現在、5月4日。
他者の気持ちを手に取るように解る人などいる筈がない。そんなことは重々承知している。つもりである、常日頃。それでも長年一緒にいると、全てを語らずとも、大体3か4も語れば相手が10理解してくれるような錯覚に陥ってしまう。錯覚に陥った者、ふたり。喧嘩が起きない訳がない。そこに物忘れ迄加わってしまうともう……。私は薬の副作用とメリハリのない生活の中で、脳に物忘れの蛇が棲み付いてしまったらしい。言った・言わない、聞いた・聞いていない、の水掛け論がうちのとの間でたまに起きる。今回はうちのの転職の話であり私は、絶対にまだ聞いていなかった、と主張した。うちのは、数日前に言った、と頑として言う。日常的にICレコーダやテレコを回しているなんてことはなく、結論など出やしない。よくよく喧嘩腰で話し合ってみると答えが見えてきた。うちのは4を語ったところで私が10理解したものと判断し、言ったと主張していたのだ。私は4しか聞いていなかった故にそれが決定事項なのかどうか解りかねており、聞いていないとなっていた。ここ迄言えば相手は10解ってくれるだろう、などという甘えによる喧嘩。
私は体調が悪いと睡眠障害が悪化する。過眠時は、眠い、と言う。そして、眠い、という言葉だけでうちのが体調不良を察知してくれているものだと思い込んでしまっていた。私の生活リズムが整っていないこともあり、うちのは私の眠気を体調不良とは考えず、日々の生活の乱れによるものだと思っていた。このGW、うちのはほぼカレンダ通りに休みが取れた。滅多にないことである。確か去年は丸々出勤していたような。うちのは休みになると出掛けたがる。私は元来、出不精である。うちのからの出掛けようと言う誘いの言葉が、日々の苛々からとても傲慢な物に感じた。更に体調不良で睡眠障害悪化中。眠い、と言った。それでもどうにか出掛けようかと思ったら、うちのはひとりで出掛けてしまった。数時間後に帰宅したうちの。ご機嫌斜めどころかもう縦なのか横なのかの判断もできない位に悪くなっていた。そして私に余りにも余りな言葉をぶつけてきた。お前と話すのは不毛だ、今後一切何事に於いても期待をしない、衣食住確保の為にここにいるだけなんだろう、月々の生活費は渡すからお互いに今後は不干渉にしよう、などなど。何故これ程の言葉をぶつけられるのか、私には解らなかった。そこから数時間に及ぶ大喧嘩。怒鳴り声と鳴き声と壁を拳で叩く音が響いた数時間。私の心の中には、この喧嘩の前日に小競り合ったときにうちのに言われた、母親みたいに1ヶ月でもずっと黙ってろ、という言葉が、謝られたのにまだざっくりと刺さっていた。それを持ち出すと、うちのは怒った。謝ったのにまだ言うか。私としては、謝りゃ何でもいいのか? という気分だ。ごめんね、と前置きをして、あんたの怒り方はやっぱり母親そっくりだ、という禁句が口から出てしまった。うちのも私も私の母親に重ねて見られると、物凄い拒否反応が起きる。うちのは私の言葉に怒った。けれど前以って、ごめんね、と言っているではないか。謝ればいいんでしょ? と思うことは子供染みては、いる。けれど無理があるだろうか。悪いことを言ったりしたりした方が謝罪の言葉を口にすれば、取り敢えずその場は収まる。だけれども。それで傷がすぐに癒えるかどうかは、また別の話ではなかろうか。掠り傷と、腹を切られて内臓を抉り出されて塩を塗りこまれたような傷が、同じ時間で治癒することはない。お互いに惨い言葉で応酬しあった。傷付けあった。
