現在6月6日。

 一昨日の夜にうちのが禁煙実行開始。私の煙草を気にして少し苛々していた。昼前にうちのと共に家を出て、うちのは髪を切りに、私は病院に。睡眠リズムは改善されつつあるけれど日中がとてもだるい、と話し、前回の処方を活かしつつパキシルを戻してもらい、ソラは戻さない代わりにメイラックスを追加。これで少しは改善されるかな? パキシルを切られていた間もだるくて堪らない日はストックを飲んで凌いでいたから変わらないか? 診察後にうちのと合流。昼食は気を遣って全席禁煙のラーメン屋へ。満席に近い混みようだと注文した物が出てくるのに多少時間がかかるのは仕方がなかろうも、うちのは、遅いなあ!、を連発。通常なら、まあ混んでるから仕方ないやね、と流せる程度の時間しか経っていないのに。何かがおかしい。注文した物が出されて美味しく食べて、ぶらぶらとお洋服屋や小物屋を冷やかし、途中でうちのが仕事用のシャツを2枚購入し、本屋へ。砂・南Q太・安彦麻理絵の最新刊をそれぞれ購入。それから無印良品でうちのが興味を持っていた食材を購入し、帰宅前に喫茶店に入った。注文して5分経つか経たないかのうちに再びうちのが、遅いなあ! と言い出した。煩い。そして煙草を吸う私に、煙い煙い! と。灰皿を自分の方に限りなく近づけ、極力うちのに煙がかからないように気をつけていたのに。きっと私が喫煙するのが悪いのではない。うちのが悪いのだ。禁煙は開始3日〜1週間が最もキツい期間らしい。それはそうかもしれないが、私には知ったこっちゃなし。吸いたいのに吸えない苛々を選んだのは、うちの自身だ。私は一言も禁煙してくれなんて頼んでいない。なのに何でこんなにあたられなければならないのか。禁煙者ではなく嫌煙者のように苛々したうちのを見ているとつらくなった。そして私は、とても窮屈な居心地だった。

 帰宅後、珈琲を飲んでいたうちのがいつの間にか寝てしまった。ヨガのレッスンに行く用意をして出発5分前に起こすと、だるくてダメ、ひとりで行っといで。眠かった私は便乗してヨガを休んで昼寝。ふとんにごろりと横たわって買ってきた3冊を読破。安彦麻理絵は良い意味でも悪い意味でも相変わらず。南Q太の「トラや」は連載を飛ばし飛ばし読んでいたもので、これは南Q太作品の中で1番好き。読んでいる最中はほのぼの、読後感は爽やか。いい人しか出てこない内容でも嫌味がなく、私はきっと飽きることなくこの漫画を愛し続けられそうな気がする。そして待望の第2作品集がいつの間にか刊行されていた砂。上手いのだけれど、安定感のない絵だ。上手いと言っても好みの絵柄ではないのだが。内容は……実験性は高まっているが、思想性に於いてパワーダウンの感を否めない。この作者のテーマは一貫して、搾取されない女性性である。テーマそのものは変わっていないけれど、日和が見える。自分の得意なパターンと読者サービスと思しきエロが鼻についた。エロはエロで一向に構わない。しかしそこで思想性を前面に出して男性に、コレで抜いたら負け、と思わせるようなアピールが減った気がする。減ったことでエロ漫画好きの層には受け入れ易くなったかもしれないけれど、私には物足りなくなってしまった。搾取される女性性とセックスシーンが一篇の中で分けられているのだ。「フェミニズム・セックスマシーン」ではエロシーンに強烈に思想性が入り込んでいたのが魅力だったのに、「サイバーポルノ」では……。商業性を高めようとしているのだろうか。質としては相変わらず高いが、前作と比較するとやはり劣る。のんびりと次回作品集の刊行を待とう。

 女性性は昔から東西を問わず、男性性に搾取されるものだった。うちのがシャツを購入した際に、私は何か手頃な値段で気に入る物があれば便乗しようと考えていた。この便乗とは子供がよくやるような、買い物主体者がレジで会計をするときにサッと自分の欲しい物を出してその場を離れて、というアレだ。帰り道に便乗できなかったのが残念だった、とチラッと話したら、うちのが文句を言ってきた。ので、かつて女性性は搾取される存在でしかなく、現代になってジェンダー・フリーの声が高まり、女性性を利用して男性から搾取することが可能になりつつあり、云々と田嶋某のような強引な理論をぶってみたところ、うちのが予想外の反応を見せてきた。反論してくるかと思いきや、拗ねてしまったのだ。どうせ俺は高卒だしジェンダーなんて難しい言葉は解りませんよ、大卒さんは凄いですね、何でも知っていますね、今あんたが働かずに暮らしているのも過去の女性性のなんちゃらかんちゃらですか、いやあ大卒の考える高尚なことは俺には解らん、と。女性性・男性性・ジェンダーについて私は最低限の知識しか持ち得ていない。その最低限の知識の中でちょっとした言葉遊びがしたかっただけなのに、まさか拗ねられてしまうとは。ついでに私の最終学歴は大卒だなんて言うのも憚られる学校である。バリバリ仕事をして、年齢の平均収入を上回るうちのに、学歴コンプレックスがあったとは驚きだった。普段はそんなコンプレックスを見せてこない人間なのだ。参った。私が悪かった。私は呉智英の潔い学歴至上主義を大半の部分で支持している。大半から漏れている支持できない部分は、学歴至上主義者には言うも恥ずかしい最終学歴の持ち主である自分の心に巣食うコンプレックスだ。アッシー・メッシー・貢クンなどという言葉がかなり前に流行した。女性が力を持ち始めたなどという論調もあった。アッシー・メッシー・貢クンの行動は女性の買い物に絡め取られて目につき易い。因って、買い物の便乗について話すときにジェンダー論を出しただけなのだ。私には言葉遊びでしかなかったのだ。言葉の主体は受け手にある。某巨大掲示板某板や某板の数スレに名言が残されている。悪気なく悪いことを言うのは悪い人。悪気なくものを言う人は善悪の区別がつかない危険人物。極論ではあるが、正しい。そして言葉遊びがしたかっただけの私の発言が、うちののコンプレックスを刺激したなら、私が悪い。この程度でコンプレックスを刺激されるなんて軟だ、なんて言うのは傲慢極まりない。誰しもデリケートな部分は持っており、何時なんどきそこを他者に突かれるかは解らない。防御できない者は弱者ではあるけれど、敗者ではない。言葉にしろ力にしろ、問題は暴力を振るう側にある。吉田秋生に同意する。

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