以前、入浴等に関して固執的完璧主義だと書いた。それは他の面でも発揮されている。きっと固執的完璧主義なのは悪癖なのだろう。他者に良くないと指摘されるからだ。自分自身は悪癖とは思ってはいないが、手間と金がかかるのが難だとは思っている。入浴の話は手間の一例だ。この固執的完璧主義は0か100かの発想であり、諸事情の症状のひとつだ。パチ屋へ行き、当たると閉店迄粘り尽くして確変保障分まで貰い、当たらなければ帰りの燃料が無くなる迄粘る。粘ると書くと粘り強い長所のようだが少なくとも博打に関しては明らかに短所だ。意地汚く且つ先が見えていない。だから徒歩で行ける範囲のパチ屋にしか行かない。最寄り駅近辺にはパチ屋が一軒も存在しないので二駅先の繁華街迄行く。二駅の範囲は散歩に良い距離だ。と、そんな話が書きたいのではない。固執的完璧主義の話を書こうとしているのであり、18・19日付の日記の続きが書きたいのだ。

 恐らく私はメイクブラシを他者よりも多く所有していると思う。大半が白鳳堂・竹田ブラシの製品であり、通販では無く展示会や取扱店で手に取りつつ選んだ愛用品の数々だ。多く所有しているのは悪いことではないと思っているが、問題がない訳ではない。例えば竹田の広範囲用馬毛シャドウブラシ、全く同じ物が5本。白鳳堂Kシリーズの灰リスチークブラシ、全く同じ物が2本。白鳳堂の玉毛狭範囲シャドウブラシ、全く同じ物が3本。色系統別に使い分けるつもりで同一商品の複数購入をした。無意味……。白鳳堂・竹田ブラシ共に良質な商品を比較的低価格でユーザに提供する良心的な筆屋である。だから愛用している。しかしここ迄良質でなくとも良いのにと贅沢にも思ってしまう。無駄遣いをしてしまった気がしてならない。良質なメイクブラシは一生物とも言われるが、決して一生物ではない。ブラシの寿命は精々10年くらいか。しかも使われずに収納されているブラシは劣化の一途を辿るので7年後には使い物にならなくなっている可能性もある。もう解るだろう。私は各ブラシ、1本しか使用していないのだ。色別に購入する必要性がない程にこれらのブラシは優秀だったのである。質の良いブラシは手の甲やティッシュの上で丁寧に叩けば、使われたパウダーの殆どが落ちる。なので次に別系統の色のパウダーに使おうとも色が濁らないのだ。従って意識的に定期的に無駄に、ブラシ収納ケースからその日に使うメイク用品収納バニティへと交換をする。1本1本は安価でも、ある程度の本数のブラシを買うに金もかかった。そして現在は無駄な手間がかかっている。莫迦だった。けれど、まず1本買って試して……と云うことができないのだ。固執的完璧主義者だから。どんな物でもひとつしか所有していない自分に我慢がならない。

 服飾小物に興味を持ち始め、1ヶ月でベルトを10本以上買った。それ迄は1本も持っていなかったにも関わらずである。友人に阿呆かと言われた。阿呆である。他者が使わないようなアイテムが好きだ。数ヶ月前にループタイを2本買った。阿呆だと言われた。尤もだ。しかも買ってからまだ一度も使っていないときたものだ。阿呆、ここに極まれり。スカーフも然り。一度に3枚購入し、その後2枚購入したものの未だどれも1度も日の目を見ていない。上記ベルトも半分以上は未使用だ。アオザイも2着購入し今も増殖している。ドクターマーチンのブーツもチェリーレッドの8ホールを1足購入してすぐに黒の10ホールを買い足した。因みにドクターマーチンのブーツは可愛いが履き難い。パトリックのスニーカーもうちのに1足プレゼントして貰い、色違いをもう1足自分で買った。こちらは履き易くて良い。今年の流行アイテムのひとつ、アームウォーマーも一気に6組購入。言うまでもなく未使用だ。こうも未使用品が多いのは私が入浴しない限り基本的に着替えない人間だからであり、その入浴そのものの回数が他者よりも格段に少ないからだ。

 衣類等の購入の場の多くはフリーマーケットやネットオークションである。定価で購入する物はデパコスくらいか。私の依存癖は現在衣類及び服飾小物期の真っ只中であり、ネットオークションを多用している。少し前、手作りアクセサリを購入した。チョーカーとピアスのセットである。出品者と少し仲良くなったので同デザインのブレスも作ってもらった。とても可愛くて気に入っている。同デザイン別アイテムを分けて出品する者も勿論いる。私はそれが気に入ったら両方落札しなければ気が済まない。先日もアナスイのスーツをジャケットとスカートで分けて出品されているのを見つけた。当然両方落札させてもらった。片方しか落札出来ていなかったらと思うと怖ろしい。実際にスカート落札後、ジャケット落札迄の時間に予期不安が起きた。以前、ヒステリックグラマーのジャケットとスカートが別々に出品されていたことがあった。これもスカートが先に終了時間を迎える出品だった。スカートは無事落札。当時、私のPCは低スペックのノートだった。私は前以っての入札はしないスナイプ入札派である。ジャケット終了時間が近付き、後は入札ボタンをクリックするだけという瞬間、PCがフリーズした。通常、ネットオークションではまず出品者から落札者にメールで連絡を取る。このときは再起動直後、落札者である私から出品者にメールを出した。フリーズしてスナイプに失敗したことを書き、どうにかジャケットも譲って欲しい旨の交渉である。出品物に入札する者はその商品が欲しくて入札するのである。眠剤で朦朧として無意識に……といった特例は別として。そしてそのジャケット落札者はジャケットだけが欲しかったまともな人だったらしい。私の交渉が失敗に終わったのは当然である。しかし諦め切れなかった。なので同一物が出品されるまで毎日チェックした。数日後に見つかり、しかも即決価格の設定がされていたのは救いだった。予算の倍かかったが。まあそのジャケットは今も愛用しているので元は取れたか。スカートは丈が合わなかったために処分してしまった。矛盾しているようだが一旦はセットで所有できていたので良いのである。その一旦が大切なのだ。理解不能な他者もいる感情だろう。

 私が着替えない着道楽であることはこれ迄に書いた。うちの曰く、お前はユニクロのフリースとパジャマがあればそれで良い、とのこと。良くない。そして着替えない着道楽のクローゼットは既に埋め尽くされどんどん部屋を狭くする一方である。私は狭くても平気だ。うちのは平気ではないらしい。毎日のように衣類の処分を要求されている。仕方がないので先日整理する振りだけでもしようと思ったら、振りではなく本当に小物も含め100点以上の不要物が発掘された。考え方を改めたからである。

 10日付に続く。
 11日付の続きである。

 衣類などの購入の場が安価なフリーマーケットやネットオークションであっても、商品の定価や相場価格は知っている。私は貧乏性なので、自分が払った価格で物の価値を考えない。極端な例として10円で購入した定価10000円の物があったとする。どうも多くの他者はそれが不要だと感じたとき、どうせ10円で買った物だし……と簡単に処分できるらしい。私にはできなかった。これ迄は定価10000円の物だし……と勿体ながっていた。そこを多くの他者の考えに切り替えてみた。すると100点以上の不要物が発掘できたのである。よくテレビや雑誌で整理整頓の達人のような人たちがコツを教授している。専門書籍も複数存在している。達人らの共通のコツは、ひとつ買ったらひとつ捨てる、ということだ。100点以上の不要物の発掘はこの先100点以上の物を買っても良いということに違いない。うちのには絶対に言えない。パッシーンとしばかれるに決まっている。更に説教もされそうだ。被扶養者の立場は激しく弱い。弱者である私は博打も買い物もこそこそとしている。うちのはまだアナスイのスーツの存在にも、複数のアンティークシューズの存在にも、スサデボンボンのコートの存在にも気付いていない筈だ。いや、ネットオークションには共通IDで参加しているので、気付いているがひとつひとつは安価なので見て見ぬふりをしてくれているのかもしれない。もしそうだとしたら一応収納しきれているからだろう。

