現在3月30日。

 私はなんで、黒猫(仮名)、って名前なの? 私の名前は漢字で2文字、読みが2音である。子供の頃に聞いた私の名前の由来は、仮名に例えて説明すると、黒い猫だから黒猫なんだよ、というものだった。その実態は28日付の日記に書いたように、仕事運と親子関係に於いて良い数意を持っていたから、だった。まだ子供の頃に説明されていた由来の方が、願いが込められているように感じられる。数意ってなんだ。くだらん。実にくだらん。しかも全く現状に沿っていないところが噴飯物。余談だが、うちのと入籍するとまた私は苗字が変わる。すると姓名判断的には今より更に運勢が下降するらしい。ネットのいろんなサイトで占ってみたが、何処でも必ず運勢下降との結果が出た。このことを日曜に親に笑い話としてしたら、親は既に知っていた。どうやら何処かで姓名判断を既にしていたらしい。そして、やっぱり結婚はどうかと……、というようなことを言い出そうとしたのでしょうもない話で遮った。姓名判断が本当に中るのなら、今頃私は家の一軒も建てていそうだ。少なくともメンヘルのヒキにはなっていなかろう。いっそあらゆる占いで良くないとされる苗字になった方が運勢が上昇したりして、などとひねくれたことを考えたりもしてしまう。そもそも私は占いが嫌いだ。会話のきっかけ程度にしか思っていない。いや、会話のきっかけに占いを用いる人間を莫迦だとすら思う。この考えでホステス時代にどれだけ客に顰蹙を買ったことか……話が逸れた。

 世の中にはいろんな占いがある。暇潰しにしかならないと思っているし、一喜一憂の一因にすらならない。例えば星占い。一時期13星座占いなるものが流行った。そしてすぐに廃れて12星座占いに落ち着いている。血液型占いというものもある。ABO型しか私は知らない。この一般的と思われる12星座と4つの血液型を混ぜた占いを使ったところで、世の中の人間が皆48のどれかのパターンに当て嵌まろう筈がない。四柱推命然り、姓名判断然り。人間の運勢やら将来やらを既に用意された数字を含めて何かしらの、パターン、に当て嵌めようとすること自体に無理がある。例えば。天涯孤独で波乱万丈の人生を送っている、あらゆる占いに於いて悪い運勢を示される貧乏人がいたとする。当人をよく知らない人がその人を見たら、占い通りだわ、となるだろう。しかしその人の気持ちとしては、家族はないしいろいろあるし貧乏だけど雨風を凌げて食うに困らないんだから自分は幸せだ、かも知れない。起きて半畳寝て一畳、一汁一菜で幸せだと感じる人間だって確実にいる。己の尺度で他者の不幸や幸福を量るのは驕りだ。

 因って誰の意思かは知らないけれど、仕事運と親子関係に重きを置いてつけられた私の名前を、私自身は有難く感じない。私が最も欲しているのは昔から、平穏、であり、仕事や親子関係などは二の次なのだ。名前に囚われずに自分の道は自分で切り拓いていくしかない。そんなことは百も承知。けれど、他者から名前を呼ばれるたびに、何かに名前を書くたびに、名前は私に付き纏う。そして重く圧し掛かる。嫌いな伯母が候補を挙げた名前。望まない願いを数字に託されてつけられた名前。従妹の字面も響きも良く、親の願いが込められた名前。いや、比較してはいけない。いけないのだが……何かが腑に落ちない。この、何か、を私は上手く説明できない。何なのだろう。妬みや嫉みか。私の持つ、記号、への拘りか。自分の道は自分で。名は体を現す。どちらも正しく感じる。名が体を現していないことの、または体が名に追いついていないことへのもどかしさか。これも違う気がする。単に、もっと私が重視している幸福についての願いを込めて欲しかった、という届かぬ願いか。不幸なことに子供は名前を選べない。誰しも成人したら自分で好きな名前をつけていい、という制度が生まれればいいのにと切に思う。けれどそんな制度は生まれない。役所が面倒だからか、周囲が混乱するからか、それとも他者の殆どは改名の必要を感じていないからか。きっと最後が正解。けれど親の呪縛から逃れたい者にとって、名前の存在は余りに重い。改名によって身軽になれる人間も決して少なくないと想像している。

 だから私はネットという架空空間で仮想現実でHNを使って日記をつけている。ここでは私は身軽になれる。付き纏う記号から離れた場所で、黒猫という人間らしくない名前を名乗って、最早人間として存在していたいという気持ちすらも捨て去って好き勝手なことを書き綴る。苗字もつけない。苗字には家が圧し掛かる。ネットの世界では苗字をつけたところで家もへったくれもないけれど、それでも黒猫という2文字だけで自身を現すことに、とてつもない開放感を得られる。親の結婚に賛成したのは、父親の持っていた苗字の字面と響きが気に入ったから。あの頃私は若かった。その苗字の後ろにくっついてくる、家、の存在を全く考えていなかった。父親の両親は私を可愛がってくれ、持ち家を将来私にあげたい、と言ってきたことがある。勘弁願いたい。家なんぞ要らん。苗字も名前も、私へ地に足をつけることを要求してくる。私は宙ぶらりんでいたい。モラトリアムで結構。足をつけたくない地に、柵で強制的に縛り付けられるのは御免だ。私は私が足をつけたい地を選びたい。柵は全て断ち切りたい。家も要らない。墓も要らない。うちのと小動物らが私の傍にいてくれれば充分だ。傍にいてくれることで私は支えられて、友人知人を含む他者と接することができる。恐る恐るながらも外界に触れられる。親や親戚とは柵なしには接することができない。しかもその柵は、友人知人らと違い自分で選んで築いた柵ではないところが厄介だ。一個人として考えるなら、親も親戚も、決して進んで仲良くなりたいと思える性格の持ち主らではない。逆に苦手な性格の持ち主らだ。なのに親子だから、親戚だから、〜〜だから。鬱陶しいことこの上ない。私は私。他者は他者。本来なら母体から脱した時点で、百歩譲って成人したら親も他者。その感覚を麻痺させるものこそが、苗字と名前の存在ではなかろうか。

BGM/アルバム「無限の住人」

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