現在19日に日付が変わったばかり。
先日、うちのの書棚にあった「ユリイカ」に手を伸ばしてみたところ、それは2000年度の中原中也賞が発表された号であり、そこには大賞受賞作が載っており、その詩人のインタビューなんぞも載っており、読んでみて、現代詩とはこういうものかと知った私は詩について詳しくはなく、所謂門外漢であり、詩を読んでみて、選評も読んでみて、ちょっと詳しくなった気になったりして、でも気付いてしまったりして、その詩の手法は私が勤務していたエロ本出版社で一番売れていた雑誌の編集長が得意としていたリズム感によって成り立っていて、それがその受賞者の詩のリズムの全てではないけれども、明らかに流れを汲んでいる詩もひとつではなく存在しており、その詩よりもその編集長が雑誌で書いていた文章の方が先に世に出ており、しかしエロ雑誌という特性からして受賞者は恐らく読んでおらず、選者も恐らく読んでおらず、それでも新鮮だとか言われていて、でも私からしたら言葉選びは斬新ながらもリズムに新鮮さは見出せず、性的表現にオブラートしか見出せず、その編集長のテイストで無記名ライターとして所謂代筆をもしていた私としては、むしろ読み飽きた感もあり、それでもエロ写真を伴わないそれは、まあ言われてみれば新鮮なのかなあ、という感想を抱かせ、でもそんな感想はまやかしで、ちっとも新鮮なんかではなく或る分野に於いては遣り尽くされた感のあるもので、極められた感のあるもので、専門バカという言葉を思い出させられたりし、視野は広く持たねばと自分を叱咤し、その詩を何度か読んでみた訳だが、はあそうですか、としか思えず、感受性が弱まっているのかとも思ったり、そうであろうと思わなかったり。
そして何故、こんな文体で日記を綴っているのかと言うと、友人と詩の話になったからであり、友人の詩を読ませてもらってテーマが現代的だと思い、いや普遍的だとも思い、たまたま読んだその中原中也賞の詩を思い出してしまい、同時に上記エロ雑誌を思い出してしまい、私がその雑誌で当時書いていた文章の勘を取り戻し、取り戻せきってはいないけれども、でも取り戻そうと思い、今回この文体で日記を綴っている訳であり、こういったように過去の自分の文体を駆使したり、他者の文体をパスティーシュしたり、独自の文体を用いたりといった、実験的な試みは本当は来年からする予定だったのだけれども、たまたま昨日の会話でその欲求が噴出してしまい、どうしてもこの文体で書いてみたくなってしまい、この文体は改行に気をつけなければ読み難くなるのも承知で、でもこのサイトでは句読点のぶら下げができないのも承知で、でも改行を使うとこれ迄の日記から明らかに浮いてしまうのも承知で、仕方なくこういう形になってしまっており、これを読んでくれている方々には申し訳ないという気持ちもほんの少しあり、けれども元々自分の為の日記だからいいやという気持ちの方が強く、だらだらと書いている次第。
この文体はとても書くのが楽な文体だということは、物書きなら端くれでも知っていることであり、物書きが読んだらこの日記は手抜き日記であり、情けないと思われかねない代物で、詠ずることある代物で、この辺りに普段のテイストを紛れ込ませているあざとさを自覚、あざとさを含めての自分を肯定しようと、そんな高尚な気持ちで書いている訳でもなく、思いつくままに、徒然に、長々と、だらだらと、こんな文章を綴って何になるのかと問われれば、そもさん、説破、自己満足、としか答えられず、文章訓練からは程遠く、怠け心から書いているのではないかと勘繰られようとも、単に文章が下手糞だと罵られようとも、文句の言いようがなくとも、書き始めたからには通しきらねばならず、ならずなどと言ってもそれは自分の都合であり、自分の規制であり、自分の勝手であり、他者には関係ない話であり、こんな文章でサーバ負荷をかけられる管理人さんごめんなさい、この辺でそんな気持ちが生じてきても書き始めてしまったので、書かせて貰いつつ自己嫌悪も混ざってきて、この日記をつけ始めてから自分の文章の何が進歩したかと問われると、やはり答えようがなく、精神安定には役立てども、文章鍛錬には役立たず、果たして、これが、将来の、礎に、本当に、なり得るのか、そんな考えが前頭葉を掠め取って、奪い取って、未だ廃人続行中につき、勘弁願いたく、自己弁護しつつ、生まれてすみません、そんな太宰な気分になったりする、けれども、私は太宰が嫌いであり、太宰は男性的だと思い、荷風のような文章が好きで、谷崎のような文章が好きで、でも、ゆあんゆよんも捨て難く、ガタギシと軋む線路を模した脳の皺は、今、こんな、文章しか、発車できないもので、始発駅も、終着駅もなく、幽霊列車、走る。走る。走る。
この文体で書いていた頃に、鍛えられたものは、文章のリズム感だったと思われ、それ以外のことには、これといって特に役立たなかった気もするが、それでもリズム感取得には十分であり、けれどもリズム感は取得するものではなく、矛盾が生じているのは私の文章表現能力が至らないからで、正しくはリズム感の鍛錬と書くべきであり、それは文章のリズム感は取得しようと思って得られるものではなく、過去の読書歴と読書の質と生まれもっての性質がものを言う部分で、努力して得られたリズム感というものは所詮技巧でしかなく、人に心地良さを感じさせる為の技術でしかなく、感動は与えられない代物で、それでもリズム感のない文章は、そもそも人の読む気を殺がせるに値するもので、そんなものは最早文章とは呼べないもので、記号の羅列、自己の羅刹、脳髄の羅漢から滴る水の如く土へと吸い込まれてゆき、その水は周囲の木々の養分になりはせず、周囲に木々など生えてはおらず、樹木は羅漢の遠き向こうの彼方のあちらに生息しており、土へと吸われた水はただ蒸発してゆくばかり、消費されてゆくばかり、雲として、再生産されることもなく、ただ、ただ、宙を、彷徨い、流離い、消えゆくばかり、世の儚さは人の夢であり、十年百年の時間を、草から大木へと、百花繚乱から一粒の種へと、そんなものは人の夢、儚き想いが語らせる夢、物の全ては朽ちる。朽ちる。朽ちる。
BGM/アルバム「ペテン師と空気男」
先日、うちのの書棚にあった「ユリイカ」に手を伸ばしてみたところ、それは2000年度の中原中也賞が発表された号であり、そこには大賞受賞作が載っており、その詩人のインタビューなんぞも載っており、読んでみて、現代詩とはこういうものかと知った私は詩について詳しくはなく、所謂門外漢であり、詩を読んでみて、選評も読んでみて、ちょっと詳しくなった気になったりして、でも気付いてしまったりして、その詩の手法は私が勤務していたエロ本出版社で一番売れていた雑誌の編集長が得意としていたリズム感によって成り立っていて、それがその受賞者の詩のリズムの全てではないけれども、明らかに流れを汲んでいる詩もひとつではなく存在しており、その詩よりもその編集長が雑誌で書いていた文章の方が先に世に出ており、しかしエロ雑誌という特性からして受賞者は恐らく読んでおらず、選者も恐らく読んでおらず、それでも新鮮だとか言われていて、でも私からしたら言葉選びは斬新ながらもリズムに新鮮さは見出せず、性的表現にオブラートしか見出せず、その編集長のテイストで無記名ライターとして所謂代筆をもしていた私としては、むしろ読み飽きた感もあり、それでもエロ写真を伴わないそれは、まあ言われてみれば新鮮なのかなあ、という感想を抱かせ、でもそんな感想はまやかしで、ちっとも新鮮なんかではなく或る分野に於いては遣り尽くされた感のあるもので、極められた感のあるもので、専門バカという言葉を思い出させられたりし、視野は広く持たねばと自分を叱咤し、その詩を何度か読んでみた訳だが、はあそうですか、としか思えず、感受性が弱まっているのかとも思ったり、そうであろうと思わなかったり。
そして何故、こんな文体で日記を綴っているのかと言うと、友人と詩の話になったからであり、友人の詩を読ませてもらってテーマが現代的だと思い、いや普遍的だとも思い、たまたま読んだその中原中也賞の詩を思い出してしまい、同時に上記エロ雑誌を思い出してしまい、私がその雑誌で当時書いていた文章の勘を取り戻し、取り戻せきってはいないけれども、でも取り戻そうと思い、今回この文体で日記を綴っている訳であり、こういったように過去の自分の文体を駆使したり、他者の文体をパスティーシュしたり、独自の文体を用いたりといった、実験的な試みは本当は来年からする予定だったのだけれども、たまたま昨日の会話でその欲求が噴出してしまい、どうしてもこの文体で書いてみたくなってしまい、この文体は改行に気をつけなければ読み難くなるのも承知で、でもこのサイトでは句読点のぶら下げができないのも承知で、でも改行を使うとこれ迄の日記から明らかに浮いてしまうのも承知で、仕方なくこういう形になってしまっており、これを読んでくれている方々には申し訳ないという気持ちもほんの少しあり、けれども元々自分の為の日記だからいいやという気持ちの方が強く、だらだらと書いている次第。
この文体はとても書くのが楽な文体だということは、物書きなら端くれでも知っていることであり、物書きが読んだらこの日記は手抜き日記であり、情けないと思われかねない代物で、詠ずることある代物で、この辺りに普段のテイストを紛れ込ませているあざとさを自覚、あざとさを含めての自分を肯定しようと、そんな高尚な気持ちで書いている訳でもなく、思いつくままに、徒然に、長々と、だらだらと、こんな文章を綴って何になるのかと問われれば、そもさん、説破、自己満足、としか答えられず、文章訓練からは程遠く、怠け心から書いているのではないかと勘繰られようとも、単に文章が下手糞だと罵られようとも、文句の言いようがなくとも、書き始めたからには通しきらねばならず、ならずなどと言ってもそれは自分の都合であり、自分の規制であり、自分の勝手であり、他者には関係ない話であり、こんな文章でサーバ負荷をかけられる管理人さんごめんなさい、この辺でそんな気持ちが生じてきても書き始めてしまったので、書かせて貰いつつ自己嫌悪も混ざってきて、この日記をつけ始めてから自分の文章の何が進歩したかと問われると、やはり答えようがなく、精神安定には役立てども、文章鍛錬には役立たず、果たして、これが、将来の、礎に、本当に、なり得るのか、そんな考えが前頭葉を掠め取って、奪い取って、未だ廃人続行中につき、勘弁願いたく、自己弁護しつつ、生まれてすみません、そんな太宰な気分になったりする、けれども、私は太宰が嫌いであり、太宰は男性的だと思い、荷風のような文章が好きで、谷崎のような文章が好きで、でも、ゆあんゆよんも捨て難く、ガタギシと軋む線路を模した脳の皺は、今、こんな、文章しか、発車できないもので、始発駅も、終着駅もなく、幽霊列車、走る。走る。走る。
この文体で書いていた頃に、鍛えられたものは、文章のリズム感だったと思われ、それ以外のことには、これといって特に役立たなかった気もするが、それでもリズム感取得には十分であり、けれどもリズム感は取得するものではなく、矛盾が生じているのは私の文章表現能力が至らないからで、正しくはリズム感の鍛錬と書くべきであり、それは文章のリズム感は取得しようと思って得られるものではなく、過去の読書歴と読書の質と生まれもっての性質がものを言う部分で、努力して得られたリズム感というものは所詮技巧でしかなく、人に心地良さを感じさせる為の技術でしかなく、感動は与えられない代物で、それでもリズム感のない文章は、そもそも人の読む気を殺がせるに値するもので、そんなものは最早文章とは呼べないもので、記号の羅列、自己の羅刹、脳髄の羅漢から滴る水の如く土へと吸い込まれてゆき、その水は周囲の木々の養分になりはせず、周囲に木々など生えてはおらず、樹木は羅漢の遠き向こうの彼方のあちらに生息しており、土へと吸われた水はただ蒸発してゆくばかり、消費されてゆくばかり、雲として、再生産されることもなく、ただ、ただ、宙を、彷徨い、流離い、消えゆくばかり、世の儚さは人の夢であり、十年百年の時間を、草から大木へと、百花繚乱から一粒の種へと、そんなものは人の夢、儚き想いが語らせる夢、物の全ては朽ちる。朽ちる。朽ちる。
BGM/アルバム「ペテン師と空気男」
これを記しているのは11月25日。
周囲を見回すと当然ながら私よりも優れた人間の方が多い。そして私もかくありたいと思う。もっと愛想よく、もっとしっかりと、もっと清潔に、もっと我慢強く、もっとてきぱきと、もっと利口に。見習って自身を向上させたいが、私が各方面に頑張るときっとこうなるだろう。いつもにたにたと笑い、やたら厳格で、とことん潔癖に、物凄く頑固で、ときどき機敏で。利口は真似しようと思ってできるものではないので除外し、その他を並べてみた。大変に気味が悪く、決してお近づきになりたくなさそうな人間像になってしまった。歪である。ただでさえ歪なのに更に各欠点を助長させそうだ。全部を取得したいと思うからいけないのだろうか。けれども欲張りな私は、どれかに絞って真似る・伸ばすなどはできそうもない。私に最も足りないものは何だろう。足りないものが多過ぎて、そもそも私がダメ、というような全否定に陥りそうである。
視点を変える。うちには小動物が2匹いる。その1匹が私の思う理想的な姿形と性格をしている。しなやかで触れると暖かく、器量が良く、人見知りせずに誰とでも仲良くなれ、知性的な瞳でじっと人を見詰める。意思表示はしっかりとし、甘え上手だが突き放したところもあり距離の取り方が適切で、我侭放題に見せつつも思いやりがある。わたしゃ女の天才なのさ、と言ったのは仲代桂子だが、この1匹の方が私には女の天才に思える。先日、近所のペットショップで同種の子たちを見たが、ある子は愛想はいいが知性が足りなさそうであり、ある子は知性は満ち満ちていたが愛想が足りなかった。うちの子は両方を満たして余りある。飼い主莫迦・莫迦飼い主と思われそうだが、そう言い切れはしないだろう。私の周囲のこの種類がさほど好きではない者たちも、男女を問わず皆この1匹の虜となっている。可愛い、美声、利口など様々な褒め言葉をこの1匹に浴びせて賛美するのだ。この1匹は、人を魅了する要素を凝縮した生き物ではないか。この1匹の名は、生まれ月の誕生石をもじった物である。小洒落ていつつも呼びやすく、可愛らしい名前だと我ながら思う。そしてその名に相応しく育ってくれた。私がひとり暮しをしていた頃、よく友人らに語っていたことがある。彼氏は私よりも小動物らを大切にしてくれる人じゃないと嫌だ。うちのは私よりもこの小動物らの方が可愛いらしい。特にこの1匹にはメロメロである。この1匹もうちののことを彼氏だと思っており、私のことを使用人だと思っている様子がありありと見て取れる。因みにもう1匹にとっても私は使用人である。悲しい。
そんな訳で、あらゆる魅力を詰め込んだこの1匹から人を惹き付ける秘訣を盗みたく、いろいろと試行錯誤しているのだがなかなか上手くいかない。種は違うが魅力を言葉にできるということは、その言葉を人間に当て嵌めて我が身で表現できればいいのだ。……困難。私が育てたのだからこの1匹が兼ね備えた魅力は、私の中の眠れる魅力だと思っていたのだが甘かった。私はそんなに可愛くも賢くもないし、表現力に至っては足元にも及ばない。これが天賦の才というものか。仲代桂子は幼少時から並々ならぬ努力をして女の天才になった。けれど彼女は強すぎる。うちの1匹にある隙がない。隙とは男女問わずモテの最大要素のひとつである。モテ要素とは彼氏彼女を作る際にも必要ではあるがそれだけではなく、円滑な人間関係、特に第一印象を決めるに重要な要素である。私はうちのによりモテたく、また円滑な人間関係を築きたいので周囲の人間やこの1匹の魅力や長所を分析している。分析はかなりできていると思うのだが、それを自身にトレースすることの難しさはこの上ない。
昨日来た憧れの友人がトイレに立ったとき、私はうちのにこう言った。彼女は私の思う女の子の理想形。うちのは私にこう言った。真似すればいいじゃん。簡単に言ってくれるが、それは気まずかろう。人をそのまま真似るなら遠い人でなければならない、というのが持論である。近しい相手だと真似られていることに気付いたとき、真似ていることに気付かれたとき、お互いに非常に嫌な気分になると思うのだ。なので彼女の魅力を直接真似ようとは思わない。また真似ようと思って真似られるものでもない。これは女の天才である、うちの小動物の1匹にも同じことが言える。私も気付いてはいるのだ。各々の魅力は真似ようと思って真似られるものではないし、また真似できたところでそれは他者の魅力のトレースでしかなく、そこから自身のオリジナルにしていくのは困難であることを。ならば自分を魅力的な人間にしていく為にはどうすればいいか。既に持っている魅力を他の欠点が霞むくらいに伸ばしつつ、欠点を少しずつ直していけばいい。
そして自身を振り返る。私が既に持っている魅力とは何だろう。直すべき欠点は何だろう。後者は数限りなく思いつくが、前者がさっぱり思い付かない。他者に褒められる箇所がない訳ではない。しかしそれらが自分で納得できない。褒められても自分のそれは大したことがないと思ってしまう。卑下しているつもりはない。完璧主義の悪しき点がここにも表れてしまっているのだ。褒められれば有難うと答える。けれど内心では、まだまだなのに……、と思う。まだまだということは、どこかに到達点があるかのようだが、そんなものはない。どこまで行けば自身の納得が伴うのか判らない。そんな見果てぬ先を見て、まだまだと落ち込む。長らく書いていないが、履歴書に自分の長所を書く欄がある。昔、この欄にとても悩まされた。思いつかないのである。悩みに悩んで、私の短所の表現の角度を変え、長所らしく書くようになった。角度を変えれば、言葉を変えれば、長所は短所に、短所は長所に置換可能なのだ。私の脳は自動卑下置換機能が働いているのだろうか。他者を見て、褒められて育った人間は強い、と思う。私は小動物らが悪さをしない限りは褒めて育てた。褒められると自信がつくのは種に関係ないのだろう。愛されている実感がある生き物は、自然と自分を大切にできるようになる。他者への愛と自己愛のバランスが取れている人は見ていて気持ちがいい。私も上手いバランスを見つけたい。呪詛が解けたとき、それが見つかる気がする。早く解放され、自身を愛せるようになりたい。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
周囲を見回すと当然ながら私よりも優れた人間の方が多い。そして私もかくありたいと思う。もっと愛想よく、もっとしっかりと、もっと清潔に、もっと我慢強く、もっとてきぱきと、もっと利口に。見習って自身を向上させたいが、私が各方面に頑張るときっとこうなるだろう。いつもにたにたと笑い、やたら厳格で、とことん潔癖に、物凄く頑固で、ときどき機敏で。利口は真似しようと思ってできるものではないので除外し、その他を並べてみた。大変に気味が悪く、決してお近づきになりたくなさそうな人間像になってしまった。歪である。ただでさえ歪なのに更に各欠点を助長させそうだ。全部を取得したいと思うからいけないのだろうか。けれども欲張りな私は、どれかに絞って真似る・伸ばすなどはできそうもない。私に最も足りないものは何だろう。足りないものが多過ぎて、そもそも私がダメ、というような全否定に陥りそうである。
視点を変える。うちには小動物が2匹いる。その1匹が私の思う理想的な姿形と性格をしている。しなやかで触れると暖かく、器量が良く、人見知りせずに誰とでも仲良くなれ、知性的な瞳でじっと人を見詰める。意思表示はしっかりとし、甘え上手だが突き放したところもあり距離の取り方が適切で、我侭放題に見せつつも思いやりがある。わたしゃ女の天才なのさ、と言ったのは仲代桂子だが、この1匹の方が私には女の天才に思える。先日、近所のペットショップで同種の子たちを見たが、ある子は愛想はいいが知性が足りなさそうであり、ある子は知性は満ち満ちていたが愛想が足りなかった。うちの子は両方を満たして余りある。飼い主莫迦・莫迦飼い主と思われそうだが、そう言い切れはしないだろう。私の周囲のこの種類がさほど好きではない者たちも、男女を問わず皆この1匹の虜となっている。可愛い、美声、利口など様々な褒め言葉をこの1匹に浴びせて賛美するのだ。この1匹は、人を魅了する要素を凝縮した生き物ではないか。この1匹の名は、生まれ月の誕生石をもじった物である。小洒落ていつつも呼びやすく、可愛らしい名前だと我ながら思う。そしてその名に相応しく育ってくれた。私がひとり暮しをしていた頃、よく友人らに語っていたことがある。彼氏は私よりも小動物らを大切にしてくれる人じゃないと嫌だ。うちのは私よりもこの小動物らの方が可愛いらしい。特にこの1匹にはメロメロである。この1匹もうちののことを彼氏だと思っており、私のことを使用人だと思っている様子がありありと見て取れる。因みにもう1匹にとっても私は使用人である。悲しい。
そんな訳で、あらゆる魅力を詰め込んだこの1匹から人を惹き付ける秘訣を盗みたく、いろいろと試行錯誤しているのだがなかなか上手くいかない。種は違うが魅力を言葉にできるということは、その言葉を人間に当て嵌めて我が身で表現できればいいのだ。……困難。私が育てたのだからこの1匹が兼ね備えた魅力は、私の中の眠れる魅力だと思っていたのだが甘かった。私はそんなに可愛くも賢くもないし、表現力に至っては足元にも及ばない。これが天賦の才というものか。仲代桂子は幼少時から並々ならぬ努力をして女の天才になった。けれど彼女は強すぎる。うちの1匹にある隙がない。隙とは男女問わずモテの最大要素のひとつである。モテ要素とは彼氏彼女を作る際にも必要ではあるがそれだけではなく、円滑な人間関係、特に第一印象を決めるに重要な要素である。私はうちのによりモテたく、また円滑な人間関係を築きたいので周囲の人間やこの1匹の魅力や長所を分析している。分析はかなりできていると思うのだが、それを自身にトレースすることの難しさはこの上ない。
昨日来た憧れの友人がトイレに立ったとき、私はうちのにこう言った。彼女は私の思う女の子の理想形。うちのは私にこう言った。真似すればいいじゃん。簡単に言ってくれるが、それは気まずかろう。人をそのまま真似るなら遠い人でなければならない、というのが持論である。近しい相手だと真似られていることに気付いたとき、真似ていることに気付かれたとき、お互いに非常に嫌な気分になると思うのだ。なので彼女の魅力を直接真似ようとは思わない。また真似ようと思って真似られるものでもない。これは女の天才である、うちの小動物の1匹にも同じことが言える。私も気付いてはいるのだ。各々の魅力は真似ようと思って真似られるものではないし、また真似できたところでそれは他者の魅力のトレースでしかなく、そこから自身のオリジナルにしていくのは困難であることを。ならば自分を魅力的な人間にしていく為にはどうすればいいか。既に持っている魅力を他の欠点が霞むくらいに伸ばしつつ、欠点を少しずつ直していけばいい。
そして自身を振り返る。私が既に持っている魅力とは何だろう。直すべき欠点は何だろう。後者は数限りなく思いつくが、前者がさっぱり思い付かない。他者に褒められる箇所がない訳ではない。しかしそれらが自分で納得できない。褒められても自分のそれは大したことがないと思ってしまう。卑下しているつもりはない。完璧主義の悪しき点がここにも表れてしまっているのだ。褒められれば有難うと答える。けれど内心では、まだまだなのに……、と思う。まだまだということは、どこかに到達点があるかのようだが、そんなものはない。どこまで行けば自身の納得が伴うのか判らない。そんな見果てぬ先を見て、まだまだと落ち込む。長らく書いていないが、履歴書に自分の長所を書く欄がある。昔、この欄にとても悩まされた。思いつかないのである。悩みに悩んで、私の短所の表現の角度を変え、長所らしく書くようになった。角度を変えれば、言葉を変えれば、長所は短所に、短所は長所に置換可能なのだ。私の脳は自動卑下置換機能が働いているのだろうか。他者を見て、褒められて育った人間は強い、と思う。私は小動物らが悪さをしない限りは褒めて育てた。褒められると自信がつくのは種に関係ないのだろう。愛されている実感がある生き物は、自然と自分を大切にできるようになる。他者への愛と自己愛のバランスが取れている人は見ていて気持ちがいい。私も上手いバランスを見つけたい。呪詛が解けたとき、それが見つかる気がする。早く解放され、自身を愛せるようになりたい。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
上手く褒めることができるように
2003年11月23日 雑感・所感 これを記しているのは11月25日。
昨日の朝、憧れの友人から電話があった。いきなり、ごめんね、と言う。そして、寝てた? と質問。起きていたよ、と答えてもまた、ごめん、と謝る。起きていたのだから何も問題はないのに何故に謝られるのか。今、都内某所にいるのだけれど今日会える? と。成る程。当日誘いが禁忌の私に、それをしようとしていた故の先制謝罪だったか。久々だし、滅多に会えないし、当然OKする。何時くらいならいい? の問いに、何時でもいいよ、と答えると驚かれた。彼女は私をよく知っているので、私が入浴する為に数時間は待たされると思っていたらしい。本当に偶然なのだが、私は前日に顔を洗っていて産毛処理、眉の手入れ、ガスールパック迄していた。歯磨きもし、脂落とし迄していた。問題は体と髪だ。体は冬なので露出も少ないし小綺麗な恰好をしていれば問題なかろう。彼女がいるという都内某所からうち迄の距離を考えると、その間に髪をシャンプーして整えられるだろうと計算しての、何時でもいいよ、だった。彼女が私の最寄り駅に到着したら再度電話をもらえるよう約束して切った。急いでうちのの朝食を買いに行き、戻ってすぐにシャンプー。急いでいてもプレシャンプーが省けなかったのはやはり宜しくない。けれどもどうにか彼女から到着を知らせる電話をもらったときには、髪も乾かし身なりもそれなりに整っていたので、必要以上に待たせることなく出かけられた。前日にパックだなんだとしていたのは、何かの虫の知らせだったのだろうか?
