昨日届いたハンガーラック。届いて直ぐに組み立てて服を吊るし、今日の日中、私がPCに向っているその後ろで、どんがらがっしゃーん、と倒れた。ので、慌ててまた組み立て直してPCに向って数分後に再び、どんがらがっしゃーん、と倒れた。ので、生協本部に電話をして交換要請。破損ショックから立ち直ったのは、ついさっきである。破損したラックはバラしてキッチンの隅に置いてある。箱は既に月末のフリマに出品する衣類を詰めてしまっているので、戻すに戻せないのだ。そして隅に置いたラックの残骸の上にまた出品用の服塚を作っている最中。来週水曜迄には、出品物をどうにか形にしたい所存。
そんなことはどうでもいいとして。ここ数日、10年来の中高時代からの友人とメッセで話をする機会が複数回あった。その中で私は彼女の知らない私の友人について話をした。どうもその話し振りが友人には熱く感じられたらしい。そして、自分って……と思ってしまった、というようなことを言われた。デ・ジャヴ。かなり前に、彼女が私の知らない友人のことを、親友、と表現した。そのとき私は尋常ならぬショックを受けた。私って……。女友達には見せない私の女々しい部分。彼氏にはよく見せてしまうベタな姿。私は貴方にとって何なの? 私と〜〜、どっちが大事なの? 私は彼女のことを親友だと思っていた。でも彼女は別の子のことを、親友、と言った。私たちはお互いに、私たちは親友よね! なんて確認しあったことは1度もなかったので、彼女を親友だと思っていたのは私だけだったのか、彼女にとって私は複数いる友達のひとりに過ぎなかったのか、と落ち込んだ。親友、の定義は人によって違うだろう。ひとりだけを親友とする人もいれば、親友が複数いたっていいじゃない、という人もいる。彼女が前者なのか後者なのか、未だに知らない。どうでもよくなったのだ。友人について語る私に彼女は、黒猫はその子のことが本当に好きなんだな、と思えたらしい。そしてそれは正しいと言えると同時に、間違いであるとも言える。私はそのとき話題に出ていた友人のことがとても好きである。しかしその、好き、はとても歪んでいる。友人として好き、なのではなく、私にとってその友人は、女の子の見本、的存在なのだ。だからその友人について語るときは男性的視線になっていることは少なくない。それはその友人も知っている筈だ。きっと迷惑に思っているだろう。ごめんよ。更に、女の子の見本、であるが故に浮世人よりももっと、崇高な存在、に私の中では昇華されていたりもする。男性的視線で見られること以上に迷惑だろう。ごめんよ。謝っておけばいいと思っている私。そしてメッセで会話していた友人は私にとって、親友的存在、だと思っていた。
ふたりで話を深めて行った。まず彼女が感じた淋しさ。それは私が彼女ではない別の友人のことをとても好きであることを感じ取り、私から見た彼女は一体何なのか、と思ってしまったことに基づく。そして私が以前感じた淋しさ。それは別の友人のことを、親友、と言われて、なら私は何なのだろう、と。彼女はとても正直だ。淋しさを感じた翌日にこのことを私に言ってきた。私は彼女に自分が感じた淋しさを、そのとき迄打ち明けずにいた。女々しい自分を見せたくない見栄で、彼女の中での私の価値を曖昧にし続けていた。翌日言ってきた彼女は偉いと思う。話し合っていくうちに初めて知ったこと。彼女はその親友としょっちゅう冗談めかして、私たちって親友だよね! というような会話を交わしてきていた過去があったらしい。因って直ぐに、親友、という表現が出てきた。私とはそんな会話をしたことはなく、またお互いにそれ迄は確認しあう必要を感じていなかったのだ。だからといって、相手にとって自分は親友である、という確信も持ててはいなかった。だからお互いに余計な淋しさを感じ、感じさせることになってしまった。でもきっとこれは、長年の付き合いに甘んじてきたお互いへの甘えであり、いずれは確認しあう日がくることだったのだろう。
