でライヴ用に購入した物。普段使いにしてもいいのだけれど、ピンク地に花柄なので下に着るものをかなり選ぶ。今、ウォッチリストに入れている無難なナイロンジャケットが2枚。余程高騰しなければきっと落札するだろうけれど、ヒキコモリ気味の私が3枚も所有してどうするのか……。以前ウォッチリストに入れていながら高騰して負けたA/Tのカーキのフリル付きナイロンパーカジャケットと、ケイタのパッチワークの撥水加工済みスプリングコートが今も悔しい。ナショスタで撥水加工済みジャケットが出てくれればなあ。ツモリが出すなら撥水加工ではなくオイルコーティングだろう。それでも可。まずは目先のウォッチリストに入れているナイロンジャケット2枚だ。発売されるかどうか判らないナショスタやツモリを待っているうちに、梅雨が終わったら無意味極まりない。と書いていて、脹脛丈のティアードスカートは著しく梅雨に向かないと気付いた。何だかなあ。
 現在6月13日。

 一昨日からサイレースの代わりにメイラックスの服用を始めた。途轍もなくだるいのだが、この薬の効果はこれでいいのか? 激しく疑問な位に眠い。朝は起きられる。が、朝食後に眠り、昼食時に目覚めて食事を摂りまた眠り、夕方目覚めて最低限の家事をして夕食を食べるとまた眠くなり、うちのに決められた3時という消灯時間よりも1〜2時間は優に早く布団に入る。その直前にアモバンとメイラックスを服用。1日中眠くて堪らん。サイレースからメイラックスに処方が変わったのは前回診察時に、日中だるくて堪らん、と訴えたからだ。そしてメイラックスに変わったわけだが……だるい上に眠くなってどうする! 無意味! 朝昼にパキシルをまた戻してもらったのにこんなに眠いってどういうことだ。主治医曰く、メイラックスはソラナックスより弱い薬。本当なのか? 信じていいのか? 効果はまだ解らんが、副作用と思われるものは明らかにメイラックスの方が強く感じる。抑うつが酷いときに、いいから寝てれ、的な1日乃至は3日は使い物にならなくなる薬を出された。これと似た類のような物に思えてならない。メイラックスで予期不安や発作が出ないのは、単に眠くて寝てしまうからではないのかと。それでいいのかと。それでは人として何かが違うのではないかと。そのお陰でうちのと現在喧嘩中。

 先日は私が夕方惰眠を貪っているときに、ビデオ録画依頼の電話をもらい、何してた? と訊かれたので、寝てた、と答えて怒られた。その日うちのが帰宅したときには起きていたから大事にはならなかった。今日はうちのは休みでありつつ家で仕事をしている。朝食兼昼食にスープビーフンを出した。昨日の朝食は焼きビーフン。なんかここんとこ、朝飯にコーンフレークかビーフンしか食ってない気がする。気がするのではなく、本当にそれしか出してないよ。何で? 俺、ご飯食べたい。何でって……あんたが朝はコーンフレークがいいって言うし、昨日も今日も何でもいいって言うからビーフンを出したんだけど。ご飯炊いてないの? ないよ、ビーフンを出す予定だったんだから。冷凍庫にストックはないの? ないよ、冷凍庫は他の食材でいっぱいだから。そして黙々とスープビーフンを食し、食器を下げて私は、コンビニにお菓子を買いに行きたい、と言いつつ寝た。小2時間程して目が覚めるとうちのが、コンビニに行くか、と言う。うん、とのそのそ起きる私。家を出てからうちのがこう言った。あの物件、こっちの方だと思うから見に行こうよ。あの物件、とはうちの近所の賃貸マンションであり、うちのは私の昼寝中、近所大手の不動産屋のサイトを見ていたのだ。はあ? やだ、どれ位歩くかも解らないのに……私はコンビニに行く。と、結局ひとりでコンビニへ。それでもお菓子はふたり分購入。私の帰宅後、暫くしてうちの帰宅。コンビニの袋を提げて苛々オーラを振り撒き捲っている。怖い。話しかけても喧嘩腰で返事が返ってきて、挙句の果てには、もう喋るな! ときた。所在なくした私は再び昼寝。小4時間。起きてから、夕飯作ったら食べる? と訊くと、食べる。少し時間を置いたからか、ちゃんと話してくれるようにはなった。が、まだ苛々口調が残っていて怖い。

