現在23日日中。
昨夜のうちのとの喧嘩。昨日は朝から夜迄、私は日がな1日寝ていた。起きたのは20時頃。深夜1時頃、いつ迄起きているんだ! 早く寝ろ! とうちのに怒られたのが発端。そのとき私はPCに向かっており、キーボードの傍に眠剤を用意していたので、寝る用意はしている、と答えた。いつ寝るんだ、と問われて、もうすぐ、と答えた。うちのは2時過ぎに布団に入った。そして、お前も寝ろ、と。私は眠剤が慣れてきていて投入してもすぐに眠くならない。1時半くらいに投入したけれど、睡魔が来るのは早くて後30分と見ていた。それから大喧嘩。ご近所さん、すまん。うちの曰く、寝る用意をしている=眠剤投入済み、と捉えていたらしい。私の中では、すぐに眠剤を投入できるように用意をしている=寝る用意をしている。根底の部分でズレが生じている。うちのは、寝る準備をしていると言われたら眠剤を入れていると思うだろ! と怒っていた。そんなこと言われても……。もうすぐと言われたら5分後10分後だと思うだろ! とも。は? 私の中では、すぐ=5〜15分後くらい、もうすぐ=1〜2時間後くらいなのだ。いろんな部分で各々の定義が違っていることが発覚。
うちのは怒るときに頭ごなしに大きな声で怒る。そして私の言うことを屁理屈だと一蹴する。思いたくないし言いたくないけれど、親の私への怒り方と似ている。叱る≠怒る。頭ごなしに怒られたり、自分の意見を屁理屈だと言われると何もする気がなくなる。どうせ何をしたって否定されるんだから……と自己嫌悪に陥り、PCや過剰な睡眠に逃避してしまう。うちのの大声に怯えつつ泣きながら意見を述べているうちに、お互いに少し落ち着いてきた。私の持病が発症して1年が過ぎた。当初からの目標は、朝起きて夜寝るというリズムを作ること。達成できていない。うちのはそのことに対し、私の努力が見えないから苛つく、と言っていた。そして、朝起きられないのは仕方がないとしても目覚まし時計をセットするなりの努力と夜になったら布団に入る習慣をつけろ、と。私の意見。努力しようという気持ちは見えないかもしれないが、常にある。目覚ましは何度か試したけれど気付かずに寝たまま1時間鳴りっぱなしにしてしまったことがあり近所迷惑を考えてやめた。寝る時間に対しては……うちのの寝る時間基準になっていることに抵抗がある、と答えた。反抗心が規則正しい生活をするという目標に勝っているのかと責められたけれど、正直な気持ちである。うちのが2時に寝るときは2時にそろそろ寝ろと言われ、3時に寝るときは3時にいい加減に寝ろと言われる。そのことに激しい抵抗があった。生活時間を相手基準にするように強いられているように感じられるのだ。うちのが言うには、一緒に暮らしていて片方が布団に入ったら自分も寝ようと思わないのか? 私には全く以ってそのような考えが浮かばない。ああ、うちのは寝るのか、のみである。この考え方がうちのには全く解せないらしい。今後は目覚まし時計をセットした上で布団の近くに置いて対処すること、自分で時間を決めていいからその決めた時間に従って布団に入ること、を約束した。約束する迄もなく寝ることに関してはいつもそのように考えていても、心と体が別行動をしてしまうのだが……。
すぐ・もうすぐの基準については、このような曖昧な表現を避けて具体的に何分後・何時間後とお互いに表現することを心掛けるようにということで収まった。私の中の、もうすぐ、の基準は異常らしい。もうすぐ=5〜15分後程度、が普通らしいのだ。ここでまた私の頭は?で埋まる。普通が解らない。一般的にとか、常識的にとか、その手の言葉と同じように私の辞書の中では影が薄い言葉であり、それらの言葉は自分を含めて大多数の人間の意見を自分の目で見て耳で聞いて平均化したものが、普通・一般・常識という言葉に還元される。けれど、うちのに限らずこの手の言葉は、考えなくても・聞く迄もなく解るだろ! という言葉らしい。解らない。このように言う人は、自分の中の定義=普通・一般・常識と思っている気配を感じる。何故、自分の定義や考えを普遍的な物と信じ込めるのか、全く解らない。
