世の中に創造により世に出たがっているものは多い。音楽然り、絵画然り、文章然り。その中の99%以上の者は商業ベースに乗るレベルに達しないことにどこかで気付かされ、日常に埋没してゆく。商業ベースに乗るために必要な三大要素は、才能・努力・運だと私は思っている。埋没してゆく者の多くは、才能がないのにあると勘違いしていたり、運に恵まれなかったりする。それでも継続は力である部分もあり、良い例がゴッホである。彼は存命中は全く世に認められず、それでも描き続けて死後、認められた。これが幸せなことかどうかは別の話である。才能に焦点を当てて話を進める。いろいろなものを読んだり聴いたりする中で、むずむずとさせられるものに当たることがある。むずむずの正体は、勘違い、である。才能はオリジナリティという言葉に置換可能だ。現代に於いてオリジナリティの発揮は本当に困難だ。過去、各ジャンルに於いて既に様々なものが発表され尽くされているといっても過言ではなく、それを再構築し、そこにどうにかオリジナリティを見出せるか否かにかかっていると言えるのではなかろうか。現代の創造物のほぼ全ては、メタである。私が悲惨だと思うのは、メタに気付かず、パスティーシュにも模倣にも達しておらず、勿論再構築には程遠い場所にありつつ、それでもオリジナルだと勘違いして創造している者である。知らぬが仏か。しかし人間たるもの、霞を喰らって生きていける訳ではない。
その昔、P2Pを使っていた頃、某人気女性自作自演屋の新曲と謳われて出回っていた曲があった。DLして聴いてみて、本当にその自作自演屋の作品だと思った。のだが、某巨大掲示板でその曲の正体を知った。某売れていない女性シンガーのオリジナル曲だったのだ。うちのにもそれを聴かせてみたところ、やはり某人気自作自演屋の歌だと思ったようである。某人気女性アーティストがデビューした当時、某自作自演屋のパクりだと揶揄されていたが、今、そのアーティストは我が道を行きつつ成功している。某売れていない女性シンガーは、今頃どうしているのだろう。一旦は売れずとも商業ベースに乗った人ではあるが、引退したのだろうか。彼女はきっと踊らされたのだろうと想像している。某自作自演屋の登場→某アーティストのデビューからオリジナル路線への転向と成功を見たPに、これで売れればその先は自分のカラーで行けるから、などと言われてその楽曲を作製・発表し、消えたのではなかろうか。これはこれで悲惨な話である。そしてもし、本人がこれが私のオリジナルと思って作製・発表した楽曲であれば、もっと悲惨な話である。全てがメタだと気付いたところから、知ったところから、現代は創造が可能となる。
明日行く愛しの君のライヴは、と或るイベント内で行われる。そのイベントの趣旨とライヴは全く関連性がなく、単に過去に数度イベント主宰の小さな小屋では割と人気があるらしい女性アーティストと対バンしたことでの、イベント内ライヴだと予想している。イベントは先日の日記にも書いたように女性無料のドレスコードがレオパード・水着・下着というアレだ。趣旨は、セックスを真面目に考える、というものらしい。もう趣旨からして間違っている。セックスは真面目に考えるものではなく、真面目にスルものなのだ。主催者はまだ17歳だか18歳だかの高校中退者で、まあ学歴は関係ないのだけれども、彼女のウリは、間違ったセックスを一通りした上でセックスを真面目に考えるようになった、というものらしい。らしい、が多いのは私が彼女をよく知らないからであり、何度か小屋で聴いてはいるもののオリジナリティは見出せず、因って興味を持っていないからである。何の自慢にもならないことだが、間違ったセックスをしてきた過去なら、彼女よりも私の方が勝っている気がする。気がする、は謙遜。彼女を詳しく知らずとも、絶対に勝っているに決まっている。負けているのは乳のでかさか。しょぼん。いや、そんなことはどうでもよく。まずイベント趣旨の発想からして間違いを感じ、そしてドレスコードがそれに止めを刺す。肌の露出が性的欲求や性的妄想を掻き立てるとは限らず、またもしも、セックスを真面目に考える、という趣旨を肯定するならば、肌を露出する必要は全くなく心のみを裸にすればいいだけの話である。肌の露出と内面の露出は別物であり、もし本当にこの趣旨でイベントをしたいのであれば、自らの性的経験を赤裸々に公表できる者につき入場無料とすべきではなかろうか。また女性にのみ入場無料のドレスコードを設けている点も戴けない。逆女性差別に値するものだと私は思う。昨今、巷では女性差別だけではなく男性差別も問題化している。その辺りのことをきちんと理解してから、このようなイベントを開催するのが正しいのではなかろうか。彼女の表現したいものを知り、表現方法を観聴きし、商業ベースには乗れなかろうな、と思っている。本人が乗りたがっているかどうか迄は知らない。これだけいちゃもんを付けつつも行くのは、単に愛しの君の年内見納めだからだ。
冒頭にゴッホの例を挙げた。生存中の彼は苦労続きであっただろう。けれども商業ベースに乗れないながらも創造をし且つ現在に至って消費はされていない。商業ベースに乗ってしまうと消費されていく者が大半である。商業ベースに乗れずに三大欲求の日々に消費されてしまう者はもっと多い。そして理想。商業ベースに乗りつつ消費されない物の創造。天才は1%の閃きと99%の努力だと述べたのはエジソンであるが、これは果たして本当だろうか。嘘ではない≠本当。こと芸術方面に於いてのみで生活を成り立たせようと思うならば、才が40%、努力が30%、運が30%くらいが妥当ではなかろうか。しかしこれはその生業の期間のトータルであり、発端の商業ベースに乗ることだけを考えて極論すれば、天賦の才が1%、運が99%。そこから商業ベース上での活動を生涯継続しようと思えば、才が40%、努力が40%、運が20%。更に商業ベースにありつつ消費されない物の創造となると、才が40%、努力が55%、運が5%。因みに発端にのみ才に、天賦、とつけたのは見聞を広げることにより天賦だけではない才が生じると信じているからである。理想郷を目指して邁進。されど理想郷の所在は未だ見つからず。そもそも才の有無からして疑ってかかるべきであろうか。末は博士か大臣か。20歳過ぎれば只の人……。
