不能者 前編
2003年11月26日 家族・メンヘル・健康など 11月27日記。
私がお気に入り登録しているjakuさん、男山さんの日記にはエロ話がよく出てくる。ざっと読んでみて面白いと思ったので登録した。私はエロ話が大好きである。くだらなく、下世話で、突飛である程にエロ話は面白くなる。リアルなエロ話も勿論好きだが、エロ話を概念として考えるならば、くだらなく、下世話で、突飛な方が楽しめる。エロとはエロスのことであり、人間の生殖繁栄本能と直結しているが為、私はエロ話に眉を顰める人間は本能欠落者か社会通念に囚われた者と思う。裸体を芸術だなんて思わない。因って篠山よりアラーキーの写真の方が好きである。先日、コンビニで雑誌を物色しているときにshihoの裸体が表紙になっている女性誌があった。雑誌名失念。ポーズは横たわって膝を抱え、乳首も乳輪も、言わずもがなシモも見せていないものだった。まあ綺麗ではあった。けれどそれを芸術とは思わないし、単に、モデルってのは見せる商売故に商売道具の手入れが行き届いているな、と思っただけである。その昔、宮沢りえがヌード写真集を出して大ヒットした。高校時代に図書室に入荷されていたので私も見た。芸術性は見出せなかった。女優ってのもモデル同様、以下略。
過去、私は俗に言うヤリマンであった。人数も然ることながら、密度の濃いセックスをしていた。セックスは当時の私の生活に、精神に必要だったのだ。行きずり同然のセックスもしていた。周囲の人間には、私はセックスに溺れる快楽主義者だと思われていた。その解釈を間違いとは言わない。快楽は好きである。しかしそれ以上に大きな要素があった。諸事情の症状だったのだ。股を開くことで他者の気を惹きたかった。また股を開いていれば他者は私から離れないとも思っていた。セックス依存症だったのだ。肉体の快楽よりも、心の空白を埋める手段としてセックスを利用していたのだ。世の多くの人は、セックスは愛情表現や愛情確認、と言う。多くの人がそう言うからには、その解釈が社会通念となっており、個人同士の愛情確認作業を公言するものではないという思想に基づいて、エロ話に眉を顰めるのだろう。実につまらない。人類最初の職業とは何か。売春である。人類に限ったことではない。猿にも売春をすることで食糧などを雄に貢がせる雌がいる種があるという。女性は押しなべて売春婦、という思想を私は否定しない。否定はしないが、売春婦になりたくないという思いもある。それを漫画で表現している砂という漫画家がいる。商業誌では太田出版から「フェミニズムセックスマシーン」を発刊している。彼の同人誌は読んだことがないが、「フェミニズムセックスマシーン」は性の本質を少しだけ突いた、衝撃的な漫画である。少しだけ、と評されるのは砂にとっては不本意かもしれない。けれど漫画という手法で表現すると言いたいことよりも、絵のインパクトが勝ってしまうこともあるのだ。彼の画力は読者を圧倒する。世に蔓延るロリテイストに背を向けた絵による表現であり、それだけで好き嫌いが分かれそうだ。少しだけ、というのは絵に圧倒されて砂の言いたいことが負けてしまっているということに他ならない。
この本で彼が問うているのはただひとつ。女性がセックスを商売ではなく趣味にできるか、ということである。故に彼の漫画の女性主人公は本来セックスで使われるべき器官ではなく、アヌスをセックスの器官として用いる。生殖器を用いた時点でそれは避妊具を使おうとも生殖本能・男性の女性への支配欲・優性遺伝をもたらす相手として相手を選択したという現実に繋がるからであろう。これらは全て男性優位の発想であり、女性本位で考えるならば生殖器官を用いたセックスは快楽と直結はしない。アナル・セックスがノーマルかアブノーマルかは別の話である。私はアナル・セックス未経験者である。骨格的にも無理があったし、そもそもそちらを開発しようという意欲を自分も、いろいろな相手も殆ど持ち合わせていなかった。生殖器官を接続することでの快楽で満足していたのだ。先のことは解らないが、今も昔も私は避妊具を用いようと用いまいと、子孫繁栄を望んではいない。子孫繁栄を望まないのに避妊具を用いなかったのは実に簡単な話で、ナマの快楽に溺れていたからである。またナマでなければセックスではないという観念もあった。最もポピュラな避妊具であるコンドームは、壁である。