単語の意味を知らぬ侭に言葉を使うのは莫迦である。街中でもよく耳にする言葉に、Sなのかな、Mかも、といった台詞がある。S=サディスト・M=マゾヒスト。SMが市民権を得た、と言ったのは団鬼六。それを否定しているのが濡木痴夢男。世の多くの所謂ノーマルな人間は、SMへの知識が本当に乏しく思う。乏しくても一向に構わない。けれど、サディスト=いじめるのが好き・マゾヒスト=いじめられるのが好き、としてしか認知されていないようだ。いじめ、をひらがなにしたのは、虐め、と漢字にする程の重さもないからである。認識の浅い人間が使うSやMという言葉は、お笑いでいうところのボケとツッコミに値しそうだ。ボケにツッこむのが好きなのがSでなければ、ボケてツッこまれて喜ぶのがMでもない。単語が浸透したという意味のみでは、団鬼六は正しい。正しく認知されておらず相変わらず真のSM嗜好者は異端視されるという意味では濡木痴夢男が正しい。正しい理解がなされずに単語のみが浸透していくのは、正しい言葉を愛する私としては本当に遺憾である。私の友人たちはこの手の意味合いでSだのMだのという言葉を、少なくとも私の前では使わない。使ったが最後、説教を喰らうからだろう。
SMには知識と演技力が要される。まず知識。SとMの言葉の定義が大前提。簡単に書くと、Sは奉仕に悦びを見出す者で、Mは被虐に悦びを見出す者。特にSについて勘違いしている者が余りにも多い。男マグロで、俺はSだから、なんぞと抜かしている奴は、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえばいい。Sの方に大変な労力と気遣いが必要である。労力は相手を責めるとき、気遣いは相手に傷をつけない為。逆説。Mは楽である。極論ではあるが、相手の為すが侭になっていれば。していればいいだけだから。そして演技力。これはSMの世界観にどっぷりと漬かれる精神力とも言い換えられる。行為中に現実を持ってきてはならないのだ。現実と非現実のギリギリの線で行われるのが理想。人によってはキッパリと線引きを求めたりもする。この辺は個人の好み。どちらにしても非現実に身を置いている自覚を持っての行動をしなければならない。そして最も必要なのがお互いへの信頼感である。特にMは拘束されたが最後、相手に殺される可能性もある。Sは相手を過失致死させてしまう恐れがある。その覚悟を持てなければ手を出すべきではない。SMクラブなんて全て潰れてしまえばいい。一時期、ソフトSMなどという言葉が半ば流行していた時期があったが、最近は聞かない。廃れたのか浸透してノーマルの域に達したのかは知らない。前者なら喜ばしく、後者なら勝手にやってくれ、という感想しか持てない。話をもっと深く進めて行きたいけれどもこの日記サイトの性質上、ここで留める。コチラ方面への私の拘りは強く、3日3晩かけても語り切れない。そしてこんなにSMに拘るのは、私がそちらの性癖を持つ者だからである。マルキ・ド・サドは数冊読んでおり、それにつれて澁澤龍彦も読んだ。澁澤はいいけれど、稲垣足穂は嫌いではないけれどちょっと違う。マゾッホは未読。言わずもがな「花と蛇」は名著。個人的意見。「花と蛇」はドリフ的面白さである。「家畜人ヤプー」は購入したものの実家に置きっぱなしで未読。再購入を考えている最中。
今日この話を書いたのは、濡木痴夢男の著書を読み返したからである。そしてこれを読み返したのは奇譚クラブを思い出したからであり、奇譚クラブを思い出したのはネットオークションのウォッチリストに私が入れていない出品物が入っていたからだ。パス漏れか? と慌ててうちのにメールをしたところ、うちのが入れたことが判明。出品物のタイトルを冷静にやっとうちのがコレを欲しがっている理由を思い出した。おまいは、サブカル嫌いを自称しているじゃないか、と小一時間(以下略。落札協力は喜んでする。私も欲しい物だし。出品者はコレの価値をイマイチ解っていない模様。解っていたら絶対に検索用に入れるであろう単語が入っていない。落札を考える者としては有難い限り。昔住んでいた家から少し離れた場所に、ちょっと変わった古本屋があった。そこに並んでいた本が今でも欲しい。正確なタイトルは失念したけれど、ゾッキ本や赤線についての歴史的資料であり、箱入のシリーズ物で10巻近くあったと思う。当時、学生だった私には高くて買えない本たち。今は誰かの手に渡ってしまっているのだろうか。いつの日か、私の手元にも回ってくるだろうか。仮に再び目にすることがなくとも、購入した人には大切に読んでもらいたい。寡聞にして、ゾッキ本の資料、という物を私はあの本以外に知らない。他にもあるのか気になる。無性に神田に行きたくなってきたけれど、その前に国会図書館に行かねば。去年中に済ませたかった調べ物を今年に持ち越してしまったのだ。天気と体調がいい日に動きたいのに、なかなかそれらが一致してくれない。そもそも体調のいい日が殆どなかったりする……。