言わなくても感じられること。でも言ってもらわないとその感じたことに確証を持てない私たち。いて当然であり、いわば空気のような存在。お互いに自分が持っていない相手の長所を褒めることができ、相手の短所を指摘することができる稀少な存在。それを、親友、と言うのかどうか、私は知らない。そして、親友の定義なんてもうどうでもいいや、と思えるようになった。ふたりが仲良しで、お互いにいないと淋しくて、でも暫く会わなくても平気だったり、暫く会っていないのに自然に会話ができたり。そういうことが大切なのであり、言葉に拘る悪癖が出てしまっていただけだ。こんな友人を得られたことだけが、私の中高時代6年間での唯一の幸せであろう。彼女と私は似ているところと真逆なところが、数えたことはないけれどきっと同じくらいあると思う。人間の生涯の幸と不幸は同数である、という人がいる。私はそれをそのまま信用できる程、無垢な人間ではない。けれど彼女との似たところと真逆のところがきっと半々であろうことは、お互いにいいバランスなのだろう、だから長く付き合えるのだろうと思える。これからもよろしくね、なんて言葉は必要ない存在。言葉は必要ないけれど、心ではずっと思い続けている。照れ臭くて言葉にしないだけ。これも甘えか。でも改まって言うのも変だから、このままでいいのだろう。
先に出た、彼女に淋しさを感じさせてしまう位に私に熱く語らせてしまう友人。彼女にとってはもしかしたら私は迷惑な存在かもしれない。私なら自分を、崇高な存在、として見ている、友人、とは付き合いづらいから。この友人も私にとって大切な友人のひとり。ただ私が思う、理想の女の子、を体現し過ぎているだけなのだ。上記友人にはサラッと言えることが、同じようにこの友人に言っていても実は内心、こんなこと言って嫌われたらどうしよう、なんて思っていたりする。なら言わなきゃいいだけの話なのだが。この友人と会ったり話したりしているときは、他の友人とはまた別の感情が湧いてくる。なんというか、学園のアイドルさまがこんなダンゴムシと会ってくださるとは! お声をかけてくださるとは! というような。根っこは毒男なのか、私は。卑下している訳ではなく、半ヒキコモリな私にも他の友人と同じように話してくれる、顔も声も可愛くて小さくて柔らかくて巨乳で自分の意思はハッキリ言えて自分が昔から目指していた職業に就いてイキイキと働いている友人が、眩しく見えない筈がないではないか。憧れだけれども、追いつきたいとすら最早思えぬ友人。やっぱり毒男的思考の私なのである。
そんなことはどうでもいいとして。ここ数日、10年来の中高時代からの友人とメッセで話をする機会が複数回あった。その中で私は彼女の知らない私の友人について話をした。どうもその話し振りが友人には熱く感じられたらしい。そして、自分って……と思ってしまった、というようなことを言われた。デ・ジャヴ。かなり前に、彼女が私の知らない友人のことを、親友、と表現した。そのとき私は尋常ならぬショックを受けた。私って……。女友達には見せない私の女々しい部分。彼氏にはよく見せてしまうベタな姿。私は貴方にとって何なの? 私と〜〜、どっちが大事なの? 私は彼女のことを親友だと思っていた。でも彼女は別の子のことを、親友、と言った。私たちはお互いに、私たちは親友よね! なんて確認しあったことは1度もなかったので、彼女を親友だと思っていたのは私だけだったのか、彼女にとって私は複数いる友達のひとりに過ぎなかったのか、と落ち込んだ。親友、の定義は人によって違うだろう。ひとりだけを親友とする人もいれば、親友が複数いたっていいじゃない、という人もいる。彼女が前者なのか後者なのか、未だに知らない。どうでもよくなったのだ。友人について語る私に彼女は、黒猫はその子のことが本当に好きなんだな、と思えたらしい。そしてそれは正しいと言えると同時に、間違いであるとも言える。私はそのとき話題に出ていた友人のことがとても好きである。しかしその、好き、はとても歪んでいる。友人として好き、なのではなく、私にとってその友人は、女の子の見本、的存在なのだ。だからその友人について語るときは男性的視線になっていることは少なくない。それはその友人も知っている筈だ。きっと迷惑に思っているだろう。ごめんよ。更に、女の子の見本、であるが故に浮世人よりももっと、崇高な存在、に私の中では昇華されていたりもする。男性的視線で見られること以上に迷惑だろう。ごめんよ。謝っておけばいいと思っている私。そしてメッセで会話していた友人は私にとって、親友的存在、だと思っていた。