日本の壁は非常に優秀であり、装着していようといまいと快楽に差はないと言われる。嘘だと思う。思うだけでなく、体感として嘘だと知っている。けれどもこの体感に罠が潜んでいる。人間の性的快楽は肉体だけで得られるものではない。例えば恋人同士のセックス。相手のナニやテクニックをさておき快楽を得られるのは、愛情という形なき物によって脳内ポテンシャルを高めており、そのスパイスによって快楽を得られるからだ。SMも理屈は同じである。ノーマルではないことをしているのに快楽を得ている自分の姿を脳内に描き、その姿に酔うことで痛みや羞恥を伴う、または与える行為に快感を覚える。理屈だけでこの文章を書いているのではない。各々に実経験を基に書いている。
恋人とは愛情、Mとしてはノーマルではないのにという感情、行きずりでは堕落した自分の姿に酔って快楽を得ていた。どれも実像のない幻想である。では真に肉体的快楽のみで性感を得ることは可能なのか。自慰行為でなら得られると思う者もいるかもしれない。嘘だ。以前にも書いたように、HIV検査の結果を聞いてから私は不能となっている。うちのを始めとし、誰とも性交渉を持っていない。シロがクロになる恐怖心により性交渉が不可能となっている。自慰行為なら自身のシロがクロになることはあり得ない。なので試してみたことがある。快感は得られなかった。自慰行為には想像・過去の記憶探索、またはVや本による性的妄想の喚起が必要となってくる。どれを用いても自己投影が行われ、性病の恐怖が付き纏い快楽取得どころの話ではない。ならば何も用いずに試してみるとどうか。女性にはクリトリスという性感取得のみにしか使われない器官が存在している。それを使っても無理だった。単に刺激を与えている・与えられているという感情しか湧かない。刺激と性感は別物である。砂が表現しようとしている、女性がセックスを商売ではなく趣味にできるか。実験・実践は私が不能から脱しないことにはどうしようもないことにもどかしさと焦りを感じる。
BGM/1999.08.21「RSR FES 1999 in EZO」、1999.11.17「下北沢club251」
私がお気に入り登録しているjakuさん、男山さんの日記にはエロ話がよく出てくる。ざっと読んでみて面白いと思ったので登録した。私はエロ話が大好きである。くだらなく、下世話で、突飛である程にエロ話は面白くなる。リアルなエロ話も勿論好きだが、エロ話を概念として考えるならば、くだらなく、下世話で、突飛な方が楽しめる。エロとはエロスのことであり、人間の生殖繁栄本能と直結しているが為、私はエロ話に眉を顰める人間は本能欠落者か社会通念に囚われた者と思う。裸体を芸術だなんて思わない。因って篠山よりアラーキーの写真の方が好きである。先日、コンビニで雑誌を物色しているときにshihoの裸体が表紙になっている女性誌があった。雑誌名失念。ポーズは横たわって膝を抱え、乳首も乳輪も、言わずもがなシモも見せていないものだった。まあ綺麗ではあった。けれどそれを芸術とは思わないし、単に、モデルってのは見せる商売故に商売道具の手入れが行き届いているな、と思っただけである。その昔、宮沢りえがヌード写真集を出して大ヒットした。高校時代に図書室に入荷されていたので私も見た。芸術性は見出せなかった。女優ってのもモデル同様、以下略。
過去、私は俗に言うヤリマンであった。人数も然ることながら、密度の濃いセックスをしていた。セックスは当時の私の生活に、精神に必要だったのだ。行きずり同然のセックスもしていた。周囲の人間には、私はセックスに溺れる快楽主義者だと思われていた。その解釈を間違いとは言わない。快楽は好きである。しかしそれ以上に大きな要素があった。諸事情の症状だったのだ。股を開くことで他者の気を惹きたかった。また股を開いていれば他者は私から離れないとも思っていた。セックス依存症だったのだ。肉体の快楽よりも、心の空白を埋める手段としてセックスを利用していたのだ。世の多くの人は、セックスは愛情表現や愛情確認、と言う。多くの人がそう言うからには、その解釈が社会通念となっており、個人同士の愛情確認作業を公言するものではないという思想に基づいて、エロ話に眉を顰めるのだろう。実につまらない。人類最初の職業とは何か。売春である。人類に限ったことではない。