リズム

2003年12月18日 雑感・所感
 現在19日に日付が変わったばかり。

 先日、うちのの書棚にあった「ユリイカ」に手を伸ばしてみたところ、それは2000年度の中原中也賞が発表された号であり、そこには大賞受賞作が載っており、その詩人のインタビューなんぞも載っており、読んでみて、現代詩とはこういうものかと知った私は詩について詳しくはなく、所謂門外漢であり、詩を読んでみて、選評も読んでみて、ちょっと詳しくなった気になったりして、でも気付いてしまったりして、その詩の手法は私が勤務していたエロ本出版社で一番売れていた雑誌の編集長が得意としていたリズム感によって成り立っていて、それがその受賞者の詩のリズムの全てではないけれども、明らかに流れを汲んでいる詩もひとつではなく存在しており、その詩よりもその編集長が雑誌で書いていた文章の方が先に世に出ており、しかしエロ雑誌という特性からして受賞者は恐らく読んでおらず、選者も恐らく読んでおらず、それでも新鮮だとか言われていて、でも私からしたら言葉選びは斬新ながらもリズムに新鮮さは見出せず、性的表現にオブラートしか見出せず、その編集長のテイストで無記名ライターとして所謂代筆をもしていた私としては、むしろ読み飽きた感もあり、それでもエロ写真を伴わないそれは、まあ言われてみれば新鮮なのかなあ、という感想を抱かせ、でもそんな感想はまやかしで、ちっとも新鮮なんかではなく或る分野に於いては遣り尽くされた感のあるもので、極められた感のあるもので、専門バカという言葉を思い出させられたりし、視野は広く持たねばと自分を叱咤し、その詩を何度か読んでみた訳だが、はあそうですか、としか思えず、感受性が弱まっているのかとも思ったり、そうであろうと思わなかったり。

 そして何故、こんな文体で日記を綴っているのかと言うと、友人と詩の話になったからであり、友人の詩を読ませてもらってテーマが現代的だと思い、いや普遍的だとも思い、たまたま読んだその中原中也賞の詩を思い出してしまい、同時に上記エロ雑誌を思い出してしまい、私がその雑誌で当時書いていた文章の勘を取り戻し、取り戻せきってはいないけれども、でも取り戻そうと思い、今回この文体で日記を綴っている訳であり、こういったように過去の自分の文体を駆使したり、他者の文体をパスティーシュしたり、独自の文体を用いたりといった、実験的な試みは本当は来年からする予定だったのだけれども、たまたま昨日の会話でその欲求が噴出してしまい、どうしてもこの文体で書いてみたくなってしまい、この文体は改行に気をつけなければ読み難くなるのも承知で、でもこのサイトでは句読点のぶら下げができないのも承知で、でも改行を使うとこれ迄の日記から明らかに浮いてしまうのも承知で、仕方なくこういう形になってしまっており、これを読んでくれている方々には申し訳ないという気持ちもほんの少しあり、けれども元々自分の為の日記だからいいやという気持ちの方が強く、だらだらと書いている次第。

 この文体はとても書くのが楽な文体だということは、物書きなら端くれでも知っていることであり、物書きが読んだらこの日記は手抜き日記であり、情けないと思われかねない代物で、詠ずることある代物で、この辺りに普段のテイストを紛れ込ませているあざとさを自覚、あざとさを含めての自分を肯定しようと、そんな高尚な気持ちで書いている訳でもなく、思いつくままに、徒然に、長々と、だらだらと、こんな文章を綴って何になるのかと問われれば、そもさん、説破、自己満足、としか答えられず、文章訓練からは程遠く、怠け心から書いているのではないかと勘繰られようとも、単に文章が下手糞だと罵られようとも、文句の言いようがなくとも、書き始めたからには通しきらねばならず、ならずなどと言ってもそれは自分の都合であり、自分の規制であり、自分の勝手であり、他者には関係ない話であり、こんな文章でサーバ負荷をかけられる管理人さんごめんなさい、この辺でそんな気持ちが生じてきても書き始めてしまったので、書かせて貰いつつ自己嫌悪も混ざってきて、この日記をつけ始めてから自分の文章の何が進歩したかと問われると、やはり答えようがなく、精神安定には役立てども、文章鍛錬には役立たず、果たして、これが、将来の、礎に、本当に、なり得るのか、そんな考えが前頭葉を掠め取って、奪い取って、未だ廃人続行中につき、勘弁願いたく、自己弁護しつつ、生まれてすみません、そんな太宰な気分になったりする、けれども、私は太宰が嫌いであり、太宰は男性的だと思い、荷風のような文章が好きで、谷崎のような文章が好きで、でも、ゆあんゆよんも捨て難く、ガタギシと軋む線路を模した脳の皺は、今、こんな、文章しか、発車できないもので、始発駅も、終着駅もなく、幽霊列車、走る。走る。走る。

 この文体で書いていた頃に、鍛えられたものは、文章のリズム感だったと思われ、それ以外のことには、これといって特に役立たなかった気もするが、それでもリズム感取得には十分であり、けれどもリズム感は取得するものではなく、矛盾が生じているのは私の文章表現能力が至らないからで、正しくはリズム感の鍛錬と書くべきであり、それは文章のリズム感は取得しようと思って得られるものではなく、過去の読書歴と読書の質と生まれもっての性質がものを言う部分で、努力して得られたリズム感というものは所詮技巧でしかなく、人に心地良さを感じさせる為の技術でしかなく、感動は与えられない代物で、それでもリズム感のない文章は、そもそも人の読む気を殺がせるに値するもので、そんなものは最早文章とは呼べないもので、記号の羅列、自己の羅刹、脳髄の羅漢から滴る水の如く土へと吸い込まれてゆき、その水は周囲の木々の養分になりはせず、周囲に木々など生えてはおらず、樹木は羅漢の遠き向こうの彼方のあちらに生息しており、土へと吸われた水はただ蒸発してゆくばかり、消費されてゆくばかり、雲として、再生産されることもなく、ただ、ただ、宙を、彷徨い、流離い、消えゆくばかり、世の儚さは人の夢であり、十年百年の時間を、草から大木へと、百花繚乱から一粒の種へと、そんなものは人の夢、儚き想いが語らせる夢、物の全ては朽ちる。朽ちる。朽ちる。

BGM/アルバム「ペテン師と空気男」

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