その1、としたのは今後も記号について書くことがあることが想像できるからである。記号論というものは卒論だけに留まらず、私のライフ・テーマとも言えるものだからだ。そして今回の内容は全て、私の個人的印象に基づくものであり、不快感を覚える人もいるかもしれない内容であるが、私見なので勘弁な、と前置きしておく。以下、本文。昨日、洗い物水切り籠を浸け置き洗浄しているときに、友人からアクセスがあった。本の話をしている中で森山塔の名を出すと、彼女が、先日六本木ヒルズに行ってきたと言い出した。六本木丘。六本木アイランド、できれば六本木島にして欲しかった、と述べたところ、彼女はパール兄弟好きではないのでついてこれなかった。しょぼん。で、六本木丘。そこには森タワーなる建造物があるらしく、その名を知った彼女は森山塔を思い出したとかで、タイムリーに出てきたなあ、と言っていた。六本木ヒルズ。森タワー。共に変な名前だと思う。場所は変わるがエッフェル塔も変。凱旋門を凱旋ゲートとは言わないくせに。現地でどう呼ばれているかは知らないが、エッフェルタワーと呼ぶべきではないか。私は、漢字+カタカナにの名称に何故か奇妙な印象を受ける。六本木丘にはハリウッドビューティーなる建造物もあったらしい。欧米コンプレックス丸出しの恥ずかしい名前。その中には某専門学校が入っているという。もし仮に私が子を産んだとし、その子が大きくなってその専門学校に行きたいと言ってきたら、私は全身全霊で諦めさせるに違いない。一生、履歴書にその学校名を書くんだぞ、恥ずかしくないのか、と。多分これは、私が義務教育を終えてからの進学の際、学校名の印象をかなり重視してきたことに起因する。高校を選ぶとき、自分の偏差値でギリギリ入れる学校を選んだ。その学校名が気に入ったから。内申書が悪かった為、入試500満点中430点を取る必要があった学校だ。私が入った年から、希望者には入試の点数を教えてくれるようになった。今でも覚えている。435点で合格。危ない橋を渡ったものだ。その後の進学の際、5校を受けて2勝2敗1引分。引分は補欠合格。2勝のうちの1校は全国区で有名だが体育会系バカの印象を持つ学校、もう1校はマイナーなカトリック系の学校。迷うことなく後者を選んだ。学校名の印象が悪くなかったから。記号の持つ印象は強く、ものによっては一生付き纏うものである。

 私は彼氏を選ぶ際、相手の苗字を、もしかしたら眼鏡の有無以上に重視しているかもしれない。その相手と結婚したら自分もその苗字を名乗ることになるのだから、やはりここは拘りたいところだ。変な苗字の人には、その人がどんなにいい人であったとしても惚れたくない。自身の名前とのバランスも考える。例えばミタライさん。カタカナ変換はわざとだ。この苗字に私の名前がくっつくと、大変トイレが近い人のような印象になる。激しく嫌だ。昔は自身の名前とのバランスを抜きにして、綾小路って苗字は恰好いいなあ、と思っていた。今は嫌だ。きみまろのイメージが付いてくるから。また差別意識の強い、むしろ差別主義者な親の下で育った影響により、アッチ系の苗字にも詳しくなった。幼少時から、あの苗字はアッチ系などと教えられていたのだ。自分に差別意識がないとは言わない。言えない。言い訳に読めるかもしれないが、思春期に差別意識をなくそうと頑張ったが、悉く親に否定されたことの影響が強いと思う。今は素直に、私にも差別意識がある、と言う。差別意識所有≠差別主義者。親が差別主義者になったのは、親自身の生まれ育った土地柄の影響も大きいのだろう。話が逸れた。まあなるべくならアッチ系の苗字も避けたい気持ちがなきにしも非ず……と言葉を濁すチキンな私なのがやや悲し。

 うちのの苗字と名前のバランスはとても良く、また前向きな印象を与えるものである。初対面のときに名刺をもらい、ペンネームだと思った程だ。本名だと知って驚いた。そして本名でこんな駄洒落みたいな名前って……とも思った。苗字+名前=駄洒落系ではあるが、印象の良さは変わらなかった。この苗字は二通りの読み方があり、うちのは少数派の読み方である。これがまた良かった。私は訓読み好きなのだ。そして、うちのがミタライさんならきっと付き合っていなかっただろう。これだけ苗字というものに拘るのは、私の生い立ちが原因である。過去の日記でも書いたことがあると思うが、私は結婚歴がないにも拘らず、何度も苗字が変わっているのだ。余り好きになれなかった苗字→同じく余り好きになれなかった苗字→好みの苗字。最後の好みの苗字は、母親が再婚した相手の苗字である。この際、養子縁組をして私の苗字をどうするかが話し合われたのだが、そのときの私は迷うことなく養子縁組を選択した。単純に好みの苗字だったから。その後、絶縁だの何だのになることは当然ながら想定していなかったのだ。尤もそんな想定をして、親の再婚時に苗字をどうこう考える人も少なかろう。今となっては余計なことをしなければよかったとなっているが、致し方なし。

 苗字への拘りは、上記自身の苗字の変遷だけでなく、自分の名前が好きでないことにも影響されている。私の名付け親は、私が嫌いな伯母であるらしい。その伯母を嫌いになったのは小学校高学年のときであり、原因は当時私がその伯母の息子=従兄に犯されかけたからだ。それはともかく。私の本名は漢字2文字、読みも2音である。まず漢字。字面が可愛くない。そしてよく書き間違えられる。名前の書き間違いは最大の失礼だと思うので、毎度いい気はしない。特にDMなどでは名前を書き間違えられているだけで、買い物する気が失せる。母方の旧姓が私の苗字になっていた頃、その苗字も書き間違えられ易いものだった。苗字にも名前にも誤字発生ということが多々あった。そこ迄くると最早その名前は私の記号ではなくなっている。誰の名前だよ……と思ったものだ。そして読み。そもそも2音というのが嫌。理由は特にないが、漢字2文字で3音乃至4音の方が可愛いと思うのだ。3文字になってしまうけれど、この名前にせめて、子、が付いていればマシだったのにと思う。一時期、子、が付く名前に憧れた。元を辿れば男性の名前に用いられる漢字ではあるけれども、現代では女性の名前に用いられており、私の世代ではまだ、子、のつく名前が多かったのだ。因ってPNやHNに、子、または、こ、を多用していた時期がある。今はそれ程、子、への拘りはなくなった。尤もだからといって自分の名前が好きになった訳ではない。好きでないものは好きでない。過去に知り合った女性の中で、印象深い可愛い名前を持った人が数人いた。奏ちゃん、桜子ちゃん、由乃ちゃん、など。かなでちゃん、ようこちゃん、よしのちゃん、と読む。奇を衒っておらず且つ名付け親の思いが伝わる名前。濁音の入る名前も実は余り好きではないのだが、奏ちゃんという名前だけは、凄くいい名前だと思った。昨今は、奇を衒い過ぎているとしか思えないような名前の子供が増えているらしい。海ちゃん、小宇宙くん、など。これで、まりんちゃん、こすもくん、と読むらしい。嫌な傾向だと思う。海ちゃんなんて、パチ好きに名付けられたのかななどと勘繰ってしまう私も私だが。

BGM/アルバム「見知らぬ世界」

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