その昔、P2Pを使っていた頃、某人気女性自作自演屋の新曲と謳われて出回っていた曲があった。DLして聴いてみて、本当にその自作自演屋の作品だと思った。のだが、某巨大掲示板でその曲の正体を知った。某売れていない女性シンガーのオリジナル曲だったのだ。うちのにもそれを聴かせてみたところ、やはり某人気自作自演屋の歌だと思ったようである。某人気女性アーティストがデビューした当時、某自作自演屋のパクりだと揶揄されていたが、今、そのアーティストは我が道を行きつつ成功している。某売れていない女性シンガーは、今頃どうしているのだろう。一旦は売れずとも商業ベースに乗った人ではあるが、引退したのだろうか。彼女はきっと踊らされたのだろうと想像している。某自作自演屋の登場→某アーティストのデビューからオリジナル路線への転向と成功を見たPに、これで売れればその先は自分のカラーで行けるから、などと言われてその楽曲を作製・発表し、消えたのではなかろうか。これはこれで悲惨な話である。そしてもし、本人がこれが私のオリジナルと思って作製・発表した楽曲であれば、もっと悲惨な話である。全てがメタだと気付いたところから、知ったところから、現代は創造が可能となる。
明日行く愛しの君のライヴは、と或るイベント内で行われる。そのイベントの趣旨とライヴは全く関連性がなく、単に過去に数度イベント主宰の小さな小屋では割と人気があるらしい女性アーティストと対バンしたことでの、イベント内ライヴだと予想している。イベントは先日の日記にも書いたように女性無料のドレスコードがレオパード・水着・下着というアレだ。趣旨は、セックスを真面目に考える、というものらしい。もう趣旨からして間違っている。セックスは真面目に考えるものではなく、真面目にスルものなのだ。主催者はまだ17歳だか18歳だかの高校中退者で、まあ学歴は関係ないのだけれども、彼女のウリは、間違ったセックスを一通りした上でセックスを真面目に考えるようになった、というものらしい。らしい、が多いのは私が彼女をよく知らないからであり、何度か小屋で聴いてはいるもののオリジナリティは見出せず、因って興味を持っていないからである。何の自慢にもならないことだが、間違ったセックスをしてきた過去なら、彼女よりも私の方が勝っている気がする。気がする、は謙遜。彼女を詳しく知らずとも、絶対に勝っているに決まっている。負けているのは乳のでかさか。しょぼん。いや、そんなことはどうでもよく。まずイベント趣旨の発想からして間違いを感じ、そしてドレスコードがそれに止めを刺す。肌の露出が性的欲求や性的妄想を掻き立てるとは限らず、またもしも、セックスを真面目に考える、という趣旨を肯定するならば、肌を露出する必要は全くなく心のみを裸にすればいいだけの話である。肌の露出と内面の露出は別物であり、もし本当にこの趣旨でイベントをしたいのであれば、自らの性的経験を赤裸々に公表できる者につき入場無料とすべきではなかろうか。また女性にのみ入場無料のドレスコードを設けている点も戴けない。逆女性差別に値するものだと私は思う。昨今、巷では女性差別だけではなく男性差別も問題化している。その辺りのことをきちんと理解してから、このようなイベントを開催するのが正しいのではなかろうか。彼女の表現したいものを知り、表現方法を観聴きし、商業ベースには乗れなかろうな、と思っている。本人が乗りたがっているかどうか迄は知らない。これだけいちゃもんを付けつつも行くのは、単に愛しの君の年内見納めだからだ。
冒頭にゴッホの例を挙げた。生存中の彼は苦労続きであっただろう。けれども商業ベースに乗れないながらも創造をし且つ現在に至って消費はされていない。商業ベースに乗ってしまうと消費されていく者が大半である。商業ベースに乗れずに三大欲求の日々に消費されてしまう者はもっと多い。そして理想。商業ベースに乗りつつ消費されない物の創造。天才は1%の閃きと99%の努力だと述べたのはエジソンであるが、これは果たして本当だろうか。嘘ではない≠本当。こと芸術方面に於いてのみで生活を成り立たせようと思うならば、才が40%、努力が30%、運が30%くらいが妥当ではなかろうか。しかしこれはその生業の期間のトータルであり、発端の商業ベースに乗ることだけを考えて極論すれば、天賦の才が1%、運が99%。そこから商業ベース上での活動を生涯継続しようと思えば、才が40%、努力が40%、運が20%。更に商業ベースにありつつ消費されない物の創造となると、才が40%、努力が55%、運が5%。因みに発端にのみ才に、天賦、とつけたのは見聞を広げることにより天賦だけではない才が生じると信じているからである。理想郷を目指して邁進。されど理想郷の所在は未だ見つからず。そもそも才の有無からして疑ってかかるべきであろうか。末は博士か大臣か。20歳過ぎれば只の人……。
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