 まず家を出てから、物件を見に行こう、というのは約束違反だと思う。だってコンビニに行くというから私は外に出たのだ。なのに物件って……。私も気になっている物件だけれど、それを捜し歩く体力気力は少なくとも今日の私にはなかった。なのでひとりでコンビニに行った。帰宅後、何様だよ! と言い放ったうちの。何様って……。私が、あの物件を探しに行きたい、と行って家を出て、やっぱりやめた、なんて我侭を炸裂させたならば、うちのからしたら、おまい人を振り回すのもいい加減にしろよ! 何様だよ! となっても不思議はない。なのにコンビニに行くというから付いて家を出て、コンビニではない場所に行こうとしたうちのこそどうなのか、と問いたい。でも怖いので直接は問えず、ここに愚痴を書いている現在。付き合いが悪い、と解釈されるのは仕方がないだろう。だが、付き合いが悪い=何様だ! は飛躍しすぎというものだ。俺様思考が見て取れる。家を出る前、1回目の昼寝中にうちのはトイレで煙草を吸ったらしい。煙草を置いてある場所で判った。今年からうちではトイレ禁煙としている。ユニットバスの天井を掃除するのはなかなかに大変であり、その大変な作業をするのは私だからだ。因って文句を言ったら不機嫌になられた。私は以前ふたりの間で取り決めた約束を破ったうちのに、正しいことを言った筈なのに……。

 うちのの今の思考の根底にあるのはきっと、だらだらと寝やがってからに、だ。それがぐうたらに因るものか、薬の副作用に因るものかは関係ないらしい。現に1度目の昼寝後に、寝ちゃってごめんね、副作用で異様に眠いんだよ、と言ったら、そんな薬は飲むな! と怒られた。フォローという訳ではないけれど、基本的にうちのは私の病気を、そういうものであるらしい、と捉えて処方薬の副作用も、そういうものであるらしい、と考えてくれている。ただ、何処かに苛々があるとこういうフラットな考えは吹き飛んで行き、だらだらしやがって! に簡単に裏返る。所謂、八つ当たり、だ。今日のうちのの苛々の種は、出かけたいのに私が寝てばかりいること及び家で仕事をしなければならないこと、のふたつかと想像している。それらの事情とは関係なしに襲ってくる強烈な眠気という副作用。私は悪くない。うちのも悪くない。単にうちのの虫の居所が悪かった。こんな日はどうすればいいのだろう。私には解らない。なので卑屈な態度に出てしまう。するとうちのは余計に苛々するらしい。逆に尊大な態度に出たら、きっと自分自身でさえ、何様だよ! と思うだろうから出られない。無為に時間が過ぎて就寝時間を待ち、1日が終わることを望むことしかできない。うちは男女の考え方としては逆な側面があり、女性である私が理詰めで問い詰めて行くと、うちのは感情論でキレる。そんなことはもう飽きる程、繰り返した。だから私は理詰めで自分の正しさを訴えることは半ば諦めるようになった。感情論でキレた者が勝ち、なのだ。理詰めのこちらはもう為す術がないから。嫌な1日。早く終わればいい。
 現在6月12日。

 かつて私に大打撃且つ激しい衝撃を与える言葉を放ったのは、某友人の姉だった。友人が私の写っている写真をその姉に見せたときの感想。この子、胸、大きそうだね。何度も何度もくどくどと書いているように、私は誰もが認める貧乳の持ち主である。なのに、胸、大きそうだね。大きそう、という言葉が出るということは、その写真に私の胸部は写っていなかった筈である。そして友人姉は、私の顔を巨乳顔と判断して、そのようなことを言ったのだろうと見当が付く。巨乳顔とはどんな顔なのかを想像した。何となく頭が悪そうで隙だらけ。そんなイメージ。……莫迦顔? 世の中には利巧顔の巨乳も当然ながらいる。が、利巧顔だけを見て果たして人は、この子は乳がでかそうだな、と思うだろうか。否、思わないだろう。利巧顔はスレンダーなイメージである。あくまで私の貧困な想像力の範囲だけれど。自分のことを最も客観的に見られるのは、私個人と接触のない第三者であろう。友人姉は正しくその条件に適う。第三者が客観的に見た私は、乳がでかそうな顔。それを私の脳内イメージで言い換えると、莫迦顔。ショックを禁じ得ない。利巧・知的といった高尚なもの迄求める程貪欲ではないけれど、知性が感じられない、は避けたかった。幾ら私でも、知性的で巨乳そうな子だね、などと友人姉が私を完璧人間と想像したとは思えない。頭は悪そうだけど乳はでかそう、がまあ無難な感想なのだろう。そして考えるのは、頭が悪そうという客観的感想と貧乳という事実を踏まえた上での、自分の存在価値である。頭が悪くても乳がでかければ、白痴美、という路線を狙える。しかし頭が悪そうで乳もなければ、外見的に女として私に存在価値はあるのか。ない。断言。そしてしょぼん。

