世の中に創造により世に出たがっているものは多い。音楽然り、絵画然り、文章然り。その中の99%以上の者は商業ベースに乗るレベルに達しないことにどこかで気付かされ、日常に埋没してゆく。商業ベースに乗るために必要な三大要素は、才能・努力・運だと私は思っている。埋没してゆく者の多くは、才能がないのにあると勘違いしていたり、運に恵まれなかったりする。それでも継続は力である部分もあり、良い例がゴッホである。彼は存命中は全く世に認められず、それでも描き続けて死後、認められた。これが幸せなことかどうかは別の話である。才能に焦点を当てて話を進める。いろいろなものを読んだり聴いたりする中で、むずむずとさせられるものに当たることがある。むずむずの正体は、勘違い、である。才能はオリジナリティという言葉に置換可能だ。現代に於いてオリジナリティの発揮は本当に困難だ。過去、各ジャンルに於いて既に様々なものが発表され尽くされているといっても過言ではなく、それを再構築し、そこにどうにかオリジナリティを見出せるか否かにかかっていると言えるのではなかろうか。現代の創造物のほぼ全ては、メタである。私が悲惨だと思うのは、メタに気付かず、パスティーシュにも模倣にも達しておらず、勿論再構築には程遠い場所にありつつ、それでもオリジナルだと勘違いして創造している者である。知らぬが仏か。しかし人間たるもの、霞を喰らって生きていける訳ではない。

 その昔、P2Pを使っていた頃、某人気女性自作自演屋の新曲と謳われて出回っていた曲があった。DLして聴いてみて、本当にその自作自演屋の作品だと思った。のだが、某巨大掲示板でその曲の正体を知った。某売れていない女性シンガーのオリジナル曲だったのだ。うちのにもそれを聴かせてみたところ、やはり某人気自作自演屋の歌だと思ったようである。某人気女性アーティストがデビューした当時、某自作自演屋のパクりだと揶揄されていたが、今、そのアーティストは我が道を行きつつ成功している。某売れていない女性シンガーは、今頃どうしているのだろう。一旦は売れずとも商業ベースに乗った人ではあるが、引退したのだろうか。彼女はきっと踊らされたのだろうと想像している。某自作自演屋の登場→某アーティストのデビューからオリジナル路線への転向と成功を見たPに、これで売れればその先は自分のカラーで行けるから、などと言われてその楽曲を作製・発表し、消えたのではなかろうか。これはこれで悲惨な話である。そしてもし、本人がこれが私のオリジナルと思って作製・発表した楽曲であれば、もっと悲惨な話である。全てがメタだと気付いたところから、知ったところから、現代は創造が可能となる。

 明日行く愛しの君のライヴは、と或るイベント内で行われる。そのイベントの趣旨とライヴは全く関連性がなく、単に過去に数度イベント主宰の小さな小屋では割と人気があるらしい女性アーティストと対バンしたことでの、イベント内ライヴだと予想している。イベントは先日の日記にも書いたように女性無料のドレスコードがレオパード・水着・下着というアレだ。趣旨は、セックスを真面目に考える、というものらしい。もう趣旨からして間違っている。セックスは真面目に考えるものではなく、真面目にスルものなのだ。主催者はまだ17歳だか18歳だかの高校中退者で、まあ学歴は関係ないのだけれども、彼女のウリは、間違ったセックスを一通りした上でセックスを真面目に考えるようになった、というものらしい。らしい、が多いのは私が彼女をよく知らないからであり、何度か小屋で聴いてはいるもののオリジナリティは見出せず、因って興味を持っていないからである。何の自慢にもならないことだが、間違ったセックスをしてきた過去なら、彼女よりも私の方が勝っている気がする。気がする、は謙遜。彼女を詳しく知らずとも、絶対に勝っているに決まっている。負けているのは乳のでかさか。しょぼん。いや、そんなことはどうでもよく。まずイベント趣旨の発想からして間違いを感じ、そしてドレスコードがそれに止めを刺す。肌の露出が性的欲求や性的妄想を掻き立てるとは限らず、またもしも、セックスを真面目に考える、という趣旨を肯定するならば、肌を露出する必要は全くなく心のみを裸にすればいいだけの話である。肌の露出と内面の露出は別物であり、もし本当にこの趣旨でイベントをしたいのであれば、自らの性的経験を赤裸々に公表できる者につき入場無料とすべきではなかろうか。また女性にのみ入場無料のドレスコードを設けている点も戴けない。逆女性差別に値するものだと私は思う。昨今、巷では女性差別だけではなく男性差別も問題化している。その辺りのことをきちんと理解してから、このようなイベントを開催するのが正しいのではなかろうか。彼女の表現したいものを知り、表現方法を観聴きし、商業ベースには乗れなかろうな、と思っている。本人が乗りたがっているかどうか迄は知らない。これだけいちゃもんを付けつつも行くのは、単に愛しの君の年内見納めだからだ。

 冒頭にゴッホの例を挙げた。生存中の彼は苦労続きであっただろう。けれども商業ベースに乗れないながらも創造をし且つ現在に至って消費はされていない。商業ベースに乗ってしまうと消費されていく者が大半である。商業ベースに乗れずに三大欲求の日々に消費されてしまう者はもっと多い。そして理想。商業ベースに乗りつつ消費されない物の創造。天才は1%の閃きと99%の努力だと述べたのはエジソンであるが、これは果たして本当だろうか。嘘ではない≠本当。こと芸術方面に於いてのみで生活を成り立たせようと思うならば、才が40%、努力が30%、運が30%くらいが妥当ではなかろうか。しかしこれはその生業の期間のトータルであり、発端の商業ベースに乗ることだけを考えて極論すれば、天賦の才が1%、運が99%。そこから商業ベース上での活動を生涯継続しようと思えば、才が40%、努力が40%、運が20%。更に商業ベースにありつつ消費されない物の創造となると、才が40%、努力が55%、運が5%。因みに発端にのみ才に、天賦、とつけたのは見聞を広げることにより天賦だけではない才が生じると信じているからである。理想郷を目指して邁進。されど理想郷の所在は未だ見つからず。そもそも才の有無からして疑ってかかるべきであろうか。末は博士か大臣か。20歳過ぎれば只の人……。
 現在15日深夜。広末のデキ婚会見日。

 今回のタイトルは右から読むように。●は赤のつもりで。これは、昨日のライヴで愛しの君がしていた鉢巻に書かれていた文字と日の丸。ご本尊……ならぬご本人曰く、恰好だけ三島。昨日の愛しの君は白地の着物に縞模様の袴、ベビーピンクの襷、いつもの眼鏡に、この鉢巻。足元の草履は1回目のアンコール中に脱ぎ捨てて裸足になっていた。鉢巻姿を見たのは初めてだったけれども、やっぱり永遠の美少年は何を身に着けても似合う。クソったれなマスコミにピース! とか言い出したらどうしようかとわくわく……ではなく、ハラハラしたけれども、MCによると鉢巻の文字の由縁は、練習スタジオで愛しの君と幼馴染のベーシストが会話をしている中で自衛隊イラク派遣の話になり、70年代の青年のような討論になりかけてやめたこととか。またその際、自衛隊の存在自体が合憲かどうかなどの話にもなりかけたとか。討論ということは意見が対立しかけたということが予測され、果たしてどちらが右でどちらが左かが気になるところ。鉢巻からして愛しの君は右か……? となると、私の思想とは(以下略。思想はともかく、昨日はSEも愛しの君が土ワイのドラマを編集して作ったといういつもよりも判り易く凝ったもので、ステージではスモークが焚かれ、某曲ではミラーボールが回り、とにかく今迄よりも凝っていた印象。私は1階席愛しの君側2列目で観ていた為アンプの陰に隠れてよく判らなかったのだが、愛しの君の足元には尋常ならぬ自作エフェクタが並べられており、その多さ故に踏み間違えまくっていたとか。そんな愛しの君を可愛いと思ってしまうのは、なんちゃらは盲目というアレか。

 愛しの君の衣装は上記の通り。ベーシストは私は初めて見る銀の和服に褌に素足。この和服は新調したもののような予感。ドラマーはアメリカのユニクロと揶揄されることもある某アメリカ・チープ・ブランドのロゴTシャツにいつものサングラス。昨日のセットリストはバランスよく組まれ、ドラマーがボーカルを取る曲も入っており、3者全員パフォーマンスも豊富で絡みも多く、やはり不仲説は風化・バンドは安泰……と思われたのもつかの間。アンコールでベーシストがいきなり、ドラマーの脱退を発表した。観客がどよめく。号泣している者もいた。その発表を聞いた私の感想。前回の平成元年と今回のライヴのできの良さは、ドラマーの中で、またバンドとして何かが吹っ切れた所為か。そしてドラマーの衣装に後付で投げやりさを感じてしまった。ライヴ終了・アンコール終了後もドラマーへのコールは止まず、挙句ローディーが客を煽り、予定外の再アンコール。その後もコールは続いたが、もう登場はなかった。何度もドラマーが後退しているバンドであり、歴代ドラマーの中で最も巧いドラマーであり、最も長くこのバンドに在籍したドラマーであり、愛しの君のプレイ目当てでライヴに通ったりCDを聴いたりしている私も、出戻りファンとなった今年、このドラマーがいたからこその完成度があったから出戻れたとも言え……無念。無情。毎度思うが、昨日はやはり行って良かった。行かなければ生涯後悔する羽目になっていたかもしれない。しかし。

