現在3月17日。

 壁などのシミが人の顔を象っているように見える。勝手に脳の中でシミを目や鼻や口に見立ててしまう。これがゲシュタルト知覚だ。人形の実物や写真を眺めているうちに私は、何故これらがヒトに見えるのか、と考えた。人形の素材は磁器であり硝子であり、その他諸々いろいろな素材だ。頭の中では、人間を模して作られた物なのだから人間に見えて当然、とも思う。けれど、ふと思いついた。もしかして人形という物は、ヒトの持つゲシュタルト知覚を利用している物ではなかろうか。何故硝子が瞳に見えるのかというと、ヒトの顔の目に位置するところにその硝子が嵌め込まれているからだ。これは「・_・」の「・」が目に見えてしまうことや「_」が口に見えてしまうこととどう違うのだろう。「・」に該当するところに硝子が嵌め込まれている。硝子の放つ光や存在感が、より目のように見えてしまう。もしかしてそれだけのことではなかろうか。例えば、一体の人形の中で普段は目に使う硝子が、他の場所に瞼のような物も作らずに嵌め込まれていたとする。果たしてヒトはその硝子を見て、ここにも目がついている、と瞬時に理解できるか。できないのではなかろうか。こんな私の考えが、人形とゲシュタルト知覚を結びつけた。関節球体人形は、基本的にその球体である関節を外してバラバラにできる。例えば、膝の関節と足首の関節を解体する。残るのは脛と脹脛を模した磁器なりなんなりの微妙な曲線で作られた物体だ。この物体がころんとその辺に転がされていたとする。それをすぐに脚だと思えるか。私は、思えないような気がする。傍に他の人形を構成する足首からしたや腕や顔などの部品があり、そこでやっと、これは脚を構成する部品ではなかろうか、という発想に結びつくのではないかと思う。壁に「・」というシミがひとつだけあったとして、これを目だと思う人はまずいなかろう。それと同義だと考えたのだ。

 様々な物質を捏ね繰り回して接続して、人形は作られる。球体関節人形から少し離れる。粘土を用いてヒトを作るとしよう。手元にあるのは一塊の粘土だ。この粘土にヒトを見出す人はまずいまい。それが作者の手で粘土が千切られ、捏ねて伸ばされ、徐々に人間らしき形になってゆく。その様は粘土の塊から手足が生えて首が乗せられたかのように見え、更に手を加えていくとヒトに見えてくる。それでも元は粘土でしかない。意図的にヒトの持つゲシュタルト知覚を刺激し、ゲシュタルト知覚を利用して人形に見せること。こんな人為的作業が人形の基本ではなかろうか。絵画でも同じである。この日記で尤も表しやすいのは上記のようなアスキーアートと呼ばれる記号で以ってヒトに見せかける物だと思うので、それを利用しつつ考えたい。(・・)←これは()が輪郭であり、・・が目に見えるだろう。しかし今バラしたように、実態は()であり・・でしかない。それでもヒトに見えるのは、人間がよく目にする人間の顔に(・・)が似ているように見えるという、認知に頼ったものだからだ。その精巧な物が人形ではなかろうか、というのが私の仮説である。私の仮説、と書いたけれどもしかしたら他にも同じことを考えたり、とうの昔にこの説を立証している人もいるかもしれない。けれどその手の話を見聞きしたことはないので、私の仮説(仮)としておく。

 人形に魅入られ、それはもう寝ても覚めてもいろんなことを考えた。何故人形に魅入られるのか。美しい物はこの世に沢山ある。そこらに咲く花も美しいし、夜空に浮かぶ月も美しい。けれど私はそれらに魅入られはしない。人形の美しさは、私の中では格別の輝きを持っている。ヒトが最も美しく感じる顔は、左右対称の顔だという。だからだろうか。花や月は見える限り、左右対象ではない。精巧な人形は、左右対称であることが多い。しかしこれでは納得しかねる。ベルメールを始めとする左右対象ではない人形にも惹かれてしまう理由と矛盾するからだ。左右対称ではなくとも美しい物は存在する。これは確実に言えることだろう。球体関節人形展のコピー、人は何故自分の似姿を作りたがるのか。人間にとって、やはり人間の姿というものは格別なのか。四谷シモンが面白いことを言っていた。概要。初心者に人形を作らせると、まず自分の顔や姿に似た物を作る。この世の誰もが自分の顔や姿に満足している筈はない。それは化粧や整形、ファッションにこうも人の興味が集まることの理由にならないからだ。自分の不足を補いたくて、人はこれらに興味を持つ。自分に似た人形を作った人の作品を見たことはないけれど、恐らくかなりの美化をされているであろうことは予想ができる。美化をした上で、自分の特徴、自覚できる長所や自分でも好きな自分の特徴を盛り込んで人形を作るものと思われる。これもゲシュタルト知覚の利用ではなかろうか。まず作成者が五体満足であることを前提とする。そして五体満足の人形を作成する。ここで基本は外れなくなる。生まれたばかりの赤ん坊を見て、親や祖父母が猿同然の子供を見て、ここが自分に似ている、ここは誰それに似ている、という会話を交わすことは珍しくない。それは、見ようによってはそう見える、の粋をまず出ない。ここにひとつのヒントがある気がする。

 ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間も、必ずやいると思われる。そういう人間に、人形はどう見えるのか。これが今の私の一番興味深い点である。壁のシミはただのシミとしか認識できないだろう。だけれど、明らかにヒトを模した人形は? ヒトを模していてもいろんな物質の集大成である人形。意図的に人の顔を模した訳ではないシミと意図的にヒトを模した人形。どう違うのか。この人為的行動が、ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にどう映るのか。生憎、私の身近にゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間はいないので答えは解らない。そんな人間に出会えば、私のこの疑問は速やかに解決されるように思われる。ゲシュタルト知覚に頼らずとも人形は人形としての存在が認められるのか。ゲシュタルト知覚を持ち合わせていない人間にも人形は作れるのか。気になって仕方がない。

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