現在23日深夜。

 やっと「陣痛の最中言ってしまった言葉」を過去ログ・現行スレ共に読了。子供嫌いだし、薬を手放せない状況だし、そもそもまだ入籍もしていないセックスレスだしで出産なんていつのことやら……なのだが、面白半分・尊敬半分で一気読み。どんなにアレであろうが世の母親って凄い。4時間とか6時間で安産だなんて初めて知った。私の母親は2日がかりで結局帝王切開で私を出産。子供の頃や大人になってから銭湯や温泉などで一緒に入浴をするとき、いつも母親の下腹部に大きく濃く残っている切開の痕が気になっていた。私の親は痛みに強い方で、盲腸の手術の際に麻酔が効いていないうちにメスを入れられ、痛いです、と申告して医者に、麻酔をしてるのにそんな筈はないから足首を動かしてみろ、と怒られて麻酔が効いていないことを立証して追加させた逸話を持つ者。私ならきっとメスを入れられた時点で気絶してしまうだろう。その母親が2日間も陣痛やらなにやらに耐え、最後は腹を掻っ捌いて私を産んだ。尊敬。そして感謝。諸々の問題はまだ山積みだけれど、苦しみに耐えて産んでくれた、という事実は尊敬せざるを得ない。思春期・反抗期の子供がよく発する言葉、私は大人になってから言ってしまった言葉。産んでくれなんて私は頼んでない! 深く反省。環境や育て方に問題はあったけれど、当時の親は実父と自分の間の子である私の誕生を望んで産んでくれたのだなあ、というのがスレを読んでの感想。しかも、子供なんか要らない、と大きくなったお腹を実父に蹴られたりしても守ってくれた。或る海外に於いて、誕生日は子供の成長を祝う日と母親の苦労を労う日を兼ねているという。まだ素直に、産んでくれて有難う、とは思えない。けれど、これからは言葉にできるかどうかは別として、誕生日のたびに感謝の気持ちを持ちたく思った。

 昔、ひとり暮らしをしていた頃、同い年の子が経営していた近所の古着屋にしょっちゅう顔を出して、友達兼客になっていた。その店には、オバチャン連中もよく来ていたけれど、私と同世代の子らも多く来ていた。その同世代の中のふたりは既に子供がいた。ひとりは元風俗嬢。旦那はホストで既に離婚し、元風俗嬢は既に親が亡く兄夫婦の家に住んで子供を育てていた。そして所謂堅気の職業とホテトルを辞めたり始めたり。でも子供にはとても愛情を注いでいるように見え、子供嫌いの私でもその子の子供は可愛く思えていた。母親の職業云々にはいろいろな意見もあろうが、親子の絆はしっかりしているようで微笑ましかった。もうひとりは問題のある親と共依存状態にあり鳶職の旦那と離婚。そして実家に住みつつホステス稼業。それはいいとして、子供への接し方が気に入らなかった。子供に暴力を振るったりはしていなかったようだけれど、言葉の暴力というか、表情の暴力というか、そういうものを楽しんでいる母親だった。子供がまだ物心ついていないことをいいことにしょっちゅう、嫌いだよ〜、置いてっちゃうよ〜、バーカなどの言葉を発して子供の表情を見る。物心がついていなくても子供は言葉の雰囲気を感じ、母親の表情を見て悲しそうに不安そうにする。そして周りに、面白いでしょ、と。不憫だった。でも私はその子には何もできず、その母親が来ると店を出るようになった。物心がついていなくても、きっとそれらの言動は子供の意識の底に残るのではないだろうか。彼女は子供が悲しそうに不安そうにすることで、自分の存在を肯定しようとしていたのだろう。けれどそのやり方は間違っているのではないだろうか。自己肯定の為に他者の力が必要なときはある。だからといって、他者の心を傷付けてはならない。経営者は暫くして店を畳み、私は彼女たちとの交流はなくなった。今、どうしているのだろう、と一番気になるのは不安感を煽られていた子供だ。

 昨今、虐待事件が表沙汰になることが増えてきた。きっと虐待が増えたからではなく、それ迄は家庭という闇で見えていなかったものが見えるようになったからだろう。虐待の定義は非常に曖昧で、死に至るようなものは判断に迷うこともないけれど例えば、叩く、という行為は虐待なのか。躾なのか。私は叩かれたり寒空の下でも外に出されたり、罰として正座させられたりしてきた。親は躾の一環だと思っていただろう。そして家庭という狭いコミュニティの中で生きていた頃は、そういうものなのだ、と甘受してきた。私が育った時代は、子供が食事を残してはならず全部食べるべき、というのが主流だった。学校でもそうだった。前に主治医と話していたときに、食事に制限時間を設けられてオーバーした分の時間はキッチンに正座させられていた、と話したところ、それはおかしい、と言われた。時間を守ろうと必死に食べて吐いてしまったとき、食べたくないから吐いたに違いないんだから吐いた物を食べろ、と強要されたのも異常だったらしい。

 子供にゆっくりと懇切丁寧に言い聞かせれば叩いたりなどの肉体的・精神的苦痛を与えずとも躾はできると言う人もいる。ときにはそれらも必要だと言う人もいる。どちらが正論かは判らない。ただ漠然と判るのは、叱るのはいい・怒るのは良くないということだけだ。精神的・肉体的苦痛はその後についてくる物ではないのだろうか。どこかで読んだ話。子供が悪さをして祖父が子供を1時間半程、外に出した。子供は酷い祖父だと思った。祖父はその間、家の窓を開けて窓際で子供が寒い思いをしている1時間半の間、ずっとそこに立っていたらしい。子供にだけつらい思いはさせられない、と。これが美談なのか祖父の自己満足なのか、私には判断がつかない。あなたの為を思って。あなただけにつらい思いをさせたくない。よく聞く言葉。偽善の匂いを感じる。この祖父と孫の話は後者の例。つらい思いをさせて自分もそれと同様の思いをする前に、どんな腕白坊主でも懇々と言い聞かせることはできなかったのだろうか。状況の詳細が判らないから一概には言えないが、すんなりと美談とは受け取れない私はやはり歪んでいるのか。肉体的・精神的苦痛が全て良くないとは思っていないけれど、感情任せや自己満足は宜しくないと思われる。

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