きっと少数派だろう。全作品を読破してはいないけれど、岡崎京子作品読了範囲内で一番好きなのは短篇「乙女ちゃん」だ。父と娘と息子の3人暮らし。父は母の死去後、スカートを穿くようになった。その理由は描かれていない。だからこそ、この作品が好きなのかもしれない。日常の中で父と娘は淡々と生活をし、息子はちょっと反抗してみたりする。ストーリーの流れが小津映画のよう。スカートを穿く乙女ちゃんな父は、多くを語らない。自分の中に何かしらの強い、スカートを穿く、という意思を持って毎日穿いている。これが妙に心に響く。読者として、父親がスカートを穿く理由を知りたくならないのが不思議だ。スカートを穿いた父の絵を見て、ああこのお父さんはスカートを穿くのだな、と素直に受け入れられる。傍観者として、妻を亡くし定年を過ぎた初老男性の哀愁の全てが、スカート、なる物に詰まっている気がして、この人はこれでいいのだ、と思えた。「乙女ちゃん」に於いて、父は異端者として扱われている。それは日本の今の風土が男性にスカート着用を許容していないからだ。街中でスカートを穿いた男性を実際に見たらやはり私も、え? と思ってしまうだろう。その、え? と思ってしまうであろう私は非常に狭量である。本当に見かける日がくる迄に、許容の幅を広げておきたい。ファッションの基本は、自由意志、であるべきだ。人は衣類にいろんな思いを詰める。着られれば何でもいい、と公言する人もいるが、嘘だ。それでも無意識下で、自分に似合う物で、人に見られても恥ずかしくない程度の物で、という条件付けをしている筈である。「乙女ちゃん」な父は、もっともっと確固たる意思でスカートを穿いているに違いない。そしてその理由はどうでもいい。

 先日、書店にて禁断の書を買ってしまった。誰かに禁止されていた訳ではなかったのだが、読んだら何かまずいことになる、と直感していた著者の本。嶽本野ばらの「それいぬ」。嶽本の著書は避けてきていた。彼は乙女な男性の代名詞的存在であり、ガーリッシュ好きの私を、もっと強く引っ張っていってしまう予感がしていたのだ。読んでみての感想。読みづらい。単語の選び方が叙述的でありロマンチシズム溢れ、平坦な文章なのに疲れてしまう。この本は短篇コラム集なので、気になった部分だけを拾い読みするように読んでみた。学がなく乙女な澁澤龍彦という印象。いや、学がない、は間違いか。学はあるのだけれど余りに偏った学である。そしてその学はひたすらに乙女ベクトルへと向っている。昨今、この日記はファッションについて多く綴っており、綴る中で考えていたことがあった。敢えて嶽本の乙女と私のガーリッシュを並べてみる。すると1個所で通ずるところがあったのだ。それがいいことかどうかは別にして。私が考えていたこととは、ガーリッシュなファッションを極めていくとどうなるか、だ。高>低で表してみる。
 色:淡色>濃色
 柄:水玉>小花>チェック>ストライプ
 襟:丸襟>スクエアネック>襟なし≧スタンドカラー>角襟
 袖:パフスリーブ>カフスなしの釦ひとつのみ>複数釦のカフス
 素材:シフォン≧ベルベット>モヘア>>>>>>形状記憶物
 スカート:ティアード>フレア>>>>タイト
 帽子:ベレー≧キャスケット≧麦藁>>>>>サンバイザー
など。脳内ではもっともっと細かく分類されているけれども、全てを書き尽くす労力も技量もないのでこの辺で。

 この技量というのがなかなかに難しい。例えば嶽本が愛するジェーンマープルやヴィヴィアンウエストウッド。ジェーンの無地物の可愛さと、ヴィヴィアンのレオパード柄の可愛さは明らかに別物である。私は無地物は余程形に凝らないと可愛く思えない。けれど、ジェーンの姫袖カットソーは可愛く感じるし、基本的にレオパード柄は余り可愛くないと思うけれど、ヴィヴィアンのパイル地になると可愛く感じる。こんな細かくは書けない。因って上に書いた、高>低、は物凄くシンプルに考えたときの例である。素材で書いた形状記憶物。これはこの世から駆逐されて欲しい位に不要ではなかろうか。形状記憶物で可愛い服を見たことがない。あれはアイロンかけという作業を省く為の手抜き素材としか思えない。往々に形状記憶衣類は素材が硬い。デニムは硬くてもいいのだ。穿いているうちに馴染んで柔らかくなり、更には色落ちで味迄出てくる。またオイルコーティングされた素材も味が出てきて良い。服が馴染んで味が出てくると愛着も湧いて尚良い。ところが形状記憶物は全く以って可愛くない。うちのが形状記憶シャツ愛用者でなくて本当に良かったと思う。その分、衣類の皺に煩いのが難点ではあるが、そんなのは柳に風と流せることであり、干すときに気をつけることである程度は皺も伸びる。形状記憶愛用者で煩くないよりは遥かにマシだ。

 「それいぬ」の中で、非常に印象深い考察がふたつあった。2本のコラムをごっちゃにして説明する。
 物理的にも精神的にも、生物の攻撃本能は球形に対して減少する仕組みになっている。
 最近、ロリータファッションがマスコミの興味をひいているようです。彼らは相も変わらず古めかしい少女文化論をかざし、それが「成長拒否のあらわれ」だとか「セクシャリティの欠如」だとかいう陳腐なコードで、僕達を評価しようとします。
私が上に書いた水玉の指標に通ずるものがあると思った。私はマスコミが言う、セクシャリティの欠如、に異論を唱える。女性の肉体と男性の肉体の大きな違いは、丸みの有無、である。水玉は言わずもがな、丸い。その昔は女性が体のラインを強調することが、はしたない、と言われていた。必要以上に体にフィットしない衣類を好むのはロリータとガーリッシュも同じである。フィットしない衣類は体のラインを隠す。その隠す衣類に球形を盛り込むことの一体何処が、セクシャリティの欠如、なのか。某巨大掲示板某板ガーリースレに男性住人がいる。彼は自身でもガーリッシュなスタイルを好んでいるらしい。他の住人にその理由を訊かれたときの答えが秀逸だった。女好きが講じて。表層的セクシーを求める男性には絶対に言えない言葉だろう。彼の中ではガーリッシュとセクシャリティはイコールで結ばれていると、私は見ている。「それいぬ」とこの男性の発言を読んで思ったこと。阿呆な、可愛いから好き、ではなく、もっと自覚的にガーリッシュを追求したい。そんなこんなでやっとウニコのカットソーを落札するに至った。

 本の話とファッションの話が半々になってしまったので分類が難しくなった。因ってこの日記は、雑感・所感フォルダへ。

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