現在24日。
先日、華倫変の「デッド・トリック!」上下巻が発売されているのを見て昨日「モンキーターン」26巻と共に購入。どうやらこれが遺作らしい。去年自殺したと知り、立ち読みで済ませてしまった電気羊が最後だと思っていたので驚いた。近々購入しよう。因みに、公式発表で死因は心不全となっているけれどきっと自殺。根拠なし。友人の兄と話をしていた中で山本直樹が好きだと言ったときに、なら華倫変もきっと嵌るよ、と薦められたのをきっかけに知った漫画家だ。「デッド・トリック!」の解説に友人の兄の名が出てきていてびっくりした。面識があったのか。いいなあ。ともあれ華倫変。寡作な漫画家である。薦められて「カリクラ」を読み、それ以降殆ど見かけなかった。内容は鬱々とする物でクッキリと好みが分かれるだろう。それ以前に、非常に絵が下手で手にも取らない人が多いのではなかろうか。ヘタウマとかでなく、下手。それでも読ませる内容を描ける漫画家であり、私はとても好きだった。華倫変本人がトリップ付で某巨大掲示板に書き込みをしていたと知ったのは死後のことである。残念。ネット上でもいいから1度話をしてみたかった。本人のサイトも死後に知った。無念。そして合掌。「デッド・トリック!」そのものの出来は正直なところ宜しくないと思われる。解説によると編集に踊らされて描いたと誤解されているが本人の意思で描いたものだったらしい。あの絵でその転向には無理があったと思う。あの絵は、「カリクラ」的内容でしか許容できない絵柄ではなかろうか。内容自体はベタではあるが悪いとは思わない。キャラもちゃんと立っているし、動かせている。ただ、絵柄とミスマッチ過ぎるのだ。もっと言わせてもらえば、華倫変の絵柄は短編でないと読んでいてキツイ。短くどろどろしたものを描かせたら物凄くいいのに、何故あんな転向を図ったのか。そのときの心の動きが気になる。私の中では、心の動きが気になる作家とならない作家が区別されている。華倫変は前者である。
同じ前者にこれまた故人の青山正明がいる。作家ではなくエディター兼ライターだが。うちのも青山正明が好きだった。一緒に仕事をしていた時期があったらしい。激しく羨ましい。以前私が出入りしていた某出版社の担当編集者氏も一緒に仕事をしていたことがあるらしい。激しく羨ましい。知り合いの知り合い、と言える存在だけれど私は直接面識がなく、1点を除いてただただ尊敬するエディター兼ライターだった。椎名誠は野暮である。青山正明が学生時代に作ったものを読んだうちのが私に、好きなジャンルを扱っていいとしてお前にこれくらいのものを作れるか? と訊いてきた。うちのは、俺は無理だ、と言っていた。私もうちのには無理だと思う。悩んだ末におこがましくも、気力があればできるかもしれない、と答えた。青山正明がそれを作ったのと同年齢で同程度のものを作れるか、と問われたら絶対に無理だ。業界内で経験を積んで、時間だけは有り余っている今なら気力があればできるかもしれない。けれど、それには条件が付く。今の私の能力で、青山正明がそれを作ったのと同時代に発行できるなら。うちのの問いの真意は、自分の興味のある物事を自分の持っている知識で茶化したりしつつ何処迄面白可笑しく他者に読ませる自信があるか、ということである。ネックは、茶化したり、の部分。約20年の時を経て、創作活動はメタと化してしまった。今、当時青山正明が作ったものを読んでみて、面白可笑しくはあるけれど斬新さはない。それは茶化しの部分が、既に数多の創作者によってパクら……いや、パスティーシュ的に使われてきて、最早出尽くした感すらあるからだ。青山正明の使う茶化しの方法は昔からの私も得意とする方法であり、青山正明の存在を知ってしまってからは、もう定番と化している方法なのだなあ、と知った。気付くも気付かずもメタである。となると、私が今同程度のものを作るにあたり最も必要なのは、斬新さ、となる。解り易い例を出せば、鶴見済の「完全自殺マニュアル」。これが発行されて以来、様々なマニュアル本が出た。マニュアル内の項目紹介も酷似しており、ネタを変えただけのパクりじゃねえか、と思わされる本も多数。むしろ、そっちの方が多数。人々に受ける斬新な物はパクられる運命にあるのだと思う。