 ここで、人間は外見より中身だ、なんて綺麗事をいう程、私は自分を貶めたくはなかった。ので外見を磨く努力をした。目指すは、外見的には文庫本の似合う女でありソウルはビッチ。文庫本が似合う=読書家=頭が良さそう、という莫迦莫迦しいのもいい加減にしろとハリセンで頭を叩かれそうな短絡的発想。けれど、外見が他者に与えるイメージとは短絡的であればある程、判り易くはなかろうか。ソウルはビッチ=小悪魔。私の脳内イメージでは、小悪魔はビッチなのである。具体的に考えてみよう。文庫本の似合う女とは、どんな女か。色白で黒髪でサナトリウムで白い浴衣を着ている。……時代設定に間違いが生じていそうな悪寒。現代的に考えてみる。眼鏡っ子。……視力が悪い=本の読み過ぎではなくゲームのやり過ぎのような気もする。現に私はそれなりに読書をしている方だと自負しているが、眼鏡が必要な程に視力は悪くない。むしろ良い方だ。眼鏡も間違っていそうだ。文庫本……、文学……! 「文学ト云フ事」! 袴を穿いた女学生! 白ブラウスに黒タイトの女教師! 私の莫迦! 短絡的過ぎるようである。どんな女なら現代的に文庫本が似合うのか、想像できない。この時点で私の負けなのか。そうなのか。悔しい。ソウルはビッチ。これは説明できる。パッと見、直ぐにヤれそうな女でありながら実はヤれない女。外見的にはやや未成熟なフェロモン全開。ソウルは魂であり、それなら実践できそうだが、なら未成熟フェロモンを私がむんむんと振り撒けるかというと、それは不可能な話である。女性性を強調する乳が貧相であるのに、未成熟フェロモンむんむんはあり得ない。未成熟フェロモンとは、子供の心なのに大人のカラダというアンバランスさが生むものなのだ。……子供の心だけれど、年齢的には充分オトナな私には例え乳があったとして既に不可能ではないか。ヤれそうでヤれない女、という点でだけなら実践可能。現に今の私は感染恐怖症の気があるので、尚更ヤるヤらないのハードルは高くなっている。だが、どうにもうちの以外の男性との直接的接触が実に少ないので、どうでもいい話だったりする。

 学生時代からずっと、他者に私の第一印象を訊くと、取っ付き難そう、という答えが大多数を占めていた。取っ付き難そうだけれど仲良くなってみるとそうではなかった、と。そして先の問題を思い出す。乳がでかそう=隙がありそう、と、取っ付き難そう、は相反する印象ではなかろうか。隙がある人は取っ付き易そうであり、隙がないからこそ取っ付き難そうなのではないか、と。隙があるのに取っ付き難い人。そのココロは……と考える。導き出される答えは、電波ゆんゆん系、だ。冒頭に書いたのとは違う某友人の兄が得た私の第一印象は、エキセントリックな人、だったらしい。……奥歯に電波が届いたことはただの1度もないのに。電波ゆんゆん系をもう少し柔らかくして表現するなら、不思議チャンか。深田恭子か。前世はマリー・アントワネットか。違う! 私が望む他者に与える第一印象と、他者が得る私の第一印象の間には、深くて暗い河どころか、数万光年の差がある。私はなんてセルフ・プロデュースが下手なんだ! と落胆。

