未見映画「イノセンス」から球体関節人形へ
2004年3月7日 本・映画・音楽など 現在10日日中。
7日、うちのが押井守監督最新作「イノセンス」を観てきた。私も誘われたけれど、前作「甲殻機動隊」の内容をすっかり忘れてしまっていた為に辞退。帰宅したうちのは延々と映画の感想を述べていた。この感想がどうにもおかしい。評価が二転三転する。例えば映像はいい、ストーリーはイマイチというような評価変動なら解る。けれど違う。ひとつの要素に対する感想が二転三転するのだ。100人が観れば100通りの感想や解釈や意見が出るだろう。うちのはひとりしかいないのに、10人20人から感想を聞いているような、それくらいに様々な感想が述べられたのだ。これはおかしい。うちのは過去の職歴からして映画を観ることには慣れており、観方も決して下手ではない。むしろ1本のフィルムに対して1度できちんと纏まった感想を述べるだけの能力に長けている。なのにまるで人格がめくるめく入れ替わっているかのような、多様な意見が述べられるのだ。聞いているこちらは戸惑う。さっき言っていたことと今言ったことが違う。何が言いたいのかよく解らない。本人は私がそう指摘する迄、自分の述べていることが矛盾を孕んでいるとは思っていなかったようだ。この日うちのは映画館の他、2箇所に立ち寄ったらしいが、それらの箇所についての感想などは殆ど会話に出てこない。ずーっと映画について話している。これで興味を持つなという方に無理がある。うちのが、もう1度観る、と言うのでそのときに私も同行することにした。
私は映画にしても本にしても、先に粗筋やオチを知ってしまうことに全く抵抗がないので、某巨大掲示板やオフィシャル・サイトなどでできる限りの情報収集をし始めた。十人十色の意見が渦巻く中、映画のモチーフのひとつに惹かれた。人形。球体関節人形。起源を探る。現状を見る。引き込まれる。持っていかれた。手当たり次第に現在の日本の人形師のサイトを覗いた。作られた人形が写真として掲載されている。この数日で何十、何百体の人形の写真を見たことか。その中の一握りに私は持っていかれた。時の概念は消え失せ、心身が分離する。錯覚。人形の中に私の心が宿る。倒錯。一握りの、私を持っていく人形、とそうでない人形の違いは何か。或る人形師曰く、人形は人の鏡。或る人形師曰く、人は何故か自分に似た人形を作る傾向がある。私を持っていく人形は私を映しているのか。私を持っていく人形は私に似ているのか。否、だと思う。精巧で脆くて頑固な人形たちが私を映しているとは思えないし、言う迄もなく私は人形のように美しくはない。持っていかれる、この感覚を他の言葉に置き換えるならば、吸い込まれる、が近そうだ。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な例えがある。私を持っていく人形たちは決して私を吸い込みそうな瞳をしてはいない。逆に私を拒絶しているように思う。人形に拒絶された私は、何故自分が拒絶しているか解らない。人形は私を拒絶している理由を語ってはくれない。拒絶しているのか受容しているのか、その真相も教えてはくれない。人形の真意が知りたくて目を逸らせなくなる。果たして人形に真意はあるのか。それも解らない。真意……私を持っていく人形のどれもに魂が宿っているように思うのかと言われると、胸を張って違うと言える。人形とは物質の集合体として作られた物体だから魂などの存在する余地はない。人形師は、人形は人形でありそれ以上でも以下でもない、と言う。その通りなのだろう。けれど、でも。人形って何? 球体関節人形の存在意義は? 人形の持つ存在感は? 何故、一部の人形が私を、持っていく?
