現在3月20日になったばかり。
9日付日記を書いた際に、ゲシュタルト知覚のない人にはどう見えるのか、という疑問を呈した。疑問を持ったからには調べずにいられない性分であり、いろいろと検索してみたところ驚くべき事実発覚。この日記のタイトルままに、ゲシュタルト崩壊、という言葉があった。そしてそれは誰にでも起こりうる現象であることを知った。例えば、あ、という文字をじーっと眺めてみる。暫く眺めていると、本当に、あ、ってこんな形の文字だっけ? という感覚に陥る。これをゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい。50%の確率で人がゲシュタルト崩壊に至る迄の眺める時間は約25秒と書かれているサイトもあった。そんな短時間で、人間が持ち合わせている感覚が失われるものなのか。ゲシュタルトという単語は、統合・統一などの意味を持っており、心理学の領域らしい。実際にゲシュタルト崩壊の状態で絵を見るとどのように見えるかを画像で示しているサイトもあり、かなり参考になった。個人的に強いて言えば、ダリやピカソの一部の作品に通ずるところがあるのではないか、との所見。奇形を成した球体関節人形の姿こそが、ゲシュタルト崩壊の実現かもしれないと思った。人間の身体がいろいろなパーツで構成されているように、文字は直線と曲線で構成されている。成程。そう考えれば、ゲシュタルト崩壊は自然な現象で、想像していたよりも遥かに身近なものだ。私は子供の頃から、本に印刷された活字を眺めては、この字は本当にこんな形だったか、という疑問を持った。大概はそこから目を逸らし、軽く頭を振るとゲシュタルト知覚が復活したことを覚えている。大人になり、忙しくなり、崩壊した感覚を忘れていただけだったらしい。またこのようなゲシュタルト〜〜という単語を知らなかったことも一因だろう。内田春菊に「永遠の普通少女」という作品がある。その中で主人公は、からすって本当にからすだっけ? らかすとかすらかじゃなかったっけ? と呟く場面があった。これもゲシュタルト崩壊の一種なのだろうと思われる。
私は文章を書くことと同時に、文字そのものへの愛着がある。単語や文章になっていなくても、単純に文字を書くのが昔から好きだった。そんな私も小学生くらい迄だったか稀に、夜になると文字に脅かされていた。寝ようとして目を閉じる。視界が暗くなる。瞼の裏にひとつのひらがなが描かれ、そのひらがなが段々と大きくなって迫りくるのだ。夢の中の話ではなく、寝付く前の意識がある状態でである。瞼を閉じているときに限らず、遠近感を失って何かしらの対象物が迫りくる感覚があった。そしてその感覚は常に恐怖を伴っていた。ゲシュタルト崩壊について調べていたら、偶然にもこの感覚について書かれたサイトに会った。遠近感の消失などの錯視や時間感覚の狂いは、不思議の国のアリス症候群、と名付けられているようで、私だけが持っていた感覚でないことを知って安心した。というのも、ゲシュタルト崩壊について他者に話をしたときには同意を得られることが多くても、この不思議の国のアリス症候群と呼ばれる感覚について話して他者に同意してもらえたことがなかったのだ。恐怖を伴う感覚に共感を得られず恐怖感だけでなく孤独感にも襲われ、次第に私は不思議の国のアリス症候群の現象について他者に話をしなくなっていった。そしてずっと、私は何処かおかしいのだ、と思い悩んだものだ。昨日やっとこの孤独感から開放された。しかし疑問はまだ残る。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群は何故発生するのだろう。脳生理学の問題なのかな、とは思う。どうやら未だ科学的解明はなされていないらしい。
よくある話。例えば、赤、という色がある。色弱者などを除き果たして他者も自分と同じ、赤、に見えているのか。それともこの世の人間全員、持っている色彩感覚は別個のものなのか。大変に興味深いところであるけれども、どうやら検証は困難なようだ。ここ数日読んでいた日本で起きた有名な犯罪を時系列を追って、ときには犯人の養育歴も含めて書かれたサイトの中に、精神鑑定などに於いて絵を描かせ、その色使いによって精神的な諸々を考える検査の存在があった。紫を多用する子供の精神状態はなんちゃらかんちゃら。そこでこの疑問に立ち返る。紫を多用して絵を描いた子供にとって、紫はその絵を観た人と同じ紫に見えているのだろうか。色にはイメージがある、という通説がある。例えば暖色系なら暖かさをイメージし、寒色系なら冷たさを感じるとか。けれどもどんな色にもニュアンスはある。痛切な印象を与える暖色もあれば、穏やかな印象を与える寒色もある。ひと括りにしてしまうことに、私は強引な印象をもってしまう。