 18日、年末ライヴのチケットをぴあでどうにか取った。朝10時前に目覚ましをセットし、何度もリダイヤルを繰り返してやっと手続が終了したは11時半近くだった。まだ右腕が痛い。何の公演や試合のチケット発売と重なったかは知らないが、私と同じチケットを取りたかった人たちの為だけならきっと3分で取れたであろう。ほんの少し悲しいような。そんなマイナーバンドのライヴである。来週、来月の頭、年末の中旬と毎月愛しの君を観られるのは嬉しい。ライヴにはあらん限りの気合を入れて行く。お洒落もするしメイクにも2時間だ。ライヴ会場でしか私を見たことが無い人の中にはキュートなお洒落さんだと私への間違った認識を持っている人もいる。ずっと間違っていて欲しい。素の私には引く他者の方が多いのでこの手の間違いは大歓迎である。これは前段落や11・18・19日付の日記から続いている話である。

 クセのある物が好きだと書いた。ひとクセあるといった物も好きだが、ひとクセの範疇を遥かに超えた物も多種多様に所有して居る。いつどこで着るのか、そもそもどうやって着るのか、それは何に使うのか。そんな物が大量にあった。少しは減ったが今もある。それらクセの有るアイテムを使える場ができた。ライヴ会場だ。また最近ファッションを勉強し直していることもあり、やっとそれらの出番が回ってくるようにもなった。いわば以前の私の所有物の殆どは、アクセントになるものばかりだった。アクセントは一箇所だからこそアクセントなのであり、アクセントを複数身に纏うのは只のセンスなき人となりかねない諸刃の剣。日々是勉強。やっと実ってき始めたと感じている。勉強といっても応用を学んでいるのではない。応用から続いていた我が道の幅を広げんが為に基本を学んでいるのだ。まずメイクの勉強によりブルーベースであることが判明したのでイエローベース向けの色は極力避ける、ボリュームのあるボトムにはタイトめのトップを持ってくる、挿し色を使うならここ、など。多くの他者と逆を歩んでいるのかもしれないが仕方がないし、今現在学習しているのでそれでいいと思っている。基本を知らずにはいたが、それでも許容範囲外というものは明らかにあった。例えば挿し色扱いでもないのに靴と鞄の色が違う、ミュールやサンダルとストッキングを併用している、など。我流の許容範囲外設定だと思っていたが、センスの良い友人との会話でやはりこれらはナシだと判明した。一安心。しかしながら巷には私の許容範囲外の恰好をした人間が多くいる。茶色い鞄を持っているのにその黒い靴なんだ! 何故にギャル系トップスにOL系ボトムを合わせる! 私はピーコか。でも本当に多いのだ。年齢を問わず多い。

 安野モヨコのハッピーマニアの番外編でシゲタが服に悩む話がある。シゲタの気持ちが良く解る。ピーコも同じことを言っていたが、ジャンル違いの物を同時に身に付けるのはナシなのだ。安野モヨコはお洒落漫画家として認知されている。ひうらさとるもそうらしい。私の中では中山乃梨子もだ。漫画家自身の服の趣味は知らないが、実はファッション誌よりも漫画の方が役立つ部分がある。安彦麻理絵の短編のひとつにこんな話があった。「○○先生のあの漫画の××のファッション、いつも恰好いいですね」「ああ、あれは△△に載っているモデルの服をそのまま描いているから」。文章のみでは不可能な、絵も伴う漫画ならではの他所からのいいとこ取りである。先々月KISSを立ち読みしていたら、巻頭でのだめのワンピースのモデルとなっているアーノルドパーマーのワンピースが、読者プレゼントとして写真掲載されていた。そのとき編集サイドからの申し入れで二ノ宮知子がのだめにそのワンピースを着せたのか、二ノ宮知子にのだめのワンピースの実在モデルを訊き出して編集が読者プレゼントとしたのかは不明である。ただひとつ判ったのは、実在のワンピースがのだめ着用ワンピースとされていることだ。

 最近になって通称のだめバッグと呼ばれるようになったピアノを模したトートバッグが、楽器屋で前々から取り扱われている。一時期そのトートはのだめ効果で品薄になっていたようだ。非常に可愛いので取り寄せてもらって私も愛用している。安価で実用的で、のだめを知らない他者からも可愛いと褒められるトートだ。一度欲しいと思ったら、手が出ない値段で無い限り私は諦めない。先日やっと安彦麻理絵の漫画に出てきたmilk fedのシンプルなトレーナーをやや予算オーバーしたものの入手できた。欲しいと思ってから数年経っている。その間にやっぱり要らないやと思ったことは無かったのでとても喜ばしい。全体的な雰囲気としては菊ちゃんやツボミのファッションの雰囲気が好きだ。こう書くとフィクションとノンフィクションの区別が付いていないかのようだが、ファッションに於いてはそうではない。漫画家が実在の物からいいとこ取りしているのと同様に、私は漫画からいいとこ取りさせてもらっているだけだ。ファッション誌を読むよりも面白く尚且つ楽をしている。漫画の登場人物も読者も昔と違ってオタク臭を発しているとは限らない。

 先日、主治医のところへ行った。週一ペースの通院が基本だが、体調と気分が優れなかった為、中二週ぶりだった。行くとき、待合室で、帰り道、驚いた。人々がジャケットを羽織りつつも寒そうにしていた。マフラーをしている人もいたし、ブーツを履いている人もいた。そういえば自分自身、最近足元に冷えを感じていたし、出かける際はブルゾンを着ていた。この驚いた話をうちのにしたら「黒猫ちゃん、もう10月も半ばですよ。オレらは年末を見て仕事しているよ」と。10月半ばなのは知っていた。私のPCの隣にカレンダーがあり、それがなければチケットも取れない。ライヴにも行けない。けれど私の中では全て数字でしかなく四季とは切り離されていた。浮世離れも程々にしなければと思わされた。主治医に以前言われた。私の諸事情が無くなるときは四季を感じられるようになったときらしい。

BGM/アルバム「NUM-HEAVYMETALLIC」
 現在11月2日。

 開放された個人サイトのチャットや掲示板に於いて大嫌いな発言がある。「メール出したよ」「メール読んだよ」。これが本当に無神経極まりない物に思われてならない。これに違和感を覚えない者はこの先は読まなくて結構。管理人の意図はともかく、個人サイトは得てして常連同士の馴れ合いとなり易い物である。それでも開放されていれば多くの人がROMをし、また発言したり書き込んだりする。その中で「メール出したよ」「メール読んだよ」という文章が他者に与える印象を考えないのだろうか? 本人たちには、業務連絡的な気持ちでの発言乃至書き込みだと思っているのかもしれない。大間違いである。兎角、www=ワールド・ワイド・ウェブの意味を理解していない者が多過ぎる。半年ROMれ! 行政は至急ネットでの発信者に免許制導入! と訴えたい。私のネット歴は4年強である。PCそのものは仕事の都合上でもっと前から使っていたものの、ネットへの接続及びネットの使い方を教えてくれたのはうちのである。この面に関して、私はうちのに大変に感謝をしている。うちのは私に教えたことで大変な失敗をしたと思っているらしい。そんなうちのをよそ目に、私はずぶずぶのネット依存を満喫している。

 ネット上の数多あるサイトでまず教わったのは、某巨大掲示板である。日記をつけ始めてからは極度に回数が減ったものの、今も出入りしている。私のネチケット……という言葉も今更感が漂って恥ずかしいのでネット・マナーとでもしようか、とにかくそれは某巨大掲示板が基準となっている。まずはROMって雰囲気を読む、自分語りは嫌われる、過去ログには目を通す、煽りや荒らしは放置など。けれども小規模サイトではこれらのマナーが通じないところが多い。その中での際立って読めるのが冒頭の「」二種である。基本的に小規模サイト=内輪サイトとなっている現状にあり、その発言は仲間内ではアリなのだろう。しかしながら仲間内だけでなく、他者の出入りを許可していながら基本的には内輪サイトという物が多く、それらは大体性質が悪い。管理人にはサイト管理能力検定を要求したい。行政なり法人なりはこの検定を早急に用意するように。

