右目下瞼の腫れが半端なく酷くなり、見るも無残な逆お岩さん状態に。瞬きも痛く、堪らず眼科に行ってきた。生まれて初めての眼科。診察開始時間より早く言ったにも拘らず、受付を済ませ検査・診察を経て点眼薬を処方される迄にかかるは約2時間。無為な時間と思いきや、得るものあり。視力が上がっていた。両目共に1.2。そんなことはどうでもいいとして。ここ迄とは思わずともある程度は待たされることを視野に入れ、文庫本を持って行っていた。小林恭二の三島賞受賞作「カブキの日」。文庫購入から軽く1年は経っている本。何故読了がこんなに遅くなったのか、それは単に詰まらなかったからである。序盤は実に遅々として進められる。特に私は風景描写が長引くと飽きがくる性質である。眼科の待ち時間に差し掛かった中盤から一気に引き込まれた。何故こんなに長く、ともすると平坦とも思われる描写を淡々と綴ったのか。それは、終盤の数ページの為だけであったように思う。以下、ネタバレ注意。
私は歌舞伎にも能にも狂言にも明るくない。日本の伝統芸能への知識は、近世文学の授業で少し齧ったのみである。その知識も積年毎に薄れてきている。それでも基礎知識として知っている、歌舞伎役者の発端は河原乞食であった事実。士農工商に入れられなかった、蔑まれるべき存在として位置づけられた人々が生み出した、芸能、と呼ばれるもの。現代は、その河原乞食の子孫たちにファンや贔屓がつく時代。変われば変わるものである。伝統芸能、と書けば言えば聞こえは良いが、元は人の下のヒトのものであり、当時の役者や今の役者は果たしてそのような過去をどのように昇華して演じているのか。私はそんなことに今迄興味がなかった。ただ齧った知識でのみ、何故執拗な迄に伝統を重んじるのか、と疑問に思っていただけである。作中で顔見世に登場する役者たち。華やかでありながら腹の中は黒く渦巻き、その有様は魑魅魍魎にも似て読める。華やかな魑魅魍魎が跋扈する世界座は、さながら艶やかなカラクリ箱。カラクリ箱の3階は阿片窟の様相にして、黄泉のような、涅槃のような場所であるらしい。阿片窟に招かれた蕪と月彦はあくまで、無垢、の象徴であり汚されることはない。穢されては物語が成立しない。その無垢さを引き立たせる魑魅魍魎は、どんなに華やかに描かれようとも彼女らの引き立て役にしかならない。これは仕方がないことなのか。それとも小林の筆力が、引き立て役を作らねば彼女らの無垢さを引き出せない程度に落ちてしまったのか。私は小林の処女作「電話男」からのファンである。電話男の醜さは、美しい存在を描かずとも引き出されていた。対して蕪と月彦の存在は、汚らしい人々を描いてやっと光が射す。小林の力量の所為ではないだろう。文筆にあたり、汚らしいものや歪んだものははただそれだけで描写することが可能でも、輝くものは対比なくしては立たせ難いのではなかろうか。飽食の果て御馳走を御馳走とは思えなくなった先進国住人の胃袋のように、数多の俗欲の中で生活をする者に砂金は金としての価値を見出せないことに等しい。小銭と並べられなければ札束の価値が解らない程に、このような薄汚い対比が真っ先に思い浮かんだ私には、無垢、は難しい存在なのである。そして無垢とは本質であり、美の基本として本作では綴られている。無垢の象徴は蕪と月彦。蕪だけでは若しくは月彦だけではいけなかったのだろうか。美とは対であるべきものなのか。どうやらそうらしい。美醜も生死も対である。蕪は奔放=動=生であり月彦は抑制=静=死であり、且つ蕪と月彦ふたりの存在が動=生であり、彼らが去った空間は即ち静=死に等しい。