会って食事をしながらコスメ談義。彼女は友人連中の中でもコスメやファッションへのアンテナが高いので、ひとつひとつ説明しなくてもどこどこのアレと言えば、それ以上の説明をしなくても会話が続くので楽だ。特にコフレ類などは説明が面倒なのだ。彼女は今年はクリスマスコフレ・クリスマス限定色ラッシュを耐えているらしかった。私も本来ならずぶずぶにコスメフリークの春を満喫している予定だったのに、周辺事情のゴタゴタにより情報収集がままならず何も購入していない。ボーテ・ド・コーセーのキットが好評らしいと知ったのは一昨日辺りだが、きっともう完売しているだろう。ボビィの限定縞々チークに狙いを絞るか、と考えているが、ランコムの秋の限定チークも未使用なのにまたチークってのもなあ、と悩んでいる。やはりタイムリセットキットの美容液にするのが無難か。食事の前に彼女が鞄から「症例A」を取り出して、今読んでいるんだ、と言っていたのが嬉しかった。自分が面白いと思ったり何かを感じさせられたりした物を薦め、身近な人間がそれを手にしてくれるのを私はとても嬉しく思う。そして同じような感想を持ってくれると更に嬉しい。それからフリーマーケットを覗いて少し買い物。一目見て気に入った黒の羊革コートがあったが高いので諦め、他の店で安価なシャツやスカートなどを購入。途中何度か彼女に、これどう? と訊かれたので全てに、いいんじゃない? と答える。どうも止めて欲しくて訊いていたらしい。知らん。似合わない物ならば止めるが、彼女が選ぶ物は無難なものが多かったので止めようがなかったのだ。私が手に取る物を見て彼女が言った。相変わらず小花柄好きだね。小花柄好き……自覚がなかったのだがワードローブを思い出し、納得。彼女曰く、どうやら学生時代から私は小花柄好きだったらしい。彼女に限らず観察眼の鋭い友人は有難い。自覚のないところに気付いてくれ、指摘してくれるからだ。当分は小花柄は控えよう。
その後やっとうちに招待。うちのは布団で寝ていると思っていたのに、布団を上げ、パジャマから普段着へと着替え、テーブルをあるべき位置に置き体裁を整えてくれていた。そこから雑談という名の、彼女とうちのとによる私を莫迦にする会話が始まる。失礼な! 眼鏡と髭と袴の何が悪いのか! どれだけ良さを語ろうとふたりに全て却下される。そんなに好みが悪いのだろうか……。それから彼女と私とで、女の子は服が欲しいものなんだ! とうちのに力説。この話でうちのによる私への、服多すぎにつき処分しろ攻撃が軽減されるかと思ったが、彼女は服の多さに反省をし減らす努力をしなければと思っていたので作戦失敗。しかし購入したまま隠していたブーツなどを、この機会にうちのに見せられたのはよかった。私はいつも違う服を着ているとうちのは言う。いつもというのは、着替えるたびにという意味だが。そしてそのたびに質問される。それ、いつ買ったの? と。私の答えは2パターンである。ひとつは、前から持っていた。もうひとつは、かなり前。その都度、適当に答えているのでどの服にどちらで答えたかは覚えていない。干しっぱなしになっているスウェットについて話しているときに、うちのに再び質問され、以前答えたものと違う方を答えてしまって焦った。彼女には、自分がついた嘘くらい覚えておけ、と突っ込まれる。確かに。普段なら以前と違う回答をしたことにぐちぐちと文句を言ううちのだが、彼女がいたお陰で私の適当さに話が逸れて助かる。普段なら私が話を逸らそうとしても追求してくるのに。うちのはとにかく外面がいいのだ。
帰路に着く彼女を駅まで送っているときにうちのの印象を訊いてみる。案の定、外見・中身共にいい印象を持ったらしい。またこの日記を読んでいた彼女は、うちのと私はもっと険悪な仲だと思っていたらしい。よく誤解されるのだが、うちは喧嘩になるとお互いに徹底的に相手を攻撃し、ふたりとも精神的にとても消耗するのだが、通常はとても仲が良い。4年も一緒に生活しているとは思えないくらいに仲良しだ。ただ友人にうちのの話をするときやこの日記を書く際は、どうしても愚痴が多くなる。これだけ長く一緒にいると、相手の長所は生活に埋没し短所が目立つ。因って愚痴が多くなる。長所を語ろうと思うと惚気になりそうで気恥ずかしいというのもある。他者に上手く連れ合いを褒めることができる人間は格好よく思う。きっと大切なのはさりげなさなのだろう。もっと長く一緒にいれば上手く褒められるようになるのだろうか、それとも努力が必要なのだろうか。私はどちらかといえば、せっかちである。長くを待つのはまどろっこしいので、褒めることができるよう手っ取り早く努力をしてみたい。
BGM/アルバム「修羅囃子」
昨日の朝、憧れの友人から電話があった。いきなり、ごめんね、と言う。そして、寝てた? と質問。起きていたよ、と答えてもまた、ごめん、と謝る。起きていたのだから何も問題はないのに何故に謝られるのか。今、都内某所にいるのだけれど今日会える? と。成る程。当日誘いが禁忌の私に、それをしようとしていた故の先制謝罪だったか。久々だし、滅多に会えないし、当然OKする。何時くらいならいい? の問いに、何時でもいいよ、と答えると驚かれた。彼女は私をよく知っているので、私が入浴する為に数時間は待たされると思っていたらしい。本当に偶然なのだが、私は前日に顔を洗っていて産毛処理、眉の手入れ、ガスールパック迄していた。歯磨きもし、脂落とし迄していた。問題は体と髪だ。体は冬なので露出も少ないし小綺麗な恰好をしていれば問題なかろう。彼女がいるという都内某所からうち迄の距離を考えると、その間に髪をシャンプーして整えられるだろうと計算しての、何時でもいいよ、だった。彼女が私の最寄り駅に到着したら再度電話をもらえるよう約束して切った。急いでうちのの朝食を買いに行き、戻ってすぐにシャンプー。急いでいてもプレシャンプーが省けなかったのはやはり宜しくない。けれどもどうにか彼女から到着を知らせる電話をもらったときには、髪も乾かし身なりもそれなりに整っていたので、必要以上に待たせることなく出かけられた。前日にパックだなんだとしていたのは、何かの虫の知らせだったのだろうか?
会って食事をしながらコスメ談義。彼女は友人連中の中でもコスメやファッションへのアンテナが高いので、ひとつひとつ説明しなくてもどこどこのアレと言えば、それ以上の説明をしなくても会話が続くので楽だ。特にコフレ類などは説明が面倒なのだ。彼女は今年はクリスマスコフレ・クリスマス限定色ラッシュを耐えているらしかった。私も本来ならずぶずぶにコスメフリークの春を満喫している予定だったのに、周辺事情のゴタゴタにより情報収集がままならず何も購入していない。ボーテ・ド・コーセーのキットが好評らしいと知ったのは一昨日辺りだが、きっともう完売しているだろう。ボビィの限定縞々チークに狙いを絞るか、と考えているが、ランコムの秋の限定チークも未使用なのにまたチークってのもなあ、と悩んでいる。やはりタイムリセットキットの美容液にするのが無難か。食事の前に彼女が鞄から「症例A」を取り出して、今読んでいるんだ、と言っていたのが嬉しかった。自分が面白いと思ったり何かを感じさせられたりした物を薦め、身近な人間がそれを手にしてくれるのを私はとても嬉しく思う。そして同じような感想を持ってくれると更に嬉しい。それからフリーマーケットを覗いて少し買い物。一目見て気に入った黒の羊革コートがあったが高いので諦め、他の店で安価なシャツやスカートなどを購入。途中何度か彼女に、これどう? と訊かれたので全てに、いいんじゃない? と答える。どうも止めて欲しくて訊いていたらしい。知らん。似合わない物ならば止めるが、彼女が選ぶ物は無難なものが多かったので止めようがなかったのだ。私が手に取る物を見て彼女が言った。相変わらず小花柄好きだね。小花柄好き……自覚がなかったのだがワードローブを思い出し、納得。彼女曰く、どうやら学生時代から私は小花柄好きだったらしい。彼女に限らず観察眼の鋭い友人は有難い。自覚のないところに気付いてくれ、指摘してくれるからだ。当分は小花柄は控えよう。
その後やっとうちに招待。うちのは布団で寝ていると思っていたのに、布団を上げ、パジャマから普段着へと着替え、テーブルをあるべき位置に置き体裁を整えてくれていた。そこから雑談という名の、彼女とうちのとによる私を莫迦にする会話が始まる。失礼な! 眼鏡と髭と袴の何が悪いのか! どれだけ良さを語ろうとふたりに全て却下される。そんなに好みが悪いのだろうか……。それから彼女と私とで、女の子は服が欲しいものなんだ! とうちのに力説。この話でうちのによる私への、服多すぎにつき処分しろ攻撃が軽減されるかと思ったが、彼女は服の多さに反省をし減らす努力をしなければと思っていたので作戦失敗。しかし購入したまま隠していたブーツなどを、この機会にうちのに見せられたのはよかった。私はいつも違う服を着ているとうちのは言う。いつもというのは、着替えるたびにという意味だが。そしてそのたびに質問される。それ、いつ買ったの? と。私の答えは2パターンである。ひとつは、前から持っていた。もうひとつは、かなり前。その都度、適当に答えているのでどの服にどちらで答えたかは覚えていない。干しっぱなしになっているスウェットについて話しているときに、うちのに再び質問され、以前答えたものと違う方を答えてしまって焦った。彼女には、自分がついた嘘くらい覚えておけ、と突っ込まれる。確かに。普段なら以前と違う回答をしたことにぐちぐちと文句を言ううちのだが、彼女がいたお陰で私の適当さに話が逸れて助かる。普段なら私が話を逸らそうとしても追求してくるのに。うちのはとにかく外面がいいのだ。
帰路に着く彼女を駅まで送っているときにうちのの印象を訊いてみる。案の定、外見・中身共にいい印象を持ったらしい。またこの日記を読んでいた彼女は、うちのと私はもっと険悪な仲だと思っていたらしい。よく誤解されるのだが、うちは喧嘩になるとお互いに徹底的に相手を攻撃し、ふたりとも精神的にとても消耗するのだが、通常はとても仲が良い。4年も一緒に生活しているとは思えないくらいに仲良しだ。ただ友人にうちのの話をするときやこの日記を書く際は、どうしても愚痴が多くなる。これだけ長く一緒にいると、相手の長所は生活に埋没し短所が目立つ。因って愚痴が多くなる。長所を語ろうと思うと惚気になりそうで気恥ずかしいというのもある。他者に上手く連れ合いを褒めることができる人間は格好よく思う。きっと大切なのはさりげなさなのだろう。もっと長く一緒にいれば上手く褒められるようになるのだろうか、それとも努力が必要なのだろうか。私はどちらかといえば、せっかちである。長くを待つのはまどろっこしいので、褒めることができるよう手っ取り早く努力をしてみたい。
BGM/アルバム「修羅囃子」
文明の利器が刺激するコンプレックス
2003年11月3日 雑感・所感 久々に憧れのかわいい友人からメールがきた。ので、電話した。私はメールを貰っても遠方の友人でなければ返信では済ませず、電話をかけることが多い。近況報告が短く済まないからである。また声で相手の調子が判るのも良い。特にこの友人は自分の都合の悪いときには電話には出ないので、相手の時間の都合なども余り考える必要がなく気軽にかけられる。以前聞いたことだが、彼女にとって電話とは自分の都合の良いときにかけ、自分の都合の良いときにのみ出るものらしい。この考え方は良いと思う。私は自分に都合が悪いときにでも電話に出てしまう。発作の真っ只中で呼吸さえも苦しいときにでも、電話が鳴れば出る。莫迦である。そんな状況にあるのに電話に出る必要はないのだ。なのに条件反射的に出てしまうのは悪い癖のひとつなのだろう。電話がかかってきているのに出ないという行為にとても罪悪感を感じてしまう。かけてきてくれた相手に申し訳なさを感じてしまうのだ。不必要である。電話とは一方的に用件のある人間が相手にかけるものであり、強制されるものではない筈なのに。私の電話への考え方は親からの刷り込みが強いと思われる。
私の親は彼女の考え方を否定する。最近勤務し始めた中の人の考えは解らないが、前の中の人は否定していた。理由は、緊急時の電話かもしれないのに、ということらしい。例え出なくとも、緊急時ならば留守電が残されるであろう。それを聞いてかけ直せばいいのである。私が実家に電話をするときに、留守電テープが回ることがよくある。大概に於いては大した用事ではないので何も吹き込まずに切る。暫くして親から電話がかかってくる。そして怒られる。なんで何も吹き込まないの! と。大した用事ではないから吹き込まないだけなのだが、親は大層気になってしまうらしい。そしてまた何も吹き込んでいないにも拘らず、私のところに電話してくるのが凄い。私か親戚の一部しか実家に電話する者はいないので、まずは私だと思うようなのだ。かかってきて訊かれれば、さっきかけたのは私だ、と答える。すると、何故何も吹き込まないのか! と怒られる。吹き込むも吹き込まないもかけた者の自由だと思うのだが、我が実家に於いては留守電には必ず吹き込むというルールがあるらしい。知らん。そんなルールを強要されても困る。が、毎度怒られるのも嫌なのでそれからは、またかける、とだけ吹き込むようにしている。
留守電は嫌いなのだ。他者から私の電話に残される留守電は構わない。自分が他者の留守電に声を残すのがとても苦手なのである。私は子供の頃から自分の声が嫌いでならないのだ。貧乳に次ぐ第二のコンプレックスである。私の声は区別するならばソプラノだ。ソプラノと書けば聞こえがいいが、単に高いのだ。そしてこれは直したいところだが、どちらかといえば早口である。高い声の早口は聞き取りづらい。よって留守電に吹き込むときは意識的にのんびりした口調に変える。一度その残された声を自分で聞いたことがある。私の脳内ではその口調は、のんびり且つおっとりであった……筈なのに単に間延びしていた。間延びというか、間抜けというか、とにかく印象のいい言葉では括りようのない口調であった。即座に消した。私の口調に訛りはない。しかしイントネーションが独特であるらしい。数人の他者から指摘されたことがある。気になるが、指摘してきた他者に訊いても具体的には教えてもらえなかった。聞き流せる程度ではあり、敢えて訊かれても答えられない物らしい。それでも気になる。直したいと思っても自覚は全くないので、どこを直せばいいのか皆目見当が付かない。他者と会話を交わすのは好きだ。私はよく喋る。それは全て、その場だけの会話、であるという前提に則ってのことである。残るのがとにかく嫌なのだ。
他者、特に男性からは声や口調を褒められることがよくあった。高くて可愛い声、おっとりした口調と評された。むず痒かった。自分の持っている印象と余りに違う褒め言葉をかけられたとき、他者はどう思うのだろう。素直に喜んだりするのだろうか? 私はダメである。相手の持ってくれている印象を、自分の持っている印象を基準に全力で否定してしまう。ここで否定できないとお前は死ぬのか? と言われるくらいの全力だ。元来褒められるのが苦手である。自己否定を固まりにしてそこにサントリーのウーロン茶を60〜70%加えてできているのが私なのだ。自覚できている長所やいい点が全くない訳ではない。それらを褒められれば素直に有難うと言える。しかし思ってもいない箇所・欠点だと思っている箇所は褒められたくない。対応に困るからだ。褒められて、さらっとお礼を言ってかわせる人が世の中にはいる。とても羨ましく思うし、そのかわす技を盗みたく思うのだが、なかなか上手くいかない。ああいう人はどこでその技を取得しているのだろう。道場でもあるのだろうか。褒められてさらっとかわせる人間は得てして他者に好印象を与え、卑下したり否定したりする者は可愛げがないと思われ易い。損である。損は嫌いだ。どうにか上手くかわせるようになりたい。女性誌を読んでいると、よくモノクロページでこの手の小特集があったりする。当然、年甲斐もなく熱心に熟読する。……私にはできない。小恥ずかしくて溜まらない。いたたまれない気持ちに襲われる。照れ屋という便利な言葉もあるが、全力で否定してかかるのはどう考えても可愛くない。ときには褒めた相手に、もしかして悪いことを言ったのか? と思わせてしまったりする。最悪である。
先日、顔が小さい、と他者に言われた。生まれてこの方、3回程度しか言われていない言葉であり、大多数の友人・知人は私のことを大顔面と判ってくれているので、私も自分の顔の大きさをネタにすることもある。そのとき言ってくれた相手は明らかに私よりも顔が小さかった。嫌味か? とも思ったがどうやら本気であったらしい。気が触れている訳でもなさそうであり対処に困った。だから全力で否定。思っていないどころか欠点だと自覚している箇所をそのように言われたのだから、否定するにも焦る気持ちが先走って見当外れなことを言ってしまった。「いや! 座高高いし!」「でも! 普段モンペだし!」。全く以って相手の褒め言葉と噛み合っていなかったことに気付いたのは帰宅後である。この否定により相手は私を面白い人だと更に良い解釈をしてくれたらしい。彼女は私を大誤解している。彼女が思っている私は、私ではない人間のようだ。そのまま勘違いしていて欲しい。化けの皮が剥がれるのが大変に恐ろしい。前にいい誤解をされたいと書いたが、それもよくはなさそうだ。素の自分を受け入れてくれる長年の友人たちに多謝。
私の親は彼女の考え方を否定する。最近勤務し始めた中の人の考えは解らないが、前の中の人は否定していた。理由は、緊急時の電話かもしれないのに、ということらしい。例え出なくとも、緊急時ならば留守電が残されるであろう。それを聞いてかけ直せばいいのである。私が実家に電話をするときに、留守電テープが回ることがよくある。大概に於いては大した用事ではないので何も吹き込まずに切る。暫くして親から電話がかかってくる。そして怒られる。なんで何も吹き込まないの! と。大した用事ではないから吹き込まないだけなのだが、親は大層気になってしまうらしい。そしてまた何も吹き込んでいないにも拘らず、私のところに電話してくるのが凄い。私か親戚の一部しか実家に電話する者はいないので、まずは私だと思うようなのだ。かかってきて訊かれれば、さっきかけたのは私だ、と答える。すると、何故何も吹き込まないのか! と怒られる。吹き込むも吹き込まないもかけた者の自由だと思うのだが、我が実家に於いては留守電には必ず吹き込むというルールがあるらしい。知らん。そんなルールを強要されても困る。が、毎度怒られるのも嫌なのでそれからは、またかける、とだけ吹き込むようにしている。
留守電は嫌いなのだ。他者から私の電話に残される留守電は構わない。自分が他者の留守電に声を残すのがとても苦手なのである。私は子供の頃から自分の声が嫌いでならないのだ。貧乳に次ぐ第二のコンプレックスである。私の声は区別するならばソプラノだ。ソプラノと書けば聞こえがいいが、単に高いのだ。そしてこれは直したいところだが、どちらかといえば早口である。高い声の早口は聞き取りづらい。よって留守電に吹き込むときは意識的にのんびりした口調に変える。一度その残された声を自分で聞いたことがある。私の脳内ではその口調は、のんびり且つおっとりであった……筈なのに単に間延びしていた。間延びというか、間抜けというか、とにかく印象のいい言葉では括りようのない口調であった。即座に消した。私の口調に訛りはない。しかしイントネーションが独特であるらしい。数人の他者から指摘されたことがある。気になるが、指摘してきた他者に訊いても具体的には教えてもらえなかった。聞き流せる程度ではあり、敢えて訊かれても答えられない物らしい。それでも気になる。直したいと思っても自覚は全くないので、どこを直せばいいのか皆目見当が付かない。他者と会話を交わすのは好きだ。私はよく喋る。それは全て、その場だけの会話、であるという前提に則ってのことである。残るのがとにかく嫌なのだ。