 前以ってオフィシャル・サイトなどで告知があっても良かったのではないだろうか。何故にアンコールで発表したのか、その意図が解らない。ドラマーのファンで今日のライヴを見送った遠方者など、悔やんでも悔やみきれなかろうに。このバンドはどちらかと言うと、ファンを大切にしているバンドだと思う。毎回セットリストを変えているのもツアー全てについてくるファンを飽きさせない為の配慮だろう。前々回のライヴについて書いたときに、開演20分前から愛しの君が楽屋で自分のソロ・パートをコピーし始めたという話を書いたと思う。そしてそれは如何なものか、と。昨日、隣にいた人と話しているときに初めて知ったのだが、よくあることらしい。セットリストを毎回変える故に練習が追いつかないからだとか。まあどうにか納得できる話。ファンを飽きさせない工夫の為に、苦労をしているという話だ。それはそれでいいことだと思うけれども、ファンを大切にする、ということの形は様々だ。セットリストを毎回変えるのもそのひとつ、ライヴを多く演るのもそのひとつ、ファンと直接交流し易いイベントをしてくれるのもそのひとつ、入り待ち・出待ちを無視しないのもそのひとつ。メンバー脱退の早めの告知はその中でも大切なもの、むしろ最重要事項ではなかろうか。どんな意図があったのかは知らない。急な決定だったのかもしれない。解らないこと尽くしだが、ただただ、大きな配慮がひとつ欠けているのではないか、という印象は残ってしまった。

 憂国ならぬ憂バンドという今の心境。そして2度目のアンコール曲もどうも腑に落ちない。予定外だったということで、即披露可能な曲が少なかったことは考えられるが、脱退発表をしたらドラマーへのコールが発生するのは想像に難くない筈だ。いや、明白。ならば、ドラマーがボーカルを取る曲なり、少し前に私が日記のタイトルに使った曲なりを演ってくれて然るべきだと思った。あくまで私見。2度目のアンコール曲は、昨今のアンコール定番曲の前の、アンコール定番曲。演奏し慣れていて予定外アンコールに応えられるのがこれだけだった、と言われても言い訳にしか聴こえない。今回はハッキリ書く。ドラマーがボーカルを取る曲の中でセットリストに入ってはいなかった「都会の童話」なり「亜麻色のスカーフ」なり、若しくは愛しの君がボーカルを取る曲ではあるがこのバンドの曲の中で最も別れを意識した曲である「さよならの向こう側」を演奏して欲しかった。よりによって「ダイナマイト」かよ! こんな脱退の仕方、納得不能。前回・今回とできが良かっただけに、ドラマーの激しく脱退が悔しい。不仲説風化どころか、決定ではないか! きっと本人らにドラマー脱退の理由を尋ねたら、音楽性の違い、とベタに答えることだろう。けれど、そんな言葉は言い訳にしか聞こえない。前々々回とその前のライヴで出てきた不仲の雰囲気を、私は目の当たりにしてしまっているのだから。昨日迄のドラマーは実に巧いドラマーだった。因って次代のドラマーに余り期待ができない。願わくば、正式メンバーとしては脱退したが、今後はサポート・メンバーとして参加し続けて欲しい。悲しい。悔しい。先日、ネットオークションでこのバンドのライヴ・ビデオを落札した。初回限定パッケージ未開封物。手数料など込み込みでほぼ定価。ラッキー! と思っていたら今日の物販に同じ物が置かれていた……。悲しい。悔しい。せめて現行品にはステッカーが入っていないことを望む。ひとつだけ良かったこと。先日のライヴの物販で購入した缶バッジが昨日は限定50個、ベーシストの手作りと謳われて売られていた。売り子さんに訊くと、先日の物販品と同品らしい。ということは、私の手元に既にある缶バッジもベーシストの手作りということだ。予感的中。デザインは愛しの君が手掛けたとか。大切にしよう。今日買おうと思っていたお札ステッカーが売り切れていたのが残念。次は愛しの君が別バンドの人々と組んでいるソロ活動の一環のイベントと、ベーシストのハードロック喫茶。ハシゴの予定。今週は昨日の疲れを癒し、週末のハシゴに備えての体力蓄積に集中。某巨大掲示板某板某スレを見たところ、記憶ミス発覚。大事な部分ではあるが印象は変わらないので訂正なし。

BGM/アルバム「修羅囃子」
 やれば良かったのよ、という仲村真理が述べた言葉を思い出した平成元年に大満足と少しの後悔をしている現在、12月4日に日付が変更されたばかり。

 昨日は平成元年。明日は風邪ひき。明後日は風邪を引き摺りつつ筋肉痛。支離滅裂なので解説。昨日は愛しの君のライヴに行ってきた。非常に盛り上がり、かつてない程に汗をかいた。折角風呂に入ったのが台無しだ……なんてことはどうでもよいのだが、過去、ライヴで額や胸元や背中に汗をかいたことはあるが、太腿まで汗をかいたのは初めてである。体感温度は低温サウナくらいだった。因って上半身は汗だくになった。昨日の私の服装。上はバスクシャツにバンドTを重ね、ジャケットとして薄手のネルジャケット。下はデニムスカート、ハイソックスの上にもう一枚短めの靴下を履きレッグウォーマーを重ね、マーチンの黒ブーツ。それに帽子と鞄。ライヴ終了後、バスクシャツは洗濯・脱水後のように湿っていた。誇張無しでそれ程の水分を吸わせてしまったのだ。この水分とは全て私の汗である。運動後にかくようなさらさらの汗だったので引いてしまえば不快感は余り残らなかったが、シャツの湿りは汗が引くように簡単に乾くわけではない。ライヴ中は小屋の中も暑いのでまだいい。けれどこの季節。外に出たら一気にぬるい不快感から骨身に沁みる冷たさになる。昨日は出待ちをせずに一緒に行った友人と軽い食事をした。そこでバスクシャツを脱いだ。着ていない方がマシというくらいに冷たかったのだ。で、脱いでバンドTのみで食事をしたのはいい。店を出るときにジャケットを羽織って帽子を被ったのもいい。外見上は傍から見ても特に季節感の狂った人間には見えなかった筈である。しかしながら、下は半袖Tシャツ1枚。莫迦だ。夏、ライヴ後に汗をかいてその場の物販でTシャツを買って着替えたことがある。夏なら着替えを持って行っていたかもしれない。まさか冬にここ迄汗をかくとは思いもしなかったのだ。次回からは絶対に着替えを持っていこうと決意した昨夜であった。そんな訳で、トンチキな薄着で帰宅した私の救いは防寒対策をしていった膝から下のみであり、今日の午後辺りから風邪っぽくなることだろう。私は風邪をひくと長引く体質である。従って明後日にも引き摺る。ライヴ中、私はヘドバンもフィスバンもするし、全身でリズムを取る。拍感覚が悪いのは承知だが、それでも勝手に体が動く。運動をする習慣のない万年運動不足の者にとって、これはかなり体力を消耗する行為である。普段使わない筋肉を動かす。20代後半になり、筋肉痛は1日空けてから出るようになった。これが冒頭の説明である。

 昨夜のライヴ。前回私が行ったものとは比べ物にならない程、メンバーの表情が良かった。不仲説は昨夜で風化していくように思う。全員楽しそうにプレイをし、笑顔も多かった。観客である私も嬉しくなったくらいだ。表情がはっきり見えたのは、非常に運が良かったと言えるだろう。チケット番号が余り良くなかった。そして小さい小屋だったことと企画ライヴという内容とで、マイナーなバンドにしては珍しく予約分のチケットは完売したらしい。そして少ないけれど当日券が出た。愛しの君らのバンドはいつもオール・スタンディングだ。私の位置は本来、ちょうど真ん中辺りになる筈だった。それが流れ流され堕ちゆく先はここは三途の……ではなく、最終的には愛しの君側の前から3〜4列目辺りに行けたのだ。私は小柄なので背の高い他の観客の頭や肩によりステージ全体を見回すことはできなかったが、それでもメンバーの表情や大まかな動きは見て取れた。懸命に愛しの君を目で追いつつヘドバンしていて驚いたこと。首にもギックリがあるのかと思った。ヘドバンでは首を前に後ろにと激しく振る。その最中、後ろに行った首が前に戻らなくなったのだ。激しく焦った。それでもライヴは中断してくれる筈は無く、周囲の観客の盛り上がりも増す一方。落ち着けない。仕方なく片手で無理矢理首を元の位置に戻し、その後はその手で首を固定しつつのライヴ鑑賞となった。歳ではなく運動不足の所為に決まっている。これからは首を意識的に動かそう。家で音楽を聴くときもヘドバンするか。いや、既に無意識にしていることもあり、うちのに指摘と注意を受けたことがある。首振ってるよ、唄ってるよ、不気味だよ、と。不気味で結構。今後は家でも意図的にヘドバンすることに決定。

 今日のセットリストは新曲だという1曲を除き、当初の予想通りに古いナンバーからばかりであり、当時毎回のように演奏していた曲に加えて当時も今も殆どライヴでは演っていない曲も。その中でも未聴だったアルバム未収録曲やアルバムに入っている曲の元バージョンを惜しみなく披露してくれたことに、行って良かったとつくづく思う。レア度満載。MCも当時を再現しようと思っていたようだが、それは無理だったようだ。無理でも聞いていた私は面白かったから良し。そして衣装。ベーシストは予告通り、ドラマーは普段通り。ギタリストである愛しの君は平成元年時のままではないがそれに似せた衣装と、当時使っていた眼鏡。それに似せた衣装、というのが今日の日記のタイトルに繋がる。1日付の日記参照。後悔先に立たず。これと、当時の曲の中でも特に生で聴いてみたかった1曲がセットリストから漏れていたことだけが残念ではある。まあそれは個人的意見であり、客観的に見れば100%満足できたと言っても過言ではない。観客の盛り上がりも普段以上だった。一緒に行った友人もかなり満足してくれたようで誘った甲斐があり一安心。会場待ちなどの時間に知人の一部と挨拶や簡単な会話を交わした。その他の知人は暫くライヴから足を遠ざけていた私を忘れたのか、それとも意識的に関わりを持とうとしなかったのか。深くは考えまい。中には、私のことを忘れてくれていたらいいなあ、と自身で思っていた人もいたし。ただひとりちょっと気になる行動をした人がいたが、それも深くは考えまい。疑心暗鬼はよろしくないし、単に私を忘れてしまっていただけならそれが一番だ。最近ライヴに行っていなかった私を、どうしたんだろうと心配していた、と言ってくれた方々がこの日記の存在に気付いているのかどうかは知らないが、感謝。有難う。忘れられていなかったこと、心配してくれていたこと、共に素直に嬉しかった。次回のライヴはひとりで行くことになるのだが、そのことへの不安が薄れた。ただ、今日一緒に行ったのは本当に友人なので誤解されていなければいいが、とだけ思う。うちのはまだ職場で仕事中だ。因みに現在0時52分。

