アレな人々
2004年4月28日 家族・メンヘル・健康など 現在、4月30日。
昨日は朝っぱらからうちのに怒られた。夜のうちに寝ないで、朝の9時に布団に入ったから。何で早く寝ないんだ! と言われたので、時差ぼけだ、と答えた。笑われた。海外旅行はしていないが、連日の深夜バスでの移動は体内時計を狂わせるのに充分な要素が詰まっていると思うのだが。尤も、端から体内時計が整っていた試しはないので、だからどうだ、という話でもない。うちのは私の解るような解らんような回答を聞き、笑ってスルーしてくれた。くどくどとした説教にはならず、そのまま私は安眠。起こされたのは19時。職場から呼び出しがかかった、とのことで出掛ける、と。いてらさ。一応玄関迄見送りに行き、約2時間後の帰るコールを受けて夕飯の支度。ふたり暮しなのに何故か出来上がった鴨の中華炒めは5人分。いろんな野菜を少しずつ使う、ということが私は苦手なのだ。残った半端な野菜類を次にどう応用すればいいのかかなり困る。なのでひとつなり1パックなりの解り易い単位で調理する。すると当然、出来上がるのは大量のおかず。うちのに、なんでこんな大量なの、と訊かれたので、エコ、と答えた。うちの曰く、余ったらラップなり何なりして保存すればいいではないか。私曰く、それはラップの無駄遣いだ。ハナで笑われた。なんだか笑われてばかりの1日。
一昨日の夜の会話。ぼけーっとふたりでテレビを見ていたら懐かしのアニメの次世代版番組になった。そのアニメに纏わる伯母と従兄と私との間に起こった忌まわしき記憶について話して聞かせたところ、おまいんちはどうしてみんなアレなんだ? と言われた。どうしてなんだろう。環境? 血? どっちにしても嫌……。母方の身内でまともな人を脳内で探す。暫しの時を経て結論。いない。みんな何処かズレている。そしてみんな自分が一番正しいと思っている。そしてみんな我が正義に反する人間は気違い扱いしてくる。そしてみんな微妙な戦線協定を結び、どうにか他の兄弟姉妹を突き落とそうとしている。この従兄は今でこそ某女子高校の講師をしているが、中学時代迄は私からいろんなものを搾取していった人。性に関しては搾取未遂で済んだが。この従兄には兄がいる。伯母一家4人、みんな私の視点から見ればおかしい。30代前半後半の息子たちを、ボクチャン、呼ばわりして猫可愛がってる伯母、伯母の言うことは全肯定な伯父、母親に溺愛されて社会性が身についていない子供たち。母方の親戚の中で、この家が一番嫌いである。祖父母宅から金目の物を無断で持ち出したり、親戚一同が出した金を自分だけが出したと偽ったり、祝儀を出さなかったり。とにかく金に汚い伯母、という記憶しかない。今は疎遠。このまま一生疎遠でいたい。
この伯母に物事の分別が曖昧だった小学生の頃、別の叔母の方が好きだ、と言ったことがある。そのときの伯母の対応。数時間後に誰だったかの名前を出して、黒猫ちゃんよりあの子の方がよっぽど可愛い、と言ってきた。子供だった私は嫌いな伯母に嫌われて結構、とは達観できずに自分の所在のなさに泣いてしまった。今思えば。伯母に対して失礼なことを言った私が悪いと思う。だが、それに対してDQN返しは如何なものか。相手は小学生なのに。きっと伯母は自分の産んだ子供以外の餓鬼は嫌いだったのだろうなあ、と段々解っていった。先日うちのに、あんたの姉さんらのとこの子は育ちが悪い、お年玉袋をその場で開けるような餓鬼は嫌いだ、と言った。うちのは甥っ子姪っ子を可愛がっている。だからか、子供らしい行動じゃないか、と言われた。私はそういう行動は失礼だと教えられてきて、それは正しいと思っている。うちのが、あの子らが黒猫ちゃん遊んで! と懐いてきたらどうする? と訊いてきたので、勘弁してくれ、と即答した。ただでさえ私は子供が苦手なのだ。おまけに育ちが悪い餓鬼、叱らない親。考えただけで怖気がする。知らん、他人の子供らに関わりたくない、と言った。うちのは私が、あんたの親や姉らは私からしたら他人だ、というスタンスがどうも気に入らないらしい。この、コトメらの子が懐いてきたらどうする? の話をしていたのは某駅構内。うちのがこんな例えをしてきた。ここに見知らぬ人が倒れていたらどうする? そりゃあ駅員なり救急車なり呼ぶさ。他人なのに? 他人でもするだろ。ならその位の思い遣りを俺の甥っ子姪っ子にも持てないか? あー、そうね、倒れていたのが子供だったら蹴飛ばして放置していくかもね。うちのは、あんたとはこの先やっていけないかもしれない、と言った。
実際に倒れていたのが子供だったとして、大人との仮定同様に駅員なり救急車なり呼ぶことは間違いない。本当に蹴飛ばして放置する程に私は堕ちていない。ただうちのが長男であること及び近い将来に訪れるであろうお互いの家の介護問題などへの予防線として、あんたと血が繋がっていても私には他人だから、のスタンスを今から叩き込んでいるだけである。長男の嫁扱いは勘弁願いたいからだ。その上嫌いな餓鬼の面倒など誰が見たいと思うものか。子供は天使、育ちが悪いんじゃなくて無邪気なだけ、そんなお気楽な変換をするツールは私の脳内にはひとつもない。我がことだけで精一杯なのに、これ以上誰を思い遣れと。我がこととは、私の身内の話である。最もアレな私の親が暴走しないように見ているだけで大変なのだ。お互いに自分の身内のアレを、家庭に持ち込まないようにしたい。この間祖母の見舞いからの帰宅途中、親が意味不明なことを言い出した。うちのはまだアレしているんじゃないか、アレしていてアレはアレだ、あのときああしていれば私たち親の対応も違ったのに、など。煩いことこの上なし。黙らせる為に、親に今迄話したことがなかった私の過去の話をした。風俗勤め。激しく驚いていた。翌朝、親がかけてきた電話でいうことには、過去のことは忘れなさい。私は風俗だろうが何だろうが自分で選んだ仕事をしてきただけなので、全く以って忘れる必然性を感じない。特に恥ず仕事をしてきたとも思っていない。なんで本人が嫌な過去だの恥ずかしい過去だのと感じていないことに対し、忘れなさい、などと傲慢なことが言えるのか、その神経が解らない。私という他者の過去をどうこう言うなら、うちのの過去を自分らが忘れる努力をして欲しい。過去を忘れるだの何だの、親子であっても他人の人生に口出ししてはならないものだと私は思っている。
昨日は朝っぱらからうちのに怒られた。夜のうちに寝ないで、朝の9時に布団に入ったから。何で早く寝ないんだ! と言われたので、時差ぼけだ、と答えた。笑われた。海外旅行はしていないが、連日の深夜バスでの移動は体内時計を狂わせるのに充分な要素が詰まっていると思うのだが。尤も、端から体内時計が整っていた試しはないので、だからどうだ、という話でもない。うちのは私の解るような解らんような回答を聞き、笑ってスルーしてくれた。くどくどとした説教にはならず、そのまま私は安眠。起こされたのは19時。職場から呼び出しがかかった、とのことで出掛ける、と。いてらさ。一応玄関迄見送りに行き、約2時間後の帰るコールを受けて夕飯の支度。ふたり暮しなのに何故か出来上がった鴨の中華炒めは5人分。いろんな野菜を少しずつ使う、ということが私は苦手なのだ。残った半端な野菜類を次にどう応用すればいいのかかなり困る。なのでひとつなり1パックなりの解り易い単位で調理する。すると当然、出来上がるのは大量のおかず。うちのに、なんでこんな大量なの、と訊かれたので、エコ、と答えた。うちの曰く、余ったらラップなり何なりして保存すればいいではないか。私曰く、それはラップの無駄遣いだ。ハナで笑われた。なんだか笑われてばかりの1日。
一昨日の夜の会話。ぼけーっとふたりでテレビを見ていたら懐かしのアニメの次世代版番組になった。そのアニメに纏わる伯母と従兄と私との間に起こった忌まわしき記憶について話して聞かせたところ、おまいんちはどうしてみんなアレなんだ? と言われた。どうしてなんだろう。環境? 血? どっちにしても嫌……。母方の身内でまともな人を脳内で探す。暫しの時を経て結論。いない。みんな何処かズレている。そしてみんな自分が一番正しいと思っている。そしてみんな我が正義に反する人間は気違い扱いしてくる。そしてみんな微妙な戦線協定を結び、どうにか他の兄弟姉妹を突き落とそうとしている。この従兄は今でこそ某女子高校の講師をしているが、中学時代迄は私からいろんなものを搾取していった人。性に関しては搾取未遂で済んだが。この従兄には兄がいる。伯母一家4人、みんな私の視点から見ればおかしい。30代前半後半の息子たちを、ボクチャン、呼ばわりして猫可愛がってる伯母、伯母の言うことは全肯定な伯父、母親に溺愛されて社会性が身についていない子供たち。母方の親戚の中で、この家が一番嫌いである。祖父母宅から金目の物を無断で持ち出したり、親戚一同が出した金を自分だけが出したと偽ったり、祝儀を出さなかったり。とにかく金に汚い伯母、という記憶しかない。今は疎遠。このまま一生疎遠でいたい。
この伯母に物事の分別が曖昧だった小学生の頃、別の叔母の方が好きだ、と言ったことがある。そのときの伯母の対応。数時間後に誰だったかの名前を出して、黒猫ちゃんよりあの子の方がよっぽど可愛い、と言ってきた。子供だった私は嫌いな伯母に嫌われて結構、とは達観できずに自分の所在のなさに泣いてしまった。今思えば。伯母に対して失礼なことを言った私が悪いと思う。だが、それに対してDQN返しは如何なものか。相手は小学生なのに。きっと伯母は自分の産んだ子供以外の餓鬼は嫌いだったのだろうなあ、と段々解っていった。先日うちのに、あんたの姉さんらのとこの子は育ちが悪い、お年玉袋をその場で開けるような餓鬼は嫌いだ、と言った。うちのは甥っ子姪っ子を可愛がっている。だからか、子供らしい行動じゃないか、と言われた。私はそういう行動は失礼だと教えられてきて、それは正しいと思っている。うちのが、あの子らが黒猫ちゃん遊んで! と懐いてきたらどうする? と訊いてきたので、勘弁してくれ、と即答した。ただでさえ私は子供が苦手なのだ。おまけに育ちが悪い餓鬼、叱らない親。考えただけで怖気がする。知らん、他人の子供らに関わりたくない、と言った。うちのは私が、あんたの親や姉らは私からしたら他人だ、というスタンスがどうも気に入らないらしい。この、コトメらの子が懐いてきたらどうする? の話をしていたのは某駅構内。うちのがこんな例えをしてきた。ここに見知らぬ人が倒れていたらどうする? そりゃあ駅員なり救急車なり呼ぶさ。他人なのに? 他人でもするだろ。ならその位の思い遣りを俺の甥っ子姪っ子にも持てないか? あー、そうね、倒れていたのが子供だったら蹴飛ばして放置していくかもね。うちのは、あんたとはこの先やっていけないかもしれない、と言った。
実際に倒れていたのが子供だったとして、大人との仮定同様に駅員なり救急車なり呼ぶことは間違いない。本当に蹴飛ばして放置する程に私は堕ちていない。ただうちのが長男であること及び近い将来に訪れるであろうお互いの家の介護問題などへの予防線として、あんたと血が繋がっていても私には他人だから、のスタンスを今から叩き込んでいるだけである。長男の嫁扱いは勘弁願いたいからだ。その上嫌いな餓鬼の面倒など誰が見たいと思うものか。子供は天使、育ちが悪いんじゃなくて無邪気なだけ、そんなお気楽な変換をするツールは私の脳内にはひとつもない。我がことだけで精一杯なのに、これ以上誰を思い遣れと。我がこととは、私の身内の話である。最もアレな私の親が暴走しないように見ているだけで大変なのだ。お互いに自分の身内のアレを、家庭に持ち込まないようにしたい。この間祖母の見舞いからの帰宅途中、親が意味不明なことを言い出した。うちのはまだアレしているんじゃないか、アレしていてアレはアレだ、あのときああしていれば私たち親の対応も違ったのに、など。煩いことこの上なし。黙らせる為に、親に今迄話したことがなかった私の過去の話をした。風俗勤め。激しく驚いていた。翌朝、親がかけてきた電話でいうことには、過去のことは忘れなさい。私は風俗だろうが何だろうが自分で選んだ仕事をしてきただけなので、全く以って忘れる必然性を感じない。特に恥ず仕事をしてきたとも思っていない。なんで本人が嫌な過去だの恥ずかしい過去だのと感じていないことに対し、忘れなさい、などと傲慢なことが言えるのか、その神経が解らない。私という他者の過去をどうこう言うなら、うちのの過去を自分らが忘れる努力をして欲しい。過去を忘れるだの何だの、親子であっても他人の人生に口出ししてはならないものだと私は思っている。
現在、4月28日。
腋の下の下の黒いぷつぷつが痒くなってきた。腋毛の生える位置よりも拳ひとつ分下辺り。このぷつぷつは暫く前にした垢すりの失敗だ。がしがしと垢すりをしているうちに、どうも肌を傷付けてしまったらしく擦り傷ができてしまった。それが治りかけて今は瘡蓋状態になっている。痒い。そして位置が微妙故に人前では絶対に掻けない。それから連夜の深夜バスにて風邪をひいたようで、頭痛・喉の痛み・鼻詰まりが酷い。また首から腰迄が痛い。頭痛に伴いぼーっとしてしまう。因って今朝の起床は、歯科の予約時間の5分前。歯磨きをしていく時間がどう考えてもなかったので、キャンセルの電話を入れた。行ったところで鼻炎持ちで普段から難しい鼻呼吸が、今は完全に不可能になっているのでこれでよかったのかもしれない。無理に鼻呼吸をしようとすると、スーピーと鳴る。ハナをかんでもスーピー。まるで子供かオッサンの寝息である。酷いものだ。
そんな酷い体調に追い討ちがかかった。局部が悲惨なことになっている。ナプキンでかぶれたらしく、痛痒い。そして妙な汁が出る。これは臍側。うんこを拭くと尻側からは血が出る。毛切れだ。尻側が乾燥している所為か、私の毛足が長い所為か。毛切れは以前にもあった。毛を処理すれば治る。しかしかぶれは初めてのこと。どうしていいか解らない。何の薬をつければいいのか、はたまた放置すべきなのか。原因も乾燥なのか蒸れなのか。保湿が必要なのか、それともショーツも脱ぎ去って乾かした方がいいのか。ともかく今は無闇に触らないのが最善かと思われる。けれど気になって仕方がなく、触ってみるとじくじくとイヤーな液体が指先に付き、イヤーな匂いを発する。こんな不快感はこの人生の中で最強だ。今、身分証明書の類を持たずに殺されたとしたら身元捜索の特徴として、陰部にかぶれあり、などと報道されるのか。嫌過ぎる。死んで尚、恥晒し。こんな報道をされたら、身内が気付いたって恥ずかしくて引取りに行けまい。だからまずこうは報道されないだろう。よくある身元捜索の方法として、歯科のカルテが使われている。今だと、左奥歯手前にクルミの引っ掛りあり、と報道されるのか。これも情けなさ過ぎる。それでも事実。さっきクルミのパウンドケーキを食べていて、クルミが引っ掛って取れないのだ。これまた不快。今、身元不明の死体となってはならないらしい。だから引き篭もっていよう。外に出るにも、歩くことそのものが不快だ。じくじくしているところがわしゃわしゃとなり、更にぐじぐじするから。
風邪がある程度マシになっても、場所が場所だけにぐじぐじは長引きそうな感じである。その場合、入浴はした方がいいのだろうか。入浴の際、私が身体を洗うのはボディブラシであり、全身をくまなくがしがしと洗う。当然シモもがしがしと。今、このぐじぐじ部分をがしがししたら、確実に泣く。痛くて。想像しただけで痛くなってきた。うちののように自然素材のボディタオルで洗うべきか。こんなときだけ素材や道具を変えるのはチキンな気もする。無駄な意地を張ってどうする。単純に自己満足の世界なのだけれど。うちのはストレスが吹き出物となって体に出る。そしてよく吹き出物ができる位置のひとつに、脚の付け根と陰部の間、がある。今迄つらさがイマイチ解らなかったが、今はとても深く理解できる。これはつらい。膀胱炎のときと同じくらいにトイレが不快。ショーツの上から冷えピタでも張ってみるか。張るカイロは布地の上から出ないと使用不可。冷えピタは直接肌に張るようにできている。布地の上からでも効果はあるのだろうか。かといって、アイスノンを股間に乗せている姿は余りにも惨めだし、身動きが取れなくなり不便だ。どうしたものか。
うちのはかの場所に吹き出物ができて皮膚科に行ったとき、帰ってからその部分の毛を短く切って薬を塗っていた。私も毛を切った方がいいのだろうか。いいのだろうな。だが、場所がアレなので途轍もなくお間抜けになること請け合い。あら、こんなところにミステリーサークルが? まあ誰に見せる予定もないからミステリーサークルだろうがつるつるだろうが構わないっちゃあ構わない。けれど私は知っている。その部分の毛を切ったり剃ったりした後、生えかけてきたときのチクチクした痒さと不快感を。生理が終わってナプキンから開放されたことだけが救いだ。次回からはタンポンを復活させようか。でも長く使用していない部分に使うと慣れる迄、暫くは痛かったりする。うーむ、悩みは尽きない。体調不良に付き、短め。
腋の下の下の黒いぷつぷつが痒くなってきた。腋毛の生える位置よりも拳ひとつ分下辺り。このぷつぷつは暫く前にした垢すりの失敗だ。がしがしと垢すりをしているうちに、どうも肌を傷付けてしまったらしく擦り傷ができてしまった。それが治りかけて今は瘡蓋状態になっている。痒い。そして位置が微妙故に人前では絶対に掻けない。それから連夜の深夜バスにて風邪をひいたようで、頭痛・喉の痛み・鼻詰まりが酷い。また首から腰迄が痛い。頭痛に伴いぼーっとしてしまう。因って今朝の起床は、歯科の予約時間の5分前。歯磨きをしていく時間がどう考えてもなかったので、キャンセルの電話を入れた。行ったところで鼻炎持ちで普段から難しい鼻呼吸が、今は完全に不可能になっているのでこれでよかったのかもしれない。無理に鼻呼吸をしようとすると、スーピーと鳴る。ハナをかんでもスーピー。まるで子供かオッサンの寝息である。酷いものだ。
そんな酷い体調に追い討ちがかかった。局部が悲惨なことになっている。ナプキンでかぶれたらしく、痛痒い。そして妙な汁が出る。これは臍側。うんこを拭くと尻側からは血が出る。毛切れだ。尻側が乾燥している所為か、私の毛足が長い所為か。毛切れは以前にもあった。毛を処理すれば治る。しかしかぶれは初めてのこと。どうしていいか解らない。何の薬をつければいいのか、はたまた放置すべきなのか。原因も乾燥なのか蒸れなのか。保湿が必要なのか、それともショーツも脱ぎ去って乾かした方がいいのか。ともかく今は無闇に触らないのが最善かと思われる。けれど気になって仕方がなく、触ってみるとじくじくとイヤーな液体が指先に付き、イヤーな匂いを発する。こんな不快感はこの人生の中で最強だ。今、身分証明書の類を持たずに殺されたとしたら身元捜索の特徴として、陰部にかぶれあり、などと報道されるのか。嫌過ぎる。死んで尚、恥晒し。こんな報道をされたら、身内が気付いたって恥ずかしくて引取りに行けまい。だからまずこうは報道されないだろう。よくある身元捜索の方法として、歯科のカルテが使われている。今だと、左奥歯手前にクルミの引っ掛りあり、と報道されるのか。これも情けなさ過ぎる。それでも事実。さっきクルミのパウンドケーキを食べていて、クルミが引っ掛って取れないのだ。これまた不快。今、身元不明の死体となってはならないらしい。だから引き篭もっていよう。外に出るにも、歩くことそのものが不快だ。じくじくしているところがわしゃわしゃとなり、更にぐじぐじするから。
風邪がある程度マシになっても、場所が場所だけにぐじぐじは長引きそうな感じである。その場合、入浴はした方がいいのだろうか。入浴の際、私が身体を洗うのはボディブラシであり、全身をくまなくがしがしと洗う。当然シモもがしがしと。今、このぐじぐじ部分をがしがししたら、確実に泣く。痛くて。想像しただけで痛くなってきた。うちののように自然素材のボディタオルで洗うべきか。こんなときだけ素材や道具を変えるのはチキンな気もする。無駄な意地を張ってどうする。単純に自己満足の世界なのだけれど。うちのはストレスが吹き出物となって体に出る。そしてよく吹き出物ができる位置のひとつに、脚の付け根と陰部の間、がある。今迄つらさがイマイチ解らなかったが、今はとても深く理解できる。これはつらい。膀胱炎のときと同じくらいにトイレが不快。ショーツの上から冷えピタでも張ってみるか。張るカイロは布地の上から出ないと使用不可。冷えピタは直接肌に張るようにできている。布地の上からでも効果はあるのだろうか。かといって、アイスノンを股間に乗せている姿は余りにも惨めだし、身動きが取れなくなり不便だ。どうしたものか。
うちのはかの場所に吹き出物ができて皮膚科に行ったとき、帰ってからその部分の毛を短く切って薬を塗っていた。私も毛を切った方がいいのだろうか。いいのだろうな。だが、場所がアレなので途轍もなくお間抜けになること請け合い。あら、こんなところにミステリーサークルが? まあ誰に見せる予定もないからミステリーサークルだろうがつるつるだろうが構わないっちゃあ構わない。けれど私は知っている。その部分の毛を切ったり剃ったりした後、生えかけてきたときのチクチクした痒さと不快感を。生理が終わってナプキンから開放されたことだけが救いだ。次回からはタンポンを復活させようか。でも長く使用していない部分に使うと慣れる迄、暫くは痛かったりする。うーむ、悩みは尽きない。体調不良に付き、短め。
現在、4月28日。
愛しの君のバンドの新ドラマーが決定したらしいとの噂。良き哉良き哉。これで秋のツアー説にも信憑性が出てきた。ツアー全てに行けるような経済力も行動力もないけれど、都内近郊のライヴには行く予定。そして飲酒厳禁。秋にツアーということは、夏頃には新譜が出るのかもしれない。非常に楽しみである。ガーリッシュたる者HR/HM好きはいかんだろう、と思っていたけれどそうでもないらしい。某スレを見たところ、ちょうど音楽の話になっており私以外にもHM好きはいたし、HIPHOP好きなガーリッシュ・スタイルの人々も多くいた。好きな音楽は何でもいいようである。考えてみれば、当たり前の話だ。好きな恰好と好きな音楽に脈絡は必要ない。何もかもトータル・コーディネートしようとすると、何処かで破綻したときにかなり痛くなる。適度なアンバランスさはあって然るべきものなのかもしれない。フレンチ・ポップやらクラシックやらに傾倒した方がいいのかなあ、という気持ちが捨てられて気楽になった。クラシックといえば。のだめのCDが初回のみで生産中止に。中古価格で5万円をつけている人も出てきている有様。生産中止になった経緯は知らないけれど限定物とは知らず、まあそのうち買えばいいや、と先延ばしにしていた自分の愚かさに後悔しきり。特典で付いていた4コマ漫画が、今発売中のKissに袋綴じ掲載されていたので買ってしまった。雑誌立ち読み・単行本購入派なので本誌を買ったのは初めてかも。4コマ4本に390円。高いんだか、安いんだか。いつかCDが安く手に入れば更にいいのだが……。
のだめのトートバッグがいつの間にか変わってしまった。今度はボーダーにト音記号の付いた物。何処のだろう。初代のだめバッグに飛びついた莫迦としては、新のだめバッグも欲しい。初代のだめバッグよりも、新のだめバッグの方がガーリッシュだし春夏向き。また楽器屋取扱の物なのだろうか。近々初代のだめバッグを取り寄せてもらった店に行って訊いてみる予定。のだめの持ち物でもうひとつ欲しい物がある。ブローチ付きの黒いタートルワンピース。実在のお洋服がモデルになっているかどうかは不明。きっと探せば黒いタートルのワンピースはあるだろうし、それにブローチをつければいいだけの話だろう。ところが。このワンピースはある程度スタイルが良くなければ着こなせない代物。ストンとしたシルエットなので、尻だけ立派な幼児体型者には禁忌なのだ。因みにコスプレ目的ではない。念の為。
前号で連載終了した蕾ちゃん。てっきり打ち切りだと思っていたのだが、違ったらしい。作者曰く、担当者と打ち合わせの上、半年前から終了時期を決めていたとのこと。これは作者のサイトの日記に書かれていたこと。それにしては最終回に強引さが否めないのだけれど、読者がそう思ったところで作者が違うというのだから追求はできない。彼女は売れっ子漫画家という訳ではない。佳作と駄作が極端に分かれる作家。知名度もさほど高くないと思われる。それでも金持ちなんだなあ、と日記を読んで驚いた。滅多にしない、と言いつつもシャネルでお買い物かい。大ヒット無しのコンスタントな売り上げと思われる漫画家でもシャネル。一発当てたいと思う人々の気持ちが解るような。いやいや、そうではなく。ラブボ関連の服を登場人物に着せているのに、作者はシャネルってところに驚いた、と。決してシャネルに僻んでいるのではない。似合わないのは解っているし。シャネルだの何だのそっち系ゴージャス趣味は無いし。蕾ちゃん、ストーリー的には佳作の部類。楽しみだったのは蕾ちゃんの服装。可愛かったんだ、これが。思い切り私好みのカジュアル路線。菊ちゃん程のナイスバディではなかったので、参考にし易かった。重ね着とか小物使いとか。漫画のキャラはいいなあ、と思う。大量に衣類を買う金も湧いてきているようだし、収納に困っている様子もない。漫画も変わった。昔はお洒落の参考になる漫画という物が限りなく少なかったように思う。それがいつの間にかリアルの女の子に近い恰好をしているキャラが増えてきた。ストーリーも現実味を帯びた物が増えてきた。見方によっては、夢がなくなってきたとも言えるだろうが、それは悪いことではないと思う。
話は二ノ宮知子に戻り。「GREEN」がタイトルを変えてNHKでドラマ化されるらしい。「天才ファミリーカンパニー」のドラマ化で失敗しているので、もう作品のドラマ化に許可は出さないと思っていたので意外だった。テレビ離れしているから「GREEN」も観ないだろうが。「天ファミ」ドラマ放映時は二ノ宮知子に興味がなかったので観ていなかった。どうもジャニタレ糞ドラマに仕上がってしまったらしい、と後で知った。二ノ宮知子の漫画は面白い。面白いけれど、最近読み返していて気になった点が何箇所もあった。吹き出し内の活字と、コマ内の文字の食い違いが目立つ。漫画なので実在の企業名などをもじってコマに書く。それが吹き出し内では実在企業名そのままになっていたり。面前なのに鳴いたかのように牌が描かれていたり。これは一例だけれど、この手の単純ミスが目立つ。使えない編集が担当なのか。吉田秋生の「YASYA」と「イヴの眠り」でも気になる箇所が。登場人物のつけているピアスが出鱈目。このピアスに関しては、今年に入ってセルフ・ピアッシングでホールを作製する迄は気にならなかった。自分の興味のあることには殊更目が向いてしまうものらしい。両者とも完成度の高い作品を描くので、凡ミスが惜しくてならない。作者にとって、ピアスはキャラを立てる為の記号のひとつでしかないのだろう。キャラに沿っていれば何処にどんなピアスがあってもいいかのようだ。「編集王」に出てくるような編集者はいないのか。いないんだろうな、悲しいけれど。私は漫画の編集に関わったことはない。私が編集していたのは雑誌だ。雑誌の中でイラストなども殆ど扱わなかった為、この手のことで作者にダメ出ししたことはない。漫画の編集に私が携わっていたら……直しを入れてもらうだろうな、きっと。私のように気にする読者もいるのだから。
愛しの君のバンドの新ドラマーが決定したらしいとの噂。良き哉良き哉。これで秋のツアー説にも信憑性が出てきた。ツアー全てに行けるような経済力も行動力もないけれど、都内近郊のライヴには行く予定。そして飲酒厳禁。秋にツアーということは、夏頃には新譜が出るのかもしれない。非常に楽しみである。ガーリッシュたる者HR/HM好きはいかんだろう、と思っていたけれどそうでもないらしい。某スレを見たところ、ちょうど音楽の話になっており私以外にもHM好きはいたし、HIPHOP好きなガーリッシュ・スタイルの人々も多くいた。好きな音楽は何でもいいようである。考えてみれば、当たり前の話だ。好きな恰好と好きな音楽に脈絡は必要ない。何もかもトータル・コーディネートしようとすると、何処かで破綻したときにかなり痛くなる。適度なアンバランスさはあって然るべきものなのかもしれない。フレンチ・ポップやらクラシックやらに傾倒した方がいいのかなあ、という気持ちが捨てられて気楽になった。クラシックといえば。のだめのCDが初回のみで生産中止に。中古価格で5万円をつけている人も出てきている有様。生産中止になった経緯は知らないけれど限定物とは知らず、まあそのうち買えばいいや、と先延ばしにしていた自分の愚かさに後悔しきり。特典で付いていた4コマ漫画が、今発売中のKissに袋綴じ掲載されていたので買ってしまった。雑誌立ち読み・単行本購入派なので本誌を買ったのは初めてかも。4コマ4本に390円。高いんだか、安いんだか。いつかCDが安く手に入れば更にいいのだが……。
のだめのトートバッグがいつの間にか変わってしまった。今度はボーダーにト音記号の付いた物。何処のだろう。初代のだめバッグに飛びついた莫迦としては、新のだめバッグも欲しい。初代のだめバッグよりも、新のだめバッグの方がガーリッシュだし春夏向き。また楽器屋取扱の物なのだろうか。近々初代のだめバッグを取り寄せてもらった店に行って訊いてみる予定。のだめの持ち物でもうひとつ欲しい物がある。ブローチ付きの黒いタートルワンピース。実在のお洋服がモデルになっているかどうかは不明。きっと探せば黒いタートルのワンピースはあるだろうし、それにブローチをつければいいだけの話だろう。ところが。このワンピースはある程度スタイルが良くなければ着こなせない代物。ストンとしたシルエットなので、尻だけ立派な幼児体型者には禁忌なのだ。因みにコスプレ目的ではない。念の為。