 出入り自由な個人サイトのチャットや掲示板に於けるこれらの発言は、たまに発言する者・書き込みする者にどう読めるかを検証していく。チャットも掲示板も開放されたものである。誰もが読め、誰もが発言・書き込みできる。要は多くの人が集まっている場所なのだ。冒頭の「」は、そこでメールという個人的やり取りの存在を公表していることに他ならない。この人たちは個人的にも付き合いがあるのね、で思考停止する人も多いかもしれないが、少し頭を使えばそれだけに留まらない考え方もできてくる。判り易くチャート式で説明しよう。
チャット内・掲示板内でも会話可能なのにメールのやり取りを公表

そこでは書けない内緒話をしていると宣言しているも同様

その内緒話とはどんな内容なのか

内緒にしなければならない必要がある内容なのではないか

自分を含む他の者の悪口ではないか

 これを深読みと一笑するのは能天気な幸せ者か莫迦である。教室内で友人数人と楽しく会話をしているとする。そのときに友人の内のふたりがこそっと内緒話を交わしたのを目にしたとする。気にならないものだろうか? 私ならとても気になる。冒頭の「」にもこの、こそっと、とした雰囲気を感じてならないのだ。実際はリアルでも仲良くしている者同士が今度会う日時を決めようとしているのかもしれない、サイト作成や更新にあたって解らないところを訊くために詳しい者に長文メールで質問・回答をしたのかもしれない。様々な想像ができる。そしてその様々な想像の中に上記チャートのような想像も含まれるのだ。公私混同で楽しいのは当人たちだけであり、その行為が他者を不快にする可能性を秘めていることにも気が付いて欲しい。

 wwwであるからには皆の物である、と私は認識している。それは何かのオフィシャルサイトであっても個人サイトであっても変わらない。皆の物を提供し、管理するのが管理人の役割だと思っている。皆の物として提供する上で最も重要なことは、サイト内での約束事を前以って宣言しておくことではないだろうか? 問題が生じてから後手後手に約束事を設定する管理人が多く感じる。先に設定しておけ。また自分基準が過ぎる管理人も多く感じる。先に宣言しておけ。これらの不出来な管理人の脳内は問題が過ぎ去るのを待ち、過ぎ去ったらそれで良しで終了となっているのも多く感じる。そのときの問題で設定した約束事は明記しろ。そもそもこういった形而上の問題ではない。ホームページの作り方、といったサイトや書籍が多いのがまず問題と感じる。必要なソフトとサイト構成の基礎知識だけ得られれば誰でも簡単にサイト開設できてしまう状況は如何なものか。第三者の目に触れるもの・発言や書き込みを許す場所であることへの定義を頭に叩き込んでから開設すべきではないか。

 個人サイト管理人の多くは自己主張の強い人間である。主張がなければサイトを開設して自らが進んで何かを発信したがることもないのだから断言していいだろう。主張を発信する権利は誰にでもある。私もここでこうして発信しているし、某巨大掲示板などへの書き込みで発信することもある。権利には伴う義務がある。私はここにせよ某巨大掲示板にせよ、明記された約束事は守っている。ある程度空気も読んでいる。個人サイトに於いてはどうか。約束事の明記がない。そして空気が管理人基準なので読むのが困難である。管理人基準結構。しかしながらそれはwwwの定義に基づくものでなければならず、その定義を崩すものであってはならないのではないか。憲法・法律・条令の関係に等しいと私は考える。アダルトサイトなどを除き、世界中に張り巡らされた蜘蛛の糸を辿ることは誰にでも許されている。いわば公道である。その公道には公の道と定義がなされている。その公道上に多くの交差点がある。この交差点が各サイトなのではないか。公道に沿って建てた私宅や私道と勘違いしている者には今一度、自分の場所を見直していただきたい。
 現在11月4日。

 マイスリーとサイレースを入れて眠りに付いたのに3時間で目覚めてしまった。サイレース、意味なし。二度寝をすると今日の予定が狂いそうなのでもうこのまま起きていることに決定。暇なので日記を書く。自分で日記を付け始めてから、他人様の日記も覗かせて貰うことが増えた。私のような活字文体で書いている人は少ない。それはいい。その日の出来事を書いている人が多い。それもいい。それにしても世の中には面白い人が沢山いることが解ってきた。悪い意味で。面白い=莫迦と言い換えられる。悪い意味なので面白い=詰まらないとも言い換えられる。皆が皆、文筆業を営んでいる、または営んでいた訳ではあるまいし致し方ないことではあるが、それにしても失笑を禁じえない日記が数多ある。世の広さを思い知らされる。他人様の日記を読むことで、やはり世の中は大多数の莫迦と少数の利口で成り立っていることがよく理解できてきた。私の考え方は間違ってはいなかったようである。

 莫迦の中でも特筆して性質が悪いのは、自分は面白い人間だと勘違いしている莫迦である。絶対にお近付きになりたくないが、傍で見ている分には面白い……というか、安心感を抱かせてもらえる。やはり莫迦はいい。ある日記で、冒頭に「さっき迄書いていた文章を一度削除して、今、書き直している。さっきまでの文章は詰まらなかったからだ」といったことを書いている人がいた。読み進めた。つまんねー! これよりも詰まらなかったという「さっきまでの文章」とは果たしてどれほど詰まらなかったのだろう。思いを馳せるが私の想像の範疇を超えているに決まっている。またそのような冒頭を付けなければ、ただの詰まらない文章で済むのに、余計な一文の所為でその文章の詰まらなさがまた際立って見える。莫迦って凄い。余計な一文の所為で書いている本人の、これは面白いだろう? という自己満足がありありと見えることに気付いていないらしい。凄い……。ある日記には「ここは○○するところですよ」「これは△△しながら読んでください」などと書かれていた。絶句。書き手が読み手に読み方を強要している。日記にト書きはいらん! 兎角、第三者である読み手を無視した日記が目に付く。書き手は日記なのでそれで良いと思っているのかもしれない。大いなる誤解ではないだろうか? そんな日記ならウェブ上に公開する意味がない。自分のPC内で書け。わざわざ公開するからには何らかの意味を持たせるべきではないかと、私は思っている。

 ネット上で日記サイトをレンタルして付けられる日記とは一体何なのか。友人が一言で的確に表現してくれた。公開オナニー。大正解である。私もここで友人らへの近況報告及び文章訓練を兼ねて公開オナニーしているに他ならない。私にはその自覚があるのでこのような文体で書いているのであり、テーマも公開オナニーとして他者に迷惑がかからないよう選んでいるつもりである。そうでない者を非難する気は全くないので誤解なきよう。ただ、莫迦って面白いな、と思わせてもらっているだけなのだ。公開オナニーの文章に真の意味で面白いもへったくれもない。ましてや読み手の読み方に書き手が口出しするなど、私にとっては禁忌である。日記に限らず、文章表現者はその文章を公開したら最後、読み手に全てを委ねるべきだと私は考えている。物書きとして生活していた以前から変わらないスタンスであり、これが変わることは今後もないだろう。読み手に委ねられない文章には、書き手の甘えと自信のなさが垣間見られる。それは恥ずかしい行為なのだ。

 また日記上での「(笑)」も恥ずかしい物のひとつだと思っている。故・林家三平が額に片手を持っていく、ここは笑うところですよ、のサインに等しいと思う。三平にとってそれは芸風のひとつとして確立されていたのでアリ。しかし素人の公開オナニー日記に於いてそれは如何なものか。お笑い芸人の禁忌のひとつに、自分のネタに自分でウケてしまうというのがある。それに等しく思える。「(笑)」を書いている者にそんな自覚はないだろうが、読み手にはそう受け取れてしまう。私も個人的メールなどでは自己ツッコミとして「(w」を付けることもある。それはメールという手紙にも等しい文章であり、相手が気心知れている相手故だ。誰が読むか判らないここでは、一切そのような表現は使わないことにしている。これでもまだ、書き手としてのポリシーは残っている。