BGM/耳は耳鳴り、脳内で「わたしのややこ」。特に愛しの君のややこ連呼部分。
 現在、12月3日深夜。

 今日は、平成元年である。世間では今日は平成15年12月3日だが、日本で数百人のみ、今日は平成元年なのだ。私は今日が平成元年なひとりである。と書いていて、まるでアレな人のようだ、と思えてきたので解説を加える。都内某所で愛しの君の相方が平成元年時の衣装を、10年以上の時を経て身に纏いライヴを行うのだ。題して、一夜限りの平成元年。サブタイトルも付いているが、それは敢えて伏せる。解る人だけニヤリとしてくれれば嬉しいとが、果たしているのか? いろいろあって手放しとはいかないけれど、やはりライヴを観に行くのは久々なので大変に楽しみだ。愛しの君の相方の衣装は判っている。問題は愛しの君とドラマーの衣装だ。愛しの君はタイトルに沿って平成元年時の衣装を着る可能性が高いと思うのだが、一体ドラマーはどうするつもりなのだろう。このバンドはギターとベースはずっと変わらないが、ドラマーは数人替わっている。当時のドラマーが今夜のみ復活するとは思い難いので今のドラマーだとは思う。しかし何を着るのだろう。そう思うと、ドラマーを浮かせない為にも愛しの君は平成元年時の恰好をしないかも知れず、困っている。ステージ上のメンバーがどんな恰好をしようと、通常観客が困る必要は無いのに困っている。というのも、私はライヴの開始前にトイレで着替えをして、平成元年時の愛しの君に似た格好をしようかと考えていたのだ。コスプレイヤーではないので、誤解なきよう。

 曲目も見当を付けづらい。タイトル通りに平成元年時のセットリストを元に演奏すると予測していたのだが、そうなるとまたドラマーが引っかかってくる。ドラマーが作った曲が入らなくなるのだ。そうでなくとも前回のライヴでドラマーの曲が無く、しかもライヴ終了時にベーシストがするメンバー紹介も待たずに裾に戻ったので、一部でギター・ベースvsドラムの不仲説が出てきているのだ。そんな不仲説が巷で囁かれる中で決行される、現ドラマー不在時の年を謳ったこのライヴ。本来の期待以外にも興味深く、意味深な雰囲気を感じさせられている。他のファンがどう思っているかは知らぬ存ぜぬ。他のファンについて、最近はなるべく考えないようにしている。ファンサイトも殆ど覗かなくなった。見るのはオフィシャルと某巨大掲示板のスレばかりである。愛しの君の表現も来年からは変える予定でいる。熱が冷めてきた訳ではない。それもこれも、コア寄りの出戻りファンからライトなファンへの転身を図ろうと思っているからだ。理由は、以前にも書いたようにコアなファンの中にはアレな人もいて朱に交わりたくないということと、来年は恐らく似非主婦から本業主婦に肩書きが変わるであろうから。旦那がいるのに他の男を愛しの君呼ばわりするのは、幾ら私でも気が引ける。旦那ではなく彼氏でも気を引かせろよ、という意見は却下。書類等がどうなっているかは判らないが実質的に実家と絶縁状態にある今の私にとって、あの紙切れ1枚の威力は大きい。女性は押しなべて売春婦。不能だけど。肩書きが変わっても中身は病人のまま変わらないけど。

 今日の日記のタイトルに、平成元年、と付けなかったのは愛しの君がいるバンド以外にも話を繋げたかったからだ。愛しの君がいるバンドがデビューした少し後から聴き始め、今は離れてしまっているバンドが多々ある。そのバンドのひとつは今年ニュー・アルバムを1枚出したものの、それ迄は長らく活動停止同然の状態だった。今年のアルバムは聴いていない。評判がイマイチのようなので、機会があれば聴くか、というスタンスである。そのバンドが今度、DVDを出すという。そのタイトルにも続く言葉は違うが、一夜限りの、と付いているのだ。日本の音楽シーン全体が80年代懐古趣味になってきているようで嬉しいとは、流石に2バンドだけを取り上げて言うことはできまいが、自分の好きなバンドがそのようなことをしてくれるのは楽しい。こちらのバンドの一夜限り。矛盾を感じるのは私だけだろうか。一夜のライヴを収めた内容故のこのタイトルかもしれない。けれど、所有・保管のできるDVDという物に、一夜限りというのに違和感を覚える。愛しの君らの方はライヴなのですんなりと入ってきたが、個人的感想として、DVDでこのタイトルは如何なものかと思ってしまう。おまけにどうも私のお気に入りの曲が入っていないらしい。今年のアルバムの評判もイマイチ。因ってこのDVD、買わ……ないだろう。

 上に80年代と書いた。80年代は私が陰気な熱を持って青春を謳歌した時代だ。少し前に某雑誌の某インタビューで、80年代は何も残さなかった時代、と言われているらしいことを知った。自分の青春時代をそのように評されて、いい気がする者は少ないのではなかろうか。私はやや嫌な気分になった。同様の感想を持った某劇団主宰者が、その想いを映画にした。その映画は年末公開される。某劇団主宰者はその当時、劇団と並行してバンド活動その他諸々をしていた人物だ。閑話休題。もしかしたら過去の日記に於いて、既に映画のタイトルと監督名を出しているかもしれない。確認するのが面倒なので気にしないで伏せたまま話を進める。某劇団主宰者は私に多大な影響を与えた、と今は思う。愛しの君らのバンドの全盛期と某劇団主宰者が音楽シーンにいた時期が被っており、私は当初両方を聴いていたのに、いつの間にか愛しの君らのバンドを離れて某劇団主宰者寄りのバンドを多く聴くようになっていたのだ。80年代、私の記憶の中で音楽シーンは二極化されている。片方が愛しの君らのバンドがデビューしたきっかけになったアレ。もう片方が某劇団主宰者が主宰していたインディーズのアレ。と書けば冒頭同様に、解る人だけ(以下略

 ふと時計を見たら現在4時である。明日に備えて早寝しなければならないのに余談。以前友人に、この日記の1日分を書くのにどのくらいの時間がかかっているかを訊かれた。毎回2500〜3000wで1時間程度である。タイピングのスピードは他者よりもやや速めといったところか。検定を受けてはいないが、タイピストとして暫く仕事をしていた時期があり且つかな入力。PCを使い始めて5年以上経ち、これで他者よりも遅いのは恥ずかしい。ので昔、何種かのタイピング・ソフトやフラッシュで速度を測ろうとしたことがある。ダメ。ソフトは当時使っていたノートのキーの反応が悪く測定不能。お気に入りのフラッシュはローマ字入力専用。余談の上に話が逸れるとは、かなりテンションが上がっているということか。ここ数日、毎日うちのに、テンションが高い、と言われているのでそうなのだろう。パキ服用当初の躁転に、今の状態は似ている気がする。ライヴではバンド・メンバーも観客も体力勝負。それと月曜に体調不良で夕飯を作れなかったことのうちのへのお詫びと、体調不良を改善する為をひっくるめて、豪華なのにあっさりという夕食を作った。月曜からの体調不良の原因は見当が付いている。日曜の夜に久々に豪華なものを食したからだ。このテンションが明日のライヴで吉と出るか凶と出るか、豪華とあっさりを両立させた食事でどちらの効果が大きいか、楽しみやら怖いやら。
 現在、11月27日。

 先日、友人と話をしていたら、「世界の神話百科」という本を図書館で借りてみて読んだら面白かった、と言っていた。私は神話などには今迄興味がなかったが、いい趣味をしていると思った。彼は北欧メタルへの造詣を深める為に読んだらしい。その動機がまた面白かった。まあ動機もいいのだが、単純に「世界の神話百科」を読んだ、と聞いただけで彼と友達になって良かった、と思った。私は独断と偏見により、他者の本の趣味で知的レベルを測る。他者の家に行ってまず見るのは本棚だ。本棚を見たり読書傾向を聞いたりすることで、相手と仲良くなれるかどうかが大体判る。そして外れた例がない。今、私が住んでいる場所は元々はうちのがひとり暮らしをしていた部屋だ。初めてここに来たとき、当然本棚をまじまじと観察し、「拷問全書」「死刑全書」「自殺全書」が並んでいるのを見て、長く付き合えそうだ、と思ったものだ。読書傾向が余りに違う者、特に私がつまらないと思う本を愛読している者とは仲良くなれない。過去に週プロを愛読している者と付き合ったことがある。続かなかった。他者の家の本棚を見て感銘を受けたのは、某大学の助教授の家と某ライターの家である。そもそも両者の家には山のように本があった。因って、数打ちゃあたる的に私の興味をそそる本も多かった。それよりも大事なことは、趣味が悪いなあ、と思わされる本がなかったことだ。某大学助教授や某ライターとは今は疎遠だが、あの本棚と読書量は今でも凄いと思う。

 某ライターはその分野では圧倒的な人気を維持している人である。私も某ライターの文章がとても好きだった。今はその分野から足を遠ざけているので読んではいないが、あの独特の文体は変わっていないだろう。某ライターにネタ帳を見せてもらったことがある。今でもそのネタ帳は増え続けているのかどうかは知らないが、きっと相当な冊数になっていると想像している。ライターの名を伏せるのでネタ帳の中身を書いてしまおう。某ライターは毎日本を読んでいた。その多数の本の中で、気に入った文章の抜書き。その集大成がネタ帳だった。独特の文体とは似ても似つかない本を多数読んでいた。本を読み、その本の数々から様々な影響を受けている筈だ。けれども文体に影響は見られない。これは凄いことだ。人間は影響を受け易い動物であるのに独自の路線への影響を他者に感じさせないことは至難の業だと私は思う。そしてそれは、他者の書いた本から受けた影響を自らの中できちんと消化・昇華できていることの証明に他ならないのではないか。