 外見より中身が大切、というのは嘘である。外見がダメなら他者はその者の内面迄は見ようとしないからだ。そして長所と短所が表現ひとつで覆るように、外見がダメな者がたまたま他者に良い内面を見せるきっかけがあったとして、他者は既にその者の外見にダメ出しをしているのだから、その行為もネガティヴにしか受け取られない。第一印象を覆すのは、とても大変な労力を要するのだ。ときに。私は取っ付き難いという評価を得ながらも、他人に道などを尋ねられる率はかなり高い。取っ付き難い人間には余り訊いてこない筈である。尋ねてくる者を分析すると、初老人が多い。そこに中年から老年者は、若者の電波ゆんゆん系や不思議チャン加減へのアンテナを持っていない傾向が見て取れる。などと書くと、自ら電波ゆんゆん系または不思議チャンであることを自覚しているようだが、決してそうではない。世の中、なんでこうも思い通りに行かないことが多いのだろう。私が他者に求める、ソウルはビッチな文庫本の似合う女、というのはそんなに高度な感受性を要するのか? 違う。責任転嫁してはならない。自身でセルフ・プロデュースの腕を磨くべきだ。そもそも20代後半になって、ソウルはビッチな文庫本の似合う女を目指すのは如何なものか、という意見はつまらないから却下である。そして自分と第三者の思う第1印象が違うだけであり、決して私は電波ゆんゆん系でも不思議チャンでもない、と重ね重ね記述。
 現在6月12日。

 9日から10日にかけて、某巨大掲示板某板某スレにて人格全否定された私。そのスレは昔やっていた間違ったメイクやファッションについて自分語りをした上で禊をするようなスレであり、過去から現在迄の自分の遍歴を軽く書いてみた。大前提は、昔は間違っていたけれど今は多分間違っていませんよ、だ。……覆されてしまった。輝いている、という素晴らしい一見褒め言葉なレスと、現在進行形で間違ってるよ、という進言を頂戴するに至った。現在進行形で間違っている、という指摘の後で、私ではない誰かが、アイテムでないとすれば何処が間違っているのか解らない、と書いた。その後に続いたレスが、〜〜(レス番)さん自体が間違っているのではないか、〜〜さんが間違っているのは根本的に、など。纏めて読んでみると、思春期に通過儀礼として通っておくべきだった勘違い及び間違いファッションを成人してから現在進行形で実践しており、勘違いアイテムを手にするたびに友人から、服はね、面白くなくていいんだよ、と忠告されている。それでも、だって可愛い物が好きなんだもん! だって小悪魔になりたいんだもん! と反抗期的発言連発。ファッションはガーリッシュながらソウルはピッチの心意気。自分の書いたレスと他者がくれたレスを読み、何が現在進行形で間違っているのかを、メイラックスでぼーっとしている頭で考えてみた。メイクと髪は間違っていないと断言できる。化粧板よ、多謝。では間違っているのは何か。きっと、ソウルはビッチの心意気、なのだろう。いや、もっと正確に書くならば、第三者から見ればソウルはビッチの心意気な20代後半は間違っているように見える、のだろう。因みにレスの中で、普段は気分でガーリーとカジュアルを行ったり来たり、と書いたのだがスルーされている模様。若しくは読んだ人は、勘違いした、ガーリーや、間違った、カジュアルを行ったり来たり、と脳内補完しているのかもしれない。如何ともし難い。誤解を解かねば! と書き込もうとしたらアクセス禁止のお達しが。タイミング、最悪。