 プライド、というものがある。得てして莫迦はプライドを沢山持っているように思う。莫迦の極み。プライドはひとつでいいのである。多くのプライドを所持している者は、多くの縛りを自分で設定しているに他ならず、またその設定が多いが故にプライドを守りきれず矛盾が生じたりする。本人だけでなく、見ている・聞いている側も恥ずかしい。私のことをプライドのない人間だと勘違いしてる莫迦を数知れず見てきた。そういう人間とは大概疎遠になっている。またプライドと称する物を沢山所有していると公言している者とも疎遠になっている。莫迦だから近付きたくないのである。私のプライドとは、自分が書き綴る文章だけである。その文章に他者がどのような感想を持っても構わない。読み手が何らかの心の動きを持ってくれれば本望だし、見当違いでないケチを付けられれば今後の自分の文章表現に役立つ。他者に何も影響を与えない文章を書くことだけは、私のプライドに傷が付く。日々是精進。

 前述とは違う或る友人が自分のPC内で日記をつけ始めたらしい。彼女は公開するに値しない且つ公開する勇気がない故のPC内日記である。恐らく無自覚であろうが、ウェブ上の日記=公開オナニーと解っているのだろう。彼女のメールはいい意味で女の子らしいメールである。文章力は確かにイマイチかもしれないが、和ませてくれる文章ではある。私は彼女に、PC内日記に自信が付いたら日記サイトをレンタルすることを薦めている。ここでもさるさるでもどこでもいいので、是非とも早く公開して欲しい。読者を和ませる、という私にはない力を持った文章力の持ち主なのだ。かわいい文章を素で書ける彼女の性格が私は好きだ。私はかわいい文章を書こうとすると、かわいく見せようとしている意図が文章中に滲み出てしまい、卑しい文章になってしまう。彼女は文章力に自信がないらしい。はっきり言わせてもらえれば、構成力は確かにまだ足りない。しかしここ最近のメールのやり取りで構成力の向上を、私は感じている。もう一歩でただのオナニーから公開オナニーにできる迄に発展しそうな気配を感じている。友人の成長は、私にとっても嬉しい。

 以前、ここで私の文章の欠点は構成力の弱さだと書いた。友人の現役ライターに読んでもらったところ、それが向上しているとのお褒めの言葉をいただいた。有難い話である。3000文字前後という文字数制限は、構成力を身につけるに適した文字量であるらしい。尤も文字数制限いっぱいに文章を書いている日記にお目にかかったことはないのだが、まあ大多数の日記作者はプロ意識なく書いているのだろうからそれも良かろう。ただ、日記中で自分の職業をライターだと書いていながらネット文体の駄文書き散らかしを目にすると、やはり落胆してしまう。こんな文章力の奴が金を貰っているのかと思うと、我が身が哀れになってきてしまう。早く社会復帰を果たしたいものだ。因みにタイトル前の記号の表情を変えないのも、読み手に先入観を与えるのを避けているからである。
 現在11月6日早朝。

 日々、着々と衣類が増えている。月々の間違いではなく確実に、日々。単純計算で年間365着の衣類及び服飾小物が増えていることになる。365着は大袈裟だが、200近くの物が増えているだろう。非常に楽しく嬉しいが、非常に困ったものである。何度となく書いているが収納場所に限界があるのだ。近頃は本気でレンタルトランクの使用を視野に入れ始めた。近所に24時間出し入れ自由のレンタルトランクが出来たのだ。月々1万弱。微妙な値段故に未だ決断には至っていない。5000円ならすぐさま借りる。1万円オーバーなら諦める。弱、というのが曲者だ。反省。悪いのはその価格設定をしたレンタルトランクのオーナーではない。どこぞのプレスか販売員か? というペースで服を買い続けている私なのだ。危うく他人様を悪者にして自己を正当化するという卑怯な行為に走るところであった。卑怯は嫌いである。この件に関して悪人は明らかに私。

 今日届いた服のひとつに800円で購入したピンク系パープルのクラッシュベロアミニスカートがある。単品使いもダブルボトム使いも可能なスカートだ。購入先はネットオークション。新品且つ値札付きで出品されていたセレクトショップのインポート物である。ネットオークションの決め手は画像にある。商品説明も大事だが、まずは画像が魅力的でなければ人の気を惹くのは難しい。それに気付いた者が増えたのか、昔よりもトルソーを使って画像撮影している出品者が多くなっている。平置きやハンガーにかけて撮影された衣類よりも数段良く見えるし、シルエットも判り易い。私も出品時に使いたいのだが如何せんそのトルソーを置く場所がないので、出品時は仕方なくハンガーに吊るして撮影している。今日届いたスカートはダブルボトム用ミニスカートを物色している中で見つけた物だ。平置きにして撮影されていた。ベロアの質感もよく掴めず迷った。この商品に入札した決め手は画像に写っていた値札である。値札には定価が書かれていた。定価28000円の物が800円から。ネットオークション、万歳! フリーマーケットでもこの定価で新品なら売り手も強気に出るだろうに、何と善良な出品者なのだろう。そしてまた出品タイトルに検索用ブランドも入れておらず、私のように1品1品見ていくような暇人でなければ見つけられなかった品である。私とて毎回そんな手間暇かかる見方をしている訳ではないので本当に運が良かった。届いた商品は画像以上にかわいく十分に満足でき、またこの秋から来春迄と言わず、その次の秋からも活躍させられそうな物だった。私は自他共に認める買い物上手である。

 いい物を高く、安物を安くという買い物は誰にでもできることであり、買い物上手はいい物を安く買うことができる者だ。私はそのひとりである。以前に書いたアナスイのラムレザースーツも5000円程で入手した。他にも材料費の方が高いのではないか? と思える革の1点物コサージュをひとつ50円で幾つか、1点物の手編みの帽子を200円で購入していたりする。我ながら上手い買い物だと思う。その陰にそこそこの値段を出したのに傷物だった商品なども幾つかあるが気にしない。それ以上の問題を前にしては、このような失敗だった買い物も霞んでしまう。それ以上の問題とは、私は何を着ても、それなり、にしか見えないということだ。安物を着てもそれなりに見えるのはいい。けれど高価な物を着てもそれなりにしか見えない。他者にとってはどうでもいいことであろうが、自己満足に基づくファッションを楽しんでいる私にとっては大きな問題である。オリーブデオリーブのスカートを穿いてもコムデギャルソンのスカートを穿いても、トゥアクーのシャツを着てもヴィヴィアンウエストウッドのシャツを着ても変わり映えしないのは余りにも淋しい話ではないか。由々しき問題である。