 彼らの本の読み方は、所謂乱読である。私の本の読み方とは大きく違う。私は手に取った本を気に入れば、その作家の書いたものを全て読もうとする。読もうとするだけでなく、実際に読む。すると少なからずその作家の文体に影響を受けてしまう。近年私が好んで読んでいるのは、新本格と括られる日本のミステリだ。この日記にもそれら作家の文体の影響が大きく出てしまっていると実感している。昔の私の文体は今とはかなり違っていた。学生時代からライター稼業をしていた頃、私の文体は誰にも似ていないと言われていた。しかし気付いてしまった。私の当時の文章は、SFから脱した新井素子の言葉遣いに似ていたのだ。「くますけと一緒に」「おしまいの日」を偶然読んで、気付いてしまった。文体そのものは違う。けれど言葉の選択がかなり似通っていた。句読点の使い方も似ていた。「チグリスとユーフラテス」がその印象を決定付けた。誰かの影響を読者に簡単に感じさせる文章は書きたくないと思う。その思いから今、試行錯誤している最中だ。

 記名ライターにとって最強の物は、その一文を、その一言を使うだけで、この人の文章だ、と読者に思わせる文章・一言を会得することだろう。上記某ライターはそれを持っている。私は記名ライターをしていた時期よりも無記名ライターをしていた時期の方が長かった。記名ライターの強みは、無記名ライターにとって禁忌である。無記名であるからにはライターの味を出してはならないのだ。読み易く且つ誰が書いたかを想像させない文章が要求された。無記名ライターとして何かを書くからにはその要求に答えなければならない。なので不本意ながら特長を感じさせない文章を書く必要に迫られた。記名ライターになってからは、その分野にありながら違う分野の話を持ってくることで独自性を見出した。ずるい手法である。違う分野の話を書きつつ、独自の言葉の選択や文体を駆使していたつもりだ。ところが、蓋を開けると新井素子……。独自ではない。苦悩した。今書いているこの日記は、新本格ミステリ作家の影響が強いが、その中の誰かに似ている文章ではないとは思う。だが、独自の文章であると思いつつ新井素子の影響を受けているような文章を書いていた過去がある故に、この文章によく似た文章で何かを綴っている作家やライターがいる可能性は否定できない。その作家やライターの存在を、昔の私が寡聞にして新井素子の文体を把握できていなかったかのように、今の私が知らないだけかもしれない。

 上記某ライターは非常に得をしている。そのライターの名を出せば、知っている者は或るふたつの単語をまず思い出す。そのうちのひとつは、確かにそのライター独自の言い回しである。しかしもうひとつはかなり前からいろいろな人に使われてきた言い回しだ。若く且つ知識量の足りない読者は、その両方を某ライター独自の物だと勘違いしている。後者の言い回しをも独自の物だと思わせてしまうだけの力のある某ライターなのだ。恐らく私はもう、その某ライターと同じ土俵で文章を書くことはないだろう。その分野に興味が再び戻ることはなさそうだというのがひとつ。私よりも圧倒的に文章力・表現力・観察眼に長けたライターが数多いるというのがひとつ。更に個人的な苦い思い出が絡まる。或る大御所に編集者を紹介してもらい、その分野のライターとしての登竜門的な本に書かせてもらう機会があった。3〜4回のダメ出し・書き直しを経て……没になった。その本が発売され、私が書くべきページだったところを見ると知人の知人が書いていた。客観的に見て、私の書いたものの方が優れていると思った。紹介してくれた方に私の最終稿を送り、感想を聞いた。私と同意見だった。そして私の原稿が没になった理由は、婚期を逃した30代独身女性って奴ぁ! と思わせられるものだった。またそんな編集者だと知っていつつ私に紹介したその大御所にもやや腹が立った。出版業界なんてどこも似たり寄ったりで汚いものである。それでも尚戻りたい気持ちがあるのは、私が持つ特技が唯一活かせる業界だからだ。戻る際には同業界でも少しでも綺麗な分野に戻りたく思う。
 私が国文学を専攻したのは、言うまでもなく本が好きだったからだ。PDの自覚症状発覚から近所の内科を経て現在の主治医の元に通い出し、1年弱となる。自覚症状は今年の1月から現れ、服薬で発作はかなり治まりつつはあるものの、それ以来、未だ集中力を長時間保つことが困難になっている。因って600頁近くもある文庫本を1日で読み上げたのは久々である。読んだのは多島斗志之著「症例A」。このミス2000年度9位ということで、ここ数年は毎年購入しているこのミス2001年度版を取り出してみたら、確かにランクインして紹介されていた。2000年末、私はこの本に興味を持たなかったことが解った。文庫派故に、今回の文庫化待ちをしていたという訳でもない。ただ、近所の書店で平積みされているのを見、背表紙の簡単な文章を読み激しく興味を持った。しかし購入に至る迄に数ヶ月を要した。定価724円を惜しんでいたのではない。そのくらいの金銭はある。購入迄に時間が必要だったのは、購入の決心がなかなかつかなかったのだ。勘と言うべきか、それとも本能と言うべきか。この本は読んではいけない、という勘だか本能だかが私を躊躇わせていた。この本で取扱われているのは精神病である。中に出てくる主要病名に、私の諸事情が入っていた。だから好奇心を持った。同時に警戒心も芽生えた。今回購入したのは、好奇心が遂に勝ってしまったからだ。本の内容についてはミステリなので敢えてここでは触れない。

 私の本の読み方は少し変わっているらしい。特に同じミステリ愛好者には、あり得ない読み方をしている、と言われることもある。まず後書や解説を読み、小説の結末を読み、それから冒頭部分から通読する。純文学でもミステリでもその他でも、どれもこの順番は同じである。この順番を狂わせて読むことにも特に抵抗はないので、こう読まねば、という強迫症状ではない。癖のようなものか。ことミステリに於いては、結末を読んでからという読み方をする者は少数派であるらしい。けれど私にとっては、活字を読む、という点で本の内容に区別はない。私にとっての読書とは、活字を追うことと言ってしまってもいい。活字となった文章から情報を得ることが目的であり、内容は後からついてくるものだと昔から考えている。強迫症状と言えば、仕事での参考資料などではなく趣味としての読書に限っての話ではあるが、以前は一冊の本を手にしたら、読了する迄は他のことに手が付けられなかった。手にしたが最後、読了=使命のようになっていてどんなに内容が詰まらない物であったとしても、途中で本を置いて他のことをするのは勿論のこと、読了せずに違う本を読み出すなど論外だった。うっかりそんなことをしてしまったときには、とてつもない罪悪感に苛まれたものだ。集中力の持続が困難になってからは、この強迫観念がなくなった。良いことか悪いことかは不明だが、生活への支障は減ったので良いことなのかもしれない。

 さて今日読んだこの本、諸手を挙げて著者に降参。この著者の本を読んだのは初めてだが、完成度がとにかく高い。現在治療中・独学中の私が読んでも全く違和感を覚えない内容だった。逆に知らなかった知識を得ることができた。完成度とは物語の構成もだが、著者の下調べが行き届いているということだ。上記のような読書スタンスからか、私は小説の登場人物への感情移入はまずしない。それが今回はしてしまった。いや、させられた、と言う方が正確である。私が治療中の身だからという理由だけではない。記号の持つ力とは何と恐ろしいのだろう。途中、何度トイレと布団を行き来したことか。実際に吐きはしなかったものの、嘔吐感と頭痛に襲われたのだ。半分を少し過ぎた辺りだったか、一度は読了を諦めようともした。身体への不快感も一因ではあるが、それ以上に感情への揺さぶりが強く、本を置き、号泣してしまった。自分の諸事情の未来像への必要以上な想像をかき立てられ、過去のことを少し思い出そうとしたら泪と嗚咽が止まらなくなってしまったのだ。何かが思い出せない。急速に襲ってきた孤独感、不安感、恐怖心などが私をそうさせた。私の中には一部分、記憶の捏造と思われるものが存在している。本当に捏造なのかどうかは謎のままだ。解明を試みたが迷宮入りしてしまった。この本をきっかけに何かを捏造する危険性を感じた。読了した今、捏造が完了した可能性もある。捏造ではない思い出せない記憶が私を泣かせた可能性もある。真偽は判らない。そしてその確認作業が私の治療に必要かどうかも判別不能。判らない。解らない。逃げ出したい。怖い。物心ついてから大人になる迄の全ての記憶を持っている人はいるのだろうか。まずいないだろう。脳の収容能力には限界があり、不要だと脳に判断された記憶は奥へとしまわれてゆく。また時間と共に記憶が若干の変化をすることもある。これらは自然なことであり、問題は全くない。しかしその自然な脳の作業と、記憶の抜け落ちや捏造は話が違う。抜け落ちや捏造は、病気だ。作中に書かれている治療と治癒、治癒とは私が書く解寛とほぼ同意であろう、その姿勢は主治医及び私が思っているものと同じに読めた。異論を挟みたい学者や医師や患者もいるだろうが、それは私には関係がない。PD然り、諸事情然り、その他の精神疾患然り。どれも持ったままでは患者は生き難いのだ。だから治療をし、解寛を目指す。解寛とは、生き易い・生きていられる、と実感できるようになることだと私は思っている。現代は生き難い世界だ云々の話ではなく、精神衛生上の話である。心療内科・精神科・心療内科の患者は概して今の自分に生き難さを感じていると思われる。私もそのひとりだ。生き難さを自覚してしまうと、逃避願望から希死念慮や自閉傾向が生じ、余計に生き難くなる。

 こういった救いを求める患者に手を差し伸べるのが専門医やカンウセラだが、私の諸事情は病院によっては病名を告げただけで、または医師やカウンセラがその診断を下した時点で追い払われることもある厄介な物だ。故に私は簡単に転院を薦めてくる者は、それだけで諸事情への理解が足りない相手だと判断する。そうでなくてもこの諸事情を持つ人間は、他者への猜疑心が突出して強い。諸事情を持つ私が言うのも可笑しな話かもしれないが、この諸事情を抱えた人間には近付かないのが最良の手段である。治療者でないならば尚更だ。近付いたとしても2者関係にならないことだ。仮に2者関係になるのなら、余程の覚悟と勉強が必要となる。この諸事情を知り自覚し、それから診断を下されて独学続行中の私は、諸事情の特徴や他者にかけ易い迷惑も把握しているつもりだ。それでも自分を制御できないときがある。内向型でなく巻き込み傾向が強い者なら、私以上に制御が困難だろう。こう書くと私が内向型と診断されたようだが、諸事情であるということしか診断は受けていないので、内向型か巻き込み型かは自分の独断でしかない。他者から見ると違って見えるかもしれないのは承知だ。私が内向型と自認しているのは、ある種の楽観と言い換えることも可能かもしれない。どちらでもいい。なんでもいい。死なないことで精一杯、という現状から抜け出せればいいのだ。が、この本を読み、今月1日付及び9日付のタイトルが、単なる洒落で済むことを今は願っている。不安が的中しなければいいのだが。尤も的中したところで、私はもう関知しない。

