ここ数ヶ月、毎日私の堪忍袋の緒を切ってくれる奴がいる。名前も顔も知らない。姿も見たことがない。それなのにもういっそ包丁を持って飛び出して刺してやろうかと思わせてくださるのだ。して、そいつの正体は……新聞配達屋。うちでは新聞を取ってはいない。そしてうちは小さなマンションの1階であり、居間兼寝室の枕元はマンション内の階段と壁1枚。奴がやってくるのは毎朝4時から4時半の間。多くの人は就寝中かと思われるが、私にとってこの時間帯はちょうど寝入り端なのだ。上の階だかその上の階だかの住人さんが新聞を取っているらしく、奴は毎朝階段をダンダンダンダンッ!!!! と駆け上り、ダダダダダダダダダッ!!!!! と駆け下りてくる。因みに階段の踊り場には大家さんが「階段の上り下りは静かに」とご丁寧に張り紙をしてくれている。眠剤が効き始めて、あ、そろそろ眠れそう……と思った頃にダンダンダンダンダンッ!!!! とくる。早朝新聞配達はしんどい仕事であろう。さっさと済ませたかろう。だからといって他人に迷惑をかけんなや! と声を大にして言いたい。数回耐えかねて、奴の足音が近づいてきたときに壁を叩いたこともあるが、これではDQN返しではないかと我が身を省みてやめた。他の住人さんにも迷惑だろうし。このマンションは壁が薄いのが問題なのか、とも思った。たまに昼寝時に上の階の住人の話し声や物音が壁を伝って聞こえてくることがある。最初は、お化けー! キャー!! と思った。莫迦だ。ただ怪談話がとことん苦手な者にとっては本当に恐怖だった。今は壁伝いに聞こえてくる生活音と認識できているので、それ程は気にならない。生活音はいいのだ。でも新聞配達屋の無神経な足音には殺意を覚える。

 その昔、ピアノ殺人事件だかなんだかと言われた事件があった。隣だか上階だか下階だかの住人のピアノの音に我慢できなくなり、遂にその音を出しているご近所さんを殺してしまった事件。今はヘッドフォンで外部への音を遮断して弾けるピアノもあるので同一事件は考え難い。もし起きたとしたら当時と同じく、やはり音を出している者の無神経さに問題があると私は捉えるだろう。自分では気にならない音でも他者にとっては気になるものであり、それが例え小さな音であっても迷惑だと感じる者にとっては騒音に感じられたりもする。その一例として、近所のマンション住人を挙げたい。どのマンションのどの部屋の住人かは特定できていないし特定しようとも思っていないけれど、新聞配達屋と同じくらいに私を苛立たせる奴がいる。奴の正体は子供だと思われる。この独断推定子供はバイオリンを弾く。決まって夕方。これがまた下手糞。こちらも数ヶ月続いているが上達の気配が見えない。弾く本人が楽しがっているのか、それとも親が我が家はおハイソですからボクチャンもバイオリンを嗜みますの、オホホホホとでも近隣に主張したいのかは知らない。知らないが、毎日うるせえなあ、と思っている私は勝手に後者だと決め付けている。上達の見込みがねえならやめさせちまえ! とその都度思う。仮に上達し、心穏やかになるような音が奏でられるようになったとしても私は煩く感じるだろう。強制的に聴かされる音楽は苦痛である。情操教育だかなんだか解らないが、近隣に迷惑をかけていることも気付かない親はやはり莫迦認定させていただきたい。どうしても続けさせたければ、音が聞こえる範囲の近隣全てに菓子折りくらい配って回れ、と。そのくらいの気遣いを見せろ、と。見せられたって腹が立つことには変わりないけれど。

 街中で小煩い餓鬼を多く見かける。ワーだのギャーだの奇声を発する餓鬼は家に収納しておけ、と半ば反射的に思う。それでも親がきちんと子供を叱っている姿が見えれば、まあ子供は騒ぐもんだしな、と思える。親に叱られて子供の奇声が収まれば逆に、いい親子だな、と思えたりもする。今日、銀行に出かけたときに通った歩道で餓鬼がうろちょろしていた。歩道の横幅いっぱいに行ったりきたり。蹴飛ばしてやりたい程に邪魔だった。父親は餓鬼がうろちょろしている傍に佇んでいた。見守っているつもりなのだろうか。阿呆め。私以外の通行人も迷惑していた。ジロッと父親と思しき男性を見ると、スミマセン、とどうにか聞き取れるくらいの声で謝ってきた。謝るならちゃんと大きな声で頭を下げつつ謝れ。いや、謝る前に餓鬼をうろちょろさせるな。言い聞かせられないのならリードと胴輪でもつけとけ。この父親と思しき奴の腹の中が想像できる。まあ子供のすることだから。99%正しい想像だと自負する。まあ子供のすることだから、と言ったり思ったりしていいのは迷惑をかけられた側の人間であり、かけている側の人間が言ったり思ったりすることではない。思い上がりも甚だしい。他人を怪我させても万引きしても、まあ子供のすることだから、で済ませそうである。こういう思考に則った子育てを受けた餓鬼は碌な大人にならないに違いない。どうにか淘汰されればいいのに。できれば、躾のできていない餓鬼や他人に迷惑をかけて平気な顔をしている大人の外出を行政で取り締まって欲しいと強く思う。実際にそんな措置が取られることはないとは理解している。ならば。せめて、親がきちんと躾している姿を他人にも認識させてくれ。放任と甘やかしの違いが解っていない勘違い人間が増産されている気がしてならない。

 と、つらつら書いていると私が物凄く神経質な人間のように思えてきた。読む人の一部には、思いやりのない人の文章、とも感じられるだろう。けれど周囲の仲のいい人間と話をすると、皆同様の意見を言う。表に出さないだけで腹の中で我慢している者が多くいるということだろう。確かに私は神経質な面を持っている。時と場合によっては神経過敏と自覚できるときもある。しかしそれが悪いとは思っていない。もう少し寛容さが必要かな、と思うことはあっても、無神経な奴よりも100000000000倍マシだと思う。特にここ1年程は小心になり、昔よりも堂々と正論であっても意見を言えなくなっている分、他人に疎まれることは減っている気がする。全く疎まれていないとは口が裂けても言えないが、確実に減っている筈。むしろ言いたいことも言えなくなっている故に神経過敏になっている部分もありそうだ。取り敢えず、何かしらに迷惑を感じている者≠神経質、寛容≠無神経、と纏めておく。

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