 突発的に可愛い服を買ってしまう。その可愛い服は、とんでもなく嵩張るバルーンスカートや、紫ラメのレザースーツや、袴だったりする。着るあてはない、と書いたのは見栄だ。ライヴに着て行く。ただそれを書いてしまうと、どんなバンドよ、と突っ込まれそうなので敢えて、着るあてはない、と。このスレを友人と見ながらメッセで会話。いろんな恰好をしていたんだね、と言われた。しかしスレに書いたのは極一部、極最近の私的可愛いアイテムであり、書いていない物もある。例えば去年・一昨年の冬に自分の中でブレイクしていたアイテムは、マント、だ。フードがついていて首のところでリボン結びする嵩張るウールの布でできたアレ。これが周囲に悪評紛々。そして自分でも、可愛いが不便だ、と感じていた。嵩張る・重い・見た目程暖かくない・他の服に合わせづらい・動き難い、の五重苦のマント。実用性の面で余りにも不利益なので去年末に処分をしたが、未だに悔しく思う。可愛かったのに……と。マントは独断と偏見に於いて間違ってはいなかった。自覚的間違っていたかもアイテムの筆頭は、フリースの豹柄うさ耳帽子、である。この帽子を手にしたのは20代前半。うさ耳、可愛い! と飛びついた。これらのアイテムをメッセで書いたとき友人に、写真は残っていないの? と訊かれた。残っている筈がない。何故ならこれらは、普段着、でありわざわざ写真に残す必要はなかったからだ。フリースの豹柄うさ耳帽子を嬉々として被る20代前半の女。マントを嬉々として身に纏う20代後半。しかも普段着。決してコスプレではない。これらアイテムを普段着として着るのと、コスプレとして着るのではどちらがイタイのだろう。実に微妙な話である。あ、書いていてマントについてちょっと客観視できてきたか。

 一昨日友人と話していて笑われた最近購入した衣類に、サテンの黒いギャザースカート、というものがある。無地だし、変形ではないし、無難なアイテムだと私は思っている。が、友人が真っ先にイメージしたのは、年末恒例の第九の合唱団、だったらしい。何と合わせるの? と訊かれて困った。何をトップスに持ってくればいいのだろう。元々サテン素材の服を着回すのは苦手なのだ。なのに何故買ってしまったか。それは某スレに、ブルーベースの冬の人にはサテンのような素材が似合う、と書かれていたからだ。それを読み、そうか! サテンか! と飛びついた踊らされ捲りの莫迦ちんがそこにいた。友人に、何が合うと思う? と相談したら、サテンかシルクの白いブラウス、という答えが返ってきた。第九から離れて考えてくれ……。シースルー素材の物なら合うかな、と自分で思い至ったのでもういいのだけれど。友人と話していて、ネットオークションのウォッチリストに入れてから見直して削除したアイテムについて話した。そのひとつが、フランス女優のような黄色いブラウス。シースルー素材で、ボートネックの襟元には豪華絢爛なレースがあしらわれており、ウエストには共布のリボンが付いている代物。とても可愛い。一目で私のハートをノックアウト。なのに削除したのは、共布とはいえ外付けのリボンをウエストに巻くアイテムが似合わないことが、去年発覚したからである。私のウエストの寸法は、身長からすると標準よりやや太い程度である。ただ上半身が薄っぺらい為、他者にはウエストも細い錯覚を与えがちだ。このような自分に都合のいい錯覚は大歓迎である。因って実態をバラす行為は極力避けたい。その為には、ウエストにリボンやサッシュベルトをあしらってはならないのだ。それらが非常にとても大変尋常ならぬ長さならいい。余りが多い程に、やっぱりウエストが細いから余るのね、とより良い勘違いを招くから。しかし布地ギリギリの部分で強引に結んでしまうと、無理しちゃって……、とウエストの太さをバラすだけでなく痛々しさ迄感じさせてしまう。このような理由でフランス女優のようなブラウスは削除した、と友人に話すと、予想外の反応が返ってきた。リボン云々でなくフランス女優のようなブラウスって時点でダメでしょ、と。ハイ? 何がダメなんですか? 全く解らない。だって可愛かったし、おまけにゴージャスだったし。もしかして解らない時点でダメなのか、私は……。

 別の友人が昔も今も私によく言ってくれる言葉に、服はね、面白くなくていいんだよ、というのがある。尤もだと思いつつも、面白い服の何が悪い? という反抗期気分も持ち合わせたりもしている。この友人の科白は「ハッピーマニア」でフクちゃんがシゲタに言った言葉に酷似している。ということは、私はシゲタか。エマニエル夫人か。何がダメだか解らない時点でダメ。ダメな奴は何をやってもダメ。でもソウルはビッチの心意気。
 現在6月10日。