 この本。完成度は高い。読了後の満足度もそこそこ。だが、精神疾患患者及び治療を受けていなくともその気配が自分で感じ取れる者は読まない方が吉。自身の精神が健常であるという自信のある人にしかお薦めはできない。ガリバー旅行記は未読だが、これも原書や正確な原書訳は読まない方が良さそうだ。
 現在、6日に日付が変わったばかり。

 身辺に纏わる精神の動きがかなりの変化をし始め、疲れてきている。考えなければならないこと、継続が必要なこと、断ち切らなければならないことの山脈の狭間で身動きが取れなくなっている。こういうときは無理に動くと碌なことがない。そして下手の考え休むに似たり。休むに似た考えで脳をフル回転させて知恵熱を出すのは莫迦莫迦しいので休む。休むと言いつつ昨日は家事をこなし、今日は病院に行ってきた。体調が不良状態で不安定だった為にまた中二週。週一と一応は約束されているが薬の処方でかなり私の意見を通してもらっているので中二週でも特に困らない。飲み方も処方上の注意よりも心身の状態重視なので足りなくなるということもまずない。主治医も私の飲み方をある程度信用してくれている。1日の許容量を破ったのは希死念慮が最高潮に達した1度のみであり、それ以外は許容量の範囲で調整しているからだろう。血液検査の結果も異常なし。半年以上の服薬で異常値がないのはよくあることなのだろうか? 何かしらで異常値が出ることを覚悟していたので拍子抜けした。尤も異常値などないに越したことはなく、安心もしている。必要以上の薬を出したがらない主治医に感謝。そして今日はレスタスをやっと処方から外してもらえ、しかもパキ増量。3度目か4度目かの交渉だった。それ迄はずっと「効いている実感はなくても底の方で支えてくれている薬だから」と処方され続けていたのだ。効いている実感の伴わない薬などいらん。パキは効いている実感が伴っているので好きだ。寝逃げできないけれど抑うつ状態が酷くなったときに投薬するつもりでのパキ増量である。面倒なのでこんな説明はしなかったが。パキは個人によって、またその場そのときによって適量が変わる薬であるらしい。適量より多くても少なくても効かないようである。なので現状の服薬量を守りつつ念の為の増量だ。状況に合わせて上手く調整できればしめたものである。私の処方内調薬は今迄成功しているので、今回も大丈夫だろうと楽観視している。

 冒頭の話に戻る。考えるという行為はしようと思ってするときと、しないでおこうと思ってもしてしまうときがある。今、私が考えなければならないことは脳の大部分を占めている為、後者になってしまう。こういう場合の対策は敢えて意図的に違う物事を考えることである。そしてタイトルに繋がる。私には10年くらい前から抱き続けている野望がある。大いなる野望過ぎて生きている間には叶わないくらいの野望だ。油田を掘り当てたいとか、その手の妄想とは少し違う。私の野望とは、多くの他者の書いた文章から一文ずつ抜き取って一篇の小説を編むことである。漱石から一文、ヘミングウェイから一文、荘子から一文……といった具合に様々な書物から一文ずつを抜き取って、ひとつのオリジナルの作品を作ってみたいのだ。美術でいうところのコラージュにあたるか。例え実現できたとしても著作権の問題も絡むだろうから発刊には至らないだろうから、一個人の読書という趣味の延長上の作品となるだろう。

 初めにこの野望を抱いたのは、学生時代に手当たり次第に本を読み漁っていた頃である。例えば「私は食べた」「彼はそれを手にした」などの簡潔な文章は様々な書物に出てくる一文である。それらも欠かせない一構成物となり、一篇の小説なり論文なりになっていることに気が付いた。ならば引用という形ではなく、数多ある書物から一文ずつ拾ってつぎはぎして一篇の小説が編めるのではないか? と思ったのだ。物理的には絶対に可能な筈である。写真集などを除けば、基本的には小説でも論文でも解説文でも、文章があってこそ成り立っている書物なのだから。漫画でもそうだ。大多数の漫画では、噴出し内に書かれた台詞や空白部分に書かれた心理描写の文章表現が存在している。コラージュしてオリジナル作品の作成は物理的には可能。なのに未だ実現には至っておらず、生きている間には叶わないかもというのは余りにも大きな壁が立ち塞がっているからに他ならない。

 大きな壁。それは読書量である。私は近現代文学に強いと言われる或る学校の国文科を卒業しており、人並み以上に読書はしてきたつもりである。作家別の偏りはあるものの、ジャンル的にはそこそこの幅を網羅していると自負している。それでもまだまだ足りない。私の野望を実現可能にする為には現状の数千倍・数万倍の書物を読まねばなるまい。インテリゲンチャンこと高橋源一郎もなかなかの読書家ではあるが全然足りない。論外に近い程足りない。真のインテリと自負している呉智英と、荒俣宏と山田五郎を足して100をかけたくらいの読書量が必要だろう。……無理だ。時間はあれどもそんな気力は今の私にはない。気力が戻ってきたら働きに出るべきであり、すると今度は時間がなくなる。余談だが呉智英と荒俣宏と山田五郎は私が尊敬する読書家であり、尚且つ思想家であり評論家であり文筆家である。私は物知りを見ると無条件に尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、その知識を持っている、というだけで尊敬に値すると思う。同様に私ができないことをできる人間も尊敬する。それが如何にくだらないことであっても、それができるというだけで尊敬。他者からはこの尊敬は単純に見えるかもしれないけれど、自分にはない、物質ではないものを持っている人は凄いのだ。

 その昔、私は小説家になりたいと本気で思っていた。諦めたのは小林恭二の電話男を読んだからである。今のように携帯電話が普及する前に書かれた作品であり、今から読んでも衝撃は薄いと思うので敢えてオススメはしない。彼の知名度は低いだろう。まずデビューが海燕という今は亡きマイナー文芸誌であり、数年前にやっとカブキの日で三島賞を取ったが映画化もドラマ化もされておらず、また三島賞そのものが一般的知名度の低い文学賞である。CXの深夜番組が充実していた頃に放映されていた、たほいや、という番組にたまに出演していた利き酒が特技の小説家とい……っても思い出せる人は殆どいないか。とにかく小林恭二は知名度は低いが、高クオリティの作家なのだ。卒論のテーマを決める際、結局は違う作家の某作品を選んだが最後迄、電話男と迷ったのを覚えている。あの頃、あの小説に出会えたことで私の人生は変わったと言っても過言ではない。

 電話男で私が小説家になるのを諦めた……むしろ挫折したのは、私には0から1を作り出す能力が欠けていることを感じさせられたからだ。あの創造力は素晴らしい。そして小説家に最も必要なのは創造力だと私は思っている。文章力は二の次だ。私は文章はそれなりに書けるが創造力はない。なので今はもう引退しているが、文章にアドバイスを加えたり手直しを入れたりするエディター兼0から1を創造するのではなく1を10にも100にも膨らます作業をするライターになったのだ。創造力というものは努力して身に付けられるものなのだろうか。解らない。けれど小説を編んでみたいという気持ちは捨て切れない。因って生まれたのが、この野望である。野望を叶えるにも創造力を身に付けるにも文章力を伸ばすにも、どれにでも対応可能な努力は読書である。小説でも雑誌でも論文でも、はたまた漫画でも何でもいい。1日に1度は何らかの書物に触れることを忘れずに生活したい。手にした書物から今考えなければならないことのヒントを得られる可能性もある。活字不況真っ最中。けれど書物の持つ可能性、個人に与える影響は不況に負けずにいてもらいたいものである。
 昨夜、友人と話をしている最中に途中で遮られた。「ちょっと失礼かもしんないけど」と言う。構わない。こんな切り出され方をされては却って「失礼と思うなら言うな」などとは言えない。「いいよ、何?」と訊くしかない。友人は言った「音楽の聴き方、上手くなったね」。失礼かも、の前置きは友人が私よりも年下であり、年上の人間を褒めるのはどうかと思ってのことだったのだろう。彼は私よりも5つ年下であるが、私よりも多くの音楽に触れて育ち、また今現在バンド活動をしている。自分よりもその物事に精通している者に褒められることは非常に嬉しいことである。精通していない者に褒められるのも勿論嬉しい。私は他者に褒められることが大好きなのだ。自己の存在を自身で認められない者にとって、他者からの賞賛は自己肯定の礎となる。それが他者への依存に他ならないのは重々承知であり、根源の解決にはなっていないが、日々死なないことで精一杯の人間には大切な物なのだ。この日記を読んでくれている友人らからもお褒めの言葉を幾つか頂戴している。それらの言葉は私の励みになり、生きる糧にもなっている。私の日記は読みづらい筈である。約3000文字という文字数制限をオーバーする日も少なくない。それでも読んでくれているというだけでも有難く、更に褒められると調子付く。世の中には褒められて伸びる人間と貶されて伸びる人間がいるとされている。私はそのどちらでもない。褒められれば喜んで現状満足に陥り、貶されると凹んで使い物にならなくなる。私を伸ばすのは自らの意思のみである。

