現在12月22日になったばかり。
久々に簡単ながらも夕食を作ってみたら、うちのの機嫌が非常に良くなった。飯は偉大也。そのまま、これまた久々に一緒にゆっくりとテレビを見ていて頭の中に爆弾行進曲がぐるぐる回りだしたあたりで、丸山真男の名が出てきた。これもまた久々に聞いた名前。久々づくしのいろいろの中で、やはり一番久々だったのはこの丸山真男だ。学生時代に何か読んだけれどもよく解らなかったような、そんな記憶が甦るも先日意識障害を起こしたばかりの頭が思い出せる筈もなく、アマゾンで調べてみた。丸山真男、39件。39冊の著書がある訳ではない。吉本隆明を始めいろいろな評論家が丸山真男について述べた本も含めての数だった。ざっと見るもどれを読んだか思い出せない。そもそも私が読んだのは本当に丸山真男の著書だったのか、それとも他者が丸山真男について述べた物だったのかすら判別不能。近々、岩波新書の本人著書でも読んでみる所存。ついでに仔羊料理大全も欲しい。この料理大全、日本初の仔羊料理専門書だとか。羊好きとしては興味津々。鴨大全も出て欲しい。話が逸れた。丸山真男。本当に読んだかどうかも定かではない著述物について論ずるは詮無いこと。昔は書物を無闇に乱読しても、内容と著者とタイトルは必ず覚えていたのにこの体たらく。歳は取りたくないものだ。
テレビを見ていて思ったこと。思想家・学者は無力である。テレビが引用していた丸山真男の論は非常に公正且つ明瞭で、そのまま世の中が動けばいい世の中になるであろう、と思わせられるものだった。理想論である。民主主義について。私が学校で教わったことと違うことを丸山真男は論じていた。脳内考証。成る程。学校で教わったこと以前の問題から語っていた人だったのか。社会科系教科書の見直しは戦中の事実関係云々など以前に、ここから必要なのではないだろうか。言葉の定義とは大切である。言葉の定義を間違えると、その先の話が全て変わってくる。また間違っていない迄も曖昧なままで話を進めると、その先の話が全て曖昧に終わる。学校、特に社会科系の授業や専攻は、学問であると同時に伝承の場でもある、と私は考えている。伝承は正確な相互理解なしに伝えられると、代を経て都市伝説のように変貌していってしまう危険性がある。都市伝説と化した伝承は、伝説化していることに気付く者が現れたところから再度検証され直すことだろう。そんな繰り返しは大変に無駄なので避けたいものである。雰囲気に流される国家。なんとなく、でことが進んでいく国家。そんな国家に基礎的な部分で警鐘を鳴らし続けたのが丸山真男である。
左右に係わらず、なんとなく、で物事が運ぶ人種が日本人であるらしい。左右のどちらに属していても、その意思を幾ら本人が強固な物だと信じていても、流されゆくことは歴史が証明している。内ゲバ。内紛。流れなければそんなことにはなるまい。ノンセクトは。昨今の日本人は似非ノンセクトであったと思われる。ここにきて、意思を問われるようになった。けれど似非ノンセクトの人間がどれだけ情報に流されず、どれだけ正しい知識を礎に己の思想を語れるというのか。似非ノンセクトは似非ノンセクト故に、左右の極端なことしか知らない。因って、そのような人間に問いかけをすること自体が危険な行為であると言えよう。思想を語るに必要な物は、数多の情報・判断力・構成力。このみっつだと思う。どれが欠けても偏りが生じたり、思想はあってもきちんと語れなかったりする。私がまずすべきことは……六法全書の新調か。教科書は不要。どの教科書にも偏りがある。もし教科書を手にするならば、全ての教科書を読まねば流されることだろう。教科書に流されずに正しいことを正しく生徒に伝承できる教師に出会ったことはない。教科書内の偏りに気付き、独学した。無数の情報の中で混乱し、混乱の中でなんとなく、放棄してしまった。考えがない訳ではない。あるけれど言葉にできない。もどかしい。言葉という記号を、こと思想に於いては正しく扱える自信が全くない。テレビ如きに勉強し直す気にさせられてしまった。心なしか悔しいが、ひとつのきっかけとして活かすべき気がしている。
