現在4月2日。
知人が転職に失敗した模様。友人は治験の短期バイトに行ったまま連絡が取れない。知人はきっと何らかの新天地を遅かれ早かれ見つけられるだろうが、心配なのは友人である。この友人、上京してから貯金を食い潰し、取り敢えずということで短期バイトを始める、と言っていた。その内容が治験と聞いて私は止めた。何の治験だかハッキリしていなかったからだ。治験に纏わる聞いたことのある怖い話をして止めたが、連絡がこないところをみると……いやはやどうなったことやら。連絡がないのは構わないけれど、無事でいてくれないと。治験は必要なことだし、治験の存在を否定はしない。しかしその具体的内容も判らぬままに飛び込んでいった友人の生死は気になる。バイトの話を聞いてしまっているので、便りがないのは良い便り、とは思えない。メールを出してみようかと思わなくもないけれど、返信がなかったらと思うと行動に出るのが怖い。心配なので、もしこれを読んだらアクセスしてきて欲しい。
別の友人は先日彼女に振られたとか。聞くも悲しい振られ方だった。かつて聞いた失恋話の中で2番目にキツかった。その友人は所用で大変忙しく、彼女とのデートや電話の時間が殆ど取れなかったらしい。そして一段落着いたとき、彼女には新しい彼氏ができていた。その彼氏は友人の友人だという。淋しかったから、がそっちに靡いた理由だ。しかもその彼女は友人に対し、これからもお兄ちゃんのように接して欲しい、なんぞと抜かしてきやがったとか。自分の恋人を隙を狙うかのように口説いて掻っ攫う奴なんて友人ではないと思う。友人は今後その友人とどう接するか逡巡しているようだった。切れよ! と諭した。また甘ったれた彼女もスルーしろよ! と。振られた側が、これからも友達でいて、的発言をするのは解る。けれど振っておいてそれはないだろう。しかも友達ですらなく、お兄ちゃん、だ。友人ののろけを散々聞いてきたこともあり、非常に腹立たしかった。友人が周囲の人間にこの失恋話をしたところ女性たちの意見は、保守的な女だ、と彼女のことを評されたらしい。私は保守的だとは思わなかった。ただの我侭である。友人はかなり落ち込んではいたが、次の当てがあるようで。若いっていいなあ。
過去に聞いた中で一番酷かった失恋話は私の学生時代の友人の話だ。彼女は奥手で学生時代に恋愛経験はなく、社会に出て初めて好きな人ができた。彼には既に彼女がいた。それでも告白したところ、やはり振られてしまった。今余り上手くいってはいないけれど彼女のことが好きだから、と。これだけなら、言ってしまえばよくある話。彼女は職場の同性の彼氏持ちの友人に恋心を打ち明け、いろいろと相談していたらしい。数週間後、彼女が好きだった人が婚約した。相手はその相談していた友人だった。お互いに浮気として付き合い始めて本気になり、結婚に至ったらしい。いけしゃあしゃあとそいつらは、彼女を前に婚約を発表した。二重につらい。失恋、そして友人の裏切り。彼女が間もなく退職したのは言う迄もない。その後留学し、日本に戻ってから転職し、そこで彼氏を作ったけれど、次の転職で彼女は遠くに引っ越してそのまま自然消滅したと言っていた。引っ込み思案ながらキャリアウーマン志向の強い、仕事熱心な子である。今は疎遠になっていて年賀メールの遣り取りくらいしかしていないけれど、そろそろ新しい彼氏はできただろうか。できていると私も嬉しい。
それにしても酷い仕打ちと言ってしまえる振り方をできる人間のなんと多いことか。某巨大掲示板某板などを見ていると、酷い仕打ちを受けた経験のある者は少なくないことが判る。大多数が受けていなければ稀なこと、と括れる話ではない。少数でも、この手の傷は受けた者にとっては深く、立ち直り難い。またときには異性不振に陥ってしまったりもする。得てして振った側には悪意がないところがまた性質が悪い。未必の故意、という言葉がある。こういう悪意のなさはそれに匹敵するのではなかろうか。相手が致命的な傷を追うかもしれないことなど、ほんの少し想像すれば考え至る筈だ。それなのに自分の恋に浮かれて他者は二の次三の次。悪質だ。またこの手の傷を負う羽目になってしまった者に限っていい奴だったりする。少なくとも私の周りでは、いい奴ばかりがこんな目に遭っている。いい奴故に復讐など考えない。自力で傷を癒そうといじましく努力し、時間をかけてどうにか立ち直る。見ている私はもどかしく、傷を負わせた相手を痛い目に遭わせてやりたいと考えるのだけれど、彼らはいい奴だからそんなことは考えない。私は愚痴を聞くことしかできない。