 さて、昨夜の友人との会話の主題は何であったか。彼と私の共通項は同じバンドが好きということであり、昨夜も音楽談義であった。彼が或るバンドを知っているか、と私に訊いてきた。以前の日記でパクりバンドと述べたあのバンドであったので知っていた。アルバムを一枚聴いて見限っていたが。彼はそのバンドも好きらしい。ならば、と聴き直す為に複数の音源を頂戴してそこからはその音源を聴きつつの会話となった。パクりバンドと私が言うのは、私の好きなバンドが10年以上前からやっていることを、そのバンドは安易に後追いしているだけだと思っていたからである。改めて聴いてその認識が誤っていたことが判った。私の好きなバンドはオリジナリティとはまた別に数々の味があり、その味のひとつに土着性がある。それがない。洗練されている。機材もいい物を使っていそうで、それに頼っている感もあり音は都会的である。平たく書けば、私の好きなバンドの音よりもより現代的且つ聴き易くなっているのだ。けれどもやはりオリジナリティは見出せなかった。これらのことを彼に述べた。彼の気に入っているバンドを悪く言う気のはやや気が引ける行為であったが、自分の抱いた感想を嘘と遠慮で覆い隠すのは更に自身に気が引けるので正直に、ここに書いた以上に詳細に述べた。そして彼から出てきたのが冒頭の言葉である。彼との付き合いはそろそろ半年になろうか。当時の私は自分の感性のみで好き嫌いを分けて音を聴き、楽曲構成や機材のこと迄考えることはなかった。耳が肥えた訳ではないと思う。出戻りファンとなってからの日常が私の耳と文章力を向上させているのだろう。

 学生時代、何冊もの参考書や問題集を相手にするのではなく良い一冊で徹底的に勉強した方が効果的であり効率が良いと複数の教師に言われた。嘘だと思った。一冊を繰り返すと何頁の何問目の回答は〜〜だと記憶してしまう。それでは意味がないと考えていたのだ。あのとき素直にその言葉を聞いて勉強していれば今頃はハーバードを卒業し……などと夢物語を語りたくなる程にその教師らの言葉が正しかったことが、昨夜の友人の言葉で実感できた。継続は力であるのと同様に昔から抱いていた誤解が解けたのだ。反復練習は意味のある行為だ。日記を書きつつ音楽を聴いていた日は、必ず最後にBGMを記している。これらを一通り見れば判るように、私はしょっちゅう同じ物を聴いている。理由はふたつ。ひとつはそのアルバム若しくは楽曲が好きだから。もうひとつはPC内にmp3として保存せずにCDRに焼いてしまった音源やCDとして購入した物を収納ケースから取り出すのが面倒だから。よってBGMが余り代わり映えしていない。これが有効であったらしい。

 反復して聴いていると、さらっと聴き流すことができなくなる。楽曲構成も覚えれば歌詞も覚える。そして毎度同じ聴き方をしていれば飽きがくるので聴く際に重点を置く場所を日によって変えるようになった。トータルバランスを聴く日もあれば、ギターソロに耳を傾ける日もあるし、私の耳が苦手とするベース音拾いを試みる日もある。そして自己満足の一環として知人のサイトにてライヴレポートを書かせて貰うことも稀にあり、他者の書いたレポと比較して私には決定的に音楽・楽器その他諸々の知識が足りないことも判り、悔しかったのでほんの少しではあるが音楽について勉強するようになった。好きなジャンルであるHR/HMだけでなく、最新号及び最新刊を楽しみにしているのだめ効果で僅かながらクラシックの知識を得られているのも良い影響となっている気がする。少なくともプログレと言う概念を二方向から知ることができ、好きなバンドの楽曲の中で最も好きな一曲が、好きなのに何故か違和感を感じる楽曲であったことの原因が判明した。日記をつけ始めた当初、HNを何となくと誤魔化していたが、ここにこのHNがその好きな楽曲のタイトルであることをきちんと書く。本当はHNなど記号のひとつであり、出自を書いたりはしたくなかったのだがそうも言っていられなくなった。他者がこのHNをどう読んでいるかは知らないが、私が言うところのパクりバンドのボーカルがこのHNと同名だったことを昨夜知ってしまったのだ。誤解されたら堪らん。私が好きなのはそっちじゃない! こっちだ!

 日記をつけ始め、まだ量が多くないので日々自分の日記を読み直しては細かい部分に修正を加えている。PCでの変換ミスは言う迄もなく、言葉足らずな部分に補足を加えたり、不明瞭な言い回しを訂正したりしている。読み返すたびに語彙の貧困さを始めとし表現力の乏しさ、構成パターンの少なさ、悪しき癖を感じて落ち込む。同時に苦手だった分野や過去に文章化していなかった分野に踏み込めていることの実感も伴い、それらが上手く書ききれているかどうかは別として、新規開拓を試みている自分自身の心境変化に驚きを覚えたりもしている。これも手を変え品を変え、日記という物で日々反復して文章訓練している賜物であろう。最近友人らから貰うメールによく私自身の変化の指摘が書かれている。どうやらかなり前向きになっているらしい。気分変調が激しいので常に前向きではいられないのが難だが、全体的に以前のような投げやり感が薄れているらしい。良き哉、良き哉。

BGM/アルバム「封印廻濫」
 昨夜、友人からクレームが来た。先日書いた、世界観がダメらしい、というのは間違いだそうである。声がひっくり返るボーカルがダメだという。それは味だと説明したが、まあとにかく彼女にとって世界観はOKであるが声がNGということでどっちに転んでもダメには変わりない。

 昨夜から今朝にかけて、この友人のクレームに始まり私は3件のクレームを受けた。上記がひとつ。後のふたつはネットオークション絡みである。まずは箱への宛名の貼り間違いによる発送先取り違えのミスが発覚。先に届いた人の方からメールが来た。着払いで返送するので再度送ってくれという。当然である。問題は取り違えられたもうひとりがきちんと返してくれるか、またそれ以前にそちらが郵便事故に巻き込まれていないかだ。届いたら返送してくれる旨のメールを出したがまだ返信は来ない。不安である。それから私の出品物を落札してくれた方に商品についた煙草の匂いがきつかったというのがひとつ。前以って喫煙者だとは書いているのでそれを承知での落札ではあったろうが、承知の上でも苦言を呈したい程であったようだ。私はチェーンスモーカである。

 映画館が苦手である。煙草が吸えないからだ。喫煙しながら鑑賞できる映画館があれば足繁く通うかもしれないが、ない。数年前迄、新宿昭和館という二番館があった。任侠物などの二番館落ちを3本立てで組む映画館だった。何度か観に行ったことがある。最初は衝撃を受けた。スクリーンが綺麗に見えないのだ。古い映画館だからというのも一因ではあるが、もっと大きな原因があった。前方で喫煙しつつ鑑賞している客が何人もいたのである。どの映画館にもあるように壁に禁煙とプレートは貼られていた。そのプレートは普通は綺麗であるが、昭和館に於いては脂に塗れた物だった。前方の喫煙者に注意をするものはひとりもいなかった。観客も映画館職員も。今なら流石は任侠映画館!では私も一服しつつ……となるかもしれないが、若かった当時は消防法とか大丈夫なの? と余計なことを考えつつ映画を見ていた。実に野暮である。昭和館では暗黙の了解で喫煙が認められていたようだ。そこに消防法だのなんだのと、心の中の話であっても持ち出すのは野暮であったと今は思える。表千家には表千家、裏千家には裏千家の流儀があるように、昭和館ではそれが流儀だったのだ。昭和館が繁栄していた時代、良い時代だった。

 学生運動に全共闘。私はこれらを知識としてしか知らない。その時代に生まれたかったと思う。誰もが自分のこと・他人のこと・国のことに懸命であり、自らがメッセージを発することに全力を使い、他者のメッセージを全身で受け止めていた。今の日本でメッセージの送受に総身総意の姿勢で取り組む者はどれくらいいるのだろう。1%もいないと私は見ている。あの時代の歌が好きである。高田渡に岡林信康。彼らはメッセージを全身から発し、聴く者も全身で受け止めた。メッセージの送受に音楽という手段が使われていたのだ。彼らの歌は当時の匂いを発している。私はその当時を知識としてしか知らないのに、それでも唄う高田や岡林らだけではなく、それらをリアルタイムで聴いていた者らの力迄感じる。彼らの歌は消費されていない。しかし彼らは既に表舞台にはいない。

 同時代、井上陽水はメッセージ性があるのかないのか判らないような歌を発信していた。アンドレ・カンドレ時代のビューティフル・ワンダフル・バードには風刺を感じるし、陽水となってからの人生が二度あればはストレートに心に突き刺さる。日本初のミリオンセラーは彼の氷の世界という歌だ。彼の声は独特であり肌に纏わり、耳から入って脳味噌の皺の隙間に留まる。曲調はキャッチーで歌詞は謎である。基本は色恋の歌だ。高田や岡林が世相を反映した歌を歌っていた頃、陽水は世相に囚われず色恋を歌い続けた。これが陽水が今でも受け入れられ続けている理由だとどこかで読んだことがある。確かに色恋は普遍的なものかもしれない。だが私はこれまでに心に突き刺さる色恋の歌を聴いたことはない。纏わりついてはきても、突き刺さってはこないのだ。私の感受性が鈍いのであろうか。

 ヒットチャートというものがある。上位を占めているのは色恋の歌、明日へ未来への希望の歌ばかりだ。げんなりする。それらの歌の大半に独自性を見出せない。その者がその楽曲を歌う必然性が判らない。キャッチーな曲に耳に心地良い言葉を副詞で繋いだ歌詞を乗せ、取って付けたような一節を挟みそこに英語を加える。これらの殆どはスポイルされる消費型音楽だと思う。ヒットチャートに一度乗せ、落ちてきた頃に似たパターンの楽曲をまたチャートに乗せる。音楽は完全に使い捨て商品へと変化してしまったのだろうか。否、チャートの上位で需要と供給のバランスの根源のレベルが低下しているだけだと思いたい。需要者も供給者も誠心誠意、全身全霊で音楽と取り組んでいないのだと思う。しかしそれを悪いとは言わない。ヒットチャート上位の音楽は既に芸術枠で括られる音楽ではなく、職人の世界になっているのだろう。

