時代と共に言葉は変わるらしい。世の人々は皆、その変化を受け入れ且つ自らも変化した言葉を使用しているようだ。如何ともし難い不本意な流れだと感じるのは、私が柔軟性のない頑固者だからか。私は古き良き日本語を美しいと思う。近代ならば谷崎の綴る日本語は大好きであり、現代ならば北村薫の操る日本語が綺麗だと感じる。また言葉は辞書の解釈通りに使われて然るべきだとも思う。因って昨今の言葉の変化には、戸惑いと嫌悪感を覚える。うっかり自分がその手の言葉を使ってしまったときなど、激しく落ち込んでしまう。以前にも書いたが、まったりを雰囲気表現で使うのは許しがたい。日本人としてあるまじき言葉遣いだと思う。だから私は味覚表現以外では絶対に使わない言葉だ。また、超、マジ、などは世に定着し過ぎている為、自然と耳にする機会も多く、私もうっかり口にしてしまうことがあるが言った後で嫌な気分になる。綺麗な言葉だとは思えないからだ。日本語には他国語にはない大きな特徴がある。ひらがな・カタカナ・漢字。このみっつに加えてローマ字やアルファベットも定着している。これだけの記号=言葉の表現方法を持つ国は他になかろう。多様な文化が入り乱れて言葉が増えるのはいい。けれども、基本として日本語は流暢であって欲しいと願っている。そして私は他者がどうあろうと、流暢な日本語を操りたいと思う。
しかしながら所謂、業界用語、的な言葉には寛容であったりもする。業界通ぶった、ワイハ、などは論外だが、その業界で長く使われてきた言葉は辞書通りでなくとも特にどうも思わない。私自身も未だに、熱を出したときに熱発、絶対だと思ったときに鉄板、というような言葉を使ったりもする。前者は競馬業界、後者は博打打ちの言葉である。以前は競馬業界に身を置いていたことがあった由縁だろう。それでも、マンシュウ、はどうしても受け入れることができなかった。漢字で書くと、万舟。これは競馬で言うところの万馬券に該当する舟券のことであり、即ち競艇業界用語が競馬業界に流れてきたものなのだから、その言葉は競艇業界でのみ使われるべきだと思ったからだ。ワード、とは言葉のことである。しかし出版業界では、言葉数ではなく文字数の表現として使われる。原稿依頼で、20w×20l、と書かれていれば1行に20文字で20行という意味である。w=ワード、l=ラインだ。ラインはともかく、ワードの使い方は辞書通りではない。それでも業界としての通例表現であるからして、受け入れる。始めは違和感を感じたもののすぐに慣れた。
言葉は慣れるものである。先に書いた、超、マジ、なども耳に馴染んでしまった為に自身も口にしてしまうことがある。昨今、まったり、を雰囲気表現に使う者はとても多く、従って耳にする機会も多い。それでも慣れないのは何故だろう。考えて、ひとつ思い当たったことがある。私は某巨大掲示板に頻繁に出入りするようになり、4年以上の月日が経つ。専用ブラウザも入れている。まったり、がここ迄蔓延する前に、マターリに慣れてしまったからかもしれない。マターリはいいのだ。辞書にない言葉であり、某巨大掲示板住人用語だから。某巨大掲示板用語にはいろいろな種類がある。マターリを始めとし、キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━!!!!、(’A`)/マンドクセー、など数限りない。大概に一行顔文字が付いてくる。私のPCの辞書登録はこんなもので埋め尽くされている。しょぼんを一発変換すると(´・ω・`)、うまーを一発変換すると(゜д゜)ウマーが出てくる。因みにこれらのカタカナは、ここでは便宜上全角で表示しているが、半角でなければもにょる。この、もにょる、も元は同人用語だったものがネット用語と化したものらしい。もにょるの他に、DQN(ドキュン、ドキュソ)などの言葉もある。これらは実に上手い表現だと思う。馴染んでしまった今、もにょるやらDQNやらを他の言葉に言い換えるのが困難になっている程だ。それもどうかと思うが。この日記では、冒頭に書いたように綺麗で流暢な、いや技術がそこ迄追いついていないので、少なくとも正しい日本語で書くように心がけている。そして自分の好きな言葉を使うようにしている。辞書にあり、その意味通りに使われていても好きではない日本語もあるのだ。
フィクションの本を読む。内容が面白ければ言わずもがなのめり込む。しかしその途中で間違った使い方をされた言葉や好きではない言葉が出てきた瞬間、醒めて現実に引き戻される。好き嫌いが激しいというか、キャパが狭いというか……。ノンフィクションの本ならば余り気にならない。特にノンフィクションで「」内にその手の言葉が出てきたりしたら、逆にリアリティが増したりする。それはノンフィクション内にフィクションが混入されていないことの証明と、私には思えるからだ。気取ったり構えたりして文章を綴ると、著者のその意識はどうしても滲み出てしまうものなのだ。如何に上手くその意識を隠そうとしても、読むものが読めば見破れる。ノンフィクションを書く怖さはここにある。フィクションには気取りや構えが見えても構わない。むしろ、程度問題ではあるが多少見え隠れしている方が、読者であるこちら側にも著者の緊張感が伝わる。就寝前に読書をする習慣が付いて15年以上経つ。以前、私の枕元には必ず一冊の本があった。PDになり集中力がなくなってからは読みかけ・未読を含め数冊の本が散らばっている。今は「カブキの日」「デカルト」「心が晴れるノート」「ファイト!」など。その中でここ数日毎日読んでいるのは「拷問全書」である。大変に興味深い本で面白い。知らないことを知りたいと思う業を無くしたら、私は廃人となってしまうだろう。多くの書物に触れることで、言葉への拘りは薄れるだろうか、それとも今以上に増すのだろうか。綺麗で流暢な日本語を好みつつも、変化を受け入れられるようになりたいとは思う。それでも味覚表現以外での、まったり、は禁止。好きな作家がこれを使ったら嫌いになるかもしれないくらいダメである。禁止。