前号で連載終了した蕾ちゃん。てっきり打ち切りだと思っていたのだが、違ったらしい。作者曰く、担当者と打ち合わせの上、半年前から終了時期を決めていたとのこと。これは作者のサイトの日記に書かれていたこと。それにしては最終回に強引さが否めないのだけれど、読者がそう思ったところで作者が違うというのだから追求はできない。彼女は売れっ子漫画家という訳ではない。佳作と駄作が極端に分かれる作家。知名度もさほど高くないと思われる。それでも金持ちなんだなあ、と日記を読んで驚いた。滅多にしない、と言いつつもシャネルでお買い物かい。大ヒット無しのコンスタントな売り上げと思われる漫画家でもシャネル。一発当てたいと思う人々の気持ちが解るような。いやいや、そうではなく。ラブボ関連の服を登場人物に着せているのに、作者はシャネルってところに驚いた、と。決してシャネルに僻んでいるのではない。似合わないのは解っているし。シャネルだの何だのそっち系ゴージャス趣味は無いし。蕾ちゃん、ストーリー的には佳作の部類。楽しみだったのは蕾ちゃんの服装。可愛かったんだ、これが。思い切り私好みのカジュアル路線。菊ちゃん程のナイスバディではなかったので、参考にし易かった。重ね着とか小物使いとか。漫画のキャラはいいなあ、と思う。大量に衣類を買う金も湧いてきているようだし、収納に困っている様子もない。漫画も変わった。昔はお洒落の参考になる漫画という物が限りなく少なかったように思う。それがいつの間にかリアルの女の子に近い恰好をしているキャラが増えてきた。ストーリーも現実味を帯びた物が増えてきた。見方によっては、夢がなくなってきたとも言えるだろうが、それは悪いことではないと思う。
話は二ノ宮知子に戻り。「GREEN」がタイトルを変えてNHKでドラマ化されるらしい。「天才ファミリーカンパニー」のドラマ化で失敗しているので、もう作品のドラマ化に許可は出さないと思っていたので意外だった。テレビ離れしているから「GREEN」も観ないだろうが。「天ファミ」ドラマ放映時は二ノ宮知子に興味がなかったので観ていなかった。どうもジャニタレ糞ドラマに仕上がってしまったらしい、と後で知った。二ノ宮知子の漫画は面白い。面白いけれど、最近読み返していて気になった点が何箇所もあった。吹き出し内の活字と、コマ内の文字の食い違いが目立つ。漫画なので実在の企業名などをもじってコマに書く。それが吹き出し内では実在企業名そのままになっていたり。面前なのに鳴いたかのように牌が描かれていたり。これは一例だけれど、この手の単純ミスが目立つ。使えない編集が担当なのか。吉田秋生の「YASYA」と「イヴの眠り」でも気になる箇所が。登場人物のつけているピアスが出鱈目。このピアスに関しては、今年に入ってセルフ・ピアッシングでホールを作製する迄は気にならなかった。自分の興味のあることには殊更目が向いてしまうものらしい。両者とも完成度の高い作品を描くので、凡ミスが惜しくてならない。作者にとって、ピアスはキャラを立てる為の記号のひとつでしかないのだろう。キャラに沿っていれば何処にどんなピアスがあってもいいかのようだ。「編集王」に出てくるような編集者はいないのか。いないんだろうな、悲しいけれど。私は漫画の編集に関わったことはない。私が編集していたのは雑誌だ。雑誌の中でイラストなども殆ど扱わなかった為、この手のことで作者にダメ出ししたことはない。漫画の編集に私が携わっていたら……直しを入れてもらうだろうな、きっと。私のように気にする読者もいるのだから。
現在4月27日。
25日の夕方、親と待ち合わせて夜行バス乗り場へ。親とふたりで長時間……想像しただけでぐったりである。そして行く先には叔母がいる。うちのがまた脅すようなことを言っていた。親も叔母も私らの交際や結婚には反対している。そしてこの機会に拉致されたらどうする? なんて訊いてきていた。洒落にならん。非常に危機感を感じつつ親と落ち合い、軽食を摂り、バス乗り場へ。眠剤の効きが良くて助かった。バスに揺られること約8時間、26日の早朝に京都某市へ到着。一旦叔母宅へ寄って挨拶をし、従妹が登校してすぐに祖母の元へ出発。従妹、13歳。巨乳。制服のブラウスの釦と釦の間から黒いブラが見え隠れ。童顔でぽっちゃり、なのに巨乳。チッ。第二次性徴が始まった当初は乳がでかくなることが嬉しかったようだが、今は邪魔で仕方がないらしい。喧嘩を売られているのか? それはともかく、彼女の若々しい溌剌とした姿を見て、私、老けたなあ……と軽く凹んだり。
祖母の元に行く道中、私は車内でずっと寝ていた。対面したのは、祖母が車のところ迄やってきてからだった。病室に親と叔母が迎えに行ったときに、ひとり足らん! と憤慨していたそうな。私に会うことを楽しみにしてくれていたのは大変嬉しいことである。しかし私は、祖母の姿を見るのがつらかった。耳元で大声で話さなければ聞こえない、話し声もハッキリしていない、会話が飛ぶ、足も更に弱くなり、他者に手伝ってもらわなければ車椅子の乗降もできない、姿はロンパース。そして伝え聞いていた通りにやはり生気がなかった。特に目元。まだ意識がハッキリしているときに会うのは、これが最後だな、と感じた。私がもっと頻繁に会いに行ければいいのだが、今回も処方薬総動員で、しかも道中の殆どを睡眠でフォローしてやっとこ乗り切れた状態。そして帰宅した今、ほとほと疲れ果てている。祖母らと昼食を摂り、親と私を祖父の墓参りに連れて行ってもらい、祖母を病院に送って叔母宅へ帰宅。その道中も私は殆ど寝たきり。祖母は何度も私に、いい人はいるのか? いい人を見つけなさい、と言っていた。その都度私が、いい人はもうちゃんといるよ、と答えていたのに親が、これから探すってさ、と茶々を入れていた。私にとっては充分うちのはいい人なのにな。
私が少し元気を取り戻したのは、従弟に会ってから。前に会ったときの面影は残っていたけれど、随分としっかりした感じになっていた。しっかりと言うか……老けていた。高校2年生にして社会人1年生の風貌。そしてPCをちょっと弄らせてもらった。デスクトップ散らかり過ぎ! おまけにプログラム入り過ぎで容量不足になっている。Cばかり使っているようで、Dが有り余っていたので一部ソフトをDに移すようにアドバイス。今迄従弟と接するのはどちらかというと苦手だったのだけれど、今回PCを見せてもらったことで親近感が沸いた。ボクもあんなツールやこんなツールを使っているのね。アレされないように気をつけなさいよ、と。この辺の物が欲しいならいいあぷろだを教えるからメール頂戴、と。送ってくるかどうか、楽しみだ。叔父はどうだか知らないけれど、叔母や従妹はそのツールの意味を知らない。いや、PC自体に詳しくない。従弟とならPC友達になれそうな予感。ただ部活で忙しい子だから、そこがどうかな。黒レトリバーも大きくなっていて、とても人懐っこく可愛かった。どこぞの私の尻を噛む莫迦犬とは大違いだ。
出掛ける前、出社していたうちのが早く帰宅してくれた。やる気がないから仕事を持って帰ってきた、と。帰宅直前には電話で、食べる物要る? と訊いてくれたので有難くファーストフードを頼ませてもらった。土曜の夜、日曜の夕飯を作っていたことをうちのは知っている。なのに、ファーストフードを持ち帰って、なんだよ、夕飯あったのかよ、などと言っていた。知っていたくせに。うちのは恩着せがましくするか、そっけなく接するかのどちらかだ。土曜はそっけない日だったらしい。でも、私には気遣いが見て取れてとても嬉しかった。今朝、親と朝食を摂っていてまた云々言われたけれど、私にとってうちのが一番いい人だ。余りに煩かったので、私が昔風俗勤めをしていたことをさらっと言ってみた。相当なショックを受けているようだった。そして、そんな風に育てたつもりはないのに、と。親が思う通りに子が育つという思い込みこそ、愚の骨頂。そして今後そのことを誰にも言ってはいけないと言われた。知らない方がいい幸せもあるのだから。そんなのは、私からしたら嘘だ。偽りの上に成り立つ幸せなど、私はこれっぽっちも要らない。叔母からはうちのの話は出なかった。きっと親と、その話はしないように、との打ち合わせでもしていたのだろう。
それにしても心配なのは祖母のこと。私にはできることが何もない。どうすることもできずに、ただ衰えてゆく祖母の様子を人伝に聞くことしかできない。仕方がないことなのだろう。会った感じでは老衰とそれに伴う身体のガタであり、身体だけでなく老衰が心をも蝕んでいるようだった。覇気がなく、目が虚ろで。3年は持たないような印象を受けた。精々後2年。本人も動くことがつらそうだったし、また自分の娘とはいえ世話をしてもらうことを恥じているようだった。元々プライドの高い女性なのである。おむつの世話になるなんて耐え難い苦痛だろう。長生きすればいいと言うものではないなあ、とつくづく感じた。病気で死ぬよりは老衰で眠るように死ぬ方が良かろうが、そこに身内であっても他人様の手助け無しに生活や生命を維持できないのは、本当に悲しい。何処かでこんな話を読んだ。元気な祖父母が朝になっても起きてこない。寝室に行くとふたりとも死んでいた。検査の結果、時間差でふたりして心臓麻痺。ほぼ老衰。こんな死に方はしようと思ってできることではない。けれど理想形のひとつである。祖母はきっと、病院の職員に看取られて死ぬのだろう。昨日会った祖母の姿を、私はいつ迄覚えていられるだろうか。孫の中で私を一番可愛がってくれた祖母。昨日の姿よりも、元気だった頃の祖母の姿を脳裏に焼き付けておきたい。
服装/スカラーの浅黄色カットソー+ボールルームの黒モヘアロングニット+ベルト代わりにターコイズのループタイ+リーバイス501+水色の靴下+いつもの青いビルケン+スカラーの白いスプリングコート
25日の夕方、親と待ち合わせて夜行バス乗り場へ。親とふたりで長時間……想像しただけでぐったりである。そして行く先には叔母がいる。うちのがまた脅すようなことを言っていた。親も叔母も私らの交際や結婚には反対している。そしてこの機会に拉致されたらどうする? なんて訊いてきていた。洒落にならん。非常に危機感を感じつつ親と落ち合い、軽食を摂り、バス乗り場へ。眠剤の効きが良くて助かった。バスに揺られること約8時間、26日の早朝に京都某市へ到着。一旦叔母宅へ寄って挨拶をし、従妹が登校してすぐに祖母の元へ出発。従妹、13歳。巨乳。制服のブラウスの釦と釦の間から黒いブラが見え隠れ。童顔でぽっちゃり、なのに巨乳。チッ。第二次性徴が始まった当初は乳がでかくなることが嬉しかったようだが、今は邪魔で仕方がないらしい。喧嘩を売られているのか? それはともかく、彼女の若々しい溌剌とした姿を見て、私、老けたなあ……と軽く凹んだり。
祖母の元に行く道中、私は車内でずっと寝ていた。対面したのは、祖母が車のところ迄やってきてからだった。病室に親と叔母が迎えに行ったときに、ひとり足らん! と憤慨していたそうな。私に会うことを楽しみにしてくれていたのは大変嬉しいことである。しかし私は、祖母の姿を見るのがつらかった。耳元で大声で話さなければ聞こえない、話し声もハッキリしていない、会話が飛ぶ、足も更に弱くなり、他者に手伝ってもらわなければ車椅子の乗降もできない、姿はロンパース。そして伝え聞いていた通りにやはり生気がなかった。特に目元。まだ意識がハッキリしているときに会うのは、これが最後だな、と感じた。私がもっと頻繁に会いに行ければいいのだが、今回も処方薬総動員で、しかも道中の殆どを睡眠でフォローしてやっとこ乗り切れた状態。そして帰宅した今、ほとほと疲れ果てている。祖母らと昼食を摂り、親と私を祖父の墓参りに連れて行ってもらい、祖母を病院に送って叔母宅へ帰宅。その道中も私は殆ど寝たきり。祖母は何度も私に、いい人はいるのか? いい人を見つけなさい、と言っていた。その都度私が、いい人はもうちゃんといるよ、と答えていたのに親が、これから探すってさ、と茶々を入れていた。私にとっては充分うちのはいい人なのにな。
私が少し元気を取り戻したのは、従弟に会ってから。前に会ったときの面影は残っていたけれど、随分としっかりした感じになっていた。しっかりと言うか……老けていた。高校2年生にして社会人1年生の風貌。そしてPCをちょっと弄らせてもらった。デスクトップ散らかり過ぎ! おまけにプログラム入り過ぎで容量不足になっている。Cばかり使っているようで、Dが有り余っていたので一部ソフトをDに移すようにアドバイス。今迄従弟と接するのはどちらかというと苦手だったのだけれど、今回PCを見せてもらったことで親近感が沸いた。ボクもあんなツールやこんなツールを使っているのね。アレされないように気をつけなさいよ、と。この辺の物が欲しいならいいあぷろだを教えるからメール頂戴、と。送ってくるかどうか、楽しみだ。叔父はどうだか知らないけれど、叔母や従妹はそのツールの意味を知らない。いや、PC自体に詳しくない。従弟とならPC友達になれそうな予感。ただ部活で忙しい子だから、そこがどうかな。黒レトリバーも大きくなっていて、とても人懐っこく可愛かった。どこぞの私の尻を噛む莫迦犬とは大違いだ。
出掛ける前、出社していたうちのが早く帰宅してくれた。やる気がないから仕事を持って帰ってきた、と。帰宅直前には電話で、食べる物要る? と訊いてくれたので有難くファーストフードを頼ませてもらった。土曜の夜、日曜の夕飯を作っていたことをうちのは知っている。なのに、ファーストフードを持ち帰って、なんだよ、夕飯あったのかよ、などと言っていた。知っていたくせに。うちのは恩着せがましくするか、そっけなく接するかのどちらかだ。土曜はそっけない日だったらしい。でも、私には気遣いが見て取れてとても嬉しかった。今朝、親と朝食を摂っていてまた云々言われたけれど、私にとってうちのが一番いい人だ。余りに煩かったので、私が昔風俗勤めをしていたことをさらっと言ってみた。相当なショックを受けているようだった。そして、そんな風に育てたつもりはないのに、と。親が思う通りに子が育つという思い込みこそ、愚の骨頂。そして今後そのことを誰にも言ってはいけないと言われた。知らない方がいい幸せもあるのだから。そんなのは、私からしたら嘘だ。偽りの上に成り立つ幸せなど、私はこれっぽっちも要らない。叔母からはうちのの話は出なかった。きっと親と、その話はしないように、との打ち合わせでもしていたのだろう。
それにしても心配なのは祖母のこと。私にはできることが何もない。どうすることもできずに、ただ衰えてゆく祖母の様子を人伝に聞くことしかできない。仕方がないことなのだろう。会った感じでは老衰とそれに伴う身体のガタであり、身体だけでなく老衰が心をも蝕んでいるようだった。覇気がなく、目が虚ろで。3年は持たないような印象を受けた。精々後2年。本人も動くことがつらそうだったし、また自分の娘とはいえ世話をしてもらうことを恥じているようだった。元々プライドの高い女性なのである。おむつの世話になるなんて耐え難い苦痛だろう。長生きすればいいと言うものではないなあ、とつくづく感じた。病気で死ぬよりは老衰で眠るように死ぬ方が良かろうが、そこに身内であっても他人様の手助け無しに生活や生命を維持できないのは、本当に悲しい。何処かでこんな話を読んだ。元気な祖父母が朝になっても起きてこない。寝室に行くとふたりとも死んでいた。検査の結果、時間差でふたりして心臓麻痺。ほぼ老衰。こんな死に方はしようと思ってできることではない。けれど理想形のひとつである。祖母はきっと、病院の職員に看取られて死ぬのだろう。昨日会った祖母の姿を、私はいつ迄覚えていられるだろうか。孫の中で私を一番可愛がってくれた祖母。昨日の姿よりも、元気だった頃の祖母の姿を脳裏に焼き付けておきたい。
服装/スカラーの浅黄色カットソー+ボールルームの黒モヘアロングニット+ベルト代わりにターコイズのループタイ+リーバイス501+水色の靴下+いつもの青いビルケン+スカラーの白いスプリングコート
一目惚れは高価で撃沈
2004年4月24日 雑感・所感 ザ・ボディショップがパチ物商法に出始めた模様。今日久しぶりに行ってみたら、シャネルのきのこ筆と思しき物が。請負も白鳳堂でまんまである。値段も変わらない。これならボディショップではなくシャネルで買うだろう……。きのこ筆の必要性を今は感じていないのでそれはスルーして、おおっ! と驚くパチ物発見。ロゼットの背中パタパタという、棒に丸い輪っかが付いていてそこに、ローションなどを染み込ませたコットンを挟んで背中をパッティングする道具。これはロゼットに分が悪い。ボディショップの方が本家っぽい雰囲気だ。なんとなく。また驚いたのが、ボディショップの方針と違う方向性の商品の発見。少し前迄、ボディショップのメイクブラシやボディケアグッズに動物毛は使われていなかった。それはボディショップという会社そのものの本質とも言える、動物実験反対の意思表示に因るものだ。ところが。シャネルのパチ筆といい、ヘアブラシといい、山羊毛や豚毛が使われている。何処へ行くんだ、ボディショップよ。私は天然毛の物の方が好きなので嬉しいけれど、会社のウリは捨てたのか。などと思いつつ、背中パタパタのパチ・豚毛のヘアブラシ・竹のヘアブラシを購入。豚毛のブラシは前々からアナスイで購入する予定だった。けれどボディショップで妥協したのは、うちではブラシなどはどれもふたりで共有しているからだ。アナの姫々しいブラシを使ううちのの姿は想像したくない。素朴なボディショップので充分だ。アナのコスメも方向性を見失ったのか迷走中。ドーリーガールを前面に出さないで欲しい。安っぽくなる一方である。黒くて紫で薔薇と蝶のアナが私は好きだ。金と白はギリギリのライン。プリント物は勘弁して欲しい。せめて浮き彫りに……。
今日出かけたのは、祖母らへのお土産とうちの壊れたドライヤーの買い替え購入の為。祖母へのお土産は手拭い3本。目も耳も足も悪くなっている祖母。何が使えるものか解らず、結局幾つあっても困らなかろう物を選んだ。現地で足になってくれる叔母宅へのお土産に日持ちするお菓子1箱。ドライヤー購入にあたり出かける前の数時間、うちのは某巨大掲示板で、私は某コスメサイトで情報収集。ナショナルのイオニティだな、と志を同じくして電化製品量販店へ。イオニティは……でかいよ、これ。しかも持ち手の部分がシリコンだかラバーだかで加工されていて、あっという間にうちではみすぼらしくなること請け合い。持ち手はプラの方が良さそう。そしてマイナスイオン効果もあって、風量が強くて、嵩張らなくて、音が小さくて、で結局購入したのは日立のマイナスイオンドライヤー。コイズミがヴィダル・サスーンのブランドで出しているドライヤーが強そうだったけれどでかいので却下。うちは狭いのだ。小さくて機能充実、これ。他の電化製品もいろいろ見た。何だか強そうな電化製品が多くて威圧感さえ感じた。炊飯器も掃除機も何だか強そう。強そうなのはいいのだけれども、メカメカしい。引っ越したら家電製品や家具の多くを買い替えようと思っているけれど、メカメカしい物で統一したくはない。木目やアルミを基調にしたうちの好みのシンプルさに、私好みの玩具っぽさやレトロ感を加える脳内予定。そこにメカメカしい物が紛れ込んでくると統一感がなくなる。引越しはどんなに早くても来年。その頃迄にはもっといろいろ進化しているだろう。デザイン性も。
うちのが服を見たいというのでユナイテッドアローズへ。私はその向かいにあるスピック&スパンへ。スピック&スパンのセレクト物レースアップブーツに一目惚れ。店員さんに値段を訊く。暫し待たされて戻ってきた店員さんの言うことにゃ、6万円。撃沈。肩を落として店を出てうちのがいるアローズへ行くと、何やらおかしなことに。うちのがスモーキーピンクのカットソーを持っている。そして、これ、どう? と。いいんじゃない!? 商品自体もいいと思ったが、それ以上にうちのがピンクという色に興味を示したのがいいことだと思った。うちのは兎角無難な恰好を好むので詰まらない。いつも青・白・黒・グレー・茶・ベージュ系の辺り。精々グリーン系。それがピンクという暖色系に興味が向いたのはいいことだ。これからうちののお洒落の幅はきっと広がっていくだろう。スモーキーピンクは寒色やモノトーンに馴染み過ぎた人が次にチャレンジする色に適しているのかもしれない。オレンジや黄色程キツくはないし、ボルドー程渋くもない。慣れた頃にこれらのもっと明るい暖色系に進めればいい。一緒に服を選びに行って詰まらなかった一因がこれだ。いつも寒色系かモノトーン。しかも柄もシンプル好きなので似たり寄ったりのものばかりが集まる。これからは少し楽しくなりそうだ。アローズで私が気になったのは手頃な値段のレースアップバレエシューズ。歳を考えろ、と言われた。仰せの通りで。
その後、無印良品にてうちのがパジャマにするパンツと身体を洗う麻タオルを購入。私は靴下屋で6足の靴下を購入。最後に行ったのはビルケンシュトックの路面店。うちのが気に入った靴はサイズの在庫なし。私が気に入ったのはナンバーナインとのWネームのサンダル。これがまた可愛い外見で、憎ったらしい値段。Wネームでもなんでもないサンダルの花柄も可愛かったけれど、凄く欲しい! と思う程ではなかった。これを買うなら別の靴屋でヒールのある靴が欲しいなあ、と。具体的に言えば、イエナで取扱っているイーリーキシモトの黄色のパンプスが欲しい。欲しいったら欲しい。まだ店頭にあるのだろうか? 駅に向かうのに歩いていた地下街の靴屋に、パッと見て惹かれた鞄があった。正確には鞄というより、籠か変形バスケットか。ボルドーで丸っこいシルエットで出し入れする口もきちんと閉じられる形。そのままでも可愛いし、持ち手部分にブローチやコサージュを付けたら正にガーリッシュ! と、うちのに告げたら、もうガーリッシュの話は飽きた、そうだ。最近、うちのが私に、とても似合っている、と言ってくれる履物がある。生協で購入した裏がモップになっているスリッパ。初めてうちのの前で履いた日、似合う似合う! と大爆笑され、それ以後はしんみりと、いやあ似合うよなあ、と言われる有様。いいのか、それで。生活感丸出しの彼女よりもガーリッシュで小悪魔でロックな彼女の方がン十倍も良かろうて!
今日出かけたのは、祖母らへのお土産とうちの壊れたドライヤーの買い替え購入の為。祖母へのお土産は手拭い3本。目も耳も足も悪くなっている祖母。何が使えるものか解らず、結局幾つあっても困らなかろう物を選んだ。現地で足になってくれる叔母宅へのお土産に日持ちするお菓子1箱。ドライヤー購入にあたり出かける前の数時間、うちのは某巨大掲示板で、私は某コスメサイトで情報収集。ナショナルのイオニティだな、と志を同じくして電化製品量販店へ。イオニティは……でかいよ、これ。しかも持ち手の部分がシリコンだかラバーだかで加工されていて、あっという間にうちではみすぼらしくなること請け合い。持ち手はプラの方が良さそう。そしてマイナスイオン効果もあって、風量が強くて、嵩張らなくて、音が小さくて、で結局購入したのは日立のマイナスイオンドライヤー。コイズミがヴィダル・サスーンのブランドで出しているドライヤーが強そうだったけれどでかいので却下。うちは狭いのだ。小さくて機能充実、これ。他の電化製品もいろいろ見た。何だか強そうな電化製品が多くて威圧感さえ感じた。炊飯器も掃除機も何だか強そう。強そうなのはいいのだけれども、メカメカしい。引っ越したら家電製品や家具の多くを買い替えようと思っているけれど、メカメカしい物で統一したくはない。木目やアルミを基調にしたうちの好みのシンプルさに、私好みの玩具っぽさやレトロ感を加える脳内予定。そこにメカメカしい物が紛れ込んでくると統一感がなくなる。引越しはどんなに早くても来年。その頃迄にはもっといろいろ進化しているだろう。デザイン性も。
うちのが服を見たいというのでユナイテッドアローズへ。私はその向かいにあるスピック&スパンへ。スピック&スパンのセレクト物レースアップブーツに一目惚れ。店員さんに値段を訊く。暫し待たされて戻ってきた店員さんの言うことにゃ、6万円。撃沈。肩を落として店を出てうちのがいるアローズへ行くと、何やらおかしなことに。うちのがスモーキーピンクのカットソーを持っている。そして、これ、どう? と。いいんじゃない!? 商品自体もいいと思ったが、それ以上にうちのがピンクという色に興味を示したのがいいことだと思った。うちのは兎角無難な恰好を好むので詰まらない。いつも青・白・黒・グレー・茶・ベージュ系の辺り。精々グリーン系。それがピンクという暖色系に興味が向いたのはいいことだ。これからうちののお洒落の幅はきっと広がっていくだろう。スモーキーピンクは寒色やモノトーンに馴染み過ぎた人が次にチャレンジする色に適しているのかもしれない。オレンジや黄色程キツくはないし、ボルドー程渋くもない。慣れた頃にこれらのもっと明るい暖色系に進めればいい。一緒に服を選びに行って詰まらなかった一因がこれだ。いつも寒色系かモノトーン。しかも柄もシンプル好きなので似たり寄ったりのものばかりが集まる。これからは少し楽しくなりそうだ。アローズで私が気になったのは手頃な値段のレースアップバレエシューズ。歳を考えろ、と言われた。仰せの通りで。
その後、無印良品にてうちのがパジャマにするパンツと身体を洗う麻タオルを購入。私は靴下屋で6足の靴下を購入。最後に行ったのはビルケンシュトックの路面店。うちのが気に入った靴はサイズの在庫なし。私が気に入ったのはナンバーナインとのWネームのサンダル。これがまた可愛い外見で、憎ったらしい値段。Wネームでもなんでもないサンダルの花柄も可愛かったけれど、凄く欲しい! と思う程ではなかった。これを買うなら別の靴屋でヒールのある靴が欲しいなあ、と。具体的に言えば、イエナで取扱っているイーリーキシモトの黄色のパンプスが欲しい。欲しいったら欲しい。まだ店頭にあるのだろうか? 駅に向かうのに歩いていた地下街の靴屋に、パッと見て惹かれた鞄があった。正確には鞄というより、籠か変形バスケットか。ボルドーで丸っこいシルエットで出し入れする口もきちんと閉じられる形。そのままでも可愛いし、持ち手部分にブローチやコサージュを付けたら正にガーリッシュ! と、うちのに告げたら、もうガーリッシュの話は飽きた、そうだ。最近、うちのが私に、とても似合っている、と言ってくれる履物がある。生協で購入した裏がモップになっているスリッパ。初めてうちのの前で履いた日、似合う似合う! と大爆笑され、それ以後はしんみりと、いやあ似合うよなあ、と言われる有様。いいのか、それで。生活感丸出しの彼女よりもガーリッシュで小悪魔でロックな彼女の方がン十倍も良かろうて!
素朴で可愛い物
2004年4月23日 メイク・ファッション・ピアス 現在、4月24日。
昨日は沢山の荷物が届いた。某ネットオークションでの落札物の数々。その中のひとつに、例のアンティーク・バッグがあった。一番に箱を開ける。樟脳の香りが漂ったことで、このバッグが大切に保管されていたことが解った。箱の中の袋を開けるとバッグ登場。可愛い……。うん。大枚を叩いた甲斐があった。出品者に一昨日撮影しておいた私のコレクションの写真を添付して、お礼のメールを出した。撮影時に改めて数えたら、私の蒐集数は7点。7枚の画像とメールの内容に出品者が返信をくれた。その中にまたしても有力情報。その昔は呉服屋で取扱われていたらしき気配が。そのうちアンティーク着物の店を回ってみよう。確かにこのバッグ、デザインによっては和装にも充分対応できる。昨日届いたバッグが8点目。一体40年程前にどれくらいこのバッグが出荷されたのか、如何せん殆ど情報が出回っていない為、皆目見当がつかない。何色ものビーズが使われている物、単色の物、布地に柄や刺繍が入っている物。がま口の素材や形も様々だ。年内に後ふたつ手にして、蒐集数が2桁になればかなりラッキーだろう。どうしてこんなに愛らしいバッグが廃れてしまったのか。当時はそれなりの価格だったらしいことも関係しているだろうし、時代の流れもあったのだろう。このバッグのビーズは全て縫い付けではなく、貼り付けになっている。貼り付けであることは一長一短。長所は纏めて幾つものビーズを縫い付けてあるものと違い、ひとつ取れたら雪崩式に取れてしまうことはない点。短所は縫い付けに比べて布地との密着が甘い点。この短所が時代の流れに反したのだと思う。扱いが雑になることでこのバッグは、ビーズが落ちて無残な姿になる。作りはしっかりしていて丈夫だけれど、装飾性が高い分、その装飾性がなくなってきたときには悲惨だ。それに引き換え、帆布製などのシンプルなバッグは装飾性が低いこともあり飽き難いし、洗濯機でざぶざぶ洗える。世の中が利便性を求めた結果が、このバッグの衰退に無関係ではあるまい。また女性の社会進出により、女性の持ち歩く物が増えたことも関係ありそうだ。このバッグは小さい。通勤に使うには余りにも不便だ。
数年前、ヴァネッサ・ブリューノやコキュからスパンコールを存分に使ったバッグが発売され、かなり流行った。私も少し惹かれたものの結局買わず終い。スパンコールはひとつひとつの縫い付けではなく纏めての縫い付けだったし、折れたスパンコールには哀愁を感じるから。そしてプラスチックのビーズと違って、スパンコールは過剰に煌びやかで……。プラスチック・ビーズの控えめな存在感の対極がスパンコールのような気がする。スパンコールはスパンコールで好きなのだけれど、これでもかと言わんばかりに付けられた存在を主張し過ぎている物は、鞄でも服でも好きではない。可愛いけれど、私が持つ物ではないな、と思った。私が好きなのは、素朴な可愛さなのだ。蒐集しているアンティーク・バッグも、一澤帆布も、帆布メインのポーターも皆素朴。のだめバッグもシンプルで素朴。これ迄に趣味が変わってきたように、これからも変わっていくかもしれない。取り敢えず、20代後半になってからは、素朴で可愛い物が好きになったようだ。
一見お天使・中身小悪魔・魂はロックを思い描き、再びガーリッシュ路線を目指し始めた私に届いた他の落札物の大半はスパッツだ。どうもスパッツはガーリッシュらしいから。この知識を得た時点ではイマイチ理解できなかったのだけれど、ネットでいろんなスパッツを見ているうちに納得できてきた。私の脳内に於いてスパッツは10年以上進化していなかったらしい。スパッツ=モモヒキよりは恰好悪くない防寒着。時代は変わり、スパッツも可愛い物が多くなっていた。頑張って早く着こなしを覚えよう。そういえば。以前の職場は滅茶苦茶お堅い地味な職場だったのに、お洒落な人が多かった。先日書いたガーリッシュなオバサンもだし、他にもセレクト物の無地の服をメインに上手く着回していた人や、アンティーク物も取り入れつつ華奢な体型をカバーし且つ活かしていろんな恰好をしていた人。最も印象に残っているのは、隣の部署の私より数歳上の人だ。彼女はお洒落に気を遣っている感じが殆どしないのに、相当に凄い着こなしをする人だった。最初は特に意識していなかったけれど、或る日気がついた。その日、彼女は半端丈のパンツ姿でその裾からフリルが見えた。気になったので訊いたら、下にドロワーズを穿いているとのこと。ドロワーズ! コスプレでも何でもなく、自然にそのアイテムを普段のファッションに取り入れられるなんて凄過ぎる!