私が学生時代に夢を頓挫したのは、自分には0から1を作る力はなく、1を10や100にする力が強いと気付いたからだ。青山正明は1を100にも1000にもする方法を0から1へと導いた。本当に偉大な人だった。活字系創作者として或るジャンルに於いて全てを持った人だったとすら思う。努力の賜物もあるだろうが、天賦の才の方が大きかったのではなかろうか。また茶化し方だけでなく、扱っていたネタ自体も当時としては斬新な部類に入ったと思われる。タブーとされていつつ、でも人々が突いてみたい且つ茶化してみたいことを片っ端からやってのけていた気がする。それらのネタは今、鬼畜系、などと括られてアングラなサブカルの中央に近いところに位置しているように思う。と、書いていてふと思った。先日も日記で、サブカル、という単語を使った。言わずもがな、サブ・カルチャーの略称だ。ではメイン・カルチャーとは何だ。メインあってのサブであり、アングラだ。昔働いていた職場の面子と呑みつつ、メイン・カルチャーとはなんぞや? という話題が何度も出た。そして毎回、メインなんてない、という答えに行き着いた。では現存するカルチャーは、全てサブ・カルチャーなのか。ならば何故わざわざ、サブ、という単語が付くのか。会話の中で誰かが言った。今あるメインと思われているカルチャー全てが元はサブだった。ならば現存するメイン・カルチャーの前にメインだったものは何だったのか。私を含め誰も答えられなかった。無知集合体。
今、街中でも某巨大掲示板の名を耳にすることがある。或る雑誌では社会学者が某巨大掲示板を基に小論を発表した。私が某巨大掲示板を知り出入りするようになったのは4年強前。うちのに教えてもらったのがきっかけだ。うちのはその前の某大掲示板から今の某巨大掲示板に流れてきた者であり、今でも某巨大掲示板にアングラ幻想を持っている。私も一昨年迄はそう思っていた。早い・安い・美味いの店で、極々フツーの人がねぎだくを注文している姿を見てしまい、驚愕し、その後にもう某巨大掲示板はアングラではないのだと思った。その思いは、別の早い・安い・美味いの店で、PCの使い方も知らないようなカップルの男がねぎだくを注文し、女が何それ〜? などと訊き、男が、裏メニューみたいなもんだよ、と自慢げに語り始めたのを聞いて思いから確信に変わり、また別の(以下略の店で持ち帰り用にでこの話に半信半疑だったうちのの為にねぎだくを、私用に汁だくだくを注文したら、入れ物のシールに、ねぎだく、つゆだく、と印刷されているのを見て決定付けられた。今や某巨大掲示板もメイン・カルチャーのひとつなのだろうか。少なくともまだ、つゆだくだく、は定着していないようだが。
先日、華倫変の「デッド・トリック!」上下巻が発売されているのを見て昨日「モンキーターン」26巻と共に購入。どうやらこれが遺作らしい。去年自殺したと知り、立ち読みで済ませてしまった電気羊が最後だと思っていたので驚いた。近々購入しよう。因みに、公式発表で死因は心不全となっているけれどきっと自殺。根拠なし。友人の兄と話をしていた中で山本直樹が好きだと言ったときに、なら華倫変もきっと嵌るよ、と薦められたのをきっかけに知った漫画家だ。「デッド・トリック!」の解説に友人の兄の名が出てきていてびっくりした。面識があったのか。いいなあ。ともあれ華倫変。寡作な漫画家である。薦められて「カリクラ」を読み、それ以降殆ど見かけなかった。内容は鬱々とする物でクッキリと好みが分かれるだろう。それ以前に、非常に絵が下手で手にも取らない人が多いのではなかろうか。ヘタウマとかでなく、下手。それでも読ませる内容を描ける漫画家であり、私はとても好きだった。華倫変本人がトリップ付で某巨大掲示板に書き込みをしていたと知ったのは死後のことである。残念。ネット上でもいいから1度話をしてみたかった。本人のサイトも死後に知った。無念。そして合掌。「デッド・トリック!」そのものの出来は正直なところ宜しくないと思われる。解説によると編集に踊らされて描いたと誤解されているが本人の意思で描いたものだったらしい。あの絵でその転向には無理があったと思う。あの絵は、「カリクラ」的内容でしか許容できない絵柄ではなかろうか。内容自体はベタではあるが悪いとは思わない。キャラもちゃんと立っているし、動かせている。ただ、絵柄とミスマッチ過ぎるのだ。もっと言わせてもらえば、華倫変の絵柄は短編でないと読んでいてキツイ。短くどろどろしたものを描かせたら物凄くいいのに、何故あんな転向を図ったのか。そのときの心の動きが気になる。私の中では、心の動きが気になる作家とならない作家が区別されている。華倫変は前者である。
