太った。ような気がする。昔もらったパンツがキツい。どれ位キツいかって、ウエストを閉じたままずっと椅子に座っていると、ウエストとその周りの皺の当たる部分が赤くなるのを通り越して青くなる位。キツさに負けて開けなければ鬱血するところだった。穿いたときに、かなりフィット感があるな、と思い鏡を見ると、両脇のポケットの裏地が見えている! ……きっと縫製が悪い所為だ。いや、私の腰周りが標準サイズだからだ。このパンツは明らかにSサイズ。7号サイズ。そんなパンツにMサイズ・9号サイズの足腰を突っ込んだらそりゃあポケットの裏地も見える罠。どうも周囲の人々は勘違いをしている。上半身が薄いからといって下半身も薄いとは限らないのだ。なのに、私にはキツかったから、とボトムをくれる。あなたにキツい服は私にもキツい。幾ら言っても覚えてくれない。何故ならその相手は親だから。聞いたことから忘れていく。親と絶縁した。筈だったのに、なんだかよく解らないことになっている。先日、携帯電話に親から着信があった。出てみると、ニュース! ニュース! と大騒ぎ。何事かと思いきや、父親が前屈して床に手が届くようになったとのこと。だから……? 何……? 絶縁って一体……? 親曰く、うちのとのことはアレだが、私とは親子の縁を切りたくないらしい。あの騒動は何だったのか。かなりもにょるが敢えて突っ込まない。突っ込んだらまたあのような気違い騒動が起こりそうだから。でも苛々する。絶縁するって言ってきた親らから、私に擦り寄ってくる矛盾。それに適当に付き合う自分に嫌悪。結局、親の前ではいい顔をしてしまう癖が抜けていないのだ。適度な距離を保つのが限界。今月末の週末、祖母のお見舞いに親と行くことになっている。それはいい。いいのだが。だがしかし。
逃げ場のない責め方をする人間は私の親だけではない。例えば。なんで〜〜やってないの? 忘れていたから。なんで忘れるの? なんでって……。暫し沈黙。黙っていれば済むと思っているでしょ!? 思っていません、ごめんなさい。謝れば済むと思っているでしょ!? 暫し沈黙。黙って(以下ループ。逃げ場がない。逃げ道がない。だから前以って言い訳を考える。すると、言い訳するな! と怒られる。謝るとまた、謝ればいいと思っているでしょ!? そうして歪に出来上がったオトナの私。世の中で最も大切なことは、相手の顔色を伺うこと。相手に責められないように相手の望む返事をすること。自分を殺して。自我殺傷。そして本当に自分の心身を傷付けるに至る。私のチェーンスモークは緩やかな自殺。禁煙を迫るうちのに、煙草は私のアイデンティティだ! と言い切ったことがある。その場凌ぎの出任せだったけれど、あながち嘘ではないかもしれない。主治医に以前、本音でぶつかってくるように、と言われた。当然、はい、と答えた。けれど、実際のところ本音でぶつかっていったことはない。主治医の機嫌を損ねたくないから。見捨てられたくないから。他者に嫌われたらどんな目に遭うのか、幼い頃から私にはすり込まれている。嫌味を言われ、無視され、最後にはいなくなる。追い縋る自分は惨め。ならば最初から相手の機嫌を損ねなければいい。大人がどうすれば喜ぶか、私はツボを心得ている。それは私が大人だからではなくオトナだから。他者はこれを、処世術、と呼ぶかもしれない。それは私に於いては間違い。私の他者への顔色伺いは病的だ。病的だと自覚していても、どうすれば病的でなくなるかが解らない。だって皆、私の自我のままに行動すると離れていくから。嫌われるから。ひとりになるから。淋しいのは平気。なフリをすることに余りにも慣れ過ぎてしまった。病的に慣れ過ぎてしまった。
