中途半端な安物の靴ばかりを履いていた昔。マーチンは既に穿き始めていた頃だったか、もっと気軽に履ける所謂、いい靴、が欲しかった。都内某所のフリーマーケットでビルケンシュトックのの靴に出会った。くすんだ青い紐靴。サイズは37。出店者と交渉という名の値踏み値下げ要求を経て、3500円で購入。それから数年。手にした日から今日迄のきっと半分の月日はあのビルケンを履いてきた気がする。外出の際には文字通り、私の足、になってくれた靴だった。けれど親しき仲に礼儀無用とばかりに、手入れは怠っていた。そして数日前に、靴の後ろの部分の革が避けていることに気が付いた。気が付いてしまった。しかも左右共。どうしたものか。この靴は数多所有している靴の中でも1・2を争う程に愛着のある靴。しかしこのまま履き続けていたら、裂け目は大きくなり見るも無残な姿になるだろう。悩んだ。うちのに相談したら、あんた靴いっぱいあるんだから1足位ダメになったって大丈夫でしょ、とあしらわれてしまった。うちのは物に対して余り愛着や執着を持たない人間なのだ。そんなドライな奴に相談した私が莫迦だった。ウエットな感傷に浸る私には、少なからず堪えた言葉だった。と同時に、そのドライさが羨ましくも思えた。

 うちのは物に執着しない人間ではあるけれど、だからといって物を粗末にする人間でもない。ただ私のように物に思い入れを抱かないだけなのだ。だから要る物は要る物としてキチッと使い、その物が不要になったりダメになったりしたらスッパリと潔く斬り捨てる。これが勿体無い病患者とそうでない者の差か。私は物に対し、コレはあの日あのときあのシチュエーションで出会って私のところに来た物、コレはあの日あれに行ったときに着ていた物、などと物と出来事などを関連付けてしまう。すると物を処分する=思い出も消去する、というような倒錯した心持になり不安感や淋しさに襲われる。思い出と物の存在はあくまでも別個であり、関連付けをし始めるとキリがなくなる。宜しくない感情傾向である。だからといっていきなり割り切れるようになる訳でもなく、物凄く困った。そして数年前に某巨大掲示板某板に私が建てたスレッドを思い出した。誰かが書いてくれたアドバイス。捨てるのが淋しかったら写真などに収めておけばどうか。実践してみた。上から、前から、斜めから、後ろから、靴の写真を撮った。これは儀式。人が亡くなったときに遺族が葬式をするに似た、去り逝く物と残される者の最期の絆作りだ。今迄有難う、という気持ちで靴を眺めつつ撮った。

 新しい靴を履いて靴擦れを起こしたとき、癒してくれたのはこの靴だった。沢山歩くことが解っている日にも大抵この靴を履いて出掛けた。何人もの人に、可愛い靴ですね、と褒めてもらった。幅広甲高でなかなか合う靴が見つからない不便な私の足を、柔らかな革で包んで癒してくれた靴。ひび割れが見つかる前から、革と靴底の間に隙間が発生していることに気付いてはいた。深夜静かな住宅街を歩くと、その隙間から漏れる空気がキュッキュッと鳴った。それでも気にしなかった。むしろ履き込んだ勲章のようにその音迄も愛しかった。そして寿命が近付いていることをひしひしと感じ取ってはいた。多くの人は、寿命が近づいてきた愛着のある物にどんな行動を取るのだろう。私は癌告知をしない家族のように、靴に対して何事も異変は起きていないように扱った。路面店に行けば、リペアをしてもらえる。だが、その修理費がなかなかに高い。安物の新品の靴が買えてしまうような値段設定。貧乏人の私は、修理を依頼するかどうするか迷い続けたままでいて、そしてひび割れ発覚。割れた革は直しようがないだろう。もっと早くリペアに出していたらひび割れは先延ばしできたのだろうか、もっとちゃんとメンテしていればこんな事態には見舞われずに済んだのか。それともどんなに手を尽くしても寿命は寿命でしかないのか。元々中古で手に入れた靴。更に私が数年履き込んだ靴。どう短く見積もっても、5年は誰かしらの足に履かれた靴だろう。

 衣類・服飾小物の中で最も消耗が早いのは靴であろう。最低数足の靴を用意して、毎日違う靴を履くようにするとどの靴も長持ちすると言う。タケコプターのようだ。数多の靴を日々とっかえひっかえ履けば、この靴の寿命はきっと延びたに違いない。しかし服に普段着とフォーマルがあるように、靴にも普段用とハレの日用がある。私のハレの日用の靴はヒール靴であり、白い靴であり、レースアップの靴であり。ペタ靴やスニーカや下駄は普段用。このビルケンの靴も普段用。もう1足、少しだけ形が違う黒いビルケンの靴を所有している。これは革が硬く、これ迄履いていた青い方の靴に甘えっ放しで、私の足に馴染ませることを放棄したままの靴だ。これからはこちらの黒い靴に普段履きとして頑張ってもらわなければならないのだろう。どうか早く足に馴染んでくれますように。そしてどうか少しでも長持ちしてくれますように。ビルケンの靴の難点はただひとつ。私からしたらやや高価であることだ。他にも履き易さに定評のある靴ブランドは幾つかある。カンペール然り、トリッペン然り。うちのはカンペールを愛用しているけれど、私は所有していない。トリッペンも持っていない。ビルケンの実用性最重視の中でどうにか少しでも可愛くあろうと足掻く野暮ったさが好きなのだ。カンペールやトリッペンはデザイン性に富んでいて文句なしで可愛い靴も多い。対してビルケンは、可愛いっちゃあ可愛いかな、うん、というように靴の主張ではなく、選者が何処にどんな可愛さを見出すかにかかっている要素が強いように思う。ビルケンの丸っこさが可愛い、くすんだ色味が可愛い。履き易さの後付のように見出す可愛さ。その中には、履き易いが故に生まれる愛着も含まれている。私は重宝する可愛い物に激しく愛着を持つ。重宝できない不便な物にも愛着を持つ。取り敢えず一旦何かしらの理由で私の手元にきた物に対してはどうしても愛着が湧くのだ。だから物を捨てられない。できればこのひび割れた青い靴も取っておきたい。だが、収納スペースの関係上、それは無理な話だ。捨てねばならない。明日の燃えないゴミの日に。感謝の気持ちを胸に詰めてゴミ捨て場に行こう。

服/A/Tの紫色七分袖シャーリングカットソー+無印良品のタイシルク白×黒ギンガムチェッククロップドパンツ+ツモリのベージュメッシュ手提げ鞄+ビルケンの青い靴

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