思い返せば、私も昔は酷いことをしてきた。言い訳は、だって好きになっちゃったんだもん! だ。だから上記のような酷い目に遭わせてしまう者の気持ちも解らないではない。それでも私は時を経て分別が付くようになった。していいこと、悪いこと。してしまった後の適切な事後処理、不適切な事後処理。それくらいは解るようになった。過去に私が酷い目に遭わせてしまった人々には心の中で謝罪している。直接の謝罪は、却って相手につらい過去を思い出させることにもなってしまうから。それに会っても私には頭を下げることしかできない。断罪。贖罪。ひっそりと心の中でだけする。友人らを泣かせた相手も、いつか犯した未必の故意の酷さに気付く日がくるのだろうか。きて欲しい。気付かずにのうのうと生き続ける者にはいつか天誅が下る、と信じたい。私の現状、これは昔の罪の償いなのか? まさかね。反省しているから良い、とは思っていない。ただ今できることは過去を省みつつ、今一緒にいるうちのを大切にすることだけだ。自分が傷付けてしまったこと、自分が傷付けられたこと。それらを糧に生きていくしかない。私を傷付けた人々もこれ迄に気付いただろうか。私が傷付けてしまった人々は立ち直ってくれただろうか。確認する術はない。皆が今そのときを、自分と他者を大切にしつつ生きていくにはどうすればいいのだろう。答えは各々が見つけてゆくしかない。またもしかしたら、こういうことに出会わず、出会っても気付かずに生きている人々こそが幸せなのかもしれない。厚顔無恥が最強だったりする不条理な世の中だ。
BGM/アルバム「見知らぬ世界」
知人が転職に失敗した模様。友人は治験の短期バイトに行ったまま連絡が取れない。知人はきっと何らかの新天地を遅かれ早かれ見つけられるだろうが、心配なのは友人である。この友人、上京してから貯金を食い潰し、取り敢えずということで短期バイトを始める、と言っていた。その内容が治験と聞いて私は止めた。何の治験だかハッキリしていなかったからだ。治験に纏わる聞いたことのある怖い話をして止めたが、連絡がこないところをみると……いやはやどうなったことやら。連絡がないのは構わないけれど、無事でいてくれないと。治験は必要なことだし、治験の存在を否定はしない。しかしその具体的内容も判らぬままに飛び込んでいった友人の生死は気になる。バイトの話を聞いてしまっているので、便りがないのは良い便り、とは思えない。メールを出してみようかと思わなくもないけれど、返信がなかったらと思うと行動に出るのが怖い。心配なので、もしこれを読んだらアクセスしてきて欲しい。
別の友人は先日彼女に振られたとか。聞くも悲しい振られ方だった。かつて聞いた失恋話の中で2番目にキツかった。その友人は所用で大変忙しく、彼女とのデートや電話の時間が殆ど取れなかったらしい。そして一段落着いたとき、彼女には新しい彼氏ができていた。その彼氏は友人の友人だという。淋しかったから、がそっちに靡いた理由だ。しかもその彼女は友人に対し、これからもお兄ちゃんのように接して欲しい、なんぞと抜かしてきやがったとか。自分の恋人を隙を狙うかのように口説いて掻っ攫う奴なんて友人ではないと思う。友人は今後その友人とどう接するか逡巡しているようだった。切れよ! と諭した。また甘ったれた彼女もスルーしろよ! と。振られた側が、これからも友達でいて、的発言をするのは解る。けれど振っておいてそれはないだろう。しかも友達ですらなく、お兄ちゃん、だ。友人ののろけを散々聞いてきたこともあり、非常に腹立たしかった。友人が周囲の人間にこの失恋話をしたところ女性たちの意見は、保守的な女だ、と彼女のことを評されたらしい。私は保守的だとは思わなかった。ただの我侭である。友人はかなり落ち込んではいたが、次の当てがあるようで。若いっていいなあ。