猿にも売春をすることで食糧などを雄に貢がせる雌がいる種があるという。女性は押しなべて売春婦、という思想を私は否定しない。否定はしないが、売春婦になりたくないという思いもある。それを漫画で表現している砂という漫画家がいる。商業誌では太田出版から「フェミニズムセックスマシーン」を発刊している。彼の同人誌は読んだことがないが、「フェミニズムセックスマシーン」は性の本質を少しだけ突いた、衝撃的な漫画である。少しだけ、と評されるのは砂にとっては不本意かもしれない。けれど漫画という手法で表現すると言いたいことよりも、絵のインパクトが勝ってしまうこともあるのだ。彼の画力は読者を圧倒する。世に蔓延るロリテイストに背を向けた絵による表現であり、それだけで好き嫌いが分かれそうだ。少しだけ、というのは絵に圧倒されて砂の言いたいことが負けてしまっているということに他ならない。
この本で彼が問うているのはただひとつ。女性がセックスを商売ではなく趣味にできるか、ということである。故に彼の漫画の女性主人公は本来セックスで使われるべき器官ではなく、アヌスをセックスの器官として用いる。生殖器を用いた時点でそれは避妊具を使おうとも生殖本能・男性の女性への支配欲・優性遺伝をもたらす相手として相手を選択したという現実に繋がるからであろう。これらは全て男性優位の発想であり、女性本位で考えるならば生殖器官を用いたセックスは快楽と直結はしない。アナル・セックスがノーマルかアブノーマルかは別の話である。私はアナル・セックス未経験者である。骨格的にも無理があったし、そもそもそちらを開発しようという意欲を自分も、いろいろな相手も殆ど持ち合わせていなかった。生殖器官を接続することでの快楽で満足していたのだ。先のことは解らないが、今も昔も私は避妊具を用いようと用いまいと、子孫繁栄を望んではいない。子孫繁栄を望まないのに避妊具を用いなかったのは実に簡単な話で、ナマの快楽に溺れていたからである。またナマでなければセックスではないという観念もあった。最もポピュラな避妊具であるコンドームは、壁である。日本の壁は非常に優秀であり、装着していようといまいと快楽に差はないと言われる。嘘だと思う。思うだけでなく、体感として嘘だと知っている。けれどもこの体感に罠が潜んでいる。人間の性的快楽は肉体だけで得られるものではない。例えば恋人同士のセックス。相手のナニやテクニックをさておき快楽を得られるのは、愛情という形なき物によって脳内ポテンシャルを高めており、そのスパイスによって快楽を得られるからだ。SMも理屈は同じである。ノーマルではないことをしているのに快楽を得ている自分の姿を脳内に描き、その姿に酔うことで痛みや羞恥を伴う、または与える行為に快感を覚える。理屈だけでこの文章を書いているのではない。各々に実経験を基に書いている。
恋人とは愛情、Mとしてはノーマルではないのにという感情、行きずりでは堕落した自分の姿に酔って快楽を得ていた。どれも実像のない幻想である。では真に肉体的快楽のみで性感を得ることは可能なのか。自慰行為でなら得られると思う者もいるかもしれない。嘘だ。以前にも書いたように、HIV検査の結果を聞いてから私は不能となっている。うちのを始めとし、誰とも性交渉を持っていない。シロがクロになる恐怖心により性交渉が不可能となっている。自慰行為なら自身のシロがクロになることはあり得ない。なので試してみたことがある。快感は得られなかった。自慰行為には想像・過去の記憶探索、またはVや本による性的妄想の喚起が必要となってくる。どれを用いても自己投影が行われ、性病の恐怖が付き纏い快楽取得どころの話ではない。ならば何も用いずに試してみるとどうか。女性にはクリトリスという性感取得のみにしか使われない器官が存在している。それを使っても無理だった。単に刺激を与えている・与えられているという感情しか湧かない。刺激と性感は別物である。砂が表現しようとしている、女性がセックスを商売ではなく趣味にできるか。実験・実践は私が不能から脱しないことにはどうしようもないことにもどかしさと焦りを感じる。
BGM/1999.08.21「RSR FES 1999 in EZO」、1999.11.17「下北沢club251」
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