記憶改竄
2004年2月10日 家族・メンヘル・健康など 現在12日。
久々の通院。診察室に入るなり、どうしたんですか? と訊かれる。どうも、きょとん、としていたらしい。特に意味はなかったのだが、それ故にもしかしてここんとこ私はずっときょとんとしていたのか? と不安が過ぎる。診察室で話したこと。誕生日に親に会ったこと、うちのの荒っぽい言動をきっかけに幼少期に見た父親が母親を殴っている場面がフラッシュバックするようになったことなどを伝える。私が見た父親が母親に手をあげている場面はただ一度。一軒家に住んでいたとき、私の部屋は2階にあった。夜中、お茶か水を飲もうと1階に下りていったとき、父親と母親の口論が聞こえた。そして父親が母親をバシンッと……。突発的暴力だったのか、それとも私が気づかなかっただけで恒常的に行われていたDVかは不明。けれど強烈に脳裏に焼きついた。普段、そのことを思い出すことはない。けれどちょっとしたきっかけで思い出す。先日のちょっとしたきっかけ。うちのがテーブルの上を片付けろと言ってきた。ので片付けた。私にとっては片付けたつもりだったのだが、うちのの目にはちっとも片付いたようには見えなかったらしい。声を荒げて怒られた。とどめはテーブルの端においてあった冊子を投げられたこと。私に向かって投げつけていた訳ではなく後ろ方向に投げたのだけれど、それでも私の恐怖心を刺激するには十分過ぎた。うちのは私に手をあげることはない。けれど物に当たる。物に当たっているところを見てしまうと、次は私の身に降りかかるのではないかという怖さが芽生える。
上記のような出来事はこれ迄にも何度もあった。そしてその都度、私の中に恐怖心が芽生え、増大していた。常日頃からこのようなことが行われている訳ではなく、頻度からすれば突発的なもののようにも思える。でも怖い。先日の出来事以来、両親の暴力がフラッシュバックするようになってしまった、それに以来抑うつ状態が多くなり、何かにつけて希死念慮ではないけれど死に纏わることを連想してしまい怖い、と主治医に伝えた。両親の場面を見たのは1度だけ、と付け加えたところ、主治医が不安感を増させるようなことを言い出した。本当に1度だけ? 人間の記憶は見たものだけとは限らないよ。言わんとしているところは、私が見たと記憶しているのはその1度だけかもしれないけれど、何度か見たその他の似た場面は記憶の奥底に封印されているのではないか、と。そうなのだろうか。解らない。思い出そう……として踏みとどまった。思い出そうという行為には危険が伴う。まず仮に他の場面が思い出せたとして私の前の前で繰り広げられる乱雑なうちのの言動への恐怖心が失せるかどうか。また思い出せたとして、その思い出したと思える記憶が本当にあった出来事なのかどうか。要は思い出そうとすることにより、記憶の改竄が行われるのではないか、ということだ。なかったことをあったかのように改竄するのは、私の心身にも悪影響だし、両親への侮辱にも思える。うちのにこの話をすると、無理に思い出そうとする必要はない、と言われた。主治医にも思い出せと言われた訳ではない。因ってなるべく考えないようにしようと思う。
記憶にとって、一番大切なのは何だろう? 事実を思い出すことだけなのだろうか? それとも思い出したくない部分は封印したままでいいのだろうか? 私には判断がつかない。神話だか寓話だかの中に、物覚えの蛇と物忘れの蛇の話がある。それぞれの蛇は、預かっている水の中に毎日鱗を1枚落とす。物覚えの蛇の鱗が落とされた水を一口飲むと、人は思い出したかった記憶を思い出せるという。物忘れの蛇の鱗が落とされた水を飲むと、人は忘れたい記憶を忘れられるという。今の私に必要なのはどちらの水なのだろう。思い出したいことも沢山あるし、忘れたいことも沢山ある。両方の水を飲んだとして、忘れたままでいたかったことを思い出し、覚えていたかったことを忘れてしまったら最悪の精神状態に陥ることは目に見えている。きっとこれは私だけでなく、皆そうではないだろうか。いい記憶だけを持った人間も悪い記憶だけを持った人間もいないと思う。大切なのはバランスか。いい記憶7:悪い記憶3くらいを持っているのが、その先の人生に於いて理想的な気がする。私の場合は、いい記憶3:悪い記憶7くらいか。一生の中でいいことと悪いことは半々だと言われる。本当か嘘かは解らない。またそのいいことと悪いことの基準も、現実に起きたこと全てひっくるめての話なのか、それとも記憶の中の話なのかも解らない。