他者、特に男性からは声や口調を褒められることがよくあった。高くて可愛い声、おっとりした口調と評された。むず痒かった。自分の持っている印象と余りに違う褒め言葉をかけられたとき、他者はどう思うのだろう。素直に喜んだりするのだろうか? 私はダメである。相手の持ってくれている印象を、自分の持っている印象を基準に全力で否定してしまう。ここで否定できないとお前は死ぬのか? と言われるくらいの全力だ。元来褒められるのが苦手である。自己否定を固まりにしてそこにサントリーのウーロン茶を60〜70%加えてできているのが私なのだ。自覚できている長所やいい点が全くない訳ではない。それらを褒められれば素直に有難うと言える。しかし思ってもいない箇所・欠点だと思っている箇所は褒められたくない。対応に困るからだ。褒められて、さらっとお礼を言ってかわせる人が世の中にはいる。とても羨ましく思うし、そのかわす技を盗みたく思うのだが、なかなか上手くいかない。ああいう人はどこでその技を取得しているのだろう。道場でもあるのだろうか。褒められてさらっとかわせる人間は得てして他者に好印象を与え、卑下したり否定したりする者は可愛げがないと思われ易い。損である。損は嫌いだ。どうにか上手くかわせるようになりたい。女性誌を読んでいると、よくモノクロページでこの手の小特集があったりする。当然、年甲斐もなく熱心に熟読する。……私にはできない。小恥ずかしくて溜まらない。いたたまれない気持ちに襲われる。照れ屋という便利な言葉もあるが、全力で否定してかかるのはどう考えても可愛くない。ときには褒めた相手に、もしかして悪いことを言ったのか? と思わせてしまったりする。最悪である。
先日、顔が小さい、と他者に言われた。生まれてこの方、3回程度しか言われていない言葉であり、大多数の友人・知人は私のことを大顔面と判ってくれているので、私も自分の顔の大きさをネタにすることもある。そのとき言ってくれた相手は明らかに私よりも顔が小さかった。嫌味か? とも思ったがどうやら本気であったらしい。気が触れている訳でもなさそうであり対処に困った。だから全力で否定。思っていないどころか欠点だと自覚している箇所をそのように言われたのだから、否定するにも焦る気持ちが先走って見当外れなことを言ってしまった。「いや! 座高高いし!」「でも! 普段モンペだし!」。全く以って相手の褒め言葉と噛み合っていなかったことに気付いたのは帰宅後である。この否定により相手は私を面白い人だと更に良い解釈をしてくれたらしい。彼女は私を大誤解している。彼女が思っている私は、私ではない人間のようだ。そのまま勘違いしていて欲しい。化けの皮が剥がれるのが大変に恐ろしい。前にいい誤解をされたいと書いたが、それもよくはなさそうだ。素の自分を受け入れてくれる長年の友人たちに多謝。
株価上昇の裏に見る絶対評価導入の緊急性並びに必要性
2003年10月31日 雑感・所感 現在30日から31日に日付が変更されたばかり。
本日、西洋では南瓜の行灯を持って黒装束を身に纏った餓鬼共が隣り近所を回って脅迫をしつつお菓子を分捕るという行事が実行されるようである。西洋の皆様、気をつけてください。日本にそんな行事がなくて本当に良かった。大人しく南瓜の煮付けでも食すのが秋の夜長の正しい日本人の姿である。
そんな秋の夜長の大半を私はひとりで過ごしている。うちのが帰宅しないのだ。楽である。小言も言われなければセクハラもされず、好きなことをして遊んで夜更かしをしていても嫌味を言われない……淋しい。今夜はタクシーで帰宅すると言ってはいたが本当に帰ってこれるのだろうか? 尋常ではない仕事量に追われ、物凄く忙しそうである。昨日の朝、数日振りに顔を合わせた。げっそりとげんなりと帰宅し、早々に床に就き、90分だけ睡眠を取ってまた背中に哀愁を漂わせつつ出社した。朝ごはんも「作ってくれ」と言いつつ1/3程度しか食べなかったので栄養剤を飲ませて見送った。顔色が緑がかっていた気がする。死に体とはあのような姿のことを言うのだろう。代わりたくても手伝いたくても無理な話であり、本人に頑張って貰うしかない。本気で退社したいようである。生活できるだけの収入が得られれば転職してもらっても私は一向に構わない。うちのの会社はこのご時世にしてはいい給与を出してくれている。しかし仕事量とその給与を秤にかけると決して高くない。むしろ安い。うちのの仕事による会社の収益を思えば、後ン十万から百万くらい上げてくれても良さそうである。とにかくうちのはよく働いている。会社に服役しているかのように。
うちのと私が付き合い同棲を始めた当初、私の親はうちのを嫌っていた。「碌な男じゃない。まともな男ならこんな女とは付き合わない」と言われた。私はワコか。この話には主治医も呆れていた。こうやって自己肯定という物は親によって私の手から遠ざけられて続けている。現在進行形。同棲開始から早4年。今、私の親は異様な迄にうちのに感謝をし信頼しきっている。私に実家で生活されるのは迷惑そうなので、うちのの元に置いておきたいのもあるだろう。それにしても話す度にうちのを褒める。「あんないい人はいない。裏切ってはいけない」と変化した。私の親はうちののとんでもない裏を知らない。教えていないのだから知らなくて当然なのだが、それでもこう毎回うちのの絶賛を聞かされていると、全てを白日の下に曝け出してやりたくなってくる。できない。曝け出したが最後、私はうちのに一生会えなくなってしまうだろう。親は私をここに置いておきたいと思い、私もこの安楽地にできる限り長くいたいと思っている。根拠は違えど利害は一致。一致していないのはうちののみであり、私に出て行って欲しそうな気配を見せることがたまにある。気持ちはとてもよく解る。私だってこんな女に居座られたら甚だ迷惑であり、警察を呼んででも追い払いたいところだ。塩も撒く。けれど私はうちのではないので知ったことではない。私のやっていることは押しかけ女房ならぬ押し込み強盗のようだが、今後改善を試み……ではなく心がけるというところでどうにか上手く気持ちに整理をつけて欲しいと願っている。できればペットを飼っているような気持ちで接して欲しい。諸事情により、一人前の大人として扱われると対応に困るのだ。
友人たちはうちのの裏を知っている。一度はそれで底値に至ったが、現在は回復どころか高値になる一方だ。皆が口を揃えて「あんたと長年一緒に暮らせる男なんてあの人しかいないよ。大事にしなきゃダメだよ」と言う。面白くないことこの上ない。私は私なりにうちのを大切にしているつもりなのに、他者の目には多分に不足しているように映っているらしい。現状の数万倍尽くさなければダメなようだ。今より数万倍尽くす私を想像してみる。私ではなくそれは尽くしマシーンである。全ての行動に心が篭らなくなりそうだ。そもそも私と長年一緒に暮らせる男がうちのしかいないとはどういうことだ。まるで不細工な捨て猫のような言われようではないか。気に入らない。私と長年連れ添いたいと思う男はこの世に山と……いないか。うちのですら、最近はこう思ってくれているかどうか不安である。うちのが私を飼っていて良かったと思うのは、寝る前にマッサージをしてもらっているときらしい。一応書いておくが、性感ではなく凝りを解す為のマッサージである。私は自身が肩凝り腰痛の十年選手なので、素人にしてはそちらの腕がいいようだ。精々大切にしよう。私が持つ数少ない技術のひとつだ。いつか他の形でも役立つ日がくるかもしれない。今、もうひとつ思い出した。近所の馴染みの野良猫が病気になった際に動物病院に連れて行ったときも、俺にはできない良いことをしたと褒められた。この野良猫の話はまた後日改めて書きたいと思うが、取り敢えず私が野良への餌付け反対派であることだけはここでも述べておく。
私の株価は現在、底値に近い価格で安定している。うちのは1分1秒毎に私の周囲の人間が高値にしていく。社員数が万を越す一部上場企業並みにうちのの株価は高い。4年の月日でこれだけ急上昇しているなんて何かの罠ではないか? ブラック・マンデーはいつだ? と不安になる程に高い。うちのと付き合い始める前は私の株価ももう少し高かった気がする。今では株式市場からいつ落ちるか、もしかしたら有限が株式の振りをして潜り込んでいるのではないかというくらいだ。そこで考えた。私は自他共に認めるダメ人間である。平均点が低い。うちのはダメな部分は私の比でないくらいにダメなのだがそのダメさは余り人目に付かず、長所は他者にも見え易く表面化している。因ってうちのの詳細を知らない人間は株価を上昇させる。近くに私という比較対象がある分うちのの株はより上昇し、うちのという比較対象がある分私の株価はより下落する。時代の問題なのか学校によるのかは知らないが、私が義務教育課程を受けていた頃は相対評価がされており、その先は絶対評価に変わった。人への評価も絶対評価にすべきだと主張したい。うちのの評価が高いのは嬉しくもある。高い評価を得られる男と付き合っているのは私にとって良いことだ。けれど私への不当な低い評価は戴けない。評価が低いのはダメ人間故に仕方がないが、今の評価は低すぎる。不当だ。
料理だけでなく、主婦にも「さしすせそ」がある。裁縫・躾・炊事・洗濯・掃除。私は事実婚状態の似非主婦であり子供はいないので躾はともかく、他のよっつはこなせる。但し心身が共に好調なとき限定。心身のどちらかが不調だとこなせない。従って自然と我が家では釦の取れかけた服が増えたり、食事がコンビニ弁当になったり、着用済みの衣類が山積みになったり、部屋に埃が溜まったりする。心身共に好調というときが本当に稀なので仕方がないのだ。以前にも書いているが、上記事項に関して私は一切気にならない。うちのを始めとする他者は気にするらしい。なので私は尽くしていない、となる。できるだけのことはやっているのにこの評価、やはり不当である。絶対評価の導入を求める。1日はライヴである。前回は行けなかったが、今回は悪意の小心者の影に怯えず、愛しの君が作業服に身を包んで演奏し歌う姿を拝みに行きたい。心身の状態を整えねば。ライヴハウスは私にとって非日常の場なので意識的に心身の状態を整えてでも出かけるが、うちのとの生活は日常なのでそこ迄しない。できる範囲で構わないから、と日本人口の9割は知っているだろうあの歌でさだまさしも言っているのだから日常はそれでいい筈だ。日々死なないことで精一杯な私のできる範囲は猫の額程度に狭い。
BGM/「頽廃藝術展」
本日、西洋では南瓜の行灯を持って黒装束を身に纏った餓鬼共が隣り近所を回って脅迫をしつつお菓子を分捕るという行事が実行されるようである。西洋の皆様、気をつけてください。日本にそんな行事がなくて本当に良かった。大人しく南瓜の煮付けでも食すのが秋の夜長の正しい日本人の姿である。
そんな秋の夜長の大半を私はひとりで過ごしている。うちのが帰宅しないのだ。楽である。小言も言われなければセクハラもされず、好きなことをして遊んで夜更かしをしていても嫌味を言われない……淋しい。今夜はタクシーで帰宅すると言ってはいたが本当に帰ってこれるのだろうか? 尋常ではない仕事量に追われ、物凄く忙しそうである。昨日の朝、数日振りに顔を合わせた。げっそりとげんなりと帰宅し、早々に床に就き、90分だけ睡眠を取ってまた背中に哀愁を漂わせつつ出社した。朝ごはんも「作ってくれ」と言いつつ1/3程度しか食べなかったので栄養剤を飲ませて見送った。顔色が緑がかっていた気がする。死に体とはあのような姿のことを言うのだろう。代わりたくても手伝いたくても無理な話であり、本人に頑張って貰うしかない。本気で退社したいようである。生活できるだけの収入が得られれば転職してもらっても私は一向に構わない。うちのの会社はこのご時世にしてはいい給与を出してくれている。しかし仕事量とその給与を秤にかけると決して高くない。むしろ安い。うちのの仕事による会社の収益を思えば、後ン十万から百万くらい上げてくれても良さそうである。とにかくうちのはよく働いている。会社に服役しているかのように。
うちのと私が付き合い同棲を始めた当初、私の親はうちのを嫌っていた。「碌な男じゃない。まともな男ならこんな女とは付き合わない」と言われた。私はワコか。この話には主治医も呆れていた。こうやって自己肯定という物は親によって私の手から遠ざけられて続けている。現在進行形。同棲開始から早4年。今、私の親は異様な迄にうちのに感謝をし信頼しきっている。私に実家で生活されるのは迷惑そうなので、うちのの元に置いておきたいのもあるだろう。それにしても話す度にうちのを褒める。「あんないい人はいない。裏切ってはいけない」と変化した。私の親はうちののとんでもない裏を知らない。教えていないのだから知らなくて当然なのだが、それでもこう毎回うちのの絶賛を聞かされていると、全てを白日の下に曝け出してやりたくなってくる。できない。曝け出したが最後、私はうちのに一生会えなくなってしまうだろう。親は私をここに置いておきたいと思い、私もこの安楽地にできる限り長くいたいと思っている。根拠は違えど利害は一致。一致していないのはうちののみであり、私に出て行って欲しそうな気配を見せることがたまにある。気持ちはとてもよく解る。私だってこんな女に居座られたら甚だ迷惑であり、警察を呼んででも追い払いたいところだ。塩も撒く。けれど私はうちのではないので知ったことではない。私のやっていることは押しかけ女房ならぬ押し込み強盗のようだが、今後改善を試み……ではなく心がけるというところでどうにか上手く気持ちに整理をつけて欲しいと願っている。できればペットを飼っているような気持ちで接して欲しい。諸事情により、一人前の大人として扱われると対応に困るのだ。
友人たちはうちのの裏を知っている。一度はそれで底値に至ったが、現在は回復どころか高値になる一方だ。皆が口を揃えて「あんたと長年一緒に暮らせる男なんてあの人しかいないよ。大事にしなきゃダメだよ」と言う。面白くないことこの上ない。私は私なりにうちのを大切にしているつもりなのに、他者の目には多分に不足しているように映っているらしい。現状の数万倍尽くさなければダメなようだ。今より数万倍尽くす私を想像してみる。私ではなくそれは尽くしマシーンである。全ての行動に心が篭らなくなりそうだ。そもそも私と長年一緒に暮らせる男がうちのしかいないとはどういうことだ。まるで不細工な捨て猫のような言われようではないか。気に入らない。私と長年連れ添いたいと思う男はこの世に山と……いないか。うちのですら、最近はこう思ってくれているかどうか不安である。うちのが私を飼っていて良かったと思うのは、寝る前にマッサージをしてもらっているときらしい。一応書いておくが、性感ではなく凝りを解す為のマッサージである。私は自身が肩凝り腰痛の十年選手なので、素人にしてはそちらの腕がいいようだ。精々大切にしよう。私が持つ数少ない技術のひとつだ。いつか他の形でも役立つ日がくるかもしれない。今、もうひとつ思い出した。近所の馴染みの野良猫が病気になった際に動物病院に連れて行ったときも、俺にはできない良いことをしたと褒められた。この野良猫の話はまた後日改めて書きたいと思うが、取り敢えず私が野良への餌付け反対派であることだけはここでも述べておく。
私の株価は現在、底値に近い価格で安定している。うちのは1分1秒毎に私の周囲の人間が高値にしていく。社員数が万を越す一部上場企業並みにうちのの株価は高い。4年の月日でこれだけ急上昇しているなんて何かの罠ではないか? ブラック・マンデーはいつだ? と不安になる程に高い。うちのと付き合い始める前は私の株価ももう少し高かった気がする。今では株式市場からいつ落ちるか、もしかしたら有限が株式の振りをして潜り込んでいるのではないかというくらいだ。そこで考えた。私は自他共に認めるダメ人間である。平均点が低い。うちのはダメな部分は私の比でないくらいにダメなのだがそのダメさは余り人目に付かず、長所は他者にも見え易く表面化している。因ってうちのの詳細を知らない人間は株価を上昇させる。近くに私という比較対象がある分うちのの株はより上昇し、うちのという比較対象がある分私の株価はより下落する。時代の問題なのか学校によるのかは知らないが、私が義務教育課程を受けていた頃は相対評価がされており、その先は絶対評価に変わった。人への評価も絶対評価にすべきだと主張したい。うちのの評価が高いのは嬉しくもある。高い評価を得られる男と付き合っているのは私にとって良いことだ。けれど私への不当な低い評価は戴けない。評価が低いのはダメ人間故に仕方がないが、今の評価は低すぎる。不当だ。
料理だけでなく、主婦にも「さしすせそ」がある。裁縫・躾・炊事・洗濯・掃除。私は事実婚状態の似非主婦であり子供はいないので躾はともかく、他のよっつはこなせる。但し心身が共に好調なとき限定。心身のどちらかが不調だとこなせない。従って自然と我が家では釦の取れかけた服が増えたり、食事がコンビニ弁当になったり、着用済みの衣類が山積みになったり、部屋に埃が溜まったりする。心身共に好調というときが本当に稀なので仕方がないのだ。以前にも書いているが、上記事項に関して私は一切気にならない。うちのを始めとする他者は気にするらしい。なので私は尽くしていない、となる。できるだけのことはやっているのにこの評価、やはり不当である。絶対評価の導入を求める。1日はライヴである。前回は行けなかったが、今回は悪意の小心者の影に怯えず、愛しの君が作業服に身を包んで演奏し歌う姿を拝みに行きたい。心身の状態を整えねば。ライヴハウスは私にとって非日常の場なので意識的に心身の状態を整えてでも出かけるが、うちのとの生活は日常なのでそこ迄しない。できる範囲で構わないから、と日本人口の9割は知っているだろうあの歌でさだまさしも言っているのだから日常はそれでいい筈だ。日々死なないことで精一杯な私のできる範囲は猫の額程度に狭い。
BGM/「頽廃藝術展」
さっき薬局に行ってきた。私の主飲料であるサントリーのウーロン茶は通常その薬局で購入している。コンビニと比較して1本あたり100円安い。混んでいるときと暇なときが極端な薬局で、さっきは混雑していた。それはいい。問題は客層である。女子高生やコギャルとヤンキーを足して2で割ったような連中が多かった。それもいい。どんな恰好をしていようと私に迷惑はかからない。目頭に入れられた白い「く」形のアイラインを暈してやりたくて仕方がなかったが余計なお世話である。しかし無闇にでかい声はどんなに嫌でも耳に入ってくるのだ。私は不必要に声のでかい人間が嫌いである。医療技術の進歩により、先進国の人間は長生きを半ば強制的にさせられている。如何に長生きを強いられようとも身体機能の衰えは止められない。その衰えのひとつとして聴覚機能の低下がある。簡単に言うと、耳が遠くなるのだ。耳が遠くなると自分の声も聞き取り難くなるらしく、自然と声が大きくなる。仕方がないことである。なので老年者の声の大きさには寛容である。いずれ自分も通る道。
