涅槃桜の森の満開の下
2004年4月8日 本・映画・音楽など 検索サイトから飛んでいろんなサイトを見ていたところ、どうしても納得できないものを発見。愛しの君の某バンドは海外の某バンドに似ている的記述が。違う! その海外の某バンドは、愛しの君の某バンドのファンなのだ。そして某曲をパク……いや、リスペクトして発表したりしている。この前後関係を間違うと、海外コンプレックスの強い多くの日本人の傾向として、海外某バンドに日本某バンドが似ている、となってしまうのだろうか。上記の納得できない表現で某バンドを評した方がそうとは限らないけれど、何とももにょる話である。もにょるのは、海外某バンドが日本某バンドのファンであり、某曲のパクリとも言えるようなイントロの曲があることを逆方向で勘違いされている気がする。大体、似ている海外バンドを挙げるなら、ブラック・サバスは外せない筈ではないか。サバスを外して他のバンドをあげているのが、何だかなあ、の原因である。和製サバスとの声も高いのに。誤解なきように書くと、他人様の評にケチをつけたいのではなく、勘違いを生みそうな表現だったことに不安を感じたのだ。日本某バンドを高く評価してくれてはいたけれど、仮にそれでこのバンドに興味を持ち、一緒に挙げられていた海外某バンドの作品と一緒に聴いた人がいたとする。そのとき、海外某バンドの某曲の後で日本某バンドの某曲を聴いたら、概ねパクリだと捉えられそうだ。いちいち発表年を調べたりしなければ、逆だとはまず気付かれます。うーむ。どうせ杞憂だとは思うけれど、思い入れある大好きな日本某バンド故に気になって夜も眠……りに眠って、今日起きたのは15時だった。所要睡眠10時間ベースは何があっても崩れないのか。
さて桜も満開を過ぎ、春風に吹かれて花弁舞い散る今日この頃。私の頭も気の触れ桜がひぃらひら。で、愛しの君の某バンドの曲と歌詞をチェックしてみた。春・桜が出てくる曲はどれくらいあるのか。手元にあるCDはアルバムのみで、1〜4枚目及び6〜10枚目。それらの歌詞カードを読み直してみた。
「無限の住人」に4曲もあって驚いた。ここ迄は歌詞カードからの引用なので確実。以下は聴き取りからなので不正確箇所ありかも。
上記に引用した歌詞の殆どは愛しの君が書いたもの。バンド名同様にもう愛しの君もへったくれも(以下略。今更実名を出すのもアレなので、このままの書き方で今後も日記続行。愛しの君がラジオでしていた話曰く、春の海は嫌いらしい。淋しい感じがするからだとか。春そのものからして好きではなさそうだった。なのに書き出してみたら春だの桜だのの多いことったら。嫌い嫌いも好きのうち。違うか。きっと桜という樹木及び花が、日本の草木を象徴するような存在なので多く用いがちになっているのだろう。けれど、うららかなイメージはあるらしい。淋しげとうららかは相容れない気もするのだが。歌詞をパーッと見て、秋の曲が少なく思った。秋は題材にしづらい季節なのだろうか。別に季節の曲ばかりを作っているバンドではなく、むしろそういったところから離れた猟奇的・文学的・頽廃的・宗教的・衒学趣味な歌詞が多いのだけれど。ベーシストの書く歌詞に猟奇趣味は顕著だ。愛しの君の書く歌詞は猟奇趣味だけに留まらず、バリエーションが豊富。天才肌と秀才肌の違いか。愛しの君は後者。ベーシストは演奏技術・作曲及び作詞技術が天才的ということではない。ただベーシストには余り、頑張っている感、が見出せず、愛しの君の作曲・作詞には努力の跡が見える気がするのである。その努力の跡や苦心の跡がまた心に沁みてきたりする。ランボーの「母音」から書かれた歌詞は、某サイトでけちょんけちょんに近く貶されていたけれど。デビュー当時の作品では猟奇趣味・文学趣味が前面に出ていたのに、最近の作品はよく言えば幅が広がってきており、悪く言えば軽い作品が増えてきている気がする。それでもちゃんとアルバム最終曲に大作を持ってきて、きちんと〆ている。一時期、アルバム最終曲だけを集めてフォルダを作って、通して聴いていた。重かった……。でもこの重さがいい。演奏も曲も歌詞も声も顔も体も指も大好き。と、のだめの如くさり気なく告白。
BGM/書く迄もなく……
さて桜も満開を過ぎ、春風に吹かれて花弁舞い散る今日この頃。私の頭も気の触れ桜がひぃらひら。で、愛しの君の某バンドの曲と歌詞をチェックしてみた。春・桜が出てくる曲はどれくらいあるのか。手元にあるCDはアルバムのみで、1〜4枚目及び6〜10枚目。それらの歌詞カードを読み直してみた。