私のこれ迄の人生の中で現実に起きた出来事のいいこと・悪いことは、もしかしたら半々なのかもしれない。でも記憶の中では3:7。今後、いいこと・悪いことが半々に起きると仮定して、それでも私の記憶の中の比率が3:7のままなら、私の人生は幸せだといえるのだろうか。それとも今後いいこと・悪いことの起きる割合が1:9として、私の中では3:7が保たれるのだろうか、それとも2:8や1:9になっていくのだろうか。はたまたそれでも5:5や7:3に変化していくのだろうか。人間、死ぬときは過去の出来事が走馬灯のように脳裏に走ると言われている。その走馬灯の中身がいいことばかりなら、きっとどんな死に方でも気分良く死んでいけるだろう。それが逆なら……考えるだに恐ろしい死に際になりそうだ。悔いを残さずして死ぬには、いい記憶の蓄積が大切なように思えてきた。しかしそのいい記憶が改竄された記憶でもいいのだろうか。そもそも記憶の改竄において、いい記憶の改竄は可能なのだろうか。また、いい記憶とはどんなものなのだろう。何かを思い出そうとすると悪い記憶ばかりが思い出される私にとって、いい記憶というものの存在自体を怪しまずにいられない。悪い記憶は事実として受け止められるけれど、いい記憶は本当にそんなことがあったのか? と疑ってかかってしまう。暗中模索。少なくとも、過去は悪い記憶まみれでも今は、今後はいい記憶として残ることを沢山経験し、そのままいい記憶として蓄積できるようになりたい。気の持ちようという部分が多々ある。ネガティヴ思考をどうにかするところから始めなければならないのだが、そうそう思考方法を変えられるものなのだろうか。
久々の通院。診察室に入るなり、どうしたんですか? と訊かれる。どうも、きょとん、としていたらしい。特に意味はなかったのだが、それ故にもしかしてここんとこ私はずっときょとんとしていたのか? と不安が過ぎる。診察室で話したこと。誕生日に親に会ったこと、うちのの荒っぽい言動をきっかけに幼少期に見た父親が母親を殴っている場面がフラッシュバックするようになったことなどを伝える。私が見た父親が母親に手をあげている場面はただ一度。一軒家に住んでいたとき、私の部屋は2階にあった。夜中、お茶か水を飲もうと1階に下りていったとき、父親と母親の口論が聞こえた。そして父親が母親をバシンッと……。突発的暴力だったのか、それとも私が気づかなかっただけで恒常的に行われていたDVかは不明。けれど強烈に脳裏に焼きついた。普段、そのことを思い出すことはない。けれどちょっとしたきっかけで思い出す。先日のちょっとしたきっかけ。うちのがテーブルの上を片付けろと言ってきた。ので片付けた。私にとっては片付けたつもりだったのだが、うちのの目にはちっとも片付いたようには見えなかったらしい。声を荒げて怒られた。とどめはテーブルの端においてあった冊子を投げられたこと。私に向かって投げつけていた訳ではなく後ろ方向に投げたのだけれど、それでも私の恐怖心を刺激するには十分過ぎた。うちのは私に手をあげることはない。けれど物に当たる。物に当たっているところを見てしまうと、次は私の身に降りかかるのではないかという怖さが芽生える。