皆がひとつの色に対して同じように見える、という前提なくしてこの診断は成り立たない筈だ。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群については簡単に否定してくる他者がいる。色についてはそのようなことは余りない。私の中では、知覚、という括りで擬似的存在なのだけれど違うのだろうか。前に立ち読みした本に、数字や文字や単語に色がついて見える人の話が書かれていた。ノンフィクションだ。生まれ持っての性質であるらしい。この感覚を持つ者は極少数で、またこの感覚を持っていながらにしても文字通り十人十色の着色がなされているとのこと。それを思い出すと、やはり、知覚、として上記感覚は切り離せないように思う。極一部なら無視していいということはない筈で、極一部だからこそ重視すべき点ではなかろうか。
ゲシュタルト崩壊に話を戻す。手をじっと見つめているとパーツが浮き上がって見えてきて怖いというような話を以前書いた。この怖さの理由は長年解らなかったけれど、ゲシュタルト崩壊、という単語を知ったことで理解できるようになった気がする。以前は、ゲシュタルト知覚のない人、という書き方をした。これはこの単語を知らなかったからだ。ゲシュタルトの意味を知り、ゲシュタルトに知覚・崩壊という言葉をつけて意味を成す。近くはともかく、崩壊、という単語は怖い。崩れた上に壊れるのだから怖くない筈がない。いや、中には平気な人もいるのかもしれないけれど、少なくとも私には恐怖だ。ゲシュタルト崩壊は、自分の知覚にへの自信喪失を招く。百聞は一見にしかず、という言葉がある。意味は解説する迄もないだろう。そして私はこの言葉を半分程信用している。半分なのは、目で見たものが全てではない、と思っているからだ。この信用度は幼少期のゲシュタルト崩壊の頻発や不思議の国のアリス症候群の兆しに繋がると思うのだが、どうだろう。識者に聞いてみたいところだが、その識者が実際に私と同じような知覚の狂いを経験しておらず、机上の知識のみで話をするとなると必ずやズレが生じてくると思われる。またこのような知覚の狂いとて、先に挙げた文字や単語に色を見出す人々と同じく、皆が私と同じ様式で知覚の狂いを認識しているとは限らない。下手をすると謎が謎を呼んで余計に困惑するかもしれない。この問題に出口はあるのか。私はその、あるかもしれない出口、に是非とも出会いたいと願っている。
9日付日記を書いた際に、ゲシュタルト知覚のない人にはどう見えるのか、という疑問を呈した。疑問を持ったからには調べずにいられない性分であり、いろいろと検索してみたところ驚くべき事実発覚。この日記のタイトルままに、ゲシュタルト崩壊、という言葉があった。そしてそれは誰にでも起こりうる現象であることを知った。例えば、あ、という文字をじーっと眺めてみる。暫く眺めていると、本当に、あ、ってこんな形の文字だっけ? という感覚に陥る。これをゲシュタルト崩壊と呼ぶらしい。50%の確率で人がゲシュタルト崩壊に至る迄の眺める時間は約25秒と書かれているサイトもあった。そんな短時間で、人間が持ち合わせている感覚が失われるものなのか。ゲシュタルトという単語は、統合・統一などの意味を持っており、心理学の領域らしい。実際にゲシュタルト崩壊の状態で絵を見るとどのように見えるかを画像で示しているサイトもあり、かなり参考になった。個人的に強いて言えば、ダリやピカソの一部の作品に通ずるところがあるのではないか、との所見。奇形を成した球体関節人形の姿こそが、ゲシュタルト崩壊の実現かもしれないと思った。人間の身体がいろいろなパーツで構成されているように、文字は直線と曲線で構成されている。成程。そう考えれば、ゲシュタルト崩壊は自然な現象で、想像していたよりも遥かに身近なものだ。私は子供の頃から、本に印刷された活字を眺めては、この字は本当にこんな形だったか、という疑問を持った。大概はそこから目を逸らし、軽く頭を振るとゲシュタルト知覚が復活したことを覚えている。大人になり、忙しくなり、崩壊した感覚を忘れていただけだったらしい。またこのようなゲシュタルト〜〜という単語を知らなかったことも一因だろう。内田春菊に「永遠の普通少女」という作品がある。その中で主人公は、からすって本当にからすだっけ? らかすとかすらかじゃなかったっけ? と呟く場面があった。これもゲシュタルト崩壊の一種なのだろうと思われる。