若年者の多くは聴覚に問題がない筈である。なのにやたらとでかい声を発する連中がいる。無論、緊急時などは大きな声を発する必要がある。必要性を伴う大声はいいのだ。不必要な大声が許せない。さっき薬局で不運にも遭遇した大声を発していた連中に必要性があったとはとてもではないが思えない。「えーっ! うっそー!」「やだあー!」。書くのも恥ずかしい程にベタな台詞であるが、本当にこう言っていたのだ。喧しい! 黙れ! 死ね! と言いたかったが言えなかった私は悔しいが弱気な人間である。何故、彼女らは周囲の迷惑も顧みずに大声を発するのだろう。強く自己主張をする際に大声を発することはままある。演説時の声の強弱の付け方などはその顕著な例であろうが、彼女らは薬局で演説をしていた訳ではない。仮に演説をしていたとしても上記のような台詞が出てくる演説は聞くに値しない。では聴覚が衰えているのだろうか。その可能性はゼロではない。ウォークマンを始めとする携帯用音楽再生機器の発達により、若年者にも難聴傾向があるとどこかで読んだことがある気がする。あの手の機器は本人しか楽しくなく、周囲にかける迷惑が大きい。音漏れだけでなく、難聴傾向による大声など。撲滅されればいいのに。撲滅は大袈裟か。携帯するにあたって免許制にするくらいが妥当かと思われる。是非とも行政に於いて免許制を導入して欲しい。
話が逸れた。無闇な大声の話である。面倒なので結論から書く。無神経なのだ。自分とその仲間しか視野に入っておらず、自らの発する声が近くにいる第三者の耳にも入ることが全く考えられていないのだ。私は無神経な人間が嫌いであり、往々にして無神経な人間は無闇に大声を発する。因って無闇に大声を発する人間も軽蔑する。私はPDと諸事情により、時として神経過敏となり他者の声に過剰に反応してしまうことがある。病む前から無闇に大声を発する人間を嫌悪の対象としていた私だが、メンタル面で患っている者には特にこの傾向は少なくないと思う。彼女らはそういった人間もこの世で生活しており、また街や道で遭遇することを欠片も考えていないに違いない。この世とは様々な人間がいて成り立っており、全ての人間が自分と同じ性格や傾向を持ち合わせている訳ではないのだ。こういった視点が全く欠如している。患者の全てが松沢病院などに収容されている筈がないではないか。と言っても、彼女らは松沢病院の存在も知らないだろうが。
8月だったか、主治医に怒鳴ったことがある。その日は炎天下であり、徒歩で通院している私は通院途中から予期不安に襲われ、クリニックに辿り着いたときにはへろへろになっていた。私の通うクリニックは個人経営であり、精神科・心療内科・神経科・内科を標榜している。多くの患者は精神科・心療内科カテゴリに括られるが、稀に内科カテゴリの患者もくる。因みに予約制ではなく早い者順に診察するクリニックだ。待合室に入ると3人の先客がいた。ひとりは私並みにへろへろだったので一切迷惑はかけられていない。問題は残るふたりのババアである。彼女らはとても健康そうで顔色もよく快活であった。恐らく内科の定期健診か何かできていたと思われる。ふたりは友人同士だったようで仲良さ気に会話を弾ませていた。主題は健康に良く簡単で美味しいジュースの作り方。ふむふむ、病院の待合室に適した題材の会話……ではない。帰れ! そんなに元気ならもっとでかい病院に行け! 精神科・心療内科カテゴリの患者の多い病院でみのもんたから仕入れたようなくだらない話をでかい声でするな! 病院でもこんな具合だ。どこにでも無神経な人間は有無を言わさず侵入してくる。順番がきて診察室に入る際、ドアが閉まりきる前に私は大声で言った。「勘弁してください! あのババアら、何とかしてください!」。ドアが閉まりきる前にというのは、ババアらにもこの声が届くように計算した上でのことである。日記だからババアと書いているのではない。「」内の言葉をそのまま主治医にぶつけた。主治医はババアらに注意をしてくれた。一旦声は止み、それからひそひそ声での会話になり、また大声に戻った。私はまた主治医に文句を言った。主治医はもう一度ババアらに注意をしてくれた。リピート。もう諦めて早々に診察室を出た。私が出てきたときのババアらの視線はいろんな意味で忘れられない。精神疾患患者として、私がこれから老いてゆく上での反面教師として。
その昔、私は他者に注意をするのが得意であった。例えば通路の真ん中で立ち話をしている人に「ちょっとどいてください」、図書館や映画館で騒いでいる人に「静かにしてもらえませんか」など。病んでから言えなくなった。一度某ディスカウントショップにて会計が済んだものの人が多過ぎて身動きが取れなくなっていたところ、明らかに私より若いネーチャンに「ちょっと〜、通るんならさっさと通ってもらえますぅ〜?」と言われたときは文句を言いつつも通路を空けてくれたことへの感謝と同時に、自分の無力さに脱力した。或る友人に言われて初めて気が付いたことがある。「黒猫が怒っているところを見た記憶が殆どない。悔しがっているところは何度も見ているけれど」。別の友人にこの話をしたら彼女にも肯定された。自分の過去に思いを馳せてみて、確かに怒っていないことに気が付いた。私の諸事情は町沢静夫が言うところの内向性である。町沢は嫌いだが。私が過去に本気で怒れた相手は、歴代の彼氏たちのみである。親に対しても怒ったことは何度もあるが本気とは言えない。言葉のそこかしこに遠慮が潜んでいた。私は怒りを言葉にして相手にぶつけたり発散したりすることを抑圧されて育ったのだ。上記クリニックのババアらの件にしてもそうである。当人らに怒ってはおらず、主治医に悔しさをぶつけているだけだ。進歩していない。私の友人らはよくできた人間たちなので、今後も彼ら彼女らに怒ることはないだろうが、適切な場面に於いては怒れるようになりたいものである。今日得た教訓は、外に出る際には必ずパキを服用しておこうということである。パキは感情を平坦にしてくれるので、飲み忘れていなければ彼女らの大声にもここ迄過敏にはならなかった筈だ。感情が平坦になることで喜怒哀楽の実感は減る。因って怒ることもそうそうないだろう。私が本気で怒れる日を迎えるのは、パキの減薬・断薬に成功してからなのだろうか。尤も怒や哀はないに越したことはないのでそれも良し。そして「助けて!」「火事だ!」以外の大声は禁止とする。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
若年者の多くは聴覚に問題がない筈である。なのにやたらとでかい声を発する連中がいる。無論、緊急時などは大きな声を発する必要がある。必要性を伴う大声はいいのだ。不必要な大声が許せない。さっき薬局で不運にも遭遇した大声を発していた連中に必要性があったとはとてもではないが思えない。「えーっ! うっそー!」「やだあー!」。書くのも恥ずかしい程にベタな台詞であるが、本当にこう言っていたのだ。喧しい! 黙れ! 死ね! と言いたかったが言えなかった私は悔しいが弱気な人間である。何故、彼女らは周囲の迷惑も顧みずに大声を発するのだろう。強く自己主張をする際に大声を発することはままある。演説時の声の強弱の付け方などはその顕著な例であろうが、彼女らは薬局で演説をしていた訳ではない。仮に演説をしていたとしても上記のような台詞が出てくる演説は聞くに値しない。では聴覚が衰えているのだろうか。その可能性はゼロではない。ウォークマンを始めとする携帯用音楽再生機器の発達により、若年者にも難聴傾向があるとどこかで読んだことがある気がする。あの手の機器は本人しか楽しくなく、周囲にかける迷惑が大きい。音漏れだけでなく、難聴傾向による大声など。撲滅されればいいのに。撲滅は大袈裟か。携帯するにあたって免許制にするくらいが妥当かと思われる。是非とも行政に於いて免許制を導入して欲しい。
話が逸れた。無闇な大声の話である。面倒なので結論から書く。無神経なのだ。自分とその仲間しか視野に入っておらず、自らの発する声が近くにいる第三者の耳にも入ることが全く考えられていないのだ。私は無神経な人間が嫌いであり、往々にして無神経な人間は無闇に大声を発する。因って無闇に大声を発する人間も軽蔑する。私はPDと諸事情により、時として神経過敏となり他者の声に過剰に反応してしまうことがある。病む前から無闇に大声を発する人間を嫌悪の対象としていた私だが、メンタル面で患っている者には特にこの傾向は少なくないと思う。彼女らはそういった人間もこの世で生活しており、また街や道で遭遇することを欠片も考えていないに違いない。この世とは様々な人間がいて成り立っており、全ての人間が自分と同じ性格や傾向を持ち合わせている訳ではないのだ。こういった視点が全く欠如している。患者の全てが松沢病院などに収容されている筈がないではないか。と言っても、彼女らは松沢病院の存在も知らないだろうが。
8月だったか、主治医に怒鳴ったことがある。その日は炎天下であり、徒歩で通院している私は通院途中から予期不安に襲われ、クリニックに辿り着いたときにはへろへろになっていた。私の通うクリニックは個人経営であり、精神科・心療内科・神経科・内科を標榜している。多くの患者は精神科・心療内科カテゴリに括られるが、稀に内科カテゴリの患者もくる。因みに予約制ではなく早い者順に診察するクリニックだ。待合室に入ると3人の先客がいた。ひとりは私並みにへろへろだったので一切迷惑はかけられていない。問題は残るふたりのババアである。彼女らはとても健康そうで顔色もよく快活であった。恐らく内科の定期健診か何かできていたと思われる。ふたりは友人同士だったようで仲良さ気に会話を弾ませていた。主題は健康に良く簡単で美味しいジュースの作り方。ふむふむ、病院の待合室に適した題材の会話……ではない。帰れ! そんなに元気ならもっとでかい病院に行け! 精神科・心療内科カテゴリの患者の多い病院でみのもんたから仕入れたようなくだらない話をでかい声でするな! 病院でもこんな具合だ。どこにでも無神経な人間は有無を言わさず侵入してくる。順番がきて診察室に入る際、ドアが閉まりきる前に私は大声で言った。「勘弁してください! あのババアら、何とかしてください!」。ドアが閉まりきる前にというのは、ババアらにもこの声が届くように計算した上でのことである。日記だからババアと書いているのではない。「」内の言葉をそのまま主治医にぶつけた。主治医はババアらに注意をしてくれた。一旦声は止み、それからひそひそ声での会話になり、また大声に戻った。私はまた主治医に文句を言った。主治医はもう一度ババアらに注意をしてくれた。リピート。もう諦めて早々に診察室を出た。私が出てきたときのババアらの視線はいろんな意味で忘れられない。精神疾患患者として、私がこれから老いてゆく上での反面教師として。
その昔、私は他者に注意をするのが得意であった。例えば通路の真ん中で立ち話をしている人に「ちょっとどいてください」、図書館や映画館で騒いでいる人に「静かにしてもらえませんか」など。病んでから言えなくなった。一度某ディスカウントショップにて会計が済んだものの人が多過ぎて身動きが取れなくなっていたところ、明らかに私より若いネーチャンに「ちょっと〜、通るんならさっさと通ってもらえますぅ〜?」と言われたときは文句を言いつつも通路を空けてくれたことへの感謝と同時に、自分の無力さに脱力した。或る友人に言われて初めて気が付いたことがある。「黒猫が怒っているところを見た記憶が殆どない。悔しがっているところは何度も見ているけれど」。別の友人にこの話をしたら彼女にも肯定された。自分の過去に思いを馳せてみて、確かに怒っていないことに気が付いた。私の諸事情は町沢静夫が言うところの内向性である。町沢は嫌いだが。私が過去に本気で怒れた相手は、歴代の彼氏たちのみである。親に対しても怒ったことは何度もあるが本気とは言えない。言葉のそこかしこに遠慮が潜んでいた。私は怒りを言葉にして相手にぶつけたり発散したりすることを抑圧されて育ったのだ。上記クリニックのババアらの件にしてもそうである。当人らに怒ってはおらず、主治医に悔しさをぶつけているだけだ。進歩していない。私の友人らはよくできた人間たちなので、今後も彼ら彼女らに怒ることはないだろうが、適切な場面に於いては怒れるようになりたいものである。今日得た教訓は、外に出る際には必ずパキを服用しておこうということである。パキは感情を平坦にしてくれるので、飲み忘れていなければ彼女らの大声にもここ迄過敏にはならなかった筈だ。感情が平坦になることで喜怒哀楽の実感は減る。因って怒ることもそうそうないだろう。私が本気で怒れる日を迎えるのは、パキの減薬・断薬に成功してからなのだろうか。尤も怒や哀はないに越したことはないのでそれも良し。そして「助けて!」「火事だ!」以外の大声は禁止とする。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
天は二物を与えずと言われるが嘘である。私には好きな女の子がいる。断じて同性愛者ではない。好きと言うよりも憧れと表現する方が正しいか。言わずもがな、彼女はかわいい。身長は小柄な私よりも低く140cm台後半であり、ぽっちゃり迄は行かないが、柔らかそうな身体をしている。実際に触ってみると女性らしい柔らかさであった。彼女が酔って抱きついてきたときには押し倒してやろうかと思った程だ。私はオッサンである。彼女は巨乳である。オッサンなので私は巨乳も好きだ。当然顔もかわいい。彼女自身は一重なのを余り気に入ってはいないようだが、全体的にかわいらしい雰囲気の締めになっているようでその一重もチャームポイントだと思っている。頭も良い。偏差値としては私と同じ学校の出身なのであくまで並み程度ではあるが、回転が良いのだ。言いたいことはハッキリと言うタイプであり、現彼氏からは、何で怒っているかちゃんと伝えてくれるところが好きだ、と言われているらしい。自分の喜怒哀楽をきちんと言葉で表現できる女性は実は少ないので、それも長所である。喜怒哀楽の怒や哀を表現するのは難しいのだが、上手くできているようだ。そして声もかわいい。鈴を転がすような、と言うと流石に褒め過ぎだが、所謂女の子らしい声をしており且つ落ち着きも兼ね備えた声である。仕事も紆余曲折を経て今は学生時代から目標としていた仕事についている。とにかく素晴らしい。彼女は歳の離れた兄二人を持つ末っ子の一人娘として育てられた。親は過保護ではないらしく、むしろ放任に近い育て方をしたようで自立心も旺盛だ。他者に複雑な家庭環境と評される私の家庭とは対極にある。と思っていたが違ったらしいことが数ヶ月前に判明した。
私が我が家庭について愚痴を溢していたときに思いもよらぬ台詞が彼女から出てきた。私を産むときに親は迷って堕ろそうとしていたんだけれど、お祖母ちゃんに止められて産んだらしい、と。茶の間で親とテレビを観ていたときにいきなり何の前触れもなく言われて困惑したと言っていた。当然だろう。あんたなんか産まなきゃ良かった、という台詞を感情的になった親が発することはままあるらしい。しかし和やかな茶の間で唐突にこんな話を切り出されては対応に困るというものだ。ふーん、としか言えないだろう。彼女は祖母に特に可愛がられていたと言う。彼女自身も今は亡き祖母に懐いていた。親とも兄とも祖母とも良好な関係で育った彼女が昔から羨ましかったが、こんな裏話があったとは! この話をされてからも特に親と険悪な関係になってはいないようである。彼女がひとりの大人として成長した証だろう。
他者の家庭環境に興味を持つ者は多い。話の取っ掛かりとして兄弟姉妹の有無や親の性格を訊いてくる人もいる。訊かれたら答える。しかし私の場合に於いてはそこから話が進むことは殆どない。訊いてきた方から、ごめん、と言って話を遮るのだ。稀に突っ込んで訊いてこようとする者もいる。そういう者は大概好奇心という衝動を抑えきれない無神経な人間なので、こちらが一線を引く為に話は進まない。もっと稀にこちらが軽く一通り話した上で同情してくる者がいる。安易に同情をする人間を私は軽蔑している。同情という感情は、自らが相手よりも優位な立場にあることへの安堵に他ならないと私は確信している。同情とは得てして優越感と同義なのである。猫十字社の名作・小さなお茶会から学んだひとつである。文庫版にこの話は収録されていない。今は入手困難であるが、誰もに読む価値がある漫画だと思う。私はこの漫画から多くの物事を学び、また成長させてもらった。子供の頃は読解力が追いついていなかった故に登場猫物の可愛さにのみ惹かれて読んでおり、いつの間にか手放してしまった本であるが大人になってプレミア価格にもめげずに再入手して読み返し、様々なことが解った。墓場まで持って行きたい本のひとつである。
家庭環境の話に戻る。親の離婚・父の死去後の私はひたすら、普通の家庭、に憧れていた。自らの普通ではないと言われる環境を嫌ってやまなかった。内田春菊が壊れる前、岸田秀に傾倒していた頃に描いた名作のひとつに幻想の普通少女という漫画がある。普通とは一体何なのか? 今の私は一言で説明できる。普通とは幻想。普通などというものはこの世に存在していないのだ。冒頭に書いた憧れの友人。普通の家庭に育ったと私は誤解していた。その他の友人知人。皆、普通の家庭環境で育ったと思っていた。皆に詳細を訊いてはいないが、きっと裏がある筈だ。その裏を本人が裏と理解しているかどうかは別の話である。自らを、普通、と称する者は少なくない。家庭環境を、普通、と称する者も同様である。普通というのも便利な言葉のひとつである。しかしこの世に普通などひとつも存在してはいないのだ。あらゆることを普通と称する人間には二種類いると思われる。説明するのが億劫なので普通という便利な言葉でお茶を濁すのが一種類。もう一種類は本当に普通だと信じている人間。前者は処世術のひとつの手段として普通という言葉を操っている筈であり、後者は莫迦である。物事に正面から対峙することを避けているのだ。対峙を避ける人間が真理を見つけることはできないだろう。そして仮に真理に到達できたとして、それを真理と自覚はできまい。真理に到達しながらそれを自覚できないのは勿体無い話であり、私はそんな損をしたくはないのであらゆる物事に対峙し、様々なことを考えるのだ。
昨日の日記に書いた、私は多趣味ではない、というのは語弊があったのでここに訂正する。私の趣味は現在みっつある。みっつが多いかどうかは別として、私の趣味は読書・麻雀、そして物事を正面から考えて自分の言葉に置き換えることである。私の文章を読む上で、行間をも読む必要はない。私は言葉に辞書通りの解釈しか与えない。その辞書が新明解という点に問題がある気がしないでもないがそれはさておき。余談だが、まったりと過ごす、という表現が私は大嫌いである。まったりとは味覚表現のひとつであり、雰囲気表現の言葉ではない。学生時代にこのまったりについて当時の友人と大喧嘩をしたことがある。なので私をよく知る者は、私の前では雰囲気表現にまったりという言葉は用いない。私をよく知らない愛しの君はステージ上でまったりという言葉を雰囲気表現によく使う。過去、2度は聞いている。苛立つ。しかも愛しの君の書く詩のウリは言葉への拘りではなかったのか……? ついでに一昨日の日記にも訂正をしておく。色彩について述べておきながらオチを形状に持って行ってしまった。莫迦である。ティアードスカートやフリル、という部分は、パステルカラーや所謂シビラカラー、とすべきであった。衣類小物の形状についてはまた後日改めて書きたいと思う。