 うちにはよく、分譲マンションのチラシが入る。普段は華麗にスルー。たまたま目に止まったのは、そのチラシがペラペラの1枚仕立てではなく、簡易パンフレットのようにキチンとしていたからだ。予約してモデルルームを見に行って購入を決めた人には、家具一式もくれるらしい。お得。超お得。写真には大きなベッドにプラズマテレビ、大きなシステムキッチンや小洒落たオブジェが写っていた。リビングには床暖房迄付いている。これらをくれると言うのだ。マンションを買えば。頭金0、ボーナス払い0でもOK。なのに月々のローン返済は頑張れば払えない値段ではない。欲しい。めっさ欲しい。引っ越したい! 珍しく私からうちのにパンフを見せて、こんなに素敵な物件なのよん、とばかりに語った。うちのは、払えなくはないけど何十年ローンだよ……、と。考えていなかった。計算するに30年位? でも! でも賃貸でもそんなの変わらないじゃないか! うちのは地図を見て、小学校が近いからきっと煩いよ、と。うーむ。騒音公害は苦手だ。増してや憎憎しい餓鬼共の奇声とチャイムか。結局うちのが反対して、この物件購入はお流れとなった。何故私はこの物件にそんなにも惹かれたのか。高価な家具というおまけ付きも確かに魅力のひとつではある。しかしよくよくパンフを見ると、間取り図の表記方法がエレガントだったからのように思えてきた。DKだの居間だのトイレだのと書かれるところを、いちいち洒落た書体を使って英語で書いてある。使われている写真も妙にムーディ。どうやらこの雰囲気に呑まれていた気がしてきた。そしてパンフは捨てた。

 私は英語を始めとする外国語が一切できない。荒井注レベル。因って定番化しているメッセージTシャツも怖くて買えない。なにが書かれているのか、自分には全く解らないからだ。デザインを気に入って買ったとして、その言葉の国の人が読んでみて、私は秀才ではなく天才なので大衆は豚です、などという内容だったりしたら顔から火が出る程に恥ずかしい。その点、ヒスなら安心して買える。書いてある言葉の意味が解るからだ。ファックとかビッチとか。それはそれで如何なものか、なのだが。カタカナなのは荒井注レベル故にスペルミスを避ける為。数年前、何をとち狂ったかどうしても、ファックイズホームワーク、と書かれたTシャツが欲しくなった。ので買った。うちのに散々莫迦にされた。当然である。ファックイズホームワークは良くても、マザーファッカーはダメだった。その基準は一体何なのか。自分でも解らない。あのひよこのイラストがどうしても可愛く思えなかったからか。しかし落書きうさぎは可愛いと思う。ファックベアーも可愛いと思えない。しかしネズミーランドの主役パロディの長耳ネズミは可愛い。この微妙過ぎる線引きが、自分でも未だ説明できなくてもどかしい。ファックイズホームワークTシャツは愛用していたものの、洗濯の際に他の衣類から色移りしてダメになった。悲しかったが、天の思し召しだったのか。いい歳こいて恥を晒すな、と。

 またメッセージTシャツを着るには、何故か照れが入ってしまう。例えば、ハッピー、と書かれたTシャツがあったとする。楽しげで何よりではないか、と思うのは日本人だからであり、英語圏の人間が見たら、楽しい、と書かれたTシャツとしか思えない筈である。同様に地名が書かれたものもダメ。こう、何というか、浅草辺りにいる外国人をイメージしてしまうのだ。日本だの原宿だのと漢字で書かれたTシャツを着て浮かれている外国人。途方もなく嬉しそうなその姿に、英語メッセージTシャツを着て、私ってオシャレサン、と浮かれている日本人が重なる。英語だけでなく仏語独語でも同じ。私ってばパリジェンヌ、な主張が感じ取れて、こちら迄恥ずかしさを覚える。気にし過ぎなのは重々承知なのだが、この気恥ずかしさを背負って尚、前を見て歩ける程の自信が私にはない。でかでかとブランド名がプリントされたTシャツももう着られない。若気の至りで着ていたことはあったけれど、そんな過去は棚に上げて置くにしまい込み、BAPYなどと書かれたTシャツを着て街を闊歩する若者を見ては頬を染める私なのである。BAPY自体を否定している訳ではなく、BAPYにも可愛い服があるのは承知で、でもブランドロゴTシャツだけは許容できない。そんなことを書いているのに、数年越しで欲してやまなかったMILKFEDのタイプロゴトレーナーを、冬場は嬉々として着ていた。それは部屋着だからいいのだ。外に着て行くには躊躇いが生ずる。近所のコンビニが限界か。

