世の中には区別の難しいものが沢山ある。そしてそれらの根底は真逆だったりするので、正しく判断できるかどうかで判断者の底が見えたりする。例えば、性格に於ける、大らかさとプライドのなさ、など。どれも前者は良い意味であり、後者は悪い意味と受け取られる単語だ。30年間弱生きてきて、私なりに他者を判断する為の基軸となるキーワードは、プライド、である。或る者は私のことを、プライド高き人間、と言い或る者は、プライドがない奴、と言う。他者からの評価が分かれるのは、私がときに鼻持ちならん態度を取り、ときに媚び諂う態度を取るからではない。以前、莫迦と利巧の見分け方として、プライドが多い人間程莫迦だ、と書いたと思う。これは自身が他者にどう見られるかを現すと同時に、自身による他者を見る目のテストでもある。判断を誤ると自身よりも低く見た他者より低い位置に自身を置くことになり、非常に恥ずかしい。しかもその恥ずかしさに自身では気付かないので、他者の腹の中で笑われる羽目になる。そして他者は腹の中を見せないので、自身は尚一層井の中の蛙となる。これはこれで、蛙は幸せだろう。蛙の分際で人間様気取りの者は少なくない。むしろ多数派かもしれない。この問題は実に難しく、誰も明瞭な答えが見出せないものであろう。因って自分が人間か蛙か、誰も教えてはくれないし答えを見つけることはできない。妥協が必要な命題であり、そんな命題を人は避けて通りたがるものである。
日本人が多用する言葉のひとつに、済みません、がよく挙げられる。挨拶程度にも謝罪にも使える便利な言葉だ。腰の低さと強情であることの区別も難しい。やたらと、済みません、を使う人間は腰が低く見られると同時に、プライドも低い人間だと思われがちである。ところが正反対の考え方も成り立つ。自分にとってどうでもいいことだからこそ簡単に、済みません、と言ってしまえるのではないか。済みません多発者には両者が混在しており、早々に判断できない。私は、済みません、という言葉が嫌いである。上記のように便利であると同時に曖昧な言葉だからだ。嫌いだけれど、全く使わない訳ではない。私がこの言葉を使うときは、軽い謝罪やお礼を伝えたいときである。例えば電話をする。その電話を取った者に自分が話したい相手に繋いでもらうとき、済みません、と言う。お手数をおかけしてごめんなさいね、を略しての、済みません。挨拶代わりでの、済みません。心からの感謝の意を表したいときは、有難う。お礼の意味で、済みません、を使う者を否定はしないけれど、語彙が貧困なようには思ってしまう。自分が他者に対して心から悪いと思ったときには、ごめんなさい、と言う。ごめんなさい、の方が私にとっては、済みません、よりも遥かに重責を負う言葉なのだ。だからそう簡単に、ごめんなさい、は使えない。特に自身が納得行かないのに謝罪しなければならないとき。私は、済みませんでした、と言う。ごめんなさい、も、申し訳ありません、も使うことはない。そもそも納得が行かないのに誤らなければならない状況でも、私は謝って済まそうとは、まずしなかった。自身の持つ正論で相手を論破しようとしていた。最近はちょっと変化してきている。私の立場では私が正しい、貴方の立場では貴方が正しい。ボブ・ディランは正しい。
済みません、が自身に対して多発されることで、黒猫はプライドが低い奴だ、と判断する者もいる。その判断を露にした態度で私に接する者を見ると、爽快な気分になる。これは、してやったり、といった腹黒い気持ちからではなく、井の中は狭くて気持ちいいのだろうな、とのある種の羨望だ。私は蛙が羨ましいのだ。自身は蛙に非ず、とは思っていない。きっと蛙だろう。しかし蛙である自分に満足ができないのである。人間になるのはきっと大変な労苦を要する。その労苦をクリアできて初めて、自身は人間である、と胸を張って言えるのだろう。私が羨望して止まない蛙は、蛙なのに人間として胸をはれているからに他ならない。自身の器を、自身の核を大っぴらに他者に見せるのは恥ずかしいことだと知っている。「さくらん」のきよ葉は、こんなことを言っていた。ない物をあるように見せるよりも、ある物をないように見せる方が粋だ、と。赤貧なのに見栄を張って借金をして他者に何かを奢る者がいる。ちっとも粋ではない。これと同じことが文章にも言える。自身の持つ知識を全てひけらかすような文章を綴るのは粋ではない。却ってその努力の跡が読む者を切なくさせる。10ある知識の4程度を用いて文章を書き、行間から残りの6を感じさせられるような文章を書きたいと、私は常々思っている。まだまだ修行が必要だ。
豪華一点主義、というものがある。よく挙げられる例として、若い子が持つ高価なブランドのバッグや財布がある。渋谷109で固めたような恰好なのに、不釣合いなヴィトンのバッグを持っていたりするアレだ。この豪華一点主義はひとつも粋ではない。私の財力ではこれが限界、と触れて歩いているようなものだ。センスの問題である。チープそうな恰好をしていつつもそこに品があれば高価ブランドバッグも浮いては見えないし、逆に財力がありつつもそこにだけ価値を忍ばせる清貧な人に見える。赤貧と清貧は一文字違いで天地の差がある。答えを書くと、私は人間を目指す蛙であり、私のプライドは高い。蛙なりに身の程を知り、人間を目指す蛙に相応しいだけの粋さを持っていたいと思っている。清貧が美徳とも思わなければ、憧れもしない。ただ、赤貧なのにさも多くのものを持っているかのような振舞いだけは避けるべきだと考えている。粋でありたい。蛙の粋のあり方は身の程を知ることだ。だから私は駄文をここで書き散らす。ここの文章に持ち得る知識の全ては絶対に書かない。書いていない。こう言い張る。本当はどうなのか。それは他者に知らせるべきことではない。全ては書かない、と言い張ることが蛙の身の程を知った粋であり、プライドであると私は信じている。尤も、真に粋な者はこんな日記をネット媒体で書いたりはしないだろう。この辺が蛙故の莫迦さである。