過去に聞いた中で一番酷かった失恋話は私の学生時代の友人の話だ。彼女は奥手で学生時代に恋愛経験はなく、社会に出て初めて好きな人ができた。彼には既に彼女がいた。それでも告白したところ、やはり振られてしまった。今余り上手くいってはいないけれど彼女のことが好きだから、と。これだけなら、言ってしまえばよくある話。彼女は職場の同性の彼氏持ちの友人に恋心を打ち明け、いろいろと相談していたらしい。数週間後、彼女が好きだった人が婚約した。相手はその相談していた友人だった。お互いに浮気として付き合い始めて本気になり、結婚に至ったらしい。いけしゃあしゃあとそいつらは、彼女を前に婚約を発表した。二重につらい。失恋、そして友人の裏切り。彼女が間もなく退職したのは言う迄もない。その後留学し、日本に戻ってから転職し、そこで彼氏を作ったけれど、次の転職で彼女は遠くに引っ越してそのまま自然消滅したと言っていた。引っ込み思案ながらキャリアウーマン志向の強い、仕事熱心な子である。今は疎遠になっていて年賀メールの遣り取りくらいしかしていないけれど、そろそろ新しい彼氏はできただろうか。できていると私も嬉しい。
それにしても酷い仕打ちと言ってしまえる振り方をできる人間のなんと多いことか。某巨大掲示板某板などを見ていると、酷い仕打ちを受けた経験のある者は少なくないことが判る。大多数が受けていなければ稀なこと、と括れる話ではない。少数でも、この手の傷は受けた者にとっては深く、立ち直り難い。またときには異性不振に陥ってしまったりもする。得てして振った側には悪意がないところがまた性質が悪い。未必の故意、という言葉がある。こういう悪意のなさはそれに匹敵するのではなかろうか。相手が致命的な傷を追うかもしれないことなど、ほんの少し想像すれば考え至る筈だ。それなのに自分の恋に浮かれて他者は二の次三の次。悪質だ。またこの手の傷を負う羽目になってしまった者に限っていい奴だったりする。少なくとも私の周りでは、いい奴ばかりがこんな目に遭っている。いい奴故に復讐など考えない。自力で傷を癒そうといじましく努力し、時間をかけてどうにか立ち直る。見ている私はもどかしく、傷を負わせた相手を痛い目に遭わせてやりたいと考えるのだけれど、彼らはいい奴だからそんなことは考えない。私は愚痴を聞くことしかできない。
思い返せば、私も昔は酷いことをしてきた。言い訳は、だって好きになっちゃったんだもん! だ。だから上記のような酷い目に遭わせてしまう者の気持ちも解らないではない。それでも私は時を経て分別が付くようになった。していいこと、悪いこと。してしまった後の適切な事後処理、不適切な事後処理。それくらいは解るようになった。過去に私が酷い目に遭わせてしまった人々には心の中で謝罪している。直接の謝罪は、却って相手につらい過去を思い出させることにもなってしまうから。それに会っても私には頭を下げることしかできない。断罪。贖罪。ひっそりと心の中でだけする。友人らを泣かせた相手も、いつか犯した未必の故意の酷さに気付く日がくるのだろうか。きて欲しい。気付かずにのうのうと生き続ける者にはいつか天誅が下る、と信じたい。私の現状、これは昔の罪の償いなのか? まさかね。反省しているから良い、とは思っていない。ただ今できることは過去を省みつつ、今一緒にいるうちのを大切にすることだけだ。自分が傷付けてしまったこと、自分が傷付けられたこと。それらを糧に生きていくしかない。私を傷付けた人々もこれ迄に気付いただろうか。私が傷付けてしまった人々は立ち直ってくれただろうか。確認する術はない。皆が今そのときを、自分と他者を大切にしつつ生きていくにはどうすればいいのだろう。答えは各々が見つけてゆくしかない。またもしかしたら、こういうことに出会わず、出会っても気付かずに生きている人々こそが幸せなのかもしれない。厚顔無恥が最強だったりする不条理な世の中だ。
BGM/アルバム「見知らぬ世界」
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