昨日、うちのが文化村で開催されていた球体関節人形の写真展を観てきた。私の、持っていかれる、の感覚が解ってもらえたらしい。その写真展で、球体関節人形展のチラシをもらって持って帰ってきてくれた。そこにヒントがあった。チラシに掲載されている人形の写真は9点。表の1点は別として、裏に並んだ8点に話を絞る。この8点中、私を持っていったのは1点。下段右から2番目にある三輪輝子氏が作った「萌香」。他の7点との違いを考えた。「木枠で出来た少女」は首から下が人間として虚構である。「Fujita doll」は人間としては奇形。「鍵穴」は首から上と腕がないことでやはり虚構。「少女」は縫い目らしきものが見える点でやはり虚構。「Twins’ paradox」も人形師のサイトで先に全体像を観ていた為に虚構。「りんね」は人間というよりも天使を連想させる点でヒトガタから外れる。「人形」は人体解剖模型を虚構に昇華した作品。「萌香」は写真からは人形の、虚構の匂いがしない。更に微笑をたたえている。人間の表情の中で最も他者に感情を読まれない表情は微笑である。他の顔を持つ人形の表情からは、それが正解かどうかは別として、人形の考えに想像が及ぶ。「萌香」だけが何を考えているのか想像できない。何を考えているのか知りたい。理解したい。危険思想かもしれないけれど、彼女の生い立ち、成長の過程迄知りたい。人形だから成長もへったくれもないのに。
日本で球体関節人形が発展するにあたり、ハンス・ベルメールの影響は切り離せない。うちのが「イノセンス」を観てきた日に、球体関節人形展に誘われた。そこに四谷シモンの名があったので行こうと思った。その時点で唯一知っていた人形師の名前が四谷シモンだったという理由以外にはない。元々私は人形が好きではないのだ。怖いから。どうして恐怖や畏怖を感じるのか、自分でも解らない。ただ、私以外にも人形を怖いと思う人は少なくはないらしい。人間の本能のようなものなのだろうか。ならば人形を作ったり愛でたりする人は本能が壊れているのか。答えはきっと、こんな浅はかな考えとは乖離していると思う。そもそも人間とは何なのか。人形を作るのは人間だけである。別の生き物が自らの姿に似せたものを作るなどという話は聞いたことがない。人間だけに許された技術なのか。それとも人間だけが許されざる行為をしているのか。許す・許さないって、誰が? 騙し絵で行けども行けども上り若しくは下りの階段を描いた作品がある。そんな中に今の私はある。
BGM/アルバム「修羅囃子」
7日、うちのが押井守監督最新作「イノセンス」を観てきた。私も誘われたけれど、前作「甲殻機動隊」の内容をすっかり忘れてしまっていた為に辞退。帰宅したうちのは延々と映画の感想を述べていた。この感想がどうにもおかしい。評価が二転三転する。例えば映像はいい、ストーリーはイマイチというような評価変動なら解る。けれど違う。ひとつの要素に対する感想が二転三転するのだ。100人が観れば100通りの感想や解釈や意見が出るだろう。うちのはひとりしかいないのに、10人20人から感想を聞いているような、それくらいに様々な感想が述べられたのだ。これはおかしい。うちのは過去の職歴からして映画を観ることには慣れており、観方も決して下手ではない。むしろ1本のフィルムに対して1度できちんと纏まった感想を述べるだけの能力に長けている。なのにまるで人格がめくるめく入れ替わっているかのような、多様な意見が述べられるのだ。聞いているこちらは戸惑う。さっき言っていたことと今言ったことが違う。何が言いたいのかよく解らない。本人は私がそう指摘する迄、自分の述べていることが矛盾を孕んでいるとは思っていなかったようだ。この日うちのは映画館の他、2箇所に立ち寄ったらしいが、それらの箇所についての感想などは殆ど会話に出てこない。ずーっと映画について話している。これで興味を持つなという方に無理がある。うちのが、もう1度観る、と言うのでそのときに私も同行することにした。