私は文章を書くことと同時に、文字そのものへの愛着がある。単語や文章になっていなくても、単純に文字を書くのが昔から好きだった。そんな私も小学生くらい迄だったか稀に、夜になると文字に脅かされていた。寝ようとして目を閉じる。視界が暗くなる。瞼の裏にひとつのひらがなが描かれ、そのひらがなが段々と大きくなって迫りくるのだ。夢の中の話ではなく、寝付く前の意識がある状態でである。瞼を閉じているときに限らず、遠近感を失って何かしらの対象物が迫りくる感覚があった。そしてその感覚は常に恐怖を伴っていた。ゲシュタルト崩壊について調べていたら、偶然にもこの感覚について書かれたサイトに会った。遠近感の消失などの錯視や時間感覚の狂いは、不思議の国のアリス症候群、と名付けられているようで、私だけが持っていた感覚でないことを知って安心した。というのも、ゲシュタルト崩壊について他者に話をしたときには同意を得られることが多くても、この不思議の国のアリス症候群と呼ばれる感覚について話して他者に同意してもらえたことがなかったのだ。恐怖を伴う感覚に共感を得られず恐怖感だけでなく孤独感にも襲われ、次第に私は不思議の国のアリス症候群の現象について他者に話をしなくなっていった。そしてずっと、私は何処かおかしいのだ、と思い悩んだものだ。昨日やっとこの孤独感から開放された。しかし疑問はまだ残る。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群は何故発生するのだろう。脳生理学の問題なのかな、とは思う。どうやら未だ科学的解明はなされていないらしい。
よくある話。例えば、赤、という色がある。色弱者などを除き果たして他者も自分と同じ、赤、に見えているのか。それともこの世の人間全員、持っている色彩感覚は別個のものなのか。大変に興味深いところであるけれども、どうやら検証は困難なようだ。ここ数日読んでいた日本で起きた有名な犯罪を時系列を追って、ときには犯人の養育歴も含めて書かれたサイトの中に、精神鑑定などに於いて絵を描かせ、その色使いによって精神的な諸々を考える検査の存在があった。紫を多用する子供の精神状態はなんちゃらかんちゃら。そこでこの疑問に立ち返る。紫を多用して絵を描いた子供にとって、紫はその絵を観た人と同じ紫に見えているのだろうか。色にはイメージがある、という通説がある。例えば暖色系なら暖かさをイメージし、寒色系なら冷たさを感じるとか。けれどもどんな色にもニュアンスはある。痛切な印象を与える暖色もあれば、穏やかな印象を与える寒色もある。ひと括りにしてしまうことに、私は強引な印象をもってしまう。皆がひとつの色に対して同じように見える、という前提なくしてこの診断は成り立たない筈だ。ゲシュタルト崩壊や不思議の国のアリス症候群については簡単に否定してくる他者がいる。色についてはそのようなことは余りない。私の中では、知覚、という括りで擬似的存在なのだけれど違うのだろうか。前に立ち読みした本に、数字や文字や単語に色がついて見える人の話が書かれていた。ノンフィクションだ。生まれ持っての性質であるらしい。この感覚を持つ者は極少数で、またこの感覚を持っていながらにしても文字通り十人十色の着色がなされているとのこと。それを思い出すと、やはり、知覚、として上記感覚は切り離せないように思う。極一部なら無視していいということはない筈で、極一部だからこそ重視すべき点ではなかろうか。
ゲシュタルト崩壊に話を戻す。手をじっと見つめているとパーツが浮き上がって見えてきて怖いというような話を以前書いた。この怖さの理由は長年解らなかったけれど、ゲシュタルト崩壊、という単語を知ったことで理解できるようになった気がする。以前は、ゲシュタルト知覚のない人、という書き方をした。これはこの単語を知らなかったからだ。ゲシュタルトの意味を知り、ゲシュタルトに知覚・崩壊という言葉をつけて意味を成す。近くはともかく、崩壊、という単語は怖い。崩れた上に壊れるのだから怖くない筈がない。いや、中には平気な人もいるのかもしれないけれど、少なくとも私には恐怖だ。ゲシュタルト崩壊は、自分の知覚にへの自信喪失を招く。百聞は一見にしかず、という言葉がある。意味は解説する迄もないだろう。そして私はこの言葉を半分程信用している。半分なのは、目で見たものが全てではない、と思っているからだ。この信用度は幼少期のゲシュタルト崩壊の頻発や不思議の国のアリス症候群の兆しに繋がると思うのだが、どうだろう。識者に聞いてみたいところだが、その識者が実際に私と同じような知覚の狂いを経験しておらず、机上の知識のみで話をするとなると必ずやズレが生じてくると思われる。またこのような知覚の狂いとて、先に挙げた文字や単語に色を見出す人々と同じく、皆が私と同じ様式で知覚の狂いを認識しているとは限らない。下手をすると謎が謎を呼んで余計に困惑するかもしれない。この問題に出口はあるのか。私はその、あるかもしれない出口、に是非とも出会いたいと願っている。
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