大喧嘩

2003年12月30日 食生活
 土曜からうちのが冬休みに入り、頗る機嫌が悪い。土曜は私が寝てしまい、夕食を家に常備しているレトルト物で済まさせてしまった。日曜は簡単ながら昼食・夕食を作った。夕食の献立は焼き魚。昨日は友人と昼夜外食した為、うちのの夕飯は作っていない。今夜はうちのは友人と呑みに行っている。日曜・今日とうちでは大喧嘩が繰り広げられている。昨日は喧嘩ではないがずっと嫌味を言われていた。まず日曜。土曜に寝てしまい夕食が作れなかったことに対し、ぐちぐちぐちぐちと嫌味の連発。その夜、うちのは小動物二匹への夕食もあげてくれなかった。そのことに対してのみ、日曜に苦言を呈した。うちのの夕食を作らなかったのは私が悪い。弁解の余地なし。けれど、小動物二匹は元々私がひとり暮らしの頃から飼っていたとはいえ、今はふたりで飼っている。私が寝てしまって起きないと判断できたのなら餌だけはやって欲しかった、と。この苦言に対するうちのの返答。小動物二匹の世話はお前の仕事、責任感を持て。責任感は言われる迄もなくある。それでもできない日というのがあるのだ。そういうときはフォローして欲しい、と頼んだところこう言われた。これで俺が餌をやって、お前が自分が寝ても餌をやってくれるからいーや、と甘えられたら嫌だ。……感謝こそすれども、それでいーやとは決して思ったりしない。でもあんたはそういう目で私を見ていたのか。もうがっかりである。本当に悲しくなる。ちゃんとした生活をしろ! する気を持て! とも言われた。ちゃんとした生活リズムを築きたい気持ちは常にある。でもできない。常に自己嫌悪。できていたら働きに出ている……。私のPD・諸事情を解ってくれてはいなかったのか……。後で、感情的になり過ぎた、と謝られたし感情的になる気持ちも理解はできるのだが、数日経っている今でも悲しい。働きたくても働けない私にとって、稼いでいる者が偉い理論は非常に惨い。このことは冷静なときはうちのもよく解ってくれているのだが、感情的になるとやはり出てしまうようだ。感情的になっているだから仕方がない、とは思えない。悲しいものは悲しい。

 今日の喧嘩は、うちのが冬休みに入ってから全く飯を作ってもらっていない、とうちのが言い出したことに始まった。おまいは一昨日何を食いましたか、と小一時間(以下略。土曜は私が全面的に悪かった。日曜は簡単ながらもちゃんと作った。昨日は私は外食してきた。夕飯も外で済ませてくる、と電話したときにうちのは、わかった、と言ってすぐに電話を切った。なのでうちのの夕食の買い物を素材も弁当も何も買わずに帰宅した。うちのが、俺は食ってないからなんか買ってきて、と頼んでくれていたら当然買って帰った。しかし。私が出かける際に、俺もどっか出かけるかも、と言っていたうちのである。私の用件を聞いてすぐに電話を切られ、家にいるのか外にいるのかも判らない。そんな相手に無駄になるかもしれない夕食を買って帰る人はいるのだろうか? そしてそんな相手に、気が利かないと言われて腹を立てない人はいるのだろうか。いるかもしれない。でも莫迦だと思う。そして今夜。うちのは友人と呑みに出かけた。うちのの脳内では、冬と言えば鍋、という図式があるらしい。私にはない。なので言われなければ作らない。そもそも私は余り鍋が好きではないのだ。言えば作る。今迄言わないでいて、鍋が出てこない、と急に言われても私には、またいちゃもんかよ、としか思えない。また、がポイント。