縺れた糸を解すのが私は苦手だ。縺れてしまったら切ればいい。短絡的発想。それでも世の中に無限に糸がある訳ではなく、切っていけばいく程に糸は短くなり、最後にはなくなる。解っていても解せない。糸の端を持つもうひとりが、私が解く先から絡ませていくこともある。悲しい。淋しい。自信が持てない。私には、啓蒙書の類を読む人間を小莫迦にしている節がある。自己啓発本を読んで、自分探し、に終止符が打てた人なんかいないに決まっている。打てたとしてもそれは、休止符ではなく小休止符。言い換えれば妥協点。ありのままの自分、を真に理解できている人はいないに決まっている。ありのまま、というもの自体が流動的だ。流動的だ、ということに気付いている人はどれだけいるのだろう。少なくとも他者に向って、〜〜さんらしい乃至〜〜さんらしくない、と吐く奴は絶対に解っていないに違いない。自分らしさ、なんて自分でも解らない。でもきっと多くの大人はそんなことは考えていない。忙しいから。暇なオトナな私は考える。無駄なのに。答えなんか出ないのに。
流動的な私の体重は、さっき量ったらベスト体重迄後2kg。一時期よりも5kg近く増えた。不健康に。増えた5kgの半分以上はお菓子類だろう。今日の昼食もバウムクーヘン。頬とアンダーバストから下のみに肉が付いていく。いかん、いかん。最近、デューク更家のウォーキングもどきで歩くようにし始めた。名付けられたウォーキングをこなしているのではなく、単に肩と仙骨の位置と足の進め方を意識しているだけ。それでも近所のコンビニに行き来するだけで腹筋が痛くなった。如何にこれ迄間違った歩き方をしていたか、如何にこれ迄運動不足だったかを物語る話。腹筋が多少痛むのはそのうち慣れるとして、この間あったちょっと酷い話。寝る間際に発作勃発。痛い痛いと呟いて布団から抜けた私にうちのがかけた言葉は、寒い。布団を捲りっぱなしにしていたのだ。だからってそりゃないんじゃないかと小一時間(以下略。この発作で死にはしない。うちのが疲れてて眠いのも知っている。起きているときに私が発作に襲われたときは優しくしてくれる。でも。幾ら寝入り端だからって、寒い、の一言はあんまりじゃあないか。愛を疑ってしまった。翌日、軽く責めたら謝ってくれたけれど。この、軽く、が自分への嘘。本当に悲しかったし腹が立った。でも正面切って責める勇気がないから、冗談ぽく責める。謝ってくれても靄がかかっているのは、うちのの所為ではない。自分の他者への接し方に、自身で納得ができていない故のこと。嘘や欺瞞と処世術の区別が付かない。他所の大人はちゃんと区別が付いているのか。区別が付かないのはモラトリアムなオトナだからか。果たして私は、区別が付くようになりたいと本心から思っているのかどうかも怪しい。ロックってそんなもんじゃないだろう! と心の叫び。お天使な小悪魔のモラトリアムはロックなのだ。ワケワカラン。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
逃げ場のない責め方をする人間は私の親だけではない。例えば。なんで〜〜やってないの? 忘れていたから。なんで忘れるの? なんでって……。暫し沈黙。黙っていれば済むと思っているでしょ!? 思っていません、ごめんなさい。謝れば済むと思っているでしょ!? 暫し沈黙。黙って(以下ループ。逃げ場がない。逃げ道がない。だから前以って言い訳を考える。すると、言い訳するな! と怒られる。謝るとまた、謝ればいいと思っているでしょ!? そうして歪に出来上がったオトナの私。世の中で最も大切なことは、相手の顔色を伺うこと。相手に責められないように相手の望む返事をすること。自分を殺して。自我殺傷。そして本当に自分の心身を傷付けるに至る。私のチェーンスモークは緩やかな自殺。禁煙を迫るうちのに、煙草は私のアイデンティティだ! と言い切ったことがある。その場凌ぎの出任せだったけれど、あながち嘘ではないかもしれない。主治医に以前、本音でぶつかってくるように、と言われた。当然、はい、と答えた。けれど、実際のところ本音でぶつかっていったことはない。