BGM/「鼓魂彩祭」
私が我が家庭について愚痴を溢していたときに思いもよらぬ台詞が彼女から出てきた。私を産むときに親は迷って堕ろそうとしていたんだけれど、お祖母ちゃんに止められて産んだらしい、と。茶の間で親とテレビを観ていたときにいきなり何の前触れもなく言われて困惑したと言っていた。当然だろう。あんたなんか産まなきゃ良かった、という台詞を感情的になった親が発することはままあるらしい。しかし和やかな茶の間で唐突にこんな話を切り出されては対応に困るというものだ。ふーん、としか言えないだろう。彼女は祖母に特に可愛がられていたと言う。彼女自身も今は亡き祖母に懐いていた。親とも兄とも祖母とも良好な関係で育った彼女が昔から羨ましかったが、こんな裏話があったとは! この話をされてからも特に親と険悪な関係になってはいないようである。彼女がひとりの大人として成長した証だろう。
他者の家庭環境に興味を持つ者は多い。話の取っ掛かりとして兄弟姉妹の有無や親の性格を訊いてくる人もいる。訊かれたら答える。しかし私の場合に於いてはそこから話が進むことは殆どない。訊いてきた方から、ごめん、と言って話を遮るのだ。稀に突っ込んで訊いてこようとする者もいる。そういう者は大概好奇心という衝動を抑えきれない無神経な人間なので、こちらが一線を引く為に話は進まない。もっと稀にこちらが軽く一通り話した上で同情してくる者がいる。安易に同情をする人間を私は軽蔑している。同情という感情は、自らが相手よりも優位な立場にあることへの安堵に他ならないと私は確信している。同情とは得てして優越感と同義なのである。猫十字社の名作・小さなお茶会から学んだひとつである。文庫版にこの話は収録されていない。今は入手困難であるが、誰もに読む価値がある漫画だと思う。私はこの漫画から多くの物事を学び、また成長させてもらった。子供の頃は読解力が追いついていなかった故に登場猫物の可愛さにのみ惹かれて読んでおり、いつの間にか手放してしまった本であるが大人になってプレミア価格にもめげずに再入手して読み返し、様々なことが解った。墓場まで持って行きたい本のひとつである。
家庭環境の話に戻る。親の離婚・父の死去後の私はひたすら、普通の家庭、に憧れていた。自らの普通ではないと言われる環境を嫌ってやまなかった。内田春菊が壊れる前、岸田秀に傾倒していた頃に描いた名作のひとつに幻想の普通少女という漫画がある。普通とは一体何なのか? 今の私は一言で説明できる。普通とは幻想。普通などというものはこの世に存在していないのだ。冒頭に書いた憧れの友人。普通の家庭に育ったと私は誤解していた。その他の友人知人。皆、普通の家庭環境で育ったと思っていた。皆に詳細を訊いてはいないが、きっと裏がある筈だ。その裏を本人が裏と理解しているかどうかは別の話である。自らを、普通、と称する者は少なくない。家庭環境を、普通、と称する者も同様である。普通というのも便利な言葉のひとつである。しかしこの世に普通などひとつも存在してはいないのだ。あらゆることを普通と称する人間には二種類いると思われる。説明するのが億劫なので普通という便利な言葉でお茶を濁すのが一種類。もう一種類は本当に普通だと信じている人間。前者は処世術のひとつの手段として普通という言葉を操っている筈であり、後者は莫迦である。物事に正面から対峙することを避けているのだ。対峙を避ける人間が真理を見つけることはできないだろう。そして仮に真理に到達できたとして、それを真理と自覚はできまい。真理に到達しながらそれを自覚できないのは勿体無い話であり、私はそんな損をしたくはないのであらゆる物事に対峙し、様々なことを考えるのだ。
昨日の日記に書いた、私は多趣味ではない、というのは語弊があったのでここに訂正する。私の趣味は現在みっつある。みっつが多いかどうかは別として、私の趣味は読書・麻雀、そして物事を正面から考えて自分の言葉に置き換えることである。私の文章を読む上で、行間をも読む必要はない。私は言葉に辞書通りの解釈しか与えない。その辞書が新明解という点に問題がある気がしないでもないがそれはさておき。余談だが、まったりと過ごす、という表現が私は大嫌いである。まったりとは味覚表現のひとつであり、雰囲気表現の言葉ではない。学生時代にこのまったりについて当時の友人と大喧嘩をしたことがある。なので私をよく知る者は、私の前では雰囲気表現にまったりという言葉は用いない。私をよく知らない愛しの君はステージ上でまったりという言葉を雰囲気表現によく使う。過去、2度は聞いている。苛立つ。しかも愛しの君の書く詩のウリは言葉への拘りではなかったのか……? ついでに一昨日の日記にも訂正をしておく。色彩について述べておきながらオチを形状に持って行ってしまった。莫迦である。ティアードスカートやフリル、という部分は、パステルカラーや所謂シビラカラー、とすべきであった。衣類小物の形状についてはまた後日改めて書きたいと思う。
BGM/「鼓魂彩祭」
自己申告必須及びフェイク禁止令
2003年10月17日 雑感・所感 女って莫迦ばかりだ……。同性だがそう思う。同性だからこそ思うことなのかもしれない。Aについて訊いているのにZの話をし始めたりする。私は話が飛んでも面白ければそれで良しという考えの持ち主ではあるが、大概に於いて、否、99.999999……%の確率でつまらない。つまらん奴は一生墓の中で黙っていろ! とは流石に言い過ぎなので、つまらん奴はせめて私の前に現れないで欲しい、と切に切に願ってやまない。目に見えなければいないも同然なので気にならない。だが現実とは惨いもので、つまらん奴に限って自分はユーモアのある人間だと思っていたりする。性質が悪い。更に自らが公序良俗の見本のような気持ちでいたり迄する。そしてこれらの勘違いを主張したがる。死んでしまえばいいのに、と本気で思う。昔からそう思い続けている。
今現在、私と親しい友人たちは皆長い付き合いである。一番長い付き合いの友人はもう10年以上の仲良しだ。彼女は大変に利口だ。他の友人たちも男女を問わず利口。学生ではなくなってから、友人たちと会ったり話したりする機会は格段に減っている。皆、違う道に歩みだすのだから仕方がない。社会に出てから同じ会社の同僚として知り合い親しくなった連中もいる。それでもどちらかが退社すればやはり話す機会は減る。けれど、数ヶ月ぶりで、数年ぶりで会っても友人らと過ごす時間は楽しく有意義である。面白い連中ばかりだから当然だ。莫迦と話す為に時間を割くのは無為なので自然と疎遠になる。きっと疎遠になった相手は私を莫迦だと思っているのだろう。莫迦の莫迦たる由縁である。先日書いた「莫迦が羨ましい」という話と矛盾しているように読めるかもしれない。でも矛盾は生じていない。
死ね! と本気で思っている莫迦の何が羨ましいか。莫迦は、死ね! と本気で思われていることに気付かない頭の持ち主なのだ。さぞかし楽だろうと思う。生きる上での気苦労が格段に少なかろう。だから羨ましい。無知の知。自らが無知だと気付かない人間はどこまで行っても無知のままだ。気付いた時点で無知から一歩進む。莫迦はこんなことは考えないらしい。考えずに自分は真っ当な人間だと漠然とした自信を持って生きている。自信を持つには何らかの根拠があるべきではないか。若ければ漠然とした、または勘違いも甚だしい自信が基となり真の自信へと繋がる何かを身に付けられる可能性がある。しかし或る程度年齢を重ねた上で漠然とした自信を持っている人間のなんと多いことか。そしてそれが同性である可能性の高いことといったらもう、自分の子宮を取り外して莫迦の耳にでも捻じ込んでやりたい程だ。男尊女卑の思想に基づき、女は莫迦だと言う男もいる。最も女に嫌われるタイプの一種かと思われる。しかし私は同意する。男尊はともかく、女卑に激しく同意する。女は卑しくいやらしい。遣ること為すこと言うこと書くこと、森羅万象に於いて男よりも劣っていると思う。私自身、男には敵わないと確信している。大きな括りで男女を比較しての話だ。両性共に莫迦は存在している。けれども比率として、莫迦な女>莫迦な男、という式が成り立つに違いない。こんなことを書く程に私は女に失望している。
悲しきかな、私には人を見る目が欠如している。他者を信用する迄の、利口だと認識する迄の時間軸が狂っている。周囲の利口な友人たちに比べ、私は他者を信用したり利口だと認識する迄のスパンが短過ぎるようだ。だからこのような落胆にしょっちゅう陥る。利口そうだと読んで近付き、嗚呼、莫迦だったのか……と思わされることが多々多々多々多々ある。莫迦は判別し易いように、額にでもきちんと、莫迦です。と書いておいてくれなければ私が誤解してしまうではないか。迷惑だ。利口な振りをする技術に長けた莫迦が多過ぎる。額に書くのが恥ずかしければ、初対面の時点で自己申告して欲しい。莫迦は莫迦なりに振舞ってくれればいいのに利口そうに見えるフェイクレザーに身を包む。フェイクは嫌いだ。革は本革。合皮は否定。同じ本革でも豚革より牛革、牛革より羊革。ファーならラビットよりミンクの方がいいに決まっている。世界的な環境だの何だのはどうでもいい。私に優しい世界になれば、私は嬉しい。莫迦は莫迦らしくすっこんでいろ。
利口かもしれないと思っていた知人が莫迦であることが発覚した。しかもここ最近連続で複数人の莫迦が芋蔓式に見つかった。落胆。しかし私は少しだけ寛解したようだ。フェイク利口を身に纏っていた莫迦を発見した場合の対処法が変わった。昔ならすぐさま縁切り。共通の知人たちにも縁切り宣言。これらが症状だという知識を得たので縁切り宣言はしていない。無視したり慇懃無礼に接したりしている。相手が私の思惑に気付かなくても構わない。今の私は莫迦を練習台に他者との距離感を測る訓練中なのだ。利口な人間からは別の形で得るものがあるが、莫迦から何かを得ようと思ったら練習台になってもらうくらいしかなかろう。莫迦と鋏は使いよう。莫迦は莫迦故に練習台にされていることにも気付かない。やはり莫迦はいい。中には莫迦が露呈したことで私とより仲良くなったと勘違いする莫迦もいるだろう。そういう莫迦は他の莫迦よりも一段高い練習台だ。莫迦として私の成長に役立って欲しい。諸事情に因り私は他者との距離感を測るのが下手である。幼少時から距離感を測る訓練をしてこなかったツケが大人になった今、きている。今の私が測れる距離感は恐らく5歳児のそれくらいではないだろうか。ここから一朝一夕で年齢相応迄成長するのは流石に無理だ。義務教育終了後相応のそれを身に付けるのが今の目標である。その程度に測れれば社会復帰も目前だ。何故なら莫迦には義務教育終了後相当のそれで対処できるであろうし、利口に対してはそもそも距離感を測る必要がない。
BGM/不本意だがうちのが聴きいていた何かのサントラが耳に入ってきていた。普段私が好んで聴いている音とは違うタイプの音だったものの嫌いではない。うちのが余りにも私の好みに外れたCDをかけ始めたら、私は大音量でスレイヤーを流して応戦する。うちのは私よりも耳が肥えていると一般的に言われる趣味の持ち主なのだ。明日は早起きして年末ライヴのチケットを取らなければならない。当然、私の好きな音を聴きに、想い人を観に行くのである。うちのも私も音楽好きではあるがきっと一生連れ添ったとしても一緒にライヴやイベントに行くことはないだろうと共通認識されている。それはそれで良し。
今現在、私と親しい友人たちは皆長い付き合いである。一番長い付き合いの友人はもう10年以上の仲良しだ。彼女は大変に利口だ。他の友人たちも男女を問わず利口。学生ではなくなってから、友人たちと会ったり話したりする機会は格段に減っている。皆、違う道に歩みだすのだから仕方がない。社会に出てから同じ会社の同僚として知り合い親しくなった連中もいる。それでもどちらかが退社すればやはり話す機会は減る。けれど、数ヶ月ぶりで、数年ぶりで会っても友人らと過ごす時間は楽しく有意義である。面白い連中ばかりだから当然だ。莫迦と話す為に時間を割くのは無為なので自然と疎遠になる。きっと疎遠になった相手は私を莫迦だと思っているのだろう。莫迦の莫迦たる由縁である。先日書いた「莫迦が羨ましい」という話と矛盾しているように読めるかもしれない。でも矛盾は生じていない。
死ね! と本気で思っている莫迦の何が羨ましいか。莫迦は、死ね! と本気で思われていることに気付かない頭の持ち主なのだ。さぞかし楽だろうと思う。生きる上での気苦労が格段に少なかろう。だから羨ましい。無知の知。自らが無知だと気付かない人間はどこまで行っても無知のままだ。気付いた時点で無知から一歩進む。莫迦はこんなことは考えないらしい。考えずに自分は真っ当な人間だと漠然とした自信を持って生きている。自信を持つには何らかの根拠があるべきではないか。若ければ漠然とした、または勘違いも甚だしい自信が基となり真の自信へと繋がる何かを身に付けられる可能性がある。しかし或る程度年齢を重ねた上で漠然とした自信を持っている人間のなんと多いことか。そしてそれが同性である可能性の高いことといったらもう、自分の子宮を取り外して莫迦の耳にでも捻じ込んでやりたい程だ。男尊女卑の思想に基づき、女は莫迦だと言う男もいる。最も女に嫌われるタイプの一種かと思われる。しかし私は同意する。男尊はともかく、女卑に激しく同意する。女は卑しくいやらしい。遣ること為すこと言うこと書くこと、森羅万象に於いて男よりも劣っていると思う。私自身、男には敵わないと確信している。大きな括りで男女を比較しての話だ。両性共に莫迦は存在している。けれども比率として、莫迦な女>莫迦な男、という式が成り立つに違いない。こんなことを書く程に私は女に失望している。
悲しきかな、私には人を見る目が欠如している。他者を信用する迄の、利口だと認識する迄の時間軸が狂っている。周囲の利口な友人たちに比べ、私は他者を信用したり利口だと認識する迄のスパンが短過ぎるようだ。だからこのような落胆にしょっちゅう陥る。利口そうだと読んで近付き、嗚呼、莫迦だったのか……と思わされることが多々多々多々多々ある。莫迦は判別し易いように、額にでもきちんと、莫迦です。と書いておいてくれなければ私が誤解してしまうではないか。迷惑だ。利口な振りをする技術に長けた莫迦が多過ぎる。額に書くのが恥ずかしければ、初対面の時点で自己申告して欲しい。莫迦は莫迦なりに振舞ってくれればいいのに利口そうに見えるフェイクレザーに身を包む。フェイクは嫌いだ。革は本革。合皮は否定。同じ本革でも豚革より牛革、牛革より羊革。ファーならラビットよりミンクの方がいいに決まっている。世界的な環境だの何だのはどうでもいい。私に優しい世界になれば、私は嬉しい。莫迦は莫迦らしくすっこんでいろ。
利口かもしれないと思っていた知人が莫迦であることが発覚した。しかもここ最近連続で複数人の莫迦が芋蔓式に見つかった。落胆。しかし私は少しだけ寛解したようだ。フェイク利口を身に纏っていた莫迦を発見した場合の対処法が変わった。昔ならすぐさま縁切り。共通の知人たちにも縁切り宣言。これらが症状だという知識を得たので縁切り宣言はしていない。無視したり慇懃無礼に接したりしている。相手が私の思惑に気付かなくても構わない。今の私は莫迦を練習台に他者との距離感を測る訓練中なのだ。利口な人間からは別の形で得るものがあるが、莫迦から何かを得ようと思ったら練習台になってもらうくらいしかなかろう。莫迦と鋏は使いよう。莫迦は莫迦故に練習台にされていることにも気付かない。やはり莫迦はいい。中には莫迦が露呈したことで私とより仲良くなったと勘違いする莫迦もいるだろう。そういう莫迦は他の莫迦よりも一段高い練習台だ。莫迦として私の成長に役立って欲しい。諸事情に因り私は他者との距離感を測るのが下手である。幼少時から距離感を測る訓練をしてこなかったツケが大人になった今、きている。今の私が測れる距離感は恐らく5歳児のそれくらいではないだろうか。ここから一朝一夕で年齢相応迄成長するのは流石に無理だ。義務教育終了後相応のそれを身に付けるのが今の目標である。その程度に測れれば社会復帰も目前だ。何故なら莫迦には義務教育終了後相当のそれで対処できるであろうし、利口に対してはそもそも距離感を測る必要がない。
BGM/不本意だがうちのが聴きいていた何かのサントラが耳に入ってきていた。普段私が好んで聴いている音とは違うタイプの音だったものの嫌いではない。うちのが余りにも私の好みに外れたCDをかけ始めたら、私は大音量でスレイヤーを流して応戦する。うちのは私よりも耳が肥えていると一般的に言われる趣味の持ち主なのだ。明日は早起きして年末ライヴのチケットを取らなければならない。当然、私の好きな音を聴きに、想い人を観に行くのである。うちのも私も音楽好きではあるがきっと一生連れ添ったとしても一緒にライヴやイベントに行くことはないだろうと共通認識されている。それはそれで良し。
硝子が入っていないかのように
2003年10月16日 雑感・所感 夕方、学生時代の友人から電話があり「今から仕事で黒猫の家の近くに行くのでお茶でもどう?」と誘われた。急に誘われると困惑する。よく電話やメールをする友人たちは私への当日誘いはしてはいけないことを知っているが、今日誘ってくれた友人とは暫くメール等していなかったのでその掟を知らなかったのだ。なのでばっちいまま会った。ばっちい帽子で更にばっちい頭を隠し、数日起きているときも寝ているときも着っぱなしのカットソーにブルゾンを羽織り、同様に寝るときも穿きっぱなしのジーンズ姿で。基本的に私はばっちい。眉や産毛や腋の処理はしているが、入浴は余りできない。入浴そのものは大好きだ。実家の風呂や銭湯だと2時間程かけてゆっくり入る。その後のスキンケアやボディケアも怠らない。しかし入浴に対するやる気そのものが今は沸かないし、そもそも昔から入浴の必然性を感じていなかった。不精なのも確かに原因のひとつだ。入浴しなくて死んだ人間はいない。掃除も然り。入浴も掃除も私にとっては他者への配慮なのである。ばっちい人間と遭遇する人は不快感を持つであろう、ばっちい部屋に招かれる人間も不快感を持つだろう。従って私にとって入浴及び掃除は人に不快感を与えない為の気配りに他ならない。因って日常の行為に入浴や掃除は含まれない。着替えないのも洗濯物を増やさない為だ。ここに書いた他者にうちのは含まれていない。うちのにとって入浴や掃除は自分の為のことらしい。自分が不快感を覚えない為にそれらをこなすそうだ。私は入浴しなくても掃除しなくても不快感を感じない。それがうちのには解せないとか。そしてうちのは私の中で他者として認識され、不快感を与えられないようにして欲しいらしい。善処したい気持ちはあるが諸事情により行動が伴わない。うちのはその諸事情を理解はできても納得はできないようだ。