彼女をよくよく見ていると、いつもスッピンなのにデスクの上には無造作にシャネルのシャドウが置かれていたり、ペタ靴から10cm位のヒール迄いろんな靴を履いていたり。人目を惹く恰好ではないけれど、常に何処かにポイントを置いて無駄な装飾をしない引き算メインのファッションだったと記憶している。メイクもファッションも足し算は簡単。引き算が難しい。その計算を他者に簡単には悟られずにやってのけるなんて兵としか言いようがない。私はまだ足したり引いたり試行錯誤中。自分の定番ファッションは作らずに、定番服は作りたいと思っていたりする。コスメもそう。定番アイテムはあれど、いつも同じメイクはダメ。そんな風にありたいと思いつつ、まだ辿り着けていない。30歳迄には落ち着きたいのだけれど、落ち着いたら終わりな気もするし難しいところである。コスメ。昨日、久々に電話でスティラの限定パレットを予約した。ここ暫く魅力ある限定品がどのブランドからも出てきておらず色物は買っていなかったので、引き取りがかなり楽しみ。アナスイのネイルケアキットも迷った末に見送ったし。アユーラのネイルキットは内容と金額のバランスが悪くて見送り、イプサの今の限定品はボディケア物なのでやはり見送り。アユーラでは今、一定額以上の買い物での日傘プレゼントをしているようだ。イプサでもまたやるかな、と思いアユーラの日傘は今のところ考えていない。この間、雑誌で見たケイタの日傘は可愛かったなあ。私が数年前、タクシーに置き忘れてきてしまったケイタの金魚柄の傘はどうなったのだろう。あれは本当に惜しいことをした。日焼けして筋がついて使い物にならなくなった、ヴィヴィアンの傘2本と同じくらいに悔しい。昨日の銀行巡りの途中で、日傘を差している人を数人見かけた。もうそんな季節らしい。素朴で可愛い綿素材の日傘が欲しくなってきた。
昨日は沢山の荷物が届いた。某ネットオークションでの落札物の数々。その中のひとつに、例のアンティーク・バッグがあった。一番に箱を開ける。樟脳の香りが漂ったことで、このバッグが大切に保管されていたことが解った。箱の中の袋を開けるとバッグ登場。可愛い……。うん。大枚を叩いた甲斐があった。出品者に一昨日撮影しておいた私のコレクションの写真を添付して、お礼のメールを出した。撮影時に改めて数えたら、私の蒐集数は7点。7枚の画像とメールの内容に出品者が返信をくれた。その中にまたしても有力情報。その昔は呉服屋で取扱われていたらしき気配が。そのうちアンティーク着物の店を回ってみよう。確かにこのバッグ、デザインによっては和装にも充分対応できる。昨日届いたバッグが8点目。一体40年程前にどれくらいこのバッグが出荷されたのか、如何せん殆ど情報が出回っていない為、皆目見当がつかない。何色ものビーズが使われている物、単色の物、布地に柄や刺繍が入っている物。がま口の素材や形も様々だ。年内に後ふたつ手にして、蒐集数が2桁になればかなりラッキーだろう。どうしてこんなに愛らしいバッグが廃れてしまったのか。当時はそれなりの価格だったらしいことも関係しているだろうし、時代の流れもあったのだろう。このバッグのビーズは全て縫い付けではなく、貼り付けになっている。貼り付けであることは一長一短。長所は纏めて幾つものビーズを縫い付けてあるものと違い、ひとつ取れたら雪崩式に取れてしまうことはない点。短所は縫い付けに比べて布地との密着が甘い点。この短所が時代の流れに反したのだと思う。扱いが雑になることでこのバッグは、ビーズが落ちて無残な姿になる。作りはしっかりしていて丈夫だけれど、装飾性が高い分、その装飾性がなくなってきたときには悲惨だ。それに引き換え、帆布製などのシンプルなバッグは装飾性が低いこともあり飽き難いし、洗濯機でざぶざぶ洗える。世の中が利便性を求めた結果が、このバッグの衰退に無関係ではあるまい。また女性の社会進出により、女性の持ち歩く物が増えたことも関係ありそうだ。このバッグは小さい。通勤に使うには余りにも不便だ。
数年前、ヴァネッサ・ブリューノやコキュからスパンコールを存分に使ったバッグが発売され、かなり流行った。私も少し惹かれたものの結局買わず終い。スパンコールはひとつひとつの縫い付けではなく纏めての縫い付けだったし、折れたスパンコールには哀愁を感じるから。そしてプラスチックのビーズと違って、スパンコールは過剰に煌びやかで……。プラスチック・ビーズの控えめな存在感の対極がスパンコールのような気がする。スパンコールはスパンコールで好きなのだけれど、これでもかと言わんばかりに付けられた存在を主張し過ぎている物は、鞄でも服でも好きではない。可愛いけれど、私が持つ物ではないな、と思った。私が好きなのは、素朴な可愛さなのだ。蒐集しているアンティーク・バッグも、一澤帆布も、帆布メインのポーターも皆素朴。のだめバッグもシンプルで素朴。これ迄に趣味が変わってきたように、これからも変わっていくかもしれない。取り敢えず、20代後半になってからは、素朴で可愛い物が好きになったようだ。
一見お天使・中身小悪魔・魂はロックを思い描き、再びガーリッシュ路線を目指し始めた私に届いた他の落札物の大半はスパッツだ。どうもスパッツはガーリッシュらしいから。この知識を得た時点ではイマイチ理解できなかったのだけれど、ネットでいろんなスパッツを見ているうちに納得できてきた。私の脳内に於いてスパッツは10年以上進化していなかったらしい。スパッツ=モモヒキよりは恰好悪くない防寒着。時代は変わり、スパッツも可愛い物が多くなっていた。頑張って早く着こなしを覚えよう。そういえば。以前の職場は滅茶苦茶お堅い地味な職場だったのに、お洒落な人が多かった。先日書いたガーリッシュなオバサンもだし、他にもセレクト物の無地の服をメインに上手く着回していた人や、アンティーク物も取り入れつつ華奢な体型をカバーし且つ活かしていろんな恰好をしていた人。最も印象に残っているのは、隣の部署の私より数歳上の人だ。彼女はお洒落に気を遣っている感じが殆どしないのに、相当に凄い着こなしをする人だった。最初は特に意識していなかったけれど、或る日気がついた。その日、彼女は半端丈のパンツ姿でその裾からフリルが見えた。気になったので訊いたら、下にドロワーズを穿いているとのこと。ドロワーズ! コスプレでも何でもなく、自然にそのアイテムを普段のファッションに取り入れられるなんて凄過ぎる!
彼女をよくよく見ていると、いつもスッピンなのにデスクの上には無造作にシャネルのシャドウが置かれていたり、ペタ靴から10cm位のヒール迄いろんな靴を履いていたり。人目を惹く恰好ではないけれど、常に何処かにポイントを置いて無駄な装飾をしない引き算メインのファッションだったと記憶している。メイクもファッションも足し算は簡単。引き算が難しい。その計算を他者に簡単には悟られずにやってのけるなんて兵としか言いようがない。私はまだ足したり引いたり試行錯誤中。自分の定番ファッションは作らずに、定番服は作りたいと思っていたりする。コスメもそう。定番アイテムはあれど、いつも同じメイクはダメ。そんな風にありたいと思いつつ、まだ辿り着けていない。30歳迄には落ち着きたいのだけれど、落ち着いたら終わりな気もするし難しいところである。コスメ。昨日、久々に電話でスティラの限定パレットを予約した。ここ暫く魅力ある限定品がどのブランドからも出てきておらず色物は買っていなかったので、引き取りがかなり楽しみ。アナスイのネイルケアキットも迷った末に見送ったし。アユーラのネイルキットは内容と金額のバランスが悪くて見送り、イプサの今の限定品はボディケア物なのでやはり見送り。アユーラでは今、一定額以上の買い物での日傘プレゼントをしているようだ。イプサでもまたやるかな、と思いアユーラの日傘は今のところ考えていない。この間、雑誌で見たケイタの日傘は可愛かったなあ。私が数年前、タクシーに置き忘れてきてしまったケイタの金魚柄の傘はどうなったのだろう。あれは本当に惜しいことをした。日焼けして筋がついて使い物にならなくなった、ヴィヴィアンの傘2本と同じくらいに悔しい。昨日の銀行巡りの途中で、日傘を差している人を数人見かけた。もうそんな季節らしい。素朴で可愛い綿素材の日傘が欲しくなってきた。
丸1日使い物にならなくなる薬
2004年4月22日 家族・メンヘル・健康など 現在、4月23日。
目が覚めたら、日付が変わっていた。久々にヒルナミンを投入した所為だろう。ヒルナミンは私には合わない薬である。以前処方されたけれど、服薬すると丸1日使い物にならなくなる薬。なので処方から外してもらったのだが、希死念慮勃発時の寝逃げ用に、残りを捨てず取っておいた。昨日の昼頃に投入したのは、希死念慮発生の為ではなく、泣く程に歯が痛かったから。寝られもしない痛さ。私は歯科が嫌いだ。どうも虫歯になってもとことん悪くなる迄、痛みに気付かない体質らしい。そして虫歯の存在に気付かぬ内に歯が欠けたり抜けたりしてくる。ことの発端は一昨日だ。一昨日の夜、欠けてきていた歯が物凄く痛み出した。欠けた部分から神経が露出してしまった模様。歯の神経は空気に触れただけでも痛い。なので辛抱堪らず、うちから一番近い歯科に電話をしてみたところ、一昨日の電話の時点では既に診療時間外だった。仕方なく、昨日の朝一に予約をさせてもらい、行って応急処置をしてもらってきた。応急処置をしてもらい、コンビニでお弁当を買って帰宅。歯が痛い。寝よう……寝られん。泪と涎がとめどなく流れ出る。我慢ならん! しかも追い討ちをかけるように生理がきた。そして仕方なくヒルナミン投入と相なった。
丸1日何も食べていなかった所為か、非常に具合が悪い。ふらつくし、耳鳴りはするし、手は震えるし、視界がチカチカするし。さっき、どうにかお弁当を半分食べた。行儀悪いこと、この上なし。寝ながら食べたのだ。何故なら座っていると吐き気がするから。胃が空っぽのときの吐き気は、吐ける物が体内にあるときの吐き気よりもつらい。しかも生理中は下し気味になるので、トイレに行っても上からか下からか判らない。誰か一思いに殺してはくれまいか! 生きていたっていいことなんかありゃしない。こんなに歯と腹が痛くて胸焼けもしている私、もうお先真っ暗だ。なんでこう具合が悪いと、良いことが考えられなくなるのだろう。お腹に食べ物が少しだけれど入った今なら、そう思える。空腹はしんどい。きっと具合が悪くなり過ぎたのは、お腹の空き過ぎもあったのだろう。ただ、マシになったとはいえ未だ尋常ならぬ喉の渇きがある。沢山水分を取って沢山出せということか。去年末の悪夢の再来のような具合の悪さ。下手に手元に薬があるからいけないのだろうか。けれど、昨日ヒルナミンを投入せずに歯の痛みに耐えられただろうか。解らない。今思えば、いつも通りにアモバンとサイレースを投入すれば良かった気がしないでもない。きっと気が動転していたのだなあ。
こんな状態なので、昨日はうちのからの帰るコールにも気付けず、夜中トイレに起きたときにうちのの帰宅に気が付いた。夕飯、作れず。すまん。そんなこんなで死にそうに苦しかった昨日の話。それにしても。最近の歯科って凄い。PC使い捲り。レントゲン写真も撮った先からデータ化されている模様。歯科通いを渋っていた原因のひとつに、近所に心療歯科があるかどうかを探していたこともある。心療歯科でなくともせめて笑気ガス使用の歯科を、と。偶然にも一番近所にある昨日行った歯科が笑気ガスを使用してくれるところだった。悪い箇所を全部治療するのに大体半年はかかると言われた。そして3〜4本抜かなければならないとか。ついでだからと残っている親不知の抜歯も頼んだけれど、それは却下された。隣の歯がダメになっているときの治療に使うのだとか。抜きゃあいいってもんでもないらしい。取り敢えず歯痛は治まったので、今度は腹痛のみとの闘い。体調不良に付き、短め。
目が覚めたら、日付が変わっていた。久々にヒルナミンを投入した所為だろう。ヒルナミンは私には合わない薬である。以前処方されたけれど、服薬すると丸1日使い物にならなくなる薬。なので処方から外してもらったのだが、希死念慮勃発時の寝逃げ用に、残りを捨てず取っておいた。昨日の昼頃に投入したのは、希死念慮発生の為ではなく、泣く程に歯が痛かったから。寝られもしない痛さ。私は歯科が嫌いだ。どうも虫歯になってもとことん悪くなる迄、痛みに気付かない体質らしい。そして虫歯の存在に気付かぬ内に歯が欠けたり抜けたりしてくる。ことの発端は一昨日だ。一昨日の夜、欠けてきていた歯が物凄く痛み出した。欠けた部分から神経が露出してしまった模様。歯の神経は空気に触れただけでも痛い。なので辛抱堪らず、うちから一番近い歯科に電話をしてみたところ、一昨日の電話の時点では既に診療時間外だった。仕方なく、昨日の朝一に予約をさせてもらい、行って応急処置をしてもらってきた。応急処置をしてもらい、コンビニでお弁当を買って帰宅。歯が痛い。寝よう……寝られん。泪と涎がとめどなく流れ出る。我慢ならん! しかも追い討ちをかけるように生理がきた。そして仕方なくヒルナミン投入と相なった。
丸1日何も食べていなかった所為か、非常に具合が悪い。ふらつくし、耳鳴りはするし、手は震えるし、視界がチカチカするし。さっき、どうにかお弁当を半分食べた。行儀悪いこと、この上なし。寝ながら食べたのだ。何故なら座っていると吐き気がするから。胃が空っぽのときの吐き気は、吐ける物が体内にあるときの吐き気よりもつらい。しかも生理中は下し気味になるので、トイレに行っても上からか下からか判らない。誰か一思いに殺してはくれまいか! 生きていたっていいことなんかありゃしない。こんなに歯と腹が痛くて胸焼けもしている私、もうお先真っ暗だ。なんでこう具合が悪いと、良いことが考えられなくなるのだろう。お腹に食べ物が少しだけれど入った今なら、そう思える。空腹はしんどい。きっと具合が悪くなり過ぎたのは、お腹の空き過ぎもあったのだろう。ただ、マシになったとはいえ未だ尋常ならぬ喉の渇きがある。沢山水分を取って沢山出せということか。去年末の悪夢の再来のような具合の悪さ。下手に手元に薬があるからいけないのだろうか。けれど、昨日ヒルナミンを投入せずに歯の痛みに耐えられただろうか。解らない。今思えば、いつも通りにアモバンとサイレースを投入すれば良かった気がしないでもない。きっと気が動転していたのだなあ。
こんな状態なので、昨日はうちのからの帰るコールにも気付けず、夜中トイレに起きたときにうちのの帰宅に気が付いた。夕飯、作れず。すまん。そんなこんなで死にそうに苦しかった昨日の話。それにしても。最近の歯科って凄い。PC使い捲り。レントゲン写真も撮った先からデータ化されている模様。歯科通いを渋っていた原因のひとつに、近所に心療歯科があるかどうかを探していたこともある。心療歯科でなくともせめて笑気ガス使用の歯科を、と。偶然にも一番近所にある昨日行った歯科が笑気ガスを使用してくれるところだった。悪い箇所を全部治療するのに大体半年はかかると言われた。そして3〜4本抜かなければならないとか。ついでだからと残っている親不知の抜歯も頼んだけれど、それは却下された。隣の歯がダメになっているときの治療に使うのだとか。抜きゃあいいってもんでもないらしい。取り敢えず歯痛は治まったので、今度は腹痛のみとの闘い。体調不良に付き、短め。
貴女はか弱き大人の代弁者ですか?w とは、昨日友人とメッセで会話していたときに、話の流れで私が言った言葉。友人は大人になれた真人間なのである。私はモラトリアム思春期反抗期真っ盛りのオトナ。私のこの言葉を受けて、彼女がメッセで言ってきたこと。大 人 を 逃 げ る な !。1文字毎に1スペース開いている。死ぬ程笑った。彼女自身も驚いていた。どうやら彼女のPCで、おとな、を変換したら一発目に上記のワケワカラン言葉が出てきたらしい。彼女にはこんな言葉を辞書登録した記憶はないと言うので、きっと彼女と同棲している彼氏が入れたのだろう。何の為に。きっと友人を驚かせ且つ私を笑わせる為だ。気の利いた彼氏で羨ましい。彼女は彼女でうちののことを、最高!w、と言っていた。彼女からすれば、家でも外でも無駄にうんこちんこまんこしっこなどの幼稚園児の喜ぶ言葉を連発したり、単語にリズムをつけて唄うのは可愛いらしい。断じて、可愛くない。たまになら未だしも、私は毎日そんなのを聞かされているのだ。げんなり。という会話をしていたところでうちのが帰宅したので、落ちた。そして夕食を作りつつその話をしたら、嘘をつくな、と怒られた。嘘じゃないのに。実際、うちのは幼稚園児の喜ぶ単語をいつも口ずさんでいる。それはもう楽しげに。あんた、何歳よ? と問うと、3歳、と答える。残りの30年、あんたは何をしていたんだ……。先日、親が唐突にこんなことを訊いてきた。あんた学校出てそろそろ10年になるけどその間何してた? 答えに窮した。そして搾り出した回答は何だったでしょう? とうちのに訊いてみたら一発で当ててきた。どうせ、うんこしてた、って答えたんだろう。ご名答! 本当にその通りに答えたのだ。嘘ではないし。しかし一発で当ててくるとは凄い。以心伝心? ラブラブ・カップル? 違うか。きっとふたりとも、対象年齢3歳以上、の玩具で充分に遊べる精神年齢なのだろう。余談。(笑)の類は日記では絶対に使わないけれど、メッセや掲示板への書き込みやメールでは稀に使っている。
友人との会話に戻る。嬉々としてアンティーク・バッグ落札の話をしたら、非常に嫌がられてしまった。彼女は古着や古物が苦手なのである。では新品とはいえ試着された服はいいのか? と前々から気になっていたことを訊ねたら、それは気にならないらしい。違いが解らん。彼女曰く、家に持ち込んだかどうか、が大切らしい。成程、と膝を打った。家の匂い、ってどの家でも違うし、その匂いによっては嫌な人は嫌なのだろう。ケモノ飼いでスモーカーふたりの我が家では古着等の匂いは殆ど気にならないのだけれど。彼女は服よりも家具が好きだ。そして恰好いいと思う家具の多くに古物があり、自分の古物嫌いが悔しいときがあるとのこと。彼女の彼氏は古物類に抵抗のない人らしい。しかし彼女が嫌がるので家に持込禁止を命ぜられているとか。1度、中古家具を買うかどうかで喧嘩になったらしい。品物自体はふたり共に気に入った物。でも中古。彼女が反対して結局は購入に至らなかったようだ。そんな話を聞いていた私が座っていたのは、フリーマーケットで安価で購入した中古の木製椅子。嫌悪感もなければ違和感もない。むしろ今迄の椅子よりも余程座り心地がよく、我ながら良い買い物をしたと思っている。友人自身も言っていたけれど、中古嫌いは損だ。可愛く安い物を己の抵抗感でみすみす逃してしまうことになるから。節約が趣味の彼女としては、安いのになあ、という点で悔しさが増している様子。しかし、こういう性分はどうしようもない。きっと私の、入浴……うーむ、と同じような不条理を感じる拘りのようなものなのだろう。などと書くと彼女から、一緒にすんな! と文句を言われそうだが。余談。昨日落札したアンティーク・バッグの出品者が、コレクションの一部を見せてくれた。その中の、もう手放してしまった、というバッグの画像を見たとき、背筋がゾゾッとなった。可愛過ぎて。私が持っている中にはないタイプの物で、堪らなく可愛かった。彼女がそれを手放したのはオークションでのことだと言う。きっとまだ私がこのアンティーク・バッグの蒐集を始める前のことなのだろう。蒐集開始以後なら見逃している筈がないから。そのうちまたその落札者が手放してくれる日が来るのを待つことしかできない。
そして話は小悪魔へ。小悪魔作戦はどうなった? と訊かれたので、定めた方針を説明した。どう足掻いてもセクシー小悪魔にはなれない自分を自覚した。その末の結論。外見は一見ガーリッシュなお天使風味・内面と外見の一部は小悪魔・そして魂はロック。最後のオチで莫迦にされてしまった。しょぼん。モラトリアムな反抗期真っ盛りの者にロックは欠かせんだろう! 莫迦故の発想。いいんだ、莫迦で。汚い大人になんかなりたくないのさ。ガーリッシュ要素の大切なひとつに、無垢であること、があると思っている。無垢。イノセンス。それはロック。違うって。でまあ、ガーリッシュについて話をしていたところ彼女の反応は、まあいいんだけどね、だった。けど、について追求すると話は年齢へ。20代も後半になってガーリッシュかいな! と言いたかったらしい。良いではないか。以前の勤め先で、ガーリッシュなオバサンがいた。独断推定年齢50歳前後。基本はロングフレアスカート。シルエットとしてはピンクハウスっぽい。しかし色味のシックな手作りテイストのあるパッチワーク物が好きらしく、決して若作りには見えないカントリー風ガーリッシュなオバサン。髪はベリーショートに近く、声も可愛く物腰も柔らか。ああいうオバサンに私もなりたい。あの手この手で説明しても彼女には、ガーリッシュなオバサン、のイメージは伝わらなかったらしい。私の伝聞能力の拙さを痛感。また外見の一部で小悪魔らしさ、をというところで笑われたので例えを出した。アイラインの跳ね上げとか、無駄に多いピアスとか、マナーを守った喫煙者、とか。ガーリッシュたる者、喫煙はご法度という人もいるようだが、私は一見ガーリッシュお天使、中身は小悪魔だからいいのだ。そして思い描く自らに近付くべく、昨日は久々に入浴。スッキリ。更にイメトレに励むべく、玉置勉強のエロエロから黒澤優の画像に壁紙変更。
昨今、肩や仙骨の位置を意識して歩いていると少し前に書いた。これはどうやらベーシックウォークと呼ばれているものだったらしい。彼女に更家の話をした。きっと笑われると思ったのに、彼女は私の上手を行っていた。彼女は、以前カルチャーセンターの更家のウォーキング教室に申し込もうとしたのに満員で諦めたことがある、と。別の友人と話をしていたときにも莫迦にされるものと思いつつ更家の話をしたら、彼がTVだか雑誌だかで説明していた、ミュールやサンダルを履いているときにヒール音を立てずに階段を降りる真似をしたらうまくできた、と言っていた。一発キャラかと思いきや、案外浸透していることに驚いた。そこらの一般人にも受け入れられ易く且つ実用的なことを提唱しているからか。これからも大高姐さんのような実用的なことを提唱する者という位置づけでファンを獲得し、メディアで生き延びていくのかもしれない。
服装/ゴ・アキウエのグリーン系ハート柄カムフラフリルシャツ+i.sの黒いサマーウール変形ロングスカート+ベージュの変形ロングカーディガン+モスグリーンのロング丈編み靴下+ピュアルセシンの緑の靴+黒系ポピーバッグ
メイク/下地→ピエヌのピュアウォータリーカラーズRS651→舞妓はんのおしろい→アナスイのアイブロウ→パラドゥのフェイスカラー5→魔女の赤アイライナー→魔女の魔法の粉II→→ビューコスマスカラ→ル・ミュウのエッセンスグロスのピンク
友人との会話に戻る。嬉々としてアンティーク・バッグ落札の話をしたら、非常に嫌がられてしまった。彼女は古着や古物が苦手なのである。では新品とはいえ試着された服はいいのか? と前々から気になっていたことを訊ねたら、それは気にならないらしい。違いが解らん。彼女曰く、家に持ち込んだかどうか、が大切らしい。成程、と膝を打った。家の匂い、ってどの家でも違うし、その匂いによっては嫌な人は嫌なのだろう。ケモノ飼いでスモーカーふたりの我が家では古着等の匂いは殆ど気にならないのだけれど。彼女は服よりも家具が好きだ。そして恰好いいと思う家具の多くに古物があり、自分の古物嫌いが悔しいときがあるとのこと。彼女の彼氏は古物類に抵抗のない人らしい。しかし彼女が嫌がるので家に持込禁止を命ぜられているとか。1度、中古家具を買うかどうかで喧嘩になったらしい。品物自体はふたり共に気に入った物。でも中古。彼女が反対して結局は購入に至らなかったようだ。そんな話を聞いていた私が座っていたのは、フリーマーケットで安価で購入した中古の木製椅子。嫌悪感もなければ違和感もない。むしろ今迄の椅子よりも余程座り心地がよく、我ながら良い買い物をしたと思っている。友人自身も言っていたけれど、中古嫌いは損だ。可愛く安い物を己の抵抗感でみすみす逃してしまうことになるから。節約が趣味の彼女としては、安いのになあ、という点で悔しさが増している様子。しかし、こういう性分はどうしようもない。きっと私の、入浴……うーむ、と同じような不条理を感じる拘りのようなものなのだろう。などと書くと彼女から、一緒にすんな! と文句を言われそうだが。余談。昨日落札したアンティーク・バッグの出品者が、コレクションの一部を見せてくれた。その中の、もう手放してしまった、というバッグの画像を見たとき、背筋がゾゾッとなった。可愛過ぎて。私が持っている中にはないタイプの物で、堪らなく可愛かった。彼女がそれを手放したのはオークションでのことだと言う。きっとまだ私がこのアンティーク・バッグの蒐集を始める前のことなのだろう。蒐集開始以後なら見逃している筈がないから。そのうちまたその落札者が手放してくれる日が来るのを待つことしかできない。
そして話は小悪魔へ。小悪魔作戦はどうなった? と訊かれたので、定めた方針を説明した。どう足掻いてもセクシー小悪魔にはなれない自分を自覚した。その末の結論。外見は一見ガーリッシュなお天使風味・内面と外見の一部は小悪魔・そして魂はロック。最後のオチで莫迦にされてしまった。しょぼん。モラトリアムな反抗期真っ盛りの者にロックは欠かせんだろう! 莫迦故の発想。いいんだ、莫迦で。汚い大人になんかなりたくないのさ。ガーリッシュ要素の大切なひとつに、無垢であること、があると思っている。無垢。イノセンス。それはロック。違うって。でまあ、ガーリッシュについて話をしていたところ彼女の反応は、まあいいんだけどね、だった。けど、について追求すると話は年齢へ。20代も後半になってガーリッシュかいな! と言いたかったらしい。良いではないか。以前の勤め先で、ガーリッシュなオバサンがいた。独断推定年齢50歳前後。基本はロングフレアスカート。シルエットとしてはピンクハウスっぽい。しかし色味のシックな手作りテイストのあるパッチワーク物が好きらしく、決して若作りには見えないカントリー風ガーリッシュなオバサン。髪はベリーショートに近く、声も可愛く物腰も柔らか。ああいうオバサンに私もなりたい。あの手この手で説明しても彼女には、ガーリッシュなオバサン、のイメージは伝わらなかったらしい。私の伝聞能力の拙さを痛感。また外見の一部で小悪魔らしさ、をというところで笑われたので例えを出した。アイラインの跳ね上げとか、無駄に多いピアスとか、マナーを守った喫煙者、とか。ガーリッシュたる者、喫煙はご法度という人もいるようだが、私は一見ガーリッシュお天使、中身は小悪魔だからいいのだ。そして思い描く自らに近付くべく、昨日は久々に入浴。スッキリ。更にイメトレに励むべく、玉置勉強のエロエロから黒澤優の画像に壁紙変更。
昨今、肩や仙骨の位置を意識して歩いていると少し前に書いた。これはどうやらベーシックウォークと呼ばれているものだったらしい。彼女に更家の話をした。きっと笑われると思ったのに、彼女は私の上手を行っていた。彼女は、以前カルチャーセンターの更家のウォーキング教室に申し込もうとしたのに満員で諦めたことがある、と。別の友人と話をしていたときにも莫迦にされるものと思いつつ更家の話をしたら、彼がTVだか雑誌だかで説明していた、ミュールやサンダルを履いているときにヒール音を立てずに階段を降りる真似をしたらうまくできた、と言っていた。一発キャラかと思いきや、案外浸透していることに驚いた。そこらの一般人にも受け入れられ易く且つ実用的なことを提唱しているからか。これからも大高姐さんのような実用的なことを提唱する者という位置づけでファンを獲得し、メディアで生き延びていくのかもしれない。
服装/ゴ・アキウエのグリーン系ハート柄カムフラフリルシャツ+i.sの黒いサマーウール変形ロングスカート+ベージュの変形ロングカーディガン+モスグリーンのロング丈編み靴下+ピュアルセシンの緑の靴+黒系ポピーバッグ
メイク/下地→ピエヌのピュアウォータリーカラーズRS651→舞妓はんのおしろい→アナスイのアイブロウ→パラドゥのフェイスカラー5→魔女の赤アイライナー→魔女の魔法の粉II→→ビューコスマスカラ→ル・ミュウのエッセンスグロスのピンク
ジェンダーを問う蒐集物
2004年4月20日 メイク・ファッション・ピアス 蒐集癖と物を捨てられない病は別である。自分にとって大切な物を保管しているのは蒐集であり、どうでもいい物を捨てられないのとは訳が違う。訳が違うのだけれど、蒐集している物に興味のない者が見れば、それは捨てられない病に見えてしまう。数年前から或るアンティーク・バッグを蒐集し始めた。市場に滅多に出てこないし、出てきてもコレクタの少ない物らしく相場がない。ガラクタと判断して小銭で市場に出す者もいれば、アンティークだからと高値を吹っ掛けてくる者もいる。市場とは、フリーマーケット・古着屋・ネットオークションなど。今日、ひとつ落札できた。予想以上の高値になりびっくりした。私以外に入札者がふたりもいたのだ。今回落札したバッグはレトロ少女感満載で、このバッグのシリーズの存在を知らない者から見ても可愛く見える商品だった。ふたりの入札者の意図が知りたい。私は自分が蒐集しているバッグだから頑張って落札したけれど、後のふたりは単なる可愛い物好きか、アンティーク好きか、はたまた私と同じ蒐集家か。後者ならライバルでもあるけれど、同好の士でもある。集まって蒐集物を見せてもらいたい。金額も然ることながら、今回の入札はかなり迷った。同色同柄のバッグを既に持っているのだ。それでも大きさが一回り弱違う。一回り弱の為にン千円。仕方ない。これで片方を気軽に使えるようになる、といい方に考えよう。このシリーズのバッグは全体的に小さい。40年程前は婦女子の持ち物は、今よりもっともっと少なかったのだろうか。私が普段持ち歩く物は、煙草・ライター・財布・化粧ポーチ・携帯電話・文庫本など。これらの全てが収まるバッグは、ふたつしかない。それ以外のこのシリーズのバッグを使うときはあくまで、お出かけ用、であり化粧ポーチを省いて脂取り紙と櫛だけにする。化粧ポーチも入るふたつのバッグは、ひとつはがま口部分が緩くなっていて、もうひとつはビーズが沢山欠けており且つ持ち手が擦り切れて中のチューブが見えている。それでも使っている。お出かけ用のバッグの中のひとつも、がま口部分が壊れている。それでも騙し騙し使っている。それ程迄に私にとっては思い入れのあるバッグなのだ。思い入れ=レトロで可愛い。可愛過ぎ。