 通常昼過ぎから夕方に起床する私が、珍しく午前中に目を覚ました。うちのがテレビを付けっぱなしで出社してしまっていた為、目を開けると自然とワイドショーが目に入った。そのときやっていたのは、メイン司会者とコメンテーターがVTRに映されたセレクトショップの店長の着ている服の総額を当てるというコーナーだった。その店長の服装は、ボーダーのパーカーニット+リメイクされた1点物デニムスカート+革ブーツ+フレーム1周にダイヤが沢山付けられたG-Shockもどきの時計、と記憶している。スタジオにはそれらの衣類・服飾小物が実際に置かれていて、回答者が手に取って見ている間にそのコーナーの司会者がひとつひとつに解説を加えていた。ニットはカシミアだかなんだかのオーダー物で〜〜、スカートは1点物で〜〜。回答者の出した答えは40〜60万くらいだったと思う。正解は69万円。何じゃそりゃ。驚いたのはそのトータル金額ではない。ニットと時計の値段である。どう高く見積もってもニットは1万円前後にしか見えなかった。それが10万円だと言う。材質も縫製も良く、着心地もさぞかし良かろう。けれど見てくれは、少なくとも画面越しには1万円前後。時計はあれだけ沢山のダイヤが付けられていながら20万だか30万だか。要はダイヤと言っても屑ダイヤで縁取られている物なのだ。屑ダイヤに囲まれたG-Shockもどきにその値段。ジルコンでいいではないか。いや、それ以前にそんな宝飾の時計そのものを手にするセンスってのがもう……。そのコーナーでは、セレクトショップ店長はファッションリーダー、として取り上げられていたが私の目にはそのセンスはどうよ……と思えてならない服装だった。ニットと時計はいい。スカートとブーツもいい。しかしその4品を同時に身に付けるのはどう考えたってナシだ。その問題として取り上げられる前にも、ふたりのセレクトショップ店長が登場していた。そのうちのひとりがこのようなことを言っていた「普通はナシでも私が着ちゃえばアリになってしまうのが楽しい」。ふむ。自分がちょっと面白みのある恰好をして、それを人に真似られたりするのは楽しいし、ときには優越感を感じたりもする。解る。けれど問題となっていた店長のファッションはどう転んでもナシ。知らない人の恰好がアリでもナシでも私に影響はない。ただ、そのコーナーを見て何を着てもそれなりにしか見えない人が私以外にもいる、しかもファッション業界に身を置いているということに安堵はさせてもらった。そして彼女よりは私の方がマシなセンスの持ち主だと胸を張って言わせていただく。

 nonnoに於けるファッションリーダーはモデルのEMIであるらしい。藤澤恵麻の方が人気は高そうだが、ともかくそう定義されているようだ。前号のnonnoにて、おしゃれリーダーEMIのひとくせコーディネート塾、というコーナーが設けられていた。そのコーナーのトップのキャッチが、一番気になるのはツィッギースタイル、とあった。先々月、もう5年程お世話になっている美容院に髪を切りに行く際に生まれて初めてイメージ画像を持参した。美容師も私のイメージに合っていると賛成してくれ、希望に沿った髪型にしてくれた。因みにその美容師は、似合わないと思ったら絶対に客の言うことに頷かずに別のスタイルを提案する美容師であり、腕もセンスもいいので私は絶対的信用を置いている。今迄はイメージを口頭で伝えるのみで、そのときに有名人の名前も出したこともなかった。そしてその初持参の画像の主は……ツィギー。私の後追いじゃないか! さも自分が流行を先取りしているかのようなことを言うな! と腹が立った。雑誌に怒っても仕方がないのだが。さっき、人に真似られたりするのは楽しい、と書いた。それはあくまで相手が一般人の場合である。ファッションリーダーだのおしゃれリーダーだのにそれをされると、まるで私が後追いしているかのように他者からは見えてしまうだろう。どうにも遣る瀬ない気持ちになるので勘弁して欲しい。予定では1年計画でショ…
 これを記しているのは11月7日。

 昨日、病院の待合室にオッサンがいた。オッサンがいるのはいい。オッサンは嫌でも私の視界に入る場所に座っていた。となると、オッサンの恰好が嫌でも目に入ってくる。うわ……、ケミカルウォッシュでウエストがゴムになって、裾に行くに従って細くなっているジーンズを穿いてるよ……。どこで売ってんだ、それ? と思った。今現在そういったジーンズを売っている店があるとすれば、スーパーの2階より上にある衣料品売り場くらいしか思いつかない。いや、そんなことに思いを馳せる迄もない。オッサンは何年も、もしかしたら何十年もそのジーンズを穿き続けているに違いない。駅近辺を歩く。物凄い肩パッドが入った原色スーツを着て、ティッシュオフもしていないことが安易に想像できるフューシャピンクの口紅を、唇の輪郭よりも明らかに小さく引いたオバハンを見かける。別に上記の例として挙げたふたりが特殊なのではない。自分にとっての、旬の時代を未だに引きずったファッションをしているオッサン・オバハンが大変に多いのだ。もっと判り易い例を挙げれば、カネコイサオ系の恰好をして街を闊歩している白塗りのオバハン。アレだ。

 年齢を重ねる毎に容姿は変わり、似合う物も変わってくる。流行り廃りなどではなく、もっと単純な話である。ファッションメーカーは日々増減し、昔に比べて選択の幅はかなり広がっている。その中で今の自分に似合う物を探すことこそが大事なのだ。全盛期の自分が一番素敵だったと、その頃の自分にしがみついているのは非常にみっともない話であり、傍から見ている者にも恥ずかしさを覚えさせる。その恥ずかしさは、その者が自分の変化・成長に対応し切れていないチャイルディッシュさが与える物だ。歳を重ねることとは、経験を積みそれを基に成長していくことである。その成長を衰えとしか捉えられない者もいる。違うのだ。確かに歳を取れば皺も増え、身体も弛む。しかし内面は豊かになっている筈なのだ。その内面を堂々と表現できるファッションをできている大人は素敵である。

 前に書いた、私が以前の職場で知り合った尊敬できる女性。第2の母親と勝手に心の中で思わせてもらっている女性。彼女はいつも歳相応のファッションをしていた。それは私の年代からしたら無条件にセンスがいいと褒められる物ではなかったが、悪趣味という訳でもなかった。彼女には似合っていた。彼女の内面の輝きを最大限に引き出すファッションをしていた。それは簡単なようでいて、実は難しいことである。私の母親も自身に似合う恰好を心得ている。しかしそれが歳相応かどうかと問われれば、答えに詰まってしまう。似合っているから良しと言えばそれまでだが、年齢相応・内面の表現・センスの全てを網羅したファッションはともかく難しい。上の段落で例として挙げたようなズレた者たちは、これら全てを実現できていない悪い例である。私たちの年代の多くの人間は、そのような悪い例の人々を反面教師にファッションを模索している。

 有名人の中で、いい歳の取り方をしているなと思わせてくれる人たちがいる。人によって評価は変わるであろうが、私にとっては判り易い例として挙げるなら、広末涼子・菅野美穂・永作博美・深津絵里らがそうである。彼女らは若い時分から芸能界に身を置き、視聴者らは10代からの20代・30代となった彼女らの変遷を見てきている。私もその視聴者のひとりだ。彼女らのファッションは、そのときそのときの自分を上手に表現できていると思う。その陰にスタイリストの力が存在しているのは承知だ。言い換えれば、スタイリストにも彼女らの人生・個性などが理解されているのだろう。逆の例となる人たちもいる。敢えて名前を出しはしないが、人生を反映していない若作りの恰好や、個性が活かせていない野暮ったい恰好をしている人たち。そういう人を目にしてしまうと、笑いを通り越して悲しくなってきてしまう。見た目でも芸でも、特筆すべき何かがあってその世界に身を置いている筈なのに、それらが自己表現であるファッションでも活かせていないならば、意味が半減してしまうではないか。

 20代後半。私は今、ファッションやメイクに於いての曲がり角に差し掛かっている。気を付けないと恥ずかしい大人の見本になってしまう。ましてや私の好みは若作りと捉えられかねない物である。フリルやティアードスカートが好きだと前に書いた。危険アイテムである。フリルと括られる形状にもいろいろあり、気を付けて選ばねばならない。ティアードスカートも然り。素材や色や柄に気を遣わなければならない。メイクに於いてブルーベースと判明したことにより、似合う色が判ったのはいい。けれどバリエーションを広げる必要がある。これらを怠ったが最後、他者に、この人の全盛期はこうだったのね……、という印象を与えてしまう。かといって先走って落ち着き過ぎた色や形状に頼る恰好はしたくない。そもそも落ち着き過ぎた恰好は好みではないので、自分自身が楽しくなく意味がない。自身でも楽しみつつ、歳相応のお洒落ができるのが理想である。