しかしながら所謂、業界用語、的な言葉には寛容であったりもする。業界通ぶった、ワイハ、などは論外だが、その業界で長く使われてきた言葉は辞書通りでなくとも特にどうも思わない。私自身も未だに、熱を出したときに熱発、絶対だと思ったときに鉄板、というような言葉を使ったりもする。前者は競馬業界、後者は博打打ちの言葉である。以前は競馬業界に身を置いていたことがあった由縁だろう。それでも、マンシュウ、はどうしても受け入れることができなかった。漢字で書くと、万舟。これは競馬で言うところの万馬券に該当する舟券のことであり、即ち競艇業界用語が競馬業界に流れてきたものなのだから、その言葉は競艇業界でのみ使われるべきだと思ったからだ。ワード、とは言葉のことである。しかし出版業界では、言葉数ではなく文字数の表現として使われる。原稿依頼で、20w×20l、と書かれていれば1行に20文字で20行という意味である。w=ワード、l=ラインだ。ラインはともかく、ワードの使い方は辞書通りではない。それでも業界としての通例表現であるからして、受け入れる。始めは違和感を感じたもののすぐに慣れた。
言葉は慣れるものである。先に書いた、超、マジ、なども耳に馴染んでしまった為に自身も口にしてしまうことがある。昨今、まったり、を雰囲気表現に使う者はとても多く、従って耳にする機会も多い。それでも慣れないのは何故だろう。考えて、ひとつ思い当たったことがある。私は某巨大掲示板に頻繁に出入りするようになり、4年以上の月日が経つ。専用ブラウザも入れている。まったり、がここ迄蔓延する前に、マターリに慣れてしまったからかもしれない。マターリはいいのだ。辞書にない言葉であり、某巨大掲示板住人用語だから。某巨大掲示板用語にはいろいろな種類がある。マターリを始めとし、キタ━━━━━━(゜∀゜)━━━━━━!!!!、(’A`)/マンドクセー、など数限りない。大概に一行顔文字が付いてくる。私のPCの辞書登録はこんなもので埋め尽くされている。しょぼんを一発変換すると(´・ω・`)、うまーを一発変換すると(゜д゜)ウマーが出てくる。因みにこれらのカタカナは、ここでは便宜上全角で表示しているが、半角でなければもにょる。この、もにょる、も元は同人用語だったものがネット用語と化したものらしい。もにょるの他に、DQN(ドキュン、ドキュソ)などの言葉もある。これらは実に上手い表現だと思う。馴染んでしまった今、もにょるやらDQNやらを他の言葉に言い換えるのが困難になっている程だ。それもどうかと思うが。この日記では、冒頭に書いたように綺麗で流暢な、いや技術がそこ迄追いついていないので、少なくとも正しい日本語で書くように心がけている。そして自分の好きな言葉を使うようにしている。辞書にあり、その意味通りに使われていても好きではない日本語もあるのだ。
フィクションの本を読む。内容が面白ければ言わずもがなのめり込む。しかしその途中で間違った使い方をされた言葉や好きではない言葉が出てきた瞬間、醒めて現実に引き戻される。好き嫌いが激しいというか、キャパが狭いというか……。ノンフィクションの本ならば余り気にならない。特にノンフィクションで「」内にその手の言葉が出てきたりしたら、逆にリアリティが増したりする。それはノンフィクション内にフィクションが混入されていないことの証明と、私には思えるからだ。気取ったり構えたりして文章を綴ると、著者のその意識はどうしても滲み出てしまうものなのだ。如何に上手くその意識を隠そうとしても、読むものが読めば見破れる。ノンフィクションを書く怖さはここにある。フィクションには気取りや構えが見えても構わない。むしろ、程度問題ではあるが多少見え隠れしている方が、読者であるこちら側にも著者の緊張感が伝わる。就寝前に読書をする習慣が付いて15年以上経つ。以前、私の枕元には必ず一冊の本があった。PDになり集中力がなくなってからは読みかけ・未読を含め数冊の本が散らばっている。今は「カブキの日」「デカルト」「心が晴れるノート」「ファイト!」など。その中でここ数日毎日読んでいるのは「拷問全書」である。大変に興味深い本で面白い。知らないことを知りたいと思う業を無くしたら、私は廃人となってしまうだろう。多くの書物に触れることで、言葉への拘りは薄れるだろうか、それとも今以上に増すのだろうか。綺麗で流暢な日本語を好みつつも、変化を受け入れられるようになりたいとは思う。それでも味覚表現以外での、まったり、は禁止。好きな作家がこれを使ったら嫌いになるかもしれないくらいダメである。禁止。
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