友人知人からも好評な、この女の子女の子したアンティーク・バッグ。興味を示してくれた人には、もし家にあったら譲ってくれと図々しくお願いしている。その人数は10人を越えていると思う。だが誰からも、あったよ、という話は聞こえてこない。マイナーな商品らしい。ネットで検索しても他の蒐集家に出会ったことがない。フリーマーケットの出店者やオークションで取引した人に訊いても、単なるレトロなバッグとしか認識されていない。この日記を書いている今、落札したバッグの出品者からメールが届いた。内容は、このバッグの購入先。数年前に出品者が購入したというそのサイトに行ってみるとレトロ物が一杯。私が蒐集しているバッグは今は出していないようだ。似た物は出ている。似て見えるだけで本当は私が蒐集しているバッグかもしれない。何せカタログなどを見たことがなく、どんなバリエーションでこのシリーズがどれだけ作られていたかを知らないから。このバッグには或る名称が付いている。その名称で書かれていないから判断できないのだ。そのうち問い合わせてみよう。もっと蒐集家の存在が知られれば、市場に出回る数も増えるだろうし、皆ちゃんと名称を示してくれるだろう。しかしその分、価格は高騰するだろう。痛し痒し。
普段、近所に買い物に行くときは一澤帆布の国防色横長ミニトートを愛用している。丈夫だし沢山入るしざぶざぶ洗えるし、いいこと尽くめだ。国防色は服にも合わせ易くて便利。便利だけれど、逃げの鞄だ。無難で保守的。私が蒐集しているバッグは取り扱いに慎重にならなければ、すぐに文字通りぼろぼろになる。色柄形はレトロなだけで一見無難なのに、淑女な行動を要求されるバッグ。雑な行動を取れる昨今のバッグとは一線を画す。ジェンダー・フリーに向いつつある、時代の流れと無関係ではない気がする。まずスカート姿の女性が、パンツ姿の女性に比べて少ない。私もパンツに逃げがちだ。パンツも帆布鞄と同じく逃げの道具だ。パンツなら多少歩き方が悪かろうが、行儀が悪かろうがショーツは見えない。ショーツが見えないからこそ粗雑な行動をうっかり取ってしまう悪循環。女性は淑やかであるべし、は前時代の発想。女性らしさを求めるのはセクシャル・ハラスメント。間違ってはいないけれど、正しいとも思わない。淑やかでありたい女性の選択肢が減ってきている傾向は如何なものか、と。ここ数年、シフォン素材やラインストーンが持ち上げられている。スパンコールやドレープも。私はここ数年のこれら素材などの流行を、逃げの小細工だと考える。行動や恰好に性差が減ってきたことを嘆く男性は少なくない。スカートとパンツのレイヤードを好む男性の少なさはそれを物語る一要素だろう。スカートの下をパンツで覆うことで隙を減らす。緊張感のない行動も取り易い。女性らしい性的アピールのできるファッションが、減ってきているということだ。楽ちんでありたい心を、これらのアイテムは上手く隠蔽し女性らしく見させる。錯覚効果でしかない。
そしてまた私もこのような逃げの小細工を無意識に利用してきた。今日、蒐集しているバッグを落札したことで私なりに考えて、フィジカルな女性らしさを忘れたくない、との結論に至った。形而上的にはパンツでも帆布鞄でもいい。だからといって形而下に迄、その楽ちんなジェンダー・フリーを持ち込んではならない。ジェンダー・フリーそのものはいい傾向なのに、履き違えが世の中には余りにも多いのだ。飲食店などのレディース・デイ。これに群がる女性は少なくない。女性性の利用だ。なのに女性性を捨てた恰好でその場に行くのは、何か違うだろう。Tシャツ+パンツ+ヒップ・バッグなどでレディス・デイを利用させてはならない。フリルなんかに誤魔化されてはいけない。利用するなら、利用させてもらうに相応しくなければならないと思うのだ。例えば、シャネルのコスメを使う高校生を生意気だと感じる人は多くいる。女子高生はシャネルの格ではない、と。それでもカメリアが似合う高校生ならどうか。カメリアが似合うのは、大人の女性でも少ない。物凄く人を選ぶ小物なのだ。人は物を選んで買う。そのとき、自分がその物に選ばれているかどうかを意識しなくてはならない。似合っているつもり、は自己満足だ。ファッションは自己満足の世界なのだからいいではないか、と言う人もいるに違いない。良くないのだ。高校生でもシャネルに選ばれる子もいるだろう。そして女性であっても本来レディース・デイを利用できる立場にない者もいる。後者は恥じるべきだと思う。自分のことを振り返る。私は蒐集しているアンティーク・バッグに選ばれるべくして蒐集しているのか。今迄はきっとそうではなかった。自己満足で集めていただけ。これからはバッグに選ばれる存在でありたい、と思う。そうなれればきっとこのバッグとの出会いも増えるのではなかろうか。物が人を呼ぶことはあるのだ。このアンティーク・バッグの蒐集は、ただの趣味ではなくライフ・ワークにしたい。だから私の小遣いではなく生活費から……。
友人知人からも好評な、この女の子女の子したアンティーク・バッグ。興味を示してくれた人には、もし家にあったら譲ってくれと図々しくお願いしている。その人数は10人を越えていると思う。だが誰からも、あったよ、という話は聞こえてこない。マイナーな商品らしい。ネットで検索しても他の蒐集家に出会ったことがない。フリーマーケットの出店者やオークションで取引した人に訊いても、単なるレトロなバッグとしか認識されていない。この日記を書いている今、落札したバッグの出品者からメールが届いた。内容は、このバッグの購入先。数年前に出品者が購入したというそのサイトに行ってみるとレトロ物が一杯。私が蒐集しているバッグは今は出していないようだ。似た物は出ている。似て見えるだけで本当は私が蒐集しているバッグかもしれない。何せカタログなどを見たことがなく、どんなバリエーションでこのシリーズがどれだけ作られていたかを知らないから。このバッグには或る名称が付いている。その名称で書かれていないから判断できないのだ。そのうち問い合わせてみよう。もっと蒐集家の存在が知られれば、市場に出回る数も増えるだろうし、皆ちゃんと名称を示してくれるだろう。しかしその分、価格は高騰するだろう。痛し痒し。
普段、近所に買い物に行くときは一澤帆布の国防色横長ミニトートを愛用している。丈夫だし沢山入るしざぶざぶ洗えるし、いいこと尽くめだ。国防色は服にも合わせ易くて便利。便利だけれど、逃げの鞄だ。無難で保守的。私が蒐集しているバッグは取り扱いに慎重にならなければ、すぐに文字通りぼろぼろになる。色柄形はレトロなだけで一見無難なのに、淑女な行動を要求されるバッグ。雑な行動を取れる昨今のバッグとは一線を画す。ジェンダー・フリーに向いつつある、時代の流れと無関係ではない気がする。まずスカート姿の女性が、パンツ姿の女性に比べて少ない。私もパンツに逃げがちだ。パンツも帆布鞄と同じく逃げの道具だ。パンツなら多少歩き方が悪かろうが、行儀が悪かろうがショーツは見えない。ショーツが見えないからこそ粗雑な行動をうっかり取ってしまう悪循環。女性は淑やかであるべし、は前時代の発想。女性らしさを求めるのはセクシャル・ハラスメント。間違ってはいないけれど、正しいとも思わない。淑やかでありたい女性の選択肢が減ってきている傾向は如何なものか、と。ここ数年、シフォン素材やラインストーンが持ち上げられている。スパンコールやドレープも。私はここ数年のこれら素材などの流行を、逃げの小細工だと考える。行動や恰好に性差が減ってきたことを嘆く男性は少なくない。スカートとパンツのレイヤードを好む男性の少なさはそれを物語る一要素だろう。スカートの下をパンツで覆うことで隙を減らす。緊張感のない行動も取り易い。女性らしい性的アピールのできるファッションが、減ってきているということだ。楽ちんでありたい心を、これらのアイテムは上手く隠蔽し女性らしく見させる。錯覚効果でしかない。
そしてまた私もこのような逃げの小細工を無意識に利用してきた。今日、蒐集しているバッグを落札したことで私なりに考えて、フィジカルな女性らしさを忘れたくない、との結論に至った。形而上的にはパンツでも帆布鞄でもいい。だからといって形而下に迄、その楽ちんなジェンダー・フリーを持ち込んではならない。ジェンダー・フリーそのものはいい傾向なのに、履き違えが世の中には余りにも多いのだ。飲食店などのレディース・デイ。これに群がる女性は少なくない。女性性の利用だ。なのに女性性を捨てた恰好でその場に行くのは、何か違うだろう。Tシャツ+パンツ+ヒップ・バッグなどでレディス・デイを利用させてはならない。フリルなんかに誤魔化されてはいけない。利用するなら、利用させてもらうに相応しくなければならないと思うのだ。例えば、シャネルのコスメを使う高校生を生意気だと感じる人は多くいる。女子高生はシャネルの格ではない、と。それでもカメリアが似合う高校生ならどうか。カメリアが似合うのは、大人の女性でも少ない。物凄く人を選ぶ小物なのだ。人は物を選んで買う。そのとき、自分がその物に選ばれているかどうかを意識しなくてはならない。似合っているつもり、は自己満足だ。ファッションは自己満足の世界なのだからいいではないか、と言う人もいるに違いない。良くないのだ。高校生でもシャネルに選ばれる子もいるだろう。そして女性であっても本来レディース・デイを利用できる立場にない者もいる。後者は恥じるべきだと思う。自分のことを振り返る。私は蒐集しているアンティーク・バッグに選ばれるべくして蒐集しているのか。今迄はきっとそうではなかった。自己満足で集めていただけ。これからはバッグに選ばれる存在でありたい、と思う。そうなれればきっとこのバッグとの出会いも増えるのではなかろうか。物が人を呼ぶことはあるのだ。このアンティーク・バッグの蒐集は、ただの趣味ではなくライフ・ワークにしたい。だから私の小遣いではなく生活費から……。
太った。ような気がする。昔もらったパンツがキツい。どれ位キツいかって、ウエストを閉じたままずっと椅子に座っていると、ウエストとその周りの皺の当たる部分が赤くなるのを通り越して青くなる位。キツさに負けて開けなければ鬱血するところだった。穿いたときに、かなりフィット感があるな、と思い鏡を見ると、両脇のポケットの裏地が見えている! ……きっと縫製が悪い所為だ。いや、私の腰周りが標準サイズだからだ。このパンツは明らかにSサイズ。7号サイズ。そんなパンツにMサイズ・9号サイズの足腰を突っ込んだらそりゃあポケットの裏地も見える罠。どうも周囲の人々は勘違いをしている。上半身が薄いからといって下半身も薄いとは限らないのだ。なのに、私にはキツかったから、とボトムをくれる。あなたにキツい服は私にもキツい。幾ら言っても覚えてくれない。何故ならその相手は親だから。聞いたことから忘れていく。親と絶縁した。筈だったのに、なんだかよく解らないことになっている。先日、携帯電話に親から着信があった。出てみると、ニュース! ニュース! と大騒ぎ。何事かと思いきや、父親が前屈して床に手が届くようになったとのこと。だから……? 何……? 絶縁って一体……? 親曰く、うちのとのことはアレだが、私とは親子の縁を切りたくないらしい。あの騒動は何だったのか。かなりもにょるが敢えて突っ込まない。突っ込んだらまたあのような気違い騒動が起こりそうだから。でも苛々する。絶縁するって言ってきた親らから、私に擦り寄ってくる矛盾。それに適当に付き合う自分に嫌悪。結局、親の前ではいい顔をしてしまう癖が抜けていないのだ。適度な距離を保つのが限界。今月末の週末、祖母のお見舞いに親と行くことになっている。それはいい。いいのだが。だがしかし。
逃げ場のない責め方をする人間は私の親だけではない。例えば。なんで〜〜やってないの? 忘れていたから。なんで忘れるの? なんでって……。暫し沈黙。黙っていれば済むと思っているでしょ!? 思っていません、ごめんなさい。謝れば済むと思っているでしょ!? 暫し沈黙。黙って(以下ループ。逃げ場がない。逃げ道がない。だから前以って言い訳を考える。すると、言い訳するな! と怒られる。謝るとまた、謝ればいいと思っているでしょ!? そうして歪に出来上がったオトナの私。世の中で最も大切なことは、相手の顔色を伺うこと。相手に責められないように相手の望む返事をすること。自分を殺して。自我殺傷。そして本当に自分の心身を傷付けるに至る。私のチェーンスモークは緩やかな自殺。禁煙を迫るうちのに、煙草は私のアイデンティティだ! と言い切ったことがある。その場凌ぎの出任せだったけれど、あながち嘘ではないかもしれない。主治医に以前、本音でぶつかってくるように、と言われた。当然、はい、と答えた。けれど、実際のところ本音でぶつかっていったことはない。主治医の機嫌を損ねたくないから。見捨てられたくないから。他者に嫌われたらどんな目に遭うのか、幼い頃から私にはすり込まれている。嫌味を言われ、無視され、最後にはいなくなる。追い縋る自分は惨め。ならば最初から相手の機嫌を損ねなければいい。大人がどうすれば喜ぶか、私はツボを心得ている。それは私が大人だからではなくオトナだから。他者はこれを、処世術、と呼ぶかもしれない。それは私に於いては間違い。私の他者への顔色伺いは病的だ。病的だと自覚していても、どうすれば病的でなくなるかが解らない。だって皆、私の自我のままに行動すると離れていくから。嫌われるから。ひとりになるから。淋しいのは平気。なフリをすることに余りにも慣れ過ぎてしまった。病的に慣れ過ぎてしまった。
縺れた糸を解すのが私は苦手だ。縺れてしまったら切ればいい。短絡的発想。それでも世の中に無限に糸がある訳ではなく、切っていけばいく程に糸は短くなり、最後にはなくなる。解っていても解せない。糸の端を持つもうひとりが、私が解く先から絡ませていくこともある。悲しい。淋しい。自信が持てない。私には、啓蒙書の類を読む人間を小莫迦にしている節がある。自己啓発本を読んで、自分探し、に終止符が打てた人なんかいないに決まっている。打てたとしてもそれは、休止符ではなく小休止符。言い換えれば妥協点。ありのままの自分、を真に理解できている人はいないに決まっている。ありのまま、というもの自体が流動的だ。流動的だ、ということに気付いている人はどれだけいるのだろう。少なくとも他者に向って、〜〜さんらしい乃至〜〜さんらしくない、と吐く奴は絶対に解っていないに違いない。自分らしさ、なんて自分でも解らない。でもきっと多くの大人はそんなことは考えていない。忙しいから。暇なオトナな私は考える。無駄なのに。答えなんか出ないのに。
流動的な私の体重は、さっき量ったらベスト体重迄後2kg。一時期よりも5kg近く増えた。不健康に。増えた5kgの半分以上はお菓子類だろう。今日の昼食もバウムクーヘン。頬とアンダーバストから下のみに肉が付いていく。いかん、いかん。最近、デューク更家のウォーキングもどきで歩くようにし始めた。名付けられたウォーキングをこなしているのではなく、単に肩と仙骨の位置と足の進め方を意識しているだけ。それでも近所のコンビニに行き来するだけで腹筋が痛くなった。如何にこれ迄間違った歩き方をしていたか、如何にこれ迄運動不足だったかを物語る話。腹筋が多少痛むのはそのうち慣れるとして、この間あったちょっと酷い話。寝る間際に発作勃発。痛い痛いと呟いて布団から抜けた私にうちのがかけた言葉は、寒い。布団を捲りっぱなしにしていたのだ。だからってそりゃないんじゃないかと小一時間(以下略。この発作で死にはしない。うちのが疲れてて眠いのも知っている。起きているときに私が発作に襲われたときは優しくしてくれる。でも。幾ら寝入り端だからって、寒い、の一言はあんまりじゃあないか。愛を疑ってしまった。翌日、軽く責めたら謝ってくれたけれど。この、軽く、が自分への嘘。本当に悲しかったし腹が立った。でも正面切って責める勇気がないから、冗談ぽく責める。謝ってくれても靄がかかっているのは、うちのの所為ではない。自分の他者への接し方に、自身で納得ができていない故のこと。嘘や欺瞞と処世術の区別が付かない。他所の大人はちゃんと区別が付いているのか。区別が付かないのはモラトリアムなオトナだからか。果たして私は、区別が付くようになりたいと本心から思っているのかどうかも怪しい。ロックってそんなもんじゃないだろう! と心の叫び。お天使な小悪魔のモラトリアムはロックなのだ。ワケワカラン。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
逃げ場のない責め方をする人間は私の親だけではない。例えば。なんで〜〜やってないの? 忘れていたから。なんで忘れるの? なんでって……。暫し沈黙。黙っていれば済むと思っているでしょ!? 思っていません、ごめんなさい。謝れば済むと思っているでしょ!? 暫し沈黙。黙って(以下ループ。逃げ場がない。逃げ道がない。だから前以って言い訳を考える。すると、言い訳するな! と怒られる。謝るとまた、謝ればいいと思っているでしょ!? そうして歪に出来上がったオトナの私。世の中で最も大切なことは、相手の顔色を伺うこと。相手に責められないように相手の望む返事をすること。自分を殺して。自我殺傷。そして本当に自分の心身を傷付けるに至る。私のチェーンスモークは緩やかな自殺。禁煙を迫るうちのに、煙草は私のアイデンティティだ! と言い切ったことがある。その場凌ぎの出任せだったけれど、あながち嘘ではないかもしれない。主治医に以前、本音でぶつかってくるように、と言われた。当然、はい、と答えた。けれど、実際のところ本音でぶつかっていったことはない。主治医の機嫌を損ねたくないから。見捨てられたくないから。他者に嫌われたらどんな目に遭うのか、幼い頃から私にはすり込まれている。嫌味を言われ、無視され、最後にはいなくなる。追い縋る自分は惨め。ならば最初から相手の機嫌を損ねなければいい。大人がどうすれば喜ぶか、私はツボを心得ている。それは私が大人だからではなくオトナだから。他者はこれを、処世術、と呼ぶかもしれない。それは私に於いては間違い。私の他者への顔色伺いは病的だ。病的だと自覚していても、どうすれば病的でなくなるかが解らない。だって皆、私の自我のままに行動すると離れていくから。嫌われるから。ひとりになるから。淋しいのは平気。なフリをすることに余りにも慣れ過ぎてしまった。病的に慣れ過ぎてしまった。
縺れた糸を解すのが私は苦手だ。縺れてしまったら切ればいい。短絡的発想。それでも世の中に無限に糸がある訳ではなく、切っていけばいく程に糸は短くなり、最後にはなくなる。解っていても解せない。糸の端を持つもうひとりが、私が解く先から絡ませていくこともある。悲しい。淋しい。自信が持てない。私には、啓蒙書の類を読む人間を小莫迦にしている節がある。自己啓発本を読んで、自分探し、に終止符が打てた人なんかいないに決まっている。打てたとしてもそれは、休止符ではなく小休止符。言い換えれば妥協点。ありのままの自分、を真に理解できている人はいないに決まっている。ありのまま、というもの自体が流動的だ。流動的だ、ということに気付いている人はどれだけいるのだろう。少なくとも他者に向って、〜〜さんらしい乃至〜〜さんらしくない、と吐く奴は絶対に解っていないに違いない。自分らしさ、なんて自分でも解らない。でもきっと多くの大人はそんなことは考えていない。忙しいから。暇なオトナな私は考える。無駄なのに。答えなんか出ないのに。
流動的な私の体重は、さっき量ったらベスト体重迄後2kg。一時期よりも5kg近く増えた。不健康に。増えた5kgの半分以上はお菓子類だろう。今日の昼食もバウムクーヘン。頬とアンダーバストから下のみに肉が付いていく。いかん、いかん。最近、デューク更家のウォーキングもどきで歩くようにし始めた。名付けられたウォーキングをこなしているのではなく、単に肩と仙骨の位置と足の進め方を意識しているだけ。それでも近所のコンビニに行き来するだけで腹筋が痛くなった。如何にこれ迄間違った歩き方をしていたか、如何にこれ迄運動不足だったかを物語る話。腹筋が多少痛むのはそのうち慣れるとして、この間あったちょっと酷い話。寝る間際に発作勃発。痛い痛いと呟いて布団から抜けた私にうちのがかけた言葉は、寒い。布団を捲りっぱなしにしていたのだ。だからってそりゃないんじゃないかと小一時間(以下略。この発作で死にはしない。うちのが疲れてて眠いのも知っている。起きているときに私が発作に襲われたときは優しくしてくれる。でも。幾ら寝入り端だからって、寒い、の一言はあんまりじゃあないか。愛を疑ってしまった。翌日、軽く責めたら謝ってくれたけれど。この、軽く、が自分への嘘。本当に悲しかったし腹が立った。でも正面切って責める勇気がないから、冗談ぽく責める。謝ってくれても靄がかかっているのは、うちのの所為ではない。自分の他者への接し方に、自身で納得ができていない故のこと。嘘や欺瞞と処世術の区別が付かない。他所の大人はちゃんと区別が付いているのか。区別が付かないのはモラトリアムなオトナだからか。果たして私は、区別が付くようになりたいと本心から思っているのかどうかも怪しい。ロックってそんなもんじゃないだろう! と心の叫び。お天使な小悪魔のモラトリアムはロックなのだ。ワケワカラン。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
果てしなく続く道のり
2004年4月18日 メイク・ファッション・ピアス 現在4月19日。
昨夜、夕飯の支度をする前にうちのから帰るコールあり。焼肉に誘ってくれた。普段の私ならホイホイと誘いに乗るところだが、昨日ばかりは乗る訳にはいかず断った。今思えば乗ればよかった。大後悔。私が断ったのは、某ネットオークションの終了時間に外食時間が被りそうだったからである。狙っていたのはナショナルスタンダードの丸襟パフスリーブのGジャン。羽織り物は数あれど、何故か私の手元にGジャンはない。昔キャンディストリッパーのコレクション物グレー×蜘蛛柄のGジャンがあった。親に強請られてあげてしまったが。今、1点物薄デニム素材のノーカラーカバーオールはあるけれど、カバーオールはカバーオールでありGジャンには非ず、しかもそのカバーオールは木の釦であり裾に和布が使われている。今、ウォッチリストに次点候補が入れてあるけれど、こちらは丸襟でもパフスリーブでもない。妥協するしかないのか……。落札できなかったナショスタの丸襟パフスリーブのGジャンは、着用感や色落ちのある物。それでも価格高騰。7000円台迄は頑張った。でも流石に8000円は出せない。7000円台でも充分に私のオークション許容価格を凌駕していたのでもう8000円台でも何でも出す! と思わなくはなかったけれど色落ちありの物だしなあ、と躊躇って諦めた。同日少し後の時間に狙っていたワンピースがあった。持て余しているピアスに嵌りそうな総柄ワンピースで、こちらも私の許容範囲価格を遥かにオーバーしても競った。競りに競った。そして負けた。定価で1万するかしないかの難あり商品に4000円は出せん! Gジャンといいワンピといい、多少の難があってもデザインの可愛い人気ブランドだとやはり価格高騰は避けられないのか。スタート価格が高ければ眼中に入らないのに、スタート時点では安価なのが性質がいいやら悪いやら。
うちのに、Gジャンが欲しい、と言う話をしてみた。いつも通り、風呂に入ってから言え、と言われたのはまあ挨拶のようなものなのでスルーして、家にGジャンがあってもよいかどうか、を訊きたかったのだ。何故かうちのはGジャン嫌い。インディゴ染めのジャケットは良くてもGジャンは良くないらしい。うちにそんな物を持ち込むな、と言われたので、持ち込んだらどうする? と畳み掛けて訊いた。回答。袖を切って頭にバンダナ巻かせて野球大会をさせる、と。ハマショーだらけのアレか……。うちのが頑なにGジャンの存在を嫌うので、友人にそんなに使えない物なのか? と訊いた。友人は、使えるよ、と。甘い恰好のときに羽織ると甘くなり過ぎずにいいらしい。ならば! と挑んだオークションだった訳だが撃沈。うーむ。学生時代から友人知人に言われ続けていたことなのだが、私は癖のない服が嫌いらしい。無自覚。ワードローブを見回しても柄物は多いけれど、癖があるという程の物はそんなにないように思う。無地好きが多い私の周囲では柄物多数所有=癖のある物好き、となってしまってはいないか。でも。Gジャンひとつ取っても、アレが気に入ったのは丸襟でパフスリーブだったからだ。しかもゆとりのある丈。今迄私がGジャンを避けてきた理由に、ウエストジャスト丈が多くゆったりした服を着るとはみ出すのがイヤ、というのがあった。それもゆとりある丈でクリア。忘れよう。画像を思い出すだけでも悔しくなる。
小悪魔ブームは相変わらず続いている。なのに某スレの影響でガーリッシュな着こなしに興味が出てきた。いや、戻ってきた。小悪魔がブームになる前の私は、ガーリッシュな着こなしを模索していたのだ。ガーリッシュな着こなしに使える物のひとつとして、ずっと避けてきていたスパッツがあるらしい。欲しくなってきてしまった。今日捨てたへんてこスパッツは論外として、私が持ってるスパッツは毛糸の防寒用スパッツ2本と綿で裾にレースが付いた物1本。後者しか使えそうにない。これから地道に増やしていくか。ここで命題発生。ガーリッシュな小悪魔はアリなのか? 貧乳なのでエロティックな外見の小悪魔はもう諦めかけてきている。ならば内面は小悪魔、外見はお天使な存在ならどうかと。お天使の中でも南国お天使ではなく正統派ガーリッシュなお天使。某巨大掲示板化粧板で小悪魔に目覚めたのが良くなかったのかもしれない。小悪魔メイクはアイラインや赤グロスなどの些細な部分のみに採用し、全体的雰囲気はガーリッシュお天使。これが存在としては最強小悪魔かもしれない。気易く近付いたら火傷するわよ的存在。うん、小悪魔だ。これだ、やっと方向を見つけた! 林檎が落ちた! 違うか。ガーリッシュ熱を再燃させてくれたスレでは、保守的ガーリーと攻撃的ガーリーの2種に分けられていた。両方を上手く取り込めてこそ小悪魔ではなかろうか。頑張ろう。風呂に入ろう。
服と年齢は切り離せないものだと言われ易い。検証。昔いた職場で50歳前後と思われる先輩がいた。常にガーリッシュな恰好をしており、しかも似合っていた。上質ガーリッシュなセレクト物やハンドメイド物を身につけていた印象。大概、ロングフレアスカートでペタ靴。ロングフレアスカートはガーリッシュ・ファッションの王道だ。彼女とは路線が違うけれど、歳を重ねたガーリッシュな存在として、お洒落芸能人との評判高いYOUがいる。元フェアチャイルドなのは彼女にとって汚点か、ただの通過点か。そんなことはどうでもいいか。彼女のファッションの印象も、ふわふわ。ロングフレアスカートを穿いていなくてもふわふわした感じ。アイテムに頼らずにふわふわ感を保つのは難しい筈だ。それを思うと、タイトなシルエットにも拘らず皺によってふわふわ感を出すツモリのクレプリ・ラインは偉大だ。今はクレプリもどきの物が他ブランドからも多数出ているけれど、ツモリに比べたら加工が甘かったりデザイン性に欠けたり。ツモリはデザイン性が強くなり過ぎてしまったけれど、少し前迄のクレプリは最強ふわふわお天使アイテムだったように思う。何だよ、神話がテーマって。インパクト強過ぎて1シーズンで着られなくなってしまう服じゃないか。そんなもんにン万も払えるか! 少し前のカーテンシリーズも然り。でも春物のパンチング白ブーツは可愛かったなあ。5万強い。払えねえっての。ガーリッシュ追求スレで、常にスカートを穿いていたい、と書いている人がいた。いい心掛けな気がする。デニムパンツやチノパンに逃げる癖を治そう、と思った。本題に戻して。小悪魔もお天使も共に難しい。失敗すると小悪魔はセクシー系やギャル系に傾き、お天使はただの野暮ったい人になる。そして両者とも無難ではないので、似合っていなければそこで終了。ただの勘違いサンだ。勘違いサンになるのは怖い。怖いのに1歩間違えばそうなりかねないアイテムが手元に多数ある。気をつけねば。