 本来、昨日の夕食はジンギスカンの予定だった。けれども友人とラーメン話に花が咲いて今日に持ち越し。ところが今日になってうちのが、友人と呑みに行く、と言い出した。因ってジンギスカンは明日の夕食になる。夜は年越し蕎麦だから。これがうちのには解せなかったらしい。そういえば、去年から今年にかけての年末年始にうちのの実家に泊まりに行ったとき、夕食後に蕎麦が出て私は少し驚いた。私の家では大晦日の夕食=蕎麦だったのだ。育った環境の違いは大きい。100歩譲って明日の夕食にジンギスカン、その後で蕎麦を提案したのだが、鍋に拘り続けるうちの。元旦は雑煮、3〜4日は旅行なので2日に鍋でいいではないか。よくないらしい。とにかく年内に鍋を食べたく仕方がないようなのだ。鍋の後のおじやは大好きだが、鍋そのものってそんなに美味いか? 解らん。年を越してもまだ冬だろ! 2日でいいじゃないか! と言うもうちのはずっと怒っていた。妥協案として、明日の昼にジンギスカン、夜に鍋を提案するも、昼からジンギスカンはイヤだ、と却下された。こちらも苛々が募る。手の込んだものが食いたいだの何だの言うが、鍋だって切って煮るだけじゃねえか! と。心の中の叫び。元旦の食事にも話が飛んだ。私は雑煮しか作るつもりがなかったのだが、うちのが御節が食べたいなどと言い出した。あれは手間暇がかかるんじゃ! 金もな! と喉元まで出かかるも飲み込む。大人。ネットで簡単で余り金額のかからない御節を検索していると、うちのが、御節はいい、と言い出した。どっちじゃ! 解った、では雑煮だけ作る、と言ったら激しく抵抗。私は過去に2度、雑煮を作って悪評を得ている。1度目は確かに自分でも失敗だったと思った。2度目は美味しくできたと思ったのに、うちの曰く、また鶏がらの味しかしない。私が作る雑煮は鶏がらで出汁を取るのだ。初回は鶏がらスープの取り方を失敗した自覚がある。2度目は市販の鶏がらスープを利用。私にはかなり美味だったのだが……。そしてこうもイマイチと言い続けられると、どうにか同じ出汁で美味いと言わせたいと思うものではないか。因って来年の雑煮も鶏がらベースで1・2回目の失敗部分を補正しつつ作る予定だったのだが、やめた。出かける直前にうちのが、お前の雑煮は不味い、と言い放ったのだ。苛々爆発。もう2度と私の作ったもんは食うな! 食わねえよ、その代わり何も作んな! 作るなってことは私は何も食うなと言うことか。腹立たしいことこの上なし。

 明日の昼はジンギスカンの予定、夜は鍋、夜食に蕎麦、元旦は簡単な御節と雑煮を作る予定。雑煮は鰹ベースの淡白な物を作ろうかと思っている。頭を下げてくるまで絶対に食わせてやらん。何度も本人に指摘している、うちのの一番悪いところ。良いところや上手くできたことを褒めずに、その近くにある悪いところやできていない点を貶す。例えば、今日は洗顔後にゴマージュパック→角栓取りパック→美容液パックをした。肌はしっとりもちもちのすべすべである。それをうちのに言うと小さなニキビを見つけて、ここ吹き出物あるよ。瑣末なところではなく全体を見ろ! キッチンの掃除をしたと告げる。居間の掃除は? 今日は! キッチンを! 掃除! したと! 言っている!! 大体言わなきゃ気付きもしないくせに難癖ばっかりつけてくんな! キッチンでも居間でも掃除したと言って、綺麗になったね、と言われたことが殆どない。料理をする。珍しい、100ヶ月ぶりだ、などと言われる。100ヶ月前、私はあなたと知り合っていませんが、何か? この日記を読んでいる男性がどれくらいいるか解らないけれど、こういう物言いは気をつけるべきだと思う。できたことや作った物を褒められたり喜ばれたりすると、またやるぞ! と思うが、別の箇所の粗をそのときの物事と比較して貶されると途端にやる気が失せる。その最たる例。うちのはよく私に、〜〜できたことが一度もない、〜〜したことが一度もない、という言い方をする。できたこと、したことがあっても。毎日・毎回のことでなければ、たまのことだと全てなかったことになるのか……、ととても侘しくなる。どうせ忘れられるのならできなくて・しなくていいや、と思わされる。今日、うちのが出かける際に着ようとしていたコート。かなり前にボタンの付け直しとポケットの補修を頼まれて糸を買ってきた放置していた…

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