現在3月17日。

 少し前、この2冊を久々に読んだ。これ迄も何度も読んでいる2冊で、その時々の心理状態により感想が変わるという、私の中ではちょっと別格とも言える本である。著者は共に新井素子。「くますけと一緒に」を初めて読んだときは物凄い衝撃を受けた。以下、ネタバレ注意。子供の頃は盲信していた親。思春期になり外部から親子関係の違うあり方を知り、私は親への感情を持て余していた。そんな頃に出会った本だ。手に取ったのはタイトルが可愛かったから。読んでみて……泣いてしまった。そうか、親は嫌ってもいいんだ。親を嫌うことは罪ではないと教えてくれた、私を開眼させてくれた。なっちゃんがくますけと共に家出をする。親よりも好きな人がいること・その人に危害を与えたくないこと、そんな動機での家出。なっちゃんの気持ちはとてもよく解る。この本は親への呪縛に囚われた少女が開放される本だ。手にしてから何度も読んだ。その都度泣いた。泣くシーンは決まって、なっちゃんが親を嫌ってもいいことを信用できる大人に教えてもらうシーン。子供にとって、親の庇護下から逃れることは罪悪だと刷り込まれた子供にとって、この教えは禁忌を破るものであり、おいそれと鵜呑みにはできない。大人は、親は絶対に子供を愛する義務がある・子供は親を嫌う権利があると教える。親への気持ちをどうしていいか解らず……それは親からの呪縛に囚われていた私にとって、閉められたままの古びたカーテンが開き、きらきらとしたお日さまの光が挿すことを感じられるような描写で、私の呪縛も少し解かれた。親だから、育ててくれたからといって必ずしも親を愛する必要はない。勿論、無条件に親を愛せればそれに越したことはないけれど、努力して遠慮に遠慮を重ねて迄強引に親を愛さなければと自分に足枷をつける必要はなかったのだ。

 しかし親は子供に愛情を求める。ときには、私はこんなにも貴女を愛しているのに、といった愛情の押し付けで子供に同様の、またはそれ以上の愛情という見返りを求めてくる。私の親もこのタイプだった。育ててくれた恩・感謝と、親への愛情は別物なのだ。それに気付いていながらも私は、親は親から愛情を求められたときに逆らう術を知らなかった。語弊があるか。逆らう術を知っていつつも行動に移せなかった。私は親が与えてくる愛情は押し付けだと気付いており、親自身の自己愛を私に投影したものだとも気付いていた。親は、純粋な愛だ、と主張する。だから私は自身の気付きに自信が持てなかった。どうしていいか解らず、親を愛しているフリを続けてきた。そして……破綻した。愛することを自分に強いて、愛せない自分に後ろめたさとが付き纏い、様々な矛盾を孕んだまま大人になった私は、1年と少し前に心の病を発病した。愛情を求めてくる親へのもやもやした気持ちを外に発散させられず、心の中に押し込めに押し込んだ結果だ。なっちゃんには、親を愛さなくてもいいと教えてくれる大人がいた。これは、物語、だ。果たして世の中にこんな当たり前のことを教えてくれる大人はどれだけいるだろう。現実社会の中で、そんな大人に私は出会ったことがない。私には結婚式を挙げるつもりが更々ない。それは、母親の旦那としか思えない父親とヴァージンロードを歩くことへの抵抗と親への感謝の手紙なんか書けないという心情に基づく。よくある質問。崖から落ちた親と恋人がいてふたりが助けを求めている。さてあなたならどちらを助ける? この問いで、私は親を選んだことがただの一度もない。親は、選べないのだ。今回の再読で、私は泣かなかった。やっと、親は愛さなければならない存在、という足枷から開放されたのか。

 そして「おしまいの日」。ネタバレ注意。初読時、私は三津子の日記の表現方法のみが怖かった。再読し、印象が変わった。日記の表現方法は確かに怖い。けれど今回は、そういった視覚効果に基づく怖さとは別の怖さを感じた。三津子は春さんにべったりだ。春さん中心に三津子の日常は回る。春さんと直接関係しない日常は三津子にとっては煩わしいばかりであり、三津子はひたすら四六時中春さんのことだけを考えて生きていたいと願った。そして子供ができ……病んだ。彼女は、春さんの為に、という繕いで以って自身の依存心と彼への追い詰めに言い訳をする。登場人物全員が空回りをする物語。誰もが誰かのことを想い、対象の為に良かれ、と行動をするが、その行動はどれも対象を追い詰めていく。しかしどれひとつとして実を結ばない。けれど誰も悪くはない。悪人はひとりもいないのに全てが破綻に結びついてしまった。いろんな人に、おしまいの日、がやってくる。完璧なる悲劇。良かれと思って、という一個人の感情による行動が他者を追い詰めていくことは多い。そんな気持ちで私も他者を追い詰めてしまったことがある。他者に私が追い詰められてしまったこともある。誰も悪くないから、誰もが解決の糸口を見出せない。そして三津子は壊れた。私も、私以外の他者も、壊れる可能性を秘めている。

 新井素子の文体は軽い。だから、怖い。この2冊は同時期に書かれた作品であり、著者の中では対になっている作品だという。「くますけと一緒に」が元々は「開放の日」というタイトル候補だったことも後書で明らかにされている。なっちゃんは開放の日を迎え、三津子はおしまいの日を迎えた。なっちゃんが大人になり、三津子のような悲劇を迎えないとは限らない。この世で最も恐ろしいものは、愛情、なのか。適切ではない愛情を育んでしまう土壌に基準はないだろう。健全な精神の持ち主とて、いつ壊れるかは解らない。そもそも個々の持つその精神が健全であるなどと、誰が断言できようか。三津子だけでなく、なっちゃんを取り巻く環境にも、悪人はいなかった。それでも病んだ。個人の素質が悪いのか、環境が悪いのか。誰も答えられないと思う。ただ、歯車が噛み合わなくなってしまったのだ。こればかりは誰にもどうしようもない。噛み合わない歯車から逃れる為には、そこから身を引くことだけではないだろうか。そんな歯車の中に身を投じたままでは、誰もが壊れる可能性がある。それでも噛み合わないことに気付きつつ若しくは気付かないままで生活している人は多かろう。大切なのは、自身の気付き、だ。気付きなくして、状況は変えられない。気付くためのアンテナを張り巡らせ、気付いたときの拠所となる思想を持ち合わせることだけが対応策だろう。

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