昨夜、夕飯の支度をする前にうちのから帰るコールあり。焼肉に誘ってくれた。普段の私ならホイホイと誘いに乗るところだが、昨日ばかりは乗る訳にはいかず断った。今思えば乗ればよかった。大後悔。私が断ったのは、某ネットオークションの終了時間に外食時間が被りそうだったからである。狙っていたのはナショナルスタンダードの丸襟パフスリーブのGジャン。羽織り物は数あれど、何故か私の手元にGジャンはない。昔キャンディストリッパーのコレクション物グレー×蜘蛛柄のGジャンがあった。親に強請られてあげてしまったが。今、1点物薄デニム素材のノーカラーカバーオールはあるけれど、カバーオールはカバーオールでありGジャンには非ず、しかもそのカバーオールは木の釦であり裾に和布が使われている。今、ウォッチリストに次点候補が入れてあるけれど、こちらは丸襟でもパフスリーブでもない。妥協するしかないのか……。落札できなかったナショスタの丸襟パフスリーブのGジャンは、着用感や色落ちのある物。それでも価格高騰。7000円台迄は頑張った。でも流石に8000円は出せない。7000円台でも充分に私のオークション許容価格を凌駕していたのでもう8000円台でも何でも出す! と思わなくはなかったけれど色落ちありの物だしなあ、と躊躇って諦めた。同日少し後の時間に狙っていたワンピースがあった。持て余しているピアスに嵌りそうな総柄ワンピースで、こちらも私の許容範囲価格を遥かにオーバーしても競った。競りに競った。そして負けた。定価で1万するかしないかの難あり商品に4000円は出せん! Gジャンといいワンピといい、多少の難があってもデザインの可愛い人気ブランドだとやはり価格高騰は避けられないのか。スタート価格が高ければ眼中に入らないのに、スタート時点では安価なのが性質がいいやら悪いやら。
うちのに、Gジャンが欲しい、と言う話をしてみた。いつも通り、風呂に入ってから言え、と言われたのはまあ挨拶のようなものなのでスルーして、家にGジャンがあってもよいかどうか、を訊きたかったのだ。何故かうちのはGジャン嫌い。インディゴ染めのジャケットは良くてもGジャンは良くないらしい。うちにそんな物を持ち込むな、と言われたので、持ち込んだらどうする? と畳み掛けて訊いた。回答。袖を切って頭にバンダナ巻かせて野球大会をさせる、と。ハマショーだらけのアレか……。うちのが頑なにGジャンの存在を嫌うので、友人にそんなに使えない物なのか? と訊いた。友人は、使えるよ、と。甘い恰好のときに羽織ると甘くなり過ぎずにいいらしい。ならば! と挑んだオークションだった訳だが撃沈。うーむ。学生時代から友人知人に言われ続けていたことなのだが、私は癖のない服が嫌いらしい。無自覚。ワードローブを見回しても柄物は多いけれど、癖があるという程の物はそんなにないように思う。無地好きが多い私の周囲では柄物多数所有=癖のある物好き、となってしまってはいないか。でも。Gジャンひとつ取っても、アレが気に入ったのは丸襟でパフスリーブだったからだ。しかもゆとりのある丈。今迄私がGジャンを避けてきた理由に、ウエストジャスト丈が多くゆったりした服を着るとはみ出すのがイヤ、というのがあった。それもゆとりある丈でクリア。忘れよう。画像を思い出すだけでも悔しくなる。
小悪魔ブームは相変わらず続いている。なのに某スレの影響でガーリッシュな着こなしに興味が出てきた。いや、戻ってきた。小悪魔がブームになる前の私は、ガーリッシュな着こなしを模索していたのだ。ガーリッシュな着こなしに使える物のひとつとして、ずっと避けてきていたスパッツがあるらしい。欲しくなってきてしまった。今日捨てたへんてこスパッツは論外として、私が持ってるスパッツは毛糸の防寒用スパッツ2本と綿で裾にレースが付いた物1本。後者しか使えそうにない。これから地道に増やしていくか。ここで命題発生。ガーリッシュな小悪魔はアリなのか? 貧乳なのでエロティックな外見の小悪魔はもう諦めかけてきている。ならば内面は小悪魔、外見はお天使な存在ならどうかと。お天使の中でも南国お天使ではなく正統派ガーリッシュなお天使。某巨大掲示板化粧板で小悪魔に目覚めたのが良くなかったのかもしれない。小悪魔メイクはアイラインや赤グロスなどの些細な部分のみに採用し、全体的雰囲気はガーリッシュお天使。これが存在としては最強小悪魔かもしれない。気易く近付いたら火傷するわよ的存在。うん、小悪魔だ。これだ、やっと方向を見つけた! 林檎が落ちた! 違うか。ガーリッシュ熱を再燃させてくれたスレでは、保守的ガーリーと攻撃的ガーリーの2種に分けられていた。両方を上手く取り込めてこそ小悪魔ではなかろうか。頑張ろう。風呂に入ろう。
服と年齢は切り離せないものだと言われ易い。検証。昔いた職場で50歳前後と思われる先輩がいた。常にガーリッシュな恰好をしており、しかも似合っていた。上質ガーリッシュなセレクト物やハンドメイド物を身につけていた印象。大概、ロングフレアスカートでペタ靴。ロングフレアスカートはガーリッシュ・ファッションの王道だ。彼女とは路線が違うけれど、歳を重ねたガーリッシュな存在として、お洒落芸能人との評判高いYOUがいる。元フェアチャイルドなのは彼女にとって汚点か、ただの通過点か。そんなことはどうでもいいか。彼女のファッションの印象も、ふわふわ。ロングフレアスカートを穿いていなくてもふわふわした感じ。アイテムに頼らずにふわふわ感を保つのは難しい筈だ。それを思うと、タイトなシルエットにも拘らず皺によってふわふわ感を出すツモリのクレプリ・ラインは偉大だ。今はクレプリもどきの物が他ブランドからも多数出ているけれど、ツモリに比べたら加工が甘かったりデザイン性に欠けたり。ツモリはデザイン性が強くなり過ぎてしまったけれど、少し前迄のクレプリは最強ふわふわお天使アイテムだったように思う。何だよ、神話がテーマって。インパクト強過ぎて1シーズンで着られなくなってしまう服じゃないか。そんなもんにン万も払えるか! 少し前のカーテンシリーズも然り。でも春物のパンチング白ブーツは可愛かったなあ。5万強い。払えねえっての。ガーリッシュ追求スレで、常にスカートを穿いていたい、と書いている人がいた。いい心掛けな気がする。デニムパンツやチノパンに逃げる癖を治そう、と思った。本題に戻して。小悪魔もお天使も共に難しい。失敗すると小悪魔はセクシー系やギャル系に傾き、お天使はただの野暮ったい人になる。そして両者とも無難ではないので、似合っていなければそこで終了。ただの勘違いサンだ。勘違いサンになるのは怖い。怖いのに1歩間違えばそうなりかねないアイテムが手元に多数ある。気をつけねば。
情けないから笑うしかなく……
2004年4月17日 メイク・ファッション・ピアス 入浴していないけれど、春物衣類に着替えてみた。所有衣類をざっと見て、もうこれは着ないだろ、という服を重ねてきてみた。履き心地の悪い靴下も合わせて。現在の私の恰好。かつて某女性芸能人らが某ブランドから、ブランド・イメージが下がるからうちの服を着てTVに出てくれるな、というクレームをもらったという。この噂を耳にして暫くして某演歌歌手がTVでそのブランドの服を着ていたのを見たのだが、あれはいいのか? そんな訳で、私は芸能人でも何でもないけれどトンデモなセンスの人間に着られているのか、とプレスが嘆かないように、ブランド名を伏せて書く。某のベロア地ボルドーキャミ+某の抹茶色半袖ニット+某のマルチボーダー綿ニットカーディガン+ノーブランドの縞馬柄スパッツ+ノーブランドのニットプリントの膝下丈ストレッチスカート+某の紺色靴下。1枚1枚重ねる毎に鏡を見ていたのだが、スパッツを穿いた瞬間、爆笑。可笑しい。可笑し過ぎる。更にスカートを穿いて、最後に靴下を履いたらもう腹が引き攣ってきた。笑い過ぎて。今、うちに強盗が入ったとする。うちのは朝帰りだと言うので、いる人間は私ひとり。きっと殺されない。足りない子だと思われて哀れまれるに違いない。それ位にケッタイ極まりない恰好をしている。今着ている服は、次のゴミの日に出す予定の物ばかり。それにしても何だ、このスパッツは。絶対に私の趣味ではない。きっと親がくれてしまった物なのだろう。縞馬柄スパッツってだけで、笑いを誘う。ヤバイ。宇宙ヤバイ。惜しいのが色だ。黄味を帯びたベージュと抹茶色と焦げ茶。これがピンクと黒なら神に誓ってもっと笑えた筈。神なんかいないがな。それ以外の物は1品1品を見る限りでは、特に問題を感じない。しかしキャミの除き、その他の服は着てみると問題点が解る。半袖ニットの抹茶色。似合わん。しかも脇がややキツい。綿ニットカーディガン。マルチボーダーだが最も多く使われている色がオレンジ。これも肌をくすんで見えさせる。スカート。ヒップの部分がパツパツ。靴下。履いているうちに踵がずれてくる。スパッツ。上記の通り。
当分は入浴をせずともこんな感じで哀れみを誘う恰好をして、衣類を減らしつつ洗濯物も出さない方向で行きたい。昨日の日記に書いた分類は、要らない衣類の処分が済んでからにしよう。と、表を作り始めてから思った。以前、所有衣類一覧表をブランド別に作ったことがあるのに、少し前に削除してしまった。あれから衣類はなくなった物あり、増えた物ありで多少内容は変わっているが、もう1度作る、という作業がとても面倒に思えてきたのだ。それにつけても今の私は面白過ぎる。この日記を書くにあたり、PCデスクの椅子の上で胡坐をかいている。足元がよく見える。ニット柄をプリントしたスカートの裾から覗くスパッツ。そこから10cm程肌が見え、その下にずれてきている色褪せた靴下。嗚呼、愉快愉快。……笑っていないと情けなくて泪が出てきそうな恰好だ。ピーコがこの姿を見たら吐くかもしれない。ドン小西にさえも吐かれそうだ。ドン小西って何処から湧いてきた人なんだろう。たまにワイドショーを見ると出ている。あんな後ろひとつ結び野郎にファッション・チェックされたくない。友人とも話していて共通した意見。彼に評論されるだけでその芸能人の格が下がる気がする。先日、某ネットオークションで某ブランドのカテゴリを見ていたところ、この名前を検索単語に使っている人がいて激しく笑った。しかも大量出品。ひたすら並ぶこの名前。でもって、入札がほぼ皆無。どういう意図で以って、この名を検索単語に入れるのか全く解らない。解りたくもないからどうでもいいっちゃあ、どうでもいい。ただ、笑わせてくれて有難う、と。
ファッション雑誌について何度か書いて、某巨大掲示板の数板数スレで「装苑」の存在を思い出した。学生時代に毎月購読していたけれど、目の保養にしかならなかった記憶しかない。だって、私は裁縫が苦手だから。だって、出てくる服が高いから。だって、あんな着こなしを街中でしていたら浮くから。可愛いなあ、恰好いいなあ、と思える着こなしを見せる雑誌が「装苑」を始め幾つかある。あるのだけれど、99%以上の確率で決して真似をしてはならない恰好なのだ。浮くから。街中で浮いた恰好をしたくないと思ってしまうのは、やはり日本人的発想なのだろう。我が道を邁進していた頃にギャルソンに嵌った。嵌ってワードローブにギャルソンが増え、それらを着てみた……ところで行くところがない。シンプル+αな物ならまだ着られるが、インパクトのある物だと着る私自身に照れが出てしまう。照れてしまって外に着て行けない、かと言って部屋着やパジャマの値段ではない。当然の如く、持て余すに至った。実家にあるギャルソンの黒いバルーンラップスカートを思い出した。そのうち取り戻せるかな。あれは頑張れば街中でも穿けそうな気がする。ゴスロリな人々が街を堂々と闊歩する世の中になってくれたから。勿体無いことをしてしまった東横綱はギャルソンの白衣風白コート。被りのコートで着脱が面倒だった故に放置していたら日に焼けて着られなくなってしまったのだ。西横綱はツモリのコレクション物白ベロアロングスカート。私には流石に丈が長過ぎた。ヒールを履くことに慣れればどうにかなるだろうか。東横綱はもうないけれど、西横綱はこれまた実家に。取り戻したい1品。東西には特に意味なし。
大関はギャルソンのミニワンピース。これは私の行儀が悪くてスリット部分が裂けてダメにしてしまった物。しかも修繕できない素材。もう片方の大関はこれまたギャルソンの靴とマフラー。これは購入して帰宅する迄の間に何処かで落としたか忘れたか盗られたかして失くしてしまった物。思い出しても自分の迂闊さが悔しい。書き出してみると、ツモリのスカートを除いてギャルソンばかりだ。手元にあるギャルソンで活躍してくれているのはネイビーの半袖カットソーのみか。チェックのバルーンスカートはハレの日用なので、活躍、とは言えない。ギャルソンから卒業できて、本当に良かった。ギャルソンの何がつらいって、家で洗濯できない上に特殊な素材が多い為にクリーニング代が高くつくことだ。貧乏人には綿素材が鉄則! ……数年前のチェックとフリルのシリーズは可愛かったなあ。欲しかったなあ。でもギャルソンは小悪魔ではない罠。むしろ悪魔。小悪魔の服はアナスイ辺り。某巨大掲示板某板にてガーリーな服を追求するスレを発見した。かつての「olive」のような路線。手持ちの衣類に小悪魔服は殆どない。無難を含めガーリーに括られる物か、パンキッシュな物が多い。ストラップシューズ好きがガーリーの特徴のひとつかもしれない。該当スレ曰く、ガーリーは精神らしいが。嶽本野ばらをロリからガーリーに移行させた感じか。言っていることは似たようなものだったから。
当分は入浴をせずともこんな感じで哀れみを誘う恰好をして、衣類を減らしつつ洗濯物も出さない方向で行きたい。昨日の日記に書いた分類は、要らない衣類の処分が済んでからにしよう。と、表を作り始めてから思った。以前、所有衣類一覧表をブランド別に作ったことがあるのに、少し前に削除してしまった。あれから衣類はなくなった物あり、増えた物ありで多少内容は変わっているが、もう1度作る、という作業がとても面倒に思えてきたのだ。それにつけても今の私は面白過ぎる。この日記を書くにあたり、PCデスクの椅子の上で胡坐をかいている。足元がよく見える。ニット柄をプリントしたスカートの裾から覗くスパッツ。そこから10cm程肌が見え、その下にずれてきている色褪せた靴下。嗚呼、愉快愉快。……笑っていないと情けなくて泪が出てきそうな恰好だ。ピーコがこの姿を見たら吐くかもしれない。ドン小西にさえも吐かれそうだ。ドン小西って何処から湧いてきた人なんだろう。たまにワイドショーを見ると出ている。あんな後ろひとつ結び野郎にファッション・チェックされたくない。友人とも話していて共通した意見。彼に評論されるだけでその芸能人の格が下がる気がする。先日、某ネットオークションで某ブランドのカテゴリを見ていたところ、この名前を検索単語に使っている人がいて激しく笑った。しかも大量出品。ひたすら並ぶこの名前。でもって、入札がほぼ皆無。どういう意図で以って、この名を検索単語に入れるのか全く解らない。解りたくもないからどうでもいいっちゃあ、どうでもいい。ただ、笑わせてくれて有難う、と。
ファッション雑誌について何度か書いて、某巨大掲示板の数板数スレで「装苑」の存在を思い出した。学生時代に毎月購読していたけれど、目の保養にしかならなかった記憶しかない。だって、私は裁縫が苦手だから。だって、出てくる服が高いから。だって、あんな着こなしを街中でしていたら浮くから。可愛いなあ、恰好いいなあ、と思える着こなしを見せる雑誌が「装苑」を始め幾つかある。あるのだけれど、99%以上の確率で決して真似をしてはならない恰好なのだ。浮くから。街中で浮いた恰好をしたくないと思ってしまうのは、やはり日本人的発想なのだろう。我が道を邁進していた頃にギャルソンに嵌った。嵌ってワードローブにギャルソンが増え、それらを着てみた……ところで行くところがない。シンプル+αな物ならまだ着られるが、インパクトのある物だと着る私自身に照れが出てしまう。照れてしまって外に着て行けない、かと言って部屋着やパジャマの値段ではない。当然の如く、持て余すに至った。実家にあるギャルソンの黒いバルーンラップスカートを思い出した。そのうち取り戻せるかな。あれは頑張れば街中でも穿けそうな気がする。ゴスロリな人々が街を堂々と闊歩する世の中になってくれたから。勿体無いことをしてしまった東横綱はギャルソンの白衣風白コート。被りのコートで着脱が面倒だった故に放置していたら日に焼けて着られなくなってしまったのだ。西横綱はツモリのコレクション物白ベロアロングスカート。私には流石に丈が長過ぎた。ヒールを履くことに慣れればどうにかなるだろうか。東横綱はもうないけれど、西横綱はこれまた実家に。取り戻したい1品。東西には特に意味なし。
大関はギャルソンのミニワンピース。これは私の行儀が悪くてスリット部分が裂けてダメにしてしまった物。しかも修繕できない素材。もう片方の大関はこれまたギャルソンの靴とマフラー。これは購入して帰宅する迄の間に何処かで落としたか忘れたか盗られたかして失くしてしまった物。思い出しても自分の迂闊さが悔しい。書き出してみると、ツモリのスカートを除いてギャルソンばかりだ。手元にあるギャルソンで活躍してくれているのはネイビーの半袖カットソーのみか。チェックのバルーンスカートはハレの日用なので、活躍、とは言えない。ギャルソンから卒業できて、本当に良かった。ギャルソンの何がつらいって、家で洗濯できない上に特殊な素材が多い為にクリーニング代が高くつくことだ。貧乏人には綿素材が鉄則! ……数年前のチェックとフリルのシリーズは可愛かったなあ。欲しかったなあ。でもギャルソンは小悪魔ではない罠。むしろ悪魔。小悪魔の服はアナスイ辺り。某巨大掲示板某板にてガーリーな服を追求するスレを発見した。かつての「olive」のような路線。手持ちの衣類に小悪魔服は殆どない。無難を含めガーリーに括られる物か、パンキッシュな物が多い。ストラップシューズ好きがガーリーの特徴のひとつかもしれない。該当スレ曰く、ガーリーは精神らしいが。嶽本野ばらをロリからガーリーに移行させた感じか。言っていることは似たようなものだったから。
生活基準軸
2004年4月16日 メイク・ファッション・ピアス 自分に苛々している。春になり、軽やかな可愛い恰好がしたい。いつ迄同じパジャマとカウチンでいるつもりだ! と自分に問いたい。髪もペターッとしている。今の自分が大嫌い。どうすれば今の自分を好きになれるのか。内面はともかく、外見だけでも。簡単な話で、風呂に入ればいいのだ。入浴して、綺麗サッパリな身体になり、朝起きてお洒落すればいい。言うは易し、行うは難し。軽やかで可愛い格好をしたところで、誰に見せる訳でなし……という空しさが伴うことに問題がありそうだ。社会人になった当初はお洒落に無頓着で、自分に似合うか似合わないかがイマイチ把握できず、我が道を行く、今思えば冴えない恰好ばかりしていた。そこから進んでPD発覚当初にいた職場では同僚や上司に、今日の恰好かわいいねー、と言ってもらえる迄に成長した。1個所で長期勤務するということは、毎日同じ職場・同じ人々が集まる場所に行く訳で、それなりにコーディネートや着回しに気を使う。インパクトのある服は1度着ていくと覚えられてしまう為、前回着用から間が空いても、またあの服着てる、となり易いので癖のない服を着る練習になった。働いていない今なら、癖のある服でも癖のない服でも自由に着られる。自由って素晴らしい。なのにネル素材のパジャマにカウチン。現在、4月半ば。クレイジーだ。ファッションの楽しみのひとつに、衣類で季節を楽しむ、という部分がある。和服に顕著。洋服でも、素材や色柄で季節感を取り入れられる。メイクもそう。全てを捨て去ったかのような今の私は嫌いだ。前にうちのにプレゼントしてもらったスピックの水色刺し子柄ブラウスに、この間購入したズッカの白スカートは絶対に嵌ると想像している。着たい。でも入浴していないが為に着ることを拒んでいる。
今の時期ならちょっと肌寒い日はスプリングコート、暑い位の日はシャツワンピを羽織るのが良さそうだなあ、と想像している。シャツワンピの上にカーディガンでもいいなあ。着たい。でも(以下略。服を着たい欲求が高まると、服が欲しい欲求も高まる。服が欲しい欲求は財布が許す限りは好きにできる。着たい欲求は入浴をしなければ叶わない。微妙に矛盾を感じる。ここ1年、私が余り入浴云々を省いた上で着替えない理由を考える。張り合いがないからだ。褒め言葉が欲しい訳ではないけれど、他者の目を楽しませるという面白さがない。うちのは私が寝ている間に出勤し、ほぼ毎日終電で帰宅する。帰宅後から寝る迄は数時間。その数時間の為にお洒落をするという考え方もあろうが、だるい。何が悲しくて夜中に皺を気にしてスカートを穿いたり、肌に悪いメイクをせねばならんのだ。夜遊びに行くなら当然だが、所詮家の中でのこと。楽な恰好が一番。ブラなんかしたくもない。そういえば、日常の中でブラをつけている時間が殆どない所為か、只でさえ貧相な乳が型崩れしてきた気がする。いろんなことが悪循環。自分の為のお洒落を放棄してしまったのはいつからだろう。抑うつの強くなってきた時期に重なるのだろうか。思い出せない。
お洒落と習慣は切り離せないものだと思う。高校時代の友人をお嬢だと決め付けたことがある。なんとそのお嬢は、帰宅して制服から部屋着に着替え、更に寝るときにはパジャマに着替えると言うのだ! 部屋着! 出掛ける為でもなく寝る為でもなく、部屋着、という種類の服が彼女の中ではあるのだ。凄い。それを聞いた私と友人は共に、帰宅したら即パジャマ派だったので驚愕した。パジャマ=部屋着なのだ。当時、彼女を遠い世界の住人だと思わずに、部屋着を着るという習慣を真似るべきだった、と昨今物凄い勢いで後悔している。なんで当時はお洒落に無頓着だったのだろう。過去の自分を制裁したい。部屋着とは、自分の為のお洒落のレッスンに最適ではないか。着心地が良く且つ着ていて自分が楽しい。誰に見せるというのではない自分の為だけのお洒落。安野モヨコの仕事中のお洒落とはまた違う。一般人の日常には打ち合わせだのアシスタントの存在などはなく、張り詰めた緊張感が必要ないから。却って、一般人の部屋着はリラックスできる服という前提がありそうな気がする。ここ数年、この部屋着という物の存在を自分の中で位置づけるべく、ちょっと努力した時期がある。結果。部屋着=パジャマとなった。上記と違うのは、部屋着からパジャマに着替えるという行動を放棄してそのまま寝てしまうので、パジャマ属部屋着科ができただけである。パジャマ属パジャマ科は1組しかない。私はパジャマ属部屋着科ではなく、部屋着属部屋着科の枠を作りたかったのに何処かでとち狂ってしまった。
このとち狂いの原因が、先日の友人の電話での会話で垣間見えた。世の中には、パジャマ以外の衣類で寝ることに抵抗がある人々がいるらしい。私やその友人から見れば、その人々の習性は不思議だ。その人々から見れば私らの平気っぷりが不思議だろう。私が着たまま寝ることに抵抗がある衣類は、シフォン地・ベルベット地・リボン付きの服か。共通点は、雑食の爪と毛に触れることで衣類がダメになる可能性があるから。ニット類で寝ることに昔は抵抗があった。毛玉ができるから。今は平気。なんでこうなっちゃったんだろうなあ……と嘆いてみる。以前他者から、ジーンズを穿いたまま寝ると疲れる、という話を聞いた。不思議だった。私は疲れないから。きっと慣れているからだろう。子供や旦那の、脱いだら脱ぎっ放し、という行為に苛立っている主婦は多いようだ。うちのも脱いだら脱ぎっ放しということは多く、私の虫の居所が悪いときはやはり苛立つ。けれど、うちのからすれば私の、着たら着っ放し、の方が苛立つらしい。何故着替えないのか、と。洗濯物を増やしたくないからである。電話で話した友人に指摘されて気付いたのだが、私の生活基準軸は、如何にして洗濯物を減らすか、にあるようだ。思い当たる節は数え切れない程にある。話を整理。
希望:いろんな服を着て楽しみたい。
課題:入浴及び部屋着類部屋着科枠の設定。
問題:洗濯物が増える。
解決の糸口を探してみる。私のワードローブを考える。部屋着類部屋着科枠に入れられそうな衣類は、カジュアル服がメイン故に多い。パジャマが1組しかないことは問題だろう。パジャマを増やしたい。しかし近隣に可愛いパジャマを取扱っている店は少ない。あるにはあるが、パジャマに大枚を払う余裕はない。ツモリのスリープシリーズやキッドブルーの存在は、空しくなるので記憶の彼方に追いやる。手持ちの衣類の中で、パジャマ属パジャマ科を何組か設定しよう。それから部屋着属部屋着科を設定。コンビニなどの近所に出掛けるときはカジュアル属近所用科の衣類を。部屋着での外出はダメ。其々の枠組みを乱す行為は厳禁とする。これでどうだ! この行動に準じれば入浴や洗濯物基準の生活習慣を改善できるのではなかろうか。近々、各属科の衣類リストを作成しよう。……作製した時点で気が済みそうなのは、きっと気のせいだ。
今の時期ならちょっと肌寒い日はスプリングコート、暑い位の日はシャツワンピを羽織るのが良さそうだなあ、と想像している。シャツワンピの上にカーディガンでもいいなあ。着たい。でも(以下略。服を着たい欲求が高まると、服が欲しい欲求も高まる。服が欲しい欲求は財布が許す限りは好きにできる。着たい欲求は入浴をしなければ叶わない。微妙に矛盾を感じる。ここ1年、私が余り入浴云々を省いた上で着替えない理由を考える。張り合いがないからだ。褒め言葉が欲しい訳ではないけれど、他者の目を楽しませるという面白さがない。うちのは私が寝ている間に出勤し、ほぼ毎日終電で帰宅する。帰宅後から寝る迄は数時間。その数時間の為にお洒落をするという考え方もあろうが、だるい。何が悲しくて夜中に皺を気にしてスカートを穿いたり、肌に悪いメイクをせねばならんのだ。夜遊びに行くなら当然だが、所詮家の中でのこと。楽な恰好が一番。ブラなんかしたくもない。そういえば、日常の中でブラをつけている時間が殆どない所為か、只でさえ貧相な乳が型崩れしてきた気がする。いろんなことが悪循環。自分の為のお洒落を放棄してしまったのはいつからだろう。抑うつの強くなってきた時期に重なるのだろうか。思い出せない。
お洒落と習慣は切り離せないものだと思う。高校時代の友人をお嬢だと決め付けたことがある。なんとそのお嬢は、帰宅して制服から部屋着に着替え、更に寝るときにはパジャマに着替えると言うのだ! 部屋着! 出掛ける為でもなく寝る為でもなく、部屋着、という種類の服が彼女の中ではあるのだ。凄い。それを聞いた私と友人は共に、帰宅したら即パジャマ派だったので驚愕した。パジャマ=部屋着なのだ。当時、彼女を遠い世界の住人だと思わずに、部屋着を着るという習慣を真似るべきだった、と昨今物凄い勢いで後悔している。なんで当時はお洒落に無頓着だったのだろう。過去の自分を制裁したい。部屋着とは、自分の為のお洒落のレッスンに最適ではないか。着心地が良く且つ着ていて自分が楽しい。誰に見せるというのではない自分の為だけのお洒落。安野モヨコの仕事中のお洒落とはまた違う。一般人の日常には打ち合わせだのアシスタントの存在などはなく、張り詰めた緊張感が必要ないから。却って、一般人の部屋着はリラックスできる服という前提がありそうな気がする。ここ数年、この部屋着という物の存在を自分の中で位置づけるべく、ちょっと努力した時期がある。結果。部屋着=パジャマとなった。上記と違うのは、部屋着からパジャマに着替えるという行動を放棄してそのまま寝てしまうので、パジャマ属部屋着科ができただけである。パジャマ属パジャマ科は1組しかない。私はパジャマ属部屋着科ではなく、部屋着属部屋着科の枠を作りたかったのに何処かでとち狂ってしまった。
このとち狂いの原因が、先日の友人の電話での会話で垣間見えた。世の中には、パジャマ以外の衣類で寝ることに抵抗がある人々がいるらしい。私やその友人から見れば、その人々の習性は不思議だ。その人々から見れば私らの平気っぷりが不思議だろう。私が着たまま寝ることに抵抗がある衣類は、シフォン地・ベルベット地・リボン付きの服か。共通点は、雑食の爪と毛に触れることで衣類がダメになる可能性があるから。ニット類で寝ることに昔は抵抗があった。毛玉ができるから。今は平気。なんでこうなっちゃったんだろうなあ……と嘆いてみる。以前他者から、ジーンズを穿いたまま寝ると疲れる、という話を聞いた。不思議だった。私は疲れないから。きっと慣れているからだろう。子供や旦那の、脱いだら脱ぎっ放し、という行為に苛立っている主婦は多いようだ。うちのも脱いだら脱ぎっ放しということは多く、私の虫の居所が悪いときはやはり苛立つ。けれど、うちのからすれば私の、着たら着っ放し、の方が苛立つらしい。何故着替えないのか、と。洗濯物を増やしたくないからである。電話で話した友人に指摘されて気付いたのだが、私の生活基準軸は、如何にして洗濯物を減らすか、にあるようだ。思い当たる節は数え切れない程にある。話を整理。
希望:いろんな服を着て楽しみたい。
課題:入浴及び部屋着類部屋着科枠の設定。
問題:洗濯物が増える。
解決の糸口を探してみる。私のワードローブを考える。部屋着類部屋着科枠に入れられそうな衣類は、カジュアル服がメイン故に多い。パジャマが1組しかないことは問題だろう。パジャマを増やしたい。しかし近隣に可愛いパジャマを取扱っている店は少ない。あるにはあるが、パジャマに大枚を払う余裕はない。ツモリのスリープシリーズやキッドブルーの存在は、空しくなるので記憶の彼方に追いやる。手持ちの衣類の中で、パジャマ属パジャマ科を何組か設定しよう。それから部屋着属部屋着科を設定。コンビニなどの近所に出掛けるときはカジュアル属近所用科の衣類を。部屋着での外出はダメ。其々の枠組みを乱す行為は厳禁とする。これでどうだ! この行動に準じれば入浴や洗濯物基準の生活習慣を改善できるのではなかろうか。近々、各属科の衣類リストを作成しよう。……作製した時点で気が済みそうなのは、きっと気のせいだ。