昔から入浴の手順は変わらない。脱衣→メイククレンジング→洗顔→プレシャンプー→シャンプー→身体を二度洗う、または垢すり後に身体を一度洗う→泡を流す前に無駄毛処理→トリートメント→歯磨き→トリートメントを流す→足裏を専用洗浄剤で洗う→洗顔。浴室を出たらまず髪と身体の水気を取る→下着をつける。その後スキンケアに取り掛かる。精製水スプレーでカルキ流し→拭き取り化粧水→美白化粧水→保湿化粧水→美白美容液→化粧液→保湿パック。次にボディケア。全身にボディ用化粧水→ボディローション→肘・膝・踵・脛にボディバター。その後ヘアケア。ヘアミルクを頭皮に付かないように気をつけつつ髪に馴染ませる→ドライヤーで髪の根元を乾かす。最後にハンドケア。ネイルとその周辺及び手荒れの酷い場所にオリブ油を馴染ませる→ハンドクリームを擦り込む。時には入浴前にガスールパックや椿油パックをしたり、入浴後に美容液パックもする。面倒であるが、いざ入浴となるとこの全てをこなさなければならない。世間的にはこなさなくてもいいらしい。或る友人に「1回の手順を1/4にして毎日入浴すればいいのに」と言われたことがある。うちのも同様のことを言う。しかし私には「1/4にする」ということが何故かできないのだ。固執的完璧主義なのだろう。
今日会った友人は兼業主婦である。旦那との仲も良く仕事も順調。当然ばっちくみすぼらしい私と違って身綺麗でもあった。暫く連絡を取り合っていない間に入院したりなんだりという苦労もあったようだが、今は社会復帰できている。話題の中心はお互いの病気の話。彼女が私を見て発した第一声は「痩せた?」だった。確かに痩せた。少し前まで体重は減少する一方であり、最近になってやっと安定してきてはいるものの私的適正体重にはあと8kg足りない。昔は食事が大好きだった。付き合った男性の殆どに「黒猫の食べている姿は嬉しそうで美味しそうで、こっち迄嬉しくなる」と言われた。今は処方された漢方薬が合ったのか、どうにか一日に少量ではあるが二食は摂れるようになった。最早、食事ではなく食餌である。一番酷いときは食べ物を見ただけで喉に閉塞感を感じ吐き気を催した。痩せゆく私を見てうちのは心配してくれた。親に会ったときには泣かれてしまった。それくらい貧相な身体をしている。元々Eカップには程遠い貧乳の主だが、更に小さくなっている。痩せて良かったことはきつかったスカートがまた穿けるようになったことくらいか。主治医曰く、私の諸事情は幼児期からの親子関係に問題があるらしい。体重減少について相談した際に幼少時の食事の思い出について訊かれ、答えた。主治医は会ったこともない私の親を非常に嫌っている。私が話したエピソードでその嫌悪感を増したようだ。私だけでなく友人も以前より痩せていた。人は病むと痩せる傾向がある。心か身体かは別としての話だ。
友人を駅の改札まで見送ってから帰宅した。会っている間は彼女に対し羨望の気持ちでいっぱいだった。仲良しの友人の日々が充実しているのは喜ばしかったが、卑しい私には羨ましさの方が強かった。そして帰宅の道中から今、私は自分への失望に満ちている。ベタな言い方だが、彼女は輝いて見えたのだ。それに引き換え私はくすんでいる。瞳も肌も心も。社会と接することは大切なのだ。私のように家で朦朧としていてはいけないのだ。ライヴ会場で他の観客に「かわいい」と褒められたことがある。嬉しかった。しかしそれは偽装した私だ。真の私はくすんでいる。曇った窓硝子は丁寧に磨けばまるで硝子が入っていないかのように透明になる。磨かなければ埃が付着して曇りゆくだけだ。窓硝子の埃は気にならないが、自分が曇っているのは嫌だと時々思う。今日友人に会い、その時々の一時を迎えた。磨かねば。明日早くに入浴しよう。先週は通院をさぼったので明日こそは行かなければ貯薬が切れる。
BGM/「記録シリーズ(金沢・松山・水戸)」及び同「(東京・大阪)」
昔から入浴の手順は変わらない。脱衣→メイククレンジング→洗顔→プレシャンプー→シャンプー→身体を二度洗う、または垢すり後に身体を一度洗う→泡を流す前に無駄毛処理→トリートメント→歯磨き→トリートメントを流す→足裏を専用洗浄剤で洗う→洗顔。浴室を出たらまず髪と身体の水気を取る→下着をつける。その後スキンケアに取り掛かる。精製水スプレーでカルキ流し→拭き取り化粧水→美白化粧水→保湿化粧水→美白美容液→化粧液→保湿パック。次にボディケア。全身にボディ用化粧水→ボディローション→肘・膝・踵・脛にボディバター。その後ヘアケア。ヘアミルクを頭皮に付かないように気をつけつつ髪に馴染ませる→ドライヤーで髪の根元を乾かす。最後にハンドケア。ネイルとその周辺及び手荒れの酷い場所にオリブ油を馴染ませる→ハンドクリームを擦り込む。時には入浴前にガスールパックや椿油パックをしたり、入浴後に美容液パックもする。面倒であるが、いざ入浴となるとこの全てをこなさなければならない。世間的にはこなさなくてもいいらしい。或る友人に「1回の手順を1/4にして毎日入浴すればいいのに」と言われたことがある。うちのも同様のことを言う。しかし私には「1/4にする」ということが何故かできないのだ。固執的完璧主義なのだろう。
今日会った友人は兼業主婦である。旦那との仲も良く仕事も順調。当然ばっちくみすぼらしい私と違って身綺麗でもあった。暫く連絡を取り合っていない間に入院したりなんだりという苦労もあったようだが、今は社会復帰できている。話題の中心はお互いの病気の話。彼女が私を見て発した第一声は「痩せた?」だった。確かに痩せた。少し前まで体重は減少する一方であり、最近になってやっと安定してきてはいるものの私的適正体重にはあと8kg足りない。昔は食事が大好きだった。付き合った男性の殆どに「黒猫の食べている姿は嬉しそうで美味しそうで、こっち迄嬉しくなる」と言われた。今は処方された漢方薬が合ったのか、どうにか一日に少量ではあるが二食は摂れるようになった。最早、食事ではなく食餌である。一番酷いときは食べ物を見ただけで喉に閉塞感を感じ吐き気を催した。痩せゆく私を見てうちのは心配してくれた。親に会ったときには泣かれてしまった。それくらい貧相な身体をしている。元々Eカップには程遠い貧乳の主だが、更に小さくなっている。痩せて良かったことはきつかったスカートがまた穿けるようになったことくらいか。主治医曰く、私の諸事情は幼児期からの親子関係に問題があるらしい。体重減少について相談した際に幼少時の食事の思い出について訊かれ、答えた。主治医は会ったこともない私の親を非常に嫌っている。私が話したエピソードでその嫌悪感を増したようだ。私だけでなく友人も以前より痩せていた。人は病むと痩せる傾向がある。心か身体かは別としての話だ。
友人を駅の改札まで見送ってから帰宅した。会っている間は彼女に対し羨望の気持ちでいっぱいだった。仲良しの友人の日々が充実しているのは喜ばしかったが、卑しい私には羨ましさの方が強かった。そして帰宅の道中から今、私は自分への失望に満ちている。ベタな言い方だが、彼女は輝いて見えたのだ。それに引き換え私はくすんでいる。瞳も肌も心も。社会と接することは大切なのだ。私のように家で朦朧としていてはいけないのだ。ライヴ会場で他の観客に「かわいい」と褒められたことがある。嬉しかった。しかしそれは偽装した私だ。真の私はくすんでいる。曇った窓硝子は丁寧に磨けばまるで硝子が入っていないかのように透明になる。磨かなければ埃が付着して曇りゆくだけだ。窓硝子の埃は気にならないが、自分が曇っているのは嫌だと時々思う。今日友人に会い、その時々の一時を迎えた。磨かねば。明日早くに入浴しよう。先週は通院をさぼったので明日こそは行かなければ貯薬が切れる。
BGM/「記録シリーズ(金沢・松山・水戸)」及び同「(東京・大阪)」
チャイルディッシュとセクシャリティ 前編
2003年10月14日 雑感・所感 世の中には呆れることが多々ある。某巨大掲示板某板某スレでの大の大人の罵り合う姿、某クチコミサイトでリアル中坊と同化してはしゃぐ大人の姿。しかしこれらは私に実害はないので許容範囲。実害があったら腹が立つ。実害とは何か。野暮な人間の私への物言いである。私が定義する野暮な人間とは、そこ等に落ちている常識らしきものというという半透明の旗を、さも自作した丈夫な帆布の旗のように振りかざして正論らしきものを小声で言う大人である。チャイルディシュ。大人ならば世間で曖昧に定義されているように錯覚されている常識や正論は知っていて当然であり、そのギリギリの線上で遊ぶのが楽しいのではないか。そういった遊び方を知らないだけならいい。ただ遊んでいる人間に文句を言うな。私の前にそんな野暮は現れない。小声だから私には届かないのだ。小声というのがまたいやらしさを醸し出している。嫌悪の対象だ。小声で正論らしきものを振りかざす。小声で言いつける。余りにも弱気。余りにも安直。余りにもチャイルディシュ。
B子ちゃんたちが職員室に行き担任教師に言いました「先生。Aくんたちが校庭いっぱいを使ってボールで遊んでいたので私たちは遊べませんでした。校舎の陰から見て遊ぶのを諦めました。Aくんたちはいけないと思います」。義務教育課程の現場ではよくあることだろうし、またアリだと思う。しかし大人になったらナシだ。阿呆か。B子たちの非を挙げてみる。まず1点。その場でAたちに「私たちもここで遊びたいんだけど」と交渉しなかったこと。次。その学校の生徒であれば校庭を使う権利はあるのだから、Aたちが遊んでいようと端から遊び始めて次第にB子らが遊ぶ範囲を広げていけたこと。もうひとつ。後になって担任教師にこそこそと出来事を告げたところで、そのときそこで遊べなかったことには変わりないので意味がないということ。最後。Aたちがボール遊びをしているためボールが飛んできたら嫌だと思うなら、中庭や屋上で遊ぶという手段を考えられたこと。私が担任教師なら以上のことをB子たちに教える。しかし教師によってはB子たちから名前が出てきたAのみを呼び出し「或る子たちから聞いたんだが、校庭いっぱいを使ってボール遊びをするのは良くない。他の遊びたい子たちのことも考えなさい」と説教をするのだろう……。Aたちの非が私には思いつかない。「私たちもここで遊びたいから場所を空けて」「ボール遊びは飛んでくると危ないから他の遊びにして」とB子たちがAに交渉していたと仮定する。そしてAたちがそれを断った、または無視した。そうなるとAたちにも非はある。校庭は皆の物だから占拠する権利はない。上の例え話を大人の言葉に置き換える。自分たちの権利を堂々とは主張せず且つ他の選択肢の模索もせず、後になって他者への依存で解決を求める人間がいるということだ。そして依存された他者もまた他者に解決を求める悪循環。
私や私の友人が好むギリギリの線上での遊び方の一例。
友人1「彼氏が〜〜で困っちゃってさあ」
私「そんなの△△じゃない?」
友人2「そうだよ。大体1は彼氏と週に何回?」
1「△△かあ。週に一度かな?」
私「足りてる?」
1「内容が濃いから足りてるよ」
私「どんなことすんの?」
2「でかい?かたい?」
1「×××とかねー。大きさは…普通?って違うよ! 私は〜〜で困ってるんだってば!」
2「だからそれは△△!終了!×××までするのかあ。ふうん」
私「1がどのくらいのを普通と思っているのかが問題だ」
1「えー?(手で示しつつ)これくらい?」
2「大きさよりも硬さだろう!」
こんな会話を居酒屋でする。誰かの家でするのは楽しくない。公の場であり他の客や店員も存在する居酒屋でやや大きめの声でこんな脈絡があるようでない会話。身振り手振りをつけてなら尚楽しい。これが通夜の席なら遊びにはならない。顰蹙モノなんて言葉では済まされないだろう。或る芸人が自分の父親の通夜の席で酔って「二人羽織り〜」と寝かされている故人を操りだし、参列していた他の芸人たちに大ウケしたという話を聞いたことがある。これは芸人だからアリなのだ。一般人である私にはナシだ。こんな芸人に私はなりた……ではなく、TPOの話である。通夜の席で上記の会話はナシだ。しかし居酒屋ではアリ。酔って騒いで良い場だからである。ここでもし隣席の客たちが「お前ら、こんなところでそんな話をするなよ!」といちゃもんを付けてきたら、その客たちこそ野暮だと私は思う。聞こえよがしに「凄い会話してるねぇ〜」なんて言うのは更に野暮だ。私はシモネタを本気で嫌っている人間に出会ったことがない。上記友人1も2も私も皆、世間的にはシモネタってなんですのん? という猫を被って生活している。川原泉の名作、笑う大天使の柚子・史緒・和音並みにでかい猫を背負っている。当然である。ところが被る必要がない相手・場所だと判断されれば背負われた猫は自ら降りてゆく。基本的に猫は粋である筈だ。
B子ちゃんたちが職員室に行き担任教師に言いました「先生。Aくんたちが校庭いっぱいを使ってボールで遊んでいたので私たちは遊べませんでした。校舎の陰から見て遊ぶのを諦めました。Aくんたちはいけないと思います」。義務教育課程の現場ではよくあることだろうし、またアリだと思う。しかし大人になったらナシだ。阿呆か。B子たちの非を挙げてみる。まず1点。その場でAたちに「私たちもここで遊びたいんだけど」と交渉しなかったこと。次。その学校の生徒であれば校庭を使う権利はあるのだから、Aたちが遊んでいようと端から遊び始めて次第にB子らが遊ぶ範囲を広げていけたこと。もうひとつ。後になって担任教師にこそこそと出来事を告げたところで、そのときそこで遊べなかったことには変わりないので意味がないということ。最後。Aたちがボール遊びをしているためボールが飛んできたら嫌だと思うなら、中庭や屋上で遊ぶという手段を考えられたこと。私が担任教師なら以上のことをB子たちに教える。しかし教師によってはB子たちから名前が出てきたAのみを呼び出し「或る子たちから聞いたんだが、校庭いっぱいを使ってボール遊びをするのは良くない。他の遊びたい子たちのことも考えなさい」と説教をするのだろう……。Aたちの非が私には思いつかない。「私たちもここで遊びたいから場所を空けて」「ボール遊びは飛んでくると危ないから他の遊びにして」とB子たちがAに交渉していたと仮定する。そしてAたちがそれを断った、または無視した。そうなるとAたちにも非はある。校庭は皆の物だから占拠する権利はない。上の例え話を大人の言葉に置き換える。自分たちの権利を堂々とは主張せず且つ他の選択肢の模索もせず、後になって他者への依存で解決を求める人間がいるということだ。そして依存された他者もまた他者に解決を求める悪循環。
私や私の友人が好むギリギリの線上での遊び方の一例。
友人1「彼氏が〜〜で困っちゃってさあ」
私「そんなの△△じゃない?」
友人2「そうだよ。大体1は彼氏と週に何回?」
1「△△かあ。週に一度かな?」
私「足りてる?」
1「内容が濃いから足りてるよ」
私「どんなことすんの?」
2「でかい?かたい?」
1「×××とかねー。大きさは…普通?って違うよ! 私は〜〜で困ってるんだってば!」
2「だからそれは△△!終了!×××までするのかあ。ふうん」
私「1がどのくらいのを普通と思っているのかが問題だ」
1「えー?(手で示しつつ)これくらい?」
2「大きさよりも硬さだろう!」
こんな会話を居酒屋でする。誰かの家でするのは楽しくない。公の場であり他の客や店員も存在する居酒屋でやや大きめの声でこんな脈絡があるようでない会話。身振り手振りをつけてなら尚楽しい。これが通夜の席なら遊びにはならない。顰蹙モノなんて言葉では済まされないだろう。或る芸人が自分の父親の通夜の席で酔って「二人羽織り〜」と寝かされている故人を操りだし、参列していた他の芸人たちに大ウケしたという話を聞いたことがある。これは芸人だからアリなのだ。一般人である私にはナシだ。こんな芸人に私はなりた……ではなく、TPOの話である。通夜の席で上記の会話はナシだ。しかし居酒屋ではアリ。酔って騒いで良い場だからである。ここでもし隣席の客たちが「お前ら、こんなところでそんな話をするなよ!」といちゃもんを付けてきたら、その客たちこそ野暮だと私は思う。聞こえよがしに「凄い会話してるねぇ〜」なんて言うのは更に野暮だ。私はシモネタを本気で嫌っている人間に出会ったことがない。上記友人1も2も私も皆、世間的にはシモネタってなんですのん? という猫を被って生活している。川原泉の名作、笑う大天使の柚子・史緒・和音並みにでかい猫を背負っている。当然である。ところが被る必要がない相手・場所だと判断されれば背負われた猫は自ら降りてゆく。基本的に猫は粋である筈だ。
何の記念日でもあるまいに
2003年10月13日 雑感・所感 実はこれを書いている今は10月15日である。どうも一日に一回しか日記を書けないようなので書きたいことがたくさんあるときや文字数制限をオーバーしてしまったときは遡った、または先の日付で書くしかないらしい。
日記というのは正月とか誕生日とか所謂区切りとなる日からつけ始めるのが本来の姿だと、私は決め付けている。しかし今日は私にとって何の記念日でもない。でも何となく今日から。本当に便利な言葉だと思う。何となく。日記のタイトルもHNもプロフィールも何となくこれにした。いや、何となくではなくれっきとした由来はあるのだけれど、解る人だけ解ればいいので何となくとしておく。何故何となく今日から日記をつけ始めたのか。答えは、思い立ったからである。吉日。私は諸事情により日々これといって何もできず朦朧と暮らしいてる。この朦朧とした日々が始まり既に半年以上経つ。いかんのではなかろうか。朦朧としていては人間は莫迦になる。莫迦はいい。楽だ。後日書くが本当に莫迦はいい。羨ましさすら覚えるほどに。しかし莫迦の尻拭いや莫迦の所為で自分が不愉快な思いをするのは御免被りたい。そういったことに気を揉むのは面倒だし厄介だし苛々するし鬱々としてくる。そんな気分を晴らすには泣くのが一番手っ取り早い。泪には心の荒んだ部分を洗い流す浄化作用がある。けれど今の私は泣けない。パキの副作用により感情の起伏が平坦になっているため、涙腺が固くなってきている。ならばどこでその苛々や鬱々を晴らせば良いのか。これ迄は友人たちにメールをしたり電話をしたりして晴らしてきた。いけない。そうそう付き合わせてもいられない。中島みゆき。そこで思いついたのが日記である。
私は日記と相性が悪い。小学生時代の夏休みに強制的に課される絵日記も最後の一日で全日分描いた。天気は二学期になってからクラスメイトに写させて貰った。有難う、そのときのクラスメイト。もう名前も覚えていないけれど。そして人生に於いて過去に何度も区切りの日から日記をつけ始めたことがある。何度もということは毎度続かなかったからに他ならない。続かなければまたつけ直すしかないので何度もなのだ。ここ数年はそんな無駄な挑戦はしなくなっていたのだが、今回は続けたいと思う。毎度思うことだけれど。まあ、続いたらいいなあくらいの気持ちで。このような一念発起に至った理由は、朦朧とした日々にメリハリを付けたくなったからだ。数ヶ月前からライヴというものに出向くようになった。きっかけは行動療法の実行とメリハリの欲求である。昔はライヴに行く人間の気持ちが全く以って解せなかった。何度も聴けるCDを買えてしまう金額以上をたかが数時間の為に何故払えるのかが解らなかった。今は解る。CDと生音は明らかに違う。生音は身体全体に響くのが快感である。初ライヴを経験した日には、今迄の人生に於いて損をしていた気すらした。それくらい、今はライヴが好きである。しかし当然ながら私の好きなバンドが毎日ライヴをしてくれる訳はない。ライヴのない日々は相変わらず朦朧と日々を過ごす。飽きてきた。なので一日に一度、必ずやらなければならないことというものを自分に課してみようと思った。どうせ課すなら掃除や洗濯にしろという意見は却下である。浄化作用を伴わないので。文章を書く行為にも泪を流すのと同様に浄化作用があると思う。認知療法の基本もまずは書くことからだ。ここで認知療法をする訳ではないが。また私は以前は文筆業を営んでいた。今はその世界から遠ざかり、文章力は落ちる一方である。特に長文。文章を書いて生活していた頃は日記をつけるのは無駄だと思っていた。日記を書いてもギャラが発生しないからだ。当時の私の文章にはギャラが発生するだけの力があった。今はもうない。なので文章の勘を取り戻す作業も兼ねている。今も稀に仕事を請けることがあるが、あくまで心身に負担がかからない程度の簡単な仕事しか請けられない。しかしながらその手の簡単な仕事を請けたときに、不愉快な思いをさせられることが多々ある。やはり簡単な仕事は莫迦の役割であり、利口な人間はその程度の仕事には関わらないのであろう。莫迦な編集者にあたるといつかまた現場に復帰したいという気持ちが湧く。その日の為の予行練習も兼ねての日記。
