現在、3月17日。

 ここ数日、私を虜にしていたのは、過去の凶悪事件を詳細に解説している幾つかのサイトだ。そんなサイトを覗くに至ったのはAの退院に起因する。この世の中で、凶悪と呼ばれる犯罪を起こしたのは何もAだけではなく、その他にも多くの人間がいろいろな犯罪を犯している。人は何故犯罪を犯すのか。その背景にあるものは。背景に納得できたからといっても、それら犯罪が許されるべきものではない。それでも知りたいと思ってしまう気持ちを、単なる好奇心と呼ばれても構わない。私は犯罪心理学に詳しくない。また精神鑑定を盲信できないことは知っている。私がサイトで知った・覗いた事件の数々は私の身近で起きたものではない。それでも時折、私自身の現住所近辺の地名や卒業校の名称が出てきて驚いた。その驚きは、他人事ではない、という気持ちの芽生えである。毎日様々な事件がテレビや新聞を賑わす。それからを見聞きし、怖いなあと思いつつも、どこかで遠くの出来事と考えてしまっている人間も多いと思われる。その心の動きには、平安な日常への保身や精神の均衡を図ろうという無意識が働いているのではないだろうか。遠くの出来事と思わなければやっていけない。それは解る。しかしそこに全てを終結させてしまっては何の発展もない。情報過多の世の中で、あらゆる事件の始終を把握することは不可能とも言えよう。全ての記事に目を通すことは不可能だし、もっと言えば報道そのものが事実を伝えているとも限らない。知ること・考えることこそが自己防衛の第一だと私は考える。

 事件の背景には様々な物事が隠れている。家族との繋がり、学問や思想に基づくもの、痴情の縺れ、金銭問題……。昭和初期から最近の事件迄をざっと見て、私が最も気になったのはやはり家族の在り方である。徹底した放任も良くない、過干渉も良くない。適切な親子関係を築く為に、努力すべきは子供を育てる大人だ。私が読んだ事件の数々で親子関係の歪みに起因するものの多くに、希薄な存在の父親が目立った。だからといって父権復活を単純に望めはしない。父権の振りかざしによる犯罪もある。どのような家庭が理想なのか、は一概には言えまい。ただ言えるとすれば、その子供個人にとって健全と感じられる家庭こそがその子供を健全に育むのではないか、ということだ。子供の素質も性格も様々であり、それらに目を向けずして、これこそが理想的な家庭、と言えるものはない筈だ。子供の個性などを家族が見極める必要がある。もっと言えば、見極められない保護者に良い家庭が築けることはない。保護者の丁寧な子供の観察、それに基づく接し方。このふたつが揃えば、多くの子供は健全に育ち、その末に健全な大人になると思われる。機能不全家族と思われる家庭で育った犯罪者が余りにも多く感じた。勿論、機能不全家族で育った子供の全てが犯罪を犯すことはない。犯罪を起こすには、きっかけがある筈だ。そんなきっかけに触れないように子供を育てることが、家族の大切な役割とは言えまいか。

 精神鑑定を読んで気になった言葉がある。犯罪気質または犯罪病質。これらは得てして生まれ持った物と思われる。心理学や病理学に疎い人間の方がこの世には多いと思われる。それらの大人が犯罪気質・犯罪病質を子供の中に発見できるか。まず難しかろう。そこには、子供に対して客観視できない親などの多さがある。子供に対して欲目を持ち認められない場合もあれば、子供に対して興味を失い気質や病質に気付いても放置してしまうことがある。そんなこんなで、これら気質や病質は芽を出し、悪の花を咲かせる。と、されている。けれど果たして、これら気質や病質は本当に生まれ持ったものばかりなのだろうか。環境により発生し、環境により芽を出し花を咲かせてはいないだろうか。そして私が思うこと。全ての大人に大切なのは、子供に理性を植え付けることではなかろうか。用意周到であれ突発的であれ犯罪を犯す者は皆、理性に欠けていると私は思った。極論だけれどその理性が、人を殺してはいけない・人の物を盗んではいけない、と理詰めで教えられるものではなくても良いと思う。憲法や法律を持ち出さずして殺人を否定でき、他者を納得させられるだけの説得力を持つ人は実は少ない。ならば。人を殺すと・人の物を盗むと捕まって貴方の人生に汚点が残るからやめましょう。こんな教え方でも良いではないか。全ての人間が所謂、良心、を持ち合わせているとは限らない。自己利益の為に犯罪を起こさないという人間も少なからずいる。それでもいい。どんな理由付けでもいいから、犯罪を起こさせないだけの理性、を身につけさせるのが先決だ。例え後者のように教えられても、いずれ良心の下に犯罪への否定心を持てるようになるかもしれない。要はコトを起こさせないようにするべきである。

 いろいろな犯罪に触れ、心に残ったのは津山30人殺人事件と三菱銀行のソドムの市。共に、いやその他の犯罪でも気になったのは、残虐さだけでなく犯罪者の心には自己愛の歪みが見られることだ。自己肯定の薄さも気になった。犯罪で以って歪んだ自己肯定を実現させる。犯罪で以って歪んだ自己愛の解決法を探す。不幸である。同情はしない。それでも不幸だ。このふたつの事件の背景には、育てる大人の威厳や愛情の注ぎ方の歪みが見えた。人を育てるのは保護者だけではない。しかし三つ子の魂百迄。幼少期の原体験ともいえる家庭内の環境は、決して無視できるものではない。もうひとつ、気になった事件はロボトミー殺人事件。これは或る事件で捕まった犯人がロボトミー手術を強引に施され、後にその手術の失敗を恨み医師を殺害しようとして医師の家族を殺害した事件。これは時代の不幸とも言えよう。何故この事件が私の琴線に触れたのか。それは私が日々服用している薬が一部で、飲むロボトミー、と揶揄されているからである。この先、私が主治医を恨んで殺害するだろうか。殺害は絶対にしない。けれどまだ新薬の部類に入る故、今後明らかな副作用に悩まされて主治医を恨んでしまう可能性は無きにしも非ず。平山事件の鑑定書の疑問も含め、医療と犯罪の因果関係立証は困難であろう。平山事件は冤罪説濃厚なのでここでは敢えて避けて書くとして、ロボトミー殺人事件は我がことのように気になった。医療事故とはまた違う、医療の進歩と犯罪という点で私には避けて通れない、考えるべき事件と言える。

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