主治医の機嫌を損ねたくないから。見捨てられたくないから。他者に嫌われたらどんな目に遭うのか、幼い頃から私にはすり込まれている。嫌味を言われ、無視され、最後にはいなくなる。追い縋る自分は惨め。ならば最初から相手の機嫌を損ねなければいい。大人がどうすれば喜ぶか、私はツボを心得ている。それは私が大人だからではなくオトナだから。他者はこれを、処世術、と呼ぶかもしれない。それは私に於いては間違い。私の他者への顔色伺いは病的だ。病的だと自覚していても、どうすれば病的でなくなるかが解らない。だって皆、私の自我のままに行動すると離れていくから。嫌われるから。ひとりになるから。淋しいのは平気。なフリをすることに余りにも慣れ過ぎてしまった。病的に慣れ過ぎてしまった。
縺れた糸を解すのが私は苦手だ。縺れてしまったら切ればいい。短絡的発想。それでも世の中に無限に糸がある訳ではなく、切っていけばいく程に糸は短くなり、最後にはなくなる。解っていても解せない。糸の端を持つもうひとりが、私が解く先から絡ませていくこともある。悲しい。淋しい。自信が持てない。私には、啓蒙書の類を読む人間を小莫迦にしている節がある。自己啓発本を読んで、自分探し、に終止符が打てた人なんかいないに決まっている。打てたとしてもそれは、休止符ではなく小休止符。言い換えれば妥協点。ありのままの自分、を真に理解できている人はいないに決まっている。ありのまま、というもの自体が流動的だ。流動的だ、ということに気付いている人はどれだけいるのだろう。少なくとも他者に向って、〜〜さんらしい乃至〜〜さんらしくない、と吐く奴は絶対に解っていないに違いない。自分らしさ、なんて自分でも解らない。でもきっと多くの大人はそんなことは考えていない。忙しいから。暇なオトナな私は考える。無駄なのに。答えなんか出ないのに。
流動的な私の体重は、さっき量ったらベスト体重迄後2kg。一時期よりも5kg近く増えた。不健康に。増えた5kgの半分以上はお菓子類だろう。今日の昼食もバウムクーヘン。頬とアンダーバストから下のみに肉が付いていく。いかん、いかん。最近、デューク更家のウォーキングもどきで歩くようにし始めた。名付けられたウォーキングをこなしているのではなく、単に肩と仙骨の位置と足の進め方を意識しているだけ。それでも近所のコンビニに行き来するだけで腹筋が痛くなった。如何にこれ迄間違った歩き方をしていたか、如何にこれ迄運動不足だったかを物語る話。腹筋が多少痛むのはそのうち慣れるとして、この間あったちょっと酷い話。寝る間際に発作勃発。痛い痛いと呟いて布団から抜けた私にうちのがかけた言葉は、寒い。布団を捲りっぱなしにしていたのだ。だからってそりゃないんじゃないかと小一時間(以下略。この発作で死にはしない。うちのが疲れてて眠いのも知っている。起きているときに私が発作に襲われたときは優しくしてくれる。でも。幾ら寝入り端だからって、寒い、の一言はあんまりじゃあないか。愛を疑ってしまった。翌日、軽く責めたら謝ってくれたけれど。この、軽く、が自分への嘘。本当に悲しかったし腹が立った。でも正面切って責める勇気がないから、冗談ぽく責める。謝ってくれても靄がかかっているのは、うちのの所為ではない。自分の他者への接し方に、自身で納得ができていない故のこと。嘘や欺瞞と処世術の区別が付かない。他所の大人はちゃんと区別が付いているのか。区別が付かないのはモラトリアムなオトナだからか。果たして私は、区別が付くようになりたいと本心から思っているのかどうかも怪しい。ロックってそんなもんじゃないだろう! と心の叫び。お天使な小悪魔のモラトリアムはロックなのだ。ワケワカラン。
BGM/アルバム「押絵と旅する男」
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