 単なる外国語コンプレックスなのだろうか。そう簡単には片付けられないような気もする。私が結婚式や披露宴をしたくない理由に親類縁者友人知人の前で、生涯この人としかセックスしません宣言、をしなければならない恥ずかしさがあるのだ。友人カップルや街行くカップルを見ては、こいつら今は澄ましているけどヤッてんだよなー、と思ってしまう習性がある。フツーはそんなことは考えないらしい。が、私は考える。結婚式の恥ずかしさについて、その昔CCガールズの誰かが同様のことを述べていて、同志よ! と感動した。こんなことを考えているのは私だけだと思っていたから。今も前髪鶏冠頭の人間が存在していたりする。その人の旬はバブル期だったのだなあ、と思う。同様にブランドロゴTシャツを着ている人間を見ると、私ってイケてる〜、的恥ずかしさを感じる。そしてそういうものを恥ずかしいと思う私は自然とロゴ物を避けるようになり、かといって無地だと何だか損した気分になるので無駄に花柄や水玉や縞や格子が増えてゆく。これらの柄物にロゴやメッセージが混ざっていることは殆どなく、何処の国の人から見られても大丈夫、という安心感を抱ける。その昔、喜び勇んでMILKのTシャツやカットソーを着ていた自分を抹消したい。牛乳って何だよ、と。MILKの服は可愛いけれど、所詮は牛乳。powderに至っては、粉、だ。粉……粉って。ふと思ったのだが、日本のブランド名に外国語が多いのは何故だろう。桃色屋敷とか、素晴らしい世界とか、一般的に見てイタタなブランド程、邦訳すると大風呂敷を広げていたりする。後、デザイナー名がそのままブランド名になっているのも考え物だ。そのブランドのロゴ物を着て歩くということは、他者の名札を付けて歩いているようなものではないか。日本人って、外国語やローマ字にメロメロだな。私もだが。
 現在6月9日。

 昨日の話。どうにもだるくてだるくてだるくて、うだうだうだうだと午睡を満喫していた夕方17時半頃か、電話が鳴った。どんなに具合が悪かろうと電話の音や玄関チャイムの音は無視できない性質なので、取った。うちの電話回線はうちのの名義で引いているので、名乗るときはうちのの名を名乗る。はい。あのー、うちの(仮名)さんのお宅ですか? そうですが、何か? うちのさんはいらっしゃいますか? 出掛けていますが、何か? お休みはいつでしょう? 土日は大概休みですが、何か? 奥様ですか? そのようなものですが、何か? うちのさんは何時頃お帰りになりますか? 深夜になると思いますが、何か? そうですか……。お名前とお電話番号を教えていただければ折り返し電話させますが。いえ、昔一緒に仕事をしていただけできっと覚えていないと思うので……またかけます。はあ。と電話終了。電話の主は女性。落ち着きがありつつちょっと可愛い声なのがまた私の気分を害する。私の声は落ち着きもなく可愛くもないから。即座にうちのにメール。とってもぁゃιぃ名前も電話番号も教えてくれない電話なんだけど、何だよアレは。気分悪い。因って今夜はメシ抜きな。慌てて電話してきたうちの。誰なの? 知るかよ! 名乗りもしなきゃ電話番号も教えない相手のことなんか知るか! あんたが悪くないことは解っちゃいるが、けたくそ悪いわ。今夜メシ抜き。ビールだけ冷やしておいてやる。気になる気になると念仏のように唱えるうちの。知らんっての! 名乗らない女からの電話なんてぁゃι過ぎる。何なんだよ、もう。私の午睡を邪魔してソレかよ! あー、苛々苛々。