テレビを見つつ、私とうちのが持った一致した思い。こいつらは莫迦じゃなかろうか。或る立場に於いて、或ることに反対している人々のことだ。美談でもなんでもない。無知を曝け出すことと思想を語ることの違いなどついていないことが安易に想像できてしまう。恥を知れ、とすら思ってしまう。私は非常に恥知らずな人間である。恥知らずでも多少の拘りはあり、無知を曝け出す形での恥を極端に嫌う。学のない人間は嫌いだ。無知により恥を晒した場合、恥終了後に勉強する。テキーラは40度。雑味が多く下腹部にすぐくるアルコール。砂漠で飲むことに適している……私の住んでいるところは砂漠ではないのでもう2度と呑まない。学のない人間とは。私の履歴書は学があるとは判断され難い履歴書である。だからこそ、勿論どれもまだまだではあるがいろいろ独学した、とも言えるかもしれない。学歴と個人の所有する学は別物だと考えている。学生時代、脳死についての法整備について世の中が動き出した頃、とても情けない思いをしたことがある。1度だけ合コンなるものに出たときの話。相手はそこそこの学校の学生たちであり、やや偉そうな態度であった。まずそこで気に喰わない。そして話をしているうちに、私はひとりの人と大討論を展開してしまった。脳死ってのは、死じゃないんだよね。……阿呆か、と感情をそのまま口にするのは子供なので自分の意見を正しく述べた。述べた意見は所謂反論である。相手は、死じゃないんだよね、で感心して欲しかったらしい。まさか反論されるとは思っていなかったらしく、攻撃的な口調に変わる。そこで相手の求めいてた物を察知し、子供な私はその口調に乗って同じ土俵に上ってしまった。阿呆だの莫迦だのの直球は出なくとも、相手が自分をどう思っているかはお互いに伝わった。丁寧な口調で討論は続き、よっしゃこのまま論破! というところでふと周りを見たら……他の参加者は皆引いていた。そのときのテーブルは円卓であり、私と相手を除く全員が少し距離を開けてこちらを見ていた。急速冷却には十分な光景であり、討論終了。情ないと思うのは、やはり論破できなかった点である。引いていた周囲に流された、それ迄に短時間で論破できるだけの構成力がなかった。一対一の討論の場は鉄火場だ。気迫で押し、言葉で押す。論議は穏やかになされるべきだと思っている。しかし討論となるとそれはディベートであり、勝たねばならなくなる。勝つ必要がなくとも、勝たなければ気が済まなくなる。熱くなった者が負ける鉄火場の空気。冷淡に気迫と言葉にだけ熱を持たせるのがポイント。と書きつつ、暫くまともな討論をしていないことに気がついた。……アルコールを早く抜くのが先だ。こんなことが書きたかったのではなく、思想・学問の無力さについて書く予定だったのに。それについては、また今度。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
久々に簡単ながらも夕食を作ってみたら、うちのの機嫌が非常に良くなった。飯は偉大也。そのまま、これまた久々に一緒にゆっくりとテレビを見ていて頭の中に爆弾行進曲がぐるぐる回りだしたあたりで、丸山真男の名が出てきた。これもまた久々に聞いた名前。久々づくしのいろいろの中で、やはり一番久々だったのはこの丸山真男だ。学生時代に何か読んだけれどもよく解らなかったような、そんな記憶が甦るも先日意識障害を起こしたばかりの頭が思い出せる筈もなく、アマゾンで調べてみた。丸山真男、39件。39冊の著書がある訳ではない。吉本隆明を始めいろいろな評論家が丸山真男について述べた本も含めての数だった。ざっと見るもどれを読んだか思い出せない。そもそも私が読んだのは本当に丸山真男の著書だったのか、それとも他者が丸山真男について述べた物だったのかすら判別不能。近々、岩波新書の本人著書でも読んでみる所存。ついでに仔羊料理大全も欲しい。この料理大全、日本初の仔羊料理専門書だとか。羊好きとしては興味津々。鴨大全も出て欲しい。話が逸れた。丸山真男。本当に読んだかどうかも定かではない著述物について論ずるは詮無いこと。昔は書物を無闇に乱読しても、内容と著者とタイトルは必ず覚えていたのにこの体たらく。歳は取りたくないものだ。
テレビを見ていて思ったこと。思想家・学者は無力である。テレビが引用していた丸山真男の論は非常に公正且つ明瞭で、そのまま世の中が動けばいい世の中になるであろう、と思わせられるものだった。理想論である。民主主義について。私が学校で教わったことと違うことを丸山真男は論じていた。脳内考証。成る程。学校で教わったこと以前の問題から語っていた人だったのか。社会科系教科書の見直しは戦中の事実関係云々など以前に、ここから必要なのではないだろうか。言葉の定義とは大切である。言葉の定義を間違えると、その先の話が全て変わってくる。また間違っていない迄も曖昧なままで話を進めると、その先の話が全て曖昧に終わる。学校、特に社会科系の授業や専攻は、学問であると同時に伝承の場でもある、と私は考えている。伝承は正確な相互理解なしに伝えられると、代を経て都市伝説のように変貌していってしまう危険性がある。都市伝説と化した伝承は、伝説化していることに気付く者が現れたところから再度検証され直すことだろう。そんな繰り返しは大変に無駄なので避けたいものである。雰囲気に流される国家。なんとなく、でことが進んでいく国家。そんな国家に基礎的な部分で警鐘を鳴らし続けたのが丸山真男である。