人を殺してはならない、物を盗んではならない。これらのことは常識として受け止められている。日本の法律が明文化されているからだ。また辞書に書いてある言葉の定義には従える。けれど曖昧な単語や曖昧な表現については本当に解らない。しかし自分の意見=普通・一般・常識となっている人からすれば、この、解らない、がもう屁理屈として聞こえるらしい。私にとっては八方塞である。身動きが取れず、かといってそのような意見を鵜呑みにはできず、混乱する。私が曖昧な表現や言葉について考えるのは、人それぞれの解釈、である。因って、私の中のもうすぐ=1〜2時間が、他者にとって5〜10分でも3〜5時間でも、ふーん、としか思わない。今回の喧嘩で、曖昧な表現は定義が違う者同士の間では諍いの原因となることを学んだ。ので、今後は具体的返答を心掛ける。それにしても。相手の定義が自分と違っているときに激昂する人はなんでこうも多いのだろう。何事にも、人それぞれという考えを基準にしている私の方がおかしいのか。自分と全く同じ思考回路や思想を持つ人なんていないと思う。だから、人それぞれ、と私は考える。特に曖昧な表現や言葉に関してはこのように捉えないと、無駄に怒りが発生するのではないだろうか。私にも自分の意見の中に、普通・一般・常識というものが全くない訳ではない。なくはないけれど、その自分の普通・常識・一般から外れた意見を持つ人に激昂はしない。そもそも激昂という感情表現は野蛮だと考えている。また私の経験則では、簡単に激昂する人程、理論性に欠けており、相手の意見を受け入れない。この柔軟性のなさこそが問題だと思うのだが、この手の人に限って自分は柔軟性に富んでいると思っているから性質が悪い。うちのもすぐに激昂する性質だが、少し時間を置けばちゃんと話し合いができる。激昂する前に10数えて落ち着いてくれれば、もっと話し合いはスムーズに行くのではないだろうか。大体私は大声を出す人に対しては恐怖心が先に立ち、蛇に睨まれた蛙状態になってしまうのだ。うちのが大声を出さなくなれば、きっともっと心身共に生活が楽になるように思う。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
昨夜のうちのとの喧嘩。昨日は朝から夜迄、私は日がな1日寝ていた。起きたのは20時頃。深夜1時頃、いつ迄起きているんだ! 早く寝ろ! とうちのに怒られたのが発端。そのとき私はPCに向かっており、キーボードの傍に眠剤を用意していたので、寝る用意はしている、と答えた。いつ寝るんだ、と問われて、もうすぐ、と答えた。うちのは2時過ぎに布団に入った。そして、お前も寝ろ、と。私は眠剤が慣れてきていて投入してもすぐに眠くならない。1時半くらいに投入したけれど、睡魔が来るのは早くて後30分と見ていた。それから大喧嘩。ご近所さん、すまん。うちの曰く、寝る用意をしている=眠剤投入済み、と捉えていたらしい。私の中では、すぐに眠剤を投入できるように用意をしている=寝る用意をしている。根底の部分でズレが生じている。うちのは、寝る準備をしていると言われたら眠剤を入れていると思うだろ! と怒っていた。そんなこと言われても……。もうすぐと言われたら5分後10分後だと思うだろ! とも。は? 私の中では、すぐ=5〜15分後くらい、もうすぐ=1〜2時間後くらいなのだ。いろんな部分で各々の定義が違っていることが発覚。
うちのは怒るときに頭ごなしに大きな声で怒る。そして私の言うことを屁理屈だと一蹴する。思いたくないし言いたくないけれど、親の私への怒り方と似ている。叱る≠怒る。頭ごなしに怒られたり、自分の意見を屁理屈だと言われると何もする気がなくなる。どうせ何をしたって否定されるんだから……と自己嫌悪に陥り、PCや過剰な睡眠に逃避してしまう。うちのの大声に怯えつつ泣きながら意見を述べているうちに、お互いに少し落ち着いてきた。私の持病が発症して1年が過ぎた。当初からの目標は、朝起きて夜寝るというリズムを作ること。達成できていない。うちのはそのことに対し、私の努力が見えないから苛つく、と言っていた。そして、朝起きられないのは仕方がないとしても目覚まし時計をセットするなりの努力と夜になったら布団に入る習慣をつけろ、と。私の意見。努力しようという気持ちは見えないかもしれないが、常にある。目覚ましは何度か試したけれど気付かずに寝たまま1時間鳴りっぱなしにしてしまったことがあり近所迷惑を考えてやめた。