・アルバム「人間失格」より
「桜の森の満開の下」→「桜のトンネル夜歩く旅人」「桜の森の満開の下で」
・アルバム「桜の森の満開の下」より
アルバム・タイトルのみ
・アルバム「黄金の夜明け」より
なし
・アルバム「羅生門」より
なし
・アルバム「踊る一寸法師」より
「モスラ」→「春の海にのたり」
「暗い日曜日」→「春のベンチでうたた寝したんだ」
・アルバム「無限の住人」より
「蛮カラ一代記」→「花は桜木人は武士」
「刀と鞘」→「抜いて咲くのは八重桜」
「辻斬り小唄無宿編」→「桜吹雪がこち吹かば」
「黒猫」→「春の弥生の空に」「気の触れ桜がひらひら」「春の涅槃の風に」
・アルバム「頽廃藝術展」より
「菊人形の呪い」→「桜の花なら」「桜の花びら」
「村の外れでビッグバン」→「春のうららに誘われて」
・アルバム「二十世紀葬送曲」より
「恋は三角木馬の上で」→「月の照らす春高楼」
「春の海」→「うららかな春の海」「ひろやかな春の海」「のどやかな春の海」「ひそやかな春の海」「春霞の帷」
・アルバム「怪人二十面相」より
「亜麻色のスカーフ」→「春の公園」
「無限の住人」に4曲もあって驚いた。ここ迄は歌詞カードからの引用なので確実。以下は聴き取りからなので不正確箇所ありかも。
・アルバム「人間椅子」より書き出しに疲れてぐったり。早く未入手のCDも買おう。そしてもう某バンドも減ったくれもなく明らかだなあ。前からか? いいや、もう。できればタグ類は一切使いたくなかったけれど、今回は余りに引用が多用につき念の為。こうやってまたひとつ、自分の中の禁止事項が減ってゆく。
「桜の森の満開の下」→アルバム「人間椅子」収録作に同じ
・シングル「刀と鞘」より
「刀と鞘」→アルバム「無限の住人」収録作に同じ
「桜下音頭」→「春の都にゃ今日も今日とて」「咲けよ桜よ我等を糧に」
・アルバム「見知らぬ世界」より
「涅槃桜」→「桜ひらひら降る夜は」「春の涅槃に舞うのさ」「桜の降りしきる森の中」「春の宵は退屈すぎる」「春の宵は幻惑させる」「桜はらはら散る夜は」「春の薫りの吹くまま」「春の宵は朧にふける」
・アルバム「修羅囃子」より
「相剋の家」→「月経の春」
上記に引用した歌詞の殆どは愛しの君が書いたもの。バンド名同様にもう愛しの君もへったくれも(以下略。今更実名を出すのもアレなので、このままの書き方で今後も日記続行。愛しの君がラジオでしていた話曰く、春の海は嫌いらしい。淋しい感じがするからだとか。春そのものからして好きではなさそうだった。なのに書き出してみたら春だの桜だのの多いことったら。嫌い嫌いも好きのうち。違うか。きっと桜という樹木及び花が、日本の草木を象徴するような存在なので多く用いがちになっているのだろう。けれど、うららかなイメージはあるらしい。淋しげとうららかは相容れない気もするのだが。歌詞をパーッと見て、秋の曲が少なく思った。秋は題材にしづらい季節なのだろうか。別に季節の曲ばかりを作っているバンドではなく、むしろそういったところから離れた猟奇的・文学的・頽廃的・宗教的・衒学趣味な歌詞が多いのだけれど。ベーシストの書く歌詞に猟奇趣味は顕著だ。愛しの君の書く歌詞は猟奇趣味だけに留まらず、バリエーションが豊富。天才肌と秀才肌の違いか。愛しの君は後者。ベーシストは演奏技術・作曲及び作詞技術が天才的ということではない。ただベーシストには余り、頑張っている感、が見出せず、愛しの君の作曲・作詞には努力の跡が見える気がするのである。その努力の跡や苦心の跡がまた心に沁みてきたりする。ランボーの「母音」から書かれた歌詞は、某サイトでけちょんけちょんに近く貶されていたけれど。デビュー当時の作品では猟奇趣味・文学趣味が前面に出ていたのに、最近の作品はよく言えば幅が広がってきており、悪く言えば軽い作品が増えてきている気がする。それでもちゃんとアルバム最終曲に大作を持ってきて、きちんと〆ている。一時期、アルバム最終曲だけを集めてフォルダを作って、通して聴いていた。重かった……。でもこの重さがいい。演奏も曲も歌詞も声も顔も体も指も大好き。と、のだめの如くさり気なく告白。
BGM/書く迄もなく……
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