教育者の人間性

2004年1月28日 回顧
 googleで、札幌南高校・東京経済大学卒業。、とキーワードを入れて検索すると、ある人物のプロフィールが出てくる。そのプロフィールの一番下に、教育論、と銘打たれたリンクが貼られており、コラム一覧のページに飛ぶ。某所にてこのコラム一覧のうちのひとつが貼られており、読んでみた。一見、尤もらしいことが書かれている。しかしこの人物は偏見の塊であると思われる。上昇志向・固執癖・自分の記憶が全て・時代の流れを認めない。戸塚宏と変わりなくすら思える。いや、戸塚の方がマシかもしれない。よく知らないけど。尤もらしく日本語の乱れについて述べる、その文章に日本語の乱れが見られる。その日本語の使い方こそが、おまいの言いたい日本語の乱れに値するんじゃないのか、と。ペットを慈しみ死を悲しむ、けれどペットが死に至る過程である自分の家族らのペットへの配慮は棚上げ。おまいらがちゃんと気を遣っていればそんな事故は防げたんじゃないのか、と。犬が凍死? 戸締りしとけや! 猫が琴の下敷きに? 猫がちょっかいを出さない場所にしまっとけや! ペットを飼育するにあたっての常識を身につけてから出直せ。阿呆か。この人物は日本の北の方にある学校の校長を務めているらしい。私なら絶対にこんな校長のいる学校には通いたくない、また自分に子ができたとしても絶対に通わせたくない。通わせない。自己愛の強い教育者は子供の人格形成に悪影響を与える、というのが私の持論だ。私の日記をこの人物が読むことはなかろうが仮に読んだとして、今時の若者の戯言、と一笑に付すだろう。

 この人物のコラムの全てがちゃんちゃら話にならない訳ではない。例えば良質な子供番組が減っていること。例えば勤労への知識が足りない子供について。またアルファ・シンドロームを人間の親子関係に当て嵌めて論じる視点はなかなかだと思った。あくまで視点だけだけれども。そして上記のように、まず自己愛ありき、なので幾つかいいことを書いていても、その他のコラムの歪みで説得力が半減してしまっている。茶髪・ピアスを嫌うオトナは少なくない。私の知る茶髪・ピアスを嫌うオトナは、親からもらった体を弄ることへの反感、を示していた。要は、子供は親の所有物であり子供の、個、を認められない大人になりきれないオトナだと私は思っている。この人物は茶髪・ピアスへの否定に、社会不適合性を持ってきて論じている。尤もらしく読めるけれども、説得力はない。またピアスホールを作ったりピアスを装着することで脳細胞の減少は3倍早くなる、と述べている。科学的ソースを出してからものを言って欲しい。海外の論文、という言葉ほど胡散臭いソースはない、なんてことにこの人物は気付いていないのだろう。

 小〜高校生の化粧についての否定コラムもあった。私も肌が綺麗な頃からの基礎物以外の化粧品を使うことには否定的である。第二次性徴期などにニキビで悩む子がニキビの隠し方の相談を掲示板でしている場合、私はまずニキビの質を判断した上でアクネケアまたは保湿の基礎化粧をちゃんとすること、無理に隠そうとすると悪化に繋がることを自分の経験に基づいてレスをし、メイクについての相談を見かけた場合はスルーしている。否定的であっても、若いうちからお化粧なんて! とは言わない。書かない。自己判断ありきと考えてスルー。この人物のコラムでのエピソードのひとつに、メイクをした女子高生に暴言を吐いた、というものがあった。そして暴言を吐いた自分を、卑下したポーズを取っていたけれど、その裏に良識的な紳士気取りの姿が見え隠れして非常に気味が悪かった。メイクを施す女子高生を嫌うのはいい。個人の自由であり、美意識の違いだ。けれど、その美意識の違いを暴言という形で擦違いざまに見知らぬ女子高生らに投げつける、その行為に変質的なものを感じた。こんな人物が教育者として堂々としていられることが激しく疑問だ。教育者は聖職者たれ、とは思っていない。教育者もひとりの人間であり、主義思想の自由はあって当然。ただ私なら、紳士気取りを拙いレトリックで覆い隠して女子高生に暴言をぶつけたことを自慢げに語る教育者など、決して信用できないという話である。

 学生時代、私は担任教師に嫌われる生徒だった。不登校ではないけれど学校にこないし、授業中に寝ていたり競馬新聞を読んだりしているし、何も言わずに帰ったりするし、定期試験の点数は悪いし。定期試験の成績が悪いのに、県内統一などでは標準の点数を取れることがまた癪に障っていたらしい。学力は標準なのに、授業に関心がないということが数値で証明されるから。担任教師とは仲が悪かったけれど、学年主任や教頭などとは仲が良かった。それも担任教師にとっては嫌な存在だっただろう。校則に関係ないことで注意を受けただの、希望校受験を頑なに担任が受け付けないだのと話していたし。校則に関係ないことで受けた注意は下着についてである。中学生のとき、校則で決められた白いブラウスの下に白×紺のストライプのタンクトップを着ており、派手だからやめなさい、と。穴あき紐パンを穿いていた訳でなし、余りにも些細でくだらないと思った。志望校受験を反対されたのは高校時代。担任が志望校の志願書をどうしてもくれないので、担任を飛ばして学年主任のところにもらいに行った。この2教師とは違う、中学3年のときの担任教師には最も酷い仕打ちを受けた。その担任教師は卒業式の後、クラスの生徒全員に手紙を書いて渡してた。私への手紙だけ宛名なし……。書かれていた手紙の中身は、もっと協調性をつけて視野を広く持ってください。確かに協調性は欠落していた。今も協調性はない。けれど、教師って生徒にはせめて上辺だけでも公平に接するものではないのか? 協調性がなくて視野が狭いのはあんたもじゃないのか? 帰宅後、親に怒られた。そんなもん受け取ってくるな! プライドはないのか! 投げ返してくればよかったのに! 確かにその通りである。その日のうちに手紙は処分したと記憶している。

 話は全く変わり、今日の昼間のこと。父親から電話があった。着信拒否設定をしていたことを疑われたのでしどろもどろで否定。話したのは短時間。最初は親と同じく、元気にしてるのか? という確認。最後に、電話が繋がらなくて心配してた、何かあったらちゃんと電話してこいよ! 父さんはお前のことちゃんと考えてるから! と。また滂沱の涙。逡巡の末、こんな風に考えが纏まってきている。
養子縁組解消の書類に判を押させることは踏み絵だった(過去に過ちがある相手と一緒になる覚悟の確認)

親らにとってはうちのの過去は許せないけれど好き同士を引き離しても現在私は治療中であり且つ病気の一因として親の存在がある以上、如何ともし難い

事実上の絶縁という形を取りつつ遠くから私(とうちのも)を見守る
ということで落ち着いてるのかな?と。これが正解かどうかは不明。けれどこう考えたことでほんの少しだけれども根無し草感が薄れてきた気がしてきている。
・私は形はどうあれ心配されている=見捨てられてはいない
・うちのの下に私がいることを黙認=うちののことを全否定はしていない
ということではないだろうか。心配をかけていることへの申し訳なさはあるけれど、心配してもらえていることがこんなに嬉しいことだったとは。昔は親が、心配、という言葉を持ち出すだけで、心配してくれなんて頼んでない! 心配しているフリを押し付けんな! と思っていたのに少なくとも今は全然そんな感情が出てこない。情緒欠落の一部が改善されてきている……んだといいなあ。

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