 よく、○○は△歳迄または△歳からのブランドだ、などと言っている人がいる。視野が狭いと思う。印象だけで物事を語るのは危険だ。ブランド傾向としてターゲットの年齢層はあるだろう。それでも全ての商品が、その傾向に沿っているとは限らない。いろいろな物を見、いろいろな意見を取り入れ、その中で自分の意に沿った物を取り入れれば良い。また歳相応ではないアイテムとされるものであっても、その1着のみを身に付けて外に出る人はいない。それがワンピースだったとしても、靴下やストッキング、靴、鞄なども共に身に付けるだろうし、上にジャケットやコートやカーディガンを羽織ることもできる。全て含めてのバランスが取れていれば、その中に歳相応ではないアイテムを馴染ませることは可能である。似合う・似合わせるとはそういうことではないだろうか。私の親は50代半ばだが、オゾンの全面プリントジーンズを穿いていたりする。明らかにオゾンのターゲット層から外れている年齢だ。それでもトップスや小物で上手くバランスを取っている。流石は京都の着道楽。表情と同様に、ファッションにも人生経験は滲み出る。心身の成長を衰えと捉えてしまうと、人生はつまらなくなると思う。私は諸事情により今尚、心は成長過程にある。上手く成長し、上手く言葉で恰好で表現できるようになりたい。それが叶ったときこそ、私は堂々と胸を張って、大人になれた、と言えるときだと考えている。

BGM/「羽根物人生」「暗い日曜日」「遺言状放送」など
 これを記しているのは11月14日。

 数年前の夏、母方の実家に親・父親・うちの・私の4人で帰省した。確か3泊4日くらいだったと思う。うちのを連れて行くのは初めてだった。田舎には存命していた祖父と祖母、親の妹夫婦とその子供ふたりがきていたと記憶している。着くなり私はうちのを誘って山道を散歩した。親のいるその場に留まることに息苦しさを感じたからだ。母方の実家は文字通りの田舎であり、山や川や田んぼに囲まれ、車で10分も行けば海がある場所。山沿いに続く道をうちのとふたりで手を繋いで歩いた。付近の説明や子供の頃の思い出話を、うちのに語った。うちのも自分の実家の方の風景を語ってくれた。澄んだ空気。和やかな雰囲気。永久に続きそうな穏やかな自然の中、人っ子ひとりいない道を延々歩いた。かなり歩いた先の橋で折り返した。その橋で昔、蛍がいて親に採ってくれるよう頼んだけれど蛇だったら怖いからと断られた、という笑い話をした。帰りもゆっくりと歩いた。ずっとこの道が続けばいいのにと思った。鮮明な記憶。

 この先、私の記憶は途切れている。誰と何を話し、何を食べ、どこに行ったかが曖昧な蜉蝣のようになっている。なので話は帰宅の前日に飛ぶ。私は台所の食卓で母親の対面で小さくなっていた。私の何かが母親の琴線に触れて怒られたのだ。原因は思い出せないが、とにかく親は怒っていた。いつも通りに人格全否定が続いた。幼少時から母親の怒り方は変わらない。今でも怒るときは人格全否定だ。私が言葉を挟む隙もないスピードでとにかく捲くし立てる。言ったもん勝ち、と言わんばかりの口撃。私はよくも悪くもマイペースな人間であり、自分よりもハイペースな他者や物事には飲まれ易い。なので怒られるときは小さくなって黙っているしかない。それでも責められる。何かを言えば激昂され、黙っていれば何とか言えと怒鳴られる。どちらにしても怒られることに変わりないので、私は小さくなって黙って泣きながら時が過ぎるのを待つしか術がなかった。このとき、祖父と祖母がどこにいたかは覚えていない。父親とうちの、母方の妹とその子供たちは居間にいたと記憶している。誰も母親を止めにはこなかった。母親が力尽きて私が解放されてから、父親とうちのが別々に、あそこ迄言わなくてもなあ……、と慰めてくれた。そう思って聞いていたならば途中で止めにきてくれ、と思った。無駄な思い。父親は親の腰巾着であり、その場ではうちのはあくまで余所者だったから。親の妹も、親に一旦火がつくとどうしようもないことを知っているので放置するしかない。私はいつも親の何かの捌け口にされ、後で慰められたり不憫がられるばかりだった。実の父親は腰巾着ではなかったが、母親が怒り出したときの対応は同じだった。私はスケープゴートだ。絶縁しない限り、スケープゴートとしての人生は続く。一昨日、父親がこう言っていたと聞いた「あの楽しかった夏の日は何だったんだ」。

 そうか。父親にとっては楽しい帰省だったのか。私の記憶の中では、最初の30分程度のうちのとの散歩の時間を除いては苦痛しか残っていない。同じ時と場所で過ごしていながらも、人によってこうも記憶は違うのか。父親の言葉を私に伝えた親自身も、楽しかった日々と記憶されているのだろうか。きっとそうだろう。親・父親両者の記憶から、私が苦痛としか感じなかった時間は消去されているらしい。親の妹とその子供たちがどう記憶しているかは判らない。うちのは私のあのつらかった時間を、共有してくれている。「よくあの親の下でここ迄育ったな」「俺だったら黒猫の母親と3日過ごすのも無理だ」。うちのがこう言ってくれたとき、私はとても嬉しかった。やっと気持ちを共有してくれる人が現れたことに感激した。うちのが3日過ごすのも無理だ、と言う相手と私は21年暮らしたのだ。その後、家は出たが関わりは続いていた。絶縁という言葉には、悲壮な響きがあるとは思う。けれど私にとっては、開放を意味する聖なる言葉だ。

 これ迄、他者に親の話をすると面白がられていた。そりゃあ面白いだろう。こんなトンデモな人間はそうそういない。私だってこんな親の話を他者から聞いたら面白いと思う。他者の親だからという条件の下に。面白いと思えるのは関わらずに済んでいる他人だからだ。関わったが最後、面白いなどと言っている余裕は一切なくなる。私の諸事情や類似する他の諸事情の症状のひとつに、巻き込み、というものがある。親の行為の諸々はその、巻き込み、に値する。最も巻き込まれてきたのが私。今、巻き込まれているのは私とうちのと父親だ。親に巻き込み症状の自覚はない。解らせようにも無理だった。ならば、巻き込まれたことに気付いた者たちが足掻いてそこから脱するしかない。この巻き込みに関わった人間が、取り巻きと化すのもよくある例であり、父親はそのひとりだ。こちらも自覚させるのは困難そうだ。それに私にはもう、ふたりに自覚させる気力も必要もない。自分が足掻いて脱することが最優先。絶縁とはこういうことだ。

 今の私に生存本能は殆どない。種族保存本能は皆無。なのに防衛本能だけが盛んに働く。今更何も防衛するべきものなどないのに、どうしてだか働いている。生きる為の体力温存か、巻き込まれからの逃避かは判らないが、過眠期に突入している。ひたすら眠い。眠っても安眠はできない。今朝も悪夢2本立てで目が覚めた。きっとまた寝ても見るのは悪夢だろう。けれど、眠い。眠くて堪らない。今夜がうちのとの最後の話し合いになるかもしれない。明日は親との最後の話し合いになるかもしれない。寝ている場合ではないのに眠い。眠剤も飲んでいないのにこの眠さは何なんだ。激動。混乱。困惑。懐古。惰眠。泪。
 このタイトルから連想する物は人によってかなり違うだろう。或る者はボディビルを思うかもしれない。或る者は猫耳娘を思うかもしれない。私にとってはピアッシングである。かつて性に貪欲だった頃、Mとして本領発揮できていた頃、私は左右のラビアにリングのピアスを入れることに憧れていた。そのリングに南京錠を付け、鍵をご主人様たる人に管理していただくのが夢だった。自らの意思による性行為の禁止がされたかったのだ。当時の私は今以上に、他者の支配下に置かれることを好んでおり、その象徴としてのピアスと南京錠だったのだ。実際にピアッシングするには至らなかった。チキンである。場所が場所だけに自分で開けるには無理があり、有名ボディピアス屋を調べたりホールが安定する迄の期間を調べたりもした。都内にそのピアス屋はあり、ホールの安定には10日もあればいいらしい。それでもやはり未知なる場所に開けることが怖かった。耳のピアスホールが安定する迄に、私は5週間を要した。耳朶が厚いのだ。耳には左右にひとつずつ高校時代に皮膚科で開けた。その後、左にもうひとつ開けようと友人に頼んで市販のピアッサーで開けてもらったのだが、ファーストピアスを外して1日ピアスの装着を忘れただけで閉じてしまった。再度開けようと思ったのは4年前。同じくピアッサーで開けるよう、うちのに頼んだが上手く力を入れられなかったようで貫通に至らず失敗に終わってしまった。今も私のメイクボックスには耳朶用のピアッサーがひとつ眠っている。また使いたくなってきた。ピアッサーでホールを作るのは実は余り感心できない。上記のように失敗に終わることもある。しかしそれ以前にピアッサーや安全ピンや針で開けようとする者の多くは、ピアスに関するちゃんとした知識を持たずに興味半分であることが多く、それ故に事後管理が下手で化膿させてしまいがちなのである。最も確実且つ安全なピアスホールの作り方は、慣れた者にニードルを貫通させてもらうことである。ホールが曲がることもなく、痛みも少なく、治癒も早いらしい。らしい、というのは私にニードルで開けた経験がないからである。