 コンビニに行ってお菓子と弁当を購入し、私の夕食の準備は終了。どうにも気分が悪い。ストレス発散に買い物でも……とネットオークションを覗く。いい物はいろいろあったけれど、昨日終了の物がない。行き場のないストレス。食事を摂ってだらだらとPCで遊んでいると、夜、電話が鳴った。出ると無言で直ぐ切れた。あの女かどうかの確証はないけれど、ぁゃιぃ。そして23時半過ぎか、またあの女から電話。0時半位には帰ってくると思いますが、何か? じゃあまたかけさせていただきます、夜遅くに何度も済みません。いーえ、どうぞどうぞ……。余裕ありそうな返事をしている自分に苛々。0時29分にまたかかってきた。後5分10分で帰ってくる筈ですが、何か? そうですか。うちの、帰宅。私はPCデスクから離れず背を向けたまま、お帰り、とだけ。ついさっきまた電話があったよ。もう直ぐかかってくると思うよ。誰なんだろう、気になるなあ。おまいも気になるだろうが、こっちの方が余程気になるんじゃ! 電話が鳴った。うちのが取った。ああ、〜〜さん! 久しぶり! 今、どうしているの? などの雑談が開始された模様。無視を決め込み、でも聞き耳を立てる私。うちのが電話を取る前に言っておいた、名乗れ、はちゃんと言ってくれた。曰く、名乗ると怪しまれると思って名乗らなかったとか。名乗らん方が数倍ぁゃιぃわ! 受話器を置いたうちのが、主婦だったよ、と言った。だから、何? いや、だからって言われても……、昔のバイト先の仲間だよ。ふーん……。セックスレスである現状、浮気は致し方ないと思っている。しかしそれを家に持ち込むのはルール違反だ。うちのは、やましいことは何もない、と言っていたが。ざらざらした気持ちを抱えたままでいるのも、自分自身の気分が悪い。なんでまたわざわざ電話してきたの? と訊いた。曰く、夢に出てきたから電話してみた、らしい。何じゃ、そりゃ! 会いたいが為のきっかけ作りの電話にしか思えない。その女は主婦であり、子供から手が離れたと言う。そして昔の同僚などに連絡を取ろうとするも、なかなか相手が捕まらないらしい。そりゃあそうだろう。子供から手が離れたということは、数年は経ている筈だ。自分と同じだけ、相手にも年月が経っており、各々環境が変わっていても仕方がないだろう。

 何故そんな何年も連絡を取り合っていなかった昔の知り合いに電話をしようと思うのか。その神経が解らん。おまけに名乗らない。うちの曰く、その女は今また仕事を始めようと思っているらしい。そのツテ探しか? しかしPCも持っていないと言う。何が何だか。私なら、何年も連絡を取っていなかった相手が夢に出てきたところで、わざわざ電話をかけようとは思わない。しかも異性。20〜30代、人生の中で最も大きな環境変化を迎える年頃だ。相手が結婚している可能性だって少なくない。そこに名乗らないぁゃιぃ電話がかかってきたら……。あの女はちょっと足りない。うちの経由での私への伝言。名乗らなくて済みません。謝る位なら最初から名乗れや! うちのも私同様に転職を重ねてきた人間であり、昔の同僚が電話してくること自体には同性だろうが異性だろうが、構わないと思っている。相手に用事があれば用件と電話番号を聞き、私からうちのの携帯電話に連絡をして、その相手に電話させたことも何度もある。今迄、大した用事じゃないので、という人はいたけれど、名乗らなかった相手は初めてだ。

 私は絶対に悪くない。うちのも悪くない。悪いのは、逆方向に気遣いをした足りない女だけだ。それでもうちのと私の間にはピリピリした空気が流れた。私の斜めになった臍が元に戻らないから。うちのも時間に任せようと思ったらしく、弁解などはしてこなかった。あの女は、名乗らない、というだけでこんなに家庭内に波風が立つとは思わなかったのだろうか。相手は子持ちの主婦であり家庭ある人間。ちょっと考えれば解りそうなものではないか。やはり足りないとしか思えない。数ヶ月前に、うちはナンバーディスプレイを解約している。必要だったのはうちのが独立して家で仕事をしていたときの締め切りから逃げる為であり、外に働きに出るようになってからは必要なくなったから。昨日は解約を後悔した。解約していなければ相手の電話番号が表示され、うちのから電話をかけさせることで、半日ももやもやせずに済んだのだ。まだ少しもやもやしている。生協の配達がくる迄、もう少し布団に逃げよう。

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