最近になって再び読書ができるようになってきた。最近読んだのは、北村薫「朝霧」と新保裕一「ストロボ」。後者はかなり前からあったのにうちのの読後に放置してあったもので、前者はハードカバー発売から6年待ってやっと文庫化されたもの。先に読んだのは、待ち侘びていた「朝霧」だ。3本の中篇から成る。今現在、「私」シリーズの最終作。このシリーズは友人が1作目を卒論に取り上げてからずっと読み続けている。短篇もあれば長篇もあり。殺人事件などの大掛かりなミステリではなく身近な謎を解き明かしていく。長篇では死人が出ていたけれど。心穏やかになる珍しいタイプのミステリ。著者が元国語教師だったことも関係するのか、それとも元来綺麗な日本語を使う人だったからか、読んでいて気持ちがいい作品ばかりだ。どんな物語も、綺麗な、いや正しい言葉で綴られていなければ読む気が失せる。さてこのシリーズ。前作「六の宮の姫君」で見切りをつけようかと迷った。というのも、作品そのものの出来が私には良いとは思えなかったから。悪い意味で、とても良く出来た完成度の高い作品だったのだ。私が思う、悪い意味でいい作品、とはどんなものか。

 著作をする者にとって、自らの持つ知識は宝である。この宝のストックがないまま小手先で何かを書いても話は薄っぺらくなり、小手先すらなければ読むに耐えない作品になる。北村薫の文学知識は物凄い。尊敬に値する。だが、持つ知識を全て出して書いたと読者に受け取られてしまう作品は、悪い作品ではないだろうか。いっぱいいっぱいな部分が見え隠れすると、萎えてしまう。きっと北村自身にはもっと豊富な芥川への知識があるとは思う。思うのだけれど読んでいて、知識ひけらかし的な印象を受けてしまった。感想を一言で纏められてしまう。ハイ、スゴイデスネー。一言感想しか読後に齎さない作品を、良い作品とは思わない。私が読書をするとき、自らの知識を増やす為、という要素が強い。この知識欲は充分に満たしてくれた。でも、それだけ。ならば文学論や芥川作品そのものを読めばいいのだ。北村を通して芥川に触れた、その効果が皆無に近かった。詰まらなかった訳ではない。詰まらなくはないのだけれど、読み返す気には全くならない。読み捨て本。私は北村に、読み捨て本を期待していない。お手軽な作品は要らない。読後、どっぷりと世界観を引き摺り、そのまま他者にその本の話をしたくなるような作品を求めている。北村作品は大きくふたつに分けられると思う。ひとつは、とても出来のいい作品。もうひとつは、悪い意味で出来のいい作品。前者は言葉のままであり、後者は上記のような知識ひけらかし系と小手先やっつけ仕事系に分けられる。で、「朝霧」。これも知識ひけらかしは多かった。だが、前者。とても良い作品。北村知識が鼻につかないように描かれていた。知識がまぶされた作品ではなく、一部に密集して知識をだーっと書き連ねていたのに。「六の宮の姫君」と「朝霧」の違いは、その北村知識が、主人公である「私」の成長から浮いているか、沿っているかだ。「朝霧」の短歌の羅列は見事に「私」の成長を示していた。「六の宮の姫君」の芥川知識は、卒論ということもあってか、ストーリから浮いているように感じられたのだ。「朝霧」の中の一篇に感動した。どれかは書かない。主題とそれに纏わる人々の処理の仕方が今迄の北村作品と大きく異なっているように感じた。きっと少し前の北村なら、もっと厭らしい処理になっていただろう。好きな作家の秀作を読めると、とても嬉しい。ストーリは作者と読者が共に紡ぐもの、尤もだ。もしかしたら読んでから数年経っている「六の宮の姫君」も今読むと、また違った感想が持てるだろうか。

 「朝霧」読了から数日後に読んだ新保裕一の「ストロボ」。ちょっと変わった構成になっていて、その発想自体は良いと思う。良いのだけれど、内容が……。読み進めていくうちにどんどん話が薄くなっていく。これが著者自身の計算なのかどうかが読めず、もどかしかった。構成上、薄くなっていってもいい作品ではあるのだ。だが読者である私からしたら読み始めから最後迄、同程度のテンションを保ちたいのだ。この薄さは著者の筆力でどうにかならなかったのだろうか。新保はどうにかするだけの筆力を持つ作家なのだ。なのに薄い。となると、これは計算なのか、とも思えてくる。しかし売れっ子になった新保。小手先で仕事をするようになったのか、とも思える。新保作品は順を追って読んでいない為、判断がつかない。どちらなのだろう。読んでがっかりはしなかったけれど、もやもやが残っている。何か別の新保作品を買ってもやもやを晴らしたいところだ。主人公の性格や歴史設定のベタさも気になった。小役人シリーズが与えてくれた、小役人への偏見のようなものを払拭してくれるような設定にはできなかったのだろうか。そうやって考えていくと、この「ストロボ」はやっつけ仕事、または実験的構成だけで満足してしまっただけの作品に思えてくる。とはいえ、この設定自体がそれ程斬新ということもない。古今東西、ままある設定に過ぎない。そんな設定を自作に用いただけで満足する作家とは思わない。あの作品は何だったのか。ミステリ要素を散りばめる、という設定以外での著者自身の楽しみだけが先走りしてしまったのか。もやもやもやもや。

 私の逆をいくように、うちのが漫画を読み始めた。「のだめカンタービレ」は読了。早く9巻10巻も読みたい、買ってきて、とのこと。まだ発売されてないのだが。そして何やら次は「編集王」を読みたいと言い出している。どうなっているんだ。「編集王」はとてもいい作品だとは思うけれど絵柄が濃い為、漫画を読みなれていない者には余りオススメできない。ストーリ重視で読むならあの絵柄も気にならないだろうか。いや、以前土屋の別作品上下巻を立ち読みしたとき、それだけで漫画読みの私でもくたびれた。読書の習慣のない者が細かい文字がずらりと並んだ文庫を見ただけで疲れるように、漫画を読みつけていない者にまだ土屋作品は早い。折角漫画に興味を持ち始めてくれたので、嫌気が差さないように上手く馴染めるようにいろいろと薦めてみたい所存。

BGM/アルバム「NUM-HEAVYMETALLIC」

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