現在3月21日。

 14日に行った球体関節人形展にて帰りにパンフを購入してきた。1日経って一通り見ての感想。まず不満編から箇条書き。
・展示作品の全てが収められていない
・特に対になっていると思われる人形の片方が掲載されていないのは片手落ちではないか
・天野可淡作品が一切掲載されていないことに人形界全体の狭量さとの可淡への強引な高尚さへの狙いを感じてしまう
・耽美系及び前面に異形を表現した作品に重点を置きすぎていないか
・球体関節人形から最早離れた亜流といって過言ではないような作品を重視しすぎてはいないか
・その構図で撮影すると全体像への違和感が発生するのではないかと危惧してしまう写真の多さ
・展覧会の中でも個人的には非常に浮いた存在に見えたマリオ・Aの作品に何故あんなに頁数を費やしているのか→そのぶんベルメールの写真を多用できなかったものか
・敢えて既存作に名を挙げて批判はしないけれど、一部の関節人形作家ファンへの媚を感じる
・月光社の作品は駄洒落とも思えるタイトルで非常に損をしている気がする
・映画「イノセンス」を主題として作られた球体関節人形はともかく、犬の人形は不要としか思えない
 以上は、私個人の批判。どうしても犬に拘るならば、革人形での作成のほうが向いているように思う。
 以下、うちのの不満。
・最も強烈な印象だった吉田良の一作品が掲載されていないことに強い不満を持った
 あくまで個人的感想であり、人形展そのものやパンフ作成への批判ではないことを断っておく。以下は反してパンフに於ける個人的に良かった点。
・最も好きな伽井の「ひかるもの」がちゃん全身掲載されていた
・同作家の「鏡−陰毛−」がサイトの画像ではちゃん判らなかったけれど、展示人形とパンフの写真でタイトルと直結できたこと
・中村寝郎の作品掲載数は彼の作品が一貫性があり且つ前衛的な何かを思わせるので少数の掲載で成功だったのではなかろうか

 パンフを見て、改めて私にとって人形の完成形は写真及び画像だと認識。その発端は、チラシではあれ程魅入られた「萌香」の実物の印象の薄さが原因だ。私にとっては、背景・衣装・稼動させた人形のポーズ及び人形を撮影するにあたっての角度の問題が重要なのだろう。「萌香」そのものは、和装洋装共に似合う人形だと思う。けれど展示では4体の人形が同種の衣装を纏い、その姿がパンフにに納められている。残念でならない。全ての人形を展示状態のままで掲載するのでなければ、展示されておりパンフに掲載される人形も、その魅力を存分に引き出す姿で撮影・掲載できなかったものだろうか。パンフで全作品を展示状態ままで掲載するならこのような未消化もなかったかもしけないけれど……悔しさが残る。掲載されていた人形によっては、写真の構図が展示状態と微妙に変わっている物も少なくない。人形作家が望むことは何なのだろう。あるがままの人形を観てもらいたいのにか、それともより良く人形を観せたいのか、はたまた人形完成時に作家にとっての全てが完了してしまい後はお好きに、となってしまうのだろうか。私は人形作家ではないし、上記パターンのどれを目指すまたは根ざす人がいてもおかしくないと思う。もっと言う場、更に違う角度で完成とする人形師もいるかもしれない。私は一鑑賞者として想像を働かせることしかできず、一傍観者である私の好みとして、作られた人形の特徴を活かしつつ美しく撮影された写真や画像を観たいと思うだけである。

 このパンフと同時に、うちのが吉田良の「Astral Dall」という作品写真集を購入した。一通り鑑賞し、私が特に惹かれたのはこれといった目立った特徴のない一体の少女人形だった。この人形は2ページに渡って2カットが掲載されており、その表情に目を奪われた。鏡を使っての撮影で、2カットに4つの表情が写っている。人形は一体。1度完成された人形は、ひとつの表情で以って顔を造形されている筈だ。なのに角度によって全て表情が違って見える。これは凄い技術ではなかろうか。人間の表情は、正面から見たら微笑であっても、角度を変えて見ると皮肉を含んだ笑みに見えたり、無表情にに見えたり、物思いに耽っているように見える。人の心の機微は、表情に表れるのは当然のことだ。けれど人形は物質であり、完成形であり、心が宿っているように見えるのは人間の錯覚や人形への思い入れの変形だろう。このように理解をしていても、その吉田良の一体の人形は心を、魂を宿らせているように見えた。吉田良の作品としては大人し目の作品であり、いろいろ見てきた球体関節人形の中で唯一、うちで一緒に暮らしてもいいな、と思える人形だった。価格は判らないながら、手の届く額でないことは容易に想像できるが。

 或る人形作家の言葉で、人形の持ち主の人形への接し方で人形そのものの表情が変わる、というのを読んだことがある。人形をネグレクトすると冷たい表情になり、常日頃から手をかけてやさしく接すると人形の表情も柔らかくなっていくとか。ペットは生き物であり、接し方によって性格や表情が変わることはよく知っている。それが人形にも当て嵌まるとは簡単には想像できない話だ。けれどその作家自身またはその作家の人形を所有している人からすれば尤もな話なのかもしれない。私が球体関節人形を所有していない故に想像力が追いつかないのだろうか。いや、きっと常日頃からこのような芸術作品に触れていない者は、私以外にもやはり理解し難い考え方だと思われる。理解し難いけれど、1度某作家のサイトで少しだけ解った気がした画像に出会った。その画像に映された人形は、正面から見たら表情なのに斜め横からみると微笑を携えていたのだ。上記談話の知識を得る前に見た画像にも拘わらず、この人形は愛されているのだな、と半ば本能で感じ取れた。そしてひとつの疑問。人形は人間の擬態であり、感情移入は比較的簡単であると思われる。そして動物の擬態であり往々にしてデフォルメされたぬいぐるみにもこのような感情移入は可能なのか。有名なぬいぐるみコレクタに新井素子がいる。彼女は無垢な瞳を閉じることなく見つめてくるぬいぐるみの愛を一心に受け止められる、稀有ともいえる能力の持ち主らしい。私は人形にしてもぬいぐるみにしても、見返りを求められない無垢な愛情をあるがままに受け止めたり、同じような愛情で返す自信がない。玉石を持たない、様々な物質により構成された人や動物の擬態を愛せるかどうか。今回、球体関節人形を知っていろいろ調べた結果、新しく作られてしまった私への課題なのか。まずは棚に放置されっぱなしの、ひとり暮らしの頃に購入したピクルス・フロッグを洗濯して愛し直すことから始めてみよう。そうすることで私自身の心に何かしらの変化が生じるかもしれない。良い変化が生じるか、それとも非現実方向への変化が生じるかは今のところ全く解らない。

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