上記のような出来事はこれ迄にも何度もあった。そしてその都度、私の中に恐怖心が芽生え、増大していた。常日頃からこのようなことが行われている訳ではなく、頻度からすれば突発的なもののようにも思える。でも怖い。先日の出来事以来、両親の暴力がフラッシュバックするようになってしまった、それに以来抑うつ状態が多くなり、何かにつけて希死念慮ではないけれど死に纏わることを連想してしまい怖い、と主治医に伝えた。両親の場面を見たのは1度だけ、と付け加えたところ、主治医が不安感を増させるようなことを言い出した。本当に1度だけ? 人間の記憶は見たものだけとは限らないよ。言わんとしているところは、私が見たと記憶しているのはその1度だけかもしれないけれど、何度か見たその他の似た場面は記憶の奥底に封印されているのではないか、と。そうなのだろうか。解らない。思い出そう……として踏みとどまった。思い出そうという行為には危険が伴う。まず仮に他の場面が思い出せたとして私の前の前で繰り広げられる乱雑なうちのの言動への恐怖心が失せるかどうか。また思い出せたとして、その思い出したと思える記憶が本当にあった出来事なのかどうか。要は思い出そうとすることにより、記憶の改竄が行われるのではないか、ということだ。なかったことをあったかのように改竄するのは、私の心身にも悪影響だし、両親への侮辱にも思える。うちのにこの話をすると、無理に思い出そうとする必要はない、と言われた。主治医にも思い出せと言われた訳ではない。因ってなるべく考えないようにしようと思う。
記憶にとって、一番大切なのは何だろう? 事実を思い出すことだけなのだろうか? それとも思い出したくない部分は封印したままでいいのだろうか? 私には判断がつかない。神話だか寓話だかの中に、物覚えの蛇と物忘れの蛇の話がある。それぞれの蛇は、預かっている水の中に毎日鱗を1枚落とす。物覚えの蛇の鱗が落とされた水を一口飲むと、人は思い出したかった記憶を思い出せるという。物忘れの蛇の鱗が落とされた水を飲むと、人は忘れたい記憶を忘れられるという。今の私に必要なのはどちらの水なのだろう。思い出したいことも沢山あるし、忘れたいことも沢山ある。両方の水を飲んだとして、忘れたままでいたかったことを思い出し、覚えていたかったことを忘れてしまったら最悪の精神状態に陥ることは目に見えている。きっとこれは私だけでなく、皆そうではないだろうか。いい記憶だけを持った人間も悪い記憶だけを持った人間もいないと思う。大切なのはバランスか。いい記憶7:悪い記憶3くらいを持っているのが、その先の人生に於いて理想的な気がする。私の場合は、いい記憶3:悪い記憶7くらいか。一生の中でいいことと悪いことは半々だと言われる。本当か嘘かは解らない。またそのいいことと悪いことの基準も、現実に起きたこと全てひっくるめての話なのか、それとも記憶の中の話なのかも解らない。
私のこれ迄の人生の中で現実に起きた出来事のいいこと・悪いことは、もしかしたら半々なのかもしれない。でも記憶の中では3:7。今後、いいこと・悪いことが半々に起きると仮定して、それでも私の記憶の中の比率が3:7のままなら、私の人生は幸せだといえるのだろうか。それとも今後いいこと・悪いことの起きる割合が1:9として、私の中では3:7が保たれるのだろうか、それとも2:8や1:9になっていくのだろうか。はたまたそれでも5:5や7:3に変化していくのだろうか。人間、死ぬときは過去の出来事が走馬灯のように脳裏に走ると言われている。その走馬灯の中身がいいことばかりなら、きっとどんな死に方でも気分良く死んでいけるだろう。それが逆なら……考えるだに恐ろしい死に際になりそうだ。悔いを残さずして死ぬには、いい記憶の蓄積が大切なように思えてきた。しかしそのいい記憶が改竄された記憶でもいいのだろうか。そもそも記憶の改竄において、いい記憶の改竄は可能なのだろうか。また、いい記憶とはどんなものなのだろう。何かを思い出そうとすると悪い記憶ばかりが思い出される私にとって、いい記憶というものの存在自体を怪しまずにいられない。悪い記憶は事実として受け止められるけれど、いい記憶は本当にそんなことがあったのか? と疑ってかかってしまう。暗中模索。少なくとも、過去は悪い記憶まみれでも今は、今後はいい記憶として残ることを沢山経験し、そのままいい記憶として蓄積できるようになりたい。気の持ちようという部分が多々ある。ネガティヴ思考をどうにかするところから始めなければならないのだが、そうそう思考方法を変えられるものなのだろうか。
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