さてタイトル。こんなタイトルではあるが恋愛日記に非ず。恋愛ってなんですか? というくらい色恋沙汰から遠ざかってかなりの年数が経つ。HIV等の検査を受けシロの判定を貰ってから行為が怖くなった。スルことでシロがクロになるかもしれないと思うと、できない。誰とでもヤッていた頃の自分が今は信じられない。うちのともできない。申し訳なくも思うが、うちのは検査を受けていないので推定シロであり、確定シロではないからだ。また諸事情とパキの副作用に拠り現在の私はシモへの欲求が皆無に等しい。うちのには外で欲求を処理してきて欲しいと思う。思うだけでは無く言ってもある。後はうちのが決めることだ。私から性欲がなくなってかなり経つ所為か、私の諸事情の所為か、うちは殺伐としている。吉野家並みに。無戒秀徳並みに。殺伐。相剋の家である。大概に於いて悪いのは私らしい。それはさておき、色恋沙汰はなくとも恋心がなくなったら女は枯れると思う。青木るえかに激しく同意する。新しい服を着るとき、限定コスメを予約するとき、ときめく。楽しい。女に生まれて良かったと感じる。けれどお洒落やメイク以上に女を輝かせるものは恋心であろう。両想い・片想いは問わない。当人の中に恋心があるかないかが問題なのだ。今の私には仄かな恋心がある。相手はうちのではない。うちのへの恋心は愛へと変化を遂げている。恋と愛は違うのだ。愛は情に近く、恋に情はない。恋にあるのは慕ではなかろうか。この歳になって周囲に夫婦が増えてきた。皆、恋から愛、愛から情への心情変化を遂げたらしい。なので恋は他所に求める。私の周囲の既婚者たちは所謂不倫をしている者が多い。しかも婚前からの付き合いが続いているパターンだ。ならばそっちと結婚すれば良かったのにと思うのは事実婚状態とはいえ、私が未だ独身だからか。
無戒秀徳は好みである。眼鏡だから。しかし眼鏡を外した無戒が好きかと問われれば答えは否だ。目付きも声もギターもいい線を行っているのだが輪郭が違うのだ。よく「○○さんの好みってどんな人?」という会話がある。誰でも一度のみならずしたことがあるだろう。私も数え切れない程その手の会話をしてきた。当初は「眼鏡をかけていて目付きが悪くてサラッと嫌味が言える人。芸能人で言えば松尾貴史」と答えていた。しかし悲しき哉、松尾貴史を知らない人が余りにも多かった。「キッチュ」「大島渚の真似をする人」と説明をして半分の人が解ってくれたかどうか。ある程度この手の会話の回数をこなしてからは「ちぃ兄ちゃんの頃の福山雅治」と答えるようになり、眼鏡好きだということは理解され易くなった。目付きが違うのだが白衣も好きなので妥協点が福山雅治なのだ。男声は気持ち高めのテノールが気持ちいい。うちのは眼鏡でテノールだ。もし眼鏡でなく且つバスだったら付き合っていなかったかもしれない。一時期、うちのが脱眼鏡してコンタクトにしようとしていたので必死で止めた。それくらい眼鏡が好きだ。うちのと眼鏡のどちらが好きかと問われれば眼鏡と答えるかもしれない。また上記のような会話をしていた頃に比べ、今はもう少し好みが煩くなった。眼鏡が必須なのは変わらないが、後は髭があり、和服……甚平、袴、訪問着等が似合うこと。モンペも可である。頭髪への拘りは薄くなった。河童禿でなければ良しとする。今、私の好みにぴったり嵌っている男性がひとりいる。敢えて名前は出さない。解る人には解るだろうし、解らない人には松尾貴史以上に知らない存在なのは明白だ。
BGM/「恋は三角木馬の上で」「…
日記というのは正月とか誕生日とか所謂区切りとなる日からつけ始めるのが本来の姿だと、私は決め付けている。しかし今日は私にとって何の記念日でもない。でも何となく今日から。本当に便利な言葉だと思う。何となく。日記のタイトルもHNもプロフィールも何となくこれにした。いや、何となくではなくれっきとした由来はあるのだけれど、解る人だけ解ればいいので何となくとしておく。何故何となく今日から日記をつけ始めたのか。答えは、思い立ったからである。吉日。私は諸事情により日々これといって何もできず朦朧と暮らしいてる。この朦朧とした日々が始まり既に半年以上経つ。いかんのではなかろうか。朦朧としていては人間は莫迦になる。莫迦はいい。楽だ。後日書くが本当に莫迦はいい。羨ましさすら覚えるほどに。しかし莫迦の尻拭いや莫迦の所為で自分が不愉快な思いをするのは御免被りたい。そういったことに気を揉むのは面倒だし厄介だし苛々するし鬱々としてくる。そんな気分を晴らすには泣くのが一番手っ取り早い。泪には心の荒んだ部分を洗い流す浄化作用がある。けれど今の私は泣けない。パキの副作用により感情の起伏が平坦になっているため、涙腺が固くなってきている。ならばどこでその苛々や鬱々を晴らせば良いのか。これ迄は友人たちにメールをしたり電話をしたりして晴らしてきた。いけない。そうそう付き合わせてもいられない。中島みゆき。そこで思いついたのが日記である。
私は日記と相性が悪い。小学生時代の夏休みに強制的に課される絵日記も最後の一日で全日分描いた。天気は二学期になってからクラスメイトに写させて貰った。有難う、そのときのクラスメイト。もう名前も覚えていないけれど。そして人生に於いて過去に何度も区切りの日から日記をつけ始めたことがある。何度もということは毎度続かなかったからに他ならない。続かなければまたつけ直すしかないので何度もなのだ。ここ数年はそんな無駄な挑戦はしなくなっていたのだが、今回は続けたいと思う。毎度思うことだけれど。まあ、続いたらいいなあくらいの気持ちで。このような一念発起に至った理由は、朦朧とした日々にメリハリを付けたくなったからだ。数ヶ月前からライヴというものに出向くようになった。きっかけは行動療法の実行とメリハリの欲求である。昔はライヴに行く人間の気持ちが全く以って解せなかった。何度も聴けるCDを買えてしまう金額以上をたかが数時間の為に何故払えるのかが解らなかった。今は解る。CDと生音は明らかに違う。生音は身体全体に響くのが快感である。初ライヴを経験した日には、今迄の人生に於いて損をしていた気すらした。それくらい、今はライヴが好きである。しかし当然ながら私の好きなバンドが毎日ライヴをしてくれる訳はない。ライヴのない日々は相変わらず朦朧と日々を過ごす。飽きてきた。なので一日に一度、必ずやらなければならないことというものを自分に課してみようと思った。どうせ課すなら掃除や洗濯にしろという意見は却下である。浄化作用を伴わないので。文章を書く行為にも泪を流すのと同様に浄化作用があると思う。認知療法の基本もまずは書くことからだ。ここで認知療法をする訳ではないが。また私は以前は文筆業を営んでいた。今はその世界から遠ざかり、文章力は落ちる一方である。特に長文。文章を書いて生活していた頃は日記をつけるのは無駄だと思っていた。日記を書いてもギャラが発生しないからだ。当時の私の文章にはギャラが発生するだけの力があった。今はもうない。なので文章の勘を取り戻す作業も兼ねている。今も稀に仕事を請けることがあるが、あくまで心身に負担がかからない程度の簡単な仕事しか請けられない。しかしながらその手の簡単な仕事を請けたときに、不愉快な思いをさせられることが多々ある。やはり簡単な仕事は莫迦の役割であり、利口な人間はその程度の仕事には関わらないのであろう。莫迦な編集者にあたるといつかまた現場に復帰したいという気持ちが湧く。その日の為の予行練習も兼ねての日記。
さてタイトル。こんなタイトルではあるが恋愛日記に非ず。恋愛ってなんですか? というくらい色恋沙汰から遠ざかってかなりの年数が経つ。HIV等の検査を受けシロの判定を貰ってから行為が怖くなった。スルことでシロがクロになるかもしれないと思うと、できない。誰とでもヤッていた頃の自分が今は信じられない。うちのともできない。申し訳なくも思うが、うちのは検査を受けていないので推定シロであり、確定シロではないからだ。また諸事情とパキの副作用に拠り現在の私はシモへの欲求が皆無に等しい。うちのには外で欲求を処理してきて欲しいと思う。思うだけでは無く言ってもある。後はうちのが決めることだ。私から性欲がなくなってかなり経つ所為か、私の諸事情の所為か、うちは殺伐としている。吉野家並みに。無戒秀徳並みに。殺伐。相剋の家である。大概に於いて悪いのは私らしい。それはさておき、色恋沙汰はなくとも恋心がなくなったら女は枯れると思う。青木るえかに激しく同意する。新しい服を着るとき、限定コスメを予約するとき、ときめく。楽しい。女に生まれて良かったと感じる。けれどお洒落やメイク以上に女を輝かせるものは恋心であろう。両想い・片想いは問わない。当人の中に恋心があるかないかが問題なのだ。今の私には仄かな恋心がある。相手はうちのではない。うちのへの恋心は愛へと変化を遂げている。恋と愛は違うのだ。愛は情に近く、恋に情はない。恋にあるのは慕ではなかろうか。この歳になって周囲に夫婦が増えてきた。皆、恋から愛、愛から情への心情変化を遂げたらしい。なので恋は他所に求める。私の周囲の既婚者たちは所謂不倫をしている者が多い。しかも婚前からの付き合いが続いているパターンだ。ならばそっちと結婚すれば良かったのにと思うのは事実婚状態とはいえ、私が未だ独身だからか。
無戒秀徳は好みである。眼鏡だから。しかし眼鏡を外した無戒が好きかと問われれば答えは否だ。目付きも声もギターもいい線を行っているのだが輪郭が違うのだ。よく「○○さんの好みってどんな人?」という会話がある。誰でも一度のみならずしたことがあるだろう。私も数え切れない程その手の会話をしてきた。当初は「眼鏡をかけていて目付きが悪くてサラッと嫌味が言える人。芸能人で言えば松尾貴史」と答えていた。しかし悲しき哉、松尾貴史を知らない人が余りにも多かった。「キッチュ」「大島渚の真似をする人」と説明をして半分の人が解ってくれたかどうか。ある程度この手の会話の回数をこなしてからは「ちぃ兄ちゃんの頃の福山雅治」と答えるようになり、眼鏡好きだということは理解され易くなった。目付きが違うのだが白衣も好きなので妥協点が福山雅治なのだ。男声は気持ち高めのテノールが気持ちいい。うちのは眼鏡でテノールだ。もし眼鏡でなく且つバスだったら付き合っていなかったかもしれない。一時期、うちのが脱眼鏡してコンタクトにしようとしていたので必死で止めた。それくらい眼鏡が好きだ。うちのと眼鏡のどちらが好きかと問われれば眼鏡と答えるかもしれない。また上記のような会話をしていた頃に比べ、今はもう少し好みが煩くなった。眼鏡が必須なのは変わらないが、後は髭があり、和服……甚平、袴、訪問着等が似合うこと。モンペも可である。頭髪への拘りは薄くなった。河童禿でなければ良しとする。今、私の好みにぴったり嵌っている男性がひとりいる。敢えて名前は出さない。解る人には解るだろうし、解らない人には松尾貴史以上に知らない存在なのは明白だ。
BGM/「恋は三角木馬の上で」「…
公道内交差点での勘違い
2003年10月9日 雑感・所感 現在11月2日。
開放された個人サイトのチャットや掲示板に於いて大嫌いな発言がある。「メール出したよ」「メール読んだよ」。これが本当に無神経極まりない物に思われてならない。これに違和感を覚えない者はこの先は読まなくて結構。管理人の意図はともかく、個人サイトは得てして常連同士の馴れ合いとなり易い物である。それでも開放されていれば多くの人がROMをし、また発言したり書き込んだりする。その中で「メール出したよ」「メール読んだよ」という文章が他者に与える印象を考えないのだろうか? 本人たちには、業務連絡的な気持ちでの発言乃至書き込みだと思っているのかもしれない。大間違いである。兎角、www=ワールド・ワイド・ウェブの意味を理解していない者が多過ぎる。半年ROMれ! 行政は至急ネットでの発信者に免許制導入! と訴えたい。私のネット歴は4年強である。PCそのものは仕事の都合上でもっと前から使っていたものの、ネットへの接続及びネットの使い方を教えてくれたのはうちのである。この面に関して、私はうちのに大変に感謝をしている。うちのは私に教えたことで大変な失敗をしたと思っているらしい。そんなうちのをよそ目に、私はずぶずぶのネット依存を満喫している。
ネット上の数多あるサイトでまず教わったのは、某巨大掲示板である。日記をつけ始めてからは極度に回数が減ったものの、今も出入りしている。私のネチケット……という言葉も今更感が漂って恥ずかしいのでネット・マナーとでもしようか、とにかくそれは某巨大掲示板が基準となっている。まずはROMって雰囲気を読む、自分語りは嫌われる、過去ログには目を通す、煽りや荒らしは放置など。けれども小規模サイトではこれらのマナーが通じないところが多い。その中での際立って読めるのが冒頭の「」二種である。基本的に小規模サイト=内輪サイトとなっている現状にあり、その発言は仲間内ではアリなのだろう。しかしながら仲間内だけでなく、他者の出入りを許可していながら基本的には内輪サイトという物が多く、それらは大体性質が悪い。管理人にはサイト管理能力検定を要求したい。行政なり法人なりはこの検定を早急に用意するように。
出入り自由な個人サイトのチャットや掲示板に於けるこれらの発言は、たまに発言する者・書き込みする者にどう読めるかを検証していく。チャットも掲示板も開放されたものである。誰もが読め、誰もが発言・書き込みできる。要は多くの人が集まっている場所なのだ。冒頭の「」は、そこでメールという個人的やり取りの存在を公表していることに他ならない。この人たちは個人的にも付き合いがあるのね、で思考停止する人も多いかもしれないが、少し頭を使えばそれだけに留まらない考え方もできてくる。判り易くチャート式で説明しよう。
チャット内・掲示板内でも会話可能なのにメールのやり取りを公表
↓
そこでは書けない内緒話をしていると宣言しているも同様
↓
その内緒話とはどんな内容なのか
↓
内緒にしなければならない必要がある内容なのではないか
↓
自分を含む他の者の悪口ではないか
これを深読みと一笑するのは能天気な幸せ者か莫迦である。教室内で友人数人と楽しく会話をしているとする。そのときに友人の内のふたりがこそっと内緒話を交わしたのを目にしたとする。気にならないものだろうか? 私ならとても気になる。冒頭の「」にもこの、こそっと、とした雰囲気を感じてならないのだ。実際はリアルでも仲良くしている者同士が今度会う日時を決めようとしているのかもしれない、サイト作成や更新にあたって解らないところを訊くために詳しい者に長文メールで質問・回答をしたのかもしれない。様々な想像ができる。そしてその様々な想像の中に上記チャートのような想像も含まれるのだ。公私混同で楽しいのは当人たちだけであり、その行為が他者を不快にする可能性を秘めていることにも気が付いて欲しい。
wwwであるからには皆の物である、と私は認識している。それは何かのオフィシャルサイトであっても個人サイトであっても変わらない。皆の物を提供し、管理するのが管理人の役割だと思っている。皆の物として提供する上で最も重要なことは、サイト内での約束事を前以って宣言しておくことではないだろうか? 問題が生じてから後手後手に約束事を設定する管理人が多く感じる。先に設定しておけ。また自分基準が過ぎる管理人も多く感じる。先に宣言しておけ。これらの不出来な管理人の脳内は問題が過ぎ去るのを待ち、過ぎ去ったらそれで良しで終了となっているのも多く感じる。そのときの問題で設定した約束事は明記しろ。そもそもこういった形而上の問題ではない。ホームページの作り方、といったサイトや書籍が多いのがまず問題と感じる。必要なソフトとサイト構成の基礎知識だけ得られれば誰でも簡単にサイト開設できてしまう状況は如何なものか。第三者の目に触れるもの・発言や書き込みを許す場所であることへの定義を頭に叩き込んでから開設すべきではないか。
個人サイト管理人の多くは自己主張の強い人間である。主張がなければサイトを開設して自らが進んで何かを発信したがることもないのだから断言していいだろう。主張を発信する権利は誰にでもある。私もここでこうして発信しているし、某巨大掲示板などへの書き込みで発信することもある。権利には伴う義務がある。私はここにせよ某巨大掲示板にせよ、明記された約束事は守っている。ある程度空気も読んでいる。個人サイトに於いてはどうか。約束事の明記がない。そして空気が管理人基準なので読むのが困難である。管理人基準結構。しかしながらそれはwwwの定義に基づくものでなければならず、その定義を崩すものであってはならないのではないか。憲法・法律・条令の関係に等しいと私は考える。アダルトサイトなどを除き、世界中に張り巡らされた蜘蛛の糸を辿ることは誰にでも許されている。いわば公道である。その公道には公の道と定義がなされている。その公道上に多くの交差点がある。この交差点が各サイトなのではないか。公道に沿って建てた私宅や私道と勘違いしている者には今一度、自分の場所を見直していただきたい。
開放された個人サイトのチャットや掲示板に於いて大嫌いな発言がある。「メール出したよ」「メール読んだよ」。これが本当に無神経極まりない物に思われてならない。これに違和感を覚えない者はこの先は読まなくて結構。管理人の意図はともかく、個人サイトは得てして常連同士の馴れ合いとなり易い物である。それでも開放されていれば多くの人がROMをし、また発言したり書き込んだりする。その中で「メール出したよ」「メール読んだよ」という文章が他者に与える印象を考えないのだろうか? 本人たちには、業務連絡的な気持ちでの発言乃至書き込みだと思っているのかもしれない。大間違いである。兎角、www=ワールド・ワイド・ウェブの意味を理解していない者が多過ぎる。半年ROMれ! 行政は至急ネットでの発信者に免許制導入! と訴えたい。私のネット歴は4年強である。PCそのものは仕事の都合上でもっと前から使っていたものの、ネットへの接続及びネットの使い方を教えてくれたのはうちのである。この面に関して、私はうちのに大変に感謝をしている。うちのは私に教えたことで大変な失敗をしたと思っているらしい。そんなうちのをよそ目に、私はずぶずぶのネット依存を満喫している。