河原乞食たちが芸能と呼ばれるものを作ったのは、食べてゆく為である。唄って舞って銭を頂戴する。唄や舞は金銭授受の手段であり、それが磨かれれば磨かれる程に得るものもきっと大きくなっていったのだろう。作中中盤迄、磨くとはまず原型ありて為し得ることでありそれが、伝統、の正体であるかのように書かれている。そして磨いてゆくうちに或る原型はその姿をより大きくし、或る原型はその原型を留めない姿になってゆく。また時代と共に原型の意味がなくなるものもある。私には解らない。原型、とは本当に原型なのだろうか。発生したその瞬間が原型の誕生とは、こと伝統芸能に関しては全く以って思えない。かといって、原型が発生以前からあったものなのか、それとも発生以後ある程度磨かれてから原型とされるようになったのか、作品内で答えは出されている。そしてその答えは、ひとつの正解であろうと思われる。しかし実際に今現実世界で行われている、伝統芸能、に照らし合わせてみると、作品の答えと現実世界は連動していない。小説、所詮は作り話だからなのか。それともこの作品は予言なのか。
この世に文字が発生し確立した時点で、全ての記録が模られていれば、と思う。私たちの歴史は、たった100年前のことですら曖昧である。物事を知る為に、歴史を学ぶことは大切であるけれども、今伝えられている歴史が事実かどうかは解らない。さり気なくそんなことにも言及している作品。されば現と幻の境界も引けやしない。真偽は各々の脳に心に委ねられる。小林は現と幻の境界を曖昧にすることに長けた作家である。物語を物語として完結させない。これは読了後に余韻を残すことの比喩ではなく、物語の真偽を読者に委ねる作家だ、と私が認識しているからだ。小林の作品はいわば挑戦である。冗長は序章に過ぎず、本質はたった数ページ。この数ページに至る迄に、まず読者は篩にかけられる。そして読了後は何を以ってこの小説の真とするか。読者が導き出す真と作者が意図する真は同一とは限らない。けれどクラシックに於いて作曲者の意思が絶対であるように、こと小林の作品では作者の意思は絶対のように思える。小林の意図せぬ真は全て幻ではなかろうか。これ迄の作品では、小林は御丁寧にもきちんと夢と現、小説世界と現実世界の線引きを名称に因ってきちんとしてくれいていた。その親切をこの作品で捨てたようである。これは小林の成熟、熟練による驕りではなく、作家としての意思の強まりと私は感じた。詰まらんのう、と思いつつだらだら読んでいた本が、一気に化けた。こういう本は宝物になる。そして私は久々に小林贔屓の気持ちが強まったのであった。
服/as know asの1点物ノースリーブパイルチュニック+カーキの裾絞りカーゴパンツ+下駄+一澤帆布の国防色ミニトート
私は歌舞伎にも能にも狂言にも明るくない。日本の伝統芸能への知識は、近世文学の授業で少し齧ったのみである。その知識も積年毎に薄れてきている。それでも基礎知識として知っている、歌舞伎役者の発端は河原乞食であった事実。士農工商に入れられなかった、蔑まれるべき存在として位置づけられた人々が生み出した、芸能、と呼ばれるもの。現代は、その河原乞食の子孫たちにファンや贔屓がつく時代。変われば変わるものである。伝統芸能、と書けば言えば聞こえは良いが、元は人の下のヒトのものであり、当時の役者や今の役者は果たしてそのような過去をどのように昇華して演じているのか。私はそんなことに今迄興味がなかった。ただ齧った知識でのみ、何故執拗な迄に伝統を重んじるのか、と疑問に思っていただけである。作中で顔見世に登場する役者たち。華やかでありながら腹の中は黒く渦巻き、その有様は魑魅魍魎にも似て読める。華やかな魑魅魍魎が跋扈する世界座は、さながら艶やかなカラクリ箱。カラクリ箱の3階は阿片窟の様相にして、黄泉のような、涅槃のような場所であるらしい。阿片窟に招かれた蕪と月彦はあくまで、無垢、の象徴であり汚されることはない。穢されては物語が成立しない。その無垢さを引き立たせる魑魅魍魎は、どんなに華やかに描かれようとも彼女らの引き立て役にしかならない。これは仕方がないことなのか。それとも小林の筆力が、引き立て役を作らねば彼女らの無垢さを引き出せない程度に落ちてしまったのか。