現在6月15日。

 食事中、うちのが少し静かになった。単に疲れていて話す気力がなくなっているだけかもしれないけれど、私には有難い。私は食事中の姿を他者に見られるのが、大の苦手なのである。若干、会食不全の気あり。他者に口元の動きを見られるのが本当にイヤでイヤで仕方がない。なのである程度親しい食餌を共にする相手には機会があれば、余り食事中にこっちを見ないで、と言っている。それでも見てくる人はいる。うちのもそのひとりだ。先日、夕食中にうちのが私を見てこう言った。でかい口開けて食べてる食べてる。単なる冷やかしでしかないのだろう、と理解できてはいる。しかしその言葉を私は受け止め切れない。スプーンを置いて席を立ち、その場を離れた。半泣き。恥ずかしくてつらくて仕方がなかった。悪気がないうちのは困っていた。誰も悪くない。他者から見て、私の食事姿はとても美味しく食べているように見えるらしい。自覚はない。美味しそうに食べるよねえ、とかつていろんな人に言われてきた。そして私はその言葉を褒め言葉と思えたことはただの1度もなく、その都度、辱めを受けている気分に陥った。箸が上手に持てない・溢すことが少なくない、なども見られて恥ずかしい理由の一部だ。しかしそれらは表層的なものでしかない。

 人間の三大欲求は、食欲・睡眠欲・性欲、と言われている。この食欲と睡眠欲に他者が関わると、私は過剰に拒否反応を起こしてしまう。食事姿を眺められるとすぐさま食欲は消え失せ泣き出したり、睡眠中の姿を写真に撮られたら本気で怒ったりする。うちのに対しても、だ。むしろ親しければ親しい程、こういうことへの拒否反応は強く出る気がする。遡って食事について考える。私の幼少期は本当に食が細く、今とは違う育児方法が主流だったこともあり親はとにかく私に物を食べさせたがった。私は強制される食事が苦痛で堪らなかった。決められた食事時間をオーバーしてしまうと、オーバーした分だけ罰として正座を強いられる。または夜、外に追い出される。食事は楽しみではなく、苦痛の前座のようなものだった。これもきっと、私の会食不全気味の傾向に影響がなくはないだろう。他者が私の食事姿を眺める姿は、そのときの食事での私の落ち度を見つけて、罰を与える用意をしているのではないかと勘繰ることすらある。怖い。ただただ怖い。けれど俯瞰した位置にいる私は、共に食事をしている人が私に意地悪をしてはこない、と理解してもいる。実存する私と俯瞰している私の矛盾点を結ぶ方法は未だ見つかってはいない。

 三大欲求は人間だけでなく、その他ケモノにもある本能だ。ということは、作法云々の人間特有のものはあれども、食事姿・睡眠姿・性交姿は、人間としての理性の皮を被ったケモノの本能を満たす姿でもある。人間でありたいと思う気持ちが強過ぎて、私は食事姿や睡眠姿を他者に見られることに羞恥と嫌悪を覚えるのか。それもひとつの正解であろう。ただこれのみを正解とはできない。それは性交姿を他者に見られることに対しては羞恥はあれど、嫌悪はないからだ。同性ならイヤなのだけれど、異性であれば逆に見られることでより高まったりする。激しい矛盾である。性交時は食事時や睡眠時よりも余程ヒトはケモノに近くなっている筈であり、また多くの人間は性交姿は他者から隠蔽するものと考えている。そしてそのような倫理観が日本では蔓延している。要するに、私は性的にはアブノーマルな人間である。性的にオープンなら、食事や睡眠に関してよりオープンでも何ら不思議はない。またそういう人もいるだろう。ただ、私は違う。命題。三大欲求の中で、私にとって性欲のみが異質なのは何故か。

 私はノーマルもOKではあるけれど、被虐嗜好を持っている。性行為に於いて対等な関係は一切望んでおらず、私は徹底的に下層の者または物として扱われたい欲求がある。その場合、私よりも上層にいる相手が第三者を連れてきて私の姿を晒そうとしたとして、私に拒否権はない。むしろそれを好しとして捉えねばならない。羞恥はともかく、嫌悪の気持ちを持ってはならないのだ。これを読んだ大多数の人間は、そんなのおかしい、と感じるだろう。だが嗜虐乃至被虐を好む者にとって、この構図は極々自然なものに見える筈だ。自分の問題に戻る。ケモノな自分を肯定するにあたり、私は他者の力添えがなければならないのではないか。本来ならばひとりで肯定できるべき成長過程を踏むべきなのに、私はその過程の何処かで足を踏み外してしまった気がしてならない。トイレ・トレーニングは母子若しくは親子関係の絆を強めるらしい。肛門期の次に来るのは口唇期である。口唇期にも親子の絆を深めるべきだったのではなかろうか。その方法はただひとつ、できたら褒める、である。私の場合、トイレ・トレーニングも相当に強引なものだったらしい。かなり早い時期から食事が済んだらおまるに座らされ、出る迄そこを離れることは許されなかった。これは薄っすら記憶にある。出たら出たで褒めてもらえた記憶もあるので、強引ながらもトイレ・トレーニングには大きな失敗はなかったのではなかろうか。そして口唇期。時間内に出された食事を全て食べることができたら褒められた。しかしそんなのは何十回に1回の割合であり、殆どの食事に於いては罰の前座でしかなかった。これが今の会食不全の気に繋がっている気がする。そして睡眠。決められた時間には半ば無理矢理布団に入れられた。眠くなくても。眠くなる迄、私は豆電球の下で本を読んでいた。そのときの私の部屋は一戸建ての2階。階段の下の方では足音を顰め、上に近付くに連れて足音を立てて駆けて私の部屋のドアを開けて、まだ起きてる!、と怒る親。布団に入ってから寝付ける迄の時間も苦痛でしかなかった。これらの苦痛は幼少期からの積み重ねである。性的なものはオトナになってから経験することだ。三大欲求のうち、ふたつを素直に出せなくなった私。オトナになって残るひとつの欲求の出し方に、ふたつの欲求の歪んだ姿から歪が生じたのでは、と考えている。間違っているかどうかは解らない。誰にも答えは出せないだろう。

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