昨日、生協で注文しておいた苺が届いた。ので、洗ってヘタを取った苺を笊に上げ、醤油受け皿にバルサミコ酢を少量入れて、夕食後のデザートとして出した。苺にバルサミコ酢はフランス流の食べ方だとテレビで聞いた記憶があってのこと。爪楊枝で苺を刺して、緊張しつつバルサミコ酢をつけて食べる。うむ、オトナの味だ。けれど、私はコドモ味の苺の方が好きだ。私の子供時代の苺の食べ方。苺を深皿に入れる→牛乳をひたひた迄注ぐ→砂糖をたっぷり→苺をスプーンやフォークの背で潰す→潰れた苺を食す→残った苺ミルクを飲む。思い出しただけで甘々だ。でもこの食べ方が一番好きで、それは今でも変わっていない。昨日は面倒でしなかったけれど。残った3粒の苺はラップをして冷蔵庫に。そして今日、それを牛乳と砂糖で食べようと思っていたのだが、友人がネットにて画像入りでつけているハムスター日記を見てしまった。ハムが苺を食べてる! 可愛い。そして私のPCデスクの後ろには草食動物が。差し出したらがっついてきた。そうか、この草食は苺も食べるのか。けれど苺は草食にとって、すぐに飽きる食物らしい。干草を餌入れに入れたらそちらに夢中になってしまった。苺、勿体無かったか。うちでは日頃、果物を食べる習慣がない。ビタミン豊富な旬の果物に惹かれなくはないのだが、洗うだの、皮を剥くだの、ヘタを取るだの、種を取るだの、そういう面倒な作業を経て食べ終わるのはあっという間。こんな数分の為に手間をかけるのは甚だ面倒である。だからうちで果物を出すというのはかなり特別なことであり、草食に与えるのは一向に構わないけれど、飽きられるとやはり悔しいのだ。それに旬だろうとなんだろうと、果物は高い気がする。比較的安価なみかんは、私が薄皮嫌いなので避けている。冬、うちのはしきりにみかんを欲していたが、食べたければご自分でどうぞ、である。果物の中では、缶詰のシロップ漬けの桃が最も好きだ。白桃でも黄桃でもいい。甘くて種もなくて缶を開けるだけ。なんて楽で美味しい食べ物なのだろう。それでも滅多に食べない。風邪をひいたとき位だけ、贅沢品として食べる。貧乏な家の子供のようだ。
昨日の夕食は、とうふハンバーグと鮭ごはんと煮物。うちのからの帰るコールにて、煮物について説明しておいた。和風だか中華風だかよく判らない薄味の不味くはないもの、と。うちのは、一体それはどんな料理なんだ? と不安に思いつつ帰ってきたらしい。食べさせてみると、美味い、と言ってくれた。この煮物の正体。里芋と人参と蒟蒻だ。里芋と蒟蒻または里芋と人参だけなら味醂を使って甘く煮る。人参と蒟蒻だけならピリ辛煮だ。しかし目の前にあるのは3種。さてどうしたものか。取り敢えず、だし汁で人参と蒟蒻を煮てみた。やや煮立ってから里芋を投入。里芋が最後なのは冷凍物だから。問題はここからの味付けだ。絶対に外れなかろう料理酒をどばどば入れた。それからファーストフードなどで出されて余らせて持ち帰ったまま放置していたガムシロップを4つ、砂糖代わりに投入。それから色で判断ができない白醤油を慎重に注いだ。これで最低限の味にはなっている筈だ。が、そんな最低限で満足していいのか。よくない。料理は想像力と発想力だ。洗って割って種を取った唐辛子を1本投入し、胡麻油を少々。ここで胡麻油を持ってきたのは、人参は油を加えて食べた方が効率的に栄養を摂取できるから。これだけの手を加え、再び煮立ってから弱火にし、アルミホイルで落し蓋をして1時間程放置。その後、落し蓋を取って鍋蓋を被せてまた暫く放置。うちのが帰宅した時間が、完成時間だ。野菜が柔らかくなったときから溶けかける迄ならいつ完成にしたって構わないから。あれやこれやと調味料を使いつつも激しく薄味で、私には食感しか楽しめなかった。うちのにはちょうどいい味付けだったらしい。味の擦り合わせが、どうにも上手くいかない。今日になって、一晩置いた所為かやっと私の舌にも味が伝わってきた。薄味料理は一晩放置の法則ができそうだ。
薄味の煮物といえば、先日作った南瓜の煮物の話を避けては通れない。南瓜の煮物という料理から連想する味は? と問うたら恐らく大概の人は、和風の甘い感じ、と答えるだろう。実際、数人に問うたら皆からこのような同じ回答が返ってきた。制裁っ…! 南瓜の煮物の概念を覆すのだっ…! と、カットした南瓜をまずコンソメで煮てみた。南瓜のスープがあるのだから、コンソメは問題なかろうという無難路線からスタート。そして煮上がった南瓜をどうするか。考えに考えた末に私が取った行動は、器に盛ったコンソメで煮た南瓜にバルサミコ酢をひと垂らし、である。バルサミコ酢=ちょっとお洒落な料理上手サンが使う調味料、というイメージに基づいての行動。愚かっ…! 愚の骨頂っ…! ひと垂らしの筈が、手元が狂ってどばっとかかってしまった。修正不能。そのまま食卓へ。うちのは一口食べて、食べかけの南瓜を箸で摘まんでクンクンし始めた。行儀が悪い。これ何? と訊かれたので、上記のような説明で南瓜の煮物の概念を覆すという大いなる野望の失敗作、と答えた。うちのがクンクンしたのは酸味を感じた為であり、甘い筈なのに酸味のある野菜は腐っているのでは? と思ったからだったらしい。そしてバルサミコ酢のことを知ったうちのは、コンソメだけでよかったんじゃないの? と。久々に素直に、ごめんなさい、と言えてしまう料理だった。普段、南瓜の皮を私は残す。皮を残すことを好まないうちのは、私が残した皮を食べてくれる。この話を友人にしたら、家族だねえ、と驚かれた。カップル間では余りない行動の模様。この南瓜煮物概念転覆作戦の失敗により、冒頭に書いた苺の食べ方に於いて、醤油受け皿を使った次第。
書いている最中に、草食が苺を食べ終えた。勿体無いことにならなくて一安心。また途中でうちのが帰宅してきた。10人弱で飲んできた席で、カップルや夫婦の間での許容範囲についての話で盛り上がったと言う。或る人は、自分の髭剃りで妻が内緒のつもりで腋毛を剃っているらしいことが許せない、と。髭とは明らかに違う毛が剃刀に残っていたことで発覚したらしい。許せないと言いつつ、その人は妻に文句を言ったりできないらしい。不思議な関係。また或る人は彼女が自分の目の前で鼻毛カッターを使うのがイヤで堪らないと言ったとか。そこでうちのは、俺の彼女は俺の鼻毛が出ていると眉毛切りを渡してきますよ、と言ったようだ。そしてその場にいた女性陣に引かれたらしい。世の人々の体毛順位は頭から足迄下がるにつれ、毛への嫌悪感が高まるらしく、女性らにとって自分のアイブロウカッターで彼氏が鼻毛を切る行為はイヤなもののようだ。専用カッターなどよりもピンポイントで的確に切れて、優れた鋏だと思うのだけれど。うちのがその場で言ったという許容外範囲。私の好きなパン用チョコクリームに黒猫専用マークをつけていること。それに対抗して、うちのは私に食べられたくないカップ麺にうちののマークをつけるようになった。……笑われたらしい。うちのは許容範囲外として話したようだが、実は私の黒猫専用マークを面白がっている。チョコクリーム以外には書かないの? などと訊いてきたりもする。南瓜の皮やら鋏の使い方やら、我が家の個人テリトリはほぼ皆無なのか。個人テリトリの究極は、当人の身体だろう。昨夜、うちのが下着姿で寝転がっているときに雑食動物がうちのの上に乗り、うちののパンツを嗅いだ。そしてすぐに顔を上げた。そのとき、鼻呼吸を拒否したい匂いだったらしく雑食の口は空いていて物凄く笑えた。さっき、うちのがパンツの上からケツを嗅いでみて、と言ってきたので言われるままに嗅いだ。口が空いた。尻ではなく、最早うんこの匂い。最悪。お返しに暫く洗っていない私の頭皮を嗅がせてやった。うちには莫迦の空気が漂っている。
昨日の夕食は、とうふハンバーグと鮭ごはんと煮物。うちのからの帰るコールにて、煮物について説明しておいた。和風だか中華風だかよく判らない薄味の不味くはないもの、と。うちのは、一体それはどんな料理なんだ? と不安に思いつつ帰ってきたらしい。食べさせてみると、美味い、と言ってくれた。この煮物の正体。里芋と人参と蒟蒻だ。里芋と蒟蒻または里芋と人参だけなら味醂を使って甘く煮る。人参と蒟蒻だけならピリ辛煮だ。しかし目の前にあるのは3種。さてどうしたものか。取り敢えず、だし汁で人参と蒟蒻を煮てみた。やや煮立ってから里芋を投入。里芋が最後なのは冷凍物だから。問題はここからの味付けだ。絶対に外れなかろう料理酒をどばどば入れた。それからファーストフードなどで出されて余らせて持ち帰ったまま放置していたガムシロップを4つ、砂糖代わりに投入。それから色で判断ができない白醤油を慎重に注いだ。これで最低限の味にはなっている筈だ。が、そんな最低限で満足していいのか。よくない。料理は想像力と発想力だ。洗って割って種を取った唐辛子を1本投入し、胡麻油を少々。ここで胡麻油を持ってきたのは、人参は油を加えて食べた方が効率的に栄養を摂取できるから。これだけの手を加え、再び煮立ってから弱火にし、アルミホイルで落し蓋をして1時間程放置。その後、落し蓋を取って鍋蓋を被せてまた暫く放置。うちのが帰宅した時間が、完成時間だ。野菜が柔らかくなったときから溶けかける迄ならいつ完成にしたって構わないから。あれやこれやと調味料を使いつつも激しく薄味で、私には食感しか楽しめなかった。うちのにはちょうどいい味付けだったらしい。味の擦り合わせが、どうにも上手くいかない。今日になって、一晩置いた所為かやっと私の舌にも味が伝わってきた。薄味料理は一晩放置の法則ができそうだ。
薄味の煮物といえば、先日作った南瓜の煮物の話を避けては通れない。南瓜の煮物という料理から連想する味は? と問うたら恐らく大概の人は、和風の甘い感じ、と答えるだろう。実際、数人に問うたら皆からこのような同じ回答が返ってきた。制裁っ…! 南瓜の煮物の概念を覆すのだっ…! と、カットした南瓜をまずコンソメで煮てみた。南瓜のスープがあるのだから、コンソメは問題なかろうという無難路線からスタート。そして煮上がった南瓜をどうするか。考えに考えた末に私が取った行動は、器に盛ったコンソメで煮た南瓜にバルサミコ酢をひと垂らし、である。バルサミコ酢=ちょっとお洒落な料理上手サンが使う調味料、というイメージに基づいての行動。愚かっ…! 愚の骨頂っ…! ひと垂らしの筈が、手元が狂ってどばっとかかってしまった。修正不能。そのまま食卓へ。うちのは一口食べて、食べかけの南瓜を箸で摘まんでクンクンし始めた。行儀が悪い。これ何? と訊かれたので、上記のような説明で南瓜の煮物の概念を覆すという大いなる野望の失敗作、と答えた。うちのがクンクンしたのは酸味を感じた為であり、甘い筈なのに酸味のある野菜は腐っているのでは? と思ったからだったらしい。そしてバルサミコ酢のことを知ったうちのは、コンソメだけでよかったんじゃないの? と。久々に素直に、ごめんなさい、と言えてしまう料理だった。普段、南瓜の皮を私は残す。皮を残すことを好まないうちのは、私が残した皮を食べてくれる。この話を友人にしたら、家族だねえ、と驚かれた。カップル間では余りない行動の模様。この南瓜煮物概念転覆作戦の失敗により、冒頭に書いた苺の食べ方に於いて、醤油受け皿を使った次第。
書いている最中に、草食が苺を食べ終えた。勿体無いことにならなくて一安心。また途中でうちのが帰宅してきた。10人弱で飲んできた席で、カップルや夫婦の間での許容範囲についての話で盛り上がったと言う。或る人は、自分の髭剃りで妻が内緒のつもりで腋毛を剃っているらしいことが許せない、と。髭とは明らかに違う毛が剃刀に残っていたことで発覚したらしい。許せないと言いつつ、その人は妻に文句を言ったりできないらしい。不思議な関係。また或る人は彼女が自分の目の前で鼻毛カッターを使うのがイヤで堪らないと言ったとか。そこでうちのは、俺の彼女は俺の鼻毛が出ていると眉毛切りを渡してきますよ、と言ったようだ。そしてその場にいた女性陣に引かれたらしい。世の人々の体毛順位は頭から足迄下がるにつれ、毛への嫌悪感が高まるらしく、女性らにとって自分のアイブロウカッターで彼氏が鼻毛を切る行為はイヤなもののようだ。専用カッターなどよりもピンポイントで的確に切れて、優れた鋏だと思うのだけれど。うちのがその場で言ったという許容外範囲。私の好きなパン用チョコクリームに黒猫専用マークをつけていること。それに対抗して、うちのは私に食べられたくないカップ麺にうちののマークをつけるようになった。……笑われたらしい。うちのは許容範囲外として話したようだが、実は私の黒猫専用マークを面白がっている。チョコクリーム以外には書かないの? などと訊いてきたりもする。南瓜の皮やら鋏の使い方やら、我が家の個人テリトリはほぼ皆無なのか。個人テリトリの究極は、当人の身体だろう。昨夜、うちのが下着姿で寝転がっているときに雑食動物がうちのの上に乗り、うちののパンツを嗅いだ。そしてすぐに顔を上げた。そのとき、鼻呼吸を拒否したい匂いだったらしく雑食の口は空いていて物凄く笑えた。さっき、うちのがパンツの上からケツを嗅いでみて、と言ってきたので言われるままに嗅いだ。口が空いた。尻ではなく、最早うんこの匂い。最悪。お返しに暫く洗っていない私の頭皮を嗅がせてやった。うちには莫迦の空気が漂っている。
乳さえ……、金さえ……
2004年4月14日 メイク・ファッション・ピアス 現在、4月15日。
スティラの限定パレットのひとつがブルーベースには合わないことが発覚。これで6500円浮いた計算に。その分で何を買……ってはならない。物を増やさないようにしたいのだから。某ネットオークションでいいことを発見。いい物であり、いいこと。一澤帆布の2ウェイバッグが出品されていた。このバッグの色違いを私は所有している。買ったものの持て余し、家用靴下入れとしていた。元々サイクリング・リュックとして購入したものであり、紐を結びかえることでトートにもなると初めて知った。出品画像を見つつ結び変えてみると、手頃な大きさのトートに変身。これでまた幾らか浮いた計算に。は、ならないのだ。出品されているのは白、私が持っているのはベージュ。白い鞄を持つのには、かなりの勇気が必要だと思う。鞄や靴に於いて、白は極力避けるべき色だと最近迄考えていた。汚れ易いから。けれども春めいてきて、これを書いている今、七分袖ババシャツ+ネル素材のパジャマ+カウチン+毛糸の靴下姿な私が書くのも可笑しな話だけれど、やはり薄い色や淡い色や爽やかな色にときめく。薄い色の靴は克服。履く日・履いて行く場所に気をつければ、思っていた程には汚れないことが解った。次は鞄だ。持ち方・置き方に気をつければ白でも大丈夫ではなかろうか。杜撰でずぼらな性質を棚に上げて、ではなく、この手の好からぬ性質を克服する為にも、白い鞄の使用はいいきっかけになりそうな気がする。それに帆布素材ならざぶざぶ洗えるし。既に入札が入っている白バッグ。高騰しなければ買ってしまうのだろうなあ。
昨日、友人と数回のメール交換をした。それから暫くして、その友人から電話がかかってきた。黒猫の小悪魔定義はどうなっているのだ!? とのこと。この友人も他の友人も、どうも私とは違う小悪魔定義をしているらしい。彼女ら曰く、小悪魔はスレンダー。逆だ、逆。私の理想小悪魔は肉感的なんだって。電話で話した友人と私の共通点は、背が低いこととパーソナルカラーが同じという位。身長以外の体型は正反対だ。故にか何なのか、会話をするとお互いにないもの強請りになる。まず最初のメールを出したのは私だった。昨今、雑誌を見ているとランジェリーテイストの衣類掲載が目立つ。その畳み掛け具合は、乳なき者は死ね! と言わんばかりだ。そこで友人に妬みメールを出した。彼女からの返信は、乳があればいいというものではなく二の腕との対比が大事だ、と。二の腕は触って摘まんでぷにぷにぽよぽよしているくらいの方が可愛く且つ女性らしくていいと、私は思っている。彼女は二の腕は細くてナンボと思っている。その彼女に今直撃している悩みがまた相容れない。彼女はトップスにシャツを持ってくるのが好きだと言う。羽織る使い方ではなく、きちんと前の釦を閉めて着るのがいいらしい。なのになかなか合うサイズがないとか。彼女はS〜Mサイズ。シャツは肩で着る物。そこに合わせて市販のシャツを購入すると、乳部分の釦と釦の間に隙間ができて、ブラが覗いてしまうことがある。それがイヤで堪らないらしい。私はそういうちょっとイヤらしめの着方がしてみたくて堪らない。私が彼女にした提案は、釦位置の変更。電話を切ってから思いついたのがひとつ。比翼のシャツならどうだろう。プルオーバー型は余り好きではないと言っていたけれど、比翼なら条件を満たした上で悩みが解決できそうな。問題は比翼シャツの少なさにあるが。彼女はせっかくの巨乳の持ち主なのに、ベアトップも好きではないらしい。勿体無い限り。着たくても乳がストッパーにならず、どうしても肩紐なりなんなりのある物でなければ私は着られない。彼女にしたら脚も細くてナンボらしい。標準からややぽっちゃり位の太腿の方が、チラッとスカートのスリットから見えたときにはセクシーだと思う。細いだけが取柄の肉付きが薄いのは脚に限らず、とかく貧相に見えがちなのだ。私の脚は身長を基準に考えると、標準くらいの太さだろう。しかし上半身が骨格も肉付きも薄っぺらいので下半身デブに見えかねない、何ともバランスの悪い身体の持ち主。更に女体を見る際の視点が男性的なので、上半身の薄さが悲しいやら情けないやら。
別の友人との会話でも出た、この年齢に適した雑誌がない、という話も出た。ノンノはまだセーフらしいことを伝えると、彼女は驚いていた。私がセーフだと判断した基準。モノクロページで組まれていた実にくだらない占い特集。その中の表に誕生日を見る欄があった。後1〜2年の余裕を持って、生年月日が設定されていたからもう暫くはOKだろう、と。たまに読者を莫迦にしているのか的なものは別として幾ら着回し特集が役立つとはいえ、メイン・ターゲットの年齢からはオーバーしている。彼女と共に具体的な雑誌名を挙げつつ話し、やはり達した結論は、歳相応の雑誌だと価格設定が非現実的であり、価格設定が現実的な雑誌だと対象年齢が下がる。誰と話してもこの辺に行き着く。雑誌がなければ服を着こなせないようなファッション音痴ではないが、いろんな服を見るのは楽しいのだ。そしてその中で気に入った服が現実的に買えそうな価格だともっと嬉しい。springだのIn Redだの、歳相応のカジュアル路線を扱う雑誌を、私はたまに購入する。セレクトショップ系の服がよく取り上げられている。一桁間違っているような……。ノンノとspringの間くらいに位置するminiら辺でも高い。サイラスなんか店に足を踏み入れるだけでも緊張する値段だ。世の同年代の女性らは皆そんなに高収入か? それなら私や友人らの悩みは何なのか。また最近では美容雑誌と共に付録合戦も目につく。似たテイストの雑誌を物色するときは、どうしても付録のいい物に手が伸びる。先日コンビニで気になったのは、まだ1度も購入したことがないSweet。なんと付録がキャミソール! 次号はお揃いのパンツが付くとか。非常に気になったけれど、付録つきの雑誌という物は往々にビニールパックされていたり紐で縛られていたり。キャミの素材や質が判らない。表紙の付録写真を見た限りでは割と好みの色ではあったけれど、非実用的なキャミに払う金はない。Sweetそのものは私好みの雑誌ではないし。
昔はこんな風に付録で雑誌を選ぶことはなかった。なのに何故美容雑誌やファッション雑誌だと付録重視の傾向が強まるのか。それは内容が似たり寄ったりであり、特に楽しみにできるような連載もないからである。選ぶ基準は、付録の質・街中スナップの多さ・着回し特集の有無くらい。殆ど役に立たないのはブランド特集。服屋の商品交換時期になると、各種雑誌でよく扱うブランドの新作をカタログのように物撮りで並べる恒例のアレだ。今季はこんなテイストなのねー、としか思わない。精々目の保養。これとこれを合わせて、これを重ねたら可愛いかな? などと考えてはならない。雑誌としてはそう考えさせたいのだろうが、考えたが最後、簡単にン十万の値段を弾き出せてしまう。そんな金、あるか! ファッション雑誌は金持ちの買う雑誌なのか? 金があるなら私だってラグシーやh.p.フランスやグレースで莫迦買いしたいさ! せめて前々から好きなツモリやスナオやズッカやギャルソン位は気軽に買いたい。何処もかしこも人気が出たら価格高騰。特にA-net系列。ギャルソンはシリーズが増えてから、少し安くなった気がする。それでも買えないがな。マルジェラとは言わない。イランイランとも言わない。せめてケイタのお洋服をプロパーで買ってみたい。しょぼい。しょぼ過ぎる私の財布の中身……。
雑誌名表記がノンノのみカタカナなのは、これ迄の日記でもそうだったから。他意なし。
スティラの限定パレットのひとつがブルーベースには合わないことが発覚。これで6500円浮いた計算に。その分で何を買……ってはならない。物を増やさないようにしたいのだから。某ネットオークションでいいことを発見。いい物であり、いいこと。一澤帆布の2ウェイバッグが出品されていた。このバッグの色違いを私は所有している。買ったものの持て余し、家用靴下入れとしていた。元々サイクリング・リュックとして購入したものであり、紐を結びかえることでトートにもなると初めて知った。出品画像を見つつ結び変えてみると、手頃な大きさのトートに変身。これでまた幾らか浮いた計算に。は、ならないのだ。出品されているのは白、私が持っているのはベージュ。白い鞄を持つのには、かなりの勇気が必要だと思う。鞄や靴に於いて、白は極力避けるべき色だと最近迄考えていた。汚れ易いから。けれども春めいてきて、これを書いている今、七分袖ババシャツ+ネル素材のパジャマ+カウチン+毛糸の靴下姿な私が書くのも可笑しな話だけれど、やはり薄い色や淡い色や爽やかな色にときめく。薄い色の靴は克服。履く日・履いて行く場所に気をつければ、思っていた程には汚れないことが解った。次は鞄だ。持ち方・置き方に気をつければ白でも大丈夫ではなかろうか。杜撰でずぼらな性質を棚に上げて、ではなく、この手の好からぬ性質を克服する為にも、白い鞄の使用はいいきっかけになりそうな気がする。それに帆布素材ならざぶざぶ洗えるし。既に入札が入っている白バッグ。高騰しなければ買ってしまうのだろうなあ。
昨日、友人と数回のメール交換をした。それから暫くして、その友人から電話がかかってきた。黒猫の小悪魔定義はどうなっているのだ!? とのこと。この友人も他の友人も、どうも私とは違う小悪魔定義をしているらしい。彼女ら曰く、小悪魔はスレンダー。逆だ、逆。私の理想小悪魔は肉感的なんだって。電話で話した友人と私の共通点は、背が低いこととパーソナルカラーが同じという位。身長以外の体型は正反対だ。故にか何なのか、会話をするとお互いにないもの強請りになる。まず最初のメールを出したのは私だった。昨今、雑誌を見ているとランジェリーテイストの衣類掲載が目立つ。その畳み掛け具合は、乳なき者は死ね! と言わんばかりだ。そこで友人に妬みメールを出した。彼女からの返信は、乳があればいいというものではなく二の腕との対比が大事だ、と。二の腕は触って摘まんでぷにぷにぽよぽよしているくらいの方が可愛く且つ女性らしくていいと、私は思っている。彼女は二の腕は細くてナンボと思っている。その彼女に今直撃している悩みがまた相容れない。彼女はトップスにシャツを持ってくるのが好きだと言う。羽織る使い方ではなく、きちんと前の釦を閉めて着るのがいいらしい。なのになかなか合うサイズがないとか。彼女はS〜Mサイズ。シャツは肩で着る物。そこに合わせて市販のシャツを購入すると、乳部分の釦と釦の間に隙間ができて、ブラが覗いてしまうことがある。それがイヤで堪らないらしい。私はそういうちょっとイヤらしめの着方がしてみたくて堪らない。私が彼女にした提案は、釦位置の変更。電話を切ってから思いついたのがひとつ。比翼のシャツならどうだろう。プルオーバー型は余り好きではないと言っていたけれど、比翼なら条件を満たした上で悩みが解決できそうな。問題は比翼シャツの少なさにあるが。彼女はせっかくの巨乳の持ち主なのに、ベアトップも好きではないらしい。勿体無い限り。着たくても乳がストッパーにならず、どうしても肩紐なりなんなりのある物でなければ私は着られない。彼女にしたら脚も細くてナンボらしい。標準からややぽっちゃり位の太腿の方が、チラッとスカートのスリットから見えたときにはセクシーだと思う。細いだけが取柄の肉付きが薄いのは脚に限らず、とかく貧相に見えがちなのだ。私の脚は身長を基準に考えると、標準くらいの太さだろう。しかし上半身が骨格も肉付きも薄っぺらいので下半身デブに見えかねない、何ともバランスの悪い身体の持ち主。更に女体を見る際の視点が男性的なので、上半身の薄さが悲しいやら情けないやら。
別の友人との会話でも出た、この年齢に適した雑誌がない、という話も出た。ノンノはまだセーフらしいことを伝えると、彼女は驚いていた。私がセーフだと判断した基準。モノクロページで組まれていた実にくだらない占い特集。その中の表に誕生日を見る欄があった。後1〜2年の余裕を持って、生年月日が設定されていたからもう暫くはOKだろう、と。たまに読者を莫迦にしているのか的なものは別として幾ら着回し特集が役立つとはいえ、メイン・ターゲットの年齢からはオーバーしている。彼女と共に具体的な雑誌名を挙げつつ話し、やはり達した結論は、歳相応の雑誌だと価格設定が非現実的であり、価格設定が現実的な雑誌だと対象年齢が下がる。誰と話してもこの辺に行き着く。雑誌がなければ服を着こなせないようなファッション音痴ではないが、いろんな服を見るのは楽しいのだ。そしてその中で気に入った服が現実的に買えそうな価格だともっと嬉しい。springだのIn Redだの、歳相応のカジュアル路線を扱う雑誌を、私はたまに購入する。セレクトショップ系の服がよく取り上げられている。一桁間違っているような……。ノンノとspringの間くらいに位置するminiら辺でも高い。サイラスなんか店に足を踏み入れるだけでも緊張する値段だ。世の同年代の女性らは皆そんなに高収入か? それなら私や友人らの悩みは何なのか。また最近では美容雑誌と共に付録合戦も目につく。似たテイストの雑誌を物色するときは、どうしても付録のいい物に手が伸びる。先日コンビニで気になったのは、まだ1度も購入したことがないSweet。なんと付録がキャミソール! 次号はお揃いのパンツが付くとか。非常に気になったけれど、付録つきの雑誌という物は往々にビニールパックされていたり紐で縛られていたり。キャミの素材や質が判らない。表紙の付録写真を見た限りでは割と好みの色ではあったけれど、非実用的なキャミに払う金はない。Sweetそのものは私好みの雑誌ではないし。
昔はこんな風に付録で雑誌を選ぶことはなかった。なのに何故美容雑誌やファッション雑誌だと付録重視の傾向が強まるのか。それは内容が似たり寄ったりであり、特に楽しみにできるような連載もないからである。選ぶ基準は、付録の質・街中スナップの多さ・着回し特集の有無くらい。殆ど役に立たないのはブランド特集。服屋の商品交換時期になると、各種雑誌でよく扱うブランドの新作をカタログのように物撮りで並べる恒例のアレだ。今季はこんなテイストなのねー、としか思わない。精々目の保養。これとこれを合わせて、これを重ねたら可愛いかな? などと考えてはならない。雑誌としてはそう考えさせたいのだろうが、考えたが最後、簡単にン十万の値段を弾き出せてしまう。そんな金、あるか! ファッション雑誌は金持ちの買う雑誌なのか? 金があるなら私だってラグシーやh.p.フランスやグレースで莫迦買いしたいさ! せめて前々から好きなツモリやスナオやズッカやギャルソン位は気軽に買いたい。何処もかしこも人気が出たら価格高騰。特にA-net系列。ギャルソンはシリーズが増えてから、少し安くなった気がする。それでも買えないがな。マルジェラとは言わない。イランイランとも言わない。せめてケイタのお洋服をプロパーで買ってみたい。しょぼい。しょぼ過ぎる私の財布の中身……。
雑誌名表記がノンノのみカタカナなのは、これ迄の日記でもそうだったから。他意なし。
現在4月14日。
うちは狭い。狭いのに物欲王と物欲女王がいるので更に狭い。そこで私は考えた。まず、半間分しかないクローゼットの有効活用。今、クローゼットには衣類と服飾小物が詰まっている。クローゼットの扉の前には雑食動物のタオル製寝床がひとつ。私がクローゼットから物を出そうと思ったときに限って、雑食がそこで寝ている。雑食を起こすのを憚り、結局部屋に積んである衣類専用箱に入っているものばかりを着る羽目になる。クローゼットに入れてある衣類は、畳んでしまい難い物だけでなく、脂や埃で汚したくないちょっと高い衣類も入っている。正に宝の持ち腐れ。勿体無いので着たい。この寝床さえなければもっと気軽にクローゼットの中の物を使えるのに……。そして今、ひとつの籠を捨てようとしている。雑食用の籐籠製キャリー。このキャリーは物凄く可愛い。けれど既に壊れており、ただの雑食用寝床と化している。この籐籠製キャリーだって、常日頃から寝床として使われているのならば、私だって処分しようとは思わない。実際には、気まぐれにしか使われていない。数ヶ月に1度、そこで寝ているのを見るかどうか程度。要らないのではないか? 私がそう考えても不思議はあるまい。この籐籠製キャリーは居間の衣類ラックの下に置いてある。このキャリーを捨て、そこにクローゼット前の寝床を移してみた。只でさえ、雑食の寝床は多い。1匹しかいないのに、タオル製寝床・寝床にしかならない籐籠製キャリー・衣類箱の上に畳んで置いてあるタオルケット、少なくともこの3箇所は雑食専用の居場所だ。更に出窓や布団でごろごろしていたりもする。1箇所くらい減らしてもいいではないか。籐籠製キャリーを退かしてタオル製寝床をそこに置いた。雑食の反応は如何に。