寝る時間に対しては……うちのの寝る時間基準になっていることに抵抗がある、と答えた。反抗心が規則正しい生活をするという目標に勝っているのかと責められたけれど、正直な気持ちである。うちのが2時に寝るときは2時にそろそろ寝ろと言われ、3時に寝るときは3時にいい加減に寝ろと言われる。そのことに激しい抵抗があった。生活時間を相手基準にするように強いられているように感じられるのだ。うちのが言うには、一緒に暮らしていて片方が布団に入ったら自分も寝ようと思わないのか? 私には全く以ってそのような考えが浮かばない。ああ、うちのは寝るのか、のみである。この考え方がうちのには全く解せないらしい。今後は目覚まし時計をセットした上で布団の近くに置いて対処すること、自分で時間を決めていいからその決めた時間に従って布団に入ること、を約束した。約束する迄もなく寝ることに関してはいつもそのように考えていても、心と体が別行動をしてしまうのだが……。
すぐ・もうすぐの基準については、このような曖昧な表現を避けて具体的に何分後・何時間後とお互いに表現することを心掛けるようにということで収まった。私の中の、もうすぐ、の基準は異常らしい。もうすぐ=5〜15分後程度、が普通らしいのだ。ここでまた私の頭は?で埋まる。普通が解らない。一般的にとか、常識的にとか、その手の言葉と同じように私の辞書の中では影が薄い言葉であり、それらの言葉は自分を含めて大多数の人間の意見を自分の目で見て耳で聞いて平均化したものが、普通・一般・常識という言葉に還元される。けれど、うちのに限らずこの手の言葉は、考えなくても・聞く迄もなく解るだろ! という言葉らしい。解らない。このように言う人は、自分の中の定義=普通・一般・常識と思っている気配を感じる。何故、自分の定義や考えを普遍的な物と信じ込めるのか、全く解らない。
人を殺してはならない、物を盗んではならない。これらのことは常識として受け止められている。日本の法律が明文化されているからだ。また辞書に書いてある言葉の定義には従える。けれど曖昧な単語や曖昧な表現については本当に解らない。しかし自分の意見=普通・一般・常識となっている人からすれば、この、解らない、がもう屁理屈として聞こえるらしい。私にとっては八方塞である。身動きが取れず、かといってそのような意見を鵜呑みにはできず、混乱する。私が曖昧な表現や言葉について考えるのは、人それぞれの解釈、である。因って、私の中のもうすぐ=1〜2時間が、他者にとって5〜10分でも3〜5時間でも、ふーん、としか思わない。今回の喧嘩で、曖昧な表現は定義が違う者同士の間では諍いの原因となることを学んだ。ので、今後は具体的返答を心掛ける。それにしても。相手の定義が自分と違っているときに激昂する人はなんでこうも多いのだろう。何事にも、人それぞれという考えを基準にしている私の方がおかしいのか。自分と全く同じ思考回路や思想を持つ人なんていないと思う。だから、人それぞれ、と私は考える。特に曖昧な表現や言葉に関してはこのように捉えないと、無駄に怒りが発生するのではないだろうか。私にも自分の意見の中に、普通・一般・常識というものが全くない訳ではない。なくはないけれど、その自分の普通・常識・一般から外れた意見を持つ人に激昂はしない。そもそも激昂という感情表現は野蛮だと考えている。また私の経験則では、簡単に激昂する人程、理論性に欠けており、相手の意見を受け入れない。この柔軟性のなさこそが問題だと思うのだが、この手の人に限って自分は柔軟性に富んでいると思っているから性質が悪い。うちのもすぐに激昂する性質だが、少し時間を置けばちゃんと話し合いができる。激昂する前に10数えて落ち着いてくれれば、もっと話し合いはスムーズに行くのではないだろうか。大体私は大声を出す人に対しては恐怖心が先に立ち、蛇に睨まれた蛙状態になってしまうのだ。うちのが大声を出さなくなれば、きっともっと心身共に生活が楽になるように思う。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
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