昨日、母親と電話で話した。私の名前について。親子関係云々はさて置いて、どうしてああも仕事運を重視した命名候補が挙がっていたのか。それは誰の意思だったのか。回答。あの命名候補は伯母の意思で挙げられた候補だったらしい。そして父母らは別にいろいろな名前を考えていたらしい。そちらは記録保存なし。親曰く、仕事運について重視した名前ではなく強運を持ち合わせた名前が候補として挙げられた、とのこと。そしていろいろ考えていたけれど、実の父親は伯母に渡された候補一覧を見て、G(先日の日記参照)に閃きを感じたとかでこの名前がつけられたとか。言葉を柔らかくしつつ、もっとこう幸せにとかって願いを込めた名前が欲しかったんだけど、そういうのよりも運が重視されたってことなの? その後の親の返事にちょっとしたカルチャー・ショックを与えられた。運がなければ幸せにもなれないでしょう? 例えば優しい子にって願いを込めて、優子、とつけても優しいだけじゃ世の中を渡っていけないでしょう? でも運が強いってことは、全てを含めているってことじゃない? ふむ。そういう考え方もあるか。要するに、様々な願いを込めに込めて、やはり運がなければどうにもならないという結論に達して、この名前になったらしい。しかし親が、運、などと不確かなものに願いを託していたとは驚いた。親は、でも運だけでなく努力も必要だけど、と付け加えてはいたが。この由来を覚えていた親は、私の進学と就職の際に、やはりこの子は強運の持ち主なのだなあ、と思っていたらしい。高学歴とされる学校には進めなかったし、一流とは言えない会社に就職することにはなったものの、碌すっぽ勉強もしていないのに平均レベルの学校・職場にストレートで進めたから。尤もその後の仕事運はぐだぐだな訳だが。

 この命名候補の紙、親は私が22〜23歳で結婚するときに渡そうと思っていたようだ。その頃は結婚どころではなくヤリまくっていた時期だ……。そしていつになったらその機会が来ることやら、と伺っていたけれど、挙句親が反対する相手との結婚がほぼ確定となり先日渡してくれるに至ったらしい。この話が出て、うちのの親姉妹にも結婚を反対されているようだ、と少しだけ話した。親曰く、うちの(仮名)とあんたの結婚には今もやっぱり反対、だから結婚するとしてもこちらから何もする気はない、それでもあんたは私の子には変わりないんだからあんた個人とは付き合いを続けたい、と。願わくば、うちのの親姉妹とうちのの距離もこのようになってくれればいいのだが。どちらの親も別の意味でちょっと面倒な親であり、うちのも私もお互いの親には極力関わりたくないと思っている。そしてこのような関係が築ければ、世で言う嫁姑婿舅ごちゃごちゃの問題は避けられるであろう。反対されることでいいこともありそうな気がしている昨今である。

 名前という記号の話に戻して。名前とは記号である。その記号で他者との識別を図る。記号は記号でしかない。黒柳徹子の著書で昔読んだ一文が印象に残っている。読んだのが昔なので原文ままではないけれど、彼女が芸名を考えようと思っていたときに他者に言われた言葉。貴女の名前が□△○×子でも、貴女がちゃんと仕事をしていれば覚えてくれる人はちゃんと覚えてくれる。名前なんて記号でしかない、という話の極論だ。そしてそれは正しい。他者との識別さえできれば、名前という記号は充分に役割を果たしていることになる。が。現実に生きている者としては、そこに自分がこの世に存在したときに願った親の気持ちが入っている。記号に意味を見出すことはくだらないことなのだろうか。机は机、椅子は椅子。この命名の由来を辿るのは簡単ではない。だから大抵の人はあるがままの記号として受け入れる。それに比べて自分の名前の由来を辿るのは簡単である。簡単故に辿りたくなるのか。それに辿った末に見つけられた意味と、その名前を名乗りつつ生きている自分に直結した、何か、は見出せるのか。見出せまい。精々、名前に込められた願い通りの人間になっているか、そうではないと解るだけか、だ。作家によっては、作品の登場人物にストーリーに関わる何かしらの暗示を込めた名前をつける。私の卒論でも取扱った。極端なことを言えば、小説の中の登場人物などA、B、C……と書かれていても大して問題はない。それでも作者は名前をつける。名前という概念が根付いた世の中に生きる人間にリアリティを持たせる為だけではない。私が卒論で扱った小説は、名前、という概念に疑問を呈するものだった。それでも違和感と矛盾を含有しつつ名前の存在はあった。名前という記号の意味。その答えを私はまだ見つけられてはいない。

 うちのの名前は苗字と絡めた駄洒落のような、とても前向きな名前である。しかし一時期は裏街道まっしぐら。私の名前も前向きな名前。それでも私のだらしない性分と相俟って、名は体を現すだね〜としょうもない洒落のように思われ易い。お互いに親の期待を裏切りまくってこの人生を生きている。昨日ふたりでそんな話をしつつ笑った。そして私の中で、やはり名前は記号でしかない、との思いを強くした。同姓の人間は沢山いる。同名の人間も少ないかもしれないけれどいるだろう。偶然にも同姓同名の人と出会ったとき、記号は記号としての役割をちゃんと果たせるだろうか。果たせまい。名前もメタなのだ。また私の名前は字を間違えられ易い。以前の苗字も間違えられ易い字だった。一字違うだけならまだしも、4つの漢字のうちの2字を間違えられてしまうと、既にその表記された名前は、私を表す記号としての役割は担えない、と考える。記号とはときとしてアイデンティティとも深く関わる。だから私は人名表記の間違いには過敏になる。当然のことだと思っている。けれど世の中には人の名前を軽々しく扱う者もいる。その手の者は他者を尊重できない、もっと言えば他者の尊厳を軽々しく踏み躙る者、と私は考えている。そんな権利は誰にもない。たかが記号、されど記号。人名程、そのものが主張をする記号はないのではなかろうか。何故、記号がこうも主張をするのか。これからも私が追い続けるテーマだろう。

BGM/「Black Sabbath」「N.I.B」「Paranoid」など

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