私は映画にしても本にしても、先に粗筋やオチを知ってしまうことに全く抵抗がないので、某巨大掲示板やオフィシャル・サイトなどでできる限りの情報収集をし始めた。十人十色の意見が渦巻く中、映画のモチーフのひとつに惹かれた。人形。球体関節人形。起源を探る。現状を見る。引き込まれる。持っていかれた。手当たり次第に現在の日本の人形師のサイトを覗いた。作られた人形が写真として掲載されている。この数日で何十、何百体の人形の写真を見たことか。その中の一握りに私は持っていかれた。時の概念は消え失せ、心身が分離する。錯覚。人形の中に私の心が宿る。倒錯。一握りの、私を持っていく人形、とそうでない人形の違いは何か。或る人形師曰く、人形は人の鏡。或る人形師曰く、人は何故か自分に似た人形を作る傾向がある。私を持っていく人形は私を映しているのか。私を持っていく人形は私に似ているのか。否、だと思う。精巧で脆くて頑固な人形たちが私を映しているとは思えないし、言う迄もなく私は人形のように美しくはない。持っていかれる、この感覚を他の言葉に置き換えるならば、吸い込まれる、が近そうだ。吸い込まれそうな瞳、という陳腐な例えがある。私を持っていく人形たちは決して私を吸い込みそうな瞳をしてはいない。逆に私を拒絶しているように思う。人形に拒絶された私は、何故自分が拒絶しているか解らない。人形は私を拒絶している理由を語ってはくれない。拒絶しているのか受容しているのか、その真相も教えてはくれない。人形の真意が知りたくて目を逸らせなくなる。果たして人形に真意はあるのか。それも解らない。真意……私を持っていく人形のどれもに魂が宿っているように思うのかと言われると、胸を張って違うと言える。人形とは物質の集合体として作られた物体だから魂などの存在する余地はない。人形師は、人形は人形でありそれ以上でも以下でもない、と言う。その通りなのだろう。けれど、でも。人形って何? 球体関節人形の存在意義は? 人形の持つ存在感は? 何故、一部の人形が私を、持っていく?
昨日、うちのが文化村で開催されていた球体関節人形の写真展を観てきた。私の、持っていかれる、の感覚が解ってもらえたらしい。その写真展で、球体関節人形展のチラシをもらって持って帰ってきてくれた。そこにヒントがあった。チラシに掲載されている人形の写真は9点。表の1点は別として、裏に並んだ8点に話を絞る。この8点中、私を持っていったのは1点。下段右から2番目にある三輪輝子氏が作った「萌香」。他の7点との違いを考えた。「木枠で出来た少女」は首から下が人間として虚構である。「Fujita doll」は人間としては奇形。「鍵穴」は首から上と腕がないことでやはり虚構。「少女」は縫い目らしきものが見える点でやはり虚構。「Twins’ paradox」も人形師のサイトで先に全体像を観ていた為に虚構。「りんね」は人間というよりも天使を連想させる点でヒトガタから外れる。「人形」は人体解剖模型を虚構に昇華した作品。「萌香」は写真からは人形の、虚構の匂いがしない。更に微笑をたたえている。人間の表情の中で最も他者に感情を読まれない表情は微笑である。他の顔を持つ人形の表情からは、それが正解かどうかは別として、人形の考えに想像が及ぶ。「萌香」だけが何を考えているのか想像できない。何を考えているのか知りたい。理解したい。危険思想かもしれないけれど、彼女の生い立ち、成長の過程迄知りたい。人形だから成長もへったくれもないのに。
日本で球体関節人形が発展するにあたり、ハンス・ベルメールの影響は切り離せない。うちのが「イノセンス」を観てきた日に、球体関節人形展に誘われた。そこに四谷シモンの名があったので行こうと思った。その時点で唯一知っていた人形師の名前が四谷シモンだったという理由以外にはない。元々私は人形が好きではないのだ。怖いから。どうして恐怖や畏怖を感じるのか、自分でも解らない。ただ、私以外にも人形を怖いと思う人は少なくはないらしい。人間の本能のようなものなのだろうか。ならば人形を作ったり愛でたりする人は本能が壊れているのか。答えはきっと、こんな浅はかな考えとは乖離していると思う。そもそも人間とは何なのか。人形を作るのは人間だけである。別の生き物が自らの姿に似せたものを作るなどという話は聞いたことがない。人間だけに許された技術なのか。それとも人間だけが許されざる行為をしているのか。許す・許さないって、誰が? 騙し絵で行けども行けども上り若しくは下りの階段を描いた作品がある。そんな中に今の私はある。
BGM/アルバム「修羅囃子」
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