現在6月12日。

 かつて私に大打撃且つ激しい衝撃を与える言葉を放ったのは、某友人の姉だった。友人が私の写っている写真をその姉に見せたときの感想。この子、胸、大きそうだね。何度も何度もくどくどと書いているように、私は誰もが認める貧乳の持ち主である。なのに、胸、大きそうだね。大きそう、という言葉が出るということは、その写真に私の胸部は写っていなかった筈である。そして友人姉は、私の顔を巨乳顔と判断して、そのようなことを言ったのだろうと見当が付く。巨乳顔とはどんな顔なのかを想像した。何となく頭が悪そうで隙だらけ。そんなイメージ。……莫迦顔? 世の中には利巧顔の巨乳も当然ながらいる。が、利巧顔だけを見て果たして人は、この子は乳がでかそうだな、と思うだろうか。否、思わないだろう。利巧顔はスレンダーなイメージである。あくまで私の貧困な想像力の範囲だけれど。自分のことを最も客観的に見られるのは、私個人と接触のない第三者であろう。友人姉は正しくその条件に適う。第三者が客観的に見た私は、乳がでかそうな顔。それを私の脳内イメージで言い換えると、莫迦顔。ショックを禁じ得ない。利巧・知的といった高尚なもの迄求める程貪欲ではないけれど、知性が感じられない、は避けたかった。幾ら私でも、知性的で巨乳そうな子だね、などと友人姉が私を完璧人間と想像したとは思えない。頭は悪そうだけど乳はでかそう、がまあ無難な感想なのだろう。そして考えるのは、頭が悪そうという客観的感想と貧乳という事実を踏まえた上での、自分の存在価値である。頭が悪くても乳がでかければ、白痴美、という路線を狙える。しかし頭が悪そうで乳もなければ、外見的に女として私に存在価値はあるのか。ない。断言。そしてしょぼん。

 ここで、人間は外見より中身だ、なんて綺麗事をいう程、私は自分を貶めたくはなかった。ので外見を磨く努力をした。目指すは、外見的には文庫本の似合う女でありソウルはビッチ。文庫本が似合う=読書家=頭が良さそう、という莫迦莫迦しいのもいい加減にしろとハリセンで頭を叩かれそうな短絡的発想。けれど、外見が他者に与えるイメージとは短絡的であればある程、判り易くはなかろうか。ソウルはビッチ=小悪魔。私の脳内イメージでは、小悪魔はビッチなのである。具体的に考えてみよう。文庫本の似合う女とは、どんな女か。色白で黒髪でサナトリウムで白い浴衣を着ている。……時代設定に間違いが生じていそうな悪寒。現代的に考えてみる。眼鏡っ子。……視力が悪い=本の読み過ぎではなくゲームのやり過ぎのような気もする。現に私はそれなりに読書をしている方だと自負しているが、眼鏡が必要な程に視力は悪くない。むしろ良い方だ。眼鏡も間違っていそうだ。文庫本……、文学……! 「文学ト云フ事」! 袴を穿いた女学生! 白ブラウスに黒タイトの女教師! 私の莫迦! 短絡的過ぎるようである。どんな女なら現代的に文庫本が似合うのか、想像できない。この時点で私の負けなのか。そうなのか。悔しい。ソウルはビッチ。これは説明できる。パッと見、直ぐにヤれそうな女でありながら実はヤれない女。外見的にはやや未成熟なフェロモン全開。ソウルは魂であり、それなら実践できそうだが、なら未成熟フェロモンを私がむんむんと振り撒けるかというと、それは不可能な話である。女性性を強調する乳が貧相であるのに、未成熟フェロモンむんむんはあり得ない。未成熟フェロモンとは、子供の心なのに大人のカラダというアンバランスさが生むものなのだ。……子供の心だけれど、年齢的には充分オトナな私には例え乳があったとして既に不可能ではないか。ヤれそうでヤれない女、という点でだけなら実践可能。現に今の私は感染恐怖症の気があるので、尚更ヤるヤらないのハードルは高くなっている。だが、どうにもうちの以外の男性との直接的接触が実に少ないので、どうでもいい話だったりする。

 学生時代からずっと、他者に私の第一印象を訊くと、取っ付き難そう、という答えが大多数を占めていた。取っ付き難そうだけれど仲良くなってみるとそうではなかった、と。そして先の問題を思い出す。乳がでかそう=隙がありそう、と、取っ付き難そう、は相反する印象ではなかろうか。隙がある人は取っ付き易そうであり、隙がないからこそ取っ付き難そうなのではないか、と。隙があるのに取っ付き難い人。そのココロは……と考える。導き出される答えは、電波ゆんゆん系、だ。冒頭に書いたのとは違う某友人の兄が得た私の第一印象は、エキセントリックな人、だったらしい。……奥歯に電波が届いたことはただの1度もないのに。電波ゆんゆん系をもう少し柔らかくして表現するなら、不思議チャンか。深田恭子か。前世はマリー・アントワネットか。違う! 私が望む他者に与える第一印象と、他者が得る私の第一印象の間には、深くて暗い河どころか、数万光年の差がある。私はなんてセルフ・プロデュースが下手なんだ! と落胆。

 外見より中身が大切、というのは嘘である。外見がダメなら他者はその者の内面迄は見ようとしないからだ。そして長所と短所が表現ひとつで覆るように、外見がダメな者がたまたま他者に良い内面を見せるきっかけがあったとして、他者は既にその者の外見にダメ出しをしているのだから、その行為もネガティヴにしか受け取られない。第一印象を覆すのは、とても大変な労力を要するのだ。ときに。私は取っ付き難いという評価を得ながらも、他人に道などを尋ねられる率はかなり高い。取っ付き難い人間には余り訊いてこない筈である。尋ねてくる者を分析すると、初老人が多い。そこに中年から老年者は、若者の電波ゆんゆん系や不思議チャン加減へのアンテナを持っていない傾向が見て取れる。などと書くと、自ら電波ゆんゆん系または不思議チャンであることを自覚しているようだが、決してそうではない。世の中、なんでこうも思い通りに行かないことが多いのだろう。私が他者に求める、ソウルはビッチな文庫本の似合う女、というのはそんなに高度な感受性を要するのか? 違う。責任転嫁してはならない。自身でセルフ・プロデュースの腕を磨くべきだ。そもそも20代後半になって、ソウルはビッチな文庫本の似合う女を目指すのは如何なものか、という意見はつまらないから却下である。そして自分と第三者の思う第1印象が違うだけであり、決して私は電波ゆんゆん系でも不思議チャンでもない、と重ね重ね記述。

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