同じ前者にこれまた故人の青山正明がいる。作家ではなくエディター兼ライターだが。うちのも青山正明が好きだった。一緒に仕事をしていた時期があったらしい。激しく羨ましい。以前私が出入りしていた某出版社の担当編集者氏も一緒に仕事をしていたことがあるらしい。激しく羨ましい。知り合いの知り合い、と言える存在だけれど私は直接面識がなく、1点を除いてただただ尊敬するエディター兼ライターだった。椎名誠は野暮である。青山正明が学生時代に作ったものを読んだうちのが私に、好きなジャンルを扱っていいとしてお前にこれくらいのものを作れるか? と訊いてきた。うちのは、俺は無理だ、と言っていた。私もうちのには無理だと思う。悩んだ末におこがましくも、気力があればできるかもしれない、と答えた。青山正明がそれを作ったのと同年齢で同程度のものを作れるか、と問われたら絶対に無理だ。業界内で経験を積んで、時間だけは有り余っている今なら気力があればできるかもしれない。けれど、それには条件が付く。今の私の能力で、青山正明がそれを作ったのと同時代に発行できるなら。うちのの問いの真意は、自分の興味のある物事を自分の持っている知識で茶化したりしつつ何処迄面白可笑しく他者に読ませる自信があるか、ということである。ネックは、茶化したり、の部分。約20年の時を経て、創作活動はメタと化してしまった。今、当時青山正明が作ったものを読んでみて、面白可笑しくはあるけれど斬新さはない。それは茶化しの部分が、既に数多の創作者によってパクら……いや、パスティーシュ的に使われてきて、最早出尽くした感すらあるからだ。青山正明の使う茶化しの方法は昔からの私も得意とする方法であり、青山正明の存在を知ってしまってからは、もう定番と化している方法なのだなあ、と知った。気付くも気付かずもメタである。となると、私が今同程度のものを作るにあたり最も必要なのは、斬新さ、となる。解り易い例を出せば、鶴見済の「完全自殺マニュアル」。これが発行されて以来、様々なマニュアル本が出た。マニュアル内の項目紹介も酷似しており、ネタを変えただけのパクりじゃねえか、と思わされる本も多数。むしろ、そっちの方が多数。人々に受ける斬新な物はパクられる運命にあるのだと思う。
私が学生時代に夢を頓挫したのは、自分には0から1を作る力はなく、1を10や100にする力が強いと気付いたからだ。青山正明は1を100にも1000にもする方法を0から1へと導いた。本当に偉大な人だった。活字系創作者として或るジャンルに於いて全てを持った人だったとすら思う。努力の賜物もあるだろうが、天賦の才の方が大きかったのではなかろうか。また茶化し方だけでなく、扱っていたネタ自体も当時としては斬新な部類に入ったと思われる。タブーとされていつつ、でも人々が突いてみたい且つ茶化してみたいことを片っ端からやってのけていた気がする。それらのネタは今、鬼畜系、などと括られてアングラなサブカルの中央に近いところに位置しているように思う。と、書いていてふと思った。先日も日記で、サブカル、という単語を使った。言わずもがな、サブ・カルチャーの略称だ。ではメイン・カルチャーとは何だ。メインあってのサブであり、アングラだ。昔働いていた職場の面子と呑みつつ、メイン・カルチャーとはなんぞや? という話題が何度も出た。そして毎回、メインなんてない、という答えに行き着いた。では現存するカルチャーは、全てサブ・カルチャーなのか。ならば何故わざわざ、サブ、という単語が付くのか。会話の中で誰かが言った。今あるメインと思われているカルチャー全てが元はサブだった。ならば現存するメイン・カルチャーの前にメインだったものは何だったのか。私を含め誰も答えられなかった。無知集合体。
今、街中でも某巨大掲示板の名を耳にすることがある。或る雑誌では社会学者が某巨大掲示板を基に小論を発表した。私が某巨大掲示板を知り出入りするようになったのは4年強前。うちのに教えてもらったのがきっかけだ。うちのはその前の某大掲示板から今の某巨大掲示板に流れてきた者であり、今でも某巨大掲示板にアングラ幻想を持っている。私も一昨年迄はそう思っていた。早い・安い・美味いの店で、極々フツーの人がねぎだくを注文している姿を見てしまい、驚愕し、その後にもう某巨大掲示板はアングラではないのだと思った。その思いは、別の早い・安い・美味いの店で、PCの使い方も知らないようなカップルの男がねぎだくを注文し、女が何それ〜? などと訊き、男が、裏メニューみたいなもんだよ、と自慢げに語り始めたのを聞いて思いから確信に変わり、また別の(以下略の店で持ち帰り用にでこの話に半信半疑だったうちのの為にねぎだくを、私用に汁だくだくを注文したら、入れ物のシールに、ねぎだく、つゆだく、と印刷されているのを見て決定付けられた。今や某巨大掲示板もメイン・カルチャーのひとつなのだろうか。少なくともまだ、つゆだくだく、は定着していないようだが。
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