 ライターという職業がある。ライターは大きくふたつに分けられる。記名ライターと無記名ライターだ。文責の所在をどこに置くかが大きく変化する。無記名ライターに求められるのは常に65点の原稿である。100点は求められない反面、60点を取ることは許されない。そして締切厳守。自分のカラーを出す必要はなく、むしろ出さないほうが良い。万人に読み易い65点をキープできる文章力とスピードが求められるのが無記名ライターなのだ。記名ライターや作家と大きく違う部分である。記名ライターや作家は65点をキープしなくても良い。常に高い点数を保てるのは理想であるが、極論を承知で述べる。10点の原稿を99本出しても、残りの1本で100点が取れれば認められるのだ。しかしその1本がベストセラーになることは本当に稀なことではある。

 ヒットチャート上位の音楽と無記名ライターの仕事は限りなく近いのではないだろうか。上位にはいつも似た名前、似たタイトルが上っている。没個性が求められるのが職人の世界であり、芸術となり得る個性を出せる者でもそれが100回に1回なら名前が知られていない分、ヒットチャートには上れなくなる。今現在裕福に暮らしているのは職人であろう。けれど職人の仕事が後世に残るであろうか? 陽水は天性の声と勘に恵まれており、また継続が力となったパターンであるが、そこまでの才と持続力を持ち得るヒットチャート常連はどれ程いるであろう。一握りもいないに違いない。一過性の、消費される物の生産に空しさを覚えないのだろうかと思うことがある。きっと消費される物を造っている自覚はなくオリジナリティとメッセージ性に溢れていると勘違いしているものが半分、空しさを訴えても周囲スタッフに丸め込まれるのが半分か。前者にはさっさとスポイルされて欲しい。後者には頑張って欲しい。周囲との戦いで得たことを次の仕事・作品に活かせる筈だ。それを待っている者も少ないが、存在している。含まれたメッセージに圧倒されたい。スポイルされる物に価値はない。衝動を感じさせない物は後世には残らない。様々な衝動を全身で受け止められるだけの体力は常に、私は残している。

BGM/「夜叉ヶ池」「猟奇が街にやってくる」「心の火事」など
 20日付の続きである。現在22日早朝。

 敗戦国にはスラッシャーが多いというのが持論である。他にも提唱している人がいるかどうかは知らない。日本やドイツは他国に比較してスラッシャーが多いと聞いてそう思っただけなので持論と言える程の代物でもない。私の好きなバンドはプログレからポップ・ナンバー、スラッシュ迄多種多様な音作りをする。私はこのバンドのスラッシュ・ナンバーを聴いてからスラッシュに嵌った。なのでうちのはこのバンドはスラッシュ色が強く、プログレ好きの自分の聴く物ではないと思っている。実際にはプログレ色の方が強いバンドだ。アルバムを聴くと判る。なので数枚聴かせてみた。感想は、演奏は下手ではないが歌がダメ。褒めない人なので下手ではないと言うことは、上手いということである。20日付の最後の友人の歌へのダメ出しと、うちののダメ出しは違う。友人の言うダメな部分は世界観である。これはバンド・カラーなので受け付けない人にとっては嫌悪の対象にもなりかねない物で、それ故にコアなファンしかいないと言っても過言ではない。うちのが言うダメは私が良さを語っている最中に「でも訛っているし」。一蹴。意味合いは違うが友人にもうちのにもダメということは共通している。

 私は自分の好きな物を人に薦めたがる癖がある。読んで気に入った本はボロボロになるまで人に貸しまくり、いいと思った音はとにかく聴けと薦めまくる。本の趣味は良いと自負している。他者からも大概面白かったとの感想を得られている。しかし音楽の趣味に於いては他者とは相容れない一線があるようだ。私が好きになるバンドやミュージシャンには、何故かイロモノ色が強い物が多い。なので他者からはイロモノ扱いを受ける。学生時代に嵌っていたバンドも、出戻りファンとなった今現在好きなバンドも同世代前後の人間で名前を知らない人はまずいないくらい著名なバンドである。けれど皆、名前を知っているが故に音を聴いてくれないのだ。音を聴けばただのイロモノでないことは判る筈なのに既に音まで知り尽くされたように扱われる。不思議でならなかったので考えた。

 例として今現在好きなバンドを挙げる。このバンドはデビューの方法が限りなく、所謂企画物に近い扱いであった。それ故にか、世に出てきた当初のインパクトは強かった。強すぎた。その方法でのデビューをしたのは彼らであり、その方法を採ったが為に偏見を持たれるのは彼らの責任である。最新アルバムでひとつバンドから明言があった。ロックは色物である。きっとデビューのときから一貫しての姿勢を言葉にしただけであろう。それはいい。その姿勢が自分たちの生活を苦しめているのも承知の筈だ。イロモノ結構。どんな扱いを受けようと、私は音が好きだから聴き続けるし、愛しの君が脱退しない限りライヴにも足を運び続けるに違いない。私は出戻ってからデビュー時から最新迄の全てのアルバムを聴いた。好みでない曲が混ざっているアルバムも勿論ある。しかし全体としては特筆するに価する完成度を見せている。そしてその完成度はアルバムが新しくなる毎に増していっているのだ。

 これは何を意味するか。彼らの音楽は成長・発展をし続けているということに他ならない。停滞はあっても後退はない。停滞期に於いても最低基準を軽くクリアするクオリティである。冷静に考えると凄い話なのだ。人は成長するものである。年齢や環境により成長の程度は変化するだろう。それでも成長はしている。これは多くの人間が頭で、身体で判っていることだと思う。けれどそれと同じことが音楽にも言えるということ迄は考えが至らない人の方が大多数であるようだ。彼らは実力を持ってデビューし且つ活動を続けている中で成長し続けている。デビュー当時と現在では世界観も変化しているし音自体も変わっている。楽曲の完成度は当時から高かったが、その比でないくらいの高さだ。なので鮮烈なデビュー当時の彼らの姿しか知らない人々にこのバンドの名前を言っただけで、ああ知っているけど好きじゃない、と言われるのは非常に苛立つ。確かに当時は好きだと思わずイロモノという感想しか抱かなかったかもしれない。けれどそれから10数年、その人々も成長しただろう。バンド自体も成長している。今聴けば当時とは違う感想を持つかもしれない、とは思わないのかと激しく疑問であるが、思わないらしい。

 成長過程に於いて味覚の変化は有名である。私は未だに餓鬼舌でプリンや卵焼きが大好きだったりするのだが、多くの人は味覚が変化している。子供の頃には食べられなかった山葵や辛子が美味しく感じられるようになっているらしい。私は食べられないが、そういう人が多いことは知っている。本を読むにあたり、これは学生時代に読んでおく本だ、或る程度歳を取れば解るようになる本だ、と言われることがある。音楽には同じことが言えないのか? 言える。断言する。個人差があるとは思うが、昔は受け付けなかった音を年月を経て聴き直すことにより受け付けられるようになる人もいるに違いない。その世界観や姿勢により好き嫌いの分かれるバンドだ。解っている。しかし今一度聴き直して欲しい。聴き直すことにより私のように出戻る人や新たにファンとなる人も絶対にいる。これも断言する。若年層の一部で或るバンドがコアな人気を得ている。深夜番組でそのバンドが紹介されているのを見たことがある。新鮮なオリジナリティがどうのこうのと言われていたと記憶している。違うだろ! 明らかにこのバンドのカラーを引きずって……むしろパクり? というスタイル及び音ではないか!! そのバンドのメンバーは私の好きなこのバンドのファンだと公言しており、ライヴ会場でそのメンバーを見たという人もいる。なのに何故こちらには目を向けられないのか。非常に無常で無情な話である。

 若年層のファンが増えていると書いた。彼らはこのバンドのデビュー当時を知らない。何かのきっかけで音を聴き、好きになってから遡って知識を得てデビュー当時を知る。若年層のファンにイロモノとして見ている人は少ないと思う。そもそもイロモノと認識したらそこで止まり、ファンにはならないだろう。若年層のファン数人と話をしたことがある。皆、このバンドを独特の世界観を持った実力派として認識していた。我がことのように嬉しい。若さは柔軟性を兼ね備えていると書いた。バンドそのものはイロモノ色を捨てていない。最新アルバム発売にあたって上記で書いた明言をしたのだから当然である。けれど柔軟性を持つ若者はその発言に留まらずに音に飛び込んでゆく。そして時代は変わっている。世代としての考え方が変化している。その為か狂信的にはならない傾向が見て取れる。彼らより年上の出戻りファンである私は、恥ずかしいオバチャンと思われないように振舞いたいと思う。洒落の通じるオバチャンと思われれば本望……できればオネエチャンと思って欲しいか。

BGM/アルバム「無限の住人」
 この日付は父の命日だが、記している今は22日早朝である。

 今夜はライヴだ。先日チケットぴあで予約したチケットをコンビニで券にしてきた。発売開始から1時間半後に取れたチケット。一般入場番号1桁台前半であった。昨日、やっとFC入会の振込用紙が届いた。私の宛名は愛しの君の筆跡に限りなく近い。と思いたいのだがご本人なのだろう。やはりFCスタッフはいないという噂は本当らしい。金は要らん、手伝わせろ! と思うが怖くて言えない。怖いのは愛しの君ではない。メンバーを神格化した一部の狂信的ファンである。本気で怖い。近付かなければいいのだと思っていたのだが、そういうものではないらしい。被害妄想の可能性も3%くらいあるが、先日神格化した狂信的ファンの小心者に、とんでもない悪意に満ちたイタズラをされてしまったのだ。もしその小心者の正体が判ったらどうしてくれよう。打ち首獄門にしても私の腹は納まらないだろう。

 ネットオークションにお宝詰め合わせセットが出品されていた。通常、私は即決価格設定をしていない出品者に対して即決価格を訊ねたりはしない。私も出品することがあるので、出品者の気持ちもある程度解るからだ。誰だって自分の物が10円で売れるよりは10000円で売れる方が嬉しかろう。しかしこの冷静さを一気に沸騰させてしまう程のお宝の数々。訊いた。答えが返ってきた。吹っかけられる覚悟での質問であり、また即決そのものを否定される覚悟もあった。なのにその出品者は善意の人であった。神認定。サバスだ。予想の1/6の価格を提示してきた。安っ! 放っておけば落札価格はその提示額の4倍には達したであろう。想定外の安値提示により交渉開始。交渉は成立し、現在そのお宝の数々は私の手元にある。しかしこれにより一部の人間に恨みを買ったようだ。そしてその中に悪意の小心者がいた。