この喧嘩に於いて、私の甘えが判明した。眠い、という言葉だけで体調不良迄察してくれるだろう、という考えが甘え。気をつけていたつもりだったのに、共に過ごす時間の経過の中で気をつけ具合が緩んでしまっていたのだ。そして察知するに及ばなかったうちのは、自分の存在を私に軽んじられているように思い込んでしまっていた。うちのも私も淋しがりである。相手に自分を見ていて欲しい、理解して欲しい、と思う。きっと他所のカップルや夫婦以上にお互いにその気持ちが強い。淋しがりと同時に、甘えたがりでもある。目に見える甘えならともかくこの手の、言わなくても解ってくれるだろう、的甘えは誤解を招く元だ。釦の掛け違いや歯車の狂い、というのはこういうことなのだろうか。ほんの少しのズレで、お互いが深く傷つき、その後相手を傷付けあう。仕事の忙しさや体調不良は、心からゆとりを削ぎ取る。ゆとりがなければどんな言葉も上滑りして、自虐的性格のふたりは傷ついた気になってしまう。傷ついたらそのままではいられない好戦的性格も似ているのかもしれない。傷ついたことをギリギリのところに達する迄はストレートに伝えられず、相手を傷付けることで自分の傷の痛みを理解させようとしてしまう。間違いだらけだ。
10語っても1しか理解してくれない可能性は、どんな相手にもあるし、自分自身でも他者の言葉を受けてそうかもしれない。なのに身近な相手だと、どうしてこうも甘えが出てしまうのか。言わなければ解らないことを言わなかった為に、言わなくてもいいことを言ってしまう。本末転倒。うちで起きる喧嘩は、突き詰めていくとどちらも悪くないことが多々ある。原点でちょっとだけ行動や言葉の選び方が違っていれば回避できた諍いが9割以上と言ってもいい。同時にその行動や言葉を受け取る側にゆとりがないことも原因のひとつ。当然その、ちょっとだけ違う、ができない発する側にもゆとりはない。ゆとりがあっても、ちょっとの匙加減次第でゆとりが一気に磨耗されることもある。簡単なことなのに。くだらないことなのに。言葉足らずになる甘えは厳禁。今回の喧嘩でそんな約束をした。ここに、思ったことは直球の言葉で伝える、が加われば殆どの喧嘩がなくなるのではなかろうか。私が体調不良をストレートに伝えていれば、うちのが淋しさをストレートに伝えてくれていれば……などと今更考えても詮無いことだ。同じ喧嘩を繰り返さないようにお互いに気をつけねば。なのに気付くといつも同じパターンの喧嘩。時間の経過と共に反省が薄れていくのがいけないのだろう。反省も、継続は力、らしい。
他者の気持ちを手に取るように解る人などいる筈がない。そんなことは重々承知している。つもりである、常日頃。それでも長年一緒にいると、全てを語らずとも、大体3か4も語れば相手が10理解してくれるような錯覚に陥ってしまう。錯覚に陥った者、ふたり。喧嘩が起きない訳がない。そこに物忘れ迄加わってしまうともう……。私は薬の副作用とメリハリのない生活の中で、脳に物忘れの蛇が棲み付いてしまったらしい。言った・言わない、聞いた・聞いていない、の水掛け論がうちのとの間でたまに起きる。今回はうちのの転職の話であり私は、絶対にまだ聞いていなかった、と主張した。うちのは、数日前に言った、と頑として言う。日常的にICレコーダやテレコを回しているなんてことはなく、結論など出やしない。よくよく喧嘩腰で話し合ってみると答えが見えてきた。うちのは4を語ったところで私が10理解したものと判断し、言ったと主張していたのだ。私は4しか聞いていなかった故にそれが決定事項なのかどうか解りかねており、聞いていないとなっていた。ここ迄言えば相手は10解ってくれるだろう、などという甘えによる喧嘩。
私は体調が悪いと睡眠障害が悪化する。過眠時は、眠い、と言う。そして、眠い、という言葉だけでうちのが体調不良を察知してくれているものだと思い込んでしまっていた。私の生活リズムが整っていないこともあり、うちのは私の眠気を体調不良とは考えず、日々の生活の乱れによるものだと思っていた。このGW、うちのはほぼカレンダ通りに休みが取れた。滅多にないことである。確か去年は丸々出勤していたような。うちのは休みになると出掛けたがる。私は元来、出不精である。うちのからの出掛けようと言う誘いの言葉が、日々の苛々からとても傲慢な物に感じた。更に体調不良で睡眠障害悪化中。眠い、と言った。それでもどうにか出掛けようかと思ったら、うちのはひとりで出掛けてしまった。数時間後に帰宅したうちの。ご機嫌斜めどころかもう縦なのか横なのかの判断もできない位に悪くなっていた。そして私に余りにも余りな言葉をぶつけてきた。