ふたりで話を深めて行った。まず彼女が感じた淋しさ。それは私が彼女ではない別の友人のことをとても好きであることを感じ取り、私から見た彼女は一体何なのか、と思ってしまったことに基づく。そして私が以前感じた淋しさ。それは別の友人のことを、親友、と言われて、なら私は何なのだろう、と。彼女はとても正直だ。淋しさを感じた翌日にこのことを私に言ってきた。私は彼女に自分が感じた淋しさを、そのとき迄打ち明けずにいた。女々しい自分を見せたくない見栄で、彼女の中での私の価値を曖昧にし続けていた。翌日言ってきた彼女は偉いと思う。話し合っていくうちに初めて知ったこと。彼女はその親友としょっちゅう冗談めかして、私たちって親友だよね! というような会話を交わしてきていた過去があったらしい。因って直ぐに、親友、という表現が出てきた。私とはそんな会話をしたことはなく、またお互いにそれ迄は確認しあう必要を感じていなかったのだ。だからといって、相手にとって自分は親友である、という確信も持ててはいなかった。だからお互いに余計な淋しさを感じ、感じさせることになってしまった。でもきっとこれは、長年の付き合いに甘んじてきたお互いへの甘えであり、いずれは確認しあう日がくることだったのだろう。
言わなくても感じられること。でも言ってもらわないとその感じたことに確証を持てない私たち。いて当然であり、いわば空気のような存在。お互いに自分が持っていない相手の長所を褒めることができ、相手の短所を指摘することができる稀少な存在。それを、親友、と言うのかどうか、私は知らない。そして、親友の定義なんてもうどうでもいいや、と思えるようになった。ふたりが仲良しで、お互いにいないと淋しくて、でも暫く会わなくても平気だったり、暫く会っていないのに自然に会話ができたり。そういうことが大切なのであり、言葉に拘る悪癖が出てしまっていただけだ。こんな友人を得られたことだけが、私の中高時代6年間での唯一の幸せであろう。彼女と私は似ているところと真逆なところが、数えたことはないけれどきっと同じくらいあると思う。人間の生涯の幸と不幸は同数である、という人がいる。私はそれをそのまま信用できる程、無垢な人間ではない。けれど彼女との似たところと真逆のところがきっと半々であろうことは、お互いにいいバランスなのだろう、だから長く付き合えるのだろうと思える。これからもよろしくね、なんて言葉は必要ない存在。言葉は必要ないけれど、心ではずっと思い続けている。照れ臭くて言葉にしないだけ。これも甘えか。でも改まって言うのも変だから、このままでいいのだろう。
先に出た、彼女に淋しさを感じさせてしまう位に私に熱く語らせてしまう友人。彼女にとってはもしかしたら私は迷惑な存在かもしれない。私なら自分を、崇高な存在、として見ている、友人、とは付き合いづらいから。この友人も私にとって大切な友人のひとり。ただ私が思う、理想の女の子、を体現し過ぎているだけなのだ。上記友人にはサラッと言えることが、同じようにこの友人に言っていても実は内心、こんなこと言って嫌われたらどうしよう、なんて思っていたりする。なら言わなきゃいいだけの話なのだが。この友人と会ったり話したりしているときは、他の友人とはまた別の感情が湧いてくる。なんというか、学園のアイドルさまがこんなダンゴムシと会ってくださるとは! お声をかけてくださるとは! というような。根っこは毒男なのか、私は。卑下している訳ではなく、半ヒキコモリな私にも他の友人と同じように話してくれる、顔も声も可愛くて小さくて柔らかくて巨乳で自分の意思はハッキリ言えて自分が昔から目指していた職業に就いてイキイキと働いている友人が、眩しく見えない筈がないではないか。憧れだけれども、追いつきたいとすら最早思えぬ友人。やっぱり毒男的思考の私なのである。
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