ネット上の数多あるサイトでまず教わったのは、某巨大掲示板である。日記をつけ始めてからは極度に回数が減ったものの、今も出入りしている。私のネチケット……という言葉も今更感が漂って恥ずかしいのでネット・マナーとでもしようか、とにかくそれは某巨大掲示板が基準となっている。まずはROMって雰囲気を読む、自分語りは嫌われる、過去ログには目を通す、煽りや荒らしは放置など。けれども小規模サイトではこれらのマナーが通じないところが多い。その中での際立って読めるのが冒頭の「」二種である。基本的に小規模サイト=内輪サイトとなっている現状にあり、その発言は仲間内ではアリなのだろう。しかしながら仲間内だけでなく、他者の出入りを許可していながら基本的には内輪サイトという物が多く、それらは大体性質が悪い。管理人にはサイト管理能力検定を要求したい。行政なり法人なりはこの検定を早急に用意するように。
出入り自由な個人サイトのチャットや掲示板に於けるこれらの発言は、たまに発言する者・書き込みする者にどう読めるかを検証していく。チャットも掲示板も開放されたものである。誰もが読め、誰もが発言・書き込みできる。要は多くの人が集まっている場所なのだ。冒頭の「」は、そこでメールという個人的やり取りの存在を公表していることに他ならない。この人たちは個人的にも付き合いがあるのね、で思考停止する人も多いかもしれないが、少し頭を使えばそれだけに留まらない考え方もできてくる。判り易くチャート式で説明しよう。
チャット内・掲示板内でも会話可能なのにメールのやり取りを公表
↓
そこでは書けない内緒話をしていると宣言しているも同様
↓
その内緒話とはどんな内容なのか
↓
内緒にしなければならない必要がある内容なのではないか
↓
自分を含む他の者の悪口ではないか
これを深読みと一笑するのは能天気な幸せ者か莫迦である。教室内で友人数人と楽しく会話をしているとする。そのときに友人の内のふたりがこそっと内緒話を交わしたのを目にしたとする。気にならないものだろうか? 私ならとても気になる。冒頭の「」にもこの、こそっと、とした雰囲気を感じてならないのだ。実際はリアルでも仲良くしている者同士が今度会う日時を決めようとしているのかもしれない、サイト作成や更新にあたって解らないところを訊くために詳しい者に長文メールで質問・回答をしたのかもしれない。様々な想像ができる。そしてその様々な想像の中に上記チャートのような想像も含まれるのだ。公私混同で楽しいのは当人たちだけであり、その行為が他者を不快にする可能性を秘めていることにも気が付いて欲しい。
wwwであるからには皆の物である、と私は認識している。それは何かのオフィシャルサイトであっても個人サイトであっても変わらない。皆の物を提供し、管理するのが管理人の役割だと思っている。皆の物として提供する上で最も重要なことは、サイト内での約束事を前以って宣言しておくことではないだろうか? 問題が生じてから後手後手に約束事を設定する管理人が多く感じる。先に設定しておけ。また自分基準が過ぎる管理人も多く感じる。先に宣言しておけ。これらの不出来な管理人の脳内は問題が過ぎ去るのを待ち、過ぎ去ったらそれで良しで終了となっているのも多く感じる。そのときの問題で設定した約束事は明記しろ。そもそもこういった形而上の問題ではない。ホームページの作り方、といったサイトや書籍が多いのがまず問題と感じる。必要なソフトとサイト構成の基礎知識だけ得られれば誰でも簡単にサイト開設できてしまう状況は如何なものか。第三者の目に触れるもの・発言や書き込みを許す場所であることへの定義を頭に叩き込んでから開設すべきではないか。
個人サイト管理人の多くは自己主張の強い人間である。主張がなければサイトを開設して自らが進んで何かを発信したがることもないのだから断言していいだろう。主張を発信する権利は誰にでもある。私もここでこうして発信しているし、某巨大掲示板などへの書き込みで発信することもある。権利には伴う義務がある。私はここにせよ某巨大掲示板にせよ、明記された約束事は守っている。ある程度空気も読んでいる。個人サイトに於いてはどうか。約束事の明記がない。そして空気が管理人基準なので読むのが困難である。管理人基準結構。しかしながらそれはwwwの定義に基づくものでなければならず、その定義を崩すものであってはならないのではないか。憲法・法律・条令の関係に等しいと私は考える。アダルトサイトなどを除き、世界中に張り巡らされた蜘蛛の糸を辿ることは誰にでも許されている。いわば公道である。その公道には公の道と定義がなされている。その公道上に多くの交差点がある。この交差点が各サイトなのではないか。公道に沿って建てた私宅や私道と勘違いしている者には今一度、自分の場所を見直していただきたい。
ポリシーを持った公開オナニーの自覚
2003年10月8日 雑感・所感 現在11月4日。
マイスリーとサイレースを入れて眠りに付いたのに3時間で目覚めてしまった。サイレース、意味なし。二度寝をすると今日の予定が狂いそうなのでもうこのまま起きていることに決定。暇なので日記を書く。自分で日記を付け始めてから、他人様の日記も覗かせて貰うことが増えた。私のような活字文体で書いている人は少ない。それはいい。その日の出来事を書いている人が多い。それもいい。それにしても世の中には面白い人が沢山いることが解ってきた。悪い意味で。面白い=莫迦と言い換えられる。悪い意味なので面白い=詰まらないとも言い換えられる。皆が皆、文筆業を営んでいる、または営んでいた訳ではあるまいし致し方ないことではあるが、それにしても失笑を禁じえない日記が数多ある。世の広さを思い知らされる。他人様の日記を読むことで、やはり世の中は大多数の莫迦と少数の利口で成り立っていることがよく理解できてきた。私の考え方は間違ってはいなかったようである。
莫迦の中でも特筆して性質が悪いのは、自分は面白い人間だと勘違いしている莫迦である。絶対にお近付きになりたくないが、傍で見ている分には面白い……というか、安心感を抱かせてもらえる。やはり莫迦はいい。ある日記で、冒頭に「さっき迄書いていた文章を一度削除して、今、書き直している。さっきまでの文章は詰まらなかったからだ」といったことを書いている人がいた。読み進めた。つまんねー! これよりも詰まらなかったという「さっきまでの文章」とは果たしてどれほど詰まらなかったのだろう。思いを馳せるが私の想像の範疇を超えているに決まっている。またそのような冒頭を付けなければ、ただの詰まらない文章で済むのに、余計な一文の所為でその文章の詰まらなさがまた際立って見える。莫迦って凄い。余計な一文の所為で書いている本人の、これは面白いだろう? という自己満足がありありと見えることに気付いていないらしい。凄い……。ある日記には「ここは○○するところですよ」「これは△△しながら読んでください」などと書かれていた。絶句。書き手が読み手に読み方を強要している。日記にト書きはいらん! 兎角、第三者である読み手を無視した日記が目に付く。書き手は日記なのでそれで良いと思っているのかもしれない。大いなる誤解ではないだろうか? そんな日記ならウェブ上に公開する意味がない。自分のPC内で書け。わざわざ公開するからには何らかの意味を持たせるべきではないかと、私は思っている。
ネット上で日記サイトをレンタルして付けられる日記とは一体何なのか。友人が一言で的確に表現してくれた。公開オナニー。大正解である。私もここで友人らへの近況報告及び文章訓練を兼ねて公開オナニーしているに他ならない。私にはその自覚があるのでこのような文体で書いているのであり、テーマも公開オナニーとして他者に迷惑がかからないよう選んでいるつもりである。そうでない者を非難する気は全くないので誤解なきよう。ただ、莫迦って面白いな、と思わせてもらっているだけなのだ。公開オナニーの文章に真の意味で面白いもへったくれもない。ましてや読み手の読み方に書き手が口出しするなど、私にとっては禁忌である。日記に限らず、文章表現者はその文章を公開したら最後、読み手に全てを委ねるべきだと私は考えている。物書きとして生活していた以前から変わらないスタンスであり、これが変わることは今後もないだろう。読み手に委ねられない文章には、書き手の甘えと自信のなさが垣間見られる。それは恥ずかしい行為なのだ。
また日記上での「(笑)」も恥ずかしい物のひとつだと思っている。故・林家三平が額に片手を持っていく、ここは笑うところですよ、のサインに等しいと思う。三平にとってそれは芸風のひとつとして確立されていたのでアリ。しかし素人の公開オナニー日記に於いてそれは如何なものか。お笑い芸人の禁忌のひとつに、自分のネタに自分でウケてしまうというのがある。それに等しく思える。「(笑)」を書いている者にそんな自覚はないだろうが、読み手にはそう受け取れてしまう。私も個人的メールなどでは自己ツッコミとして「(w」を付けることもある。それはメールという手紙にも等しい文章であり、相手が気心知れている相手故だ。誰が読むか判らないここでは、一切そのような表現は使わないことにしている。これでもまだ、書き手としてのポリシーは残っている。
プライド、というものがある。得てして莫迦はプライドを沢山持っているように思う。莫迦の極み。プライドはひとつでいいのである。多くのプライドを所持している者は、多くの縛りを自分で設定しているに他ならず、またその設定が多いが故にプライドを守りきれず矛盾が生じたりする。本人だけでなく、見ている・聞いている側も恥ずかしい。私のことをプライドのない人間だと勘違いしてる莫迦を数知れず見てきた。そういう人間とは大概疎遠になっている。またプライドと称する物を沢山所有していると公言している者とも疎遠になっている。莫迦だから近付きたくないのである。私のプライドとは、自分が書き綴る文章だけである。その文章に他者がどのような感想を持っても構わない。読み手が何らかの心の動きを持ってくれれば本望だし、見当違いでないケチを付けられれば今後の自分の文章表現に役立つ。他者に何も影響を与えない文章を書くことだけは、私のプライドに傷が付く。日々是精進。
前述とは違う或る友人が自分のPC内で日記をつけ始めたらしい。彼女は公開するに値しない且つ公開する勇気がない故のPC内日記である。恐らく無自覚であろうが、ウェブ上の日記=公開オナニーと解っているのだろう。彼女のメールはいい意味で女の子らしいメールである。文章力は確かにイマイチかもしれないが、和ませてくれる文章ではある。私は彼女に、PC内日記に自信が付いたら日記サイトをレンタルすることを薦めている。ここでもさるさるでもどこでもいいので、是非とも早く公開して欲しい。読者を和ませる、という私にはない力を持った文章力の持ち主なのだ。かわいい文章を素で書ける彼女の性格が私は好きだ。私はかわいい文章を書こうとすると、かわいく見せようとしている意図が文章中に滲み出てしまい、卑しい文章になってしまう。彼女は文章力に自信がないらしい。はっきり言わせてもらえれば、構成力は確かにまだ足りない。しかしここ最近のメールのやり取りで構成力の向上を、私は感じている。もう一歩でただのオナニーから公開オナニーにできる迄に発展しそうな気配を感じている。友人の成長は、私にとっても嬉しい。
以前、ここで私の文章の欠点は構成力の弱さだと書いた。友人の現役ライターに読んでもらったところ、それが向上しているとのお褒めの言葉をいただいた。有難い話である。3000文字前後という文字数制限は、構成力を身につけるに適した文字量であるらしい。尤も文字数制限いっぱいに文章を書いている日記にお目にかかったことはないのだが、まあ大多数の日記作者はプロ意識なく書いているのだろうからそれも良かろう。ただ、日記中で自分の職業をライターだと書いていながらネット文体の駄文書き散らかしを目にすると、やはり落胆してしまう。こんな文章力の奴が金を貰っているのかと思うと、我が身が哀れになってきてしまう。早く社会復帰を果たしたいものだ。因みにタイトル前の記号の表情を変えないのも、読み手に先入観を与えるのを避けているからである。
マイスリーとサイレースを入れて眠りに付いたのに3時間で目覚めてしまった。サイレース、意味なし。二度寝をすると今日の予定が狂いそうなのでもうこのまま起きていることに決定。暇なので日記を書く。自分で日記を付け始めてから、他人様の日記も覗かせて貰うことが増えた。私のような活字文体で書いている人は少ない。それはいい。その日の出来事を書いている人が多い。それもいい。それにしても世の中には面白い人が沢山いることが解ってきた。悪い意味で。面白い=莫迦と言い換えられる。悪い意味なので面白い=詰まらないとも言い換えられる。皆が皆、文筆業を営んでいる、または営んでいた訳ではあるまいし致し方ないことではあるが、それにしても失笑を禁じえない日記が数多ある。世の広さを思い知らされる。他人様の日記を読むことで、やはり世の中は大多数の莫迦と少数の利口で成り立っていることがよく理解できてきた。私の考え方は間違ってはいなかったようである。
莫迦の中でも特筆して性質が悪いのは、自分は面白い人間だと勘違いしている莫迦である。絶対にお近付きになりたくないが、傍で見ている分には面白い……というか、安心感を抱かせてもらえる。やはり莫迦はいい。ある日記で、冒頭に「さっき迄書いていた文章を一度削除して、今、書き直している。さっきまでの文章は詰まらなかったからだ」といったことを書いている人がいた。読み進めた。つまんねー! これよりも詰まらなかったという「さっきまでの文章」とは果たしてどれほど詰まらなかったのだろう。思いを馳せるが私の想像の範疇を超えているに決まっている。またそのような冒頭を付けなければ、ただの詰まらない文章で済むのに、余計な一文の所為でその文章の詰まらなさがまた際立って見える。莫迦って凄い。余計な一文の所為で書いている本人の、これは面白いだろう? という自己満足がありありと見えることに気付いていないらしい。凄い……。ある日記には「ここは○○するところですよ」「これは△△しながら読んでください」などと書かれていた。絶句。書き手が読み手に読み方を強要している。日記にト書きはいらん! 兎角、第三者である読み手を無視した日記が目に付く。書き手は日記なのでそれで良いと思っているのかもしれない。大いなる誤解ではないだろうか? そんな日記ならウェブ上に公開する意味がない。自分のPC内で書け。わざわざ公開するからには何らかの意味を持たせるべきではないかと、私は思っている。
ネット上で日記サイトをレンタルして付けられる日記とは一体何なのか。友人が一言で的確に表現してくれた。公開オナニー。大正解である。私もここで友人らへの近況報告及び文章訓練を兼ねて公開オナニーしているに他ならない。私にはその自覚があるのでこのような文体で書いているのであり、テーマも公開オナニーとして他者に迷惑がかからないよう選んでいるつもりである。そうでない者を非難する気は全くないので誤解なきよう。ただ、莫迦って面白いな、と思わせてもらっているだけなのだ。公開オナニーの文章に真の意味で面白いもへったくれもない。ましてや読み手の読み方に書き手が口出しするなど、私にとっては禁忌である。日記に限らず、文章表現者はその文章を公開したら最後、読み手に全てを委ねるべきだと私は考えている。物書きとして生活していた以前から変わらないスタンスであり、これが変わることは今後もないだろう。読み手に委ねられない文章には、書き手の甘えと自信のなさが垣間見られる。それは恥ずかしい行為なのだ。
また日記上での「(笑)」も恥ずかしい物のひとつだと思っている。故・林家三平が額に片手を持っていく、ここは笑うところですよ、のサインに等しいと思う。三平にとってそれは芸風のひとつとして確立されていたのでアリ。しかし素人の公開オナニー日記に於いてそれは如何なものか。お笑い芸人の禁忌のひとつに、自分のネタに自分でウケてしまうというのがある。それに等しく思える。「(笑)」を書いている者にそんな自覚はないだろうが、読み手にはそう受け取れてしまう。私も個人的メールなどでは自己ツッコミとして「(w」を付けることもある。それはメールという手紙にも等しい文章であり、相手が気心知れている相手故だ。誰が読むか判らないここでは、一切そのような表現は使わないことにしている。これでもまだ、書き手としてのポリシーは残っている。
プライド、というものがある。得てして莫迦はプライドを沢山持っているように思う。莫迦の極み。プライドはひとつでいいのである。多くのプライドを所持している者は、多くの縛りを自分で設定しているに他ならず、またその設定が多いが故にプライドを守りきれず矛盾が生じたりする。本人だけでなく、見ている・聞いている側も恥ずかしい。私のことをプライドのない人間だと勘違いしてる莫迦を数知れず見てきた。そういう人間とは大概疎遠になっている。またプライドと称する物を沢山所有していると公言している者とも疎遠になっている。莫迦だから近付きたくないのである。私のプライドとは、自分が書き綴る文章だけである。その文章に他者がどのような感想を持っても構わない。読み手が何らかの心の動きを持ってくれれば本望だし、見当違いでないケチを付けられれば今後の自分の文章表現に役立つ。他者に何も影響を与えない文章を書くことだけは、私のプライドに傷が付く。日々是精進。
前述とは違う或る友人が自分のPC内で日記をつけ始めたらしい。彼女は公開するに値しない且つ公開する勇気がない故のPC内日記である。恐らく無自覚であろうが、ウェブ上の日記=公開オナニーと解っているのだろう。彼女のメールはいい意味で女の子らしいメールである。文章力は確かにイマイチかもしれないが、和ませてくれる文章ではある。私は彼女に、PC内日記に自信が付いたら日記サイトをレンタルすることを薦めている。ここでもさるさるでもどこでもいいので、是非とも早く公開して欲しい。読者を和ませる、という私にはない力を持った文章力の持ち主なのだ。かわいい文章を素で書ける彼女の性格が私は好きだ。私はかわいい文章を書こうとすると、かわいく見せようとしている意図が文章中に滲み出てしまい、卑しい文章になってしまう。彼女は文章力に自信がないらしい。はっきり言わせてもらえれば、構成力は確かにまだ足りない。しかしここ最近のメールのやり取りで構成力の向上を、私は感じている。もう一歩でただのオナニーから公開オナニーにできる迄に発展しそうな気配を感じている。友人の成長は、私にとっても嬉しい。
以前、ここで私の文章の欠点は構成力の弱さだと書いた。友人の現役ライターに読んでもらったところ、それが向上しているとのお褒めの言葉をいただいた。有難い話である。3000文字前後という文字数制限は、構成力を身につけるに適した文字量であるらしい。尤も文字数制限いっぱいに文章を書いている日記にお目にかかったことはないのだが、まあ大多数の日記作者はプロ意識なく書いているのだろうからそれも良かろう。ただ、日記中で自分の職業をライターだと書いていながらネット文体の駄文書き散らかしを目にすると、やはり落胆してしまう。こんな文章力の奴が金を貰っているのかと思うと、我が身が哀れになってきてしまう。早く社会復帰を果たしたいものだ。因みにタイトル前の記号の表情を変えないのも、読み手に先入観を与えるのを避けているからである。