お前と話すのは不毛だ、今後一切何事に於いても期待をしない、衣食住確保の為にここにいるだけなんだろう、月々の生活費は渡すからお互いに今後は不干渉にしよう、などなど。何故これ程の言葉をぶつけられるのか、私には解らなかった。そこから数時間に及ぶ大喧嘩。怒鳴り声と鳴き声と壁を拳で叩く音が響いた数時間。私の心の中には、この喧嘩の前日に小競り合ったときにうちのに言われた、母親みたいに1ヶ月でもずっと黙ってろ、という言葉が、謝られたのにまだざっくりと刺さっていた。それを持ち出すと、うちのは怒った。謝ったのにまだ言うか。私としては、謝りゃ何でもいいのか? という気分だ。ごめんね、と前置きをして、あんたの怒り方はやっぱり母親そっくりだ、という禁句が口から出てしまった。うちのも私も私の母親に重ねて見られると、物凄い拒否反応が起きる。うちのは私の言葉に怒った。けれど前以って、ごめんね、と言っているではないか。謝ればいいんでしょ? と思うことは子供染みては、いる。けれど無理があるだろうか。悪いことを言ったりしたりした方が謝罪の言葉を口にすれば、取り敢えずその場は収まる。だけれども。それで傷がすぐに癒えるかどうかは、また別の話ではなかろうか。掠り傷と、腹を切られて内臓を抉り出されて塩を塗りこまれたような傷が、同じ時間で治癒することはない。お互いに惨い言葉で応酬しあった。傷付けあった。
この喧嘩に於いて、私の甘えが判明した。眠い、という言葉だけで体調不良迄察してくれるだろう、という考えが甘え。気をつけていたつもりだったのに、共に過ごす時間の経過の中で気をつけ具合が緩んでしまっていたのだ。そして察知するに及ばなかったうちのは、自分の存在を私に軽んじられているように思い込んでしまっていた。うちのも私も淋しがりである。相手に自分を見ていて欲しい、理解して欲しい、と思う。きっと他所のカップルや夫婦以上にお互いにその気持ちが強い。淋しがりと同時に、甘えたがりでもある。目に見える甘えならともかくこの手の、言わなくても解ってくれるだろう、的甘えは誤解を招く元だ。釦の掛け違いや歯車の狂い、というのはこういうことなのだろうか。ほんの少しのズレで、お互いが深く傷つき、その後相手を傷付けあう。仕事の忙しさや体調不良は、心からゆとりを削ぎ取る。ゆとりがなければどんな言葉も上滑りして、自虐的性格のふたりは傷ついた気になってしまう。傷ついたらそのままではいられない好戦的性格も似ているのかもしれない。傷ついたことをギリギリのところに達する迄はストレートに伝えられず、相手を傷付けることで自分の傷の痛みを理解させようとしてしまう。間違いだらけだ。
10語っても1しか理解してくれない可能性は、どんな相手にもあるし、自分自身でも他者の言葉を受けてそうかもしれない。なのに身近な相手だと、どうしてこうも甘えが出てしまうのか。言わなければ解らないことを言わなかった為に、言わなくてもいいことを言ってしまう。本末転倒。うちで起きる喧嘩は、突き詰めていくとどちらも悪くないことが多々ある。原点でちょっとだけ行動や言葉の選び方が違っていれば回避できた諍いが9割以上と言ってもいい。同時にその行動や言葉を受け取る側にゆとりがないことも原因のひとつ。当然その、ちょっとだけ違う、ができない発する側にもゆとりはない。ゆとりがあっても、ちょっとの匙加減次第でゆとりが一気に磨耗されることもある。簡単なことなのに。くだらないことなのに。言葉足らずになる甘えは厳禁。今回の喧嘩でそんな約束をした。ここに、思ったことは直球の言葉で伝える、が加われば殆どの喧嘩がなくなるのではなかろうか。私が体調不良をストレートに伝えていれば、うちのが淋しさをストレートに伝えてくれていれば……などと今更考えても詮無いことだ。同じ喧嘩を繰り返さないようにお互いに気をつけねば。なのに気付くといつも同じパターンの喧嘩。時間の経過と共に反省が薄れていくのがいけないのだろう。反省も、継続は力、らしい。
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