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梅雨ってなんだっけ? というような晴天続きの日々。たまに雨が降ってもすぐに止んでしまったりで、真夏の断水が怖い今日この頃。節水の為に入浴回数は控えめで……。とにかく暑くて機嫌が悪い。うちのとも顔を合わせると言い合いになる芳しくない傾向。今朝はTシャツについての言い合い。うちのは日頃、釦ダウンのシャツのインナーに、半袖Tシャツを着ている。半袖Tシャツは主にユニクロの3枚パック。私には洗濯をするときに、襟元の汚れなどをチェックする習慣がない。と言うのもチェックしたところで、まだ大丈夫でしょ、と全て問題なしと判断してしまうのだ。目立つシミなどがあれば別だが、全体的についた汗染みなどは気付かない。うちのはそういう点に煩い。今朝シャワーを浴びてからTシャツを着て、これ襟元が黒ずんできているよ、と言い出した。そうか? 私にはよく解らん。黒ずんできてるんだよ! はあ。買い足しといてよ。明日でいい? なんで明日なんだよ。今日は出かけるつもりなかったし。普通は言わなくても彼女なり奥さんなりが気付いて買っといてくれるもんだろ。はあ。あんた、こんなシャツを彼氏に平気で着せている彼女だと思われていいの? 別にいちいちそんなとこ見ないし。なんでも自分を基準にするのは良くない! 俺は見るよ! はあ。じゃあ買ってきて。えー……、今10枚はあるでしょ。ないよ! あるってば。じゃあ数えてみろよ、なかったら買ってきてよ。と、数えてみると、インナー用衣装箱の中に半袖Tシャツが7枚+外に干してあるのが2枚+洗濯籠に1枚。ちょうど10枚あるよ。衣装箱の中だけであるかっつってんだよ! 最初そんなこと言ってなかったじゃない、全部合わせて10枚あるってば。もういい! 腹が立つから口を利くな! ……。
そのまま無言で通しはせず、ちゃんと普通に喋ってからうちのは仕事に行った。暫くして電話あり。直ぐに切れた。着信履歴を見ると親からだったのでかけてみた。私がまだ寝ているかと思って即切りしたらしい。因みに着信時間は9時半過ぎ。ここ数日、私は22時頃寝て、5〜8時の間に起床する激しく健康的な生活。親の用件は、祖母の健康状態とお盆の帰省についてだった。祖母の具合が著しく悪くなっているらしく数ヶ月前以上にやせ細っている上、もうベッドから自力では起き上がれないとか。長くはないらしい。親曰く、今年の冬迄は持たないだろう。親孝行として孫の中で一番可愛がられていたあんたを会わせてあげたいから、お盆に一緒に行かないか。深夜バスのチケット発売日迄に連絡をくれ。お盆帰省の打診は前からあり、今も迷っている最中である。祖母は私に会うと喜んでくれる。私も祖母が好きだ。しかし。前回祖母の見舞いに行ったとき、もう会いたくないな、と思ってしまったのだ。ひとりでは動けない、食事の嚥下も苦しそう。そんな祖母を見るのがとてもつらかったから。これは私の我侭である。まだ先がある者の我侭よりも、老い先短い者の希望を叶えるのがひととしては正しかろう。それでも私は見たくない。元気だった頃の祖母の姿を鮮明に覚えておきたいのだが、会うと私の記憶の中で苦しそうな祖母の姿の方が色濃くなってしまう。親に、祖母を見るのがつらい、ということを伝えた。そして行くかどうかもう少し考えさせてくれ、と。すると、こういうのは人によって考え方が違うしいいよ、今つらくて会わないで後々後悔するか、会いに行くか考えなさい、と言われた。これはもにょる。
親が親孝行をしたがっているのはよく解る。だが、その親孝行に私を使われるのは御免だ、という気持ちが強い。私の中に親への確執はまだあるのだ。そして私の医師を尊重するかのようだけれども、よく聞くと必ず後で後悔すると決めてかかるような言い方。私が帰らないと言う答えを出したとしたら、いいよ、と言いつつ、先々迄ことある毎に嫌味を言われ続けることは明白である。この夏に祖母の元へ行かなかったとして、私はきっと後悔するだろう。それは生きているうちにもう1度祖母に会っておきたかった、ではなく、こんな嫌味をずっと言われるくらいなら行っておけばよかった、だ。こんな気持ちで会いに行っても、祖母は喜んでくれるのだろうか。疑問である。今の私には、弱った祖母を直視する勇気がない。また別の問題として、私のPDも治まってはいない。発作も予期不安もちょくちょく起きている。長時間、親や叔母や従弟たちに会うのも気が重い。答えを出す迄の猶予は一週間弱。
祖母は以前から親と叔母に遺言として、密葬を希望しているらしい。親の兄姉妹らは死んだ祖父と存命の祖母の扱いを巡って二派に分かれて関係が悪化している。長男がどのような葬儀を出すかはまだ不明だけれども、祖母の意思を無視した葬儀を行うようならば、親と叔母は通夜には欠席して告別式だけに出る予定らしい。すると私や叔母の子供らは、通夜に出席したいと思っても出ることを強硬に反対されるのだろう。私はその二派のどちらの味方でもなく、ただのひとりの孫である。関わりたくない。巻き込まれたくない。当然ながら祖母が希望する形での葬儀が理想ではあるけれども、例えどんな形の葬儀であっても孫としてきちんと見送りたいと思っている。孫の意思は子によって憚られて然るべきものなのだろうか。ひとの死は、そんなものではないと思う。故人を弔う気持ちに邪魔が入るのは如何なものか。祖母が希望している密葬を行うのが最良である。けれどきっと所謂一般的な葬儀が執り行われる。定年退職して地元に家を買ってそこに住んでいる、長男の世間体が重視されるだろうから。実にくだらない、くだらなさ過ぎる話でげんなりする。葬儀は遺された者の為にするものだ、というのが私の基本的な考え方である。だが、それは決して世間体などに振り回されるようなことではなく、死者の記憶をどのように整理するか、という意味だ。死者への感情整理の為の葬儀。そして死者の最後の願いを叶える葬儀。両立は可能だ。可能なのに身内の中での格付けやその他諸々で不可能になるなんて、大変おかしな話である。孫の立場は弱い。弱過ぎて無力な私も情けない。
BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
そのまま無言で通しはせず、ちゃんと普通に喋ってからうちのは仕事に行った。暫くして電話あり。直ぐに切れた。着信履歴を見ると親からだったのでかけてみた。私がまだ寝ているかと思って即切りしたらしい。因みに着信時間は9時半過ぎ。ここ数日、私は22時頃寝て、5〜8時の間に起床する激しく健康的な生活。親の用件は、祖母の健康状態とお盆の帰省についてだった。祖母の具合が著しく悪くなっているらしく数ヶ月前以上にやせ細っている上、もうベッドから自力では起き上がれないとか。長くはないらしい。親曰く、今年の冬迄は持たないだろう。親孝行として孫の中で一番可愛がられていたあんたを会わせてあげたいから、お盆に一緒に行かないか。深夜バスのチケット発売日迄に連絡をくれ。お盆帰省の打診は前からあり、今も迷っている最中である。祖母は私に会うと喜んでくれる。私も祖母が好きだ。しかし。前回祖母の見舞いに行ったとき、もう会いたくないな、と思ってしまったのだ。ひとりでは動けない、食事の嚥下も苦しそう。そんな祖母を見るのがとてもつらかったから。これは私の我侭である。まだ先がある者の我侭よりも、老い先短い者の希望を叶えるのがひととしては正しかろう。それでも私は見たくない。元気だった頃の祖母の姿を鮮明に覚えておきたいのだが、会うと私の記憶の中で苦しそうな祖母の姿の方が色濃くなってしまう。親に、祖母を見るのがつらい、ということを伝えた。そして行くかどうかもう少し考えさせてくれ、と。すると、こういうのは人によって考え方が違うしいいよ、今つらくて会わないで後々後悔するか、会いに行くか考えなさい、と言われた。これはもにょる。
親が親孝行をしたがっているのはよく解る。だが、その親孝行に私を使われるのは御免だ、という気持ちが強い。私の中に親への確執はまだあるのだ。そして私の医師を尊重するかのようだけれども、よく聞くと必ず後で後悔すると決めてかかるような言い方。私が帰らないと言う答えを出したとしたら、いいよ、と言いつつ、先々迄ことある毎に嫌味を言われ続けることは明白である。この夏に祖母の元へ行かなかったとして、私はきっと後悔するだろう。それは生きているうちにもう1度祖母に会っておきたかった、ではなく、こんな嫌味をずっと言われるくらいなら行っておけばよかった、だ。こんな気持ちで会いに行っても、祖母は喜んでくれるのだろうか。疑問である。今の私には、弱った祖母を直視する勇気がない。また別の問題として、私のPDも治まってはいない。発作も予期不安もちょくちょく起きている。長時間、親や叔母や従弟たちに会うのも気が重い。答えを出す迄の猶予は一週間弱。
祖母は以前から親と叔母に遺言として、密葬を希望しているらしい。親の兄姉妹らは死んだ祖父と存命の祖母の扱いを巡って二派に分かれて関係が悪化している。長男がどのような葬儀を出すかはまだ不明だけれども、祖母の意思を無視した葬儀を行うようならば、親と叔母は通夜には欠席して告別式だけに出る予定らしい。すると私や叔母の子供らは、通夜に出席したいと思っても出ることを強硬に反対されるのだろう。私はその二派のどちらの味方でもなく、ただのひとりの孫である。関わりたくない。巻き込まれたくない。当然ながら祖母が希望する形での葬儀が理想ではあるけれども、例えどんな形の葬儀であっても孫としてきちんと見送りたいと思っている。孫の意思は子によって憚られて然るべきものなのだろうか。ひとの死は、そんなものではないと思う。故人を弔う気持ちに邪魔が入るのは如何なものか。祖母が希望している密葬を行うのが最良である。けれどきっと所謂一般的な葬儀が執り行われる。定年退職して地元に家を買ってそこに住んでいる、長男の世間体が重視されるだろうから。実にくだらない、くだらなさ過ぎる話でげんなりする。葬儀は遺された者の為にするものだ、というのが私の基本的な考え方である。だが、それは決して世間体などに振り回されるようなことではなく、死者の記憶をどのように整理するか、という意味だ。死者への感情整理の為の葬儀。そして死者の最後の願いを叶える葬儀。両立は可能だ。可能なのに身内の中での格付けやその他諸々で不可能になるなんて、大変おかしな話である。孫の立場は弱い。弱過ぎて無力な私も情けない。
BGM/アルバム「二十世紀葬送曲」
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