暴れている。居間とキッチンを行き来して、うちのと私の顔を悲しそうな目で見ている。切ない声で鳴いている。捨てるなと? でも実際、殆ど使ってないだろ! うちの近辺の燃えるゴミの日は月曜と木曜。さっき退かした籐籠製キャリーは、現在ベランダに出してある。1日様子をみる予定。使っていないけれど自分専用と理解している物への執着心か、それとも配置転換による戸惑いによるものか。前者なら元の配置に戻すかもしれないが、後者なら容赦なく木曜に捨てる。いちいちこんなことを書いているのは、私自身が雑食の哀愁漂う目にやられて、直ぐにでも元に戻してしまいそうだからだ。ここに書くことで強い意志を、と。書いているうちに雑食が少し大人しくなってきた。今、元々タオル製寝床があった場所で毛繕いをしている。ここが私のメインの場所じゃ! と自己主張しているかのようだ。とにかく、明日いっぱいは様子をみる! ここに宣言! どうせ滅多に使っていなかった物じゃないか! うちの迄が雑食の胸の内を代弁しているかのように、好き勝手に私を責めてくる。あたしのばしょー! あたしここがすきなのー! かなしいよー! 知らん知らん!! 本心なんか解りゃしない。と、自分に言い聞かせる。 人間と共生しているのに、いつ迄も姫気分でいてもらっては困るのだ。
……クローゼットの中の衣類って、本当に必要なのだろうか? 物への執着について、私は雑食の欲求よりも自己の欲求を優先しようとしているだけではなかろうか。我侭なのは誰だ? クローゼット前に置いていたタオル製寝床で寝ている雑食に、勝手に憐憫を感じて退かさずにいた自分に罪はないのか。今後、寝ているときに起こされて物を出し入れされることと、まず使わないながらも人間に比べて格段に少ない自分の持ち物を捨てられるのとどちらがマシなのだろう。私は自分が寝ているときに起こされるのは嫌いだ。雑食もきっと嫌いだろう、とは思う。だからといって、物を捨てることとごっちゃにしていいものだろうか。答えが出せない……。籐籠製キャリーが壊れていなければ、迷いなく置いておく。だが、壊れているのだ。キャリーとしては使い物にならなくなっているのだ。使い物にならず、でもそれに執着心を持つ。人間同士なら、会話をして解決策を見つけ出せるだろう。今回の相手は動物。観察して気持ちを汲み取る努力しかできない。ハッキリと雑食の口から、すてていいよー、若しくは、すてちゃだめー! と言われればこんなに困らずに済むのに。去年だったか、ペットの言葉や気持ちが解るという商品が発売された。使い物にならないらしい。飼い主がペットの気持ちを最も知りたいのはどんなときか。それは、体調が悪いかどうかではないだろうか。動物は人間と会話を交わせないので具合が悪くても自ら、病院に連れて行って、とは言えない。特に種によっては限界迄我慢してしまう習性があり、飼い主が動物の体調不良に気付いたときには手遅れということも少なくない。こういう役割を、上記の道具は全く果たしてくれないらしい。単純に、大好きだわん、楽しいにゃん、くらいしか表示されないとか。所詮、玩具だ。今、雑食が移動されたタオル製寝床で丸くなっている。やっと落ち着いたらしい。やはり籐籠製キャリーは捨てる方向で考えよう。大丈夫そうだね、とうちのに話しかけた。うちのの返答は含みのある口調で、にやにやしつつ、そうかな? なんでこう偏屈なんだろう。大丈夫そうだね、と言っているのだから、そうだね、と素直に返してくれればいいものを。含みのある物言いをされるとまたいろいろと考えてしまうではないか。
文句があるなら自分で空間有効利用について提案してきてくれ。うちは狭いんだ。尤も。元々うちは狭くなかった。ここに初めて私が来たとき、とてもシンプルで広い部屋だった。狭くなったのは私と動物2匹が転がり込んでからだ。独り暮らし用の部屋にふたりと2匹で住もうとすれば、狭くなるのは道理である。しかも物欲王と物欲女王。物欲王は、その名の通りに物を欲しがり買いたがる。けれど買うものはコンパクトな物が多く、また不要になった物は直ぐに捨てる性質。物欲女王は嵩張る物を欲しがり買いたがる。そして買った物は物としてダメになる迄保存なり保管なりして取っておきたがる。だって欲しいんだもん! 一昨日久々に某ネットオークションを覗いて、現在30近くの品をウォッチリストに入れてある。高い物は買わない。欲しいと思いつつ、入札額の高騰を望む矛盾。しかも昨日は立ち読みした雑誌でスティラの限定パレットを見てしまった。2種共に5月発売。2種が1度に出るときは大概片方はパーソナルカラーに合わないのに、今回はどちらも使えそうな予感。むしろ悪寒。
BGM/アルバム「踊る一寸法師」
うちは狭い。狭いのに物欲王と物欲女王がいるので更に狭い。そこで私は考えた。まず、半間分しかないクローゼットの有効活用。今、クローゼットには衣類と服飾小物が詰まっている。クローゼットの扉の前には雑食動物のタオル製寝床がひとつ。私がクローゼットから物を出そうと思ったときに限って、雑食がそこで寝ている。雑食を起こすのを憚り、結局部屋に積んである衣類専用箱に入っているものばかりを着る羽目になる。クローゼットに入れてある衣類は、畳んでしまい難い物だけでなく、脂や埃で汚したくないちょっと高い衣類も入っている。正に宝の持ち腐れ。勿体無いので着たい。この寝床さえなければもっと気軽にクローゼットの中の物を使えるのに……。そして今、ひとつの籠を捨てようとしている。雑食用の籐籠製キャリー。このキャリーは物凄く可愛い。けれど既に壊れており、ただの雑食用寝床と化している。この籐籠製キャリーだって、常日頃から寝床として使われているのならば、私だって処分しようとは思わない。実際には、気まぐれにしか使われていない。数ヶ月に1度、そこで寝ているのを見るかどうか程度。要らないのではないか? 私がそう考えても不思議はあるまい。この籐籠製キャリーは居間の衣類ラックの下に置いてある。このキャリーを捨て、そこにクローゼット前の寝床を移してみた。只でさえ、雑食の寝床は多い。1匹しかいないのに、タオル製寝床・寝床にしかならない籐籠製キャリー・衣類箱の上に畳んで置いてあるタオルケット、少なくともこの3箇所は雑食専用の居場所だ。更に出窓や布団でごろごろしていたりもする。1箇所くらい減らしてもいいではないか。籐籠製キャリーを退かしてタオル製寝床をそこに置いた。雑食の反応は如何に。
暴れている。居間とキッチンを行き来して、うちのと私の顔を悲しそうな目で見ている。切ない声で鳴いている。捨てるなと? でも実際、殆ど使ってないだろ! うちの近辺の燃えるゴミの日は月曜と木曜。さっき退かした籐籠製キャリーは、現在ベランダに出してある。1日様子をみる予定。使っていないけれど自分専用と理解している物への執着心か、それとも配置転換による戸惑いによるものか。前者なら元の配置に戻すかもしれないが、後者なら容赦なく木曜に捨てる。いちいちこんなことを書いているのは、私自身が雑食の哀愁漂う目にやられて、直ぐにでも元に戻してしまいそうだからだ。ここに書くことで強い意志を、と。書いているうちに雑食が少し大人しくなってきた。今、元々タオル製寝床があった場所で毛繕いをしている。ここが私のメインの場所じゃ! と自己主張しているかのようだ。とにかく、明日いっぱいは様子をみる! ここに宣言! どうせ滅多に使っていなかった物じゃないか! うちの迄が雑食の胸の内を代弁しているかのように、好き勝手に私を責めてくる。あたしのばしょー! あたしここがすきなのー! かなしいよー! 知らん知らん!! 本心なんか解りゃしない。と、自分に言い聞かせる。 人間と共生しているのに、いつ迄も姫気分でいてもらっては困るのだ。
……クローゼットの中の衣類って、本当に必要なのだろうか? 物への執着について、私は雑食の欲求よりも自己の欲求を優先しようとしているだけではなかろうか。我侭なのは誰だ? クローゼット前に置いていたタオル製寝床で寝ている雑食に、勝手に憐憫を感じて退かさずにいた自分に罪はないのか。今後、寝ているときに起こされて物を出し入れされることと、まず使わないながらも人間に比べて格段に少ない自分の持ち物を捨てられるのとどちらがマシなのだろう。私は自分が寝ているときに起こされるのは嫌いだ。雑食もきっと嫌いだろう、とは思う。だからといって、物を捨てることとごっちゃにしていいものだろうか。答えが出せない……。籐籠製キャリーが壊れていなければ、迷いなく置いておく。だが、壊れているのだ。キャリーとしては使い物にならなくなっているのだ。使い物にならず、でもそれに執着心を持つ。人間同士なら、会話をして解決策を見つけ出せるだろう。今回の相手は動物。観察して気持ちを汲み取る努力しかできない。ハッキリと雑食の口から、すてていいよー、若しくは、すてちゃだめー! と言われればこんなに困らずに済むのに。去年だったか、ペットの言葉や気持ちが解るという商品が発売された。使い物にならないらしい。飼い主がペットの気持ちを最も知りたいのはどんなときか。それは、体調が悪いかどうかではないだろうか。動物は人間と会話を交わせないので具合が悪くても自ら、病院に連れて行って、とは言えない。特に種によっては限界迄我慢してしまう習性があり、飼い主が動物の体調不良に気付いたときには手遅れということも少なくない。こういう役割を、上記の道具は全く果たしてくれないらしい。単純に、大好きだわん、楽しいにゃん、くらいしか表示されないとか。所詮、玩具だ。今、雑食が移動されたタオル製寝床で丸くなっている。やっと落ち着いたらしい。やはり籐籠製キャリーは捨てる方向で考えよう。大丈夫そうだね、とうちのに話しかけた。うちのの返答は含みのある口調で、にやにやしつつ、そうかな? なんでこう偏屈なんだろう。大丈夫そうだね、と言っているのだから、そうだね、と素直に返してくれればいいものを。含みのある物言いをされるとまたいろいろと考えてしまうではないか。
文句があるなら自分で空間有効利用について提案してきてくれ。うちは狭いんだ。尤も。元々うちは狭くなかった。ここに初めて私が来たとき、とてもシンプルで広い部屋だった。狭くなったのは私と動物2匹が転がり込んでからだ。独り暮らし用の部屋にふたりと2匹で住もうとすれば、狭くなるのは道理である。しかも物欲王と物欲女王。物欲王は、その名の通りに物を欲しがり買いたがる。けれど買うものはコンパクトな物が多く、また不要になった物は直ぐに捨てる性質。物欲女王は嵩張る物を欲しがり買いたがる。そして買った物は物としてダメになる迄保存なり保管なりして取っておきたがる。だって欲しいんだもん! 一昨日久々に某ネットオークションを覗いて、現在30近くの品をウォッチリストに入れてある。高い物は買わない。欲しいと思いつつ、入札額の高騰を望む矛盾。しかも昨日は立ち読みした雑誌でスティラの限定パレットを見てしまった。2種共に5月発売。2種が1度に出るときは大概片方はパーソナルカラーに合わないのに、今回はどちらも使えそうな予感。むしろ悪寒。
BGM/アルバム「踊る一寸法師」
生存欲求の高まりか、最近になって危機管理について考えることが多くなった。一例として少し前迄、うちではちょっとコンビニやスーパーに行く程度なら鍵をかけなかった。それをかけるようになった。今迄が無防備すぎた説もあろうが、これも危機管理一歩前進。今、二歩目について考えている。住所や名前が書かれた郵便物などの処理について。私はこれらを捨てる場合は必ず小動物らのトイレ処理をしたスーパーの袋の中に捨て、その袋を縛って更に大きな半透明袋にその他のゴミと一緒に捨てている。半透明袋を縛る前、全体に煙草の吸殻と灰を振りかける事も忘れない。小動物らのトイレ処理に使った袋はそれはそれは臭いもので、鼻ではなく目に沁みてきたりする。なのでまず拾う者はいないと思う。思うけれど、本当にこれで安心していていいのか? とふと不安感が過ぎった。家庭用手動シュレッダなどで刻んでから同様に捨てた方が、より安全ではなかろうか、と。で、うちのに相談。今はこうやって住所や名前が書いてある物を捨てているけど大丈夫かな? 念の為シュレッダにかけた方がいいかな? うちのの返答。また金のかかることを考え出したよ……。違う! 今の通りの捨て方で大丈夫でしょ? と言ってもらえれば当然シュレッダなど買わずに今迄通りの捨て方続行だ。そういうことじゃなくて……と言うと、手で千切って捨てればいいじゃん。住所や名前の書いてある物って、決して多くはないけれど少なくもない。それをいちいち全部手か鋏で細かくしろと。苛々。こいつ、人の話を真面目に聞いちゃなねえ。しょーもない話なら生返事でもまあ我慢しよう。でも真剣に相談しているのにそれか。真面目に相談しているんだけど、と言うと、手や鋏で切るのがそんなに手間なのか!? と逆切れされた。論点が既に違ってきている。私が知りたかったのは、今の捨て方で大丈夫か、それともシュレッダにかけるなり何なりしてもっと気をつけるべきか、だったのだ。そのまま喧嘩になり、今後一切家庭の危機管理については相談しない! と私が啖呵を切って話は終了。この会話の諸悪の根源は某PS2のゲームである。
昨日うちのが仕事から帰宅し、食事をしたときからちょっと機嫌が悪かった。うちのの機嫌を損ねたのは私が原因。幾らなんでも多過ぎか? という量の料理をうちのの器に持ってしまったから。うちのは、残していい? と訊いてきた。別に残されても構わなかったのだけれど、不味かった? 全部食べて欲しかったなあ、と言ってみた。あくまで、言ってみただけで断じて強要はしていない。なのに、うちのは無理矢理完食。相当につらそうだった……。無理して食べなくてもよかったのに、と言うと、全部食べて欲しいって言ったのはお前だろ! と。確かにそう言いはしたが。その後、うちのに強請られる侭に珈琲を要れたことで仲直りできた筈だったのに、最後にはやはり上記のように喧嘩。一旦仲直りして食事の話が続いていた訳ではないので、やはり喧嘩の諸悪の根源はPS2某ゲーム。ゲーム中にうちのに話しかけても碌に返事が返ってこない。返ってきても生返事。因って話が深まると、何? もっかい最初から言って、などと言いやがる。今迄の返事は何だったのかと小一時間(以下略。昨日は真面目な相談をしていたのでそれで喧嘩となった。腹が立つのでデータを全部消してやろうか、と思いついたが余りに大人げないので我慢。今日帰宅しても、向こうが謝ってくる迄は無視を決め込む予定。これはこれで大人げないか。いや、データ処分よりはマシだから良しとする。
一昨日は入浴をし、先日の日記に書いた通りに草食動物の爪切りをしてもらう為、かかりつけの動物病院へキャリーに入れて連れて行った。行きしに狭い原っぱがあり、そこでうちの草食と同じ種が伸びていた。連れていたのはカップル。話しかけてちょっと触らせてもらう。その仔の年齢はうちの草食と同じだったけれど、うちのより一回り小さい。グレーの大人しいかわいい仔だった。有難う、とお礼を言って動物病院へ。爪を切ってもらい、ついでに歯の伸び具合もチェックしてもらう。干草克服効果か、非常に順調だと言ってもらえた。良き哉、良き哉。そして雑食動物の次の餌について相談。私なりに調べたリストを持って行き、セーフラインを教えてもらい、その中の一社は市販品だけでなく動物病院だけに卸している餌もある、と。そこのと別もう一社のサンプルをもらい、今迄の餌がまだあると言うのでそれを買って帰宅……する前に。原っぱに行きしにいた草食が、もういなくなっていた。犬の散歩にはまだ早い時間。リードを忘れてしまったので暫し逡巡した後、コンビニで缶ジュースを買って原っぱのベンチに腰を下ろし、草食を放ってみた。家でケージ飼いしているので、そう速くは走れまい、と踏んでのこと。放すと草食は跳ねては止まって雑草を食し、跳ねては止まって雑草を食し。その様子を私はベンチでジュースを飲み煙草を吸いつつ、常に目と手の届く範囲で見守っていた。もっと広い原っぱなのに、小一時間程かけて、草食は普段住んでいるケージの4倍程度の範囲をぐるーっと一回りして足元に戻ってきた。些細な幸せ。家では懐いていないようにしか思えない素振りばかりしていても足元に戻ってきてくれた。じーん……。調子に乗って、膝の上に乗せてみた。反抗しない。じーん……。犬を散歩に連れてくる人が多くなったこともあり、リードなしの無神経DQN飼い主に遭遇しない前に帰宅、帰宅後も草食の興奮は続いていたようで、トイレでない場所で小用を足したのはご愛嬌。私の足元に戻ってきてくれたことの嬉しさで、処理の面倒さはチャラだ。
以前、草食をそこに連れて行って散歩させようとしたことがある。そのときは固まって動かなかった。リードをつけていたことが敗因か、それともDQNな飼い主が犬が草食に走り寄るのを、あらあら可愛いわね、などと止めずに草食を怖がらせたのが敗因か。その後、犬のDQN飼い主怖さに草食を散歩に連れて行くことは殆どなくなったけれど、昨日の様子を思えば時間帯を選んでノーリードでなら大丈夫そうな気がした。暖かくなってきたし、また連れて行こう。私自身も日向ぼっこはちょっと気持ちよかった。通りかかった人に、かわいい、と草食が褒められたことでもご満悦也。こんないい気分の日。最後の最後でケチがついたのが悔しいったらない。ネトゲで家庭崩壊という話は聞いたことがあったけれど、まさかただのPS2でこんな危機に陥ろうとは。郵便物などの危機管理よりも、家庭内の危機管理の方が大切なのか? そんな家、イヤだなあ。仲良きことは美しき哉。武者小路実篤。
昨日の服装/セレクトショップの白いオフタートルカットソー+コキュのパステルパープル5分袖ワッフル地トレーナー+i.sのピンクのパンツ+ビルケンの青い靴
昨日うちのが仕事から帰宅し、食事をしたときからちょっと機嫌が悪かった。うちのの機嫌を損ねたのは私が原因。幾らなんでも多過ぎか? という量の料理をうちのの器に持ってしまったから。うちのは、残していい? と訊いてきた。別に残されても構わなかったのだけれど、不味かった? 全部食べて欲しかったなあ、と言ってみた。あくまで、言ってみただけで断じて強要はしていない。なのに、うちのは無理矢理完食。相当につらそうだった……。無理して食べなくてもよかったのに、と言うと、全部食べて欲しいって言ったのはお前だろ! と。確かにそう言いはしたが。その後、うちのに強請られる侭に珈琲を要れたことで仲直りできた筈だったのに、最後にはやはり上記のように喧嘩。一旦仲直りして食事の話が続いていた訳ではないので、やはり喧嘩の諸悪の根源はPS2某ゲーム。ゲーム中にうちのに話しかけても碌に返事が返ってこない。返ってきても生返事。因って話が深まると、何? もっかい最初から言って、などと言いやがる。今迄の返事は何だったのかと小一時間(以下略。昨日は真面目な相談をしていたのでそれで喧嘩となった。腹が立つのでデータを全部消してやろうか、と思いついたが余りに大人げないので我慢。今日帰宅しても、向こうが謝ってくる迄は無視を決め込む予定。これはこれで大人げないか。いや、データ処分よりはマシだから良しとする。
一昨日は入浴をし、先日の日記に書いた通りに草食動物の爪切りをしてもらう為、かかりつけの動物病院へキャリーに入れて連れて行った。行きしに狭い原っぱがあり、そこでうちの草食と同じ種が伸びていた。連れていたのはカップル。話しかけてちょっと触らせてもらう。その仔の年齢はうちの草食と同じだったけれど、うちのより一回り小さい。グレーの大人しいかわいい仔だった。有難う、とお礼を言って動物病院へ。爪を切ってもらい、ついでに歯の伸び具合もチェックしてもらう。干草克服効果か、非常に順調だと言ってもらえた。良き哉、良き哉。そして雑食動物の次の餌について相談。私なりに調べたリストを持って行き、セーフラインを教えてもらい、その中の一社は市販品だけでなく動物病院だけに卸している餌もある、と。そこのと別もう一社のサンプルをもらい、今迄の餌がまだあると言うのでそれを買って帰宅……する前に。原っぱに行きしにいた草食が、もういなくなっていた。犬の散歩にはまだ早い時間。リードを忘れてしまったので暫し逡巡した後、コンビニで缶ジュースを買って原っぱのベンチに腰を下ろし、草食を放ってみた。家でケージ飼いしているので、そう速くは走れまい、と踏んでのこと。放すと草食は跳ねては止まって雑草を食し、跳ねては止まって雑草を食し。その様子を私はベンチでジュースを飲み煙草を吸いつつ、常に目と手の届く範囲で見守っていた。もっと広い原っぱなのに、小一時間程かけて、草食は普段住んでいるケージの4倍程度の範囲をぐるーっと一回りして足元に戻ってきた。些細な幸せ。家では懐いていないようにしか思えない素振りばかりしていても足元に戻ってきてくれた。じーん……。調子に乗って、膝の上に乗せてみた。反抗しない。じーん……。犬を散歩に連れてくる人が多くなったこともあり、リードなしの無神経DQN飼い主に遭遇しない前に帰宅、帰宅後も草食の興奮は続いていたようで、トイレでない場所で小用を足したのはご愛嬌。私の足元に戻ってきてくれたことの嬉しさで、処理の面倒さはチャラだ。
以前、草食をそこに連れて行って散歩させようとしたことがある。そのときは固まって動かなかった。リードをつけていたことが敗因か、それともDQNな飼い主が犬が草食に走り寄るのを、あらあら可愛いわね、などと止めずに草食を怖がらせたのが敗因か。その後、犬のDQN飼い主怖さに草食を散歩に連れて行くことは殆どなくなったけれど、昨日の様子を思えば時間帯を選んでノーリードでなら大丈夫そうな気がした。暖かくなってきたし、また連れて行こう。私自身も日向ぼっこはちょっと気持ちよかった。通りかかった人に、かわいい、と草食が褒められたことでもご満悦也。こんないい気分の日。最後の最後でケチがついたのが悔しいったらない。ネトゲで家庭崩壊という話は聞いたことがあったけれど、まさかただのPS2でこんな危機に陥ろうとは。郵便物などの危機管理よりも、家庭内の危機管理の方が大切なのか? そんな家、イヤだなあ。仲良きことは美しき哉。武者小路実篤。
昨日の服装/セレクトショップの白いオフタートルカットソー+コキュのパステルパープル5分袖ワッフル地トレーナー+i.sのピンクのパンツ+ビルケンの青い靴
≠現実的ドリーム。ここ最近、見る夢見る夢、悉くディテールが細かくてしかも起きたときに記憶に残っていて、寝ても休まって気がしない。昨夜は一晩中私は寝たまま殆ど笑っていたらしく、ときどきふて腐れていたとか。笑っていたときの夢は、私が「タモリ倶楽部」に出演している夢。近所の公園に中が見える籠状のゴミ箱が設置されており、そこに1万円札のみが入っている。躊躇なく拾う私にカメラが近づき、やっぱり拾う人っているんですね〜、とタモリとその隣で笑うみうらじゅん。この手の素人弄り番組ではないし、起きていて多少なりとも分別のあるときの私ならそんな形でテレビになんか出たくない。なのに喜び勇み且つ舞い上がっていたらしく、某うぷろだに、今週の「タモリ倶楽部」に出てます! 誰かキャプきぼん! と浮かれ捲ってリクエストしていた。あくまで夢の中で。このときにもし眠剤が入っていたら小人さんが書き込みしていたかも。恐怖、妄想暴走DQNだ。鬱。その次に見た夢は、男性芸能人が登場していたけれど内容が内容故に匿名で。その某芸能人が新興宗教の布教活動にやたら熱心で、法被を着て近所の銀行でティッシュや洗剤を配っていた。その熱心さがツボに嵌って大笑いしていたらしい。寝ながらにして頻りに笑う私が、うちのには怖かったようだ。一晩中、笑っていた訳ではない。寝始めて最初に見たのは、うちのからプレゼントされたブレスレットをなくしてしまい必死で探す夢。この夢が物凄く現実的で、ことの成り行きから説明。昨日の私は休薬日として眠剤もその他の薬も一切の飲まなかった。当然寝つきが悪い。なかなか寝付けずにアクセサリーの整理を始めて、ふと気付くとブレスが……。必死で探しているときに目が覚めて、ああ夢だったのか、と。その次は、やはりなかなか寝付けずにその中で強盗が入りそうだと第六感の働いた私が貴重品の整理を始めた夢。私のとっての貴重品……某バンドのCDなどの音源やビデオ集。冷静に考えたら、通帳や判子を管理すべきだが、夢の中の私の貴重品はあくまでそれら音源だったらしい。そして見当たらない音源を必死で探していた。そして音源等を収納するのに今は手元にない鞄を使おうと、クローゼットを引っ掻き回してその鞄を探していた。ブレス探し及び鞄探しの夢は寝入り端に見たもので、前提に、寝つきが悪く寝るのを諦めて何か行動を始め……ってところにリアリティがあった。このときの不安感を、熟睡していたうちのは知らない。その後見た笑い転げる夢だけを、うちのが起きた状態で見て、ずっと笑ってて気持ち悪い、と起こされた。
そのとき、私は不機嫌だった。起こされただけでも不機嫌なのに、起こされる直前に見ていた夢がまた私を不機嫌にさせるものだった。。先日、うちのに顔剃り用のT字剃刀を購入してくるよう頼まれた。これは事実。で、私が買ってきたのは男性用剃刀の中で最も強力そうな4枚刃の物。よく解らないのだが、2枚刃より3枚刃、3枚刃より4枚刃の方が強そうだからこれにした。うちのは100均で3セット100円で売っている程度の安物でよかったらしい。安物を買ってきて文句を言われるならともかく、ちょっと良さそうな物を買ってきてぐだぐだ言われるなんて如何なものか。しかも夢の中で、その剃刀使ってみたいから貸して、と言う私にうちのは、おまいが使ったらもう俺は使わん! と。諦めて食事の支度をすべくキッチンに立った私の背にうちのから、今は使っても黙認するつもりでいたのになー、と。なんじゃそりゃ! ムカーッ!! ってとこで起こされたので超不機嫌な私。不機嫌理由を訊ねられ、だって剃刀貸してくれないって言ったもん! と。うちのは呆れつつ困っていた。夢と現の区別、相変わらずついていない。どこの餓鬼んちょか。しかも眠気は続いており、起こされたこと自体にも立腹。そんな私にうちの曰く、今晩また寝られるんだから。お説、ご尤も。
ではこれをきっかけに頑張って起きて、睡眠リズムを整えようかと日付が変わる前に眠剤を投入し、キリのいいところでネットから離れて布団へ。……寝られん。まず蛍光灯が煌々、テレビの音も煩い。テレビのボリュームを下げてくれ、とケラよろしく言い、蛍光灯も消して部分的ライティングに変えてもらった。まだまだ起きているつもりだったうちのにしては、かなりの配慮だろう。でも。テレビの音と相俟ってうちのがPCで聴く音楽が煩い。私は寝たいんですけど! ヘッドフォンを貸そうか? と言うと止めてくれた。私はうちのが布団に入ったらキーボードを叩く音以外は極力排除するように心掛けている。テレビを消し、PCの音源も止め、やっと静かに寝られるかと思いきや、PS2でゲームを始めやがった。音量は小さいけれど銃撃の音はやはり気になるし、何よりも画面に映る光が部屋にもカメラのフラッシュ状に瞬く。そんな中でどうにか眠りに落ち……3時間半でトイレに起きて目が覚めてしまった。さっきずっと止めていたドラールを入れて、現在睡魔待ち。誰も悪くない。強いて言えば私の睡眠の質が悪い。持って行き場のない憤りが沸々と。この後2度寝して、その沸々が収まるといいのだが。
それにしてもここのところ、うちのとタイミングがズレることが頻繁に起きている。例えば、夕食の支度や下拵えが済んでいるのに、飲み会に出ちゃってこのまま2次会に行ってきます。前以って言え! しかもその飲み会は送別会ばかり。いつも1次会だけで帰宅する予定で挑むらしい。なのに気付いたら2次会へ。それはいいとする。仕事上の付き合いも大切だ。だがしかし、煮込み料理ならともかく麺類や炒め物は調理及び下拵え後にそんな連絡を貰うと困る。むしろ迷惑。今後は23時半迄には連絡してくれるよう頼んだけれど、守ってもらえるやらどうやら。過去の経験からして、この約束はまず守られまい。暗雲張り捲り。そして昨日、うちのの外出中に入浴をした。いつも、風呂入ってないし……で外出したがりのうちのの誘いを断り続けることに申し訳なさを感じていたから。そしたら、明日仕事なんだよ、ごめん。前以って言っておけ! 仕方がないので開院時間内に目覚めたら草食動物の爪切りにでも連れて行こうかと。ところで。他者の寝言に返事をするのは宜しくないと言われている。迷信的解釈からすれば、寝言に返事をされると夢と現の区別がつかなくなりアッチに逝ってしまう可能性があるからとか。科学的解釈では、寝言に返事をされると脳の疲れが取れず、寝起きスッキリとはならないとか。うちのは笑い声が大半を占めていた寝言に返事はしていないだろう。笑い声に返事なんてしようにも難しかろうし。でも昨日の朝は全く疲れが取れていなかった。迷信的解釈論に乗るつもりはない。単に、寝入り端からリアルに続いてもおかしくない夢を見ていたせいで夢と現実がごっちゃになって途中でかなり混乱してしまったことと、夢毎の断眠の多さが原因かと想像している。夢と現の区別がつかないのは、幾ら寝起きだけとはいえども芳しくない。
世間との交流を持つべきか、と考えてうちのと私の今後の仕事について話し合った。無記名ライターとしてなら振れる仕事はなくないけれど、あんたの文章はテクニック不足、とバッサリ。ここで言うテクニックとは、自我を殺して雑誌のテイストに合う文章を書く技術のこと。私の我の強い文章では、相当な訓練が必要らしい。昔私がいたジャンルでも雑誌テイストに合わせることは無記名ライターに最も求められていたことで、できない訳ではない。けれど、今迄と遠いまたメジャーなジャンルの雑誌では当時築いたテクでは未熟らしい。当分はまだ社会からの隔離生活が続きそうだ。一瞬、社会復帰したくなったのにその気はもう削げた。早っ!