 出品者の即決額提示により、私以外にも即決の申し出が複数あったらしい。しかしサバスは神である。天国への階段を私の為に作ってくれた。天国への階段はサバスではないが。メール交渉もあったようだが、質問欄にその額で譲って欲しいと書いた者もいた。そのお願いへのサバスの回答は素晴らしく、完璧だった。あくまで私にとっては。最初の方の返事を待っているところなので。サバースッ!! 即決申し出をした人の中には倍額提示をした人もいたかもしれない。いや、いたに違いない。私ならそうする。しかしサバスは金に揺るぐ精神の持ち主ではなかったのだ。早い者勝ちの理論。外馬に乗り損ねた者に恨まれた。それが発覚したのは昨夜である。予兆はその数日前、交渉成立の翌日からあったのだが、私はそれを予兆だとは思っていなかった。甘かった。

 知らない者から私のフリーメールアドレスにアクセスがあった。HNは違うが、あの知人だろうと勝手に予測していた。昨夜私がPC前にいたときに、その者もPC前にいたのでまずは訊いてみた。どちらさまですか? 全く知らない人だった。混乱。そのアドレスを知った経緯を訊き出す。某巨大掲示板某板某スレに貼られていたから登録してみたのだと言う。普段行かない板。知らないスレ。教えてもらったスレを見ると名無しが本文なしでメール欄に私のフリーメールアドレスを貼っていた。そのアドレスを知っている者は10人もいない。その中の誰かに嫌われたか? しかしここ迄の悪意を見せられるなら幾ら鈍い私とてその知人と接しているときに気付いただろう。思い当たらない。某巨大掲示板の該当板に出入りしているその者はネットに或る程度は精通していると見て、ひとつ質問をした。予想通りの答えが返ってきた。やはり手抜きや安直な発想に基づく行動はいけない。パスを変えていたのはせめてもの救いか。

 その者は私が小心者の悪意に満ちたイタズラにより迷惑を被った被害者だと知り、アドレス登録を外そうかと申し出てきてくれた。そんなことは最早どうでもいい。苛々鬱々、更にそれに勝る立腹中の私は心当たりを語りつつ、その者に愚痴をこぼした。その者もよく聞いてくれた。サバスが結んだ縁とはなんと不思議なものだろう。断じて小心者が結んだ縁だとは思わない。いろいろと話すうちにその者と私の音楽の趣味が共通していることが判明した。オリコン糞喰らえ! スラッシュ万歳! 偶然の出会いでこうも意気投合していいものか。その者が私の好きなバンドに興味を持ったようなので音源などを幾つか送った。どっぷりと嵌ったようだ。またその者がくれた音源もなかなかに私好みであり、どちらさまですか? から始まった会話は延々4時間続き、大変に盛り上がった。互いがやや似た境遇にあることも意気投合の要因のひとつであろう。朝には歌、夜には恋。その者と恋に落ちることはまずないだろうが、朝には歌である。様々な意味でサバスに感謝する。悪意の小心者に告ぐ。悪意は私の友人を増やしてくれた。ウイルスはひとつもこなかった。エロサイトの宣伝メールは2通きた。宣伝メールは単純に鬱陶しさを感じたが、それよりも新たな友人ができたことの方が大きい。因みにそのスレは今夜には既にdatに逝っていた。

 新たな友人は私よりも若い。ネット上のみの付き合いで一番仲のいい友人も私より若い。若さは得てして柔軟性に富んでいる。ネット上のみの付き合いで一番仲のいい友人は元々私と同じバンドのファンである。新たな友人も恐らく嵌る。両者共に男性である。やはり私は異性との会話の方が弾む。女の大半は莫迦だから嫌いだ。男女の話ではなく、若さの話である。私の好きなバンドはもう15年程活動し続けている。デビュー当時からのファンもいるが、私のような出戻りもいる。そして若年層にもライトなファンが増えつつあるようだ。もっともっと若年層のファンが増えて欲しい。さすれば年季の入った狂信者の影も翳んでくるというものだ。そのバンドはこれまでコアなファンに支えられてきた。少し語弊があるか。コアなファンしかいなかったに等しい。今迄はそれはそれで良しと思っていたが、今回のイタズラでライトなファンの必要性を私は強く感じた。サバスから購入した商品の中にファンの姿が垣間見える物がある。それが欲しくて購入したも同然なのだが、蓋を開けると恐怖に慄く物だった。メンバーたちはファンに対し、どんな感情を持っているのか本気で知りたくなってきた。訊いたところで教えてはくれまいが。時として不気味さを感じることもあることは想像に難くない。その物だけでなく私自身が他ファンを見て、また他ファンから他ファンの話を聞いて、私がメンバーなら解散を考えるくらい不気味な諸々を知った。狂気の沙汰である。バンドの世界観からして一般受けしないのは解っている。それにしてもここ迄狂気に満ちなくてもいいではないか。日本人の耳の疎さというものも同時に実感される。私の或る友人はこう評す。ギターは上手いが歌が嫌。彼女は自身もバンドを組んでいた経験がある。私よりも余程耳は肥えている。その彼女でもこうである。否定はしないが、肯定もできない。
 少し前に観た深夜番組に「小倉優子ファン」が数人出ていた。彼らは彼女と一発……等とは思わず、結婚したい……等とも思わず「友達になりたい」と言っていた。その気持ちは解る。芸能人であれ身近な相手であれ、好みの異性がいればお近づきになりたいものだ。しかし中にはそんな謙虚な皮を被った尊大な夢は描かず単純に、ゆうこりんと一発! と冗談半分に思っているファンも多いことは想像に難くない。きっと 一発! と思っている者も仲間内でしかそんな話はすまい。その場に小倉優子を神聖化しているファンがいることが判明していればそんな直接的な話題は避ける筈だ。神聖化が良いことかどうかは別として、避けられなければ大人として少し問題あり。TPOである。けれどその場が皆冗談半分で一発云々と盛り上がれる連中のみだったら? 全てを語るは野暮である。

 ところで、フライングVやツーネック等の特殊モデルを除く一般的なギター及びベースの形は何を模しているか。それを知れば男性ミュージシャンに発情する女性ファンの多さも納得出来るだろう。ミュージシャンを神聖化したり猫の脱ぎ方を知らなかったり野暮な猫しか飼っていなかったりするのでなければ。様々なコードを矢継ぎ早に押さえる左手とピックで素手で弦を弾く右手。それを見て連想するコト……。他人様のそういう連想すら許容範囲外なチャイルディッシュな人はもう置き去って、上記の連想はむしろ自然なことと言えまいか。もっと言えばセクシャリティを感じさせないミュージシャンは駄目ではないか。楽器をきちんと扱えていないということに繋がるのではないか。演奏姿にセクシャルなものを感じさせるプレイヤーであることは、いいミュージシャンの条件のひとつだと私は思っている。以前、と或る雑誌で取ったアンケートを見せてもらったことがある。女性が男性を見てセクシャルなものを感じるパーツはどこか、という物だ。指・手という回答が多かった。女性には着衣の状態でも乳房や臀部等の記号として解り易い性的パーツがあるが、男性には無い。しかしながら指・手にセクシャルなものを感じる女性が多いらしい。私もそのひとりだ。楽器に限った話ではなく、煙草を燻らせる指や運転時にハンドル操作をする手にもセクシャリティを感じる。手指そのものについて述べるならば、筋張った手に細長い指、そしてその先に乗った短く切り揃えられた爪が好みだ。多少見栄えの悪い太目の指の方が実は器用な人が多く、或る面での実用性に於いては有効なのは承知だが形の好みとして。今、私が密かに恋心を抱いている人の手指は理想形と言える程に好みである。あの手で、あの指で触られたいと思う。自然な発想だろう。握手をしてもらったこと、また手を繋いでもらったことがある。あの少しひんやりとした感触は忘れられない。忘れたくない。その握手・手繋ぎ以来、自傷行為が格段に減った。自分の手が宝物のひとつになったからだ。また握手なり手繋ぎなりしてもらうべくハンドケアも以前よりマメにするようになった。ネイルケアにキューティクルオイルは不要。日本薬局方のオリブ油で事足りる。そしてハンドクリームはザーネからメディカルケアへ移行。ザーネは馴染みが早いのが利点だが、持ちが悪く何度も付け直さなければならない。メディカルケアは寝る前に塗って一晩経てば一日持つ。オススメ。

 「ミーアンドジェーン・ドゥウ」という漫画がある。中山乃梨子にしてはご都合主義なオチの短編だ。内容を要約すると、売れているバンドのファンの女性が自分の好きなギタリストを拉致して飼って紆余曲折の末に両想い。記号的少女漫画の世界の話。現実に実行したら犯罪。しかし夢を見せてもらった。私が今、恋心を抱いている相手はギタリストだからだ。長く活動をしているのにお世辞にも売れているとは言えないが。そもそも今現在、本人たちに売れたいという思いがあるのかどうかすら疑問。ファンとしてはメンバーがバイトをしなくてもいい程度には売れて欲しいような、そうなるとライヴチケットが取り難くなるから売れないままでいて欲しいような何とも複雑な気持ち。

 無論のことだが、そのギタリストの姿形だけが好きな訳では無い。作られる多彩な楽曲・安定感が在りつつも挑発的なプレイ・音程が常に危うい唄、それらも当然全て込み込みで好き。先日、その人についての裏話を少しだけ聞き齧った。かなりショックな話であり涙腺が固くなっているにも拘らず泪が出そうなほどにキツイ話だった。そのときまで自分では只のミーハー気分のつもりだった。当初のだめが千秋の王子キャラをからかっていたに近い気持ちでいたつもりだったのだ。しかしどうやら違ったらしい。のだめにとっては千秋との連弾が引き金だが、そんな引き金なかったのにその人は私の心を侵食してきていたようだ。侵食されればされるほどに切なくなる及び癒される。恋心とは実に不思議なものである。

 やっと日付が追いついた。ここまでの日記は全て15日に記された物である。

BGM/アルバム「修羅囃子」「無限の住人」等

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