 性欲皆無の今も、ラビアピアスへの憧れは残っている。いや、それが性欲復活の糸口になるかもしれないという希望でもある。私の理想は、左耳にふたつ・右耳にひとつ・左右の乳首にひとつずつ・左右のラビアにひとつかふたつずつ、そしてクリトリスとフードの間にバーベル型ピアスを入れることだ。この理想は今も昔も変わっていない。見えない場所、そんな場所に入れていることを人に知られると恥ずかしい場所に入れたいのだ。因って舌や臍へのピアスには全く関心がない。倒錯性癖のなせる業なのだろう。倒錯結構。それで自分が気持ち良ければ、それで性欲が戻ってくれば一向に問題ない。昔、ピアスを入れる勇気はなかったが、剃毛をしていた時期は何度かある。動機は上記恥部へのピアッシング欲求と同じである。あるべき場所にあるべきものがないことだけで快楽へと繋がっていた。また体型的にもない方が似合っていた。天然のパイパンは本当に羨ましい。一度剃ると、その状態を保つには苦労が伴い、再び伸ばすには苦痛が伴う。

 女性器へのピアッシングは、思い立ったらいつでも、とはいかない。やはり月経期は避けるのが懸命である。ホールを安定させる為に清潔を保つことは必須だからだ。また部位を問わずピアスを入れるには、秋冬がいい。梅雨時期に入れるのは莫迦の極みだと思っている。乾燥した季節の方が、湿った季節よりも化膿し難いのは自明の理だ。話が逸れた。物事には計画的に進めるべきことと、勢いでやってしまった方がいいことがあると思う。ピアッシングは後者ではなかろうか。もし後悔したとしてもホールの拡張さえしていなければ、暫くピアスを装着しなければ若干痕は残るもののホールが閉じるのだから取り返しもつく。剃毛も然り。数ヶ月もすれば元に戻る。刺青とは違い、共にお手軽でフォローのできる肉体改造。ふと思い出した。以前働いていた職場で、行き詰まりを感じたら剃毛をする、と言っていた後輩がいた。因みにそれは男性だった。ピアスは運命を変えるというまじないじみた考えに基づいて、悪いことが続くとピアスを入れるという者もいる。両方ともやはりお手軽な気分転換なのだろう。

 刺青を入れたい気持ちがない訳ではない。これは谷ナオミからの影響である。彼女は日活ポルノの看板女優であり、団鬼六のお気に入りであった。個人的に彼女は静子夫人のイメージではないのだがそれは余談である。余談ついでに世間での刺青と入墨の混同はどうにかならないものかと思う。話は戻り、彼女は今、背中一面にそれを背負いつつ九州でスナックを経営しているらしい。墨を入れたのは、もう人前では脱がないという覚悟の象徴としてだという。この潔さは気持ちいい。私も入れるならば背中一面に入れたいと思う。小さな機械彫りならば入れない方が余程マシだ。手彫りでなければロマンを感じることはできない。刺青を大きく入れるには並々ならぬ苦痛が伴うと聞く。一針一針を深く刺し、色を安定させる。チキンな私は、針を深く刺すと聞いただけで何もしていないのに痛くなってくる。痒みとは痛みを和らげたものである。痛みが引いてくると今度は痒くなるらしい。痒いとき、人間は無意識に掻いてしまうことがある。刺青でそれをしてしまうと修復できなくなるし、また膿んでしまったりもする。なので両手両足を縛ってその痛みや痒みに耐える人もいるらしい。とてもではないが、私には耐えられそうもない。なのでお手軽な方向に走る。

 うちのと付き合い始めたのは10月だった。少し経ち、クリスマスプレゼントの話が出てきたのは自然な流れだろう。私はプレゼントとしてラビアピアスを要求した。うちのは難色を示した。尤もだ。ノーマルな性癖の持ち主であるうちのにとって、理解しづらい要求だったことは想像に難くない。難色を示したうちのに説得を続けた甲斐あり、うちのは理解してくれた。そこで挫折。理解を示してもらい、いつ入れにいこうか、と現実的な話になってきたときに私が怖気づいてしまったのだ。結局は指環に落ち着いた。クリスマスは来月に迫ってきている。再度説得をして、今年こそはピアッシングを現実のものとしようか。しかしピアスを入れても性欲が戻ってこなかったら非常に無駄な気もする。手始めに剃毛をしてみようか。しかし今それをすると、年末年始のうちのの実家への帰省で温泉に誘われたときに困るだろう。ピアスはホールさえ安定してしまえば外せるのでともかく、剃毛の方はうちのの性癖と誤解されそうである。見知らぬ人に見られるのは構わないが、身内同然の人に見られるのはやはり困る。今、勢いづいてきてはいるのだが、さてはてどうしたものか……。

BGM/アルバム「人間椅子」「人間失格」「桜の森の満開の下」
 現在12月13日。

 この世には沢山の褒め言葉というものが存在している。そして同じように沢山の褒め言葉の後に続く言葉というものもある。その中で、本気で激しくげんなりうんざりする程に嫌いな言葉がひとつある。褒めた後に付けられる、やればできるじゃない。子供の頃から大人になって迄、本当にいろんな人に言われてきた。そして毎回毎回、それを付けるならば褒められなくて結構! というくらい腹が立った。今も腹が立つ。この感情に同調してくれる人に出会ったことがない。何故皆、平気で受け止められるんだろう。莫迦にされていることに、莫迦に褒められてしまったことに気付かないのか。チャート式で詳細解説。
・その1
やればできるじゃない

今迄は手抜きしていたんだな、と思われた

過去の自分を見縊られている
・その2
やればできるじゃない

さも相手の能力を前以って見極めていたような、上に立った物言い

あんたは何様なんだ、あんたはなんぼのもんなんだ
 こういうことを他者は考えないのだろうか。私は毎回、やればできるじゃない、という言葉を聞くと、このような図式で腹が立って仕方がなくなり、言ってきた相手を莫迦と認識し軽蔑するようになる。