価値感というものは、人によって様々だ。或る漫画で、ピカソの絵を見て感動する子供なんてまずいない、といった台詞があった。私は今見ても感動しない。描かれた当時の歴史的背景をきちんと理解してから見る絵だと思う。ゴッホのひまわり。私は面白い色使いの絵だなあという感想しか抱けなかったのだが、あの絵について某巨大掲示板にて驚いたことがあった。色盲の人から見れば、極自然な色使いに見えるそうなのだ。成る程……。物を見聞きする際に、予備知識があった方がいい物と、予備知識がない方がいいものは確かに分かれるところだ。予備知識も歪んでいては意味がない。物事を、正確に、自分の知識として身につけるのは難しいことだし面倒なことだけれども、そこにだけは手を抜きたくないと昔から思っている。冒頭に書いたような噴飯しそうな莫迦者には決してなりたくない。せめて、ビートルズをアメリカ人だと勘違いしたり、スピードと重さが足りない失笑を買う程度のスラメタ好きに留めたく思う。今はちゃんとイギリスだと知っていることを追記。
BGM/アルバム「頽廃藝術展」
SMには知識と演技力が要される。まず知識。SとMの言葉の定義が大前提。簡単に書くと、Sは奉仕に悦びを見出す者で、Mは被虐に悦びを見出す者。特にSについて勘違いしている者が余りにも多い。男マグロで、俺はSだから、なんぞと抜かしている奴は、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえばいい。Sの方に大変な労力と気遣いが必要である。労力は相手を責めるとき、気遣いは相手に傷をつけない為。逆説。Mは楽である。極論ではあるが、相手の為すが侭になっていれば。していればいいだけだから。そして演技力。これはSMの世界観にどっぷりと漬かれる精神力とも言い換えられる。行為中に現実を持ってきてはならないのだ。現実と非現実のギリギリの線で行われるのが理想。人によってはキッパリと線引きを求めたりもする。この辺は個人の好み。どちらにしても非現実に身を置いている自覚を持っての行動をしなければならない。そして最も必要なのがお互いへの信頼感である。特にMは拘束されたが最後、相手に殺される可能性もある。Sは相手を過失致死させてしまう恐れがある。その覚悟を持てなければ手を出すべきではない。SMクラブなんて全て潰れてしまえばいい。一時期、ソフトSMなどという言葉が半ば流行していた時期があったが、最近は聞かない。廃れたのか浸透してノーマルの域に達したのかは知らない。前者なら喜ばしく、後者なら勝手にやってくれ、という感想しか持てない。話をもっと深く進めて行きたいけれどもこの日記サイトの性質上、ここで留める。コチラ方面への私の拘りは強く、3日3晩かけても語り切れない。そしてこんなにSMに拘るのは、私がそちらの性癖を持つ者だからである。マルキ・ド・サドは数冊読んでおり、それにつれて澁澤龍彦も読んだ。澁澤はいいけれど、稲垣足穂は嫌いではないけれどちょっと違う。マゾッホは未読。言わずもがな「花と蛇」は名著。個人的意見。「花と蛇」はドリフ的面白さである。「家畜人ヤプー」は購入したものの実家に置きっぱなしで未読。再購入を考えている最中。
今日この話を書いたのは、濡木痴夢男の著書を読み返したからである。そしてこれを読み返したのは奇譚クラブを思い出したからであり、奇譚クラブを思い出したのはネットオークションのウォッチリストに私が入れていない出品物が入っていたからだ。パス漏れか? と慌ててうちのにメールをしたところ、うちのが入れたことが判明。出品物のタイトルを冷静にやっとうちのがコレを欲しがっている理由を思い出した。おまいは、サブカル嫌いを自称しているじゃないか、と小一時間(以下略。落札協力は喜んでする。私も欲しい物だし。出品者はコレの価値をイマイチ解っていない模様。解っていたら絶対に検索用に入れるであろう単語が入っていない。落札を考える者としては有難い限り。昔住んでいた家から少し離れた場所に、ちょっと変わった古本屋があった。そこに並んでいた本が今でも欲しい。正確なタイトルは失念したけれど、ゾッキ本や赤線についての歴史的資料であり、箱入のシリーズ物で10巻近くあったと思う。当時、学生だった私には高くて買えない本たち。今は誰かの手に渡ってしまっているのだろうか。いつの日か、私の手元にも回ってくるだろうか。仮に再び目にすることがなくとも、購入した人には大切に読んでもらいたい。寡聞にして、ゾッキ本の資料、という物を私はあの本以外に知らない。他にもあるのか気になる。無性に神田に行きたくなってきたけれど、その前に国会図書館に行かねば。去年中に済ませたかった調べ物を今年に持ち越してしまったのだ。天気と体調がいい日に動きたいのに、なかなかそれらが一致してくれない。そもそも体調のいい日が殆どなかったりする……。
価値感というものは、人によって様々だ。或る漫画で、ピカソの絵を見て感動する子供なんてまずいない、といった台詞があった。私は今見ても感動しない。描かれた当時の歴史的背景をきちんと理解してから見る絵だと思う。ゴッホのひまわり。私は面白い色使いの絵だなあという感想しか抱けなかったのだが、あの絵について某巨大掲示板にて驚いたことがあった。色盲の人から見れば、極自然な色使いに見えるそうなのだ。成る程……。物を見聞きする際に、予備知識があった方がいい物と、予備知識がない方がいいものは確かに分かれるところだ。予備知識も歪んでいては意味がない。物事を、正確に、自分の知識として身につけるのは難しいことだし面倒なことだけれども、そこにだけは手を抜きたくないと昔から思っている。冒頭に書いたような噴飯しそうな莫迦者には決してなりたくない。せめて、ビートルズをアメリカ人だと勘違いしたり、スピードと重さが足りない失笑を買う程度のスラメタ好きに留めたく思う。今はちゃんとイギリスだと知っていることを追記。
BGM/アルバム「頽廃藝術展」
コメント