さっき迄、途中からだけれどTBSの特別報道番組「告白」を観ていた。被害者の方々にお悔やみを……という書き出しが無難だろう。けれど敢えてそこには触れずに書く。私が観始めたのは、林受刑囚が逮捕されて取調べを受けているシーンから。取調室・接見室・検察のセットの嘘臭さに失笑しつつ観ているうちに……嵌まり込んでいった。流石、平田満。役作りは完璧と言っていいのではないだろうか。少なくとも私の中では完璧。見始めた当初、何で受刑囚がドラマに出ているんだ? 出られないよな……外見が似ている役者を探してきたのか? と考えていたらうちのが、平田満じゃないの? と。ああ、よーく観ると確かに平田満だ。たまたま早く帰宅したうちのと夕飯を食べつつ観た。取調室、違うよねえ。調書の作り方も違うね。接見室であんな差し入れ方はないのに。嵌め窓もあんなじゃなかったね。あそこで手錠はかからないよね。あんなのただの電パチじゃん。などなどの現実とフィクションの違いを話しながら観ていて、少し経ってから会話がなくなり、もう少し経ってから箸が止まるようになり、もっと経って食べ終えて暫くした頃、私は泣き出した。平田満演ずる林受刑囚に激しく感情移入してしまった。彼の気持ちが解った。いや、実際には違うのかもしれないけれど手に取るように解る気になってしまったのだ。私は林受刑囚の(以下、林と記載)ような勤勉さ・才能・信仰はない。けれど或る種の人間の心の動きとして理解ができてしまった。気がした。

 林が留置所で泣き崩れるシーン。うちのの過去の諸々の当初、私も家で同じように泣いた。繰り返すが、私には信仰はない。信仰は崇拝かもしれない。崇拝の根っこは信用や信頼だと私は思う。林の場合はその対象がマツモトチヅオという、自称・最終解脱者だった。私の知る限り、私の周囲には厚い信仰心を持った者はいない。けれど皆、心から誰かしらを信用し信頼している。私はうちのを信用し信頼していた。その信用や信頼の拠所が白日の下で嘘っぱちだったと気付いてしまったときの、知らされたときのショック。心の表面に氷の幕のように張られた信用や信頼に皹が入り、割れ崩れ、下の沼にやっと目が向く。その沼に潜んでいるものは懐疑や裏切。沼の底には鏡があり、林の場合は信仰、私の場合は信用と信頼が完全にできていなかった自分の醜い姿が映る。信仰・信用・信頼の対象は既に沼の泥水に溶けかかり、醜い自分が余計に歪む。それを人は素直に受け入れられるか。溶けかかる対象に縋り付いて、醜く歪んだ自分の姿から目を逸らしたくはならないだろうか。私はなった。林もなったと思う。対象=偶像が溶けきるときに出てくる物は涙だ。本当に悲しいときは涙は出ない、と言う人もいる。確かにいるだろう。けれど、その悲しみに自分が投影され且つどうしても現実を受け容れざるを得なくなったとき、涙で偶像を洗い流す必要がある人間も確実に存在している。涙に明け暮れ、偶像を洗い流し、消し去り、自分の醜さを受け容れた上ででなければ、立ち上がれない。自分の偶像は自分の鏡。醜い自分を受け容れてから出なければ、偶像と対峙できない。涙には浄化作用もあるのだ。

 矛盾や間違いに気付いたら方向転換すべきだろう。目的地と反対方向に歩を進めていることを知りつつ、その道を進む者はまずいないと思う。けれどそれは目的地という確固として存在している土地の場合だ。土地ではなく、それが解脱を含めて想像・妄想だったら? 林は矛盾や間違いに気付きつつも犯罪に手を染めていった。それは信仰の偶像に縋り、解脱という呪縛に囚われていたからだろう。私には、私から見れば噴飯物……失礼、高尚な信仰はない。が、様々な物事に拘りがある。物凄く俗な次元に話を落とすことになるけれど、例えば入浴。頭では髪を洗うだけでもいい、お湯を浴びるだけでも何もしないにより遥かにマシと理解している。でもできない。新陳代謝機能がある限り決して可能ではないであろうけれど、完璧な入浴、というものが頭の中にできあがっていて、どうしても逆らえない。逆らって入浴しても、脳内完璧入浴が纏わりついて却って気分が悪くなる。フツーにニチジョー生活を送れている他者から見れば、噴飯物の実にくだらない拘りにしか思えないに違いないと自分でも思う。それでも脳内完璧入浴の呪縛は解けない。体臭の指摘などのトラウマもない私でもこの始末。いわんや、医師として患者の生命を救うことを信念として完璧を求めていた林をや。サリンを撒いたときの苦悩は想像を絶する。そして矛盾しているけれど想像はできてしまう。

 オウムに限らず宗教、特に新興宗教の信者を私は腹の中で嘲笑って生きてきた。プロテスタント系の学校に通いつつ、神の存在なんぞ信じない、というレポートも書いたことがある。キリスト教概論の授業は物理や基礎解析と同じくらい詰まらなかった。なのに今日、解ってしまった。この世の信仰心の厚い信者という者の存在と私は紙一重だ。名前だけ連ねているような幽霊部員ならぬ幽霊信者、ではなく、あくまで信仰心の厚い信者。私が林の立場だったら……胸の奥で逡巡しつつも、きっと、撒いた。胸の奥の、沼の底の、醜い自分との対峙を避ける為に。信用に、信頼に、信仰に、象徴に、偶像に縋りたい一心で、撒いた。撒いた後、林のように呪縛から解かれたかどうかは解らない。宗教に無関心な生き方をしてきて本当に良かった、と思えた数時間だった。受刑中の林は無期懲役だという。ということは、恐らく20年くらいで、残り10年程を塀の中で過ごして出てくるだろう。判決が下されたとき、死ぬことも許されないのですね、と言ったらしい。林が出てきて受け入れ先はあるのだろうか。あっても自決してしまうのではないだろうか。囚人の行く末をここ迄考えたのは初めてではないだろうか。だからといって自分が身元引受人に……と迄は言えない。一生に2度もそんな責任は負えない。偽善は嫌いな私が偽善かも知れないことを書くことは珍しい。医師免許は剥奪されたであろう、死んで詫びたい気持ちもまだ強かろう、それでもひっそりとでも林に生きて欲しい。誰にでも、過去に何があろうとも、何かしらできることはある筈。その、できること、の内容は解らないけれどある筈。絶対にある筈。私は死刑廃止論者ではないし、林を擁護するつもりもない。ただ、つまらない呪縛から逃れられない人間としてそんな藁を妄想し、どうにか生きているのだ。

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