私は小林の処女作「電話男」からのファンである。電話男の醜さは、美しい存在を描かずとも引き出されていた。対して蕪と月彦の存在は、汚らしい人々を描いてやっと光が射す。小林の力量の所為ではないだろう。文筆にあたり、汚らしいものや歪んだものははただそれだけで描写することが可能でも、輝くものは対比なくしては立たせ難いのではなかろうか。飽食の果て御馳走を御馳走とは思えなくなった先進国住人の胃袋のように、数多の俗欲の中で生活をする者に砂金は金としての価値を見出せないことに等しい。小銭と並べられなければ札束の価値が解らない程に、このような薄汚い対比が真っ先に思い浮かんだ私には、無垢、は難しい存在なのである。そして無垢とは本質であり、美の基本として本作では綴られている。無垢の象徴は蕪と月彦。蕪だけでは若しくは月彦だけではいけなかったのだろうか。美とは対であるべきものなのか。どうやらそうらしい。美醜も生死も対である。蕪は奔放=動=生であり月彦は抑制=静=死であり、且つ蕪と月彦ふたりの存在が動=生であり、彼らが去った空間は即ち静=死に等しい。
河原乞食たちが芸能と呼ばれるものを作ったのは、食べてゆく為である。唄って舞って銭を頂戴する。唄や舞は金銭授受の手段であり、それが磨かれれば磨かれる程に得るものもきっと大きくなっていったのだろう。作中中盤迄、磨くとはまず原型ありて為し得ることでありそれが、伝統、の正体であるかのように書かれている。そして磨いてゆくうちに或る原型はその姿をより大きくし、或る原型はその原型を留めない姿になってゆく。また時代と共に原型の意味がなくなるものもある。私には解らない。原型、とは本当に原型なのだろうか。発生したその瞬間が原型の誕生とは、こと伝統芸能に関しては全く以って思えない。かといって、原型が発生以前からあったものなのか、それとも発生以後ある程度磨かれてから原型とされるようになったのか、作品内で答えは出されている。そしてその答えは、ひとつの正解であろうと思われる。しかし実際に今現実世界で行われている、伝統芸能、に照らし合わせてみると、作品の答えと現実世界は連動していない。小説、所詮は作り話だからなのか。それともこの作品は予言なのか。
この世に文字が発生し確立した時点で、全ての記録が模られていれば、と思う。私たちの歴史は、たった100年前のことですら曖昧である。物事を知る為に、歴史を学ぶことは大切であるけれども、今伝えられている歴史が事実かどうかは解らない。さり気なくそんなことにも言及している作品。されば現と幻の境界も引けやしない。真偽は各々の脳に心に委ねられる。小林は現と幻の境界を曖昧にすることに長けた作家である。物語を物語として完結させない。これは読了後に余韻を残すことの比喩ではなく、物語の真偽を読者に委ねる作家だ、と私が認識しているからだ。小林の作品はいわば挑戦である。冗長は序章に過ぎず、本質はたった数ページ。この数ページに至る迄に、まず読者は篩にかけられる。そして読了後は何を以ってこの小説の真とするか。読者が導き出す真と作者が意図する真は同一とは限らない。けれどクラシックに於いて作曲者の意思が絶対であるように、こと小林の作品では作者の意思は絶対のように思える。小林の意図せぬ真は全て幻ではなかろうか。これ迄の作品では、小林は御丁寧にもきちんと夢と現、小説世界と現実世界の線引きを名称に因ってきちんとしてくれいていた。その親切をこの作品で捨てたようである。これは小林の成熟、熟練による驕りではなく、作家としての意思の強まりと私は感じた。詰まらんのう、と思いつつだらだら読んでいた本が、一気に化けた。こういう本は宝物になる。そして私は久々に小林贔屓の気持ちが強まったのであった。
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