そのとき、私は不機嫌だった。起こされただけでも不機嫌なのに、起こされる直前に見ていた夢がまた私を不機嫌にさせるものだった。。先日、うちのに顔剃り用のT字剃刀を購入してくるよう頼まれた。これは事実。で、私が買ってきたのは男性用剃刀の中で最も強力そうな4枚刃の物。よく解らないのだが、2枚刃より3枚刃、3枚刃より4枚刃の方が強そうだからこれにした。うちのは100均で3セット100円で売っている程度の安物でよかったらしい。安物を買ってきて文句を言われるならともかく、ちょっと良さそうな物を買ってきてぐだぐだ言われるなんて如何なものか。しかも夢の中で、その剃刀使ってみたいから貸して、と言う私にうちのは、おまいが使ったらもう俺は使わん! と。諦めて食事の支度をすべくキッチンに立った私の背にうちのから、今は使っても黙認するつもりでいたのになー、と。なんじゃそりゃ! ムカーッ!! ってとこで起こされたので超不機嫌な私。不機嫌理由を訊ねられ、だって剃刀貸してくれないって言ったもん! と。うちのは呆れつつ困っていた。夢と現の区別、相変わらずついていない。どこの餓鬼んちょか。しかも眠気は続いており、起こされたこと自体にも立腹。そんな私にうちの曰く、今晩また寝られるんだから。お説、ご尤も。
ではこれをきっかけに頑張って起きて、睡眠リズムを整えようかと日付が変わる前に眠剤を投入し、キリのいいところでネットから離れて布団へ。……寝られん。まず蛍光灯が煌々、テレビの音も煩い。テレビのボリュームを下げてくれ、とケラよろしく言い、蛍光灯も消して部分的ライティングに変えてもらった。まだまだ起きているつもりだったうちのにしては、かなりの配慮だろう。でも。テレビの音と相俟ってうちのがPCで聴く音楽が煩い。私は寝たいんですけど! ヘッドフォンを貸そうか? と言うと止めてくれた。私はうちのが布団に入ったらキーボードを叩く音以外は極力排除するように心掛けている。テレビを消し、PCの音源も止め、やっと静かに寝られるかと思いきや、PS2でゲームを始めやがった。音量は小さいけれど銃撃の音はやはり気になるし、何よりも画面に映る光が部屋にもカメラのフラッシュ状に瞬く。そんな中でどうにか眠りに落ち……3時間半でトイレに起きて目が覚めてしまった。さっきずっと止めていたドラールを入れて、現在睡魔待ち。誰も悪くない。強いて言えば私の睡眠の質が悪い。持って行き場のない憤りが沸々と。この後2度寝して、その沸々が収まるといいのだが。
それにしてもここのところ、うちのとタイミングがズレることが頻繁に起きている。例えば、夕食の支度や下拵えが済んでいるのに、飲み会に出ちゃってこのまま2次会に行ってきます。前以って言え! しかもその飲み会は送別会ばかり。いつも1次会だけで帰宅する予定で挑むらしい。なのに気付いたら2次会へ。それはいいとする。仕事上の付き合いも大切だ。だがしかし、煮込み料理ならともかく麺類や炒め物は調理及び下拵え後にそんな連絡を貰うと困る。むしろ迷惑。今後は23時半迄には連絡してくれるよう頼んだけれど、守ってもらえるやらどうやら。過去の経験からして、この約束はまず守られまい。暗雲張り捲り。そして昨日、うちのの外出中に入浴をした。いつも、風呂入ってないし……で外出したがりのうちのの誘いを断り続けることに申し訳なさを感じていたから。そしたら、明日仕事なんだよ、ごめん。前以って言っておけ! 仕方がないので開院時間内に目覚めたら草食動物の爪切りにでも連れて行こうかと。ところで。他者の寝言に返事をするのは宜しくないと言われている。迷信的解釈からすれば、寝言に返事をされると夢と現の区別がつかなくなりアッチに逝ってしまう可能性があるからとか。科学的解釈では、寝言に返事をされると脳の疲れが取れず、寝起きスッキリとはならないとか。うちのは笑い声が大半を占めていた寝言に返事はしていないだろう。笑い声に返事なんてしようにも難しかろうし。でも昨日の朝は全く疲れが取れていなかった。迷信的解釈論に乗るつもりはない。単に、寝入り端からリアルに続いてもおかしくない夢を見ていたせいで夢と現実がごっちゃになって途中でかなり混乱してしまったことと、夢毎の断眠の多さが原因かと想像している。夢と現の区別がつかないのは、幾ら寝起きだけとはいえども芳しくない。
世間との交流を持つべきか、と考えてうちのと私の今後の仕事について話し合った。無記名ライターとしてなら振れる仕事はなくないけれど、あんたの文章はテクニック不足、とバッサリ。ここで言うテクニックとは、自我を殺して雑誌のテイストに合う文章を書く技術のこと。私の我の強い文章では、相当な訓練が必要らしい。昔私がいたジャンルでも雑誌テイストに合わせることは無記名ライターに最も求められていたことで、できない訳ではない。けれど、今迄と遠いまたメジャーなジャンルの雑誌では当時築いたテクでは未熟らしい。当分はまだ社会からの隔離生活が続きそうだ。一瞬、社会復帰したくなったのにその気はもう削げた。早っ!
異化、について学生時代に講義を受けた。確か半期。最後に提出するレポートで100点を取った。テストではなくレポートで100点だったのはちょっとした自慢。些細過ぎ。レポートのテーマは、自分が異化を感じたとき。異化と違和感は別物だ。この違いが理解できているかどうかが、きっとレポート採点基準だったのではないだろうか。私が書いた、異化を感じたとき。それは、松尾貴史が仮性包茎だと知ったとき、のことだった。以前にも書いたけれど、松尾は外見的にかなり理想の男性像に近い。その理想に限りなく近い男性がこともあろうに仮性包茎だったと知った瞬間。その瞬間を経て私の目に松尾がどう違って映るようになってしまったかをペラ4枚ぎっしり書いた。どうしようもない莫迦者だ、私。この講義の講師は男性。もしその講師が真性包茎だったら、このレポートは0点だったかもしれない。もしかしたら講師がズル剥けで、松尾への優越感からくれた100点だったのかもしれないけれど。ともあれ、洒落の通じる講師で良かった。別の講義では夏休みの課題として、自分で主題を見つけてノンフィクションを執筆、というのがあった。この講義は受講者が少なく、しかも受講していた殆どの学生が親や祖父母について書いてきた。なんでそんなありふれたテーマを選ぶのか、当時の私には解らなかった。今は解る。身近だからだ。けれど身近な人物のノンフィクションを書くには気をつけねばならない落とし穴がある。距離感の取り方に失敗すると、その作品はノンフィクションとしては成り立たず、ともすれば聞き書きになってしまう。このとき私が書いたのは、某競走馬について。未成年・学生は賭博禁止なのに敢えて。あの教授も私の競馬好きに理解があった。後日、JRAのカレンダーをくれたり。その時期、私は毎週のように場外馬券場や競馬場に通っており、親や祖父母よりも思い入れのある某競走馬の方が余程身近な存在で且つ引退したてだったこともあり、文献も豊富で書き易かった。競馬から離れた現在も、この某競走馬のダービーのパネルはまだ手元に保存している。
高校時代、現代国語の授業で小説を書かせられた。私は稚拙なエロ小説を書いて提出。良い評価はくれたものの、この教師は私の意図していない部分を読み取ろうとしたらしく、見当違いなコメントを書いてきた。人物描写がもっとあるとよかったですね。私の性描写が稚拙だったからか、それともわざと外して、学生が書くに相応しくあるべき小説、と強引に読んだのか。この教師は産休間近の女性だった。小説なら何を書いてもよかったのに、何故にエロ小説だったか。単なる嫌がらせである。やっぱり莫迦だ。けれどあのときエロ小説を書いた経験が、社会人になって一時期は仕事として成り立つことに。世の中、何がどう転ぶか解らないものだ。英語で作文を書かされたこともあった。そのときは上記某競走馬の有馬記念について書いた記憶が。これには苦労した。まず日本語で文章を作る。ここ迄は簡単。あっという間。しかし悲しき哉、私は泪を禁じ得ない程に語学力がなかったので英訳するのにほとほと苦労。そして和英辞典には競馬に纏わる単語なんか殆どないときたものだ。もっと簡単なものを書けばよかった。と、学生時代に書いたものを思い返して気付いたこと。私は当時、義務感から何かを書いたことはなかった。宿題だの課題だのであっても、そのときどきで好きなことだけ、書きたいことだけを書いていたのだ。義務感によるやっつけ仕事だったのはペラ2枚迄。ペラ2枚くらいならパッと思いついたことを書いてしまえば埋まってしまうから、結果としてやっつけ仕事となっていた。私は長文でなければ構成や編成や言葉を余り弄らずに、最初に思いついたままに書き綴ってしまう。そしてその方が弄くり回して作る作品よりも出来がよかった。
それが通用しなくなったのは社会人になってから。短文で表現することの難しさを移動する職場毎に味合わされた。10〜15文字程度に必要事項を盛り込みつつ、読者に印象付けるキャッチをつけるとき。ペラ1枚程度で全貌を掻い摘んで説明しなければならないとき。100wもないキャプションを数十本も書く中で、持ち得る語彙を駆使しつつ単語が被らないようにしなければならないとき。長文でも苦労はあった。同じ物事について文体を変えて何本も書かなければならないとき。あの当時の仕事は大変だった。専門分野ではないレイアウトを組む方が楽に感じたくらいだった。文体を変える、というのは割と得意なつもりだったのにダメ出し喰らい捲り。ひとりの人間が書いているので、何処かに似た言い回しやフレーズが滲んできてしまう。あからさまに同じ言葉を使っていないにも関わらず、滲み出る何か、があるのだ。パスティーシュ名人の清水義範はやっぱり凄い。職人芸だ。そして私の文章はそのような職人芸には遥かに届かない。追いつかない、とかそういう問題ではなく、資質として持ち合わせていないらしいことがよく解った。因って転身。記名原稿は楽。自分の得意な言い回しやフレーズを使い放題。しかもそれが個性となる。無記名ライターは軽く見られがちだけれど、経験として無記名だった頃の方がキツかった。個性のない文章こそ、あらゆる文章の中で最も技巧を求められる。その辺を解っていない無記名ライターは嫌いだ。仕事を舐めていると思う。これは私がライター業を始めたのは後のことであり、編集者として育った所為だろう。私が、舐めてやがる、と感じるような無記名ライターも実は懸命なのかもしれない。それでもこっちが納得できない、大きくリライトしなければならない、むしろ自分で書いた方がマシ、程度の原稿しかあげてこられないライターにギャラを出したくなかった。ギャラの出所も自腹ではないのに。金に値するだけの仕事をしろよ、と。そしてそんな輩に限って、ライターでござい、と言わんばかりの振舞い。対価の仕事をしてくれ。
書いていて何だか現役気分になってしまった。とうに離れた場所なのに。記名でまた仕事ができればなあ、と思う。編集者としてはきっともう復帰不可能。編集者の必須能力の中には体力が占める割合が大きい。体力がなくても若ければ気力で乗り切れる。今はきっと気力で乗り切ろうとしたら倒れるだろう。もの淋しい話である。記名で仕事をするとしても、締め切りを守れる自信がもうない。昔から締め切り破りでは少なくなかったけれど。日記はとても楽。記名ライティングよりも楽。ギャラが発生しない分、無責任でいられるから。なのに今この、黒猫、というHNで書いている、恋は相剋の家で、という日記に縛りができてしまっている。長文主義。文体統一。これ迄の日記で文体というか、ノリを変えているのは1〜2回だけの筈である。実験的に且つ練習としていろんな文体で書こうと思っていたのにこの始末。歪んだ完璧主義の所為か、私の元々の気質の所為か。実験的文章を書きたい気はまだあるのだが、だがしかし。ここで何かを確立できるか、それともこのまま楽な方法論で終わるのか。終わりたくはないけれど、ここで短文を書くことに抵抗感を拭えなくなっている。きっと同ペースで続け過ぎたからだろう。ちょっと考えよう。
高校時代、現代国語の授業で小説を書かせられた。私は稚拙なエロ小説を書いて提出。良い評価はくれたものの、この教師は私の意図していない部分を読み取ろうとしたらしく、見当違いなコメントを書いてきた。人物描写がもっとあるとよかったですね。私の性描写が稚拙だったからか、それともわざと外して、学生が書くに相応しくあるべき小説、と強引に読んだのか。この教師は産休間近の女性だった。小説なら何を書いてもよかったのに、何故にエロ小説だったか。単なる嫌がらせである。やっぱり莫迦だ。けれどあのときエロ小説を書いた経験が、社会人になって一時期は仕事として成り立つことに。世の中、何がどう転ぶか解らないものだ。英語で作文を書かされたこともあった。そのときは上記某競走馬の有馬記念について書いた記憶が。これには苦労した。まず日本語で文章を作る。ここ迄は簡単。あっという間。しかし悲しき哉、私は泪を禁じ得ない程に語学力がなかったので英訳するのにほとほと苦労。そして和英辞典には競馬に纏わる単語なんか殆どないときたものだ。もっと簡単なものを書けばよかった。と、学生時代に書いたものを思い返して気付いたこと。私は当時、義務感から何かを書いたことはなかった。宿題だの課題だのであっても、そのときどきで好きなことだけ、書きたいことだけを書いていたのだ。義務感によるやっつけ仕事だったのはペラ2枚迄。ペラ2枚くらいならパッと思いついたことを書いてしまえば埋まってしまうから、結果としてやっつけ仕事となっていた。私は長文でなければ構成や編成や言葉を余り弄らずに、最初に思いついたままに書き綴ってしまう。そしてその方が弄くり回して作る作品よりも出来がよかった。
それが通用しなくなったのは社会人になってから。短文で表現することの難しさを移動する職場毎に味合わされた。10〜15文字程度に必要事項を盛り込みつつ、読者に印象付けるキャッチをつけるとき。ペラ1枚程度で全貌を掻い摘んで説明しなければならないとき。100wもないキャプションを数十本も書く中で、持ち得る語彙を駆使しつつ単語が被らないようにしなければならないとき。長文でも苦労はあった。同じ物事について文体を変えて何本も書かなければならないとき。あの当時の仕事は大変だった。専門分野ではないレイアウトを組む方が楽に感じたくらいだった。文体を変える、というのは割と得意なつもりだったのにダメ出し喰らい捲り。ひとりの人間が書いているので、何処かに似た言い回しやフレーズが滲んできてしまう。あからさまに同じ言葉を使っていないにも関わらず、滲み出る何か、があるのだ。パスティーシュ名人の清水義範はやっぱり凄い。職人芸だ。そして私の文章はそのような職人芸には遥かに届かない。追いつかない、とかそういう問題ではなく、資質として持ち合わせていないらしいことがよく解った。因って転身。記名原稿は楽。自分の得意な言い回しやフレーズを使い放題。しかもそれが個性となる。無記名ライターは軽く見られがちだけれど、経験として無記名だった頃の方がキツかった。個性のない文章こそ、あらゆる文章の中で最も技巧を求められる。その辺を解っていない無記名ライターは嫌いだ。仕事を舐めていると思う。これは私がライター業を始めたのは後のことであり、編集者として育った所為だろう。私が、舐めてやがる、と感じるような無記名ライターも実は懸命なのかもしれない。それでもこっちが納得できない、大きくリライトしなければならない、むしろ自分で書いた方がマシ、程度の原稿しかあげてこられないライターにギャラを出したくなかった。ギャラの出所も自腹ではないのに。金に値するだけの仕事をしろよ、と。そしてそんな輩に限って、ライターでござい、と言わんばかりの振舞い。対価の仕事をしてくれ。
書いていて何だか現役気分になってしまった。とうに離れた場所なのに。記名でまた仕事ができればなあ、と思う。編集者としてはきっともう復帰不可能。編集者の必須能力の中には体力が占める割合が大きい。体力がなくても若ければ気力で乗り切れる。今はきっと気力で乗り切ろうとしたら倒れるだろう。もの淋しい話である。記名で仕事をするとしても、締め切りを守れる自信がもうない。昔から締め切り破りでは少なくなかったけれど。日記はとても楽。記名ライティングよりも楽。ギャラが発生しない分、無責任でいられるから。なのに今この、黒猫、というHNで書いている、恋は相剋の家で、という日記に縛りができてしまっている。長文主義。文体統一。これ迄の日記で文体というか、ノリを変えているのは1〜2回だけの筈である。実験的に且つ練習としていろんな文体で書こうと思っていたのにこの始末。歪んだ完璧主義の所為か、私の元々の気質の所為か。実験的文章を書きたい気はまだあるのだが、だがしかし。ここで何かを確立できるか、それともこのまま楽な方法論で終わるのか。終わりたくはないけれど、ここで短文を書くことに抵抗感を拭えなくなっている。きっと同ペースで続け過ぎたからだろう。ちょっと考えよう。
大変に憂鬱で陰鬱な気分になる事実発覚。岡田斗志夫の声が好みだ……。何故、今日になってこんな事実が発覚してしまったのか。岡田の著作は本としては読んだことがない。「TVブロス」を購入していた頃に連載を読んでいた程度。敢えて避けて通ってきていたのだ。あの、オタクは文化だ、というようなノリがもうイヤでイヤで。確かに最早ひとつの文化と言えよう。しかし、オタク、なノリというのは趣味であり、他者の趣味を満たすべく自らの趣味も兼ねて仕事とする。そんな形でなければならない、と私は思っている。岡田の何がイヤって、オタクの第一人者として大学講師なんかをしてしまっているところだ。嗚呼、イヤだイヤだ。呉智英はいいのだけれど、岡田だと抵抗がある。何故だろう。呉智英には儒教という別の得意分野があるからか? 潔い迄の学歴至上主義だから? 封建主義者だから? 話が逸れた。オタクが嫌いなのではない。むしろ私自身がオタクと分類されるような趣味を持っている。化粧オタクとかの最近ありがちな、今コレに結構嵌っちゃっているからオタクかも? いやーん、でも楽しい、うふっ、というような照れの入った甘々な括りではなく、古典的オタクの趣味の象徴である漫画、そしてアニメ。ずぶずぶの所謂オタクではないけれど、学生時代にはコミケに足を運んだことも。それでも今はいしかわじゅんのような立場でありたい。オタク嫌い。コミケなんて糞喰らえ。数十頁程度の本で幾らオフセット4色とはいえ高いんじゃい! という話ではなく。こう、なんというか、オタクの特権、とでも言おうか、オタクな自分肯定って恰好いい、そんな匂いが嫌いで仕方がない。著作を読んでいないので岡田のスタンスをちゃんと把握している訳ではなく、上記のようなオタクなのかどうかは知らないけれど。
そんなこんなで避けてきた岡田。ずーっと前にうぷろだでDLしたまま放置してた「BSマンガ夜話」に出ていた……。岡田よりも呉智英を出せ! ってのは無理か。夏目房之介と被るし。で、昨日今日で「PINK」「機動警察パトレイバー」「賭博黙示録カイジ」「燃えよペン」「編集王」「ナニワ金融道」の計6回分を観た。じっくりと全画面表示で観た訳ではなく、東風荘の片手間に観ていただけなので、聴いた、と言った方が正確かもしれない。そしてこの番組に於いて岡田はレギュラー。私のツボに嵌る声質。イヤだイヤだ、と繰り返していても話が進まないので内容へ。まず腹が立ったのが「機動警察パトレイバー」の回。司会者やレギュラーに作品への正しい知識がないなら取り上げない方が賢明かと。何故、ヘッドギア、の名前が出てこないのか。オウムを連想させるからではあるまい。それだと「燃えよペン」についてなんて取り上げられないし。いしかわが少しその辺の、複数の人々が携わって作られた作品云々とは言っていたけれど、それについて他の人に詳しい説明を求めていた。苛々。「OUT」を読まずしてゆうきまさみを語るな! 「究極超人あ〜る」「じゃじゃ馬グルーミンUP」を話に出すのはまあいい。でも。なんで「アッセンブル・インサート」が出てこないのかと小一時間(以下略。知識が中途半端なんじゃ! と。素人は語るな、と。いや、私も素人だけれど、テレビという公共の媒体で半端なことをされると苛つくのだ。描写の入れと抜きの話には成程。
「PINK」の回では女性出演者が多かった所為か、男オタク気質が作品に馴染めなかった所為かテンション低め。低いのはいいのだけれど岡崎京子の作品は、読者が語る、ものではないような。読者が岡崎の作品から感じるものはある。その、番組内でもよく使われていた単語で言うところの、気分。それは目から読み、脳で理解し、脳で感想を持ち、そこから言葉として口に出す迄の本当に短い瞬間に違うものと化してはしまわないか。気分とか空気感とか、その手のものを言葉にするのは難しい。けれど何故か、岡崎の読者は語りたがりの傾向が強い。一般人に。私の中では岡崎と桜沢エリカは同列の、トイレで暇潰しに読むもの。この話をして、以前岡崎ファンに桜沢と同列にするな、と叩かれたことがある。絵柄の所為ではなく両者の作品の共通点は、そのときの気分や空気を読むもの、であり、後からいろいろ語る作品ではないと私は今も思う。因みに両者の読者ではあるけれど、取り立てて好きな作家ではない。それにしても岡崎が交通事故に遭ってからどれだけの媒体が特集を組んだことか。商業主義極まれり。げんなりした。
その姿勢を否定するかのような「編集王」。もう皆語っていることが見当外れ過ぎて……。土田世紀、ストーリーは編集者に頼り捲って作品を描いているのは周知の事実ではないのか? この番組の放映は、別冊宝島で漫画家特集を出した前だったか? 調べるのが面倒なので強くは突っ込めないけれど、なんだかなあ、と萎えた。土田の作品を語るときに、作者は何を表現したがっているか、に触れるのはタブーではないのか? と。わざわざテレビで、見当外れなことと誰もが持つ感想ばかり述べるのは如何なものか。マンボ好塚に感動したり、作中作品を読みたいなんて素人でも思うことちゃうんか、と。もうちょっと、そんな見方もあるのか! 的発言が欲しかった。「編集王」は漫画雑誌編集者の話。その漫画雑誌編集者と共に作品を作る漫画家を描いたのが「燃えよペン」。誰だったかが、これを文庫で読むのはつまらない、できれば新聞紙くらいの大きさで読みたい、と言っていた。激しく同意。読後、無駄に熱くなってしまうのにも共感。島本和彦自身、本当に熱い人らしい。コミケで出す作品も、2番手メジャー雑誌掲載作と同じくらい熱いと言う。書き下ろし日捲りカレンダーの存在には笑った。そしてアシスタントも島本並みに熱いとか。この回でのみ、コミケに出入りしている岡田が役に立った。読んでも熱い、語っても熱い、語りを聞いているだけでも熱くなる島本漫画、恐るべし。聞いたままのテンションで今この日記を書いているので、ちょっと熱いかもしれない。まあこんな日があってもいいではないか。今の私はとても熱い。先日、うちのがDQCが何の略かを私から聞いて興奮していたときくらいに熱い。この略については何度も説明したことがあるのに毎回、そうだったのか! と熱くなってくれて面白い。うちのにとって私のDQC正式名称話は、私にとっての島本漫画なのかもしれない。違うって。
日記内表記について。私は漫画をカタカナでマンガと書くことに抵抗がある為、番組名以外は漢字表記。そして「賭博黙示録カイジ」「ナニワ金融道」については全巻所持しておらず、間違ったことを書いてしまう可能性もあるので触れずにおいた。日記内で触れた作品は全て所持及び読破済み。それにしてもこの番組。読んだことがない作品の回を観ても面白いのだろうか。先に書いたように、読んだことがあってもつまらない回もあったのだが。そして他の人は1度フルネームを出したら後は苗字だけで表記したのに対し呉智英だけ違うのは、くれともふさ・ごちえい、どちらで呼んでも構わないと当人が言っており、世間でも呼び方が二分している為。
そんなこんなで避けてきた岡田。ずーっと前にうぷろだでDLしたまま放置してた「BSマンガ夜話」に出ていた……。岡田よりも呉智英を出せ! ってのは無理か。夏目房之介と被るし。で、昨日今日で「PINK」「機動警察パトレイバー」「賭博黙示録カイジ」「燃えよペン」「編集王」「ナニワ金融道」の計6回分を観た。じっくりと全画面表示で観た訳ではなく、東風荘の片手間に観ていただけなので、聴いた、と言った方が正確かもしれない。そしてこの番組に於いて岡田はレギュラー。私のツボに嵌る声質。イヤだイヤだ、と繰り返していても話が進まないので内容へ。まず腹が立ったのが「機動警察パトレイバー」の回。司会者やレギュラーに作品への正しい知識がないなら取り上げない方が賢明かと。何故、ヘッドギア、の名前が出てこないのか。オウムを連想させるからではあるまい。それだと「燃えよペン」についてなんて取り上げられないし。いしかわが少しその辺の、複数の人々が携わって作られた作品云々とは言っていたけれど、それについて他の人に詳しい説明を求めていた。苛々。「OUT」を読まずしてゆうきまさみを語るな! 「究極超人あ〜る」「じゃじゃ馬グルーミンUP」を話に出すのはまあいい。でも。なんで「アッセンブル・インサート」が出てこないのかと小一時間(以下略。知識が中途半端なんじゃ! と。素人は語るな、と。いや、私も素人だけれど、テレビという公共の媒体で半端なことをされると苛つくのだ。描写の入れと抜きの話には成程。
「PINK」の回では女性出演者が多かった所為か、男オタク気質が作品に馴染めなかった所為かテンション低め。低いのはいいのだけれど岡崎京子の作品は、読者が語る、ものではないような。読者が岡崎の作品から感じるものはある。その、番組内でもよく使われていた単語で言うところの、気分。それは目から読み、脳で理解し、脳で感想を持ち、そこから言葉として口に出す迄の本当に短い瞬間に違うものと化してはしまわないか。気分とか空気感とか、その手のものを言葉にするのは難しい。けれど何故か、岡崎の読者は語りたがりの傾向が強い。一般人に。私の中では岡崎と桜沢エリカは同列の、トイレで暇潰しに読むもの。この話をして、以前岡崎ファンに桜沢と同列にするな、と叩かれたことがある。絵柄の所為ではなく両者の作品の共通点は、そのときの気分や空気を読むもの、であり、後からいろいろ語る作品ではないと私は今も思う。因みに両者の読者ではあるけれど、取り立てて好きな作家ではない。それにしても岡崎が交通事故に遭ってからどれだけの媒体が特集を組んだことか。商業主義極まれり。げんなりした。
その姿勢を否定するかのような「編集王」。もう皆語っていることが見当外れ過ぎて……。土田世紀、ストーリーは編集者に頼り捲って作品を描いているのは周知の事実ではないのか? この番組の放映は、別冊宝島で漫画家特集を出した前だったか? 調べるのが面倒なので強くは突っ込めないけれど、なんだかなあ、と萎えた。土田の作品を語るときに、作者は何を表現したがっているか、に触れるのはタブーではないのか? と。わざわざテレビで、見当外れなことと誰もが持つ感想ばかり述べるのは如何なものか。マンボ好塚に感動したり、作中作品を読みたいなんて素人でも思うことちゃうんか、と。もうちょっと、そんな見方もあるのか! 的発言が欲しかった。「編集王」は漫画雑誌編集者の話。その漫画雑誌編集者と共に作品を作る漫画家を描いたのが「燃えよペン」。誰だったかが、これを文庫で読むのはつまらない、できれば新聞紙くらいの大きさで読みたい、と言っていた。激しく同意。読後、無駄に熱くなってしまうのにも共感。島本和彦自身、本当に熱い人らしい。コミケで出す作品も、2番手メジャー雑誌掲載作と同じくらい熱いと言う。書き下ろし日捲りカレンダーの存在には笑った。そしてアシスタントも島本並みに熱いとか。この回でのみ、コミケに出入りしている岡田が役に立った。読んでも熱い、語っても熱い、語りを聞いているだけでも熱くなる島本漫画、恐るべし。聞いたままのテンションで今この日記を書いているので、ちょっと熱いかもしれない。まあこんな日があってもいいではないか。今の私はとても熱い。先日、うちのがDQCが何の略かを私から聞いて興奮していたときくらいに熱い。この略については何度も説明したことがあるのに毎回、そうだったのか! と熱くなってくれて面白い。うちのにとって私のDQC正式名称話は、私にとっての島本漫画なのかもしれない。違うって。
日記内表記について。私は漫画をカタカナでマンガと書くことに抵抗がある為、番組名以外は漢字表記。そして「賭博黙示録カイジ」「ナニワ金融道」については全巻所持しておらず、間違ったことを書いてしまう可能性もあるので触れずにおいた。日記内で触れた作品は全て所持及び読破済み。それにしてもこの番組。読んだことがない作品の回を観ても面白いのだろうか。先に書いたように、読んだことがあってもつまらない回もあったのだが。そして他の人は1度フルネームを出したら後は苗字だけで表記したのに対し呉智英だけ違うのは、くれともふさ・ごちえい、どちらで呼んでも構わないと当人が言っており、世間でも呼び方が二分している為。