左右に係わらず、なんとなく、で物事が運ぶ人種が日本人であるらしい。左右のどちらに属していても、その意思を幾ら本人が強固な物だと信じていても、流されゆくことは歴史が証明している。内ゲバ。内紛。流れなければそんなことにはなるまい。ノンセクトは。昨今の日本人は似非ノンセクトであったと思われる。ここにきて、意思を問われるようになった。けれど似非ノンセクトの人間がどれだけ情報に流されず、どれだけ正しい知識を礎に己の思想を語れるというのか。似非ノンセクトは似非ノンセクト故に、左右の極端なことしか知らない。因って、そのような人間に問いかけをすること自体が危険な行為であると言えよう。思想を語るに必要な物は、数多の情報・判断力・構成力。このみっつだと思う。どれが欠けても偏りが生じたり、思想はあってもきちんと語れなかったりする。私がまずすべきことは……六法全書の新調か。教科書は不要。どの教科書にも偏りがある。もし教科書を手にするならば、全ての教科書を読まねば流されることだろう。教科書に流されずに正しいことを正しく生徒に伝承できる教師に出会ったことはない。教科書内の偏りに気付き、独学した。無数の情報の中で混乱し、混乱の中でなんとなく、放棄してしまった。考えがない訳ではない。あるけれど言葉にできない。もどかしい。言葉という記号を、こと思想に於いては正しく扱える自信が全くない。テレビ如きに勉強し直す気にさせられてしまった。心なしか悔しいが、ひとつのきっかけとして活かすべき気がしている。
テレビを見つつ、私とうちのが持った一致した思い。こいつらは莫迦じゃなかろうか。或る立場に於いて、或ることに反対している人々のことだ。美談でもなんでもない。無知を曝け出すことと思想を語ることの違いなどついていないことが安易に想像できてしまう。恥を知れ、とすら思ってしまう。私は非常に恥知らずな人間である。恥知らずでも多少の拘りはあり、無知を曝け出す形での恥を極端に嫌う。学のない人間は嫌いだ。無知により恥を晒した場合、恥終了後に勉強する。テキーラは40度。雑味が多く下腹部にすぐくるアルコール。砂漠で飲むことに適している……私の住んでいるところは砂漠ではないのでもう2度と呑まない。学のない人間とは。私の履歴書は学があるとは判断され難い履歴書である。だからこそ、勿論どれもまだまだではあるがいろいろ独学した、とも言えるかもしれない。学歴と個人の所有する学は別物だと考えている。学生時代、脳死についての法整備について世の中が動き出した頃、とても情けない思いをしたことがある。1度だけ合コンなるものに出たときの話。相手はそこそこの学校の学生たちであり、やや偉そうな態度であった。まずそこで気に喰わない。そして話をしているうちに、私はひとりの人と大討論を展開してしまった。脳死ってのは、死じゃないんだよね。……阿呆か、と感情をそのまま口にするのは子供なので自分の意見を正しく述べた。述べた意見は所謂反論である。相手は、死じゃないんだよね、で感心して欲しかったらしい。まさか反論されるとは思っていなかったらしく、攻撃的な口調に変わる。そこで相手の求めいてた物を察知し、子供な私はその口調に乗って同じ土俵に上ってしまった。阿呆だの莫迦だのの直球は出なくとも、相手が自分をどう思っているかはお互いに伝わった。丁寧な口調で討論は続き、よっしゃこのまま論破! というところでふと周りを見たら……他の参加者は皆引いていた。そのときのテーブルは円卓であり、私と相手を除く全員が少し距離を開けてこちらを見ていた。急速冷却には十分な光景であり、討論終了。情ないと思うのは、やはり論破できなかった点である。引いていた周囲に流された、それ迄に短時間で論破できるだけの構成力がなかった。一対一の討論の場は鉄火場だ。気迫で押し、言葉で押す。論議は穏やかになされるべきだと思っている。しかし討論となるとそれはディベートであり、勝たねばならなくなる。勝つ必要がなくとも、勝たなければ気が済まなくなる。熱くなった者が負ける鉄火場の空気。冷淡に気迫と言葉にだけ熱を持たせるのがポイント。と書きつつ、暫くまともな討論をしていないことに気がついた。……アルコールを早く抜くのが先だ。こんなことが書きたかったのではなく、思想・学問の無力さについて書く予定だったのに。それについては、また今度。
BGM/アルバム「桜の森の満開の下」
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