日本人が多用する言葉のひとつに、済みません、がよく挙げられる。挨拶程度にも謝罪にも使える便利な言葉だ。腰の低さと強情であることの区別も難しい。やたらと、済みません、を使う人間は腰が低く見られると同時に、プライドも低い人間だと思われがちである。ところが正反対の考え方も成り立つ。自分にとってどうでもいいことだからこそ簡単に、済みません、と言ってしまえるのではないか。済みません多発者には両者が混在しており、早々に判断できない。私は、済みません、という言葉が嫌いである。上記のように便利であると同時に曖昧な言葉だからだ。嫌いだけれど、全く使わない訳ではない。私がこの言葉を使うときは、軽い謝罪やお礼を伝えたいときである。例えば電話をする。その電話を取った者に自分が話したい相手に繋いでもらうとき、済みません、と言う。お手数をおかけしてごめんなさいね、を略しての、済みません。挨拶代わりでの、済みません。心からの感謝の意を表したいときは、有難う。お礼の意味で、済みません、を使う者を否定はしないけれど、語彙が貧困なようには思ってしまう。自分が他者に対して心から悪いと思ったときには、ごめんなさい、と言う。ごめんなさい、の方が私にとっては、済みません、よりも遥かに重責を負う言葉なのだ。だからそう簡単に、ごめんなさい、は使えない。特に自身が納得行かないのに謝罪しなければならないとき。私は、済みませんでした、と言う。ごめんなさい、も、申し訳ありません、も使うことはない。そもそも納得が行かないのに誤らなければならない状況でも、私は謝って済まそうとは、まずしなかった。自身の持つ正論で相手を論破しようとしていた。最近はちょっと変化してきている。私の立場では私が正しい、貴方の立場では貴方が正しい。ボブ・ディランは正しい。
済みません、が自身に対して多発されることで、黒猫はプライドが低い奴だ、と判断する者もいる。その判断を露にした態度で私に接する者を見ると、爽快な気分になる。これは、してやったり、といった腹黒い気持ちからではなく、井の中は狭くて気持ちいいのだろうな、とのある種の羨望だ。私は蛙が羨ましいのだ。自身は蛙に非ず、とは思っていない。きっと蛙だろう。しかし蛙である自分に満足ができないのである。人間になるのはきっと大変な労苦を要する。その労苦をクリアできて初めて、自身は人間である、と胸を張って言えるのだろう。私が羨望して止まない蛙は、蛙なのに人間として胸をはれているからに他ならない。自身の器を、自身の核を大っぴらに他者に見せるのは恥ずかしいことだと知っている。「さくらん」のきよ葉は、こんなことを言っていた。ない物をあるように見せるよりも、ある物をないように見せる方が粋だ、と。赤貧なのに見栄を張って借金をして他者に何かを奢る者がいる。ちっとも粋ではない。これと同じことが文章にも言える。自身の持つ知識を全てひけらかすような文章を綴るのは粋ではない。却ってその努力の跡が読む者を切なくさせる。10ある知識の4程度を用いて文章を書き、行間から残りの6を感じさせられるような文章を書きたいと、私は常々思っている。まだまだ修行が必要だ。
豪華一点主義、というものがある。よく挙げられる例として、若い子が持つ高価なブランドのバッグや財布がある。渋谷109で固めたような恰好なのに、不釣合いなヴィトンのバッグを持っていたりするアレだ。この豪華一点主義はひとつも粋ではない。私の財力ではこれが限界、と触れて歩いているようなものだ。センスの問題である。チープそうな恰好をしていつつもそこに品があれば高価ブランドバッグも浮いては見えないし、逆に財力がありつつもそこにだけ価値を忍ばせる清貧な人に見える。赤貧と清貧は一文字違いで天地の差がある。答えを書くと、私は人間を目指す蛙であり、私のプライドは高い。蛙なりに身の程を知り、人間を目指す蛙に相応しいだけの粋さを持っていたいと思っている。清貧が美徳とも思わなければ、憧れもしない。ただ、赤貧なのにさも多くのものを持っているかのような振舞いだけは避けるべきだと考えている。粋でありたい。蛙の粋のあり方は身の程を知ることだ。だから私は駄文をここで書き散らす。ここの文章に持ち得る知識の全ては絶対に書かない。書いていない。こう言い張る。本当はどうなのか。それは他者に知らせるべきことではない。全ては書かない、と言い張ることが蛙の身の程を知った粋であり、プライドであると私は信じている。尤も、真に粋な者はこんな日記をネット媒体で書いたりはしないだろう。この辺が蛙故の莫迦さである。
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