 その1・その2の共通点は、相手が自分よりも上からの視点でものを言っている、と私が認識しているところだ。私の性格を犬寄りか猫寄りかと問われたら、猫寄りだと答える。先日見ていたテレビ番組で、猫の能力について解説していた。世間一般では犬よりも猫の方が頭が悪いと思われているが、それは嘘だという解説と検証。犬>猫の式は、芸を覚えるかどうかが肝である。犬はお手やおかわりやお座りなどの芸を覚えるが、猫は覚えない。その理由について話していた。犬と猫の脳比率はほぼ変わらないらしい。因って根気よく教え込めば、猫もそれらの芸を覚える。では何故猫に芸を教え込むときに、犬に教えるとき以上の根気が必要なのか。それは犬と猫の生活体系の違いに起因する。犬は群れて行動する動物であり、群れの中のリーダーに従う習性がある。対して猫は群れずに行動する為、リーダーに従う必要がなく、自分の気の向くままに動く習性だからであり、猫には基本的に誰かに従う気がない→芸を覚える気が更々ない、という話だっだ。自分で自分を、やりゃできるんだなー、と思うのはいい。それは自身のことだからだ。ここ数日の大掃除や夕食作製で、私は自身を凄いと褒めた。そして普段が怠け者であることのへ言い訳抜きに、やりゃできるんだよ、と思った。私は個人行動を好む。リーダーの存在は不要だし、自分がリーダーになることも余り好まない。因ってもし他者に、やればできるじゃない、と言われたら即軽蔑。この言葉への私の気持ちを同調はしないながらも知っている友人知人は、私にこの言葉を投げかけてはこない。元々この言葉について話をする前から、そんなことは言ってこない礼儀を弁えた連中たちである。そうでなければ仲良くなどなれはしない。

 同様に、〜〜してあげる、という物言いも嫌いだ。あげる、が付いた時点で上に立った物言いであり且つ媚び及び施しをしている自分に酔っている姿が見られるからである。物事は、したいからする、が基本だと私は考えている。なので、〜〜してあげる、などという発想そのものが卑しく感じるし、そんな卑しい発想は私にはない。例えば。私は、ビールを持ってこようか、という言い方をする。ビールを持ってきてあげようか、とは決して言わない。持ってきてあげようか、という言葉には自主性が薄い。恩着せがましい物言いも、相手の能力を見切っているかのような物言いと同じくらいに嫌いだ。両方共に、自身への酔いを感じる。やればできるじゃない、には、相手の能力を知り尽くしている自分の他者を見る目への酔い、〜〜してあげる、には、尽くす自分への酔いを強く感じる。酔っていいのはアルコールのみ。アルコール以外の酔いは乗り物酔いも自分への酔いも全て醜態。見苦しいこと、この上ない。私も本当に親しい相手と話しているときにのみ、自分に酔った物言いをすることはあるが、やはり後で見苦しかったなあ、と反省することになるので必ず道化つつである。三半規管が弱いので乗り物酔いをし易い。長時間、苦手な乗り物に乗るときは酔い止め薬必須。醜態はできる限り晒したくない大和撫子。

 それにしても何故人はそんなにも相手よりも上位に立ちたがるのだろう。万札の顔としか諭吉を知らんのか。と書きつつも、諭吉の言ったことは所詮理想論だと解ってはいる。私は諭吉よりも仏陀の方が好きだ。天上天下唯我独尊。ここが夢か現かの区別は相変わらず付いていないが、それでも私は我である。離人症状が最近減ってきたようで、私のこのもの性は今、安定しつつある。これが安定しつつ、から、安定、に落ち着くか、また離人症状が出るかは不明。ともかく、上位に立ちたがる理由。実は解っている。自分が他者よりも上位にいると認識することで、人は安心感を得られるからだ。これは歴史も証明している。海外では黒人奴隷制度、日本では士農工商穢多非人。河原乞食と呼ばれた人々もいた。余談。河原乞食の中には日本の古典芸能の祖となっている人もいる。現代日本では、穢多非人や河原乞食がいた地域は未だに部落と呼ばれ、平民制度以後も根強く残っている為に部落解放同盟なども存在している。この団体の存在意義の是非はさておき。皇室が差別主義の根底という説もさておき。もっと身近なところに話を寄せる。義務教育段階では、運動が苦手な者が蔑まれる傾向があった。義務教育以降の学生では偏差値の低い者が蔑まれる傾向にあった。50m走のタイムの1秒、偏差値の1や2の違いが異常に重視され、実際のところ、その程度の数字の違いは大差ないというのに、多くの者に異様な拘りが見られた。社会に出てからは仕事の能力や容姿などが重視され、子供の頃と同様に大差がなくても、ほんの少し勝っているだけで途端に上位ぶりたがる人間が非常に多くいる。この上位ぶりたがる最も身近な例が、上記のような、やればできるじゃない、〜〜してあげる、だと私は思っている。これらの物言いをする他者が存在する限り、私の考えは変わらないであろう。しかし私の中でも他者よりも上位に立つ自分を認識することで、安心感を覚える部分が存在している。それはまた長くなるので、日付を変えて書くこととする。

半年

2003年10月1日 回顧


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2/1→4/2-A
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2/24→2/24-A
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3/24→3/25-A
3/25→3/25-B
3/26→3/29-A
3/27→3/29-B
3/28→3/30-AA-2
3/29→3/30-AA-3
3/30→3/30-A
3/31→4/1-A
○日付
日記上の日付→実際に書いた日付
○アルファベット
1日に書いた文章で内容が違う物の区別
○数字
続き物の順番

10/01→04/04/06-A
10/02→04/04/05-C
10/03→12/13-B
10/04→11/27-C
10/05→11/14
10/06→11/07-B
10/07→11/06-B
10/08→11/04-A
10/09→11/02-B
10/10→10/19-Z-4
10/11→10/19-Z-3
10/12→10/17-B
10/13→10/15-A
10/14→10/15-B-1
10/15→10/15-B-2
10/16→10/16
10/17→10/17-A
10/18→10/18-Z-1
10/19→10/19-Z-2
10/20→10/22-A-1
10/21→10/22-A-2
10/22→10/22-B
10/23→10/23
10/24→10/24
10/25→10/25
10/26→10/26
10/27→10/27
10/28→10/28
10/29→10/29
10/30→10/30
10/31→10/31

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11/01→11/02-A-1
11/02→11/02-A-2
11/03→11/03
11/04→11/04-B
11/05→11/06-A
11/06→11/06-C
11/07→11/07-A
11/08→11/09
11/09→11/11-A-1
11/10→11/11-A-2
11/11→11/11-A-3
11/12→11/12
11/13→11/14
11/14→11/14
11/15→11/16
11/16→11/17
11/17→11/17
11/18→11/18
11/19→11/20
11/20→11/20
11/21→11/21
11/22→11/22
11/23→11/25
11/24→11/25
11/25→11/27-A
11/26→11/27-B-1
11/27→11/27-B-2
11/28→11/28
11/29→12/01
11/30→12/02

-------------------------

12/01→12/03
12/02→12/04-A
12/03→12/04-B
12/04→12/05-A
12/05→12/05-B
12/06→12/06
12/07→12/07
12/08→12/09
12/09→12/10-A
12/10→12/10-B
12/11→12/11
12/12→12/12
12/13→12/13-AA-1
12/14→12/15
12/15→12/15
12/16→12/16
12/17→12/17
12/18→12/19
12/19→12/19
12/20→12/21-A
12/21→12/21-B
12/22→12/23
12/23→12/24
12/24→12/25-A
12/25→12/25-B
12/26→12/28-A
12/27→12/28-B
12/28→12/28-C
12/29→12/30-A
12/30→12/30-B

相剋の家 覚書

2003年1月2日
前振り済み
●性善説と性悪説
●思想・学問の無力さ
●漫画いろいろ
●ガーリッシュの覚悟

課題
△言葉の選択
▲構成力
△読点の付け方
△〜〜だが、の多用

相剋の家の歩き方

2003年1月1日
これはその日の出来事や思ったことを長々と綴った日記です。文章鍛錬と物忘れフォローの為の自己満足日記であり、文体もネット風味ではなく改行以外は活字文体ですので、ネット文体に慣れた方には読みづらいと思います。また書きたいことが多過ぎて1日分の文字数上限をオーバーした場合、過去の日付に遡って続きが書かれています。明記された日付以外の日に書いたものは本文中にその旨を記していますが、続き物かどうかは判り難いと思いますので下記を参照してください。

2003/01/03→2003年度に書いた日記に明記された日付と実際に記した日付一覧

2003/01/04→2004年度に書いた日記に明記された日付と実際に記した日付一覧

PC不調で日記執筆が不可能なときは
http://diary.note.ne.jp/d/45877/20040229.html
へのアクセスをお願いします。

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